4 - 地方分権改革推進本部

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潮目が変わるとき
学習院大学
櫻井敬子
(1)霞が関法学
行政法学者というものは、実際のところ、世の中で必要とされているのだろうか、
何か世の中に役に立つということがあるのだろうか。筆者は、各省庁ごとに現実に展
開されている様々な行政活動の生の姿を垣間見るにつけ、このような疑問をもつこと
がある。官庁にもいろいろあり、総務省のような制度官庁の場合、法律をつくるとき
に行政法学者が積極的にかかわることがあり、行政手続法や地方自治法はその例に属
する。しかし、行政手続法が浸透して行政が改善したなどという話は残念ながら寡聞
にして聞いたことがなく、地方自治法にしても、平成11年の大改正のとき、当時、自
治省は、地方分権が明治維新、敗戦につづく「第三の革命」などといっていたが、世
の中はごくごく平穏に推移しており、この法律が現実の行政に対してどのくらい意味
をもっているのかは、率直に言ってよくわからないところがある。他方、国土交通省
のような事業官庁の場合、都市計画法や鉄道事業法をはじめ所管する法律は圧倒的に
多く、これらの法律が、地方や事業者を対象に、現実の行政を仕切るための有効なツ
ールであることは間違いない。しかし、いわゆる「法律解釈」が問題となるような場
面はほとんどなく、法律プロパーの問題が生じた場合には、実際に法律案を策定した
官僚自身が対応すれば話はすんでしまう。
ということで、主観的に勘違いしている「大物学者」はいるだろうが、行政法学者
なんて、いなければいないで、行政サイドが困ることはまあないのだろう、というの
が筆者のこれまでの感触であった。世の中で通用しているのは「霞ヶ関法学」であり、
行政法学者のやっている法律学は、それ自体自己完結していて、社会との接点はあま
りなかったし、むしろ、筆者が大学の研究室に入ったときは、社会との接点をもたな
いことが「純学問的」であるかのような雰囲気がかなりはっきりとあったのである。
(2)元気な裁判官の元気な判決
(1)ところが、である。上記のような状況は、ひとえに裁判所が機能していないこ
とを前提として成り立つものであることに、ある日、気がついた。ここで、「裁判所
が機能する」とは、法律の立案者である行政の意向を離れて裁判官が法律を解釈・適
用することをいい、簡単にいえば、行政側の公定解釈とは違う判断を裁判所が示すこ
とにほかならない。もともと、法律学の本質は、論理の積み重ね部分において一定の
普遍性を持ちうるという意味で、かろうじて科学の範疇に入ると考えられるのである
が、最後のぎりぎりのところでは、法律解釈をする者の個人的価値観が介在せざるを
得ない宿命を負っている。そのため立案者が「 こういうつもりで法律をつくったのだ」
といっても、裁判官が同じように考える保障は全くない。それなのに、裁判所は、こ
れまで、問題ある行政を追認するばかりで、行政と異なる見解を示すことは極めて稀
であり、巨大な行政権力に対して何ら有効なカウンターパートとして機能することは
なかった。しかし、ここにきて裁判所も、司法制度改革などの外的刺激もあり、大き
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く変貌しつつある。その変貌の様は 、
「元気な裁判官の元気な判決」によって、うか
がい知ることができる。
(2)筆者自身の卑近な体験では、何といっても、圏央道建設のための土地収用の代
執行に関し、東京地裁が執行停止決定を出し、これを知ったときの当局の硬直したリ
アクションが印象に残っている。時は、平成15年10月3日午後。そのとき、筆者は、
国土交通省関東地方整備局における事業評価監視委員会に出席していた。関東平野を
ぐるっと一回りする圏央道は、まことに壮大な公共事業で、事業評価の対象事業でも
ある。委員会には、局長、次長、道路部長ら幹部も列席していたが、途中、局長およ
び次長が退席し、しばらく戻って来なかった。このとき、執行停止決定が伝えられた
ということは、想像に難くないが、片や、関東平野をまたぐ大道路という巨大な「公
益」
、片や、吹けば飛ぶような個人の小さな家数軒という、はかない「私益」が対比
される図式のなかで、誰もが、巨大な公益の存在感に圧倒され、あらがう気力を失っ
