ロボットは他者になれるか

ロボットは他者になれるか:テクノロジーの存在論的研究へ
山根一郎 YAMANE Ichiro
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1. 準 備 的 序 論
21 世紀は「ロボットの時代」と言われている。ならば、そのロボットと生
活をともにするであろうわれわれがまず問うておかねばならないのは、「ロ
ボットは、われわれ人間にとってどのような意味をもちうるのか」というこ
とである。この問いは、ロボットの“存在”の意味を問うことであり、それ
は単なる製品開発のためのマーケティングレベルの問いを越えて、人間存在
への新しい視野をも与えてくれる存在論的問いへと深化できる。そこで本章
ではその準備として存在論的探求という方法論について議論する。
1.1 ロボットの在り方
ロボットは、製品として社会に供給された当初から、少なくとも日本人にと
っては単なる自動制御機械ではなかった。工業用ロボットが工場に導入され
た数十年前からも、そこではロボットに「百恵ちゃん」などの当時のアイド
ル歌手の名前をつけて、作業のパートナーとして扱ったという。そしてさら
に技術が進み、ソニー社の AIBO にみられるように、特定の作業を人間の代
わりにこなすための道具的存在ではなく、ペット(犬)のような愛玩物とし
ての、すなわち生活のパートナーとしてのいわば“他者存在”を目指したロ
ボットが出現し、人々の生活に浸透しつつある。
このペット(生活のパートナー)としてのロボットは、マンガからそのモデ
ルを探せば、「鉄腕アトム」(手塚治虫)よりも「ドラえもん」(藤子不二
雄)に近い(ドラえもんの機能が劣化して、ポケットから何も出せなくなっ
た時、のび太はドラえもんを見捨てるだろうか)。技術者の夢は「アトム」
かもしれないが、生活者の夢は我が家に「ドラえもん」を迎えることかもし
れない。このようなパートナー的存在のロボットの試行版ともいえる製品が、
機能やサイズが節約されたペット型ロボットということになる(ペット型ロ
ボットというコンセプトを真に意識した製品は、オムロン社の「ネコロ」で
ある)
。
2
そこで問題となるのは、「ペット型ロボットは人間の生活のパートナーとな
りうるのか」である。それはさらに「(ペット型)ロボットは他者という意
味をもち得るのか」というより深い問いになり、その問いは同時に、“他者
=他の人間”と自明的に了解していたわれわれに、「(われわれにとって)
他者とは何か」という問いに改めて導くことにもなる。ここまで問いを深め
ることで、ロボットの存在への問いが人間存在自身を問う問いに深化する。
これこそが、ロボットを出現させたテクノロジーの真のインパクト(衝撃)
ではないだろうか。
1.2 存在論
問題の深度を深め、問題の根源的所在を目指す視点を、Heidegger(1927)
に準拠して「存在論」(Ontology)と称しておく。なぜなら、学的に或る対
象を問うことは、対象の存在の意味を問うことにほかならないから。
ちなみに或る対象が“在る”とき、その対象を問うアプローチは、存在論的
表現では次の 2 種類に分けられる。「存在者的(ontisch)問い」と「存在論的
(ontologisch)問い」である。そもそも対象は問う者にその存在が(予期的に
も)認知されてはじめて問いの対象として“在る”。その認知対象として実
在する在り方が「存在者」(存在するモノ)である。そしてその存在者を在
らしめ(存在可能にし)ているのが「存在」(存在するコト)である。われ
われが直接出会う(知覚する)のは、認知対象としての存在者である。
存在者的問いとは、出会った存在者をあくまで存在者のレベルで、その存在
者(モノ)的属性、すなわち形状・構成要素や性質・機能などを探る問いで
ある。いわゆる「科学」と称されるアプローチも該当する。人間個体を対象
とすれば、身長・体重、あるいは性格テストなどによる人類学的・心理学的
計測が相当する。モノとしての探求は、そのモノ的情報がより精緻になる方
向でのみ進展し、その逆方向には進まない。その逆方向とは、その対象が計
測可能な状態で存在するというその前提そのものを問う方向である。対象は
もうすでに(社会的に合意された)既知の様態で存在している、という前提
に立って、その立脚点に対しては何ら疑問を抱かないことで存在者的問いは
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出発できる。他者がすでに“人間”として在ると疑わないように。
それに対して、存在論的問いは、存在者として自明的に了解されている対象
のその在り方、対象が特定の存在者の様態をもって私の前に在る、その在り
方(私への与えられ方)を改めて問うことである。従って、体験された存在
者の存在を問う現象学的な存在論は、問う主体側の体験構造をも反省的に問
う現象学的認識論を経由する(存在者への認知を問題にする認知心理学に相
当)
。
存在を問うことは、当該の対象(存在者)の存在を可能にしている(基礎づ
ける)次元を問うことである。これはすなわち、表面的な現象の存在を論理
階層的に基礎づける、より根源的な現象に注目することである(同階層内の
時系列的因果連鎖を問題にするのは存在者的探求)。従ってこの探求の方向
は、表面の存在者的属性を存在せしめている背後の存在へという、存在論的
深度を深める方向である。
たとえば「私」についての存在者的問いは、「私(というモノ)は何から成
っているか」という問いになり、私という個体の、人間としての生物学的・
人類学的特徴や心理学的性格傾向、あるいはアイデンティティ(「私は∼で
ある」という認識)などの諸属性を列挙することである。そしてそれは
「私」と称することのできる存在者の個体の数だけ個別に列挙でき、それら
を統計的にまとめることができる。一方「私」についての存在論的問いは、
「私であるコトとは何か」という問いになる。それは私のアイデンティティ
的諸内容でなく、さまざまな内容をもちうるその「私」とはどういう現象か、
すなわち“私性”を問うているのである。それは「私」と称することのでき
る個々の存在者に共通した内容となる。従って、私の内容(アイデンティテ
ィ)レベルのトラブル(自分探し、多重人格などの同一性障害など)は、ど
