第2章 卑屈・コンプレックスを乗り越える

第2章
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卑屈・コンプレックスを乗り越える
卑屈・コンプレックス
本章では、卑屈、自己嫌悪、劣等感、コンプレックスといった苦しみを乗り越えるため
の智恵についてお話ししたいと思います。
競争社会の現代では、自分と他人を比較して、自分が劣っていることに苦しんでいる人
は多いと思います。
この劣等感は、それがバネになって努力し、進歩・向上する原動力になる場合もありま
すから、決して絶対悪ではありません。
しかし、そうはいかずに、自己嫌悪ばかりが強くなり、対人関係に消極的になってしま
う場合もあります。著名な心理学者のアドラーは、この状態を「劣等コンプレックス」と
呼びました。その結果、引きこもって、心を病み、果ては自殺するという場合もあります。
また、アドラーによると、劣等感に耐えかねて、それをごまかすために、「優等コンプ
レックス」という状態に陥る人もいると言います。これは、最近、「自己チュー」と呼ば
れている人たちに当てはまる人格かもしれません。
例えば、いたずらに他人の欠点を見て批判し、他人を貶めたり、自分が悪いのに他人が
悪いと考えて責任転嫁したり、他人が求めもしないものを一方的に施そうとしたりするの
です。
また、自分の問題を直視できず、見ないようにして忘却してしまう場合もあります。著
名な心理学もののユングは、忘却された自分の問題を「影」と呼びました。そして、同じ
問題を他人に見ると、自分の中では忘却するほど嫌悪している要素のため、その他人に対
して、強い嫌悪が生じるとしました。
その結果、その人自身こそ、問題を抱えているのに、他人の批判ばかりする状態に陥り
ます。また、第三者から見れば、似た者同士の二人が、お互いに、「自分は悪くなく、相
手が悪い」とばかり言い合う状況も生じます。
こうして見ると、卑屈・コンプレックスと、それに起因した問題は、現代社会に生きる
人たちにとって、大きな苦しみであり、その人間関係を歪める大きな原因となっているこ
とがわかります。
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卑屈は、画一的な価値観が原因
この卑屈は、画一的な価値観の下で、自と他の優劣を比較することから生じています。
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現代社会では、例えば、容姿・学力・体力・財力・地位などが重視されます。そして、こ
うした基準に基づいて、自分と他人を比較して、自分が劣っているならば劣等感に陥り、
優れていると優越感が生じます。
そして、現代の競争社会では、他に勝って幸福になり、負けると不幸になるという価値
観・幸福観があるため、この自と他の優劣の比較は、他の時代に比較しても、相当に強く
なっているのではないでしょうか。
前に述べたように、この劣等感は、それをバネとして努力し、それを解消するならば、
進歩・向上をもたらすので絶対悪ではありません。例えば、学力が劣っている人が、劣等
感をバネにして、勉学に励み、学力優秀となる場合です。また、学力では劣っているので、
体力を鍛え、それによって劣等感を解消する場合もあります。
しかしながら、こうしたことができずに、劣等感を解消できないと、
「自分はダメだ」
「自
分なんかには価値がない」といった卑屈・劣等コンプレックスの状態に陥ります。最近の
言葉では、いわゆる「負け組」意識に陥ります。その結果、引きこもり、鬱、自殺といっ
た問題が発生する可能性が出てきます。これは解消しなければなりません。
そして、この状態を解消するためには、その原因を取り除かなければなりません。すな
わち、画一的な価値観で自と他を比較して、負けていれば、「自分に価値はない」、「幸福
になれない」と考える従来の価値観・幸福観を乗り越えなければなりません。言い換えれ
ば、これとは異なる別の価値観・幸福観が必要です。
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短所と長所は裏表:短所から優しさが生まれる
その別の価値観・幸福観の一つとして、短所と長所は裏表という視点があります。これ
は、よく言われることですね。仏教哲学も、前にも述べたように、苦と楽は表裏であると
説きます。
これが本当だとすれば、卑屈の原因となっている自分の要素の裏側にも、長所があるこ
とになります。これに基づいて、短所の裏には、どんな長所があるかを考えてみましょう。
第一に、何かに劣っているならば、それに優れている人たちよりも、自分と同じように
