1~10 - So-net

Kohnan Wind Orchestra
港南吹奏楽団通信 しおかぜ
発行者
第1号
港南吹奏楽団理事長・常任指揮者
玉 谷 敏 弘
2008年10月29日(水)発行
もっともっと「音楽」を!
「港南吹奏楽団」を立ち上げて2ヶ月になろうとしている。
僕の大好きなミナト。中でもこの港南学区は文化レヴェルの低い地域だ。環境も決して良いとはいえない。お
年寄りも多く住んでいるし,生活に苦しい人も大勢住んでいる。僕が港南中で見てきたことも,他で話せば驚か
れるようなことが多い。10年前に港南中学校に赴任してから数年間の間で,校内の様子は信じられないほど落
ち着いたが,地域や家庭の状況が大きく変化したわけではない。
「音楽は金持ちの道楽」と言われることがある。しかし,音楽の価値は,人の心を豊かにするところにある。だと
すれば,この地域にこそ「音楽」が必要だ。夢も希望ももてず気力のない人。貧しくて満たされない人。何をやっ
ても継続のできない人。そんな心寂しい人たちがたくさんいるから。
「いつまでも『音楽』の響く地域であってほしい!」「港南から外に向けて音楽を発信したい!」
そんな思いで立ち上げたが,あまり大風呂敷を広げすぎても恥をかくだけである。だから,そんなことを声高
に言ってはいけない。でもこれが僕のひそかな本心。
もうひとつの本音がある。それは,港南で出会い一緒に音楽をやってきた子たちとまた一緒に音楽の喜びを
味わいたいということ。僕は港南の子たちから「本当の音楽」を教わった。そして,生きるとは何か,努力とは?
信じるとは?・・・実にいろいろな大切なことを教えられた。港南中で出会った子たちによって,僕の人生観だけ
でなく,人生そのものが大きく変わったと言ってもいい。僕にとっては「大親友」であり,血のつながった「家族」と
もいえる港南の卒業生たちと一緒に音楽がやりたい。これもまぎれもない本心。
この2つの本心によって,港南バンドの立ち上げを決意した。
そして,賛同してくれる人がいてとても嬉しい。もっともっと難しい状況を覚悟してたから。
みんな,中学のときの記憶をはっきりと思い出して下さい!
お年寄りが涙を流しながら聴いていた姿を。
小さい子が口を開けて演奏を見つめていたそのまなざしを。
コンクールの大舞台で味わった心震える一体感を。そしていつまでも自分の耳に鳴り響く音楽を。
「音楽」って本当にすごいです。
いまは25人の団員のうち11人が休団中という状況だが,「12月7日(日)心のつどい」の稲永学区での初披
露を皮切りに,2009年6月28日(日)の第1回定期演奏会大成功に向けて力を合わせていこう!
団員のみんな。もっともっと自発的に情熱をもって大好きな音楽や楽器に向かおう!
受け身のスタイルでは「いい音楽」は作り上げれない!
そして,週2回のわずか2時間の練習が「濃密な時間」になるように頑張ろう!
これから,この通信を楽団理事長として,常任指揮者として,団員みんなに発行したいと思う。
仕事に勉強。いろいろ忙しく大変だが,みんなで一緒に頑張ろう!
Kohnan Wind Orchestra
港南吹奏楽団通信 しおかぜ
発行者
第2号
港南吹奏楽団理事長・常任指揮者
玉 谷 敏 弘
2008年11月2日(日)発行
行進曲「旧友」について
カール・タイケは,19世紀後半から20世紀前半のドイツの作曲家で,軍楽隊のために多くの行進曲を残し
た。この「旧友」と名づけられた行進曲は軍楽隊のために作曲されたが,上官に「(旧友の楽譜を)ストーブの薪
(まき)にしてはどうか?」と言われたり,自分の実力を楽団長にあまり認められていなかったことから陸軍をやめ
て,地元警察官に転職し,地主の娘と結婚した。退職後は郵便局員になり,1922年に亡くなった。−そんな人
です。
港南吹奏楽団では,現在この「旧友」を中心に練習中ですよね。「吹奏楽の基本はマーチ(行進曲)であ
る。」とよく言われます。だから,何か一つマーチを大まじめにしっかり演奏したいと思って選曲しました。数ある
行進曲の名曲(スーザの行進曲「星条旗よ永遠なれ」,「ワシントン・ポスト」などやラデツキー行進曲などのヨー
ロッパの行進曲など,本当にたくさんあります。うーん,全部やってみたい!)のなかで,この行進曲「旧友」を取
り上げた理由はいくつかあります。
1つめは,2拍子系のマーチだから。(8分の6拍子系のマーチじゃないものの方が,より拍子とリズムの「基
本」だと思うので。まずは2拍子系がいいんじゃないかということで。)
2つめは,Des−Dur,Ges−Durという難しい調性にあえて挑戦して,バンドや個人の技術を少し上げたい
から。(僕の推測だけど,軍楽隊全盛期の当時は,DesやGesといったフラットのたくさん付いた調性が流行(は
やり)だったのではと思います。めちゃめちゃ楽器の上手いいわゆるエリートが集まった軍楽隊では,こうしたフ
ラットの多い曲を上手く演奏することで,高い演奏技術レヴェルをアピールできたというのもあるのかも知れませ
んね。あくまで推測ですが・・・)
3つめ。小人数バンドで演奏できるように編曲された楽譜が手元にあったから。(現在,全団員そろっても25
人ですからね!)
4つめ。アメリカのテンポの速いマーチよりも,落ち着いたテンポのヨーロッパのマーチの方が楽団立ち上げ
の時期のマーチとしてふさわしいと思ったから。(テンポ的に「大人の感じ」がして,これから港南の地域を中心
に活動しようとする一般団体らしいかな?と,聴く人の印象を想像して。)
そして,5つめ。「旧友」というタイトルがいい!だって一般楽団とは言っても,現実,いま全員「港南中学校吹
奏楽部のOB,OG」だもんな。「旧友」ってタイトル,ふさわしいじゃないですか!
