507号 2月発行 - 東京慈恵会医科大学同窓会

四教授退任記念講義
発 行 所 慈 恵 医 大 同 窓 会
東京都 港区西新橋
3 − 25− 8
電 話 03(
3431)6 9 7 1
編 集 発 行 人 南 雲 今 朝 雄
える林伸 一教授 ︵生化学第
とに感謝を述べた。
病院の大改修、診療体制の
最近では分子生物学的手法 された。九年前本学に戻り 授が壇上に上がり、大学、
を用いて行い、教室の研究 主任教授として呼吸器を中 学生会、同窓会、父兄会か
は日本の最先端にあると述 心に肺アスベルギルス症、 ら記念品と花束の贈呈を受
さらに退任記念パーティ
べた。学生諸君には態度 ・ びまん性細気管支炎、特発 け、学生歌を斉唱し恒例の
知識 ・技能の三つを兼ね備 性間質性肺炎の基礎と臨床 記念講義を終了した。
えバランスのとれた臨床医 を今までの研究に加え精力
林
伸
一
内
科
第
井
紀
大学は、教育と研究と診
ら臨床 へ﹂と題して、内科 た。
医として、研究者として、
さらに大学人として、私が 療とのバランスの中で優れ
第 17 回 理 事 会 報 告
2月13日開催
平成八
︵年
1度︶会計中間報告
また、病院長在職中の四年 歩んできました経験を通し た臨床家を育成しなければ
間は、多くの教職員の方々 て、内科学における臨床医 成りません。
人間性に富み、 がありこれを承認、続いて
に支えられ、ご協力をいた 学と基礎医学との関わりに 研究心と創造力を持ち、常 平成九年度予算案について
2酒
退任記念講義を終えること
ができましたことは、私に
と って感無量 でございま
るプ ロテアー ゼを同定 し られる。阪大時代には良き 本学の第三代小児科教授を
た。 一方、ポリアミンは翻 師に恵まれ、本学では素晴 務めましたので、親子 二代
訳フレームシフト促進とい しい共同研究者に恵まれた に亙 って本学にお世話にな
も多くなり、対応に困惑す す。まず、皆様に心から感
謝し、御礼を申し上げたい
る状態である。
研究成果を左右する要因 と思います。
P存在下にODCを分解す として、運 ・鈍 ・根が挙げ
顧みますと、私は、父が
退 任 記 念 講 義 を 終 え て
へ﹂と題して、まず臨床医 来、はや二十二年が経過し、
定年を 迎えるこ とにな っ
た。曲りなりにも大過なく
ここまで勤め上げることが
できたのは、歴代の四学長
先生を始め教室内外の多く
の方々の暖い御支援の賜物
であり、心から御礼を申し
あげたい。
ク調節を受ける。私たちは
ポリアミンで誘導されるユ
形
成
外
科児 島 忠 雄
野
弘
鈴木泰雄
小田泰治
学内掲示1月20日付
した。
今この講義を終えて、
大学職員の皆様に深く感謝
講師 佐藤哲夫
︵
内科第4︶
助教授を委嘱する
に立てることを願いながら 一月 二十 七日︵に
月締
︶ 切ら
また、医学部看護学科の
参りましたが、今それを顧 れ、志願者数は二 一八八名 入学試験の受付は、 一月二
けた私の内容を本学でお役
臨床的研究の中で、身につ
平成九年度の本学医学部 三月十 一日︵午
火後
︶三時に発
医学科の入学試験の受付は 表される。
看 護 学 科 13 ・5 倍
医 学 科 21 ・9 倍
だ私の道は、やがて臨床呼 き道程を力強く歩まれるこ
吸器病学 一筋に生きる大き とを願 っております。
学に従事し、多くの優れた して学生諸氏が未来 への高
師の教訓を頂きながら歩ん い目標をも って、果てしな
学内掲示2月1日付
学校法人慈恵大学監事を
申し上げますとともに、本
う頃でした。激動する社会 学の益々の発展と充実を祈 委嘱します
情勢の中で、臨床と基礎医 念申し上げる次第です。そ
第 三病院 内科第 2 岡
年は、第二次大戦後十五年
十七日︵午
月後
︶三時、国領の
看護学科試験場にて発表さ
れた。
歴
クラブ関係者による弔辞が
捧げられ故人を偲んだ。
略
昭和16年12月本学卒業、
六日同院にて病院葬が執り 指定医、36年姫路市立書写
て逝去された。享年八十 一 22年整形外科教室入局、26
歳。 一月十八、十九日姫路 年開業、29年厚生省身体障
市内安楽院にて密葬、二十 害者肢体不自由者厚生育成
院療養中のところ心不全に
八家 正俊 顧問 葬儀 行わ る
加した。そして、形成外科
め
、
い
く
つ
か
の
手
術
法
が
教
学卒業後、臨床病院の内科 つかの想いを、これから医 結果、第 一次発表は三月五
ては、今後医学研究者とし には皮弁手術の大きな流れ 室で開発された。
レジデント、臨床に携わり 師を志す医学生諸氏に語る 日午後三時、西新橋試験場
このような経緯から最終 ながら マイ コプラズ マや緑 機会を与えられましたこと に掲示され、七日、八日の
て生きていくための何らか があることを知 った。しか
のアドバイスとなるものを し、形成外科、とくに日本 講義のテーマを決定した。 膿菌の基礎的研究に通 った は誠に有難いことでありま 二次の結果、最終合格者は
一先輩としての経験から示 では皮弁を含めた手の植皮
以上について述べるとと 研究所時代などの二十五年
さなければならないであろ は植皮の中の小項目として もに、ノーベル賞受賞者の
と間
、昭和六十三年の本学
の調節機序の研究が予想以 るからには、その対象の主 移籍した。整形外科では手 り重要視されていないこと
て述べた。
四十四年間御世話にな っ
る程度包括的なものを選ば 学の対象として整形外科を 云える手の皮弁手術に興味
を
経
た
、
未
だ
戦
禍
の
中
か
ら
、
行われた。当日は三〇〇名 養護学校々医、63年日医最
なけ ればならな いと考 え 選んだ私は移籍には躊躇し を抱き、教授就任に際して た大学、諸先輩、教職員の わが国がや っと這い上りつ
八家正俊同窓会顧問は去 以上の弔問客が参列し、同 高優功賞受賞、平元年同窓
た。また、学生諸君に対し た。しかし、手の外科を今 は、教室のテー マの 一つに 皆様に深く感謝致します。 つあ った、復興の機運の漂 る平成九年 一月十七日、入 級生、医師会、ローターリー 会々長。
学教職員も視野に含めたあ 自分の性に合い、 一生の勉 外科と手の外科の接点とも
上に進展し、ここ数年は国 体は学生であり、それに大 の外科班に所属していた。 を知 った。そこで私は形成
際的にも広く注目されるよ
うにな った経緯を述べたか
ったからである。
ODCは細胞増殖因子と
を 学 と、臨床呼吸器病学
oに
n私
,が
Persistence
生諸君 へのアドバイスとし 足を入れ始めた昭和三十八
退任記念講義の演題は迷
しか扱われていないことが 形成外科医のMurra博y 任後の九年間に、私が歩
うと考えた。
赴
わず ﹁私の研究歴﹂とした。
退
任
記
念
講
義
の
テ
ー
マ
の
私
は
整
形
外
科
に
十
年
在
籍
わ
か
っ
た
。
一
方
、
手
の
外
科
士
の
臨
床
医
家
に
と
