パリ・コミューン

横浜市立大学エクステンション講座
パリ史こぼれ話
第5回(12/3) 「パリ・コミューン」
横浜市立大学名誉教授 松井道昭
Ⅰ
パリ・コミューンとマルクス
パリ・コミューンが起きてから百数十年が経過した。首都が国家に背くという
ドラマチックなこの叛乱は2か月半ほどもちこたえ、結局のところ政府軍の圧倒的
攻勢の前に潰えたが、この事件は多くの波紋を投げかけることになった。
この事件に対する評価は人によって異なるが、細かな点を別にして次のように
みる点では観察者の見方はおおむね一致している。すなわち、それは徹頭徹尾、民
衆主体の史上初の革命であり、そして、そのことの反映として、目標や行動におい
てこれまでの革命にない幾つかの特徴をもっている。さらに、この革命の挫折は同
時代および20世紀の革命家たちに多くの教訓を遺し、その後の国際的な革命運動に
大きな影響を与えた。
ひるがえって、歴史研究としてのパリ・コミューンを省みるとき、それが十分
な学問的水準に達しているかといえば、これを疑問視する向きが多い。事件当時よ
り多方面の関心を集め、事件関係者や歴史家の手で多くの事実が詳らかにされ、論
点も明確になりつつあることは確かである。けれども、それらの見方となると、個々
の事実についてはむろんのこと、事件の全体的性格についてさえ評価は分かれ、い
っこうに収まっていく兆しがない―というのが実情である。1971年のコミューン百
周年に当たり世界各地でこれを記念するシンポジウムが催され、研究方法の再検討
が提唱された。これを機に、新たな視点に基く研究の具体的な取り組みが始まった。
大まかに言って、これらシンポジウムのコミューン史研究への最大の貢献は視点の
拡大にあるといえよう。先ず、地方のコミューンの研究を通じて、地方とパリ、国
家と首都の関係が再検討に付された。また、事件の国際的波紋については、これま
では1917年のロシア革命との関連のみで言及されていたが、それが一挙に全ヨーロ
ッパにおし拡げられた。さらに、コミューンとフランス革命、二月革命などフラン
スの革命的伝統との関連について再検討が始まった。詩・歌謡・演劇など、今まで
軽視されてきた分野が初めてとりあげられた。
筆者のみるところ、これまでのコミューン研究の特徴は以下の3点に要約でき
る。
第一に、一世紀前とほとんど変わり映えしない事件通史(historiques)が今も
横行している。良き手本となったのは当代のベストセラーで、リサガレーの『パリ・
コミューン』(1876)である。これには邦訳がある。事件通史のなかで、叙述にお
いてこのリサガレーの名著に負わぬ作品はむしろ稀であると言ったほうがよいだ
ろう。驚いたことに近年刊行された本までも、とりあげている事項や、ときには篇
別構成までもこれに類似しているものがある。
(喜安・長部訳『パリ・コミューン』
1
上・下巻、現代思潮社、1968年、1969年)考証が加えられているといっても、基調
は情緒的・描写的記述に流れるのが特徴である。
第二に、これは反対に ― ということもあれば、これと重なりあうこともしば
しばだが ― 事件分析の観点が20世紀の革命の革命理論からなされ、コミューン史
全体に対する見方もこの論議の枠をまったく出ない一群の著作がある。
第三に、事件通史、革命理論史観のいずれの場合においても、主だった事件を
状況との関連で追跡するという「事件とその背景」なる政治史的分析に偏り、依拠
資料・文献が共通している。したがって、この場合の論争はたいていありきたりの
史料の解釈をめぐってのものとならざるをえない。
これらの(否定的)特徴は根源的というよりむしろ派生的なものであり、その
実は研究主体の側におけるコミューン研究の動機づけと不離一体の関係にある。一
都市の挫折した叛乱にすぎないパリ・コミューンが国際的拡がりにおいて、なぜ脚
光を浴びたかといえば、端的にいうと、その社会主義と新タイプの国家のゆえであ
る。周知のように、この特徴をいち早く指摘したのはカール・マルクスである。彼
は当時、第一インターナショナルの指導者のひとりとして、亡命先のロンドンから
この叛乱に熱い視線を注いでいた。その後のコミューンをめぐる論争は革命家たち
の間でおしなべて、“未来の革命”への展望を秘めるこの「社会主義」「新タイプの
国家」の線に沿って展開されることになった。
マルクスとパリ・コミューンの関係は独立した主題となりうるほどの重要性を
もつ。マルクスは普仏戦争の開戦当時より、この動向に深い関心を寄せていた。彼
は海峡を隔てた隣国で繰り広げられるこの事件を、ロンドンおよびパリの新聞報道
により執拗に追跡していた。また、彼は革命派内部の事情に関しては、インターナ
ショナル・パリ支部の同志たちとの書簡で通じていた。
マルクスのコミューンについての言及は『フランスの内乱』[注]をはじめと
して約40回にも及ぶが、それを細かく吟味すると、そのつど彼のコミューン解釈に
ズレが生じている。これを突きつめていくと、彼の最初の問題提起さえ曖昧なもの
となる。つまり、マルクスがコミューンを社会主義的であり、プロレタリア独裁(の
萌芽)と見なしていたかどうかについてさえはっきりしなくなっていく。
[注]『インター総評議会のフランスの内乱に関する宣言』、ふつうには「インター第三宣言」
といわれるこの激はコミューン壊滅直後の1871年5月30日に公表された。マルクスはこれ
を4~5月の間に起草した。これは早くも6月半ばにロンドンで『フランスの内乱』と題さ
れた小冊子の形で刊行された。同年および翌年中に、他のヨーロッパ諸国と合衆国におい
て翻訳版が出た。マルクスを国際的に有名にしたのはこの本である。邦訳に木下半治訳『フ
ランスの内乱』(岩波文庫)がある。
「ズレ」というのは以下のとおり。マルクスは前掲の「第三宣言」においてコ
ミューンを「本質的に労働者階級の政府であり、所有者階級に対する生産階級の闘
争の所産であり、そのもとで労働の経済的解放を達成すべき、ついに発見された政
治形態」(木下訳p.101)と見なした。続けて彼は言う。「コミューンは、階級の
2
存在が、ゆえに階級の支配がよって立つその経済的基礎を根こぎにするための梃子
として役立つはずのものである」(同訳p.102.)マルクスはここで、コミューンを
「階級的所有権を廃止し」「収奪者の収奪をめざす」革命と把握する。
ところで、マルクスのコミューン評価は10年後には次の言葉に置き換えていく。
彼は1881年、オランダの社会主義者Domela Nieuwehuis 宛ての書簡の中でこう言う。
「コミューンが例外的状況下におかれた一都市の蜂起であるにすぎなかったという事実
を別にすれば、コミューンの多数派は決して懸命な社会主義者でもなかったし、また、そ
うなるべき可能性もなかったのである。思うに、彼らがほんの少しばかりの常識をもって
いたなら、コミューンの住民の大多数にとって有益であるところの、ヴェルサイユとの妥
協に到達しえたであろう。これこそ、当時において到達し得る唯一の事柄であるのだ。」
マルクスのコミューン解釈の多義性はさておき、彼がコミューンを来るべき社
会主義革命の貴重な実験として観察し、そこから教訓を搾り出そうと努めていたこ
とだけは確かであろう。
マルクスのこうした「ズレ」について、
(1)彼の認識の深化を示すもの、
(2)
文脈の違いであって、コミューン観の根本的変化を示すものではない、というよう
に二とおりの解釈がある。
マルクスおよびマルクス主義者の社会主義的コミューン論とは対照的にバク
ーニンをはじめとする無政府主義者はコミューン革命を国家に対する労働者の叛
乱とみなし、国家廃滅への第一段階をなすと捉える[注]。つまり、マルクスが旧
権力に代わるべき新しい権力の誕生をコミューンの中に見ているのに対して、バク
ーニンらは国家権力そのものの解体をそこに見るのである。
[注]左近毅訳『国家制度とアナーキー』(『バクーニン著作集』白水社、1973年、第6巻、
pp. 7-346. に所収)
さらに別の一群の歴史家は、マルクスの解釈はドグマ的政治論に基礎を置く
「神秘論」であるとしてこれを退け、コミューンを大革命以来のフランスにおける
共和主義革命の伝統の中に位置づける。ローヤル・ウィリアムR. L. William のコ
ミューン史がこれに該当。彼は、コミューンは革命ではなく、第二帝政後半の「自
由帝政」が第三共和政に移っていく過渡期でのひとつのエピソードにすぎないと言
いきる[注]。
[注]William (Royal, L.) The French Revolution of 1870-1871. New York, 1969, pp.
x-xi.