てしまう。ところが、東京地裁の藤山雅行裁判長は、居住者の利益は、いったん失う
とほかのもので置き換えることはできないとし、さらに、代執行の前提となる収用裁
決は違法の可能性があると指摘し、私益が公益の中に埋没することを認めなかった。
この決定は、即時抗告されて、東京高裁で同年12月25日に取り消されてしまったが、
裁判官が、自己の価値判断に忠実に法律解釈を行うならば、こうした事態はごく普通
に起こるはずなのである。良い悪いの問題ではなく、本来裁判とはそういうものであ
り、結論を異にする判決が複数出されるなかで、あるときは行政側に反省を促し、あ
るいは住民をたしなめるという、ダイナミズムがあるということ自体が、社会の健全
さを担保する。
(3)これまで、「行政訴訟で負けることは、まずない」とタカを括ってきた官僚のメ
ンタリティー、これを支える霞ヶ関法学は、いま強烈なパンチをくらい続けている。
霞ヶ関では、まだ「地裁で負けても、高裁にいけば大丈夫」といった空気がただよっ
ているようであるが、公正取引委員会審判記録の閲覧謄写をめぐる事件では、同じ裁
判長のもとで、行政側が勝訴した地裁判決を、高裁が取消し、それがさらに最高裁で
破棄されたケースもあり(最判平成15年9月9日)、問題は、裁判長の「個性」ではな
く、
「裁判ないし法律論がもつ本質的なダイナミズム」にあるということが、まだ十
分理解されていないようにみえる。
さらに、暮れも押し詰まった平成15年12月12日、藤山裁判長は、内閣におかれた司
法制度改革推進本部の会議の模様を録音したテープの全面開示を命ずる判決を下し
た。推進本部側は、テープが開示されると、会議に出席している有識者らが圧力や干
渉を受け、協議が「消極的かつ低調」になるおそれがあるなど主張したが、裁判長は、
司法制度改革に関する検討内容は国民全般にリアルタイムに公開されるべきであり、
有識者に対する働きかけも含めて、各方面から様々な意見が表明されることを前提と
していると見るべきであること、また、議事録だけでなく、テープによって発言者の
語気、語調、会場の反応等すべてを公開することが「本来の姿」であるとして、テー
プの全面開示を命じている。
おもしろいのは、この事件、一見すると、内閣総理大臣の不開示決定を裁判所がひ
っくり返したように見えるが、実は、推進本部で働く職員の多くは裁判所から派遣さ
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れた裁判官(検事の身分で出向している。これが悪名高い「判検交流」の一例である。
)
であり、この紛争は 、「裁判官対裁判官」の闘いであるという点である。この判決が
でた3日後、「裁判長の言うとおり、テープも全面開示しちゃったら」とおもしろがる
筆者に(注:
「 有識者」かどうかはともかくとして、筆者は推進本部の知財訴訟検討
会のメンバーであった)、事務局の大方の職員ははにかんだような笑顔を見せるばか
りで答えに窮している様子であったが、ある幹部(この人も裁判官)は、べらんめえ
口調で 、
「まったく、あいつ、なに考えてんだ!」と騒いでおられた。推進本部の情
報公開については、当初から、公開される議事録に委員の固有名詞を記載するかどう
かをめぐってひと悶着あり、氏名を含めて公開することで一件落着したあと、録音テ
ープの扱いをめぐって紛争が再燃したという経緯がある。
しかし、こうした一連の動きのおかげで、推進本部のあり方が、心なしか、やわら
かく、風通しがよくなったように感じたのは、筆者の気のせいではないようにおもわ
れる。
(3)結
論
このような状況は、国レベルの法律にのみあてはまるものでないことは当然であり 、
これからは、条例をつくる場合、所管官庁の顔色をうかがうだけではなく、裁判官の
解釈にも耐えられるような、洗練された規範を作ることが必要である。裁判所が機能
するようになると、「このようなつもりで条例を作った」などといってもはじまらな
いということが理解していただけるだろうか。法律も、条例も、本質的に裁判規範と
して存在する。地方公共団体が、柔軟な解釈がなされる可能性を視野にいれた条例を
作ろうとするとき、行政法学者は、少しはお役に立つこともあるのでは、と考える次
第である。
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