105号 H27/5月 - 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会

平成
年5月
年3月
回特攻隊合同慰霊祭 …
………
天皇、皇后両陛下のパラオ・
ペリリュー行幸啓について …
…
ネルソン・タッチとカミカゼ
…
─呉水交会編・大之木英雄寄稿・
講演集を読んで― …………
…
終戦 年を巡る報道に思う
時~
時
再び「ノーブレス・オブリージュ
…
(
)とは、
no-blesse
o-blige
学徒出陣に思う」 ……………
…
栃木県護国神社研修報告 ………
特攻平和観音月例法要 ………
…
「英霊を偲ぶ心の旅」に
世田谷山観音寺
参加して③ …………………
…
《読者の声①》
の場から)神風特攻隊と回天
真正な日本人の懐中メモ(続)
……
《読者の声②》
「土と兵隊」南京攻略と父 ……
…
《現代若者の特攻観》(大学教育
年度正味財産増減計算書…
を学んで ……………………
…
平成 年度事業報告 ……………
…
…
平成
年度第1回理事会及び
内閣府認定等委員会立入検査 …
…
平成
…
定時評議員会実施報告等 ……
…
事務局からの報告等 ……………
トランペット 堀田 和夫)
◇ ◇ ◇
吟 吉野 一心
笛 逢坂 龍信
しこわし
飛行第五戦隊長 高田 勝重
日ビアク島付近で戦死
年5月
真珠湾攻撃特殊潜航艇長 岩佐 直治
昭和 年 月8日ハワイ軍港で戦死
われ撃ちやまむ大
鷲を
六度散り七度咲きて醜おおきみ
君のため
昭和
献 吟
如何に復興したかを伝えよ―…
─頼りない「悲惨」一辺倒
日(土)
理事長 杉山 蕃
一誠流 吉野 一心
逢坂 龍信
トランペット 堀田 和夫
式 次 第
国歌斉唱
修祓・献饌
祝詞奏上
祭文奏上
献 吟 笛 奉納演奏
世田谷コール・エーデ合唱団
指 揮 大穂 孝子
トランペット 堀田 和夫
特攻隊慰霊顕彰会男性合唱団
トランペット 堀田 和夫
「さくら」「同期の桜」「故郷」
全員斉唱 「海ゆかば」
1
6
第
36
70
回特攻隊合同慰霊祭
発行人 羽 渕 徹 也
於 靖國神社拝殿・本殿
平成
第
振替口座 00140– 6– 59580
昇殿参拝 参列者一同
(「国のしずめ」
28
27 18
31
42 41 39 38
43 42
12
11
17
目
次
11
32
27
◇ ◇ ◇
大和の花と賞
りてこそ
桜花散るべき時にめ散
で
らるるらん
12
印刷所 ヨシダ印刷株式会社
28
34
19
編集人 飯 田 正 能
36
27
http://www.tokkotai.or.jp
「特攻勇士之像」への献花式(杉山理事長)
26 26
27
16
第36回特攻隊合同慰霊祭
(105号)
(1)
27
第 105 号
特攻隊戦没者
公益財団法人 慰霊顕彰会
〒102– 0073 東京都千代田区九段北
3–1–1靖國神社遊就館内・地階
電 話 03(5213)4594
FAX 03(5213)4596
に相応しい状況になってまいりまし
た。また、東京オリンピック・パラリ
ンピックの準備等、期待の膨らむ話題
も 明 る い 材 料 で あ り ま す。 と は 言 え、
領土問題、歴史認識を巡る周辺国との
見解の相違から生ずる国際関係の軋
み、遅々としている東日本大震災、福
島原発環境汚染問題からの復興、小子
高齢化した社会保障問題、環太平洋経
済連携交渉問題等、英霊の皆様に胸を
張って御報告申し上げる状態でないこ
とも事実であります。中でも憂慮すべ
きは、東日本大震災の復興状況であり
ます。地震・津波の災害に加えて、原
子力発電所事故による放射線被害の試
練を受けてから4年の年月が流れまし
た。官民挙げての復興活動ですが、巨
額 の 予 算 が 未 使 用 の 状 況 で あ っ た り、
復興は遅々としております。 年前に
我々が被った国家壊滅の体験、そして
零からの出発に、雄々しく立ち上がっ
た皆様の朋友の方々の凄まじい努力と
エネルギーに想いを致す時、忸怩たる
思いを禁じ得ません。
また、我が国固有の領土への理不尽
な主張、歴史認識を巡る偏った価値観
の異常な主張等、近隣諸国の態度・対
応には、平和国家として、 年の実績
を持つ我が国の行き方を踏みにじるも
のであります。これに対する我が国の
対応は、独立国家として最も重要な民
族の誇り、矜持といった観点から、毅
然たる対応と長期的視野に立った国際
関係の建設的発展の理念を堅持するこ
と が 重 要 で あ り ま す。 現 今 の 状 況 は、
異常な軍事力増強を背景に、半ば恫喝
的態度が見られる状況にあり、若くし
て国のため一身を捧げられた英霊の皆
様に、申し開きできるものなのか、大
い に 疑 問 を 感 じ る と こ ろ で あ り ま す。
幸い、ここ1年半、国家安全保障戦略
が決定され、基本理念として国際協調
に基づく積極的平和主義が明示された
のに引き続き、懸案の集団的自衛権に
関しましても、理念の論争から、実際
的な事態における必要性を容認する一
歩 進 ん だ 段 階 の 法 整 備 が 進 ん で お り、
危機管理体制に一段の前進が見られた
ことは評価すべきこととして御報告申
し上げるところであります。
英霊の皆様が、国のため全てを投げ
出された戦いが終わり、既に 年の歳
月が流れんとしております。思えばこ
の間、戦争によって疲労し破壊された、
文字どおり焦土・極貧の状態から、こ
こに一部参集しておられます、英霊の
皆様の戦友・同期・同輩の方々がその
中核となり、見事に奇跡的復興を成し
遂げ、世界に誇れる隆盛を我が国にも
たらされました。この活動力の根源に
は、若くして国に一身を捧げられた皆
様への同期・同輩としての責任感が大
年3月
日
きく寄与したことと忖度致すところ
であります。東日本大震災の復興が
遅々たる情勢下、この世代が復興に
成功した原因は何であったのか、是
非、真剣に考え直す必要があると言
えましょう。
世代交代が進み、英霊の皆様が生
を共にした方々は、その数を減らし
つつありますが、後に続く世代の私
どもは、英霊の皆様が辿られた厳し
い現実を忘れることなく、己の生き
方を自励・振作する起点としなけれ
ばならないこと、そして、社稷・国
の現実が、果たして英霊の皆様に御
満足頂けるものなのかという判断基
準を大切にすることの二点を中核
に、これからも国民的な事業として、
この慰霊顕彰を継続発展させて参ら
ねばならないと肝に銘ずる次第であ
ります。
天皇、皇后両陛下のパラオ行幸啓
を機に、重ねて、国に殉じた皆様の
尊い御心情に思いを馳せ、ここに参
集した一同、英霊の皆様方に一層の
敬意を表明し、祭文といたします。
平成
28
特攻隊戦没者慰霊顕彰会
理事長 杉山 蕃
公益財団法人
27
祭 文
70
36
本日ここ靖國神社の御社頭に、御
来賓の皆様の御臨席と御遺族、戦友、
そして関係者の皆様が相集い、第
回特別攻撃隊合同慰霊祭を挙行する
に当たり、謹んで在天の御英霊に申
し上げます。
今年は皆様が若き命を捧げられて
終 わ っ た 大 東 亜 戦 争 終 結 よ り 年、
畏れ多くも天皇、皇后両陛下が間も
なくパラオに行幸啓遊ばされること
となったのを始め、数々の追悼行事
が行われんといたしております。私
ども特別攻撃隊戦没者の慰霊顕彰に
携わる者にとりまして、正に心強い、
重要な節目の年であります。世代交
代 と い う 厳 し い 現 実 を 乗 り 越 え て、
皆様を真に追悼申し上げる心を次世
代に確実に伝承していく努力を更に
一層強めなければならないと決意い
たしております。
昨年の慰霊祭より1年、我が国の
行く先に、ほんのりと見え始めた明
るい兆しは、着実に大きくなりつつ
あると考えております。消費税増税
による国家財政回復への着実な手応
え、 円 安 定 着 に よ る 経 済 へ の 影 響、
大規模なベースアップ等、その成果
は将来に向けて明るい気持ちを持つ
70
70
(2)
(105号)
第36回特攻隊合同慰霊祭
70
今年は、大東亜戦争終戦
年の節目
ら5日目、ほぼ満開に近い見頃となっ
た。しかも晴天に恵まれ、正に桜日和
年 2 ~ 3 月 の「 硫 黄 島 戦 」、 4
上で、この企画展は非常に貴重なもの
空戦」、 月から始まった「特攻作戦」、 過、その実相、敗戦の原因等々を知る
~6月の「沖縄戦」、8月 日の終戦、 である。先の大戦では、戦略、戦術双
昭和
そ の 後 も 続 い た ソ 連 軍 と の「 南 樺 太 」 方の指導者の無策、判断の誤りなども
の年に当たり、殊の外感慨無量なるも
ある。その桜を慕って、境内は多くの
しろ
時より、靖國神社に
日(土)
の が あ る。 そ の 特 別 な 想 い を 籠 め て、 となった。靖國の桜は英霊の依り代で
及び「占守島」での戦い等であり、そ
3月
参詣者で溢れ、英霊の遺徳顕彰に相応
11
た戦いでありました。ひたすら祖国を
際秩序の構築を目指すことを目的とし
我が国の自存自衛と人種平等による国
国再建に尽くさなければならない、と
り、託された未来への遺志を継いで祖
て逝ったのである。その志の一端を知
件下でも死力を尽くして戦い、散華し
信念に燃える若者達は、如何なる悪条
の趣意書には、「先の「大東亜戦争」は、 命を奪った面もあったが、至誠殉国の
年から始めら
また折しも、靖國神社・遊就館1階
護るという一念を以って戦場へと赴い
年3月
日~
の 思 い を 改 め て 強 く 抱 く も の で あ る。
が開催(平成
終 章 ― 今 を 生 き る す べ て の 人 々 へ ―」 族や後に生きる私たち子孫のために奮
遊就館特別展「大東亜戦争七十年展最
企画展示室では、平成
れた「大東亜戦争七十年展」シリーズ
た先人達の至誠は、ひとえに愛する家
名を始め御来賓、戦友、一般
年
名に達する予想
会員等合わせて250余名が参集し
て、英霊奉慰の誠を捧げた。今年は桜
の第4回目・最終回として、平成
けの一般会員等が約
この日、靖國の宮居の桜は、例年よ
外の盛況振りであった。
月8日) 起した尊い御事蹟であります。最終章
合同慰霊祭は、トランペットの伴奏
と な っ た こ の 特 別 展 を 是 非 御 覧 戴 き、 による国歌斉唱に始まり、修祓・献饌・
今日の平和の礎を築いてくださった英
祝詞奏上の神儀に続き、杉山蕃理事長
年の本土
防衛作戦から終戦に至るまでの関係史
されている。主として昭和
の桜の開花宣言は毎年、靖國神社の能
年の
が 祭 文( 別 掲 ) を 奏 上、「 戦 後
年秋か
感得して戴ければと存じます」とある。 歳月が流れる中で、過酷な戦争を戦い
70
抜き、国家壊滅の危機を体験し、戦後
献歌 「海ゆかば」斉唱
大東亜戦争の原因、目的、戦争の経
献歌 世田谷コールエーデ合唱団・特攻隊
慰霊顕彰会男性合唱団 指揮 大穂孝子氏
19
ら激化して行く本土空襲における「防
祭文奏上 杉山蕃理事長
気象庁の職員が確認して行われる)か
献吟 吉野一心・逢坂龍信両氏
ク ラ の 老 木 に 数 輪 の 花 が 開 い た の を、 対象となる主な項目は、昭和
霊 へ の 感 謝 と 共 に、そ の「 み こ こ ろ」を
日の開花宣言(東京
19 12
資料が展示されているが、今回の展示
り3日早い3月
27
24
21
50
楽堂脇にある標準木・ソメイヨシノザ
23
27
御遺族
15
の見頃と好天に恵まれてか、当日受付
合同慰霊祭が厳粛、盛大に斎行された。 しい雰囲気を醸し出していた。
おける、当顕彰会恒例の第
28
28
あって、あたら多くの純真な若者達の
回特攻隊
よ
10
20
70
36
能楽堂脇の標準木(ソメイヨシノザクラ)
第36回特攻隊合同慰霊祭
(105号)
(3)
は零から出発して我が国の復興と発展
方々の復興への偉大な努力、営々と続
は尊敬の念を持って継承し、後世に伝
次 い で、 参 列 者 全 員 本 殿 に 昇 殿 し、
する。
東日本大震災と原発事故による大被害
えていかなければならない。この4月、 の演奏「国のしずめ」に合わせて黙祷
を 担 っ た 先 輩 方 の 高 齢 化、 更 に ま た、 けられた慰霊事業への誠の心を、我々
からの復興・再生、加えて周辺諸国か
天皇、皇后両陛下のパラオ行幸啓を機
その後、遊就館前に、平成
年3月
を捧げ、滞りなく慰霊祭を終えた。
玉串を奉奠して参拝し、トランペット
らの我が国固有の領土への理不尽な主
に、重ねて、国に殉じた英霊の尊い御
献 杯 来賓代表 堀江 正夫
懇談会食
トランペット 堀田 和夫
全員斉唱「海ゆかば」
乾 杯 来賓代表 野口 清秀
閉会の辞 専務理事 衣笠 陽雄
◇ ◇ ◇
慰 霊 祭 及 び 献 花 式 終 了 後、「 靖 國 会
化勲章受賞者北村西望氏、拡大監修・ 間」・「玉垣の間」において、懇親会が
日、当顕彰会の前身、財団法人特攻
献吟の声は、朗々として神前に木霊
日本芸術院会員北村治禧氏、拡大制作・ 開催された。
隊戦没者慰霊平和祈念協会が建立奉納
し、惻々として胸に迫る。大穂孝子女
し、努力して行く」と誓った。
心情に思いを馳せ、一層の敬意を表明
張、歴史認識を巡る偏った価値観の主
張等への対処等大変な難局を迎えつつ
となってこられた戦友世代の喪失とい
史の指揮による世田谷コール・エーデ
ある。慰霊事業においても、その中核
う厳しい現実がある。しかし、国家存
館」に移動し、同会館2階の「田安の
亡の危機に際し、生命を擲って国に尽
御遺族(代表臼田智子理事)、御来賓(代
章 受 賞 者 大 山 忠 作 画 伯 ) 前 に お い て、 挨 拶 に 立 ち、「 今 年 は 終 戦
年の節目
特攻隊慰霊顕彰会男性合唱団の献歌
表 宇 都 隆 史 参 議 院 議 員 外 務 政 務 官 )、 た。 終 戦 時 7 歳 の 私 は、 戦 争 末 期 に、
神戸付近から
歳を迎え
機程の戦闘機の編隊が
の年であるが、私も今年満
後は、寥々と響くトランペットの伴奏
当顕彰会(代表杉山蕃理事長)の各代
77 70
◇ ◇ ◇
代表に合わせて、拝礼を行った。
平成
年3月
日(土)
時 分~ 時
於「靖國会館」2階「田安の間」・
27
14
会務報告 専務理事 衣笠 陽雄
来賓紹介 事務局長 羽渕 徹也
事務局長 羽渕 徹也
理事長挨拶 理 事 長 杉山 蕃
「玉垣の間」
開会の辞(司会)
30
年の公益財団法人移行
たが、この機会に、当慰霊顕彰会の運
に伴い、定款上総会の規定はなくなっ
次に、平成
ればならない」と強調した。
て我々は一層努力し、英霊に応えなけ
に成し遂げた。その志と気概を継承し
の戦後の復興を、零から出発して見事
仲間や同世代の方々が壊滅した我が国
身を擲って特攻に殉じた若者達、その
印象が強く影響している。国難に際し、
航空自衛官を目指したのも、その時の
沖縄戦での特攻隊であったろう。私が
た。後で知ったことだが、それは恐らく
表による献花式が行われ、参列者一同、 南方を目指して飛んで行くのを望見し
に合わせて、一同「海ゆかば」を唱和
「同期の桜」、また、強く胸を打つ。最
懇親会に先立ち、まず杉山理事長が
女性合唱団の献歌「さくら」、「故郷」、 石黒光二氏、台座銘文揮号者・文化勲
し た「 特 攻 勇 士 之 像 」( 原 型 製 作・ 文
11
くされた英霊の御志と残された戦友の
23
36
第 回特攻隊合同慰霊祭懇親会
表彰状 贈呈
30
23
28
12
挨拶・宇都隆史参議院議員
報告・衣笠陽雄専務理事
(4)
(105号)
第36回特攻隊合同慰霊祭
任統治地域の島嶼諸国との親善、ペリ
ラオ島行幸啓が実現し、旧南洋群島委
営 状 況 を 会 員 に 広 く 周 知 し、 御 支 援、 と、今年4月、天皇、皇后両陛下のパ
御協力をお願いするため、衣笠専務理
年度の事業計
事から当会の活動現況に関し、平成
年度の事業報告と平成
リュー島戦没者慰霊行事が行われるこ
期、白寿)の堀江正
その後、英霊にこたえる会名誉会長
で最高齢(陸士
なお、慰霊祭終了後早速、実行委員
乾杯をして会を締め括った。
会の運営について努力することを申し
全員が当顕彰会事務室に集合して反省
合わせたことも、特筆に値することで
会を開き、改善すべき点その他今後の
その後和やかな直会の宴は始められ
夫氏が、英霊に対し敬意と感謝を表す
巡る諸法制化が着々と進められている
たが、途中、慰霊祭でも献歌をした「海
るとともに、慰霊顕彰事業の継続発展
ことを挙げ、今後とも国防と外交の任
運営について種々活発な意見交換を行
今後ともなお一層、会員の増強、事業
をしっかりと果たすべく、全力を傾注
賓を代表して、参議院議員・外務大臣
長から来賓等の紹介がなされた後、来
続いて、懇親会に移り、羽渕事務局
献のあった全日本空挺同志会東京支部
あり、また、昨年度会員増強に特に貢
て一層の努力を注ぎたい旨の御挨拶が
大二郎氏から、英霊の慰霊顕彰につい
次いで、御来賓の元高知県知事橋本
最後は、来賓を代表して、陸士
上がった。
生 会 代 表 の 野 口 清 秀 氏 の 音 頭 に よ り、
(飯田正能記)
い、 今 後 の よ り 良 き 慰 霊 祭 の 執 行 と、
の活性化に努力し、引き続き「特攻勇
政務官宇都隆史氏が挨拶をされた。宇
長片山幸太郎氏に対する表彰状の贈呈
られた。
士之像」の全国護国神社への奉納事業
あった。
都参議院議員は、昨年秋、海上自衛隊
を更に推進させたい、と述べた。
の練習艦隊によるガダルカナル島から
が行われた。
反省会・実行委員会メンバー
の戦没者遺骨帰還が初めて実現したこ
挨拶・橋本大二郎元高知県知事
期
ゆかば」を全員で斉唱して大いに盛り
と会員の健勝を祈って献杯の音頭を取
50
する」と力強く挨拶をされた。
画、会員の動向等について説明があり、 ととなったこと、我が国の安全保障を
27
26
献杯・堀江正夫英霊にこたえる会名誉会長
57
トランペット奏者 堀田和夫氏
乾杯・野口清秀陸士57期生会代表
第36回特攻隊合同慰霊祭
(105号)
(5)
大統領は、次のような挨拶文を寄
せておられる。
この展示会を通じて、日本の多くの
人 達 が パ ラ オ の こ と を お 知 り に な り、
くことを願っております。
ており、この友好関係が今後も長く続
た元第四艦隊参謀長澄川少将に会って
「 こ の 度 は、 靖 國 神 社 及 び N P O 法
人日本パラオ協会他関係の皆様方の御
ウ
色々聞かされたが、なお納得せず、米
米軍に出頭し、調査のため来島してい
軍の戦闘機でアンガウル島に連れて行
天皇、皇后両陛下のパラオ・
ペリリュー行幸啓について
号・
期 飯田 正能
平成
年5月発行にも関連記事掲載)
75
陸士
となりましたことは、パラオ共和国と
希望いたします。」(会報『特攻』第
尽力により、「パラオの歴史と英霊展」 是 非 パ ラ オ に お 越 し 下 さ い ま す よ う、
天皇、皇后両陛下には、この4月8日 いた日本人労務者に会い、ようやく終
~9日、パラオ共和国に行幸啓になり、 戦を納得し、その後は同少将らに協力
が靖國神社の境内にて開催される運び
かれ、戦後日本から燐鉱石採集に来て
Jr.