いずれにせよ、マルクス抜きでコミューンを論じることはできない。これまで
の論争はマルクスのコミューン解釈を軸に、その当否を問う形でコミューン革命の
性格や政権構造を問題にしてきた。前に指摘した、現在のコミューン研究の跼蹐状
況もここに発する。革命の性格や政権構造を問題にする際に引き合いに出されるの
が、コミューンの主だった宣言、決議、組織である。ところが、われわれがこれら
に沿ってコミューンを再検討する結果、前述の相互に矛盾するコミューン解釈、す
3
なわち、社会主義的、無政府主義的、共和主義的コミューン論のいずれに軍配を挙
げてよいのか迷ってしまうのがつねである。誰しも、そのいずれもが正しいようで
もあり、また違うようでもある、といった何か釈然としない感懐を懐く。そのわけ
は、コミューンの文書の読み方によってどのようにでも読める融通性を、もっと正
確に言えば曖昧さを秘めているからである。組織についても同様である。
一例を挙げてみよう。コミューン議会が1871年4月19日に採択した「フランス
人民への宣言」がその好例。これはコミューン史研究で必ずといっていいほど引用
される文書だが、それは一般に、コミューンが送れば馳せながら初めて外に向かっ
て自らの目標を明らかにした綱領と見なされている。
「…パリは何を要求するか。人民の権利と社会の規則正しい自由な発展とに適合する唯一
の政府形態である共和政の承認と強化を。フランスの各地方すべてに拡張され、各人に対
してその完全な権利を保障し、あらゆるフランス人に対して人間、市民、労働者として技
量と能力を完全に行使することを保障する、コミューンの絶対的自治を。コミューンの自
治をその限界として、契約でしっかり結ばれ、その結合がフランスの統一を保障すべき、
他のすべてのコミューンと対等の自治権以外の何ものももたない。…[中略]… パリの
臨む政治的統一とは、あらゆる地方的創意の任意の結合であり、すべての人々の幸福と自
由と安全とを目標とする、あらゆる個人的精力の自発的で自由な結集である。3月18日の
人民的創意によって始められたコミューン革命は経験的、実証的、科学的政治の新時代を
開くものである。コミューン革命派政治的、カトリック的旧世界、軍国主義、官僚政治、
搾取、投機、独占、特権の終末である。これらこそプロレタリアートに隷属状態を、祖国
に不幸と災禍を与えている原因なのである[注]。」
[注]原版は縦110cm×横72cm の大きなポスター。大佛次郎記念館が収蔵。
長文のため、途中の具体的政策の部分を割愛した。引用文の前段は共和主義を
前提とする小国家連邦制のようにも、また国家権力の解体後の自治的コミューンの
連合のようにも読める。後半のくだりになると、古い人民抑圧国家に代わる人民中
心の新国家の誕生のようにも受けとめることができる。いずれにせよ、解釈は自由
で、この多義性は前述のコミューン論をすべて正当化してし まうほどだ。
マルクス以下の指摘はきわめて示唆的である。「コミューンに下された解釈の
多種多様なことと、コミューンを我田引水的に解釈した利害関係の多種多様なこと
は、コミューンが徹底的に発展的な政治形態であったのに、それ以前のあらゆる政
体が甚だしく抑圧的なものであったということを示している[注]。」
[注]邦訳『フランスの内乱』p. 101.
Ⅱ
原因あるいはイデオロギーによる説明
コミューンの複雑な歴史そのものが多様な解釈の根源である。コミューンの複
雑さは未完の革命につきものの理想と現実、目的と手段の隔たりに由来する。これ
がコミューンの短所であることはいうまでもないが、同時に現代人の関心をつねに
惹き寄せて止まない魅力の源でもある。要は、微妙な要素を多く備えもつこの革命
4
を、時代的視点から性急に論断することこそ戒めなければならない。ところが、と
かく歴史家はこれを守らない。彼は公文書の解釈をいろいろ試みたのち、決定的結
論が引き出せないとみるや、今度は一転してコミューンの原因の考察へと向かう。
彼が挙げる“原因”の種類はイデオロギー、歴史的先行条件、背景、契機など多岐に
渉る。以下、列挙してみる。
(1)共和主義、急進主義、社会主義
(2)第二帝政の衰退、労働者階級の成長、パリ市の変貌
(3)普仏戦争、パリ籠城、経済的窮乏
(4)プロイセン軍のパリ進駐、ティエールの挑発的策動。
しかし、歴史研究における原因究明と解釈は分かち難く結びついているもので
ある。コミューンへの“歩み”のどの要素(原因)に着目するかは、結果として得ら
れるコミューン像そのものとともに、研究主体のもつ本来的問題関心と不可分であ
った、方向は予め定められている場合がある。だから、上述の諸原因の中からどれ
を選択し、どのように組み合わせるかは、最初から決まっているといえるのである。
先験的見地がこれだ。
したがって、“原因”を扱う際には慎重さが必要。先ずもって大切なのは諸原因
を明確に区別し、それらの絡み合いを調整することである。それをしない場合には、
研究者は結局のところ「原因」の指定の中に直ちに「結果」の含まれるようなトー
トロジーに、そうでないにしても一面的な図式的理解に行き着く。コミューンが社
会主義または無政府主義をめざす運動であったか、または共和主義をめざす伝統的
運動の中に数えられるべきものなのか、さらにまた、例外的状況が生み出した特異
な愛国的叛乱にすぎないのか―という問いには単純には答えられない。問題の立て
方および原因措定の仕方しだいで回答はどうにでも変わるからである。
原因の区別というとき、コミューンのような革命運動を対象とする場合は、客
観的条件と主体的力との関係に留意して次の3区分に従うのが望ましい。
(1)過去からの遺産に因るもの(伝統)
(2)進行中の政治・社会関係に因るもの(状況)
(3)政治思想の影響(イデオロギー)
現実のコミューンは伝統、状況、イデオロギーなどこれら3つの原因のすべて
の影響下におかれている。解決法は、各原因の影響の度合いと相互の絡みあいをコ
ミューンの各局面について一つひとつ吟味することだ。原因のいずれか一つの分析
を以て全体像に代える訳にはいかない。先ごろ話題となった、「夜明けか黄昏か」
の論争[注]についても、われわれがいずれ与すべきかは即断できない。伝統の力
を重くみれば「黄昏」になるであろうし、イデオロギーを重く見れば「夜明け」と
なるであろう。あるいは、この例でいえば問題の立て方が間違っているのかもしれ
ない。伝統の力と革命の力との間には絶えざる緊張関係があり、この緊張は当該事
件の過去・現在・未来を同時に支配しているのである。ゆえに、このような緊張の
持続を度外視しての二分法は誤った結論に導きやすい。
[注]この議論を最初に提起したのは歴史家ジャック・ルージュリである。この問いをいいか
5
えると、「コミューンはフランス革命の伝統を引き継いだ共和主義的、民主主義的革命の
最後のエピソードか、それとも、社会主義の実現をめざすプロレタリアートの最初の革命
の実践であるのか」ということになる。つまり、コミューンは過去を振り向いているのか、
未来を見ているのか、が争点になる。この議論については柴田三千雄が簡潔な紹介をされ
ているので参照されたい。柴田三千雄著『パリ・コミューン』中公新書、1973年。pp.205-208.