んなに深刻であっても存在者次元の問題である(私性そのものは障害されて
いない)
。それに対して、自我機能(私性)が失われるなどの症状を示す統
合失調症(旧称:精神分裂病)は存在論次元の失調を意味する(心理学者の
視点が存在者次元の浅さにとどまり、精神医学者の視点が存在論的思惟の深
みにまで達する原因は、臨床対象の病理の存在論的差異に由来するためかも
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しれない)
。
だがこの存在論的次元は、直接経験できる認知次元すなわち実証的アプロー
チの外(あるいは背後)にあるため、綿密で曇りのない思惟的努力によって
しか到達できない。すなわち、いったん存在者的問いから出発して存在者的
データを蓄積する方向に走り出してしまうと、ますます遠ざかって永遠に到
達できない領域なのである。であるからむしろ、実証研究へ走り出す前段階
の「問い」の過程においてこそ、その問いを深める存在論的思惟が必要なの
である(ただし、自然科学のように、最初から事物的存在という在り方でし
か対象と関係しないのであれば、存在者的問いのみで充分かもしれない)
。
1.3 表層と深層
存在者的問いと存在論的問いを、学的探求の対象の「表層」と「深層」の二
層として表現すると分かりやすいかもしれない。存在者レベルすなわち表層
とは、たとえば物理現象として知覚・計測できる、つまり経験できる現象の
次元、経験科学的な存在者的探求の次元を意味する。一方、存在論的次元で
ある深層とは、そのような経験できる現象を「可能にする」次元である
(Chomsky 的に言えば、表層とは言語学的分析が可能な個別言語であり、
その個別文法である。深層とは個別言語を習得可能にする、人間にそなわっ
た言語能力・普遍文法である)。このように深層とは、表層の現象を抽象化
したより高次(上層)の次元ではなく、表層の現象を基礎づける基底的次元
である。
では両者の関係はどうか。表層のみの研究では、得られるのは表面的な諸性
質だけなので、「存在の意味」はわからない(たとえば心理テストを何種類
やろうとも、自分の性格特性や職業適性はわかっても、自分の生きる意味は
見出せない)
。一方、深層のみの知では、その知を具体的にどう利用してい
けばいいのかわからない(生きる意味はわかっても、具体的にどうふるまえ
ばいいのかわからない)。存在者と存在との関係は、観察される個別の事象
とそれを実現している法則との関係に対応している。法則は事象を通しての
み体験されるように、存在は必ず存在者として体験される。とするなら、存
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在論的探求といえども、瞑想的な思惟によるのではなく、存在者に主体的に
体験する(かかわる)ことを必要とする。ただし、その体験の視座・目的は、
存在者的探求の向こうにある。
科学が可視化するものは、素朴な生活体験の奥にある存在者的世界であり、
科学が見ようとせずに透明化するものは、存在論的世界である。そして存在
論が可視化するものが、科学が透明化(自明視)しているその存在論的世界
である。ならば、従来のように、表層の存在者的な科学的アプローチ(測
定)と深層の存在論的アプローチ(思惟)とが、互いに交わることのない分
業をするのでも、また互いに相手を自らと同じ探求方向を進んでいないと批
判しあうのでもなく、むしろ両方向の探求を一本に繋げ、一連の学的探求の
過程として連携することが、本来の学的知として望ましい探求の態度なので
はないか。つまり、まずは存在論的深層の問題設定を構成することで、問題
が人間や世界の知のために探求に値する意義をもっていることを確認する。
そしてその問題意識にもとづいて、存在論的思惟の本質的弱点である言語論
理的な認識限界を越えた、非言語的知性による体験レベルでの問題を記述す
るのである。この連携によって、問題意識の欠如した重箱の隅を自己満足的
につつくだけのテクネー(技能)と化した実証研究に行き詰まることもなく、
あるいは言語的論理世界と卑小な人間の脳内の想像力を越えた現実現象との
区別ができずに自己満足的に世界を解釈する観念論的思惟に自縛されること
もない、真の学知(エピステーメー)に達することができるのではないか。
本研究は、そのような在るべき知的探究の様態(存在)を実践する試みでも
ある。
この連携が必要な理由を、抽象的な学問論としてではなく、われわれの生活
次元の問題において論じるとわかりやすい。それがテクノロジーの存在論の
問題である。
1.4 テクノロジー(技術)の哲学的インパクト
本研究の対象であるロボットはテクノロジーの産物である。つまりロボット
という存在者を存在可能にしているのはテクノロジーという(社会の)能力
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である。そこでテクノロジーがわれわれに与えるインパクトを存在論的に論
じてみる。
まず「技術」を次のように規定する。すなわち、技術とは、可能性(非現
実)としての存在者(事物)を現実化する世界(自然)操作力である(操作
主体は人間でなくてもよい)と。そして存在者として現実化する作業を「製
作」と呼ぶことにする。製作は、この世界に新しい存在者を、製作主体(た
とえば人間)の手によって、出現させる行為である。一方、世界とその関係
の在り方について思惟するのが「哲学」である。哲学とはすなわち、世界
(自然・社会)とは何か、私はその世界にどうかかわっているのか、を問う
態度である(態度としたのは、実際に解くのは科学の力が必要なため)
。世
界とは、個々の存在者の集合である。個々の存在者の存在の意味、すなわち
個々の存在者とかかわっている私にとっての意味(この“私”は孤立して世
界を構成する独我であっても、個性・主体性を否定された単なる社会の1細
胞であっても、どちらでもよい)
、それが存在者の存在である。逆に今生き
ている私自身の存在の意味は、世界の中の存在者たちとかかわりあっている
その仕方ともいえる。この今在る私(現存在)の在り方を Heidegger は「世
界内存在」(In-der-Welt-Sein)と呼んだ(これに概念的に対立しうるのは世
界超越存在=神である)。その意味で、世界内存在たる私にとっての私自身
