1 第11回 首都と主将と資本主義 ライバルは「川をめぐって争う者どうし

第11回
首都と主将と資本主義
●ライバルは「川をめぐって争う者どうし」
漢字は表意文字なので、同じ漢字を用いた単語は、しばしば意味的に共通な
感覚を呼び起こす。例えば、
「天国」
「天気」
「天の川」といった諸語の中の「天」
は、何らかの点で「上」という意味を含んでいるのである。そこには、たしか
に語感的な類縁性が見受けられよう。
一方、これらを英語に直訳すると、順に「Heaven」
「weather」
「Milky Way」
となる。この三つの英単語をいくら眺めても、そこに――少なくとも字面の上
での――類似性は何ら感じられまい。
逆に、英語の場合、
「リバー(river=川)」と「ライバル(rival=好敵手)」は、
語感的に良く似ている。もちろん、この類似性は、偶然の一致ではない。ライ
バルという語の由来は、
「同じ川(リバー)を巡って争う人」なのである。この
由来を知れば、ライバルという語が、一種の敵であると同時に、当の川が毒に
汚染されれば共倒れになる者を指すことが理解できよう。同じ川が同じ異性に
代わった場合は、恋のライバルとなる。いずれにせよ、たとえ語源を知らなく
とも、英語の場合、
「リバー(川)」と「ライバル(好敵手)」は、語感的に似て
いるのだ。
日本語においても西洋語においても、一つ一つの単語は、完全に他の単語か
ら独立しているわけではない。各単語の間には、意味や語感の面で近い関係が
見られる場合もあれば、そうでない場合も存在するのだ。問題は、それらの関
係が、必ずしも翻訳語に反映されるとは限らない点である。原語の中では近親
関係にある単語であっても、それらが日本語に翻訳されると、時として全く別
系列の単語のようになってしまう。もちろん、そのこと自体は避けようがない
だろうし、誤りだというわけでもない。だが、翻訳語を介して西洋文明を輸入
して来た我々にとって、それが不利な条件であることには変わりない。これも
また、日本語の宿命なのである。
●首都は「みやこ」だった
ブータンの首都はティンプーで、トルクメニスタンの首都はアシガバートで
ある。ところで、なぜ一国を代表する中心都市は、
「首都」と呼ばれるのだろう
か。
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なるほど、
「首都」という語に「都」という漢字が入っていることは、日本語
の感覚に照らしても自然なことであろう。京都(京の都)という地名にも表れ
ているように、日本語において、今日で言う「首都」は、長らく「都(みやこ)」
と呼ばれていたのである。
だから、明治維新に伴う東京奠都の際にも、まだ「首都」という呼称は用い
られていなかった。当時、京都から東京へと移されたのは、あくまでも「都(み
やこ)」だったのである。おそらく――正確な年代は定かではないが――明治時
代のどこかの時点で、東京が「首都」と呼ばれるようになったのであろう。
※戦前は――京王帝都電鉄という社名にも残っているとおり――東京を「帝都」
と呼ぶことも多かった。要するに、大日本帝国の首都は「帝都」だというわけ
である。
●的を射ている「首都」
それにしても、一国を代表する中心都市は、なぜ旧来からの呼称である「都」
ではなく、わざわざ「首」という文字を加え、
「首都」と呼ばれるようになった
のだろうか。
解答から先に示せば、
「首都」という日本語単語もまた、英語の「capital」や
フランス語の「capitale」の和訳として作られたものだからである。ただし、こ
の訳語そのものは、明治維新に伴う東京奠都より前に存在していた。実際、『現
代に生きる幕末・明治初期漢語辞典』(佐藤亨〔著〕明治書院)によると、早
くも文久二年(一八六二年)に刊行された『英和対訳袖珍辞書』において、
「首
都」という語が「capital」の語義に宛てられていたとのことである。
だが、まだ疑問は解消しない。英語の「capital」やフランス語の「capitale」
を和訳するに当たって、なぜ単なる「都(みやこ)」を用いず、敢えて「首都」
という新語が作られたのだろうか。
たしかに、「society(ソサエティー)」といった西洋語を日本語に取り込むた
めには、
「社会」という翻訳語を新たに創作する必要があった。それ以前の日本
語の中に、「society(ソサエティー)」に対応する単語が存在しなかったからで
ある。
しかしながら、既に「都」という日本語単語が現に存在するならば、英語の