少々乱暴な言い方をすれば、現在の研究状況においてコミューンは「過去(伝
統)による理解」、「現在(状況)による理解」、「未来(イデオロギー)による
理解」によってバラバラにされたままである。「過去」とりわけ大革命の伝統によ
って理解されるコミューンのイメージは旧態依然のアナクロ的色彩を拭い去りえ
ない。「現在」による理解はコミューンの特異性のみを浮き彫りにし、その普遍的
意味を奪いがちであるだろう。「未来」とりわけレーニン主義によって考察された
コミューンのイメージは、それが革命としてはあまりに早産であって最初から挫折
を約束されていた悲劇となり、その未熟な部分のみが強調される。その反省に立脚
して前衛党の必要性が力説されるのだ。
真実のコミューンはそのような政論的理解を超えたところに、すなわち実際の
歴史に根差して理解しなければならない。
革命の性格を論議する場合、人はしばしば指導的政治集団のイデオロギーによ
って判定することがある。革命を推進する政治集団の実体について、彼らを支える
指導原理が分かれば、革命の向かうべき方向は明瞭に姿を顕わす。この想定は明快
であり、曖昧模糊とした現実を多少なりともすっきりした形に整理できる。たとえ、
指導的政治集団(または理論)が複数であっても、また、混合体であったとしても、
説明として明快であることに変わりはない。そこで、このイデオロギー的区分法が
コミューン革命に適用される。かくて、ブランキ派、プルードン派、ジャコバン派
… なる分類。
コミューンの諸事実を特定のイデオロギー体系の中に位置づけようとする方
法も、実際問題としてそれほど明快な結論にいたらないだけでなく、方法論として
問題がある。コミューン指導者の中の個人の発言や事後の述懐は別として、コミュ
ーンが集団的に決定した決議をみると、そこにイデオロギーのある程度の影響が認
められるにしても、明確にこれこれのものと言いきるほど鮮明な形で表われること
はない。これについては後述する。
方法論的に問題ありというのは以下の理由による。イデオロギーが社会の底辺
に達するには、個人またはグループによる仲介が前提であって、それにはかなりの
時間を費やす。指導的政治集団は各イデオローグの思想を正確に受け止め、代弁す
る準備をもっているだろうか。そして、この諸集団は約7万といわれるコミュナー
ル[注]にどのような形で思想を伝達したのだろうか。その場合、イデオロギーが
特定の仲介者を経てコミュナールに達し、そして、さらにそのまわりの協力者に達
したとき、バイアスを被らなかったかどうか。現代的意味での政党はこの時期にま
だ問題にならない。さして深い教養をもたない大多数のコミュナールはどのように
6
してイデオロギーに染まるのだろうか。
思うに、思想の下部への浸透は条件なしに起こるものではない。極度の政治
的・社会的危機の進行や階級的緊張の持続がその前提となる。パリ籠城のような極
めて特殊な状況がそれに相当する。だが、このような深刻な危機は、革命諸派が大
衆に向かって悠長な政治教育を施すための時間的余裕を奪う一面もある。このよう
に、イデオロギーの浸透を問題にするときには考慮すべきことが多々あるのである。
[注]communards, communeux, communalistes いずれも「コミューン一味」という意味の蔑
称である。コミューン当時には二番目のコミュヌーの呼称が一般的であった。これはフラ
ンス革命時の「パルタジュー 農地均分主義者 」に擬えたもの。
コミュヌーまたはコミュナールへの実数および範囲を確定するのは簡単ではない。ふつ
うにはコミューンへの積極的協力者、ことに戦闘参加者を指すが、コミューン潰滅時の死
者(推定で17,000~25,000)と逮捕者3万の合計をもって全部だとすることもできない。逮
捕を免れた者がいるからである。コミューンが動員できた軍隊の実数は約5万(リサガレ
ー)と見積もられ、その配偶者などを含めコミュナールの最大値は約7万と見なしうる。
コミューンを支える民衆組織、国民衛兵、労働組合、クラブなどの集まりにお
いてプルードン、ブランキ、ジャコバン主義の思想的影響が認められるのは事実だ。
ただし、限られた数のエリート戦闘員を除けば、それは体系的にというよりスロー
ガンにまとめられた形においてである。これらイデオロギー的要素は突きつめれば
矛盾を来たすであろうが、コミューンの日常的実践においてはさして大きな衝突を
起こすこともなく共存していた。矛盾が大きくなるにはコミューンはあまりに短命
であった。コミューンの実践は限定された思想的企図の実行ではなく、場当たり的
措置の性質を、したがって(逆説的であるが)、民衆的根源をもっている。日々の
即興的な動きに左右された自然発生的な革命においてはこうしたことはむしろ当
然である。それゆえ、コミューンの事績を厳密な意味においてイデオロギーの系列
下に位置づけることはとうていむりな議論となる。パリ・コミューンは最初から包
囲されており、軍事情勢はとくに厳しかったため、首尾一貫した政策の実行はもと
より不可能であった。
ここで筆者が言いたいのは、あくまで厳密な意味でのイデオロギー的系列に位
置づけることが困難だということだ。コミューンの社会立法をみるとき、全体とし
て労働者保護のための政策が多いことに気がつく。コミューンの社会政策を担当し
たのは「労働・産業・交換委員会」であり、ここにはマロンMalon, テーズTeisz, プ
レールPeraire, ロンゲLonguet などインターナショナル派が多数を占めていた。賃
金に対する罰金制度の廃止令(4月27日)やパン職人の夜業禁止令(4月28日)など、
同委員会がイニシアティヴをとった、労働者の権利を擁護するこれら立法もそれ自
体としては社会主義的なものではなく、すでに第二帝政下で労働者の強い要求の実
行という色あいが強い。
コミューンが軍事問題にどれだけ苦慮したかを示す端的な例は、財政の中に占
める軍事予算の割合である。大蔵省代表ジュールド Jourde の残した報告によれば、
コミューンは全収入4,200万フランのうち、3,300万をこれに充当した[注]。すなわ
7
ち、コミューンは軍事問題に追われ、他の社会政策を実行するどころではなかった
のだ。
[注]リサガレー、喜安、長部訳前掲書 p.270.
