“芸は身を助ける‐商社マンの半生‐”

平成 16 年 6 月 7 日
“芸は身を助ける‐商社マンの半生‐”
昭和 34 年応化卒
原研
坂下哲生
卒業の時期、即ち就職活動の時期は日本石油化学工業が始まった時期と重なり石油会
社・化学会社の設備投資も活発だった。私の卒論のテーマも流動層におけるプロパンの脱
水素というもので、まさに石油化学分野に就職する流れだったと思う。その時期に商社に
入ったのは異端児と見られるかも知れない。でも、私は元来、技術屋指向ではなくスポー
ツを含めて趣味が広かったために研究室の先生から「商社から求人があるがおまえ以外に
入る奴はいないだろう」と言われた一言から英語が得意でもないのに商社に入ることにな
ってしまった。当時、セールスエンジニアーという言葉が使われ始めた時期だったが、私
個人としてはそのような事を深く考えていたわけではない。
三菱商事に入社すると応化卒ということで、化学プラント関連業務に配属されたが、一
番の苦労は英語だった。周りの誰を見ても英語が堪能なので、英語がいくら上手でも特技
にならず、逆に英語が上手くない人は、それだけでマイナスになるのが商社だと気付き連
日、英文の手紙の読み書きに悩まされていた。
最初の海外出張は 1966 年ヨーロッパ 3 週間だったが、その内の半分は日本の取引先の部長
クラスの人に付いて行く仕事だった。商社の場合、最初の出張でも一人で行くか、社外の
人と一緒に行き、海外での打ち合わせや出張報告の面倒まで見ることである。当然、海外
支店も世話してくれるが、海外支店は多忙の為、若い出張者が付いている場合はアポイン
トだけ取ってくれて、打ち合わせに同行してくれないことが多かった。この初出張の期間
中は毎日、苦痛の連続だったが、この経験が役立ち数年後になんとか一人で打ち合わせが
出来るようになって年間数回の海外出張をするようになった。ニューヨーク駐在までは欧
米の出張ばかりだったが、ニューヨークから帰国した頃は中東のオイルダラーが世界の注
目を浴びている時期で、化学プラント関連は、特に中東で計画されているプロジェクトが
脚光を浴びていることもありイラク(バクダット)駐在を挟んで、中東の出張が多くなり、
殆どの中東諸国を回っていた。バクダッドに赴任した直後にイラン‐イラク戦争が勃発し
たこともあってバクダッド駐在は 2 年間という短期間だったが、バクダッドの良さは、紀
元前 4000 年から紀元 800 年の間の遺蹟が至る所にあり、旧約聖書に馴染みのある人にとっ
て聞いたことのある地名が沢山あると思う。日本に戻って 2 年間でパースに駐在すること
になったが、赴任するまで、オーストラリアには行ったことがなく、パースがどんなとこ
ろか全く知識がなかった。兼高かおるの「世界の旅」という番組で兼高かおるが「老後住
むならパースが良い」と言った事だけの知識を持って赴任することになった。
ニューヨークでオイルショック、バクダッドでイラン‐イラク戦争を経験したのでおま
えがパースに行ったら何が起きるのかとからかわれて赴任したパースではアメリカスカッ
プというヨットレースが百数十年の歴史の中で、初めてアメリカ以外で行われることにな
った記念すべきレースをパースで見ることが出来た。
パースは綺麗な都市であるが、私の持論では住みやすい条件で景色は関係なく、大切な
事は治安が良く、水道の水が飲める事なので、今までに 40 ヶ国以上訪問した中で最も住み
やすいところと言える。パースでは支店長という立場だったので、日本向けの LNG 関係だ
けでなく、鉄鉱石・海産物等の天然資源関係にも関係していたが、西オーストラリア州は
金・銀・銅・ニッケル・ダイヤモンド等も世界最大級の埋蔵量があるので、変化に富んだ
仕事の経験が出来て大いに駐在を楽しんだ。
