No.11 - 青山学院大学山岳部

昭和55年 1月 30日
発行所
新 年 早 々 ま こ と に恐 縮 です が 、
☆会費納入のお願 い
、 青 学会 館 校
昨 年 の 九 月 五 日 ︵水 ︶
五四年度OB総会
友 会 室 に お い て、 五 四 年 度 O B 総 会
ス キ ー を 楽 し ま れ て いる 最 中 突 然 脳
か った が 、 後 期 に は 行 事 を 設 け る な
ど し て 、 会 を 盛 り 上 げ て いき た いと
の挨 拶 が あ り ま し た 。 2 つ いて 土 田
︿パ計 昔同橋 努
0年 卒 ︶
昭和 3
監 叔目 西 掘 岳 夫 ︵
9年 卒 ︶
コー チ 中 条 好 司 ︵昭 和 3
4年 卒 ︶
″ 若 杉 延 夫 ︵
昭和 4
7年 卒 ︶
幹事 長 白 井 茂 ︵
昭和 3
幹 事 北 村 護 行 ︵昭 和 7年 卒 ︶
3
3年 卒 ︶
ク 土 田 紘 介 ︵昭 和 4
6年 卒 ︶
ク 藤 沼 裕 司 ︵
昭和 4
8年 卒 ︶
″ 高 橋 努 ︵
昭和 4
2年 卒 ︶
ク 石 黒 信 幸 ︵
昭和 5
3年 卒 ︶
ク 荒 川 美 奈 ︵昭 和 5
2年 卒 ︶
昭和 2
理 事 鈴木 敏 夫 ︵
6年 卒 ︶
″ 室 町 庄 一郎 ︵昭 和 2
9年 卒 ︶
ク 草 野 順 夫 ︵
昭和 2
0年 卒 ︶
ク 中 村 賢 次 ︵昭 和 3
中 条好司
青 山 学 院 大 学 緑 ヶ丘 山 岳 会
四 ︱吾 合夫
普 通 預 金 一一一
富 士 銀 行 八 重 州 口支 店
お振 込 先
幹事 長 白 井茂
費 五 千 円 、 賛 助 金 五 千 円 です 。
会 費 納 入 の件 、 何 卒 よ ろ し く お
同 封 の振 込
願 い申 し あ げ ま す ︵
。な お 、 会
用 紙 を ご 利 用 下 さ い︶
を 開 催 いた し ま し た 。 本 来 な ら 年 度
の始 め に行 う も の です が 、 今 年 は 、
二 月 下 旬 の 現 役 の春 山 合 宿 遭 難 に よ
り 、 そ れ が 一段 落 し た 九 月 に 開 催 の
運 び と な って し ま いま し た 。
白 井 幹 事 長 よ り 、 前 期 は遭 難 のた
昨 年 一二 月 一七 日 午 後 、 か ね て よ
一〇 年 ば か り
溢 血 で倒 れ 、 そ の後 、
め 、 会 と し て の 活 動 を 何 一つで き な
り 西 荻 の ご 自 宅 に て 静 養 さ れ て いた
入 院 、 療 養 の生 活 を 余 儀 な く さ れ て
監 督 よ り 、 遭 難 発 生 か ら捜 索 活 動 、
大 正 一四
本会 会 長 、 坂 岡 奈 保 志 氏 ︵
あ わ せ て 、 O B 諸 氏 にご 迷 惑 、 ご 心
配 を お か け し た こ と に つき 、 深 く お
詫 び す る と と も に、 多 大 な ご 協 力 に
感 謝 す る 旨 の言 葉 が あ り ま し た 。
坂 岡 会 長 のご 逝 去 に よ り 、 会 の構 成
は 以 下 の よ う に変 動 さ れ ま し た 。
後 期 より、 監督会 、幹 事会 の メ ン
バ ー が 一新 さ れ 、 ま た 、昨 年 一二 月 、
︿バ 長 小 島 隼 太 郎 ︵昭 和 6 年 卒 ︶
9年 卒 ︶
″ 栗 林 一路 ︵昭 和 1
理 事 長 鈴 木 弘 ︵昭 和 9
1年 卒 ︶
理 事 小 島 隼 太 郎 ︵昭 和 6年 卒 ︶
副 会 長 栗 林 一路 ︵昭 和 9
1年 卒 ︶
の 五 年 間 、本 会 の た め に 尽 力 さ れ た 。
こ こ 一年 ほ ど は 、 自 重 さ れ て外 出
を 控 え て お ら れ た ご 様 子 だ った 。
ひ き と ら れ た と の こと で あ る 。
坂 岡 氏 のご 冥 福 と と も に 、 ご 夫 人
