坂本繁二郎・巨匠に敬意を表す - 久留米大学留学生カフェ Blog

坂本繁二郎・巨匠に敬意を表す
久留米大学留学生別科
A クラス 212BD06
劉晶
1.はじめに
自分はインテリアのデザイナーなので、絵を描くことに大変興味を持っているため、
日本の画家たちについて理解を深めたいと考えている。インターネットで調べると、坂
本繁二郎は久留米の有名な画家の一人であることがわかる。彼は印象派の画家であり、
馬が好きだから、大量の馬に関する作品を描いた。このような画家はどのような人生を
送ったのか、彼はどうやってこのような有名な巨匠になったかなどについて知りたいの
で、このテーマを選んだ。
2.坂本繁二郎の光り輝いた人生
杉森(2004)によると、次のことがわかる。坂本は明治十五年(1882)
、福岡の久留米
市に生まれた。父親は坂本が 4 歳の時に死んでしまった。10 歳の時、画家森三美に師
事して絵を学んだ。高等小学校に上がる頃には、絵の腕前は相当なもので、「神童」と
持てはやされたという。森三美先生は他校へ転勤する時坂本を自分の後任として指名し
て、坂本は母校の図画代用教員となった。その時、坂本はまだ 19 歳だった。その頃、
ライバルの青木繁は東京で絵の勉強をしていたが、1902 年、徴兵検査のため、郷里に
戻ってきた。青木は坂本に東京で描いた絵を見せたが、この時青木の画技の上達に驚い
た坂本は自らも上京して絵を学ぶことを決意し、わずか数か月後には青木とともに上京
して、小山正太郎の「不同舎」に入った。坂本の満 20 歳の時であった。
1910 年 28 歳になった時、彼は結婚をして東京に新居を持ち、母親を呼び寄せた。二
年後に出品した『うすれ日』は、夏目漱石が高く評価した。1921 年にフランスに行っ
て、シャルル・ゲランに師事する。しかし、フランスに着いた坂本が魅せられたのは、
名だたる巨匠たちの絵ではなく、その自然であった。かつて印象派を生み、育んだ明る
い光と風に虜になった坂本は、その柔らかい色彩はより明るく、鮮やかさを増した。1923
年の『ブルターニュ』は、物の形を単純化し、色彩を重ねることで表現され、写実を超
えて見る者の想像力へ訴える画法へと進化を遂げた。坂本はこの画法を用いて肖像画に
も挑み、同年の『帽子を持てる女』は優しくしかも強さをも秘めた存在感を持つ女性を
描き、本場の画家たちから高く評価された。1924 年 9 月に地元に戻り、終生九州で制
作を続けた。三年後の『放水路の雲』は、フランスで身につけた手法で久留米の風景を
描いた。1931 年には八女にアトリエを建立して、以後の制作の拠点となった。
1942 年に開催された第 29 回二科美術展覧会では、一つの部屋に坂本の 21 作品が一挙
に展示され、それまで未発表であった 1927 年に描いた『母の像』も公開された。50 歳
のとき、『放牧三馬』という代表作を出品して、その後は『水より上る馬』を出品した。
第二次世界大戦後は梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ洋画会の巨匠と見なされるようにな
る。1954 年毎日美術賞、1956 年文化勲章を受章した。1969 年に 87 歳で没した。
3.青木との関係・短い友情
坂本繁二郎と青木繁は、同じ年に久留米に生まれ、しかも久留米高等小学校の同級生
という親しい仲間にあり、前述の森三美画家に師事して一緒に絵画を勉強していた。し
かし、青木は 1911 年 3 月に福岡市の病院で死去した。まだ 28 歳だった。坂本にとって
青木は無二の親友であるとともに、終生その存在を意識せざるをえないライバルであっ
たようだ。もし、青木がもっと長く生きていたら、坂本の人生にどんな影響をあたえた
だろうか。したがって、青木が 28 歳で夭折したことは坂本の損失であり、久留米にと
っても巨大な損失だと思う。
4.大好きな坂本の作品
水より上る馬(1937)(東京国立近代美術館)
『水より上る馬』は 1937 年の第 24 回二科展に出品された。この作品も、東京国立近
代美術館に保存されている。この絵を見ると、その馬が広い水面を駆けている様子がす
ぐ感じられる。特に馬の力と怒りも十分にあらわしている。馬の姿の美しさ、更に馬の