さらに,「みんなにいつまでも音楽と関わってほしい」という僕の願いがいつか叶って,みんなが人生を振り返
ったときに,「あぁ,『音楽』!あいつとは長い付き合い(旧友)だなぁ!」なんて言えるときがくるといいな!
「音楽」を「私の旧友」と呼べるなんて,とても素敵だと思いませんか?(^o^)
僕の「音楽」との本格的な出会いは,小学校6年生の学芸会でした。あれから,27年の付き合いです。ちなみ
にフルートとは26年の付き合いです。中学,高校,大学と「人生の親友」とよべる人にも出会ったけど,いよいよ
その人たちとの付き合いより,長い付き合いになってきました。
みんなはこれからですね。
行進曲「旧友」をぜひ格好良く演奏できるようにしましょう!(シンプルな曲はごまかせない!辛い・・・)
Kohnan Wind Orchestra
港南吹奏楽団通信 しおかぜ
発行者
第3号
港南吹奏楽団理事長・常任指揮者
玉 谷 敏 弘
2008年11月5日(水)発行
小川太郎さん?
「G線上のアリア」の名で知られるこの曲は,作曲者のヨハン・セバスチャン・バッハ(J.S.バッハと記されることが多
い)の自身が付けた曲名ではなく,1717年に作曲された管弦楽組曲第3番のうちで,一番有名な第2楽章「アリア」
に付けられた愛称です。「アリア」とは大人数の合唱を含む楽曲の中の叙情的で旋律的な独唱曲に付けられる曲の
名前で,オペラなどでは特に独唱者にとって聞かせどころです。その「アリア」というタイトルを,歌の入っていない管
弦楽組曲のこの楽章にバッハ自身が名付けたということは,きっと「歌うような」器楽曲をイメージして作曲したからでし
ょう。メロディーライン(旋律線)が絡み合い,もつれ合いながら移ろいゆく和声に,何とも言えない「美の極致」を感じ
てしまいます。
作曲してから150年以上経った19世紀後半になって,ヴァイオリニストのヴィルヘルミという人が,原曲のD−Dur
からC−Durに移調させて,ヴァイオリンのG線(一番低い弦)のみで演奏可能な独奏曲に編曲して,「G線上のアリ
ア」と名付けました。G線はヴァイオリンの4本の弦の中で最も深く豊かな音色をもっています。ヴァイオリニストの地位
が確立してきたこの頃は,メロディーをG線だけで演奏するのが流行っていたようで,ヴィルヘルミもその流行にのっ
たというとこかな。さらに20世紀に入り,この作品がオーケストラのアンコールなどで組曲中の他の楽章から切り離さ
れて演奏されるようになってからは,原調のD−Durで演奏しているにもかかわらず,単独の小品として「G線上のア
リア」と呼ばれ,広く親しまれるようになりました。映像作品の伴奏音楽としてもたびたび利用されたり,卒業式や入学
式などの厳粛な式典のBGMなどで用いられることもしばしばです。
ところで,J.S.バッハは「音楽の父」といわれている超・超偉大な作曲家です。バッハ以降の作曲家は全員バッハ
の音楽から勉強したといっても過言じゃないでしょう。吹奏楽の世界で管楽器や打楽器をやっていると,その超偉大
な作曲家の音楽に接する(つまり,演奏する)機会になかなか恵まれません。
港南吹奏楽団で,現在「旧友」とともに取り上げているこの名曲。鈴木英史氏による編曲で,B♭−Dur(変ロ長
調)という吹奏楽で最も美しく響くであろう調性で,各楽器の特徴を生かした素敵なアレンジになっています。
聴く人がうっとりするような演奏を目指したいものですね!
では,一つこぼれ話を。バッハはドイツ人。ドイツ語で「Bach」と書いて「バッハ」と発音されます。ドイツ語では「Ba
おがわ
ch」とは「小川(つまり,小さな川)」を意味する単語なので,日本流に言えば「バッハ」は「小川さん」ってことになるか
な?何だかバッハというと神様みたいな作曲家ってイメージだけど,「小川さん」って呼ぶと急に親しみがわいてくる
ね。ヨハンはドイツでよくある男の人の名前。日本なら「太郎」とか「一郎」みたいな感じかなぁ?つまり,こーんな感じ
で・・・・
『ああ,小川太郎さん!よく知ってる人だよ。小川家は250年代々続いた町楽師の一家でね。太郎は9歳でお母さ
ん,10歳でお父さんを亡くして親戚の家に引き取られたんだよ。可哀想にねぇ。でも,よく勉強する子でなぁ,18歳の
ときに宮廷楽団(今風に言えば,国立のオーケストラってとこか。)に就職して,その後すぐに教会のオルガニストにな
ったんじゃ。確か,遠い親戚にあたる人と結婚して7人の子供がいたはずじゃな。29歳のときには楽師長に昇進し
て,とても仕事熱心な人だったそうな。32歳には宮廷楽長に出世して,恵まれた環境の中で,たくさんの世俗音楽
(今で言やぁ,普通の歌謡ポップス)を作曲してお金にも困ることなく,幸せな生活を送っていたんだけどな,35歳の
ときに奥さんが急死してしまって・・・。気の毒に。でもな,次の年に宮廷女性歌手と再婚してな。この奥さんがまた,よ
くできた人で,太郎の仕事をよーく助けてたな。しかもこの人との間になんと13人もの子供ができて!ホントに小川さ
ち
ん家は子だくさん一家だったねぇ。でも奥さんの助けもあってか,38歳でついに聖トーマス教会の音楽監督になって
なぁ,ついには地位も名誉も手に入れたんじゃ。そして思う存分に作曲活動をずっと続けて,たくさんの教会音楽を
