篠原鳳作全句集 しのはらほうさく 附やぶちゃん注 [ やぶち ゃん 注 :篠原鳳作 (明 治三 九 (一九 〇六 ) 年~昭 和一 一 (一 九三六 )年) は鹿 児 島市池之上町生。本名篠原國堅(くにかた)。東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、沖縄 県 立宮古中 学校 ・ 鹿児島 県立第二 中学校 で教師 (公民 ・英語科 担当 ) を勤め る傍ら『 ホ ト ト ギス 』に 投句、 昭和八 (一九三 二 )年 には『 天の川 』同人と なると ともに (この部 分 は 講 談社 「日 本人名 大辞典 」に拠る が、底 本年譜 では同 人になっ た 時期 が明記 されてい な い 代わりに、『天の川』への投句は昭和四年には開始されていたこと、昭和五年には同誌の主 催者である吉岡禅寺洞選への投句が開始されており、翌六年一月には鹿児島市に『天の川』 支 部を開設 、十月 には諸 俳誌 から 遠ざか って 禅 寺洞の 指導へ傾 倒して いった とあるの で 、 や や不審で はある 。無論 、正式な 同人に なった のがそ の 後とい うこと なので あろうが 、 支 部を作る人間が同人ではなかったというのは、やはり私には解せない) 、昭和八年九月には かさ び 『 天の川』 同人ら の『傘火 』 に参加し て新興 俳句運 動の旗 手となっ て 無季 俳句 を 多く発 表 し たが 、昭 和一一 年九月 十七日、 三十歳 で急逝 した( 直接の死 因は公 に心臓 麻痺 とさ れ る 巻九十一 現 が 、前駆症 状 など からは 脳腫瘍等 の脳神 経系 の 重篤な 主因が疑 われる ように 私は感じ て い る)。 私は既に サイト 創生期 の二〇〇 五年七 月 に筑 摩書房 「現代日 本文学 全集 代 俳句集 」 一九六 七年刊 の「篠原 鳳作集 」を底 本とし た 電子化 を行っ ている が 、今回 は 現 在 知られる 総ての 句を電 子化 した 全句集 である 。底本 は沖積舎 平成一 三 (二 〇〇一 ) 年 刊 「 篠原鳳作 全句文 集 」を 用いたが 、例に よって 彼は戦 前の作家 である からし て 、私の 特 に 俳 句のテク スト 化 ポリシ ー (この 理由に ついて は 俳句 の場合、 特に私 には確 信犯的意 識 が ある。戦後の句集は新字採用のものもあるであろうが、それについては、私の 「やぶち ゃん 版 鈴木 し づ子句集 」の冒 頭注 で 、私の 拘りの考 え方を 示して ある 。疑 義 の ある方は必ずお読み頂きたい)に従い、恣意的に漢字を正字化して示すこととした。但し、 正 字化 する に 疑義 のある 部分につ いては 、先に 電子化 した選句 集 の表 記その 他を参照 し た の で、完全 に「恣 意的 」 であると は 言い 難い。 なお、 編集権 を 侵害し ないた めに (ま た 私 に はあまり 重要と は思わ れないが 故に) 底本の 各句の 直下に出 る初出 データ は 、他の 句 と の関連で必要と感じられて注で出したものを除き、省略した。 本電子化 は私の ブログ ・カテゴ リ 「篠 原鳳作 」で既 に終了し たもの のサイ ト 一括版 で あ る が、この ファイ ルは 私 の手掛け た最初 のPD F 版( 但し、リ ンク 以 外の編 集機能 が な い ス タンダー ド 版で 作成に はかなり 苦労し た)で あるた め 、見や すくす るため に 句のポ イ ン ト を大きく した ( 底本で は長文の もの 以 外は前 書や後 書も句と 同ポイ ントで あるが 、 私 に は見た目がやや違和感があるので同ポイントとしていない)。注の一部も増補してある。因 みに公開はブログ・アクセス六一〇〇〇〇突破記念とする。藪野直史【二〇一四年八月日】] 篠原鳳作全句集 昭和三(一九二八)年 病中 夜々白く厠の月のありにけり [ やぶちゃ ん 注: 底本で 最も古い 鳳作の 句とし て 冒頭 に掲げら れてい る 。初 出は同年 二 月 刊 行の『ホ トトギ ス 』で 初入選句 である 。当初 の俳号 は未踏で あった が 、本 句はその 後 に 頻 繁に用い た「篠 原雲彦 」を用い ている 。但し 、両俳 号 はその 後も併 用した (底本年 譜 に 拠る)。当時、鳳作二十二歳、東京帝国大学法学部政治学科二年。] 昭和四(一九二九)年 コスモスの日南の縁に織りにけり [やぶちゃん注:「縁」は「 緣 」としたかったが、PDFではご覧の通り、転倒してしまう ので新字体とした。 「日南」 は「ひ なた 」 であろう 。鳳作 二十三 歳 、こ の四月に 帝大を 卒業し て鹿児島 に 戻 っ ているが 、この 時期は 職に就い ておら ず (こ れは 当 時発生 し ていた 極端な 就職難 と い う 外因によるものと思われる) 、年譜上からは俳句へと急速に傾倒していった時代と読み取れ る。彼の手帳メモによれば、当時の主な投句俳誌は『泉』『馬酔木』『天の川』『京鹿子』で あった。] 慈善鍋キネマはてたる大通り 秋の蚊のぬりつく筆のほさきかな か ご ままごとの子等が忘れしぬかご哉 む [やぶちゃん注:「ぬかご」は零余子。植物の栄養繁殖器官の一つで、主として葉腋や花序 な どの 地上 部 に生 じるも のを 呼び 、離脱 後 には 新たな 植物体 と なる 。 葉が肉 質となる こ と に より 形成 される 鱗芽と 、茎が肥 大化 し て形成 された 肉芽とに 分けら れ 、前 者はオニ ユ リ な ど、後者 はヤマ ノイモ 科などに 見られ るもの である 。両者の 働きは 似てい るが 、形 態 的 に は大きく 異なり 、前者 は小さな 球根の ような 形、後 者は芋の 形にな る 。い ずれにせ よ 根 茎 の形に似 る。ヤ マノイ モなどで は 栽培 に利用 される 。食材と して 単 に「む かご 」と 呼 ぶ 場 合、一般 にはヤ マノイ モ・ナガ イモな ど 山芋 類 のむ かごを 指 し、こ こでも それと 考 え て か ご めし よ い。灰色 で球形 から楕 円形 を成 し、表 面には 少数の 突起があ って 葉 腋につ く 。塩茹 で や む 煎り、また、米と一緒に炊き込むなどの調理法がある。零余子は仲秋の、零余子飯は晩秋 の季語である(以上はウィキの「むかご」に拠った)。] 歸り咲く幹に張板もたせけり [ やぶちゃ ん 注: 同年十 一月発表 。帰り 花は初 冬の季 語である が 、花 は特定 されない 。 梅 か桜か。「張板」は和服地を洗って糊附けして張り板に張り、皺を伸ばして乾かす板張りの ための板。字背に花と和服の色を隠した小春日の景で、なかなか憎い句柄である。 ] 凍て蜜柑少し焙りてむきにけり 懷ろ手して火の種を待ちにけり 山茶花の花屑少し掃きにけり [やぶちゃん注:最後の一句のみ十二月の句会での句。] 昭和五(一九三〇)年 凧くるわの空に唸り居り [やぶちゃん注:老婆心乍ら、 「凧」は「いかのぼり」と読む。 ] 宮裏の一樹はおそき紅葉哉 [やぶちゃん注:『天の川』(同年一月号)に最初に掲載された 句。以上二句は一月の発表 (前句は『京鹿子』初掲載句) 。 以下は二月の創作や発表作。 ] 園長の來て凍鶴に佇ちにけり 莖桶に立てかけてある箒かな 現 [やぶちゃん注:「茎桶」大根や蕪などを茎や葉と一緒に塩漬けにする茎漬けを造るための 桶のこと。] 秋の蝶とぢてはひらく翅しづか 燈臺の日蔭の麥を踏みにけり [やぶちゃん注: 「燈臺」は底本では「灯台」 。筑摩書房「現代日本文学全集 巻九十一 代俳句集」に載る連作五句の前書「燈臺守よ」に拠った。] 籾莚踏み處なくほされたり 麥門冬の實の紺靑や打ち伏せる 麥門冬の實の流れ來し筧かな [やぶちゃん注:「麦門冬」は「ばくもんどう」と読み、本来は漢方薬に用いる日本薬局方 Ophiopogon japonicasの塊茎(ところどころ太くなった紡錘形を成す)を に 収録され た 生薬 の一つ で、単子 葉 植物 綱 クサ スギカ ズラ 目ク サスギ カズラ 科スズラ ン 亜 科ジャノヒゲ うんけいとう 乾 燥させた もの の こと 。 強壮・解 熱・鎮 咳作用 を持ち 、気管支 炎 ・気 管支喘 息 ・痰の 切 れ ばくもんどうとう にくい咳に効く麦門冬湯、月経不順・更年期障害・足腰の冷えに効く温経湯、心臓神経症 ・ しゃかんぞうとう 動 悸・息 切れに 効く炙甘草湯 な どに 含 まれ ている (主に 講談社 「漢方 薬 ・生 薬・栄 養成 分 がわかる事典」に拠った)。但し、ここはその植物体ジャノヒゲそのものを指している。高 じょう さ 十センチ メート ルほど で 細い葉 が多数 出 る。 この葉 が竜の髯 ・蛇の 鬚に似 ているこ と か あごひげ ら、リュウノヒゲ・ジャノヒゲと呼ばれたとも言われるが、実はこれは「 尉 の鬚」の意で、 じょう 能面の老人の面「 尉 」の 鬚 にこの葉を見立てた「ジョウノヒゲ」が転訛し、 「ジャノヒゲ」 に なったと いうの が 真説 らしい 。 夏に総 状花序 に淡紫 色 の小さ い花を つけ、 子房は種 子 を 一 個含 むが 、成熟 前 に破 れて種子 が露出 し、青 く熟し 、鳳作は まさに この 状 態を詠じ て い る(以上はウィキの「ジャノヒゲ」を参照した)。] 横むいて種痘のメスを堪えにけり [ やぶちゃ ん 注: 因みに 種痘は天 然痘撲 滅 を受 けて昭 和五一 ( 一九七 六 )年 以降 、本 邦 で は 一般には 行われ ていな いから 、 この光 景も四 十代 よ り下の世 代には ピンと こないで あ ろ う。] 草餠や辨財天の池ほとり [やぶちゃん注:「餠」は底本は「餅」。実際にはこの 「餠」という正字を使う小説家 や俳 人 は少ない という 事実だ けは 述べ ておく 。確信 犯 であ る 。私は 「餅」 という 字という よ り 「并」という字が生理的に嫌いなのである。これは「 追儺豆闇をたばしり失せにけり 古利根や洲毎洲毎の花菜畑 」と書くべきである。] 幷 [やぶちゃん注:「花菜畑」は「はななばた」であろう。回想吟か。無論、菜の花乍ら、こ の利根の光景は私には明治三九(一九〇六)年に『ホトトギス』に発表した伊藤左千夫「野 菊 の墓」の 一場面 のよう に 見紛う ――と いうよ り 、そ の映画化 された 、昭和 三〇 (一 九 五 五)年に公開された木下惠介監督作品「野菊の如き君なりき」(松竹)のプロローグとエピ け ひさし ローグの笠智衆扮する政夫老人のシークエンスのように思われてならないのである。] 潰えたる朱ケの廂や乙鳥 あ [やぶちゃん注:老婆心乍ら、 「乙鳥」は「つばくらめ」と読む。「朱ケの 廂 」というのは しゅ 寺院か何かで、「朱」を塗った垂木を持った毀った廂部分のアップと、そこに巣食った喉赤 き 燕の動の 景と私 は詠む 。一読即 廃寺 を 私はイ メージ したが 、 二句後 の句が 同時詠 と す れ ば、これは外れということになる。] 火の山はうす霞せり花大根 [やぶちゃん注:これは恐らく桜島であろう。 ] 方丈の縁に干しあり蕗の薹 [やぶちゃん注:「縁」は「 緣 」としたかったが、PDFではご覧の通り、転倒してしまう ので新字体とした。] 椽先にパナマ編みゐる良夜かな [やぶちゃん注:「椽先」は縁先に同じい。「パナマ」パナマ帽。パナマ草の若葉を細く裂 い て編んだ 紐で作 った夏 帽子 。パ ナマ 草 は単子 葉植物 綱 ヤシ亜 綱パナ マソウ 目パナマ ソ ウ 科 Cyclanthaceaeに属し、ヤシに似た葉を持つ。主に熱帯に産し、凡そ十二属百八十種を 含む。この内のパナマソウ Carludovica palmaがパナマ帽(この帽子の発祥は実はパナマ ではなくエクアドルで、「パナマ 帽」の名称由来 はパナマ運河であるとする説が強く、「オ ッ クスフォ ード 英 語辞典 」では「 一八三 四 年に セオド ア・ルー ズヴ ェ ルトが パナマ 運 河 を 訪 問したと きから 一般に 広まった 」とし ている 。ここ は ウィキ の 「パ ナマ 帽 」に拠る ) の 材 料であっ たため に同類 総体 の植 物にも 「パナ マソウ 」の名が ついた という 。自生種 は 熱 帯 アメリカ と 西イ ンド 諸 島に分布 し、高 さ一~ 三メー トルほど 、大き な団扇 状 の葉が 広 が る 。花はサ トイモ 科に似 、果実は 熟すと 剥け落 ちて朱 赤色 の果 肉が現 れる。 葉を天日 で 乾 燥させ、さらに煮沸した後に漂白したものをパナマ帽の材料とする(ここは「 Weblio辞書」 の「植物図鑑」の「パナマソウ」に拠った)。後に宮古島に中学教師として赴任する鳳作は、 そ こでもパ ナマ 編 みを親 しく見、 盛んに 作句し ている 。この句 も実は 沖繩で 詠まれた も の ではないかと、実は疑っている(実際に四句後には「首里城」の前書を持つ句が出現する。 同句注も参照されたい)。私には鳳作といえば「パナマ」、それがまた彼の亜熱帯無季俳句 ( 亜熱帯 に 所詮季 語 は通 用しない 。―― この温 暖化に よって 亜 熱帯化 し、人 為によっ て テ ッ テ的に自 然のま まの 季 節が破壊 され尽 くした 感のあ る 今の日 本にも ――で ある )の シ ン ボルにもなっていると勝手に思っているのである。 ] 摘草の湯女とおぼしき一人かな 温室をかこむキヤベツの畠かな 古庭やほかと日のある木賊の莚 [やぶちゃん注:「木賊の莚」は「とくさのむしろ」では如何にもで、「とくさのえん」も い けない 。 私は敢 えて木 賊で編ん だ莚、 茣蓙で 「ざ」 と読みた くなる のだが 。大方の ご 批 判を俟つ。] 首里城 城内に機音たかき遲日かな [ やぶちゃ ん 注: 鳳作の 姉幸は那 覇市 の 歯科医 に嫁い でいた 。 即ち鳳 作は宮 古に赴任 す る 以 前に沖繩 に親し んでい たのであ る 。… …ああ ……タ ン、タン 、とい う 機音 と……今 は な き素朴な首里城の景観が幻視される…… ここまで昭和五(一九三〇)年の一月から三月までの創作及び発表句。 ] 麥門冬の實のいできたる筧かな [やぶちゃん注:二月の「紀元節吟行」と底本にある句、 麥門冬の實の流れ來し筧かな の改稿。『泉』の四月の投稿句。] 歌人八田翁庵跡 知紀のいほりの庭の土筆かな は っ た とものり [やぶちゃん注:「歌人八田翁庵跡」八田知紀(寛政一一(一七九九)年~明治六(一八七 三 )年)は 江戸末 期 の宮 廷歌人。 幼名彦 太郎 。 通称喜 左衛門 。 号桃岡 。薩摩 国 鹿児島 郡 西 田 村生 。父 知直 は 薩摩藩 士 。文政 八(一 八二五 )年に 京都蔵役 人とし て 上京 、翌年に は 香 川 景樹 に会 う。文 政十三 年 に正式 に入門 し、や がて 桂 園の有力 者 と認 められ るに 至っ た 。 京 と薩摩を 往復す る多忙 の中、幕 末の動 乱に身 を投じ つつ 、和 歌の詠 作や著 述に励み 、 維 新 後は新政 府 に出 仕して 歌道御用 掛 など を 勤め た。御 歌所 の高 崎正風 らが活 躍の場を 築 く 上で先駆的な役割を果たした人物である。家集に「しのぶ草」、歌論書「しらべの直路」な ど(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る) 。現在、鹿児島市常盤町に「八田知紀誕生地 碑」が建つが、鳳作が訪れたのがここかどうかは不明。] 陽炎や砂に坐りて蛇籠あむ 動物園 檻の中流るる水の落花哉 [ やぶちゃ ん 注: 現在、 鹿児島県 鹿児島 市平川 町 にあ る 鹿児島 市平川 動物公 園 かと思 わ れ る 。同園は 大正五 (一九 一六 )年 九月に 鹿児島 電気軌 道 株式会 社 が鴨 池遊園 地内 に創 設 し た 「鴨池動 物園 」 が前身 でこの 二 年前 の 昭和三 (一九 二八 )年 七月に 鹿児島 市 が鴨池 遊 園 地を買収していた。昭和五年当時はまだ「鴨池動物園」と呼ばれていたものと思われる。 以上、ここまでの四句は昭和五年四月発表の句。 ] 聖堂や棕櫚の花散る石の道 [ や ぶ ち ゃ ん 注 :「 聖 堂 」 鹿 児 島 市 照 国 町 の 鹿 児 島 カ テ ド ラ ル ・ ザ ビ エ ル 記 念 聖 堂 ( )の明治四二(一九〇八)年に建造された石造り聖 Kagoshima St. Xavier's Cathedral 堂 であろう 。本格 的 な石 造りの教 会とし ては 日 本最初 のもので 立派な 教会で あったが 、 昭 和 二〇 (一 九四五 )年四 月八日 、 ミサ直 後に空 襲によ って 焼失 してい る 。現 在のもの は 三 代 目でザビ エル 日 本渡来 四百五十 年を記 念して 平成一 一 (一九 九九 ) 年に竣 工したコ ン ク リート製である(同教会公式サイトの「聖堂」の記載に拠った) 。 鳳作の父 は医師 で、明 治三九( 一九〇 六 年) 年鹿児 島市生 ま れ。西 南戦争 で官軍に 従 っ ている。熱心なキリスト教信者でもあった。] 春愁のうなじを垂れて夜の祈り [やぶちゃん注:「垂」の字の旧字体「埀」をまともに使っている作家は私の知る限りでは 非常に少ない。以下、この注は略す。] ガ ウ ン 行く春や法衣の裾のうす汚れ [ やぶちゃ ん 注: これら 三句は単 なる傍 観者 の 嘱目吟 とは思わ れない 。明ら かにミサ の 景 で あり 、鳳 作はそ こに 信 者として いると しか 思 われな い 。但し 、それ が 熱心 な信者と し て か といえば 荘厳な ミサの 景を詠む に「法 衣の裾 のうす 汚れ」を クロー ス・ア ップして し ま う程度に熱心ではないと私は見る(この汚れはスティグマとは到底思われぬ)。年譜によれ ば 、誕生の 明治三 九 (一 九〇六 ) 年の項 に鳳作 (本名 は国堅) の『父 政治 は 養父の後 を 継 い で医者と なった が 、西 南の役に 官軍に 従軍し て熊本 の激戦で 負傷、 熱心な キリスト 教 信 者であった 』 (政治は昭和一一(一九三六)年一月に八十三歳で亡くなっている。因みにこ の 八ヶ月後 の九月 十七日 には鳳作 自身 が 逝去す る)と あり 、父 が熱心 であれ ばこそ 彼 も ミ サ に幼少時 よりミ サに 馴 染んでい たに 違 いなく 、され ばこそ 鳳 作の後 の句に はクリス マ ス の ミサを 詠 んだも の やキ リスト 教 的素材 を確信 犯的 に 用いた句 もある 。しか し 、例え ば 逝 去 の年譜記 事 には 『葬儀 は神式で 行われ 』たと あ り、 句や残さ れた 文 章にも そうした 信 仰 告 白は管見 の限り では 私 には全く 認めら れない 。教会 には親し んだも のの 、 彼個人と キ リ ス ト教の結 びつき は 信仰 の部分で は深い もので あった ように は 思われ ない ( 私には鳳 作 の キ リスト 教 関連 の 俳言は 一種の異 国趣味 やキリ スト 教 的なシン ボリズ ムへの 知的関心 ( 信 仰ではなく)による匂いづけの印象が強いように感じられる)。その辺につき、そうでない となれば、御存じの方、是非ともご教授を乞いたい。] 地蟲穴ありて箒を止めにけり [やぶちゃん注:「地虫」は底本「地虫」。迷ったが、正字化した(「蟲」という正字を生理 的に嫌う作家は多い) 。地虫は昆虫の幼虫の類型の一つで一般的にはしばしば見かけること の 多いコガ ネムシ ・カブ トムシ ・ クワガ タムシ の幼虫 などの 丸 まった 不活発 な甲虫幼 虫 総 体を指す。] 日當れる障子のうちや二日灸 [やぶちゃん注:「二日灸」陰暦二月二日にすえる灸で、この日に灸をすえると年中息災で あるという(八月二日にすえる灸にもいう)。ふつかやいと。春の季語。昭和五(一九三〇) 年 の陰暦二 月二日 は三月 七日火曜 日 に相 当する (但し 、これが その 新 暦二月 二日木曜 日 に 行われていないという確証はない)。] 一炷のまづかぐわしや二日灸 [やぶちゃん注:「一炷]は普通は「いつしゆ(いっしゅ)」と音読みして、香などをひと た きくゆら せるこ と 。ま た、その 香指す のであ るが 、 私は言わ ずもが な 乍ら 、ここは 「 ひ とさし」と訓じたい。 ] 螢の灯るを待ちて畦歩く [やぶちゃん注:「灯」はしばらく底本の用字のママとした。] 螢のやがて葉裏に廻りたる [やぶちゃん注: 「廻」は正字としたかったが、PDFでは表示不能なので新字体とした。] 春月を仰げる人の懷手 春月や道のほとりの葱坊主 螢火のついと離れし葉末哉 麥笛を鳴らし來る兒に道問はん 麥笛を馬柵に凭れて吹きにけり [やぶちゃん注:「馬柵」は「うませ」と訓じ、馬を囲っておく柵の意の万葉以来の古語で ある。 ここまでの十三句は五月の創作及び発表句。 ] 蕗の葉を傾けてゐる蜥蜴哉 麥の穗を插しある銀の花瓶かな 花棕梠や園丁につと夏帽子 [やぶちゃん注:「花棕梠」棕櫚の花で一応、単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属ワジュロ Trachycarpus fortuneの花に同定しておくが、実際にはシュロと言っても多様なシュロ属 を 指してい るケー スが 多 い。雌雄 異株 で あるが 稀に雌 雄同株 も 存在す る。雌 株は五~ 六 月 に 葉の間か ら花枝 を伸ば して 微細 な粒状 の黄色 い花を 密集して 咲かせ る (果 実は十一 ~ 十 二月頃に黒く熟す。ここまではウィキの「シュロ」に拠った)。「につと」が如何にも諧謔 味 に富み、 しかも 巧まず してリア リズム である と 同時 に奇妙な 南洋幻 想 をも 孕んだ佳 品 で あると 思う。 ] 蜘蛛の陣露をくさりて大たるみ イ ワ 溶岩山に梟鳴ける良夜哉 傘燒く火岸の人垣照しけり [やぶちゃん注:以上、六句は六月の創作及び発表句。] 城山や篠踏み分けて苺採り [やぶちゃん注:「城山」言わずもがなながら、鹿児島市中央部に位置する山(標高一〇八 メートル)。西南戦争最後の激戦地として知られる。クスノキ・シダ・サンゴジュなど分か Rubusのそれであろう。] っているだけで六百種以上の亜熱帯植物が自生する。「苺」これはバラ目バラ科バラ亜科キ イチゴ 属 神の川流れ來りし捨蠶かな [やぶちゃん注:鹿児島県鹿児島市・日置市を流れる本流の二級河川。「捨蠶」すてご。養 蚕 に於いて は 病気 又 は発 育不良 の 蚕は野 原や川 に捨て られる 。 それを 言う。 季語とし て は 春 であるが 、本句 は七月 の発表句 で鳳作 は明ら かにそ れ (季語 )を意 識して いないと 私 は 思う。私は本句一読、 「古事記」の哀れなる蛭子をイメージした。] たまたまの晝寢も襷かけしまま たまたまの晝寢も襷かけながら [やぶちゃん注:前者は『七高俳句会』(昭和五年七月発行)の句形、後者は『阿蘇』(昭 和五年十月発行)所収の同改稿。] ナ 日を並めて傘やく臺場築きけり 傘燒や音頭取の赤ふどし 傘火消ゆ闇にもどりし櫻島 [ やぶちゃ ん 注: この三 句は、鹿 児島 の 三大行 事 の一 つとされ る 曽我 兄弟 の 仇討に由 来 す る とされる 伝統行 事 「曽 我どんの 傘焼き 」の情 景かと 思われる 。私は この 祭 りを全く 知 ら ないので、「鹿児島三大行事保存会」公式サイトの「傘焼き」から引用しておく(一部の改 行を省略させて戴いた)。『その昔、薩摩では「郷中教育」という独特の教育制度があ』り、 『そこでは、子供達を「稚児(チゴ)」 「二才(ニセ)」「兄(アニョ)」と分け、年下の者は 年 上の者に 従い、 年上の 者は年下 の者に 教育を し、武 士として の 教養 、人徳 、武芸な ど を 学び人間性を磨いた。そこで主に、教えたものは、 1.「主君に対する忠」 2.「親に対する孝」 3.尚武(武術・武事により徳を尊ぶ) で、あった。 子 供達 は「 郷」ご とに 集 まり、身 体を鍛 え勉学 に励ん だ。その 教育の 一環と して 「曽 我 兄 弟の話」が用いられた。「曽我兄弟の話」とは、敵討ちの話である。二人が幼い頃、父河津 三 郎は工藤 祐経 に 討たれ た 。やが て 彼ら が成人 し、父 の仇討ち を成し 遂げ』 十七年後 の 建 久五(一一九四)年五月二十八日のことであった。 『その長きにわたり、親の事を忘れずつ い に仇を討 ったこ とが 、 親への孝 を教え る教材 として 用いられ たので ある 。 兄弟は源 頼 朝 に 随行して 富士の 裾野で 巻き狩り を行っ た工藤 祐経 を 討ち取り 永年の 大願を 成就した 。 そ の時、雨の降る中、傘を松明かわりにして陣屋を進んだという。この故事にならい、「傘焼 き 」を行い 、曽我 兄弟 の 孝心を偲 び青少 年教育 に資質 にしよう とした のが 「 曽我どん の 傘 焼き」である。薩摩では』、旧暦の五月二十八日『が近づくと、子供達が家々をまわり、古 く なった 唐 傘を集 めて、 甲突川 や 磯の浜 に持ち 寄り、 うずたか く 積み 上げ、 辺りが宵 の 闇 に 包まれる 頃火を 放った そうだ 。 唐傘は 防水の ために 油が塗っ てあっ たため その 炎は 高 く 燃え上がり夜空を焦がした。戦後、和傘が不足し開催を危ぶまれた時期もあったが、現在、 鹿 児島三大 行事 「 曽我ど んの 傘焼 き」保 存会 が 中心と なり 、毎 年』七 月に開 催されて い る とある。こちらの「鹿児島市医報」に載る俳句記事の記載によると「傘焼」で「かさやっ」 と 読み、現 在では 『傘を 集めにく いこと もあり 、昔の ように 、 どこの 町村で もやって い る わけでは』ないとあり、往時に盛んに行われていた頃には、『褌に白鉢巻の裸ん坊たちは、 燃 え上がる 傘火を 回りな がら 、曽 我兄弟 の歌を 大声で 歌い、血 をおど らせた もので 』 あ っ たと記されておられる。 因みに、 昭和五 年 の旧 暦五月二 十八日 は六月 二十四 日 である 。もし 、実際 に旧暦で 行 わ れていたとすれば、これらの句群はその日に行われた祭りの嘱目吟と考えられるが、当時、 旧 暦で行っ ていた かどう かは 確認 出来 て いない 。ただ 、新暦五 月二十 八日 の 景となる と 、 七 月の俳誌 に投稿 するも のとして は 少し 時期外 れでは あり 、現 在の保 存会 の 七月のそ れ で はタイム・ラグがあってあり得ない なお、ここまで「たまたまの」の別稿を除き、以上は七月の創作及び発表句。] 傘燒 破れ傘さし開きてはくべにけり [ やぶちゃ ん 注: 八月発 行 『天の 川』掲 載句 。 前注し た「曽我 どんの 傘焼き 」の嘱目 吟 で あ る。ここ まで 投 句を引 っ張れる となれ ば 、や はり 昭 和五年六 月二十 四日 、 旧暦五月 二 十 八日に同祭りは行われたものではあるまいか?] 霰すと父に障子をあけ申す あられ [やぶちゃん注:本句は鳳作の俳句手記にあるもので、伝統俳句ならば「 霰 」は晩冬の季 語 であるか ら 当季 (この 句は八月 の句群 の中に 配され てある ) ではな く 、回 想吟 に仕 分 け ら れてしま うとこ ろ だが 、これぞ 歳時記 の非科 学性 ( というよ り 私は 歳時記 の似非博 物 学 的 性格 から 非博物 学性 と 言いたい )で、 気象観 測 では 直径が五 ミリメ ートル 以上のも の が ひょう 「 雹 」、五ミリメートル未満のものを「霰」と言う。 気象学では霰は「氷霰」と「雪霰」に区別され、 「氷霰」は一般には透明で気温が摂氏〇 度以上の初冬に降るが、夏でも降るときがある。また、「雪霰」は一般には白色で気温が摂 氏〇度以下の時に雪と一緒に降ることが多い( 「氷霰」に比べると粒は脆くて地面に落下す る と跳ね返 って割 れるこ と もある 。ここ までは 「NH K 放送文 化研究 所 の「 放送現場 の 疑 問・視聴者の疑問」にある 『「ひょう」と「あられ」の違いは?』を参考にした)。則ち、 実 際には「 霰」は 冬にも 降るもの の 、春 から秋 かけて 特に夏の 終わり に も降 るのであ る 。 事 実、大き な「雹 」を歳 時記 は夏 にして いる 。 ならば 、直径五 ミリ以 下のも のがパラ パ ラ と夏に降っても伝統俳句は非科学的に「雹」とせよ「夏霰」とせよ言うのであろうか? 私 は本句はまさに昭和五年の夏の終わり、積乱雲から降ってきた「霰」を詠んだものと思う。 底 本編者 も 無論、 手記の 位置とそ うした 確信犯 から堂 々とここ に 本句 を挟ん でいるも の と 考 える。無 季俳句 へ向か いつつあ ったに 違いな い 鳳作 のまさに 確信犯 的句 で あると 私 は 思 う のである (私は 元来、 自由律俳 句 から 入った 人間で 季語に対 する強 い不信 感 を持っ て い ることをここに表明しておく) 。] 燕の巣覗きて菖蒲ふきにけり ほほづきの靑き提灯たれにけり 蝶々の眩しき花にとまりけり 子蟷螂しきりと斧をなめにけり 鮎の宿氷の旗をかかげたる 田草取日除の笹を背負ひをり 滝の道しだいにほそし道をしへ [やぶちゃん注:「道をしへ」鞘翅(コウチュウ)目オサムシ亜目オサムシ上科ハンミョウ 科 に属する昆虫或いはその中の一種で日本最大種(体長約二〇ミリメートル) Cicindelidae のハンミョウ(ナミハンミョウ) Cicindela japonicaの異名である。参照したウィキの「ハ ンミョウ科」によれば、『成虫は春から秋まで見られ、日当たりがよくて地面が湿っている 林 道や川原 などに よく 生 息するが 、公園 など都 市部 で も見られ る 。人 が近づ くと 飛ん で 逃 げるが』、一、二メートル『程度飛んですぐに着地し、度々後ろを振り返る。往々にしてこ れが繰り返されるためその様を道案内にたとえ「ミチシルベ」「ミチオシエ」という別名が ある』とある。] 砂つぶて飛ばしそめけり蟻地獄 大いなる柱のもとの蟻地獄 [ やぶちゃ ん 注: 以上は 八月の創 作及 び 発表句 。但し 、最後の 四句は 「俳句 手記 」と の み あり、八月の句やありやなしやは判然としない。] 鬼灯を鳴らしつつ墨すりにけり はしたなき晝寢の樣をみられけり 大いなる誘蛾灯あり試驗場 端居して闇に向へる一人かな 玉里邸 誘蛾灯築地のすそに灯りたる たまさと [やぶちゃん注:「玉里邸」は旧島津氏玉里邸(現在は鹿児島市管轄の庭園)。鹿児島市の なりおき 北 部丘陵愛 宕山 の 西麓に 位置する 。島津 家第 二 十七 代 当主島津 斉興 ( 寛政 三(一 七九一 ) 年 ~安政六 (一八 五九 ) 年)によ って 天 保六( 一八三 五 )年に 造営さ れたと 伝わり、 敷 地 東半部にはかつて主屋建築群が建っていた平坦地があり、「上御庭」と呼ばれる池庭が造ら れた。一方の西半部は一段低くなっており 、「下御庭」と呼ばれる庭園と茶室が造られた。 