の死の意味は、かかわっている世界一切とのかかわりの永遠の消滅のことに
なる。
そのような人間にとって、技術が与える存在論的インパクトはいかなるもの
か。技術によって製作された新しい存在者(製作物)は、現存在の世界の中
で特定の位置を占める。それはそれまでかかわっていた世界の構造的変容
(新たな存在者との出会いは,その存在者の能力に応じて自分がかかわって
いる世界の組成・構造を換える)を意味し、世界内存在(私)の世界認識・
世界とのかかわりの在り方を現実的に変える(石斧、発火装置、薬品、電気、
コンピュータなどがそうであった)
。もちろん、まったく新奇すぎるものは、
既存の安定した世界に位置を占めるための有意味性が認められないため、世
界から排除される恐れがある。むしろ、既存の存在者の何がしかの理解可能
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な変異(改良)として存在することが必要である。そこで留意すべきなのは、
かかわりの変化は、その存在者の意味の知的解釈(理解)に先行するという
点である。解釈は、それとのかかわりによって、その結果として自分に説明
されたものだからである。すなわち、技術とそのインパクトは哲学(解釈)
に常に先行する。存在者(製作物)の出現が存在(かかわり)に先行し、存
在は存在了解に先行するのである。そしてかかわりこそがその製作物(存在
者)の存在(存在論的価値)であるため、使用者にとっての製作物の意味は、
製作者の製作意図と合致しない予想の範囲外の様態となりうる(存在論的視
野のない製作者はテクノロジーの真の価値を理解していない)
。
すなわち、テクノロジーの存在論とは、技術の実現としての存在者(製品)
が有しうる、人間存在にとっての真の価値(害悪も含めて)を認識すること
である。テクノロジーの価値の本質は、人間に対してそれがどのような変容
をもたらすか、ということの評価である。それは実現した可能性の評価であ
る。しかも、その価値は、人間側の存在者レベルの量的変容(たとえば、今
まで 1 時間を要した作業が 10 分で終わるなど)よりも、存在論レベルの質
的変容(自分が存在することの意味が変わったなど)の方が絶大である。
いずれにせよ、その期待された変容を人間のトータルな能力向上とすると、
評価は以下の 3 水準でなされうる。
1)変容なし:能力に影響なし。
2)悪い変容:人間の存在価値を減少する=能力(可能性)を奪う。
3)よい変容:人間の存在価値を高める=能力(可能性)を引き出す。
以上から、変容評価=よい変容−悪い変容、となる。たとえば、縫製技術で
製作された衣服は、体毛を不必要とし皮膚を弱化させたが、一方では素肌が
傷つく頻度を激減させたため、劣悪な環境(極寒、強烈な日射)下でも生活
できる能力を人間にもたらした。あるいはパソコンのワープロ機能は、漢字
の書字能力は多少衰えさせたかもしれないが、漢字の読み能力・使用率はむ
しろおおいに増加可能であり、その結果、漢字のアルファベットに比べた不
利な面を意識させずに、漢字離れをくいとめることができそうである。これ
らは存在者レベルの変容であるが、その変容が存在論的に、つまり人間の在
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り方の変容となるとどうなのか。衣服やパソコンが人間に与えた存在論的変
容を、学的に探求することで、今まで見えなかった人間の姿が見えてくるは
ずである。
2.問題
では、本研究の問題に入ろう。本研究の出発となる問いは「ロボットは,人
間にとって他者となり得るか」ということである。これはロボットの存在
(かかわりとしての価値)を問ういている存在論的な問いである。ただし、
ここで具体的に問われるロボットは、工業用ロボットではなくペット型ロボ
ットである。
ペット型ロボットは、その名の通り、ペットとロボットの二重の様態を表現
している。これを存在論的に表現すれば、ペットであることを可能にする
「ペット性」と、ロボットであることを可能にする「ロボット性」という二
重の存在論的性質(属性)を有することになる。そしてそれが他者になるか
という問いなのであるから、他者であることを可能にする「他者性」も問題
になる。従って上の問いを存在論的かつテクノロジー的表現を使って言い直
.......................
せば次のようになる。「他者であることの存在論的要件に満たされた存在者
........................
的機能を、ロボットに付与することが技術的に可能か」
。
といっても、工学的技術論は著者の専門外である。本稿では、他者であるこ
との存在論的要件とそれの存在者的次元での技術的表現の考察にとどまる。
2.1 他者存在
他者を存在論的に問うにあたって、そもそも存在者の存在にはどのような種
類があるのか。Heidegger によれば、以下の 3 種がある。
1) 現存在(Dasein)として在る「実存」
。たとえば「私」
。
2) 私とのかかわりの対象である「道具的存在」
。
3) 自然科学が見いだした(私とのかかわりに無関係な)即自存在である
「事物的存在」。たとえば、生物学的な意味でのヒト(自分も他者も含む)
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が該当する。
私も彼も事物的にはともにヒトという同じ存在者であるが、存在論的には、
私は「私」という主体として存在としている点で彼とは異なる。では他者は
上のいずれの存在か(Heidegger 自身は他者の問題は現存在との「共同
性」の問題に解消した)。まずは私自身でないのだから実存ではない。あえ
ていえば「かかわりの対象」という意味で、道具的存在に近い(ただし道具
のような私の手の延長である「手許存在」ではない)
。そして事物的にはヒ
トという私と同種の存在(者)である(とりあえずそうしておく)
。しかし、
...
この自分と生物学的に同種の存在者であるということは、それが存在者的属
...
性であるため、他者であることの存在論的要件にはなりえない。なぜなら、
存在論的要件(他者であること)こそが存在者としての他者(同種他個体)
...... ...........
を基礎づけるからである。すなわち存在論的には、他者は生物学的に自己と
..........