創り出したんじゃが,64歳のころに眼を悪くしてなぁ。それがもとで65歳で亡くなったんじゃ。ホント誠実でいい人じゃ
った。』・・・・どうですか?身近に感じた?ちなみに,バッハの子孫が1960年代にドイツで生存していたことが確認さ
れているそうですよ。
今から約300年前(日本は江戸時代。「暴れん坊将軍」や「水戸黄門」が生きていた時代!)のドイツという国の「小
川さん」が作った曲・・・・。ほんとに音楽は時空を越えて存在し続けるんだなぁ。あらためて感動です。
Kohnan Wind Orchestra
港南吹奏楽団通信 しおかぜ
発行者
第4号
港南吹奏楽団理事長・常任指揮者
玉 谷 敏 弘
2008年11月9日(日)発行
「闇」から「音楽」が誕生
先日,携帯電話を紛失してしまった。即,電波を停止して,電話帳などのデータにロックをかけてもらい,警察
にも落とし物の届けを出した。思い当たるのはおそらくタクシーの中。でも,タクシー会社が思い出せない!思
い出すのは,タクシーを降りるときに「領収書いりますか」と聞かれて「いりません」と答えた自分のバカな姿。ち
ゃんともらっておけばタクシーが限定できたのに・・・!とほほ。結局,名古屋タクシー協会というところに電話を
して,市内に100社ほどあるタクシー会社すべてに問い合わせをしてもらっているけど,今のところ出てきませ
ん。
世の中に携帯電話が出回ってからずっとドコモで番号もメールアドレスも変えずに15年くらいになります。電
話帳データは何と500人分くらいあり,それが全部真っ白になってしまったことがめちゃくちゃショック。ホント情
けない!だいたい,僕はこれまでも携帯電話や鍵,大切なポーチなどいろいろなものをよくなくす。基本的に見
つかるんだけど,それがいけない!「きっと出てくる」という甘い考えを無意識にもってるんだなぁ。全然反省が
次に生かされてない!ホント困ったもんだ・・・。
数日前,この話を母親にしたときのこと。
「今度からは,少なくとも携帯電話は,長いストラップで首からさげとかないかんかなぁ」と冗談めいて言った僕
に向かって,
「そういや,あんた1,2歳くらいのときに,お気に入りのおしゃぶりがよくどっかいっちゃって,いつも泣いて大
騒ぎしてたから,お祖母ちゃんに『おしゃぶり,首からぶらさげとけっ!』って,よー怒られとったわー。」だって。
あらららら∼,そんなときから自分ってそうなのか!「三つ子の魂,百までも」(幼いころの性格は,年をとっても
変わらないということ)なんてことわざがあるけど,情けないというよりも驚きと笑いが込み上げたね。(ああ,こりゃ
いかん。また反省の様子がないぞ俺!)自分が記憶してない頃にもうそんな風だったとは・・・。
しかし,たかが携帯電話されど携帯電話。ケータイなくても十分生活できたあの頃(いつのこと?)と今は時代
が違う。あと数日待ってあきらめよう。約500人の連絡先(携帯番号やメールアドレス)がなくなったのは本当に
ショックだけど仕方ない。これで地球が滅亡するわけじゃない。というわけで,早く新しいケータイを買わねば。
そもそも,ベルっていう人が電話というモノを発明してから130年が経ち,電話は進化し続けている。人はそ
んなに慌てて連絡を取り合わなきゃ,安心して生きていけないものなのか?人間の心の伝達力が弱くなったの
か,世の中のスピードが速すぎるのかわからんが,機械に振り回されて生きていくって何だかイヤだ!と叫んで
みても,現実はそうは言っとれんからな。
そういや,「ケータイ」と言って思い出した。以前の練習で,「音楽って録音して,いつでも何度も聴けるように
なったのここ100年ちょっとぐらいじゃん。音楽や人類の歴史からみたら,つい最近のこと。だから,本来は音楽
を聴く人も演奏する人も『その一瞬』のできごとにもっと『鋭い感性』をもっていたはず。だって何度も聴けないん
だから。何気なく通り過ぎてゆくなんてありえない。今は世の中に『音』があふれすぎていて,音楽の感動を薄め
ているかもね・・・」なんて話したことがあったな。でも,「音」は人間に「安心感」を与えることができるのも事実だ。
はるか大昔,人間にとって「闇」は恐怖だった。「闇」という字は「門がまえ」に「音」と書く。これは「音を閉ざし
た状態」を表していて,つまり,ただの真っ暗だけでなく音もまったく聞こえない状態を「闇」と表現したものだと
考えられる。人間にとって「音が一切聞こえない」のは不安をかりたてる。真っ暗でしかもしーんとしていたら,仲
間が近くにいるのかさえもわからない孤独と恐怖に襲われる。きっと,声を出したり,手を叩いたり,足を踏みな
らしたりして,仲間に呼びかけたんだと思う。そして,それに反応して声や音が返ってくると,仲間の存在をしっ
かり確認することができて,とても安心したんじゃないかな。これが「音楽の起源」だって何かの本で読んだ。
心を伝えあうもの,一緒に感じ合うこと,安心するもの。こういったことがやはり「音楽の本質」なんだと思う。広
い意味では「会話」も音楽だな。もっと言えば「人間」の存在そのものが音楽だな。「メロディー」は呼吸,「リズム」
は鼓動や脈拍,「ハーモニー」は脳の空間認知能力。 ああ,音楽よ!人間よ!万歳!