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て
必
要
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だ小道を顧みたものでし
Curiosity,s
Imaginati−
最大関心事であ ったオルニ 決定には誰もが思い悩むこ した後、丸毛英 二教授に従 では手 への皮弁手術は骨 ・ な 三 つの
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た
。−
って開設された形成外科に 関節 ・腱の手術に比較し余
その時代背景を顧みます
チン脱炭酸酵素 ︵ODC︶ とであろう。最終講義であ
を共にしてまいりました。
い。
感
謝申し上げます。
みますと、十分にそれを果 ︵募集人員 一〇〇名︶とな 十七日︵に
月締
︶切られ、志願
私の演題でした ﹁私の歩 たせなか ったことが心に重 り、競争率は21 ・9倍 ︵昨 者は四〇六名 ︵募集人員三
後も続けられるとの希望を 加えた。手の皮弁手術の基 いた臨床呼 吸器病学 の小 く残るのであります。しか
年
は
20
・
4
倍
︶
と
な
っ
た
。
〇
名
︶で、競争率は13 ・5
抱いて形成外科の新設に参 礎となる 基礎的検 索を進
道
﹂
は
、
昭
和
三
十
四
年
に
本
し
、
そ
の
闇
の
私
の
感
じ
た
幾
二
月
二
十
五
日
の
筆
記
試
験
の
倍
︵昨年16 ・7倍︶であ っ
た。最終合格者は去る 二月
最近、ODCが癌原蛋白 始酵素誘導に取り組み、と にめぐり会い、ご指導 ・ご 並びに現学長の碩学の先生
質、アンチザイムが癌抑制 くにODCには二十七年に 支援をいただきました。
方を始め、栄誉ある諸先生
因子であることを示唆する わた って研究を継続したこ
特に、第二内科学教室関 の御臨席の下で、学生諸氏
研究報告が増加してきた。 とは、無意識的に鈍と根を 係の皆様とは、教室の発展 に私の臨床呼吸器病学に関
体現していたのかも知れな と大学の発展のために苦労 わる想い出を語らせて頂き
合成経路の鍵酵素で、各種 う新機序によ ってアンチザ 私は非常に幸運であ ったと ったことになります。この
東京慈恵会医科大学の伝 な糧となりました。
増殖刺激で誘導され、ポリ イムを誘導することがわか 思う。また、新しいテー マ 間、私は、恩師、上田泰教 統あるこの退任記念講義に
昭和六十三年、私が本学
アミンで負のフ ィードバ ッ った。
授をはじめ、多くの先生方
に赴任させて頂きました時
に
目
移
り
す
る
こ
と
な
く
、
終
お
い
て
、
名
誉
学
長
、
前
学
長
、
は、これらの基礎的研究や
考えられるポリアミンの生
2
児島教授は ﹁形成外科と
ンド医学から西洋医学に至
第
2︶、児島忠雄教授 ︵
形成
三病院内科学第2︶の退任
る皮弁の歴史を紐解かれ、
外科︶、酒井紀教授 ︵内科 手の外科﹂と題して、特に
学第2︶、岡野弘教授 ︵第 手の皮弁を求めて、そのイ
記念講義が行われた。
名誉教授、学生、教職員、 在任九年間に医局の方針と
同窓によ って埋め尽くされ して創意工夫、関連各科と
た会場では山下教学委員長 の協力 ・国際交流の推進を
の司会による略歴紹介に続 掲げ、それなりに満足いく
いて、まず林教授は ﹁
私の ものであ ったと述べた。学
研究歴﹂と題して細胞内ポ 生には ﹁人生は短く、術の
リアミンの調整蛋白質アン みちは長い﹂とヒポクラテ
学
チザイムについてその役割 スの言葉を引用し、更なる
神戸で生まれ育ち、大阪 ニークな調節蛋白質アンチ
解明に至 った研究成果に つ 努力と進歩を求めた。
大学で医学を学んだ私が思 ザイムが、ODCに結合し
化
び、そして大学と共に歩ん
私の最終講義は、﹁臨床 を進める必要があることを ご活躍と本学の発展を期待
できました。今回、無事に から基礎 へ、そして基礎か 強 調させ ていただきま し しています。
になるよう説かれ大学には 的に行 ったと述べた。
だき、本学の目指す改革の
ー
は
2
号
館
十
階
に
席
を
移
し
つ
い
て
話
を
さ
せ
て
い
た
だ
き
に
態
度
、
知
識
・
技
能
の
三
つ
検
討
・
審
議
し
た。
四題の講義が終わ って岡
その育成に期待を述べた。
て
行
わ
れ
た
。
前
記
五
教
授
に
一歩を進めることができま ました。そして、内科医に を兼ね備えた医師こそ、期
三月か
︵ら2五︶
月にかけ開催
としてそして大学人として
岡野教授は ﹁
わたしの歩 村学長は退任講義は大変に 加えて医学科国領校の戸澤
した。私なりに精 一杯の努 と っては、研究には基礎と 待される二十 一世紀の医師 される会議日程を確認した。
の歩み、特に病院長として いた臨 床呼吸器 病学の小 感銘深く四教授に去られる 満智子教授 ︵化学︶と看護
昭和 二十九年春、私は本 力をし、そして無我無中で
臨
床との明確な境界などは であると確信いたします。
大学2
︵号3階︶
館に移転した
の四年間における特定機能
ことは大学にとり大変な痛
道
﹂
と
題
し
て
昭
和
三
十
四
年
学
科
の
吉
武
香
代
子
教
授
︵
基
学
に
入
学
し
、
そ
れ
以
来
今
日
進
め
て
き
た
と
思
い
ま
す
。
有
な
く、常に基礎的研究を背 本学の改革はこれからが正 同窓会の貸借契約を大学と
卒業後、虎ノ門病院時代に 手であるが、大学として独 礎看護学︶の七教授を中心 までの長い期間を慈恵で学 り難うございました。
景として、臨床医学 ・医療 念場です。先生方の益々の 締結することを承認した。
会 費 年 額 6,000円
(購 読 料 1,200円 含 )
改革に対して関係各位の協 おけるマイコプラズマやサ 自性を発揮し、基盤を固め に溢れんばかりの出席者が
去る 一月三十 一日 ︵金︶ る可能性に言及し、生化学 力に感謝を述べた。続いて ルコイドーシスの研究、そ て進んでいくと挨拶した。 思い出を語り合う懇親の輪
午後 一時より中央講堂にお 者として充実した研究生活 内科 医とし ての基礎と 臨 のために東大医科研で行 っ 続いて四教授とやはり今年 が名残りを惜しみつついつ
いて、本年三月で定年を迎 が本学に赴任して出来たこ 床、特にIgA腎症の探究を た実験の日々を懐かしく話 で定年を迎える田中寿子教 までも続いた。
退任記念パーティー行れる
毎 月 1回 25日 発 行
購 読 料 一 部 100円
生
酒井教授は ﹁臨床から基 いがけず本学に栄養学講座 て不安定化させることを立 抗アンチザイム抗体や相補
いて話された。また更に将
来の展望としてアンチザイ 礎 へ、そして基礎から臨床 担当教授として招かれて以 証し、アンチザイムとAT DNAなどの試料分与希望
ムが癌抑制遺伝子産物であ
む か って 左 よ り田 中 、 岡 野 、 酒 井 、 児 島 、 林 各 教 授
