モーツァルト「ハ短調ミサ曲/K427」

モーツァルト「ハ短調ミサ曲/K427」
本山秀毅
「ハ短調ミサ」の作曲された動機に関しては、それまでのモーツァルトの全作品の中で
も例外的なものである。すなわち、彼と妻コンスタンツェとの「結婚の誓願」のために
作られたのである。「誓願」とは聞きなれないことばであるが、要するに自分自身の中
での「誓い」を自身で確認する意味での創造活動なのである。彼がコンスタンツェとの
結婚を心の中で決めたとき、ちょうど彼女は病気ですぐには果たせなかった。しかし「結
婚する」ということをモーツァルト自身が、自分の中で、誓い、それを証しするという
意味を持って作曲された音楽がこの曲なのである。これほどの大規模な作品が、注文も
受けず、外的な束縛からも自由に行われたのはモーツァルトの作曲動機としては極めて
珍しいことである。
このように作曲の「動機」を知ることになると、この「ハ短調ミサ」が、彼ほどの才
能の持ち主が自発的に創作したもので、その上「結婚」という人生における重大事の誓
いの意味があるとなれば、どんなに優れた作品なのだろうと考えるに至る。
事実、その思いは裏切られることはない。初めてこの音楽に出会われる方は、人生に
おける実りある果実をまたひとつ得られることになる。教会音楽としての「普遍性」が
全編に溢れた真の名曲のひとつである。
彼が「誓願」のために古くからの伝統的なテキストに基づく「ミサ曲」を書いたとこ
ろが興味深い。彼にとって、彼が生きた時代の価値観の影響は否めないが、もし仮にロ
マン派の作曲家であれば、その作品は妻への思いを込めたピアノ曲であったり、連作の
歌曲であったりするところである。ここに彼自身の心の中にある「誓い」という行為と、
それに対峙している「神の存在」との関わりが垣間見られる。具体的に音楽の構成や作
風を知ることによって、彼が「神」あるいは「計り知れない畏怖すべき存在」に対して、
どのように感じていたかを理解することが出来るのである。
ミサの初演時のソプラノはコンスタンツェが受け持った。非常に高い声の出る美しい
ソプラノだった彼女のために、モーツァルトは美しい「Et incarnatus est」を書いた。こ
の歌詞はカトリックの典礼の中でも最も大切にされているもののひとつであり、 「神」
が「人」となってわれわれのもとに遣わされるという神の大きな恩寵を描写した部分で
ある。この音楽がオペラのアリアのように通俗的であるという意見もあるようだが、そ
うは思わない。ここには天使ガブリエルのマリアに対する愛情に満ちた挨拶のひびきを
聞くことができるし、鳥の声のようなカデンツは、言葉で表現しきれないおもいが、人
間の声を越えたものになってなぜいけないかと思うのである。作曲しながらコンスタン
ツェの声や歌いぶりを思い浮かべながら筆を進めるモーツァルトの様子が想像できて微
笑ましい。ここには純粋な彼のコンスタンツェに対する愛情と、このテキストを心から
大切にしていたモーツァルトの姿勢が音楽に映し出されている。
映画「アマデウス」の中で、時のオーストリア皇帝ヨーゼフ2世が、モーツァルトに
依頼したオペラ「後宮からの逃走」を聞き終えた後で口にした言葉が印象的である。
「自分には音符の数が多すぎる。音符を整理すれば優れた作品になるだろう。」
当時古典派音楽の作風は、前の音楽史上の時代であるバロックから比べると格段にシ
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ンプルになっており、和声的な比較的聴きやすい音楽が全盛時代を迎えていた。
だがこの「ハ短調ミサ」の全体の印象は明らかに前時代の音楽の特徴を備えている。
もし簡潔なウィーン古典派のミサに慣れたヨーゼフ2世が聴けば、きっと「音符の数が
多すぎる」と言ったことだろう。この「音符の数が多すぎる」ことが、前時代の音楽を
積極的に取り込もうとしていた、この時期の彼の音楽の変化を示しているのである。
「Kyrie」に見られるモテット風の「厳格様式」などはそれがバロック音楽と言っても
そのように聞き取れるような響きを備えているし、重唱曲もおおむね古いスタイルで書
かれている。しかし「伝統的な典礼音楽としてのミサ=古い様式」という見方をするの
は早計である。ここには「学ぶべきもの、本質的なもの」として前時代の音楽が用いら
れていると考えられるべきである。
前時代の影響を指して「バッハやヘンデルの影響」と一口に言ってしまうことが多い
ようであるが、ここにはモーツァルトの、バッハの音楽に対する崇敬があらわれている
と思う。モーツァルトがライプツィッヒを訪れたとき、バッハのモテットを聴いて「こ
こにはまだ学ぶべきものがある」といった話は有名であるし、彼がバッハのフーガを集
めていたことも知られている。彼の作風の中でバッハの音楽が大きな位置を占めはじめ
ており、それを彼独自のスタイルにまで昇華させているところにこの音楽の価値がある。
このような音楽は規模の大きさも、内容的な深さも次は「レクイエム」まで待たなくて
はならない。その「レクイエム」は、残念なことに彼の最後の作品になってしまうので
あるが。「神との対峙」あるいは「自分自身の内面の告白」にバッハのスタイルが用い
られるのは決して偶然ではないのである。
付け加えると「レクイエム」の中には、彼が前時代の音楽から受けた遺産をもとに大
きく変わろうとする彼自身の音楽の変革を見ることができる。最後の作品であると言う
感傷を排して考えると、彼の中での新しい地平が生まれつつあるのを「レクイエム」は
予感させる。
(1997 年 8 月 31 日のコンサートのプログラムより転載)
※この作品は、
「レクィエム」と同様に未完のままとなっています。作曲された曲は、
「キ
リエ」と「グローリア」、「クレド」の前半 2 曲、そして「サンクトゥス」と「ベネディ
クトゥス」のみです。そのうち、「クレド」にはオーケストレーショ ンの部分に、「サ
ンクトゥス」には「オザンナ」の二重合唱部分に欠落があります。 そして、「クレド」
の後半と「アニュス・デイ」は全く残されていませんでした。
そのため、様々な形態で今日まで演奏されてきています。
「シュミット版」以降の「ランドン版」、「エーダー版」、 「バイヤー版」、「モンダー
版」らは、基本的に新規の補充はせずオーケストレーションの補筆のみにとどめており、
最近ではこれらの版を使用して、モーツァルトにより作曲された部分だけを演奏するの
が一般的となっていましたが、2005 年、モーツァルト学者そして有能なピアニストでも
あるロバート D. レヴィンによりミサ曲の完全な形で再現されました。
(インターネットから転載)
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