の 平 安 を 慎 し ん で お 祈 り し た い。
昼 食 後 、 突 然 喀 血 し、 そ のま ま 息 を
亡 く な ら れ た 当 日は 、 普 段 と全 く
変 った と こ ろ も み ら れ な か った が 、
会 長 に就 任 さ れ 、 以 来 亡 く な る ま で
ら か 回 復 の 兆 し が み ら れ 、 本 会 の行
事 にも 不 自 由 な 身 体 を 杖 に頼 り な が
1な った 。
ら参 加 さ れ る よ う 1
そ し て 、 ヒ マラ ヤ 遠 征 を 控 え て多
忙 の極 み に あ った 昭 和 四 九 年 、 本 会
収 容 に いた る ま で の報 告 が な さ れ 、
緑 ケ丘 山岳会
〒103 東京都中
央区 日本橋3213
(有 )中 条印刷所内
お られ た 。 退 院後 も ご 自 宅 で静 養 さ
れ て いた が 、 昭 和 四 七 年 頃 よ り いく
坂 岡会 長逝去 さ る
Noll
年卒 ︶が逝 去 された。
一九 日 午 後 二 時 よ り 、
告 別式 は、
坂 岡 氏 の 所 属 さ れ て いた 武 蔵 野 市 の
日本 キ リ ス ト 教 団 緑 町 教 会 に て行 わ
れ た 。本 会 よ り 、小 島 隼 太 郎 副 会 長 、
鈴 木 弘 理事 長 を は じ め 、 O B 数 名 と
現 役 代 表 二名 が 列 席 し た 。
坂 岡 氏 は 、 学 院 在 学 中 の大 正 一二
年 、 故 別 所 梅 之 助 、 故 岡 田哲 蔵 両 教
授 のご 援 助 を 仰 ぎ 、 岡 田 喜 一氏 ら と
と も にわ が A A Cを 創 立 さ れ た 。
卒 業 後 は 、 教 職 に つき な が ら 、 広
く 国 内 の山 に親 し ま れ 、 そ の紀 行 が
日 本 山 岳 会 の ﹃山 岳 ﹄や 、 旧 R C C の
﹃R C C 報 告 L 寸の 我 国 山 岳 界 の ト ッ
プ レ ベ ル の 報 告 書 に 収 録 さ れ て いる 。
今 か ら 二〇 年 ほ ど前 、 志 賀 高 原 で
――-1-― ―
発 行
覆奎ろ
:こ
二 月 二六 日 快 晴
早 朝 カ メ ラを ぶ ら さげ て外 に 飛 び
出 る と 、 キ ナ バ ル山 の夜 明 け が 美 し
か った 。 朝 食 後 、 事 務 所 裏 手 の リ ュ
ウ さ ん 宅 に各 自 不 用 品 を 預 け る 。 一
雇
った ボ ー タ ー 二 〇 名 と 荷 物 が ラ ン ド
本 年 七 〇 歳 に な って 、 初 め て機 会
が 到 来 し た 。 二 月 一〇 日 頃 総 勢 一六
名 の高 知 県 在 住 の同 好 者 の パ ー テ ィ
の 一員 に決 定 し た か ら で あ る 。 関 東
地 区 か ら 私 を 入 れ て五 名 が参 加 し た 。
二 月 二 二 日 に大 阪 空 港 を た ち 、 翌
日 は 香 港 か ら マレ ー シ ア連 邦 の ボ ル
メ ー ト ル の 発 電 所 ま で 車 で 入 った 。
ポ ー タ ー は 一〇 キ ロ か ら 二 〇 キ ロ
は か つぐ が 、 私 は 比 較 的 軽 い自 分 の
ザ ッ クを か つぐ 。 今 日 の 目 的 地 は 、
一四 一
堕 削に カ ー ソ ンズ キ ャ ンプ に
着 く 。 霧 が は れ て視 界 が ひ ら け 、 夕
焼 け の 雲 が 美 し い。 一〇 人 用 の ド ー
ム 形 の テ ン ト が 二 つ張 ら れ た 。
一棟
標 高 二 六 七 〇 メ ー ト ル の カ ー ソ ンズ
キ ャ ンプ だ か ら 急 が ず 登 る 。 湿 気 の
あ る 原 生 林 の中 に 続 く 真 す ぐ な 急 登
の 径 は 、 高 度 を か せげ る 。 下 草 は 野
生 の ベ コ ニヤ が 多 く 目 に 入 る 。
樹 や 岩 肌 に は 、 蘇 苔 林 に特 有 な コ
