2013 年 1 月 10 日ロイヤリング講義 講師:弁護士 小林 徹也先生 実務からみる憲法と労働法 1.はじめに 私は 1994 年に弁護士登録をしてからこれまで、刑事・民事と様々な事件を扱ってきたし、 最近では裁判員事件も扱っているが、中でも比較的多く扱ってきたのが「労働事件」であ る。その中でも特に労働者側に立って弁護をすることが多かった。 私は、大学時代は特に労働法を学んだことはないし、司法試験でも選択科目として労働 法を学んだわけではない。つまり、労働法を体系的に学んだことはない。しかし、それで も弁護士になって実際に事件に触れる中で(生きた実務の中で)知識も身につけてきた。 今日はそうした生きた実務の中のから見た「労働法」という観点で講義を行いたい。 2.弁護士として扱う「労働事件」 最近私が扱う労働事件は減ってきた。これまで労働組合を通じて事件の依頼が来ること が多かったが、労働組合の組織率が 18%を下回り、労働組合が主体となる規模の大きな事 件が少なくなってきたことも一因であると思われる。最近では個別の労働者の小さな事件 を扱うことが多くなっている。 そもそも、 「労働事件」とは、労働者としての人権が侵害された事件であると言える。 その例としては、①不当解雇等を前提とした地位確認・賃金請求事件、②思想や男女差別 を理由とする賃金格差についてこれを損害賠償として請求する事件、③業務中等に事故に あった場合の労災事件、④労働委員会(≠裁判所)に対して行う不当労働行為(=「組合 活動」を理由とする不当な取扱いなど)救済申立事件がある。 弁護士は学者ではない。つまり、弁護士にとって法律は、事件の依頼者を救うという「目 的」を実現するための「手段」に過ぎないのである。どんなに立派なことが書いてあった としても、目の前の依頼者を救えないのであれば、弁護士にとってその法律は意味がない ものとなってしまう。 法律家は事実を法律に当てはめて結論を出していると考える人が多いかもしれないが、 実際はそうではない、実務を行って初めて実感するが、法律家はまず結論を決めてそれに 合わせて根拠づけを考える、という発想になっている。特に憲法や労働法関連の事件では、 考えられる根拠づけの幅が広い。そのため、裁判においては裁判官の心証が非常に重要と なってくる。ここで気を付けてほしいのが、裁判官は決して中立ではない、ということだ。 以前私が扱った損害賠償請求訴訟についてもそれが当てはまる。この事件は、依頼者が現 場で下半身不随となる大けがを負い、会社に対して損害賠償を請求したものだった。とこ ろが、この会社には社長個人名義の財産はあるものの、会社名義の財産がほとんどなく、 会社に損害賠償を請求しても満足な額が得られない、という状況にあった。そんな折、訴 訟が進む中で、ある日私に裁判官から電話がかかってきた。 「(社長個人に請求するために) この法律構成をとってみてはどうでしょうか」この裁判官も、原告がなんらの補償も受け られないというのは見過ごせない、と思ったのだろう。 この例からわかるように、訴訟においては裁判官に「この人たちを救わなければならな い」と思わせることが重要となる。街でのビラ配りや国会議員への要請といった活動を通 して世論を喚起し、裁判所に「何とか救わなければならない」と実感を持たせることも重 要である。 3.労働法の存在意義 そもそもなぜ労働法という分野があるのか。 「もし労働法がなかったら」というところから スタートして考えていきたい。 4.民法の原則からする雇用契約 もし労働法がなかったとしたら、雇用契約に「私的自治の原則」 (民法の原則)が及ぶと いうことになる。 具体的にいえば、「土日休みなし」 「1日15時間労働」「時給300円」「男性時給10 00円、女性時給500円」 「使用者の解雇の自由」といった内容の契約を締結することも 当事者が了解していれば原則自由となる。ストライキは債務不履行・業務妨害とみなされ、 損害賠償・刑事責任追及がなされる原因となりうる。 こうした事態を避けるために、今では労働法によって、最低賃金は法定され、自由解雇 も禁止され、正当な理由に基づくストライキも認められている。 なぜこのような労働法が必要なのか。 私が扱った事件において、ある若い裁判官が発した言葉にこのようなものがある。それ は「労働契約というのは、労働者と使用者がお互いの自由な意思で結んだもの。とすれば、 いずれかの意思でその契約を終了させることは本来自由なはず。労働者が自由に辞めるこ とができるなら、会社だって自由に解雇することができるはず」という言葉であるが、本 当にそう言えるのだろうか。 5.