「capital」やフランス語の「capitale」を和訳するに当たって、わざわざ新たな
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翻訳語を考案する必要はないだろう。英語やフランス語の「village(ビレッジ
/ビラージュ)」を「村」と和訳するのであれば、
「capital(英)/capitale(仏)」
を単に「都(みやこ)」と和訳しても良いと思われるのである。
とは言え、「capital/capitale」を敢えて「首都」と和訳した気持ちもまた、
分からないではない。むしろ、少なくとも原語に照らした場合、
「首都」という
表現は、むしろ非常に的を射た翻訳語だとさえ言えよう。
英語の「capital」やフランス語の「capitale」やドイツ語の「Kapitale」の語
源は、いずれもラテン語の「capitalis」だとされている。そして、この「capitalis」
というラテン語は、同じくラテン語の「caput」から派生したものである。
おそらく、
「首都」という訳語の中の「首」という文字の出所は、ここにある
に違いない。なぜなら、ラテン語の「caput」の第一の語義が、まさに「頭(首)」
だからである。要するに、
「都(みやこ)」を意味し、かつ「頭(首)」を語源と
する「capital/capitale」といった西洋語が、「首都」と和訳されたということ
であろう。
※今日のドイツ語において、一国の「首都」は、
「Kapitale」ではなく、むしろ
「Hauptstadt」と表現するのが普通である。
●首≒頭?
少し補足しておくと、「caput」というラテン語は、普通に和訳すれば「頭」
なのだが、これを「首」と和訳しても誤りではない。一般に、西洋語の翻訳の
中で「首」と「頭」とを区別することは、かなり困難なのである。
例えば、日本でも有名な「ギロチン(guillotine)」というフランス語が、「斬
頭台」と和訳されていることを思い出そう。日本語では首切り刑が「斬首」と
呼ばれるのに対して、同じ行為が、フランス語では「頭(tête)」を斬る(trancher)
と表現されるのである。
ただし、今日の日本語においても、
「先頭に立つ」という表現と「首位に立つ」
という表現を区別することは、やはり容易ではない。要するに、「頭」と「首」
の区別は単純ではなく、ラテン語の「caput」もまた、時と場合によって、
「首」
と和訳すことも可能だし、「頭」と和訳することも出来るのである。
●「頭」が消えた「主将」や「機長」
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話を戻そう。英語の「capital」やフランス語の「capitale」は、一国の中心都
市という語義を持つと同時に、語源的には「首」なのである。もちろん、日本
語の世界に軸足を置いて考えるならば、何も西洋語の語源に拘泥する必要はあ
るまい。それでも、「capital/capitale」といった西洋語を「首都」と和訳する
ことは、的外れではないのである。
とは言え、ラテン語の「caput(頭・首)」を起源とする西洋語は、必ずしも
「首」や「頭」といった漢字を含む日本語に翻訳されるとは限らない。あるい
は――以下に述べるとおり――「caput(頭・首)」に由来する西洋語に中には、
日本語に「首」や「頭」を含む対応語があるにも関わらず、なぜか別の訳語が
新造されるものもあるのだ。その場合、原語における語感的な類縁性は、和訳
された途端に消失することになろう。
例えば、
「船長」や「機長」や「主将」などを意味する「キャプテン(captain
(英)/capitaine(仏)/Kapitän(独))」の語源は、ラテン語の「capitaneus」
なのだが、これもまた元を辿れば「caput(頭)」から派生した単語である。キ
ャプテンが「頭」だという感覚は、日本語を母語とする我々にとっても、特に
違和感はあるまい。事実、キャプテンと同様の存在は、日本語の中で、古くか
ら「頭取」や「首領」などと表現されて来た。
しかしながら、野球部のキャプテンは「主将」と呼ばれ、旅客機のキャプテ
ンは「機長」と呼ばれているのである。おそらく、これもまた翻訳に起因する
のだろう。いずれにせよ、敢えて原語に照らして考えない限り、日本語の中で
「主将」と「首都」との間に語感的な類似性を感じることはあるまい。
●資本主義は「主義」か?