ケ や ラ ンが び っし り と へば り つき 、
あ る いは 垂 れ 下 が って いる 。 湿 った
暗 い大 気 の 中 で 、 こ れ ら の 植 物 と 大
き な 口を 開 け た 沢 山 の ウ ツボ カ ズ ラ
は、異様 な感 じが した。食 虫植物 と
し て有 名 な こ の ウ ツボ カ ズ ラ や 、 宣︿
赤 な シ ャ ク ナ ゲ の花 、 美 し い ラ ン の
花 は 、 目 を 楽 し ま せ る の で、 疲 労 も
忘 れ る。
ロ ー バ ー ︵日 本 製 ︶ で 先 発 。ガ イ ド
役 を つと め る リ ュウ さ ん と 我 々 が 九
時 す ぎ に後 発 と な り 、 海 抜 一八 〇 〇
ネ オ 島 に 向 か った 。 コタ キ ナ バ ル空
港 で は 、 ジ ェー ム ス ・リ ュウ 管 理 官
・
他 数 名 に 迎 え ら れ た 。夕 刻 だ った が 、
快 晴 で 真 夏 の 暑 さ に ビ ック リ 。 バ ス
で ホ テ ル に つ いて、 夏 仕 度 に 衣 が え
し て 、夕 食 は 街 の料 理 店 に案 内 さ れ 、
さ さ や か な 歓 迎 の宴 と な った 。
☆南+字 星 の下で
二 月 二五 日 快 晴
午 前 中 は 自 由 行 動 で過 し 、 午 後 マ
イ ク ロバ ス で 登 山 基 地 に 向 う 。 途 中
の町 で 、 野 菜 、 果 物 、 肉 、 石 油 な ど
積 込 ん で 、 二 時 間 余 か か って 一六 時
す ぎ に 、 キ ナ バ ル国 立 公 園 管 理 事 務
所 に到 着 し た 。
こ こ は 海 抜 一五 〇 〇 メ ー ト ル に あ
って涼 し く 、 附 近 は 舗 装 さ れ て遊 歩
道 も 完 備 さ れ 、 花 な ど 咲 き 乱 れ て美
し い景 色 だ が 、 肝 心 の キ ナ バ ル 山 は
雲 の中 で 姿 を 現 わ さ ず 。
食 堂 で 夕 食 を す ま せ て宿 舎 に 帰 る
頃 、 キ ナ バ ル山 が 見 え 出 し た 。 二段
式 ベ ッド の下 は 年 輩 組 が 陣 ど り 、 寝
袋 にも ぐ る 。
の 小 屋 に 八 名 の年 輩 組 が 寝 る こ と に
な った 。 外 の ビ ニー ル シ ー ト に車 座
に な って 、夕 食 は す き 焼 ご は ん 。夜 は
南 十 字 星 や オ リ オ ン座 が 眺 め ら れ た 。
☆熱帯植物 の宝庫
二 月 二七 日 快 晴
☆巨大な岩塊を越 えて
二月 二八 日 晴
今 日 は 登 頂 の 日 。 何 だ か落 着 か な
い。 ポ ー タ ー 一〇 名 を 返 す 。 ハウ ス
で食 事 し 六 時 半 出 発 と な る 。 パ ナ ラ
バ ン小 屋 の 上 か ら新 道 に 入 る が 、 一
濯
本 の 文 が 高 い上 に 、 繁 って い て う す
暗 く 、ロ ッ ク フ ェー ス の 基 部 ま で は 、
眺 望 が な か った 。 突 当 った 岩 壁 は 日
定 ロ ー プ が 備 え 付 け て あ り 、 ロー プ
に導 か れ て 右 へと ト ラ バ ー ス気 味 に
登 って いく が 、 靴 は 吸 付 い て す べ ら
ず 安 全 に 通 過 す る。
陽 が さ す と 白 い岩 は ま ぶ し か った 。
ロ ツ ク フ エー スを 登 り 切 り 、 上 部 の
明 る いひ ら け た 台 地 で 休 憩 。 前 方 上
に ロバ の 耳 峰 の 特 異 な 山 容 と 、 そ の
真 下 に サ ヤ サ ヤ 小 屋 が 見 え て来 た 。
こ れ か ら 先 は 全 部 花 同 岩 の 岩 肌 の上
を 歩 く こ と にな る。 左 手 には 菱 麗な
-3-
す が す が し い朝 を 迎 え 、 八 時 半 に
