フリーメーソンとほとけさま ◇神様は人間が作ったもの 最近の宗教家の中に「神は(宗教は)人 間の作ったもの」とはっきり言う人たちも いる。歴史学が進歩したためか、自然科学 が進歩して宗教的な神秘のベールが次々に 剥がされていった為であろうか?或は又、 一般大衆の知的水準が上がって、いいかげ んなことでは大 衆が騙されなくなった為で あろうか?しかしそうとばかりは決められ ない、最近は新興宗教の発明ブームでもあ る。庶民がネズミ講や利殖の話に乗るよう に、人間の弱点を利用する悪徳商法として タージ・マハール:シルエットは筆者 デリー東南アグラに残るこの建物は、世界 3大建造物の内、美の極致である。愛する妻 のため、国の富を惜しげもなく注ぎ込んだ結 果の作品である。 ピラミッド・万里長城も素晴らしいが。 の宗教商法は、後を絶たないのかもしれな い。 さて日本史の中で、仏教が果した役割は 極めて大きい。しかし又逆に、日本仏教が 時の権力者と組んで危機を作った事例も数多い。特に日本が新時代に脱皮しようと した時、仏教は宗教という名の巨大な反対勢力を構成した。奈良から平安時代への 移行時における南都仏教、又、戦国時代の比叡山の僧兵、そして、今なお宗教法人 という名の企業人や、新興宗教を名のる宗教経済人が、一票を「ねた」として 政界 に隠然たる圧力を加えている。私が常々、仏教団体や宗教団体に対し悪口を呈して いる為、もう聞き飽きたといわれる人もおられるであろうが、今回の「インドの石 窟訪問旅行」で益々自信を強くすることが出来た。 ◇デカン高原の安山岩の山 イ ン ド の 中 部 高 原( デ カ ン 高 原 )は 乾 燥 地 帯 で あ る 。 砂漠とまではいかないが、 10月の下旬から翌年の4 月までの乾季となれば、まったく雨が降らない。した デカン高原は乾燥地帯 がって大きな樹は育たない。高原をバスで走ると、見 潅木が転々と生える安山岩 の岩山である。 渡すかぎり赤土の荒野に、潅木が点々と生命を保って いる。比較的低地には畑がある。この部分は、雨季に は水溜まりや、川が流れているのだろう。砂糖黍や向 日 葵 の 花 ( 背 丈 は 約 3 0 c m 程 度 )、 綿 の 木 が よ く 目 立 つ 。「 人 間 は 水 さ え あ れ ば 住 む こ と が で き る 。」 と い う 原則がここでも良く分かる。 このデカン高原の北西部分に安山岩の岩膚を現す小 高い山が連なっている。広さにすれば、日本列島全部 の大きさがあるのだろうか?この山中にインドの石窟 寺 院 の 9 5 % 迄 が 作 ら れ 、そ の 7 5 % が 仏 教 窟 で あ る 。 仏教窟の 1部は、現在ヒンズー教寺院として利用され エローラ第16窟 ているものもある。インドにおける仏教石窟寺院はB カイラ―サナータ寺院 C2世紀頃から 8世紀迄で、それ以降は、ヒンズー教 エローラ石窟群の中央に位 置し、最大の寺院である。岩山 を上から彫刻をしながら、下に 彫り進んだと言われている。 ( 5 世 紀 ∼ 9 世 紀 )や ジ ャ イ ナ 教( 8 世 紀 ∼ 1 0 世 紀 ) の石窟寺院とし て、石の彫刻技術が引き継がれていっ た。 ◇エローラ石窟寺院 もっとも有名なエローラ石窟寺院群を見ると、仏教 からヒンズー教やジャイナ教と石工技術者が移動する 様 子 が 良 く 分 か る 。 こ こ で は3 4 の 石 窟 が す べ て 西 向 きである。第1 6窟はヒンズー教のカイラーサナータ 寺院(カイラーサナータとは、シヴァ神の住むところ という意味)で、石窟のなかで最大の規模である。し かも技術的にも工法的にも彫像的にも最高の傑作を完 成している。 ここで仏教はこの地域の最初の開削者として入植し (6世紀末と考えられている)1 1窟、 12窟では3 階建の僧院を作るほど成熟していたが、やがて 8世紀 になって仏教の衰退とともに工事の資金が続かず、中 断していることが良くわかる。そして石工技術者はヒ ンズー教寺院や、ジャイナ教寺院の建設に従事してエ エローラ第10窟 チャイティヤ窟(祠堂窟) 正面が2階建てになってお り、仏教チャイティヤ窟として は最も新しい。 ローラ石窟寺院群の建設は終わっている。その間約4 00年である。 現在、巨大遺跡といわれる建造物の大部分は、戦争 用か、宗教建築(墓を含む)である。これら巨大遺跡 を作りえた背景には、巨大な権力と膨大な経済力がな ければならなかったはずで、遺跡はその時代を今に伝 える貴重な生き証人であると私は思っている。 ◇アジャンタ石窟寺院 エローラ石窟と並んで有名なアジャンタ石窟は、1 819年に偶然発見され、その壁画群のすばらしさで 世界中に知れ渡った。 ( 末 期 の 第 1 窟 の 観 音 像 は 、日本 の 法 隆 寺 金 堂 の 壁 画 そ っ く り で あ る 。) こ こ の 石 窟 は 、 アジャンタ石窟右半分 すべて仏教石窟寺院群で、初期(BC2 世紀)のもの か ら 中 期 、 後 期 (7 世 紀 末 ) と 、 ま る で 石 窟 寺 院 の 歴 史博物館のような所である。 第10 石窟は初期のものでいまだ仏像がなく、所謂 ストゥーパ(釈迦の骨や灰を安置した仏塔)を信仰の アジャンタ石窟左半分 対象とした寺院の、もっとも古い様式を持っており、 アジャンタ石窟は、全て仏教 窟である。石窟の前には小川が 流れている。 それから後はストゥーパにいろいろと装飾がつき始め る。その後仏像が出現し、終にストゥーパはあるが、 仏 像 が そ の 中 心 的 な 形 式 ( 第2 6 石 窟 ) と な っ て し ま っている。アジャン タの仏像はマトーラ仏の流れを持 つ、サルナート様式のものが多い。ここで寺院を建築 的に見ると、木造建築の痕跡を随所に見ることが出来 る。つまり木造建築の流れを持った民族により作られ た寺院が石窟寺院の原形となったのだろう。しかもス トゥーパの飾りには、南インドのヒンズー教建築に近 石窟の番号は右手前より 1, 2,3・・と付けられている。但し 掘削された順番は、中央第10 窟から左右に順次進み、第1窟 が最も新しい。 いものが見られる。仏像は北インドのサルナート様式 が主流ではあるが、石窟は南インドの建築様式である ことから考えて南インドの石工技術者が相当かかわっ ていたことが想像される。 ◇ビハーラ窟の悲劇 一方仏教石窟の特徴は、寺院石窟(チャイティヤ窟 という)の外に僧院石窟(ビハーラ窟という)が、平 行して作られていったことである。アジャンタ石窟は 29窟ある内、チャイティヤ窟が 4窟、ビハーラ窟が アジャンタ第十九窟 正面横壁の サルナート様式の仏像 薄い衣装の裾が、足首の付近 にまとわり付く。手の指先が長 く足の膝頭まで垂れている。 25窟ある。 この数字からでも分かるように、多くの僧侶をかか えなければならない仏教の宗教活動方式が問題で、仏 教活動は、その国の富と付近住民の富を吸い取らなけ ればならない宿命を持っている。つまり仏教は高くつ く宗教なのだ。長いインドの歴史の中で、仏教は国と 住 民 を 貧 困 に 陥 れ 、 自 ら も 衰 微 し 現 在 で は わ ず か2 % 弱しか支持者を持っていない。仏教、ヒンズー教、ジ ャイナ教を見た時最も金のかかる仏教が最も安上がり の ヒ ン ズ ー 教 に 吸収 さ れ て し ま っ た の も 当 然 と い え ば 当然であったのだ。現在日本仏教は、日本の強い経済 アジャンタ第10窟(中央) 力や葬式をうまく取り入れたメカニズムに支えられな 第9窟(右側) がら、他国に見られないような発展を行っているが、 10窟が最も古い。現在修 理中だが、全面開口されてい る。9窟には上部に明り窓が ある。 僧侶集団が真の認識を誤ればインド仏教のように取り 返しのつかない事になるかも知れないのである。 ◇フリーメーソン エローラ、アジャンタ石窟は、BC2 世紀から、8 世紀にわたるインド仏教の成長隆盛時代を経て、終焉 を見るにふさわしい巨大遺跡といえる。そしてエロー ラに見られるように石工技術者が、仏教からヒンズー アジャンタ第12窟内部 教 や ジ ャ イ ナ 教 の 石 窟 に 乗 り 換 え る様 子 を 見 た 時 、 西 初期のビハ―ラ(僧院)窟 洋における「フリーメーソン」という秘密結社が思い 初期には僧侶の宿泊施設の みである。各室にはベッドが 石で掘り出されている。 後年ビハ―ラ窟内に仏像が 作られるようになる。 出された。戦後生れの方々には、ご存じない人も多い かも知れないが、 「 フ リ ー メ ー ソ ン 」 と は 第2 次 世 界 大 戦の時、アメリカのルーズベルト大統領等も包含する 世界的規模の気味の悪い秘密結社として恐れられてい た。 少なくとも当時の日本ではそう考えられていた。と ころが読んで字の如く「フリーメーソン」とは、自由 石工連盟とか、自由石工協会というもので中世の教会 建築や、都市城塞にたずさわった、国王直営工以外の 自由石工の集まりで、石一切を取扱い、彫刻等もする 建造技術 をもった技術者であると同時に、世界の権力 と経済力の情報を知り得る情報機関を構成していた。 