などと一人盛り上がりつつも・・・・・・・ふっと現実に戻り,
「あーっ!!ケータイよ,頼むから出てこーい!!!!」(いい人に拾われますように・・・。(星に願いを))
Kohnan Wind Orchestra
港南吹奏楽団通信 しおかぜ
発行者
第5号
港南吹奏楽団理事長・常任指揮者
玉 谷 敏 弘
2008年11月12日(水)発行
「銀河ラーメン」
前回の練習は14人で合奏ができた。「14人ぽっちで?」と言われそうだが,日頃の人数を考えると倍ぐらい
の人数での合奏だった。やっぱり大勢(14人が大勢?)はいいネ!低音がいなかったのは残念だったが,実に
楽しい合奏だった。
練習後,有志8人で近くの「銀河ラーメン」へ。あらためて自己紹介などをして,年下のメンバーが年上のメン
バーを何と呼ぶか一人一人決めたり,注文した料理をみんなで分け合って食べたりして,とてもいい時間を過ご
すことができた。「ほんの少しだけど,一般バンドらしくなってきたかなぁ」と勝手に悦に入っていた。
港南中吹奏楽部では,よく料理を一緒に作ったり,食べたりした。「同じ釜の飯を食った仲」という言葉がある
ように,人間は一緒に食事することで確実に心の距離を縮めることができる。しかも,「みんなで分け合って食べ
る」なんてのは最高だ。(今休団中の人たちとも早く一緒に活動したいな!)
そもそも,人が集まらないと運営(事務的な連絡や練習の内容など)が滞る。しかも,顔を見て夢を語り合えな
いから団体の温度が下がる。逆に,いつも集まって顔を合わせて言葉を交わすと,運営がスムーズにいくうえ
に,団体としての温度をキープできる。みんなの港南中時代の吹奏楽部はまさにそれですよ。だから,出欠席
の確認は厳しくやっていた。一番気合いを入れていたのはソコですからね。(演奏にこだわりもって練習するの
は当然のこと!)現状では「無断欠席・遅刻」は少ないけど,やはり団員としての意識の甘さが感じられることも
あるので,お互い気をつけたいところ。
さて,話は変わっていま練習中の「ジャパグラ」。まず,「弾厚作(だんこうさく)作品集」について。
弾厚作は,加山雄三(かやまゆうぞう)のペンネームです。加山雄三は昭和の日本を代表する俳優,シンガ
ーソングライター,作曲家,タレント,ギタリスト,ピアニストで,昭和35年に映画デビュー,昭和36年に歌手デビ
ューしました。さらに,昭和40年代,50年代のフォークソングやニューミュージック全盛時代に先立つ,シンガ
ーソングライター(自分で書いた歌を歌う歌手)の草分け的存在です。
その加山雄三のソングライターのペンネームが「弾厚作」。加山雄三が尊敬している團伊玖磨(だんいくま)と
山田耕筰(やまだこうさく)をたして2で割ったできた名前が弾厚作(だんこうさく)だそうで。
ちなみに,團伊玖磨(だんいくま)は,日本を代表する偉大なクラシック作曲家で,な,なんと「名古屋市立港
南中学校」の校歌の作曲者!!!これはスゴイぞ!これは自慢だ!!(だから,あの校歌を歌うと何だか元気
になるんだなぁ。)また,山田耕筰(やまだこうさく)も,日本を代表する偉大なクラシック作曲家。中学校の音楽
の時間に習った人物のはず。「赤とんぼ」「七夕」等の童謡を作曲した人です。歌曲「野バラ」とか。
この弾厚作の作曲した曲のメドレーが「ジャパニーズ・グラフィティⅣ(4)」です。
『君といつまでも』は,映画『エレキの若大将』主題歌で何と何と350万枚(レコード)の大ヒット!まだ,携帯電
話もネットも,何とCDもMDもない時代にですよ!こりゃホントすげえナ!ちなみにこのとき僕もまだ生まれてい
ませんから!特に,間奏に入る台詞(せりふ)が世の中でうけて,「幸せだなあ」は当時の流行語にもなったそう
です。歌詞もかなり素敵です。(ちょっとクサいかな?でも「好き同士」ってこんなもんでしょう?)
♪二人を夕闇が 包むこの窓辺に 明日も素晴らしい 幸せが来るだろう
君の瞳は星と輝き 恋するこの胸は 炎と燃えている
大空染めて行く 夕陽色あせても 二人の心は 変わらないいつまでも
<台詞>幸せだなあ 僕は君といる時が一番幸せなんだ 僕は死ぬまで君を離さないぞ いいだろう?
♪君はそよ風に髪をとかせて 優しくこの僕の しとねにしておくれ
今宵も日が暮れて 時は去りゆくとも 二人の思いは 変わらないいつまでも
『お嫁においで』も同名の映画主題歌。『サライ』は24時間テレビ 「愛は地球を救う」のテーマソングで,作詞
は谷村新司(知ってますか?「昴(すばる)」の人ですよ。)です。
え?何?この曲を聴くと「エド・はるみ」を思い出すって?!え?「欽ちゃん」?「アンガールズ」?「丸山弁護
士」?「杉田かおる」?いやあ,みなさん若い!でもやっぱ,24時間テレビのマラソンランナーといったら,絶対
はざま
に「カンペーちゃん( 間 寛平)」だろう!何せ「3回」も走ってるんだから。何?それは昔の話?そんなにオヤジ
扱いしないで下さい∼。12月7日の本番では,地域の人たちはきっと共感してくれるカナ?