丈夫な筋肉の立体感を表現していて、力強いと思う。
坂本繁二郎の自画像
坂本の作品の中で、特にこの自画像に惹かれた。最初、坂本の自画像をみると、彼は
自分の画像を描く時、どんな気持ちを持っているか、なぜ自分の画像を描きたかったの
だろうかと理由が知りたくなった。そのような強い興味を抱いて、坂本の自画像につい
て詳しく調べて、もっと深く理解した。坂本の絵はいつも暖かく穏やかな色調に人柄が
感じられるようだった。しかし、私はこの絵の冷静な色調から、坂本の落ち着きが感じ
られる。
5.インタビューについて
坂本について、もっと詳しく理解したかったので、2014年1月23日にJR久留米駅の近
くにある坂本繁二郎の生家へ行って、そこにいる係員にインタビューした。坂本の生家
は江戸時代から残るただひとつの武家屋敷であり、更に久留米の指定文化財になってい
る。長く保存されていて、今まで百年以上の歴史があることがわかった。
係員に「坂本さんの絵はどんな特色がありますか」と聞いたら、「坂本の絵は印象派的
表現だから、微妙な色彩のバランスの中に内面性の強さと実在感を表してい。」と答え
た。「坂本繁二郎と青木繁の二人は、同じ久留米の出身で、同じ年に生まれ、更に二人
とも森三美画家に師事していました。二人の画風はどんなように違いますか」と聞いたら、
「文学青年で浪漫派だった青木に対し、坂本には学者肌のところがあり、優れた絵画論
をいくつも著しています。だから、二人の画風はぜんぜん違います。」と答えた。「坂
本の生家に見学に来るのはどんな人が多いですか」と聞いたら、「年輩の方と新幹線の
待ち時間を利用して見学に来る人が多いです。または、昔の武家屋敷に対する関心があ
る人たちです」と答えた。最後、「何故青木繁は坂本の家にすんでいたことがあります
か」と聞いたら、「坂本が東京に勉強に行くとき、坂本の母親は学費のために家をいろ
いろな人に間貸ししていました。そのとき、青木繁は貧しかったし、生活が苦しかった
から、坂本の母親が無料で部屋を貸してあげました」と答えた。係員が説明してくれて、
坂本のことが深く理解できた。特に、二人の深い友情に感動した。
6.終わりに
坂本のような光り輝いた芸術の人生と不思議な才能をもっていることは本当に羨ま
しい。私は子供の頃、美術にも大変興味を持っていて、画家になりたいという夢を抱い
ていた。絵を描くことを習いたかったのに、両親はずっと反対して、身につかないと言
った。実は両親が学費を負担出来ない心配があると思って、諦めた。しかし,自分が好
きなことが勉強できないので、ほかの勉強に全く興味がなかった。したがって、高校卒
業のとき、どんな大学にも入れなかった。両親は仕方がなく、インテリアについて短期
大学に入らせてくれた。折角、美術に関する専門を学ぶことが実現したから、楽しんで
三年の芸術を学ぶ生活を過ごした。しかし、残念ながら、そのような短期の美術の勉強
だけで経験が全く足りないので、立派なデザイナーや坂本のような画家になることなど
完全にありえなくなってしまった。一方、坂本の一生は波瀾に満ちていて不安定だった。
父の死、兄弟の死、それに大切にしていたライバルの死、それらは坂本の精神に大きな
苦しみを与えた。だが、この苦しみがあったので、坂本の絵は精神的なものを表現でき
た。坂本の芸術に対するこだわりに感動したので、私も芸術への関心を保ち続けるつも
りだ。私も坂本のように特別な人生が送れることを信じている。
参考文献
朝日新聞社 (1970)
『坂本繁二郎追悼展』
久留米観光コンベンション国際交流協会 (2006)
久留米市
『よかとこ久留米ものしり事典』
「坂本繁二郎生家」
https://www.city.kurume.fukuoka.jp/1060manabi/2050bunkazai/3040hanjirou/i
ndex.html (2014 年 1 月 18 日参照)
坂本繁二郎(1969)
『私の絵 私のこころ』日本経済新聞社
杉森麟編著
『坂本繁二郎画伯談話集』中川書店
(2004)
竹藤寛(1995)
『青木繁と坂本繁二郎―「能面」は語る』丸善
写真 1 JR 久留米駅前の坂本の絵
写真 2 坂本繁二郎生家
写真 3 青木繁が描いた襖の絵