大東亜戦争を考える世界比較年表

大東亜戦争を考える世界比較年表
斜体標記はシナでの政治の動き
国際関係
年
月日
帝国主義諸国と日本 日本国内/中国の動き
1494
トルデシリャス条約。キリスト教皇のお墨付きで、ポルトガル、スペイン両国が西経45度の子午線で進出範囲を
決定。
1529
サラゴサ条約。ポルトガル、スペイン両国がアジアでの分界線を統計135度と決定。これにより、日本は知らぬ間
に真っ二つに分断されることになった。
1532
スペイン人ピサロの軍がインカ帝国軍を破りを皇帝を捕え(翌年処刑)、傀儡の皇帝を立てる。
1572
スペインがインカ最後の皇帝アマルーを処刑し、インカ帝国を滅亡させる。→スペインは、数千万人を殺
し、略奪の限りを尽くした。以降、女性にスペイン人の子を産ませてインカの血を絶やした。後、ポルトガル
も加わって、両国が中南米に植民地を築いた。
1588
イギリス海軍がスペインの無敵艦隊を破る。
1592
コロンブスによる新大陸発見。
秀吉が朝鮮に出兵。秀吉は、明をも視野に入れており、スペインのフェリペ2世と対決的な
動きをした唯一のアジア人であった。なお、フィリピンは当時スペインの支配下に入り、そ
の名はフェリペ2世に由来する。
1600
イギリスが、東インド会社設立。→18c半ばには、フランス勢力を駆逐してインドを完全に掌握。・・・産業革
命の原動力に。
1602
オランダがジャワにオランダ東インド会社を設立し、香料貿易を開始。以降ポルトガルの貿易拠点を奪い、
植民地とし、330年間インドネシアを支配。
1622~1661の間は台湾を支配(鄭成功によって追われる)。
1607
16c
~
19c
北アメリカでイギリス人入植者が本格的な植民活動を開始、先住民族を次々に征服した。
ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランスによる奴隷貿易。16c90万人、17c300万人、18c700万人、19c400万
人が売買された。なお、売買されるまでに、5倍の奴隷が途中で死んだとの推計もある。投入先は、カリブ
諸島40%、ブラジル38%、アメリカ南部22%。
1652
イギリス海軍がオランダ艦隊を破り、海上権を奪う(続く2回の海戦もイギリスが制する)。→以降、英仏が
植民地争奪戦を展開。
ピョートル1世のロシア、東進。清との国境を外興安嶺と定める(ネルチンスク条約)。
1689
1706
ロシア、カムチャッカ半島を占領。
アメリカでは、イギリスからの入植者が18c初頭から数百万の黒人を輸入し、綿花栽培に奴隷として使役
(1860年時点では約400万人)。
1763
1775
イギリスがフランスとの7年戦争に勝利し、パリ条約により世界の植民地をほぼ独占して覇権国家となる。
アメリカ大陸で、イギリスからの入植者が対英独立戦争(フランスが後ろ盾)を起こす。
1776
1783
1789
1792
1804
4
7 4 アメリカの13植民地が独立を宣言。以降移民が急増。ドイツ系を初めヨーロッパ人が多かった。
9
パリ講和会議においてイギリスがアメリカ13州の独立を承認。当時のアメリカは13の国家連合であり、「憲
法」とされているものは当時の国家間条約だった。
アメリカから追い出されたイギリスはアジアに向かい、フランスと利権の争奪戦。→イギリスが、大勢を制
し、敗れたフランスでは国家財政が貧窮していく。
7 4 フランス革命勃発。
ロシア使節ラクスマンが根室に来航。通商を求める。
林子平「海国兵談」。列強によるアジア植民地支配、とくにロシアによる脅威に備え、近代
的な海軍と沿岸砲台の建設を説いた。しかし、幕府はこれを発禁処分にし、子平を閉門蟄
居とした。子平は失意のうちに憤死した。→後に尊王攘夷の志士たちに受け継がれ、明治
政府の国防にも大きな影響を与えた。
ロシア使節レザーノフが長崎に来航。幕府は国書の受理を拒否した。
1806
~7
通商を拒否されたロシアによる樺太・択捉への襲撃事件。択捉事件では、南部・津軽藩兵が交戦の上退
却。幕府もその経緯を諸大名に報告。幕府を侮った風聞・流言も流布。平田篤胤が「千島の白波」でロシア 幕府が、最上徳内、近藤重蔵を派遣し、北辺を調査。伊能忠敬に蝦夷地を測量させ、直轄
問題を提起。
地とする。
1808
1811
イギリス軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎に入港し、オランダ商館員を人質にして乱暴を働く
→長崎奉行が引責自殺。英国への警戒心高まる。
ロシア軍艦が蝦夷地に侵入。略奪、乱暴、密かな測量を行う。幕府は、ゴローニン少将を捕縛。翌年、ロシ
アは、報復に高田屋嘉兵衛を捕らえ、拉致する。
1820
アメリカが正確に移民統計を取り始める。ほとんどがドイツなどヨーロッパからの移民。その後は東欧、南
欧からの移民が急増。アジア系では当初シナ人が多かった。
1823
アメリカのモンロー大統領が、年次教書でアメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉を提唱(モンロー
主義宣言)。その頃、スペインの国力衰弱の隙を突いて南アメリカでスペインからの独立を果たす国が多
かったことから、そこにイギリスが割り込もうとした。対してスペインは従来の権益を守ろうとイギリスと角逐
していた。仏露などヨーロッパ諸国もイギリスの権益拡大を望んでいなかった。そこで、英外相カニングが
アメリカ大統領を焚きつけて、この声明を出させたものである。イギリスの意図は英米対仏露墺普西の構
図をヨーロッパ諸国に知らしめるところにあった。
ちょうどその頃、ロシアがアラスカからカナダに向け南下しようとした。これに対し、英米両国は共同戦線を
張ってこれに対抗し、阻止した。
1825
1830
1840
1845
1846
1848
1850
1853
1854
1856
1858
安政
5
異国船打払令
アメリカ、ジャクソン大統領が強制移住法を制定し、全てのインディアンをミシシッピ川西岸に立ち退かせた。
しかし、この後も「西部開拓」の名で西進が続き、土地を収奪し、野牛を殺した。1890年のスー族300人虐殺
までの過程で、インディアンを500万人抹殺。生き残ったインディアンは、居留地に。
アヘン戦争(~42)。インド産のアヘンをシナに売って巨利を得ていたイギリスが、林則徐に輸入を禁止され
たため、起こしたもの。→42年8月、イギリスは南京条約によって阿片の輸出を事実上公認させるとともに、
①香港の割譲、②賠償金支払い(その額は清の年間国家歳入の3分の1という巨額なもの)、③上海、広
東、廈門、揚州、寧波の5港の開港をかちとった。
アメリカ、メキシコ領サンアントニオに砦を築き、義勇兵200名を派遣。これを囮として、メキシコに宣戦布
告。48年、テキサス、ニューメキシコ、カリフォルニアの3州を奪う。
アメリカ使節ビッドル、浦賀に来て通商を求めるが、幕府は拒否。
K.マルクスが「共産党宣言」を出版
この頃、対シナ貿易の半分はアメリカが握っていた(帆船での航路は喜望峰回りで、広東にはニューヨーク 清国で世界史上最大規模の内戦・太平天国の乱が起きる(~64年)。
からの方がロンドンからよりも近かった)。しかし、イギリスが汽船を開発し、優位に立った。
アメリカ特使ペリー、軍艦4隻で浦賀に来て、江戸幕府に開港を迫る(その前にペリーは小笠原諸島(1675 太平軍が南京を陥れる。
年に日本が発見し領土としていた)に立ち寄り、先住アメリカ人に牛、羊、野菜の種子を渡して同島が根拠
地として役立つかを調査しており、サンフランシスコ→小笠原諸島→琉球→上海に至る航路開設を海軍省
に提言していた。東洋での経済上の覇権をイギリスと争う上で必要であった)。
ロシア使節プチャーチンも、長崎に来航。
ペリー、日本との条約締結を目的として軍艦7隻で再来日。江戸湾を測量し、武威を示す。→日米和親条
約 露土間でクリミア戦争(~56)。英仏がトルコ側につ
いて防衛→敗れたロシアの矛先は太平洋(沿海州)へ。
アロー号事件(第2次アヘン戦争。~60)。これを機に英仏連合軍が57年12月、広州を占領。条約改正交渉 雲南で回族が清国に対する反乱をおこす。5千万人が殺された。
のもつれから、58年2月天津を制圧し、天津条約を結ばせる(阿片の輸入が公認化)。59年6月、天津条約
批准の際に同連合軍が清国軍に砲撃されたことから、英仏軍が大軍を派遣して天津の砲台を占領の上、
北京に迫り、60年にはこれも占領した。→60年の北京条約へ。
アメリカが幕府相手に「日米修好通商条約」を締結。ついで、イギリス、ロシア、オランダ、フランスが幕府に
迫り、「和親条約」を結ぶ。関税自主権がないなどの不平等条約。
第2次アヘン戦争の混乱に乗じ、黒龍江以北の地の占領を目論んだロシアは55年以降同江沿岸に5千人
弱の植民を行ってアムール州と沿海州を設置して事実上この地をロシア領とした。さらにこの年、艦砲射撃
をバックに清を脅して璦琿条約を結ばせ、同地を割譲させるとともに、ウスリー川以東の沿海州を共同管
理地とした。
5
イギリスがインドを直轄地とする。
樺太と千島列島の一部に軍を進めていたロシアが日本に対し、樺太の領有を認めるよう要求。日本はこれ
を拒否し、逆にロシアが先取した領土の購入を提案する。
北京条約において清国は、天津を開港させられ、イギリスに対し九竜半島の割譲、シナ人労働者を苦力と
して移民させることをも認めさせられた。また、仲介にあたったロシアにもウスリー川以北の沿海州を正式
に割譲することとなった。→ロシアは、ウラジオストックに不凍港の軍港を建設。
1859
1860
1861
1862
1863
1864
1865
4
ロシア艦ポサドニック号が対馬芋崎浦港を一時占拠=イギリスによる対馬沿岸の測量(1859)に対する対
抗措置。イギリスの艦船がこれを追い払う。以来、ロシアの南進策への警戒感高まる。
アメリカで南北戦争が起きる。この内戦により、日本を中継基地としてシナ大陸市場に参加しようとするアメ
リカの太平洋戦略が一時的に中断されることとなった。
生麦事件に端を発する薩英戦争。コーチシナでは、フランスがベトナムを支配下に置く。
英米仏蘭の連合艦隊16隻が下関砲撃。
フランスがカンボジアを保護国化する。
→坂本龍馬の周旋で薩長連合成る。
5月、太平軍を率いていた洪秀全が服毒自殺、8月、李秀成が殺され、西洋各国の軍隊の
支援を受けた清国が漸く太平天国の乱を鎮圧。15年に及ぶ反乱で当時の人口4億人のう
ち8千万人が死んだ。なお、太平軍鎮圧のために動員された回教民族が新疆で反乱を起
こす。
4 アメリカ南北戦争終結、南北両軍合わせて60万人の死者がでた。勝った北軍は南軍の首都リッチモンドを
焼き払い指導者を鎖に繋いで牢屋に入れた=敗者を徹底的に叩いた。この内戦は、州権の優越を唱え、
奴隷制度存続を求める南部諸州に対し、「連邦は一つの国家である」とした北部諸州による連邦政府が勝
利した内戦であった。その結果アメリカは、国民国家としてのスタートを切るとともに、工業化が急速に進
み、超軍事国家としての潜在力を身につけた。
1868
ロシア、ベ-リング海峡を渡り、アラスカを領有。
1869 11
スエズ運河開通。これにより東洋貿易において大きな打撃をうけたアメリカは、後年パナマ運河開鑿をめざ
すこととなる。
1871
日朝修好条規(江華島条約)締結。日本が領事裁判権を得た不平等条約であったが、朝
鮮が「自主の邦」であるとして、清国の宗主権を否定した。
1875
千島樺太交換条約によって日本はロシアとの間の領土問題が解決。日本は全千島列島を日本固有のも 新疆で反乱をおこし、70年にカシュガルに独立王国を建てたヤーコーブ・ペグの軍が清軍
のと認めさせたが、樺太を放棄。
に敗れ、本人もコレラで急死したことにより回教民族の反乱が漸く鎮圧される。
1877
インドがイギリスによりヴィクトリア女王を国王とするインド帝国となる。
1880
12月~翌年3月、第1次ボーア戦争。イギリスは、トランスヴァール共和国を併合しようとして戦争をしたが、