Kohnan Wind Orchestra
港南吹奏楽団通信 しおかぜ
発行者
第6号
港南吹奏楽団理事長・常任指揮者
玉 谷 敏 弘
2008年11月16日(日)発行
伝説の人
「山口百恵(やまぐちももえ)」は,中学校2年生のときにオーディション番組『スター誕生!』を受けて準優勝。
中3の4月に歌手としてデビューして,すでに同じオーディションで合格を果たしていた「森昌子(もりまさこ)」,
「桜田淳子(さくらだじゅんこ)」とともに『花の中3トリオ』と呼ばれた。しかし,デビュー曲がスタッフの期待ほど売
れなかったため2曲目はイメチェンを図り,「青い果実」という大胆な歌詞を歌わせた。これから「青い性」路線が
始まった。(「青い性」という言葉についてはご自分でお調べ下さい。)
15歳の高校1年のときに歌った5曲目シングル「ひと夏の経験」が大ヒット。年端のいかない少女が性行為を
連想させるような際どい内容を歌うという,この「青い性」路線で百恵は世の中の絶大な人気を獲得することにな
った。歌詞の内容は際どかったが,辺見マリや夏木マリ,山本リンダなどの「大人のセクシー」路線の歌手と違
い,百恵は年齢が低くビジュアル面では純朴な少女というイメージだったため,歌とビジュアルのギャップやそこ
に存在する背徳感(いけないことしてる感じ)が,当時の他の歌手たちにない「独特な人気」を生んだ。これは百
恵の才能や素質だけではなく,所属事務所やレコード会社による周到なイメージ戦略の勝利だろう。歌詞を少
し紹介すると,
<青い果実>
♪あなたが望むなら 私 何をされてもいいわ いけない娘だと 噂されてもいい ・・・
<ひと夏の経験>
♪あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ 小さな胸の奥にしまった大切なものをあげるわ
愛する人にささげるため守ってきたのよ 汚れてもいい 泣いてもいい 愛は尊いわ ・・・
今時はこの程度,どうってことないのかも知れないが,1974年当時は衝撃的。「中学生にこんなこと歌わせて
いいのか!」と批判もあったようだ。あの人気少女漫画「ちびまる子ちゃん」のエピソードのひとつに,まる子が百
恵の「ひと夏の経験」を歌ってお母さんに怒られるシーンがある。怒られたまる子は,次に「青い果実」を歌おうと
するが,同じくお母さんに「その歌もやめなさい!」と注意される。当時の良識からすればそうだろう。でも,売れ
れば勝ち。(歌わされていた百恵自身はどう思っていたかはわからないが。)戦略だけでなく,実際に歌も上手
いうえに映画やドラマの主演も務めた百恵は演技も非常に上手く,その人気は絶大なものになった。
その後,「横須賀ストーリー」でツッパリ・ロックバンド系作品を格好良く歌いきる新しい路線を開拓した。今で
いうところの「エロかっこいい」路線だ。17歳∼19歳頃の百恵はこの路線で売れた。「イミテイション・ゴールド」
や「プレイバックPart2」はそういうヒット曲。そういう路線で売れている中で,たまにふっと全く違う歌を歌ったりし
た。それが「秋桜(こすもす)」であり,「いい日旅立ち」である。
「秋桜」はさだまさしが作詞・作曲した歌。百恵には本当は日本女性的な面があるのではないかと思い作られ
た歌だが,歌っている百恵はまだ10代。さだに電話で「(歌詞の内容が)ピンとこないでしょう?」と聞かれて,素
直に「はい」と答えた。さだは「いつか,それがわかる日が来るといいね」と言ったが,百恵が結婚して引退するラ
スト・コンサートの日,百恵は「さださんがおっしゃったようにこの歌の意味がようやくわかるときがやってきまし
た。ありがとうございました」というメッセージを送ったそうだ。この曲の歌詞を紹介。
<秋桜>
ひ
♪淡紅の秋桜が 秋の日の 何気ない陽だまりに揺れている この頃涙もろくなった母が 庭先でひとつ咳をする
縁側でアルバムを開いては 私の幼い日の思い出を 何度も同じ話繰り返す ひとりごとみたいに小さな声で
こんな小春日和(こはるびより)の穏やかな日は あなたの優しさが浸みてくる
あした嫁ぐ私に 苦労はしても笑い話に時が変えるよ 心配いらないと笑った
あれこれと思い出をたどったら いつの日も一人ではなかったと 今さらながらわがままな私に 唇噛んでいます
明日への荷造りに手を借りて しばらくは楽し気にいたけれど 突然涙こぼし「元気で」と 何度も何度も繰り返す母
「ありがとう」の言葉をかみしめながら 生きてみます私なりに
こんな小春日和の穏やかな日は もう少しあなたの子供でいさせて下さい
未婚女性だらけの当楽団(なんと,平均年齢18.2歳!)。みんな,歌詞の意味がわかる日がそのうちにやっ
てくるだろう。百恵は21歳という若さで芸能界をあっという間に完全引退。引退してすぐに俳優・三浦友和と結
婚した。そして,完全引退当日。歌った歌は「いい日旅立ち」である。そして,「百恵」は伝説になる。
かっこよすぎ。
Kohnan Wind Orchestra
港南吹奏楽団通信 しおかぜ
発行者
第7号
港南吹奏楽団理事長・常任指揮者
玉 谷 敏 弘
2008年11月19日(水)発行
A Memorial Day(記念日)
さて,「心のつどい∼稲永フェスティバル」で演奏する曲についてお話しするシリーズもとうとう最後。「日本レ
コード大賞」について。
現代での価値は以前ほどではないけど,そもそも『日本レコード大賞』は日本国内における商業音楽作品の
真の日本一に与えられるもので,今年で第50回目です。「NHK紅白歌合戦」,「新春かくし芸大会」と並ぶ年
末年始恒例の「国民的番組」としての地位を築いてきました。
しかし,90年代になって「紅白」が大幅に開始時刻を早めたことで,「レコ大」とバッティングする歌手たちの
会場の移動が大変になったことや(紅白もレコ大も生番組!),賞取りレースに左右されない音楽活動をしたい
などを理由に受賞そのものを辞退する一部有力J−POPアーティスト(ミスチルは1994年レコード大賞の授賞
式を欠席!)が増えたことにより,「レコ大」の権威は大きく低下。さらに,レコード大賞受賞歌手がエイベックス
ばかりに偏るようになったことや,裏番組の格闘技イベントに視聴率を奪われることが影響して,とうとう番組視