コミューンの政策の中で前述のようなイデオロギーの影響下にあるものと見
なされ、時には社会主義の大胆な試みとして評価されるものに、コミューンが4月
16日に制定した法律がある。同法令は、雇い主の逃亡によって休業状態にある工場
をリストアップし、これを労働組合の管理下で操業再開させることを提案した[注]。
[注]本布告は「労働・産業・交換委員会」のアヴリアルAvrial によってコミューン議会に提
案されたもの。その冒頭部分は次のように述べる。
「パリ・コミューンは工場主たちが公民的義務を免れるために、労働者の利害をも顧み
ず多くの工場を遺棄したことに鑑み、こうした卑劣な放棄の結果として共同生活に緊要な
多くの事業が停止され、労働者の生存が危うくなったことに鑑み、以下の如く布告する。
…[略]… 」
労働者の工場自主管理の先駆としての色合いをもつ同法は果たして社会主義
的立法か、それとも戦時体制下の止むに止まれぬ臨時的措置なのか[注]。
[注]マルクスの本布告に対する評価はこうである。「この種類に属するもう一つの政策は、
すべての閉鎖職場および工場を、各資本家が逃亡したのと休業したのとを問わず、賠償を
条件として、これを労働者団体に引き渡したことであった。(傍点引用者—木下訳『フラ
ンスの内乱』p. 112.)この評価には明らかに誇張がある。本布告は調査を命じたのであ
って無条件接収を定めたのではない。じっさい、この調査のために発足した「労働調査組
織委員会」の対象となったのは10工場で、実際に接収されたのは一つのみである。
じっさい、この法律の採択はパリ市内の様々なクラブや労働組合から歓呼をも
って迎え入れられた。この事実を考えれば、これが民衆の要望に沿ったものである
のは確実である。しかし、コミューンは予定の行動として積極的意図をもってこれ
を実行したのか、さらに、これが実施された場合の反響をどのように考慮していた
のか、われわれのいちばん知りたいこの点について口を噤んだままである。「収奪
者が収奪される」と有頂天になっているリサガレーの感想[注]はともかく、われ
われはこうした法律が上程される状況をもっと的確につかむ必要があるだろう。
[注]リサガレー邦訳『パリ・コミューン』上巻。p. 290.
長期に渉る籠城でパリの経済生活は麻痺同然に陥っていた。商人は売るべき商
品を持たず、職人には仕事がなく、労働者は失業していた。また、間借人に家賃の
未払いから立ち退きを迫られていた。貧しい者すべてが破産寸前に追い込まれてい
た。ヴェルサイユ政府はパリにおける革命派の跳梁跋扈にのみ目を奪われ、民衆の
窮乏の実情を見ようともせず、かえって挑戦的な支払猶予令の即時解除という無謀
な挙に出た。当時のリーフレットを見ると、ごくふつうの市民の執筆したもので、
政府に窮状を訴え改善すべき方向を具体的に提案するものが多い[注]。したがっ
て、3月18日の事件は角度を変えてみると、すべて政府側の状況認識の甘さから生
8
まれたとも言いうる。
戦争後遺症の除去、貧民救済、生産の再開―こうしたものはだれが、どんな立
場から見ても、早急に着手されねばならない課題であった。それは、パリに残留す
る160万市民の願望であった。ヴェルサイユ政府はこれよりも“アカ狩り”のほうを
優先させた。かくて、もともと政府がおこなうべき措置に先手をうち、市民を味方
につけたのは革命派のほうだった。ブルジョアジーが籠城生活の疲れを癒すべくパ
リを脱出したのち、外部からの援助をいっさい期待できない条件下でコミューンが
生産活動の再開を積極的に検討するのはむしろ当然の成り行きであり、これは社会
主義の理念抜きでも十分可能であった。
[注]一例のみを挙げておく。これは「国民議会の命により籠城期の家賃支払いを免除せよ」
と題する、裏表2ページ、匿名のリーフレットである。
「9月4日以降、パリ市民はパリの防衛をまともに受けとめすぎたようだ。労働者は国防
のために仕事場を離れ、道具を銃に代えた。あらゆる市民が市壁を監視した。集合ラッパ
と訓練で一日が明け暮れした。…[中略]… 協定が籠城期間中の家賃の全面的免除を定
めないならば、負担はつねに、不幸と陰鬱な色合いとで満ちた未来の上にのしかかるであ
ろう。…[中略]… 家主のみが戦争の結果を忍ぶに及ばないというのは公平であろうか?
6か月もの間、仕事は中断し、取引は中止し、生産は無力化したが、家主たちは数週間な
いし数か月の家賃完全支払いの遅延を我慢すれば済む、たったそれだけのことだろう。わ
が家族を扶養したり家賃の3期分納繰り延べ払いしたりすることより、われわれを仕事に
戻すことのほうが先決だ。このような主張を傾聴すること、それが正義というものである。」
Suppression des loyers pendant le Siege par l’Assemblée Nationale. Paris, 1871. [placard],
p.1.
Ⅲ
コミューンの支持基盤
(1)中間層の問題
パリ・コミューンは72日間続いた。それは長くもあり、短くもある。地方のコ
ミューン、その中でも最も長くもち堪えたマルセイユ・コミューンですら10日間し
かもたず、コミューン樹立宣言と軍事的衝突以外の何の思い出も残さなかったこと
に較べれば、パリ・コミューンは確かに長命である。これはむろん、数日間の暴動
に終始した1848年の六月事件とは比較にならない。
だが、それはひとつの政権としてはあまりに短命であったとみることもできる。
その企図のすべてが中途半端な状態にとどまったからである。
包囲された都市の革命の寿命はもちろん自律的なものではなく、外敵との力関
係によって左右される。パリ・コミューンの敵は二つ、すなわち、ヴェルサイユ政
府とパリ東郊に駐留する ― というより、内乱のパリを見張る ― ドイツ軍である。
フランスはドイツとの関係はまだようやく休戦状態に入っただけで、正式講和を達
成したのではなかった。そのための交渉が進行中であった。俄か仕立ての選挙から
生まれたヴェルサイユ国民議会はフランス全土を掌中に収めるのに手間取ってい
た。また、この新政府は対独講和仮条約により保有しうる軍備を著しく制限されて
9
おり、パリの叛乱を直ちに押し潰す力をもたなかった。国民議会政府は密かにドイ
ツ政府にかけあって仏軍捕虜を返還してもらい、政府軍の再編を企てていた。パリ
はまったくその企てを知らなかった。
コミューンの弾圧に72日間も費やしたのはこのことによって説明できる。だが、
これですべてであろうか。外部関係のみならず、パリという要塞内部での力の拮抗
も考慮さるべきではないか。
コミューンを限られた都市空間において眺めるとき、その支配体制は確固たる
ものなのか。従来のコミューン研究は外部関係や外からの軍事的圧力のみに目を奪
われ、内部にメスを入れることはほとんどなかった。歴史研究においてごく初歩的
なことがなおざりにされているのを見て、だれしも戸惑いを覚えるが、それは紛れ
もない事実である。後述するように、実は研究上のこのような偏りと、今までふれ
てきたコミューンのイメージとは深い関わりがあるのである。
筆者はかつて史料を渉猟していたとき、ふと或る書物の中に綴じ込まれていた
一枚の絵に釘づけになった[注]。びっくりしたのは、そこに描かれている奇妙な
光景のためである。絵の構図はセーヌ川面から岸壁(右岸)を見上げる形になって
いる。正面にロワイヤルRoyal 橋がかかり、その橋上を、鉄砲を担いだ政府軍の一
隊が左岸から右岸方向に向かい闊歩している。彼らの行く手の向こう側でテュイル
リー宮が炎を吹き上げている。ここまではごくありふれた光景だ。が、絵の下半分
に目を落すと、異様な光景に出会す。河岸で釣糸を垂れる男が3人、そのようすを
堤防越しにひとりの紳士が所在なげにぼんやり見下ろしている。上は戦闘、下は平
和 ― 1枚の絵の中でこの奇妙な取り合わせは強烈な印象を放つ。テュイルリー宮
の炎上が描かれているから、時は5月24日のことであろう。筆者はコミューンを題
材とする図絵をこれまでかなり多く見てきたが、このようなものにはお目にかかっ
たことがない。さりとて架空絵とも思われない。戦いの最中の幕間閑話のひとつと
みるべきなのか。絵に描かれているような戦闘に無縁な市民というのはごく例外的
であるだろうか。
[注]この絵の原画は油絵、左隅にジュール・ジラルデJules Girardet の署名が入っている。
この絵は和紙の上に写真製版されている。Halévy (Ludovic), Notes et souvenirs de mai à
décembre 1871, Paris, 1888. p.44.