劣っている人の気持ちを理解する長所があることになります。その苦しみの実体験がある
からです。例えば、苦しみを経験した分だけ、人は他人に優しくなることができるという
こともできます。
逆に、優れている人は、実体験がないために、たとえ努力したとしても、同じようには
理解することができません。また、多くの場合、優れているとされる人は、他に勝つこと
ができるがあまり、競争に没入してしまい、負けて苦しむ人たちの気持ちが理解できない
冷たい人間になるおそれもあります。
こうして他の苦しみを理解する力、思いやり、優しさを持った人間になろうとすれば、
単純に他よりも優れていることが有利ではなく、他よりも劣っているならば、それを逆に
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活かすことができます。
しかし、普通は、自分の欠点を絶対悪と思い込んで、卑屈になってしまうために、こう
した長所は引き出されません。そのため、社会で一般に欠点とされることも、絶対悪では
なく、その裏には長所があることを考えて、自分の長所を引き出す努力が必要だと思いま
す。
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短所を乗り越えれば、多くの人を手助けできる
そして、何かに劣っている人が、あきらめずに努力して、その欠点を克服したならば、
同じように劣っている人が欠点を克服することを手助けする力を備えることができます。
また、そもそも、劣っている人の気持ちを深く理解できますから、「手助けしよう」とい
う動機も、優れている人よりも強くなる可能性があります。
しかし、優れている人は、劣っている人がどういった具体的な問題を抱えており、それ
をどう乗り越えるべきかということを実体験できませんから、同じように手助けすること
は難しいと思います。また、その苦しみを同じように深く理解することは難しいので、そ
の分、手助けする際の動機も弱くなる可能性があります。
この一つの例ですが、先日会ったある男性が、「自分は物覚えが悪く、人の何倍も時間
がかかりますが、そのためか、会社で新人研修の担当になることが多いのです。他人がど
こでわからなくなるかというのが、出来の悪い自分は、全部わかるからです。」と語って
いました。
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自分の短所を活用し、他の長所を引き出す
第三に、自分の力が劣っている人は、意識を転換して、他人の優れている力を活かすこ
とに努力するならば、他を活かすことができる人になる可能性があります。
この好例が、私が好きな昭和期最大の実業家である松下幸之助氏で、彼は、「自分は学
がなかったから、他から謙虚に学べた。体が弱かったから、他に頼むこと・活かすことを
で っ ち ぼうこう
覚えた。お金がないから、
(お金持ちのところに)丁稚奉公に行って早く商人の才を得た」
と語っています。こうして、学力・体力・財力に劣っていた人が、他の学力・体力・財力
を活かして、昭和経済界の頂点に立ちました。
しかしながら、自分の力が優れている人は、自分でできてしまうがために、逆に、他の
力を活かす努力をしない場合が多いと思います。こうして、他を活かして幸福になろうと
するならば、単純に自分が優れていることは、必ずしも有利なことではないのです。
そして、こうして他の力を活かすことができる人の素晴らしさとして、感謝の心があり
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ます。松下氏は、100 人を動かすには命令すればいいが、1000 人、10000 人を動かすため
には感謝の心が必要であるという趣旨のことを述べていました。
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ある障害者の知人の素晴らしさ:感謝の菩薩
私の知り合いに、ある意味、松下氏を超えている人がいます。仏教の思想に関心があり、
過去に繰り返し、ひかりの輪名古屋教室の講話会に来たことがあります。
彼は、身体障害者であり、さらに難病を患っており、医者からは、普通ならばもう死ん
でおり、余命いくばくもないとされている人です。コップ一杯の水も、自分で飲むことは
できず、介護の女性に世話してもらっています。
しかし、彼は感謝の心が非常に強いのです。例えば、水をもらって飲んでは、体全体か
ら絞り出すような声で、「ありがたい」と言います。そして、その心と言葉が、介護の女
性を非常に幸福にしているように、私には感じられました。
そして、彼は、「自分は障害者であったから、人一倍、他に支えられているという感謝