結局敗れてその独立を認めることとなり、面目丸つぶれとなった。
1880
奴隷貿易の下火化とともに、英、仏、独、ベルギー、ポルトガル、スペイン、伊によるアフリカ分割。残った
以降
のはエチオピアぐらい。
アメリカでは、移民が益々増えた。19世紀終わり頃からカリフォルニアに入植したシナ人移民は、その後大
陸横断鉄道の労務者として使役された。シナ人移民は差別的な待遇を受けたが、本国政府は一切発言す
る力を持っていなかった。カリフォルニア州政府は1854年白人の関わる裁判でシナ人が証人となることを
禁じ、79年には参政権を拒否した。さらに1882年にはシナ人移民禁止措置をとった。その後、日本人が入
植してきた(年間1万人程度)。アメリカ人は、シナ人移民に貼った「信用できない不道徳な労働者」「劣った
種の生き物」というステレオタイプのレッテルを日本人移民にも貼った。
移民のピークは1900年前後で、ヨーロッパ系白人の移民は年間100万人(3千人/日)に達した。
1881
南北戦争後の急速な発展により工業国となったアメリカが、大規模な海軍拡張に乗り出す。これは、パナ
マ運河開鑿をめざす上でスペインに対抗することが避けられないからであった(キューバを支配下に置き、
カリブ海を制することが必要条件)。
1882 5
独墺伊が三国同盟を締結。
1884
ベトナムの保護権を巡って清仏戦争が起き、フランスが台湾海峡を封鎖し、清国を破る。→負けた清国は
台湾に内地並みの省を設置。また、宗主国であった朝鮮を直接支配下に置こうとする意思を固める。
1885
日本とハワイ政府との間に移民条約が成立し、第1回官約ハワイ移民927人が横浜港を
出発。
1887
1891
1893
1894
1895
1
8
4
1896
6
1897
1898
2
2
3
6
11
1899
ハワイ在住アメリカ人がつくった私的な軍隊「ホノルル・ライフル部隊」がカラカウア国王に銃を向け、国王
の国政への発言を停止させ、議会の実権を掌握。選挙権を高額納税者に限定→事実上、アメリカ人が選
挙権を独占。
フランスがインドシナを総督府の支配下に置く。
ロシアが極東に不凍港を求めて、シベリア鉄道建設に着手。
独墺伊三国同盟に対抗して、露仏同盟が締結される。
アメリカ、ハワイのリリオカラニ女王を騙し幽閉、征服する。同女王はカメハメハ王朝最後の王となった。
露仏同盟締結(翌年1月に公表)。
日本の人口が4,000万人を突破。
日本政府が硫黄島を領土に編入。このとき、スペインが異を唱えた(当時スペインはフィリ
ピン、マーシャル諸島、カロリン諸島を支配していた)。
日清戦争開戦
同上終結。下関講和条約により、日本は①清国に対し朝鮮の独立を認めさせ、②台湾と
遼東半島の割譲を受けたが、清国の画策により、これに露独仏が異議(三国干渉)。日本
は代償金3千万両を得て遼東半島を放棄。→後にロシアが占領。
露清秘密同盟(李鴻章・ロバノフ条約)=①一方が日本と戦争に入れば双方は陸海軍によって援助し合
い、共同の対日戦争に入ったとき日本とは単独講和はしない。また、軍事行動中清国の総ての港湾は必
要に応じてロシア軍艦のために開放する。②ロシアはシベリア鉄道と連結し、満州を経てウラジオストクに
至る鉄道(東清鉄道・1500キロ)の敷設権を得る。その建設・運営会社である東清鉄道会社の所有地には
ロシアの排他的行政権が認められた。この条約はロシアが李鴻章に300万ルーブルもの賄賂を贈って結
ばせたものであったが、これにより清国は以降「対日復仇」国家戦略をとることとなる。
11月、山東省でドイツ人宣教師が殺害される。ドイツは軍艦を派遣し、膠州湾を占領。
この年、ドイツが建艦法案を成立させた。19隻の戦艦建造を定めた。→1900年の建艦法案では、これを38
隻に増やし、着々と海軍力を増強した。
露清条約締結。ロシアは、遼東半島及び満州の地を租借する。
イギリスがシナ北方に向かう鉄道敷設を計画したため、ロシアが異議を述べ、両国間に「イギリスは長城以
北に鉄道敷設権を求めない。ロシアは揚子江地方には進出しない」ことを約した(英露協商)
キューバを巡って周辺への市場進出を狙うアメリカと宗主国スペインとの間に米西戦争が起きる。
開戦と同時にフィリピンのマニラ湾で、米極東艦隊がスペイン極東艦隊を急襲・撃破し、フィリピン革命軍を
利用したアメリカがフィリピンを領土に組み入れる。さらにはグアムをも領有することとなり、それぞれに海
軍基地を築き、太平洋進出の足がかりとした。→後に日本と太平洋で覇権を争う背景となる。
4月、この戦争に勝利したアメリカは、キューバを独立させて影響力の下に置いた。さらに8月、ハワイを領
土として編入。一方、スペインは西太平洋の諸島をもドイツに売却し、小国への道を歩み始めることとなっ
た。
ロシアが艦隊を派遣し、旅順と大連を占領。→3月、ドイツは膠州湾の99年の租借権並びに山東省の鉄道
敷設権と鉱山採掘権を、ロシアは旅順と大連(後に遼東半島全域)の租借権及び長春と旅順(日本の介入
を防ぐのを助けた見返りにロシアが清国から得た)を結ぶ南満州鉄道の建設権を獲得。
これらに対抗してイギリスも、九竜半島の99年の租借権と威海衛の租借権を獲得した。
フランスが広州湾の99年の租借権を獲得した。
同年、イギリスは揚子江沿岸、フランスは海南島と広西、雲南両省を支配下におき、ドイツも山東半島の青
島その後背地を占領のうえ膠州湾を租借し、日本も福建省の不割譲を清国に認めさせ、それぞれの勢力
範囲と設定した。日本への三国干渉を画策した清国の高官(近代化運動の指導者であった張之洞など)
は、国家意識の欠如から結果的に国の分割という亡国の危機を招来した。
アメリカ国務長官ジョン・ヘイがシナに関して「領土保全、門戸開放、機会均等、民族自決」の四原則を提
唱した。これは、出遅れたアメリカがシナに対して、領土ではなく、商機を求めて利権争いに手を伸ばすこ
とを宣言したものであった。その真の狙いは、満洲におけるロシアの勢力排除にあり、その上で投資をして
高率の見返りを狙うことにあった。
「扶清滅洋」を掲げる義和団の乱が起こり、清朝と連合した反乱軍が北京の各国公使館を占拠。日本、ロシア
両国軍を主力とした八カ国連合軍の鎮圧で平定。清国は多額の賠償金を払うとともに、北京郊外に各国
軍隊の駐屯を認めさせられる。日本も軍の駐留を認められる。
夏、ロシアによる東清鉄道建設工事がハルビンから始まる。土地の強制収奪に反対する
農民などによる反ロシアのゲリラ戦が起きる。
清国で、6月から光緒帝が康有為の意見を採用して体制改革に着手するも、保守派の官
僚たちが西太后を中心にして反撃し、これを潰す。→清朝が一挙に保守化。
初の南米移民810人がペルーに向け出発。
暴動によって工事妨害を受けた東清鉄道を守るためとして、ロシア軍17万7千が6方面か
ら満洲に侵攻。「アムール河の流血事件」では3千人の清国人を虐殺してアムール河に投
げ込んだ他、非難する住民をも虐殺した。→各地で殺戮を重ねつつ8月チチハル、9月長
春、吉林、遼陽、10月瀋陽を占領。翌年末に満洲制覇が完了。
10月~1902年5月末、第2次ボーア戦争。これは、イギリスがボーア人の共和国であるオレンジ自由国とト 義和団の乱が鎮圧される過程で、同調した清国陸軍(新建陸軍。ドイツから招かれた顧問
ランスヴァール共和国を相手に行った戦争で、最終的にはボーア人の降伏で終わったが、イギリスは大い により練成された)が壊滅。→唯一軍事力を統括する袁世凱が台頭。
に疲弊した。
1900
1902
2
1903
4
4
5
11
1904
2
4
1905
1906
義和団事件の平定を機に、ロシアは、清国と密約を結んで、満州を支配しようとし8月にチチハル、9月に長
春、吉林、10月には奉天を占領(全満州を制圧)。また、韓国と密約を結び、軍隊駐留権や軍事教官・経済
顧問派遣の権利を得、露韓銀行を設立する。馬山浦に極東艦隊基地を提供させようとした。
アメリカとドイツが南西太平洋のサモア島を分割(前年から、英米独三国が領有を争っていたが、イギリス
が手を引くことにより決着した)。
日英同盟締結。これは、満洲を制覇したロシアのさらなる南下を恐れた日本と、極東への発言権を維持す
るとともにロシアとの対抗上から日本の海軍力をあてにしたイギリスの利害が一致したことから生まれた同
盟であった。
清国では西太后が中心となり、一転して改革開放政策が推進された(日本の近代的制度
が導入された)。→06年から10年にかけ、地方議会設置、欽定憲法大綱公布、国会設置
など。
日本、移民法を制定。
露清間で「満洲還付条約」締結。ロシアは3期に分けて満洲から撤兵することを約した。
ロシアは満洲から撤兵しないばかりか、既得権益を守るため7カ条の要求を清に突き付ける。また、8月に 日本の人口が4,500万人を突破。
は旅順に極東総督府を新設。
ロシアは、秋からシベリア鉄道を軍事輸送専用としていたが、遂に木材伐採の名目で韓国の竜岩浦を占
拠。
アメリカがパナマ人の一部にコロンビアからの独立を宣言させ、軍艦を送ってこれを支援し、パナマ運河建
設にあたり、同地域での特別利権を認めさせた。
日露戦争開戦。この戦争は、ヨーロッパ外交家の間では「アジアの通商ルート開発をめぐっての英露の代
理戦争である」と言われた。
モロッコ、エジプトを巡り永年対立していたイギリスとフランスが植民地問題の解決を図るため協商条約
を締結する。フランスが優越的立場に立っていたモロッコを巡ってドイツが国際会議を開催することを提案
したことから両国が結びついた。三国とも日露戦争の勝者はロシアになると予測し、その場合、自国の利
権がそうなるかを問題にしていた。
セオドア・ルーズベルト米大統領が、カラーコード戦争計画のひとつとして日本を仮想敵国とし、これを封じ
込める戦略を陸海軍統合会議に下問。
ロシアで反政府運動が盛んになる。1月に請願デモの弾圧により4千人が犠牲になった「血の日曜日事
件」、6月にロシア第一革命(軍隊の反乱と労働者の暴動)が起きた。→10月ペテルブルグで労働者代表ソ
ヴィエトのゼネスト。12月にはモスクワ市民が武装蜂起。
カリフォルニアで日本人・朝鮮人移民に対する排斥運動が起きる。
9月、日本軍がロシアに支配されていた遼陽を占領。
1月、日本軍が旅順を攻略。
3月、奉天の大会戦で日本軍が勝利。
5月27日、日本海海戦(日本艦隊がロシア・バルチック艦隊に完勝)
孫文が反満洲人を標榜し清朝の打倒を主張する革命同盟会を結成。 孫文が死ぬまで、
日本人が資金を提供。中でも梅谷庄吉(映画産業で成功した)の援助はいまの金額にして
2兆円に及んだ。
9
アメリカの仲介により、ポーツマス条約が締結され、日本が勝利した形で日露戦争終結。日本は、「賠償」 12月、日清間で締結された満州善後条約において、清国は日本がロシアから得た権益を
として、ロシアから遼東半島南部(関東州)の租借権の譲渡を受けるとともに南満州鉄道(長春~旅順間) 認め、南満州鉄道沿線の日本軍駐屯地から20里以内への清軍の立入り禁止を承認する
の権益を獲得(中国東部鉄道は引き続きロシアが保有)。また、日露両国は満州から撤兵することを決め と共にその付属議定書において所謂「満鉄併行線建設禁止」を約束した。
た。 アメリカ(鉄道王ハリマンが主 その2年後、清国政府は英国の会社との間に「満鉄併行線」建設の契約を結んだが日本
唱)が南満州鉄道を日米の合弁事業とし、満州の経営を協力して進めること提案し、桂首相との間に仮協 政府の反対により契約を破棄。
定を締結するも、帰国した小村寿太郎の反対で日本はこれを破棄。
アメリカ(担当:陸海軍統合会議)は、日露戦争に勝ち、桂・ハリマン仮協定を一方的に破棄した日本に対し
て警戒を強め、日本を仮想敵国としたオレンジ計画を策定した。この計画は以後、対日政策の基本となっ
た。
4 18 富豪W・R・ハーストは、自分の持つ新聞で日本に対する悪言罵倒を書き並べ、対日感情を悪化させた。
サンフランシスコで大地震。日本政府は見舞金50万円(当時の国家財政の1%の額)を贈る。しかし、市当
局は公立学校が地震で破壊されたことを理由に、公立学校から少数派の日本人学童のみを離れた東洋
