“グラン・グラン・ペール” 「おじいちゃんのおじいちゃんよ。」

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“グラン・グラン・ペール”
「おじいちゃんのおじいちゃんよ。」
CE QUE NOUS DEMANDONS À L’AVENIR,
CE QUE NOUS VOULONS DE LUI,
C’EST LA JUSTICE.
CE N’EST PAS LA VENGEANCE.
VICTOR HUGO
私たちが後に続く人に求めること、
私たちが彼らに望むこと、
それは正義です。
復讐ではありません。
ヴィクトル・ユゴー
1.
ペール・ラシェーズ墓地北面壁に填め込まれた墓碑銘「AUX MORTS / DE LA COMMUNE /
21-28 Mai 1871(オ・モール / ド・ラ・コミュヌ / 21-28 メ 1871)」(死者たちへ / ラ・コミュヌ
の / 1871 年 3 月 21-28 日)のパネル前でパリ大流血の海に溺れた昔日の人々をしばし偲んだ。2000
年の初夏にここを訪って以降、パリ入りしたときには必ず立ち寄るところである。パネルを填め込
んだ壁面の前は通行も可能な広場である。やや幅の広い道と形容した方がいいだろうか。広場を挟
んで壁面の反対側には数段の石の階段がある。石段を登れば広大で入り組んだ墓地である。その中
段に腰を下ろして朝市で購入した熟し柿を食べようとリュックを背から下ろしつつあったその視界
に入ってきたのは、石段から数メートル左手の歳を経た松の木の下でひとかたまりになって佇む、
4 人の婦人であった。一人の初老の婦人が赤いバラを一輪手にしている。フランスの墓参では黄色
い菊の花束が墓前に捧げられるのが一般的に見られる光景であり、赤いバラは何らかの戦役で没し
た人たちに捧げられる。石段を登った一帯は、第二次世界大戦中ナチの暴虐を被ったり種々の革命
戦役に深い関わりを持った個人や団体などのメモリアル・ゾーンである。しかし、4人の婦人が今
まさに赤い一輪を手向けようとしている石棺墓はそのメモリアル・ゾーンとは異質の位置にある。
はてさて、あの石棺墓の主はどのような戦役に命を捧げた人なのであろうか。これまで数度のここ
への訪いでは気がつかなかった墓である。婦人が手向けつつある石棺の隣は、これが手向けの花か
と訝ってしまうほどに艶やかな赤いバラの鉢植えなどでびっしりと埋め尽くされている。そちらの
方はどうやら名のある主の墓のようであり、しかも何らかの戦役に関わった人であることは確かで
ある。熟し柿をリュックにしまい込み、4人の方に歩んでいった。
J-.B-.CLEMENT
1836 – 1903
AUTEUR DE LE TEMPS DES CERISES
(オトール・ド・ル・タン・デ・セリーズ:「サクランボの実る頃」の作者)
華やかな方の石棺の墓碑銘にこう刻まれていた。
「サクランボの実る頃」は古いシャンソンとして
フランス人に愛唱され続けている。なるほど華やかなわけである。ちなみにこのシャンソンは、宮
崎駿アニメーション作品「紅の豚」の挿入歌でもあり、我が国でも比較的ポピュラーな歌である。
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それにもまして私にとってこの墓の主は、2000 年の訪問以来私に馴染みとなり今では生活の一部を
占めている la Commune de Paris 1871 研究にとって、きわめて意味のある人であったのだ。ペー
ル・ラシェーズ北壁面と向かいあって並んでいる J-.B-.クレマンの墓。となると、その隣の、たっ
た今赤い一輪の花が婦人の手から石棺に添えられ、別の婦人の手によって二柱の赤いローソクが立
てられ灯が点された墓の主もまた、la Commune と深い関わりのあった人に違いない。その人の墓
碑銘を確かめようと体を移動した。婦人の中でも最長老と思われる人の隣に立つ。おそらく単なる
好奇心を越えた異様な私の息づかいを思ん計ってか、それとも東洋人に対するガイドを意図してか、
彼女が墓碑銘の中のある単語を盛んになぞって見せた。« POLOGNE(ポローニュ)» ポーランド。
そして、彼女の顔が何やら誇りに満ちた風に変化しているように見えた。老婦人一行は、赤い花一
輪を献花しているのであるから、この墓の主と全く無関係ではあろうはずはない。だが、どのよう
な関わりがあるのだろう。ポーランド人という関わりからの献花なのだろうか。
口をキュッと結び顎髭をたっぷりと蓄えた男性の胸像から石棺が続く。石棺の蓋には、Valéry
WROBLESKI / 1836 – 1906 に続いて、経歴がごく簡単に刻まれている。la Commune de Paris
