20141010 第 2 回マクロゼミ キルケゴール『不安の概念』② 担当班:竜門

20141010 第 2 回マクロゼミ
キルケゴール『不安の概念』②
担当班:竜門、杉本、藤本
問 1 p.167「 不 幸 は 、無 精 神 性 が 精 神 に 対 し て 或 る 関 係 を 保 っ て い る と い う ま さ に そ
の こ と で あ る 、― ― そ う し て こ の 関 係 は 無 で あ る 。」と あ る が 無 精 神 性 に お け る 精 神
との関係がどう成り立っているのか、異教における精神との関係と比較しつつ説明
せ よ 。〈 参 照 範 囲 : 第 3 章 〉
(担当:竜門)
【引用】
p.165 ――すべて異教徒が、さらにはまたキリスト教世界の内部におけるそれの再現も、
単に量的な規定だけしか知らないでいるのであって、そこからしては罪の質的な飛躍が出
現してくることはないということ。ところがかかる状態は無垢の状態なのではないのであ
って、精神の立場から考察するならば、むしろこれこそは罪性なのである。
同上 f 異教徒は量的な諸規定によって謂わば時間をひきのばしているのであり、最深の意
味における罪に到達するということがない、―ところでまさしくこのことが罪なのである。
このことが異教徒にあてはまることは容易に示されうる。キリスト教の内部における異教
徒の場合は事情が些か異なっている。キリスト教的=異教的生活は、咎あるものでもなけ
れば無垢なのでもない。
p.166 いま言ったことは異教徒にはあてはまらない。そのような存在はただキリスト教の
内部においてのみ見出されうるのである。これは、精神がいよいよ高貴なものに措定せら
れればせられるほど、それだけまた無精神性はいよいよ底なしのものとして示されてくる
ことによるものである。
p.167 無精神性はこの上なく豊かな精神が語ったこととまったく同じことを語ることがで
きる、ただそれを精神の力で言わないだけのことである。
p.168 無精神性のうちにはいかなる不安も存しない、不安を感ずるにはそれはあまりにも
幸福なのである、それはあまりにも自己満足的であり、あまりにも無精神的である。だが
これは実はきわめていかがわしい基盤なのであって、ここに異教世界と無精神性との相違
が顕わになってくる、―前者は精神への方向に規定されているが、後者は精神からの方向
なのである。それ故に異教世界は謂わば虚心なのであり、無精神性とはいちじるしく異な
っている。しかも異教世界の方が遥かに優れているのである。無精神性は精神の沈滞であ
り、理想の漫画である。
同上 f 無精神性が何ものをも精神的に理解することなく、一切をおのが無力な冗説によっ
てかきまわすことはするが、何ものをも課題として把捉することがないという点に、無精
神性の喪失と並にそれの安定が存する。
p.169 さて無精神性のうちにはなるほど不安が存していない、というのは、不安は精神と
同様にそこから排除されているからである。ところが実は不安はそこにあるのである。た
だそれは待っているだけなのである。
p.170 さて我々がいっそう立ちいって、不安の対象は何であるかと問うならば、ここでも
いつものようにこう答えられるべきである、―それは無である。不安と無とはいつも相互
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に対応している。
p.171 かかる必然性の名残りをひとびとはキリスト教的見解のうちにもういちど見出そう
とした、即ち運命・偶然的なるもの・摂理の関係ではない、運命は必然性と偶然性との統
一にほかならないのである。
p.172 それ故に運命において異教徒の不安はそれの対象、それの無、をもっている。運命
との関係のなかに彼ははいりこむことができない、―なぜなら運命は或る瞬間において必
然的なるものであるかと思えば、すぐそのつぎの瞬間において偶然的なるものなのだから
である。しかも彼は運命との関係のなかに立っている、かかる関係は不安なのである。
【解答】
まず、異教世界の者について述べる。異教世界は不安のうちにある。その不安の対象は
無であり、その不安と無は相互に関係している。そしてその不安における無は、具体的に
は運命となる。また、運命とは外的なるものとしての精神との関係―精神と精神ではない
ところの他のものとの間の関係である。このことを以下においてその関係を説明する。
異教世界において運命は必然であると考えられる。しかし実際は、運命は必然と偶然の
統一である。例えば神託の場合において、人間が人間にとって過ぎた選択を行う場合、こ
れを偶像の神の判断に委ねる。この場合に偶像の神がとった選択はもちろん異教徒の人に
とっては必然である。しかし第三者的視点から見れば偶然であることが明らかな場合も多
くあろう。以上のように、偶像の神を信仰の対象とする異教徒にとって、必然であるはず
の運命が偶然的な側面も含んでいる。しかし運命は必然性と偶然性との統一である。つま
