第 27 回政策・情報 学生交流会参加者の皆様 関西学院大学総合政策学部の高畑ですが、潮田彩様からは以下の mail をいただき ました。 >(前略)グループに分かれ総合政策について議論しました。議論のテーマを「総 合政策とは」 「総合政策をよりよくするには」 「総合政策の魅力を浸透させるに は」の 3 つに設定し、グループごとに模造紙にまとめ、参加者で投票をし上位 4 つを 選出しました。そこでその内容について先生にコメントを頂きたいのです。 早めにお返事しようと思っていたのですが、先週初めに突然、とんでもない仕事 が出来して、それに忙殺されてしまいました。返信がほぼ1週間以上遅れて、申し 訳ありません。以下、私の個人的な感想を述べたいと思います。 まず、皆さんがこれらのテーマにどう反応し、どのような答えを出そうとした か、非常に興味深く拝見しました。23 班(1位)の意見は、 「政策・立案者の養成 機関=ポケモンマスターを育てるところ」としての確立になるかと思います。 ただし、そのために総政に何が必要なのか? 「インプットのみの授業ではなく 理論+実践の授業を増やす」とありますが、それがどんなものなのか、今一つはっ きりしません。それが今流行の「ex)インターンシップ」なのかどうか? 話があまりに飛びすぎるかもしれませんが、私は個人的事情で 40 歳台後半に自動 車の免許を取らねばならぬ羽目になって、三田で自動車学校に通いました。なん と、基礎演習1で教えている1年生(今は岐阜で銀行員をされているはずですが) と同級生でしたが(笑) 、その時感じたのは、自動車学校の教育システムはかなり すごい。何しろ、座学=交通法規その他を教えつつ、実技=運転を覚えなきゃ、そ もそも意味がない。この二つをこなしながら、きちんと教えていく。これはなかな かできることではありません。とくに、文系学部にとっては(私は理学部出身なの で、理系は実験というそもそも実践の授業が多いのです) 。この話を他の先生方に 言っても、あまりわかってもらえなかったのですが、パワーポイントを見ている と、突然思い出してしまいました。座学と実技の融合を、自動車学校に学ぶのも悪 いことではないかもしれません。とくに、大学では必ずしもお行儀が良くない学生 の皆さんも、自動車学校では結構礼儀正しく振る舞っているのですよね。これが、 「社会学」というものだと思いつつ、なかなか感心したものです。 ところで、皆さんに一冊、ロシアのプロレタリアート作家マキシム・ゴーリキー の小説『私の大学』を紹介してみたいと思います。この作品には実は、“大学”は 登場しません。労働者階級の子弟として“世に出た” 若者ゴーリキーが広大なロシ アを放浪し、そこで出会った人たちの交流こそが、自分にとっての“大学”だった と、自らの青春を回想する物語なのです。 3班(2位)は、 「それでは、総政の授業の中身をどうしようか?」という提案 です。つまり、プレゼンでの順番としては、23 班が全体的テーマを(ポケモンマス ター養成機関としての重要性)をのべ、次に、その中身を3班が検討するというの は、良い順番かもしれません。 多角的視野をやしなうため、法律・経済といった文型の学問だけでなく。環境学 や生態学、化学などと文系と理系の融合によるサラダ。 これは、ボローニャ大学以来の、神学・医学・法学に進む前の自由七科=リベラ ル・アーツの考え方にほかなりません。これ自体は良いことなのですが、今の日本 では、大学に進学する前にその基礎を作っておくべき中高において、実は非常に衰 えている。みんな、教養のベースを持っていない。これが日本の今の教育の問題で す。ヨーロッパでクラッシクな教育を受ければ、みんな中高のラテン語の授業で (つまり、日本では古文・漢文の世界で)、2000 年前、哲学者にして政治家でもあ った(しかし、保守的思想から逃れられず、死後は政敵に殺されることになる)キ ケロが政敵カテリーナを元老院の席上で面と向かって「君は何時まで我々の忍耐を 濫用するのか?」と弾劾した文章を読まされる(なお、カテリーナは結局蜂起し て、一味は全員殺されるのですが) 。そういう教育を受けていれば、今の日本の政 治家のように、国会で空疎な答弁をするはずはない、のかもしれません。 ただし、先ほど触れた自動車学校のイメージからすれば、 「理系といっても実験 や数式でない」はちょっといただけません。やはり、火傷してみてもよいから、一 度は実技に手をださないと、とは思います。 さて、同じく2位の 15 班ですが、この班のキーワードの「コミュニティ-」が、 残念ながら、もう一つぴんと来ないのです。 「このように総合政策は社会全体の中 に一つ一つの コミュニティーとして存在している」の部分ですね。あるものを理解するのに、別 のものに例えて説明するのをメタファーと言いますが、このキーワードで何を伝え たいのか、私には今一つ掴みにくいところがあります。 ひょっとしたら、これは全国の政策学部が「一つのコミュニティ」であるが、そ の中で中央も、関学も、南山も、立命館もそれぞれ異なっている.その中で、世間に イメージを訴えかけるためには、メンバー(教職員、学生)のクオリテイを高めねば ならない、ということでしょうか? そのあたりが掴みきれないので、コメントは このあたりで控えます。 最後の 2 位(26 班)ですが、企業やNGOでよくあるタイプの議論の展開、例え ば、KJ法をつかっての議論の集約、問題点の発見、そして解決策の提示だと思い ます。 この図を煎じ詰めれば、結局は、 「学ばなければいけない」それも「理論と実 践」の両方を、ということになるでしょう。 ここまで来ると、やはり、学部や大学を超えたつながり、それぞれの大学・学部 で欠けたところを補い合い、議論していくシステムが必要だということになりま す。それが「学会」というものの本来の意味なのですけれど。今は、既存の学会ば かりで、それもある種も思惑をかかえたものが多く、そこに属しても結局はタコツ ボかせいぜい塹壕の中だけで議論が交わされる、そんな現状を「交流会」という組 織がどれだけ変えられるのか? 難しいと思いますし、たぶん、皆さん方が先日の 交流会の真の意味に気付くのは、卒業されて実社会に出た後かもしれません。 以上、かなり勝手なコメントで申し訳ありませんが、このあたりで失礼します。
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