人学校に通わせるという決議を採択(市当局は恩を仇で返した)。この問題を契機にアメリカ―日本間に開
戦説が燃え上がった。(ハースト系新聞に限らず、アメリカ政府首脳の反応の中にもそれに近い危機感が
あった)→黄禍論が沸き起こる。しかし、日本の政府は冷静で沈着な対応に終始した。
1907
1908
3
1910
1911
オランダのハーグで「陸上戦闘に関する法と慣習」(通称「ハーグ陸戦法規」)が世界各国の調印により制
定される。これは、戦争における「禁じ手」を確認したものであった。
8月 英露協商が成立。日露戦争の結果、欧州においてドイツが急速に勢力を拡大した。そこでイギリスは
ドイツに対抗するため、日露を和解させようとし、フランスも日露の接近を図って自ら6月に日本と協約を結
んだ。アジアでの南下を日本に阻まれたロシアは、代わりにバルカン半島に向かおうとしてドイツ、オースト
リアと対峙を迫られることとなる一方、満洲への経済進出を露わに示すアメリカに対抗する必要上、英仏の
働きかけにより7月、日本と日露協商を締結した。一方で英露が歩み寄ってこの英露協商が成立したもの
である。アフリカにおける対立の種を除いた露仏協商と合わせ三国協商の形ができたが、結果としてドイツ
包囲網が整った。
カリフォルニアで日本人移民を対象とした「反日暴動」が起きた。これは、日本人移民が勤勉に働くため、
他の移民の職域を狭めていったことから起きた。その後、日本人移民受入れ制限を求める動きは年々つ
よくなり、日米紳士協定(08年)、排日移民法成立(24年)に至った。
アメリカは、大西洋艦隊(前年12月にバージニア州の港を出港し、世界一周の航海に出た。戦艦16隻か 笠戸丸にて81人の日本人が初めてブラジルへ。ブラジル移民が始まる。
らなり、日本の連合艦隊の2倍以上の戦力。いずれも白く塗られていた)を日本近海に近づけるという威嚇
行動に出る=白船事件。戦争を心底恐れた日本政府は、一斉に「友好国キャンペーン」を繰り広げて対処
した。白船は2週間後に立ち去った。
日米紳士協定成立=日本は新たに日本人移民を出さないことを約束し、代償として既に移民をしている日
本人がそれ以上に迫害されないよう求め、アメリカとの間で合意が成立した。→日本は移民の対象を満州
に集中する。
日韓併合。内外に反対論もあったが、安重根による伊藤博文暗殺の反省から、韓国内において李容九指
導の一進会が併合促進運動を展開し(賛同者100万人)、成立した。清国も欧米列強も極東の安定のため
に必要と擁護。
日米通商航海条約締結 。
この年、改訂されたアメリカの対日戦略である「オレンジ計画」に「米国は日本を満洲から撤退させるべく、
大陸への介入でなく、海上の作戦によって戦うことになるだろう。日本の通商路を海上封鎖することで息の
根を止めることになろう」と記載した。
1912
10.10 清国軍の将軍・黎元洪が寝返って武漢で蜂起し、辛亥革命が起きる。これは主に鉄
道の敷設をめぐって清朝と対立する地方の反孫文系の人々により始まったもの。孫文は
追放の身として米国にあったが、直ちに帰国。鎮圧のため、清国は新軍を率いる袁世凱
を湖広総督に任命。
1月 地方の代表者たちの協議を基にして南京に共和制の中華民国政府成立(米国から
帰国の孫文が臨時大統領に就任)。清国政府軍の袁世凱は革命軍との取引を策し、新政
権での大総統の椅子を得ることを条件に休戦(孫文が妥協)。
3月 宣統帝を退位させた(清国滅亡)後、袁世凱が北京に遷都して中華民国臨時大総統
に就任し、以後反日ナショナリズムを強化。なお、袁世凱と地方の代表者たち、および孫
文の革命同盟会が支配権を争う。
8月 孫文が反袁機運に乗じて第二革命に参加したが敗れて日本に亡命(内田良平、頭
山満、梅屋庄吉らの保護・支援を受ける)。 各省が相次ぎ独立。
日本の人口が5,000万人突破
1913
1914
7
1915
1
カリフォルニア州で、日本人移民(当時約6万人)の土地所有を禁止(排日土地法)。日本政府はこれに強
硬に抗議したため、ウィルソン大統領は、日本が戦争を予定しているのではないかと憂慮。→海軍作戦部
長B.L.フィスク少将が日米戦争に備えて軍艦3隻を派遣するよう提案し、ウィルソンがこれを退け開戦説は
消えた。
ロシアのペテルブルグで大ストライキ勃発。
第一次世界大戦勃発(本質は、英の3C政策と独の3B政策との衝突)→8月、日本は独に宣戦布告。11月
に独が租借していた山東半島を攻略、占領。
オーストラリア、ニュージーランドが直ちに参戦し、南太平洋のドイツ領島嶼を攻撃したとき、オーストラリア
の部隊を日本海軍が護衛。この後、オーストラリアは、日本海軍がその勢いで自国を攻めるのではないか
と恐怖心を持った。
日本は、山東半島での独の権益を引き継ぐとともに、満洲権益の不安定要因を解消すべく袁世凱の北京
政府に「21カ条要求」を提出し、25回の交渉の後、5月、袁世凱の求めにより日本が「最後通牒」を出し、こ
れに北京政府がこれに屈した形をとって、袁世凱政府が日本の要求を受諾。
7月 南北政府間で武力闘争が始まる。
10月 袁世凱が正式に中華民国大総統に就任。日・英・露・独・仏など13カ国が新政権を
承認。
7月 孫文が東京で中華革命党を組織。多数の日本人が応援。
中国側は受諾日の5月9日を「国辱記念日」と定め、以降国民の間に日本への敵対心が固
定化。
袁世凱が帝政を受諾するも、12月反帝政運動の第3革命起きる「雲南蜂起」。東京から帰
国した孫文の中華革命党も東北軍として参戦。
1月 袁世凱が帝位につく。3月袁世凱が帝政を取り消し。4月段祺瑞内閣。6月袁世凱が
死去したことから革命軍が勝利し、段祺瑞が北京政府の事実上の指導者となった。しか
し、各地に袁世凱の部下であった旧都督が省の専制君主として君臨し、軍閥が割拠して
内戦を繰り広げ、大混乱の状態となる。
1916
シナへの移民の総数が10万4千人に達する。
1917
ロシアでメンシェビキ指導の2月革命が起き、ロマノフ王朝が崩壊。
7.25レーニンが率いる政権は早速シナの共産化を企図してカラハンによる「対シ声明」を出した。同声明
は、列強の圧政に苦しむシナに同情し、その解放を表明するとともに、旧ロシア政府がシナと結んだ圧政
的条約を無効とし、さらに義和団事件の対露賠償金をも放棄すると宣言して、シナを喜ばせた。
11 2 石井=ランシング協定でアメリカ政府は「日本がシナにおいて特殊の権益を有する」ことを承認した。(ただ
し、アメリカは後にこれを取り消す)
11 7 ロシアで起きた共産主義革命(10月革命)により、レーニンが社会主義政権を樹立した。その裏には、第一
次世界大戦でのロシアとフランスとの二面作戦を回避しようとしたドイツのレーニンたちへの大きな援助が
あった。 なお、この革命の際、ボルシェヴィキは反対する勢力を大量に虐殺した。
イギリスのバルフォア外務大臣がイギリスにおけるユダヤ人コミュニティのリーダーであるW.ロスチャイルドに
11
送った書簡の中で、「パレスチナにおいてユダヤ人居住地の建設に賛意し、支援すること」を表明した。その居
住地建設が後のイスラエル建国につながった。
アメリカが移民法改正により、新規移民に対し識字テストを行うことを定めるとともにアジア人の入国を禁止。
1.8 ウイルソン大統領が「14カ条の平和原則」を発表。→「民族自決」、「植民地問題の公正解決」、「秘密外交
1918
の禁止」などが提起されたが、パリ講和会議においては、英仏からは無視された。
3.3 ドイツがレーニンの社会主義政権との間で講和条約を締結(ブレスト・リトフスク条約)。
5月、第1次大戦の際、オーストリア軍に編入されていたチェコスロバキアの兵が移動中の小競り合いから
シベリアでソヴィエト軍と全面対決。6月、英仏がアメリカと日本にチェコ兵救出のための出兵を要請。
7月、アメリカの提議に応じて日本も出兵。その後日本は派兵の規模を拡大し、7万2千の軍隊を派遣して
革命への干渉を試みる(シベリア出兵)。しかし、他の国が1920年に撤兵した後も占領を続けたものの、9
億円の戦費と3千人の死者を出し、得るところなく22年10月撤兵。日米関係の悪化に拍車をかける。
11月、ドイツが「14カ条の平和原則」を受け入れ、第一次世界大戦終結。
1919
1月18日~パリ講和会議が開催される。①締結されたベルサイユ条約において、戦勝国は負けたドイツに
1320億マルクという支払い不可能な賠償金を課すとともに、ドイツに「戦争責任」ありと決めつけた。②国際
連盟規約策定にあたり、日本(団長:西園寺公望)は人種差別撤廃条項を盛り込むよう提案したが、大差
で否決される。そこで、前文に入れるよう交渉し、小委員会において賛成多数を得る(賛成11、反対5=アメ
リカをはじめ列強諸国)。しかし、満場一致でないことを理由にウィルソン議長が否決。それ以外は、日本
は「サイレント・パートナー」に終始し、国際社会での存在感を高めることができなかった。かろうじて山東半
島の利権だけを確保。この会議に先立ち、アメリカの著名な黒人4名が日本使節団を訪ね、世界中のあら
ゆる人種差別と偏見をなくすことに尽力してほしい旨の嘆願書を提出。全米の黒人が日本に期待を寄せて
いた。
3月、モスクワでレーニン指導のボルシェヴィキが全世界における社会主義革命を目指し、21カ国の代表を
集めてコミンテルンを結成。以降、世界中で共産主義革命を起こすための諸工作を展開するともに、各国
の社会主義運動団体に国際金融団体から莫大な運動資金を提供してゆく。
6月、アメリカが第1回太平洋艦隊創設決議。これは、イギリスが西太平洋から撤退し、アメリカが太平洋の
覇権を握ったことの表れであった。
1920
カリフォルニア州で第2次排日土地法。2世名義の土地所有、土地所有法人の役員就任及び農地の賃借
権を禁止。これにより州政府は日本人移民を事実上農業の仕事から追い出すことに成功。→日本人移民
の80%は、土地を残して帰国。
革命後のソ連政府が「中国東部鉄道を中国の主権のもとに返還する」と宣言したが、中国国内は革命後
各地に軍閥が外国の支援を得て政権を樹立しての混乱が続く。満州は、日本の支援する張作霖が支配し
ていたため、ソ連は「鉄道を返還すべき相手が明確でない」として実際は返還せず。
11 26 モスクワ共産党細胞書記局会議でレーニンが「欧米の共産化の前にまずアジア(混乱と貧困のシナ大陸
と東洋の優等生日本)の共産化を図る」=アジア迂回戦略=と演説。以降、シナ軍と日本軍を徹底的に戦
わせる戦略をとっていく。
4月 張作霖が北京政府に対し、東三省(満洲)の独立を宣言。
9月 孫文が「軍閥政府打倒」を掲げ広東に軍政府を樹立し、大元帥となる。=再び南北
両政権の対立が始まる。
18年からの10年間は軍閥による南北戦争で、中国国内は混乱。
18.6 孫文辞職。
パリ講和会議で山東半島の中国への返還が認められなかったことから、北京で学生デモ
(5・4運動)→翌年には反日運動が各地に広がる。
10月、中華革命党が中華民国国民党(孫文、汪兆銘らによる。同党軍の司令官は蒋介
石)と改称。
日本の人口が5,500万人突破。
7月 段祺瑞率いる安徽派と曹錕率いる直隷派との間で戦争が起こり(安直戦争)、安徽
派が大敗して段祺瑞政権が崩壊。 →この後、 直隷派に味方した張作霖(満洲を支配し
ていた)と直隷派とが仲違いし、泥沼の戦いを続けたが、 26年張作霖が勝利する。
9月、上海において、中国共産党組織会議が、コミンテルン極東部長ヴォイチンスキーの
指導の下に開かれる。
レーニンが国内経済の疲弊を回復するために新経済政策(NEP)を施行し、アメリカから金融・石油資本を 4月 広東に国民党政府成立(大統領 孫文)。
積極的に引き入れた。これを土台にソ連はアメリカ国内にソ連に同調的なマスコミを育てることに成功して 5月 上海で中国共産党結成(レーニンの秘書マリーンの指導によるもので、2大指導者は
いった。(後、アメリカ政権内に多数のソ連スパイが暗躍することにもつながった。)
李大釗と陳独秀)。 7月にマリーン他1名のコミンテルン代表が加わって創立大会を開