り異教徒の人々は、運命を必然性としてしか捉えられていない。そのため精神と精神でな
いものの間の関係としての運命をきちんと把捉できていない。そして精神というものを認
識できていないがためにその関係である運命は無となり、それと相互に対応するように不
安が発生する。
次に無精神性について述べる。無精神性とは、キリスト教の内部において見出されうる
ものである。無精神性のキリスト教徒は、キリストの精神の内部にあり、精神を追求して
いる存在でありながら、何ものをも精神的に理解することができなくなるのである。その
ためその人間は精神存在であることをから離れる。
無精神性において、その精神との関係は無であり、また無という関係の中にいる。キリ
スト教徒にとっての不安となるものは精神との関係、精神の方向へ向かうことの中で、つ
まり真のキリスト教徒となるまでの距離の感覚、またそうできないことの実感である。し
かし無精神性の場合はこのようなものではない。異教徒の例における精神への関係におい
ても、彼らは精神の方向に働く。それは前段落で見たような、偶像を必然、真理としそれ
を追求する動きによってである。しかし無精神性の場合は、精神との関係に対する不安か
ら逃れようとする動きである。それは精神との関係を無しにする方向であり、無となる。
そこで無精神性においてはその無の関係を覆い隠すことに必死になる。キリスト教の内部
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にいるために、キリスト教徒として振舞うことができ、真の精神と同様な豊かな言葉です
ら語ることが出来る。だがそれは真の精神から出た言葉ではなくあくまで形としての言葉
であることは明白である。また無精神性はその状態に動揺し、無の関係を覆い隠すことに
忙殺される。しかしこのような動きはすでに無精神的であると言える。このように無精神
性は精神との関係からくる不安から逃れることにより、精神へ向かうことなく、「精神から
の方向」(p.168)として働き、その精神を排除する。
問 2 悪 魔 的 な る も の に つ い て 述 べ た う え で 、人 が 悪 魔 的 な る も の か ら 救 済 さ れ る 方
法 に つ い て 説 明 せ よ 。〈 キ ー ワ ー ド : 開 示 、 真 剣 さ 、 参 照 範 囲 第 4 章 〉
(担当:杉本)
【引用】
p.202 (b) 措定された罪は同時にそのうちにその結果――これは自由に未知な結果であ
るが――を担っている。これが告示されると、不安はそれとの関係の中にはいりこんでゆ
く、――なぜならそれは未来的なるものとして新しい状態の可能性なのだから。
p.219 無垢においては自由は自由としては措定されていなかった、自由の可能性が個体に
あっては不安であったのである。悪魔的なるものにおいては関係は逆になっている。自由
は不自由性として措定されている、なぜなら自由が失われているからである。自由の可能
性がここではまたもや不安である。相違は絶対的である、…
p.220 悪魔的なるものとは閉じこもっているところのものであり、おのが意志に反して顕
わならしめられうるものである。
p.221 不自由性は次第に閉じこもりの度を強めるのであり、交わりを欲しない。
p.226 善とは、閉鎖性が開き示されうるようになるということを意味しているのである。
オッフェンバールング
この場合、 開
示 はまたもやこの上なく崇高なこと(卓越せる意味における救済)を意
味しうるとともにこの上なく無意味なこと(ひとがなんらかどうでもいいことをすぐさま
口に出して言うようなこと)をも意味しうる。
p.233 突発的なるものは、悪魔的なるものと同様に、善にたいする不安である。善とはこ
の場合連続性を意味している、なぜなら救済の最初の表現が連続性だからである。
p.248 行為を通じてのみ到達せられ行為のうちにおいてのみその現存在を有していると
ころのかかる確信と内面性とが、或る個体が悪魔的であるか否かを決定する。
p.255 内面性とはひとつの理解である、しかし具体的にはこの理解をいかに理解すべきか
ということが問題なのである。…ひとが自ら語ることを理解することはひとつのことであ
る、語られたことのなかで自己自身を理解することはまた別のことである。…そしてかか
る理解が意識との関係において欠如している場合、我々は自由にたいして自己を閉鎖しよ
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うと欲するところの不自由性の現象をもつことになるのである。
p.269 ――要するに問題は、果して彼が最初に真剣さの対象に関して真剣になったのであ
るか否かに懸っているのである。いかなる人間もかかる対象をもっている、なぜならそれ
は彼自身だからである。
p.271 内面性が欠如するや否や、精神は有限化せられる。それ故に内面性は永遠性なので
ある、換言すれば、人間における永遠的なるものの規定なのである。
p.273 もしも永遠性が存在していないとしたら、その場合には実に瞬間が、あたかも永遠