パリ・コミューンを支えるのに、いったいどれだけの人間が関わりをもったの
か。関わりの種類と程度を先ず問題としなければならないが、たとえそれが明らか
になったとしても、実数は依然としてつかめないだろう。はっきりしていることは、
コミューンを権力の座に就けた3月26日の選挙には23万の市民が投票したという事
実であり、関わりの最大値はこの辺にとどまるということだ[注]。
[注]コミューン樹立の記念式典(3月28日)のおこなわれた市役所前広場には20万の群集が
押し寄せたといわれる。この数値はコミューン支持者の最大値とみなしうる。
この数字をどうみるべきか。この時の選挙人名簿は前年5月8日の帝政人民投票
10
の際に作成されたものを基礎としている。この激動の1年間に大幅な人口移動があ
り、特に71年1月末のパリ開城後に有産階級が10万単位で地方へ休息に旅立ったこ
とが知られている。この有権者数に対する23万となると、投票率は半分にも満たな
い(47.2%)。この数字は2月8日の国民議会選挙時の54万5千、前年11月5日の国防
政府信任投票の際の62万と比較しても、そのいずれにも遠く及ばない。
コミューン支配下でおこなわれた4月16日補欠選挙ではさらに少なく、僅かに6
万2千を数えるにすぎない。この投票数激減の理由としては一般に、穏健派市民の
意図的棄権、コミュナール戦闘参加者の(持場を離れられないための)棄権、連続
する選挙への飽きなどの理由が挙げられている。
上述のことからいえることは、コミューン成立の当初からこれに味方しない者
が多数いたということだ。ここで問題なのはヴェルサイユ派によって買収された者
や裏切り者ではなくて、樹立されたコミューンに対し妥協せず、警戒の眼を向けて
いた人々の精神状態である[注]。
[注]ブルジョアジーだけでなく旧帝政の公務員、カトリック聖職者がこれに属する。反対勢
力の存在は、コミューンが5月にコミューンに敵対的な新聞20紙を発禁処分にしなければ
ならなかったことから分かる。
だから、コミュナールはパリ市民全体から見れば、明らかに少数派に属する。
コミュナール以外のパリ市民を対コミューンとの関係において色分けすると、シン
パ、中間派、反対派、その他(傍観者)に分類しうる[注]。それぞれの勢力はも
とより截然と分かたれるものではなく、その境界はつねに曖昧である。彼らのコミ
ューンへの関わり(否定的な態度を含めて)の仕方や度合いは多様であって、類型
化にはつねに困難がつきまとう。
[注]1870年11月選挙、71年2月選挙、そして、もちろんコミューン潰滅後の同年7月国民議会
改選におけるパリの選挙結果をみると、社会主義的傾向の候補者はむしろ少ない得票しか
獲得していない。多数の得票を得たのは急進派 radicaux である。この意味でコミューン
選挙はむしろ例外的であるといえよう。
同じことはコミュナール自身についても言える。前述のように、彼らの政治意
識のベクトル分布は非常に広く、単なる共和主義者やヴェルサイユ政府の露骨な徴
発行動への反感からコミューンに与した愛国者から各種のニュアンスをもつ社会
主義者まで及ぶ。だから、コミュナールとそのシンパ、中間派との境界はもともと
曖昧である。
さて、従来の研究ではコミューンへの関わりを問題とするとき、直ちに積極的
革命派=コミュナールのみを考察の対象としてきたが、今後はそれ以外の市民層に
も目を向ける必要がある。なぜなら、コミューンを政権に就けたのも、また見殺し
にしたのも、この同じ市民であるからだ。とりわけ、コミューンの運命を左右した
中間層への関心がもっと寄せられて然るべきだ。
シンパ、中間派、反対派なるカテゴリーは母集団を特定の事象への態度を尺度
として類別して得られる概念である。ところで、事態の変化は必然的に人の態度の
11
変更を伴う。つまり、パリ市民のコミューンへの態度は固定と見るべきではなくて、
事態の推移に応じて変わっていくとみるべきである。したがって、上記のカテゴリ
ーは流動的である。そこで、事態はどのように推移したかが問題になるが、コミュ
ーンの時期区分は研究者によって差を生まないのが特徴。すなわち、① 九月四日
革命後の民衆権力の登場、② 3月18日事件、③ コミューン選挙、④ 4月2日の軍事
衝突、⑤ 公安委員会の設置、⑥「血の一週間」とその後の弾圧 ― これですべて
だ。この時期区分に問題はない。
しかし、これまでの研究ではこのような事態の変化が引きずる政治的効果につ
いては考察の対象はコミューン政府内部、せいぜいのところでコミュナールへの影
響に限定されるのがふつうだった。二度の籠城を強いられた都市において決戦の時
が刻一刻迫る緊張の中で、市民はどんな変化にも敏感に反応を示すはずなのに、こ
うした動きに焦点が合わされることはめったになかった。
たとえば、先ほどふれた4月16日の補欠選挙についてはこれまでの通史はすべ
てほんの一瞥をくれる程度で済ましてしまう。筆者のみるところ、それは重要な転
換点であって、コミューンの行方を予示している。この時の投票棄権はいろいろの
事情を考慮するにしても多すぎる。この時すでにコミューンのシンパサイザーおよ
び中間派がコミューンに見切りをつけて棄権に回ったとみるべきではないか。
前述のように、コミューンの支持基盤はもともと小さいと同時に、さして堅固
なものではなかった。3月26日のコミューン選挙時には革命派に混じってかなり多
くの穏健派の議員が選出された[注]。メリーヌMéline, デマレDesmarets, ナスト
Nast, アダムAdam, ティラールTirard ら穏健派議員は当選後すぐに辞任し、3月末
までに16名に達した。85名当選者中の16名である。これら「辞任者 Démissionnaires」
の続出により、コミューンは離陸直後から片肺飛行を余儀なくされたことになる。
コミューンが10の委員会を設置して事実上の政府として陣容を整えたのが3月29日。
そして、4日後の4月2日には無謀な軍事的攻勢に出て敢えなく敗北を喫している。
[注]「辞任者」はパリ第1区、第2区、第9区、第16区などパリ中心部ないしブルジョアジー
の区から出た。特に第1区、第2区、第16区は当選者全員が辞任している。3月末までに辞
めた16名の得票数は85,830票で、当選者全体の得票数764,032票の11.2%に相当する。
3月18日事件の直後における市民の目には、パリとヴェルサイユの対立の中に
割って入ったパリ選出の代議士や区長たちの調停の成り行きしだいで和解の可能
性はまだ残っているように見えた。ところが、これが4月初に不調に終わり、選挙
の強行と、前述したような穏健派議員の大量の辞任とで妥協への道は完全に行きづ
まる。そして、それを裏づけるかのような軍事衝突。かくて、かつてのコミューン・
シンパと中間派は形勢観望の立場に転じる。その後はコミューンの孤立 → 左傾化
→ 内紛 → さらなる孤立という悪循環が待ち受ける。内戦必至の状況になっても、
民衆の一部はまだ希望を捨てない。このときなお、パリとヴェルサイユの宥和を訴
える主張はくり返されているからである。われわれはそれをビラやリーフレットで
読むことができる[注]。
12
[注]拙稿「普仏戦争、パリ・コミューンに関するポスター、リーフレット」『おさらぎ選書』
第1集。大佛次郎記念会、1986年刊に所収)したがって、4月2日、3日の軍事的衝突が民
衆の間にまだ残っていた平和的解決の希望をうち砕いてしまう。これはコミューンの運命
にとって二重の意味で決定的な出来事となった。
以上要するに、コミューンという特殊な歴史的事件の背景にある集団的動機や
態度を問題にする場合、事件の当事者および支持勢力のみならず中間層や反対勢力
の動向までも視野に取り込む必要がある。そして、彼らの政治意識の絡みあい、動
揺、転移を変化する局面のそれぞれにおいて具体的な考察する必要があるだろう。
(2)コミュナールの社会的構成
コミューン革命の性格規定はコミュナールのイデオロギー的傾向や政治的態
度にもとづいてなされる場合のほかに、他の方法に拠ることがある。その社会的構
成からみる方法がそれである。コミュナール全体について詳らかにされているとは
言いがたい。しかし、主だった指導者、インターナショナル加盟者、婦人ついては
かなりのことが明らかになっている。たとえば、コミューン議員の中で25名(28%)
の労働者の出身であったと言われる[注]。
[注]Bourgin (Georges),
La Commune, Paris, 1960, 《Que sais-je ?》, p.36.