玉 里邸 の諸 建築 は 明治一 〇(一八 七七 ) 年の西 南戦争 で焼失し たが 、 斉興の 五男島津 久 光 ( 文化一四 (一八 一七 ) 年~明治 二〇( 一八八 七 )年 )が再築 し、明 治一二 (一八七 九 ) 年 に棟上し た。後 の昭和 二〇(一 九四五 )年に 太平洋 戦争 によ って 茶 室・長 屋門 ・黒 門 を 残 して建造 物 は焼 失、庭 園は灯籠 などが 破損、 昭和二 六(一九 五一 ) 年に鹿 児島市 が 同 邸 跡 地を買収 、昭和 三四( 一九五九 )年に 鹿児島 市立鹿 児島女子 高等学 校 が移 転したが 、 こ の際、 「上御庭」と呼ばれた庭園部は一部を残して校舎及び運動場に改修されたものの、 「下 御 庭」と呼 ばれた 部分は 大きな改 変を受 けてい なかっ た ことか ら 昭和 四九 ( 一九七四 ) 年 に 「玉里邸 茶室付 庭園 」 として 鹿 児島市 記念物 (名勝 )に指定 された (以上 は「文化 遺 産 オンライン」の「旧島津氏玉里邸庭園」の解説に拠った)。] し ま 枇杷賣の櫻島の乙女の跣足かな 烏瓜藪穗おどりて引かれけり 鰯雲月の面てにかかりそむ かなかなの遠く鳴き居る月夜哉 かなかなの遠く鳴きゐる良夜哉 [やぶちゃん注:前者は底本では昭和五年九月の句会句稿の句形とあり、後者は昭和五(一 九三〇)年十一月発行の『泉』への投句稿とする。 ] 十字架もぬぎて行水つかひけり [ やぶちゃ ん 注: 本句は 「俳句手 記 」に 所収と のみあ る 。本句 (次が 十月の 投句稿 で あ る か ら九月作 とは断 定出来 ない)と 前の「 かなか なの 遠 く鳴きゐ る 良夜 哉 」を 除き、こ こ ま では九月の創作及び発表句。] 誘蛾灯門内深く灯りけり [ やぶちゃ ん 注: 前の「 玉里邸 」 と前書 する「 誘蛾灯 築地 のす そに 灯 りたる 」と同じ 時 と 場所での嘱目吟であろう。] 葭の柄のうすうす靑き團扇かな 萍のほどなく泛子をとざしけり [やぶちゃん注:「萍」は、狭義には単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科ウキクサ亜科ウキ クサ Spirodela polyrhiza若 し く は 別 属 の ア オ ウ キ ク サ 属 ア オ ウ キ ク サ Lemna ・ア オ ウキ クサ 属イ ボウ キク サ aoukikusa・ アオ ウキ クサ 属コ ウキ クサ Lemna minor Lemna gibbaなどを一般に総称する。こうしたウキクサ類で浮遊しているのは葉と茎が融 合 した葉状 体 と呼 ばれる 部分で概 ねどの 種でも 楕円形 で、浮遊 するた めに 葉 状体 の内 部 に あ る気室と 呼ばれ る 部分 に空気を 含んで いる 。 但し、 ここでは 水面に 浮かぶ 水草とい う 意 味の広義な一般名詞であろう(次注の最後を参照) 。 「泛子」は「うき」 (浮子)と読む。当初、これを「萍」を狭義のウキクサ類と思い込んで、 『 私は親し くウキ クサ 類 を観察し たこと がない ので 、 ウキクサ が 周日 (?) 現象を起 こ す も のかどう かは 知 らない 。但し、 気孔を 通じて 気室か ら空気を 出し入 れする のであろ う か ら 、水面に 吸着し て(事 実、ウキ クサの 裏面は 吸着し やすい 構 造にな ってい る )浮い た 感 じ で盛り上 がって 見えた ウキクサ が 、呼 吸か光 合成 か 若しくは もっと 別な器 質的 な何 ら か こんぼう の 理由に よって 気孔から 空気を 押し出 して( 水中に垂 れ下が った 根 には根帽 とい う 少し 膨 ら んだ 錘も ついて いる ) 少し、水 面と平 行にぺ ったり 張り付い た感じ になる ことはあ る の で あろう 。 そうし た 景を 観察した の がこ の 句で はある まいか ? 』なん どと い うトンデ モ 博 物 学をやら かして しまっ た が、何 のこと はない 、これ は 本物の 釣の浮 子であ る 。浮子 を 隠 Trapa japonicaであるとか(私 し てしまう ほどの 大きさ であるの だから 、この 「萍」 はやはり ウキク サの 類 ではなく 、 も っと大型の例えば、双子葉植物綱フトモモ目ヒシ科ヒシ Eichhornia crassipesなどの類であろう。] は鹿児島の大隅半島の山の中の池で繁茂したヒシを幼少の時に見た)、単子葉植物綱ユリ目 ミズアオイ科ホテイアオイ 傘燒に篠の雨とはなりにけり [ やぶちゃ ん 注: 十月発 行 『天の 川』掲 載句 。 前注し た「曽我 どんの 傘焼き 」の嘱目 吟 で ある。祭りが六月二十四日だったとすれば、四ヶ月も前の嘱目で通常の伝統俳句誌ならば、 季 違いで、 違和感 があろ う。鳳作 は前に 掲げた 傘焼き の句を同 『天の 川』の 句会で詠 ん だ り 、同八月 号 にも 投句し ており 、 鳳作は 余程こ の祭り が好きだ ったも のらし い 。同時 に 後 に 本格的 な 無季俳 句 に傾 斜する彼 はこう したあ えて 初 夏の景を 秋に持 ち出す という 詠 み っ ぷりの中にも既に示されているというべきであろう。] 濱木綿に籐椅子出してありにけり うつしみの裸に焚ける門火かな わらんべの裸にかかむ門火かな [やぶちゃん注:「門火」は「かどび」で、盂蘭盆の死者の魂迎えと魂送りするために門前 で焚く迎え火と送り火をいう。 ] 水郷川内 芦の間に門火焚く屋のありにけり [やぶちゃん注:「川内」は「せんだい」と読む。現在の薩摩川内市。鹿児島県北西に位置 す る県内最 大面積 を持つ 北薩地区 の中心 都市 で ある 。 東は鹿児 島県 の やや 北 西部 、鹿 児 島 市 の北西約 四〇キ ロメー トルに 広 がる川 内平野 のほぼ 全域を市 域とし 、西は 東シナ海 に 面 し ている 。 本市の 中心市 街地 は本 土側市 域 の西 部にあ るが 、海 沿いで はなく 、海岸か ら 一 〇 キロメー トルほ ど 内陸 に入った 場所に ある 。 東市域 を東西に 流れる 川内川 は九州で 筑 後 む た いけ 川 に次いで 二番目 の流域 面積 を持 つ一級 河川 で あり 、 市域東部 には二 〇〇五 年にラム サ ー い ル 条約指 定湿地 に登録さ れた 藺牟田 池 ( 薩摩川 内市祁 答院町藺 牟田 に ある 直 径約 一キ ロメ ー トルの 火 山湖 で 「藺牟 田池 の泥 炭形成 植物群 落 」と して 国指 定 史跡 名勝天 然 記念物 で も ある)がある(以上は主にウィキの「薩摩川内市」に拠った)。 ] 新涼や再び靑き七變化 [やぶちゃん注:「新涼」は初秋の涼しさを指すから、「七變化」とは秋に向う山野の色の 気配が瞬く間に複雑微妙に日々変化してゆくのを詠んだものであろうか。 ] 組みかけし稻架の蔭なる晝げ哉 一鉢の懸崖菊に風がこひ [やぶちゃん注:「懸崖菊」は「けんがいぎく」で、菊を盆栽仕立てにして幹や茎が根より も低く崖のように大きく長く垂れ下がらせて作ったものをいう。 「こひ」は無論、 「戀(恋) ひ」である。 ここまでは十月の創作及び発表句。] 花葛や巖に置かれし願狐 [やぶちゃん注:「願狐」稲荷でよく見かける眷属像であるところの狐の置物のこと。四句 後の句柄からは桜島での嘱目吟か。] 颱風や坊主となりし靑芭蕉 蟻の列御輿もありて續きけり 薩摩路や茶店といはず懸煙草 [やぶちゃん注:「懸煙草」採取したタバコの葉を縄に挟んで屋内や軒先に吊るし、乾燥さ せること。また、その葉をいう。有季俳句では秋の季語とする。 ] 熔岩を傳ふ筧や葛の花 [やぶちゃん注:以上五句は十一月の発表句。 ] 畫家探元の墓に參る 道をしへ塚の上より翔ちにけり きむらたんげん だいに [やぶちゃん注:「畫家探元」とは江戸中期の画家木村探元(延宝七(一六七九)年~明和 ときかず 四 (一七 六七 ) 年)の こと 。 名は時員、 通称は 村右衛 門 、 別号に大弐 ・ 三暁 庵 。薩 摩出 身 たんしん で 江戸にて 狩野探信 守 (政 に ) 師事 、雪舟に も傾倒 して室町 風 の水墨 画 を得 意とし、 鹿児 島 ほ っ きょう 藩御用絵師を勤めた。享保一九(一七三四)年には法 橋 となっている。作品に「富士山図」、 き 著作に「三暁庵談話」がある(ここまでは講談社「日本人名大辞典」に拠る)。墓は鹿児島 こう か 4 ( 」 )で、詳しい位置と一風変わった彼の墓石 市 小野町 の幸加木 神社 境内にあ る 。ク マタツ 184 7 氏のブ ログ 「 わたし のブログ 」内 の 「小野町歴史散歩(その二)木村探元の墓 が見られる 。 ] 滝川を渉りて灯す祠哉 [ やぶちゃ ん 注: 確定で はないが 、前の 木村探 元 の墓 所の直近 (幸加 木神社 境内)に は 滝 と祠があることが個人サイト「滝巡りのページ」の「幸加木神社の滝(鹿児島県鹿児島市)」 の写真によって分かる。ここでの詠か。 ] いろいろの案山子の道のたのしさよ 下宿生活 合住みの友をたよりや風邪籠り [やぶちゃん注:以上四句は昭和五(一九三〇)年十二月の発表句。] 昭和六(一九三一)年 探梅の馬車ゆるることゆるること [ やぶちゃ ん 注: 本句は 同年一月 の『天 の川』 支社句 稿 とある 。この 月に鳳 作は鹿児 島 市 の そ に『天の川』支部を創設している。] には そ 地下室は踊の場や犬橇の宿 の [やぶちゃん注:「犬橇」樺太で犬橇のことを「のそ」と呼ぶ。日露戦争後に南樺太が日本 領 となった 後は北 海道 や 東北にも 広まっ たらし く (こ こまで は 紅殻氏 の「帝 國ノ犬達 」 の 「樺太の犬橇(ノソ) 」に拠った。リンク先では当時の実際の「のそ」の写真も見られる)、 こ れを 樺太 での嘱 目(鳳 作が樺太 に旅し たとい う 事実 は見いだ せない )とす ることは 出 来 ない。但し、 「地下室」という特殊な設定からは厳冬期に東北以北での景としか考えにくい。 ] 一時雨一時雨虹はなやかに 稻荷社 夕山や木の根岩根の願狐 [やぶちゃん注:前年十一月発表の句、 花葛や巖に置かれし願狐 と 同じ景の ように 私には 思われる 。とす れば 「 岩根」 という 語 彙から もやは り 桜島で の 嘱 目吟とも考え得る。] かかへゆく凧にこたへて櫻島颪 シ マ かかへゆく凧にこた櫻島颪 [やぶちゃん注:本句は初詠が同年一月に行われた木曜句会(前田霧人氏の「鳳作の季節」 ( 沖積舎平 成一八 (二〇 〇六 )年 刊)の 年譜に よれば 、これは 橋口白 汀指導 による 句 作 会 で鳳作は昭和四(一九二九)年十月入会している)で、後に三月発行の『泉』と『不知火』 に 掲載され てある なお、 後者のル ビを 持 つ句形 は『泉 』の掲載 句 であ る 。な お、この 前 田 氏 の評論は 鳳作の 事蹟を 極めて実 証的 に 検証さ れてお り 、優れ た評論 である 。是非、 御 一 読あれ。] 水仙やみたらしの水流れくる [やぶちゃん注:「みたらし」御手洗。神仏を拝む前に参拝者が手や口を洗い清める水やそ の禊の場。 以上ここ まで 、 昭和六 年一月 の 創作及 び発表 句 。底 本では次 で示す 二月の 一句が何 故 か 途中に挟まっているが移動させた。] 稻刈に花火とんとんあがりけり の そ [ やぶちゃ ん 注: 昭和六 年二月発 行 の『 泉』及 び『京 鹿子 』発 表句 。 先に示 したよう に 何 には 故か、一月の「地下室は踊の場や犬橇の宿」(一月『泉』)と「一時雨一時雨虹はなやかに」 (一月『泉』)の句の間に掲げられてある。「稻刈」という前年(以前)の秋の景ではある が、掲載位置の不審自体はそれでは解けない。 ] しぐるるや畝傍は虹をかかげつつ あまのかぐやま [やぶちゃん注:「畝傍」は畝傍山であろう。奈良盆地南部奈良県橿原市にある標高一九九 みみなしやま メートルの山で耳成山と天香具山とともに大和三山の一つ。但し、この月以前の年譜的事 実からは奈良行を確認出来ず、何時の嘱目かは不明。] 寒肥やひぐまの如き大男 [やぶちゃん注:「寒肥」は「かんごえ 」で寒中に農作物や庭木に施す肥料。かんごやし 。 季 語として は 冬で ある 。 人肥の桶 をぶら 下げた 羆の如 き逞しい 農夫が 盛んに それを 撒 い て いるさまであろう。まさに臭ってくる生き生きとした諧謔味もある句である。] [やぶちゃん注:以上、三句は二月の発表句。 ] 時雨るると椎の葉越しに仰ぎけり 燕や朱ケの樓門くだつまま [やぶちゃん注:「くだつ」は「降(くだ)つ」で本来は「くたつ」という清音の上代語。 傾 く・衰え る・ 盛 りを過 ぎるの 意 の他、 夜がふ けるの 意も持つ 。ここ は 荒廃 した朱塗 り の 楼門(その朱もすっかり色褪せている)の謂いであろう。] 夕刊を賣る童とありぬ慈善鍋 藁塚にあづけ煙草や畑打 万葉の薩摩の瀨戸や鮑採り さつま せ と [やぶちゃん注:「万葉」は底本の標字を用いた。「万葉集」には同歌集の南限の地として はやひと ? ~天平 六 (七 三七 )年 :奈良 時代 の 侍従。 伊勢斎宮 勤務か ら近江 守 ・衛門 督 ・ 「隼人の 薩摩 の迫門 」 が詠ま れてい る 。巻 第三 の長田 王 (を さだの おほき み (お さだの お お きみ 摂津大夫を歴任した。「万葉集」には伊勢と筑紫などの羈旅六首が、「歌経標式」にも一首 が載る。九州派遣は一説に慶雲二(七〇五)年頃とされる。)の二四八番歌で、 また、長田王の作れる歌一首 隼人の薩摩の迫門を雲居なす遠くも我は今日見つるかも 「 隼人の薩 摩の迫 門」は 現在の黒 の瀬戸 と呼ば れてい る 海峡で 天草諸 島 長島 と九州本 島 鹿 児 島県 阿久 根市黒 之浜 の 間にあっ て 全長 は約三 キロメ ートルに 及び、 潮流の 激しさか ら 当 時は船旅の難所であった。 Tokko 氏の個人サイトである「 tokko の部屋~旅日記」の中にあ 万葉集の南限の地を訪ねて」で和歌と当地の画像が見られる。「雲居なす」 る 「黒之瀬 戸 とつみや しの は 雲のかか ってい る 遙か 彼方と紛 うばか りの 場 所とし て 、の意 。なお 今一首 、巻第六 の 大 伴旅人の第九六〇番歌、 そちおほとものもへつきみ と いはほ あゆばし たき し 帥 大 伴 卿 、吉野の離宮を思ひて作れる歌一首 せ 隼人の湍門の 磐 も年魚走る吉野の滝になほ及かずけり にも同名のものが 出るが(リンク先にも示されてあり 、歌碑も建つ)、この「隼人の湍門」 に ついては 講談社 文庫版 「万葉集 」の注 で中西 進氏 は 『早鞆の 瀬戸。 豊前の 国。今の 福 岡 県北九州市』と同定されておられる。] 落葉掃く音たえければ暮れにけり [ やぶちゃ ん 注: 以上、 六句は三 月の発 表句 。 この月 、鳳作は 遙か宮 古島 の 拠点港 で あ る 平 良(ひら ら )港 に沖繩 県立宮古 中学校 (現在 の県立 宮古高等 学校 ) へ公民 ・英語科 担 当 として赴任している。 ] 大兵におはしますなる寢釋迦哉 大兵におはし給ふなる寢釋迦かな [ やぶちゃ ん 注: 前者が 『不知火 』昭和 六 (一 九三一 )年四月 発表 の 、後者 が『天の 川 』 同 年九月発 表 の句 形。一 読、語と しての 自然さ からみ れば 前者 でよい と 思う のである が 、 敢 えて特異 な語で しかも 字余りを 狙った 鳳作に は相応 の確信犯 である 。確か に前者は 寝 釈 迦 の「大兵 」肥満 の像が 如何にも スマー トに 小 さくな ってしま い 、後 者では その 諧謔 性 と 同時にその肥満ぶりが画面をはみ出る。 ] 豐かなる乳見え給ふ寢釋迦哉 ゆたかなる乳見え給ふ寢釋迦かな [ やぶちゃ ん 注: 前者が 『不知火 』昭和 六 (一 九三一 )年四月 発表 の 、後者 が『天の 川 』 同年九月発表の句形。 ] 麗はしの朱ヶのしとねの寢釋迦哉 涅槃像双樹の花のこぼれたれ [ やぶちゃ ん 注: ここに 底本では 次の五 月のパ ートに 後掲する 「くま もなき 望の光の 寢 釋 迦哉」という同じ嘱目吟が入る。] 探梅行裏御門より許さるる 正月も常のはだしや琉球女 春泥やうちかけ着たる琉球女 [やぶちゃん注:前者は四月発行の『泉』、後者は同じく四月の『京鹿子』の発表句である。 この二句、顕在的な琉球での最初の嘱目吟として記念すべきもので、わざと「正月」と「は だし」、「春泥」と「うちかけ 」を衝突させ(後者は語彙としては必ずしも対極にないが、 この打掛けはどう考えても薄い(本土なら夏用の)ものである) 、そこに「琉球女」という 強 烈な南洋 イメー ジを 配 する辺り 、まさ に 私に は鳳作 の高らか な 無季 俳句 の 宣言句 の よ う に思われてならない。 ] 蝌蚪一つ影先立てて泳ぎくる 春潮や生簀曳きゆくポツポ船 [ やぶちゃ ん 注: 前田霧 人氏 の「 鳳作の 季節」 によれ ば 、この 句は『 昭和六 年四月 に 大 阪 毎 日、東京 日日両 新聞社 主催 の虚 子選 「 日本新 名勝俳 句 」募集 、海岸 の部「 錦江湾 」 で 銀 牌 賞に入選 したも のであ る 。この 催しは 、杉田 久女 が 「谺して 山ほと とぎす ほしいま ま 」 の 句で帝国 風景院 賞 を受 賞したこ とでも 有名な 俳句の 一大イベ ントで ある 。 彼は余程 嬉 し か ったのか 、鹿児 島 から 肌身離 さ ず持っ て来た 「俳句 手記 」の 中表紙 にその 新聞記 事 切 り 抜きを貼り付け、自分の句に赤枠を付けている』とある。] 風鈴や灯りそめたる櫻島 バ 熔岩の空を流るる蜻蛉かな ラ バ 秋晴の熔岩につきたる渡舟かな ラ [やぶちゃん注:「溶岩」の「ラバ」は日本語ではない。火山国イタリアの「流れ」という 意味のイタリア語 lavaに基づき、溶岩流及び流出後に固まった溶岩などを指す語である。 「渡舟」は「としふ(としゅう)」と読んでいるとしか思われない。] ラ バ 名月や海に横たふ熔岩の島 小春日や雲の影這ふ櫻島 熔岩に立ちたる虹の靑さかな [やぶちゃん注:「春潮や」からここまでの 七句は四月刊の『日本新名所俳句 』の掲載句。 ここまで、改稿の二句を除き、同年四月発表の句。] くまもなき望の光の寢釋迦哉 くまもなき望の光の寢釋迦かな [やぶちゃん注:前者が『馬酔木』同年五月発表の、後者が『天の川』昭和六(一九三一) 年九月発表の句形。先行する寝釈迦句の再吟。 ] 琉球所見 鶯を檳榔林に聞きにけり 鶯を檳榔林に聞かんとは [やぶちゃん注:「檳榔林」は音数律からも「びんらうりん(びんろうりん )」と読んでい Areca catechu Areca catechuが植生することは、例えばこちらの宮古 よう。「檳榔」は「びんろう」と読むならば単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ に同定される。宮古島にビンロウ Livistona chinensisという全くの別種をも指し、この「林」とい Livistona chinensisの可能性の方が遙かに高いようにも思わ Areca catechuではないとは言えない。但し、「檳榔」は別に「びろう」 島 に住む9 3(ク ミ)さ んのブロ グ 「宮 古島日 和 ブロ グ 」の「 ビンロ ウ 」で 明らかで は あ るから ビンロウ と読んで、ヤシ科ビロウ う表現からは 後者 のビロウ れ る。但し 、実景 を実際 に見てい ない ( 私は残 念なこ とに 宮古 島 には 行った ことがな い ) の でここで は 断定 は避け る。なお 、沖繩 ではこ の 「ビ ロウ 」を 「クバ 」と呼 び、葉を 用 い て扇や笠などを作る(リンクはそれぞれのウィキ)。 ] 首里城 屋根の上にペンペン草やら薊や ら 琉球の墓は住まつてゐる家よりも數層倍立派であります。 「母體より出でて母に歸る」 と云ふ信仰のもとに墓は母體に型どつて出來てゐます。墓毎に築地構への庭があり ます。 鷄合せ古墳の庭に始まれり [やぶちゃん注:前書は底本では通常の前書より有意にポイント落ち。言わずもがな乍ら、 亀 甲墓 (か ーみな くーば か )であ る 。私 はこれ につい ては 多く を語り たくな るのだが 、 こ こ はぐっと こらえ て ウィ キの 「亀 甲墓 」 をリン クさせ るに 留め る。そ うしな いといつ も の よ うに 膨大 な注に なって しまうか らであ る 。一 言だけ 言ってお くと 、 古いタ イプのそ れ は 円 形をして 海波の 彼方で あるニラ イカナ イにそ の 入り 口を向け た子宮 のよう な 形をし て い る。鳳作の前書は要所を押さえた簡便ながらよい解説である。 「鷄合せ」沖繩では「闘鶏(た うちーおーらせー)」と言って二羽の雄の鶏を戦わせる娯楽が古来より盛んであった。 以上、四 句は五 月の発 表句 。最 後の句 は底本 では六 月の句群 最後 に 配され てあるが 、 こ の句、『ホトトギス』では六月の発表だが、『不知火』は五月発行分に掲載されているので こ こに 配し た。編 者には 相応の意 図があ って 後 ろに回 している のであ ろうが 、その意 図 が 不明である以上、書誌データからここに移動させた。] 旅籠住居二句 部屋毎にある蛇皮線や蚊火の宿 蛇皮線と籠の枕とあるばかり [やぶちゃん注:「蛇皮線」は「じやびせん(じゃびせん)」で、胴に蛇の皮を張るところ か ら沖繩の 三線 さ ( んし ん の ) 本土での 俗称で ある (室 町末 に本 土に伝 わって 改 造され たも のが三味線である)。沖繩フリークの私としては「さんしん」と読みたくなるが、であれば 鳳作は「さんしん 」とルビを振るはずであるから 、ここは「じやびせん」である。「蚊火」 ごと は「かび」又は「かひ」で蚊やり火のこと。 「毎」 「じやびせん」の濁音を意識するなら「か び 」と濁り たい 。 年譜に よれば 宮 古中学 校 に赴 任した 鳳作は暫 くの間 、張水 港 (これ は 平 良 港のこと であろ う 。平 良字西里 には琉 球の信 仰の中 で祭祀な どを 行 う大切 な聖域で あ る 張 水御嶽 ( ぴゃる みずう たき )が ある ) 近くの 一心旅 館 に暫く いて 、 後に同 じ西里の 玉 家 旅 館に移っ て、昭 和七 ( 一九三二 )年秋 頃 まで はこの 旅館に住 んだと あるが 、孰れの 旅 館 を 詠んだも のかは 特定出 来 ない。 また、 孰れの 旅館も 現存しな い 模様 である 。ただ、 前 田 霧 人氏 の「 鳳作の 季節」 にある 鳳 作の教 え子の 喜納虹 人 のお書 きにな られた 「雲彦と 宮 古 じゃびせん 島」(『傘火』昭和十二年四月号)の引用の中に、玉家旅館の鳳作の思い出が出、 『この宿の うたい 主人は琴の師匠で、何曜かに、一回、下の方で 謡 の会が開かれて蛇皮線と琴でうたい出す 事がよくあった。その時は『やかましくてやりきれん』とぷいと外に出られる時もあった』 とある。] の 炎天や女も驢馬に男騎り うちかけを着たる遊女や螢狩 [やぶちゃん注:「螢」は底本の用字。このホタルは甲虫(コウチュウ)目ホタル科マドボ タル属 Pyrocoelia の、宮古島で分化したミヤコマドボタル Pyrocoelia miyako Nakaneで あ ると 思わ れる 。 宮古列 島 (宮古 島 ・下 地島 ・ 伊良部 島 ・来間 島 ・池 間島 ) にのみ 生 息 す る固有種で、成虫のみならず幼虫も発光する。 「東京ゲンジボタル研究所」古河義仁氏のブ ログ「ホタルの独り言」の「ミヤコマドボタル」を参照されたい。] 島の春龍舌蘭の花高し Agaveの仲間で百種以上ある。] Trachycarpusのワジュロ [ やぶちゃ ん 注: クサス ギカズラ 目クサ スギカ ズラ 科 リュウゼ ツラン 亜科リ ュウゼツ ラ ン 属 花椰子に蜑が伏屋の網代垣 [やぶちゃん注: 「花椰子」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属 (和棕櫚) Trachycarpus fortuneiかトウジュロ(唐棕櫚) Trachycarpus wagnerianu (ワ ジ ュロと 同 種とす る 説も あり 、そ の場合 はワジ ュロの 学名とな る )の 花であ ろう 。雌 雄 異 株 で稀に雌 雄同株 も存在 する。雌 株は五 ~六月 に葉の 間から花 枝を伸 ばし、 微細な粒 状 の 黄色い花を密集して咲かせる(果実は十一~十二月頃に黒く熟す。ここまではウィキの「シ ュロ」に拠る)。「蜑」は「あま」と読んで海人・漁師の意、「伏屋」は「ふせや」で屋根の 低い小さなみすぼらしい家の謂い。「網代垣」は「あじろがき」で細い竹や割り竹を網代形 に組んで作った垣根のこと。] 旧正月 廻禮も跣足のままや琉球女 [やぶちゃん注:「廻禮」は「くわいれい(かいれい)」で新年の挨拶回りのこと。「廻」は 正字としたかったが、PDFでは表示不能なので新字体とした。 ここまでの七句は六月の発表句。] 浜木綿に流人の墓の小ささよ 南風や海より續く甘蔗畑 [やぶちゃん注:「南風」は「なんぷう」、「畑」は「ばた」であろう。] 春雨傘さして馬上や琉球女 [やぶちゃん注:「春雨傘」は「はるさめがさ」であろう。] しののめの星まだありぬ揚雲雀 [ やぶちゃ ん 注: 前の二 句は七月 の発表 句 、後 の二句 は「俳句 手記 」 よりこ こに 置か れ た 句。] 梭の音しづかに芭蕉玉ときぬ 梭の音靜かに芭蕉玉ときぬ はた [やぶちゃん注:前者が八月刊の『馬酔木』掲載の、後者が翌九月刊の『泉』掲載の句形。 ひ 無論、言わずもがなながら、この「梭」は芭蕉布(ばさーじん )を織る機のそれである 。] 靑芭蕉吹かるる音と機音と 炎天や甘蔗のはたけは油風 [やぶちゃん注:「油風」(あぶらかぜ)は「油まじ」「油まぜ」ともいい、油を流したよう な静かな南寄りの風をいう語。 「まじ」は南又は南西の風、「まぜ」「まじの風」で、多くは 西日本での謂い(季語としては夏)。] 嘉手納製糖工場附近 縱横にはせ交ふトロや甘蔗の秋 [やぶちゃん注:「トロ」はトロッコのこと。] 琉球燒 踏ん張れる獅子の口より蚊火煙 [やぶちゃん注:「琉球燒」一応、ウィキの「壺屋焼」をリンクさせておく(但し、同ウィ キには一ヶ所も「琉球焼」という語は用いられてはいない)。この那覇の壺屋焼が琉球の焼 き 物の本流 である ことは 間違いな いのだ が 、実 は現在 では「壺 屋焼 」 と「琉 球焼 」は 区 分 さ れた 別箇 な伝統 工芸製 品 指定を 受けて いる か らであ る 。その 論争記 事 は一 九九八年 三 月 二 十八日附 『琉球 新報 』 の「伝統 めぐり 論争、 琉球焼 と壺屋焼 」に詳 しい( 個人的 に は 何 か残念な論争である気がする) 。 「獅子」「しーさー」のこと。無論、ここは「しし」と読んでいる。] 炎天や水を打たざる那覇の町 浦風のあはれに強し走馬灯 守宮啼くこだまぞ古き機屋かな [ やぶちゃ ん 注: ヤモリ は 沖縄言 葉 (う ちなー ぐち ) で「やー るー 」 と呼ぶ 。宮古島 在 住 の 「さんご のたま ご 」さ んの ブロ グ に写 真入 り で「ケ ケケケケ ケケ 」 と鳴く 旨の記載 が あ る。女性の方の個人サイト「たびかがみ」の「【解説】ヤモリという虫」によれば、本邦に は 少なくと も 十四 種以上 が棲息す ると 考 えられ 、その 中に鳴く ことに 由来す ると 思わ れ る ナキヤ モリ属 Hemidactylusがあり、以下の同属の二種を掲げておられる(一部データや Hemidactylus bowringii 情報を「国立環境研究所」その他のそれと差し替えさせて戴いた)。 ・タシロヤモリ 分 布は奄美 諸島・ 沖縄諸 島 ・宮古 諸島 ・ 八重山 諸島 に 分布する とされ る ほか 、台湾・ 東 南 ア ジアなど に 棲息 。人家 付近 で夜 間照明 に集ま り、昆 虫を食べ ること 以外に は生態は 殆 ど 知 られてい ない 。 全長は 九〇~一 二〇 ミ リメー トルで 暗い場所 で見る と明瞭 な横帯が 現 れ Hemidactylus frenatus て見え、一見「虎柄」のように見える。一部のネット記載には殆んど鳴かないともある。 ・ホオグロヤモリ 原 産地 はは っきり しない が 分布は 奄美諸 島 ・沖 縄諸島 ・大東諸 島 ・先 島諸島 のほぼ 全 て の 有 人島 およ び 小笠 原諸島 で人為的 な移入 による 外来種 であり 、 世界的 分布域 は大陸の 内 陸 部 を除く熱 帯・亜 熱帯域 広範に及 ぶ。民 家など の 建造 物 を好み 、かな りの 密 度で棲息 し 、 逆に人里から有意に離れた自然林内ではあまりみられない。「ケケケ」又は「チッ、チッ」 と 鳴き、灯 りに集 まり虫 などを 摂 餌する 。全長 は九〇 ~一三〇 ミリメ ートル で 南西諸 島 で は最も普通にみられるヤモリである。 こ れらから 見るに 、鳳作 の聴いた 「こだ ま 」す るほど 吃驚した それは 後者ホ オグロヤ モ リ Hemidactylus frenatusの可能性が高いか。南洋系と思われる種を突いて鳴かせている動 画 も幾つか あるが 、何と なくいじ めてい るよう で 不快 であるか らリン クしな い 。しか し か なり大きな声で高い鳴き声ではある。] 松風を蘇鐡のみきにとらへけり 藻の如く靡く芭蕉や大南風 [やぶちゃん注:「大南風」は「おほみなみ(おおみなみ)」と読む。夏の湿って暑苦しい 季節風のこと。「みなみ」と「風」の読みを省略する呼称はもとは漁師や船乗りの用語であ ったことに由来する。 ] 實を垂れて枯れそめたる芭蕉哉 [やぶちゃん注:「垂」の字の旧字体「埀」をまともに使っている作家は私の知る限りでは 非常に少ない。以下、この注は略す。] 遠雷にこたへそよげる芭蕉哉 [やぶちゃん注: 以上、十二句は八月の発表句。 ] 毒蛇 沖繩にはハブ捕りを先祖代々よりの家業としてゐる者があり、方言にて「ハブトヤー」 と称してゐます。砂や石垣を嗅ぎ歩いてハブの所在を知り多くは是を手捕りにします。 鎌首を捉へるのです。簡単な罠にかけて捕る場合もあります。捉へたハブは一しごき すると死にます。 炎天に笠もかむらず毒蛇とり 炎天や笠もかむらず毒蛇とり [ やぶちゃ ん 注: 前書の 説明文 は 底本で は通常 の前書 より有意 にポイ ント 落 ち(以下 、 文 章様の前書はこれと同様なので、以下ではこの注を省く)。前者は九月の『泉』発表句形 、 後者は昭和八(一九三三)年前後に自身が編んだ作品集「雲彦沖繩句輯」 (公刊されたもの ではない)に載る句形。] 手捕つたるハブを阿呍の一しごき 飴伸ばす如くにハブをしごきける [やぶちゃん注:「ハブトヤー」の文字列では検索で捕捉出来ない(これが本土ならば祭儀 主催者を意味する「頭屋」や「当屋」を当てたくなるところだが無論違う)。