性のようなものが存在しているかのように、ちょうどそのくらい長くなるのである!しか
るに永遠性に対する不安は瞬間を抽象に化せしめている。
キルケゴール『死に至る病』
p.159 我々がこれまで問題にしてきた自己意識の上昇は、「人間的な自己」とか「その尺
度が人間であるところの自己」とかいうような規定の内部で起った。けれども自己は、そ
れが神にたいして自己であることによって新しい性質ないし条件を獲得するのである。
マルティン・ブーバー『我と汝』
p.11 経験される対象の世界は、根源語〈われ‐それ〉に属している。根源語〈われ‐なん
じ〉は、関係の世界を成り立たせている。
p.21 現在とは消えやすく、過ぎ去りやすいものではなくて、つねに〈そこに居合わせるも
の〉であり、〈持続する〉ものである。・・・真の存在性は、現在の中に生かされ、対象性は
過去に生きる。
p.32 おそらく第一の根源語は、〈われ〉と〈なんじ〉に分解できるであろうが、しかし二
つの要素がひとつになって生じたものではない。この根源語は〈われ〉より先のものであ
る。
アレント『人間の条件』
p.263 芸術作品は、世界の中でそれにふさわしい場所を与えるために、普通の使用対象物
の文脈全体から注意深く切り離しておかなければならない。
p.266 すなわち「生きた精神」が生き続けなければならないのは必ず「死んだ文字」の中
においてである。そして「生きた精神」を死状態(デッドネス)から救い出すことができるの
は、死んだ文字が、それを進んでよみがえらせようとする一つの生命とふたたび接触する
ときだけである。
【解答】
人間は、無垢であることを止め、霊的なものと肉体的なもののあいだのゆらめきの中で
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生きることによって罪から逃れることのできなくなった存在である。この相反するものの
間でゆらぐ人間は、悪に対する不安と悪魔的なるもの(善に対する不安)を抱く可能性を
持ち合わせている。悪に対する不安は、罪が措定されると同時に自由で未知な結果をもた
らすような新しい状態の可能性をもつ。それに対して、悪魔的なるものは、悪に対する不
安が持つような自由の可能性を不自由性として措定する。悪魔的なるものは、善に対する
不安であり、不自由との関係によって善がもつ自由の可能性を否定する。以下、悪魔的な
るものについて説明し、悪魔的なるものから救済される方法について述べる。
悪魔的なるものとは心理状態であり、人がその状態であることは個人によって罪ある行
いをする可能性があることを意味する。悪魔的なるものは、突発的なものである。人は、
現在的なるものの連続性を捨象することによって自身の将来の自由の可能性を否定し、瞬
間的な衝動によって行為に及ぶ。精神的存在である人が永遠的なるものを否定したとき、
人は自身の可能性を否定し、ただ瞬間だけを追い求めるようになる。人は瞬間を抽象化し
延長させることで、瞬間があたかも永遠的なるものであるかのように理解する。その結果、
人は内面性を十分に省みることなく永遠的なるものを抽象化して理解し、自由の可能性と
いう善に対して不安を抱くのである。また、悪魔的なるものは閉じこもっているところの
ものである。人が悪魔的なる状態である時、不自由性によってみずから自己を閉じ込め、
自己以外との交わりを欲しない状態になる。時としてそれは、憂鬱症や精神病を引き起こ
す。悪魔的なるものである人は、永遠なるものを否定することで延長した瞬間の中で生き、
また不自由性によって自己自身を閉じ込める。
近代以降、人と人の関係には様々なものが介在し、ものを介在しなければ保てないほど
希薄なものとなった。それとともに悪魔的なるものは、その存在を強め、人々に孤独感を
与え、精神病をもたらすようになった。人とものの関係は、実証できる事象を探求するこ
とが経済を潤し、また社会全体のためになるという考え方を生み出した。悪魔的なるもの
は、実証主義的な定量可能なものとして関係性を把握し、人間の心理を統計可能なものと
して定めることで対象を数値によって抽象化して考えるのである。
上記の悪魔的なるものから人を救済するのは、開示の理解と人間のもつ真剣さである。
開示は救済の最初の表現であり、人間のもつ真剣さとは、自身を対象として何事かを成し
遂げる意志である。真剣さをもつことで人は自身の内面性に向き合い、現存在としての確
信をもつことができる。その場合に問題となるのは、開示の理解(関係性の理解)といか
に向き合い理解するのかということである。つまり、理解していると判断した自分をどう
位置づけているかを理解することが救済の一歩となるのである。人が善にたいして不安を
もっている場合、人が自己を理解するのは自己自身を尺度としたものであり、自己の意識
が他との関係性と結びつかず、閉鎖的な自己の持つ不自由性を示すこととなる。つまり、
自身の内面性を精神や他者と結びつけることなく、瞬間的にとらえて理解しているにすぎ
ないのである。