この労働者比率を示す数値は歴代の他のいかなる議会のものに較べてみても
高いといえるが、コミュナールまたはパリ市民全体のそれ[注]と比較すると、高
いどころかむしろ低い。ここに、政府とその支持母体との軋轢の基礎をなすとされ
てきた。
ティエール邸の破壊を命じる法律が議会で可決されたとき、シャルル・ベレー
Chales Beslayが見せた動揺や、人質法に反対して議員を辞職したユリス・パラン
Ulysse Parentと アルテュール・ランArthur Ranc らの例、さらにパン屋の夜間営
業禁止令(4月20日発令)に対する雇用主の抗議を前にしてのコミューン議会の躊
躇などは、こうした社会的構成の違いから説明されてきた。
[注]企業規模を度外視した場合のパリの労働者比率は約半分である。Cf. Chevalier (Louis),
Formation de la population parisienne au XIEe siècle, Paris, 1960, p.126.
こうした説明は妥当性をもつ。だが、拡大解釈は避けねばならない。階級と政
治的態度の間には厳密な対応関係は存在せず、いつの世でも非常に緩やかな関係が
あるのみである。両者の関係を論じるときには階級意識を介在させねばならない。
階級 ― 階級意識 ― 政治的態度の関係を細かく吟味することなく論を進めると、
「コミューンの支持者は多数が労働者であった。労働者は労働者としての階級意識
をもち、本来的に社会主義を志向する。したがって、コミューンは社会主義であっ
た」と、このような三段論法に嵌まりやすい。これが完全な誤りだと主張するつも
りはないが、時代に即してニュアンスを設けることは是非とも必要であろう。
1871年当時のコミュナールおよびパリ市民の社会的構成や政治意識について
13
は、ジャック・ルージュリはヴェルサイユ軍によって逮捕されたコミュナール
36,309人に関する裁判記録を分析して次のような結論を得る。
「…コミュナールは平均的パリ市民…[中略]… であるように思われる。その平均年齢、
職業、推定による平均的社会的出自からみる、叛乱はおおよそ普通の住民の反映、若しく
はそれに酷似したイメージである[注]。」
[注]Rougerie (Jacques), Compositon d’une population insurgée: laCommune, Le Mouvement
social, No 48. 1964, p.47.
彼らの中に金属工業に従事する労働者が多く含まれていたが、新たに発展した
この金属工業でさえ規模は小さく、旧タイプの工業に似ている、とルージュリは言
う。
「語の近代的意味での大規模工場はパリではまだほとんど存在しなかった。…[中略]…
パリはその社会的・産業的構造においてもさして大きな変化を見せていなかったし、その
都市的・人間的構造においても同様にほとんど変化していなかった。…[中略]… 共和
暦2年から1871年までパリはパリのままであった[注]。」
[注]Rougerie (Jacques), “Mil huit cent soixante et onze.” La Commune de Paris, pp.62-63.
階級において根本的変化が生じていないとすれば、階級意識においてもそうで
あった。プロレテールprolétaireという語は下層民を指す言葉である[注*]。しか
し、コミュナールが好んでこの語を使うとき、彼らはマルクスおよびマルクス主義
者とは異なった趣においてこれを用いる。‘prolétaire’は財産をもたず手の技術によ
って生計を立てる者であって、職人、工場労働者、貧農がこれに含まれる。この観
念は大革命当時のバブーフのそれとほとんど変わるところがない[注**]。大革命
当時のサン=キュロット(半ズボンなし)と同じように、ジャンパーと庇つき帽子
という外観からすぐにそれと判別されたパリの労働者はサン=キュロット的な慎ま
しやかな生活を営んでいた。彼らは少しばかりの家財道具以外は財産を持たず、多
くが間借人であって、日々獲得する俸給でカツカツの生計を立てる。ブランキが「プ
ロレタリアート…[中略]… その労働によって生計を立て、政治的権利を奪われ
ている約3千万のフランス人の階級[注***]」と言うとき、彼の階級観はマルクス
のそれよりも、もっと正確に同時代人の見方を反映している。
[注*]J. Dubois の語源的研究によると、この当時における‘Prolétaire’という語は「赤貧
者 indigent」、「極貧者 misérable」、「貧乏人 pauvre」などと同義であるという。Cf.
Dubois, Jean, Le vocabulaire politique et social en France de 1869 à 1872, Paris, 1962,
pp.122-123.
[注**]Rose, R. B., The Paris Commune: the last episode of the French Revolution or the first
dictatorship of the proletariat? Paradigm for Revolution? Ed. by Eugene Kamenka,
Canberra, 1972, pp.21-22.
[注***]1832年1月12日の演説「重罪裁判所法邸での市民ルイ=オーギュスト・ブランキの弁
論」。Blanqui (L.-A.), Textes choisis, Paris, [1971], pp. 71-85. 特にpp. 37-74. また、1852
年6月6日の(Maillard への手紙)。Ibid., p.132.