今 日 の目 的 地 標 高 三 二 〇 〇 メ ー ト ル
の パ ナ ラ バ ン 小 屋 に 向 け て出 発 。 昨
日 よ り 楽 を 行 程 だ か ら ゆ っく り し た
ペ ー スで進 む 。 再 び 右 手 のバ イ バ ス
ル ー ト に 入 り 、 樹 林 の中 の 登 り が 続
一〇 時 前 ヘリ ボ ー ト の 分 れ 径 に
く。
つ い て休 憩 し 、 行 動 食 を 頬 張 る 。
こん ど は 蔓 性 の ウ ツボ カ ズ ラや ツ
化、 相 変 ヽ
らず ラ ンや シ ャ ク ナ
ツジ の十
ゲ も 多 い。 や が で パ カ 洞 窟 ︵昔 の 泊
り 場 ︶ への 径 を 左 に 見 た と ころ に 、
シ ェル タ ー ︵屋 根 の あ る 休 憩 所 ︶ が
あ った の で ま た 休 む 。 暫 く し て密 林
が 丈 の低 い 濯本 帯 に な る と 、
一面 に
国立公園管理事務所
0
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晴 ͡一 一 ス四
れ ス 棟 諸 に ○ 水 明 1収 到 れ の 方 の 新 卜 ら 強 つ を 一 い
る コ に に`決 ○ の る ブ 容 着 た で`に 混 し ラ そ い た 見 段 花
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二 つい ス び 熱 雰 せ と が
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屋 をた の気
の 足 パ に を投 つ 陽 か
が と一 長 ル い 日製 段
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せ が ナ な見 げ山 ざ ら
あ
映
降 に一 とのの の
`
つな名 ガバ で 小 もべ
い早 ラ リ送 か の し
え る
`
°
つけ頂 と さ
だ くバ
る
た つ は イ │` 屋 あ ツ
キナバ ル 峰概念 図
キ ン グ エ ドワ ー ド峰
ヅ ン ク ア ブ ダル
ラ ー マ ン峰
ドン キ ー イ ヤ ー
キ
キ ナ バ ル サ ウ ス峰 が 替 え 、 そ の南 面
の大 岩 壁 が 雄 大 で あ る 。
目 指 す 主 峰 ロ ーズ ピ ー ク ︵四 一〇
一メ ー ト ル ︶ は 未 だ 見 え て来 な い。
先 頭 に追 付 こう と 懸 命 に頑 張 る のだ
が 、脚 や 呼 吸 が いう こ と を き か な い。
も う 既 に 富 士 山 よ り 高 い所 を 登 って
いる のだ 。 薄 い空 気 を 身 に感 じ な が
ら、
一歩 一歩 前 進 す る の み 。 や が て
サ ウ ス峰 が 左 後 方 に 去 り 、 代 って 左
に セ ン ト ジ ョー ンズ 峰 ︵四 〇 九 七 メ ー
ト ル ︶ の ど っし り し た 姿 と 、 中 央 に
主 峰 が 見 え て 来 た 。 そ の基 部 を め が
け て行 く のだ が 、 ゆ る い登 り も な か
な か 渉 ら な い。
地 図 を 見 る と 主 峰 は 基 部 か ら .´
○
○ フ ィ ー ト の 高 さ が あ って 、 頂 上 ま
で大 き な 岩 塊 の積 み 重 な り で あ る 。
右 下 に アグ リ ー シ ス タ ー 峰 と 、 切 れ
落 ち た ロー ズ ガ リ ーを 足 下 に 見 な が
ら 、 頂 上 の 二 本 の旗 を 目 が け た 。 直
下 五 メ ート ル のと ころ で隊 長 が ス ト
ップ か け た 。 我 々年 長 五 人 組 を ト
を
ッ
フ
に
立 た せ て 、 登 頂 一番 乗 り を さ
せよ ヽ
つと いう の だ 。
拍 手 の中 を 七 一歳 の I に続 いて 私
は 頂 上 の旗 を 握 った 。 隊 員 が 次 々 と