入 試
競争率
第 5 0 7号
昭 和 32年 9月 12日
(
第 三 種 郵便 物 認可 )
聞
新
大
慈
(
平 成 9年 ) 2 月 2 5 日
19 9 7年
(1 )
戸 澤 満智 子
退 任 記 念講 義 を 終 え て
化学
の雄﹂としての矜持と節度
将来を大いに憂うるところ べからく歴史のある ﹁私学
もあるのです。
ぐ っと卑近な例になりま をも って、柔軟にして独創
第 5 回 外 科 グ ラ ンド ラ ウ ンド
呼 吸器 外 科 担当 で行 わ れ る
リンパ腫 に対する 手術適
第五回外科グランドラウ
ンドの司会を担当した感想
ついて述べられた。
の実際につき討論が行われ
応、また上大静脈の再建法
︵
秋葉直志︶
半間
であ った。
時間が短く感じられた 一時
師より解説された。これに や、上大静脈切除 ・人工血 ら、縦隔疾患の多様性につ 興味が尽きず議論百出し、
これに対し、縦隔腫瘍に対 対する外科の縮小手術と拡
たい し、Osserm
分a
類n 管移植再建が述べられた。 いて述べられ、また縦隔に
の眼筋型重症筋無力症に対
する手術適応や、手術術式 する術前診断法や縦隔悪性 大手術という 二極化傾向に
抑制剤および大量のステ ロ 治療についてビデオを交え
と、基礎にある筋疾患に対
他の臨床経過を解析する
良の面は多少あ ったが、全
て研修医が参加し、消化不
た。今回初めての試みとし
患の関連 に つい て解説し
遺伝 子とM
本−疾CSF
イド投与による免疫不全状 て述べてもら った。田辺助
態に発症した肺胞蛋白症と 手は 最 近報 告 され たG −
いうのがこの症例の診断で
する皮膚筋炎という前医の
体として活発なデ ィスカ ッ
あ った。
診断の妥当性に疑問が生じ
う肺病変のレビ ューを、内
改めて教えられた症例であ
った。
特に ﹁
評価﹂に対する考え方が、 全国の病院を評価するとしたら ら、医療の ﹁結果﹂などのソフ
で放射線科田中講師に画像
科に依頼された。この段階
挿管、人工呼吸の状態で当
担 当 消化器 ・肝臓内科
﹁
光線過敏 ・血小板減少、肝機能異常を認め短
場 所 慈恵医大西新橋校 ・中央講堂
日 時 平成9年3月10日 ︵月︶午後6時より
司 〃
会 相澤良夫 ︵消化器 ・肝臓内科︶
薄井紀子 ︵血液 ・腫瘍内科︶
瀬嵐康之 ︵消化器 ・肝臓内科︶
︵病理第2︶
︵消化器 ・肝臓内科︶
デ ィスカ ッサー:穂苅厚史
宍倉有里 奥秋 靖 ︵消化器 ・肝臓内科︶
康 ・西 村 泰 治
克 ・奥 村
谷口
すが、ここにおいて少々疑 的な立場を主張できれば幸
た
。
を申し述べるならば、テー
の感情とが禦しがたくせめ 問を禁じ得ないことがあり いこれにすぎるものはない
第五回外科グランドラウ 理およびその成績が症例を ついて報告があ った。縦隔
最後に、コメンテーター マを絞 って討論時間を長く
ぎあうところもあると言え ます。学内の公私の場で、 のではないかと愚考する次 ンドは呼吸器外科担当で、 まじえて外科2の永田徹講 腫瘍に対する胸膜肺摘除術 の外科1 山崎洋 次教授か 取 ったつもりが、出席者の
ます。そして私の所属する ﹁退官
第です。
平成九年 一月 二十七日︵月︶
﹂
と
言
う
言
い
方
を
聞
と ころが専 門領域 ではな くことが結 構多い ことで
何にしても、敬すべき大 高木2号館南講堂で開催さ
く、いわゆる教養領域であ す。﹁官﹂ではない立場に 学と愛すべき学生に別れを れた。テーマは ﹁縦隔の外
ることの宿命的な結果とし あることを主張しつつ受け 告げる時のようです。東京 科﹂である。
次に、縦隔腫瘍に対する
考えてみれば、現在まで て、客観的な判断と親身な 入れてきた者にと って、こ 慈恵会医科大学の限りない
まず、重症筋無力症にた にたい して討論が 行われ
の我が人生の六十パーセン 観点とのあいだにゆらぎ、 の混同にはいささか違和感 発展をささえる叡智と良識 いする外科手術の歴史、病 た。
定 年 退 任 に あ た って
寿 子
分 子細 胞生 物学 研究 部門
田中
し、生命そのものの探求に る主題であると共に、極め 変に分けてのビデオを中心
角だ﹂の議論では、病因解 立ち向かう気運が出てこな て厳しい道程であろう。学 とした報告だ った。これに
明 につながら ないこと は ければなるまい。 一病理学 問には終点は無い。しかし 対して、縦隔内嚢胞性疾患
胸腔鏡下手術の実際が、外
らない。この辺で生命科学 伝達等あらゆる分野の情報 科1の塩谷尚志助手より解
という学問に、細分化して を統合してゆかなくてはな 説された。内容は、縦隔腫
いる 多くの新 知識を統合 らず、研究者としては心踊 瘍を嚢胞性病変と充実性病
ト以上の歳月を慈恵で過ご 今日のあり方を嘆きもし、 を感じざるを得ません。す を信じ期待しております。 因論、手術適応や周術期管
させていただいたことにな
ります。その間、国領の進
学課程で接した学生数は、
ざ っと数えて四千名近いか
と思われます。私自身は助
手 ・講師 ・助教授を経て教
授に至る間、その つき合い
方は少しずつちが っても主
として 一年および 二年の間
顔をあわせた訳です。その
中には兄弟姉妹あり、親子
がする。
ではなく、そこに何を見出 術中の病変の取扱い方や器 をするという形式で古田島
すかにかか っていると思わ 具に関する質疑応答も行わ 助手の司会、清水医員の症
ータを解析することの大切
村松医員に皮膚筋炎に伴
いたさ
だで
いあた
さ
を
る。
。 臨 床 の 難し
重々承知しているつもりだ 者が﹁固有の形態なくして、 良いチームを組み、このよ に対する術前診断と手術適
たため、当科から神経内科 シ ョンが行われ たといえ
し、形態に機能的 一面を付 固有 の機能は発 揮し得な うな総合研究の中で、形態 応、数 ㎝の皮膚切開を加え
に依頼した。最終的には筋 る。このカンフ ァレンスを
AV
sA
sT
iS
s:
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ei
dd
e
To
horacic S−
けたく組織化学的手技を用 い﹂と云 っているが、固有 の研究が出来たら幸せだろ る こ と ︵
ジ スト ロフ ィー と診断さ 通じて感じられたのは、以
いて悪戦苦闘した研究生活 の組織の中で細胞と細胞が うと退職を前に夢見る思い
れ、その経緯を神経内科の 前の情報に惑わされず目の
今回は診断名を伏せて臨 井上教授から コメントして 前の患者さんを診察し、デ
︶のu得r失gにeつr
いyて
形態学は決して古い学問 の議論が行われた。また、 床経過、画像より鑑別診断
二代あり、現在にいたれば
私の研究の主軸は常に形 であ ったような気もする。 どのように接着して情報を
教授 ・助教授になるものも 態学 であ った。﹁形態学な
研究のテクノロジーが急 交換し、機能を全うして行