さらに言えば、英語の「capital(キャピタル)」には、
「首都」の他に、
「資本」
という意味がある。フランス語では、
「首都」は「capitale」という女性名詞で、
「資本」は「capital」という男性名詞となるのだが、両語の間に発音や語源の
違いはない。つまり、英語では「首都」と「資本」が同一語、フランス語では
両者が同一音の単語なのである。
そして、これらの名詞に、
「主義」を表す「-ism(英)/-isme(仏)」という
接尾辞が付け加わったのが、いわゆる「資本主義(capitalism(英)/capitalisme
(仏)」だということになろう。要するに、
「キャピタル(資本/首都)」+「イ
ズム(主義)」が「キャピタリズム」なのだ。しかしながら、それを「首都主義」
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と和訳してしまうと、何が何だか意味が分からなくなってしまう。
資本主義の原語に当たる「capitalism(英)/capitalisme(仏)/Kapitalismus
(独)」といった用語が誕生したのは、それほど古いことではない。これらの西
洋語が生まれたのは、一八世紀半ばのことである。しかしながら、その当初の
語義は、
「大きな富を持つ地位あるいは状態」といった曖昧な事象に過ぎなかっ
た。ようやく産業革命が始まろうという時代の中にあって、いわゆる資本主義
そのものが、まだ明瞭な輪郭を形成していなかったのである。歴史的に見た場
合、
「キャピタリズム(capitalism 等)」が、
「資本主義」という現代的な意味で
一般化したのは、一九世紀半ばのことであった。
ただし、
「資本主義」という概念は、何らかの理念や原理に立脚して定義され
たものではない。なるほど、この名辞は、しばしば社会主義や共産主義との対
比で用いられる。
だが、そのことは、一方に社会主義や共産主義の理論が構築され、他方で―
―それに対抗する形で――資本主義の理論が構築されたということと同じでは
ない。むしろ、「キャピタリズム(資本主義)」を社会主義や共産主義と対立す
る用語として使い始めたのは、いわゆるマルクス主義者たちであった。簡単に
言えば、敵対者の立場を非難する用語として登場したのである。
ちなみに、一八六八年にカール・マルクスが著した『資本論(Das Kapital)』
第一部の本文冒頭は、
「資本主義的生産様式の支配的である社会の富は……」と
和訳されている(岩波文庫)。もちろん、この和訳そのものは、何ら間違ってい
ない。しかしながら、マルクスの用いた原語は「Kapitalismus(資本主義)」で
はなく、「Kapitalistisch Produktion」であった。これを直訳すれば「資本家
的な生産」となるのだが、むしろ「大きな富を持つ者による生産」と訳した方
が――不正確な面も多いが――時代的な感覚が伝わり易いかもしれない。いず
れにせよ、
『資本論』の中には、
「Kapitalismus(資本主義)」という用語は登場
しないのである。
※資本主義という用語は、基本的に一種の生産様式や経済体制を指すのであっ
て、特定の思想や主張を直接的に意味するものではない。この点、思想的な含
意の強い社会主義や共産主義といった用語とは、少しばかり性質が異なってい
る。今日、思想面での社会主義に対立する語は、むしろ自由主義(リベラリズ
ム)だと言えよう。
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ともあれ、マルクス自身ではなく、マルクス主義者たちが敵対者に貼付した
「キャピタリズム(capitalism)」という用語は、何故か大きな反発を買うこと
もなく、いつの間にか社会的に受容されてしまった。かくして、今日的な意味
での「資本主義」という概念は、確固たる理念や原理に立脚して定義される以
前に、名辞的に広く流通するようになったのである。
それで も、「 capitalism/ capitalisme / Kapitalismus 」といっ た用 語が、
「capital/capitale/Kapital」と「-ism/-isme/-ismus」とを合成したもので