同種である必要はないことを意味する。ということは、他の動物や異星生物
あるいは人工製作物であっても存在論的には他者となりうる。
他者あるいは他者性(他者であること)一般の存在論的規定の細かな論議は
別稿(山根、2003)に譲ることとし、本稿では、以下の規定から始める。
他者の本質は、その存在者的属性にかかわりなく、「自己でない他の存在者
であること」から始まる。そこで自己でないその他一切の存在者を「他」と
する。他者も製造物(ロボット)や他の動物(ペット)を含む存在者もとも
に「他」に属する。
次に「他」の存在者において一定程度以上の自我機能(他我)が定立された
場合をあえて「他者」とする。本稿では「定立」とは主体側の自由で能動的
な想像としての「想定」ではなく、また推論の結果到達した知的結論として
の「措定」でもなく、自明的にそう信じん込んでしまっている作用として用
いる(この3つは確信強度が異なる)
。他者は、他我という自我との共通性
(機能的同型性)と、「他」としての非自己性すなわち自己でないという意
味の「他性」(私の居る”ここ”ではなく、”そこ”に在るという彼在性=私か
らの距離性)を併せもつ両義的存在である(山根、2001)。ちなみに他者で
ない「他」(の存在者)を「モノ」とする。モノは他者とは異なった存在様
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式、道具という自己の身体の延長として、自己に接近できる。すなわち
「他」は可能性としてモノにも他者にもなりうる。ならば「他」に他我が想
定・措定・定立される要件は何なのか。
まず他我とは何か。他我というモノ(生物学的・心理学的実体)が在るので
はなく、他我というコトが体験されるのである。他我はどの程度自我と同じ
である必要があるのか。もし他我が完全に自我と同質の直接体験であれば、
他者はもうひとつの「私」(二重自己体験)となり、他我として対象化され
えない。その意味でも、他我はそれ自体を直接体験できるのではなく、他我
の根拠となりうる存在者的素材で間接的に呈示された現象である。しかしこ
の間接的呈示は知的推論を要しないという意味では直接(直観)的体験であ
る(この議論の論拠は 2.3 の心の機能モデルで示す)
。結局、他者は、自己
とモノとの間に開かれる体験空間に位置する(モノと自己は他者のとりうる
両極限値といってもよい)。他者性(他者であること)は、自己性と他性と
いう意味論的に排反する存在論的属性を併せもった両義的・蓋然的性質をも
つとするなら、他者であることの要件を探るには、同種他個体のような(定
立から抜け出しにくい)典型的他者よりも、モノに近い末梢的・周縁的な他
者、モノと他者との境界的存在者を対象にした方が、他者を構成する過程そ
のものが脱直観化(推論化・試行錯誤化)されるため、シンプルな形で把握
されやすいのではないか(もちろん逆の端である自己との差異によって他者
の要件を探ることも可能であるが、その場合は自己性=自己であることが充
分既知であることが前提となる。だが現実にはそうではない。またロボット
というモノ的他者の問題からもはずれる)
。ペット型ロボットを対象にする
本研究の意義もここにある。
.....
この問いをまずは存在論的探求方向に向かって言いなおせば、「存在者とし
.....................
ての他者を可能にしている存在論的体験は何か」となり、次のステップとし
...............
て、存在者的探求方向で問いなおせば、「存在論的他者を体験させる感性素
..............
材としての存在者的属性は何か」となる。この問いの回答が技術化されるべ
き対象となることで、テクノロジーの存在論的インパクトが実現する。
他者であることの追及すべき要件は、他性にあるのではなく、他我にある。
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他我はむしろ「私であること」の共通性であり、同じ「他」でもモノとの違
いがここにあるためである。しかしモノとの違いはモノとしての自我機能の
存否にあるのではなく、かかわりとしての質の違い、すなわち道具となるモ
ノと、他者となりうるモノとの間のかかわり上の違いが存在論的他者の要件
となるのではないか。とすると、次に問題となるのは「かかわり」である。
他者は道具としてでないかかわりの様態ということになる。それをペットと
いう同種他個体でない他者体験に注目して論じてみる。
2.2 ペットは他者か
ペット性は、そもそもテクノロジーの問題ではなく、人間と他の動物との関
係の在り方の特異な様態のことである。それは他の動物種間では実現してい
ない(生物学的自然に反する)という意味で特異なのである。つまり、生物
界で通常みられる異種間の関係は、捕食や共生・寄生関係などのように、栄
養や安全な棲み家といった生存のための道具的関係以上のものではない。そ
れに対し、人間とペットとの関係は、むしろ同種内の家族(養育)関係に近
い。これは特に飼い主(人間)側にとって生物学的には無意味な関係の在り
方である。といっても種を越えた自発的な養育関係は、カッコウなどの托卵
による強制を除いて、ほ乳類間では可能であることが人工的な飼育環境で確
認されている(すなわち一定の動物種の間では、異種養育関係は自然状態で
は実現していなくても、“可能”なのである)
。だが、ペット性を、このよ
うに行動生物学的に、すなわち存在者的に扱うだけでは、ペット関係を成立
させる体験の本質は見えてこない。もちろん、犬というペットには、番犬と
いう実用的機能がある。しかしそのような実用的なアラーム機能はペットの
本質ではない。むしろ、ペットには機能的な存在者(道具)でない所に本質
的価値がある。ペットは同居すなわち「自分とともに居ること」が目的であ
る。
ペットと居る(住まって在る)ことは、たとえば自分の他に誰もいないとい
う孤独な状況の否定をもたらしてくれる。独居者がペットを飼う理由はこの
点である。ただし独居者でない家庭でもペットを飼うのであるから、ペット
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は同種他個体(他者)の単なる代替存在ではなく、同種の他者とは異なった、
同種の他者では得られない存在論的性質(関係の在り方)が存在するようで
ある。そこにペットの存在論的問いが開かれる。
人間が衣食住の確保という生存機能以外で他者を求める場合、そこに孤独と
いう、人間に本質的で同時に不快な存在様態との直面・回避の問題があるよ
うに思える。そして孤独はたった一人の他者よりも、さらに多くの他者によ