あり、学内 ・学外に活躍す んて今時古いよ﹂と言う声 激に進み、今やDNAを触 くか、固有の形態がこの機
っていなければ研究者にあ 能にど う関与し ているの
織内の蛋白発現に関する論 らずという風潮さえある。 か、病態ではこれがどう動
るあり、国内 ・国外にあり も以前から聞かれ、ヒト組
と数えられます。
︵
佐藤哲夫︶
三十∼四十年を要すると試算さ ト面に重きをおくべきだと考え
第 10 回 内 科 グ ラ ン ド カ ン フ ァ レ ン ス
れる。長い伝統に培われた れた。
例呈示で開始した。症例は 田助手に肺胞蛋白症の概念
慈恵大学の形態研究を新し
三番目に、拡大切除を要 某病院で六年前より皮膚筋 と病理所見を、多田助手に
い時代の研究に有効に活か した縦隔 腫瘍とい う題目 炎と診断されていた三十 一
されることを切に願 ってい で、外科1の佐藤修 二助手 歳女性である。胸部異常影
私にと って慈恵が出身母 文を投稿すれば機能が不明 しかし生体の形態、生理は くのかが今後改めて問われ
る。
米国とは大きく異なるとの指摘
より第三病院の手術症例に が出現し呼吸不全となり、
にわたるゆえの親身な余り HE染色だけで ﹁丸だ、四 けでは諸問題の解決にはな 子、蛋白、細胞内シグナル
校ではないから冷静に見え とのことで拒絶されるとい 古代から基本的には何 一つ る総合課題ではないだろう
る部分もあるものの、長き う辛い思い出もある。今時 変わ っておらず、DNAだ か。この答を出すには遺伝
医 療 にお け る情 報 公 開 と は
診断の立場から、研修医に
テー マ
には耳を傾け てお く必要があ れている。そこで求められてい られており、診療パフ ォーマン
1症例呈示
期間に肝不全で死亡した1症例﹂
は臨床経過を総合して肺病
転科後、気管支鏡による
2症例検討
症と診断できたが、CT所
見が典型的ではなく経過も
た。前医より投与されてい
複 雑で難 しい症例 であ っ 4ポルフィリン代謝の異常と疾患︵
特に肝疾患との関連︶
3病理所見
気管支肺胞洗浄で肺胞蛋白
てもらい討論した。
変に対する鑑別疾患を挙げ
るのは、評価基準を統 一化した スに対する正確な評価こそ今最
医療体制の将来的なあり方を 医療機関の評価内容を公開すべ る。
検討する国民医療総合政策会議 きであるとしたものといえる。
しかし 一方では マス コミを通 うえでの自己評価でありその開 も求められているものとされて
は、その中間報告として ﹁二十 医療機関の機能評価としては、 じ、医療機関の格付けやあたか 示である。
いる。論文や業績の点数化は容
一世紀初頭における医療提供体 すでに﹁日本医療機能評価機構﹂ もフランス料理店のランキング
本学においても、職員に対し 易かもしれないが、診療のパフ
ォー マンスをいかに評価してゆ
制について﹂をとりまとめた。 が発足しており、平成九年から の様な病院ミシ ュラン、名医シ ての ﹁
自己評価﹂がなされてい
は 一定の水準 に達 したものに リーズまで登場している。これ ると聞く。病院機能も整備され くのか、患者満足度などと共に
﹁認定証
﹂を交付することにな らの情報が全 て誤りであるとは つつある本学の附属病院につい 指数化が難しいだけに今後注目
ったという。
本学においてこそ新たな自己
限らないが、次々に類似のもの ても評価基準を明示し、病院機 されるべき問題点といえよう。
この機構はすでに五十年以上 が出版される背景には国民の良 能を自己評価し、その内容を開
︵
皮膚科︶
戸田剛太郎 ︵消化器 ・肝臓内科︶
小林 直 ︵血液 ・腫瘍内科︶
7血小板減少の鑑別診断
8まとめ
● A5 頁 126 図 35 写 真 15 1997
定 価 (本 体 2.
800円 + 税 ) 〒400[
I
SBN4−
260−
15712−
4]
● A5 頁 262 図 213 1997
定価 (
本 体 3.
800円 + 税 ) 〒400
[
I
SBN4−
260−
13830−
8]
● B5 頁 172 図 150
写 真 100 1997
定価 (
本 体 8.
000円 + 税 ) 〒400
SBN4−
260−
13045−
5]
[I
● B5 頁 688 図 45 写 真 5 1997
定 価 (本 体 15.
500円 + 税 ) 〒520
[
I
SBN4−
260一日497−
2]
この中には、医療費の適正化や
病床数の適正化、医師数の削減
などに つい て提言している ほ
5光線過敏症の臨床
か、医療における情報公開の推
た免疫抑制剤を中止し、大
6肝不全の病因とその治療
上出良 一
量のステ ロイドを減量する
洗浄を繰り返したところ、
命することができた。免疫
戸島恭 一郎 ︵消化器 ・肝臓内科︶
進についても言及している。医 の歴史を持 つ米国の第三者評価 い医療を受けたいとする声の高 示していくことも今後は求めら 評価体制が整い、更にその情報
療機関の機能に応じた、正確で の手法を導入してつくられたも まりがあることは、無視できな れていくのではないだろうか。 開示がすすみ、二十 一世紀の範
肺病変は著明に改善して救
とともに、気管支鏡で肺胞
わかり易い情報が国民に容易に のだが、種々の医療環境の違い い事実である。前述の機構が年
近年、米国では病院機能を正 たる病院機能を有する大学附属
提供できるシステムの重要性を から評価のあり方に疑問を投げ 間に評価できる病院数は 二〇〇 確に評価するためには ﹁
施設﹂
病
院
と
な
る
こ
と
を
期
待
し
た
い。
論じたものだが、換言すれば、 かける声も少なくないという。
〇〇∼
と三
限られており、もし や ﹁構造﹂などのハードな面か
︵F︶
[
I
SBN4−260−157 11−
6]
免疫寛容
本 書 は ,簡 単 な シ ェ ー マ で 「サ イ ン 」
の 特 徴 を示 し ,そ の 臨床 的 意 義 を
簡 潔 に 解 説 。今 回 第 2版 で は X 線 診
断 の サ イ ン の み で な く ,CT,
M RI
,
エ
コー 等の 新 しい モ ダ リテ ィに 対応
し た 画 像 サ イ ン を 追 加 した 。
医学 ・生物 学 の 中で も最 も ス リリング
な免 疫学 の重 要 な テー マに つい て ,最
高 の研 究者 が生 き生 き と語 る レク チ ャ
ー シ リーズ 。
各 テー マ が い ま どの よ う に解 明 さ れ ,
今 後 どの方 向 に向い てい るか を具体 的
に打ち 出す 。
ストー リー性 を重 視 し,魅力 的 な切 り
口で 語 る こと によ り,後進 の 研究 者 を
鼓 舞す る内容 。
定 価 (本 体 2,
800円 + 税 ) 〒 400
甲 田 英 一 ・古 寺 研 一 ・平 松 京 一
本 書 は ,臨 床 現 場 で す ぐ に 役 立 つ
産 婦人 科 手術 の 基本 と心得 て お き