あるという事実は、何ら変わりはない。問題は、この合成語を、どのように和
訳するのかという点にある。
ここで、日本語に視点を移そう。
「資本主義」そのものは、西洋から輸入され
た生産様式ないしは経済体制である。しかしながら、
「資本」と「主義」を個別
の単語として見た場合、どちらも漢語の中に古くから存在していた。つまり、
「資
本主義」という翻訳語は――原語の場合と同様――二つの漢語を合成して作ら
れたものなのである。本稿では、この二つの漢語のうち、
「資本」に照準を当て
て考えることにしよう。
●和訳すると見えなくなる「首都」と「資本」の類縁性
漢語の「資本」は、かなり古くから、
「元手」や「事業の元手」という語義を
担って来た。これは、近代的な意味での「資本」と大きく異なるものではない。
となると、
「キャピタリズム(capitalism 等)」を、
「資本主義」と翻訳すること
は、極めて妥当だと見なすことが出来るだろう。まさに、
「大きな富を持つ者に
よる生産」というわけである。たしかに、個別の単語の和訳としては、これで
特段の問題はない。
しかしながら、英語やフランス語では「首都」と「資本」が同一語ないしは
同音語だという事実は、和訳された途端に見えなくなってしまう。その結果、
各単語の関係を語彙体系全体の中で把握することが、非常に難しくなるのであ
る。
それにしても、なぜ「キャピタル」が「首都」であると同時に「資本」なの
か。そのことを、不正確を承知の上で、極めて図式化した論法で説明すると、
以下のようになろう。
先述のとおり、ラテン語の「caput」の原意は、
「頭(首)」である。そこから
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「capitalis」という語――形容詞兼名詞――が派生し、「中心(的)」や「中枢
(的)」、あるいは「第一(の)」といった意味が現れた。この「capitalis」が、
英語やフランス語の「キャピタル」の語源である。中心や中枢は、国で言えば
「首都」だし、様々な事物が集まる中心地という含意も持つ。そして、様々な
事物の集まりは、一種の蓄積であり、財産や大きな富へと繋がってゆく。かく
して、
「キャピタル」は、
「首都」であると同時に「資本」だという次第である。
フランス語では、文化財の類を「capital artistique(=芸術的資本)」と表現
される場合もある。つまり、アーティスティック(芸術的)な蓄積(キャピタ
ル)だというわけである。
なお、頭や首は、しばしば先頭や首位といった事柄を示す。そこから、
「キャ
ピタル」が文頭の文字、ひいては「頭文字」や「大文字」という意味を担う場
合も出て来るのである。
このように考えると――先述のとおり――「頭文字」や「首都」と「キャプ
テン」とが類縁性を持つこともまた、何となく実感できよう。そして、それら
はまた、
「資本」の仲間でもあるのである。どのような言語においても、その中
の各単語は、他の単語から完全に独立しているわけではない。それぞれの単語
の間には、意味や語感の面で近い関係が見られる場合もあれば、そうでない場
合もある。この事実を逆から見れば、全体の語彙体系を抜きにしたまま、個々
の単語の意味だけを深く知ることは出来ないということになろう。
なるほど、立場を置き換えて考えれば、英語を母語とする者が、
「weather(ウ
ェザー)」を「テンキ」、「Milky Way(ミルキーウェイ)」を「アマノガワ」と
聞き覚えたところで、日本語における両語の類縁性には思い至らないだろうし、
それらと「テンゴク」との関係を実感することもないであろう。
しかしながら、歴史的な事実として、我々は、明治維新機以来、ほぼ一貫し
て西洋近代の文化や知識を輸入する側に置かれて来た。あるいは、たとえ発信
者の側に立とうとする場合でも、西洋語――とりわけ英語――に依存せざるを
得ないという現実がある。私を含め、日本語を母語とする多くの者が、この宿
命に直面せざるを得ないのである。
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