名を救出したという逸話の主であ
島内のモリ・ミクロネシア連邦大統領
に臨まれ、同じ旧委任統治領・南洋群
慰霊碑にも花輪を供えて黙礼された。
続いて両陛下は、同島西海岸オレン
ジビーチに建つ米陸軍第 歩兵師団の
る(後掲の写真参照)。
の
御夫妻、ロヤック・マーシャル諸島共
礼申し上げます。
本年は戦後 年に当たります。先の
一九二○年、日本はミクロネシア地 域 の 統 治 を 国 際 連 盟 に よ り 委 任 さ れ、 戦争では、太平洋の各地においても激
われました。祖国を守るべく戦地に赴
そ の 行 政 本 部 を パ ラ オ に 置 き ま し た。 しい戦闘が行われ、数知れぬ人命が失
く偲ばれます。
それからの二十五年間、日本はパラオ
ペ 島 で の 慰 霊 に は、 パ ラ オ 共 和 国、 に産業技術と教育制度をもたらし、パ
ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共 ラオの文化発展に寄与されました。
つ、パラオ共和国を訪問いたします。
き、帰らぬ身となった人々のことが深
和国の各大統領御夫妻も同行された。
一方で、第二次世界大戦以前よりパ
両陛下のパラオ親善・慰霊の行幸啓 ラオには日本軍が常駐し、このために
は、十数年来の強い御希望であったが、 一九四四年~一九四五年にパラオも戦
れた白菊の花束を供えられ、黙祷を捧
太 平 洋 戦 没 者 の 碑」に 日 本 か ら 持 参 さ
島において、島の最南端に建つ国立「西
交通事情や宿泊、移動方法などで困難
私どもはこの節目の年に当たり、戦
陣に倒れた幾多の人々の上を思いつ
げられた。更に南西の方角に見えるア
パラオ共和国は、ミクロネシア連邦、
マーシャル諸島共和国と共に、第1次
が、戦後、ベルサイユ条約及び国際連
葉や文化がパラオ文化の一部として
の 数 よ り 多 い 5 万 人 を 超 え る 人 々 が、
人々が移住し、昭和
達に深い感銘を与えたが、その時、パ
く深い関係は非常に重要なことと考え
年頃には、島民
残っています。
下に置かれました。そしてパラオには
世界大戦まではドイツの植民地でした
慰霊碑の前では、二つの島で僅かに と さ れ、 実 現 し な か っ た が、 今 回 は、 くの日本兵が静かに眠っています。
生 き 残 っ た 元 兵 士 や 遺 族 ら が 見 守 り、 民間航空機や海上保安庁の巡視船「あ
第 二 次 世 界 大 戦 後、 パ ラ オ は
きつしま」とヘリコプターを使用する 一九九四年十月の独立までの間、アメ
盟の決定により、我が国の委任統治の
一 氏(
かけられた。その中の一人、土田喜代
慰霊後に両陛下がねぎらいのお言葉を
リカ合衆国による国際連合の信託統治
南 洋 庁 が 置 か れ、 我 が 国 か ら 多 く の
た ち ―」( パ ラ オ の 歴 史 と 英 霊 展 ) と
ラオ共和国のトミー・E・レメンゲサ
年4月まで 「 戦 跡 パ ラ オ 展 ― パ ラ オ に 散 っ た 英 霊
いう特別展が開催され、多くの参観者
た、終戦を知らずに昭和
名の兵士の一人で、元海軍上等水兵
17
洞窟やジャングルに潜んで戦い続けた
24
このように、光と影の両面があった
パラオと日本の関係ですが、両国の長
19
であり、終戦について疑問を抱き、様
22
ことで実現した。
歳 ) は、 前 号 の 会 報『 特 攻 』
平成 年3月 日~6月 日、靖國 下に置かれました。それまでの日本の
神 社 遊 就 館 1 階 企 画 展 示 室 に お い て、 産業は失われましたが、今も日本の言
場になりました。今もパラオには、多
ンガウル島に向かって黙礼された。
められるとともに、9日は、ペリリュー
70
33
和国大統領御夫妻らとの友好親善に努
81
ウ・パラオ共和国大統領主催の晩餐会
8 日、コ ロ ー ル 島 に お け る レ メ ン ゲ サ し、同少将の決死の説得により、残り して誠に喜ばしいことであり、厚く御 ○パラオ訪問に当たっての天皇陛
下のお言葉
20
61
第104号「ペ島のサクラ」で紹介し
95
子を探るため、単身洞窟を抜け出して
34
終戦の前年には、これらの地域で激
しい戦闘が行われ、幾つもの島で日本
これらの島々に住むようになりました。
10
(6)
(105号)
天皇、皇后両陛下のパラオ・ペリリュー行幸啓について
リュー島もその一つで、この戦いにお
軍が玉砕しました。この度訪れるペリ
し、深く感謝の意を表します。今夕は、 り、私どもに親しみを感じさせます。
ウ大統領閣下のこの度のご招待に対
は、誠に感慨深く、ここにレメンゲサ
交流の歴史を思い起こさせるものであ
の名を持つ方が多いことも、長く深い
清掃、
遺骨の収集などに尽力されたこと
かわらず、戦後に慰霊碑や墓地の管理、
の人々が、
厳しい戦禍を体験したにもか
烈な戦闘が行われ、多くの人命が失わ
しかしながら、先の戦争においては、 に対して心から謝意を表します。
貴国を含むこの地域において日米の熾
ミクロネシア3国と日本との外交関係
が樹立されてから 年以上がたちまし
い て 日 本 軍 は 約 1 万 人、 米 軍 は 約
1 7 0 0 人 の 戦 死 者 を 出 し て い ま す。 私どものために晩餐会を催してくださ
り、大統領閣下から丁重な歓迎の言葉
全 に 配 慮 し た と 言 わ れ て お り ま す が、 てきていることは誠に喜ばしいことで
を頂き、ありがとうございました。ま
す。
今後それぞれの国との間で一層交流
太平洋に浮かぶ美しい島々で、
このよう
が盛んになることを願ってやみません。
な悲しい歴史があったことを、
私どもは
た、この訪問に合わせ、モリ・ミクロ
空襲や食糧難、疫病による犠牲者が生
し、大統領閣下始めパラオ国民に、心か
の収集などに尽力されてきたことに対
ず、戦後に、慰霊碑や墓地の清掃、遺骨
をお伝えするとともに、被害を受けた
れた方々を悼み、ご遺族へのお悔やみ
耳にいたしました。ここに犠牲になら
なお、この度の訪問を前にして、ミ
クロネシア連邦を襲った台風の被害を
の遺族の歩んできた苦難の道をしのび
で亡くなった全ての人々を追悼し、そ
共和国大統領閣下、
令夫人のご健勝とそ
統領閣下、令夫人、及びマーシャル諸島
た。
今日、
日本とこの地域との間では漁業
決して忘れてはならないと思います。
マーシャル諸島共和国大統領ご夫妻が
じたのは痛ましいことでした。ここパ
ら謝意を表したいと思っております。
ます。地域の復興の一日も早いことを
たいと思います。
や観光の分野を中心として関係が深まっ
この度のパラオ共和国訪問が、両国
間にこれまで築かれてきた友好協力関
ここパラオをご訪問になり、今日、明
こ の 訪 問 に 際 し、ミ ク ロ ネ シ ア 連 邦
及びマーシャル諸島共和国の大統領ご
念願しております。
れぞれの国の国民の幸せを祈ります。
れました。日本軍は貴国民に、安全な
係の、更なる発展に寄与することを念
パラオ共和国大
こ こ に 杯 を 挙 げ て、
統領閣下、令夫人、ミクロネシア連邦大
夫妻が私どものパラオ国訪問に合わせ
ミクロネシア地域は第1次世界大戦
後、国際連盟の下で、日本の委任統治
人々と交流を深め、協力して地域の発
私どもは、
この機会に、
この地域
また、
ネシア連邦大統領ご夫妻、ロヤック・ 場所への疎開を勧める等、貴国民の安
願しています。私どもは、この機会に、 日と続き、私どもと行動を共にしてく
ラオの地において、私どもは先の戦争
20
ださることも誠にうれしく、心より感
この地域で亡くなった日米の死者を追
悼するとともに、パラオの国の人々が、 謝いたします。
てご来島になり、
パラオ国大統領ご夫妻
領になりました。パラオには、南洋庁
展 に 力 を 尽 く し た と 聞 い て お り ま す。
パラオ諸島は、環礁に囲まれたうえに多くの島があり、
艦隊泊地として適していた。
またペリリュー島の飛行場
は大型機用滑走路が2本あり、
ガドブス島の飛行場と合
わせれば東洋一といわれる有力な航空基地といえた。
厳しい戦禍を体験したにもかかわら
と共に、
ペリリュー島にも同行してくだ
大勢の方々に心よりお見舞い申し上げ
さることを深く感謝しております。
感謝の意を表します。
終 わ り に、 こ の 訪 問 の 実 現 に 向 け、 が設置され、多くの日本人が移住して
関係者の尽力を得たことに対し、深く きました。移住した日本人はパラオの
○晩餐会での天皇陛下のお言葉
貴国で活躍しておられる方々に日本語
クニオ・ナカムラ元大統領始め、今日
戦後 年に当たる本年、皇后と共に
パラオ共和国を訪問できましたこと
70
天皇、皇后両陛下のパラオ・ペリリュー行幸啓について
(105号)
(7)
天皇、皇后両陛下のパラオ・ペリリュー行幸啓について
(105号)
(8)
2015年4月9日 讀賣新聞夕刊より引用
「敗戦の証拠を見せろ」という土田上等水兵を、
アンガウル島に戦闘機で運ぶ米兵。
(9)
(105号)
天皇、皇后両陛下のパラオ・ペリリュー行幸啓について
2015年4月9日 讀賣新聞朝刊より引用
水戸歩兵第二連隊を基幹とするペリリュー守備隊は、水際
に強固な拠点を築くとともに、山地にも持久のための陣地
を準備した。(直轄部隊の各種火砲は省略)
水際での果敢な抵抗と反撃によって海兵隊を危機に陥れた
ペリリュー地区隊であったが、上陸2日目には山岳地帯に
食い込まれ、5日目には中央(ウムルブロゴル)山地に追
い込まれた。だが、ここから海兵隊の苦闘と敗北が始まる。
( 10 )
(105号)
天皇、皇后両陛下のパラオ・ペリリュー行幸啓について
ま
桜とともに 皆さまを
必ず我等は 待ち望む
永
いついつ
八 戦友遺族の 皆さまに
遠までも かわりなく
玉
の桜は 散り散りに
ペ島
ち
とこしえ
砕れども武勲は 永久に
見事に咲いて 明日は散る
す敵を 迎え撃ち
山たな
ま う
しょく
射ち尽くし 食糧もない
弾
四 日本の桜は 春いちど
死んでも守ると 誓いつつ
兵たちは 皆散って
強 しま
は総て 墓となる
ペ島
二 小さな異国の この島を
ンジ浜を 血で染めた
オつレ
わもの
一 激しく弾雨が 降り注ぎ
た
作曲 トンミー・ウエンティ
ジョージ・シゲオ
作詞 オキヤマ・トヨミ
「ペ島の桜を讚える歌」
※日本軍軍属の死者は軍人戦死者に含む。生存者は負傷者
に含まれる。
期 飛 行 専 修 予 備 学 生 が 中 心 と な り、
◇
であった。
ポーツマスはロンドンの南方、バス
で約二時間の地にある。
敬を集めている国民的英雄である。中
確立し、いまだに英国民から絶大な尊
合艦隊と戦い、これを撃滅してジブラ
代表者としてインドネシア・マネンボ ○ポーツマス慕情
一一九四年、英国王リチャード一世
の特許状により創設した最古の造船所
西輝政氏の『大英帝国衰亡史』によれ
ネルソンは、一八○五年のトラファ
ルガーの海戦でフランス・スペイン連
で、爾来、造船並びに英国海軍の一大
ば、トラファルガー海戦を含むナポレ
月の文系在学生徴集延期臨時
大之木英雄氏は、大正 年(1922
年)呉市生まれ、昭和 年(1939
同年
年5
年(1988年)6
年(2011年)4月ま
り、また、昭和
よって英国は「バックス・ブリタニカ
のジャンプに相当するもので、これに
各種慰霊祭等における祭詞を始め、多
である。
時代」という世界史の主役となったの
期、終戦時
(1962年)家具会社大之木ダイモ
は主計短現
ン提督がトラファルガー海戦で座乗し
考えてもらいたい」と言ったのと同じ
た 戦 艦 ヴ ィ ク ト リ ー 号 の 見 学 で あ る。 人ひとりが国家に何を貢献できるかを
等 を 歴 任。 大 之 木 氏 の コ レ ス( 同 期 ) しみだった。英国海軍博物館とネルソ
同会長、相談役、広島商工会議所会頭
海軍航空隊の端くれだった私にとって
が何をしてくれるかではなく、国民一
この文脈は若きアメリカ大統領J・
F・ケネディがその就任演説で「国家
たものである。
11
の初めからポーツマス行きは最大の楽
工芸(現・大之木ダイモ)を設立。以
に 当 た る。) を 団 長 と す る 広 島 日 英 協
作戦に武者震いしたであろうと想像す
(注・「英国は、諸子が各々
do his duty
その責任を全うすることを期待する」)
England expect that everybody will
ス ト ) に 翻 っ た 旗 旒 信 号 で あ る。 ─
劈頭、旗艦ヴィクトリア号の檣頭(マ
いて、ここポーツマスは、コード名オ
くの講演録、回想、随想、手記論稿等、 ( ヨ ー ロ ッ パ 逆 上 陸・・ D デ ィ) に お
人々の胸を打つ感動の言葉や文章を寄
れ、敵前上陸部隊と所要艦船の全軍が
そ の 一 端 を 次 に 紹 介 さ せ て 頂 い た。
これは、平成9年(1997年)7月 集結した場所である。
ネルソン記念室に入った。最初に眼
に入ったのは、トラファルガーの海戦
9日、橋口収氏(昭和
ペレーションロードの計画本部が置か
実戦配備に就き、終戦直前、筑波海軍
げ卒業した海軍主計短現
年東大を繰上
航空隊へ移動中に終戦を迎え、同航空
海 軍 主 計 大 尉。 戦 後、 大 蔵 省 に 入 り、 待機して、迫り来るノルマンディ上陸
─有名な言葉である。
今見るこの海に五十三年前、数千隻
の船が蝟集し、陸には数百万の将兵が
隊着任後解散。海軍中尉。復員後家業
大蔵省主計局長、国土庁事務次官、公
正 取 引 委 員 会 委 員 長、 広 島 銀 行 頭 取、 るだけで血が湧くのを覚えた。この旅
後、海外進出等を併せ関連事業を拡大
会の旅で、英国ポーツマスにある海軍
年
し、現在は大之木建設㈱、大之木ダイ
感覚であり、また、東郷平八郎聯合艦
62
期であるから、1期先輩
モ㈱、呉倉庫運輸㈱等大之木グループ
隊司令長官が日本海海戦でロシアのバ
年(1987年)には元海軍第
日本海軍がその範とした英国海軍の全
昭和
容を見ることができるのは心躍ること
海外事業への進出等を図り、昭和
18
10
代表として活動、現在に至る。この間、 博物館を訪れた時のことを記事にされ
37
たわら青年会議所での活動等を通じて
零戦搭乗員として朝鮮・元山航空隊へ
63
年間呉水交会会長を務め、その後
月から平成
で
23
に 努 め て お ら れ る が、 文 筆 に も 優 れ、 一 九 四 四 年、 第 二 次 大 戦 の 山 場 と
な っ た、 連 合 軍 の ノ ル マ ン デ ィ 作 戦
23
月、 せておられる。
期飛行専修予備学生とし
月海軍に入隊し、翌昭和
ネン村に戦没者慰霊碑を建立し、以来
根拠地として栄えた所であり、今なお
オン戦争は、大英帝国の興起と隆盛に
年
14 11
慰霊活動の責任者として行事に携わ
は 旧 軍 や 海 上 自 衛 隊 関 連 の み な ら ず、 空母インヴィンシブルほかの母港であ
は名誉会長に就任して現在に至る。氏
有数の港として活躍している所である。 貢献した三段跳びの戦いのうちの最後
り、英国海軍の基地として、また、英国
61
て航空機操縦訓練に従事し、同年
月、海軍第
19
12
14
ルタルを獲得し、名実共に大英帝国を
幅広い経済活動を通じて特攻隊員を始
陸士
めとする英霊の慰霊顕彰や啓発活動等
期 飯田 正能
年)東京商科大学(現・一橋大学)予
ネルソン・タッチとカミカゼ
─呉水交会編・大之木英雄寄
稿・講演集を読んで─
14
科に入学、同大学本科3年在学中、昭
和
10
特例廃止(いわゆる学徒出陣)により
18
12
( 建 設 業 大 之 木 組 ) に 就 き、 家 業 の か
ネルソン・タッチとカミカゼ
(105号)
( 11 )
( 12 )
(105号)
ネルソン・タッチとカミカゼ
ルチック艦隊との海戦劈頭、旗艦三笠
リーダーシップとはこれなんだな」と
ネルソン・タッチなんだな、英国人の
と同じレベルで日本の特攻に対して
の英雄ネルソン提督に対する賛仰の念
ネルソンの座乗艦を就役せしめている
ている。二世紀を経てなお現役として
模型があった。ネルソンは戦術につい
( Leadership
)という
Nelson Touch
説明板とトラファルガー海戦の大きな
ネルソン記念室を出て次の部屋へ
入ったとき、私の眼は一枚の説明板に
は崇めているんだなと理解できた。
シップと武将らしい見事な最期を国民
橋 口 団 長 か ら、「 面 白 い も の が あ る 世界の海を英国のものにして大英帝国
よ」と教えられて眼を向けると、 The を確固たるものにしたというだけでな
く、 こ の よ う な 体 当 た り の リ ー ダ ー
ネルソン提督がいまだイギリス国民
の尊敬を一身に集めている理由も単に
の気魄も大したものだったなと思った
滅せしめた日本の海軍航空隊のあの頃
沈し、瞬時にして英国太平洋艦隊を壊
ス・オブ・ウェールズとレパルスを撃
晴らしい英国海軍の新鋭戦艦プリン
十二月十日、マレー沖海戦で、この素
と心底感心した。同時に、昭和十六年
本帝国海軍が師と仰いだ英国海軍だな
ン、見事というほかない。さすがは日
み、ネルソン・タッチをどのように小
することを期待する」をどのように読
葉「英国は諸子が各々その責任を全う
ている。この子供たちがネルソンの言
ろぞろと来る。先生が引率して説明し
ふと気がつくと、すごい見学者の数
で あ る。 七、八 歳 の 小 学 生 の 団 体 が ぞ
ているかがよくわかる。
ン・ブルの魂としていかに大事に扱っ
“ 道 義 心(
) を 示 す ” ところに英国がネルソンをいかに敬愛
moral strength
と敬意を表している。さすが大ブリテ しているか、ネルソン・タッチをジョ
のマストに掲げたZ旗「皇国ノ興廃コ
ノ 一 戦 ニ ア リ 各 員 一 層 奮 励 努 力 セ ヨ 」 自分の胸に言い聞かせる。
て何も言わず、部下の諸将の判断にま
釘付けになった。
もその延長線上にある。いずれもまこ
かせ、自らは第一線に立って敵に肉薄
戦である。当時は敵国だった英国が海
そ天晴れ」と思っているのではないか。 ル魂を発揮するようになれば、どうい
日本の特攻に対して同じように「敵こ
とに爽やかな文句である。
接触して戦う。これが「ネルソン・タッ
(神風)とある。 ものである。なんとなしに「敵こそ天