の心を持つことができました。そして、これを伝えていくことが、残りの人生で自分がな
すべき菩薩行と考えています」と私に言いました。
こうして彼は、障害者であることに卑屈にならず、それを逆活用して、自分の長所を引
き出し、他人を幸福にしているのです。菩薩とは、仏教で、人々を救う活動をし、未来に
仏になる人のことを言います。よって、菩薩行とは、利他の行為を意味します。
そして、実際に私も、彼と介護する女性の間には、優劣・上下の関係はないように感じ
ました。女性は、その健康な体で、主に物理的な面で、彼を助けています。一方、彼は、
深い感謝の心で、その女性の心の幸福を助けていると感じました。
勝ち組・負け組などという言葉が流行る現代の競争社会では、多くの人が、自分の価値
に乾いていると思います。自分の仕事に価値が見いだせない人も少なくないと思います。
そんな中で、彼は、介護の仕事に、人一倍の価値を感じさせて、その女性を幸福にしてい
るのです。
彼を見ていると、健常者の私たちが卑屈になることが恥ずかしく思えます。私たちは、
「自分こそが勝ちたい」とか、「せめて人並みでいたい」と思いがちです。しかし、彼に
してみれば、それに固執することは、自分の本当の良さを見失うことであり、さらには、
自分だけが幸福になればいいという自己中心的な考え方でもあるでしょう。
それを捨て去れば、どんな人でも、自分の本当の良さを見つけることができ、それによ
って、自分と他人の双方が幸福になることができるということを彼は示しているように思
います。
なお、最後に、感謝の心は、彼が医師の予想を超えて生き続けている理由かもしれませ
ん。最近、医療専門家の見解で、感謝の心が、健康と病気の治療にプラスであるというデ
ータを見かけたことがあります。
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自と他を共に幸福にする
これまでに、短所を逆活用して長所として、他の苦しみを理解して和らげる優しさや、
他の力を活かす感謝の心を培うことをお話ししてきました。そして、この優しさや感謝は、
自分と他人の双方を幸福にするものです。
しかし、他に勝ってこそ幸福になるという価値観は、自分と他人の双方を幸福にするこ
とは決してできません。勝った他人の幸福は、負けた自分の不幸を意味します。その結果、
他の幸福に対する妬み、憎しみが生じます。
また、逆に、勝った自分の幸福は、負けた他人の不幸の犠牲の上にあります。自分自身
も、妬まれ、憎まれる可能性があります。その意味では、勝った者も、本当に幸福になる
ことはできないでしょう。
一方、優しさや感謝は、それを与える人も、与えられる人も幸福になるものだと思いま
す。
感謝する時、人は、自分の恵まれている部分に意識を向けて、自分の幸福を感じていま
す。そして、それを支えている他者に感謝することで、他人を同時に幸福にしています。
こうして感謝は、他と幸福を分かち合っているということもできます。
また、何かに苦しんでいる時には、自分だけが苦しんでいるかのように錯覚しがちです。
それが卑屈・コンプレックスの苦しみを作り出します。しかし、前に述べたように、同じ
苦しみを多くの他人も抱えていることに気づいて、その経験が、他に優しい心を培うため
に活かすことできると考えれば、自分と他人の双方の苦しみが、和らぐ方向に行くでしょ
う。
そして、「幸福は二人で分かち合えば倍になり、苦しみは半分になる」という言葉もあ
ります。だとすれば、多くの人の間で、苦楽の分かち合いを深めていくことが、幸福が増
大し、苦しみが減る社会を作るということだと思います。
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優越感・慢心の落とし穴
ここで、劣等感とは反対に、優越感について考えたいと思います。
私たちは優越感を感じるとき、幸福を感じます。しかし、これまでお話ししたとおり、
短所と長所が裏表であれば、その幸福には落とし穴があるということになります。何かに
優れているということは、何かに劣っているということだからです。
具体的に言えば、劣っている人とは違って、同じく劣っている他人の苦しみを理解して
手助けしたり、優れた他の力に感謝して活かしたりすることは、しにくいということがあ
ります。
しかし、優越感を感じている時に、私たちは、長所と短所が裏表であることを忘れてい
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ます。これは、気づかないうちに、自分の長所が絶対的なものだと錯覚していることを意
味します。