っての方が回避できる。ではなぜ他者は私の孤独を癒すのか。なぜモノでは
だめなのか。モノには何が足りないのか。今ここで、その知りたい「何か」
を x とすると、この疑問は
x=他者−モノ
という式で表現できる。
xが何であるか判明し、技術化できれば、モノにxを付与して(モノ+x
=)他者にすることができる。そのようなことが可能なのか。存在者的発想
ではほとんど不可能である。なぜなら、存在者的発想では、他者とは「同種
他個体」のことであり、非生命のモノが他者になるには、人工生命がヒトに
まで進化する(?)のを待たねばならない。ところが、存在論的発想では可
能なのである。存在論的には、他者の体験をさせるには、他者であるモノを
作る必要はなく、他者であるコト、すなわちその事象と同じ体験を与えれば
よいのであるから(革新的技術者は無自覚的にも存在論的発想をせざるをえ
ない)
。だからこそ、問いは存在論的にされねばならない。「他者であるこ
とはどういう現象なのか」という問いに。
2.3 心の機能モデル
ただし、上の問いを主体の体験の問題として心理学的に扱おうとすると、次
の問いが続いてくる。「その要件は人間の心のどこで満たされるのか」
、そ
れは感性なのか理性なのかと。そこで次に、世界(モノ・他者)とかかわる
主体としての現存在側の体験(認知)構造に注目しなくてはならない。もち
ろんここでは現存在はペット型ロボットとかかわる人間(使用者)のことで
ある。
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知性
感性
1)古典的 2 元モデル
感情
まず、ここでは、他者という直観的
定立現象は、古典的な理性主義モデ
図1 心の機能の3元モデル
ルではとらえられないことを示す。
心の機能は、アリストテレス以来、理性(神・人間が所有)とそれ以外(動
物的本能)という基準で二分されてきた。その結果、感性と感情は理性以外
の残余成分として同一視・混同され、動物的な劣った機能とされた。これは
人間の存在者的規定をするのに、他の動物との差異に着目するしかなかった
という比較対象の時代的制約下にあったためである(今後は比較対象が高い
知能を備えたロボットになろう)
。このような人間観においては、理性(以
降は現代的に「知性」
)の強化が心の成熟と等しいものとみなされ、感情な
どは知性によって制御・抑圧すべきものでしかなかった。知性に反する心の
現象は自ら否定されるべきものとなってしまう。
しかし、生物(ヒト)としての人間を再定義しようとする近代科学的人間観
では、人間の知的能力も、天賦の特権ではなく、生存価を高めるための生物
進化の産物、すなわち生存(遺伝子の存続)を自己目的として存在している
存在者にとって、その目的を実現するために進化させてきた道具的能力なの
である。従って、現代では素朴な知性(理性)中心観で人間の真の心は説明
できないことになる。
ところが知性中心観に代わる簡潔な心のモデルが心理学には見当たらない
(知性の細分化モデルなどの研究へ進んでいる)
。そこで、知性を相対化し、
感性・感情のそれぞれの価値を正当に評価したモデルを提出して、そのモデ
ルにおいて他者の存在論的問題を記述したい。
2) 3 元モデル
ここに提出するのは、心を感性・知性・感情からなるとした3元モデルであ
る(感性や感情の個別の機能を正当に評価するための便宜的モデル)
。
感性:感性は、生体情報処理におけるインターフェースの過程であり,特に
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高度に分化した視覚・聴覚系は大脳皮質の処理中枢が対応している。演算機
能である知性は感性とつながっており、現在の心理学では知能(知性能力)
は、複数の感性系とそれぞれ1対1対応した能力のことになっている。言い
換えれば感性は知性の窓であり、知性と感性とは機能的に切り離せない。従
って「感性—知性系」という情報処理系列として考えるべきである。この
感性—知性系として高度な判断行為がさなれていることは Gibson(1979)
の affordance 理論にくわしい。彼によれば、視覚された風景はそれ自体が
すでに情報であって、言語的・論理的知性(内的演算機能)をもたない生物
でも、たとえば身体移動に伴う視覚像の連続的変化(「包囲光配列」の現在
的変化に伴い、過去把持と未来予持の系列的変化を含む)によって、衝突を
回避するための瞬時のそして予想的な判断ができる(これこそ「視覚情報リ
テラシー」といえる)ことが示された。視覚能力とは感性—知性系におけ
る視覚情報処理能力なのである。
知性:広義の知性は上述した知能のことであるが、狭義の知性は、知覚的感
性から独立した、内的記号処理能力である言語・論理的知能の事である。す
なわち記号処理能力によって、抽象的思考が可能となり、感性的体験・目前
の価値に束縛されない科学的知性、すなわち眼前の存在者を自己とのかかわ
りから超越した「事物存在」として認識する科学的認識が生まれた(たとえ
ば生活上の意味で区切られた生きられた空間から微分可能な数学的均質空間
の発見された)。自己も他者も同じ「ヒト」として理解できるのもこの知性
である。もっともこの能力は知性進化の副産物であり、知性の進化的存在価
値ではない。知性の進化的価値は、「∼のためには、どうするのがよいか」
という生活世界内での積極的適応であり、動物レベルでは感性(入力)から
運動(出力)に至る処理系列の中間制御段階である。知性からの出力は人類
においては道具的存在者の製作力(テクノロジー)として実現した。そして、
その存在者製作の蓄積の副産物として、事物存在が発見されたのである。動
物に備わった本来の知性は、目的合理性に基づく合目的的活動であり、その
合理性の基準は目的(生きること)に従属する。
15
感情:感情とは、感性情報に対する、生物の存在目的である“生存”(種の
保存)のための評価機能である。知性が自己とのかかわりから独立した事物
的認識に至ったのに対し、感情は生存という最終目的に直結した判断をくだ
す。すなわち感性情報に対して、それが生存にとって脅威となるのか、快適
となるのかの判断機能である。脅威となる場合は、遠ざかりたい感情状態
(恐怖、嫌悪)となり、安全となる場合は接近したい感情状態(快、愛着)
となる。動物は生まれた直後から(学習する暇も無く)生存のための状況判
断をしなくてはならず、そのために、基本的な恐怖反応と愛着反応は生得的
である(孵化した鳥類は、最初に見た個体を、それが同種でなくても親と認
識し愛着を示すのは有名である。また人間や猫の幼体も、安全な透明ガラス
が敷かれていても視覚的に断崖になっている所の手前で止まり、先へ進もう