登 頂 し て誰 と も な く 握 手 、 握 手 。 年
〓 Pに ﹁あ り が
寄 組 は 頭 を 下 げ て、
完︶
と う ﹂ が 出 た 。 ︵
弔九
● 本 稿 は 、 一九 七 九 年 の 記 録 で 、仕
号 に掲 載 の 予 定 で し た が 、 諸 般 の 事
情 か ら 今 号 に な って し ま いま し た 。
鈴木 理事長 、学 院監事 に就任
去 る 十 月 二 十 五 日 の学 校 法 人
青 山 学 院 の評 議 員 会 に お いて、
O B会 理 事 長 鈴 木 弘 氏 が 、 学 校
法 人 青 山 学 院 の 監 事 に推 せ ん さ
れ 、 同 日 の 理 事 会 で承 認 さ れ ま
した。
学 校 の経 営 は 、 理 事 お よ び 監
事 に よ って 運 営 さ れ て お り 、 現
在 、 理 事 長 の大 本 金 次 郎 氏 を 中
心 と し て 、 理 事 一二 名 、 監 事 二
名 で 構 成 さ れ 、 毎 月 一国 会 議 が
開 かれ ております 。
-4-
ア グ リー シ ス タ ー 峰
そ の基 本 は 変 る こと が あ り ま せ ん 。
そ こ に は 心 が あ る か ら です 。
振 舞 ︱ の中 か 八´
心を 学 ぶ こと が 出 来
ま す 。 山 岳 部 に お け る伝 統 こ そ は 、
こ の作 法 を 学 ぶ こ と に ほ か な り ま せ
ん 。 茶 の 湯 の 作 法 は 時 代 が 変 って も
く な り ま す 。 生 き た 伝 統 と し て受 け
一見 形 式 的
つが れ て き た も の に は 、
に 見 え る も の で も 、 そ の作 法 ︱ 立 居
れ ま す c し か し 、 学 生 登 山 の基 本 、
山岳部 生 活 における原則 的なも の に
つ い て は 今 も 昔 ︱ 山ら 変 る こ と は な
いは ず で す 。
四 年 間 の う ち に、 無 意 識 に 受 け つ
ぎ 、 引 き つが れ て いく 形 骸 化 し た 伝
承 で は 、 危 険 な 落 し 穴 に気 が つか な
際 面 に つ いて は 、 中 條 、 若 杉 両 コー
チ の 力 強 い支 援 を 得 る こ と が 出 来 、
心 強 く 思 っ て いま す 。
近 頃 の登 攀 技 術 や 装 備 の類 は 、 私
達 の 頃 か ら み る と 大 変 進 ん で いる し
学 生 気 質 と いわ れ て いる も の も 、 ず
いぶ ん 変 って き て いる よ う に感 じ ら
西 堀 岳 夫 昭和0
3年〓
結 果 を 急 がず
着 実 な積 み重ねを
学 校 出 て か ら 十 五 年 ⋮ ⋮ と いう 歌
が あ り ま す が 、 さ ら に十 年 加 え た 二
十 五 年 も の 間 、 山 岳 部 に も 、 O B会
に も 何 一つお 役 に立 て な か った 私 に 、
突 然 監 督 の指 名 が 出 さ れ 、 た だ と ま
どうば かり でした。
あ ま り に も 現 状 を 知 ら な い自 分 が 、
現 役 に密 接 し た 監 督 と いう 重 責 を 負
う こ と に な り 、 そ の 任 を ま っと う 出
来 るも の か ど う か 不 安 で し た 。 し か
し 、 私 の よ う な 年 配 の O B に出 馬 を
要 請 さ れ た と いう こ と に は 、 そ れ な
り の理 由 が あ るも の と考 え 、 短 か い
時 間 ではあ り ましたが 、自分 な り に
ど の よ う な 方 針 で事 に望 ん で いく ベ
き かを 考 え 、 お引 き う け す る こと に
しま した。
実 際 に 現 役 と 接 し て 三 ヶ月 経 った
今 思 う こ と は 、 人 生 そ のも の の指 導