そして、これから生じる大きな落とし穴が、慢心だと思います。慢心に陥ると、人は、
ついつい努力を怠って、油断してしまって、それが将来の落下につながる原因となります。
ウサギとカメの話と同じですね。
また、慢心には、感謝の心がありません。自分の長所は、自分の力だけで得たかのよう
に錯覚した状態だからです。よって、自分を支える他に対する感謝が乏しくなり、他人に
対しては見下して批判することが多くなります。すると、他の協力が得られなくなり、こ
れも将来の落下につながる原因となります。
日本が経験したバブルの崩壊とその後の長い不況は、日本のエリート層が中心となって、
金融や不動産のバブルを形成して、それが崩壊した結果です。これは、慢心・過信による
没落であることは間違いありません。
また、ITや金融関係の新進の事業家や、東京などの大都市の首長の政治家が、非常に
高い評価を得て、時の人になったかと思えば、あっという間に、その犯罪を摘発されて、
没落する事例も少なくありません。これも優越感から、慢心に陥った結果だと思います。
そして、慢心に陥っている人が落下すると、一転して卑屈になる場合があります。慢心
に陥っている間は、他人を見下して、その価値を否定していますから、自分が挫折・失敗
したときなどに、その他人に向けていたのと同じ思考パターンが、自分に向けられるので
す。
実際に、人生には、誰もが一度や二度の大きな挫折があると思います。その時に、それ
までに他人に向けた冷酷な心の刃(やいば)が、自分自身に返ってきてしまうのです。エリ
ートの人が、一つの挫折でもろくも自殺する場合などは、このケースではないでしょうか。
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誰もが実践すべき感謝
よって、自分が、優れていると評価されている場合でも、絶対的な長所などないことや、
その長所は多くの人に支えられたものであることに気づくべきだと思います。そして、慢
心を避け、謙虚さと感謝の心を持って、恩返しを含めて、継続的に努力する心構えが必要
だと思います。
この意味で、感謝は、優れているとされる人にも、劣っているとされる人にも、どちら
もが実践できるものであり、どちらも実践すべきものだと思います。
優れているとされた人は、それを自分だけの力によるものではないことに気づいて、そ
れを支えてくれている人々に感謝したり、何かしらの恩返しをしたりして、幸福を分かち
合うべきだと思います。
また、劣っているとされた人は、自分が勝つことばかりを考えて、優れているとされた
人を妬むのではなく、感謝の心を持って、その人を活かしたり、支えたりすることで、別
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の意味で、自分も優れた人になり、幸福になることに気づくべきだと思います。
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仏陀の心、慈悲・四無量心
さて、優しさや感謝のように、自分と他人が共に幸福になることができる価値観・幸福
観についてお話ししましたが、これは、仏教が説く、慈悲による幸福に通じるものです。
慈悲とは、仏教では、仏陀・菩薩の心を意味し、仏道修行の最大の目的とされます。より
正確には、四無量心といって、慈・悲・喜・捨の四つの広大な心を培うことが説かれてい
ます。
「慈」とは、他に幸福を与える心や、その実践です。自分の幸福を独占せずに、他と分
かち合うことですね。「悲」とは、他の苦しみを悲しんで、取り除こうとする心です。他
の苦しみを他人事にせず、苦しみを分かち合うことです。「喜」とは、他の幸福を喜ぶ心
です。他の幸福を妬まずに、自分のことのように喜ぶ心です。「捨」とは、すべての人々
を分け隔てなく愛する平等な心のことをいいます。
そして、これまでお話ししたことは、この四無量心の実践と本質的に同じであることが
わかります。
例えば、自分の欠点に関して、それが自分だけのものだと錯覚して卑屈になるのではな
く、同じような欠点を持つ人たちの苦しみを理解することができる長所でもあると考えて、
優しさを培うということは、四無量心でいえば、悲の心に通じると思います。
また、自分の欠点を背景として、優れた他人を妬むことをせずに、その力を活かして、
感謝することは、喜の心(および慈の心)にあたると思います。
そして、自分の長所に関して、それが自分だけの力によるものだと錯覚せずに、それを
支えてくれる人たちに感謝したり、恩返しをしたりするならば、自分の幸福を分かち合う
ことになり、これは、慈の心に通じると思います。
最後に、人の長所と短所は裏表と見るならば、劣等感にも優越感にも陥らず、万人を平