沖縄方言で「家」 は「やー」で「ト」は「捕る」の意か。「本家」を「むーとやー」「うふやー」と呼ぶが、 も しかする と 「ハ ブ(捕 りの)本 家」で 「はぶ むーと やー 」が 約され たもの のような 気 も した。沖縄方言にお詳しい方の御教授を乞うものである。なお、 「嗅ぎ歩いてハブの所在を 知 」るとあ るが 、 実際の ハブの 体 表は人 間の嗅 覚上 は ほぼ 無臭 に近い 。では このハブ 捕 り 職 人は何を 嗅ぎ分 けてい るのかと いえば 、恐ら くは ヘ ビ類一般 が持つ ところ の 尾の基 部 に あ る一対の 臭腺か らの 臭 いを嗅い でいる ものと 思われ る 。沖縄 県 の配 布して いるハブ に つ い ての 文書 「ハブ はこん な 動物」 によれ ば 、こ の臭腺 の内部に 強い臭 いを持 った褐色 の 液 体 が入って いて、 人が 摑 んだりす るとこ の 液体 を霧状 に噴出さ せるこ とがあ り 、種に よ っ て 多少の差 がある ものの 、キナ臭 い匂い に近い もので 、手など に 附着 すると なかなか 落 ち な いとある (これ は 他個 体 に対し て外敵 からの 攻撃の 危険を知 らせる 効果が あるとい う 説 がある)。] 我が宿 この島の乏しき菖蒲葺きにけり [やぶちゃん注:老婆心乍ら、「菖蒲葺きにけり」は一般には「あやめふきにけり」(但し、 「菖蒲」はそのまま「しやうぶ(しょうぶ)」と読んでも構わない。私は普段、 「菖蒲葺く」 しょうぶ や「屋根菖蒲」は「しょうぶ」と読む)と読んで端午の節句の行事として前の夜から軒に菖蒲 の葉をさす行事をいう。邪気を払い家を火災から防ぐとされる。 ] 濱木綿や礁に伏せある獨木舟 [やぶちゃん注:「礁」は音「せう(しょう)」であるが、それでは如何にもである。私は 「いは」と読みたくなる。また言わずもがな乍ら、 「獨木舟」は「まるきぶね」と読む。] 干されある藻の金色や紫や [ やぶちゃ ん 注: 例えば 心太や寒 天の材 料にな る 紅色 植物門紅 藻綱 テ ングサ 目テング サ 科 Acanthopeltis japonica等多様の種を ・オバクサ属のオ Ptilophora subcostata Gelidiaceaeに属するテングサ類(「テングサ」とは一種の名称ではなく、そうした材料と なるテングサ藻類の総称である。テングサ属マクサ Gelidium crinaleを代表種として、他 ・キヌクサ ・オニク Gelidium pacificum Gelidium linoides ・ユイキリ属ユイキリ Pterocladiella tenuis ・ヒラクサ属のヒラクサ Gelidium japonicum にも同テングサ属のオオブサ サ バクサ 含 む)は概 ね採取 時 には 種によっ て 強い 濃淡の 違いが あるもの の 全般 に赤紫 色 を呈し て い る が、海岸 で天日 干 しと 何度もの 水洗い 作業を 繰り返 すことに よって 黄色い 飴色(金 色 ) に変じてゆく。] 那覇の廓 港より見えて廓の土用干 [やぶちゃん注:実に色彩鮮烈な諧謔に富んだ洒落た句である。 ] 芭蕉林ゆけば機音ありにけり 玉卷ける芭蕉を活けてありにけり 短夜守宮しば鳴く天井かな 破れなき芭蕉若葉の靜けさよ 榕蔭の晝寢翁は毒蛇捕り [やぶちゃん注:「榕蔭」は「よういん 」又は「ゆういん」で、「榕」は半常緑高木 である イラクサ目クワ科イチジク属 Ficus superba変種アコウ Ficus superba var. japonicaを 指す。ウィキの「アコウ」によれば、漢字では「榕」 「赤榕」 「赤秀」 「雀榕」などと表記し、 国 内では紀 伊半島 及 び山 口県 ・四 国南部 ・九州 ・南西 諸島 など の 温暖 な地方 に自生す る 。 樹 高は約一 〇 ~二 〇メー トル 、樹 皮は木 目細 か い。幹 は分岐が 多く、 枝や幹 から多数 の 気 根 を垂らし て 岩や 露頭な どに 張り つく。 新芽は 成長す るにつれ て 色が 赤など に 変化し て 美 し い。葉は 互生し 、やや 細長い楕 円形 で 滑らか で 光沢 はあまり なく 、 やや大 ぶりで 約 一 〇 ~ 一五セン チメー トル 程 。年に数 回、新 芽を出 す前に 短期間落 葉 する 。但し 、その時 期 は 一 定でなく 同じ個 体でも 枝ごとに 時期が 異なる 場合も ある 。五 月頃 に イチジ クに 似た 形 状 の小型の隠頭花序を幹や枝から直接出た短い柄に付ける。果実は熟すと食用になる。『琉球 諸 島では、 他の植 物が生 育しにく い 石灰 岩地 の 岩場や 露頭に、 気根を 利用し て着生し 生 育 している』とある。] ハブ捕にお茶たまはるやお城番 ハブ捕の嗅ぎ移りゆく岩根かな ハブ踊る罠ひつ提げて去りにけり ハブ穴にまぎれもあらぬ匂かな 兩側に甘蔗の市たつ埠頭哉 [やぶちゃん注:以上十八句は九月の創作・発表句。] 那覇にて 高野山 ハブ壺をさげて從ふ童かな をんじき 飮食のもの音もなき安居寺 [やぶちゃん注:「安居寺」は「あんご でら」と読む。「安居」とは、元来はインドの僧伽 あらんにゃ に 於いて 雨季の 間は行 脚托鉢 を休ん で専ら阿蘭若 ( 寺院 )の 内に籠 って座 禅修学 するこ と を 言った。 本邦で は雨季 の有無に 拘わら ず 行わ れ、多 くは四月 十五日 から七 月十五日 ま で げ げ の 九十日 を 当てる 。これ を 「一夏 九旬 」 と称し て各教 団 や大寺 院では 種々の 安居行事 が あ けつげ げ あ ん ご る 。安居 の開始 は結夏とい い 、終 了は解夏 と いうが 、解夏 の日 は多く の供養 が行わ れて 僧 う あ ん ご 侶は満腹するまで食べることが出来るという。雨安居・夏安居ともいう(平凡社「世界大 百科事典」の記載をもとにした)。この年、鳳作は紀州高野山に於ける俳誌『山茶花』夏行 に 参加する ため 近 畿地方 に旅行し ている が 、そ れは 年 譜によれ ば 八月 のこと である 。 と す れ ば、この 安居寺 とは狭 義の夏安 居 の時 期では なく 、 夏安居 に 相当す る暑い 夏の静寂 に 満 ち た高野山 金剛峯 寺 のそ れを 詠じ たもの であろ う 。先 に示した に前田 霧人氏 の「鳳作 の 季 節 」よれば 、この 句は『 八月八日 から三 日間 、 高野山 高室院 で 開かれ た 「山 茶花 」夏 行 』 での句であるとし、『これは草城、暁水らも出席した盛大なものであった』とある。] 十方にひびく筧や安居寺 一方の沙羅の香りや安居寺 Stewartia pseudocamelliの別名である。本邦には自生しない仏教の聖樹 [やぶちゃん注:「沙羅」は「さら」若しくは「しやら(しゃら)」と読み、ツバキ目ツバ キ科ナツツバキ フタバガキ科の娑羅樹(さらのき アオイ目フタバガキ科 Shorea属サラソウジュ Shorea )に擬 せられ た命名 といわれ 、実際 に各地の 寺院に このナツ ツバキ が 「沙 羅双樹 」 robusta と 称して植 えられ ている ことが 多 い。花 期は六 月~七 月初旬 で 、花の 大きさ は 直径五 セ ン チ メートル 程度で 五弁で 白く、雄 しべの 花糸が 黄色い 。朝に開 花し、 夕方に は落花す る 一 日花である(ここは主にウィキの「ナツツバキ」及び「サラソウジュ」に拠った) 。] 一痕の月も夕燒けゐたりけり 雨蛙をらぬ石楠木なかりけり [やぶちゃん注:「石楠木」は「しやくなげ(しゃくなげ)」と読んでよかろう。「石楠花 」 で は花に視 点がフ レーム ・アップ しまう のを 避 けた用 字と思わ れる ( 但し、 シャクナ ゲ を かく表記するのは一般的とは言えない) 。 ここまでの六句は十月の発表句。] 門川のあふれてさみし魂祭 荷のすぎし精靈舟となりにけり 大風のあしたを出でて耕せり 月の江や波もたてずに獨木舟 吹きあほつ日覆のうちの櫻島 [やぶちゃん注:「吹きあほつ」ネット上で発見した歌人長澤英輔氏の歌集の一首、 夏暮るる軒の簾を吹きあほつ雨風涼しきちきょうの花 から、「吹き煽る」の謂いであることが 分かる(老婆心乍ら、「きちきょう 」とは「桔梗」 あふ のこと)。とすればこれは「あふつ」の歴史的仮名遣 の誤りかと思われる。「煽つ」は現代 音「あおつ」で他動詞タ行四段活用の「風が吹き動かす」「風のために火や薄い物が揺れ動 く 。ばたば たする 」の古 語で、自 動詞 の 「あふ る 」の 転かとあ る (但 し、こ の意に限 っ て みれば「あふる」との自・他動詞の明確な区別は国語学嫌いの私には判然としない)。 ここまでの五句は十一月の発表句。] 犬とゐて春を惜める水夫かな 舊曆十月十五日は僧月照の忌日たり うるはしき入水圖あり月照忌 [やぶちゃん注:「僧月照」これは幕末期の尊皇攘夷派の僧で西郷隆盛とともに錦江湾に入 水 自殺した 月照( 文化一 〇(一八 一三 ) 年~安 政五年 十一月十 六日 ( グレゴ リオ 暦一 八 五 八 年十二月 二十日 )のこ とと 思わ れるが 、日の ズレは 誤差範囲 として も 月が おかしい 。 誤 植か鳳作の記憶違いであろう。名は宗久(他に忍介・忍鎧・久丸とも。本姓は玉井か)、ウ ィキの「月照」によれば(アラビア 数字を漢数字に代えた)、『文化一〇年(一八一三年)、 大坂の町医者の長男として 生ま』れ、『文政一〇年(一八二七 年)、叔父の蔵海の伝手を頼 って京都の清水寺成就院に入る。そして天保六年(一八三五年)、成就院の住職になった 。 し かし 尊皇 攘夷 に 傾倒し て京都の 公家と 関係を 持ち、 徳川家定 の将軍 継嗣問 題 では一 橋 派 に 与したた め 、大 老の井 伊直弼 か ら危険 人物 と 見なさ れた 。西 郷隆盛 と親交 があり 、 西 郷 が 尊敬する 島津斉 彬 が急 死したと き 、殉 死しよ うとす る 西郷に 対し止 めるよ うに 諭し て い る』。安政五(一八五八)年八月に『始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷と共に 京 都を脱出 して西 郷の故 郷である 薩摩藩 に逃れ たが 、 藩では厄 介者 で ある 月 照の保護 を 拒 否 し、日向 国送 り を命じ る。これ は 、薩 摩国 と 日向国 の国境で 月照を 斬り捨 てるとい う も の であった 。この ため 、 月照も死 を覚悟 し、西 郷と共 に錦江湾 に入水 した。 月照はこ れ で 亡くなったが、西郷は奇跡的に一命を取り留めている 。享年』四十六。『「眉目清秀、威容 端厳にして、風采自ずから人の敬信を惹く」と伝えられ』、 『墓は、月照ゆかりの清水寺(京 都 市東山区 )と西 郷の菩 提寺 であ る 南洲 寺 (鹿 児島市 )にあり 、清水 寺 では 月照の命 日 で ある十一月十六日に「落葉忌」として法要を行っている(新暦の毎年同月同日に実施)』と ある。入水の前後を詳しく語るブログ『「明治」という国家』の「西郷隆盛、僧月照と薩摩 潟に投身」によれば、月照が、 雲りなき心の月も薩摩潟沖の波間にやがて入りぬる という辞世の一首を詠んだところ、西郷は答えて、 二つなき道にこの身を捨小舟波立たばとて風吹かばとて と 詠んで硬 く抱き 合った まま 、追 放のた めに 遣 わされ た 役人方 の舟か ら入水 したとあ る 。 驚いた役人が『両人が堅く抱合ったまま骸となって浮上ったのを発見』、『岸辺に船を急が せ 、火を焚 いて応 急手当 をしたの で 、西 郷だけ は 漸く 息を吹返 したが 、月照 は遂に』 四 十 六歳を『一期として、帰らぬ旅に上ってしまった』 、薩摩藩はしかし表向き西郷もともに死 んだということで『幕府へ届出』、西郷は名を『菊池源吾と改名し奄美大島に身を潜め』た 識者の御 教 授 と ある 。こ こに 出 る「入 水圖 」と いうの は 推測 である が、西郷 隆盛 の 菩提寺 で月照の 墓 が あ る鹿児島 市南林 寺町 に ある 臨済 宗 南洲 寺 にあ ったも のではな かろう か ? を乞うものである。] おぼえある繪卷の顏や月照忌 [ やぶちゃ ん 注: 恐らく 鹿児島県 人 であ った 鳳 作にと って 尊王 の偉人 として 月照の絵 姿 を 小さな時から見知っていたのであろう。 ] 椰子の月虹の暈きてありにけり からからに枯れし芭蕉と日向ぼこ 枯芭蕉卷葉ひそめてをりにけり 破れ芭蕉羽拔けし鷄の如くなり [やぶちゃん注:以上七句は十二月の発表句。 ] 昭和七(一九三二)年 霜圍ひされし芭蕉と日向ぼこ [ やぶちゃ ん 注: 一月発 行 の『馬 酔木 』 発表句 。前掲 の前月『 不知火 』発表 の「から か ら に枯れし芭蕉と日向ぼこ」の改稿かとも思われる。 ] 掃くほどのちりもなかりし御墓かな 西郷どんと眠りゐる墓掃きにけり [ やぶちゃ ん 注: 鹿児島 市上竜尾 町 にあ る 南洲 墓地 。 西南戦争 で戦死 した西 郷隆盛 を 始 め として二千二十三名の将士の墓が錦江湾の入口を向いて眠っている。] 島人や重箱さげて墓參り 掃苔やこごみめぐりに祖の墓 [やぶちゃん注:「祖」は「おや」と訓じていよう。 ] 屋根解くや誰が誰やら煤まみれ [やぶちゃん注:以上六句は一月の発表句。] 美しき人の來てゐる展墓かな [やぶちゃん注:「展墓」は「てんぼ」と読み、墓参りをすること。墓参。「展」は原義の 一 つ「見る 」から これ 自 体で「墓 参りを する 」 の意を 持つ。有 季俳句 では八 月十三日 の 盂 蘭 盆会 の墓 参で秋 の季語 であるが 、鳳作 のこれ は 二月 の発表句 であり 、そん な 意識は 毛 頭 な い。しか もこれ は 間違 いなく 宮 古の新 春の嘱 目吟 、 参ってい る 墓は 亀甲墓 で、そこ に 佇 む美人は南国沖繩の美人(ちゅらかーぎー)でなくてはならぬ。 ] 千鳥釣る童等がいこへる礁かな [やぶちゃん注:ここでの「礁」は恐らく海中の岩を指す和語で、「いくり」と訓じている ものと思われる。] 土の上に地圖ひろげあるキヤンプかな [やぶちゃん注:以上三句は二月の発表句。] 岩の上にロープ干しあるキヤンプかな 冬木影道に敷きゐるばかりなり 坐らんとすれば露けきほとりかな [やぶちゃん注:以上三句は三月の発表句。] 門入りて徑の露けくなりにけり 寄生木の影もはつきり冬木影 極月や榕樹のもとの古着市 。インド原産で高さは三〇メート Ficus bengalensis [やぶちゃん注:「榕樹」「ヨウジュ」は沖繩でお馴染みのガジュマルの漢名。イラクサ目 クワ科イチジク属ベンガルボダイジュ )ともい banyan ル にも 達す る。樹 冠部 は 大きく広 がって 横に伸 びた枝 から多く の気根 を出す 。果実は 小 形 の無花果状で赤熟する。インドでは聖樹とされる。バニヤン・バンヤン( う。 以上三句は四月の発表句。] 手袋の手をかざしゐ芦火かな [やぶちゃん注:「芦」は底本の用字。 ] 櫻島 火の島の裏にまはれば蜜柑山 炭馬の下り來徑あり蜜柑山 [やぶちゃん注:以上三句は五月の発表句。] 富士山麓 霧しづく柱をつたふキヤンプかな はひ松に郭公鳴けるキヤンプかな 山中湖 山垣とキヤンプの影と映るのみ 刈跡のみなやにたらし蘇鐡山 奥津城の庭の蘇鐡の刈られけり [やぶちゃん注:以上五句は六月の発表句。] 首里城 南殿のしとみあげあり花樗 の花。初夏五~六月頃に Melia azedarach [やぶちゃん注:「花樗」は「はなあうち(はなおうち)」と読む。センダン、一名センダ ンノキの古名。ムクロジ目センダン科センダン 若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数円錐状に咲かせる。因みに、 「栴檀は双葉より芳し 」 の「栴檀」はこれではなく白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン Santalum は植物体本体からは芳香を発散 Santalum album )なので注意(しかもビャクダン album し ないから この 諺 自体 は 頗る正し くない 。なお 、切り 出された 心材の 芳香は 精油成分 に 基 づく)。グーグル画像検索「栴檀の花」。 ] うすうすと峰づくりけり夜の雲 [やぶちゃん注:個人的に好きな句である。 以上二句は八月の発表句(昭和七(一九三二)年七月の発表句はない) 。 福岡生。本名、善次郎。大正七(一九一八)年に福岡で『天 なお、この八月二日、鳳作は博多に『天の川』主宰の吉岡禪寺洞(明治二二(一八八九) 年~昭和三六(一九六一)年 の 川』を創 刊して 後に主 宰となる 。富安 風生 ・ 芝不器 男 らを育 て、昭 和四( 一九二九 ) 年 に は『ホト トギス 』同人 となった が 、新 興俳句 運動 に 参加して 昭和十 一 年に 除名され た 。 戦後は口語俳句協会会長を務めた。句集に「銀漢」 「新墾(にいはり)」 (以上は講談社「日 本人名大辞典」に拠る))を訪ねている。それを「銀漢亭訪問記」として昭和七年十一月の 『天の川』に載せているが、その中で、鳳作が「沖繩の句をつくりたいと思つてゐますが、 ど うも 季感 が乏く て句に なりにく いです 」と質 問した のに 対し 、禪寺 洞 は「 この前臺 灣 の 人 もさう 云 つてゐ た 。だ がまあ 云 つて見 れば夏 だけの 所なんだ から 、 夏の季 のものだ け 句 作 したらよ いだら う 。從 來の季題 にない 動植物 でも何 でも句に してみ たまへ 。沖繩や 臺 灣 み たいな 所 は季と 云ふも のにさう とらは れる 必 要はな いと 思ふ 」と答 えてい るのが 注 目 さ れる。] 雲の峰夜は夜で湧いてをりけり 沖繩糸滿風景 くり舟を軒端に吊りて島の冬 [やぶちゃん注:以上二句は九月の発表句。] 蛇皮線をかかへあるける涼みかな 蛇皮線をかかへて歩く涼みかな [やぶちゃん注:前者は十月発行の『天の川』の、後者は同十月発行の『泉』の掲載句形。] 日傘おちよぼざしして墓參り かたびらのうるし光りや琉球女 かたびら [やぶちゃん注: 「うるし光り」これは夏用の麻の帷子の紋付などに附ける漆で描いた紋所、 うるしも ん 「 漆 紋」のことであろう。 ] 豚の仔の遊んでゐるや芭蕉林 [やぶちゃん注:以上五句は九月の発表句。] 麻衣がわりがわりと琉球女 甘蔗畑 き び ぬ す と 踊衆にきまつてゐるや甘蔗盗人 良い月にうかれて甘蔗ぬすみけり [やぶちゃん注:前の二句は十一月発行の『天の川』の発表句。 「良い月に」は「雲彦沖繩 句輯」からここに配されてある。] 舟にゐて家のこほしき雨月かな [やぶちゃん注:「こほしき」は「こほし(こおし) 」で「戀(恋)ほし」、形容詞シク活用 こひ の「恋し」の古形。] 天津日に舞ひよどみける鷹の群 [やぶちゃん注:「天津日」「津」は「の」の意の格助詞で天の日輪、天空の太陽。 ] 鷹降りては端山鳥は啼きまどふ [やぶちゃん注:「端山鳥」は、はしくれの山鳥どもの謂いであろう。] 夕されば小松に落つる鷹あはれ 十月中旬毎日幾千とも知れぬ鷹つばさをつらねて渡り中天に舞ふさまは壯觀云は ん方なし琉球舞踊は鷹の舞ふさまより來しもの多しと云ふ 荒波に這へる島なり鷹渡る 和田津海の鳴る日は鷹の渡りけり 知らぬ童にお辭儀されけり野路の秋 つなぎ舟多くなりたる踊かな 織初めの女にまじる漢かな [やぶちゃん注:「漢」は「をおこ」と訓じていよう。] 海の風ここにあつまる幟かな リ ー フ たどたど蝶のとびゐる珊瑚礁かな 蝶々とゆきかひこげるカヌーかな 春曉や聲の大きな水汲女 村の童の大きな腹や麥の秋 鱶のひれ干す家々や島の秋 汐しぶき宮居を越ゆる野分かな 大いなる日傘のもとに小商ひ 傘日覆莚日覆の出店かな 靑簾つりし電車や那覇の町 [ やぶちゃ ん 注: 我々は 沖繩の鉄 道は、 二〇〇 三年 に 開業した 那覇市 内 のモ ノレール 、 沖 縄 都市 モノ レール 線、通 称ゆいレ ール が 最初だ と思い 込んでい るが 、 実は戦 前の沖縄 本 島 に は軽便鉄 道 や路 面電車 及 び馬車 鉄道 が あった 。また 、サトウ キビ 運 搬など を 目的と し た 産業用鉄道も南大東島をはじめとして各地に存在した。参照したウィキの「沖縄県の鉄道」 によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、明治時代、『沖縄県内 で初めて鉄道のレール が 敷かれた のは 南 大東島 で、一九 〇二 年 (明治 三十五 年)に手 押しト ロッコ 鉄道が完 成 し て いる 。ま た、一 九一〇 年(明治 四十三 年)に は沖縄 本島 でも サトウ キビ 運 搬用 の鉄 道 が 導入されている』。但し、 『運輸営業用の本格的な鉄道路線は、一八九四年(明治二十七年) か ら県外の 資本家 などが 沖縄本島 内 での 起業を 相次い で出願し ている が 、そ のほとん ど は 却下されたり、あるいは資金力が伴わずに 計画倒れに終わっている』。『一九一〇 年(明治 四 十三 年) 三月に 沖縄電 気軌道 ( 後の沖 縄電気 )が特 許を受け た軌道 敷設計 画 は唯一 実 現 す る運びと なり 、 一九一 四 年(大 正三年 )五月 に運輸 営業 を行 う鉄道 として は 沖縄初 と な る 路面電車 が大門 前 ―首 里間 に開 業した 。続い て半年 後 の十一 月には 、東海 岸側 の西 原 に あったサトウキビ運搬鉄道を拡張する形で沖縄人車軌道(後の沖縄馬車軌道)の与那原 小 那覇間が開業した』。『一方、明治時代 の民間による鉄道計画の大半が挫折したことから、 県 営による 鉄道敷 設 の気 運も高ま り、沖 縄人車 軌道 の 開業から 一か月 後の十 二月には 沖 縄 県営鉄道が那覇―与那原間 を結ぶ軽便鉄道 を開業させた』。『大正末期には県営の軽便鉄道 が那覇を中心に嘉手納、与那原、糸満を結ぶ 3 路線を完成させ、沖縄電気も路線を延伸。 さらに那覇と糸満を結ぶ糸満馬車軌道が新たに開業し、沖縄本島の鉄道は最盛期を迎えた』。 『 昭和時代 に入る と、沖 縄本島 で は道路 の整備 に伴い 自動車交 通 が発 達し、 鉄道はバ ス と の 競争に晒 される 。県営 鉄道 は気 動車 ( ガソリ ンカー )を投入 するな どして 対抗する が 、 沖 縄電気 の 路面電 車 と糸 満馬車軌 道 は利 用者 の 減少で 廃止に追 い込ま れた 。 この結果 、 沖 縄 本島内 の 鉄道は 沖縄県 営鉄道 と 沖縄軌 道 (旧 ・沖縄 馬車軌道 )だけ となる が 、両者 と も 太 平洋戦争 末期 の 沖縄戦 の直前で ある 一 九四四 年(昭 和十九年 )―一 九四五 年(昭和 二 十 年 )に運行 を停止 し、鉄 道の施設 はミス による 引火事 故 や空襲 ・地上 戦 によ って 破壊 さ れ た』とある 。 ] この辻も大漁踊にうばはれぬ [やぶちゃん注:以上二十句は底本では十二月のパートに配されてある(但し、 「知らぬ童 に」以下の十四句は総て「雲彦沖縄句輯」からで、その前の句が十二月の発表句である)。 ] 昭和八(一九三三)年 和田津海の鳴る日は鷹の渡りけり [ やぶちゃ ん 注: 同年一 月発行 の 『馬酔 木 』掲 載句 で あるが 、 この句 は前年 の十二月 発 行 の 『泉』の 発表句 と全く 同じであ るにも 拘わら ず 、何 故か本文 再掲 と なって いる 。一 応 、 掲げておく 。 ] 豚小屋に潮のとびくる野分かな [やぶちゃん注:前年の末に配されてある「雲彦沖繩句輯」の中の、 汐しぶき宮居を越ゆる野分かな の 類型句 で あるが 、先行 作 が広角 でパノ ラミッ クで 映 画的 であ るのに 対して 、こちら は 豚 の 鳴き声や 小屋の 臭いと 潮のべた つきが リアル に 感じ られる 、 それで いて 如 何にも諧 謔 味 に 富んだ佳 句であ る 。私 は豚が好 きなれ ばこそ この 句 の方が遙 かに親 しく感 じられる の で ある。] 石垣にともす行灯や浦祭 をとこらの白粉にほふ踊かな 踊衆に今宵もきびの花づくよ [ やぶちゃ ん 注: 残念な がら 宮古 島 のこ の 祭り につい て 私は知 見を持 たない 。識者の 御 教 授を乞うものである。 以上、最初の四句は一月の発表句、最後の「踊衆に」の句は「雲彦沖繩句輯」より。] この辻も大漁踊さかりなる 廻りゐる籾すり馬に日靜か [やぶちゃん注:[やぶちゃん注:「廻」は正字としたかったが 、PDFでは表示不能 なの で新字体とした。 以上二句は二月の発表句。] ストーブや國みなちがふ受驗生 漂泊の露人とクリスマスをいとなむ ガチヤガチヤの鳴く夜を以てクリスマス [やぶちゃん注:「ガチヤガチヤ」ここでは十二月に鳴いているのが当たり前の感じからし て 宮古か沖 繩本当 の景と 考えられ 、とす れば 直 翅(バ ッタ )目 剣弁 ( キリギ リス )亜 目 キ リギリス 科 Mecopoda属タイワンクツワムシ Mecopoda elongataと思われる。ウィキの Mecopoda属のクツワムシ Mecopoda nipponensis 「タイワンクツワムシ」によれば、同じ に 『似てい るが 、 羽根は 細長く、 前胸の 側面に 黒褐色 の帯が上 面に沿 って現 れる。別 名 ハ Mecopoda nipponensisは南 ネナガクツワムシ』ともいい、『伊豆半島以南の本州、四国、九州、沖縄などの他離島に分 布』する(通常、我々が「ガチャガチャ」と呼ぶクツワムシ 西諸島には分布しない模様である)。体長は六・五~七・五センチメートルで 、『メスはオ ス よりも 大 きい。 体は緑 かまたは 褐色。 オスの 前胸は クツワム シより 広がり 方が弱い 。 発 音 器もやや 小さい 。また 本種は脚 や触角 の体に 対する 割合が大 きく、 羽は丸 みが少な く 細 長 く、背面 側 の先 端近 く が緩やか に 上に カーブ し 、凹 んだよう に 見え る。個 体によっ て は 羽 の側面に 現れる 黒斑も クツワム シより 多く、 大きい 。特にメ スで 顕 著。ま たメスの 方 が 羽 根が長く なるこ とが 多 くこうし た 個体 は灯り に向か って 飛翔 してく ること さえある 。 産 卵 管 は 後 脚 腿 節 の 半 分ほ ど の 長 さ で 上に 向 か い カー ブ す る 。 鳴 き 声 も 全く 異 な っ て お り 、 「 ギィッ ! ギィッ !」と 前奏を数 回繰り 返した 後、本 奏は「ギ ュルル …」と 長く引き 延 ば す鳴き方をし、この部分はクツワムシの声に似たところもある』とする。『南方系種で海岸 や 線路沿 い 、土手 などク ツワムシ よりも 乾燥し た、日 当たりの 良い環 境を好 み、普通 は 混 生 しない 。 本種と クツワ ムシとが 生息し ている 地域で は平地に 本種が 、クツ ワムシは 山 地 に住む傾向がある 』。『夜行性 であり、日が暮れてから 活動する。昼間クツワムシは根元近 く で休むの に 対し 、本種 は葉の上 で脚を 広げ、 じっと している ことが 多い。 食草はク ツ ワ ム シ同様、 クズが 主食で あり 、そ の他乾 燥草原 に生え る各種広 葉 雑草 から低 木の葉ま で を 食 べる。飼 育下 で はクツ ワムシと 全く同 じ物を 食べ、 多少の肉 食もす るが 共 食いは殆 ど し ない』。『クツワムシより褐色個体の割合が高く、緑色型として 羽化し外骨格の硬化が完了 し た個体で あって も 、日 照量 の少 ない日 陰や夜 間での 活動を続 けると 』一ヶ 月程度 で 『 褐 色に変化してしまう。 本州のものは』六月頃に孵化して八月頃に『羽化、初霜の頃には死 に絶えるというクツワムシと同様の一生を送るが、南に行くほど成虫の生存割合は高まり、 亜熱帯地域では冬を越して幼虫が孵化する頃まで生きていることも珍しくない』とある(下 線やぶちゃん)。] 」であ るが 、 PDF ではご 覧 の通り 、転倒 してしま う の 蠟燭 手づくりの蝋燭たてやクリスマス [ やぶちゃ ん 注: 底本で は「 で新字体とした。] 聖誕祭かたゐは門にうづくまる [やぶちゃん注:ここまでの四句は三月の発表句。 ] 一堂にこもらふ息やクリスマス マドロスに聖誕祭のちまたかな [やぶちゃん注:以上二句は四月の発表句。] 笹鳴きやけふ故里にある思ひ 受驗生かなしき莨おぼえけり [ やぶちゃ ん 注: この「 受驗生 」 は鳳作 の勤め た旧制 中学 から 旧制高 校 を受 験する生 徒 で あ ろうが 、 それで も 旧制 中学校 は 五年制 で問題 なく進 んでも 卒 業時 満 十七 歳 で無論、 違 法 な 光景では ある( 但し、 今も喫煙 する私 は高校 時代 に 既に煙草 を吸っ ていた から。こ の 情 景はまことにリアルである) 。因みに喫煙の本邦での規制は、ウィキの「日本の喫煙」によ れば、明治初期、『養生雑誌』(養健舎 明治一三(一八八〇)年創刊)が煙草の害を外国文 献の抄訳形式により掲載、明治一四(一八八一)年出版になる「内科要略」には、「慢性尼 古質涅(ニコチネ)中毒」(ニコチン依存症)と慢性動脈内膜炎の関係に言及、喫煙を粥状 動 脈硬化 の 危険因 子 と見 做す記載 がある という 。この ように 喫 煙の有 害性 が 一般に認 め ら れ ていた 明 治二二 (一八 八九 )年 には東 京文理 科大学 初代学長 三宅米 吉 が喫 煙と健康 に つ い て警告し た論文 「學校 生徒 ノ喫 煙」を 執筆、 年少者 にも及ん でいた 喫煙問 題 を受け て 明 治二七(一八九四)年に小学校での喫煙禁止の訓令「小学校ニ於ケル体育及衛生」(文部省 訓 令第 六号 )が発 せされ 、続いて 明治三 三(一 九〇〇 )年、未 成年者 の全面 的禁煙 を 成 文 化 した「未 成年者 喫煙禁 止法 」が 、健全 なる青 少年 の 育成を目 的とし て 施行 された 。 本 法 発布の背景には富国強兵策があって、 『幼年者が喫煙で肺を悪くして徴兵できなくなること が 憂慮され ていた 』こと が 主たる 理由で あると する 。 この「未 成年者 喫煙禁 止法 」は 現 在 も 改正を経 て継続 的 に実 施されて いる 。 日本の 成人年 齢 は明治 九(一 八七六 )年以来 一 貫 して満二十歳であるが、『年齢に言及せず「未成年者」の文言だけであった同法に』、「満二 十 年ニ至ラ サル 者 」の文 言が加え られた のは 昭 和二二 (一九四 七 )年 の改正 であった 、 と ある。] 行人を戀ふることあり受驗生 大空の春さりにけり椰子の花 浜木綿に日がなこぼれて椰子の花 [ やぶちゃ ん 注: 椰子の 花をご存 じない 向きの ために 、グーグ ル 画像 検索 「 椰子の花 」 を リンクしておく。] 