た い事 項 を シ ェー マ と写真 を豊 富
に 使 用 し て 解 説 。 手 術 を 施 行 して
い る実 際 の手 順 に従 って解 説 。初
心 者 にも 容易 に理解 で き る。
小児 科 の 実 地 医家 が 診 療す るす べ
て の 疾 患 に つ い て ,最 新 の 治 療 法 を
具体 的に解 説 。定 評あ る 「
今 日の 指
針 シリー ズ 」の 1冊 。 第 11版 で は
項 目 数 を 600に 増 や し て ,560名
の専 門 医 が あ らゆ る 診 療場 面 に 対
応 で き るよ うに解 説 。
永 田一郎
呼 吸器 ・
感 染 症 内科 担 当
● A 5 頁 112 図 21 写 真 15 1997
画 像 診 断 の ための
知 っておきたい
サイン 第 2版
免疫系の調節因子
産婦人科手術
の基本
多 田 富雄 ・石 坂公 成
今 日の
小児治療指針
免 疫 のフロンティア
● 新 し い モ ダ リテ ィ に 対 応 し た ,
必 携 のハ ン ドブ ック
編 集委 員
多 田富 雄 ・谷 口 克
高 津聖 志 ・宮坂 昌之
●豊 冨 な写真 とシ ェーマで 実際
の手順 に従 って解説
編 集 矢 田純 一 ・柳 澤正義
山口規 容子
論説
●免疫 学の重 要なテーマ を最 高の 研究 者が生 き生 きと語 る
レクチ ャー シリーズ
●小 児疾患 の最 新の 治療法 を専
門 医が具 体的 に解 説
第 11版
第9回内科ブランド
カンファレンス行わる
(2 )
(
平 成 9年 ) 2 月 2 5 日
19 9 7年
聞
新
大
慈
(
第三 種 郵便 物 認可 )
第 5 0 7号
医学書院
本研究皮膚科学会が開催さ
が就任され、その後朝倉文
三男三教授 ︵明29−大11︶
介された。初代として笹川
生 涯 教 育 セ ン タ ーだ よ り
テー マ ﹁腎機能が低下し
新 生 児外 科 、
最 近 の動 向
水 野良 児
︵PFC︶と呼ばれる病
出生後必要であれば直ち
受ける機会が増加したの
が母体搬送により治療を
尿路奇形であ った。これ アに対しては初期には子
25例のうち10例︵
40%︶が 施設では胎児手術が行わ
水腎 ・水尿管症その他の れている。横隔膜 ヘル ニ
五年間の出生前診断症例 た。すでに米国の 一部の
系の奇形であり、さきの 治療 法が導 入され てき
発見されるものは泌尿器 に胎児手術という新しい
た。この中で最も頻繁に せなければならず、ここ
のは25例 ︵28%︶であ っ らかの手段で肺を発達さ
出生前診断がなされたも れを防ぐには胎児期に何
た新生児症例88例のうち 難なものにしている。こ
ても最近五年間に経験し 生するPFCが治療を困
が増加した。当科におい ではあるが、必然的に発
に外科的処置を行う症例
れ、母体とともに搬送、 して扱われてきた重症例
娠中に胎児奇形を発見さ 進歩からか つては死産と
この超音波診断により妊 態である。出生前診断の
生前診断は 一般化した。
あろうと思われるほど出 にしている胎児循環遺残
受けない妊産婦は皆無で 陥る。これが生存を困難
娠期間中に超音波検査を 結果全身の低酸素血症に
があげられる。今や、妊 シ ャントが起こる。その
音波診断の普及 孔、動脈管を介した右左
因として胎児超 ると肺高血圧となり卵円
を変化させた 一 る。肺の低形成が存在す
外科診療の様相 起こらなか ったことによ
近年の新生児 臓に圧迫され肺 の発達が
外
科
1
れており、祝賀会がより意
疾患の学習の仕方もそ 日 ︵土︶四時から外科第
3 月8 日 ︵
土︶
た時どうすればよいか﹂
診療メモ
義あるものとな った。
ンザの流行を断ち切 って うな知識の修得の仕方を
じて診療を続けたいもの
の辞で始まり、歴史ある教 郎 ︵昭5−昭8︶、土肥章
冷たい雨がインフル エ デジタル式とでもいうよ い古されたことを肝に銘
室の今後の更なる発展への 司 ︵昭8−昭18︶、土肥淳
くれれば幸いですが、あ 採用しないと氾濫する情 です。
今年に入 ってはじめて
いかわらず診療所を訪れ 報を効率的に利用するこ
三 ︵大11−昭5︶、渡辺 一
決意が述べられた。岡村学
る風邪の患者さんの多さ とはできません。
祝賀会は新村教援の開会
長からは次の百年に向う新 正二 ︵昭47−59︶の各教授
にてんてこ舞なさ ってい
落葉樹の芽もそろそろ ると思われますが、いか 後の医療との関わりをテ
慈恵医師会より次のビ
午後 4 時より
講師 川口良人教授
︵内科第2︶
大学 2 号館10 階
生 涯 教 育 セ ン タ ー 月 例 セミ ナ ー
日時
場所
セ ミナ ール ーム A
見違えるほどきれいにな っ
〒 105 東 京 都 港 区 愛 宕 1−6−6
一郎 ︵昭21−昭47︶
、笹川
たな構想に期待するとの祝 に受継がれ、現在新村眞人
る先生方が多いのではな のような側面からの再構 1の石 川正昭 教授に よ
らはインターナシ ョナルな ける諸先輩の並々ならぬご
いまは寒々としている裸 わらない基本は、患者の い中、多数御出席いただ
識にさらに新たな情報を
積み重ねてゆくのではな
く、非連続的な沢山のフ
レームを用意してそれぞ
れに相互の関連を持たな
い情報を詰め込んでゆく
地道 な活 動
以前から、いつかはやら
ねばと思いながら先延ばし
にしていたことのひとつに
学生会室の掃除があ った。
それで先日、クラブのシー
ズンも終わり、試験までは
まだ間があるという絶好の
機会を利用して、学生委員
全員で大掃除をすることに
な った。
おかしなことに我々はま
ず、それまでこの部屋を使
っていた先輩たちに自分た
お 待 ち 会 わ せ 、 お 食 事 に ご利 用 下 さ い 。
の月例セミナーが二月八
辞を賜り、次いで日本皮膚 教授が教室を主宰されてい
センスのある新村教授のも 苦労がうかがわれた。引続
と、この百周年をひとつの き皮膚科同窓会から開講百
の木ももうすぐに淡い緑 話をよく聞き、よく診る きましたが、今年もよろ
築の必要な時期にきてい り、臓器移植の現状と今
通過点として教室がますま 周年記念事業に対する後援
に覆わ れる ことを想 う ということに尽きます。 しくお願いいたします。
いかと思います。
す発展することを祈るとい の目録が新村教授 へ手渡さ
と、私たちも 一度全部葉 園芸の専門家が ﹁松のこ
科学会理事長の原田先生か るが、それぞれの時代にお
う励ましの祝辞を賜 った。 れた。その後順天堂大学皮
動いてくる時期となり、 なる時代になろうとも変 ーマに行われました。寒
そして名取名誉学長の ﹁称 膚科小川秀興教授及びに金
を落としてしま って新し とは松に聞け﹂というの デオテープをいただきま
い葉を再生できたらすば と同じように ﹁病気のこ し た。 ﹁生 涯 教 育 講 座
いかという気がします。 わちいかに患者から学ぶ リーズ脳虚血と神経細胞