等に尊重する考え方になります。これは、まさに捨の心にあたると思います。
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人と人の間の違いは、個性・役割の違い
さて、短所と長所は表裏だということは、言い換えれば、人と人の間の違いは、
「個性」
であって、優劣ではないとも表現できます。さらに、この個性の違いは、その人が「全体
に対して果たす役割」を示し、皆が違うことによって、お互いに助け合っているという考
え方につながります。
例えば、前に述べたように、他の人より先に達成する人と、遅れる人がいますが、後者
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は、その人と同じように遅い人を含めて、皆を助ける役割があると解釈できます。そして、
前者は、皆の先駆者・目標・見本となる役割があると解釈できます。
この両者は互いに助け合っています。先駆者は、物事の道筋を作り、後から来る人を助
けます。後者は普及者であり、その道筋を広げて、多くの人が、たやすく歩める太い道と
して、先駆者の功績を多くの人に認めさせることになります。
この話は、仏様にさえ当てはまるようです。仏教が説く二人の仏、すなわち、釈迦牟尼
と弥勒菩薩もそうです。釈迦牟尼は、2600 年ほど前にすでに悟った、仏教の開祖です。
一方、弥勒菩薩は、それからはるかに遅れて 56 億 7 千万年後に悟るとされています。
しかし、弥勒菩薩は、釈迦牟尼よりはるかに多くの人たちを悟りに導くといわれていま
す(経典の表現では約 280 億人だから、全地球の人口だと思います)
。その意味で、先に
悟った釈迦牟尼は、仏陀・如来と呼ばれていても、決して完全無欠な存在ではなく、弥勒
菩薩をはじめとする、その後の無数の仏陀の助けによって、その教えが真にすべての
人々・生き物を救うものとしての価値を発揮していきます。
よって、弥勒菩薩は、釈迦牟尼を補完する仏陀ともいわれます。これは、釈迦牟尼が弥
勒菩薩より優れているということでもなければ、その逆に、弥勒菩薩が釈迦牟尼より優れ
ているということでもなく、両者には、それぞれの役割があって、お互いを助け合ってい
ると解釈できるのではないでしょうか。
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人は地球という大きな生命体の細胞である
さて、こうして、人と人の間の違いが、優劣ではなくて、お互いを助け合う上での役割
の違いであるという考え方は、人の体の中の各細胞の働きとよく似ています。
成人した人間には、約 60 兆もの細胞があるといわれていますが、その中には、頭、手、
足、そして、各臓器など、さまざまな細胞があります。そして、これらの細胞は、例えば、
頭があれば、手や足はいらないということにはなりません。皆が互いを互いに助け合って
おり、互いがあるからこそ、互いが存在しています。
そして、仏教やヨーガの思想には、この人間の体を小宇宙と見て、大宇宙と相似形をな
していると考える思想があります。すなわち、この地球や宇宙を大きな生命体と見て、そ
の中の生き物をその細胞であると考えるのです。地球生命体・ガイア思想なども、これに
あたりますね。
そして、人間の 60 兆の細胞は、皆が一つの細胞(父親の精子と母親の卵子が結合した
受精卵)から細胞分裂して生じたものであり、同根です。同じように、大宇宙の万物も、
ビッグバンから膨張したものであって、同根です。こうして、両者とも、一つのものから
発生しています。
さらに、両者とも、今でもお互いがお互いを助け合って、一体となって存在しています。
宇宙の万物も、人の体の中の細胞のように、互いがあるからこそ、存在しています。例え
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ば、人も、地球の大地・空気・水・他の生き物からの食べ物に支えられ、遠くの太陽から
の光・熱に支えられています。そして、その地球や太陽を含めた太陽系は、銀河系・宇宙
全体に支えられ、一体となって存在しています。
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性格の違いも優劣ではなく、個性の違い
さて、卑屈と慢心に関連して、人の性格について、「性格が良い、性格が悪い」と表現
することがよくあります。しかし、実際には、絶対的に良い性格や絶対的に悪い性格があ
るわけではなく、これも短所と長所は裏表だと思います。
以下に例を挙げますので、皆さんも考えてみてください。
短気=素早さ、
のんき=落ち着き、
感情的=情熱的