当事者の自由・平等を建前とする民法からする矛盾 確かに、近代市民社会形成期には、前近代に存在した身分による支配(ex 従弟制度)か らの脱却、つまり人は合意のみに拘束されるとする「民法の原則」を厳格に貫くことは重 要な意味を持っていたといえる(ここでは労使両当事者の対等が前提とされていた) 。 しかし、歴史が進むにつれこの考え方には矛盾が生じてくる。資本家と労働者の格差が 生じ、労働者は資本家に従わざるを得なくなってきた。金持ちはどんどん金持ちに、貧乏 人はどんどん貧乏になるという事態が生じてきたのである。 これは、労働者(=「労働」という商品を売る者)は、初めから、「労働」を売らなけれ ば生活していくことができないという特殊性(弱み)を持っており、使用者に対して経済 的従属を強いられるのが普通だからである。 断言はできないが、この矛盾に対して生まれた労働者の不満(社会不安)の解消のはけ口 として戦争(新領土・資源の獲得)が発生したという考え方もある。日本による満州支配 などがそうだ。 そして、戦争に負けてこの方法に行き詰った日本は日本国憲法を制定し、労使関係を見 直す労働法を制定することとなるのである。 6.日本国憲法を頂点とする労働法制の歴史的変容 日本国憲法25条1項は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を 有する」と定め、近代市民社会の「私的自治」を大幅に修正することを規定している。 これにより、憲法は「形式的な契約原理にとらわれない」ということを宣言していると いえる(誤解を恐れずに言えば、 「自己責任」をある程度否定したとも考えられる)。 さらに、 「使用者の権利」について憲法は特に規定していない。もちろん「使用者の権利」 も22条・29条等により、一定のレベルでは保障されている。しかしこれは「公共の福 祉」による修正を当然の前提としているのである。このことが意味するのは、日本国憲法 は労使を対等なものとしては捉えていないということだ。労働者は使用者に対し従属的に ならざるをえないため、私的自治の原則を貫徹しては「最低限度の生活」が実現できない。 そういう意味では、先の若手裁判官の発言は、歴史的大実験の結果できた「憲法」の趣 旨を全く理解していない発言といえるのである。司法試験の勉強だけで学べるものではな く、実務を経験して初めて「肌で感じる」ことができる。 7.大企業でも発生する労働者の人権侵害―扱った事件から ここにいる皆さんにとっては、労働事件はあまり身近なものでないかもしれない。労働 事件というと、いわゆるブラック企業と呼ばれるような町の小さな会社で発生すると考え てしまいがちだが、大企業であっても労働者の人権侵害は起こりうることなのである。以 下、私の扱った 3 つの事件を紹介する。 ①国労組合員に対する差別問題 国鉄時代に労働組合に加入していた人が JR に移ることを拒否されたという問題である。 1987 年の民営化により JR になってからも、会社は国労組合員に対し「労働組合(国労) を脱退しろ」という圧力をかけられることも多かった(個別の面談という名目で、 「職」 「昇 進」を脅しに脱退を迫っていた)という。 多くの国労組合員が労働委員会に不当労働行為救済申立を行い、労働委員会のレベルで は国労側が勝利するも、命令の取消訴訟において敗訴することが多かった。なお、2010 年 11 月には JR が労働組合に対し解決金を支払うことで合意が成立し、国鉄問題は一応の解 決を見た。 ②倉敷紡績事件 大阪地裁平成 15 年 5 月 14 日(労判 859 号 69 頁)事件。 会社が日本共産党及び共産党員を嫌悪し、従業員が共産党員であることを理由に昇進昇 給などにおいて違法に差別していたとして、思想差別の事実を認め、差額賃金相当損害金 及び慰謝料の請求が認められた事例。 ここでポイントとなるのは、賃金差別は「民事責任」の対象となるばかりではなく、そ のものが「犯罪」であり、 「刑事責任」の対象ともなりうるということである。 そうであるにもかかわらず、裁判までしないと労働者の人権を回復することが困難である という実態があることは、やはり問題である。 しかし、最近はこういった大きな労働事件は減少している。というのも、非正規や派遣と いった形態での雇用が広がったため、企業はこれらの労働者を容易に解雇できるからでは ないだろうか。 ③セクハラ事件 労使の従属関係が裁判官に理解され難いのと同様に、女性と上司との力関係は、女性の 裁判官でもなかなか理解してくれない。それを実感したのが、若い女性社員が原告となっ たセクハラ事件である。 彼女は「いつか建築デザインをしたい」という考えのもと、企業での事務仕事を経て、 やっとの思いである小さな建築会社に就職することができた。 彼女が 1 日目に出社すると、歓迎会と称して、社員全員で居酒屋に行くことになったが、 その後他の社員が帰宅し、社長と女性が二人きりになってしまった。