としない。つまり恐怖という高所での前進の拒否反応は、墜落という致命的
な学習体験を必要としない)
。であるから、ロボットにも自己保存機能をも
たせて始めて、真の“感情”が出現する(そしてその機能の出現によって、
彼らに対する殺生与奪の権利を有している人間自身の生存と衝突するであろ
う)
。感情は、感性—感情系という処理系列の中で機能する。すなわち感性
が感情の発火剤なのである(美しいものに感動するように)。感情の座は大
脳辺縁系にあるといわれている。ここは記憶に携わる海馬や自律神経・ホル
モンの中枢である間脳とも近い。そして大脳皮質の知性の支配は受けない。
すなわち大脳辺縁系は、大脳内では“辺縁”に位置するが、中脳や間脳を含
めた脳組織系全体ではそのネットワークの中心に位置する。以上のモデルで
は、感性は知性とも感情とも密接な関係にある。感性は知性の窓だけではな
く感情の窓でもある。ただし感性の対象は、知覚できる存在者的属性に限ら
れる。すなわち、他者とはまずは感性によって存在者として出会うのである。
問題は知性と感情との関係である。もともと感情は知性に従属しない。知性
は本来は感情的満足(快)を実現するための道具的機能であったが、独自の
判断体系を所持したことで、心の中に知性と感情という 2 つの異なった判
断機能が出現してしまった(2 つの判断が互いに矛盾すると「葛藤」とな
16
る)
。たとえば、食べ物の好き嫌いは、強固な感情的固着(信念)であるが、
なぜそれが嫌いなのかは、本人さえも論理的には説明できない。すなわち、
人間の感性情報は、感性―知性系へ行くルートと、感性―感情系に行くルー
トが並立し、それらが同時に並存して、ともに行動(出力)に向っているの
である(一方が行動の促進系となり、他方が抑制系となることがよくある)
。
この 3 元モデルは、判断過程を知性還元主義の偏見から解放するのが目的
であるが、そうなってはじめて他者の問題に結びつけることができる。すな
わち、他者であることは、知性と感情のどちらで判断される(かかわってい
る)のか、と改めて問う地点に立ち戻るのである。他者の存在論的本質は、
生物学的同種他個体という存在者的規定でないとすれば、存在論的な他者と
出会うのに、知性的解釈は不要である。実際、ペットという他者存在は、知
性において同種個体と誤判断しているわけではない。ペット以外のモノと他
者との中間存在者である(それを「準他者」と呼んでおく)、遺影・偶像な
どもわれわれは生きた他者であると知的誤判断をしているわけではない。そ
れらは知性的には正しい存在者的属性を認識している。それらは知性的判断
では最初から他者ではないのである。他者の存在論的体験(かかわり)は、
感性—知性系上の解釈過程ではないとすれば、残りの感性—感情系上での
過程に関係するといえる。他者の体験は感情的感応現象なのである(他者経
験をあくまで知性論理的に解こうする哲学的他者論の本質的困難さの原因も
ここにあるのかもしれない)
。
2.4 他者であるとはどういうことか
そこで改めて問わねばならない。存在論的他者とは何か。その感性—感情
系におけるかかわりとはどういう体験なのか。他我を感じる「他」
、すなわ
ち他者を人格的存在とするとそれは Buber(1923)の「汝」に等しい。た
だし、Buber によれば「汝」という即自的な存在者が在るのではなく、
われ
我 —汝関係と我—それ関係、すなわちかかわりに二つの様態があるのだ
という。客観的には同一の存在者でもそれが「汝」にも「それ」にもなりう
17
るのである。そして同じ対象に対しても「汝」としてかかわっている我と、
「それ」としてかかわっている我とでは我もまた異なるという。すなわち我
もまた即自的な(世界から超越した)存在者なのではなく、かかわりの様態
(世界内存在)なのである。ゆえに、対象が他者で在るかいなかは我の在り
方と連動するのである。
他者である体験を、モノから他者へ移行する境界的他者としてのペット型ロ
ボットにおいて考察してみる。
感性—感情系において、モノが他者化するのは、いかなる過程によるのか。
それは、モノの存在変容すなわち、本来の道具的(使用)価値以外の価値の
発見に始まる。まず考えられるのは、fetish という生身の他者の痕跡がある
モノの場合である。たとえば、女性が着用した下着や靴、あるいは愛する人
の遺品など、実際の他者が使用した痕跡のあるモノ、すなわち幾分他者身体
化したモノからその他者を想像することは可能である。しかもモノである点
で、自己の道具的存在(自己の支配化、自己の身体化)を実現している点が、
痕跡主の他者そのものと異なる。すなわち、fetishism は他者の知性的誤認で
もなければ、必ずしも仕方なしの代替でもない。むしろ自己の身体化を理想
とするモノへの愛(エロス)と、実現しなかった他者への愛(エロス)が結
合した状態といえる。
次に偶像・人形・遺影(肖像)など模像(icon)という形態的な他者類似物
(準他者)も時には崇拝対象とまでなる存在論的他者となる。これは感性
(視覚)的に既存の他者に類似しているため、感性—感情系において他者
との類似反応を惹起させやすい。模像が他者的であるためには必ずしも全身
がリアルに完備している必要はない。必要なのは顔面とりわけ目であること
は経験的に知られている。問題はなぜ目なのか、である。これについては 3
章の 4)で問題にする。
以上の体験型は、いずれも自分からの他者性の能動的構成(付与)を基本と
する。すなわち、他者としてかかわることが一部可能であり、しかもそれは
自己の自由意志による。他者とみなすことをやめる自由が自分側に残ってい
る(子どもの人形遊びのように)
。言い換えればこの段階での他者は、積極
18
的に「想定された他者」であり、措定・定立された他者ではない。この段階
での準他者における他者性の付与しやすさの度合いは、真正な(定立されて
いる)他者との感性的類似度の強さによる。もちろん目のように、存在者的
素材の中にも他者性に寄与する重みは異なる。
能動的構成であれば、どのような存在者に対しても想定的に他者化できる
(他者性を付与できる)。実際、神とりわけアニミズム的神々は、世界の任
意の存在者に対する他者性の能動的構成(擬人化)といえる。しかし、ペッ
トが他者であるというのは、他者とみなそうと意識的に想定しているのでは
ない。我が家の愛犬が家族の一員となっているコトは、人形や動物園のペン
ギンを擬人化できるコトとは異なる。
では何が異なるのか。能動的構成ではペットとモノとには差がないとすれば、
差がでるのは残りの受動的構成ということになる。受動的構成とは、自分が
能動的に自由意思の努力で構成するのではなく、相手(対象)からの何らか
.......