大雑把=おおらか、
神経質=繊細、
頑固=意志が強い、
いい加減=おおらか、
興奮しやすい=情熱家、
お節介=世話好き、
くるくる変わる=臨機応変
目移りが激しい=好奇心旺盛
引っ込み思案=控えめ・謙虚、
迎合型=協調性、
優柔不断=柔軟、
気が弱い=繊細、
なあなあ=平和主義、
鈍感=辛抱強い、
頭でっかち=思慮深い、
神経質=気がつく、
臆病=慎重、
融通利かぬ=厳格、
傲慢=自信家、
保守的=堅実、
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口べた=聞き上手
甘やかす=包容力
自分を責める=まじめ
理屈っぽい=理論家
視野が狭い=集中・一途
冷たい=冷静、
批判的=分析力、
あきらめが悪い=粘り強い
仕切りたがる=リーダーシップがある
八方美人=誰にでも好かれる、
慎重さに欠ける=楽観的、
反抗的=自立心がある
消極的=控えめ
落ち着きがない=行動的
しつこい=粘り強い
発達障害とされる人の個性
現代社会では、心理学・精神医学・脳医学などが進んできて、さまざまな種類の鬱病、
人格障害、発達障害といった、新しい概念・知見が生まれてきました。
今私が注目しているのは、近年増えているとされる発達障害です。これは、一般に比較
的低年齢において現れ始める行動、コミュニケーション、社会適応などにおける問題・障
害であり、自閉症スペクトラム (ASD) 、学習障害 (LD)、注意欠陥・多動性障害 (ADHD)
などの総称とされるものです。文部科学省の調査によれば、小学生の 6 パーセント以上、
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60 万人が発達障害の可能性があるという情報もあります。
なお、原因は、先天的ないし、幼児期の疾患や外傷の後遺症によるものであり、家庭環
境に問題があった人が同じような行動・症状を見せることがありますが、教育・環境要因
が原因となったものは発達障害には含まれません(しかし、同一視する誤解が少なくない)
。
例えば、注意欠陥・多動性障害 (ADHD)とされるものは、不注意・多動性・衝動性が特
徴で、集中力が続かない・気が散りやすい、じっとしていることが苦手で落ち着きがない、
行ってもよいか考える前に実行してしまう傾向があります。よって、「乱暴者・悪い子・
しつけのできていない子」というような否定的な評価を受けやすいとされます。
しかし、この発達障害にも、長所と短所は裏表という見方が当てはまるようです。とい
うのは、天才と呼ばれる人の中で、発達障害と思われる人が少なくないのです。例えば、
エジソンなどがそうだったのではないかと言われます。天才には変人が多いとか、天才と
狂人は紙一重と言われますが、これを裏付ける理論かもしれません。
実際に、上記の症状について考えれば、集中力がない・気が散ることは、普通の人には
ない独創性をもたらす可能性があり、多動性はエネルギッシュや雄弁さ、衝動性は普通の
人にはない実行力・行動力をもたらす可能性があります。
だとすると、こうした一部の発達障害に関しては、「障害」という言葉は誤解を生む可
能性があって、言葉を換えると、
「非通常型発達」とでもいうべきでしょうか。すなわち、
障害ではなく、個性であると認めることもできると思うのです。
しかし、こうした多様性を認めるような環境がないと、その人は、周りからは否定され、
本人も「自分はダメだ」と思ってしまい、鬱病を併発しやすいと言われています。よって、
周囲と本人の双方が、長所と短所はセットという考え方や、個性・多様性を認める考え方
に基づいて、その長所を伸ばしつつ、焦らずに短所をカバーする訓練をすることが最適だ
と思います。
しかしながら、今現在の社会は、依然として画一的な価値観が強く、皆が同じであるべ
きだという同一化圧力が、相当に強いと思います。特に、日本は、村社会、村八分、恥の
文化がありますので、欧米以上かもしれません。
しかし、その結果は、前に述べたように、
「劣等コンプレックス」
、すなわち、鬱傾向と
なって引きこもりに至るか、その逆に、
「優等コンプレックス」
、すなわち、周囲や社会に
対して、非常に否定的な見方を形成し、他への批判・攻撃が強くなる可能性があります。
これが、鬱病等の精神疾患、人間関係の摩擦・破たん、そして、犯罪を生み出していると
思います。
こうして、本人と周囲、そして、社会全体のために、優劣の区別を和らげて、多様な価
値観に基づいて、それぞれの個性を尊重し、万人の価値を尊重する人間観が必要な時代で
はないでしょうか。
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