椰子の花こぼるる土に伏し祈る 琉球のいらかは赤し椰子の花 [やぶちゃん注:以上七句は五月発表句及び当該時期のパートに配されたもの。] 首里、尚家の桃原園所見 バナナ採る梯子かついで園案内 [やぶちゃん注:「尚家」は琉球王朝の王統であるが、その系譜は単純ではない。例えば琉 球 最後 の王 朝であ る 第二 尚氏 の王 統は第 一尚氏 尚泰久 王 の重臣 であっ た 金丸 が尚泰久 王 の 子 尚徳王 に 代わっ て 王位 に就いて 尚円王 と名乗 ったこ とに 始ま る。こ こまで の 歴史的 経 緯 は ウィキの 「第二 尚氏 」 及びそこ からリ ンクさ れる 各 記載 に譲 るが、 最後の 王第十九 代 尚 泰 王治世下 の明治 一二( 一八七九 )年に 行われ た 琉球 処分 によ って 王 家によ る 琉球支 配 は 終 焉、尚泰 は東京 への移 住を命ぜ られて 形ばか りの 侯 爵に叙せ られ 、 分家も 男爵に叙 せ ら れ た。尚泰 は沖縄 との往 来を禁止 され、 尚家一 族 の大 半は沖繩 に残っ たとあ る 。ここ に 出 る 首里にあ った 桃 原園 と いう 庭園 (若し くは 次 の知ら れた 鳳作 の名句 や陸続 とあるマ ン ゴ ー やサボテ ンの 句 群がこ こで 創ら れたも のだと するな らば 、当 時既 に この 尚 家所有 の そ れ 現在ネッ ト 上で は那覇 市首里桃 原 町 は バナナや メロン を 栽培 する果樹 園 や熱 帯植物 園 のよ うなもの になっ ていた 可能性 も 浮 上 す る)もそ うした 尚家所 有 のもの であっ たもの か? の 地名以外 にはそ うした 施設は地 図上 で は現認 出来 な い。首里 城 の北 西(龍 潭から直 線 で 五 百メート ルの 直 近)に 位置する 。鉄の 暴風に よって 跡形もな く 消失 してし まって 再 現 さ れなかったものか? 識者の御教授を乞う。] 炎帝につかへてメロン作りかな よじのぼる木肌つめたしマンゴ採り マンゴ採り森こだまして唄ひをり [やぶちゃん注:この「首里、尚家の桃原園所見」の前書きを持つ『一聯四句』 (底本年譜 の 表現)は 六月発 行 の『 天の川』 の巻頭 を飾っ たもの で 、同誌 で鳳作 の句が 巻頭を飾 っ た 最 初であり 、しか も 二句 目 の「炎 帝につ かへて メロン 作りかな 」は鳳 作『開 眼の句と い わ れる』(年譜の表現)ものである。私も大好きな一句である。] 靑東風にゆられゆられてマンゴ採り [やぶちゃん注:「靑東風」は「あをごち(あおごち )」と読み、一般には夏の土用(七月 二 十日頃 か ら始ま る四季 節 の一つ である 立秋前 の十八 日間 を指 す)の 青空に 吹く東風 、 土 用東風(どようこち)を指すが、作句時期(『雲彦沖繩句輯』所収で推定六月)から、これ は初夏の青葉の間を吹き抜ける東風の謂いである。 ] サボテンの人を捕らんとはたがれる サボテンの指さきざき花垂れぬ 浜木綿に佇ちて入り日を拜みけり 雛祭すみしばかりにみまかりぬ [やぶちゃん注:以上九句は六月の発表若しくは創作句。] トンビヤン 龍舌蘭すくすく聳てば島の夏 トンビヤン [やぶちゃん注:「龍舌蘭」これは完全な当て読みで、「トンビャン 」とは元来はこの龍舌 Agaveの一種)から採取される繊維を用いて作った琉球の幻の織布の名称である。ネッ 蘭 (単子葉 植物綱 クサス ギカズラ 目クサ スギカ ズラ 科 リュウゼ ツラン 亜科リ ュウゼツ ラ ン 属 ト上の記載では「桐板」と書いて「トンビャン」「トゥンビャン」「トンバン」と読んだの が 発音の由 来であ るらし く 思われ 、中国 から入 った織 物で琉球 王朝時 代 には 中・上流 階 級 で 愛好され ていた が 、二 十世紀 に 入って 技術が 途絶え たとある 。最も 信頼の おける 沖 縄 県 立図書館の「貴重資料デジタル文庫」内にある「琉球の染織に関する基礎知識」には、 《引用開始》 桐 板は 琉球 王府 時代 から 戦前 まで用 いら れて いた織 物素 材で 中国 から 輸入 されて いた 。 中 ・上流階 級 の間 で使用 され、繊 維は非 常に透 明でハ リがあり 、ケバ がほと んどなく 撚 り を かけずに 織られ るのが 特徴で、 独特の ひんや りとし た 触感が あり 夏 用素材 として 珍 重 さ れた。 糸が撚りつぎで作られていることにも特徴がある。この東恩納寛惇文庫『琉球染織』 資料には、桐板を使用した織物が多く収集されており、 桐板の利用状況を知る上で貴重な 資料である。 染料には藍、ハチマチバナ(紅花)クール(紅露) 、鬱金(ウコン)、テカチ(車輪梅)、グ ールー(サルトリイバラ )、楊梅、福木、ユウナ(オオハマボウ)、梔子、日本・海外との 交易による蘇木、臙脂など主に植物染料を用いていた。 《引用終了》 と ある 。と ころが 、不思 議 なこと にここ には 原 繊維 を リュウゼ ツラン と 同定 する記載 が な い 。ネット 上をい ろいろ 調べてみ ると 、 この中 国から 輸入され たそれ の 繊維 素材 若し く は ちょま 織 布は実 はリュ ウゼツラ ンでは なくて 苧麻 ( 双子 葉植物綱 イラク サ 目イ ラクサ 科 カラム シ 属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea)であった可能性も あ るらしい が (し かし 、 琉球では 織物の 原繊維 に苧麻 も使われ ている から 誤 認や混同 は 不 着物の着方(ウシンチー)」田中薫氏一九四一年撮影とい 審である)、例えばこちらの「沖縄の衣生活」(戦前の昭和一六 (一九四一)年田中薫調査 時の記録よりとある)の「沖縄 う写真のキャプションには(一部の数字表記と記号表記を変えた)、 《引用開始》 典 型的 な琉 装着物 の前を 合せ、ハ カマ ( 下着) の堅く 締めた紐 に挟み 込むだ けで 帯を 用 い な い。この 着方を 「ウシ ンチー 」 と言う 。着崩 れなく 着こなす ことは 現代の 若者には も う 出来ない。着丈は短く、袖は広く短く袂がなくて「きもの」として最も通気性が高い。 左の画像は夏の通常着であるが布地は経糸が「とんびゃん(桐板)」といって龍舌蘭の一 種 からとる 繊維、 緯糸は 芭蕉の糸 で織っ たもの 。汗を よくはじ く 。こ の写真 では右前 ( 右 衽 )に合せ ている が 、古 くは左前 (左衽 )に着 た。一 九四一 年 には左 前が四 〇%くら い 見 られた 《引用終了》 みごろも とあってリュウゼツランを原繊維としていたことがはっきりと書かれている(「衽」は「お まえみごろ くみ」と読み、着物の左右の前身頃(身頃とは「身衣」の略で、衣服の襟・袖・衽などを 除 いた、身 体の前 後を覆 う部分の 総称。 前身頃 と後ろ 身頃から 成る) に縫い つけた 襟 か ら はんはば 裾までの細長い半幅の布のことを指す)。 あね 「聳てば」は普通なら「そばだてば」であるが、如何にも音数律が悪い。「たてば」と訓 じているものと思われる。 トンビヤン 【「龍舌蘭」についての追記】その後、ミクシィの友達で、小生が「姐さん」と呼んで敬愛 申 し上げて いる、 染色か ら織りま で 手掛 けてい らっし ゃる HN 「から からこ 」姐さん と い う 女性の方 に個人 的 にレ スキュー をお 願 いした ところ 、先日、 以下の ような 御消息 を 頂 戴 した(一部表現や表記、リンクなどを加工させて戴いた)。 * 多々良尊子「長田須磨が描いた明治時代の奄美の衣生活文化 -芭蕉布から木綿へ-」(P DFファイル)の三十五ページに「桐板」についての記述があります。 《引用開始》 注 6:桐板 (長田 さんは 、とゥン ビャン と 表し ている )は、沖 縄で用 いられ た 白く透 き 通 っ た高級な 夏用織 物 であ る 。中国 福建省 から原 糸が輸 入されて いたが 、第二 次 世界大 戦 に よ り途絶え たため 「幻の 織物」と 言われ ている 。一般 には、竜 舌蘭 か ら採っ た繊維で は な いかとされてきたが、近年,中国産の苧麻であるとの研究結果が報告されている。 『わが奄 美 』では、 桐板が 奄美に 残ってい たこと や 、竜 舌蘭 の 葉を灰汁 で煮て 葉脈か ら繊維を 採 っ た という 経 験も述 べられ ている 。 しかし 、竜舌 蘭 の繊 維は硬く 、衣服 ではな く 網や綱 と し て用いられたのではないかと思われる。 ま 《引用終了》 おさだ す 長田須磨 さ んは 、 明治三 五 (一 九〇二 )年生 まれで 、筆者 の多 々良尊 子 さん は 現在 、鹿 児 島県立短期大学生活科学科教授です。 緯糸:桐板) 緯糸:芭 蕉 絣 糸:経 ・緯とも に 木 また、沖縄県立図書館の貴重資料から「桐板の繊維」も見てみました。 琉球染織1-41(経糸:木綿 琉球染織 1-4 2(経 糸:白は 桐板・ 茶色は 木綿 綿) こ れでも [ やぶち ゃん 注 :リンク 先には 繊維の 拡大写 真 があり 、簡単 な解説 も附され て い る。]、分かるように木綿のガサガサとした、感じとは 雲泥の差があり、非常に柔らかな感 触 が伝わっ てきま す 。透 明感 もあ り 、ま た、ふ っくり としてい て 空気 をよく 含むので 、 夏 も 涼しいと いうの も 納得 できます 。庶民 には到 底手 の 届くよう な 代物 ではな かったの で し ょうね 。 意外なのは、「一般財団法人 ボーケン品質評価機構 」のサイト内の「繊維の基礎知識」 の「リネン(亜麻) ・ラミー(苧麻)・ヘンプ(大麻)の麻繊維について」の記載に、『苧麻 の代表的な欠点』として、『繊維が粗硬なので肌をチクチク刺激する』とあることで、上の 沖縄県立図書館の資料写真からは一寸、想像できません。 そこで 今 一度 、 沖縄県 立図書館 の貴重 資料 の 「琉球 の染織に 関する 基礎知 識 」の中 の 織 りの項を見てみると、「桐板」は撚りつぎをして 撚りをかけないとあります。で、苧麻は、 普 通撚 りを かけて 糸にす るようで す 。し たがっ て 、糸 に撚りを かける と 木綿 のような よ じ り が見える はずな のです が 、沖縄 県立図 書館 の 貴重資 料 の写真 「桐板 」には 全くと言 っ て い いほど 撚 りが見 られま せん 。撚 りのか かった 苧麻の 繊維写真 があれ ば 比較 できるの で す が今のところ、見つけることが出来ません。 そこで、とりあえず、これらのことから考えられるのは、 ◎中国・福建省から、輸入されていたのは (1)苧麻は、苧麻でも、特別な苧麻で、撚りを掛ける必要のない苧麻だったのか? (2)柔らかさを、そのままにするために苧麻にわざと撚りをかけなかったのか? ( 3)苧麻 だと思 われて (言われ て )い ても 苧 麻では ない 、別 な繊維 、まさ に 「桐板 」 と ということです。 呼ばれるもの「そのもの」ではなかったのか? のいずれかではないか? 参考まで に 、こ の沖縄 県立図書 館 の貴 重資料 を幾つ か並べて みると 、違い がよく 分 か り ます。 まず、こ ちら で は木綿 の繊維の 流れが 良く分 かりま す 。桐板 と比較 して、 撚りがか か っ ているのが良く見え、硬い感じですね。以下、比較してみましょう。 木綿・木綿 桐板・桐板 苧麻・苧麻 木綿・木綿 絹・絹 絹・桐板 やはり、桐板は、撚りがかかっていない(よじりがない)。特に最後の「絹・桐板」は絹 も 桐板も撚 りがほ とんど 見られず 、また 木綿や 苧麻な どのよう な 、硬 さとい うか 、が さ つ きが感じられませんね。 紅型」の「工程」のなかに、『布地は木綿、苧麻、芭蕉、絹、 桐 板 などが身分、 トンビャン そこで、もう一度、「琉球の染織に関する基礎知識 」をゆっくり読み直してみると 、「沖 縄の染め 用途によって……』とあります。 これを、どのように解釈すればよいのか? 「桐板」というのは苧麻以外の糸なのか、どうなのか? 一九三一 年に満 州事変 が起きて 以来、 九七二 年の日 中国交回 復 まで 、戦前 、一時的 な 国 交 回復 はあ ったと はいえ 、それ以 前のよ うな 交 易はな かったで しょう 。また 、一九七 二 年 以 降につい ても 、 福建省 との交易 によっ て 「桐 板」が 、また輸 入され るよう になって い る のかどうか?……ネットで文献を探すだけでは、限界があるようですね。 既に 福建省 で は、日 本への 輸出が止 ま っ 仮に福建省から輸入されているとして、「桐板」というのは、過去の名称では使われてい な い、現代 では『 別な名 前』にな ってる のか ? て以来、栽培もされなくなっているのか?……ゆえに……幻の糸と言われる?……現地の、 輸入業者や組合・織り手さんなどに尋ねないと分からないのかな?…… 以上、取 り敢え ずここ まで …… 。繊維 に関し ては 、 私は全く の素人 で、ネ ットで 分 か る 範 囲の資料 をあれ これ 比 べ、想像 した限 りです 。まだ まだ 、探 し切れ ていな いのだと 思 い ま す。知り 合いに 尋ねて はみます が 、そ の程度 で、こ れ以上先 に進め るかど うか …… ど う ぞ、悪しからずご了解くださいませ。 * 以上のメールに対する、私の返信文を次に引用しておく。 * 姐さん、 本当に ありが とう 御座 います 。大変 なお手 数をお掛 けして し まい 、誠に恐 縮 致 しております。 沖縄県立図書館のデジタル文庫は御指摘戴いた細かな資料まで見ておらず、驚きでした。 特 に織った ものの 拡大写 真 は「幻 」でな いトン ビャン のリアル な (し かし 元 は何かは 分 か らない)実像を伝えて、とても感動しました。 これらの 標本の トンビ ャンとさ れるも のを 、 それぞ れ 微量に サンプ リング して 定量 分 析 を すれば 、 そのも のの 元 が何なの か 恐ら くはっ きりす ることが 出来る とは 思 われます が 、 ど うも 姐さ んのお っしゃ るように 、それ らは 一 種類 で はなく 、 中国産 苧麻 や 龍舌蘭 か も 知 れず、全くの未知の別種の何かが元なのかも知れないという気もしてきます。 そこで 思 ったの は 、特 別で複雑 な手間 と見た 目でも 原材料 が 幻的存 在 であ れば (若 し く はそう見えるようなものであれば)、それだけ織布の神聖性や高級性は強く保持されますか ら 、これは 謂わば 、曖昧 で幻のま まにし ておく ことが よかった のかも 知れな いですね … … な どと 考え ている うち ― ―定量分 析 やD NA 分 析なん ぞを 夢想 してい た 小生 は……こ れ 如 何にも無粋という気がしてきました。(後略) * 「からか らこ 」 姐さん には 、何 度、感 謝申 し 上げて も 、し切 れぬほ どに 感 激してい る 。 改めて、この場を借りて深く御礼申し上げるものである。 … …今…… トンビ ャンと 姐さんが ……私 を…… 遙かな 美しき琉 球織 り の歴史 の幻影の 中 に 誘ってくれている……] ト ン ビ ヤ ン 龍舌蘭の花刈るなかれ御墓守 [ やぶちゃ ん 注: 前田霧 人氏 の「 鳳作の 季節」 に、こ の当時( 昭和七 (一九 三二 )年 の 夏 休 み明けに 移転) いた日 の丸旅館 につい て 、教 え子喜 納虹人 氏 の「雲 彦と宮 古島 」( 『 傘 とお 火 』昭和一 二(一 九三七 )年四月 号 )に ある 『 この旅 館は坐し て、肺 まで徹 る 紺の海が 見 え 、数十歩 すれば 先生が 常に愛し ていた 竜舌蘭 が生え ている 岬 に行か れた 。 先生の室 は 小 じ んまりし た 六畳 で南向 きの机の 上には 硯箱、 本、雑 誌、ハサ ミ 、鏡 、電気 スタンド 等 其 他 が雑然と して 、 机の下 には何時 でも菓 子箱 が 二つ三 つころが ってい た 。押 入れには 本 が つ めてあっ た 。夜 、この 室に居れ ば、浪 の音が 聞えか もめが 時 折なき 、夜釣 のポッポ 船 な ど がひびく だけで ひっそ りしてい た 。先 生はこ の室で こそ 颱風 の響を きき 伝 統の不合 理 に 一 矢を放ち 、蒼穹 へ蒼穹 へと手を のばし て 行っ た。( 略)先生 はその かわり よく 勉強 さ れ た 。私が行 くと何 時も机 の前で書 き物か 読書か して 居 られた 。 鹿児島 新聞 に 載せた文 は 切 り 抜いて、 スクラ ップブ ックには ってあ った 。 文章を 書かれる と 原稿 を見せ て『何処 が 悪 い か云って 呉れ』 と相談 された 。 私も率 直に思 うまま をのべる と 喜ん でおら れた 』と い う 思 い出を引 用され た 後、 『この「 坐して 肺まで 徹る紺 の海が見 える」 部屋で 、彼の代 表 作 「 しんしん と 肺碧 きまで 海のたび 」が密 かに宿 された のであろ うか 。 また、 「竜舌蘭 が 生 え ている 岬 」は旅 館から 直ぐ北に 続いて いるポ ー 岬で 、波打ち 際、竜 舌蘭 、 細い道、 お 墓 の 列、そし て 丘の 上の家 という 散 歩道 に なって いる 』 と記して おられ 、まさ にこれら の 句 が その光景 と一致 するこ とが 分か る。鳳 作の薫 陶を受 けて俳句 や短歌 の道に 進んだと い う 喜 納氏の文 章は非 常に印 象的 であ るが 、 哀しい かな 、 前田氏 に よれば 彼は後 に中国大 陸 で 戦死している。] 笛吹けるおとがひほそき雛かな 蛇皮線に夜やり日やりのはだかかな [やぶちゃん注:「夜やり日やり」夜遣日遣。計画や予定など立てずに勝手気まま間に進ん でゆく、進行させることをいうと小学館「日本国語大辞典」にある。] ト ン ビ ヤ ン 龍舌蘭の花のそびゆる城址かな 龍舌蘭の花に旱のつづきけり 歸省近し 大隈に湧く夏雲ぞ目に戀し [やぶちゃん注:以上七句は七月の発表句。 なお、この昭和八(一九三二)年七月の『天の川』に鳳作は、 「句作自戒」という以下の 但 し、年 譜からは 彼 が 頗る印象的な文章を発表している(底本からやはり恣意的に正字化して示す。改行もママ)。 * 句作自戒 一、生の愛しさに徹せよ 過去三年の句作は小生に生命のか なしさを教へてくれました。今後 共、生の愛しさに徹する事を句作 の第一義にしたいと思ひます。 一、生活感情の心髓をとらへよ。 いたづらに新奇な材料を探しまは る事なく、力強い生活感情に裏づ けられた現象を句にしたい、歌ひ あげたいと思ひます。 一、雲彦の出てゐる句をつくれ、 一句々々をさながらに、血の通つ てゐる自己の分身たらしめたいと 思ひます。 * まさに禅の趣きさえ持った自己拘束である。 ] 向日葵に吐き出されたる坑夫かな 向日葵に暗き人波とほりゆく [ やぶちゃ ん 注: 両句、 炭鉱の景 である が 場所 は不詳 。福岡か ? 福岡に行っているのは前年の八月である(『天の川』発行所及び吉岡禅寺洞を銀漢亭に訪ね ている)。このまさに当月である昭和八年八月十五日にも銀漢亭を訪ねてはいるが、この「向 日葵」の二句はその八月発行の『天の川』の掲載句で、当時の雑誌発刊事情を知らないが、 即吟が即掲載されたとするのは考えにくい。] 大和田やただよひ湧ける雲の峯 うちなー [やぶちゃん注:この「大和田」はまず地名とは思われない。当初、「やまとだ」で沖繩に やまと 対 する内 地の大和 に ある 田圃 の意で はなか ろうか 、などと ヘンテ コな 解 釈をして いた 。 し な どとホン トに 半 ば真剣 に悩んだ の で か も、この 句は八 月発行 の『泉』 の句で 彼がこ の 年鹿 児島 に帰 省した のは 八 月である か ら 直 近の嘱目 吟 では ないこ とになる から望 郷吟 か ? あ る。しか し 、如 何に続 く句群を 並べて 見ると 、そこ から 見え てくる のはや はり 沖繩 の 抜 けるような青い空と「雲の峯」であり、エメラルド・グリーンの海、「わたつみ」であるこ おおわたつみ とが分かる。即ち、「大和田 」は「おほわだ (おおわだ)」で大海神ということなのであっ た。我ながらトンデモ逡巡、実に情けない気がした。] カヌー皆雲の峯より歸りくる 夕凪や海にうつりしひでり星 [やぶちゃん注:「ひでり星」旱星は、旱続きの夜を象徴する如き、妖しい赤く強い光りを 放っている星、火星や蠍座のアルファ星アンタレス(中国名「大火」「火」で夏の宵の南天 地平線近くに見える)などを指す。私は天文に暗いが、「夕凪」「海にうつりし」からは後 者アンタレスかと思われる。なお、言わずもがな――というより――皮肉に言えば「旱星」 は伝統俳句では――夏の季語――ではある。 以上二句は「雲彦沖繩句輯」に所収。 ] 夕凪をかこち合ひつつ濱涼み 濱涼み若人等は夜をあかす 遊女等もたむろしてをり月の濱 遅月ののぼれば機を下りにけり 蝉の音も人なつかしき下山かな [やぶちゃん注:「蝉」は「 蟬 」としたかったが、PDFではご覧の通り、転倒してしまう ので新字体とした。] 鷄頭燃ゆれど空は高けれど 玉芙蓉折れてしまひし嵐かな この秋の芭蕉の月の淋しさよ [ やぶちゃ ん 注: 以上の 三句は編 者デー タによ れば 昭 和八年八 月 の『 久木田 みどりへ の 弔 吟 』とある 。久木 田 みど り なる女 性につ いては 不詳。 追悼吟 を 三句残 すとい うのは 相 当 に 親 密な間柄 であっ たこと が 偲ばれ る 。因 みに久 木田 と いう 姓は 鹿児島 県 を筆 頭に熊本 県 や 宮 崎県 に多 い姓 では ある 。二 句目の 「玉 芙蓉 」は牡 丹( ユキ ノシ タ目 ボタ ン科ボ タン 属 )の園芸品種の名。グーグル画像検索「玉芙蓉 園芸品種」。 Paeonia 以上、十三句は八月の発表若しくは創作句。 ] 靑空に飽きて向日葵垂れにけり 向日葵の垂れすうなじは祈るかに 向日葵に海女のゆききの夕さりぬ 泳ぎ子の電車のうなり夕澄みぬ くり舟の上の逢瀨は月のまへ パナマ編みは濕氣を要し南洋にては月明の夜、沖繩にては洞窟にて編む。水の滴るく らがりにてパナマ編む男女あはれなり。 木洩れ日の徑をしくればパナマ編み 簪のぬけなんとしてパナマ編み パナマ編む顏のゆがめる男女かな 筵戸をすこしかゝげてパナマあみ 岩窟にともりゐる灯はパナマあみ [やぶちゃん注: 「灯」は筑摩書房「現代日本文学全集 巻九十一 現代俳句集」でも「灯」。 ] まどゐしてみんな胡坐やパナマ編み 丁髷を落さぬ老やパナマ編み [やぶちゃん注:「パナマ」は先行する昭和五(一九三〇)年三月発表の句「椽先にパナマ 編みゐる良夜かな」の私の注を参照されたい。 ] 獨居 干ふどしへんぽんとして午睡かな [やぶちゃん注:以上、十三句は九月の発表及び創作パートに配されてある。] 飛魚や右手にすぎゆく珊瑚島 [やぶちゃん注:老婆心乍ら、 「右手」は「めて」で、 「珊瑚島」は字書見出しとしては「さ んごとう」である。音からして「じま」より「とう」であろう。 ] か 飛魚の翔けり翔けるや潮たのし 飛魚の我船波のあるばかり 飛魚をながめあかざる涼みかな 飛魚のついついとべる行手かな 飛魚や船に追はれて遠翔けり かつを 煙よけの眼鏡ゆゆしや 鰹 焚き う ず 鰹鳥魚紋なす波に下りもする [やぶちゃん注:種としてはペリカン目カツオドリ科カツオドリ ・同亜 Sula leucogaster ・及び同亜種シロガシラカツオドリ Sula leucogaster plotus Sula 種カツオドリ 『熱帯や亜熱帯の海 leucogaster brewsteriなどを指す。ウィキの「カツオドリ」によれば、 洋 に生息』 し、全 長六四 ~七四、 翼開張 一三〇 ~一五 〇 センチ メート ル 、体 重は約一 キ ロ leucogasterは「白い腹の」の意。翼の色彩も黒褐色だが、人間でい グ ラムで 『 全身は 黒い褐 色の羽毛 で被わ れる 。 腹部や 尾羽基部 下面 ( 下尾筒 )は白い 羽 毛 で被われる 。種小名 う手首(翼角)より内側の下中雨覆や下大雨覆は白い』。 『嘴や後肢の色彩は淡黄色』で『オ ス は眼の周 囲にあ る 露出 した皮膚 が黄緑 色 。メ スは 眼 の周囲に ある 露 出した 皮膚が黄 色 。 幼鳥や若鳥は腹部や下尾筒に黒褐色の斑紋が入る』とある。但し、『カツオなどの大型魚類 に 追われて 海面付 近 に上 がってき た 小魚 を狙い 集まる 事から、 漁師か らカツ オなどの 魚 群 を 知らせる 鳥とみ なされ た 事が由 来。し かし 大 型魚類 に追われ た 小魚 目当 て に集まる ( 魚 群 を知らせ る )の は本種 やカツオ ド リ科 の構成 種 に限 らず、本 種の和 名も元 々は魚群 を 知 Sula leucogasterに限定する必要はないかも知 ら せる 鳥類 の総称 だった 』ともあ り 、こ こでも 漁師や 水夫が「 カツオ ドリ 」 と呼称し て い ると考えるならば、そもそもがカツオドリ れない 。 「魚紋」は通常「ぎよもん(ぎょもん)」と読み、魚の動きによって水面に出来る波の模様 の ことを 指 す。こ こはそ うした 現 象が「 渦」と なって 見えるこ とから 「うず 」と当て た も のか。若しくは「鱗」の「うろくず」 (魚などの鱗の意から転じて魚そのものを指す。いろ くず。)の省略形か。但し、「渦」「鱗」も孰れにしても歴史的仮名遣では「うづ」でなくて はならぬので不審ではある。識者の御教授を乞うものである。] 地下室の窓のみ灯る颱風かな 颱風をよろこぶ子等と籠りゐる 秋燕を掌に拾ひ來ぬ蜑が子は [やぶちゃん注:「秋燕」は「しうえん(しゅうえん)」で歳時記では「去ぬ燕」 「巣を去る 燕」「帰燕」「残る燕」などとともに――本土ににあっては――春に渡って来た燕が夏の間 に 雛を孵し 、秋九 月頃群 れをなし て 南方 へと帰 ってゆ く ――空 っぽの 巣に淋 しさが 残 る ― ― なんどと まこと しやか に 書かれ ている ――が ――こ こはその 燕が帰 ってく る 南国の 景 で ある――しかも「蜑が子」が「掌に」 「拾ひ來」た「秋燕」は――遂に最後に力尽きた一羽 で でもあっ たか ― ―ここ には 南国 の陽射 しとと もに 歳 時記 の陳 腐な常 套的記 載 とは全 く 異 なった反転した世界がリアルに詠まれているのである。季語なんする者ぞ! 以上十一句は十月の発表及び創作パートに配されてある。] 颱風に倒れし芭蕉海にやる 颱風や守宮のまなこ澄める夜を 颱風や守宮は常に壁守り 颱風や守宮は常の壁を守り [ やぶちゃ ん 注: 前句は 十月発行 の『傘 火』掲 載句 、 後者は翌 昭和九 (一九 三四 )年 一 月 発 行の『天 の川』 掲載の 句形であ るが 、 前者の 掲載誌 とクレジ ットは 頗る不 審である 。 そ の 前の「颱 風や守 宮のま なこ 澄め る夜を 」とい う 句は 、同じ『 傘火』 の昭和 八年十一 月 発 行 分に載る ことが 明記さ れている 。何故 、この 十月の 二句をそ の 後に 配した のか 意味 が 分 か らないか らであ る 。私 はこの 二 句はク レジッ トの 誤 りで十一 月発表 句 では ないか と 疑 っ て おり 、そ う断じ てこの ままここ に 十一 発表句 として 示すこと とする 。なお 、十月の 「 地 下室の窓のみ灯る颱風かな」が『傘火』最初の掲載句である。『傘火』は『天の川』同人で あ った 勝目 楓溪 ・ 浜田泊 鴎 らが創 刊した 同人誌 で、鳳 作はこの 昭和八 年九月 に参加し 、 こ れによって俳壇で注目されるようになる(年譜の記載)。この『傘火』の『雑誌欄「火の柱」 選者に横山白虹を迎え』、後の『昭和十一年一月より「生活高唱」欄を新設、西東三鬼がそ の 選に当た り、こ れが 、 戦後、社 会性俳 句 の第 一歩 と いわれる 』よう に なる とある 。 六 月 に 開眼の句 「炎帝 につか えてメロ ン 作り かな 」 を発表 、謂わば 、俳人 篠原鳳 作 にとっ て 最 初の恵み多き年であったといってよい。鳳作、未だ満二十七歳であった。 ] アラシ 山羊が鳴く颱風の跡に佇ちにけり 宮古中學より夏休歸郷 熊ん蜂夏期大學の窓に入る [ やぶちゃ ん 注: 八月の 帰省時 に 参加し たどこ かの 「 夏期大學 」講座 であろ うが 、年 譜 上 で の記載は ないの で 不詳 。八月十 五日 に 『福岡 市 の禅 寺洞居 、 銀漢亭 』に吉 岡禅寺洞 『 を 訪ね歓迎句会に出席、午後宮島に向かう』とあるのが、ややそれらしい感じはする。] 鳶の笛夏期大學の正午を告ぐ 歸省子に年々ちさき母のあり つれだてる老母の小さき歸省かな [ やぶちゃ ん 注: 改稿の 「颱風や 守宮は 常の壁 を守り 」一句を 除き、 ここま での 八句 は 十 一月の発表及び当該時期に配されたもの。] 大阪天王寺公園 月靑しかたき眠りのあぶれもの 月靑し寢顏あちむきこちむきに 夜もすがら噴水唄ふ芝生かな なにはづの夜空はあかき外寢かな [やぶちゃん注:以上の四句は十二月発行の『天の川』掲載句。 「大阪天王寺公園」は現在、 大 阪府大阪 市天王 寺区茶 臼山町 に ある 市 立公園 。ウィ キの 「天 王寺公 園 」に よれば 、 上 町 台地の西端に位置しており、総面積は約二十八万平方メートルで、園内には天王寺動物園 ・ 大 阪市立美 術館 ・ 慶沢園 を擁する 大阪を 代表す る都市 公園 であ る 。か つては 天王寺図 書 館 や 天王寺公 会堂 、 野外音 楽堂 もあ った 。 明治三 六 (一 九〇三 ) 年に開 かれた 第五回内 国 勧 業 博覧会第 一会場 (第二 会場 は大 阪府堺 市堺区 大浜 で 現在の大 浜公園 となっ ている ) 跡 地 の 東側を。 明治四 二 (一 九〇九 ) 年に会 場公園 として 整備して 「天王 寺公園 」とした も の で(通天閣を含む西側は「新世界」となった) 、その後、大正四(一九一五)年には東京上 野 ・京都岡 崎に次 ぐ国内 三番目 の 天王寺 動物園 が開園 、大正九 (一九 二〇 ) 年には住 友 家 邸 宅敷地 が 大阪市 に寄付 されて 大 阪市立 美術館 として 開館して いた 。 私はこ この 地理 や 沿 革について暗いが、このウィキの記載の昭和六二(一九八七)年の項に、 『天王寺博覧会開 催 に伴い、 園内を 再整備 。映像館 (マル チイメ ージシ アター ) などを 設置す る(閉幕 後 、 公 園主要部 分 はフ ェンス で 囲われ 、入場 が有料 となっ た 。あい りん 地 区に近 いため 、 公 園 内 にはホー ムレス が 多か ったが 、 有料化 と夜間 が閉園 となった ことに より 野 宿ができ な く なった)』という記載があり、それ以前の鳳作の吟詠時にも、この公園はそうした浮浪者が 多 くたむろ してい たもの か 。