1921
催。
11
12
1922
米英主導でワシントン軍縮会議始まる。
日・英・米・仏4カ国条約(太平洋域の領土と権益の相互尊重と諸島嶼の非軍事基地化を約した)→米国の
圧力で日英同盟を延長せず廃棄することを決定(23.8.17失効)。これにより日本は同盟なき孤立化に追い
込まれた。
2 6 ワシントン軍縮条約&九カ国条約(中国の主権・独立の尊重、領土保全、機会均等、門戸開放を約した)
締結。海軍主力艦隊総保有数について、米5英5日3仏1.75伊1.75と決める。これにより、日本の海軍費は6
割程度に圧縮される。また、山東省の利権も放棄させられ、満州の中国政府機関への日本人顧問の優先
的招聘も取り消される。ただし、満州における日本権益の租借期間の99年への延長だけは、中国側の撤
廃要求にもかかわらず維持された。
(以下、日本政策研究センター所長・伊藤哲夫氏の論考H16.11.26産経)このワシントン体制とは、中国の
領土・行政を保全するために、各国はこれ以上の特権や地位を要求せず、当面は互いに協調・協力し、い
ずれ中国がまともな国家を営みうる段階になるまでは現状を維持していこう、という趣旨。
中国もその現状を認め、義務を果たしつつ不平等条約の撤廃に向けた努力をしていくことが求められた。
ところが、中国は、その義務を否認し、不平等条約の「即時撤廃」を主張し始めた。→日本に対しても、日
清条約の一方的廃棄宣言を行った。日本は、拒否したが、アメリカはこの問題に全く関心をもとうとせず、
日本は孤立感を深めた。
9
12
1923
12月 マリーンが広西省桂林で孫文に会い、共産党との合作工作を行う。→孫文は「中国
革命はソ連を鏡にすべき」との主張を始める。
9カ国条約に刺激されて、シナで民族主義の風潮が高まる。 中国共産党はマリーンの意
を受けて国共提携の方針を決め、李大釗、陳独秀などが共産党員のまま国民党に入党。
4月、第1次奉直戦争。孫文と結んだ張作霖が直隷派と軍事衝突したが完敗し、奉天に
戻って東三省の独立を宣言した。→議員に賄賂を送った直隷派の工作により曹錕が大総
統に。
8月 マリーンから国共合作を提案された孫文は、ソ連からの武器援助を条件にこれを受
入れ。 (孫文を支援してきた日本人は梅谷庄吉を除きこれに失望した)
10月、馮玉祥(直隷派)がクーデタを起こし北京を制圧、清朝最後の皇帝溥儀を追放し
た。以降、馮玉祥と張作霖との不和が大きくなる。→張作霖が日本軍と結んで勢力を拡大
する
アメリカ連邦議会が輸入関税率を単純平均で36.5%に引上げる法律を制定(従前は26%)。これにより第
一次大戦時の戦費調達による対米債務抱えたヨーロッパ諸国では輸出品目を競争力ある商品に限定せ
ざるを得なくなり、経済回復が著しく遅れることとなる。
米国最高裁判所が、「黄色人種は帰化不能外国人で、帰化権はない。」との判決。既に帰化した日系アメ
リカ人の権利も剥奪できるとした。→第1次大戦にアメリカ兵として参戦し帰化権を得ていた日系市民の帰
化権を剥奪。このため、80%の日系移民が買い上げた土地を残して帰国した。
ロシアでソヴィエト社会主義共和国連邦成立。共産主義の国際組織コミンテルンが、その日本支部として 12月、コミンテルンが孫文に接近。孫文=ヨッフェ会談において、孫文はソ連と秘密協定を
認知した日本共産党に対し、「22年テーゼ」を発する。その内容は
結ぶ。
・天皇制の廃止 ・貴族院の廃止 ・現在の軍隊、警察、憲兵、秘密警察の廃止 ・労働者の武装 ・朝鮮、
シナ、台湾、樺太からの軍隊の撤退 ・天皇及び大地主の土地の没収とその国有化。
ソ連は、自国の生存を賭けて革命の輸出を図った。初めはヨーロッパへ(失敗)。次にインドへ(これも失
敗)。→シナの共産化を図る。
1月に「孫文・ヨッフェ宣言」・・・シナの革命のために国民党はソ連と提携し、資金、武器、
リーダー養成について莫大な援助を受けること及び国民党の再編成を決める=連ソ容
共。この方針は、国民党、共産党両党内部で反対が多かったが、孫文が強引に国民党幹
部に従わせた(孫文の誤りで、大きな歴史の転換点となった)。また、革命軍をつくる準備
のために蒋介石をソ連に3ヶ月間派遣した。党の経費を全てコミンテルンから提供されて
いた共産党も、コミンテルンの方針に従った。→以後、共産党はこれを利用して共産党員
籍のまま国民党に入党し、多数が国民党の要職を占めて、同党に寄生しながら革命勢力
として組織を急成長させた(党員1千人弱→27年4月には58千人に)。 コミンテルンは軍
費、武器の供給はもとより、ボロディンなど数十名の政治・軍事顧問を派遣した。
2月、孫文が第3次広東国民党政府を樹立し、大元帥に就任。
3月、国民党政府が日本に21か条の廃棄を要求したが、日本は拒否。このため、シナ沿岸
各都市で、旅順、大連を取戻せと要求するデモが起こった。
12月、国民党政治顧問ボロディンの勧告を受け、孫文は国民党を反帝国主義、反軍閥の
性格が明確な強い党に改組した。
1924
4
米国両院が自国への移民について、1890年を基準として各国別に移民数を割り当てる法律を可決(日本
人だけは帰化不能外国人として絶対的に排除された)。翌月クーリッジ大統領がサイン。
同法案に関して親米派ジャーナリスト清沢洌が中外商業新報のコラムで米国政府を批判。新渡戸稲造も
「この法案が修正されるまで、アメリカの土は踏まぬ」と書いた。 →5月31日、東京の米国大使館隣地の庭
で男が抗議文を残して割腹自殺。6月には、東京で新移民法反対のデモが起きる。
7 1 アメリカの新移民法「排日移民法」が施行される。→日本の主要新聞19社が対米抗議宣言を出し、同月、
東京で「対米国民大会」が開催され、1万余の民衆が集まって”対米宣戦”が叫ばれるなど反米気運高ま
る。
アメリカに追随してオーストラリアが白豪主義を打ち出し、カナダやニュージーランドも日本人移民を拒否す
るようになった。
1925 10
北京で開催された列国関税会議において日本(幣原喜重郎外相)は、シナの対日感情の改善と友好関係
の推進を目的に、「抜け駆け」的に「中国の関税自主権を容認する」と宣言。これは、シナの現状変更には
列強が協調して対処することを核心としていたワシントン体制の精神に反するものと受け取られ、同体制
がシナ問題をめぐって崩壊してゆく「重大な起点」となった。幣原は国際協調の真の意義を理解していな
かった。
1月、国民党が北京政府に対抗して、広州で第1回全国代表大会を開催。一切の不平等
条約の解消をめざすことを再確認するとともに、ソ連から軍事顧問団を招聘し、新生の共
産党と合作することを決定し、「連ソ容共、扶助農工」を決議=第1次国共合作。
また、ソ連の示唆のもと、宋財閥や孔財閥をバックに広州郊外に「シナ国民党陸軍軍官学
校」(通称:黄埔軍官学校)を設立した(総裁:孫文、校長:蒋介石)。教官にはソ連の軍人
やスパイが多数配属されて左翼的な教育を施した。そのようにしてつくった軍にドイツ顧問
団を迎え入れた。→27年、国共合作が破たんした時、ソ連の軍人、共産党系の教員や学
生は全員引き揚げた。
9月、軍閥の闘争がますます激しくなるなかで、孫文が「北伐」を宣言。
南京で排日運動が激化。
3月 孫文死(59歳)。
5月 上海で起こった5.30事件に端を発し、日系、英系紡績工場でのゼネストなど、労働
者・学生による反日・反英の労働運動が沿岸各都市に波及。
7月 汪兆銘が国民党主席となり、広東で「中華民国国民政府」(広東国民政府)を組織。
1月、蒋介石が国民革命軍を組織し、共産党弾圧を実行。これにより同党と親しかった汪
兆銘が権力闘争に敗れて出国。蒋介石が主導権を握り、6月、国民革命軍総司令官に就
任。 この間、4月に張作霖が北京政府の実権を握る。
7月、(第2次国共合作を成し遂げた後、ソ連から莫大な資金援助を受けていた)蒋介石が
十万の兵力で北伐開始。
11月広東政府は武昌に移転(武漢政府=主導権は共産党が握る)。
12月 張作霖が北京で大元帥に就任し、中華民国の主権者であることを宣言。
日本の人口が6千万人を超える。
コミンテルンが前年再建された日本共産党に対し、これを指導する「日本問題に関するテーゼ」=27年
1月 北伐途上の蒋介石は武漢政府における実権をはく奪されたが、北伐軍は2月に漢
テーゼ=を発する。 同テーゼでは、日本共産党は君主制の廃止、ブルジョア革命を目指す(単一労農革 口を、3月に南京を制圧。
1926
11月から12月にかけてコミンテルン第7次拡大幹部会議→コミンテルン12月決議。これは、シナ革命の目
的をプロレタリア・農民その他被搾取階級独裁による社会主義国家建設と規定し、農民の武装、地主から
の土地没収、内乱の助長等の暴力革命を歌い上げた。この決議は、武漢政府内の親共産勢力及び国民
革命軍のなかの共産分子を勢いづけた。
1927
命戦術)ことと規定した。
3 24 北伐軍が主体となって漢口事件、南京事件を起こす。漢口では、イギリスの居留民が焼き討ちに遭い、虐 3月24日、南京事件が起きる。
殺され、イギリス租界が接収された。暴動は南京の日本人居留民街にも及び、領事館に避難した日本人
居留民も含め多数が難に遭った。さらに、英米領事館への襲撃に始まり租界の商店、企業などをことごとく
焼き討ちにし、略奪し、各国居留民に暴行を加え、虐殺した(26年のコミンテルンの指令に従って、武漢政
府のロシア人顧問ボロジンの指示による共産分子=第6軍政治部主任・林祖涵及び第2軍同・李富春が総
指揮・程潜を抱きこんだ=の仕業と推定される。南京ではイギリス人宣教師も殺された)。対抗して英米海
軍は、南京では砲艦から暴徒に向け砲撃を加えた(英米海軍のこの砲撃により、2千人以上の南京市民
が犠牲になったと言われる)。また、イギリスは日本にも共同して砲撃するよう呼びかけ、陸軍の共同出兵
も提案するが、幣原外相から「シナを刺激するな」との訓令が出ていたため、日本の軍艦は砲撃に加わら
なかった。 イギ
リスは、この事件の背後にコミンテルンありとしてロンドンのソ連通商代表部を捜索し、文書を押収、5月27
日に対ソ国交を断絶した。
4
イタリアでムッソリーニ率いるファシスト党が独裁体制を築き、労働憲章を制定→翌年9月に一党専制の決 4月6日、張作霖が北京のソ連大使館附属の陸軍武官室を捜索、「コミンテルン12月決議」
議。
に基づいてモスクワが連大使館付武官に訓令した秘密文書を押収。この文書により、南
京事件がコミンテルンの戦略と指導によって惹起された事件であることがいよいよ明白と
なった。
4月、上海で労働者の武装蜂起が起き共産党指導の上海臨時政府を樹立。これに対抗
し、12日、同地に入った蒋介石が、反共クーデターを起こし、上海臨時政府を打倒、上海
を恐怖に陥れていた工人糾察隊を武装解除するとともに共産党員を逮捕した。このとき、
地元のギャング組織「青帮」を利用して共産党員を大量虐殺した。→蒋介石は国共合作を
捨て、国民党の精神で北伐を進める決意で、18日、南京に右派の国民政府を樹立。国民
党、青帮、赤帮は以後一体となって労働争議に介入、組合を弾圧した。
5
日本が居留民保護のため、第1次山東出兵。
武漢政府内においても、ロシア人顧問ボロジンによる秘密工作の目的が共産革命であ
ることに気がついて、7月末、共産主義者の除名を決議するとともに、ボロジン以下140名
に及ぶソ連の政治・軍事顧問を解雇追放。=第1次国共合作が破綻、国共両党は内戦状
態に。武漢政府を追われた共産党は国民革命軍などへの潜行形態での運動に移行す
る。
6
1928
1929
武漢政府内においても、ロシア人顧問ボロジンによる秘密工作の目的が共産革命であ
前年再建された日本共産党幹部徳田球一らがモスクワを訪れた際、彼らに対しコミンテルンは、これを指 ることに気がついて、7月末、共産主義者の除名を決議するとともに、ボロジン以下140名
導する「日本問題に関するテーゼ」=27年テーゼ=を発する。 同テーゼでは、日本共産党は君主制の廃 に及ぶソ連の政治・軍事顧問を解雇追放。=第1次国共合作が破綻、国共両党は内戦状