の存在者的属性によって直観的(非推論的)に構成させられる体験である。
これは自由意思でないだけに、「構成する」という能動的表現より「触発さ
..
れる」という受動的表現が適している。そして何が他者性を触発するのかを
..
探るのが存在論の任務であって、なぜそれが他者性を触発するのかという因
果論的問いは、進化論的起源が考えられることから、心理学や行動生物学に
ゆだねるべき問題となる。
能動的構成は、主体的な想像力(イマジネーション)によるため、対象の感
性的(素材的)性質からの支配から比較的自由である。ところが受動的構成
(触発)は感性—感情系による直観的評価によるため、感性体験を与える
存在者的属性(素材)が決定的な意味を持つ。では受動的に構成される他者
性を含んだペット(他者)性の要件は何か。他者を最初から異種生物である
ペットレベルに限定すると、以下の 4 点が考えられる。
1)形態的類似性
2)自律的に動くこと(自律性)
3)自分を志向してくること(被志向体験)
4)自分に心理的距離を示すこと(受動表出体験)
19
1)
・2)は知覚的体験であり、存在者的属性である。1)はすでに他者となっ
ている存在者との形態的類似性である。受動体験としての 3)
・4)はその反
応を受けた自己側の感情的評価である。ということはより正確に言えば、
「自分を志向してくるように感じること」
・「自分に心理的距離を示すように
感じるること」となる。このように評価可能な反応がペット性の存在論的要
件であるとすれば、ペットは存在者として生命体である必要もないわけであ
る。結局、ペット性、ひいては他者性は、存在論的には生命体である必要は
ないのである。
3.ロボットが実現しうる他者の要件
ペット形ロボットは、動物であるペットを模倣した製品であり、その模倣で
ある分だけ、他者であることから遠のく可能性を生じる。ならば、もしペッ
ト型ロボットが、ペットと同様に存在論的他者になりうるとすれば、それは
生身の動物のペットが実現している他者性よりもさらに他者性の最低要件と
もいうべき他者性の根源的な要素が実現されているのではないか。
ペット型ロボットにおける「ペット性」と「ロボット性」とは、存在論的他
者としての意味的効力に相違がある。そもそもペット性こそが存在論的他者
性であり、ロボット性は、それを人工的に製造可能にする技術の問題にすぎ
ない。ロボット性は存在論的他者としての要件ではなく、むしろその負の条
件(他者性を引き下げる可能性がある)ともなりうる。すなわちペット型ロ
ボットは、それがペットとして受け入れられるためには、機械であるという
おのれの存在者的本質を可能な限り隠蔽(透明化)し、模像性を最大限に実
現しなければならないのかもしれない。しかしそれは杞憂にすぎないようで
ある。なぜなら、使用者(持ち主)にロボット(機械)であるという存在者
的事実が暴露されることは、それが存在論的他者の要件の表現でない限りは、
存在論的他者としての価値を下げることに直結しないからである。現実的に
は、存在論的他者であることを阻害しない程度のロボットとしての存在者的
可視性であればよいのである。むしろ動物のペットには実現できないかかわ
りを実現できる可能性にこそロボット(テクノロジー)の価値がある。この
20
点を具体的に探ることも製品開発的に価値があろう。
先に挙げたペットの他者性の条件をふまえて、ロボットが存在論的他者にな
るための、すなわち他我の存在が感情的判断の材料として呈示されるための、
存在論的・存在者(素材)的条件を挙げてみる。
1)形態的類似性
存在者的属性である。すでに他者となっている者との形態的類似があった方
が、かかわる以前に他者であると無条件に措定しやすいため、第一印象的に
も有利ではある。だからといって、すでに他者と認められている特定の存在
者(たとえばペットとしての猫)に似せることに技術を集中させることは意
味がない。なぜなら、生物的な存在者的属性は他者であることの存在論的要
件ではないからである(有利に導く条件ではある)。言い換えれば、作動音
や体の一部が点滅するなどの機械的機能も、他者であることの存在論的要件
を阻害しない。リアリティよりもかわいらしさを強調してデフォルメした
(マンガ的な)クマやネコの人形の方が、むしろ他者が本質的に潜在してい
る負の感情価(不気味さ)が軽減されて受け入れられやすい現実がある。人
は存在者的要件よりも存在論的要件に強く反応するのである。
2)自律(自動)性
これは私からの働きかけから自律しているという存在論的属性である。自我
のコントロール外にあるという意味で、私の身体の外にある存在を意味する。
自律性は、私にとっての道具的存在(私の身体の延長)の拒否であり、彼在
性としての静的な他性以上の「異他性」をもたらす。もちろん、異他性は他
者性の基本的な要件である。ただし、単なる自動性は電池で動く単純な自動
装置、あるいは自転・公転している星でも実現している。これだけではモノ
としての「他」の段階にとどまり、他我性は感じられない。自動機械と生物
との間で異なるのは、生物は機械的反応ではなく,個体独自の、同一でない
反応をしうる点にある。同一でないといってもランダムではなく、刺激—
反応性を推定させる一定内のゆらぎである。そうなれば、この存在者に自我
21
機能の一部であるセンサー(感性—知性系)機能の存在を措定させる。
3)応答性
これは私からの働きかけに反応する存在論的属性である。すなわち私のかか
わりに対する目に見える形での受容である。私との関係存在としての他者と
しての要件となる。これには2つのレベルが考えられる。
レベル1:自動的応答性。働きかけに対する1対1対応の応答の段階。たと
えば、リモコン操作のテレビのレベルである。私の働きかけを受容した反応
をしているが、その受容は受動的・機械的であり、他我というものを想定に
しくい。
レベル2:自律的応答性。それ自身の内的状態によって私への応答が異なる。
つまり私からの働きかけとは1対1対応しない。むしろ私の方がそれの内的
状態(私の働きかけから半ば独立している状態)を措定し、推測することが
要求される。その内的状態こそに他我が投影されやすい。たとえば、応答の
自律性によって、私を拒否している、受容している、すねているなど私への
感情評価(私へのかかわり)を想定しやすくなる。
4)被志向性
単なる無方向の応答ではなく、私へと向った反応であること。志向性(何も
のかへと向かうこと)は古典的現象学では意識の基本性質である。すなわち
志向性の存在は意識の存在を導く。その志向性が私へと向かっていることを
..