者 と い った 監 督 の 、 人 間 性 を 問 わ れ
て いる と いう き び し い自 覚 と 、 そ の
面 で のむず か し さ
指 導 に お け る実 際 ・
であ り ま す 。 幸 いに し て 、 指 導 の実
このよ う な 点 を 確 認 し な が ら 、 青
山 学 院 ら し い伝 統 を 部 活 動 に反 映 さ
せ て いき た いと 考 え て いま す 。た だ 、
過 去 の 人 間 が 過 去 の形 式 や 、 表 現 を
お し つけ る こ と は 好 ま し く な いし 、
ま た 逆 効 果 に も な り ま す の で充 分 注
意 し て いき た いと 思 いま す 。 ま た 、
指 導 と 学 生 の自 主 性 と の 間 にも む ず
か し い問 題 が あ り ま す 。 そ し て 、 そ
の 辺 の呼 吸 は 、 今 後 我 々 の 課 題 と し
て考 え て いか な け れ ば な り ま せ ん 。
監督 に就 任 し た 時 、 現 役 に 次 の よ
う な ことを 望 み ま し た 。 無 目 的 、 無
ス︲
缶笙貝任 の 四 生註吋代 と
刀、 缶鶴甲心 、
を
いわ れ て い る が 、 体 育 会 の 運 動 部 で
こ の 四 無 の う ち 一つ で も あ った ら 存
在 の意 味 が な い。 そ し て 、 山 岳 部 に
お いて は さ ら に、 無 意 識 、 無 秩 序 、
無 理 、 無 作 法 の 四 つ の無 を 加 え 、 こ
れ ら の無 を な く そ う と 呼 び か け ま し
た c 即 ち 、 正 し い作 法 を 通 し て も の
の道 理 を 知 り 、 何 ご と も 意 識 を も っ
て行 動 し 、 秩 序 あ る 部 生 活 を 送 る と
いう こ と に な り ま す 。
ら旦律栓策 の
これ ヽ
う卸基心の レ ベ ル か ヽ
レ ベ ル に分 解 し 、
一つ 一つ の 活 動 に
て ら し合 せ て 、 計 画 に 反 映 さ せ て い
か な く て は な り ま せ ん 。 これ が 、 今
後 の我 々 の重 要 な 任 務 と 考 え 、 し か
も 、 結 果 を 急 が ず 、 着 実 に積 み 重 ね
て 行 き た いと 思 いま す 。
ど う か 皆 様 方 の御 批 判 、 御 意 見 を
お よ せ いた だ く よ う お 願 い中 し 上 げ
ます 。
体 育 会 主 催 によ る
故 田中宏 一君 の追 悼式
去 る 一〇 月 一七 日 午 後 二 時 よ り 、
大 学 礼 拝 堂 に お いて 故 田 中 宏 一君 の
追 悼 式 が 体 育 会 の主 催 で 、 徳 久 山 岳
部 長 の 司 式 に よ って と り 行 な わ れ ま
遠 路 姫 路 か ら は 、 田中 君 のご 両 親
した。
にも お 越 し 頂 き 、 ま た 聖 歌 隊 、 大 学
宗 教 部 長 な ど のご 尽 力 に よ って 、 さ
O B の列 席 者 は 以 下 の通 り
ら に多 数 の O B 諸 氏 に列 席 頂 き じ め
や か に も 盛 大 な 追 悼 の式 を も つ こ と
が できま した。
、室町、草
原 田 、 畠 山 、 中 村 ︵賢 ︶
、角 田 、
野 、 西 堀 、 河 本 、 永 井 ︵夫 人 ︶
、平 野 ︵
、 戸張 、中 条 、
平 野 ︵興 ︶
和︶
若 杉 、 荒 川 、 石 黒 、 藤 田 、 野 口 ︵照 ︶
、自井 、
西 脇 、 山根 、栗林 、 小林 ︵
宏︶
︵順 不 同 ・敬 称 略 ︶
、 鈴 木 ︵弘 ︶
、村 上 、本村
土 田 ︵紘 ︶
な お 、 O B会 か ら は 、 鈴 木 理事 長
が 追 悼 の辞 を 述 べま し た 。
式 の後 、 青 学 会 館 に 集 ま り 、 ご 両
上
.