1871 に参加し 1871 年 5 月 28 日にこの地で戦い逮捕されたなどとある。ヴァレリィ・ウロブルス
キの名はこの種の研究書には登場することはない。私自身の研究でも、la Commune の議会議事録
や広報誌を基本資料としており、彼の名をそれらの資料の中から見出すことはなかった。だが偶然
にも、前日、リュクサンブール公園近くの古書店で買い求めた ‘Les Membres de la Commune et du
Commité central(レ・マーンブル・ド・ラ・コミュヌ・エ・デュ・コミテ・サントラル)’(『ラ・
コミュヌと中央委員会のメンバー』)という書物の中に、ラ・コミュヌ議会の議員でも国民衛兵隊中
央委員会の委員でもなく、ラ・コミュヌ将校の一員として彼の名を知ることができていた。
パリ大学大学院で教育学を専攻しフレネ教育の研究を深めつつあるKさんがこの日も通訳を引き
受けてくれていた。Kさんに「この墓の主とご婦人方との関係について訊ねてくれませんか。」とお
願いした。Kさんはくだんの老婦人に話しかけた。老婦人は一行の中で一番若い婦人に何やら話し
かけていた。若い婦人はにこやかな笑みを浮かべて、「フランス語が理解できるのは私しかいませ
ん。」とKさんに応えた。
「このお墓のムッシュとあなた方とのご関係は?」
「おじいさんのおじいさんよ!」
「私は la Commune de Paris 1871 を研究している日本人です。このお墓のムッシュの名は書物で
知っています。」
「ああ!うれしい!そうなの!」
グラン、グランペール!(grand, grand-père !)
Kさんの通訳をいただくまでもなく、この言葉
を耳にしたとき、すべてが現実のものになった。老婦人の単語のなぞりも、豊かな笑みも、そして
私の研究上の苦しみと喜びも。彼女たちが、いや彼女たちに流れている血が、かの大流血の惨事を
隠し置くことなく今の私たちのあるべき健全な精神へと橋渡しをしてくれているであろう歴史事実
との邂逅を急接近させてくれた。いや、それは第三者にしてみればたんなる錯覚であろう。だが錯
覚以上の何ものかが私の心臓に流れ込んだことは事実である。たった一人の人物の名、そして出自、
さらにその経歴、その中には私が教育学上求め続けてきたコスモポリタニズム、ユニヴァーサリズ
ムが端的に示されている。私をフランス社会に導いてくれるのは、それが偏狭な単一文化主義社会
ではなく、多様な文化・習俗・民俗が互いに綯いあって誕生する新しい文化の連続する社会だから
である。la Commune de Paris 1871 を主体的に担った人々の中にエトランジェ(外国人)と呼ば
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れる人々が多数いる。エジプト人、イタリア人、アメリカ人、ポルトガル人、プロシア人、ドイツ
人、ハンガリー人、コルシカ人、スペイン人、アルマニア人、そしてくだんの墓の主のポーランド
人、その他( ‘rapports et décrets officiels de la Commune de Paris et du gouvernement français
á Versailles du 18 Mars au 31 Mai 1871’ 『1871 年 3 月 18 日から 5 月 31 日までのラ・コミュヌ・
ド・パリとヴェルサイユのフランス政府との日務報告と政令』による)。じつに多彩多様な国々の人
がフランス社会にやってきて、フランス社会の改革の担い手となっている。それはたんにこの時だ
けのことには留まらない。それは常に変化し発展し、過去を総括し未来を志向する。
この瞬間の思いを風景に残したく思い、写真を撮ることの許可を申し出た。アングルは、ウロブ
ルスキの胸像と対面している婦人たち。前景左がウロブルスキの胸像の後ろ姿、中景中央に婦人た
ちそれに現在とこれからとを託したい若き教育学研究者、さらにその後景右に松の木に隠れてはい
るが la Commune de Paris 1871 のパネルの存在を意識している。
「良かった!本当に感動しました。歴史って連続していることを実感しました。」と、老婦人一行に
別れを告げた後、Kさんは幾度もつぶやいていた。
ペール・ラシェーズ墓地の石畳はアスファルトで塗り固められていない。一つひとつの石は手職
で切り削られたのであろう。よくよく見れば不均衡な形状である。それぞれがその出自を主張し、
そして全体として見事なまでに調和的な石畳を創り上げている。終秋を告げるプラタナスの落ち葉
のジュータンが足下でかすかなクッションを感じさせてくれた。手職の石畳はどこまでも優しく感
じさせてくれるのである。
2.