精神的存在である自己を真に理解するためには、自己が関係性の中に生まれ、精神の自
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由な可能性をもっていることを意識することが必要である。この意識を持つことができる
かどうかは、人が不安に陥ったことを契機としてその不安にどう向き合うのかにかかって
いる。人が関係性の中に生まれ、精神の自由な可能性を持っているということは、人間が
不安を抱えつつも世界との関係に気づくと同時に、現在的な存在として常に持続した可能
性を持ち合わせているといるのである。人が精神存在として関係性の中で生きることは、
自身と他者、あるいは神という要素をひとつにするのではなく、最初から一つの世界とし
て根源的にそれぞれの要素を規定するに先んじて関係が存しているということである。そ
の関係性は自分自身の意志によって選択され、自分自身の精神として描かれる。世界を概
念化して把握し、自己が自身の存在を関係性として理解したとき、人は自己自身の内部で
不安に陥る悪魔的なるものから救われるのである。
それでは、社会が人とものの関係、あるいはものとものの関係となっている現代で人は
精神的存在であることをいかに気づき、維持することができるのか。現代がものの社会で
あるのであれば、ものの介入なしに人と関係を結ぶことは多くの場合困難である。しかし、
自身の精神性を失うかどうかはまた別の話である。世界との関係を考え、それを伝えるた
めに芸術作品というものを手段とするならば、それを手に取った人が死んだ文字や画と化
している生きた精神としてもう一度吹き返すことで、自己が悪魔的なるものとなることを
防ぐことができるのである。
問 3 p.278「 も し も 人 間 が 動 物 か 天 使 で あ る と し た ら 、不 安 に 陥 る こ と も な い で あ ろ う 。
ところがさて彼は綜合なのである、そのかぎり彼は不安を抱きうるのであり、彼の抱く
不安が深いものであればあるほど、それだけまたその人間は偉大なのである。…――彼
らは不安を外から人間に迫ってくるところの或る外的なものに関係させている。そうで
は な し に そ れ は 、人 間 が 自 ら 不 安 を 生 み 出 す と い う 意 味 に 解 せ ら れ ね ば な ら な い 。」と あ
るが、人間が綜合であるとはどういうことか、また綜合であるために生まれる不安はな
ぜ自ら生み出すものとして理解しなければならないのか説明せよ。
【引用】
p.148 第一の場合には、霊と肉とが綜合に二つの契機であり、精神が第三者であった、そ
うしてそれも、ほかならぬ精神が措定される場合に始めて本来的に綜合が語られうるので
ある。もうひとつの綜合は、時間的なるものと永遠的なるものという二つの契機だけしか
もっていない。さて第三者はどこにあるのだろうか。…――「瞬間」のうちに。
p.149 さてひとが時間を正当にも無限な継起として規定するという場合、さらにそれを過去
的・現在的・未来的として規定することは自明のことのように思われるかも知れない。…かかる
区分は時間が永遠との関係のなかにはいりこみ永遠が時間のうちに反映せしめられることによ
って始めて出現し来るものだからである。
p.152 瞬間はいかなる過去なるものをも未来的なるものをももたぬところの現在的なるものそ
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のものを意味している。…永遠もまたいかなる過去的なるものをも未来的なるものをももたぬと
ころの現在的なるものである、そうしてこれが永遠の完全性なのである。
p.156 ――即ち時間性において時間はたえず永遠をもぎとり、永遠はたえず時間に滲透するの
である。ここで始めて上述の、現在的時間・過去的時間・未来的時間という区分はその意義を獲
得することになる。
p.158 瞬間が措定せられる場合、そこに永遠的なるものが存在する、ところでその際この永遠
的なるものは同時に未来的なるものであり、これがまた過去的なるものとして再現するのである。
p.190 いま我々は宗教的な天才を考察してみたいと思う…直接的な天才が運命を不断の伴侶と
しているように、宗教的な天才は咎をそれとしてもっている。
p.194 咎とは、自由に対して可能性の関係に立ちながら次第次第により可能的なるものとなる
ところの、より具体的な表象である。
p.279 不安は自由の可能性である。ただ不安のみが――信仰と結びついた場合に――絶対に教
化的である、即ち不安は一切の有限性を焼きつくし、有限性の一切の欺瞞を暴露するのである。
p.280 不安に教化されるものは、可能性によって強化されるのである。そして可能性によって
教化されたものにして始めておのが無限性にしたがって教化されているのである。
キェルケゴール『死に至る病』
p.22 人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?