表
﹃ 餞 知 は だ れ 湘 担 椰 嘲 執 “ に 叩研
さ れ ま し た 。 新 監督 は西 獅 岳 夫 O B
が就任 し ました。
――-5-―
の中 を 、 の ん び り と 周 囲 の 景 色 を 楽
し み な が ら 歩 く 。今 は 雪 こそ な いが 、
一年 、 二 年 の と き も 、 春 の 山 は こ ん
雄 山 を 後 にす る。 さ わ や か な 日差 し
時 を 過ご す 。
一三 時 、 喧 喚 か ら 逃 が れ る よ う に
中 、 県 警 叙 沢 派 出 所 で お茶 を ご 駆 走
谷 を 眼 下 に し な が ら往 路 を 戻 る 。 途
子 で 、 我 々も 嬉 し か った 。
一三 時 、 頂 上 に 別 れ を 告 げ 、 東 大
出 話 し な ど し な が ら時 を 過 ご す 。 お
み な が ら 昼 食 を と り 、 田中 君 の想 い
頂 上 で は 、 三 六 〇 度 の展 望 を 楽 し
な 気 分 に浸 ら せ て く れ た 。
剣岳 追悼登山
田中 君 の お 父 さ ん は 、 非 常 に 足 が
達 者 で 、 創 沢 の キ ャ ンプ に 着 いた と
き も 、 疲 労 の 色 一つみ ら れ な か った 。
か ね て よ り 計 画 し て いた ご 家 族 を
交 え た 叙 岳 追 悼 登 山 を 、 八 月 二九 日
一服 叙
た 。 七 時 に キ ャ ンプ を 発 つ。
明 神 で慰 霊 祭
大 学 礼 拝 堂 で の追 悼 式 に 続 き 、 十
一月 二 日 、 上 高 地 明 神 に て 故 田 中 宏
一君 の慰 霊 祭 を 、 田中 君 の 御 尊 父 の
ご 出 席 を 得 て 現 役 た ち に よ って 、 と
り 行 な わ れ ま し た 。 O B会 か ら は 、
★山 岳 部 から
前 叙 沢 源 頭 よ り派 生 し た 枝 尾 根 上
帰 路 に つく 。 田 中 君 が 、 翌 日 に 憬 れ
一日 、 今 日 も 快 晴 。 天 幕 を 撤 収 し
昨 年 の事 故 以 来 学 ん で き た こ と を
念 頭 に 、 じ っく り 足 元 を 固 め な が ら
り 正 式 に部 活 動 を 開 始 し ま し た 。
新 監 督 会 の 指 導 を 得 て、 十 二 月 よ
に 小 さ な ケ ル ンを 積 み 、 花 を そ え 、
の 叙 岳 ア タ ッ クを 控 え て 最 後 の 夜 を
風 呂 や 寝 室 ま です す め ら れ 、 ま た ま
た 大 変 お 世 話 に な って し ま った 。
山 、 天竺 、西 、畠 山、若杉 、
にな り な が ら 雑 談 を 交 わ す 。
脇
桂
堀
、村 上 、 荒 川 、
中 条 、 大 野 、 小 林 ︵伸 ︶
夕 食 後 、 派 出 所 の招 待 で 部 屋 に 上
が り 込 み 、 地 酒 を ご 駆 走 にな り な が
西脇 、高 橋、 小倉、 石黒 、土 田、森
ら 四 方 山 話 で 夜 長 を 過 ご す 。 そ の上 、 田 の諸 氏 十 六 名 が 参 列 し ま し た 。
父 さ ん も 非 常 に 満 足 さ れ て いる ご 様
∼ 九 月 一日 に か け て 実 施 し た 。
懸 念 さ れ た 天 候 にも 恵 ま れ 、 三 〇
翌 三 一日 も 素 晴 し い快 晴 に恵 ま れ
年︶
安 本 出 →一
日 早 朝 、告田山 駅 で 田 中 君 の お 父 さ ん 、
弟 さ ん と合 流 し た 。 富 山 か ら 地 鉄 、
着 す る。
た ル ー ト を た ど る 。 広 大 な 弥 陀 ヶ原
線 香 を あ げ て黙 祷 を 捧 げ た 。 我 々 が
過 ご し た 別 山 乗 越 、ま た 、
事 故直後 、
で 少 休 止 後 、 田 中 君 の事 故 現 場 に 到
ケ ー ブ ル、 バ ス と 乗 り 継 ぎ 、 事 故 以
来 、 す っか り 馴 染 み に な って し ま っ
