危機意識の欠如と戦後憲法の精神

危機意識の欠如と戦後憲法の精神
氏
名 安 田 庄 一
今般の東京研修での訪問箇所は三か所。自民党本部、議員会館、国会議事堂である。
大変驚いたことに、党本部は所属を聞かれるだけのフリーパスで、金属探知機やゲート
を利用したボディ・チェック、かばんの中身の検査などが全くなされていない。不謹慎
だが、爆発物を持ち込んでテロ行為に及ぶこともいともたやすい。同じことは後者につ
いても言える。議員会館は登録さえすればフリーパス。国会議事堂は衛視兼ガイド二名
ほどが、長い列になった百数十人ほどを案内しており、途中でどこかに紛れ込んでもま
ったく対処できない状態であった。
これらの施設は我が国の国家権力の中枢のみならず、国家運営を担っている要人が
日々出入りしている場所である。このような施設で仮にテロ行為が行われた場合、国家
権力の中枢が破壊され、その運営が停止されることが予想できる。それにもかかわらず、
このような状態が放置されている、即ち、危機意識が欠如していることは、ただ財政面
などの物理的な理由に因るのではなく、戦後日本の精神空間によるものであると考える。
問題の発生を想定していない、否、むしろ問題の発生を想定したくもないという危機意
識の意識的な欠如こそが、戦後の日本人の精神を蝕んできた元凶なのである。
その元凶を体現しているものが現行憲法である。憲法前文には、「人間相互の関係を
支配する崇高な理想を深く自覚する」、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。あるいは、九条には、「力」を
一切否定して自衛する手段を放棄することが規定されている。現行憲法には様々な問題
があるが、以上の数点に鑑みても、その異常性は理解できる。国家にとって憲法は国体
を表象するものであり、憲法に基づいて法律が作られ、政治、経済、社会の様々な体制
や仕組みが形成されるわけだが、時間の経過とともに、憲法の精神が人々の意識や考え
方に多大な影響を及ぼすことは容易に理解されよう。東京研修での私の所感はその一例
だが、我が国の近年の政治の貧困と停滞、経済の凋落と衰退、社会の頽廃と放縦はすべ
てが絡み合い、すべてが戦後体制に起因するものなのである。
そういう問題認識に基づくと、小手先の改革をいくら繰り出したところで、結局「失
われた」時代が続いてきたのは至極当然のことであり、単なる対処療法ではなく、病巣
そのものにメスを入れる時期がすでに訪れているのである。我々は祖国の歴史を繙き、
我が国体のあり方、為政者と民とのあり方などの国柄を認識したうえで、国家像を描き、
どのような将来を目指すのかを明記した新しい憲法の制定こそがまずもってなされる
べきことなのである。そうすれば、改革の方向性はおのずと明らかになり、まさに国際
社会において「名誉ある地位」を占めるべく、誇りと矜持に溢れた祖国日本再生の道を
踏み出すこととなる。