―
ウロブルスキ、この人の名をラ・コミュヌに関わりのあった人として知る人は少ない。彼は
リトアニア出身だと思われているが、実際はそこで林務官中尉を務めていたにすぎない。1863 年の
反乱の時には中佐として従軍し、敗北が決定的になったとき亡命した。
フランスに渡り、同じ地区に住む同胞たちと同じ職業を訓練した。つまり彼はミュージシャンと
なり、また必要があれば道化師ともなった。1870 年 8 月、シャロン・シュール・マルヌでコンサ
ートを開き、借金を背負うことになる。そのころ彼はプロシアの参謀部と内密に結びあっていた。
これはプロシアと戦いはしないという噂を信じさせるに十分であった。彼は卑劣なスパイでしかな
いという疑いがかけられた。
ドムブロウスキとは個人的にたいそう仲が悪かった。だが、周知のように何らかの手段によって
パリ南部軍隊の将官になった。彼の武勲は二度の戦闘の先頭に立ってヴァンヴ要塞の再占拠−奪回
ではなく−を成し遂げたことによって否応なしに高まった。ヴェルサイユ軍がパリに凱旋したとき、
彼は 6,000 人の兵士たちに自分の命令に従い彼と同じ捕虜となるように勧めた。
ウロブルスキは理念も信念も持たなかった。彼は運良く将官になった。もし彼が同じような利益
を見つけたとするならば、共同体のためにもまた逆に共同体に反することでも、自分の利益のため
に戦ったであろう。彼は知的には鈍く、計画性を持たない。その単純な資質はすべてのポーランド
人に共通のものである。大言壮語にまで度を超した勇敢さ。−(ポール・デリオンによる)
私が現在知り得るウロブルスキに関する人物評伝はこれのみである。この評伝の著者が何者かを
知りうる手段は今のところない。だが、そのシフトするところについては容易に推察することがで
きる。
「ヴァンヴ要塞の再占拠―奪回ではなく−を成し遂げた」との一文にそれは端的に示されてい
る。
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la Commune de Paris 1871、すなわち我が国の歴史学用語で言うところの「パリ・コミューン」
は、その当時から今日まで la guerre civile(ラ・ゲール・シヴィル:内乱)との概念で示されてい
るように、対外戦争ではなく国内戦争の一つである。同様の内乱はリヨン・マルセイユなどフラン
ス国内の主要都市においてほぼ同時期に起こっている。いずれもフランスがプチ・ナポレオンの対
プロイセン降伏と退帝後第3共和制に移行して直後の、フランス政府とそれぞれの都市との間でな
された戦争である。もちろん武力衝突だけで内乱を説明することはその本質から目を背けることに
なる。フランス政府が「国民防衛政府」と自ら規定して第3共和制に移行した 1870 年 9 月 4 日は
国土全体で「共和国万歳!」と叫ばれた。だが、その後の「国民防衛政府」がその歓声に応え続け
るような内政・外政を持続し続けたかどうか。少なくとも各主要都市が起こした国内戦争はその内
政・外政のあり方に対する強い疑念と不満を原点としていた。その原点こそが、パリ・コミューン
を例に取れば 1871 年 3 月 18 日未明になされた、民衆によるモンマルトルの丘における大砲の奪還
−フランス政府軍が大砲をプロイセン側に引き渡そうとしたまさにその瞬間を一人の民衆が目撃し、
直ちに政府軍の威力をしのぐ大衆のエネルギーとなって大砲の奪還に成功する−のような「偶発事」
をきっかけとして、強い志向性のある政治変革へと進化せしめていったわけである。文豪・ヴィク
トル・ユゴーは内乱によってパリが破壊され尽くされたことに対する怒りをあらわに示している。
しかし、彼は「la Commune の本源は認める」と断言している(「ベルギーの独立のための責任者
へ」1871 年 5 月 28 日)。また、カール・マルクスはパリの内乱を時期が早すぎたとしながらも「労
働者階級による政府の樹立」の実験形態として高く評価した(「フランスにおける内乱」1871 年 9
月)。もちろん、ユゴーとマルクスとの間には la Commune de Paris 1871 の政治変革の志向すると
ころの本質についての理解は異なっているはずである。一方、ティエールを政府主席とするフラン
ス国民議会政府はモンマルトルの丘の事件以降政治の場をパリからヴェルサイユに移した。それゆ
えそれはヴェルサイユ政府と呼ばれる。ヴェルサイユ政府はパリの「奪還」を虎視眈々とねらって
いた。パリは、何と言っても、フランスの中心であり、またヨーロッパの中心であるとの自負があ
る。フランスの主要都市で起こされた内乱を鎮めるためにもパリの「奪還」は必然であった。ヴェ
ルサイユ政府公報には幾度も l’insurrection(ランシレクシオーン:反乱)という言葉が登場する。
la Commune de Paris が新しく樹立した制度・秩序をそのささやかなことさえも容認することはな
く、従って自らの政策立案の中に採り入れて新制度・新秩序を樹立する試みもなく、軍事制圧のみ
で「反乱」を押さえ込もうとした。先の人物評伝の中で記述されている「ヴァンヴ要塞の再占拠―
奪回ではなく−」との表現は、まさしく、「反乱軍が占拠した」、という趣旨の記述なのである。事
実、人物評伝の著者もまた、その著書の前書きで l’insurrection の語を用いている。
(Paul DELION,
Les Membres de la Commune et du Comité central, Alphonse LEMERRE, Éditeur, Paris, 1871.)