鳳作 にはこ うした 社会の 底辺層 の 貧しい 人々の 、ある意 味 、 強 い生のエ ネルギ ーを 詠 んだ句が 多い。 それは プロレ タリア 俳 句とは 一線を 画すもの で は あ るが 、鳳 作俳句 のこの 社会的 な 視線に は戦後 の社会 性俳句 に 通ずる 極めて 鋭いもの が 私 には感じられるのである。] ツチ 颱風のあしたに地のすがしさよ 口に入る颱風の雨は鹽はゆし [やぶちゃん注:「鹽」は底本では「塩」。] ハタハタは野を眩しみかとびにけり [やぶちゃん注:「ハタハタ」はバッタ のことであろう。秋の季語である。直翅(バッタ) 目雑弁(バッ タ )亜目に 属するバッ タ 上科 ・ヒシバッタ 上 科 ・ノ Acridoidea Tetrigoidea Tridactyloideaのバッタ類の総称であるが、ここは有意に飛ぶ様からバッタ ミバッタ上科 上科バッタ 科シ ョウリョウ バッタ 亜科 Acridini族ショウリョウバッタ属 Acrida cinerea Locusta migratoriaま た 、 バ ッタ 亜 目 イナ ゴ 科 イナ ゴ 亜 科 や バ ッ タ 科ト ノ サ マバ ッ タ ・ツチ イ ナゴ 亜 科 ・フ キバッタ 亜科 Oxyinae Cyrtacanthacridinae Melanoplinaeに属す るイナゴ類をイメージした方がよいかとも思われる(本邦産のバッタ類は四十種を超える。 但 し、ウィ キの 「 バッタ 」によれ ば 、バ ッタに は 『イ ナゴ (蝗 )も含 まれる が 、地域 な ど に よっては バッタ とイナ ゴを 明確 に区別 する』 とある のでイナ ゴは 除 外して おいた 方 が 無 難かも知れない)。 「眩しみか」は形容詞シク活用「眩し」の終止形に+「~ので」 「~から」の意の原因・理 由 を表わす 連用修 飾語 を 作る接尾 語 「み 」+疑 問の係 助詞 「か 」の文 末用法 。眩しい と 感 ずるからなのか、の意であろう。 深 なおこの 句、昭 和八( 一九三三 )年刊 の篠田 悌二郎 の句集「 四季薔 薇 」に 所収され て い るという 、 はたはたのをりをり飛べる野のひかり と、シチュエーションが驚くほどよく似ている(「学習院大学田中靖政ゼミOB・OG会 秋会」のこの記事を参照されたい)。なお、この句は同年十二月発行の『傘火』に載ったの も のである から 、 時間的 には篠田 悌二郎 の句の 方が先 行してい る 。朗 詠して みると 、 鳳 作 の 句は一旦 、中七 に大き な――ま さにグ ロテス クなバ ッタの 足 のよう な ―― ぎくしゃ く し た ブレイク があっ て 頗る 求心的接 写的 、 映像的 にはク ロース・ アップ の 技法 が意識さ れ て い るように 感ぜら れるの に 対して 、篠田 の句は 、広角 的魚眼的 ――ま さに 昆 虫の複眼 の よ うな――マルチな光彩があるのに加え、圧倒的に韻律の滑らかさが 心地よく優れている 。] 唇の色も日燒けて了ひけり 妹が居やことにまつかき佛桑花 Chinese hibiscusはハイビスカスの和名。] [やぶちゃん注:「佛桑花」(ぶつさうげ/ぶっそうげ )はビワモドキ 亜綱アオイ目アオイ 科フヨウ属ブッソウゲ 獨り居の灯に下りてくる守宮かな 蛾をふ肢はこびゆく守宮かな 機窓に鏡のせある小春かな はたや それとも何か独特の(機織り機に似た)構造の窓のことか? 「日 [やぶちゃん注:「機窓」は「はたまど」で機織り機の置いてある別棟の機屋若しくは機織 り部屋の窓のことか? 本 国語大辞 典 」に も「機 窓」は乗 らない 。ネッ トで 引 っ掛かる のは 、 これ、 飛行「機 」 の 「窓」ばかりである。私は既にこの疑問を杉田久女の、 燕に機窓明けて縫ひにけり の 注で提示 してい る のだ が 、どう もここ までく ると 最 初の私の 解への 確信度 が増す。 こ こ で しかも そ れが 宮 古島 の 景であっ てみれ ば 、そ こに 独 特の南国 沖繩の ちゅら かーぎー ( 美 人)の面影の立ってすこぶる雰囲気のある映像が浮かんでくるのである。 ] 新糖のたかきにほひや馬車だまり [やぶちゃん注:「新糖」現在の黒糖新糖には特にルビはなく使われているから「しんたう (しんとう ) 」の読みでよいものと思われる。] 松蝉が鳴いてゐるなり午前五時 Terpnosia vacuaの異名。ウィキの「ハルゼミ」によれば、 [ やぶちゃ ん 注: 底本で は「蝉」 は「 蟬 」であ るが 、 PDF で はご 覧 の通り 、転倒し て し まうので新字体とした。「松蝉」半翅(カメムシ)目頸吻亜目セミ型下目セミ上科セミ科セ ミ亜科ホソヒグラシ族ハルゼミ 『 日本と中 国各地 のマツ 林に生息 する小 型のセ ミで 、 和名通 り 春に成 虫が発 生する。 晩 春 や初夏を表す季語「松蝉」(まつぜみ)はハルゼミを指す』。『ヒグラシを小さく、黒くした よ うな 外見 である 。オス の 方が腹 部が長 い分メ スより 大きい。 翅は透 明だが 、体はほ ぼ 全 身が黒色』か『黒褐色をしている 』。『日本列島では本州・四国・九州、日本以外では中国 にも分布する』。『ある程度の規模があるマツ 林に生息するが、マツ林の外に出ることは少 な く、生息 域 は局 所的 で ある 。市 街地 に はまず 出現し ないが 、 周囲の 山林で 見られる 場 合 がある』。『日本では、セミの 多くは夏に成虫が現れるが、ハルゼミは 和名の』通り、四月 末から六月にかけて発生する。 『オスの鳴き声は他のセミに比べるとゆっくりしている。人 によって表現は異なり「ジーッ・ジーッ…」 「ゲーキョ・ゲーキョ…」 「ムゼー・ムゼー…」 などと聞きなしされる。鳴き声はわりと大きいが生息地に入らないと聞くことができない。 黒い小型のセミで 高木の梢に多いため、発見も難しい』。『日本ではマツクイムシによるマ ツ 林の減少 、さら にマツ クイムシ 防除の 農薬散 布 も追 い討ちを かけ 、 ハルゼ ミの 生息 地 は 各地で減少している。各自治体レベルでの絶滅危惧種指定が多い』。ここで鳳作が聴いてい る のは 、も しかす るとヒ メハルゼ ミ 属ヒ メハル ゼミ 亜 種ヒメハ ルゼミ の 、さ らなる 亜 種 オ キナワヒメハルゼミ Euterpnosia chibensis okinawana Ishihara,1968 であるかも知れな い(としても、亜種としての同定と命名はご覧の通り、この句よりも後のことである)。] 埼々に法螺吹きならす良夜かな [やぶちゃん注:「埼々」は「さきざき」で、島の「崎々」の謂いであろう。万葉以来の古 語である。これは宮古島で行われる悪霊払いの伝統行事の嘱目吟であろう。 以下、ウ ィキの 「パー ントゥ 」 による と 、宮 古島 の 歴史につ いて 書 かれた 「宮古島 庶 民 史」(稲村賢敷、一九四八年)によれば、「パーン(食べる)+ピトゥ(人)」が訛化した言 葉 であると 言う説 が述べ られてい る 。現 在、平 良島尻 と上野野 原 の二 つの地 区で行わ れ て い るが 、両 地区 で 内容が 大きく異 なる。 その内 の野原 のパーン トゥは 旧暦十 二月最後 の 丑 さとばら の日に行われる(地元では「さてぃぱらい」里祓い)ともいう)。男女で構成し、女達は頭 や腰にクロツグ(単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科クロツグ :上記はウィキの「ク Arenga engleri Clematis terniflora:ウィキの「センニンソウ」へのリンク。)を巻き、両手にヤブ ロツグ」へのリンク。)とセンニンソウ(双子葉植物綱キンポウゲ目キンポウゲ科センニン ソウ ニ ッ ケイ ( 双子 葉植 物 綱ク スノ キ 目ク スノ キ 科クス ノ キ属 ヤ ブニ ッケ イ Cinnamomum tenuifolium:ウィキの「ヤブニッケイ」へのリンク。)の小枝を持つ。男の子の一人はパ ーントゥの面を着け、他のものは小太鼓と法螺貝で囃す(下線やぶちゃん)。夕方祈願のあ と 集落内 の 所定の 道を練 り歩き厄 払いを する 、 とある 。一方の 平良島 尻 のも のは 来訪 神 の 演 出がマッ ドメン さなが らで 、仮 面の蔓 草を纏 い全身 に泥を塗 った姿 で三体 登場 し、 誰 彼 構 わず人や 新築家 屋 に泥 を塗りつ けて 回 るもの で 、泥 を塗ると 悪霊を 連れ去 るとされ て い る、とある 。 ] 飛行場三句 近づけばみな着ふくれてローラ曳き ひもすがら冬の海みてローラ曳き ローラーの曳きすててあり芝枯るる [ やぶちゃ ん 注: これら 三句は昭 和八( 一九三 三 )年 の末句で あるが 、この 飛行場 な る も の がよく 分 からな い 。実 は現在の 宮古空 港 は昭 和一八 (一九四 三 )年 に旧日 本軍 によ り 海 軍 飛行場 と して 建 設され たもので あるが 、ネッ ト 上の 諸記載 を 見る限 りでは 、それ以 前 に は 宮古島 に は飛行 場 に相 当するも のはな く 、総 ては交 通を船舶 に頼っ ていた とあるば か り 識者の御教授を乞うものである。] だ からであ る 。ま さか 、 実にこの 年に起 工して やっと 十年後 に 出来上 がった とでもい う の であろうか? 海鳴のさみしき夜學はげみけり [やぶちゃん注:以上、十九句は十二月の発表及び創作句。] 昭和九(一九三四)年 幕合ひの人ながれくる花氷 花氷藝題のビラを含みゐる と 天翔るハタハタの音を掌にとらな 秋天に投げてハタハタ放ちけり ハタハタの溺れてプール夏逝きぬ 颱風をよろこぶ血あり我がうちに [ やぶちゃ ん 注: この句 は鳳作の 没した 昭和一 一 (一 九三六 ) 年九月 十七日 から一年 後 の 翌 昭和十二 年九月 発行 の 『セルパ ン 』に 朝倉南 男編 「 篠原鳳作 俳句抄 」とし て 載った も の の一句。ここに配されている以上は句作データが残るものと思われる。] 冬たのし 好晴の空をゆすりて冬木かな 好晴の空をゆすりて冬木あり [ やぶちゃ ん 注: 前者が 昭和九 ( 一九三 四 )年 一月発 行 の『傘 火』の 、後者 が同年三 月 発 行の『天の川』の句形。「好晴」は「かうせい(こうせい)」で快晴と同義であるが 、冬の 季 語でもあ るらし い 。余 談である が 、同 義語 で あり な がら 「快 晴」が 季語だ という 話 は 聴 い たことが ない 。 如何に も奇怪な 話であ る 。こ れだか ら 有季の 非論理 性 には 虫唾が走 る 。 そ れは 伝統 俳句 の 文学性 の核心で あるな どとと いうの であれば 、後生 大事 の 歳時記 は 実 際 の 季節や生 物生態 とおぞま しいほ どに 齟齬 する無 数の 博物学 的 記載 を 金輪際 や めたが いい 。 以下、 「うたたねや」までの五句は『傘火』に前書「冬たのし」で連作で載ったものである。 連作であることから、「冬たのし」は二字下げで一行空けとした(以下、連作題は同様の 処置を施すが、この注は略す) 。] 筆たのし暖爐ほてりを背にうけ 室咲や暖爐に遠き卓の上 [やぶちゃん注:「室咲」は「むろざき」と読み、盆栽や切り枝を室内の炉火などで暖めて 早咲きさせたものを指す。] 椅子の脚暖爐ほてりにそり返る うたたねや毛糸の玉は足もとに [ やぶちゃ ん 注: ここま でが 「冬 たのし 」の一 月発行 の『傘火 』の連 作題 。 以上、十 一 句 は底本の昭和九年一月相当のパートに配されたもの。] み ち 冬木影しづけき方へ車道わたる 冬木影戛々ふんで學徒來る ふわけ 冬木影解剖の部屋にさしてゐる 夕木影解剖の部屋のカーテンに [ やぶちゃ ん 注: 以上四 句 は二月 発行 の 『天の 川』の 発表句 。 一種の 組写真 のような 連 作 モ ンタージ ュであ るが 、 時間の切 り取り は上手 くなさ れたもの の 、初 五を恣 意的 にほ ぼ 統 一 したこと と 「解 剖の部 屋」の固 定化 に よって 、折角 の二句目 のカツ カツと いう 足音 の S Eが後二句で十全に生かされず、腑分けの臭いも消毒消臭されてしまった。] 時計臺 冬木空時計のかほの白堊あり と おでん喰ふそのかんばせの鋭きゆるき おでん食ふよ轟くガード頭の上に おでん食ふよヘッドライトを横浴びに [やぶちゃん注:「ヘッドライト」の拗音はママ。これ以前の句には認められない大きな変 化である。] 冬木空大きくきざむ時計あり 大空の風を裂きゐる冬木あり 時計臺 冬木空するどく聳てる時計あり 冬木あり自動車ひねもす馳せちがふ [やぶちゃん注:以上、八句は三月の発表句。 ] 氷上へひびくばかりのピアノ彈く ふるぼけしセロ一丁の僕の冬 [ やぶちゃ ん 注: 鳳作の 名吟。前 後の句 を見る にこれ らを 宮澤 賢治 の 句だと 言っても 信 じ てしまいそうな気がする。なお、前田霧人氏の「鳳作の季節」によれば、この句について、 こ の『「僕 」は「 私」と も取れる が 、鳳 作研究 家 で彼 と親交も あった 山口聖 二 は学校 の 用 げぼく 務 員など 「下僕 」の 「僕」で あると 断じる 。そし て 、「そ うする とこの 句のイメ ージは 、 も のすごい ほど 空 間と生 活を拡大 してく る 。」 (「 篠 原鳳作論 ―その 概説」 「形象」 昭 和 四 十一年十 月号) とする のである が 、さ て、皆 さんの 解釈は如 何であ ろうか 』と記し て お られる。暫く引いておく。私にとってはあくまでも一人称の「僕」である。] 雪晴のひかりあまねし製圖室 [やぶちゃん注:以上、四月の発表句。 ] 靑麥の穗のするどさよ日は白く 麥秋の丘は炎帝たたらふむ トマトーの紅昏れて海暮れず トマトゥの紅昏れて海くれず [やぶちゃん注:前者が五月発行の『天の川』の、後者が六月発行の『傘火』の発表句。 最後の句を除く、三句は五月の発表句。 ] トマト賣る裸ともしは鈴懸に [やぶちゃん注: 「裸ともし」は「裸灯し」であろう。ホヤなしのランプかアセチレンか。] 太陽を孕みしトマトかくも熟れ ミ 灼け土にしづくたりつつトマト食ふ カ 3 』とあ るが 、こ れは 雑 誌では なく 、鳳 作 没 月靑く新聞紙をしとねのあぶれもの ルンペンの寢に噴水の奏でけり [ やぶちゃ ん 注: 以上の 二句は『 現代俳 句 Lumpen(ルムペン:動詞では「のら 後 の昭和一 五 (一 九四〇 )年に河 出書房 から刊 行され た 「現代 俳句 」 第三巻 のこと と 思 わ れる。 鳳作得意のルンペン句。「ルンペン」はドイツ語 ぼ ろ き れ くらと暮らす・ 放蕩生活 をする 」、名詞では「襤褸布・襤褸服」「屑・がらくた 」で、無頼 の徒・ゴロツキや広く浮浪者を指す場合には正しくは (ルムペングズィ Lumpengesindel ン デル )と 言う) を語源 とする 。 作家下 村千秋 (しも むら ちあ き 明 治二六 (一八九 三 ) 年 ~昭和三 〇 (一 九五五 )年)が 震災恐 慌 から 世界大 恐慌 へと 続いた 経済破 綻 によっ て 大 正 末から昭 和初期 にかけ て 巷に溢 れてい た 失業 者 や浮 浪者 のど ん底生 活 の実 態を克明 に 描 いた新聞小説「街のルンペン」(昭和五(一〇三〇)年朝日新聞夕刊連載)が評判となった ことから一般に広まった語で、下村千秋の作品群自体が『ルンペン小説』『ルンペン 文学』 とも呼ばれた。(後半部分は、茨城県稲敷郡阿見町の公式サイト内にある「観光」の中の、 「阿見が生んだルンペン文学の小説家 下村千秋」を参照した) 。] 公園所見 ルンペンの早やきうまゐに夜霧ふる ルンペンに今宵のベンチありやなし [ やぶちゃ ん 注: 本句も 『現代俳 句 3 』とあ る (恐 らくは 鳳 作没後 の昭和 一五 (一 九 四 〇)年に河出書房から刊行された「現代俳句」第三巻)。] 南風の岩にカンバス据ゑて描く 海描くや髮に南風ふきまろび [ やぶちゃ ん 注: 前田霧 人氏 の「 鳳作の 季節」 によれ ば 、この 句につ いて 、 『この頃 、 彼 は 教師の欠 員に伴 い、公 民、英語 以外 に 図画の 授業を 受け持つ ように な 』り 、それは 『 こ ん な句があ るから 、新学 年 のこの 四月か らのこ となの であろう 。彼は 生徒と 一緒に野 山 に 海 に出掛け 、実に 熱心に 指導する 。その 結果、 赴任当 初 の短歌 や俳句 指導 の 時と同じ よ う に 、学校全 体 が絵 に熱中 し出す。 そして 、尚介 が幹事 となって 「宮古 中学白 陽画会 」 が 出 来 て、「美 術賞 」 を設け 展覧会 を 催すま でにな る 。こ のように 、何時 でも誰 にでも 直 ぐ に 火 を付ける 雲彦で あった 』として 、宮中 健 (こ れは 下 宿の同僚 の慶徳 健 で彼 のペンネ ー ム と ある )氏 の「篠 原鳳作 の印象」 から『 「天の 川」昭 和三十六 年三月 号篠原 さんは 、 下 宿 で は絵も書 きまし た 。ス ケッチブ ックに 水彩と いった 簡素なも のでし たが 、 トランプ を 真 上 から描い たもの は 、今 でも鮮明 に頭に のこっ ていま す 。この 構図も 感覚も 、句につ な が る ものがあ ると 思 います 』と引用 、『雲 彦は生 徒の前 では余り 絵を描 く姿を 見せなか っ た が 、彼にと っては 絵画も 写真も大 いなる 俳句の 糧であ り 、人知 れず努 力を惜 しまない の で あった』とある。 以上、九句は六月のパートに載る。] 向日葵の照るにもおぢてみごもりぬ [やぶちゃん注:この妊婦は不詳(この時鳳作はまだ独身で、彼の子ではないので注意)。 表 現の親愛 感 から 見ると 、那覇市 の歯科 医 に嫁 いだ姉 の幸がお り 、ま た、鳳 作の招き で 同 くによし じ く歯科 医 の実 兄国彬 が同じ 宮古島 の平良 港 に開 業してい たから 、この 孰れかの 親族の 妊 婦のようには思われる。] 枕邊に苺咲かせてみごもりぬ 夕立のみ馳けて向日葵停れる ひまはり 向日葵は實となり實となり陽は老いぬ [やぶちゃん注:以上、四句は総て七月発行の『天の川』の発表句。] ひまはり 向日葵の照り澄むもとに山羊生るる 」であ るが 、 PDF で はご 覧 の通り 、転倒し て し 蟬 向日葵と蝉のしらべに山羊生れぬ [ やぶちゃ ん 注: 底本で は「蝉」 は「 まうので新字体とした。] 向日葵の向きかはりゆく靑嶺かな 向日葵の日を奪はんと雲走る [ やぶちゃ ん 注: 以上の 四句は八 月発行 の『天 の川』 及び同月 発行 の 『傘火 』掲載の 句 で あ るが 、実 は底本 ではこ れらの 前 の七月 発行 の 『天の 川』に載 る「向 日葵 は 實となり 實 と な り陽は老 いぬ」 の前書 「ひまわ り 」が 、これ ら 四句 を含む連 作の前 書であ る 旨の編 者 注 記 が載る。 しかし 、月違 いの発表 句 の連 作、そ れも 「 向日葵 は 實とな り …… 」一句だ け を 載 せて『連 作』と いうの は 如何に も解せ ない 。 さらに 言えば、 向日葵 連作 な ら「向日 葵 は 實となり……」の前にある「夕立のみ馳けて向日葵停れる」(更に言わせてもらうならその 二句前の「向日葵の照るにもおぢてみごもりぬ」も)「ひまわり」の連作中の句であると言 っておかしくない (何と言ってもこれらは 総て同じ七月号『天の川』所載句なのである)。 こ れは 恐ら く、七 月号 の 「向日葵 は實と なり … …」の 単独一句 の前に は「ひ まわり 」 と 言 う 前書があ り 、そ して 改 めて八月 号 のこ の 四句 の前に も今度は 連作と しての 前書「ひ ま わ り 」がある のであ ろう 。 全集とし て 纏め る際の 手間を 省いたも のであ ろうが 、如何に も 違 和 感のある 仕儀と 言わざ るを 得な い。そ こで 私 のテク ストでは 改めて 「ひま わり 」と い う 前書を附させて貰った。 なお、こ れらの 「向日 葵 」連作 は鳳作 にとっ てエポ ック・メ ーキン グなも のとなっ た 。 前 田霧人氏 の「鳳 作の季 節」によ れば 、 『天の 川』の 編集責任 者 であ った 北 垣一柿 が 『 天 ヽ の 川』八月 号 の「 軽巡邏 船(一) 」でこ の 第一 句 を「 雲彦時代 ―断じ て夢で はなさそ う で ヽ あ る。」 と絶賛 、『むき にな ってし かも 句 として のこの 静 謐、用 語、音 律、共に きわだ っ た 特異性 を 有しな い 。此 処が私に とって は 尚更 うれし いのであ る 』と 述べ、 『次いで 、 波 ヽ 郷が「俳句研究」十月号の「『天の川』に与う」で、これら一連の向日葵の句を取り上げ、 ヽ 一 柿の評 に共感 を示すと 共に、 「晦渋 ならざ る 天の川 作家 と は雲彦 氏の 如きをい うので あ る 。」と評 価する 。「馬 酔木 」、 「 天の 川」が 甘美・ 晦渋論争 で応酬 してい る 間も、 若 い 波 郷と雲彦 はこう してお 互いを認 め合う 。雲彦 の作品 が「傘火 」、「 天の川 」以外か ら 評 価 を受ける のは 恐 らくこ れが 初め てであ り 、し かも 、 それが 総 合誌 「 俳句研 究 」に掲 載 さ Rubus subg. れたのである。彼の名が全国に知られるようになる端緒であった』と記しておられる。] 山路 草苺あかきをみればはは戀し Rubeae連 キ イ チ ゴ 属 」。私 Rubus hirsutus。グーグル画像検索「 Rubus hirsutus [ や ぶ ち ゃ ん 注 :「 草 苺 」 バ ラ 目 バ ラ 科 バ ラ 亜 科 Idaeobatus亜属クサイチゴ も 懐かしい ……白 い花の 甘い小さ な赤い つぶつ ぶの 実 ……裏山 でよく 採って 食べたね 、 母 さん……] 一碧の水平線へ籐寢椅子 [やぶちゃん注:以上、六句は八月の発表句。 ] 浪のりの白き疲れによこたはる ゐ 浪のりの深き疲れに睡も白く [やぶちゃん注: 「浪のり」は船が大きな波のうねりに乗ることもいうが、私にはどうも「白 き疲れ」「よこたはる」「睡も白く」(船の波乗りであれば眠くなる前に気持ちが悪くなろう し 、それを 「白き 疲れ」 と表現す るだろ うか ? ……し ないとは 言えぬ か …… 船酔いの ぼ ー っとした感覚は「白き疲れ」としてもおかしくないな)、そして続く句(この二句と次の句 は 同じ九月 発行 の 『天の 川』掲載 の三句 なので ある ) をセット に 読ん だ初読 時 、やは り こ れ は船上の 詠では なく 、 サーフィ ンとし ての 「 浪のり 」をし疲 れた後 の、白 砂の浜で の 景 であるとしか読めなかったである。 因みに「浪のり」の本邦での起源はウィキの「サーフィン」で見ると、 『江戸時代の文献 に、庄内藩・出羽国領の湯野浜において、子供達が波乗りをしている様子を綴った記述や、 「 瀬のし」 と呼ば れる 一 枚板 での 波乗り が行わ れたと いう 記録 が残っ ている 。すなわ ち 、 現在の山形県庄内地方が日本の波乗りの文献的な発祥の地と見なせる』とある。但し、『現 在 の形式の 日本で のサー フィンの 発祥の 地は、 神奈川 県藤沢市 鵠沼海 岸 、鎌 倉市 、千 葉 県 鴨 川市 、岬 町太東 ビーチ と 言われ ており 、第2 次大戦 後日本 に 駐留し た米兵 がそれら の ビ ー チでサー フィン をした のがきっ かけと いう 説 がある 』とあり 、ここ での 「 浪のり」 と い う のも 今の サーフ ィンの ようなも のとは 大分様 子 の異 なるもの のよう にも 思 われる 。 宮 古 島のサーフィンの歴史にお詳しい方の御教授を乞うものである。 ……が……ところが、である。 ……どうも残念なことに、これは、やはり、サーフィンなんどというのはトンデモ解釈で、 や はり 、船 の「浪 のり」 =波乗り =ピッ チング である らしい 。 次の次 の「し んしんと 肺 碧 き まで 海の たび 」 の私の 注及び次 の月の 「海の 旅」句 群の注を 参照さ れたい 。……ち ょ っ と淋しい気がしている……] 海燒の手足と我とひるねざめ しんしんと肺碧きまで海のたび [ やぶちゃ ん 注: これは 謂わずと 知れた 鳳作の 絶唱に して 第一 の代表 作 であ る 。実は こ れ は 底本では 次の十 月の発 表句 の中 に配さ れてあ る。そ れは 次の 月の句 群を見 て戴けば 分 か る 通り、こ の句が まず 単 独で九月 の『天 の川』 の前の 三句と一 緒に示 され( それと 前 三 句 との配列は不詳であるから、取り敢えずここでは最後に置いた) 、翌月の『傘火』には、こ の 「しんし んと 」 を含む まさに 鳳 作会 「 心」の 「海の 旅」句群 五句 が 纏めて 発表され た こ と による ( 即ち、 底本は 基本が時 系列編 年体 で ありな がら、こ うした 句群部 分 では編 者 に よ る操作が 行われ ている ために 正 しく並 んでい ない 箇 所がある という ことで ある 。こ れ は 今 回の電子 化 で初 めて気 づいた 。 特にこ の 知ら れた 鳳 作の作で それが 行われ ていよう と は 想像だにしなかったのでちょっとショックである) 。……そうして……そこではやはり知ら れ たように 船がま さに 「 浪のり」 して「 シーソ ー 」を 繰り返す 景が二 句も詠 み込まれ て い る のである 。―― 残念な がら 、や はり ― ―前に あった 「浪のり 」の句 のそれ は 、船の 「 波 乗 り」―― ピッチ ングを 指してい ると 考 えざる を 得な いという ことに なろう 。但し、 こ こ に お一人だ けこれ を やは り 真正の サーフ ィンと 解釈さ れている 方がい ること も 附記し て お き たい 。そ れは 何 度も引 いている あの 前 田霧人 氏 の「 鳳作の季 節」で ある 。 そこで 霧 人 氏 は 『現在、 「波乗 り(サ ーフィン )」は 夏の季 語であ るが 、当 時はま だ 代表 的 な歳時 記 に も 載録され ておら ず 、既 に彼が有 季、無 季にこ だわら ない 新し い素材 、新し い表現の 開 拓 に意欲を見せていることが分かる』と述べておられるのである。少し、嬉しくなった。 なお、前 田霧人 氏 の「 鳳作の季 節」で は、こ の句に ついて 、 この鳳 作の本 句発表 の 二 ヶ 月前に発表されている川端茅舎の、 いかづちの香を吸へば肺しんしんと と いう 句を 掲げら れ 、鳳 作の「新 興俳誌 展望 」 (『 傘 火』昭和 九 (一 九三四 )年)の 中 の 「 『走馬灯 』」句 評にあ る 、『長 い間病 床にあ る 茅舍 氏 の句に は何時 も珍し い感覺と 異 常 な 力とが漲 みなぎ つてゐ る 。茅舍 氏 の句 とする 對象は 病床にあ るせい か 決し て所謂新 し い 素 材ではな い 。氏 は常に 平凡なる 題材を 、新し い感覺 と力強い 表現と で全く 別個な新 し い 香 氣あるも のとさ れてゐ る』(私 の底本 とする 「篠原 鳳作全句 文集 」 所載の ものを 恣 意 的 に 正字化 し て示し た)と いう 叙述 をも引 かれて 、『雲 彦も生来 体 が頑 健でな かったか ら 、 茅 舎に共感 する所 は大な るものが あ 』り 、本句 の誕生 に茅舎の この句 が『大 きな影響 を 与 えたことは、両句を比較すれば誰の眼にも明らかなのである。それは、単に「しんしんと」、 「 肺」とい う 言葉 の共通 点 に留ま らず 、 「平凡 なる題 材を、新 しい感 覚と力 強い表現 と で 全 く別個な 新しい 香気あ るもの 」 として いる 所 が共通 するので ある』 と述べ ておられ る 。 これはまさに正鵠を射た優れた評である。 前に注した通り、以上四句は九月発行の『天の川』掲載句である。] 海の旅 滿天の星に旅ゆくマストあり 船窓に水平線のあらきシーソー しんしんと肺碧きまで海のたび 幾日はも靑うなばらの圓心に 幾日はも靑海原の圓心に シーソーは材木の兩端に相對し跨り交互に上下する遊戲。 甲板と水平線とのあらきシーソー (註) [やぶちゃん注:「海と旅」は連作題。鳳作畢生の句群であれば、全体を示した上で、最後 に 煩を厭わ ずに 一 括注 す ることと する 。 まず、 掲載誌 であるが (発行 は総て 昭和九 ( 一 九 幾日はも靑うなばらの圓心に しんしんと肺碧きまで海のたび 船窓に水平線のあらきシーソー 滿天の星に旅ゆくマストあり 『傘火』十月 『天の川』十月/『現代俳句』三号 『天の川』九月/『傘火』十月 『傘火』十月 『天の川』十月/『傘火』十月 三四)年。『現代俳句』は底本に示されたクレジットを号数と推定した) 、 幾日はも靑海原の圓心に 甲板と水平線とのあらきシーソー 『傘火』十月 である(最後の句の「註」も当然、『傘火』十月のもの)。 以上から 、この 「海の 旅」とい う 前書 きを持 つ決定 稿 は『傘 火』の それと 考えてよ く 、 それは以下のようになる。 海の旅 滿天の星に旅ゆくマストあり 船窓に水平線のあらきシーソー しんしんと肺碧きまで海のたび 幾日はも靑海原の圓心に シ ー ソ ーは 材 木 の 兩端 に 相 對 し跨 り 交 互 に上 下 す る 遊戲。 甲板と水平線とのあらきシーソー ( 註) なお、「幾日はも靑海原の圓心に」の「はも」は終助詞「は」+終助詞「も」で、深い感動 (~よ、ああぁ!)を表わす。 これらと の 連関 性 が、 前月の「 浪のり 」の句 に強く 認められ る (し かもそ こには 「 し ん し んと 肺碧 きまで 海のた び 」がプ レ・ア ップさ れても いる )こ とから 、やは り 「浪の り 」 は乗船している船の波乗り、ピッチングであるということになる。お騒がせした。 年譜によ れば 、 この昭 和九 (一 九四三 )年十 月 、沖 繩県立宮 古中学 校 から 鹿児島県 立 第 二中学校教諭として転任しており、この時、俳号を「雲彦」から「鳳作」と改めたとある。 また、当該年の年譜の転任記事の後には、 《引用開始》 現在の宮古高校行進曲は、作詞作曲とも鳳作である。 宮中行進曲 一、香りも高き橄欖の ときはの緑かざしつつ 希望の満てる清新の 我が宮中を君知るや(以下六連まで続く) 《引用終了》 と ある 。二 〇一四 年春 に 、個人的 にこの 楽曲及 び歌詞 について 沖繩県 立宮古 高等学校 に 問 い 合わせを 行って いる が 、本一括 版 を作 成した 同年八 月現在 に 至って も 回答 はない 。 