態に。武漢政府を追われた共産党は国民革命軍などへの潜行形態での運動に移行す
止、ブルジョア革命を目指すことと規定した。
る。
11
スターリンが権力を掌握し始め、トロツキーを追放。農業集団化政策をとる。
12
南京事件に対する日本の対支宥和的対処について「日中の陰結」を疑ったイギリスは「クリスマス・メッ
セージ」を発し、中国政策の大転換を図り、日本以上のシナへの宥和に踏み切る。これは、過激化するシ
ナのナショナリズムの標的になることを避けるためであったが、日本政府はそれに気づかなかった。
4月、日本が第2次山東出兵。5月、北伐軍との間で軍事衝突、日本軍は蒋介石軍を全面攻撃し、民間人
を巻き込んで大きな被害を与える。=済南事件
7 17 モスクワでスターリンが直接指導してコミンテルン第6回大会が開催され、「敗戦革命論」と呼ばれる次の決
議を採択して9月1日閉会した。
「帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は①自国政府の敗北を助長すること。②
帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること。③戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。」
そしてこの年、ソ連は第一次5カ年計画に着手し、軍備も増強した。
8 28 パリ不戦条約(米国ケロッグ国務長官と仏国ブリアン外相との主導で成立した国際条約)締結。国際紛争
解決の手段としての戦争放棄を定めた条約に日、米、独、仏など15カ国が調印した。この後63カ国が調
印。しかし、フランスは①自衛のための武力行使、②国際連盟の義務から生じる戦争、③ロカルノ条約
(独、仏、白間で国境を尊重し、それを英、伊が保障した)のための戦争を合法化し、アメリカはモンロー主
義と自衛権を留保し、イギリスは英連邦・本国が利害関係を有する特殊地域を防衛する権利を保有したう
え、不戦条約に違反した国への制裁規定もなかったため戦争抑止効果はなかった。
シナにおいて、“田中義一首相が昭和天皇に上奏した”という体裁をとって、誰かが偽造した宣伝文書=「田中
メモランランダム」が出回った。内容は、「日本は『世界征服』、特に『米英打倒』を明確な国策としつつ、満州を
制圧し、次いで北シナ制圧をめざすべき」というもので、日本に対する世界の眼を決定付けた「運命の偽文書」
=そこには(既に亡くなっていた)山縣有朋が会議に出席したと書かれていた)。この文書はコミンテルンが世界
中にばらまいたもの。→シナにおける排日機運を高めてしまう結果となるとともに、ルーズベルト大統領が、こ
れにより日本との和解がほとんど不可能と考える原因となった。
8月、徐州付近の戦闘で蒋介石の北伐軍が大敗。
9月6日、南京政府と武漢政府が合流し、南京を首都とする。蒋介石は北伐失敗の責任を
とり下野する。
10月、武漢を追われた毛沢東は江西省井岡山に革命根拠地を設ける。
11月、 国民政府が不平等条約に関し「最短期間内に排除する。国民政府が参与せずに
訂正・許可した条約は無効。シナに関する条約で国民政府が参与しないものはシナに対
し拘束力がない」等4カ条の声明を発する。
12月、蒋介石が、ドイツの元軍人バウアーと会談の後、腹心の陳儀をドイツに派遣し、百
万マルク相当の軍需品購入を決める。このときドイツは武器輸出を禁じられていたため、
電気・通信機器や車両などを輸出した。
この年、蒋介石はキリスト教に入信した。これは、多年にわたるアメリカ人宣教師たちの苦
労が実ったものであり、蒋介石は以降、キリスト教の守護者とみなされるようになり、メリカ
人宣教師たちは飛躍的に活動がしやすくなった。
1月、蒋介石が国民政府に復帰し総司令となる。
4月、蒋介石の国民革命軍が北伐を再開。張作霖率いる奉天軍に連戦連勝。
6月4日、張作霖が列車ごと爆殺される=「満洲某重大事件」。日本政府からの勧告によ
り、張作霖は本拠の満洲に引き上げる途上にあった。
6月8日、国民革命軍が北京を無血占領して北伐完了、北京を「北平」と改称。
10月、蒋介石が南京に国民政府樹立。しかし、未だ各地の武装勢力に号令するまでの力
はなかった。
12月、張作霖の地位を引き継いだ張学良が国民政府に忠誠を誓い、東北辺防軍総司令
に任命される。満洲の地が国民政府の支配下に編入されたことを宣言し、以降住民組織
「遼寧国民外交協会」と連携して在満日本人を圧迫し、反日政策をとる。
1月 朱徳らが江西省、福建省でソヴィエト区建設。(→30年7月長沙にソヴィエト政府樹
立)
10 24 ニュヨーク証券取引所で株価大暴落。アメリカ国内では、その対処策として連邦議会に「アメリカ国内産業の保 シナを代表する政権となった国民政府は、英米と連携し、政府主導の経済建設を推し進
護を目的に千品目に及ぶ輸入商品に超高率関税(平均41%)をかける」法律が上程された。提案者は、ホー
めた。中央銀行を設立し、関税自主権も回復。しかし、統治したのは、揚子江流域に限ら
リーとスムートという2人の実業家。
れ、幾つもの省が実質的に軍閥に支配されていた。
1930
6 17 アメリカ連邦議会が、上程されていた「ホーリー・スムート法」を可決。自由貿易体制から離脱し、ブロック経
済体制を採用。 とくに、日本からの輸入製品の多くに、100%を超える高関税をかけた。 →日本は輸出はお
ろか輸入もままならなくなる。
4 22 ロンドン軍縮会議(日・英・米三カ国。仏・伊は脱退。補助艦の量の制限が目的)が終了。補助艦保有比率
を英10:米10:日6.9とした。日本海軍には希望していた潜水艦の建造量を増やせない、という不満が残っ
た。軍部だけでなく、野党、政友会など国内世論も反発したが、日本にはこれ以上、海軍力を増強する資
金がなく、財政上はやむを得ないものであった。この点、国際協調をめざす幣原外相は、国民を説得する
努力をせず、国内世論を無視するかのような外交政策をとってしまった。
9
12
ドイツ総選挙において、ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)が107議席を獲得して第2
党に躍進。←世界第恐慌の中、イタリアに続き、ドイツでも全体主義の傾向が強くなった。
ニューヨーク米国銀行支払停止。この年の米国内銀行の破産は1300件に上る。
1.11日本が、主要各国との通貨交換と通商安定のために金本位制=金輸出解禁に踏み
切る。しかし、世界不況・英米の高関税政策による輸出の急減と相俟って、以降数年間大
不況に陥る。
8月 閻錫山が北京で新たな「北京国民政府」樹立。反蒋運動起きる。→蒋介石軍と反蒋
介石軍との間に大内戦が起き(中原大戦)、 蒋介石軍が勝利する。
12月 蒋介石軍が井崗山に立てこもる毛沢東軍の討伐へ(→6年に及ぶ国共内戦)。
1931
1月、蒋介石が憲法を制定する目的で国民会議代表選挙法を公布。
5月、南京で国民会議が開催される。しかし、同月28日に反蒋介石連合(馮玉祥、閻錫山
両派を除く)が広州に「国民政府」を樹立し、政府がまたも2分される。
9 18 柳条湖事件→日本が奉天を占領=満洲事変が起きる。
11月 煕洽将軍(吉林)、張海鵬将軍(洮南)、張景恵将軍、蒙古王族らが天津に会し、溥
ヘレン・ミアーズによれば、日本が起こした満洲事変の目的は (1) 満洲に「合法的自衛」手段としての戦略 儀の復へきを支持して溥儀に助力を要請。
的拠点を確保し、(=対ソ防衛)
(2)日本帝国圏(韓国と台湾)と満洲、華北からなる経済ブロックをつくっ 同月、毛沢東が江西省瑞金で「中華ソヴィエト臨時政府」樹立。また、汪兆銘が広東政府
て経済の安全保障を確立しようとするもの(=英・米の各経済圏に対抗する手段)であった(「アメリカの鏡・ を樹立。ただちに中華ソヴィエト共和国政府の名で日本に対し宣戦を布告した。
日本」より)。
12月、満洲事変を機に抗日機運が高まって、南京の政府と広州の政府が合体。
仏・蘭が経済恐慌に陥る。5月、ドイツに波及。英国も8月に経済恐慌に陥る。
12月、日本も不況に陥る中、政府は金輸出(金本位制)を再度停止し、デフレ政策を革め
た(イギリスは既に9月に停止済み)。この年の日本の輸出は、アメリカの保護貿易政策に
端を発した世界不況の影響で、14億8千万円弱と12年前の約半分に激減した。→翌年か
ら37年にかけて日本の輸出入は伸張。ただし、これは西欧諸国においては輸入増、自国
経済の不振につながり、日本へに対する経済封鎖に向かわしめることとなった。
日本の人口が6,500万人を超える。
1932
5
コミンテルンが片山潜、野坂参三、山本懸蔵ら日本共産党と討議の上、彼らに日本打倒の「32年テーゼ」を 汪兆銘が蒋介石に対し内戦の責任を追及していたが、1月の第1次上海事件を機に両者
発する。満洲事変を通じて内乱に導き、プロレタリア革命への条件を熟成させ、その条件達成時をもって一 が和解し、南京で合作。一方、中国共産党は、4月26日付け(1次上海事件の停戦前)で
気に共産革命に至らしめることをスローガンとした。
「中華ソビエト政府の対日宣戦布告文」を発し、公然と対日戦争を呼号し始めた。
2月、満洲各地の代表者が瀋陽に集まり、3月1日「独立」国家満洲の建国を宣言。清朝の
廃帝溥儀を元首に選ぶ。3月9日、満洲国執政に就任(翌年3月、皇位に就き、満洲帝国
が成立)。日本には協力と保護を要請した。 →日本は満洲国を承認。
7
オタワで、大英帝国のメンバー9カ国(英、加、豪、アイルランド、ニュージーランド、ニューファウンドランド、
英領インド、南ア、南ローデシア)が集まり、イギリス連邦経済会議(オタワ会議)を開いて、帝国内では無
関税又は特恵関税とするが域外からの商品には高率の関税をかけることを決めた=オーストラリア、ビル
マ、マレー半島、香港、エジプトも含めて世界の四分の一に及ぶブロック経済化を決定。→日本、ドイツ、イ
タリアなど資源のない国は苦境に陥る。
9 30 リットン調査団報告(1931.9の満洲事変について、中華民国政府が国際連盟に提訴したのを受けたもの)
が日本に手交される。英米がシナとアジアに覇権と勢力圏を維持するのを前提にしつつ、日本の起こした
満洲事変を非難。日本はこれを人種差別と受け止める。 ←これに先立つ2月23日、スチムスン国務長官
は、ポラー上院外交委員長あての公開書簡で、「アメリカの門戸開放政策は(1)対シナ貿易における全ての
国の機会平等、(2)そのために必要なシナの領土と行政の保全」と明言していた。 以後、シナ大陸におい
て、日本と英米列強との対立が進行していった。
12
アメリカ大統領にF.ルーズベルトが当選。この当時のアメリカは大不況の只中にあり、失業率は25%に達し
ていた。ルーズベルトは大統領就任以降4期、反独・反日外交を展開し、国内では左派リベラル政策を推し
進めた。
1933 1 30 ドイツ首相にナチス党のヒトラーが選ばれる。→3月の総選挙においてナチス党が52%の議席を占める。
3 24 ヒトラーが、ドイツ国家人民党との共同提案で、立法府が行政府に権限を移譲することを内容とする全権
委任法を提案し、賛成多数により可決された。これにより、事実上ワイマール憲法は停止した。議場を突撃
隊とナチス親衛隊が取り囲む中、採決が行われ、反対はドイツ社会民主党だけであった(共産党は無届欠
席のため棄権と看做された)。経済が窮地に陥る中、ヒトラーは、ヴェルサイユ条約により負わされた賠償
金の支払い拒否宣言を出し、以降、自国の生存権を懸けて戦争への準備に走った。→東欧を手中におこ
うとする。 イ
タリア(ムッソリーニの独裁)もアフリカに進出しようとし、大企業を国有化して、自国経済の防衛を図った。
夏に、ジュネーヴに来ていたソ連のリトヴィノフ外相を、蒋介石の命により劉文島在ベルリ
ン公使と 梁雲参事官が訪問し、国交樹立と相互不可侵条約の申し入れを行う。これは、
蒋介石が来るべき日本との戦争をにらんでのものだった。→12月に両国が国交樹立。
9月15日、満洲国国務総理鄭孝胥と日本国駐満洲大使武藤大将との間に議定書締結。日
本が満洲国の独立と主権を尊重することなど大要7項目。