聴率はどん底に。いまは放送日を大晦日から12月30日に変更して視聴率を少しでも上げようと頑張っている
状況です。
そんな『日本レコード大賞』も,かつて,特に70年代から80年代の20年間は最盛期で,テレビ中継の最高視
聴率は1977年の50.8%という驚異的記録を出したりしています。日本中が「大晦日の夜のテレビは,『レコ
大』見てから『紅白』見る」状況だったといっても言い過ぎではないほどです。その黄金期の70年代に大賞を受
賞した曲の中から4曲がジャパグラに取り上げられています。
74年の「襟裳岬(えりもみさき)」(森進一)は演歌とフォークが融合した曲で,厳しい冬の襟裳岬に生きる人
々の温もりを歌っています。 75年の「シクラメンのかほり」(布施明(ふせあきら))はその歌唱力をもって爆発的
なヒットとなった曲で,様々な音楽番組の大型タイトルを総なめしました。 79年「魅せられて」(ジュディ・オング)
200万枚の大ヒット曲。彼女自身のエキゾチックな雰囲気と扇状に広がる袖がついた優雅な衣装が大きな話題
になりました。そして, 78年の「UFO」(ピンク・レディー)はオリコン週間シングルチャート10週連続第1位を獲
得したヒット曲。(「10週連続」の第1位はすごい!)ピンク・レディーはわずか4年半しか芸能界に存在しなかっ
たけど,ピンク・レディーを知らない人はまずいません。手足を露出したキラキラ光る生地のミニの衣装,大胆に
太ももを開いたりするセクシーなダンスを行うことから最初は深夜番組の出演が多かったけど,ピンク・レディー
の明るく健康的なキャラが人気を呼び,老若男女に幅広く人気を獲得しました。また,レコードが大ヒットするだ
けでなく,様々な商品に彼女らの姿がプリントされたキャラクターグッズが販売され,ピンク・レディーという存在
は想像を絶する巨額の経済効果を生み出し,まさに「時代を象徴する」スーパーアイドルでした。ちなみにシン
グル第1位獲得週数63週の記録は2008年現在もまだ破られていないし,当時の子どもたち(特に女の子)の
間では,ピンク・レディーの振り付けは「完璧に踊れるのが当たり前」と言われていました。
そんな日本歌謡史に残る曲ばかり。その当時を思い出させるような魅力ある演奏を目指したいですね。
いよいよ楽団の初本番が近づいてきました。「地域のバンド」としてその存在を見て(聴いて)もらう大事な場
です。気負うことはありません。見栄を張らず,謙虚に。でも,着実なバンドとしての一歩を記せるようにしたいも
のです。
この楽団の5年後,あるいは10年後,一体どうなっているでしょう。どういうメンバーが集い,どういう音楽を奏
で,どういう活動をしているのでしょう。地域はどう変わっているでしょう。港南中はどうなっているでしょう。
いつか未来には,楽団初の本番である「平成20年12月7日」を懐かしく振り返る日が必ず来ます。そう考える
と,やはりこの日は相当「記念すべき日」。
打ち上げ花火のような一瞬芸ではなく,長く続く活動にしていくためには2つのことが大切です。
一つは,「運営のシステム化」。これは,いままだちゃんとできていないのが現状。係活動や会議をちゃんとや
らないと本当はいけない。
二つ目は,「人と人とのつながり」。団員や団友(毎回トラに出てくれるような人)をもっと増やしていかなくては
いけない。
この2つがしっかりできていれば,絶対確実に団体活動は継続します。生まれたばかりの草創期の楽団にと
って,みんなで力を合わせなきゃいけない2つの課題。
団員のみなさん。よろしく頼みます。
Kohnan Wind Orchestra
港南吹奏楽団通信 しおかぜ
発行者
第8号
港南吹奏楽団理事長・常任指揮者
玉 谷 敏 弘
2008年11月24日(月)発行
力の素(もと)
12月7日(日)「心のつどい∼in稲永フェスティバル」の出演者だが,現時点(というか,ほぼ確定かな?)で
は次の通り。
Fl4(Pic含む),Ob2,Fg1,Cl5(BCl含む),ASax1,TSax1,Hr2,Tb4,Euph2,Tu2,Per4の計26
名。このうち,エキストラさんが11人(ありがとうございます)。ウィンド・オーケストラと呼ぶには少ないですが,三
重奏や四重奏,五重奏といった8人以下のアンサンブルを数多く経験している僕にとって,この人数は「音楽を
創造する」にあたって十分な人数だと感じている。(もちろん,使用する楽譜の編成を満たしていないことからす
れば,編曲者は不十分だと言うかもしれないが。)編成のバランス(音量的・音色的な問題が生じやすい)に若
干の問題があるが,ズバリ言えば,アマチュアの場合はそんなことよりも技術的なバランスの問題の方がはるか
に演奏の善し悪しを直撃する。個々の奏者がそれぞれに「いい演奏」を心がけることの方がはるかに重要なの
である。(ここでいう「いい演奏」とは,精神性だけでなく技術的に高い演奏という意味)
「音楽」は楽しむものだが技術が高い方がより楽しめることは間違いない。それは聴き手も同じである。
そして,「技術」は奏者の努力つまり練習によってしか身に付けることができない。僕自身もアマチュアの一人
としていつも思っている。もっと「上手くなりたい」と。
「フルートがもっともっと上手くなりたい。」
「ピッコロをもっと上手く吹きこなしたい。」
「もっと指揮が上手くなりたい。」
「もっと上手く指導できるようになりたい。」
「もっと音楽理論の勉強をしたい。」
「もっといろいろな曲を知りたい。」
「もっともっと聴く人たちを喜ばせたい。」
「もっともっと感動できる音楽に出会いたい。」 ・・・・・
果てしなく続く「夢」を実現するためには,時間とお金と費やして努力をしていかないといけない。それは決し
て苦行ではない。なぜなら「好き」だから。
しかし,なかかな思うようにいかないのも現実だけど。(苦笑)
さて,一方で,アマチュア・ミュージシャンならではの「楽しみ」がある。
それは,本番後や練習後の反省会という名の食事会(「ノミカイ」と発音する?未成年はNG)だ。仲間同士で
音楽について,または音楽と関係のないことを喋りながらの会食は最高に楽しいひとときである。
これは絶対に多くのアマチュアが認めるところ。