子、川村益彦、藏原惟治、
当日の出席は他に、井上 斎藤益三、手島正大、富英
らしく清々しいのではな とは病気に聞け﹂、すな 神経疾患 ・最近の進歩シ
献觴
寿﹂の御発声により乾 沢大学福代良 一名誉教授よ
明 治 二十九 年 ︵一八九 百周年記念祝賀会が開催さ 門会からは平山芳元教授以
六︶、東京慈恵医院医学校 れた。大学からは名取禮二 下七十 二名、教室員、研修 杯を行い歓談に入 った。途 りそれぞれ心温まるエピソ
その他十七名、 中記念撮影を行 ったが、多 ードを交 えたお祝 辞を頂
に皮膚科 学講座 が開設さ 名誉学長、阿部正和顧問、 医五十 一名、
これまでに蓄積された知 かという、この昔から言 死﹂ ︵橋本隆男︶
迎えたことを記念して平成 長のご来駕を賜り、日本皮 参加を 得て盛大 に行われ るという盛況であ った。
た。南多摩支部長及び大学
員各 位の自 己紹介があ っ があ った。
宴もたけなわの頃、皮膚 盛会のうちにお開きとな っ
八年七月 二十七日、東京プ 膚科学会からは原田昭太郎 た。また、その前日から同
リンスホテル マグノリアホ 理事長を始め 二十名、海外 ホテルにて新村眞人教授の 科同窓会長鏑木公夫君より た。
ールにて皮膚科学教室開講 の皮膚科医三名、皮膚科同 会頭のもと、第二十 一回日 ﹁教室百年のあゆみ﹂が紹
︵
上出良 一記︶
南 多 摩 支 部 総 会 開催
、
当局に対する自由な発言等
明、藤城敏幸、三井健二、 考えてお招きせずに、はじ
薫
、
牛
尾
剛
雄
、
氏
原
鉄
郎
、
南多摩支部総会が昨年十 た。また中村会計幹事によ もあり、会員相互の理解も 内山克己、大山行雄、緒方 山崎晴市、原正忠。
めて会員のみで慈心会を開
一月十三日︵に
水ホ
︶テルザ ・ り会計報告がなされた。例 深める盛大な支部総会とな 直人、小田切理純、河西悦
︵平野昭邦記︶ 催した。
った。総会の閉会に当たり
この 一年間で会員が 二名
エルシー町田で、出席者総 年は大学に講師派遣をお願
手術を、 一名がリハビリ中
逝去し、会員数は五十四名
色の濃い日本の医師過剰時 に加えて敗戦と共に廃校と せられるが、卒後五十年の
となりそのうち三名が入院
た。総会の幹事は中村喜典 今回は会員の親睦を計る時
君︵
昭33︶、椎名 一雄君 ︵昭 間を充分とりたいとの事で
代からみるとうそのようで な った医専 ・海外よりの引 大学主催の慈心会にはいま
慈心会︵昭和26専・27専︶開催
56︶、中村出君 ︵昭57︶で、 行われなか った。
司会は平野昭邦 ︵昭33︶が
武田好敦君 ︵
昭23︶の乾
数二十五名が集い開催され いして講演会を催したが、 加藤春 一君 ︵昭2
4︶の挨拶
行 った。冒頭に、田村裕支 杯音頭で宴会が始ま った。
そのわれわれも卒業して り、何かと話はつきず三時
に各医大 ・医学部に臨時医 例の慈心会を鎌田君 ︵品川 たのである。
専門学校が新設されると共 から四十五年を経過し、定 間があ っという間に経過し
医師が不足し、全国に医学
が突入してから軍医と 一般 われわれの級である。
現在の世界経済戦争に敗 のため留年者が多く、それ で、何となく年令を感じさ
部長 ︵昭25︶の挨拶及び詳 町田市民病院長の貴島政邑
あるが、太平洋戦争に日本 揚学生とで形成されたのが からだれも欠けないで多数
の者が出席するつもりとな
しい大学の現況報告があ っ 君 ︵昭33︶を皮切りに、会
田中 寿 子 教授 退任 記 念講 義
︵DNA医学研究所分子細胞生物研究部門部長︶
日 時 平成9年3月18日 ︵火︶午後4時より
になりうるか﹂
信
閉会の辞を述べて祝賀会は
れ、今回めでたく百周年を 岡村哲夫学長、酒井紀病院 合計 一六七名という多数の 人数のため 二回に分けて撮 き、最後に平山芳元教授が
学 会 ・同 門教 室 員 な ど総 勢 167名 が集 う
場 所 国際文化会館 三四七〇ー四六 一一
演 題 ﹁リンパ球は癌細胞攻撃の エフェクター細胞
通
た学生会室で週に 一回のミ
らに対しては出生後に尿 宮を切開し胎児を外に出
ーテ ィングを開いている。
路
修復術を行 っている。 しての修復であ ったが、
そこで話し合われたこと、
呼吸器系消化器系奇形 最近では胎児鏡下の気管
決ま ったことはきちんと文
︵
横隔膜ヘルニア、先天 結紮という手技に変化し
書にして学生に配布する、
性肺嚢胞症患、十 二指腸 つつある。胎児の気管を
ということも前回のミーテ
ィングで決ま ったので、こ
閉鎖、鎖肛など︶や腹壁 結紮すると肺組織が過形
の場を借りてお伝えしてお
の異常 ︵臍帯ヘル ニア、 成になることは 一九六〇
く。
腹壁破裂︶も超音波診断 年代より知られており、
また、近々慈恵医大のホ
は可能である。奇異な印 この臨床応用が胎児鏡下
ームページが開設されるの
象を受けるが横隔膜ヘル 気管結紮である。これに
と同時に、学生会および各
ニアは出生前診断の増加 よりPFCが予防され横
クラブのメールボ ックスも
できると聞く。利用の仕方
とともにその治療成績が 隔膜 ヘル ニアの治療成績
や規則など、細かい点はま
低下した。この原因は出 向上につながるものと期
だ学生会の方にも届いてき
生時に存在する肺の低形 待されている。当科にお
ていないが、いずれはこの
成である。これは胎児期 いても胎児外科の導入を
ような伝達事項もネ ット上
に横隔膜より脱出した内 鋭意検討中である。
でやりとりされる日がくる
ことであろう。大いに利用
してさまざまな意見や情報 案内﹂というような文書に いくらかでも知 っていただ
をお寄せいただきたい。
な ってしま ったが、学生会 ければ幸いである。
何やら ﹁学生会からのご という組織の地道な活動を ︵学生委員長 堀田亮︶
03 −343 1−0 109
レ ストラン & バ ー ラウ ン ジ
生
専が併設された。
区議四期目︶のお世話で、
出席者は足川、飯塚、小 ちが掃除をすることを告げ
それとは別の医学専門部 品川のホテルパシフィック 出、友成、矢崎 ︵以上夫人 なければならなか った。し
と して慈恵 でも昭和十 九 にて平成八年十 一月二十三 同伴︶、井之川、鎌田、岸田、 かし、もう卒業して数年に
年、二十年と二回にわたり 日に開催した。出席者は二 久保田、後藤、越田、小林、 もなるような先輩の持ち物
もど っさり出てきたので、
学生が募集されたが、敗戦 十三名、他に夫人方が五名 國府田、斎藤︵、
香斎
︶藤︵、
益︶
申し訳ないとは思いながら
と共に新規募集は停止され の計 二十八名で、会員の平 高梨、高野、永井、浜野、
もジ ャンジ ャン捨てさせて
た。敗戦後の社会的混乱、 均年令は七十才弱となり、 日高、本田、益野、丸山、 頂いた。
食糧不足と疾病︵
主に結核︶ 恩師の先生方は健康状態を 吉村。 ︵足川力雄記︶
現在私たちは、そうして
宿 泊 特 別 料 金 を ご用 意 して お ります。
愛宕山 東急イン
学
