島民を救った軍人、松澤豊 - 長野県飯田高等学校同窓会

■随想
︵高 回︶
島民を救った軍人、松澤豊
松澤卓治
●まつざわ・たくじ
回) 1946年9月9日飯田市生れ
飯田東中 飯田高校(
慶応義塾大学法学部卒
まれる前に戦死しており、生前の叔父を私は知らない。
隊として派遣された。松澤は私の父親の末弟で、私が生
本軍が劣勢になっていたパラオ諸島アンガウル島に守備
候補生六期生。宇都宮、豊橋、満州チチハル、最後に日
飯田中学を卒業し大連国際運輸会社に就職した後、幹部
松澤豊は大正九年五月二〇日生まれ。兄二人姉一人妹
一人の五人兄弟の三男として、長野県飯田市に生まれた。
ることは出来ないが、みんなは米軍に投降して生き残り
最期が近づいたとき、松澤大尉は島民に「島の人たち
は日本軍と一緒に死ぬことはない。私たち兵隊は投降す
を含む約百人の島民が日本軍に同行していた。
砲撃、火炎放射器の集中攻撃を受けた。このとき、子供
アンガウル島でも、アメリカ軍の圧倒的な力に追い詰
められた守備隊は洞窟陣地で戦車等に取り囲まれ、
爆撃、
ペリリュー島(アンガウル島の隣の島)の激戦では白
い砂浜が血に染まり、浜はオレンジビーチと呼ばれるよ
太平洋戦争末期、パラオではアメリカ軍海兵隊の精鋭と
満州より急きょ転進した関東軍の死闘が繰り広げられた。
この話を私たちが知ったのは、戦後二〇年以上経った
昭和四三年六月頃。それも突然のことだった。
叔父の真実を知る
なさい」
。島民を強く促し、白旗を手に投降させた。生
き残った人々は
「松澤は命の恩人だ。
彼は神だ」
と言った。
の無線を最後に一万余名の兵士の命が失われた。
うになった。その島では「サクラ サクラ」
(われ玉砕す)
現在飯田市在住
東京銀座和光に勤務 役員を経て2012年退任
17
この島で起きた出来事が平成二七年四月、朝日新聞に
取り上げられた。
南洋の死闘と松澤豊
17
随想
松澤豊
松澤豊と豊の父大治と母美智。家の庭にて
昭和四〇年代初め、パラオに慰霊に行かれた方が、あ
る島民が松澤大尉という軍人の遺族を探していると聞き
つけ、日本に戻るとあちこち手を尽くして私たち家族を
探し当ててくれた。それは、自身も軍曹としてアンガウ
ル島で死闘し奇跡的に生還した、東京渋谷の大盛堂書店
主、舩坂弘氏である。松澤を探していた島民はシシニア・
マツコさんといい、私たちの所在を知るとすぐに飯田に
やって来て、
涙ながらに松澤大尉のことを話してくれた。
戦死公報一枚が届けられただけの兄弟の最期を、彼女
の口から初めて生々しく知らされ、父親や叔父、叔母も
びっくりした。数百万の戦死者がその最期を語られない
中、遺族がこのような機会に巡り合えたのは幸運だった。
翌四四年三月には、私と姉がアンガウル島を訪ね、酋
長エンドウ マサオ、ハルコ夫妻からも当時の様子を聞
き、立てこもった洞窟を案内してもらった。
鮮やかな色彩の南の島に、場違いに残る赤茶けて錆び
ついた戦車や上陸用艇と、訪問当時もなお収容されない
ままの遺骨や水筒、飯盒、鉄カブト。訪問当時は大学生
で戦争を知らない私には、悲惨な戦争があったことを五
感も気持ちも受け入れることは出来なかった。数年後に
私の両親もアンガウル島を訪ねた。飯田で小さな石塔(約
一五㎏)を造り、それをリュックサックに入れ、家に湧
き出る清水を水筒に詰めて行った。
私は、父親や叔母から松澤豊について多くの逸話を聞
か さ れ て き た。「 お 前 も 豊 み た い な 強 い 子 に な ら に ゃ」
ともいわれた。でも祖父の口からは松澤豊大尉について