14
オスマンによる大都市改造事業の影響で、労働者・職人はパリの北東周辺部に
追いやられ、独自の生活圏を築きつつあったのは事実だ。だが、過大評価はやめよ
う。彼らの全部が周辺部に弾き飛ばされたのではなく、パリ第3区や第4区をはじ
めとして第9区、第10区、第11区では有産階級と貧民、雇用者と使用人が同じ家屋
内に住むという旧来の、いわゆる垂直的共棲形態が残っていた。このことが階級意
識を薄め歪めるのに役立った。
革命参加者の社会的構成(階級)、階級意識、政治的態度などは革命の分析に
とって有力な手がかりとなるのはもちろんだ。しかし、これまで述べてきたように、
19世紀の微妙なニュアンスをもつ社会を現代的カテゴリーでもって性急に論断し
たり、当時流布している用語を時代から切り離して現代的解釈を試みたりすること
は避けねばならない。さもないと、前述の「原因・イデオロギーによる説明」とま
ったく同じように、図式的理解ないしはトートロジーの陥穽に嵌まってしまう。★
Ⅳ
史料選択の問題
(1)史料の残存状況
解釈が事実の選択と結びつくことについてはすでに述べた。さらに付け加えね
ばならないことは、この両者はいずれも史料の選択と結びついているということで
ある。コミューン研究に関していえば、その「社会主義」や「新国家」に焦点が当
てられてきた関係上、それらを裏づけるような宣言および決議が重視され、また、
それらを推進した重要人物の発言や述懐が脚光を浴びた。ところが、コミューン自
体の遺した記録には制限があるため、結局、限られた記録についての解釈が論争対
象となり、きまって膠着状態に陥る ― ここまではすでに述べた。
このような跼蹐の背景にはプロスベクティヴな観点からの、特定理論の予兆や
典型を重く見ようとする態度がある。たとえば、現代革命の革命理論の完成をめざ
すマルクス=レーニン主義の立場からいえば、事件の結果から事件そのものに戻っ
て考察を進める回顧的アプローチが中心となる。
マルクス=レーニン主義はそれ自体パリ・コミューンの詳細な検討から生まれ
たひとつの歴史的事実である。そうだとすると、この立場の研究者が革命理論とし
て獲得されたものを尺度として事件の再検討に戻るとき、理論の血となり肉となる
要素に対して特に強い関心を寄せるのは当然となる。反対に、“未来(ロシア革命)”
への含みをもたぬと見なされる要素や特殊的・撹乱的要素は抽象作業の必然の理と
して捨象されてしまう。ここには、理論研究と歴史研究の方法上の根本的差異が横
たわっている。
われわれの課題は歴史的事実としてのコミューン、いろいろな要素をもつコミ
ューンである。この場合のコミューンは20世紀革命(1917年のロシア革命)との対
比においてよりも、19世紀に引き戻してフランスの諸革命との対比において考察さ
れねばならない。目標や組織において一貫性や堅固さをもつロシア革命と比較すれ
15
ば、コミューンの未熟さは覆いがたい。ロシア革命につながるレーニンの革命理論
はコミューンの経験の反省を基礎にもつからである。
後知恵的な教訓論はそれこそコミューン革命の挫折の原因を明らかにし、革命
理論の高度化に役立つであろうが、実際のコミューンの指導者にとっては何の意味
もないことである。彼らはそれを知らなかったし、あるいは先験的に知っていたに
しても現状を変える力をもたなかった、という事実が残るのみである。
歴史家にとってその教訓論がなにがしかの意義を有するとすれば、それが事実
分析の観点を提供することに尽きるだろう。歴史家は事実としてのコミューンには
そうした教訓の生まれない、あるいは活用されない条件が一杯あったことを見出す
だけである。さらに付け加えるならば、歴史家はこのように未来からコミューンを
見つめなおすと同時に、コミューンを起点として過去に遡及することもしなければ
ならない。否、19世紀のフランスのコミューンを検討する場合には、後者のほうが
遥かに実りある成果にいたるだろう。
コミューンは“未来”へ連なる要素を胚胎していることはもちろんだが、同時に
過去の思い出もたくさんかかえている。われわれは“未来”への芽も、過去追慕的な
要素も、その場かぎりで姿を消す挿話の類も、事実の因果の連鎖の中では同じよう
な重要な意味あいを与えねばならない。それらが事実としてのコミューンの行動の
曖昧さ、混沌、多元性の基礎を、言い換えれば真の像を与えてくれる。
史料選択を問題とする前に、まず与件としての史料の残存状況を簡単にみてお
こう。周知のように、コミューンは「血の一週間」の戦闘中に発生した大火災によ
って多数の重要史料を失った。とくにコミューン本部となっていたパリ市役所とそ
の他諸官庁の炎上により、コミューンの行動に関する手稿史料の多くが永遠に失わ
れてしまった。これが研究上に一定の制約となっているのは否めない。けれども、
革命や戦争の大破局に起因するこうした史料消滅を強調しすぎるのもまた問題で
ある。この種の災禍はパリ・コミューンに限られたことではない。それは、証拠の
消滅といっても事実の問題として研究を進めることが不可能になるほどに何もか
もが失われたわけではない。
コミューン議会の議事録・法令・決議、ヴェルサイユ政府による各種の弾劾文
書、コミュナールに対する起訴状、国民議会が数年を費やして作成した議会査問録
などはすべて揃っている。当時の新聞、ビラ、ポスターなども多く残存している。
ことに印刷史料に関するかぎり、研究者は何ひとつ不自由しない。私文書について
も日記・実歴談・目撃談・回顧談の数は非常に多い。事件通史historiques や逸話
の類は山ほどもある。さらに、記録手段として写真が初めて登場したことも特筆に
価する[注]。地図や図絵などもたくさん残っているため、パリの防備体制や合戦
のもようなど、今まさに眼前で展開されているような迫真性をもって再現すること
ができる。コミューン通史を彩る図絵・写真の多さを思い浮かべてみればよいだろ
う。
[注]コミューンの写真アルバムとして有名なのが Dayot (Armand), L’Invasion: Le Siège,
16
1870: La Commune 1871, Paris, [1901] , 364p. である。事件の写真については国立図書館
版画課の「ヴァンク・コレクションCollection de Vinck」 および「フランス史コレクショ
ンCollection Histoire de France」に多数収録されている。また、パリ市歴史図書館も多数
の写真を収蔵している。
事件当時、人気のあった挿絵入り新聞 L’Illustration 紙や Le Monde illustré
紙の紙面を飾った図絵の元絵はすべて写真であったといわれる。さらに、写真で忘
れてならないのはモンタージュ写真である。3月18日の事件でヴェルサイユ政府軍
のトマThomas, ルコントLeconte 両将軍が叛徒によって偶発的に殺害されたとき、
政府はわざわざ役者を使ってこの処刑のもようを再現し、写真に撮った。政府は暴
徒の「蛮行」の証拠写真としてこれを地方で多数バラ撒き、コミューンの孤立化に
利用した。
コミューンの領袖たちは激しい弾圧にもかかわらず、生き延びた者が多い[注*]。
そのうちの幾人かは流刑地や亡命先で、あるいは帰国後に事件を追想した。アンド
リューAndrieu, アルヌーArnoud, ベレーBeslay, クリュズレCluseret, ガンボン
Gambon, ジュールドJourde, フルランセLefrancais …と枚挙に遑ない。また、指導
者とはいえないが、コミュナールの書いた史書として後世に大きな影響を与えたリ
サガレー、ルイーズ・ミシェル、マクシム・ヴィヨームの作品も忘れるわけにはい
かない[注**]。これらの史料を利用すれば、われわれはコミューン指導部の内部
事情を覗くこともできる。
[注*]メートロンによれば、4月16日補欠選挙以降のコミューン議員総数89人のうち45人がイ
ンターナショナルに属していたが、彼らが包囲網をくぐり抜けて逃亡に成功したのはこの
国際組織の援助によるところが大きいという。Cf. Maitron (Jacques). Etude critique du
Rapport Appert, Colloque universitaire pour la commémoration du centnenaire de la
Commune de 1871, Paris, 1972, p.11.
[注**]Michel (Louise), La Commune. Paris, 1898. 天羽・西川訳『パリ・コミューン』上・下
巻、人文書院、1971、1972年。Michel (Louise). Mémoires, Tome 1, Paris, 1866.; Vuillame
(Maxime), Mes cahiers rouges. 10 vols, 1908-1914. など。
したがって、もし問題があるとすれば、それは、前述したような研究動向に関
連した史料利用や史料編纂のあり方のほうである。前者すなわち公文書や事件通史
の偏重についてはすでに述べた。後者についても問題は多い。この分野での貢献に
ついてすぐ思い出されるのがブルジャンとアンリオが30年を費やして作成した『コ
ミューン議会議事録』であろう。それに匹敵するものといえば、コミューン百年祭
に相前後してあらわれたメートロンやルージュリの実証研究[注]であろう。これ
らは研究水準の引き上げに大きく貢献したが、史料調査や史料編纂に関しては全体
的にみた場合、まだとても十分とはいえない状況にある。その辺の事情についてい
えば、メートロン自身はこう述懐する。
「… 過去百年か少なくとも今日にいたるまで、歴史家または歴史家のグループは皆、1万
を超えるコミュナールに関する巨大な文書の山に取り組もうとはしなかった。たしかに、
17
多数の書類が焼失したが、それでも今なお、少なくとも『コミュナール』対審裁判または
欠席裁判での有罪者について国の内外の古文書を利用することが可能である。だが、今日
の歴史家が現にそうであるように、地味な職人にとってはどうにもなしがたい金銭的資力
や時間の問題が依然として遺されているのである。」
このように、所在の確かめられている手稿史料の整理が歴史家の個人的熱情に
委ねられ、十分な分析がなされていないというのは、事件後百年以上も経過した今
となってはかえって異常なことであるといわねばなるまい。
[注]Maitron (Jacques), Colloque universitaire, op. cit., pp.102-103.