彼等はこの情報網により、世界中を移動した技術集団 であったと私は思っている。 アジャンタ第26窟内部 仏塔には一面に彫刻 26窟は最も新しいチャイ ティヤ窟で、横の部屋には涅 槃像がある。勿論「彫出石像 仏」である。 (後出) 鉄を主体とする特殊鋼を持って石山を彫り、石を刻 んで建造物を作ることは、何も中世西洋のものではな く、人類が鉄を知り得た約 4千年前頃に始まっている 筈だ。又鉄は、昔より最も進んだ武器でもあった。丁 度現在の原爆か半導体にも比すべき存在で、権力の必 需品となっていた。BC1200 年頃、鉄の帝国ヒッ タイト帝国の滅亡を契機として鉄を扱う人達は集団と して世界の各地に拡散していった。この集団は、一方 では、新しい武器を作り、新しい築城を行い、戦争の 形 を 変 化 さ せ 、新 し い 世 界 の 権 力 地 図 を 作 っ て い っ た 。 エローラ第32窟 ジャイナ教寺院 天井・壁とも素晴らしい彫 刻で飾られている。エローラ 石窟群の中で最も美しい。ジ ャイナ教の信仰の深さを感じ る。 同時に又、宗教と結合して、石の建造物や石彫刻の技 術を世界各地に広めることとなった。 ◇インドの石工技術 イ ン ド で は B C5 世 紀 の こ ろ 、 ア シ ョ カ 王 に よ る 石 柱や石像の仏塔が盛んに建てられていた。インド各地 に 現 存 す る ア シ ョ カ 王 柱 碑 は1 0 m 以 上 の 円 柱 の う え にライオン(1 匹∼ 4匹)を載せたもので、円柱表面 の磨いた面は、 2200年を経た現在でもツルツルで 顔の映るほどである。円柱は勿論エンタシス(柱の中 央 部 が 膨 ら み を も つ て い る こ と 。)を 持 っ て 加 工 さ れ て いる。 アショカ王以後、マウリヤ王朝の衰退とともに仏教 も衰微するが、石の加工技術は職人によって継続し、 エローラ第12窟 仏教ビハ―ラ(僧院)窟 仏教衰退のため、未完成。 柱の彫刻が中途半端のまま。 仏 教 窟 で は な い が 、 バ ラ ー バ ル 丘 の3 窟 、 ナ ー ガ ル ジ ュニの3 窟などの開鑿が継続されていく。 一 方 B C3 世 紀 の 末 期 に 勢 力 を 得 た 南 イ ン ド の ア ン ドラ朝は、デカン高原や、現アンドラ・プラディシュ 州のキストナ川(一名クリシュナ川)周辺に巨大な遺 跡を残している。 [ 注 ] ア ン ド ラ ・ プ ラ デ ィ シ ュ 州 は 、 南 イ ン ド4 州 のベンガル湾側の北部の州で、アンドラ朝の都アマラ アショカ王柱碑 ーヴァティーや、後の王朝イクシュヴァーク朝の都ナ サルナート博物館 ーガルジュナコンダの遺跡は、アショカ王時代の仏教 表面の光沢は昔のまま、文 字もはっきりと残っている。 2000年以上昔のものと は思えない石柱である。 から仏像発生に 至る経緯を現わすものとして大変貴重 なものである。 し た が っ て 、第 3 の 仏 像 発 生 地 と も 言 わ れ て い る が 、 英国統治時代、良質の資料はすべて大英博物館に持ち 去られ、未だに整理されていないというのが現状であ る。 ◇石窟寺院は南インド様式 最古の仏教遺跡といわれるサンチー遺跡を北限として、 その南側のデカン高原にB C2世紀より仏教石窟が開鑿 され始めたことは、当然アンドラ朝の経済力があったた めであり、アジャンタ石窟を始めとして、南インドの建 築様式が、各石窟に影響したであろうことは十分考えら れる。 アジャンタ第19窟内部 仏塔には仏像が彫刻されて いる。一方天井には木造建築 に見られる力骨(屋根を支え る垂木のようなもの)が彫り 出されている。 これは南方の木造建築民族 の名残であろう。 以前のレポートで書いたように、南インドの民族は、 木 造 建 築 民 族 な の で あ る 。更 に イ ン ド 大 陸 の 東 海 岸 か ら 、 こ の フ リ ー メ ー ソ ン( 当 時 は そ う 呼 ば な か っ た だ ろ う が ) の石工技術者たちは、鉄とヒンズー仏教 =インド教(梅 山説)文明を持って、東南アジア方面に移動していった ものと想像される。 南太平洋における巨石文化民族の移動ということは、 未だ解明されていないが、もしかして、南インドの民族 ( 私 が つ ね づ ね 蛇 族 と い っ て い る 。)が か か わ っ て い る の ではないだろうか。 1992 年1月 アジャンタ第26窟の涅槃像・8世紀
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