豊の長兄寛一(左・私の父親)とその妻和子。立てこもったアンガウル島洞窟を背にして
聞いた記憶はない。わが子の戦死を胸にしまい込んで耐
えていたのであろう。わが子を自分の感情を隠して戦場
に送り出し、戦死公報一枚ですべてが終わり。それでも
父親として、当時は戸主として懍とする姿を崩せなかっ
たのであろう祖父の気持ちを、今はわかる気がする。
叔父の思いを引き継ぐ
私は叔父の行為を、美談としてだけで引継ぐ気持ちに
はなれない。
「どうしたら戦争を繰り返さないように出
来るか反省してくれ」……そんな叔父の声が聞こえる。
仏壇の前に座り軍服姿の叔父の写真を見るとき、
毎朝、
やりたいことが沢山あったであろうに叶えられなかった
叔父の無念な気持ちが伝わってくる。
何故死ななければならなかったのか。軍の暴走を止め
るシステムは無かったのか。興奮状態になっている組織
をコントロールすることは極めて難しい。戦争という異
常な状態だった当時の日本において、冷静な判断をする
ことの難しさは分からないでもないが、戦時下だからと
いう理由で処理されるにはあまりに多くの命が失われて
いる。こんな状態に引き込んだ軍上層部、参謀たち、内
閣は責められなければならないだろう。
情報や戦況を冷静に判断し、常に終わらせ方を考えて
随想
どこで、どの様に終わらせるかをも想定しなければなら
いるのがリーダーの役割だ。物事を始めるのは簡単だが、
れるお姿と、皆さんにお声を掛けられているお姿は、お
く感銘を受けた。またお二人の大変丁寧な深い拝礼をさ
ご出発に際してのお言葉、晩さん会でのお言葉に私は深
を育ててこそ犠牲になった英霊への鎮魂になる。反省と
るリーダーや国民を育成することが急務だ。そうした力
を回避したり、抑止するために冷静に議論と行動の出来
と述懐していた。一時の興奮状態に飲み込まれず、戦争
全員を道連れに切込隊編成に夢中になっていただろう」
念ながら自分なら島民のことを考える心の余裕はなく、
叔父がそのような状況でも冷静に判断し、行動に移し
たことは立派だった。砲兵で叔父の一期後輩の方は「残
り返しているのだ。
戦争が行われてきており、常に悲惨だった。それでも繰
次の糸は松澤大尉の遺族を探しているシシニアさんと
慰霊団。そして記事を読んだ飯田高校卒の方から同窓の
バーと交流があった。
田 支 局 長 は ス ポ ー ツ 担 当 が 長 く、 長 姫 高 校 の 優 勝 メ ン
澤大尉の話をしたようだ。一方記事を書いた朝日新聞飯
クラスにも優勝メンバーがいた。父は後々の同窓会で松
した昭和二九年。当時父は長姫高校の教師で、担任した
まず朝日新聞に松澤豊大尉のことが取り上げられた経
緯。長野県立飯田長姫高校が甲子園春選抜大会で優勝を
縁があった。
私が本誌に松澤豊大尉について寄稿することになった
のには、長姫高校と甲子園とパラオ、三本の糸が紡いだ
二人のお気持ちの表れと私の心に深く響いた。
ない。行け! 行け! だけではあまりに無責任だ。
は過ちを理解し、同じことを繰り返さないために人間に
私に繋がった糸。ごく細い糸に手繰られていく縁を感じ
悲惨ということで戦争を否定しているだけでは大戦の
反省にはならないように感じる。人類の歴史で数多くの
与えられた「明日を創りだす能力」だと思う。
が多くの縁を生み、平和な世を創りだす方法を考えさせ
これも英霊の願いかもしれない。
る。
ている。こんな細い、見過ごしてしまうかも知れない糸
戦死された方は日本国の為に犠牲になったのではなく
平和を考えさせるために命をささげたのではないか。
三本の糸が結んだ縁
平成二七年四月、天皇皇后両陛下のパラオ慰霊訪問の