「KAMIKAZE」
言うまでもなく、あの神風─特攻機零 晴れ」と思ったが、見学する英国民も
軍記念館で日本軍の特攻をどう評価し
さな胸に刻み込むのだろうか。
チ」と言うとある。
模型を見ると、正にネルソン・タッ
チである。英国海軍とフランス・スペ
の中央部にあって敵戦艦と全く舷々相
か否か』であろう。そして、国民の責
It was an honour to do so, a sign of
(特攻は栄誉ある行為 任感昂揚についてどのような社会感覚
moral strength
であり、道義心の強さを示す象徴だっ を醸成するかによって今後の国家、民
んでみた。
日本では、時に「特攻は無駄死にだ」
という無残な意見も多い。説明板を読
族の運命は決まるのではないか。繁栄
しかし、不幸にして戦いが起こった
時、重要な問題は『全責任を全うする
は当然である。
戦争の罪禍をあげ、これを避けるべき
の団体が見学に来るのは見たことがな
残念なことに教師に引率された小学生
江田島には素晴らしい海軍の教育参
考 館 が あ る。 見 学 者 も 多 い。 し か し、
はこの小学生たちが背負って行くのだ
チャーの大改革以来どん底から着実に
うことになるだろうか。英国は、サッ
大英帝国は衰亡した。しかし、この
子供たちが次々と成人し、ジョン・ブ
イン連合軍とが各々見事な輪形陣を展
摩して交戦し、英国海軍は連合軍を撃
と没落が─。
開 し、 中 心 部 で 両 軍 は 接 触 し て い る。 ているか、胸が動悸した。
滅したが、ネルソンはフランス艦ルド
た!)それだけだった。ほかに何の付
ウタブル号の狙撃兵の銃弾を受けて戦
ネルソンのヴィクトリー号は英国艦隊
死する。
け足しもない。沖縄の米艦に突入する
リア号が今なお現役として就役してお
博物館を出ると、雲一つない碧空を
背景にしてネルソンの座乗艦ヴィクト
覚える。このようなところから両国の
い、社会感覚の違いに暗然たるものを
のに・・。英国と日本の学校教育の違
ろう。
這い上がっている。これから先の英国
船室に運び込まれたネルソンは英国
艦隊の大勝利の報を聞いて「神は誉む
思わず涙が出た。
り、近海海区の最高司令官の艦となっ
い。一番見てもらいたいのは小学生な
とつぶやいて十五分後にこと切れたと
多数の小学生が立ち止まってこの説
明文を読み、写真を眺めていた。自国
べ き か な。 我 は 我 が 義 務 を 果 た せ り 」 零 戦 の 写 真 が 並 べ て 展 示 さ れ て い た。
いう。武将として当然とも思うが、ま
た、 粛 然 と し た も の を 覚 え、「 こ れ が
年、 日 露 戦 争 終 結 か ら
いだろうか。
民族存亡の危機に当たり、先人たちの
加えて、我が聯合艦隊は、波荒き対馬
大東亜戦争開戦当時、太平洋艦隊司令 「 見 敵 必 殺 」 の 信 念 に 燃 え て、 第 1 合
110年)の節目の年と書いた。国家、 た 適 材 適 所 主 義 を 見 る こ と が で き る。 揮統率の下、指揮官・将兵一丸となり、
110年(したがって明治
長官であったキンメル大将は、真珠湾
海峡において徹底した射撃訓練を行う
設した機雷原に追い込んで触雷させる
近い将来呉市に海事博物館ができ
る。今、関係者はその準備に大わらわ
示した気概、赤誠心を今一度我々は肝
攻撃によって更迭され、後任にニミッ
衛の名人事によって、結果的に日本海
だ。しかし、この呉市の海事博物館が
ツ少将が大抜擢され、中将を飛び越え
合 戦 ま で 間 断 な く 戦 っ た。
キャプテン・クックも一八○五年ネル
一七七五年世界の海をかけめぐった
る部隊にしておくといった哲学=ネル
指揮官が現存しているかのように戦え
峡と津軽海峡のいずれを通過するかで
山真之参謀はバルチック艦隊が対馬海
し て 指 揮 官 が い な く な っ た と し て も、 海海戦の直前まで、智将と言われた秋
東郷元帥は「聖将」であるとともに
戦場では常に「猛将」であった。日本
命中率を生み出した。更にまた、通常
砲台に依存していたロシア艦隊に勝る
という方法により、角度・射距離を各
ることで統一した角度・射距離で撃つ、
火薬を使用し、距離3千m以下の近接
戦になると、敵艦の装甲部を貫く徹甲
弾に切り替えた。本来危険な戦法とさ
の殱滅を期し、一隻たりともウラジオ
の制海権を確保するため、ロシア艦隊
東郷司令長官は、朝鮮半島と日本周辺
出撃セントス 本日天気晴朗ナレドモ
波高シ」との大本営に向けた打電に込
見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ
実行であった。その自信の程が「敵艦
敵の射撃能力等を十分勘案した上での
報を受け、直ちに全艦に出撃を命じた。 れ た 敵 前 回 頭 も、 風 向 き や 波 の 高 さ、
以 上 が 大 之 木 氏 の 旅 行 記 で あ る が、 を遂行できるなど、戦に勝つための要
これを読まれた多くの日本人は、ネル 因・素質を備えた軍人であった。
に逃亡させてはならないとの固い決意
められている。)
版 )。 加 え て、 冷 静 沈 着 に 上 部 の 命 令
東郷元帥を聯合艦隊司令長官に抜擢
したのは、当時の海軍大臣山本権兵衛
と自信をもってこの決戦に臨んだ。(我
ソン提督とヴィクトリア号ないしはト
ラファルガー海戦と共に、東郷平八郎
が聯合艦隊の作戦、攻撃は徹底してい
年
長官であった東郷少将を、本来定型的
ところ、適材適所を重んじた山本権兵
を繰り返し、最後はウラジオ港口に敷
廢此ノ一戦ニアリ各員一層奮勵努力セ
艦・ 水 雷 艇 に よ る 夜 襲、 翌 日 の 追 撃、 檣 頭 に Z 旗 が 掲 げ ら れ た。「 皇 國 ノ 興
ウラジオ間での昼間の主力決戦、駆逐
午後1時 分、ロシア・バルチック
艦隊の全容を発見するや、旗艦三笠の
月、それまで舞鶴鎮守府の司令
いしは日本海海戦のことを想起された
のではなかろうか。
12
前 号 の 会 報『 特 攻 』( 第 1 0 4 号・ 人事としては、当時常備艦隊司令長官
2月1日発行)の「靖國神社年越し詣 であった日高壮之丞中将を充てるべき
で」の記事中に、今年は、大東亜戦争
た。秋山真之参謀が立案した対馬から
であるが、日露開戦前夜に当たる明治
◇
27
元帥と戦艦三笠(現・三笠記念館)な
38
を艦橋で行い、それを各砲台に伝達す
ソン提督の遺体もこの門をくぐって外
迷っていたが、東郷司令長官は迷わず、 の射撃では破壊・殺傷力に優れた下瀬
26
よい旅だった。七月十一日には日本 本 海 軍 は 人 事 で 敗 け た 」『 歴 史 通 』 明治 年5月 日、110年前のこ
(平成九年旅行記より) 2011年5月号掲載論文・ワック出 の日午前5時5分「敵艦見ユ」との通
へ帰る。
的確な判断を下した。
ソン・タッチにも造詣が深かったとい
代海上幕僚長筆「日
う(古庄幸一第
米海軍の将官人事においても思いきっ
27
日の日本海海戦大勝利からも
38
に出た。久しぶりにいろいろな思いで
戦から第
東郷司令長官の的確な判断、剛胆な指
海 戦 で の 帝 国 海 軍 の 大 勝 利 と な っ た。 と い う「 七 段 構 え の 戦 法 」 に 基 づ き、
ポーツマスの海軍博物館のように、見
に銘ずべきであろう。
ことにより戦闘力を強化し、更に射撃
年5月
る者をしてそれぞれの胸に国民として
て大将に昇任して太平洋艦隊司令長官
法にも独自性を持っていた。砲火指揮
終結から
の責任を自覚し、民族、国家への思い
ところで、東郷元帥はイギリス留学
の経験があるだけでなく、ネルソン提
に就任した。
子供の稟性に差がついてくるのではな
を懐かせる機会に繋がるようなものに
督を尊敬し、ネルソンに関する勉強も
日~
なるだろうか。
70
一 七 一 一 年 に 建 設 さ れ た ヴ ィ ク ト していた。したがって常に部下に対し
リ ー・ ゲ ー ト を く ぐ っ て 外 に 出 た。 て自分の考えを伝え、仮に自分が戦死
28
胸が湧きかえった。
10
45
36
ネルソン・タッチとカミカゼ
(105号)
( 13 )
は肉声となり、各部署の伝声管を通し
ヨ」との旗旒信号である(この信号文
ち、2時5分、敵艦の射程内である距
敵の先頭を圧迫する転舵の好機を待
敵の砲弾三十数発が当たった。
隻が沈没他の艦艇も四散した。
に我が駆逐艦、水雷艇隊の肉薄攻撃に
ら指揮を取っていた。この時三笠には、 クに向け北上を開始したが日没ととも
に転じ、壮絶な主力決戦の火蓋が切ら 翌 日の夜明けとともに我が艦隊は
れ た。 第 1 合 戦 で あ る。 そ の 位 置 は、 残敵掃討を開始し、ネ少将率いる残存
よりロシアの戦艦2隻、装甲巡洋艦2
2時 分、ロシア艦隊との距離6・
4㎞になるや一斉射撃をもって猛反撃
法の形に持っていくための左大回頭を
離8㎞において、T字(又はZ字)戦
そ正に、彼のネルソン提督が、トラファ
下令した。いわゆる東郷ターンである
て 各 艦 隊 の 全 員 に 伝 わ っ た )。 こ れ こ
ルガーの海戦劈頭、旗艦ヴィクトリア
号の檣頭に掲げた旗旒信号、
「 England( そ の 後 絶 え ず 敵 主 力 艦 隊 の 先 頭 を 押
転じて左舷反航の態勢を取り、ロジェ
官は、その直後2時2分針路を南西に
軌を一にするものである。東郷司令長
」( 英 国 は、 諸 子 が 各 々 そ の 責 任
duty
を全うすることを期待する)の文言と
郷長官は弾雨の中を耐え進み、旗艦三
来し、林立する水柱に囲まれたが、東
頭に立つ旗艦三笠には多数の砲弾が飛
ロ中将は2時8分砲撃を下令した。先
は、宗像大神の御神助によるものと報
篤い東郷元帥は、日本海海戦の大勝利
の北方至近の海域であった(崇敬心の
岡県宗像郡の宗像大社─天照大神の御
玄界灘の真っ只中に浮かぶ沖ノ島(福
甲巡洋艦ドンスコイが自沈し、その主
家鎮護の神とされた、天照大神の御子、 ロ中将とその幕僚を捕虜とし、佐世保
した日本艦隊に対し、その弱点に乗じ、 神勅により「海北道中」に降臨し、国
力艦はいずれも撃沈、自沈若しくは捕
神を祀る「沖津宮」の御神体とされる) た。5月
宗像三女神を祀る─の長女神・田心姫
獲され、バルチック艦隊は消滅した(撃
ウィに移乗して逃走しようとしていた
て降伏させ、また、ロシア駆逐艦ベドー
艦隊を欝陵島の南約160㎞に包囲し
日朝、ロシア艦隊最後の装
に回航して同中将を海軍病院に収容し
ストウェンスキー中将指揮するロシ
笠の艦橋に立ちっ放しで至近の海中に
ワーロフは司令塔に被弾、大火災を生
戦闘開始1時間後、ロシア艦隊の主
力 戦 艦 オ ス ラ ー ビ ア は 沈 没、 旗 艦 ス
に展示されている)。
を宗像大社に奉納され、同大社神宝館
共に、旗艦三笠の艦橋にあった羅針儀
る圧倒的な大勝利を博した。
116人という、世界海戦史上稀に見
6106人に対し、日本側の戦死者は
シ ア 側 の 戦 死 者 4 5 4 5 人、 捕 虜
1、 そ の 他 2)。 我 が 聯 合 艦 隊 の 喪 失
捕獲7隻・戦艦2、海防艦2、駆逐艦
艦1、巡洋艦1、駆逐艦4、その他4。
少将は残存艦隊を集めてウラジオスト
被った。ロ中将に替わったネボガトフ
ヨールも大破、その他の艦も大損害を
鋭戦艦のうち4隻が沈没し、残るアリ
長は自分の艦がどのような状況の中に
の煙などが濛々と立ち込め、各艦の艦
たせた。当時の海戦においては、火薬
勇敢さは麾下の艦長始め将兵を奮い立
発 生 し、 勝 敗 は ほ ぼ 決 定 的 と な っ た。
ネ ル ソ ン 精 神 の 中 核 を な す も の は、
更に5時間に及ぶ昼間戦でロシアの新 「 見 敵 必 殺 」 で あ る。 ネ ル ソ ン 提 督 の
艦艇は水雷艇3隻に止まり、また、ロ
じ、ロ中将も重傷を負い、戦列から脱
たごりひめの
ア・バルチック艦隊に南下近接を開始
隻・戦艦6、装甲巡洋艦3、海防
29
落した。その他の後続艦も被弾、火災
19
かみ
し、急速に近付く敵艦隊を見詰めつつ、 落下する敵砲弾の水しぶきに濡れなが
28
沈
expect that everybody will do his さえるため、この大回頭は一再ならず
行 わ れ た )。 眼 前 で 突 如 大 変 針 を 開 始
10
謝し、後に「神光照海」の自筆編額と
日本海海戦における10次に及ぶ日露艦隊の戦闘図
( 14 )
(105号)
ネルソン・タッチとカミカゼ
る」と言ったので、麾下の艦長には戦
入った敵を撃ち続けておれば軍功であ
れが全体の戦局にどうであろうと目に
敵を見付けたら大砲を撃ち続ける。そ
あろうが、ネルソン提督は「とにかく
あるのか判断に迷うことが多かったで
日本側の損害未帰還機
くなったことが言われている。しかし、 る決心なり。自分は自分、人は人なり。 少将は、それを理由にミッドウェーを
に比べて第二次攻撃の対空砲火が激し
した。その理由としては、第一次攻撃
の草鹿少将は、すぐに引き返すことに
航空艦隊)司令長官南雲中将と参謀長
の報告があったのに、機動部隊(第一
て戦果を拡大、真珠湾を壊滅する迄や
しせば、此際に於て更に部下を鞭撻し
研究同意せり・・但自分が指揮官なり
ウェー)の攻撃を提案せる所、参謀連
こ と な り・・ 依 て 同 島( 注・ ミ ッ ド
官(蒼龍、飛龍)から「出撃準備完了」 度に於ては、戦果の拡大は最も重要な
留が付いていたので、南雲中将と草鹿
の命令に「状況の許す限り」という保
を無視して、帰っているのである。こ
攻撃を命じているにも拘わらず、それ
更にこの真珠湾攻撃の南雲機動艦隊
は、聯合艦隊が帰り道にミッドウェー
また、前記の『歴史通』同号に掲載
された渡部昇一上智大学名誉教授の論
受け継いでいたのである。
ルソン提督の不動の方針を東郷元帥は
はない。第三次攻撃は陸上施設を目標
を止めなければならないほどの被害で
が1機も失われていない。第三次攻撃
第一次、第二次合計で103機である
べし』」
不能ならしむる如く徹底的撃破に努む
ウェー」島を空襲し、之が再度使用を
動部隊は帰途状況の許す限り「ミッド
機5機である。参加した水平爆撃機は (注・第一航空艦隊)長官に発す。『機
は零戦9機、急降下爆撃機
このことに関し、戦後 年経って出
版されたアメリカ太平洋艦隊司令長官
者、ある程度の艦体兵器も亦若干の損
二十九機、戦死五五名の外数名の犠牲
空襲は状況許す限りなりしも参謀長と
る。「・・・帰路に於けるミッドウェー
前記『戦藻録』に次のように記してい
になっていたはずである。宇垣中将は、
けば、後のミッドウェー海戦も全く逆
仍 て 本 職 の 提 案 通 り「 ミ ッ ド ウ ェ ー」 攻撃しないでさっさと帰ったのであっ
闘中に一切の迷いがなかったというこ
考「忘れられた「見敵必殺」の精神─
にするものだったから、もしこの攻撃
ニミッツ提督とポッター教授の『太平
機。その内訳
とである。この「見敵必殺」というネ
「 さ っ と 斬 っ て、 さ っ と 引 く 」 そ ん な
が行われていたら、海軍の工廠も石油
途ミッドウェーを叩けとの命令にも従
)(邦 傷 あ る も 云 ふ に 足 ら ず と す べ し 」 と。
The Great Sea War
訳は『ニミッツの太平洋海戦史』実松・ 真珠湾に対する第三次攻撃もせず、帰
し て は 腹 が 立 ち た り・・・ 飛 行 機
た。この時、ミッドウェーを叩いてお
“美学”で戦争を遂行したのが日本の
タンクも破壊されていたと考えられる
空 襲 の 原 案 に 決 し、 次 の 電 を 1 A F
エリートたちだった。驕慢と油断、戦
機、雷撃
に臨んで腰がひけ、艦をも惜しんだ“海
洋海戦史』(
年発行)に
当時聯合艦隊参謀長であった宇垣纏
少将(当時、後中将・第五航空艦隊司
富永共訳、恒文社、昭和
令 長 官、 終 戦 と 同 時 に 沖 縄 に 出 撃 し、 標を艦船に集中した日本軍は、機械工 『 戦 藻 録 』 の 編 者 た ち は「・・・ 機 動
場を無視し、修理施設には事実上、手
に 反 対 だ っ た。 従 っ て 実 行 に 方 っ て、
艦隊司令部の首脳は始めからこの作戦
わ ず に 帰 還 し た の は な ぜ で あ ろ う か。
軍はネルソン精神を忘れたから(敗け
をつけなかった。日本軍は湾内の近く
よると、真珠湾攻撃について「攻撃目
たの)です」と断言している。
月9日火曜日にも次のよう
ややともすれば、被害妄想が頭を擡げ
年
戦死)が書き誌した日誌『戦藻録』の
にある燃料タンクに貯蔵されていた
12
に記されている。
16
の中にいなかったことや、第三次攻撃
破壊している。その時、航空母艦が港
破4隻であり、200機近い飛行機を
とせず。僅かに三十機を損耗したる程
泥棒の逃げ足と小成に安んずる弊なし
書いている。
おこすことは不可能であったろう」と
L 点 を 経 て 帰 投 す る の 電 昨 夜 到 達 す。 数ヵ月にわたって、真珠湾から作戦を
は 戦 果 報 告 と 同 時 に 第 一 航 路 を 執 り、 こ の 燃 料 が な か っ た な ら ば、 艦 隊 は
月後の昭和
るまいか」と記している。更にその数ヵ
年5月7日~8日、世界
について、山口多聞第二航空戦隊司令
であった。戦艦だけでも撃沈3隻、大 「・・機動部隊(注・南雲第一航空艦隊) 四五○万バレルの重油を見逃した・・ て追撃の決行に熱意を欠いたのではあ
攻撃、第二次攻撃は予想以上の大成功
昭和
15
「 見 敵 必 殺 」 の 精 神 の 欠 如 は、 真 珠
湾攻撃で既に明らかになった。第一次
戦後参議院議員)も「要するに日本海
15
37
当 時 の 航 空 参 謀 源 田 実 中 佐( 後 大 佐、 あるのである。
から、その後の勝敗に決定的な関係が
29
軍魂”の実態─」の中で、真珠湾攻撃
ネルソン・タッチとカミカゼ
(105号)
( 15 )
瑚海海戦でも、井上成美中将の指揮す
最初の空母対空母の海戦と言われた珊
17
作戦のため、軽空母「祥鳳」と制式空
る第四艦隊は、ポートモレスビー攻撃
る に せ よ、 敵 空 母 は 全 滅 せ し め あ れ
一にす。本日午後第二次攻撃は不能な
往々にして見るは、昔も今も其の軌を
母艦隊の作戦・運用の拙さから、空母
補給路の遮断に努めた。日本海軍の空
