問われる国家としての「通商政策のモラル」

コラム
問われる国家としての「通商政策のモラル」
…某年某月
(社)J C 総研 理事長
薄井 寛 (うすい ひろし)
1996 年 11 月ローマで開催された世界食料サミットは飢餓・栄養不良人口の撲滅に向けた
「行動計画」を採択した。185 の国と地域の首脳等は同計画の「誓約3」で、
「農業の多面的機
能を考慮し、
(略)充分かつ信頼出来る食料供給と病害虫、干ばつ及び砂漠化と戦うために不
可欠な、参加型で持続的な食料、農業、漁業、林業及び農村開発政策と行動を追求する」と、
確約した。にもかかわらず多くの政府は、経済のグローバル化と企業の利益促進策を優先。そ
の結果、栄養不足人口は撲滅どころか、食料サミット当時には8億人だったのものが、2009 年
には 10 億人を超える事態に陥ってしまった。
典型的な「行動計画」無視の事態がインドで起きている。コカ・コーラの工場の過剰な地下
水汲み上げが急激な水位の低下をもたらし、ラージャスターン州などでは数年前から穀物など
の生産に深刻な悪影響を及ぼしているのだ。コカ・コーラの不買と工場閉鎖を求める地元住民
の運動に対し、アメリカの環境保護団体が支援の取り組みを広げるなかで、コカ・コーラ社は
大規模な不買運動への発展を恐れ、インドの一部工場を閉鎖した。環境破壊など企業の反社会
的なビジネス行為の監視と規制を政府には任せておけないとする市民団体などが、CSR(企
業の社会的責任)を果たさない企業に対し、国境を超えたボイコット運動によってCSRの実
施を迫る動きが欧米諸国を中心に年々強まってきた。今回の東京電力の原発事故はこの流れに
大きな刺激を与え、日本企業の事業活動に対する市民団体の国際的な監視が今後厳しさを増し
ていくのは必至とみられている。
原発の危険性に警鐘を鳴らしてきた作家・髙村薫氏は、福島第一原発の建設では「そもそも
想定しなければならないことが想定されていなかった」とし、
「想定外」の言い逃れをする東
京電力に対し「科学技術のモラルの問題だ」と指弾した(2011 年5月3日放送、NHKニュー
スウォッチ9「髙村薫さんが語る“この国と原発事故”
」
)
。モラルが問われるのは科学技術の
世界にとどまらない。貿易と投資の際限なき拡大という経済のグローバル化が、地球温暖化な
どの環境破壊や栄養不足人口の増大、貧富の拡大と治安の悪化などの問題を著しく深刻化させ
た。各国の為政者たちはこの実態を十分に承知しながら、経済の自由化、規制緩和、小さな政
けん でん
府を喧伝して効率化の追求を優先するあまり、多くの問題を容易に修復できないほどに困難化
させてしまった。今こそ国家としての「通商政策のモラル」が問われている。この視点から貿
易・投資政策を検証すべき時代にわれわれは入ってきたのだ。アメリカやオーストラリアの市
民団体が展開する反TPP(環太平洋パートナーシップ協定)運動はこのモラルの問題を真正
面からわれわれに問い掛けているのではないか。
56 《コラム…某年某月》問われる国家としての「通商政策のモラル」
JC 総研レポート/ 2011 /夏/第 18 号