因 み に、前田霧人氏の「鳳作の季節」によれば 、「篠原鳳作の周辺」(平良尚介 ・大山春明・砂 宮中行進歌 作詩・作曲 篠原國堅 川寛亮・伊志嶺茂・糸洲朝薫編昭和五六(一九八一)年四月「篠原鳳作の周辺」編集室刊) に、 一、 かんらん 香りも高き橄欖の ときは 常磐の綠かざしつつ 希望に滿てる淸新の 我が宮中を君知るや 二、 れいめい ああ黎明の霧はれて た い へ い その名も床し太平山の あ さ ひ こ 松に朝日子映ゆるとき あかね 我が學園の鐘ぞ鳴る 三、 つばさ 夕べの雲の 茜 して となん かけ 圖南の 翼 つらねつつ しふえん おもひ 秋燕高く翔るとき けんじ たい 健兒無限の 想 あり 四、 ほ 黑潮吼ゆる大えいを いつぺん 一扁舟によぎりたる ふばつ 不拔の英氣我にあり をごころ いざや鍛えん雄心を と出るが(但し、恣意的に正字化した)、前に出した年譜の『六連』という記載と一致しな い。気長に宮古高等学校からの返信を待ちたい。] 月光と塑像 月のかげ塑像の線をながれゐる 月光のおもたからずや長き髮 そそぎゐる月の光の音ありや 窓に入る月に塑像壺をかつぎ 背の線かひなの線の靑月夜 」。] La Source “ La Source ”) Ingres [ やぶちゃ ん 注: ここま で の五句 が十一 月発行 の『傘 火』の「 月光と 塑像」 連作と思 わ れ る。同月の『天の川』にも載るが、それは頭の三句のみである。 Ingres 壺を担ぐ乙女像というと……私は何をさておいてアングルの絵「春」 ( をイメージしてしまう部類の人間である(グーグル画像検索「 闇涼し蒼き舞台のまはる時 3 』の掲 載句 と ある 。以 上 、 [ やぶちゃ ん 注: これは 野外公演 である が 、場 所は不 詳。時期 的 には 宮古で はなく 鹿 児 島 か 。何か、 御存じ の方、 御教授 を 乞う。 これは 『現代 俳句 六句は十一月の発表句及び同パート(最後の句)に配されたもの。] 稻妻のあをき翼ぞ玻璃打てり ネ 稻妻の巨き翼ぞ嶺を打てる 建築現場 鐡骨に夜々の星座の形正し カケ 鐡骨に忘れたやうな月の虧 [ やぶちゃ ん 注: 二句連 作 。以上 四句 は 総て、 十二月 発行 の『 天の川 』掲載 句 。個人 的 に この建築場の二句を好む。 「鐡骨に忘れたやうな」という部分は推敲の余地があるように(特 に中七の直喩が今一つという感じがする)は思われるが、「鐡骨」という近代性と「星座」 及び「虧」けた「月」とのシュールレアリスティックな取り合わせ、「鐡骨」という近代の 象 徴物 が悠 久の天 然自然 の「星座 」と「 月」を かっち りとトリ ミング する 手 法が、憎 い ま でにモダンで洒落ている。] 昭和一〇(一九三五)年 靑空に觸れて 紺靑の空に觸れゐて日向ぼこ 紺靑の空に觸れゐて日南ぼこ 手に足に靑空染むと日向ぼこ シ 手に足に靑空染むと日南ぼこ [やぶちゃん注: 「靑空に觸れて」は連作題。以上四句は、それぞれ前の句が一月発行の『天 の川』の、後の句が同じく一月発行の『俳句研究』の句形である。] 莨持つ指の冬陽をたのしめり 園のもの黄ばむと莨輪に吹ける [やぶちゃん注:「園のもの」は者で園丁が苑の草花が冬に向かって「黄ば」んだ、と物謂 いして「莨」を「輪に吹」いているのであろうか? そうではあるまい。 「園の」物、その 草 花はすっ かり 季 節の中 で「黄ば 」んで しまっ たとい う 感懐の 中、当 の詩人 がその 景 の 中 に立って「莨」を「輪に吹」いているのか? はたまた、 「莨」の煙をそのまま吐いては「園 いや いや 、 これは 園 を 独 しかし 、とする ならば 「黄ば むと 」の 引 用 の 」美しい 草木が ヤニで 「黄ば」 んでし まうか ら 、と 、当の詩 人は「 莨」の 煙を敢え て 空 高 く「輪に 吹」き 上げて いるの で あろう か ? の 格助詞 「 と」は 如何に もな 客体 表現 で おかし い では ないか ? りで歩いているのではあるまい、詩人は恋人連れなのだ(次の注も参照のこと)、そして「園 の草木が黄ばんじゃうといけない」と独り言ともつかぬ気障な台詞を吐いて、高々と「莨」 の 煙を空高 く「輪 に吹」 き上げて いるん じゃな いか ? ……いや はや … …少な くとも 私 に は 意味がとれぬ句ではある。識者の御教授を乞いたい。] 新刊と秋の空ありたばこ吹く シンソコ 秋の陽に心底醉へりパイプ手に 幻想 雪の夜はピヤノ鳴りいづおのづから 雪あかり昏れゆくピヤノ彈き澄める [やぶちゃん注:以上、八句は一月の発表句。底本では頭の「日向ぼこ」二句の後(「日南 ぼ こ」とす る 二句 のヴァ リエーシ ョンは 底本で は補注 として 句 集の後 に配さ れてある ) 句 群 の後に「 一碧の 空に横 たふ日南 ぼこ」 の句を 配して いる 。こ れはこ れらの 句と同字 創 作 で あるとし てここ に 置い たのであ ろう ( 事実、 その可 能性 はす こぶる 高いで あろう ) が 、 こ の「一碧 の空に 横たふ 日南ぼこ 」の句 は二ヶ 月後の 三月発行 の『俳 句研究 』掲載句 で あ る。私はあくまで編年を守るためにそちらに移した。 因みに鳳 作は、 この昭 和一〇 ( 一九三 五 )年 一月二 十二日 に 鹿児島 銀行頭 取前田兼 宝 四 うえのそのちょう 女 秀子 と 結婚、 鹿児島 市 上之園町 三十 八番 地 に新 居を構 えた( 前田兼 宝 とい う 名は 大正 一 三 (一九二 四 )年 五月 に 投票され た 第十 五回衆 議院議 員総選挙 の鹿児 島県三 区 で当選 し た 議員と同姓同名である。同一人物であろう)。] 除夜風景 氷雨する空へネオンの咲きのぼる ダンスホール 除夜たぬし警笛とほく更くるとき たぬ [やぶちゃん注:「たぬし」は「楽し」で「楽し」と同義の近世古語。「日本国語大辞典」 によれば、万葉仮名で現在、「の」の甲類とされている「怒」「努」などを、近世の万葉の 訓詁学で「ぬ」と読んだことから出来た歌語である。] 理髮舖 廻轉椅子くるりくるりと除夜ふくる [やぶちゃん注: 「廻」は正字としたかったが、PDFでは表示不能なので新字体とした。] 年あけぬネオンサインのなきがらに [ やぶちゃ ん 注: 以上、 四句は二 月発行 の『天 の川』 及び三月 発行 の 『俳句 研究 』に 冒 頭 標記の「除夜風景」の連作として発表されたもの。 ] 一碧の空に横たふ日南ぼこ [ やぶちゃ ん 注: 先行す る「雪あ かり 昏 れゆく ピヤノ 彈き澄め る」の 句の私 の注を参 照 さ れたい。] 空とネオンと いぶせき陽落つとネオンはなかぞらに [やぶちゃん注:以下、同前書の連作(『俳句研究』では中に小項目の前書「十字路」があ る ため 二字 下 げと した ) であるが 、発表 された 二雑誌 、三月発 行 の『 天の川 』及び同 三 月 発行の『俳句研究』で掲載句や句形に異同がある。これは『俳句研究』のみに載る。] 凍て空にネオンの塔は畫きやまず か 凍て空にネオンの塔は畫きやまず [やぶちゃん注:前者は三月発行の『天の川』の、後者は同三月発行の『俳句研究』の句。] 凍て空にネオンの蛇のつるつると [やぶちゃん注:『俳句研究』のみに載る。] 凩の空にネオンのはびこれる 凩の空へネオンのはびこれる [やぶちゃん注:前者は三月発行の『天の川』の、後者は同三月発行の『俳句研究』の句。] 凍て空のネオンまはれば人波も [やぶちゃん注:『俳句研究』のみに載る。] はてしなき闇がネオンにみぞるるよ [やぶちゃん注:両誌に載る。 ] から 晝深きネオンの骸にしぐれゐる [やぶちゃん注:両誌に載る。 ] 十字路 ライト 警笛に頭光に氷雨降りまどふ [やぶちゃん注:『俳句研究』のみに載る。] 冬木さへネオンの色に立ち並び [やぶちゃん注:『俳句研究』のみに載る。以上、十二句は三月の発表句。なお、年譜によ れば、『この頃、「成長の家」を愛読するようになり、その神想観を正座によって修行しは じめている 』とある。ウィキの「成長の家」によれば (アラビア数字を漢数字に代えた)、 『谷口雅春により創設された新興宗教団体』で、『その信仰は、神道・仏教・キリスト教・ イ スラ ム教 ・ユダ ヤ 教等 の教えに 加え、 心理学 ・哲学 などを 融 合させ 』たも ので 『全 宗 教 の真理は一つと捉えている』という。政治的には『宗教右派色の強い組織』である。『創始 者 (生長の 家では 開祖や 教祖の名 称は使 われな い )の 谷口雅春 は、紡 績会社 勤務 のと き か ら 一九一八 年(大 正七年 )に大本 の専従 活動家 になり 、出口王 仁三郎 の『霊 界物語 』 の 口 述 筆記 に携 わった 他、機 関紙 の編 集主幹 などを 歴任し た。同時 期 に大 本の本 部で活動 し て いた江守輝子と出会い、一九二〇年(大正九年)十一月二十二日に結婚』 、 『一九二二年(大 正 十一年) の第一 次大本 事件 を機 に、大 本から 離脱し た浅野和 三郎 と 行動を 共にし、 翌 一 九二三年(大正十二年)には浅野が旗揚げした『心霊科学研究会』に加わった』。 『雅春は、 外 資系石油 商 ヴァ キュー ム・オイ ル・カ ンパニ ー 勤務 の傍ら『 心霊科 学研究 会 』で宗 教 ・ 哲 学的彷徨 を重ね 、一燈 園 の西田 天香 ら とも 接 触した 。特に当 時流行 してい たニュー ソ ー ト(自己啓発)の強い影響を受け、これに『光明思想』の訳語を宛てて機関紙で紹介した』。 『 一九二九 年(昭 和四年 )十二月 十三日 深夜 、 瞑想中 に「今起 て!」 と神か ら啓示を 受 け た ことを 機 に、一 九三〇 年(昭和 五年) 三月一 日に修 身書 とし て 雑誌 『生長 の家』一 〇 〇 〇部を自費出版した(生長の家ではこの日を以て「立教記念日 」としている)』。『「人間・ 神の子」「実相一元・善一元の世界」「万教帰一」のニューソート流主張により、支持者・ 講読者を拡大。 『生長の家』誌で発表した雅春の論文は一九三二年(昭和七年)に『生命 の 實相』と してま とめら れ 、一九 三五 年 (昭和 十年) には購読 者 を組 織して 「教化団 体 生 長 の家」を 創設す る。各 地に支部 を設立 し、ま た学校 などでも 生長の 家の講 演会 が開 か れ るなど教勢を拡大した』とある。] 『くちづけ』 くれなゐの頬のつめたさぞ唇づくる [やぶちゃん注:「頬」は底本では「 頰 」であるが、PDFファイルではご覧の通り、転倒 してしまうので新字体とした。 ] そのゑくぼ吸ひもきえよと唇づくる くちづくるときひたすらに眉ながき な くちづくるとき汝が眉のまろきかな [やぶちゃん注:以上、「『くちづけ』 」という総標題の連作であるが、最後に配した(実は な 底本ではこれが連作の頭にある)「くちづくるとき汝が眉のまろきかな」という句は、鳳作 の 没後(昭 和一一 (一九 三六 )年 九月十 七日心 臓麻痺 により 逝 去)の 翌昭和 一二年九 月 の 『セルパン』の朝倉南海男( 「なみお」と読むか)編「篠原鳳作俳句抄」に載るもので、前 の三句は昭和一〇 (一九三五)年四月発行 の『天の川』に発表されたものである。「『くち づけ』」という二重鍵括弧標題は映画の題名を匂わせるが、同時期の作品には見いだせない。 一 応、暫く はキス 、口づ け、とい う 一般 名詞 の それを 平仮名書 きで強 調表記 したもの と と っ てはおく 。この 連作は 、この一 年前 の 昭和九 年四月 号 『俳句 研究 』 に発表 されて 一 大 セ ン セーショ ンを 巻 き起こ した 日野 草城 の 連作「 ミヤコ ・ホテル 」を想 起させ るが 、前 田 霧 人 氏は「鳳 作の季 節」で 『草城の 句と根 本的 に 異なる のは 、こ の作品 がフィ クション で は な く新婚の 実生活 から出 たもので あり 、 また、 無季で あるとい う 』点 にある と 述べて お ら れ、鳳作の新婚の蜜月の実景句ととっておられる。] ルンペン晩餐圖 ルンペンとすだまと群れて犬裂ける ルンペンの唇の微光ぞ闇に動く ルンペンを彼の犬の血のぬくめけむ 血ぬられたるルンペンの手が睡りゐる [ やぶちゃ ん 注: 前田霧 人氏 の「 鳳作の 季節」 に、『 篠原鳳作 の周辺 』(平 良尚介 ・ 大 山 春 明・砂川 寛亮 ・ 伊志嶺 茂 ・糸洲 朝薫編 昭和五 六 (一 九八一 ) 年四月 「篠原 鳳作の周 辺 」 編 集室刊 ) から教 え子と 思しい平 良雅景 氏の「 ルンペ ン 晩さん 図」か ら、『 先生は下 宿 の 近 くに漲水 神社 が あって 、その境 内には ルンペ ンが 二 人寝 てい た 。こ の二人 の男は犬 捕 り ( 野犬狩人 )で、 はじめ て 見る先 生には ルンペ ンに 見 えたに 違 いない 。その 犬捕りが 昼 間 か ら酒を飲 んでは 相棒の 犬捕りと 口論の あげく 寝てし まい 、ま た酔い がさめ ると 漂泊 の 足 ど りで 、ど こかへ 消えて ゆく 、人 のよい 先生は 、この ルンペン にビス ケット やトマト を よ く 恵んで与 えた。 このこ とが 、「 ルンペ ン 晩餐 図 」と して 発表 されて います 』と引用 さ れ はりみずうたき てある。漲水神社は宮古島市平良西里にある漲水御嶽のこと。御嶽についてはウィキの「御 嶽 」から引 用して おく 。 『琉球王 国 (第 二尚氏 王朝 ) が制定し た琉球 の信仰 における 聖 域 の 総称』で 、『宮 古地方 では「す く」』 と呼ば れた 。 『御嶽は 琉球の 神話の 神が存在 、 あ る いは 来訪 する場 所であ り 、また 祖先神 を祀る 場でも ある 。地 域の祭 祀にお いては 中 心 と な る施設で あり 、 地域を 守護する 聖域と して 現 在も多 くの信仰 を集め ている 。琉球の 信 仰 で は神に仕 えるの は 女性 とされる ため 、 王国時 代 は完 全に男子 禁制 だ った。 現在でも そ の 多 くが一定 区域 ま でしか 男性の進 入を認 めてい ない 』 。『 御嶽 の多く は森の 空間や泉 や 川 な どで 、島 そのも のであ ることも ある 。 御嶽に よって は 空間の 中心に イベあ るいはイ ビ 石 と いう 石碑 がある が 、こ れは 本来 は神が 降臨す る標識 であり 、 厳密な 意味で のご 神体 で は な い(ご神 体とし て 扱わ れている ところ も 多い )。宮 古や八重 山地方 では、 過去に実 在 し たノロの墓を御嶽とし、そのノロを地域の守護神として祭っていることが多く見られる。 大 きな御嶽 では、 「神あ しゃぎ ( 神あし ゃげ 、 神あさ ぎ )」と 呼ばれ る 前庭 や建物と い っ た 空間が設 けられ ている ことがあ る 。こ れは 信 仰上 、 御嶽の神 を歓待 して歌 ったり 踊 っ た り するため の 空間 である 。語源は 「神あ しあげ (神が 足をあげ る 場= 腰を下 ろす場) 」 と 考 えられて いる 』 。『 鳥 居が設置 されて いる 御 嶽が散 見される が 、こ れは 明 治維新 か ら 琉 球 処分以降 の「皇 民化政 策 」によ る 神道 施設化 の結果 であり 、 本来の もので はない 。 沖 縄 本 島では戦 後、鳥 居が撤 去された 御嶽も 多いが 、宮古 や八重山 地 方の 御嶽の 多くには 戦 後 もそのまま鳥居が残されている』。] 高層建築のうた 蒼穹にまなこつかれて鋲打てる ひかり 一塊の光線となりて働けり 鋲を打つ音日輪をくもらしぬ 鳴りひびく鐡骨の上を脚わたる 鐡骨の影の碁盤をトロ走る にほひ 鐡はこぶ人の體臭のゆきかへる 瞳にいたき光りを踏みて働ける 歪みたる顏のかなしく鐡はこぶ たくましき光にめいひ鐡はこぶ 鐡骨の影切る地に坐して食ふ 鋲打ちてつかれし腰の地に憩ふ う め 靑空ゆ下り來し顏が梅干ばかり 疲れたる瞳に靑空の綾燃ゆる [やぶちゃん注:以上、「くれなゐの頬のつめたさぞ唇づくる」からの実に二十一句は総て が、昭和一〇(一九三五)年四月発行の『天の川』掲載句である。年譜によれば、 『天の川』 は この 四月 から無 季俳句 の作品欄 「心花 集 」を 新設、 その巻頭 にこの 「ルン ペン 晩餐 圖 」 五句が発表されており、また、「高層建築のうた」十句も何と『天の川』巻頭に掲載された 起 重機 」が 実 は も のであっ た 。ま さに 鳳 作の特異 点 とい ってよ い 月で あった 。 なお、 前田霧 人氏 の「 鳳 作 の 季節」で は、こ の連作 「高層建 築 のう た 」や 後に掲 げる連作 「港の 町 こ の昭和一 〇 (一 九三五 )年三月 九日 に 母や秀 子とと もに 鑑賞 した一 九三四 年製作 の ジ ュ リアン・デュヴィヴィエ監督作品「商船テナシチー」( Le Paquebot Tenacity )に触発さ れたものであるという事実を、映画の簡単なシノプシスも示されながら検証しておられる。] 「レコードの夕べ」 樂澄めり椰子の瑞葉は影かざし さう 樂澄めりうつむける人蒼々と デスマスク蒼くうかめり樂澄めば ぬか 樂きけり塑像の如き額しろく [ やぶちゃ ん 注: 五月発 行 の『天 の川』 掲載の 四句連 作 。同月 発行 の 『傘火 』には後 の 二 句は所収しない。全くの直感に過ぎないが、「デスマスク」を鳳作が思い浮かべているとい うのは、この聴いている「樂」がベートーヴェンのそれであったからではあるまいか? な お 、前田霧 人氏 の 「鳳作 の季節」 によれ ば 、こ れらの 句は、こ の昭和 一〇 ( 一九三五 ) 年 『 四月に銀 漢亭 を 訪ねた 折、禅寺 洞 、影 草と行 った福 岡の名曲 堂喫茶 部 で、 レコード を 聴 きつつ句作したもの』とある。 ここまでの十二句は五月発表句及び同月の創作句。] 港の町 起重機 起重機の巨軀靑空を壓しめぐる [やぶちゃん注:「 」 「壓」は底本では「圧」。 ] 軀は底本の用字。 起重機にもの食ませゐる人小さき そ ら 起重機の旋囘我も蒼穹もなく 起重機を動かす顏のしかと剛き [ やぶちゃ ん 注: ここま での 四句 は五月 発行 の 『天の 川』に標 記の「 港の町 起重機 」 で 連 作として 発表さ れたも のである 。なお 、前の 「疲れ たる 瞳に 靑空の 綾燃ゆ る」の注 も 参 照されたい 。 ] そ ら 起重機の豪音蒼穹をくづすべく [やぶちゃん注: 「豪音」はママ。この句のみ、鳳作没後の翌昭和一二年九月の『セルパン』 の朝倉南海男(「なみお」と読むか)編「篠原鳳作俳句抄」に載るもの。底本では「港の町 起 重機 」連 作の頭 に配さ れている いるが 、ここ へ 移し た。但し 、確か に同『 天の川』 連 作 冒頭の「起重機の巨軀靑空を壓しめぐる」の初稿か別稿のようには見える。] 續無季高唱『パアラアの夜』 ゴムの葉のにぶきひかりは樂に垂り 樂きけり塑像の如き人等ゐて 樂きくと影繪の如き國にあり [やぶちゃん注:五月発行の『傘火』の連作。 「續無季高唱」とあるのは、先に注したよう に 、この前 月四月 発行 の 『天の川 』がこ の 月か ら無季 俳句 の作 品欄 「 心花集 」を新設 、 そ の巻頭に、かの強烈な「ルンペン晩餐圖」五句が発表されたことを受けるものであろう(『傘 火 』は前に 記した ように 『天の川 』同人 によっ て 刊行 されてい る 同人 誌 であ るからこ こ で 鳳作が『續』と題しても何ら問題はないと私は思う)。ただ、これらは、先に示した同月の 『 天の川』 の連作 「レコ ードの 夕 べ」と 全くの 同一シ チュエー ション の 句で あり 、そ れ ら の句と比して特に深化(「續無季高唱『パアラアの夜』」と大上段に別に標題するほどの「進 化」という謂いである)が認められるかというと、はなはだ疑わしいと言わざるを得ない。 こ ういうの を 私は 俳句に 於ける― ―前書 の悪魔 ――と 勝手に呼 んでい る 。な お、前田 霧 人 氏 の「鳳作 の季節 」によ れば 、こ の昭和 一〇 ( 一九三 五 )年『 四月に 銀漢亭 を訪ねた 折 、 禅寺洞、影草と行った福岡の名曲堂喫茶部で、レコードを聴きつつ句作したもの』とある。 ここまでの十二句は五月発表句及び同月の創作句。] あな 昇降機吸はれゆきたる坑にほふ 昇降機吸はれし闇のむらさきに 地の底ゆせりくるロープはてしなく 昇降機うなじの線のこみあへる 昇降機脚にまつはる我が子呂と [やぶちゃん注:「昇降機うなじの線のこみあへる」までは六月発行 の『天の川』掲載句。 最後の句は鳳作没後の翌昭和一二年九月の『セルパン』の朝倉南海男(「なみお」と読むか) 編「篠原鳳作俳句抄」に載るものである。 この最後 の句の 「子呂 」は「こ ろ」で 、現在 も広く 作業現場 で用い られて いる 運搬 用 コ ロ 車、ここ は 鉱夫 が自分 用 の機材 その他 を運ん だりす るために 用いた コロ車 のことで は な いかと思われる(現在のそれはグーグル画像検索「運搬用コロ車」を参照)。 「財団法人 東 部 石炭懇話 会 」の サイト 内の「常 磐炭田 を研究 の対象 としてい る 機関 」の中 の福島県 い わ き市内郷白水町広畑にある渡邊為雄氏の個人資料館「みろく沢炭鉱資料館」の紹介頁の「所 蔵品目録」の「運搬関連」に『コロ(使い古しと新品)木製』 『コロ(木製・鉄製・陶製) 』 とあって炭鉱で使用されていたことが分かる。 これらの 句を読 むと、 西東三鬼 の、か の官憲 によっ て アカの 思想的 俳句 と トンデモ 解 釈 された 、 昇降機しづかに雷の夜を昇る が 思い出さ れる ( 昭和一 五 (一九 四〇 ) 年七月 、京大 俳句事件 で検挙 された 三鬼に対 し て 京都府警はこの句を『解釈』して、「雷の夜」とは不平不満を叫ぶ奴らの不安を煽る社会を さ し、その 中を昇 降機 が 昇るとい うのは 共産主 義思想 が広がる ことを 暗示し ていると 言 い 掛 かりをつ けられ た (こ の話につ いては 、それ を 詳述 した評論 家 によ る 西東 三鬼論 を 持 っ -光彩を放つ- 日野 草城(下) ―ひの そうぎ―」の記事 ているはずなのだが、どうしても見当たらないので、「大阪日日新聞」公式サイト内の三善 貞司氏の「なにわ人物伝 を参考にさせて貰った)。 但し、鳳作の名誉のためにはっきりさせておくと、三鬼のあの句は二年後の昭和一二(一 九 四七 )年 七月発 行 の『 京大俳句 』に発 表され たもの で 、寧ろ 、三鬼 の方が 鳳作のこ れ ら の 連作をヒ ントと して 逆 回転 の如 何にも 気障で スマー トな 映像 をイン スパイ アしたと 言 え る 。また、 三鬼の それが 徹底的 に 都会的 人工的 で、エ レベータ ーの 機 械油 の 臭ささえ 主 人 公のオー・ド・トワレの香に消されがちな感じの、あくまでお洒落なフランス映画風の(即 ち作為的な)雰囲気を出ていないのに対し(個人的には嫌いではないが) 、鳳作のこれらの 」と 転倒して しまう ので 、 鷗 句 は、強烈 な炭塵 と汗に まみれた 鋭いリ アリズ ムのモ ンタージ ュで 、 圧倒的 な昇降機 の 重 海を旅ゆくは夜々の我が夢なり 量と鉱夫の肉感が迫る優れた句群であると私は思う。] 海の旅 旅ゆくと白き塑像の荷をつくり 白たへの塑像いだき海の旅 は 鴎愛し海の碧さに身を細り よ 口笛を吹けども鴎集らざりき [やぶちゃん注:「鴎」は正字としたかったが、PDFでは「 仕方なくこの気持ちの悪い字体とした。 ] 碧空に鋭聲つづりてゆく鳥よ [やぶちゃん注:「海の旅」連作。全句が載るのは六月発行の『傘火』、同月発行の『天の 川』では冒頭の「旅ゆくと 白き塑像の荷をつくり 」を除く四句が掲載されてある。「塑像」 Saturnia属ク スサ ン 不 詳。これ は 具体 的 な実 在するそ れとい うより も 、内 なる一つ の精神 的 な何 ものかの シ ン ボルのように受け取れるように私には思われる。 以上、十句は昭和十年六月の発表句と創作句。] マイ・キングダム 私の王國 樂たのし饐ゆるマンゴの香もありて (注)マンゴーは熱帶特有の果物で香氣が高く果物の王と稱せらる 樂たのし翅に眼のある蛾も來り [ やぶ ちゃ ん注 :鱗 翅( チョ ウ) 目ヤ ママユ ガ科ヤ ママ ユガ 亜科 、奄美 Saturnia japonicaの類か(屋久島以北亜種クスサンは Saturnia japonica japonica )。クスサンは本土にも棲息し、マン Saturnia japonica ryukyuensis 以南亜種クスサンは ゴ ーも 少な くとも 現在は 鹿児島県 で栽培 されて いる ( 戦前に栽 培され ていた かどうか は 未 調 査)から 、必ず しもこ の 連句は 単に宮 古や沖 繩の追 懐詠とす ること は 出来 ないよう に 思 われるが、マンゴー・目玉模様の白蛾・サボテン・ゴム(但し、 「ゴムの葉に」の句は後に 発 掘された もので この 連 作にはな い 。当 該句 の 注を参 照のこと )と強 く南国 のイメー ジ 、 そ れ も 本句 を 見 るに 確 かな 嘱 目吟 と しか 思 え ない こ と は事 実 で ある 。 但し 、 この 前 書 マイ・キングダム 「私の王國」 は、 そうし た 彼の 南洋へ の熱 い思い とは 別 の、こ の一月 の妻と の熱い 蜜月 の 次の「 珊瑚島 」 句群は 二人の 幸せな 一時の実 景とし かやは り 思われ な い 「 王國」で でもあ るのか も 知れな い 。年 譜には ないが 、妻秀子 とのハ ネムー ンは 何処 だ っ た のだろう か ? のであるが……。識者の御教授を乞うものである。 ] あし 樂きけり白蛾はほそき肢に堪へ サボテンの掌の向き向きに樂たのし [やぶちゃん注:ここまでが連作で七月発行の『天の川』の巻頭を飾った連作である。] ゴムの葉ににぶき光は樂に垂り [ やぶちゃ ん 注: これは 「篠原鳳 作句文 集 」と ある 。 これは 鳳 作忌三 十五年 を記念し て 昭 」と 転倒して しまう ので 、 鷗 和 四六 (一 九七一 )年に 形象社 か ら刊行 された もので ある 。確 かにこ の 連作 に配して 自 然 珊瑚島 ではある。] いも 妹あがをれば來鳴きぬ鴎らも 鴎等はかむ代の鳥かかく白き [やぶちゃん注:「鴎」は正字としたかったが、PDFでは「 仕方なくこの気持ちの悪い字体とした。 ] 碧玉のそらうつつつばさかく白き よるべなき聲は虚空に響かへり [やぶちゃん注:「虚」は「 虛 」としたかったが、PDFファイルではご覧の通り、転倒し てしまうので新字体とした。] わ ぎ も こ 吾妹子のいのちにひびけさは鳴きそ [やぶちゃん注:この連作は七月発行の『傘火』に発表された。 鳳作の句 の中で も特異 な歌垣で ある 。 間違い なく 、 妻秀子 と のミラ ージュ に 見紛う 不 思 議 に美しい 映像だ ……二 人きりの 珊瑚礁 ……し かし… …しかし 同時に 私には 何か不吉 な 感 しらとり じ もしは しまい か ?…… これら の句は どこか ……かの ……遂 に白鳥 とな って 虚空 へ消え て い った 悲劇 の美青 年 ヤマ トタケル を 連想 させる ……そ して …… 鳳作は ……こ の翌年昭 和 一 一(一九三六)年九月十七日早朝、天に召されてしまうのである……] た あぢさゐの花より懈ゆくみごもりぬ 身ごもりしうれひは唇をあをくせる 白粥の香もちかづけず身ごもりし 身ごもりしうれひの髮はほそく結ふ 薄暮の曲 あぢさゐの毬より侏儒よ驅けて出よ [ やぶちゃ ん 注: この標 題には底 本では 連作を 示す「 *」 記号 が頭に 附され てあるが 、 次 の 句の前に 掲示さ れてい る 標題「 芥子と 空間」 にも「 *」 記号 が附さ れてあ る 。しか も こ の 句は八月 発行 の 『天の 川』掲載 句 であ るこの 前の四 句の最後 に配さ れてい る 。とこ ろ が 次 の句は同 月発行 の『傘 火』の句 群であ る 。従 って、 この標題 が「薄 暮の曲 」という 連 作 という意味が不明である。暫く三字下げでこの句の単独の前書ととっておく。] 芥子と空間 日輪をこぼるる峰の芥子にあり 白芥子の妬心まひるの陽にこごる 芥子咲けば碧き空さへ病みぬべし ネ ツ ツ ゆゑしらぬ病熱は芥子よりくると思ふ 芥子燃えぬピアノの音のたぎつへに ネ [ やぶち ゃん 注 :この四 句目 の 「ゆゑ しらぬ 病熱 」 はとり あえず 文学的 な精神的 なナー バ 鳳 作の直接 の死因 は心臓 麻痺 と 記されて あるが 、実際 には年譜 の 亡 ス な熱と私 はとっ てきた のだが 、 もしか すると これは 実際の原 因不明 の発熱 を指して い る の ではなか ろうか ? くなる昭和一一(一九三六)年九月十七日の四ヶ月前の五月の項に、『この頃から時々首筋 の 痛みを訴 え鹿児 島県姶 良郡 の妙 見温泉 で治療 したが 快方をせ ず 発作 的 に嘔 吐を催す よ う 私はこ に なった 』 とあり 、私は 鳳作は既 にこの 一年前 (この 句は昭和 十年八 月発行 の『傘火 』 に 発 表されて いる ) から、 原因不明 の発熱 に襲わ れてい たのでは なかっ たろう か ? れ らの 症状 から鳳 作の死 因は重篤 な何ら かの 脳 疾患 ( 頭痛と嘔 吐は脳 腫瘍 の 主症状 で あ る が 、例えば ウィキ の 「細 菌性髄膜 炎 」に よれば 、発熱 ・嘔吐及 び項部 の硬直 というの は 細 菌 性髄膜炎 の病態 に特徴 的 なもの である ことが 分かり 、同髄膜 炎 は二 〇〇八 年現在 で も 世 界 的な死亡 率 は一 〇~三 〇%と依 然とし て 高い 疾患で あるとあ る 。但 し、こ の疾患は 急 激 に 発症して 意識障 害 に陥 ることが 多い点 では鳳 作のケ ースとは やや 異 なる感 じはする ) で あ った 可能 性 を深 く疑っ ているの である 。なお 、前田 霧人氏 の 「鳳作 の季節 」には鳳 作 の 病 気につい て 驚く べき 意 外な記載 がある 。以下 、長く なるが 、 非常に 重要な 記載であ る か ら 引用させ て 戴く 。冒頭 の「五月 」とあ るのは 、没年 の昭和一 一 (一 九三六 )年のこ と で ある(一部の字下げを省略した)。 《引用開始》 五月、「 傘火」 に鳳作 の連作「 壁」五 句が掲 載され る 。第四 句 は朝 倉南海 男編 「篠 原 鳳 作 俳句抄 」 (「 セ ルパン 」昭和十 二年九 月号 ) に掲載 されたも のから の 引用 である 。 そ れ 篠原鳳作 以外は「天の川」七月号の「天の川俳句」に掲載されたものからの引用である。 