よる制海権の確保と潜水艦部隊による
わらず、海軍の代表的な智将としても
ており、戦下手の提督であったにも拘
当初にも、ウエーキ等攻略戦に失敗し
艦 隊 決 戦 は 次 々 に 米 軍 の 勝 利 と な り、 てはやされたのは、前記の「新軍備計
母「翔鶴」、「瑞鶴」の3隻の空母を有
年8月海軍兵学校校長、
年
し て い た が、 ア メ リ カ 海 軍 の 空 母 は、 ば・・随時攻撃を加へ、又夜戦決行を
月~
画」の立案者であったこと、昭和
潜水艦部隊の活躍もあって制海権は完
年5月海軍次官、
年
年5月海
よると思われるが、戦後、阿川弘之氏
月
を与えたが、日本側も「翔鶴」に爆弾
を 撃 沈 し、「 ヨ ー ク タ ウ ン 」 に も 損 傷
力艦同士の決戦は起きないとしてい
が主作戦となるというものであって主
となる。つまり上陸作戦とその防御戦
が、対米戦において 島嶼航空基地を
重視し、これらの基地争奪戦が主作戦
は、日米ともに2隻の空母同士で戦い、 を及川古志郎海軍大臣に提出している
日本軍は、制海権の持つ戦略性を理
解できず、敵の制海権下にある島嶼に
である。残るのは精神力しかない。
と も 軍 艦 を も っ て 長 躯 攻 撃 が で き る。
ての軍隊であるが、海軍は補給がなく
思想が全く異なる。陸軍は補給があっ
年1月、「新軍備計画」 つ以外にない。陸軍と海軍とでは戦略
た陸兵は如何に勇戦敢闘しても死を待
露戦争直後の明治
を寄せ、東郷元帥に対する温かい思い
断たれた陸兵は最早戦闘能力はないの 「 東 郷 平 八 郎 提 督 を 想 う 」 と い う 一 文
海軍によって置き去りにされ、補給を
秋、海軍兵学校の少尉候補生として遠
これに反して、前記のニミッツ提督
は、その著『太平洋海戦史』の冒頭に
にマイナス評価のことを書いている。
美の東郷嫌いとともに、専ら東郷元帥
るが、阿川氏のこの伝記では、井上成
発行)によるところが大きいと思われ
年発行、同文庫本・平成4年
が命中して火災を生じたため、飛行機
る。また、空母建造について批判的で、
不必要な戦力を送り、かつ放置して撤
洋航海の途次日本を訪問し、東郷提督
和
は「瑞鶴」に収容した。この状況から
基 地 航 空、 海 上 護 衛( 駆 逐 艦 )、 潜 水
の計らいで、東京での天皇陛下主催の
謀長宛電を以て迫る・・・遂に長官命
大残敵の殱滅を計らざるべからずと参
依り全く敗戦思想に陥れり。戦果の拡
これに対して、米軍は、日本海軍に
よる真珠湾奇襲の反省から、先ず空母
と言えるのではないか。
の任務に駆り立てることとなった。
討に向かわせず、基地攻撃や補給など
送船団の破壊、補給路の遮断と残敵掃
にまた、潜水艦を本来の用途である輸
せ、空母艦隊決戦の敗北につながった、 し、地上で破壊される愚を犯した。更
交流を図った東郷提督の奥ゆかしさと
らず、このような若い米海軍士官との
シップとその勇気に対する尊敬のみな
の指揮に示された卓越したリーダー
を得た。日本海海戦における聯合艦隊
園遊会に招かれ、東郷提督に会う機会
3万3千トンの米空母「レキシントン」
(1905)年の
令として四、六、十一艦隊長官に発令せ
を中心とする強力な機動部隊の急速な
第四艦隊司令長官井上中将は、開戦
るとして、昭和
第四艦隊司令長官の井上中将は、ポー
艦の順に優先すべしと論じた。この「新
退させなかった。基地航空優位を信じ
り。自隊の損害を過大視して追撃を鈍
増強を図り、日本の空母艦隊の撃滅に
16
り、 戦 果 の 拡 大 を 期 す る に 遺 憾 の 点
38
しか収容できなかった。翌8日の会戦
トモレスビー攻撃を止めにした。これ
て、大量の飛行機を島嶼飛行場に配置
出を記している。ニミッツ提督は、日
について宇垣中将は前記『戦藻録』に
軍備計画」が、海軍をして兵法無視の
は不可能であり、補給・補充の断たれ
20
島嶼戦に駆り立て、空母建造を遅れさ
築により、米海軍を邀撃し、撃滅を図
8月~
軍大将、軍事参議官といつた経歴にも
機は着艦ミスで海に落ち、6機
機を失い、 島嶼航空基地を結合させた防衛網の構
15
の兵力を集めて上陸作戦を行い、島嶼
と記している。第四艦隊司令長官井上
機で攻撃に
成美中将(終戦3ヵ月前に大将に昇進) 基地は次々に攻略されてしまった。
機計
軍の方が優勢と言うべきである。とこ
機、艦攻
10 27
となり、第四艦隊は祥鳳一艦の損失に
他の
向かったが、迎撃を受けて
15
「・・ 茲 に 於 て 参 謀 連 は 憤 慨 し て 躍 起
12
12
11
61
は艦爆
ろが、軽空母「祥鳳」がアメリカ軍の
ん。今後において深く銘記すべきなり」 全に米軍のものとなり、一方的に大量
19 17
最初の攻撃で轟沈してしまい、日本側
20 19
に よ る 伝 記(『 井 上 成 美 』 新 潮 社・ 昭
10
は、開戦前の昭和 年海軍航空本部長
幾ら基地航空を優位として防備を固
当 時 か ら「 基 地 航 空 優 位 説 」 を 唱 え、 めても制海権を確保できなければ防衛
の2隻のみであった。明らかに日本海
「 ヨ ー ク タ ウ ン 」 と「 レ キ シ ン ト ン 」 為さば克く之等を全滅し得たりしなら
( 16 )
(105号)
ネルソン・タッチとカミカゼ
その素晴らしい知性が、ニミッツ提督
の心を捉え、自身を東郷提督の「弟子」
と認識していたとのことであり、昭和
9(1934)年、東郷提督が薨去さ
終戦 年を巡る報道に思う
まま、筆者は父親に、2歳上の兄は母
難する」と告げられる。事情も解らぬ
測り知れない大きな恩恵を与えてくれ
この1年半の体験が、その後の人生に
見えるが、実はそうではない。筆者は
ず る 街 道 は 避 難 民 の 洪 水、 暗 闇 の 中、 はないかと考えている。
たものと今でも感慨に身を委ねてい
恩恵の最たるものを紹介する。最初
の感動は、先述した避難経路で投棄し
親に手を引かれ家を出る。予め準備し
黙々と人波が続いた。父親の手が離れ
た非常持ち出しのトランクが、翌日騒
ていた小型の皮のトランク2個を両親
終戦 年の今年、先の戦争に関する
多くの報道がなされている。いずれも
たら混雑に埋没するであろうことは理
ぎも収まらぬうちに畑の地主と駐在さ
る。おそらくは、この体験無くしては、
戦争の被害が如何に大きなものであっ
解でき、必死にしがみ付いていた。途
人生もっと浅薄なものに推移したので
たかを生存者の証言を加え、二度と起
中で自暴自棄になる人や、子供とはぐ
んがリヤカーに載せて届けてくれたの
が肩からバンドで吊るしている他は何
として再び東京を訪問して、東郷提督
こしてはいけないと訴える態度であ
である。皮のトランクに外国ホテルの
も持ち出せない状況だった。郊外に通
の国葬に参列し、その後東郷家での自
り、誠に結構な事と考えている。しか
の列は、押し合いへし合いのろのろと
し、後期高齢者になった筆者は、最近、 れ半狂乱になった人を見ながら、長蛇
─頼りない「悲惨」一辺倒
如何に復興したかを伝えよ─
賀の三笠艦を訪問し、艦上に海兵隊の
( 1 9 4 5) 年 の 終 戦 直 後 に も、 横 須
報道している皆さんにやや頼りなさに
れた時、海軍大佐となっていたニミッ
警備兵を配置させ、占領軍の水兵や海
宅 葬 に も 出 席 し て い る。 昭 和
兵隊員による艦の破損や記念品の奪取
レッテルがべたべた貼ってある珍しい
着した。
れ は、 報 道 す る 人 達 が、 経 済 成 長・ クまで投げ捨てて、身一つで実家に到
れていることを知らされるや、東郷提
いことによるものと考えている。
会心理を根拠とし、戦争の実体験がな
らではの経験である。父親が実家の伯
難民が最後まで持っていたものは貴重
そして純朴な雰囲気であることか。避
カラさんの物に違いないという判断
金の拠出や米国将兵からの基金もあっ
心を動かし、日本政府関係者からの基
よるこの厚意が、多くの日米両国人の
を寄附したのである。ニミッツ提督に
受ける。
日この街はB
を味わったが、馴染む間もなく6月
今風の報道姿勢からみると、哀れを
とどめる年齢・境遇・体験であったと
わった。
で文字通り斜陽族、タケノコ生活を味
ちらの家も焼失、ダブルパンチの状態
い じ め な ど 通 り 一 遍 の「 子 供 の 苦 労 」 田舎生活を満喫し、神戸に帰るが、こ
たっぷりと味わった。地域に伝わる伝
なかで、田植えから収穫に至る農村の
いたずら悪童の限りを尽くした生活の
い る。 そ の 後、 田 園 環 境 で の 1 年 半、
本心情として大いに役立ったと考えて
36
27
29
19
の夜間空襲で大被害を
田 畑 作 業 を 旧 農 地 制 度 の 最 後 の 年、
て、 昭 和 ( 1 9 6 1) 年 5 月 日、 そ の 夜 は 叩 き 起 こ さ れ、「 街 が 燃 え
三笠は記念艦として立派に復元された。 ているので、郊外の母親の実家まで避
三笠の復元に動き出すための基金とし 一家をあげての引っ越しである。小学 事で何より」と笑っていたのが印象深
こ の「 地 方 の 人 達 へ の 信 頼 感 」 は、
ひ ご
て、 そ の 記 事 の 原 稿 料 2 万 円( 当 時 ) 校2年生の転校は大変で、言葉の違い・ かった。以降1年半、手厚い庇護の下、 長ずるに及び地方勤務をする上で、基
た。子供の我々にも深く心に残った。
だったようである。なんと言う親切な
督による偉大な勝利が、日本と世界の
物、村長さんの所へ避難してきたハイ
進んだ。最後は非常持ち出しのトラン
( 1 9 5 7) 年、 ニ ミ ッ ツ 提 督 は、 日
はいけない悲惨なものという通常の社
豊穣の時代に育って、戦争とはやって
を防止するよう命じた。また、昭和
本の友人から三笠が荒廃した状態にあ
海軍の遺産の中で如何に重要であるか
20
寄稿した。そして三笠保存会が発足し、 県 の 中 都 市 の 母 親 の 故 郷 へ 疎 開 し た。 二人で男らしく「身軽になったが、無
を喚起させる一文を雑誌・文藝春秋に
筆 者 は 昭 和 年 4 月、「 学 童 疎 開 」 父に、現金・貴重品・通帳はじめ一切 品、返ってこなくて当たり前ではない
が行われようとする時、神戸から愛知 の 財 産 ま で 投 棄 し て き た こ と を 報 告。 か。都会育ちの父は感動を隠さなかっ
ほうじょう
り、ダンスホールやバーとして使用さ
70
約3キロ、数時間の恐ろしい逃避行
だった。二度と味わいたくない戦災な
32
20
ツ提督は、米国軍艦オーガスタの艦長
70
似た感じを持つようになってきた。そ
終戦70年を巡る報道に思う/ネルソン・タッチとカミカゼ
終戦70年を巡る報道に思う
(105号)
( 17 )
られない体験であった。秋祭りの神楽
統の夏祭り、秋祭りも素晴らしく忘れ
である。人間如何なる試練に遭おうと
頂いたというのが、筆者の率直な所見
小生は「大太鼓」を演じたが、毎夜お
切で、その後の人生を左右する。
では、伯父の尽力で兄は「お稚児さん」、 も、如何に教訓を得ていくかが最も大
宮に集まって受けた特訓が懐かしい。
この様な目で見ると、終戦 年に関
する報道について、「悲惨・逆境」と言っ
た 通 り 一 遍 の 姿 勢 の み で は な く、「 破
陸士
期 飯田 正能
再び「ノーブレス・オブリー
ジ ュ( no-blesse o-blige
)と
は、学徒出陣に思う」
27
す〉と書き残した言葉を、名言として
大きく報道しているが、これをもって
大 多 数 の 出 陣 学 徒 達 が、 同 じ 想 い で、
出撃したと取られることを筆者は憂え
る も の で あ る。『 特 攻 』 第 1 0 3 号 に
掲記したように、戦後逸早く東京大学
年)戦没学生の遺稿集『き
消費生活協同組合出版部から刊行され
よそ者扱いを克服する精神力を与えら
震災からの復興についても、良い影響
ている。実はその姿勢が、現在東北大
につながる側面を持ってほしいと考え
した学徒達こそ、ノーブレス・オブリー
し、特攻に身を投じてこれを護らんと
により、祖国の危機、民族の存亡に際
た標題の記事が掲載された。学徒出陣
したものであるが、同会では、終戦
戦没学生記念会(わだつみ会)が編集
戦・反軍的な内容のものが多い。日本
け わだつみのこえ』は、GHQの占
領政策に呼応した、多分に意図的な反
た(昭和
れたことである。二度の夏の特訓で何
を与えるものと考えている。
な志を称え、感謝の気持ちを表さんと
周 年 を 記 念 し て、『 新 版 き け わ だ
つみのこえ』を岩波文庫から出版して
いる(その中に掲記されている「自衛
和 へ の バ ト ン 」「 遺 筆 と 異 な る 心 の 叫
12
歳)の「必中必
声明 わだつみのこえは今なにを求め
るか」及び「学徒出陣五十周年にあたっ
初に掲載していたが、新版では、同少
原良司少尉の「遺書」を遺稿本文の最
に掲記する)が、旧版では、前記の上
沈」の遺書とは違う率直な思いを吐露
事を、国民の方々にお願いするのみで
くば愛する日本を偉大ならしめられん
も言う権利もありませんが、ただ願わ
中に収録されている「生き残ったわれ
岩波書店から刊行されているが、その
また、わだつみ会編『学徒出陣』が、
1993(平成5)年8月に、同じく
ぬ事で(中略)一器械である吾人は何
理性をもって考えたなら実に考えられ 「所感」を冒頭に掲げている。
パ イ ロ ッ ト は 一 器 械 に 過 ぎ ぬ( 中 略 ) 尉 が 出 撃 前 に 陸 軍 報 道 班 員 に 託 し た
し た「 所 感 」 と し て、〈 空 の 特 攻 隊 の
上原良司少尉(当時
示してある慶応大学出身の出陣学徒・ てのアピール」他をご参考までに後ろ
び」と題して、知覧特攻平和会館に展
隊海外派兵に抗議するわだつみ会声
した。
(ペンネーム・蒼蒼子) ジュの実践者であるとして、その崇高
い
明」、「学徒出陣五十周年にあたっての
学・高校と水泳部生活に現を抜かすこ
恩恵と言えるだろう。
昭和 年春、本家の従姉が結婚した。
婿殿は、学徒出陣・飛行機乗りという
最 も 犠 牲 の 大 き か っ た 期 の 生 き 残 り。
はくせき
子供心に映った婿殿は、白皙長身、挙
に
措 の 格 好 良 い こ と こ の 上 も な い。「 お
義兄さん、お義兄さん」とへばりつい
しょうけい
たが、筆者のその後の進路に影響した
憧憬は否定できない。
こうしてみると、戦争を通じ随分ひ
どい目に遭い、現代の人達から見ると、
哀れな境遇に置かれた典型であった過
去であるが、実は逆境に落ちたがゆえ
に、それなりの貴重な体験をし、その
後の人間としての成長に十分の対価を
50
ところが、この4月 日の読売新聞
の日曜版「名言巡礼」に「託された平
とになったが、これも「疎開生活」の
うつつ
回も溺れながら、腕白の中でも人後に
めて夜な夜な出撃といった地方ならで 綻」「無残」の状況から人々は何を得て、 当顕彰会の会報『特攻』第103号
は の 生 活 を 通 じ、 人 一 倍 強 い 身 体 と、 如何に復興していったかという、将来 ( 平 成 年 1 月 発 行 ) に、 筆 者 が 書 い
さらに有り難いのは、夏の一日中裸
どじょう
で川遊び、泥鰌獲り、食用カエルを求
70
おちぬ泳ぎ手になったこともあり、中
24
61
22
21
( 18 )
再び「ノーブレス・オブリージュ(no-blesse
終戦70年を巡る報道に思う
o-blige)とは、学徒出陣に思う」/終戦70年を巡る報道に思う(105号)
ら」の論稿2編をご参考までに後ろに
チ ブ を と り、 紛 争 を か え っ て 拡 大 し、 導層の利益のための戦争につながる。
はない。実態は大国が国連のイニシア
り、古来繰り返されてきたとおり、指
掲記する。これらの主張・論稿に対す
だが、アジアのなかの日本の地位を
考えると、単なる繰り返しとはとても
三 派兵拒否は平和への道
今カンボジアに派遣されようとして
いる自衛隊員と家族の方々に訴えた
い。
の悪化も加速されていく。
いよいよ悲惨となっている。地球環境
日本人が背負っている日本に対する憎
のレベルで天皇の「東南アジア歴訪・ ど こ ろ か、 義 務 で あ る と 教 え て い る。
一つである。だからこそ、指導者同士
ボジアもまた、日本軍が侵略した国の
は、戦争テクノロジーの開発とともに、 たい。フランス植民地下にあったカン
与えた犠牲はとうてい筆舌につくしが
国 に 属 す る 兵 士 は も ち ろ ん、「 調 停・ のあいだ、日本軍がこの地域の民衆に
あなた方もテレビを通じ、先遣隊の
出動を見送る母や妻の頬に流れ落ちる
官の命令を拒否することは権利である
犯裁判の判例も、非人道的・不当な上
撃に反対している。第二次大戦後の戦
があなたやあなたの夫や息子さんの出
心の自由を保証している。国民の多く
言 え な い。 一 九 一 ○ 年 の「 日 韓 併 合 」
あらゆる手段を尽くして派遣を断っ
以来、とりわけ「アジア・太平洋戦争」 ていただきたい。憲法はあなた方の良
二 平和維持という名の戦争へ
しみの感情が黒々とよどんでいる。折
上がりではないのか?引き換えに、強
のためにか?強国の指導者たちの思い
戦争を開始しているのだ。だれの利益
るご感想・ご意見等を事務局宛にお寄 「 調 停・ 平 和 維 持・ 制 裁 」 と い う 名 の
せいただければ幸いである。
◇
古い戦争は、「自衛・正義・平和のため」
この国際社会の動きを日本に照らし
てみると、廃案とされた「国連平和協
人が人を殺すことを命ずる国家の行
為が戦争である。人類の歴史とともに
制裁」される国々の兵士・民衆の犠牲
と 正 当 化 さ れ て き た。 美 し い 名 目 で、
力 法 案 」、 莫 大 な 戦 費 提 供 に よ る 湾 岸
涙を見たのではなかろうか?現行の自
○自衛隊海外派兵に抗議するわだ
つみ会声明
「それでも行ってはならない」
国家という強者、つまり国家の指導者
あらば、この感情が爆発するであろう
一 ソ連崩壊後の「世界秩序」とは
層が個人の生命を奪い、また奪わせて
戦 争 へ の 参 戦、「 P K O 法 」 の ゴ リ 押
訪 中 」 が つ つ が な く 行 わ れ よ う と も、 それでもあなた方は行くのだろうか?