く わ し く は、 お 電 話 下 さ い 。
東 京 慈恵 会 医 科 大 学 関係 者 の皆 様 には、
皮膚
科学教室開講百周年記念祝賀会
※退任記念講義終了後、午後5時30分より祝賀会が
開催されます。
近 くに あ り ま す 、 安 ら ぎ の ホ テ ル 。
第 5 0 7号
(
第 三種 郵 便物 認 可 )
聞
新
大
慈
(平 成 9年 ) 2 月 2 5 日
19 9 7年
(3 )
田、西 山、堀 田、旗 山、大滝 、 の不撓不屈の精神を発揮さ
れた 一事を以て良く知り得
昭十七会クラス会はこれ 齢を重ねるだけでなく、慈 会の辞で再会を約して和や
辞
し難い苦難な抑留生活を送 ながら、毎年優れた研究成 から期待して止みません。
寒のシベリアで筆舌につく 当たられる多忙な身であり な将来を築かれんことを心
先生の御霊よ安らかなれ
功賞を授与され、医師の模 と祈念し、お別れの言葉と
られて、着のみ着のままで 果を学会発表し日医最高優
慈恵俳壇
当時の日本は廃墟と国民 範となる数々の業績を残さ いたします。 合
掌
帰国されました。
誠
岡山 藤本剛平
伝わ ってくるような力作で 寝ても見ゆおぼろに点る港
ある。そして全体を通じて の灯
感じるのは、多くの難問に
立ち向かう若い医師の勇気 冬山の裾をめぐりて村 一つ
であり、患者や家族にそそ どの家も洗濯を干す三日か
帝 国ホテル
く生き甲斐療法として 一般
願わくば、先生の偉大な
りません。
々只
落涙し止まることを知
今、将に巨星落つの感に
で懇親の宴に入 った。
古明 地、 近、 阿部 、斎 藤、 取得された努力は学究の権
ることでもあります。
くし
舩橋 、渡 辺、 川本 、小 関、 化 のような人 でありま し
出席者は伊藤、服部、浜 人 二名。 ︵蒲 池直 裕記 ︶
新たにするものです。
参考までに、葬儀の際の
弔
り、戦友でもありました。 げられました。しかも貴君 力を合わせ、太陽に向いて
貴君は不幸にも戦後、厳 は自ら病院長として診療に 輝くひまわりのように確か
の如くその 一生をかけめぐ ごし、また甲府連隊同期で をこよなく愛した姫路の人 八家病院の隆昌のために、
った方で、更に尊敬の念を 兵役をも共にした親友であ 達 への医療活動に 一身を捧 兄弟姉妹が大きく和して、
一宮町から白鷺城で代表さ 足跡を噛 みしめ大 事にさ
れる姫路に居を移し、生涯 れ、さらに八家家の繁栄と
杉本 、蒲 池の 二十 七名 と婦 た。その後、出身地宍粟郡
横山 、武 山、 永倉 、野 村、 れ、不自由な図書館で四年
稔
老い更に冬深みつつ光の
久保 、 口羽、 楠岡 、松 本、 間起居しながら、博士号を
野
星
帝国ホテル自慢の料理を 人の生き方の指針としても まで振興基金に毎年十万円 恵に育 てられたこ とを喜 かに終了した。
味わいながら遠路出席者、 広く認められるようにな っ を寄附してきて、今回も今 び、精神的にも成長して二
語りつつ浮かぶ面影冬ぬ
久方ぶりの参加者の近況報 た。それは先生の御功績に
告と次々に宴は盛りあが っ よるもので、我々は先生の
最後に次年度幹事の近君
後十年間も同額の寄附を続 十 一世紀の心の時代に役立
けることを決議した。その ちたいと願 っている。
て行 った。玄人の域にまで 御年令に達するにはまだ二 ことからも少なくとも十年
︵
昭 16後︶ 河
畏 友 八 家 正 俊 君 のご 逝 去 を 悼 み て
趣味を深め つつある話や、 十年あまり残されている。 は生きねばならぬし、ただ の挨拶に続き、川本君の閉
探求心にかられて海外 へ足
をのばした老いを知らぬ話
など、勇気づけられるもの
二十 一世紀は心の時代と
昨年十 一月七日は立冬で があ った。
あ ったが、その二日後の九
ことと此岸 ︵
俗界︶より貴
日︵、
土昭
︶十七会クラス会が いわれるが、我々は有無を
八家君の突然の訃報に接 より八〇〇万年といわれて きたいものと念願しており 弔辞を記して、八家君のご
四組の当番で杉本君の企画 言わさず卒後すぐに死地に し ︵平成九年 一月十七日、 おりますが、八十歳でも十 ましたのに残念です。今は 冥福を心からお祈りして筆
によ って帝国ホテルにおい 赴かされて、精神的に鍛え 午前八時十五分幽明境を異 万分の 一であり、八十歳が 畏友八家君は彼岸︵天上界︶ をおきます。
て行われた。当日は割に温 られたその我々の世代は、 にする︶、心から哀悼の意 長いと思 っても全く ﹁永遠 で永遠の生命をお過ごしの
かい日で我々老人の集まり 世紀に役立ち得るものを体 を表するものです。古来よ の 一瞬﹂と思えます。
総虚脱の中で、明日への希 れた偉大な存在でもありま
望すら見失 っている時に、 した。このことは慈恵医大
田
図書館の濡れし木立に春の
らしむきや息づかいまでも 月
貴君は逸早く母校片山整形 卒業生 一万人余の信望を担
岩国 村井 一路
外科教室に戻られ、持ち前 う同窓会会長として活躍さ 鳥雲に入り渦潮の波くらし
︵
昭28︶ 松
がれる庶民的なやさしさで な
り
伊 藤正 次郎 ︵昭20 東京 ︶
物 故者御氏 名
著者の藤井康広君は福井 ある。日本で最初に訪問看 焼いて煮る母の寒鮠思ひけ
老い、病み、死ぬとい っ たい﹂と答えるという。
た人生の終幕は、かつては
当然のことのように住み慣 県三国町で医院を開業しな 護をはじめたのは高木兼寛
戦後、私たちは ﹁老 ・病 ・ じめ地域医療、地域福祉に の今日、先生の思想を受け
れた自宅のなかにあ った。 がら同時に老人ホームをは 先生であるが、百 二十年後
平成元年 ﹃臥して死を待
死﹂を病院や施設のなかに きわめてアクテ ィブに活躍 継いで藤井君のようにたく
連軍乱入を控えて、関東軍 長。慈大同窓会世田谷支部
つより﹄と肝嚢結石手術を
から ﹁最善の策を講ぜよ﹂ 結成。
日本軍の敗戦と怒濤のソ で開業。二十八年区医副会
在ー
宅 医療 奮 戦 記ー
藤井康広 ︵
昭 54 ︶著
﹁楽 し い生 き 方 す て き な 死 に 方
には恵まれていた。
得し ているの ではないか り ﹁人生朝露の如し﹂とい
好漢八家君は八十 一歳で 兄のご冥福 を祈る もので
八家君のご逝去は私にと
って痛 恨の極 みでありま
渡辺君の開会の辞に始ま と、潜水艦乗員として生還 われ、老子も ﹁死生有命、 日本人の男性平均寿命を越 す。
り阿部君の大学近況報告の した友の話に耳を傾けなが 富貴在天﹂といわれており えてはいますが、最近の現
私 の好きな 慈恵 の歌に す。貴君とは慈恵医大で予
後、渡辺君のクラス現況報 ら考えさせられた。更に九 ますが、全く人生は ﹁永遠 役 一〇〇歳 ・永遠の青春時 ﹁げに星霜はゆきやすく、 科三年、学部四年を共に過
告が行われ物故者 への黙祷 十七歳の御高令で亡くなら の 一瞬﹂﹁一
瞬の永遠﹂の 代が訪れていることを考え 夕べむなしきかげろうの、
ますと、まだまだ現役でひ 命にも似し哀れかな、黎明