壁 我が机ひかり憂ふる壁のもと すがめ 夜となれば神秘の 眇 灯る壁 くしけづる君が歎きのこもる壁 古き代の呪文の釘のきしむ壁 くら 幽き壁夜々のまぼろし刻むべく これは 「 天の川 」三月 号 の「自 己加虐 」に続 く異色 作 である が 、そ れより 更に異様 な 雰 囲気を持つ。そして、各年譜の「昭和十一年五月」の項に、初めて次のような記述がある。 あいら この頃 から時 々首筋 の 痛みを 訴え鹿 児島県 姶良 郡 の妙見 温泉 で 治療し たが 快方 をせず 発 作的に嘔吐を催すようになった。(『全句文集』年譜) 温泉治療 や嘔吐 の症状 などはも っと 後 のこと であろ うが 、連 作「壁 」の第 三句 など を 見 る と、恐ら くこの 頃秀子 夫人 は既 に鳳作 の本当 の病名 を知って おり 、 二人は 嘆きの底 に あ っ たのでは ないか と 思わ れる 。鳳 作の病 気は公 には神 経痛 とい うこと になっ ている 。 し か し 、幾ら彼 が虚弱 な体質 でも、神 経痛 で 命まで 失うと いうのは 、誰も が不思 議 に思う こ と である 。 岸本マチ 子『海 の旅― 篠原鳳作 遠景 』 に、鳳 作が友 人である 医者の 診察を 受ける場 面 が ある。そして、そこにワッセルマン反応など、ある特定の病名を指す医学用語が出て来る。 近年は抗生物質の出現により容易に治癒が可能となったが、当時は恐れられた病気である。 ー ジ 著 者に問い 合わせ ると 、 秀子夫人 から直 接に聴 取した ことで 事 実であ る とい う 。そし て 、 チ 友 人たち に 誘わ れてた った 一 度、沖 縄那覇 の辻遊郭 で一 夜を 過ごし たこと から 感 染した 不 幸な出来事であり、くれぐれも鳳作はそんな人ではないからと、彼女は強調する。しかし、 彼 を「そん な 人」 と思う 人間は誰 もいな いので ある 。 秀子夫人 は『句 文集 』 後記に、 た だ 次のように書くのみである。 病気の原 因が脳 腫であ ったかは よく 分 かりま せんが 、一時、 頸筋の 痛みを 訴え苦し ん だ 時 期に「オ レはも う 死ぬ 、お前に 静子( 赤ん坊 )はや るから 好 きなよ うに 生 きてくれ 」 と 叫 んだ事が あり 、 その時 は何と薄 情な事 をと情 なく腹 立たしく 思いま した 。 既に、死 へ の 予感がしていたのでしょう。 そうして、彼はこの後も体の不調を感じさせない、相変わらずの精力的な動きを見せる。 彼 の母親は 後に、 鳳作は 「あんな に 俳句 を考え たので 、神経が どうに かなり 、俳句の た め 死を早めた」と悔やむのであるが、正にそのような彼の生き様であった。 《引用終了》 以上の前 田氏 の 叙述は 、病名を 記され ていな いもの の 、鳳作 の病気 が脳梅 毒 であっ た と いうことを明確に示唆するものである。私はその真偽について判断をすることは出来ない。 前 田氏 の素 朴な疑 問は肯 んずるこ とが 出 来る( 故に私 も脳腫瘍 や髄膜 炎 など の 脳疾患 を 疑 っている ) 。それでも医学的な見地から見ると不審な点はある。上記の記載と鳳作の那覇で の 句から遡 って類 推して も 、若し も感染 源 がそ こ 記さ れて ある 通りで なると するなら ば 、 感染は大学卒業直後の昭和四(一九二九)年頃と考えられる(当時鳳作は満二十三歳)が、 亡 くなるの は 昭和 一一 ( 一九三六 )年で その 間 七年 し か経って いない 。一般 には成人 が 当 時 でも比較 的稀 な 脳梅毒 にまで 進 行する には 感 染後 十 年以上 が 罹る。 しかも 、鳳作の 父 政 治 は医師で あった (但し 、鳳作東 大在学 中 に中 風のた めに 廃業 して永 く療養 の身では あ っ た)。ともかくも私は、今現在、この記載には従えないのである。ただ一つだけ、その従え な い外的な 根拠と して ど うしても 述べて おきた いのは 、前田氏 が鳳作 の梅毒 罹患 の決 定 的 な 根拠とさ れてい る 「海 の旅―篠 原鳳作 遠景 」 という 作品の作 者であ る 岸本 マチ子な る 人 物 を、私は 残念な がら ― ―鳳作と は無関 係 な別 な理由 で――全 く信用 出来な いという 事 実 クィクィ通信」にある が あるから である 。ここ で およそ それに ついて 語る気 は毛頭な い。そ れでも 私の嫌悪 に 等 しい拒絶感に興味のあられる向きには、 「石川為丸のホームページ 「 岸本マチ 子の盗 作につ いて 」の 各種文 書 をお 読みに なること をお 薦 めする 。何とな く 書 振 りからも お 分か り戴け ると 思う が、前 田氏本 人 も、 どうもこ の 岸本 なる人 物に私同 様 、 ある種の胡散臭さを感じておられるように思われる。] 寂光土 わたの日を率てめぐりゐる花一つ わだの日を率てめぐりゐる花一つ 」と転倒 してしま 雞 」と転倒してしまうの 雞 」であるが 、PDF では 「 雞 向日葵の黄に堪へがたく鷄つるむ [やぶちゃん注:「鷄」は底本では「 うので、この字体とした。] 向日葵の黄に堪えがたく鷄つるむ [やぶちゃん注:「鷄」はママ(底本は新字)。 ] 草灼くるにほひみだして つ 雞るむ [やぶちゃん注:「鷄」は底本では「 雞 」であるが、PDFでは「 で、この字体とした。 ] 草灼くる匂みだして鷄つるむ [やぶちゃん注:「鷄」はママ(底本は新字)。 ] いちぢくの實にぞのぞかれ 雞 つるむ [やぶちゃん注:「鷄」は底本では「 雞 」であるが、PDFでは「 で、この字体とした。 ] いちぢくの實にぞのぞかれ鷄つるむ [やぶちゃん注:「鷄」はママ(底本は新字)。 ] 和田津海の邊に向日葵の黄を沸かし わだつみの邊に向日葵の黄ぞ沸かし 」と転倒してしまうの 雞 [やぶちゃん注:以上十句は九月の発表句で、それぞれ、前者が同月発行の『天の川』、後 者が同月発行の『傘火』の、 「寂光土」連作である。なお、底本の鳳作年譜の昭和十年の八 月の項に、『京阪神に遊び、神戸の榎島沙丘宅に一泊、「旗艦」同人らの歓迎句会が開かれ 喜多青子らと快談、「鶏つるむ」の連作五句を出句した』とある。] 燈臺守よ 大空の一角にして白き部屋よ 浪音にあらがふいのち鬚髯白く ひ げ 浪音にあらがふいのち鬚髯白く [ やぶちゃ ん 注: 前者が 十月発行 の『天 の川』 と『傘 火』発表 の、後 者が同 月発行 の 『 俳 句 研究 』発 表の句 形。最 初の「大 空の」 一句を 除く( これは 『 傘火』 と『俳 句研究 』 に 載 る が『天の 川』に は不載 )この連 作をこ れら 三 誌に発 表すると いうの は 特異 点 で、鳳 作 に してみれば相応の自信作であったものと思われる。 ] この椅子にぬくみ與へて老いにける 晝ふかき星も見ゆべし侘ぶるとき 晝ふかき星もみゆべし侘ぶるとき [ やぶちゃ ん 注: 前者が 十月発行 の『天 の川』 と『俳 句研究 』 発表の 、後者 が同月発 行 の 『傘火』発表の句形。 ] 浪音にまろねの魂を洗はるる [やぶちゃん注:ここまでが「燈臺守よ」連作。] 海鳥生る 海神のいつくしき邊に巣ごもりぬ イツク 海神の 嚴 しき邊に巣ごもれる [ やぶちゃ ん 注: 前者が 十月発行 の『傘 火』発 表の、 後者が同 月発行 の『俳 句研究 』 発 表 の句形。] 雛生れぬ眞日のにほひのかなしきに ア 雛生れぬ眞白のにほひのかなしきに [ やぶちゃ ん 注: 前者が 十月発行 の『傘 火』発 表の、 後者が同 月発行 の『俳 句研究 』 発 表 の 句である が 、こ の前句 の「眞日 」は単 純に「 眞白」 の『傘火 』の誤 植では あるまい か ? 暫く並置する。] 海光のつよきに觸れて雛鳴けり 雛の眼に夜は潮騷のひびきけむ 雛の眼に夜はしほざゐの響きけむ [ やぶちゃ ん 注: 前者が 十月発行 の『傘 火』発 表の、 後者が同 月発行 の『俳 句研究 』 発 表 の句形。] 雛の眼に海の碧さの映りゐる [やぶちゃん注:この句は『傘火』のみに載る。ここまでが「海鳥生る」の連作。 ] 月光 ひと 月光のすだくにまろき女のはだ セロ彈けば月の光のうづたかし 月光のうづくに堪へず魚はねぬ 時空 わ れ 月光のこの一點に小さき存在 つ き ひとひらの月光より小さき我と思ふ [やぶちゃん注:以上、二つの「月光」及び「時空」連作はキャプションに『現代俳句 3』 と ある (恐 らくは 鳳作没 後 の昭和 一五 ( 一九四 〇 )年 に河出書 房 から 刊行さ れた 「現 代 俳 句」第三巻)。前田霧人氏の「鳳作の季節」によれば 、この「時空」は、『デカルト 、パス カルなど初歩の哲学が加味され』たもので、『この「時空」は鳳作の生活俳句の対象が妻や 灯 台守 から 、遂に 自分自 身 に到達 した記 念すべ き 作品 であり 、 まだ甘 くはあ るが 、そ の 後 れ の「自嘲」、「ラツシユアワー 」などの 先駆をなすものである』とまさに鳳作の特異点 の句 わ として高く評価されておられ、共感出来る。「存在」の用字はまさに この一句でのみ光る。 ここまで の 二十 句 は昭 和一〇 ( 一九三 五 )年 十月発 表及 び創 作(と 判断さ れたもの と 思 われる)句である。] 一掬のこの月光の石となれ つ き 瞑れば我が黑髮も月光となる 「考ふる葦」のうつしみ月光にあり (注) 「人間ハ考ヘル葦デアル」パスカル 天に噴くもの 噴煙の吹きもたふれず鷹澄める 噴煙のいざよふ如き日のあはれ 噴煙を知らねば海豚群れ遊ぶ 噴煙の夜はあかければ鳴く千鳥 行く秋の噴煙そらにほしいまま [やぶちゃん注:この句、一読、杉田久女の昭和六(一九三一)年の名句、 谺して山ほととぎすほしいまゝ を 想起する が 、久 女のよ うな 深い パース ペクテ ィヴが なく 、ワ イドな 画面乍 ら、絵葉 書 の ような平板さを免れていない。 ここまでの八句、十一月に発表句及び創作句と考えられるもの。] 自嘲 よきひげもチョークまみれのピエロ我 晴れし日も四角な部屋にピエロ我 口笛を吹くも叱りてピエロ我 口笛を吹くもしかりてピエロ我 [やぶちゃん注:前者は十二月発行の『天の川』の、後者は同月発行 の『傘火』の句形。] いかりては舌のかはきつピエロ我 採點簿いつも放たずピエロ我 [やぶちゃん注:『傘火』『天の川』に載る連作「自嘲」であるが、最初の「よきひげも」 の句は『傘火』のみに所載する。ここまでの六句は十二月の発表句。 … …鳳作の 「ピエ ロ 我」 句群はか つて 教 師をし ていた 私には、 殊の外 痛感出 来 るもの で あ る 。教師と いう 存 在は所 詮――生 徒とい う 観客 に見ら れる 動物 園 の檻 の中の 獣に過ぎ ず 、 教 壇という 安舞台 上 のチ ョークま みれの しがな いピエ ロでしか ない ― ―いや 、それで こ そ 教師ではないか?――などと昔から私はそう思い続けていたのである……] 昭和一一(一九三六)年 口笛を吹かず そ 月光の衣どほりゆけば胎動を 泣きぼくろしるけく妻よみごもりぬ みごもりし瞳のぬくみ我をはなたず メ みごもりし瞳のぬくみ我をはなたづ [ やぶちゃ ん 注: 前者は 一月発行 の『天 の川』 の、後 者は同月 発行 の 『傘火 』の句形 。 一 読、前者は「ひとみのぬくみ」と読んでしまうが、 「め」で恐るべき破調であることが分か る。] 爪紅のうすれゆきつつみごもりぬ 爪紅のうすれそめつつみごもりぬ [ やぶちゃ ん 注: 前者は 一月発行 の『天 の川』 の、後 者は同月 発行 の 『傘火 』の句形 。 私 は 後者のス ラーの 韻律を 好む。以 上、連 作「口 笛吹 か ず」であ るが 、 冒頭の 「月光の 」 の 句は『天の川』のみに所載する句である。] メ おさなけく母となりゆく瞳のくもり [やぶちゃん注:同月発行 の『傘火』にのみ載る。連作「口笛吹かず」の一つか。『傘火』 にのみ 載る。 ] 行幸 生れくる子にも拜しむねぎまつる 昭 和天皇 行幸 の 写真集 」によっ て 昭和 天皇 が 昭和一〇 ( 一 [やぶちゃん注:ネット検索の結果、 「鹿児島大学理学部同窓会のホームページ」内にある 「 西川孝雄 さんの アルバ ム 集 九 三五 )年 十一月 十七日 に第七高 等学校 造士館 (現在 の鹿児島 大学 ) を訪問 している こ と が分かった。 父八十二歳にて長逝す 以上、八句は鳳作没年である昭和一一(一九三六)年一月の発表句である。] 老父昇天 タ 一握り雪をとりこよ食ぶと云ふ ワカ 稚き日の雪の降れれば雪を食べ 神去りしまなぶたいまだやはらかに ぞら 雪天にくろき柩とその子われ 黑髮も雪になびけてわれ泣かず 黑髮も雪になびけて吾泣かず [やぶちゃん注:前者は四月発行の『天の川』の、後者は同四月発行 の『傘火』の句形。] 吹雪く夜をこれよりひとり聽きまさむ [やぶちゃん注:これらの 連作は四月発行 の『天の川』(最後の「吹雪く夜を」は載らず、 全五句)及び『傘火』(最初の二句は載らず、全部で四句)のものであるが、ここに配すこ と とする 。 鳳作の 父政治 (医師で 熱心な キリス ト 教徒 でもあっ た 。但 し、鳳 作東大在 学 中 に 中風のた めに 廃 業して 永く療養 の身で あった )は、 この昭和 十一 ( 一九三 六 )年一 月 に 八十三歳で亡くなっているからである。 ] 喜多靑子を憶ふ 三角のグラスに靑子海を想ふ 咳き入ると見えしが靑子詩を得たり 耳たぶの血色ぞすきて瞑想す メ 咳き入りて咳き入りて瞳のうつくしき その手 氷雨よりさみしき音の血がかよふ 靑子長逝 から 半生をささへきし手の爪冷えぬ かさ 詩に痩せて量もなかりし白き骸 [やぶちゃん注: 「痩」は「 瘦 」としたかったが、PDFでは何故かここだけでご覧の通り、 転倒してしまうので、新字体とした。 私の偏愛 する鳳 作の喜 多靑子追 悼 の哀 傷の絶 唱句群 である 。 八句総 てが載 るのは 二 月 発 行の『傘火』で、同月の『天の川』には最初の二句と「氷雨より」 「半生を」 「詩に痩せて」 の計五句を載せる。 「喜多靑子 」 (きたせいし 明治四二(一九〇九)年~昭和一〇(一九三五)年十月)は本 名 喜多喜一 。神戸 生 。新 興俳句 の 鳳作の 盟友で あった 。私が偏 愛する 俳人で あるが 、 彼 に 俳人フ ァイル ⅩⅩ Ⅵ ついて記載するものは少なく、知る限りでは「―俳句空間―豈 weekly 」の冨田拓也氏の書 喜多 青子 」 が纏ま った 唯一 の も か れた 「俳 句九十 九折 ( 34) のである。されば同記載等を参考にして以下に事蹟を示す。 大正一四 、一五 (一九 二九 /一 九三〇 )年頃 より句 作を初め 、昭和 三(一 九二八 ) 年 頃 か ら本格的 に俳句 に取り 組むよう になる 。昭和 八(一 九三三 ) 年刊の 『ひよ どり 』な ど 、 さ まざまな 俳誌を 創刊、 昭和一〇 (一九 三五 ) 年には 自身の俳 誌『ひ よどり 』が同誌 に 合 併 する形で 日野草 城 の『 旗艦』創 刊に参 加した が 、同 年十一月 に満二 十六歳 で結核に よ り 夭 折した。 昭和一 一(一 九三六 ) 年に遺 稿句集 「噴水 」が出版 されて いる ( 序文・日 野 草 城 、収録作 は昭和 七(一 九三二 ) 年頃か ら没す る昭和 一〇(一 九三五 )年ま での 二百 二 十 五句。永年私は古本で探し続けたが見つからなかった。冨田氏によれば平成元(一九八九) 年に同句集が復刻されているらしいが、如何にも悔しいことに私は所持していない)。 冨田氏の記事(Q&A形式)には、 『もし生きながらえていれば、それこそ高屋窓秋、篠 原 鳳作 、富 澤赤黄 男 、渡 辺白泉 、 西東三 鬼 に次 ぐよう な 作者に なって いた 可 能性 もあ っ た のではないかと思わせるところが確かにあ』ると述べておられ(私も激しく同感する)、 『篠 原 鳳作 とは 、青子 は一度 神戸 で会 ってい て 、そ の後は 葉書でお 互いの 作品を 批評し合 う 仲 であった』というとある。この後半部分は本底本の鳳作年譜の昭和十年の八月の項に、『京 阪神に遊び、神戸の榎島沙丘宅に一泊、「旗艦」同人らの歓迎句会が開かれ喜多青子らと快 談、「鶏つるむ」の連作五句を出句した』とあるのを指すものと思われる。 以下、冨田氏の選句されたものから青子の句を幾つか引いておく(恣意的に正字化した)。 さんらんと陽は秋風を磨くかな 昭和七(一九三二)年の作。他に同時期の作として掲げられている句に、 吹かれ來て草に沈みぬ秋の蝶 春愁のふと聽き入りし歌時計 タイプ打つ七階の窓秋日和 ジャズいよよはなやかにして年は行く がある。次に昭和八年の句として、 噴水の夜目にもしるき穗となんぬ 噴水の水な底にある魚の國 灰皿に噛み捨つるガム夏を病む [やぶちゃん注:「噛」は「 」 嚙としたかったが、PDFファイルではご覧の通 り、転倒してしまうので新字体とした。] 汽車の噴く入庫のけむり鷄頭に 長き夜のシネマの闇に君とゐる ラグビーの脚が大きく驅けりくる などが引かれ、昭和九年になると、 鞦韆のつかれ來し眼に虚空あり [やぶちゃん注:「虚」は「 虛 」としたかったが、PDFファイルではご覧の通り、転倒し てしまうので新字体とした。] きざはしのしづかなるときかぎろへる 星涼し鐡骨くらく夜を聳ちぬ 地下歩廊出でて夏樹のみどり濃き 秋寒し隊道とはの闇を垂れ 『などといったやや重い印象の作品がいくつか見られるようになって』 (冨田氏)くるとあ る 。既に結 核の症 状が出 ていた で あろう ことと 、軍靴 の音の忍 び寄り をも 伝 える感じ が す る。 秋炎の空が蒼くて塔ありぬ は私の偏愛する句である。以下、昭和十年の句。 枯芝とナチスの旗といまは暮れ 群衆のなだれに在りて憂き春ぞ 瞑ればこがらし窓に鋭かり おぼろ夜の街へ空氣のごとく出る 春愁のわれ海底の魚とねむる 同十年の「夢の彩色」連作名吟、 夢の彩色 夢靑し蝶肋間にひそみゐき 夢靑し肋骨に蝶ひらひらす 脳髄に驟雨ひゞける銀の夢 叡智の書漂泊の夢にくづれくる 天才の漂泊の夢書を焚けり 書肆に繰る文藝の書の白き夏 最後に晩年の一句と私の偏愛する二句を示す。 蝶のごとく瞼の奥を墜つる葉よ 陰多き螺旋階段春深し 砂日傘夜は夜でギターなど彈ける 6 パロ ディー の 世紀」 で 齋 因みに私は彼の先に掲げた慄っとするほどに素敵な幻想吟である、「夢靑し蝶肋間にひそ 藪野唯至 みゐき」を確信犯でインスパイアした、 夢白し蝶肋間に蛹化せり を かつて 創 ってい る (雄 山閣出版 一九九 七年刊 「俳句 世界 藤愼爾選から特選を頂戴している。拙句集「鬼火」を参照されたい)。 なお、鳳 作の最 初の句 にある 「 三角の グラス 」は三 角フラス コで 、 結核性 胸膜炎 で 出 潤 す る胸水を 採るた めのも のと 思わ れる ( 前田霧 人氏 の 「鳳作の 季節」 では靑 子の死因 を 肋 膜炎としておられ、また、『かつて「夢青し」と詠んだ青子は神戸に生まれ育ち、今は明石 海 峡大橋 が 架かる 美しい 舞子の海 を見な がら 逝 った。 鳳作の句 には、 青子と 青い海の 記 憶 を 共有する 彼の気 持ちが 良く表現 されて いる 』 と述べ ておられ 、彼が 亡くな ったのが 兵 庫 県神戸市垂水区の舞子であったことが分かった)。] 映画『家なき兒』 靑麥の穗はかぎろへど母いづこ 陽炎にははのまなざしあるごとし 碧空冬木しはぶくこともせず メ 飢えし瞳に雪の白さがふりやまぬ と 母求めぬ雪のひかりにめしひつつ [やぶちゃん注:以上五句、二月発行の『傘火』の「映画『家なき兒』 」連作(と思われる)。 フランスの作家エクトール・アンリ・マロー( Hector Henri Malot一八三〇年~一九〇 七年)が一八七八年に発表した児童文学「家なき子」 (フランス語原題“ Sans famille ”)は 複 数の映画 化作品 がある が 、時代 的 に考 えて一 九三四 年 フラン ス 製作 で昭和 一〇 (一 九 三 )が当たり、監督は「はだかの女 André Mouëzy-Éon 五 )年に本 邦でラ テン 映 画社 から 配給上 映 され た 四作 目 の映画 化作品 と思わ れる 。脚 色 に 劇作家アンドレ・ムエジー・エオン( 王」「ファニイ」のマルク・アレグレ( Marc Allégret )、主役をルナール原作の名作「にん じん」 (名匠ジュリアン・デュヴィヴィエ( Julien Duvivier )監督の一九三二年作品)で美 事な「にんじん」役を演じた名子役ロベール・リナン( Robert Lynen )少年が演じ、他に 「狼の奇蹟」に出たフランスの著名なバス歌手ヴァンニ・マルクー( Vanni Marcoux )、 「ド )が共演した他、 「母の手」の子役ポ Dorville ン・キホーテ」 (一九三三年)のドルヴィル( ーレット・エランベール( Paulette Élambert )や、ジョアンナ・ベランジェール( Jeanne )、エーメ・クラリオン( Aimé Clariond )、ジョルジュ・ヴィトラフ( Georges Vitray ) Bérangère らが出演した。撮影はジャン・バシュレ( Jean Bachelet )及びクロード・ルノアール( Claude )の共同担当で(ルノアールの撮影共同担当 は以下の「映画 .com 」のデータによる Renoir もの)、音楽はモーリス・イヴェン( Maurice Yvain )であった。以上は「映画 .com 」内の こちらのデータやフランス語版ウィキの“ Sans famille (film, 1934) ”などを参考にした)。] 罪業を血のうつくしさ炭火に垂らす (自己加虐) ふつふつと血を吸ふ炭火さはやかに 自畫像の靑きいびつの夜ぞ更けぬ [ やぶちゃ ん 注: 以上の 三句はキ ャプシ ョンに 『現代 俳句集 』 とある 。恐ら く、底本 年 譜 に 載る昭和 三二 ( 一九五 七 )年筑 摩書房 刊 の「 現代日 本文学全 集 」第 九十一 巻 「現代 俳 句 集」の横山白虹編になるものを指すかと思われる。 以上、十五句は二月の発表句及び創作句として配されてある。 ] ラツシユアワー き り 夕刊の鈴より都霧のわくごとき [やぶちゃん注: 「都霧」の二字に「きり」のルビを振った、所謂、一時期流行ったマルチ・ キャメラのような多重性を持たせたルビ俳句である。] 吊革にさがれば父のなきのれ ほしいままおのれをなげく時もなく と き 「疲れたり故に我在り」と思ふ瞬間 我も亦ラツシユアワーのうたかたか 父八 十二歳 にて長逝 す 」 [やぶちゃん注:以上、「ラツシユアワー」連作五句は四月発行の『傘火』に載るもの(四 月 の発表句 は、先 に掲げ た『天の 川』に 載った 連作「 老父昇天 の五句とこれらを合わせ、計十句である)。前田霧人氏の「鳳作の季節」によれば、渡辺白 泉は「猟人手帖」(『句と評論』昭和一一 (一九三六)年五月号 )で、『「鳳作の芸が真摯に もここまでやって 来たことを私は祝いたい 。」と称賛する。その一方で、「全体に見られる 微 弱なる構 成意識 を嫌う と共に、 345 をまで 言いた かった 作 者の甘 さが食 い足りな い 」 と、的確かつ厳しい評価を付加する』(「345」とは三句目・四句目・五句目の謂いであ ろう)とある。白泉の評及び霧人氏の言葉、孰れにも私も同感である。 なお、この後、五月と六月のパートは底本句集には存在しない。底本年譜には、 『五月 こ の 頃から時 々首筋 の痛み を訴え鹿 児島県 姶良郡 の妙見 温泉 で治 療した が 快方 をせず 発 作 的 に 嘔吐を催 すよう にな っ た』とあ り 、六 月の事 蹟を載 せず、次 が七月 の欄と なって 『 天 の 川三元集に「赤ん坊」 [やぶちゃん注:後掲する連作句。]の作品載る』とある。 「妙見温泉」 は 鹿児島県 霧島市 隼人町 及 び牧園 町 (旧 大隅国 )にあ り 、新川 渓谷温 泉郷 の 中では最 も 大 き な温泉。 泉質は ナトリ ウム・カ ルシウ ム・マ グネシ ウム ―炭 酸水素 塩温泉 (低張性 中 性 高 温泉 )で ある 。 適応症 ・禁忌症 一覧 は 「妙見 温泉振 興会 」に よる 妙 見温泉 公式 サイ ト の こちらを参照されたい(但し、特に適応症・禁忌症に特異点のある温泉ではない) 。] 壁 我が机ひかり憂ふる壁のもと すがめ 夜となれば神祕の 眇 灯る壁 くしけづる君がなげきのこもる壁 幽き壁夜々のまぼろし刻むべく 古き代の呪文の釘のきしむ壁 [ やぶちゃ ん 注: 最後の 一句を除 いた三 句が七 月発行 の『天の 川』に 載った 「壁」連 作 。 最 後の「古 き代の 」は鳳 作没後 の 翌昭和 十二年 九月発 行 の『セ ルパン 』に朝 倉南男編 「 篠 原 鳳作俳句 抄 」と して 載 ったもの の 一句 である が 、確 かに連作 「壁」 の一句 と見られ る 。 実 は最後の 「古き 代の」 句は底本 では「 くしけ づる 」 の句の後 に挿入 されて いる 。こ れ は 「 くしけず る 」の 句の別 稿と編者 が採っ たため かとも 推測され るが 、 その配 置は私は と る べきではないと考える。何故なら、それによって「幽き壁」(老婆心乍ら「幽き」は「くら き 」と読む )の句 が「壁 」の連作 でない ように 読めて しまうか らであ る (そ れとも 事 実 、 これは「壁」の連作ではないのでろうか?)。 鳳作の作 品の中 でも超 弩級 に難 解な( と私は 感ずる )句群で ある 。 前田氏 は前に引 用 し た ように 、 ここに は 鳳作 が罹患し た致命 的 な病 魔に関 わる(そ れを 前 田氏 は 明言を避 け な がらも脳梅毒ととっておられるように読める) 『異様な雰囲気』を読み取っておられる(前 田霧人氏の「鳳作の季節」二九三頁) 。私はその解釈に対しては今のところ否定も肯定も出 来ない。ただ、確かにこれらの――「壁」――「憂ふる壁」「神祕の眇」――そして「くし け づる 君」 その「 君のな げき 」そ れが 「 こもる 壁」― ―「古き 代の」 ドルイ ド 僧の低 く 呟 く ような 「 呪文」 の響き ――その 「呪文 の釘」 のアッ プ ――そ の呪い の釘が 打ち込ま れ た 「壁」が生き物のように「きし」んで音をたてる――といったシチュエーションすべてが、 あ る種の非 常に不 吉な『 異様な雰 囲気 』 を醸し 出して いて、目 を離す ことが 出来ない も の である、ということは間違いない私にとっての事実ではある――] 赤ん坊 Ⅰ にぎりしめにぎりしめし掌に何もなき テ 睡りゐるその掌のちささ吾がめづる 赤ん坊を泣かしておくべく靑きたたみ あざみ 泣きじやくる赤ん坊 薊 の花になれ アウラ (移轉) 赤ん坊の 蹠 まつかに泣きじやくる 赤ん坊 Ⅱ 太陽に襁褓かかげて我が家とす 6 パロ ディー の 世紀 」に於い て 齋 [やぶちゃん注:病中にあってしかし我が子の「生」に健康な精神を取り戻し得た鳳作の、 「赤ん坊」句群中の白眉である。 因みに、私はかつてこの句をインスパイアして、 太陽に襁褓翩飜建國記 と やらかし た (雄 山閣出 版一九九 七年刊 「俳句 世界 マ 藤愼爾選で佳作を頂戴した。私の句集「鬼火」もよろしければ御笑覧あれ)。] フ 赤ん坊を移しては掃く風の二タ間 指しやぶる音すきずきと白き蚊帳 スズ 目覺さめては涼風をける足まろし 太陽と赤ん坊のものひらりひらり [やぶちゃん注:底本では「赤ん坊 Ⅱ」はただ「Ⅱ」であるが、補った。 ここまでの「赤ん坊」連作Ⅰ・Ⅱ合わせて十句は七月発行の『天の川』の句で、先の「壁」 連作五句を合わせ、全十五句が七月の発表句及びその別稿と思われるものである。 ] 赤ん坊 Ⅲ 赤ん坊にゴム靴にほふ父歸宅 かはほりは月夜の襁褓嗅ぎました Ⅲ 」はた だ 「Ⅲ 」である が 、発 表誌 の 号が異な る た みどり子のにほひ月よりふと白し [ やぶちゃ ん 注: 底本で は「赤ん 坊 め (この「 Ⅲ」は 八月発 行 の『天 の川』 で、前 書がた だ 「Ⅲ」 だった とはど うしても 思 わ れないという理由もある)、 「赤ん坊」を補った。前田霧人氏の「鳳作の季節」によれば、 『七 月、「天の川」の「三元集」第一回作品に、鳳作の連作「赤ん坊」のⅠ、Ⅱ、Ⅲ、計十三句 天の 川三元集 に「赤 ん坊」 の作品載 る 』 が 一挙掲載 される 。末尾 には「六 月十四 日 」と 、丁度 宇月 が鳳 作の自 宅を訪 ねた時の 日 付 が 記されて いる 』 とある 。底本年 譜 にも 『七月 と あるので あるが 、だと すると 、 この「 Ⅲ」パ ートの 初出表示 は八月 発行 の 『天の川 』 と す べきでは なく 、 七月発 行 の『天 の川』 の中の 第一回 作品 集「 三元集 」とす べきであ る と 思う。少なくとも「Ⅰ」「Ⅱ」が七月で「Ⅲ」が八月というような見かけ上の分断がそれで 避 けられた はずで ある と 思うから である 。従っ て、こ の三句の みが 八 月の雑 誌発表句 で あ よ うに 見え るが 、 事実は そうでは なく 、 現在、 同年八 月 の新規 の発表 句 は存 在しない と い うことになる。 なお、前 田霧人 氏 の「 鳳作の季 節」に よれば 、この 「赤ん坊 」連作 に対し ては 、前 『 年 十 二月に辛 口の「 篠原鳳 作論 」を 書き、 その後 も厳し い批評を 続けた 白泉が この 連作 を 激 賞している』として以下に渡辺白泉の二本の評を引用されている。孫引きさせて戴く。 《引用開始》 僕は鳳作 のこの ふかい 滋味を羨 望して やまな い 。僕 が鳳作論 を書い てから まだ 一年 に は 大 分間 があ るのに 、鳳作 の体貌は 一変し てしま った 。 ここには 大人に なり 切 った鳳作 の 、 さ らりとし た 素顔 がある 。しかも その 素 顔のう らにか くされた 美への 憧憬、 詩へのひ た む きな態度は、 「高翔する詩魂」時代よりは一層熱切であり、一層聡明であり、きれいにアク を落していることを感じて、僕はもはや羨望にいたたまれないのである。 (「猟人手帖」「句 と評論」昭和十一年八月号) 赤ん坊の きわま りなく 純白な心 と、ぐ んぐん と 展開 してゆく 強い生 命とを 見つめた 鳳 作 せま の心からは、すべての陋い囚われた雑念が飛散してしまったのに違いない。 「甘さ」とか「達 者 さ」とか いうも のは 何 処の空中 へ消え て行っ てしま ったので あろう か 。こ れら 各句 の 表 現 を見よ。 赤ん坊 の手足 のごとく 、彼等 は自由 に伸び 伸びと生 きて動 いてい る 。天衣 無 縫 と はまさし く 之で ある 。 