自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということには関係が自己自身
に関係するものなることが含まれている。
p.56 …自己が〔相互に止揚しあう両契機の〕綜合であり、それ故に一方のものは恒に同時にそ
の反対でもあるという弁証法的なるもののうちに存する。
【解答】
人間は霊と肉との綜合であり、両者を統一する第三者のものが精神である。綜合とは、
対立する二つのものが単なる関係として結合しているのではない。人間が綜合であること
について、まず私たちが考察すべきは、人間のうちに存する二つの具体的な関係、すなわち、
霊と肉の関係、時間的なるものと永遠的なるものとの関係である。次に、人間が綜合であるため
に生まれる不安が、なぜ自ら生み出したものとして理解しなければならないのかを考察する。
人間の綜合とは、人間の本質として精神があり、精神自身に霊と肉の関係が関係することで成
り立っている。霊と肉の関係とは、可能性と必然性の関係を指している。
(※1)人間は一方で可
能性に思いをはせ、他方では必然性に意識を傾けていることで、バランスを保っているのである。
精神が可能性と必然性との綜合として措定されるというこの関係は、弁証法的なものである。つ
まり人間のうちには、一方のものは常に同時にその反対でもあるという関係が存しているのであ
る。それだから、人間(精神)は可能的であり、必然的でもあるのだ。
ところで、そもそも可能性と必然性の関係はどのようにして生じるのか。二項の関係は、精神
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により気づかれ、意識を向けられることにより、私たちの前に現われるのである。人間は精神と
いう関係性を持ち、関係性が先にあるからこそ、自己と自己以外のものの関係に気付くことがで
きるのである。それでは、精神は何によって霊と肉の関係に気付き、二項の関係を意識するので
あろうか。この問題を考察するにあたり、先に精神と精神以外との関係(例:霊と肉の関係)の
うちに何が存するのかを説明する。精神と精神以外のものとの間の関係として、運命が存する。
(※2)この運命を発見することができるのが、天才である。彼がはじめになすことは、自己を
自己自身へと向けることである。言い換えると、精神を精神自身に向けることである。天才は自
己を自己自身に向けることにより、精神と精神以外のものの間にある運命を発見し、運命との関
係の中に入り込む。さらに、天才は自己を内部に向けることによって、自由を発見する。自由と
は、自己が自由であるということを自ら意識していることの自由である。この自由は咎を恐れる
が、自由は咎から目を背けることはできない。なぜなら、自由と咎は相反するものであり、ある
一つの綜合であるからだ。
(※3)咎に対する自由の関係は不安である。不安の中で自由は、自己
自身の前に可能性としての自己を示す。可能性としての自己とは、それまで関係性が見られてい
ないものに対し、自分は関係付けていく、ないし関係に意識を向ける存在であると、精神自身が
気づくことである。この時、精神は自らを関係性と理解するに至り、精神は、精神と精神以外の
関係に意識を向けることができるのである。
さらに、精神は第一の綜合と同時に時間的なるものと永遠的なるものとの綜合という、もう一
つの綜合を措定する場合にはじめて存在する。時間的なるものと永遠的なるものを繋ぐ第三者は
瞬間であり、瞬間は現在的なものである。普段、私たちは時間を現在・過去・未来の三つに区分
して考えているが、時間のうちには、この三つの区分は存在しない。なぜなら、時間は過ぎ去り
ゆくところの継起であるからだ。その反対に、永遠的なるものとは、現在的なるものである。そ
の場から動くことのない一つの点が、未来にも連続して続くからこそ、永遠的なるものになるの
である。そのため、三つの区分は時間が永遠との関係の中に入り込み、永遠が時間のうちに反映
される時に出現するのである。また、永遠的なるものは未来的なるものの意味を含んでいる。
(※
4)この未来的なるものは過去的なるものを措定する。よって、永遠的なるものは現在的であり、