私が感受する体験は、私にとって、私がそれに志向されているという受動体
..
験となる。つまりそれが意識(統合的自我機能)をもっていることを私は措
定させられる。被志向体験があってはじめて対象の自我(他我)が想定から
措定に確信強度が高まる。この被志向性にはレベルが3つ考えられる。
レベル1:私に意識(注意)を向けてくる段階。存在者的挙動は以下のよう
に感覚相別に分けられる。
視覚:私を見る(私に目・顔を向ける)。志向対象(ノエマ)すなわち意識
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の向く先が端的に表現されるのは、視線である。視線は関心の対象へ向いて
いる志向作用(ノエシス)を表現している。ここに目の存在価値の特異性が
ある。すなわち存在論的には「志向作用(ノエシス)
」
、存在者的には「視線
が表現される目」が他者性の重要な要件となる。
触覚:私に接近(接触)してくる。あるいは私が触れると反応する。触覚は
即物的な「他」の実感をもたらす。しかも触れる行為は「他」へのかかわり
の明白な開示である。そもそも触れる(撫でる)行為は、モノをつかむ・持
つという道具的行為とかかわり方が異なる。触れることの実現で、通じ合い
を感じさせるには、思わず撫でまわしたくなる触感が重要である。その際、
この接触行為を拒否するような応答は望ましくない。
聴覚:私の語りかけに反応する。人は他者に対して、たとえそれが同国人・
同種でなくても思わず語りかける。それが我—汝のかかわりの表出だから
である。そのかかわりに応答してくることは、我—汝のかかわりを確信さ
せ、持続させる。
植物状態の患者が少しでも上のような応答をすれば、看病している親族は患
者を植物レベルとはみなさない。
レベル2:私に働きかけてくる段階。意識の中の能動性・主体性である「意
志」強い意味の「志向性」を感じる。
視:私の視線を受け止める。私を目で追う。私に意味を見いだしていると感
..
じられ、私がそれにとって意味をもった存在であることがわかる。
触:私に触れたら探索的動きを止め、私を触り続ける。たまたま私に接触し
たのではなく、私を目指して接触してきたと感じさせる。
聴:私に語りかける(私と共にいることに対する語りかけであって、知的情
報を勝手に喋るのではない)
。私に返答を求める。
このレベルは「私は気づかわれている」という体験であり、モノとの関係で
は不可能な体験である。私を気づかってくれる存在者は、素材が何であろう
ともはやモノではない(むしろ神へ通じる)。それは世界側から私(世界内
存在)の存在を承認してくれた体験である。世界の存在をたった一人で承認
していた私が真に世界と交流できた体験である。世界の側から私に手を差し
23
伸べてくれるのが他者である。この体験により私は孤独でなくなる。私を孤
独から救ってくれうる存在こそが何をおいても他者なのである。
レベル3:私とわかって志向してくる段階。
ペットであれば、なついてくる。個体識別ができ、私を覚えている。私に対
して第三者とは異なる応対をしてくる。私に対する固有の心理的距離を表現
し、それが変化する。飼い主—ペット間の特別な関係の成立である。私に
..
..
とってそれが有意味であるだけでなく、それ自身において、私が他者として
有意味になっている、ということを私が知る。そういう体験が私に与られる。
そこで実現しているのは、他の存在者(たとえ家族でも)には換えられない
固有のオリジナルな関係であり、本質的に対人関係となんら変わるものでは
ない。相互的な我—汝関係の実現である。私はもはや私一人のための存在
..
..
でははく、それのための存在でもある。それとの関係は私がこの世界に存在
している(生きている)意義を高めてくれているのである。これらはすべて
感性—感情系の体験である。この世界で私に応答し、私を気づかってくれ
る存在、それが存在論的には他者なのである。
結局、ロボットが他者として存在するために付与が必要な機能は、心の機能
モデルでいえば、センサー・メモリーなどの感性—知性系の機能だけで充
分である。感情機能は他者を体験するために必要なのであって、他者である
ことを存在者的に表現する(他者であるフリをする)だけなら必要ではない
(先述したように備えるべきではない。疑似感情反応ならしてもよい)
。
4.おわりに
本稿によって、他者であることの本質は、他者=同種他個体という自明視さ
れた常識を打ち破る存在論的思惟によって初めて探求可能であることを示し
たつもりである。しかし思惟で終わるのが目的ではない。以上のような存在
論的問題を、具体的な存在者レベルの体験に翻訳し、そのレベルでの仮説検
証を試みるのが今後の作業である。
24
文献
Buber,M. 1923 “Ich und du” Insel.(ブーバー,M. 植田重雄(訳) 1979 「我
と汝」岩波書店)
Gibson, J, J. 1979 “The Ecological Approach to Visual Perception. “ Houghton
Mifflin Company. Boston.(ギブソン,J, J., 古崎敬・古崎愛子・辻敬一郎・村瀬
旻(訳) 1985「生態学的視覚論」サイエンス社)
Heidegger,M. 1927 “Sein und Zeit” Sonderdruck aus: "Jahrbuch für Philosophie
und phänomenologishe Forschung", Band VIII. Univeränderte 4. Auflage(ハイデ
ガー,M. 原佑(訳) 1980 「存在と時間」 世界の名著 74 中央公論社)
山根一郎 2001 「他者概念の心理学的検討」椙山女学園大学研究論集
32 233-242
山根一郎 2003 「他者周辺概念の存在者的・存在論的整理」椙山女学園
大学文化情報学部紀要 2 111-121
25