女性は帰りたいと思 いながらも、社長の誘いを断れず、2 次会としてバーについていってしまう。そこで、社長 は女性に対し仕事の話に乗じて「彼氏いるの」などと言いながら、女性の腰に手を回す、 肩に手を回す等の行為をおこなった。 (仕事の話をしながら行われると、聞かざるをえない。 セクハラの典型。 )社長に対してであること、やっとのことで就職できたこともあり、断れ なかった。その後、帰宅した女性は自分が拒否できなかったことを後悔し、今後は必ず断 ろうと強く心に誓った。 2 日目出社以降も、図に乗った社長は、女性をしつこく飲みに誘ってきたが、女性はこれ を断り続けた。すると、しだいに社長の態度は冷たくなっていった。 そして 1 か月もしないうちに、ついに女性は解雇に追い込まれた。ここへきて女性は訴 訟に踏み切った。 しかし、一審判決で女性は敗訴。女性の一連の行為は「女性の意思によるものだった」 というのがその判決理由であった。 高裁(3 人といも男性裁判官)でも、初めは「どうして断らなかったのか」 「自分の意思だ ったのではないか」と、女性への尋問がなされた(女性は気が弱く黙ったままだった)。そ こで私は女性に対し、 「あなたはこんな男性ばかりの中で本当の気持ちを言葉にできますか」 と質問をぶつけた。すると女性は「言えません…。 」と言った。私は敗訴を覚悟したが、こ の一連のやりとりを見た裁判官は、 「男性がセクハラをした」という前提での和解勧告を言 い渡してくれた。 このようなセクハラ・パワハラ事件が増える中で、上司に逆らえない女性の心情を裁判 所に理解してもらうことは大変難しい。裁判官でも女性が置かれている状況をなかなか理 解してくれないことは多くある。 8.現代における労働法を支える価値観の存在意義 現代においても、上述の例(「7.大企業でも発生する~」)のような憲法の趣旨に反す る、無茶なことがまかり通ってしまうのが実態である。派遣法ができて、非正規職員(ア ルバイト・パート)が増加してから、憲法が保護した労働者の趣旨「安定した生活を送る」 に反するのではないかと思う。 90 年代後半から急に解雇事件で敗訴することが多くなった。解雇を認めるかどうかは法 律に当てはまれば結論が出る、というものではない。労働法の規定にある通り、 「社会的に 相当かどうか」を考える必要があるが、これは裁判官の心証で容易に判断が変わってしま う。JAL の問題で、多くのパイロットや CA が解雇された。整理解雇が認められるには、 ①必要性がある②努力義務を果たした③説明責任を果たした④解雇は恣意的でない、の 4 要件を満たす必要がある。一時期話題になった JAL では、多くのパイロットや乗務員が解 雇されたが、その後黒字化し、新たに社員を大量採用したことを考えると、私としては解 雇は明らかに無効であると思う。しかし、裁判所は「国家的政策」ということ整理解雇を 認めたのではないか。 9.より一層広がる当事者の不平等 派遣法が制定されるまでは、 「職安法」により違法とされていた派遣労働。この点、派遣 労働者に派遣元に対する団体交渉等の権利を認めても実質的な意味はない。派遣元会社(契 約会社)にいくら文句を言っても労働状況は変化しないという問題があまりにも日常的に 生じてきてしまっているのである。 労働状況の悪化→労働者の収入の低下→物が売れない→企業コスト削減(値下げ)→労働 条件悪化…という労働者にとって良くない流れができてしまっているのは事実。企業だけ が多大な内部留保を蓄えていっているという状況になっている。 いずれにしても、憲法の趣旨(実質的対等を確保)に反する動きがあるといえると考える。 10.法曹にとっての「想像力」の重要性 法解釈の上での「想像力」の重要性について話をする。 「形式的な対等性」ばかり重視するあり方は避けなければならない。いかに「実質」に踏 み込んで、当事者の立場から問題を見つけられるか、というところが法曹にとっての勝負 の分かれ目となる。 例えば刑法でいえば、 「人間が環境や生い立ちに影響されず、どれだけ主体的に行動でき るか」という議論について、 「影響を受けやすい」 (生まれた環境は選択できないのだから、 個人の責任は軽くなる)との考えを重視すれば、刑を軽くすべきという方向に傾きやすい のに対して、 「影響を受けにくい」との考えを重視すれば、してはいけないことを十分理解 できるはずなので刑を重くすべきという方向に傾きやすいであろう。 ここで、 「自己責任を強調する人」には、社会的条件に恵まれて努力ができて、結果成功 を収めたような人が多いということに注意する必要がある。アメリカの自由主義も同じ理 論。金持ちは努力した人、貧乏人は努力しなかった人。