をささげた。また在籍人数、 れた恩師高良武久名誉教授 感を深く致します。
出席者数、欠席者の消息等 の御業 績 へと思 いを馳せ
思えば日本人の平均寿命 まわり病院︵
花の八家病院︶ 告ぐる暁に、ひとり痴人は
が述べられた。会計報告は た。今や森田療法は世界的 は戦後のびつづけ、女性八 の理事長として、
道元の﹁
生 夢むとも、我らはゴールに
杉本君が行い、堀田君、伊 に認められ国際学会が持た 十三歳弱、男性七十七歳弱 也全機現﹂で働き、診療し、 舞わんかな﹂とありますが、
藤君による ﹁臨床懇談会﹂ れるようになり、ただ神経 で大体八十歳が平均寿命と 地域の人々の診療や介護、 八家君は正直、真摯、真面
権
の報告の後、小関君の乾杯 症の治療法としてだけでな なりました。人類地球誕生 リ ハビリに貢献していただ 目 一途の誠の人で、この歌
嘉 悦 先 生 の百 四 年 を 偲 ぶ
国
と託 された先 生は煩悶 し
同十六年医専出身初の軍 た。
鈴木 朋幸
営業部
〒 100 東 京 都 千 代 田 区 内 幸 町 1−1−1
また は アシ スタン トの 武 田 、富 沢 まで 、
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︵
昭 24︶ 謝
に努力、金杉学長の協力を
君は 本大学 を卒業 後 ︵
昭 がいることは心強いかぎり
封じ込めようとしてきたの している外科医である。同 ましく活躍している医療者
村 木金 之助 ︵大 14東京 ︶
杉 山捷 ︵昭44 ・埼玉 ︶
野手列 ︵昭19 ・茨城 ︶
熊 倉雄 夫 ︵昭8 ・新潟 ︶
石井勤 ︵昭 12 ・香川 ︶
池 内準 次 ︵昭27 ・東京 ︶
(03)3582−0111
〒 105 東 京 都 港 区 虎 ノ 門 2−10−4 玉砕せよと命ずるか、捕 希望。平成四年九月、支部
︵慈大名誉教授︶
54︶、附属病院に六年、地 である。伝統と云うものの
元の三国町立病院に八年勤 強靱さであろうか。
務した後、ここ数年は市井
東京慈 恵会 医科大 学 担 当
東京 慈 恵 会 医 科 大 学担 当
TE L(03)3504−1111(内 線 4592)
ホ
テルオー
得て十 一年度の卒業生から 医少将となり、東部軍軍医
四陣まで計十七名を教官に 部長。このとき各病院の捕 虜の恥辱に耐えよと命ずる 有志 による百歳 祝賀晩餐 ではなかろうか。いまでは
採用。
か、戦場離脱の汚名を甘ん 会。
虜
治
療
を
視
察
。
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八〇パーセント以上の人が
昭和十二年軍医大佐。同 症候群の黒人兵が、腐 った じても、生きる努力に賭け
同七年六月、肛門管癌に 病院で亡くな っている。し
十三年南京の第十五師団軍 牛 乳を飲ま されると 訴え てみよと命ずるしかなか っ より人工肛門設置。脱出に かし最近にな って病院での
同窓最長老の嘉悦三毅夫 医部長。
た。豆乳だ ったが、牛乳を た。六千名の傷病兵と、看 つれ就床を余儀なくした。 延命治療にたいする疑問や の 一開業医として訪問看護
先生 ︵大3︶は、昨年十二
このとき猖獗を極めてい 取 り寄せ てやれと指 示し 護婦、衛生兵、職員各三百 高齢 にて疼痛 は終始訴 え 在宅医療にたいする意識改 に出かけ、最期を迎える患者
月 二十六日午前 一時半、百 た マラリア対策として、師 た。
(
03)
ゆ き
と も
卓
辻
国 内 セ ールス 課
四歳の生涯を閉じられた。 団長に進言。内地から五十
戦後米軍の捕虜虐待容疑
先生は明治 二十五年熊本 台の顕微鏡を購入、各隊か で、起訴決定寸前に ﹃人道
窓会の組織強化 ・運営
まとめたものである。大半 の分野で益々ご活躍下
に絶大な功績を残され
は末期ガンの在宅ホスピス さると同時に、母校の
の話であるが、いずれの話 発展にもご助力いただける た二先輩のご冥福を心より
ものと期待しております。 お祈りいたします。
も実名で登場する患者の暮
3224−6600
ダイヤル イン
に10万 円寄 附 を決 議
に生まれ、四十三年慈恵医 ら大学卒の 一般兵五十名を 的な軍医ジ ェネラル ・カ エ
専に入学。二年後陸軍軍医 集めて顕鏡兵を養成、短期 ツ﹄という地方紙の見出し
依託生、大正三年卒業。翌 間に成果を挙げた。のち軍 が米軍紙に載る。あの黒人
名に対し、全責任は自分が ず。
革のこともあ って、死に方
さんや家族との温かい心 ★今月号では、母校の第 一 ★寂しさといえば、本号は
とるから内地帰還を目指す
同八年十 二月 二十 一日、 についての意識もようやく の触れ合いのなかで多くの 線、というより各界の第 一 今年の二号目に当たります
と命じた。撤退にあた って 二週前より摂食不良にて栄 変わ ってきたようである。 感動的な ﹁別れ﹂にも立ち 線でご活躍の六教授から、 が、先月 ・今月と ニケ月続
大量の車両調達を承知しな 養点滴。
現在、 一般市民にアンケー 会うことができたという。 定年退任に当た っての
けて我が同窓会顧問の
か った鉄道支所長は、切腹
同二十五日意識薄れ午前 トをとると、九〇パーセン
お言葉をいただいてい
をお訃
届報
けしなくて
本
書
の
内
容
は
、
そ
こ
で
得
するとの先生の捨て身戦法
ト近くの人が ﹁自宅で死に
一
時
半
、
口
か
ら
泡
を
出
す
と
ま
す
。
寂
し
さ
を
覚
え
ま
ら
れ
た
多
く
の
体
験
か
ら
と
く
はならない寂しさは深
いものであります。同
に印象深か った七つの話に すが、これからも各々
昭和 二十四年。世田谷区 献身と努力には敬服する。
ご用 命 をお 待 ち申 しあげてお ります。
今 後 10年 間振 興 基 金
年三等軍医正 ︵少尉︶、近 律違反、統帥権侵犯などと 兵の話で不起訴とな った。 に目をつぶ った。かくて闇 みるまに、潮の引くごとく
歩三連隊付。
本省医務局で問題にされた
昭和十九年哈爾浜第 一陸 商 売までし てともか く生 静かに息を引きとられた。
昭和九年、軍医中佐で関 が岩松師団長が庇護した。 軍病院長。同年四月医専出 還。下山陸相より慰労の言
戦後再婚の敬子夫人 ︵眼
東軍司令部付兼満州国軍事
同十五年、北京陸軍病院 では異 例の軍医中 将に昇 葉。
科︶すでに七十九才、その
進、激動の運命を迎えた。
善 文 社 1500円
ご婚 礼 、記 念 式 典 、同 窓 会 、ご会 食 など
印 象 深 いご宴 会 と快 適 なご宿 泊 の場 を
皆 様 の ご要 望 にあわせて
心 を込 めてご用 意 いたします。
ご婚 礼 、ご宴 会 、 ご宿 泊 、ご会 食 、出 張 宴 会 の
昭十七会開催
顧問。満州で軍医学校創設 長。
編集局 だより
書評
(4 )
(
平 成 9年 ) 2 月 2 5 日
1 9 9 7年
聞
新
大
慈
(
第三 種 郵便 物 認 可)
第 5 0 7号