は 、 ナ ナ カ マド が 熟 す に は 今 少 し 早
いよ う だ が 、 す っか り 落 着 き を 取 戻
友 の姿 を 求 め て永 い間 滞 在 し て いた
いと 考 え て お り ま す 。
再 ス タ ー ト の 第 一歩 と し て 、 十 二
私 た ち な り の 山 登 り を 求 め て いき た
し て いる よ う だ 。 捜 索 の た め 通 い続
東 大 谷 の 沢 筋 も 、いよ いよ 秋 色 濃 く 、
風 雪 の中 で 田 中 君 の身 を 案 じ な が ら 、
救 援 隊 の 到 着 を 待 った こ の 場 所 も 、
日 々 の移 ろ い の 早 さ に 驚 ろ く と と も
月 下 旬 よ り 、 八 ヶ岳 に お い て冬 山 合
な 店 で 、 こ こ で 食 事 し て いる 田中 君
下 回 る ほ ど 積 雪 が な く 、 冬 山 の基 本
を 充 分 に 学 ぶ と いう わ け に は いき ま
に 、 い っそ お の わ び し さ を 感 じ さ せ
る 。 皆 、 胸 中 に迫 る も のが あ る のだ
ろ う 、 田中 君 の 眠 って いた 谷 を じ っ
と 見 下 ろ し て いた 。
の 写 真 が 北 日 本 新 聞 に掲 載 さ れ た こ
り が で き る と いう 喜 び を つく づ く 感
れ す る こと が で き た 。 何 よ り も 、 お
登 り で は あ った が 、 連 日 好 天 に 恵 ま
れ、無事 ご 家 族を事 故 現場 ま でお連
の基 礎 を 学 び な お し 、 次 年 度 のた め
瀬 ヶ原 周 辺 を 広 く 歩 き な が ら 、 雪 山
じまし た。
せん で し た が 、 よ う や く 全 員 で山 登
宿を実施 しました。予想を はるか に
一担 、 平 蔵 の コ ル ヘ降 り 、 カ ニ の
と が あ る ︶で 、祝 盃 を 上 げ 解 散 す る 。
本 来 あ る べ き で は な い、 悲 し い山
父 さ ん の 終 始 満 足 さ れ た ご 様 子 に、
井沢︶
の 糧 と し た いと 思 いま す 。 ︵
春 山 合 宿 は ス キ ー を 使 用 し て、 尾
田中 君 の バ ラ ン ス の良 さ は 親 譲 り の
も の で あ った の か ⋮ ⋮ 。 本 峰 直 下 で
我 々も 一脈 の 救 いを 覚 え た 。
︵了 ︶
偶 然 、 事 故 発 生 以 来 お 世 話 に な った
県 警 の 谷 口 、 清 水 の両 氏 に会 った 。
く 無 用 で 、 お 父 さ ん は そ の上 部 の 岩
場 も 実 に ス ム ー ズ に登 って いか れ た 。
横 這 いに か か る が 、 当 初 の 心 配 は 全
今 は そ の 名 残 り す ら 微 塵 も な い。
富 山 駅 に降 り 立 ち 、行 き つ
一三 時 、
け の ト ン カ ツ 屋 ﹁た っち ゃ ん L 有 名
け た 頃 は 、 ま だ 雪 の壁 を 縫 う よ う に
し て室 堂 へ向 った も の だ が ⋮ ⋮ 。
室 堂 で二手 に別 れ、ご 家族 と部員
三 名 は 立 山 を 越 え て 叙 沢 へ、 尾 身 以
下 九 名 は 雷 鳥 沢 経 由 で 叙 沢 へ向 う 。
抜 け る よ う な 青 空 の下 、 快 調 な ピ
ッチ で 雄 山 の頂 き に 立 つが 、 こ こ は
余 り に も 人 が 多 く 、 そ の上 、 参 拝 料
ま で と ら れ て し ま い、 す っか り 幻 滅
し て し ま った 。 春 は ″た だ ″ で参 拝
し た の に ⋮ ⋮ 。 項 上 付 近 の比 較 的 静
の春 山 合 宿 の こ と を 話 し な が ら ひ と
かな 場 所 を 選 び 、 そ こ で昼 食 を と り
な が ら 、 田 中 君 が こ こ に 登 った 昨 年
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