きたのだ。
米ソ間の「冷たい戦争」は終わって し成立、そしてカンボジアへの自衛隊 こ と は、 戦 後 半 世 紀 近 く 経 っ た 今 も、 衛隊法においてすら、海外出動命令に
も、 世 界 平 和 が よ み が え る ど こ ろ か、 派兵の流れに見事に符合する。
「 従 軍 慰 安 婦 」 問 題 は じ め 被 害 者 や 遺 従う義務はないのに、それでもやはり、
などのうち、最も端的な例が湾岸戦争
スラビア内諸民族の血で血を洗う闘争
た。旧ソ連諸民族間の、また旧ユーゴ
争を解決する手段としては、永久にこ
による威嚇又は武力の行使は、国際紛
て」、「戦力」はむろん「戦争と、武力
日 本 は 戦 後 の 一 九 四 六 年、「 平 和 を
愛する諸国民の公正と信義に信頼し
のことであろう。
の海外派兵として迎えられるのも当然
衛隊はまさに日本の軍隊であり、軍隊
られている現実から明らかである。自
族から戦後補償の要求が続々突きつけ
若い一般兵士である。すでに現代の古
過去のどんな戦争でも最も大きい犠
牲となったのは民衆であり、あなた方
か?
あなたは方は戦地におもむくのだろう
変わったのは名目だけで、国連安保
理事会の決議を盾に「新世界秩序・平
る。
停・介入」が進行もしくは計画中であ
他の地域紛争に対しても「国際的な調
たこの暴挙自体が戦闘行為の挑発とな
入」する道を開いた。憲法を踏みにじっ
あるいは軍事小国間の紛争に「過剰介
わらず、今や一転、軍事大国の一員と
うしない限り、永遠に戦争の悪循環を
ことに美しい名のもとに、軍事小国内、 であたる以外に解決は得られない。そ
して「国連による平和維持」というま
断ち切ることはできない。
士や軍隊をもってでなく、平和的手段
一兵たりとも海外に送らない―私た
ちの選択はこれ以外にありえない。兵
い、この叫びも、ごく小規模な「出兵」
な痛切な言葉が遺されている。この願
平和だ、平和の世界が一番だ」のよう
軍人にはしない、軍人にだけは・・・
典 と な っ た『 き け わ だ つ み の こ え 』
のなかに、たとえば「俺の子供はもう
から始まった侵略戦争の行き着いた時
和維持のため」と謳われる。何のこと
軍の有無を言わさぬ「制裁」だったが、 れを放棄する」と決意した。にもかか
である。これは一国に対する大国連合
「熱い戦争」が次々と起こるようになっ
(105号)再び「ノーブレス・オブリージュ(no-blesse o-blige)とは、学徒出陣に思う」
( 19 )
( 20 )
再び「ノーブレス・オブリージュ(no-blesse o-blige)とは、学徒出陣に思う」
(105号)
第一次学徒出陣が行われてから、本年
よという昭和天皇の命令で、いわゆる
亡のとき、学生もペンを捨てて入隊せ
一 九 四 三 年( 昭 和 十 八 年 )、 太 平 洋
戦争はいよいよ苛烈で、まさに国家存
わだつみのこえは今なにを求め
るか
○学徒出陣五十周年にあたっての
声明
日本戦没学生記念会(わだつみ会)
◇
一九九二年十月十二日
ども求めるよう熱望する。
界平和へ真に貢献する道を私たちとも
兵に加わることなく、憲法に沿って世
私 た ち と と も に し、「 軍 隊 」 の 海 外 派
から学んだ不戦の誓いを、あなた方が
存 亡 の と き。」 明 治 以 来 の 国 家 教 育、 す。
ら れ た の で す。「 国 家 が 危 な い。 民 族
陣が、あらひと神、天皇によって命じ
退、本土危うしの危惧の中での学徒出
の反撃ははじまり、占領各国からの敗
りました。開戦の翌年から既に連合軍
共存共栄の道を歩もうというものであ
圧からアジアを解放し、日本とともに
平和という名目を掲げ、西側諸国の抑
日中戦争の泥沼から東亜各地への進
攻(侵略とはいわない)作戦は、東洋
も実感するようになっていました。
に迫って来たことを、国民も若い学生
玉砕以降、連合軍の反抗が次第に本土
進( 敗 退 と は い わ な い )、 ア ッ ツ 島 の
れるにも拘らず、ガダルカナル島の転
的報道管制によって捷報ばかり喧伝さ
えられましたが、その後、政府の徹底
緒戦の勝利は、一部の反対論・懐疑
論を押しつぶして国民的狂喜を以て迎
態に立ち至ったのです。
等教育史の断絶という未曾有の重大事
り、また加害者でもあった戦争体験で
の者を殺し傷つけました。被害者であ
広く、東南アジア・太平洋一帯で多く
ました。多くの者が死に傷つき、また
子どもも、戦場に工場にかりたてられ
さえ使えるなら、老いも若きも女性も
学生も次々に召集され、国民一般も体
悲劇の歴史をたどりました。後に続く
送る者にもどんなにつらいものであっ
ぎ奪いとられる絶望感が、行く者にも
人との別離、人間らしい生活が根こそ
弟、愛する人たち、敬愛する教師や友
がたい思いを秘めていたのです。親兄
立って戦死していく当時の現実に耐え
ない同世代の友人知己がわれわれに先
どめたいと念願し、学生の特典を持た
の戦争で死ぬのは我々の世代だけにと
門をくぐったのでした。少なくともこ
となっています。そのくせ、政府や権
の戦力は現在まさに世界の最新鋭装備
と呼びながら増強をつづけ、陸海空軍
ています。はじめは戦車ですら「特車」
え、今では自衛隊は当然軍隊だと考え
化します。世界も、いや、日本人でさ
か、名前は保安隊から遂に自衛隊に転
一九四四年、四五年へと、戦争は敗 鮮戦争で警察予備隊が作られたが、こ
戦 に 向 っ て こ ろ げ 落 ち る 石 の よ う に、 れは軍隊ではないと称し、いつのまに
たかは、言うまでもありません。
力者たちは戦争責任や戦後補償の問題
のは、保守党の最高指導者でした。朝
ているではないかと、堂々ととなえた
とく自衛のためということを理由にし
ない。これまでの世界の戦争はことご
戦力は一切保持しない。たとえ自衛
のためであっても、戦争には手を出さ
憲法が広く支持された理由でした。
の戦後の生き方の原点であり、日本国
化国家をつくろう。これがまさに日本
反対の姿勢を守り、平和で心豊かな文
に必死になりながらも、戦争には絶対
点であげられた声だった。
一九九三年はまさに半世紀目に当たり
国民が忘れてならないこの歴史的教
訓と、戦前・戦中・戦後への深い反省
ます。
思想の徹底的とりしまり、国際的情報
いくさで死んだ学生が、遺書として、 対岸の朝鮮戦争、その後のベトナム
からの遮断、死を恐れることを恥とす 「わだつみのこえ」を残しました。
戦 争 の 後 方 基 地 と し て、「 特 需 」 は 日
えられた理科系や教育系を除いて、文
直接戦争に役立つ学問をしていると考
と、国家や同胞のために己を捧げなけ
幾多の懐疑と不安を胸に、多くは黙々
敗戦という日本歴史上例を見ない大
きな衝撃の中から、生きる日々の営み
だったのでしょう。
そ れ ら の 中 で、 学 徒 は 悲 壮 な 思 い で、 てきた者たちにとって、戦後日本は何
生き残った出陣学徒、遺族、歴史を
批 判 も と ざ さ れ て 久 し い 社 会 の 空 気、 学び戦後半世紀近い日本の歴史を眺め
兵器は持たないし、米軍にも持ち込ま
はいやだが、他国の戦争で多くの人た
発展の基礎をつくりあげました。戦争
ころを貧しさから解放し、今日の経済
にほとんど頬かぶりのままです。
全国の旧制大学、高等学校、専門学
校の学生生徒で、二十歳に達して徴兵
科系(法文経)全員が徴兵猶予を停止
ればならないと言い聞かせながら、営
ちが殺し殺されるのは黙認します。核
本の経済をよみがえらせ、国民のふと
され、学業半ばで陸海空の軍人として
猶 予 の 特 典 を 与 え ら れ て い た 男 子 は、 る青年の客気、天皇制や国家体制への
召集されました。まさに近代日本の高
であることを日本国民はよく知ってい
ていますが、これも嘘でありごまかし
せないと、政府は終始一貫して約束し
と思います。
わることは絶対見過ごしてはならない
と、武力による威嚇や武力の行使に加
国権の発動たる戦争はもちろんのこ
て戦争抑止に立ち上がれなかった悔い
生き残ったことによって戦争に対す
る反省と批判を学んだ私どもは、かつ
信じています。
という当り前の事実をしっかり思い起
ではない、まずカンボジア住民である
速 さ せ た。 銃 弾 に 倒 れ る の は ボ ラ ン
派兵されました。すべてが虚偽の連続
若い自衛隊員は硝煙消えやらぬ現地に
たしても平然と破棄されました。カン
公約は、冷戦終結後の今に至って、ま
対に海外派遣はあり得ないという固い
府の言明でした。にもかかわらず、絶
とがこのまま黙認されてよいのか。自
とを当然とする方向に日本を向けるこ
奨励し、他国の武力紛争に加担するこ
うし、あくまで東洋平和のためとして、 れからの若者たちに命を捧げることを
ボジアの派兵は平和再建のためで、国
衛隊員の残した留守家族の悲しみと憂
のため、国家のためという名目で、こ
せんでした。国家の指導者が世界平和
業を捨てて派兵の道を選ばざるをえま
学二部在学中の若者たちがやむなく学
と考えられます。すでに自衛隊員で大
の歴史の大きな転換点に立ったことだ
自衛隊は国の自衛のためで、北の脅 学徒出陣から五十年目の現在、再び
威に対処するというのが、長い間の政 「 派 兵 時 代 」 に 突 入 し た こ と は、 戦 後
故平井 啓之 星野安三郎
鈴木 均 高畠 平
神津 直次 後藤 弘
熊谷 直孝 久米 茂
大塚 雅彦 小沢 一彦
出陣学徒有志一同
日 本 戦 没 学 生 記 念 会( わ だ つ み 会 )
一九九三年二月五日
ります。
の諸兄姉に対して強く訴えるものであ
し、とりわけ戦争を知らない若い世代
動を展開しなければならないと念願
を今度こそ国民に語りかけ、国民的運
されている事実に特に注意を喚起した
派遣されたことにより、形を変えた学
(夜間部)に在学する自衛隊員が昨秋
争行為であることは明らかだが、大学
持作戦」の謂いであり、形を変えた戦
決定する有様だ。PKOとは「平和維
での「国連PKO」への自衛隊派遣を
兵するどころか、今度はモザンビーク
こもうとしている。カンボジアから撤
性懲りもなく出口のない泥沼にはまり
から「軍事大国」への変身途上で──
ように、──しかし今度は、「経済大国」
出陣まで行き着いた約五十年前と同じ
こそうではないか。日本国家は、学徒
ティアだけではない、また日本人だけ
ます。
であり、真実の隠蔽であって、これで
山下 肇 (五十音順)
◇
入 っ て「 皇 室 外 交 」 の 新 た な 展 開 も、 の姿の再現にほかならず、私たちは前
たされるというのでしょうか。今年に
連の要請によるし、過去の戦争とは違
真の国際信頼が得られ、国際貢献が果
慮 は ま さ に 戦 前 の 出 征 兵 士 と「 銃 後 」
内では、出陣学徒たちの払った犠牲
や死が彼我幾千万戦争犠牲者の血や涙
い。
徒出陣が、徴兵制なしに、すでに開始
この歩調にあわせた足どりとはいえな 線の隊員たちに「早く還ってこい」と ○学徒出陣五十周年にあたっての
アピール
派兵時代の今こそわだつみのこ
祀るとの美名のもと、実は安価なヒロ
叫ばずにはいられません。
イズム賛美や懐旧の念から、あるいは
いでしょうか。
忘れがたい学徒出陣から五十年、な
んという時代のなかで、この年を迎え
と表裏の関係で交じりあっている厳粛
ていることだろう。
陣」を大仰に記念する企てが後を絶た
が許されて、われひと共に殺し殺され、 ていたならば、彼らが知り得なかった
国神社に集団参拝するなど特にその風
自己正当化の意図もあらわに「学徒出
な事実に思いをいたさず、戦友の霊を
外にあっては、我々の反対にもかか
わらず、強行されたカンボジアにおけ
かつてのあの戦争で死んで行った若 えに聴こう
者たちに対し、真の平和に徹する日本
多くのことを世界から学び、二度と戦
湾岸戦争への支援、後方基地の役割
も記憶に新しいことでした。一方的に
争に加担してはならないと今も叫び続
正 義 の 戦 争 と い う の が あ り 得 る の か。 でなくて、私たちは何と申し開きした
生命も心も傷つけ合うことがくり返さ
る「 国 連 P K O 」 へ の 自 衛 隊 参 加 は、 ない。学徒出陣五十周年の今年は、靖
らよいのですか。もし彼らが生き残っ
れていいのか。特に前途に輝かしい可
け、私どもを叱咤激励して、ともに起
に よ っ て 命 令 さ れ、 或 は 勧 奨 さ れ て、 ち上がってくれたであろうと私どもは
確実に武力抗争拡大のメカニズムを加
能性を持っている若者が、国家の権威
「 平 和 」 や「 人 道 」 を 名 目 と す る 戦 争
(105号)再び「ノーブレス・オブリージュ(no-blesse o-blige)とは、学徒出陣に思う」
( 21 )
( 22 )
再び「ノーブレス・オブリージュ(no-blesse o-blige)とは、学徒出陣に思う」
(105号)
ア・太平洋地域の戦争犠牲者に対する
潮が顕著だが、こうした行為は、アジ
もまた、この一年、日本人が過去から
後への自責の念を引き受けつつ、本会
明から溢れ出る出陣学徒たちの戦中戦
され、大きな反響を呼んでいるが、声
書出版や数次の集会などを準備してい ○ 死の哲学の悲劇─迷ったら死ね─
い。会独自でもこのテーマに関する図
通じて、わだつみ会は喜んで協力した
日本戦没学生記念会(わだつみ会)
◇
配慮と想像力を欠くだけでなく、国家
負っている課題を現代の課題と結びつ
のため身命を捧げさせられた戦友を愚
弄するものとして警告を発したい。
と ま っ た く 同 様 に、「 国 連 の 秩 序 」 を
共栄圏」のための戦争が誤っていたの
同 じ く、 今 日 も 真 実 で あ る。「 大 東 亜
れなかった戦争もない。これは過去と
平和の名のもとに始められなかった
戦争はなく、正義の名によって始めら
いのだ。
を直視し、そこから出発する以外にな
く恥多いものであっても、過去の教訓
り出そうとするなら、どんなに痛み多
ことであった。現在・未来に平和を創
繰り返されることのないよう願っての
で取り上げ、あるいは学生諸君と協力
い。教育関係者の方々も、講義やゼミ
など、個人や少人数でできることは多
や記録の収集、講演会・映画会の組織
らあげても、出陣学徒からの聞き書き
まだまだ終わっていない。手近な例か
学徒出陣という出来事の真実を掘り
下げ、今日的な教訓を引き出す作業は
れるだろう。
権について考える数々の鍵を与えてく
に当時は存在しない言葉だったが、人
国家、戦争、愛、青春、生と死、さら
の経験にこだわり、世代の手から手へ
忘却してはならない。賛美はなおの
こと筋違いである。あくまで学徒出陣
である。
て、各位のご協力を呼びかけ仰ぐ次第
金・土地などハード面の双方にわたっ
が、展示品の収集など内容の面と、基
詳細な計画は近く発表する予定である
を踏み出すことを決意した。これはな
に、「 わ だ つ み 記 念 館 」 の 設 立 に 一 歩
史をこの国の土壌に定着させるため
さらにいえば、忘れられようとする歴
若い世代の方々、特に学生諸君に訴 とである。
えたい。今年を不戦・反戦の意識を深
これらの動きを信じ、その可能性に
め 広 げ る 機 会 と し よ う で は な い か と。 依拠して、わだつみ会は、五十年前の
の時の教育主任の訓示は「諸君の命は
海軍では航空訓練と共に死に対する
精神教育を常時行っていた。昭和一八
前の青春のままでまことに初々しい。
入りの名簿があるが、戦没者は五○年
常な高率となっている。目の前に写真
殉職)をした。平均の倍に近い率であ
ち五七パーセントの六三名が戦死(含
たが、この時の同期生は一一○名、う
戦闘機教程を筑波海軍航空隊で修業し
名が戦死または殉職をしている。私は
あ っ て は ど う か。 戦 没 学 生 の 手 記 は、 蓄 積 し て 次 の 五 十 年 に つ な げ る た め、 る。その約三一パーセントの一六三一
まず『きけ わだつみのこえ』を読み、 学徒出陣の歴史的経験を──それ以前
そ の 感 想 を 書 き 記 し、 あ る い は 語 り の過程と今日にいたる過程を含め──
今日限りで海軍が貰った」ということ
て い 会 単 独 で な し う る こ と で も な い。 る。特攻隊の戦死者も二六名という異
によりも本会の責務であろうが、とう
であったし、分隊長の訓示も「母親以
海軍航空隊と合わせて五二○○名であ
海軍の十三期飛行予備学生として土
浦海軍航空隊に入隊してから満五○年
店 1993年8月発行 生き残っ
たわれら―4)
紛争国・紛争地域とその民衆に押し付
して、積極的に調査研究を進めていた
と不戦・反戦の焔をリレーしていこう
還ってこい」の声の実現につながるこ
るが、肝心なことは、もろもろの試み 海軍第 期飛行科予備学生
後藤 弘
が呼びかけあい答えあい、大きなうね
り と な っ て、 た と え ば「 自 衛 隊 員 よ、 ( わ
だ つ み 会 編『 学 徒 出 陣 』 岩 波 書
力を傾ける意志をここに表明する。
ける作戦も誤りである。われわれはそ
だきたい。全国各地で、また大学や高
け、不戦の誓いを貫くため精一杯の努
日本戦没学生の手記『きけ わだつ
み の こ え 』 を 出 発 点 に、 わ れ わ れ が
のような企てからみずからの身を引き
校等で推進されるであろうさまざまな
と未来において「わだつみの悲劇」が
去を過去として葬るためでなく、現在
ぎ伝える活動をつづけてきたのは、過
離すとともに、政府に対し政策の変更
このような考え方から、さきに二月、 企画に、講師の派遣・展示用パネルや
本会の出陣学徒有志による声明が発表 映画「きけわだつみの声」の貸出等を
一九九三年五月十一日
ではないか。
したい者は直接俺に持ってこい、死に
外に女に手紙を出すことを禁ずる、出
年九月三○日に任命式があったが、そ
になる。この時入隊した同期生は三重
を迫らなければならない。
四十年余にわたり彼らの遺念を受け継
13