これからの季節,温かい「鍋」をみんなで囲んで食べるなんてのは最高だ。
「鍋料理」は料理の中でも「特別な力」がある料理だと思う。
ピアノの詩人と呼ばれたショパンは,色の白い貴公子のような青年で生まれつき病弱で食が細く,小鳥のよう
に食べていた。その食に興味のないショパンが大好きだったのが,白身魚の切り身と野菜を入れて白ワインとバ
ターで煮込んだ「ポトフ」(つまりお鍋)!これが大のお気に入りで,これは現代では「ショパン風ポトフ」と呼ばれ
ている。「鍋」の力だ。
また,超貧乏作曲家シューベルトは本当にお金に縁がなかった。自分から「私は音楽をつくるために生まれ
てきた」と走り書きが楽譜の裏に残されているが,シューベルトは汚い下宿屋で作曲を続け独身を通した。日々
の食べ物にも困るほどの貧しいシューベルトが,たまに楽譜が売れると必ずあるご馳走を作った。それは「もつ
鍋」だ。肉屋で内臓(もつ)(とにかく安い!当時ただ同然だったという)を買ってきて,自分できちんと下ごしらえ
(内臓料理は血抜きや脂・アンモニア臭などを取り除く作業に大変手間がかかる)をして,現代では女性に人気
の「もつ鍋」を作って食べた。シューベルトはもっと贅沢な鍋を食べたかったかも知れないが,この「もつ鍋」がシ
ューベルトの活力源だったことは間違いない。
ついでに,近現代作曲家の巨匠マーラーは「麻辣(マーラー)鍋」が好きだったらしい・・・・。
この笑い(単なるダジャレ。蛇足!)についてこれた人はいませんかね。両方知らないと笑えないからな!
Kohnan Wind Orchestra
港南吹奏楽団通信 しおかぜ
発行者
第9号
港南吹奏楽団理事長・常任指揮者
玉 谷 敏 弘
2008年11月26日(水)発行
人は皆,人で変わっていく
11月23日(日)に愛知県吹奏楽指導者セミナーで,僕が講師を務める講座があった。「フレッシュ・ディレクタ
ーズ・セミナー」と銘打って行うこのセミナーは,愛知県吹奏楽連盟が主催して毎年開催されている。
3時間ものこの講座,参加者の先生方に少しでも役に立つことができればと思い,数ヶ月前から資料作成等
の準備を行ってきた。練習方法はもちろん苦しみ,喜びといった生徒と一緒に経験した日々を伝えようと思って
いた。僕の人生そのものを変えてしまった「港南中での10年間」の経験をすべて話すことはできなかったけど,
少しは伝えることができたのではないかと思う。
講座が終わったあと,ある若い女性の先生が僕にこう言った。
「先生,ありがとうございました。私は教師になって2年目の音楽です。吹奏楽の指導も全然わかりませんが,
それより,学校が本当に大変で・・・・。実は,教員を辞めようかと思っていました。でも,先生の,港南中のお話
を聞いて,頑張ってみようという気持ちが湧いてきました。本当にありがとうございました。」
と,目に涙を浮かべて,深々と何度も頭を下げた。
一人でもそういってくれる人がいて本当に話をして良かったと思った。
あの若い女性の先生がもし教員を辞めたら,その学校の吹奏楽部の子たちは活動ができなくなる。そして,
きっとこれから未来,先生と生徒で一緒に苦労をして創り上げる音楽の素晴らしさを味わうこともないし,あの先
生自身も教師としての喜びを味わうことも一生ない。そう考えると,大げさかも知れないが,何十人の生徒とあの
先生の人生を救うことができたのかも知れない。本当に良かった。
吹奏楽指導者の中には,コンクール至上主義の人が少なくない。子供が自分の道具のようになっているので
はとすら思う人もいる。僕がは港南中でやりたかったことはそうではなかった。全国大会に行きたいと思っていた
のは,「港南の子どもたちの姿や音楽を日本中の人に知ってもらいたかったから」だ。
夢や希望を与えたかった。
頑張ること美しさを教えたかった。
仲間の大切さを教えたかった。
音楽の素晴らしさを伝えたかった。
たったの3時間では話し尽くせない。この「潮風」の紙面でも書き尽くせない。そんな胸一杯の気持ちをいつ
ももっていた。
しかし,10年間を振り返ってあらためて知った。与えたつもりで実はもらっていたのだと。自分が子どもたちか
ら教えられたのだと。今回作成した43ページもの資料冊子「子どもたちと音楽を!」の最後は次のような文章で
締めくくった。非常に僭越(せんえつ)ながら,以下にその文を紹介する。
・・・・・・・これを読まれた方々には,きっといろいろなご不満,ご批判もあるかも知れません。「もっと楽器の指導法
について知りたかった」,「もっと具体的な合奏指導法を知りたかった」,「生活指導の話は吹奏楽と別の世界で発表
すればいい」等。そのような期待に応えられなかったとしたらお詫び致します。
しかし,「名古屋市立港南中学校」という学校の吹奏楽部に所属していた子どもたちとそこに10年間いた出来損な
いの顧問の血と汗と涙の努力が,今後,様々な場面で吹奏楽の指導をされる方々に少しでも「勇気」と「希望」を与え
られるのなら幸いです。特に,「うちは人数が少なくて」,「学校が大変で」,「子どもの理解力が低くて」,「音楽専門じ
ゃないので」,「お金がなくて」,「楽器がぼろくて」・・・等,言い始めればきりのないような状況の中で顧問をされて,
日々ご苦労されている先生方の励みになればと思っています。
振り返ってみれば,港南の子どもたちは全員が僕にとって「天使」か「神様」のような存在で,僕に「音楽」とは?「努
力」とは?「信じる」とは?「人間」とは?「生きる」とは?いつも大切なことをたくさん教えてくれました。
いつか子どもたちに恩返しをいなくてはいけないと考えています。
子どもは全員「魔法」が使えます。そう信じて子どもにぶつかってみてください。絶対に子どもの出す音が変わると
思います。僕はそれを実際に体験しました。
そして,これからも一緒に「音楽」の素晴らしさを一人でも多くの子に伝えたいですね。
「愛知の子たちに音楽を!」
「日本の子たちに音楽を!」
「世界中の子たちに音楽を!」
ありがとうございました。
Kohnan Wind Orchestra
港南吹奏楽団通信 しおかぜ
発行者
第10号
港南吹奏楽団理事長・常任指揮者
玉 谷 敏 弘
2008年11月30日(日)発行
O Freunde!