共和党と民主党の差もそこにある のではないか。 「成功したのは努力したからだ」そういう人たちに富が集中することを一概に「悪」とし て否定することはできないかもしれない。しかし私は賛同しない。努力できる環境という ものは、生まれてくるときに選択できないからだ。一般に、頑張って一定の地位を築いた 両親の下では、子供は同じような価値観(努力することで目標を達成できる)を受け継ぐ。 どうしたってそういった家庭に生まれた子は成功する可能性は大きいだろう。それはイギ リスの教育政策にも表れている。イギリスでは、サッチャー政権時代、教育レベルの引き 上げを国家政策に掲げた。全国で学力テストの実施し、各地方で目標を設定して点数を競 わせた。ところが、教育熱心な中堅家庭は成績上位校周辺に引っ越し、学校定員枠を独占 した。一方そうでない学校の周辺には低所得者層が集中した。結局学力レベルはあまり向 上せず、政策は失敗に終わった。 このように、「そうでない人(自分とは違う環境にある人)」の立場を理解することは難 しいが、それをしなければならないのが法曹なのである。 伊藤真氏がある公演で「今の自分にとって憲法は必要ない、なぜなら自分は今「五体満 足」で一定の地位も持っているだからだ。しかし、憲法は社会的弱者のためにある。」、と いう趣旨のことを述べた。憲法は数の力で勝つことのできない少数者、社会的弱者を救お うとしている、ということである。 ここで誤解してはいけないのは、彼は「今」五体満足な者にとって、いつまでも憲法は必 要がない、ということを言っているのではないということである。それは、いつ自分が「弱 者側」になるかわからないという現実があるからである。いつ貧困に陥るか、あるいは事 故にあって大けがを負うかわからない。 ここで大切なのが、 「想像力」 。今まで経験したことのない辛さを、 「自分が同じような立 場に置かれたどのように感じるだろうか」と想像する、ということが大切なのである。 こうした「想像力」の大切さを示す一つの例が、 「中国残留孤児国家賠償訴訟」である。 これは、敗戦直後、日本軍に置き去りにされ、中国で過酷な労働を強いられながらも、戦 後 3、40 年もたってやっとの思いで日本に帰国した「中国残留孤児」に対して、日本政府 が何ら自立支援を行わなかったとして、訴訟提起がなされたものである。 全国 13 か所、原告 2200 人で起こした裁判では、どの裁判所でもその法律構成に違いはな かったものの、唯一神戸地裁だけでしか勝訴は得られなかった。 法律構成が一緒だったにも関わらず、裁判所によって、なぜ結果にこのような違いが現れ たのか。 その理由は、裁判官の「想像力」、どれだけ原告を助けなければならないと実感したか、 という部分の差異ではないかと思う。 この「中国残留孤児訴訟」の敗訴判決のうち東京地裁の判決について、瀬戸内寂聴氏(中 国からの引き上げ経験者)はこのように述べている。「私たち、戦争の時代を生き、戦争の 実態とその虚しさを体験した者が、いくら話しても、戦後生まれの人たちに、それを自分 と同じようには感じさせられない。それでも人間には想像力の可能性が与えられている。 残留孤児の苦労を、帰国後の生活の苦しさを、彼らと同じにはわからないまでも、私たち は、自分を人間と思っているのなら、想像力をふるいたて、駆使して、彼らの辛さ、苦し さ、心のひもじさを理解しようと努力すべきであろう。判決文を読み、こういう判決文を 書ける人の想像力のなさに恐怖と絶望を覚え、身も心も震えあがった。」 ここには、裁判官をはじめとした法曹に求められる資質があらわされているのではない だろうか。法律家は憲法の価値観を現実の社会に実現する担い手であるため、目の前の当 事者の状況をどれだけ想像力を働かせて「実感」できるかが非常に重要である。 法律 というのは長い歴史の中で作られてきた価値観を表している。それを実現するためには、 価値観ができた背景を「想像力」を働かせて理解する必要がある。 11.最後に 私の知る労働法学者の言葉で、心に残っている言葉がある。本多淳亮氏の「自分は労働者 を守るためなら、学説なんていくらでも変えます。 」という言葉である。これは, 「法律は一 定の価値観を実現するためにあるのであって、中立という言葉に惑わされてはいけない。」 という趣旨であると思う。 この言葉にあるように、法律とは「特定の価値観の表明」のための技術(道具)であり、 決して絶対・中立のものではない。弁護士として活躍する上では、法律という「道具」を使 って、 「想像力」をはたらかせて自分または依頼者の「価値観」を実現させていくことが、 何よりも大切となってくる。 以上
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