貰わなくてはならぬ。裟婆気は一切捨
夫だ。日本のために諸君全部に死んで
機堂々と揃った時、日本は本当に大丈
の時も「諸君が部下をつれて一万五千
「 比 島 航 空 作 戦 」 の 話 が あ っ た が、 こ
であった。一○月九日の夜、飛行長の
一○月四日に始業式があり、われわ
れの最も親しい上官である分隊士が
であった。
にゆく者に女は必要なし」ということ
任する頃、私は死について次のように
得をしていた。そして基地航空隊へ赴
今の若い人は笑うかも知れないが、納
飛行機一機の方が大切なんだ」とまで
は分隊長山本大尉に「貴様らの命より
て迷うことなく死ぬ道を選べ」と教え
ない。死ねば総てが解決される。決し
のが忠義である。犬死にということは
困った時は必ず突っ込んで死ね、死ぬ
し戦いに出てどうしてよいか処置に
『 零 戦 燃 ゆ 』 に あ る よ う に、 零 戦 は す
る。搭乗員の錬度は低い。柳田邦男の
○一空の零戦はわずかに三○機であ
じまりである。当時マバラカットの二
言 わ れ、 そ の 意 味 す る も の を 考 え て、 特攻なし」といわれる特別攻撃隊のは
で あ る。 国 体 護 持 の た め 身 を 捧 げ よ 」 た。こうした教育の中で実用機教程で
言ったことも「日本は今危急存亡の秋
考えていた。
機 突 入 し 命 中 を し た。「 必 中 な け れ ば
る。一○時五○分敵空母を発見して全
したのは昭和一九年一○月二五日であ
神風特別攻撃隊敷島隊の関行男大尉
以下五名が、マバラカット基地を出撃
して受け止めた。
も思っていなかったし、特攻も運命と
なく、生きて帰る日があろうとは夢に
は、もはや引き返す術もなく、暴走一
という当時の軍部の死の思想の下で
御馬前に死することこそ最大の名誉」
値 段 ) で い く ら で も 集 ま る 」「 陛 下 の
だ 」「 兵 隊 は 一 銭 五 厘( 当 時 の 葉 書 の
行機の方が貴様らの命よりも大切なの
されるべきことではない。しかし「飛
としての特攻はやはり統率の外道で許
は例外的に認めらるべきもので、制度
がマバラカットの二○一空のようなも
日本の軍事力とアメリカの軍事力を
全体で比較すれば、日本の軍事力全体
二千年の大義に生き、大義に死するこ
に「 只 今 限 り 私 心 を 断 ち こ の 際 悠 久
一○月一四日に始業式の日の司令の
訓示が印刷物で廻ってきたが、その中
でいる。
込んでゆくつもりである」と話を結ん
受けとめるしかない」
かし死ななければならない時がきたら
死にたくないことに変わりはない。し
もでき、体当たりもできる。死を超越
ば死ぬ。また死を超越しなくても自爆
撤退するならともかく、戦うとすれば
でにグラマンF6Fに歯が立たず、出
空襲もなく平穏で、マバラカットのよ
こういう状況の中で司令長官大西瀧 に起用されることになる。
次郎中将は「若い者を美しく死なしめ
私は博多海軍航空隊で教官をしてい
る、 こ れ は 大 慈 悲 と い う も の で す よ 」 た時、一五名の十四期飛行科予備学生
ると負けの連続であった。
うな切迫感はなかった。博多では志願
は 統 率 の 外 道 と は 必 ず し も い え な い。 者 は 一 人 も な か っ た )。 当 時 の 博 多 は
マバラカット基地の状況の下での特攻
制度をとったという記憶はない。一五
に は 決 し て 命 を 惜 し ま ぬ に 違 い な い。 と特攻を決断する。特攻慈悲論である。 ( 学 徒 出 陣 組 ) を 桜 花 特 攻 隊 員 と し て
に出て命は惜しいと思っても任務の前
それ以外に方法はなかったであろう
名だけが繰り上げ卒業、転勤という形
絶する非人間的兵器が開発され、特攻
途 を た ど っ た。「 桜 花 」 と い う 言 語 に
のだとみられないこともないが、特攻
て切って、いつでも死ぬ用意をしてお
とのできる自己を完成しなければなら
し、搭乗員もそれを熱望したであろう
だったからである。送別会では平静で
け。私も分隊長も皆諸君と一緒に突っ 「 死 を 超 越 し な く て も 死 ぬ と き が く れ
ない」とうたっている。
日本が米国に追いつめられていたこ
とはみんな知っていたし、またわれわ
ことは心情として素直に肯うことがで
ている。敵の中に突入し立派に死ぬこ
「貴様たちの肩に日本の命運がかかっ
から、これらの教えを素直にきくこと
問題はそのあとである。敷島隊が突
ができた。新聞もろくに読む暇もなく、 入し成功するや全海軍航空隊、いや全
し、志願して飛行機乗りになったのだ
海軍のみでなく、陸軍の作戦も特攻一
よよと泣きくずれたのが偽りのない
凍てし門出るや神鷲よよと泣く
しなくても立派な働きはできる。戦場
この死の教育は、土浦だけではなく
どの隊へ行っても行われた。筑波航空
きる。
とのできる者だけあればよい。楽をし
午前三時半起こしで訓練する毎日で
色に染まってしまったのである。
神の池海軍航空隊へ送った(幸い突入
隊 の 練 習 機 教 程 で 分 隊 士 立 見 中 尉 は、 れ 以 外 に 飛 行 機 で 戦 う 人 間 は い な い
ようと思う者はさっさと海軍を出てゆ
は、戦争の意味など考える余裕は全く
いっぱい泪をためていた。
あった隊員も全員見送りのときは目に
け」と教えたし、分隊長小川大尉も「も
(105号)再び「ノーブレス・オブリージュ(no-blesse o-blige)とは、学徒出陣に思う」
( 23 )
( 24 )
再び「ノーブレス・オブリージュ(no-blesse o-blige)とは、学徒出陣に思う」
(105号)
感 情 で あ ろ う。 特 攻 隊 を 考 え る と き、 ある。このことは予備士官だけではな
ることがない。
特攻隊がどちらかがわかる。制空隊は
飛行場では、特攻隊と制空隊の二つ
の訓練が行われるが、一目みただけで
あった。そして元気がなくなる。
く、兵学校出の士官もほとんど同じで
・童貞のままで行ったか損な奴
・ジャズ恋し早く平和がくれば良い
この川柳は切ない。グサリと胸につ
きささる。
・十三期特攻専門士官なり
・雨降って今日一日を生きのびる
符をうつべきであった。あとの特攻は、
後解釈だが、特攻隊は二○一空で終止
に 散 り 体 当 た り を 敢 行 し た の で あ る。
博多空から元山航空隊へ転勤したの
は昭和二○年三月二日である。着任し
溌剌として元気いっぱいだが、特攻隊
決まり
た と き す で に 第 一・七 生 特 別 攻 撃 隊 が
は沈滞して士気が上がらない。特攻隊
今もあのシーンが目に焼きついて離れ
編成されていた。筑波零戦の同期の田
ことができなくなる。
まう。いっしょに突入する部下を殴る
も、特攻隊員になると仏に変身してし
婚をしていないし、もちろん子供もい
る。亡くなった同期生のほとんどは結
と、七五歳とでは内容に天地の差があ
ず死ぬ運命にあるが、二五歳で死ぬの
であろう。人間は生まれたからには必
比べて、私の人生は何と倖せであった
戦後四八年、幸運にも私は生きなが
らえた。二五歳前後で死んだ同期生に
武器生産、武器輸出に反対し、核の廃
な け れ ば な ら な い。 平 和 憲 法 を 守 り、
例えそれが蟷螂の斧であろうと、続け
る の で あ る。 反 戦 平 和 の 運 動 で あ る。
くることによって、同期生の死は生き
道をたどることのない平和な世界をつ
哲学のもとに亡き同期生と同じような
入している。
るときは莞爾として微笑んで離陸し突
ることもできない。この成田も進出す
成田を慰めてやることも、力づけてや
人も出ることはない。全員熱望である。 ていた。はっとして外へ出たが、私は
にいうと犬死にである。日本の戦後の
して何だったのであろうか。結論を先
らず、日本は負けた。彼らの死は果た
攻作戦も大西中将の意図どおりにはな
う美名の下に、世界戦史に類のない特
たのである。悠久の大義に生きるとい
く、その生を戦争という暴力で絶たれ
持てる多彩な才能を生かし切ることな
人日本能率協会監事。
一九四五年八月復員。現在、社団法
ごとう・ひろし
考えている。
れわれの亡き同期生への義務であると
紙に書いて提出させる。日本は昔も今
私も「熱望 海軍少尉後藤弘」という
紙を提出した。
『 雲 な が る る 果 て に 』 の 中 に 神 風 特
別攻撃隊二一○部隊で突入した福知
高度成長は、戦いに勝った故ではなく ○われらまた老いて
れわれは、われわれの後輩が再び死の
私は成田が鹿屋へ進出する前日「特
別攻撃隊指導指針」という文書を六時
な い。 家 庭 生 活 を 経 験 す る こ と な く、 絶運動等を行うことが、生き残ったわ
ことは断じてできない。生き残ったわ
論理的にはそうだが、心情的に私は
同期生の死を犬死にであるとつき離す
る。
いたずらに犬死にをふやしただけであ
中久士が編入されていた。着任後すぐ
何のために死んだのか。
博多からいっしょに着任した成田和孝
が、できたので手渡そうとしたら、ベッ
も 空 気 に よ っ て 支 配 さ れ る 国 で あ る。 間かけて書き写してやったことがある
が編入された。
ドの上で成田は声を殺してむせび泣い
第二・七生特別攻撃隊の編成が行われ、 に 指 名 さ れ る 前 は 鬼 分 隊 士 だ っ た 者
熱望と書いて提出するしかない航空隊
特攻隊は志願という形式をとってい
るので事前に搭乗員に熱望かどうかを
の空気の中では、それ以外の答えは一
特攻隊の選考はどういうわけか真夜
中に行われた。従兵が真夜中にコツコ
貴、伊熊二郎と及川肇、遠山善雄の四
◇
一九四三年九月、十三期飛行科予備
学 生 と し て 土 浦 海 軍 航 空 隊 へ 入 隊。
一 九一九年生まれ。
うに伝える。博多と同様、平穏な元山
人が詠んだ川柳が収録されている。
店 1993年8月発行 生き残っ
たわれら―3)
神津 直次
( わ だ つ み 会 編『 学 徒 出 陣 』 岩 波 書
では特攻隊に選ばれた者は翌朝何とも
ツとドアをノックして司令室へ来るよ
いいようのない作り笑いをするのが常
敗れるためではなく、勝つために大空
をしたのである。われわれの同期生は
戦いに敗れた故の成長であった。日本
で、思わず目をそらしてしまう。死の
は戦いに敗れて亡びることもなく繁栄
・まだ生きているかと友が訪れる
することのない今日、明日の死が
・
生きるのは良いものと気が付く三
・ 日間
教育を受け死の覚悟はしていても、マ
バラカットのような切迫感のない元山
では、心の動揺はかくし切れないので
(105号)再び「ノーブレス・オブリージュ(no-blesse o-blige)とは、学徒出陣に思う」
( 25 )
たしもその一員として舞鶴海兵団に
かくて何万という学生が兵隊になっ
た。これを世に学徒出陣と呼んだ。わ
ことは許されない。
に、自分だけは兵隊にゆかないという
くの隊員が搭乗の順を待っていた。
いたが、兵器の生産が間に合わず、多
乗員がいて、一部は搭乗訓練に励んで
と言われた。基地にはすでに多数の搭
の「回天」という名の魚雷に乗るのだ
巨大な魚雷と出会った。お前たちはこ
なってしまった。
降伏で生者と死者の差は無限のものと
ことに変わりはない。それが、突然の
間の違いはあっても、この戦いで死ぬ
日の自分の運命なのだから。多少の時
(1)学徒出陣から特攻隊へ
憲法第二十条)。
入った。
五○年前の憲法には、兵役に服する
のは臣民の義務だと書いてあった(旧
この憲法にもとづく法律により、男
子は満二○歳になると兵隊にならねば
君たちの帰りを待っておられるご家
族の方がたに、何と申し上げればよい
平を是正するという意味もあった。
なくなったからだが、国民の間の不公
制度が停止された。それは兵隊が足り
戦争が容易でない形勢になった
一九四三年(昭和一八年)秋に、この
ていた。
続けてゆけるのは、大変な特典となっ
だが、戦時ともなると、同じ年齢の
若者が、兵隊となり、前線に出て戦死
いうこともなかったのだ。
平和な時なら、兵隊にする時期を学
生たちに限り数年延ばしても、どうと
徴兵猶予制度があった。
らえなかったが、これで想像がついた。 間の一部が出撃戦死したところで、戦
る兵器はどんなものか、まだ教えても
着いてから、神風特攻の実施とその戦
多数の応募者の中から選抜されたわ
たしたちが、大村湾の魚雷艇訓練所に
かった。
な無茶な戦術があるとは思っていな
だ神風特攻がはじまる前なので、そん
危険率の多少など眼中になかった。ま
る」との話があった。
溌剌かつ攻撃精神旺盛な者が適任であ
に危険を伴うので、諸君のような元気
乗員を募集する。その兵器は性能上特
したちに「特殊兵器ができたので、搭
突然、予備学生となって訓練中のわた
とも言えた。
まちだった。わが国の若者全体の縮図
下士官、予科練出身の下士官と、まち
ていた予備士官、志願兵から昇進した
先輩、同期の学徒出陣組ながら先着し
九月に大学を卒業し予備士官となった
守るために命を投げ出そうと思うよう
望状態になった時、わたしも、同胞を
た。しかし、戦況が日に日に悪化し絶
た。それは新参者にとって驚異であっ
て喜んで受け入れているように見え
勝利者米国は寛大だった。莫大な食
料を援助してくれた。中には家畜の飼
われわれだった。
闇の食料を手に入れることから始めた
し の が ね ば な ら な か っ た。 金 を 稼 ぎ、
務だと考えた。その前に、まず飢えを
この日本を再び繁栄させるのは、亡
き友への、生き残ったわたしたちの義
訓練を終了した者はつぎつぎに出撃 政府はその支配下におかれる。再び独
し て ゆ き、 再 び は 帰 っ て こ な か っ た。 立できる日はいつか。政治家たちや軍
になっていた。
料らしき物もあったが、それでも飢え
出 の 士 官、 一 九 四 三 年( 昭 和 一 八 年 ) まったのか。
いたいと、大半の者がこれを志願した。 帰らざる搭乗員の出身は、海兵・海機
われわれは、どうせ間もなく戦場に
赴くのだから、少しでも良い兵器で戦
われわれの番はなかなかまわってこ
なかった。ようやく訓練が始まり、仲
はしのげた。次は経済の復興だった。
日 本。 間 も な く 占 領 軍 が 入 っ て き て、
の姿だった。何もかも失ってしまった
工場は爆撃で破壊された、無残な祖国
故郷に帰る汽車の窓から見たもの
は、家という家は焼かれ、工場という
(2)焼け跡と復興
のか。生きているのが苦しいと思った。
世界中が戦争をしており、何千万とい
成功しても失敗しても、いずれにせよ、 争は終わった。戦いに負けたのだ。
ならなかったが、専門学校以上に在学
学徒出陣から一○ヵ月、一九四四年 隊員たちは、国のために敵艦ともど
していれば、卒業まで待ってもらえる ( 昭 和 一 九 年 ) 一 ○ 月 の こ と だ っ た。 も爆死することを、おのれの使命とし
う各国の若者が戦場にあるのだし、わ
し て 兵 隊 に ゆ く の は 残 念 な こ と だ が、 果が新聞に発表された。われわれの乗
徴兵猶予停止が発表された時、学生
は思いのほか冷静だった。学業を中断
してゆくのに、学生だけがその生活を
が国もアメリカやイギリスと死闘して
勝利者の仲間割れが始まった。米国
にとって日本は、ソ連の共産主義に対
人どもは日本を何という姿にしてし
いるのだ。しかも、小・中学校時代の
生きては帰れない兵器に違いない。
昨日までは、誰が戦死しても殉職し
やがて、瀬戸内海の光基地に着いて、 ても、涙は流れなかった。それは次の
同級生たちが銃を持って戦っているの
( 26 )
再び「ノーブレス・オブリージュ(no-blesse o-blige)とは、学徒出陣に思う」
(105号)
に苦しくても、日本を戦前の姿まで戻
若者はそれに不満だったが、これが
国力回復への近道と我慢した。どんな
旧支配層を利用しはじめた。
で、赤の他人はどうなってもよいのだ。 がついて、叫び声をあげたが、それは
身内や取り巻きに対するだけのもの
義理人情を口にするが、それは自分の
人 の 足 を 引 っ 張 ろ う が、 お 構 い な し。 ることを約束したのではなかった。
を踏みつけようが、傷つけようが、他
こぼれをもらう。金のためには、弱者
米 国 は 日 本 を 急 速 に 復 興 さ せ よ う と、 そうでなければ他人の権力に媚びてお
か。少なくとも、日本をこんな姿にす
に誓った祖国の復興とは何だったの
て故郷に帰ったあの日に、戦死した友
抗 す る 上 で の、 貴 重 な 存 在 に な っ た。 力を握り、その権力でさらに金を稼ぐ。 報に接するこの頃である。戦いに敗れ
だが、人の寿命には限りがある。こ
の 日 本 を 立 て 直 す に は、 ど う し て も、
期待できるのだろうか。
そんな教育で育った次代に、はたして
け と い う、 奇 妙 な 現 象 が 生 じ て い る。
のだ。
未来を担う若者に期待するほかはない
し、さらにもっと立派にしなければな
若者に告げたい。教科書以外の書物
を、とくにあの戦争に関する本を、広
夢中で働いているうちに、肝心の目
標を見失っていたのだ。一部の者は気
らないと思っていた。
世の滔々たる騒音の中にかき消されて
こ の よ う な 日 本 に し て し ま っ た の 現在の直前の時代の歴史を知って、こ
は、 ま さ に わ た し た ち の 責 任 で あ る。 れからの自分たちの行動の指針を探り
く 読 ん で、 先 輩 の 思 想 や 行 動 を 知 り、
のためには、自分にとっていちばん大
若くして戦死した仲間に会わせる顔が
しまった。
切な命さえ捨てて顧みなかった。そう
「 衣 服 足 り て 礼 節 を 知 る 」 と 信 じ、 若くして死んでいった友人たち、と
他のことはあとまわしにして、祖国の くに特攻で死んだ仲間は、同胞の幸せ
繁栄のためにと働いたわたしたちの姿
いう心やさしい人たちは、あの戦いで
だしてほしい。あやまちを再び繰り返