北米アメリカ、南米ブラジルや南米諸国への日本人移民の入植移民数に段階的制限が加
えられるようになったこと及び昭和恐慌による当時の地方農村地域は疲弊と困窮をきわめ
ていたため窮乏生活を送らざるを得ない農業従事者らの強い移民志向があったことから、
満洲への移民が本格化し、10月、第1次武装移民団492人が移住。これは満洲国軍政部
顧問で同国吉林省警備軍軍事教官東宮鉄男が推進し結成したもので、国境付近での防
衛拠点づくりと匪賊からの自衛を目的としたものであった。
福建省で、蔡廷楷が「福建中華共和国」樹立宣言。
5月31日、塘沽停戦協定により、日本、満州国、国民政府の間に了解が成立し、政治的に
安定をみる。
同月、蒋介石が江西省南昌に国民政府軍事委員会南昌行営を設置し、万端の準備を整
え(兵力80万)たうえ、10月、江西省瑞金の共産軍(兵力15万)に対し、第5次包囲討伐戦
を開始。蒋介石は、「安内攘外」のスローガンのもと、共産党撲滅を第一の課題にしてい
た。
この間、7月に国民政府は、ドイツとの間で5千万マルク相当の機関
銃(千梃)の購入契約を結ぶ。以降、ドイツから軍事顧問の派遣を受けるなど関係が親密
化する。
6
アメリカのルーズベルト大統領がスワンソン海軍長官の助言に従い、総額238百万ドルに上る海軍増強計
画を打ち出した。3年前に補助艦にかかる軍縮協定が締結したばかりであった。以来、世界は海軍軍拡競
争時代に突入した。
12
1934
10
1935
4
イギリス連邦諸国は、前年の「オタワ会議」の決定に基づき、大英帝国外から入ってくるものには高率の関
税(40、50~800%)をかけて、事実上阻止してしまうことを決めた。=イギリスも、ブロック経済体制を採用
(究極の保護貿易)。→資源のない日本は自活がいよいよ困難になり、対抗上、「日満ブロック」経済圏構
想を打ち出した。
ソ連が第二次5カ年計画に着手(共産主義で世界経済から孤立していたため、恐慌の影響を受けなかっ
た)。しかし、農業集団化政策の失敗により、30年代前半に数百万人の犠牲者が出たと言われている。
アメリカがルーズベルト大統領の主導でソ連を承認。スターリンによる大粛清が進行していたソ連であった
が、翌34年9月には国際連盟への加盟を認められた。
日英会商開催。英国は、英帝国のみならず第三国についても輸出の割当制限並びに指定制を日本に
迫ったため日本はこれを拒否。→英国ランシマン商相が英国の植民地全体を挙げて日本に対する貿易制
限の実施を声明。
英国とオランダ領インドネシアとの通商交渉により、オランダ領インドネシアは日本品に対して輸入防圧の
強硬手段を採る。
6月、日蘭会商開催。オランダは前年インドネシアを含めて緊急輸入制限法を成立させており、英国と同様
の貿易制限を迫り、交渉が難航した。
また、アメリカもラテン・アメリカ諸国との間に締約相手国との相互に関税を引き下げる互恵通商法をせい
りつさせた=アメリカ・ブロックの形成。
シナにおいては、日本品不買などの排日運動が激化。
スペインで、共産主義者・炭鉱労働者の暴動が起こり、カタロニアでは独立運動が起こったが失敗。しか
し、コミンテルン指導のもと共産主義者は人民戦線を結成して、同国の共産化を目指した。
10月、スェーデンの探検家ヘディンが蒋介石の諒解の下、四川―新疆間の測量に着手
(ヘディンは1935年2月に国民政府に測量結果を提出)。後に道路が建設され、完工後、ソ
連から蒋介石政府への援助物資の輸送に使われた。
日本が満洲での治外法権を放棄。
1月 貴州省遵義で開催された共産党政治局拡大会議において、毛沢東が新設の中央政
治局主任に就任し、紅軍の指導権掌握の第一歩を踏み出す。
4月、共産党は「全国民衆に告げる書」を発表し、反日統一戦線の結成を呼びかけ、5月3
日に「中国人民の対日作戦基本綱領」を発出=後日の民族統一戦線と国共合作への伏
線とも見られる要素を含んでおり、対日宣戦布告を行った。
5月、ワイマール共和国参謀総長であったゼークト将軍が国民政府軍軍事顧問に赴任(第
4代目)。→軍備の刷新=国民革命軍第87師、第88師、第36師の3個師団を創設(後年、
日本軍との上海戦で活躍した)ならびに交通の要所でのトーチカの建設による経済封鎖。
→包囲網を縮小することにより共産党軍の全滅を期す。なお共産党軍は、これに対抗す
るため従来のゲリラ戦術を放棄し、コミンテルンから派遣されたドイツ人軍事顧問のオッ
トー・ブラウン立案による陣地戦術を採用した。
蒋介石軍の攻撃により、瑞金の中華ソビエト根拠地が陥落。毛沢東率いる共産党軍主力
8万6000人が1万2千キロメートルの逃避行「大長征」を開始。
蒋介石が北京の蒋廷フツ大学教授をして、ソ連に対し、日本に対抗するための援助策を
打診させる。→翌35年にも同じ行為。なお、36年から蒋教授はモスクワ駐在大使となる。
(フェアバンク著『チャイナバウンド』より)
3月、病気のため帰国したゼークトに代わり、ファルケンハウゼン将軍が国民政府軍軍事
顧問に赴任し、軍備の刷新、拡充を進める。国民党正規軍の訓練、上海郊外での数百に
のぼるトーチカ等軍事施設構築に当たらせた。この軍事施設構築は、第1次上海事変停戦
協定における「中立地帯での軍事施設構築禁止」に違反する行為であった。
4月、満洲国皇帝溥儀が日本を訪問し大歓迎を受ける。
7 25 コミンテルンの第7回インターナショナル大会で8月、世界規模での反ファシズム統一戦線(人民戦線方式) 8月1日、中国共産党が対日戦争を挑む「抗日救国の為に同胞全体に告げる書=八・一宣
の構築を提唱し、日独を「コミンテルンの敵」と宣言。中国共産党に対しては、国民党との抗日民族統一戦 言」をパリで『救国報』に発表、全国の各党派と軍隊にお互いの抗争を止め、連合政府を
線を構築するよう指令した。これは、ソ連がヨーロッパにおけるナチス・ドイツの台頭と華北を占領した日本 つくって共同して日本と戦おうと呼びかけた。→抗日救国の運動が国内世論の広い支持を
からの脅威を危惧していたためである。この方式は、国際共産主義運動は活動の幅を著しく広めることを 得て、全土に広がっていった。
主眼としていた。
イギリスの対シナ経済使節リース・ロスが来日し、シナの幣制改革に共同で借款を供与しようと持ちかけ 10.29 毛沢東軍が陝西省の延安に入り、8万6千人が8千人に減っていたが、ここを新根拠
1936
2
4
る。その代償としてイギリスは満州国を承認しても良いという含みがあったが、広田外相は陸軍内部の「シ
ナ屋」との関係からロスの提案を拒否した。ために、イギリスは単独で金を出すこととなり、蒋介石を完全
にイギリスに追いやる結果を招いた。
アメリカが中立法を制定。大統領が戦争状態又は内乱状態にあると認定した国に対しては、武器や軍需
物資の輸出を禁じることを定めた。
地とする。→12月には排日連合軍の組織及び対日戦争を予定した国防政府の機構を樹
立し、抗日民族統一戦線を提唱。
11.3 国民政府が幣制の統一を強化し、全国的な市場の安定と育成を図るため、幣制改
革の実施を発表。これは、関東軍の華北分離工作に正面から対立するもので、イギリスが
財政的に支援した。
同月、蒋介石が国民党第5回大会において、抗日戦争の可能性を示唆し、年末にはウィー
ンで非公式にソ連政府と接触し、その際の援助を打診し始める。
12月、北平で大学生が政府に抗日を要求する「一二九運動」が発生し、全国に波及する。
スペインでコミンテルン指導のもと人民戦線派のアザーニア内閣が成立。→これをソ連が支援し、独伊が
反アザーニアのファランヘ党(フランコが率いた)を支援する形で、7月内乱に突入、スペインは悲惨な状態
になった。このとき英仏はアザーニア内閣側に同情を寄せ、多くの知識人が人民戦線側に付いて参戦し
た。→英仏ソによる独伊包囲網が形成された。
1月、上海で「各界救国連合会」が発足。
フランスで36年4月、人民戦線政府が誕生。
2月、国民政府代表団がドイツを訪れと秘密裡に武器貿易を拡大する「ハプロ条約」を締
結。ドイツは、1億マルクの借款を与え、これにより国民政府は毎年2千万マルク相当の武
器・工業設備をドイツから購入し、ドイツは国民政府から砲弾の製造に不可欠なタングステ
ンの輸入を確保した。また、同条約に基づき、湖南省でベンツの軍事用トラック工場を建設
した。この関係は、1941年7月、ドイツが汪兆銘政権を承認したため国民政府がドイツとの
国交を断絶するまで続いた。
9
10
1937
1938
1939
スターリンによる大粛清が最高潮期にはいる(~38年)37~38年の両年だけで約70万人が銃殺された= 国民党軍が湖南省、貴州省、雲南省、四川省にも軍を進め、支配下に置く。→9月には反
絶対的権力を掌握。翌37年6月には軍近代化の功労者トハチェフスキー元帥ら軍幹部を銃殺刑に処した。 中央の拠点であった広東をも支配下においた。
1929年から国外に逃れていたトロツキーも40年にメキシコで暗殺される。
3月、毛沢東が「抗日救国宣言」を発表。
5月、毛沢東と朱徳が国民党に対して、1か月以内の停戦と抗日を呼びかける通電を発し
た。→南京において国民党と共産党間で停戦についての協議が進行。
同月、全国各界救国連合会が組織され、政府に対し、内戦をやめ全国が一丸となって抗
日戦争を行うよう求める。
スペインで国家主席にフランコが就任。→39年1月に政府軍がバルセロナを占領し、ようやく内乱が終結。 6月、広西軍閥の李宗仁が広東の陳済棠と組んで国民政府に対し、全国を挙げて抗日戦
争を実行するよう要求。
前年の第7回インターナショナル大会宣言に対抗し、日独は「日独防共協定」を締結(目的:ソ連のコミンテ
ルン進出を防ぐこと。日本では陸軍の将校、外務官僚、『東亜新秩序』派知識人が主導)。→日独伊三国
防共協定成立へ(1937.11.25)。これは共産主義に対する共同防衛が目的であった(第2条 締約国は共産
インターナショナルの破壊工作により国内の安寧を脅かされる第三国に対して、防衛措置を採り、また本
協定に参加することを勧誘すべし)。
7.7 蘆溝橋事件。翌日、コミンテルンが中共に指令を発する。①あくまで局地戦を避け、日支の全面的戦
争に導くこと。②下層民衆を扇動して国民政府をして戦争開始のやむなきに立ち至らしめること。③紅軍は
(中略)パルチザン的行動に出ること。④共産党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵並びに大衆を獲得
し、国民党を凌駕する党勢に達すること。
8.13 中華民国国民党正規軍が日本海軍陸戦隊に総攻撃をかけ、第2次上海事変勃発→日華事変へと拡
大。 9.13 中華民国国民政府が、蘆溝橋事件以来の日本の軍事行動を
国際連盟に提訴。→本件を付託された極東問題に関する23国諮問委員会が同月21日、日中両国及びドイ
ツ、オーストラリアの4カ国に参加を呼びかけたが、日独は拒否。
10.5 ルーズベルト大統領がシカゴで「世界に不法状態を生み出している国家は、平和を愛する国民の共
同行動によって国際社会から、伝染病患者の如く隔離されなければならない」と演説し、暗に日本を非難し
た=「隔離演説」。 しかし、同月、ローマ法王ピオ11世は、全世界3億のカトリック教徒に、「シナ事変は侵
略ではなく防共戦であるから、共産主義の危険のある限りカトリック教会と信徒が日本の防共努力に遠慮
無く協力・支持すべき」ことを指令した。
11.3~24 国際連盟が「日本の軍事行動は(日本が加盟している)九カ国条約違反と認定したため、19カ
国が招請されて開催された九カ国条約国会議(ドイツは参加を拒否)は、米英ともに、経済制裁など実質的
に効果のある対日政策を樹立しようとの意欲を欠いていたため、なんら見るべき成果を挙げなかった。
この年から39年にかけ、ソ連がモンゴル人(チベット仏教のラマ僧を含む)2万人以上を反革命罪や日本へ
のスパイ容疑で処刑。同じ頃、ソ連がドイツとポーランド分割の秘密協定を結ぶ。
12.13 日本軍が南京を占領。
広田弘毅内閣が「満州開拓移民推進計画」を決議し、1936年から1956年の間に、500万人