1871 年 5 月 28 日、ペール・ラシェーズ墓地での戦いを最後として、la Commune de Paris 1871
の歴史実験は終焉した。しかしながらその実験に対する検証評価はその後本格的に進められる。歴
史事実として対象化する研究史については脇に置くとして、当事者による当事者に対する検証評価
については看過することができないであろう。ウロブルスキの人物評伝の著者もその時代に生き、
その時代をつぶさに見た当事者能力を持つことは言うまでもない。そして、はしなくも評伝の中に
示しているように、彼はその当事者能力のシフトをきわめて明確にしている。著書が 1871 年のい
つ執筆され出版されたのかは不明であるが、すでに内乱の「勝者」と「敗者」が明確になっている
時期において、
「勝者」の視点で「敗者」を検証評価していることは明らかである。パリ・コミュー
ン史の中でつとに知られ、教師として常に貧民の子どもの立場に立って自由教育を進め、また武器
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を持って民衆の先頭に立って政府軍と戦ったルイズ・ミッシェルは、彼女を裁く軍事法廷で「仲間
たちを虐殺したその手で私を裁こうとしているあなたたち、私を仲間たちと同じように殺すがい
い!さあ、鉛の玉を私の心臓にぶち込みなさい!」と叫んでいる(「歴史の中に生きた女性」、瀬田
康司『・・・そして未来へ』私家版、2000 年)。ルイズ・ミッシェルが言うように、まさに当事者
による歴史評価とは残酷なもので、
「仲間たちを虐殺したその手で私を裁」くのである。つまり、
「虐
殺」は、その行為当事者からすれば、正当な論理を持つ戦闘能力の削減の行為であり、軍事法廷は、
その論理に従って、生き残り捕らえられた戦争犯罪人の罪を問う。そこには裁き手の「論理」以外
に入り込む隙間はない。人物評伝の著者もまたこの「論理」を用いている。彼によれば、ウロブル
スキとは、自己利益によって身をあちこちに移し、それが帰属する共同体の利益になると信じ込ん
でいる、あるいは帰属する共同体を「敵に売る」こともし遂げるエゴイストであり、知性のかけら
もない蛮勇の人という「論理」の枠に組み込まれるのである。そればかりではない。著者は、ウロ
ブルスキに見られるあれこれは、彼の出自であるポーランド人に共通した民族的性質であるという
「論理」をまで導き出している。もちろん、ここから導き出される「裁き」の結果が予測されるこ
とは、
「ウロブルスキは極悪非道な戦争犯罪人として裁かれるべきであり、彼のような極悪な犯罪人
を今後輩出させないためには他民族排除の浄化社会を建設すべきだ」という読者の心情喚起である。
ウロブルスキに関する諸資料をこの人物評伝以外に持ち得ない現在、私は彼がエゴイストであり、
知性のかけらもない蛮勇の人という評価をいったん受け入れざるを得ないであろう。しかしながら
その評価も、上述のように、
「勝者」による「勝者」のための論理からなされたものであることもま
た受け入れるものである。ただ受け入れることができないのは、ポーランド人全体に対する評価、
すなわち典型的なステレオタイプ観であることである。そしてそれが、悲しいことに、今日もなお、
私たちの中に強く巣くっている排他主義の思想と行動につながっていることだ。だからこそ私は、
歴史事実を対象化して見るとき、当事資料を丹念に検証することがどうしても必要だと思っている。
そのことによって、たとえわずかにでも私の中の残像としてある「勝者」による「勝者」のための
論理の正当視、そしてそこから否応なく導き出されるステレオタイプ観を払拭することができると
信じている。
いつの日か、くだんの婦人たちと再び邂逅することがあるとしたら、その時には「あなた方のお
じいちゃんのおじいちゃんは勇気と知性とを持ち権力の圧制と戦い、理性を持って流血の惨事をこ
れ以上拡大することを食い止めたすばらしい方でした。彼がなした事実の中に私たちがこれからの
社会を建設していく方向性が示唆されていることを確信します。」と伝えたい。そのためには、膨大
な資料群の発掘と調査を進めていくしか方法はない。そして、すでに定められた歴史評価を改めて
いくことこそ、そしてその改訂の努力の中に私たちの社会の方向性への示唆を提示していくことこ
そ、私の研究者として残された人生の最小にして最大の課題であると思う次第である。
なお、評伝中にあるドムブロウスキはラ・コミュヌ軍の将校、彼もまたポーランド人である。
(2002 年 11 月 1 日、パリにて)