は、外国人から見ると「エコノミック
さないために。
アニマル」だったろう。
ない。ではどうしたらよいのか。古め
こうづ・なおじ
一 九二三年生まれ。
かしい言葉だが、次代に期待するほか
ないと主張する一群が生じ、強力な地
部分は、早急に取り除かなくてはなら
しく、戦後に占領軍により歪曲された
たからであること、他国に対し道義に
の国の目先の利益しか考えていなかっ
日本が戦争をして無残な負け方をし
たこと、それは当時の政治家が、自分
員。
員。一九四五年八月復学。元会社役
団。一九四四年一○月、回天特攻隊
一九四三年一二月、東京大学法学部
在学中に現役兵として舞鶴海兵団入
いや、わたしたちの中にも手段を目的
歩を占むるに至っている。富国強兵政
と取り違えてしまった者が多い。
策の下、国民が飢えに泣いたあの時代、 もとる数かずの悪行を重ねたためであ
はない。
あの戦争を引き起こす一役を担いな
がら、口を拭って、罪はすべて陸軍軍
国民に義務のみ課し、権利は無視され
戦争も戦後の疲弊も知らずに育った すべて死に絶えてしまったのか。
若者たちは、われわれの姿を見て「富
こんな堕落した姿を見て、戦後のす
こ そ 善 だ 」 と 思 っ て し ま っ た よ う だ。 べてを否定し、戦前の思想、制度が正
人にあり、自分は戦争に反対だったと
今かりそめの繁栄の国の前でわたし
は呆然としている。どこがどう間違っ
くないと考えて、小・中・高校の教科
政権を担う政治家は次の世代に伝えた
はや老年の域に達し、日々友だちの訃
人生は夢のように過ぎ去る。あの戦
いに参じて生き残ったわれわれも、も
それは見事に成功して、世界中で日
本の過去の姿を知らないのは日本人だ
うと、永年努めてきた。
書に国家統制を加え、事実を隠蔽しよ
したからであること。これらの真実を、
てしまったのか。
的にしたがったり、お先棒を担いだり
ること、また国民がその政治家に盲目
称し、政界に復帰してきた政治家ども
は、一片の道義心も持っていなかった。 た、あの昔のどこがよかったのか。
金と権力の亡者として、数かずの汚職
そ れ を 見 習 っ た か れ ら の 子 分 た ち は、
事件の立役者となった。
平気でやる。いや法に触れても見つか
金を手に入れるためには、法律に触 (3)そして現在
れないかぎり、どんなあくどいことも、
らなければかまわない。金を使って権
栃木県護国神社研修報告
師団や宇都宮陸
宇都宮には、大東亜戦争中、インパー
崇敬の念は、現世代にも脈々と受け継
れられて来ていた。英霊に対する感謝、
ル作戦に参加した第
に海に空に散華した特攻隊員は 全
国 で 実 に 五 千 八 百 余 柱 本 県 で
くの県民の浄財によってここに顕彰
このたび特攻隊戦没者慰霊平和祈
念協会寄贈の「特攻勇士の像」を多
九十四柱に及ぶ
で稲寿宮司夫人から当神社の現状につ
日、9体
宇都宮駅西口からバスで約
第1回研修会として、3月7日(土)に、 の教育・訓練も行われた。
年8月
栃木県護国神社研修を実施した。同護
国神社には、平成
分、作
その後、御社殿で拝礼し、護国会館
いて説明を受けた。当神社の宮司さん
碑として建立することができた 特
攻隊員の崇高な美挙がこの碑によっ
がれていることを強く感じた。
は、栃木県遺族会連合会の事務局長を
軍飛行学校等があった。同飛行学校で
兼ねており、遺族の高齢化により孫世
て永遠に語り継がれることを願うも
は、飛行機の基本操縦教育を行い、昭
新学院前で下車すると、深い森に囲ま
代へ如何に継承していくかを模索中と
のである
評議員 及川 昌彦
れた神域の入口に、立派な鳥居が建っ
のことである。この護国会館は、結婚
平成二十二年八月十五日
月からは、特別操縦見習士官
目の「特攻勇士之像」が建立奉納され
ていた。鳥居から続く表参道を歩いて
式場等として有効活用されているとの
博勝理事、全体委員会の河島慶明委員、
参加者は、衣笠陽雄専務理事、水町
http://www.gokoku.jp/index.html
−
37
年
た。その後の慰霊・顕彰の状況を把握
境内に入ると、多くの慰霊碑が建てら
している。特攻勇士之像は、立派な台
同原島淳子及び及川昌彦評議員の5名
−
17
和
するのも研修目的の一つである。この
れていた。栃木県東部ニューギニア会、 ことであり、研修当日も、音楽教室が
満開の桜の下の賑わう境内を御覧にな
2600年記念事業として、用地献納
座にしめ繩をした跡があり、両側に花
−
年度の当顕彰会全体委員会の
件については、今後とも、建立奉納後
栃木県護国神社は、明治5年、戊辰
報告していきたいと考えている。
柱の
満洲開拓青年義勇隊、憲兵之碑、白鹿
る英霊もさぞかしお喜びのことと思わ
の役に殉じた旧宇都宮藩戦没者
御霊をお祀りするため、招魂社として
れる素晴らしい神社である。
や多額の寄附金により、現在の地に造
も供えられていた。毎月初めに奉仕の
営し、遷座された。
を 祖国の安泰を信じ 太平洋の陸
え あるいは魚雷を抱いて敵艦等に
体当たりを敢行した特攻隊員のこと
かつて太平洋戦争の末期 敵の圧
倒的戦力を阻止しようと爆弾をかか
私たちは決して忘れない
【特攻勇士之像碑文】
であった。
年に、英霊を顕彰し、遺徳を偲
の見学中も、地元の子供たちが親に連
び、追慕する場として開館された。我々
平成
などが収蔵されている。この史料館は、
戊辰の役から大東亜戦争までの軍装品
その後、史料館に移動。史料館には
ことである。
方々が清掃と供花をしてくださるとの
創建された。その後昭和
丸遭難、忠霊塔等。この一帯は、慰霊
19
の森のような神々しい雰囲気を醸し出
78
22
20
10
20
14
18
33
15
15
栃木県特攻慰霊顕彰の会
の各護国神社を巡拝して、その現状を
平成
33
独立歩兵第 大隊高陽 会鎮魂碑、第 賑やかに開催されていた。また、境内 ・場 所 栃木県宇都宮市陽西町1
・電 話 028 622 3480
師団第204聯隊戦没者慰霊塔、山 の広大な駐車場は、学校関係の研修に
・史料館 開館時間:9時〜 時 砲第 聯隊第4中隊、宇都宮第 師団 貸し出されていた。
・交 通 JR宇都宮駅西口からバス
野砲第 聯隊、日本赤十字殉職救護員、
境 内 の 成 熟 し た 枝 垂 れ 桜 は 見 事 で、 「作新学院前」下車
・ホームページ
27
年に、皇紀
98
33
14
栃木県護国神社研修報告
(105号)
( 27 )
世田谷山観音寺
(毎月
日
時より執行)
特攻平和観音月例法要
14
感は否めず、若干寂しい思いがした。
今回は、御住職の太田恵淳師が法要
及び直会の進行等全てを担当された。
あれば、是非、もう一歩進んで、特攻
らば、
直会の進行の「在り方」について、 「 桜 花 」 の 機 体 に つ い て、 ま た、 特
攻基地や戦跡について調べているので
従来どおりの形式が良いのか、
今回のよ
うな「分科会」的自由懇談の形式が良
観音堂に参拝し、特攻で散華された隊
一考を要すると思われる。
直 会 は、 従 来 と は 些 か 趣 が 異 な り、 いのか、
御住職の法話等はなく、また、直会の
員の方々の諸霊にお経を捧げてみては
また、常々感じていることであるが、
法要に関わる管理事項(点燈、焼香の いかがだろうか、これまで過去の歴史
プ が 形 成 さ れ、「 分 科 会 」 的 な 様 相 と
る形となり、必然的に幾つかのグルー
の機会もなかったので、自由に懇談す
自発的に実施すべきものと思料する。
等)について、少なくとも会員は率先、 に感じられ、特攻隊員の心をより近く
物の配布、椅子の補充、空調等の調整
準備、お経「特攻平和観音経」等印刷
観音経を読誦することによって立体的
として研究して来たことが、特攻平和
場における希望者の発表等もなく、そ
なった。したがって、小グループ毎に
会員 倉形 寛
話の内容の差、つまり、同じ特攻に関
らがすべきことなのか、そうでないこ
となのかはまだ良く分からないけれど
今月の世田谷山観音寺・特攻観音堂
における特攻平和観音月例法要は、冷
で 追 っ て お ら れ る の が 印 象 的 で し た。
手渡された特攻平和観音経を熱心に目
の で、 そ れ で は と お 連 れ し ま し た が、
も、興味あるものには積極的に参加し
たい雨がそぼ降る中で執り行われまし
ました。
当日は、他にも学生の方や社会人の方
で4名ほど、初めて観音堂に詣でる方
がいらっしゃいました。
直会では、大穂先生から、ラバウル
で「紙」を作ったエピソードを伺いま
なかったそうです。
寺の特攻平和観音については、ご存じ
を運ばれたそうですが、世田谷山観音
元された「桜花」を見学するために足
最近では入間の修武台記念館にも、復
の紙が不足し、慣れぬ土地でアメーバ
料の増産に取り組んでいた。やがて廁
兵隊に至るまで揃って鍬を振るい、食
不足しており、上は軍司令官から下は
いたラバウルでは、食料や生活物資が
け て 行 っ て 見 学 し て 来 ら れ た そ う で、 した。多くの陸海軍部隊が派遣されて
ず、これまでに神ノ池や鹿屋にも出掛
た。その方は、文字での勉強に止まら
今回私は、神雷部隊について勉強さ
れている大学生の方とご一緒致しまし
てみようと思っているとの返事でした
たが、早くから多くの方々が参集され
会員 原 知崇
で 見 詰 め る 契 機 に な る の で は な い か、
平成 年最初の月例法要に参列し
た。年初めであり、また、当日は日曜
じたものと認識している。
直 会 が、あ る 意 味 で 参 列 者 同 士 で 知
識を共有する機会、
言わば「勉強会」と
平成 年2月 日
(土)
月例法要
日でもあったため、多くの会員及び会
名、直会参加者
員以外の方々であった。当会会員の参
しての機能も兼ね備えるものであるな
世田谷山観音寺 特攻観音堂
18
今回の直会への初参加者は3名、 かつての自分を思い返しながらお誘い
なお、
当顕彰会への即日入会者は1名であった。 したところ、慰霊について、それが自
いたが、法要参列者
25
加がもう少し多くならないものかとの
特攻観音堂と特攻平和観音像(陸・海軍二体)
27
する話でも、その内容に濃淡の差が生
平成 年1月 日
(日)
月例法要
18
18
員以外の方が参列するものと期待して
27
27
名という状況で、半数以上は当会会
18
( 28 )
(105号)
世田谷山観音寺 特攻平和観音月例法要
世田谷山観音寺 特攻平和観音月例法要
(105号)
( 29 )
をしていた。その紙を作るため、陸海
な法話を承る場であるとともに、会員
当会会員にとって、和尚さんから有益
読経後、本坊に場を移し、恵淳和尚
の司会で直会が行われた。この直会は
攻撃に対し、対応の手段がなく、しか
の話を聞いた。ソ連軍戦車による越境
の任に就いていた部隊の生き残りの人
参列した時、終戦時、満洲の国境警備
見なされる行動が多々発生していると
陸戦特に終戦間際の作戦では、特攻と
に 船 舶 で の 出 撃 は 理 解 さ れ や す い が、
ものである。そうなると、海軍のよう
赤痢などに罹患した将兵は、辛い思い
軍将兵一致して、現地の材料を工夫し
の無い戦死者は、全て特攻死ではない
躍 爆 薬 を 担 い で 戦 車 の 下 に 潜 り 込 み、 考 え る と、『 特 別 攻 撃 隊 全 史 』 に 記 載
た紙を作ることになり、やがてその第
との見方は変えなければならないだろ
思われる。玉砕した離島等では、その
手榴弾を起爆させ、爆薬を誘爆させて
う。しかし、今からではその事実の発
証言者や記録が無い。そういう状況を
た、お酒を飲みながら気楽な気持ちで
戦車を撃破したという。この人達は正
掘もほぼ不可能である。私的には、今
もこれを阻止しなければ、後方の民間
我が陸海軍の不仲を伝えるエピソード
伺えるのもいいことである。
に特攻であり、特攻勇士として祀って
人が蹂躙されるという状況の中で、勇
は数多くありますが、弱い者のために
ほしいと、戦友達は戦後ずっと言い続
話を伺える貴重な場となっている。ま
協同した現地将兵について、大変貴重
特に発言もなかったので、最初に私
から当顕彰会の現状と問題点について
からその問題を蒸し返すより我々の慰
1 号 が 完 成 し た・・・。 残 念 な が ら、 以外の一般の人達からも特攻に関する
な史料をお示しになりながらのお話に
簡単に説明をした。その後、歴史学者
霊・顕彰の対象は、その行動が明確に
平成 年3月 日
(水)
月例法要
感銘を受けました。
いとの理由で却下されてきた。しかし
と 言 わ れ る 方 か ら 問 題 提 起 が あ っ た。 けてきたそうだが、特攻隊員名簿にな
の至情・勲績が短い文言の中に余すと
尚の作であるが、特攻隊員の挺身殉国
最後に参列者全員で読誦する「特攻
平和観音経」は、先代の太田睦賢大和
員の御霊に慰霊の誠を捧げた。
経をされる中、全員が拝礼して特攻隊
内において、特攻平和観音像を前に読
若和尚が導師を務められ、特攻観音堂
法要は、山主太田賢照大和尚が体調
を崩されて入院中のため、住職の恵淳
あった。
ついては、未だに解決できない問題が
る。その特攻戦死者は、その行動が計
自 決( 自 死 ) も 特 攻 死 と い う の は、
余りの飛躍であるが、特攻隊の定義に 画的であり、命令が発出され、出撃が
着した。
と、資料は後ほど見せるとのことで落
を聞くと、彼も我々と同意見であるこ
理解できないことであったが、色々話
等の反論があった。我々としては全く
まっている、その資料を見せてほしい
との声が上がった。特攻隊の定義は決
人達は特攻隊員として祀ってはいない
て、当会会員から一斉に、そのような
のか」との疑問があった。これについ
ていると、ある資料にあったがどうな
官等の人達が特攻隊員と同列に祀られ
それは「終戦時市ヶ谷台で自決した将
いる隊員を慰霊・顕彰の対象としてい
全史』の特攻戦死者名簿に登載されて
彰会は、当会が発行した『特別攻撃隊
る特別攻撃が行われたが、我が特攻顕
終戦直前には多くの各種特攻兵器によ
拡 大 し て い く 恐 れ が あ る か ら で あ る。
私は、特攻顕彰会会員として戸惑い
を覚えた。そうなると、問題は無限に
新たに合祠をしたとの話を伺った。 と同等の働きと認め、特攻勇士之像に
りの戦友から事実関係を把握し、特攻
現宮司がこの問題を取り上げ、生き残
直会であったと思う。
今 回 の 直 会 は、 参 加 者 が 少 数 で は
あったが、議論が白熱化し、有意義な
ての4回目のお願い、下北沢文化遺産
する特攻平和観音年次法要参加につい
感謝状贈呈へのお礼、麻生元総理に対
元理事の廣嶋文武氏から、太田賢照
山主の米寿に際しての当顕彰会からの
その後参加者から発言があった。
く存在したという事実に対して、同様
かな記録は無いが同様な戦没者も数多
特攻戦没者を対象とするが、同時に細
なっている─全史に記載されている─
今月の月例法要参加者は、先月の反
動か、法要8名、直会7名の少人数で
ころなく表現され、毎回読誦する度に
あ る こ と も 事 実 で あ る。 私 は 数 年 前、 隊員なのである。しかし、前述の大阪
護国神社での事例は、正に特攻死その
に関する紹介があった。
と思うのである。
な慰霊・顕彰を行わなければならない
感銘を受ける。当顕彰会の特攻隊戦没
大阪護国神社の特攻勇士之像慰霊祭に
確認され、特攻戦死後2階級特進した
者の慰霊・顕彰活動のバイブルと言っ
専務理事 衣笠 陽雄
18
ても過言ではない。
27
世田谷山観音寺 特攻平和観音月例法要
(105号)
( 30 )
年
月
日午前
「特攻を串良の塔に詣でれば
打 つ と、 塔 の 上 の 白 鳩 が 鳴 く と い う。 うに詠んだ。
夜の公園は我々以外には誰もいない。
で有名な富屋食堂「ホタル館」を訪れ
た。ここには若い人が一杯で、トメさ
んの温かい想いがひしひしと伝わって
る。朝からかなりの強行軍で疲れてい
辺りの寂しさを浮かび上がらせてい
はない)応えていない。多くの日本人
後の日本人は何も(と言っても過言で
振って飛び立った彼らに対し、我々戦
靖國神社に来なさい」と言って翼を
瀬 望 比 公 園 」( 比 島 戦 没 者 慰 霊 碑 ) を
さと館」を見学し、2日目を終えた。「花
と鹿児島の歴史を凝縮した「維新ふる
次 に「 指 宿 海 軍 航 空 基 地 哀 悼 の 碑 」
来た。
時、羽田よ
たが、真っ暗な足元を用心深く確かめ
揺れるポールに英霊を観ず」
所々に配置されたライトが暗い園内
をオレンジ色に照らしているのも逆に 「 後 を 頼 む 」、「 私 に 逢 い た く な っ た ら
聯
会員 山口 宗敏
「英霊を偲ぶ心の旅」に
参加して③
平成
26
10
航空基地史料館」を見学。近年「永遠
「都城わりしべ」にて昼食後、「鹿屋
振武隊」の慰霊碑を訪れた。
掲揚用のポールのうち、左側の1本が
と、慰霊塔の左右に1本ずつある国旗
花し、慰霊顕彰の祈りを捧げる。する
やがて慰霊塔の前に到着して全員で献
隊 本 部 跡 の 陸 自 都 城 駐 屯 地「 郷 土 館 」 ながらゆっくりと慰霊塔へと進んで行
るのを英霊はどのような思いで見守っ
なく、自分たちのためだけに生きてい
を貪り、彼らへの感謝も慰霊の思いも
た が、 暗 く て 殆 ど 読 み 取 れ な か っ た。 かったかのように平和を享受し、安寧
く。幾つもの小さな慰霊塔が並んでい
てきたのだろうか。ただただ申し訳な
が 彼 ら の こ と を 忘 れ 去 り、 何 事 も な
て、元々は単に「花瀬公園」であった
鐘楼」などがあり、これらが整備され
生の扉」
「想比の碑」
「安らぎの碑」
「万
が生まれた由。同公園の慰霊碑は、「死
群落があったことから「花瀬」の名前
が殻の中から五色の花を咲かせている
訪ねる。この海岸は、イソギンチャク
ゼロ
を見学の後、陸軍墓地「都城疾風特攻
の0」の主人公が出撃した場所として