の日本人の移住を計画、これを政府により進めた。
蒋介石がソ連との間で進めていた秘密交渉が秋にほぼ固まる。内容は、ソ連からの軍事
援助などの後に実現することなど(エール大学ダリン著『ソビエトロシアと極東』より)。
12月、西安事件起こる。中共軍との戦闘を督戦に来た蒋介石を国民党東北辺防軍総司令
(東北軍の首領)張学良及び西北軍の楊虎城が監禁した(張学良は前年から周恩来と協
議を重ね、共産党の影響を受けていた)。周恩来らの共産党幹部が西安に入り、スターリ
ンの命を受けて蒋介石に内線の停止などを迫った。共産党の手から解放されるに当たり、
蒋介石は対中共戦を止め、これに代えて対日戦を行うことを約束した。
日本の人口が7千万人を超える
7.14 蒋介石が駐ベルリン大使・程天放をしてドイツ外相ノイラートに「日本と戦う」旨告げ
させるとともに同国の態度について質問させる(梁シフェイ著『支独関係』より)。
7.19 国民政府がソ連との間で相互援助協定を結ぶよう働きかけ。→8.2蒋介石がソ連大
使と会談した結果、同月21日に中ソ不可侵条約が締結され、9月以降国民政府はソ連か
ら、借款を得るとともに3千余名の義勇隊、爆撃機、戦闘機、機関銃・弾薬など多大の人的
物的援助を受ける。
9.23 蒋介石が中共の合法的地位を承認するとともに、第2次国共合作成立。同時に中共
軍を含めた全軍の再編を実施。
9.26 毛沢東は、「中日戦争における共産党の基本方針は、全力の7分を党勢拡大に、2
分を国民政府との対応に、1分を抗日に当てる」旨の講演を行う。=抗日戦は国民党に押
しつけ、その間に党勢拡大に努めてやがて国民党を圧倒して政権を奪取する陰謀。
11.11 蒋介石が派遣した軍事使節団がスターリンに会い、「日本軍との戦いにソ連が参戦
するよう」求める。スターリンは、「今ソ連が参戦すると国際世論において日本が有利にな
る」として「即時参戦を拒否する」旨、回答したが、同年年末には軍事顧問の派遣、国民政
府軍20個師団の装備供給に同意し、翌年3月には武器購買のための3千万米ドルの借款
に応じた。→37年9月から41年6月の独ソ戦勃発までにソ連が国民政府に提供した武器
は、飛行機924機、戦車82両、自動車1516両、大砲1140門、軽機関銃9720挺、歩兵銃5万
挺、弾薬1億8千万発などに及んだ。
11.26 国民政府が重慶に移転。
2 7 中華民国国民政府とソ連が航空協定を締結。
5
ソ連が、満洲国を承認。次いで7月にはシナに派遣されていた軍事顧問全員に帰国を命じた。
7 1 米国国務省が同国内の航空機及び航空機部品の製造業者及び輸出業者に日本の商社に航空機及び航
空機部品を輸出しないよう回章を回す。堀内大使がこれに抗議。
9 29 ドイツ系住民の多いチェコスロバキア・ズデーテン地方の紛争にヒトラーが介入し、ドイツ領に編入しようと
~ したため、これを憂慮したフランス(ダラディエ首相)の呼びかけで英国(チェンバレン首相)が動き、英仏独
30 伊4カ国首脳によるミュンヘン会談が開催された。チェンバレンは、即時ズデーテン占領を主張する強硬な
ヒトラーに対抗できず「これ以上の領土要求を行わない」との約束をヒトラーと交わす代償としてヒトラーの
要求を全面的に認めることになった。
11
近衛文麿首相が「東亜新秩序建設」宣言を行った。これに反発した英(シナに権益を有していた)と米(シナ 日本の海外在留者総数は約百万人で、移民計画は成功したとはいえない。
への経済進出を目指していた)が、以降、公然と重慶の国民党政府を支援に乗り出す。
3
チェコを占領したドイツが、チェコスロバキアを解体させる。
西欧諸国の対日経済封鎖の結果、この年の日本の輸出額(満洲、関東州、シナへの輸出
を除く)は、37年に比べ23%も減少し、必要とする原材料や食料の輸入も確保困難になっ
た。→自給自足主義の思想を強め、日満支ブロック経済化並びに大東亜共栄圏建設の構
想を生ぜしめることとなった。
西欧諸国の対日経済封鎖の結果、この年の日本の輸出額(満洲、関東州、シナへの輸出
同月、イギリスとポーランド間で「戦争保障」と呼ばれる約定が結ばれた。これは、ポーランドが攻められた を除く)は、37年に比べ23%も減少し、必要とする原材料や食料の輸入も確保困難になっ
場合、イギリスはポーランドを守るために戦争も辞さない、という内容であり、後年、同約定はイギリスの大 た。→自給自足主義の思想を強め、日満支ブロック経済化並びに大東亜共栄圏建設の構
想を生ぜしめることとなった。
失策であったとの指摘がある。
4
フランコ軍がマドリードを制圧し、スペイン内戦が終結。スペインは共産化を免れた。
7 26 アメリカが日米通商条約廃棄を通告。→翌年1月26日失効。以来アメリカは、①日本に対し経済的な圧迫
を加え(産業基幹品目の輸出制限)、②蒋介石政権への援助を篤くし(5千万ドルの借款及び武器供給)、
③英国、オランダと提携して日本の周辺に包囲体形をとった。→英国、フランスもこれに追随。
8 23 ドイツがソ連と不可侵条約を結ぶ。これは、日中戦争の解決を図れない日本にはソ連に対して牽制能力が
欠けていると見たからであった。一方のソ連はドイツとの戦争は避けられないと観ていたが、当面はドイツ
と結んでドイツが英仏と戦うよう仕向け、その間に戦備を整える=時間稼ぎ=という戦略であり、そのため
には「独ソによるポーランド分割」という密約を付していた。→日独伊三国防共協定の強化交渉を進めてき
た平沼騏一郎が内閣総辞職→交渉打ち切り。
9 1 前日にポーランドと相互不可侵条約を結んだばかりのドイツがポーランドに侵攻した=完全な騙し討ちで、
英仏への敵対行為⇒9.3英仏がドイツに宣戦布告し、第2次欧州大戦始まる。これは、5月のイギリスと
ポーランド間における「国境保障秘密協定」に基づく行為であった。もし、この約定がなければ、ポーランド
はドイツのダンチッヒ返還要求を拒否せずに受け入れ、それによってドイツによるポーランド侵攻は避けら
れた可能性が強いからである(ダンチッヒはドイツ人の都市であり、当時、ほとんどのヨーロッパ政治家は
返還は当然と観ていた。イギリス人の多くもそうであった)。⇒そうなれば、ドイツは軍を東に向けソ連との
戦争に踏み切ったであろうとの観測がある。
9 7 ソ連軍がポーランドに侵入。23日にドイツとポーランドの分割協定を結ぶ。11月にはフィンランドに侵入し、
翌年3月、領土を割譲させた。・・・これにより、ソ連は翌月国際連盟から除名される。
11 15 日本政府が仏印経由の援蒋物資輸送の停止を申し入れ。
9月~年末までの3ヶ月間で、ドイツ潜水艦隊が英国商船を222隻撃沈。→翌40年は1056隻、41年は上半
期だけで760隻の英国商船と12隻の英潜水艦を撃沈した。
1940 春 ~ カティンの森事件が起きる=ポーランドの東半分を占領したソ連が直ちにポーランド軍を解体し、ほぼ全て
夏
の将校をはじめ捕虜2万5千人をソ連内の収容所に送り、そのうえで将校、上級官吏、学者、ジャーナリス
ト、聖職者など4400人を処刑した。1943年、ソ連領内に侵入したドイツ軍がカティンの森で処刑された約4
千の穴に埋められた死体を発見し、この蛮行を世界に向け暴いたところ、ソ連は「ナチスが自らの虐殺責
任を転嫁しようとしている」と反論した。さらに、後のニュルンベルク裁判でも、この件でドイツを告発した。こ
のため長らくナチスの仕業とされていた。(英国は暗号解読により、米も1944年の大統領密使による調査
で事実を知りながら口を拭っていたが、1990年、ゴルバチョフがやっとスターリンの命令によるソ連軍の犯
行であることを認めた)
9月、蒙彊で蒙古人が察南、晋北、蒙古連合の三自治政府を統合して張家口に親日の蒙
古連合自治政府を樹立。
4月、日本の支援を受け汪兆銘が「中華民国南京政府」を樹立。前年樹立された蒙古連合
自治政府はその傘下に入る。→11月、日本が承認し、上海にあった公共施設等の外国の
資産を全て同政権に引き渡す(戦後、蒋介石はこれらを諸外国に返還した)とともに独立を
約束。
5 10 ドイツ軍がオランダ、ベルギーに侵攻し、12日には仏軍のマジノ要塞を側面から攻撃。仏軍は総崩れにな 5.18 日本軍が重慶などを大規模爆撃。
り、フランス国内で英仏軍が分断される。
6 4 袋の鼠となった英軍33万7千がダンケルクからの撤退が完了。この作戦には海空両軍が死力を尽くして協
力し、チャーチル首相は全軍救出のため個人所有のヨットをも総動員する指令を発した。陸軍が誇る優良
な装備を惜しげもなく捨てて、徹底した人命救助に全力を尽くしたことによる全軍生還であった。→翌日、
敗軍の将であるゴート大将が英国王から軍人としての最高勲章を授与される。
6 14 ドイツ軍がパリを占領。 フランスは北部をドイツに南東部をイタリアに占領される。→(7月、ヴィシーに親
独のペタン内閣が成立)
アメリカが日本の重慶爆撃を非難。同月、海軍大拡張法案成立。
6 15 アメリカ議会が、大統領に国防上の必要に基づく貿易統制の権限を与える国防強化法(シェパード法)を成
立させる。→7.25ルーズベルト大統領が「屑金属及び石油輸出は許可制の下におかれるだろう」と声明。た
だし、国務省がただちにこれを取り消し。
7
ソ連がバルト三国を一方的に併合。その後ルーマニア領に進駐。
対してアメリカはバルト三国から領事を引き上げ、事実上ソ連への併合を追認した。
8
ドイツ空軍が英本土の爆撃を開始。英空軍はドイツ空軍の3分の1の兵力で立ち向かい、翌年6月まで空
襲に耐えて、ドイツ陸軍の上陸を許さなかった。 英国本土征服に失敗したヒトラーは、日本に対し、英領
シンガポール攻略をそそのかし、日本は、後にこれに応じた。
9 23 日本軍が北部仏印に進駐。
9 25 アメリカが蒋介石政権に対し、ドル借款の供与を開始。翌日、くず鉄・鉄鋼等の対日禁輸制裁を発動。
9 27 日独伊三国同盟調印(その直前、5月から6月にかけてし、パリをも制圧した。仮想敵国は英、仏、米)
12
アメリカが太平洋艦隊の主力をハワイに集中配備。
1941 1
アメリカが「対ソ道義的禁輸」を撤廃。また、3月にはソ連との間に「米ソ東亜通商協定」を締結し、ソ連への
宥和政策をより強化した。
3 11 アメリカで反枢軸国を対象とした武器貸与法が成立。以降アメリカは連合国(英、ソ、仏、シナ)に武器供与
を開始、総額500億㌦余りに及んだ。
4 13 松岡外相がモスクワに飛び、5年間の日ソ中立条約を結ぶ。
同月、マニラで、米国のフィリピン駐在高等弁務官、同国アジア艦隊司令官、英国東亜軍司令官及びオラ
ンダ外相が対日政策で会議を開催。1931年以降西欧諸国は高率関税、輸入制限法、割当制度、付加税、
貿易ブロック等により日本の国際通商権の自由を制限してきたが、この会議により日本に対する経済的圧
迫は一層の拍車をかけた。6月にはシンガポールで英国が蒋介石政権代表との軍事会議を開催。西欧列
強及び中華民国(重慶政府)は対日軍事包囲策を推し進める。
4 16 日本は平和的解決を目指したことから日米交渉(野村大使-ハル国務長官)が始まる。しかしアメリカは、
対日強硬姿勢を貫いた。→11月26日「ハル・ノート」が示され、交渉決裂となった。
前年来、対独戦で、空襲と海上封鎖により窮地に立たされてきた英国が、ソ連に対し対独参戦を求めてき
たところ、ソ連が戦後見返りを得ることを条件に対独戦の準備を進める。
6 22 ドイツがソ連の機先を制して、ソ連領内に攻め入る=独ソ開戦。ソ連の反撃開始は11月だった。両国間
の平和に期待していた日本国民の間では、ドイツとの同盟に引き込んだ連中は国を誤ったものだとの認識
が高まるとともに、独ソ戦への不参加を決める。
7 21 日仏間の仏印の共同擁護に関する合意。
7 25 アメリカが国内の日本資産を凍結。これにならいイギリスが26日、オランダが28日に日本との間の商業及
び航海条約を廃棄。
7 28 日本軍が南部仏印に進駐開始。
8 1 アメリカが対日石油禁輸・経済断交を発表。これは、日本軍の南部仏印進駐の数週間前から検討されて
