デカブリストの蜂起とプーシキン サンクト・ペテルブルク紀行 ② 長谷川 了一 デカブリスト広場 デカブリストの結社の一員だったのではなか デカブリスト広場は旧元老院の建物の東側 ろうかという。その当否はともかくとして、プ にある。ロシア革命後、この広場はデカブリス ーシキンはデカブリストに多くの友人をもち、 ト(彼らは 12 月=ロシア語で「デカブリ」に 彼らとの間に深い友情と思想的連帯を保って 反乱をおこしたのでこう呼ばれている)を記念 いたことは確かだ。彼は、1799 年モスクアの して命名された。広場の中心には、プーシキン 中流貴族の家に生れた。当時のロシア帝国は絶 が長編叙事詩『青銅の騎士』に描いたピョート 対君主アレクサンドル 1 世が君臨し、ナロード ル 1 世の大きな騎馬像が建っている。 (ロシア語で民衆の意)の半数以上は、わずか 1%の地主貴族が「所有」する農奴であり、苛 酷な年貢や労働を強いられていた。プーシキン はその作品においてつねに民衆の願望を謳い、 その自由と幸福の実現をめざしていた。 デカブリストをたたえた詩 デカブリストたちの勇気ある行動に共感を 惜しまなかったプーシキンは、「シベリアへ」 という詩を書いて彼らを讃えている。 シベリアの鉱山の奥深くで デカブリスト広場のピヨートル 1 世騎馬像 光栄ある苦難を耐えられよ デカブリストたちの蜂起 あなたがたの悲しい事実と高遠な理想が 1825 年 12 月 14 日、この「青銅の騎士像」 むなしく滅びてよいものか の足元に、専制政治打倒と農奴制の解体を求め て青年貴族士官に率いられて蜂起した 3000 名 不幸のなかで健気なる女性は の部隊が立ち並んだ。これに対して皇帝ニコラ 暗黒の行動における希望であり イ 1 世は、9000 名を超える近衛部隊を出動さ 勇気と慰めをよびおこし せ、銃撃によって 70−80 名を殺し、多くの首 やがて待望の時は至らん 謀者を逮捕した。蜂起は微塵に鎮圧された。 首謀者の 5 人は、事件の翌 26 年 7 月 25 日、 ネヴァ川をはさんで皇帝の居所・冬宮の真向か ネクラーソフの『デカブリストの妻』 一昨年、数十年ぶりに復刊されたネクラーソ いにあるペトロパブロフスク要塞の牢獄で絞 フの『デカブリストの妻』を読み、蜂起の地点 首刑に処せられた。翌 8 月、100 名以上の指導 に実際に立つことで、往時をかすかに偲ぶこと 者がシベリアに流刑され、極寒の地で苛酷な懲 ができたように思った。やはり来てよかった。 役労働を強いられるなど、厳しく弾圧された。 サンクト・ペテルブルクには歴史が脈々と生き これがいわゆるデカブリストの乱である。 ていた。しかし、デカブリストが蜂起した地に、 プーシキンとデカブリスト 専制政治の象徴たるピョートル 1 世の像が今 ところで、昨今の研究によればロシア近代文 日も屹立しているとは……。大いなる歴史の皮 学の父ともいうべき詩人・作家のプーシキンは 肉を感じざるをえなかった。 (つづく)
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