いよいよ明日から12月。「師走(しわす)」突入だ。師走とは旧暦の12月の呼び名だが,今の暦でも12月はよ
く「師走」と呼ばれ,ちょっと特別扱いされる。「師走」の語源については諸説があるようだが,僕のように教師を
やっていると,「師(つまり,先生)が走るほど忙しい学期末」という話をよく耳にする。しかし,本来は「師」とは「僧
侶」つまり「お坊さん」を指す。お坊さんがお経を読むためにあちらこちら走り回る時期だということらしい。ちな
みに12月には様々な呼び名があるようで,中でも僕が好きなのが「春待ち月」。新春を期待する心が表れてい
て好きだ。
ところで,12月という季節。日本のクラシック音楽業界では「第九」のオンパレードとなる。「第九」とは,ベート
ーヴェン作曲の交響曲第9番ニ短調「合唱付き」のことだが,「楽聖」と称されるベートーヴェンの最後の交響曲
である。その第4楽章では,ドイツの詩人シラーの詩にメロディーを付けて,4人の独唱および混声合唱を伴っ
て「歓喜の歌」が歌われる。演奏時間も編成もそれまでにないほどの大交響曲であり,古典派の以前のあらゆる
音楽の集大成であるともに,次のロマン派音楽の時代の道しるべとなった記念碑的大作である。
どういうわけか,日本では12月になると日本中で「第九」が演奏される。プロはもちろん,アマチュアも「第九」
の演奏に関わることが多い。アマチュア合唱愛好家たちが「第九」を歌うために集まって練習する「第九を歌う
会」という団体が日本中に無数に存在する。こんなに日本中で愛されている「第九」。せっかくだからのこの時期
にみんなも「第九」を聴いてみるといい。そういえば,この「第九」には有名な初演エピソードがある。「深いい」話
だ。でも,初演の話の前にベートーヴェンの生涯の話を。
聞いたこともあるだろうが,ベートーヴェンは1770年にドイツで生まれた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手で
あったが無類の酒好きで,祖父が亡くなると生活が苦しくなっていく。ベートーヴェンは父から厳しい音楽教育
を受けて音楽家の道を歩んでいた。16歳のとき,ベートーヴェンは憧れのモーツァルトに弟子入りを申し入れた
が,母の病状が悪化してすぐに帰郷。母の死後は,アルコール依存症となり失職した父に代わって仕事を掛け
持ちして家計を支え,父や幼い兄弟たちの世話に追われる日々を過ごした苦労人だ。
22歳のとき,ハイドンに才能を認められ弟子入りし,父の死後はピアノの即興演奏の名手として名声を博し
た。しかし,25歳ごろから持病の「難聴」が徐々に悪化し,ついに26歳で失聴者(つまり耳が聞こえない)とな
る。音楽家として聴覚を失うという死に等しい絶望感から32歳のときに自殺を考えたが,『ハイリゲンシュタットの
遺書』と呼ばれる文書を書くことによって,その強い精神力をもって苦悩と向き合い,再び「生きる意志」を得て
新しい芸術の道へと進んでいくことになる。
信じられないことだが,耳の聞こえない状態で後世に残る名曲の数々をどんどん作曲していく。音楽室に掲
げてあるベートーヴェンの肖像画をみると,不屈の精神にあふれた「鋭い眼光」や歯を食いしばっているかのよ
うな「への字の口」が,ベートーヴェンの人となりを見事に表している。
しかし,40歳になると体調は悪化し,恋愛事件,甥っ子の養育権争い等があり,その勢いを失ってしまうが,
不屈不倒の強靱な精神力でそれらを乗り越え,ついには『交響曲第9番(「第九」)』や『ミサ・ソレムニス』のような
人類の歴史に光り輝くような作品を生み出した。
56歳で肺炎を患い,その生涯を終えたが,葬儀にはなんと3万人もの人々が駆けつけた。
さて,「第九」の初演は1824年。場所はウィーン。
ベートーヴェンはこのとき,もう完全に耳が聞こえない。別の指揮者が正指揮者。ベートーヴェンは各楽章の
テンポを指示する役目で指揮台に上がった。初演の演奏が終わった直後,嵐のような大拍手や喝采が巻き起
こったが,ベートーヴェンには聞こえない。そのことにまったく気がつかない。ベートーヴェン自身は「初演は失
敗した」と思い聴衆の方を振り返ることができずにいた。それを見かねたアルト独唱の歌手のがベートーヴェン
の手を取って聴衆の方を向かせ,はじめて拍手を見ることができたのだ。
観衆が熱狂し,アンコールでは2度も第2楽章が演奏され,3度目のアンコールを行おうとして兵隊に止めら
れたという話まで残っている。
第4楽章の独唱は,こんな言葉から始まる。これはベートーヴェン自身が作詞した部分だ。
ああ友よ,こんな音じゃない!
僕らはもっと心地よい
もっと喜びに満ち溢れた歌を歌おうよ
・・・・俺もそう思う。ベートーヴェンに会って話たいな。
久しぶりに「第九」。聴きたくなりました。