注意すべ きは 、 この明 るさは 鳳作が「 海の旅 」時代 、いやそ れ よ りももっと前、彼がこの世に生を享けた時から本源的に有していた南国人の明るさであり、 そ れがこの 「赤ん 坊」に ぶちあた って 一 気に内 外の塵 あくたを 押流し て流露 したもの だ と いうことである。(「十一年の鳳作」「帆」昭和十二年一月号) 《引用終了》 さ らに 前田 氏 は妻 秀子 さ んの 記し た印象 的 な思 い出を も引用さ れてい る 。私 はこの 引 用 元 である「篠原鳳作句文集」(前原東作監修昭和四六(一九七一)年九月形象社刊)を所持し ていないので、これも孫引きさせて戴く。 《引用開始》 赤ん坊が 生れた 時、勤 めの帰り にちょ こちょ こ 里に 立ち寄っ て、未 だ日も 経たない 赤 ん 坊 をそおっ と 膝の 上にの せては 物 珍しそ うに 見 つめ、 時に夢う つつに 目を閉 じて口許 だ け を動かして笑うような表情をしますと「笑れやった。笑れやった(お笑いになった)」と敬 語 を使い、 まだ自 分の子 としての 実感が わかな かった 様です。 その赤 ん坊へ の愛撫振 り は よ く句に出 てます が 、柔 らかい 小 さな手 に触れ ながら 生命の誕 生の神 秘さに 打たれて お り ました 。 《引用終了》 なお、前田氏はこの後で、鳳作が前年の昭和一〇(一九三五)年十月に入会した『山茶花』 の 五・六月 『山茶 花 』合 評会 の席 上、自 作「赤 ん坊を 泣かしを くべく 靑きた たみ 」と 「 に Ⅰ 」は七 月では なく 、 五月か六 月の『 山茶花 』には既 に 発 ぎ りしめに ぎりし めし 掌 に何もな き 」の 二句を 例に挙 げて(と いうこ とは 実 は少なく と も こ の二句が 含まれ る 「赤 ん坊 表 されてい たこと が分か り、そう すると 実は「 赤ん坊 」句群は 「壁」 よりも 前の作品 で あ る可能性も否定出来なくなる) 、 《引用開始》 前者は感 覚的 で あり 、 後者は感 覚的 で はない が 具象 的 である と 思う 。感覚 化 は具象 化 の 一面であるが具象化には感覚化以外の面がある。 近代芸術 すべての特長が感覚の新しいと 云う所にあるのではないですか。(「山茶花座談 会」「山茶花」昭和十一年七月号) 《引用終了》 と 述べてお り 、前 田氏 は 『ここに は 、感 覚を大 事にし て 、しか もそれ に 溺れ ない 今の 鳳 作 の 純真な姿 がある 』と評 されてお られる (この 座談会 の内容は 前田氏 のそれ でないと 容 易 には読むことが出来ないものである) 。以下、更にこの「感覚」と「新しさ」の問題につい て 語られて あるの だが 、 少々孫引 きが多 くなっ て 申し 訳ないこ ともあ り 、そ れらはま た 前 田霧人氏の「鳳作の季節」の当該箇所(三〇三頁以下)をお読み戴きたい。] 赤ん坊 指しやぶる瞳のしづけさに蚊帳垂るる 吾子たのし涼風をけり母をけり 涼風のまろぶによろしつぶら吾が子 さが 涙せで泣きじやくる子は誰の性 巻九十一 Ⅳ」 現代俳句集」 (昭和四二(一九六七) [ やぶちゃ ん 注: ここま で の四句 が九月 発行 の 『傘火 』に所載 する連 作「赤 ん坊」で あ る と思われる。筑摩書房「現代日本文学全集 年刊)の「篠原鳳作集」では(リンク先は私の電子テクスト )、この連作を「赤ん坊 としているが、これは同編者による勝手な操作であることが分かる。] 蟻よバラを登りつめても陽が遠い [ やぶちゃ ん 注: ここま での 「赤 ん坊」 四句を 含む五 句は九月 発行 の 『傘火 』に掲載 さ れ た。 鳳作は鹿 児島市 加治町 の自宅で この 昭 和一一 (一九 三六 )年 九月十 七日 の 午前六時 五 十 五分、『心臓麻痺で逝去』(参照した底本年譜の記載)した。] 病中 天地にす枯れ葵と我瘦せぬ 夏瘦せの胸のほくろとまろねする [ やぶちゃ ん 注: 以上二 句 は鳳作 没後 の 昭和一 五(一 九四〇 ) 年に河 出書房 から刊行 さ れ た 「現代俳 句 」第 三巻 ( と思われ る もの )から 、底本 「篠原鳳 作全句 文集 」 俳句本編 掉 尾 に 配されて ある 。 この最 後の「夏 瘦せの 」の句 は、し ばしば 鳳 作の辞 世の句 であるか の よ う に紹介さ れる よ うだが 、私は実 はあま りそう 感じて いない 。 寧ろ、 辞世と するなら 、 先 の、 蟻よバラを登りつめても陽が遠い を採りたく思う。] 篠原鳳作初期作品 (昭和五(一九三〇)年~昭和六(一九三一)年) ハタハタの影して黍にとまりけり [やぶちゃん注:「ハタハタ」バッタ。既注。] 屋根替や加勢に見えし舟子共 千鳥釣る糸を伏せゆく渚かな [ や ぶ ち ゃ ん 注 :「 千 鳥 釣 る 」 以 外 で あ ろ う が 、 鳥 の チ ド リ 目 チ ド リ 亜 目 チ ド リ 科 の千鳥の類は古くから肉が食用とされてきた。] Charadriidae 炎天は川涸れはてし蘇鐡木 墓參や昔ながらの小せせらぎ せせらぎを飛びつ渉りつ墓參かな 霧くればとざす扉やキャンプ村 故里はせせらぎ多き墓參かな 屋根替の加勢の中の器量よし 頭の上にいただく籠のバナナ哉 縁側に西瓜おろして買へと云ふ [やぶちゃん注:「縁」は「 緣 」としたかったが、PDFではご覧の通り、転倒してしまう ので新字体とした。] 日傘さしてはだしの島女 [やぶちゃん注:これは新傾向か自由律か。「日傘さしてはだしの島の女」として尾崎放哉 の句の中に忍ばせたら、誰もが放哉の新発見句だと思うこと、これ、間違いない。 ] ラ バ 熔岩の月やうやく高きキャンプ哉 熔岩に陽をしづめたるキャンプ哉 Musa basjoo [やぶちゃん注:この「熔岩」は前句のように「ラバ」ではなく、「ようがん」と普通に読 んでいる。] 小春日の玉を解きたる芭蕉哉 [やぶちゃん注:単子葉植物綱ショウガ亜綱ショウガ目バショウ科バショウ の花序は夏から秋にかけて出来る。] 山川に飯盒浸けあるキャンプ哉 天の川の下に張りたるキャンプ哉 [ やぶちゃ ん 注: 本初期 作品 の上 限は昭 和五 ( 一九三 〇 )年で 、当時 、鳳作 は二十四 歳 で あ った 。既 注済 み である が 、鳳作 はこの 前年の 四月に 帝大を卒 業して 鹿児島 に戻って い る が 、この時 期は職 に就い ておらず (これ は 当時 発生 し ていた 極 端な就 職難 と いう 外因 に よ るものと思われる)、年譜上からは俳句へと急速に傾倒していった時代と読み取れる。 以下は私の極めて個人的な記載である。 私は高校 二年 の 夏、友 人ととも に 大学 生 と偽 って土 方のアル バイト を 数週 間 やり、 そ の 稼 いだ金で 二人し てテン トを 買い 、能登 半島 を 一周し た。その 時、最 初に泊 まったの が 七 月 下旬 の能 登金剛 の浜だ った が、 そこで 私は満 天を埋 める星空 、そし て 天の 川の下の ― ― 星 が降る― ―とい う 実感 を生涯で 初めて 体験し た。… …私はこ の 句を 詠みな がら 、そ ん な 四十年以上前の十六の遠い昔を思い出していた。……] 滝壺にかよふ徑あるキャンプ哉 向日葵の花の首振るはやて哉 山川の瀨に手を洗ふ墓參かな ガチヤガチヤの今宵も同じ藪穗哉 ウミ 雲の峰洋一ぱいに映りけり 屋根替の人あらはれし藪穗かな 屋根替や加勢に見えし蜑の衆 掃苔の徑つくろひもしたりけり ほとりなる主もなき墓も拂ひにけり 秋風や鍾乳洞の晝ともし 鍾乳石垂れ下りゐる淸水かな 芭蕉林筧あらはに枯れにけり いつしかに芭蕉も昏れし端居哉 芭蕉葉につきあたりたる夜道かな 二階にはをられずなりし颱風哉 我よりも低くなりたる枯芭蕉 霜圍ひされし芭蕉と日向ぼこ 暮雨の中走り歩ける百姓哉 ハタハタの一足毎にとびにけり みごとなる虹の暈あり今日の月 夜々の月筧の音のさえまさり よごれたる灯明皿や滝の神 蝋涙によごれをはしぬ滝の神 [やぶちゃん注:「蝋」は底本では「 蠟 」であるが、PDFではご覧の通り、転倒してしま うので新字体とした。 「蝋涙」は「らふるい(ろうるい) 」と読み、灯した蝋燭から溶けて流れた蝋を涙にたと えていう 語。 ] 月のはや波もたてずに獨木舟 佇ちつくし月夜の虹を仰ぎけり 海坂や映りそろひし雲の峰 [やぶちゃん注:老婆心乍ら「海坂」は「うなさか」で「海境」 「海界」とも書き、海の水 平 線を指す 。古く 、舟が 水平線 の 彼方に 見えな くなっ てしまう のは 、 海に他 界へと通 ず る 境 界、黄泉 の国と の境に 当たる黄 泉比良 坂 と同 じよう なものが あると 考えた からとさ れ 、 神話に於ける異界としての海神の国と人の世界との境を意味した古語である。] しとしととお芋こやしの秋の雨 首里城に桑の實盗りの童あり 木の上にののしる童等や桑うるる [やぶちゃん注:「童等」は「こら」と訓じているか。] 桑うるる高枝に鷄ののぼりをり 浦風に吹きまくらるる蚊帳かな 拾ひたる秋の燕の幼けき 拾ひたる秋の燕のぬくみ哉 アラシ 浦人に颱風の燕ひろはれぬ 日覆の中をあちこち散歩哉 そのかみの日時計臺や花杏子 [ やぶちゃ ん 注: 単なる 直感に過 ぎない が 、こ れは 現 在、鹿児 島 の繁 華街 と して 知ら れ る 天 文館 の由 来とな った 薩 摩藩 第二 十五代 藩主 島 津重豪 が天体観 測 や暦 の研究 施設 とし て 建 設 された 明 時館 ( 天文館 は別名) にあっ た 、薩 摩藩 だ けが 独自 に編暦 してい た 薩摩暦 に よ る日時計の台跡ではあるまいか(但し、明時館は明治の初期には廃亡していたという)。] 雲の峰たちて大わだ凪ぎにけり 颱風に戸をうばはれし二階かな 蟻の道たたみのへりをへりをくる [やぶちゃん注:下五の「へりを」は中七の「へりを」(縁を)の文字通り、畳みかけであ る。] 秋燕に倒れし家のつづきけり [やぶちゃん注:個人的に好きな句である。] 蘇鐡林汐枯れしたる颱風かな 島萩の花もつけしきなかりけり 雲の峰生ひならびぬ地平線 [やぶちゃん注:老婆心乍 ら、「生ひならびぬ」は「うまひならびぬ 」と読む。「生まふ」 は動詞「うむ」の未然形に反復・継続の上代の助動詞「ふ」が附いたもので、産みふやす・ どんどん産むの意の古語である。] 榕樹の根を吹きあらぶ野分かな [やぶちゃん注:「榕樹」は「がじゆまる(がじゅまる)」と訓じていよう。] 蟻の道くる出だしくる迅さ哉 甲板をあるきて春を惜しみけり 雪の峰大海原に映りけり 颱風に折れ伏す甘蔗となりにけり ク リ ギ 柵經の僧をのせたる獨木舟かな [やぶちゃん注:「柵經」不詳。これは 棚経(たなぎやう(たなぎょう))の誤りで、盂蘭 盆会の際に僧侶が精霊棚の前で読経することではあるまいか?] 犬つれて岬の春を惜しみけり 松風の絶えてはさびし月照忌 [やぶちゃん注:「月照忌」既注。] 流灯の橋をくぐりてゆきにけり 蘇鐡の葉しいてありたる上簇哉 [やぶちゃん注:「上簇」は「じゃうぞく(じょうぞく)」と読み、成熟した蚕を繭を作ら まぶし せるために 蔟(蚕簿。蚕が繭を作る際の足場にするもので、ボール紙などを井桁(いげた) に組んで区画したものが用いられ、一区画に一つの繭を作らせる。ぞく。)に移し入れるこ とをいう。あがり。上蔟。夏の季語。] 提灯につりし小石や川施餓鬼 [やぶちゃん注:「川施餓鬼」「かはせがき(かわせがき」は川で亡くなった人の霊を弔う Pinus た めに 川辺 又 は船 中で行 う仏事。 死者の 名を記 した塔 婆や紙片 を川に 流した りする 。 秋 の 季語。] 玲瓏と灯る小家や魂祭 蘆の艪をつけてありけり精靈船 [やぶちゃん注:「蘆」は底本では「芦」。] 霧の中眞赤な幹が並びけり [ や ぶち ゃん 注 :裸 子植 物( 球 果植 物) 門マ ツ綱 マ ツ目 マツ 科 マツ 属ア カマ ツ densifloraか。] ひやひやと長き廊下や安居寺 [やぶちゃん注:「安居」既注。先に掲げた(リンク先)の昭和六(一九三一)年十月発表 の句に、 高野山 をんじき 飮食のもの音もなき安居寺 十方にひびく筧や安居寺 一方の沙羅の香りや安居寺 の 連作があ り 、こ の紀州 高野山 に 於ける 俳誌『 山茶花 』夏行に 参加す るため 近畿地方 に 旅 行した際の吟の一つと思われる。] 汐ひけば熱きいでゆや避暑の宿 噴水の日ざしはどこか秋めきぬ 噴水に叩れゐるやオットセイ 傘車かけ下つたる河原哉 [ やぶちゃ ん 注: 以下五 句は恐ら く鹿児 島 の三 大行事 の一つと される 曽我兄 弟 の仇討 に 由 来するとされる伝統行事「曽我どんの傘焼き」 (既注)の情景かと思われる。リンク先の「鹿 児 島三大行 事保存 会 」公 式サイト の 「傘 焼き」 の引用 はこれら のシチ ュエー ション 総 て に 当て嵌まるように思われる。] 玉串のつきさしてあり傘の山 ツ 拍手の響きて傘火點きにけり 渉り渉り傘くべにけり 旺んなる水合戰も傘火かな 矗々と龍舌蘭の薹高し [やぶちゃん注:「矗々と」は「ちくちくと」と読み、直立して伸びるさま・聳え立つさま をいう形容動詞。「薹」は「たう(とう)」で花軸や花茎を指す。 ] 飛魚の霰に逢ひし舳かな 向日葵に庇の影のかかりたる 南風やうなぢきあへる芥子坊主 南風や龍舌蘭の花ざかり ハブ壺をもちて從ふ童かな 門前の出水けたてて歸省哉 門川の溢れてゐたる歸省哉 一疋は背中に負ひぬ仔豚賣 船人と別れをおしむ日傘かな [やぶちゃん注:「おしむ」はママ。] ハブ捕のかもじを卷きし手先かな じ [やぶちゃん注: 「かもじ」は「髢」 「髪文字」と書きく。 「か」は「かみ(髪)」 「かずら(髢) 」 も などの頭音であり、「文字」は女房詞に於ける「文字言葉」と呼ばれるもの(語の後半を省 き 、その語 の頭音 又は前 半部分 を 表す仮 名の下 に付い て、品よ く言い 表した り 、婉曲 に 言 い表したりする語で、ある語の頭音の一音乃至二音に「もじ」という語を付けたもの。「そ もじ(=そなた)」「はもじ(=恥ずかし )」「ゆもじ(=湯巻)」など。)である。元来は婦 人 が日本髪 を結う 際に添 える毛、 添え髪 ・入れ 髪を指 すが、こ こは 単 に髪を いう 女房 詞 の いなぐ 用法(「おかもじ 」)であるが 、してみると、次の句で「少年」とは出るが、このハブ 捕り わか を沖繩の若さん 女 ととるのも面白い。] いとけなき少年にして毒蛇捕り [ やぶちゃ ん 注: 前句で 女房詞 の 「かも じ 」を 用いた のは 、し かし 、 それが 少女に見 紛 う 紅顔の美少年であったからと読むのもはたまた面白い。] 南風や龍舌蘭の花高し 靜かなる芭蕉の玉や靑嵐 イ チ 」であ るが 、 PDF で はご 覧 の通り 、転倒し て し 蟬 月いでて今宵の魚市の賑へる (海岸風景) 颱風にかまはぬ蝉のしらべ哉 [ やぶちゃ ん 注: 底本で は「蝉」 は「 まうので新字体とした。] 颱風や畑畑の石圍ひ 春曉の機屋は覺めてゐたりけり 織娘等も海へ海へと夕涼み 房たるるバナナに支柱くれにけり 牡丹の塵こぼしたる机哉 南風や葵の花を傾けて 蚊遣香焚きつつ客を待ちにけり 涼風や悦び走る蚊火煙 機窓に咲きのぼりけり立葵 ゆらゆらと風鈴咲きや佛桑花 Chinese hibiscus、即ち、ハイビスカスのこと。] [やぶちゃん注:「佛桑花」既注。「ぶつさうげ (ぶっそうげ)」。ビワモドキ亜綱アオイ目 アオイ科フヨウ属ブッソウゲ 揚雲雀アダンの中へ逆落し [やぶちゃん 注:「アダン」阿旦。単子葉植物綱 タコノキ 目タコノキ 科タコノキ 属アダン Pandanus odoratissimus。高さ約六メートルで幹の途中から太い支柱根を出す。熱帯性で 沖 縄・台湾 に自生 し、潮 風に強い 。葉で パナマ 帽や籠 を、茎で 弦楽器 の胴を 、根で煙 管 を 作 る。以下 、ウィ キの 「 アダン 」 によれ ば 、果 実は直 径一五 ~ 二〇セ ンチメ ートル 『 ほ ど で パイナッ プルに 似た外 見であり 、パイ ナップ ルと 同 様に集合 果 であ る 。個 々の果実 は 倒 卵形で』、長さ四~六センチメートル、幅三~五センチメートル、『内果皮は繊維質、外果 皮は肉質』で、『若いうちは緑だが熟すと黄色くなり、甘い芳香を発する』。『葉や幹は利用 価 値が高く 、葉は 煮て乾 燥させた 後、パ ナマ 帽 等の細 工物 とし たり 、 細く裂 いて糸と し 、 筵やカゴを 編む素材として 利用される。観葉植物 や街路樹としても利用される』。『沖縄で は 古くから その 葉 で筵や ござ 、座 布団 、 草履を 作るな どの 利用 があっ た 。凧 の糸にも ア ダ ン の繊維を 撚った 糸がも つれにく く 適し ている という 。明治時 代以降 、加工 技術 の進 歩 に 伴 い、巻き 煙草入 れや手 提げ鞄な どが 作 られる ように なったが 、その 後新た な素材の 出 現 で 衰えた。 葉を漂 白して 作られた アダン 葉帽子 は一時 期 にブー ムを 起 こし、 国外にま で 輸 出 されるほ どの 好 評を得 た。モー リシャ スでは 製紙原 料 とされ るとも 言う。 また、気 根 を 裂 いて縄と し、ま たその 縄を編ん でアン ツクと いう 手 提げ鞄と する 事 も八重 山 では伝 統 的 に行われ、これに 昼食用の芋や豆腐などを 入れて畑に出たという』。『防潮林・防風林・砂 防林としても利用され、また観賞用に庭園などに栽培されることもある』。『パイナップル の ような 外 観と甘 い芳香 のため 、 果実は いかに も 美味 に見える が 、ほ とんど が 繊維質 で 人 間が食べるのには適さない。果実の表面に存在する突起の一箇所ごとが種子になっていて、 そ の中心の 松の実 のよう な 柔らか い 白い 箇所が 可食部 である 。 果実は 硬い繊 維質 に包 ま れ て おり 、可 食部 を 取り出 す手間に 見合う 味と量 ではな いため 、 現在の 沖縄県 で食べる 習 慣 は 廃れてし まった が 、過 去にはア ダンの 果実で アンダ ンスーを 作った 。また 、沖縄で は 昔 食 用とされ たこと からお 盆には仏 前にア ダンの 果実を 供える習 慣があ ったが 、現在は パ イ ナップルが使われ』ている。 『また、石垣島ではアダンの柔らかい新芽を法事やお盆などの 際の精進料理に用いる習慣があ』り、 『他の野菜と共に精進煮とし、くせのない若筍のよう な 味だとい うが 、 灰汁を 抜かない と 食べ られず 、手間 がかかる ため 現 在では あまり 食 用 に されない』とある。] 蟻達がほしいままなる座敷哉 揚雲雀風強ければ流れつつ まなかひに逆落しくる雲雀哉 南風や出船を送る遊女達 大いなる守宮の聲や蚊火の宿 炎天や女も馬にうちまたぎ 薊咲く古墳の春は闌けにけり 奥津城に歩とのあふれて鷄合せ イ ワ 熔岩山に囀る鳥の名を知らず 慈善鍋三井銀行の扉の前に 鬪鷄の人輪に佇てば酒の香が 鬪鷄やしめし合せの檳榔林 鬪鷄の人輪の中の娼婦かな 鷄合せ古墳の庭に始めけり 薊咲く古墳の春はたけにけり 玉芒全きままに枯れにけり [やぶちゃん注: yahantei 氏のブログ「さまざまな俳人群像――虚子・反虚子の流れ――」 の『(茅舎追想その十三)龍子の「龍子記念館」と茅舎の「青露庵」』の記載の中で、川端 茅舎の句、 玉芒ぎざぎざの露ながれけり を掲げて、以下のように解説されておられる(下線部やぶちゃん)。 《引用開始》 この句は 茅舎の 代表句 ではなか ろう 。 また、 茅舎に 関する文 献など でも 、 この句を 取 り 上 げて鑑賞 してい るもの も 皆無に 近い。 また、 現在で は、この 句碑が 一部不 鮮明 で、 同 時 の作と思われる「玉芒みだれて露を凝らしけり」と紹介されているものも目にする。 この句は、昭和七年作で、茅舎の第一句集『川端茅舎句集』では、冒頭の「秋の部」で、 「露」の句を二十六句続けて、「露の茅舎」と称えられるのだが、その二十六句のうちの二 十二番目に出てくるものである。 この句の「玉芒」というのは、「玉のような露が宿っている芒」という意で、茅舎の造語 であろうか 。「芒」(秋の季語)と「露」(秋の季語)の「季重り」であるが、「芒」の句と いうよりも「露」の句で、この「玉芒」の「玉」がそれを暗示していて、 「季重り」を回避 しているようで、技巧的な句でもある。 「ぎざぎざ」も、畳語の擬態語で、 「オノマトペ」 (擬 音 語と擬態 語 を総 称して の 擬声語 )の「 茅舎」 と言わ れるほど に 、茅 舎が多 用してい る 特 色の一つで、茅舎ならではの句という印象は受ける。 《引用終了》 くる 確 かに茅舎 の句の 「玉芒 」はこの 説明で 納得出 来 るの であるが 、どう も 鳳作 の場合、 既 出 のぎ の芭蕉玉を詠ったものがあるために、私には穂がほうける前、芒に包まったままの芒(「芭 蕉玉」ならぬ「芒玉」)がそのままに枯れてしまったと読みたくなった。しかし、それでは 景とならない、「芒玉」などナンセンスというのであれば、やはり、開いた芒の穂が露をい っぱい受けながらも、「全き枯れにけり 」、白く縮れて完全な骨骸となって枯れたままに佇 立しているという意が正しいのであろうか。暫く大方の御批判を俟つものである。 ] 先生も生徒も甘蔗の杖ついて 熔岩の上蕨は小手をかざしけり [やぶちゃん注:老婆心乍ら、 「熔岩」は「ラバ」で「ラバのうへ/わらびはこてを」と読 む。] 火の見番見下しゐるや鷄合せ 阿羅漢の白けし顏や涅槃像 舊正や屋敷屋敷の花樗 [やぶちゃん注:「舊正」当時、鳳作が赴任していた宮古に限らず、大陸文化の強い影響を 受 けて来た 沖繩・ 南西諸 島 に於い ては 、 現在で も旧正 月 に各種 祭事 が 集中し 、盛大に 執 り の Melia azedarach 行われている。 「花樗」は「はなあうち(はなおうち)」と読む。既注であるが再掲すると、 センダン、一名センダンノキの古名。ムクロジ目センダン科センダン 花。初夏五~六月頃に若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数円錐状に咲かせる。因みに、 「栴檀は双葉より芳し の 」「栴檀」はこれではなく白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン 科ビャクダン属ビャクダン Santalum album )なので注意(しかもビャクダン Santalum は植物体本体 からは 芳香を発散しないからこの 諺自体 は頗る正しくない 。なお、切 album り出された心材の芳香は精油成分に基づく)。グーグル画像検索「栴檀の花」。] 絵日傘を廻しつつくる禮者哉 [やぶちゃん注:「廻」は正字としたかったが、PDFでは表示不能 なので新字体とした。 前 句との並 びから 推測す ると 、こ の「禮 者」と は旧正 月 の挨拶 廻 りと 読める ように 思 わ れ る。] 探梅や裏御門より許さるる 蜜柑山晝餉の煙上りけり 儲けなき鰯をうつて歩きけり 枯野道鰯車の續きけり 遊び女のながきいのりや東風の宮 [やぶちゃん注:「東風の宮」太宰府天満宮のことか。] 砂掘りて松露燒く火を育てけり Rhizopogon roseolu。参 [やぶちゃん注:「松露」食用茸の一種。菌界ディカリア亜界担子菌門ハラタケ亜門ハラタ ケ綱ハラタケ亜綱イグチ目ヌメリイグチ亜目ショウロ科ショウロ 照したウィキの「ショウロ 」によれば、『二針葉性のマツ属 (アカマツ・クロマツなど ) の樹下で見出され、本州・四国・九州』に自生する。『子実体は歪んだ塊状をなし、ひげ根 状 の菌糸束 が表面 にまと いつく 。 初めは 白色で あるが 成熟に伴 って次 第に黄 褐色 を呈 し 、 地 上に掘り 出した り 傷つ けたりす ると 淡 紅色 に 変わる 。外皮は 剥げに くく 、 内部は薄 い 隔 壁 に囲まれ た 微細 な空隙 を生じて スポン ジ 状を 呈し、 幼時は純 白色 で 弾力に 富むが、 成 熟 す るに 従っ て次第 に黄褐 色 ないし 黒褐色 に変色 すると ともに 弾 力を失 い、最 後には粘 液 状 に液化する』。『胞子は楕円形 で薄壁・平滑、成熟時には暗褐色 を呈し、しばしば』一~二 『 個の小さ な油滴 を含む 。担子器 はこん 棒状を なし 、 無色かつ 薄壁、 先端に は角状の 小 柄 を欠き』、六~八『個の胞子を生じる』。『子実体の外皮層の菌糸は淡褐色で薄壁ないしいく ぶん厚壁、通常はかすがい連結を欠いている。子実体内部の隔壁( Tramal Plate )の実質 部の菌糸は無色・薄壁、時にかすがい連結を有することがある 』。『単純な球塊状の子実体 を 形成する ことか ら 、古 くは腹菌 類 の一 種とし て 扱わ れてきた が 、マ ツ属の 樹木に限 っ て 外 生菌根 を 形成す ること や 、胞子 の所見 ・子実 体 が含 有する色 素成分 などが 共通する こ と に 加え、分 子系統 学的解 析 の結果 に基づ き、現 在では ヌメリイ グチ 属 に類縁 関係 を持 つ と して、イグチ目のヌメリイグチ亜目に置かれてい る』。『安全かつ美味な食用菌の一つで、 古 くから 珍 重され たが 、 発見が容 易でな いため 希少価 値 が高い 。現代 では、 マツ林の 管 理 不 足による 環境悪 化 に伴 い、産出 量 が激 減し、 市場に は出回る ことは 非常に 少なくな っ て いる。栽培の試みもあるが 、まだ商業的成功には至っていない 』。『未熟で内部がまだ純白 色 を保って いるも のを 最 上とし、 これを 俗にコ メショ ウロ (米 松露 ) と称す る。薄い 食 塩 水 できれい に 洗っ て砂粒 などを 除 去した 後、吸 い物の 実・塩焼 き・茶 碗蒸 し の具など と し て 食用に供 するの が 一般 的 である 。成熟 ととも に 内部 が黄褐色 を帯び たもの はム ギシ ョ ウ ロ (麦松露 )と呼 ばれ、 食材とし ての 評 価はや や 劣る とされる 。さら に 成熟 が進んだ も の は 弾力を失 い、色 調も黒 褐色 とな り 、一 種の悪 臭を発 するため に 食用 として は 利用さ れ な い 』とある 。私の 亡き母 は鹿児島 の大隅 半島中 央 の岩 川に育っ たが 、 若い頃 にはよく 兄 と ともにこのショウロを採りに行ったと語っていた 。私は哀しいかな 、食べたことがない 。] 住吉の垣のうちなる松露搔 ちょう [やぶちゃん注: 「住吉」恐らくは現在の鹿児島県鹿児島市住吉 町 であろう。旧鹿児島城下 下町住吉町で鹿児島市の中部に当たり、桜島の対岸の薩摩半島東の根元にある。] 風波の麥生進むが如くなり ほとばしる枝の眞靑や立穗梅 [やぶちゃん注:「立穗梅」穂立ちという語があり、これは稲の穂が出ることを指すから、 丁度その八月上旬頃の梅木立という謂いか。] 大兵でおはし給ふなる寢釋迦哉 舊正や屋敷屋敷の花樗 芝山やそこここ立てる霜圍ひ 海苔採女はだしのままの家路哉 [やぶちゃん注:「海苔採女」は「のりとりめ」と読んでいよう。] 海苔採りに沖つ白波たちそめぬ 海苔採りにあきし心や遠霞 醉ざめの面て伏せゐる火桶哉 霜圍ひ覗き覗きて園巡り 水涕のすすりあへなくなりにけり や 破れ障子兒澤山と見えにける 鏝入れしままの火桶に招じけり 寒卵溜るばかりに貰ひけり (微恙) 掌に唾一ト吐きや年木樵 月の菊白とも見ゆれはた黄とも 大根干すうなじ打つたる霜雫 馳せよりて後ろ押しけり稻車 合住みの友を賴りや風邪籠り もろ共に肥えて蝗のめをと哉 掛乞のおそれをなして歸りけり [やぶちゃん注:「掛乞」は「かけごひ (かけごい)」と読み、掛け売り(代金後払いの約 束で品物を売ること)の代金を取り立てに来る人のこと。] おでん屋の湯氣の中なる主かな 書出しを留守のとぼそに挾みけり [やぶちゃん注:「書出し」掛け売りで買い、その溜まっている代金の請求書。特に年末の 決済のための請求書。勘定書。つけ。] おでん屋をぬくもり出づるきほひ哉 [やぶちゃん注:これらの四句、偶然かも知れないが連続したものとして読め、さすれば、 つ っぱらか って 偉 そうに しかも 安 いおで ん 如き をつけ で 食って いた 詩 人、そ のおでん 屋 の 気 のいいし かも 気 の弱い 主人とい うシチ ュエー ション が 小気味 いい組 み写真 となるよ う 思 われるのであるが、如何?] 斑猫に足の運びを早めけり Cicindela japonica、所謂、ミチオシエである。人が近づくと一、二メー [やぶちゃん注:「斑猫」は鞘翅(コウチュウ)目オサムシ亜目オサムシ上科ハンミョウ科 ナミハンミョウ ト ル程飛ん で直ぐ 着地す るという 行動を 繰り返 し、そ の過程で 度々、 後ろを 振り返る よ う な動作をする本種の習性をうまく詠み込んでいる。なお、「斑猫」全般については、私の電 子テクスト「耳嚢 巻之五 毒蝶の事」の注で詳細を述べておいた。是非、参照されたい。 ] 道をしへ落陽の方へ返しけり 畦ゆけば畦ゆけばとぶ螽かな [やぶちゃん注:「螽」は「いなご」と読む。] 御佛の小さき障子や洗ひをり 町中となりし田圃の案山子かな 一刀をた挾む兵兒の案山子かな [やぶちゃん注:「兵兒」は「へこ」と読み、鹿児島地方で、十五歳以上二十五歳以下の青 ふんどし 年を指す語である。 「へこ」には 褌 の意があるが、 「日本国語大辞典」には、これは同地方 で 十五歳 に なった 者に対 して正月 二日 に 近親血 縁者 が 祝いに行 き、手 拭いと 褌を贈る 儀 礼 こ 「 へこかき いわい 」が済 んだ男子 の意を 語源と するか 、とある 。また 、男子 や子供用 の し へ ご き帯を 兵児帯 と呼ぶが 、これ 自体が 元は薩 摩のまさ に 前に 出した兵児 が 用いた 帯びで あ っ たことに 由来す るとい う 、とも ある 。 私の母 は鹿児 島 の出身 であっ たが 、 これらは 私 の 全く知らない事柄で、まっこと、目から鱗であった。] 雨の蘆てらして戻る夜振哉 [やぶちゃん注:「夜振」老婆心乍ら、「よぶり」と読み、夏の夜にカンテラや 松明などを 灯して時に振り動かし、それに向かって寄ってくる魚を獲る漁法の名。火振り。] 鰯雲月の面にかかりそむ サボテンの影地に濃ゆき良夜哉 石切のほつたて小屋や葛の花 潮騷のとほくきこゆる門火かな 郊外に住みて野分をおそれけり 歸省子のもてる小さきクロス哉 龜の子のはひ上りゐる浮葉かな 船蟲のひげ動かして機嫌かな [やぶちゃん注:「船蟲」の「蟲」は底本では「虫」 。] いねがての團扇はたはたつかひけり 蜻蛉追ふ子等の面も夕やけぬ 案山子翁裏にも顏のかかれけり 渡り鳥仰ぐ端居となりにけり 竜胆に今年の雲の早さかな [やぶちゃん注:「竜胆」は底本のママ。 これを 以 って初 期作品 は終わる 。以上 で底本 の俳句 編 の電子 化 を終 了した 。これが 現 在 知られる篠原鳳作の全俳句である。]
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