私の趣味は広範囲だが、囲碁・将棋・麻雀等の勝負事は勿論、学生時代から今でも楽し
いんでいる趣味はコントラクトブリッジというトランプのゲームである。日本では外交官
と海軍から始まり、今では商社等の海外駐在員及びその家族が帰国した後、日本でブリッ
ジ界を支えていると言っても過言ではない。欧米に限らず世界各国で新聞にブリッジコラ
ムがあるほど盛んであり最近ではオリンピック競技の一つになるような動きも出ている。
パースの産業界は狭いので面識のない人に面談したいとき、秘書を通じて連絡しても問
題ないがブリッジフレンドやロータリークラブの仲間等、知人にアポイントを取ってほし
いと頼む方が簡単で、その上、私のプロフィールまで説明しておいてくれるので、会った
ときに自己紹介の手間も省けるメリットがあった。オーストラリアは元来白豪主義だが産
出された天然資源の大半が日本向けに輸出されるということもあってパースでの対日感情
は極めて良い。初対面の人と話をする場合、初対面でもブリッジかゴルフ等の雑談から始
まり、その間に相手の性格等もある程度判るので、それから本題の仕事の話に入れば交渉
もスムースに行くことが多かった。遊びが仕事に役立った例とも言える。
ニューヨークでの近所付き合いにも役立ったし、バクダッドでは日本の大使とお付き合
い出来たのもブリッジのおかげでといえる。
パースのある西オーストラリア州はオーストリア全体の1/3、即ち日本の約 7 倍の面
積を持つ大きな州であるが別名「野生の花の州」(WILDFLOWER STATE)と呼ばれるほど、
野生の花の種類が多い。赴任直後に、この野生の花に魅せられて花の勉強もしていた頃の
話だが、日本の友人からパースでは麻雀メンバーが揃わないのではないかという連絡に対
して最近は趣味が花に変わったと返事したところ、花札と勘違いされた程、私と勝負事の
関係は密接だった。
パース市内でも9月下旬には WILDFLOWER SHOW が行われ、数百種類の花が展示さ
れ、野生の蘭の花だけでも 10 種類以上見せてくれる。8 月末から9月上旬には舗装道路以
外に人工物が全くないような地域の道路際に野生の花((EVERLASTING という花)がカー
ペット状に咲き詰めているのが見られる。
娘と孫がパースに住んでいるので将来永住することになるかもしれないが毎年数回はパ
ースに行っている。歴史等の文化は乏しい国だが野生動物にも簡単に会える上に物価が安
く、日本と同様、四季があるので自然を好む人には一年中、楽しめると思う。
最近、海外移住も盛んになりパースでの日本人の人口も増えてきたが、長期滞在の為に
は、土地勘が出来て、その土地が好きになることが先決である。商社や外交官の場合、海
外で生活する機会が多く、どこに赴任してもその土地の良いところを見て好きになること
が重要で、その順応性さえあればその国の人々とも仲良くなれて、且つ良い仕事も出来る
というのが私の持論である。逆にその順応性がない場合はその国の人からも嫌われる可能
性が強くなり仕事にも差しさわりが出てくる事になる。
略歴
1959 年 3 月応化卒業、同年4月三菱商事入社
1972 年∼76 年米国三菱商事(ニューヨーク)
1980 年∼82 年バクダッド支店
1984 年∼89 年オーストラリアパース支店長
上の写真はレシュノーティアリースという花で、リースフラワーという略称がありますが
砂漠地帯に咲く珍しい花です。一本の幹から地面に沿って何本もの茎が延びてその周りに
花が咲いてクリスマスリースのような形になります。花の好きなオーストラリア人でも実
物を見た人はかなり少ないし日本人では私が連れていった人以外では野生の状態で見たこ
とがある人は殆どいないと思います。
上の写真はブッシュの中のワイルドフラワーですが真ん中にある茶色のとんがり帽子の形のも
のは蟻塚です。