勇ましい大宣言と控えめな民衆の声のどちらを選ぶか?―もはやあれかこれ
かの問題ではない。事件は表からと同時に裏からも、上からと同時に下からも覗く
必要がある。いずれか一方に偏しては、一面的な像しか期待できず、それに固執す
れば全体像を歪める結果に終わる。民衆運動に関する記録はどんなものであっても、
すべてについて入念な検討が加えられるべきであり、それらの集中光線に晒すこと
によって初めて事件の真実の像が浮かび上がる。アメリカの歴史家Eugene Schlkind
の言葉を借りよう。
「… パリ・コミューンが19世紀の題材の中で最も多く論じられきた対象の一つであり、
さらにそれについての決定的な歴史というものがほとんど有りそうにもないものである
とするなら、それはまた、その史料が未だ完全に研究しつくされていたいところのもので
ある[注]。」
[注] Schulkind (Eugene), The Historiography of the Commune: Some Problems. Images of the
Commune, edited by Games A. Leith, Montreal-London, 1978, p. 331.
要するに、記録の不足が問題なのではない。記録はたくさんある。記録の利用
の仕方、それに立ち向かう歴史家の態度こそが問題なのである。歴史家の多くは「民
衆運動史の下からの再構成」ということをしばしば唱える。しかし、彼らが実際に
問題にするのは結局のところ、インターナショナル指導部、20区中央委員会、国民
衛兵中央委員会など、やはり民衆運動の上層部でのやりとりにとどまり、それより
下の部分については「史料不足につき不明」、といった弁明に終始するのが常だっ
た。他愛ない民衆出版物などは目もくれない … かくて大宣言、重要決議の再検討
というお決まりの問題にたち返っていく。あたかもパリ・コミューンの歴史にはエ
リート革命家の歴史しかないかのように。彼らがとりあげるのはせいぜい図絵や歌
謡。しかし、それらには物語に彩りを添える装飾物の役割しか当てがわれない。コ
ミューン史研究の実際とはこのようなものである。史料渉猟や史料に立ち向かう態
度が問題であるばかりでなく、それらの根底をなす研究の姿勢こそが問われねばな
らない。
おわりに
18
コミューン後1世紀半を経た今日、コミューンは現代人にとって意味を喪失し
たであろうか。答えは「否」である。事実としてのコミューンはけっして魅力を失
ってはいない。コミューンの事件が今なお感動的であるのは、その悲劇的結末にの
み由来するのではない。理想への突出、終始一貫した無辜の態度、その高邁な姿は
現代社会の混沌を映し出す透明な鏡のような役割をもつ。非常に素人くさい不手際
のゆえに流産したこの革命は、確かに平等社会の実現の可能性を秘めた人類最初の
試みであった。この革命は今日、体制を超えたかたちで近代官僚制国家の欺瞞を暴
露し、そのミリタリズムと民主主義の現実を根源的に問いなおす意味あいを秘めて
いる。
思うに、魅力喪失に関っているのはそれの研究の実際のほうである。目の肥え
た読者はあいも変わらずのドキュメンタリーあるいは教訓論的シナリオに飽きを
感じはじめている。百年一日の如く同じストーリー、同じ演出ではむりもない。端
的に言って、これまでのコミューン研究は政論解釈に引っ張られ、とかく理念先行
に陥りがちであった。それは収穫もあったが、明らかな弊害も伴った。コミューン
が“未来”(1917年のロシア革命)を志向し、その志向された“未来”の帰趨が不明瞭
であって評価が困難であった以上、コミューンについて客観的な研究をおこなう基
盤が今まで欠けていたとも言える。
だが、百数十年も経ち、ロシア革命の頓挫がすでに明らかになった今、もはや
コミューンを“未来(1917年)”から切り離し、理念の渦の中から救い出すべきでは
ないだろうか。コミューン革命のあらゆる局面に渉って ― もちろん長いその前史
を射程におさめつつ ― トータルな観点からの、新史料にもとづく事実の掘り起こ
し、それらの評価と再構成といった民衆運動史の原点にたち戻ることが今、何より
も要請されている。
19
関 連 事 件 略 年 表
1870年
1月
4月
5月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
1871年
1月
2月
3月
4月
5月
6月
8月
11月
1873年
1875年
1879年
1880年
オリヴィエ内閣組閣(1/2)、ノワール事件(1/11)
第一インターナショナル=パリ支部結成
人民投票(5/8)
エムス電報事件(7/13)、普仏戦争宣戦布告(7/19)
普仏戦争開戦(8/2)、パリカオ内閣組閣(8/9)、ブランキ派蜂起(8/14)
スダンでナポレオン三世降伏、九月四日革命(首班トロシュ将軍)、パリ包囲完成
(9/19)
ガンベッタのトゥールへの出発(10/7)、メッス開城(10/27)、パリ暴動(10/31)
国防政府信任投票(11/3)パリ区長選挙(11/5)
シャンピニー出撃戦頓挫(12/2)、独軍によるパリ東郊外堡砲撃開始(12/28)
パリに砲弾到達(1/5)、20区代表団署名入り赤いポスター(1/7)、ヴェルサイユ宮
でドイツ第二帝国建国宣言(1/18)、ビュザンヴァル出撃戦大敗(1/21)、パリ暴動
(1/22)、休戦協定(1/28)
国民議会選挙(2/8)、ボルドーで国民議会開会(2/12)、国民衛兵の日当廃止(2/15)、
パリの国民衛兵はモンマルトルとベルヴィルに移動(2/26-27)
独軍のシャンゼリゼ進駐(3/1)、国民議会はヴェルサイユへ移転(3/10)、家賃・
満期手形支払猶予令停止(3/10)、共和派6新聞発禁処分(3/11)、国民衛兵中央委
員会結成(3/15)、3・18事件、コミューン選挙準備(3/19)、コミューン選挙(3/26)、
コミューン樹立宣言(3/26)、コミューン政府成立(3/29)
教会と国家の分離令(4/2)、パリ軍の出撃戦敗北(4/3)、クリュズレ将軍の陸軍省
司令官に就任(4/4)、人質法可決(4/6)、マクマオンが政府軍総司令官に就任(4/6)、
ヴァンドーム円柱倒壊令(4/13)、コミューン補欠選挙(4/16)、クリュズレ総司
令官解任(4/30)、
公安委員会設置問題でコミューン内紛糾(5月初)、コミューンによる新聞発禁処分
(5/5)、パリ南郊要塞の陥落(5/8-13)、フランクフルト条約批准(5/15)、政府
軍のパリ侵入(5/21)、「血の一週間」(5/21-28)、人質僧侶の処刑(5/24)、パ
リ市役所炎上(5/24)、ペール・ラシェーズ墓地での最後の抵抗が終焉(5/28)
政府による残党狩り
ヴェルサイユ軍事法廷開廷
コミュナールの最初の処刑(11/28:ロッセル、フェレ、ブルジョワ)
マクマオン大統領に就任
憲法改正により共和制が正式に成立
コミュナールへの最初の恩赦
コミュナールの全政治犯への大赦
(c)Michiaki Matsui 2015
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