未来的なるものと過去的なるものにも関係している。そのため、時間と永遠が関係づけられる際
に、現在的時間・過去的時間・未来的時間という区分はその意義を得るのである。瞬間が時間と
永遠を関係づけるためには、時間と永遠の関係に瞬間自身が関係しなければならない。
(※5)よ
って、人間が綜合であることは、精神と同様に、瞬間自身に関係する時間的なるものと永遠的な
るものの関係の綜合である。
人間は精神であり、精神とは関係の綜合である。人間は関係の綜合である故に、不安を感じる。
不安とは、自己自身の前に自由の可能性が現われ、人間のうちに存する関係の間を精神が揺らめ
くことであった。(前回のマクロゼミ参照)そのため、不安は自分が生み出すものであり、自分
自身の中で展開されるものであると言える。私たちは、不安は自ら生みだしたものであると理解
しなければならない。なぜなら、不安は自ら生み出すものと理解した者だけが、真に不安を学ん
だ者になりえるからだ。不安の概念を知った者は、人間は関係の綜合であるが故に、不安を持つ
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存在であることを理解するだろう。この人間は人間の本質である精神や自己に意識を向け、自己
自身に向き合うようになる。自己自身に向き合う天才は、自己と自己以外のものとの関係を理解
する、すなわち、精神の自由の可能性を信じる信仰者になるのだ。この時、精神は永遠性となる。
精神の自由の可能性とは、精神が自らを精神性だと理解したが故に、自分自身と他のものとのあ
らゆる関係に意識を向け気づくこと、ないしは同じことであるが、自分の前に関係としてあると
信頼することである。すなわち、可能性の中には、弁証法的な関係として、自分と関係との綜合
が成り立っているのである。相互的関係に成功した関係性そのものが神であるからこそ、精神は
永遠性となる。前述したものの契機は、不安である。不安だけが信仰と結びついた場合、不安は
人間を望ましい方向へ進ませるために、教え導くものとなるのである。従って、私たちは、不安
は自ら生み出すものと理解しなければならないのだ。
(※1)可能性と必然性の関係
可能性においては一切が可能的である。そのため、人間は必然性が欠乏すると、あらゆる可能
的な仕方で抽象的なものばかりを追い求め、道に迷うことがありうる。反対に、可能性が欠乏し
ている者は一切が必然的であり、眼前に現われる事物しか信用の対象にならない。
(※2)運命
運命とは、必然性と偶然性の統一であり、弁証法的な一つの綜合である。
(※3)咎と自由の関係
天才は自由を発見する。それにより、自己が自由であることを意識するようになる。そこで、
均衡を保つために自由に関係するものが咎である。天才は咎あるものとなることを恐れる。なぜ
なら、咎は天才から自由を奪い取る唯一のものであるからだ。自由とは、自己が自由であること
を自己自身が意識していることの自由である。咎とは、自由のとの関係において、より可能的に
なるものである。自由と咎の間には、一方は常に他方であり、逆もまたしかりという弁証法的な
関係がなりたっている。二項のものが関係することによって、精神は自己自身の前にある可能性
に意識を向けることができるようになる。
(※4)
未来的なるものは、現在的なるものや過去的なるものよりも多くを意味していることがある。人
間の時間軸において未来を考えた時、未来の中には現在も過去も含まれており、未来は時間の全
体を意味しているからだ。この意味において、未来的なるものは過去的なるものを措定する。
(※5)瞬間自身に関係が関係する過程
瞬間が時間と永遠を関係づけるためには、時間と永遠の関係に瞬間自身が関係しなければならな
い。その過程は、精神が霊と肉の関係に気づく過程と同様である。なぜなら、時間と永遠の総合
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は、第一の総合の別の表現であるから。
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