いた。英国も日本との通商を凍結。→日本はオランダ領東インド諸島の石油を確保する以外に自立・自存
の道がなくなる。そのため、ロンドンのオランダ亡命政権に対し、石油を売ってくれるよう交渉した(代表者
は小林一三元商工大臣)が、イギリスのコントロール下にあった同政権は日本の申し出を断った。
8 14 大西洋ニューファウンドランド沖に停泊した英戦艦プリンスオブウェールズ号上でルーズベルトとチャーチ
ルが会談し、大戦後の世界構想(領土問題、植民地諸国の統治のありかたなど)について了解に達し、調
印=大西洋憲章。アメリカは未だ、参戦していなかったが、ルーズベルトは日本との開戦を必至と見てこの
会談を行った。一方、チャーチルは、アジアの植民地を失いたくなかったので、その適用範囲からアジアを
除くことを欲していたがルーズベルトに妥協した。
11
11 26
12 5
12 8
1942
11
独ソ開戦を喜んだアメリカは、ソ連を連合国陣営に迎え入れ、この月、国務省が総額10億ドルに上る軍事
品の対ソ供給を発表。
アメリカ・ハル国務長官が「ハル・ノート」を日本に提示→交渉決裂。なお、ハル・ノートの実の起草者は、
ハリー・ホワイト財務次官補で、彼は、NKGBの在米責任者ボリス・バイコフ大佐指揮下のスパイだった。
(戦後スパイ容疑で召還されるも、その3日後にジギタリスの大量服用で死亡。ソ連側に暗殺されたとの説
も強い。)ホワイトは、ドイツに敗れかかっているソ連を救うため、日本が絶対受け入れられないと予想され
る条件を並べ、実質上の国交断絶文書をつくったもの。 (産経H16.9.1渡部昇一筆「正論」から)
ソ連に攻め込んだドイツが最前線のモスクワ近郊における戦闘で大敗→退却へ。
日本が真珠湾を攻撃し、日米開戦。同日、マレー半島に上陸し、英軍の拠点シンガポールへの進撃を開
始。また、フィリピンの米空軍基地を爆撃し、米軍機を壊滅させた。
英米ソ中ほか計26カ国が、自国の資源を戦争のために使って、日独伊3国との戦争を遂行することを宣
言。同月13日には、うち9カ国代表により、ドイツの戦犯を裁くための手続きを定めたセント・ジェームス宣
言が発表される。これは過去の戦史にはなかった、「人類の法廷」と呼ばれる考え方で、後のニュールンベ
ルク裁判・東京裁判の雛形となった。
11.30日華条約締結。日満支共同宣言。いずれも戦乱のない平和国家建設を希求したも
の。一方、英・米は重慶の蒋介石政権を承認。
1月 新四軍事件起きる。揚子江の南に展開していた中国共産党新四軍が、蒋介石軍と
の話し合いの結果、黄河の北方に移駐することとなり、移動を開始。後に残った非戦闘員
の多い司令部約1万人が、日本軍との衝突を避けるために指定外のルートを行軍してい
たところ、蒋介石軍の待ち伏せに会い、3日間の戦闘で5~6千人が虐殺された。捕虜に
なった数千人は、過酷な取り扱い(女性は性的暴力)を受けた。そのため、生き残った者
は3百人ほどに過ぎなかったと言われている。
1 20 ドイツがヴァンゼー会議において「ユダヤ人の最終処理」を決定。
1 21 東條首相が議会でフィリピンとビルマの独立を認める決意を表明。(なお、アメリカは1933年の「フィリピン
独立法」において、10年間の準備期間の後に独立を認めることを決定していた。)
2
ルーズベルト大統領が太平洋沿岸部から12万人の日系人すべてを退去させる行政命令に署名。→これら
日系人は強制収用所に収容された。
1943
6 4 ミッドウェー海戦。日本海軍が空母4隻などを失う大敗北を喫する。
7 2 米軍がウォッチタワー作戦を発動し、日本海軍が先取したガダルカナル島での戦闘が始まる。→翌年2月1
日、日本海軍が撤退作戦を開始、餓死寸前の将兵約1万人を救出。
日本が占領国の独立化を促進=軍事占領下ではあったが、8.1ビルマ独立。同年10.14フィリピン独立。マ
レー、インドネシア、インドシナで現地政権樹立。また、チャンドラ・ボースらがシンガポールで自由インド仮
政府を樹立。
9
イタリアが降伏(その4か月前、独伊軍はアフリカ戦線で敗れ、拠点チュニスが陥落していた)。既に伊政府
は内部崩壊し、ムッソリーニは解任されていた。
11 5 東京で大東亜諸国会議開催。「太平洋憲章」と呼ばれる共同宣言を採択。
6
11 27 ルーズベルト、チャーチル、蒋介石がカイロで日本に無条件降伏を求めるなど連合国の対日基本方針を
定めた「カイロ宣言」に署名(12月1日発表)。日本の領土に関する取り決めはポツダム宣言に引き継がれ
た。=満州、台湾の返還並びに第一次大戦以来太平洋で奪取・占領した全ての島嶼の剥奪。朝鮮の独
立。
1944
3
米英仏中など16カ国がロンドンに連合国戦争犯罪審査委員会を設置。
6
11
1945 2
2
1945
米英など連合国軍32万余がノルマンジーに上陸、8月にパリを解放。
重慶に連合国戦争犯罪審査委員会極東・太平洋分会が成立。
シナの蒋介石政府がアメリカから航空機200機を購入する契約を締結。
ヤルタ会談。米・英がソ連に対日参戦を求め、ドイツ降伏後90日以内にソ連が日本に対し参戦する見返り
としてソ連に満洲の権益を与え、南樺太を「返還」し、日本の固有の領土であるクリル諸島を「引き渡す」と
の秘密協定を結んだ。また、国際連合構想にソ連が同意する見返りにポーランドやバルト3国をソ連の勢
力圏と認めた。
3
仏領インドシナにおいて、9日ベトナムが、13日カンボジアが独立を宣言し、4月8日にはラオスも独立を宣
言。
4 30 ヒトラーが自殺。これにより、ドイツは敗北=無条件降伏。
8 6 アメリカが、広島に原子爆弾投下。市民20万人以上が犠牲となる。9日には、長崎に投下、犠牲者7万人以
上。投下命令を下したトルーマンに罪の意識はなかったが、チャーチルは、良心の痛みを感じていた。
1945
8 9 ソ連が相互不可侵条約を破って、満州に攻め込む。→捕虜60万人をシベリアに抑留。うち6万人が死亡。
1945
8 14 日本がポツダム宣言を受諾したことを報じて、ニューヨーク・タイムスは、「太平洋の覇権をわが手に」の大
見出しのもと、「われわれは初めてペリー以来の願望を達成した。もはや、太平洋に邪魔物はいない。これ
でアジア大陸のマーケットは、われわれのものになったのだ」と書く。
1945
8 16 マッカーサーが記者会見で、日本の「軍隊の無条件降伏」を、「国家の無条件降伏」とすりかえる。ドイツ降
伏に際して、軍隊を残し、ナチスをドイツ人の手で解体させ、教育はドイツの責任で行うことなどを認めたの
とは大きな違い。→占領の目的は、日本の国家社会体制、文化、伝統の徹底的破壊
1945
1945
9 2 GHQが日本に上陸=ポツダム宣言の実効としての日本の降伏
9 8 戦犯狩り開始。「A級戦犯」として350人が巣鴨刑務所に。海外でB、C級戦犯として投獄された者は、5000
名を超え、1068名が絞首刑や銃殺刑に処せられた。
GHQ、公職追放令により21万人を追放。
GHQ、神道指令により、神道と国家との結びつき及び「八紘一宇」の使用を禁止。また、民族の位相やロマ
ンを伝える伝承や神話の抹殺を命令。さらに、教育管理令を発令。「民族の記憶を消すため」教育勅語及
び歴史・地理・修身の教育を禁止。=戦時国際法違反・・・戦後偏向教育の原因
8月23日、ドイツ軍がスターリングラードを攻撃。以降5か月にわたる攻防の末、翌年1月31
日、ドイツ軍が降伏。→降伏した約9万1千人のドイツ軍のうち故国に帰還できたのは5千
人。
1月9日、日本が南京政府に対し上海などにおける治外法権を撤廃(租界還付及治外法権
撤廃に関する日本国中華民国間協定)。→米英両国も2日後に重慶政府に対し治外法権
撤廃・租界返還を表明したが米英両国の租界は日本の占領下にあったため実効性はな
かった。
12
1946
1948
1949
1950
1951
1952
1952
1962
1964
1979
モスクワにおいて、米英ソが戦犯裁判に関する最終協議を行い、ニュールンベルク(ドイツ)と東京に国際
軍事法廷を設置し、各国にも軍事法廷を設ける旨の方針を決定。
1 19 GHQ、「極東国際軍事裁判所」設立を発令。=戦勝国が敗戦国を裁く違法な裁判。
この頃からソ連の支配下におかれた東欧諸国が次々に共産化する。
1 12 極東国際軍事裁判の判決言い渡しが終了。A級戦犯として訴追された被告人は有罪とされたが、国際法
の専門家であるパール判事(インド)がただ一人、無罪の意見書を提出。絞首刑7人、終身刑16人、有罪禁
固刑2人であった(他に、2人は裁判の途中で病死し、1人は訴追免除)。
アメリカが対外援助法を成立させる。これは、欧州経済の健全性回復を通じて共産化に対する抵抗力を涵
養することを目指したものであった=ソ連への敵対姿勢の明確化。
9月 中国共産党軍が瀋陽で50万の蒋介石軍を包囲・殲滅し、満州から同軍を駆逐する。
12 10 国連総会で「世界人権宣言」が採択される。日本が国際連盟規約に「人種平等」の一項を盛り込むよう提
案して葬り去られてから、29年後のことであった。
61
中国共産党軍が4月20日から始めた揚子江渡河作戦の成功により蒋介石軍を破る。
10 1
中国共産党軍が蒋介石軍をシナ大陸から追い落とし、中華人民共和国が成立。
6 25 北朝鮮軍が38度線を越えて韓国軍を攻撃し、朝鮮戦争が起きる。アメリカは国連軍を組織してこれに対抗
するも、一時は北朝鮮軍が釜山に迫るほどの勢いで、国連軍は大苦戦。
10
マッカーサーがウェーキ島でトルーマン大統領に「東京裁判は誤りだった」と告白。
5 3 アメリカ上院軍事外交合同委員会の聴聞会においてマッカーサーが「日本の労働力は質的にも量的にも
優秀である。・・・日本の労働者は、労働の尊厳というものを発見していた。これほど巨大な労働力を持って
いるということは、彼らには何か働くための材料が必要だということを意味する。・・・しかし、日本は絹産業
以外には固有の産物はほとんど何もない。・・・もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、1千万から1千2
百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていた。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動
機は、大部分は安全保障の必要に迫られてのことだった」(=大東亜戦争は侵略戦争などではない)との
発言を行った。
→(セイロンに続き、)アメリカも日本に対する賠償要求を放棄。これに、イギリス、シナ(蒋介石政権)、オラ
ンダも追随。→講和会議へ。
4 27 前年9月18日に、アメリカをはじめとする連合国と日本との間にサンフランシスコで締結された平和条約が
発効し、日本が主権を回復。
3
チベットで中国共産党の支配に抵抗する反乱がおきる。中国軍が鎮圧する中、ダライ・ラマ14世がインドに
亡命。
10 20 国境紛争が絶えなかった中、中印戦争勃発。11月20日、インド軍が壊滅的な被害を出して、戦争が終結。
訪中した佐々木更三・社会党衆議院議員(後の委員長)に毛沢東が次のように語った。
「(日本皇軍が中国を『侵略』したことを)申し訳なく思うことはない。日本軍国主義は中国
に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれた。日本皇軍なしには、われ
われが権力を奪取することは不可能だった。過去のああいうことはよい事であり、われわ
れの助けになったとも言える。ごらんなさい。中国人民は権力を奪取したのだ。(東京大学
近代中国史研究会訳『毛沢東思想万歳』)・・・蘆溝橋事件が典型であるが、中国共産党
は、謀略まで使って国民党軍と日本軍の衝突をあおり、戦火を拡大させ、自国民に甚大な
被害を与えたのである。
2 17 中越戦争勃発。ポル・ポト政権がヴェトナム軍により崩壊させられたため、カンボジアの友好国であった中
国がヴェトナムに侵入したことから始まった。ソ連から最新兵器の供給を受けていたヴェトナム軍が中国軍
を圧倒したため、中国軍は3月16日に撤退した。