風 も な い の に ゆ ら ゆ ら と 揺 れ 始 め た。 く忸怩たる思いである。
とのことであり、ここから1900
ものを「花瀬望比公園」と改称された
知られている。続いて「鹿屋特攻隊戦
日、「 万 世 特 攻 平 和
祈念館」を見学の後、
「知覧特攻平和会
月
没 者 慰 霊 塔 」「 桜 花 の 慰 霊 碑 」 に お 詣
筋も走り、淡く白い航跡を残していく。 葉を揺らす風もない静寂の中で、唯1
た。街灯のない一本道をヘッドライト
た空も忽ち光を失い、薄暗くなってい
のつるべ落としの中で、青く輝いてい
英霊たちの魂のようであった。秋の日
た。 皆 が お 祈 り を 済 ま せ る と、「 有 り
で迎えて下さったのだと、全員が感じ
れていたので、きっと英霊たちが喜ん
霊塔の左側には特攻隊員の名簿が刻ま
までは万世から出撃した隊員たちは永
わんばかりに、ピタリと揺れが止んだ。 い万世基地からの出撃である。このま
難う、もう遅いから皆帰りなよ」と言
遠 に 忘 れ 去 ら れ て し ま う こ と を 案 じ、 てた愛情溢れる最後の手紙、魂の雄叫
はその中の多くは、今や何の記録もな
基地から出撃したとなっているが、実
沖縄戦での陸軍特攻隊の殆どが知覧
兵舎などをつぶさに見て回る。
給水塔、消火槽、着陸訓練装置、三角
姿、祖国を想う熱烈な遺書、家族に宛
途についた。特攻隊員たちの凛とした
西郷隆盛、東郷平八郎の墓を詣でて帰
山駅」、
「池田湖」を巡り、大久保利通、
最後は、JR本土最南端駅の「四大
万6千余柱の英霊たちの安穏を祈
だけを頼りに車は走り続け、夜の7時
一人か二人だけがこの経験を話して
た
館 」 へ。 同 敷 地 内 の 油 倉 庫、 正 門 跡、 先のフィリピンに出征され、戦死され
過ぎ「串良海軍特攻隊出撃戦没者慰霊
も、錯覚だの気のせいだのと、相手に
分程揺れていた。慰
塔」に到着。串良基地跡の一部を公園
の瞳ならぬ
一人、加納孝子さんは、これを次のよ
違いない怪奇現象であった。同行者の
の瞳でハッキリと見たのだから、間
24
と浮かび上がらせていた。この慰霊塔
た慰霊塔が夜目にも白い姿をくっきり
として整備し、その一角に小高い丘が
本のポールが約
21
されなかっただろうが、
それはまるで翔け昇って消えていった
km
10
造られている。丘の頂上には鳩を戴い
20
2 日 目、
周りに何の動きもなく、周囲の木々の
り鹿児島空港着、バスで旧歩兵第
10
りする。この日は飛行機雲が幾筋も幾
23
26
手前の橋の上で慰霊塔に向かって手を
20
「英霊を偲ぶ心の旅」に参加して③
(105号)
( 31 )
元特攻隊員(出撃を数日後に控えて終
て語ることはできない。ただただ英霊
びのような血書等々、どれも涙なくし
続いて見事に復元した鳥濱トメさん
い旅であった。
て「万世特攻平和祈念館」が建設された。 たちの鎮魂を祈るばかりの3日間の短
戦)故苗村七郎氏の大変な努力によっ
念して命名されたものである。
47
( 32 )
(105号)
《読者の声①》真正な日本人の懐中メモ(続)/「英霊を偲ぶ心の旅」に 参加して③
○天皇は廃止することができないから
べき根元の力を失う。
失って精神的に荒廃し、人類に寄与す
○先進国、発展途上国を含め、世界の
制度ではない。神が制度でないのと同
真正な日本人の懐中メモ(続) じ。
最後に某記念館で入手した昭和 年
4月、鹿児島「第一国分基地」から出 《読者の声①》
撃した4名の特攻隊員が死の僅か3日
前に遺したという川柳を付記する。
期) ○皇室や日本文化は必ずしも全て合理 か な り の 数 の 国 の 若 者 に 対 し て、「 あ
的なものの上にあるのではなく、非合
アンケートを取ったところ、日本の若
なたは国のために戦えますか」という
会員 石田 一(陸士
理なものを含めた上に成り立ってい
如何に関わらず真実である。真実は必
○日本歴史に記されたことは、事実の
日本でなくなる。
くす」気がないことを意味している。
民に「自己犠牲を払って国のために尽
ジは最低だったという。多くの若い国
○日本の一番偉大で尊い渾沌が、即ち
・あと三日、酔って泣く者・笑う者
の皇室、天皇より発現する。
ず し も 史 実 と 一 致 す る と は 限 ら な い。 ○明治日本の時、進んだ欧米文化に触
・能筆は遺書の代筆よく流行る
者の「はい」という答えのパーセンテー
○日本人というのは、言わば一つの大
れた一行の中に、日本が遅れた要因は、
渾沌が大事。日本の一切はすべて渾沌
家族である。そしてその家長が天皇な
偏に封建制の歴史が長過ぎたからだと
・宿の窓、今日は静かに雨が降り
・雨降って今日一日を生き延びる
・明日の空、案じて夜の窓を閉め
けた外国人が日本に来て大和魂を感得
の で あ る。 家 に は 家 風 や 不 文 律 の 掟、 ○大和魂に等しい精神の事実を身につ
・犬に芸 教へおおせて戦友は行き
・特攻へ 新聞記者の美辞麗句
・俺の顔 青い色かと戦友が聞き
・勝敗は 我らの知ったことでなし
・あはて者 小便したいままで行き
・童貞のままで行ったか損な奴
し て、「 日 本 も、 ア メ リ カ や フ ラ ン ス
更 に 彼 ら の 中 に は、「 日 本 が 遅 れ て い
のように共和制にしなくてはならな
なくなっている。
○ 天 皇 は 祈 る 君 主、 祭 祀 王 で お わ す。 する。日本人はそれを失っていて感じ
戦後憲法は、皇室祭祀を天皇家の私的
○ 先 人 た ち は 万 世 一 系 を 守 っ て き た。 い」と言い出すものも出てきたという。
これまで皇位継承の危機が3回あった
祭祀とした。国民の天皇観を歪めてい
る。
○皇室と「ヨン様」の区別がつかない。 が、その3回とも、近親の女系でなく、 るのは、世界に通用しない日本語にあ
くようになってしまったのではないか。 安定的な皇位継承のために、皇族の範
○君主の存在と国民主権は両立しな
ソ連が作成した。
皇室に対し距離感を喪失した非礼を働 「 皇 統 の 担 保 」 の た め 存 在 し て い る。 ○憲法第一条後段の「この地位は主権
る。日本語をやめるべきだ」などと主
囲を拡げ、宮家を増やす必要がある。
たとえ遠縁であろうとも正真正銘の男
嘆かわしいことである。戦後、急速に
○日本精神保持のため、皇族(以前は
張する人間も少なからずいたという。
○国体を守るのは軍隊であり、政体を
皇 室 と 国 民 の 距 離 が 縮 ま っ た こ と で、 系男子を天皇に擁立してきた。皇族は
・ジャズ恋し 早く平和が来れば良い
守るのは警察である。日本軍の建軍の
で あ り、 真 の 人 間 の 生 活 な の で あ る。 し て ば ら ば ら に な り、 国 民 は 個 性 を
原における神々の生活が日本人の生活
もインチキ金融工学も存在せず、高天
○日本神話に謂う高天原には、賭博台
文化、伝統を守ること。
り、国民は国民でなくなる。国は解体
○天皇を失えば、日本は日本でなくな
られてある。
儀礼、非日常の戒律的生活が厳しく守
戦争中に、ルソー、マルクス、レーニ
○日本の学者、知識人の殆どが大東亜
の首をちょん切れという原理なのです。
○国民主権の恐ろしい素顔とは、天皇
位が危うくなる。
の存する国民の総意に基く」の部分は
・明日の晩 化けて出るぞと友脅し
・明日征くと決まった戦友の寝顔見る
本義は、皇室を中心とする日本の歴史、 貴族、華族にも)にはそれなりの規律、 い。そんなことをすれば必ず君主の地
・良い天気 今日は特攻機何機出る
・出撃の時間来るまでヘボ将棋
・痛かろう いや痛くないと議論する
・神様と 思えば可笑しいこの笑顔
・体当たりさぞ痛かろうと戦友は征き
・無精者 死に際までも垢だらけ
・諸共と思えばいとしこの虱
慣習がある。
・人形へ 彼女に云えぬことを云い
・明日死ぬと 覚悟の上で飯を食い
・死んでいる友に母死すの便りあり
皇室、天皇である。日本を解するには、 る。非合理を排除していったら日本は
57
20
《読者の声①》真正な日本人の懐中メモ(続)
(105号)
( 33 )
めていた。
ン、 ス タ ー リ ン の 信 徒 に な っ て お り、 醜い心に悪ずれした日本人が列島を占
手の施しようがないほど汚染が進んで
○昭和
書で教育を続けていけば、将来、日本
○このまま建国の歴史を書かない教科
た。
書、という巧妙な罠で小国民を教育し
話に触れずに飛鳥時代に入る歴史教科
で国史を説き始めて、建国の経緯、神
○合理主義を建前に、地質学、考古学
○敗戦を終戦と言い換えて目を逸ら
以って日本列島から姿を消した。
引 力 の あ る 人 物 は、 こ の 西 郷 一 族 を
○ただ存在するだけで磁石のような吸
力に満ちた人材を遺した。
○江戸の太平は日本を惰弱にせず、活
ア、日本であった。
だったのは、タイ、トルコ、エチオピ
アフリカの有色人種の国で独立国家
りに日本に来て、また大勢の将軍たち
良 か っ た。 と こ ろ が 今 度 三、四 十 年 振
それぞれに風格があって非常に感じが
て、多くの将軍たちに会った。彼らは
○自分は日露戦争の頃にも日本に来
ある。
てきた。その実質は、憲法改正阻止で
に、歴史問題で一貫して日本を攻撃し
翼リベラル勢力が、1980年代以降
○中国、韓国、北朝鮮、日本国内の左
たままの
洗脳され、マインドコントロールされ
の防衛を見直すべきであった。しかし、
復したとき、憲法、教育基本法、国家
○昭和
見られる姿である。
至るまで、日本のインテリに一貫して
する現象である」と。当時から今日に
を経験し、ひどく人の気持ちを不快に
じて日本を嫌うという意識のあること
の過去を否定し、日本の古いものを恥
る。曰く「日本のインテリには、日本
虐史観を彷彿とさせることを言ってい
○ 皇 位 継 承 に 不 可 欠 の 三 種 の 神 器 は、 かれたエルヴィン・ベルツが今日の自
すべてを調和させる叡智と慈悲に裏打
年 の 日 米 開 戦 時 に、 ア ジ ア、 ちされた正しい勇気を示している。
いた。
から日本人はいなくなる。
し、何でもカネ、カネの戦後日本人に
に会ってみると、前とは違った印象を
日に日本が独立を回
○靖國神社参拝を、国を割って議論す
埋め難い断絶を感じた。こんな日本の
27
28
年を経過し、一層歪んでし
年4月
る不思議な国、日本。
ために俺は
30
えるの」「国なんてないほうがいい」「国
う と 歩 い て き ま し た。「 誇 り な ん て 食
主張するが、義務はなるべく回避しよ
ると思い込み、自分の権利は徹底的に
てきました。モノによって幸せになれ
○戦後、日本は間違った道を歩み続け
はあり得ない。
○軍事力(国防)を背景としない外交
す。(中庸)
○国滅ぶ時、神、地に堕ち、婦、多言
も限らない。
て「解放」される悲劇を味わわないと
日本もチベットのように、中国によっ
成が見られた。
日本全土に共通する統一的な文化の形
れてきている。日本の縄文時代に既に
自然に浸った世界の意識が延々と育ま
つまり縄文時代の歴史があり、そこで
た1万数千年前から天武天皇の頃まで
○日本人の覚醒、悟りは、文明の始まっ
超える歴史がある国家なのである。
ら、ここまでを入れると優に1万年を
○日本は縄文時代がとても長かったか
陸軍少尉・小野田寛郎)。
ますます質が悪くなってしまった(元
○明治9(1876)年頃、ドイツか
おける天皇の御存在なり。
調律する偉大な調律師、それは日本に
○今求められている世界秩序、人心を
○ 日 本 に は 1 万 年 に 亘 る 新 石 器 時 代、 である。
に一貫性をもって続いていた。
ら東京医学校(後の東大医学部)に招
○伊勢神宮の保存、保護は国家の義務
務めた詩人のポールクローデル)。
和の初めにかけて駐日フランス大使を
いる民族はほかにない(大正末から昭
れほど古い文明をそのまま今に伝えて
つの民族がある。それは日本人だ。あ
○私がどうしても滅びてほしくない一
帥)。
ではない。教育とは聖化の作業である。
○子供の機嫌を取るような教育は教育
史を貫いてきたことによる。
シャ、ユダヤの二大源流から発して歴
二元対立抗争を原理とするのは、ギリ
○西洋思想が、あらゆる方面に亘って
全人類の聖典である。
○ 古 事 記 は 日 本 に て 著 わ さ れ た 世 界、
まっている。
70
の行く末を考えるのは変わり者」との
力 が 必 要。 国 家 を 強 く 意 識 し な い と、 き 直 き 日 本 人 は 本 当 に 少 な く な っ た。 ないほど違っている(マッカーサー元
受ける。日本の人種、民族だとは思え
○領土を守るには、主権国家としての
年も戦ってきたのか。清
強い意志が必要。その担保には、軍事
16
《読者の声②》
「土と兵隊」南京攻略と父
会員 西山 邦夫
次の文章は、源次郎が戦後郷土誌に
えなくてはならず、船内では毎日三回
べたいが海は荒れる。部下兵の顔も覚
が出た。酒は飲みたいし、ご馳走も食
停泊中明治節を祝いすばらしいご馳走
一 新倉鎮ニテ車両(旅団本部ノ車両)
ト各大隊本部車両ヲ掌握シテ引率セヨ
ノ指揮ヲ受ケヨ
山ニ至ッテ騎兵第五十八聯隊ノ大隊長
ト合シテ新倉鎮ヲ経テ上陸地ニ行キ金
渡河点ニ至リ第百五十聯隊ノ護衛小隊
○杭州湾から南京郊外までの進撃
寄せた手記であり、召集を受け、慌た
の点呼、敵前上陸で部下を見失わない
十一月五日未明、柳川部隊長の率い
よう真剣であった。
るわが大部隊は杭州湾の北岸に成功裡
一 重要書類金櫃ハ特ニ注意
だしく戦地に向かった様子がうかがわ
「泣くな嘆くな必ず帰る桐の小箱に
に上陸した。上陸の際は抵抗を受ける
一 通 信 班 ニ 会 ッ タ ナ ラ バ 馬 ハ 一 切
持ッテ行カナイ事ニナッタカラソノ馬
れる。
錦着て、幹部候補生の監督斉藤少佐は
ことなく、友軍機の音、前方で戦って
ヲ一切残シ荷物ハ苦力牛等ヲ利用シテ
私の父、西山源次郎は、慶応大学を
昭和6年に卒業し、帝国生命に勤めて
毎日こう言わせたのである。軍人とし
いる銃砲声を聞きながら揚陸後の作戦
運搬スルコト
集のため、歩兵第
月
聯隊補充隊に入隊
し、引き続き充員召集により、
私は高崎第百十五聯隊第三大隊第九中
での小戦闘、道路偵察等、泥道をさま
県 利 根 郡 ) で 召 集 を 受 け た 者 八 十 名、 戸数数百戸余りの屋内捜索、付近農村
一 第百五十聯隊ハ聯隊本部ト各大隊
本部ヲ引率
いた。
ての心構えをたたきこみ、何時戦場に
命令や食料と地図の配布を受けた。上
日、陸軍臨時教育召
送っても指揮官として立派な行動が取
陸地点で残敵掃討を命じられ、新倉鎮
年9月
れ る よ う 教 育 さ れ た の で あ る。 昭 和
情勢に対処するため、宇都宮で特設師
日に大阪港から出港
名の大阪設営を命じられ先発すること
右ノ命令ニヨリ邵家度ニ於イテ人馬
ノ歩兵砲小隊長伊藤少尉ニ会イ爾後ノ
以下行軍時の日記である。
民 の 貧 し さ、 電 気 も な く 学 校 も な く、 行動ノ打合セヲナシ渡河点ニ宿営ス」
に な り、 戦 地 へ 向 か う こ と に な っ た。 民家に入ってみると鍋釜もなく、衣類
もない有様、突然日本軍に上陸されて 「十一月十七日
京へ向かって進撃する際のものであ
令書の筆記がある。杭州湾上陸後、南
源次郎が所持していた手帳に次の命
午前八時半新倉鎮を発し、午後五時
十一月十八日
官営を経て新倉鎮に至り宿営す。
先頭に百十五聯隊の順序にて出発、三
し九時半渡河を終わる。百五十聯隊を
黎明より馬匹七十余頭の渡河を開始
送りに来た親兄弟や身内の者、友人知
る。
持って逃げたとは思われない。」
己で沿道は人で埋め尽くされた。四列
邵家度における旅団命令(口述筆記)
るぐると巻き、その白い銃は目に痛い
縦隊で市中を行進する様は誠に威風
ほどであった。聯隊から高崎駅まで見
源次郎は平成5年に没したが、南京
堂々頼もしい限りであった。大阪で出
歩兵第115聯隊の聯隊長は矢ケ崎中
攻略戦に参加した模様を、文書、手紙
一部隊の活動状況を紹介し、併せて中
内海を経て五島列島で停泊すること数 一 西山小隊ハ邵家度ニ居ル聯隊本部
日、艦船は合わせて百二十隻を超えた。 ノ馬匹機関銃ノ馬匹小行李ヲ護衛シテ
間余、三十日には大阪港を出航、瀬戸
は少尉で小隊長であった。
などにより残している。ここにその資
航準備をし、戦闘訓練をすること一週 「 一 歩 兵 第 十 八 旅 団 ハ 各 聯 隊 毎 ニ 一
個小隊ノ護衛隊ヲ残置ス
国が主張する南京大虐殺に関しても考
察したいと思う。
金山衛城外に滞在す。
十一月十九日
部において人馬一日分の食料受領)
金 山 衛 郊 外 に 達 し、 宿 営 す。( 乙 兵 站
料により、南京攻略戦における陸軍の
佐、中隊長は野間大尉であり、源次郎
一 器材ハ減ズルモ差支ヘナシ
団として編成された第114師団(師
よ い な が ら 筆 舌 で は 尽 せ ぬ 苦 労 を し、 ヲ集結シ、渡河点ニ至リ第百五十聯隊
月
日には上海南方の杭州湾に
10
初めて敵の弾をくぐった体験、中国人
隊の小隊長を命ぜられ、部下七十名を
月
編成直後の
し、
29
18
敵 前 上 陸 し、 南 京 攻 略 戦 に 参 加 し た。 軍服は一装用、兵器も新しく晒しでぐ
11
10
日、 高 崎 で 編 成 さ れ た 部 隊 で あ る。 配属された。十月二十日第三大隊千余
団長末松中将)隷下として、同年
月
歩兵第115聯隊は、大陸における
14
昭和
十二年、大動員があり、新治村(群馬
28
15
12
日、歩兵第115聯隊付となった。
10
10
( 34 )
(105号)
《読者の声②》「土と兵隊」南京攻略と父
隊は滞在す。(食料二日分受領)
にて百五十聯隊だけ出発し、百十五聯
悪道路のため車両輻輳し、前進不能
十一月二十日
取れるほど、服は生地の見えるところ
けで、時々顔をなでると泥が手に一杯
どろどろで土のついていないのは目だ
休憩する場所もなく立ちっ放し。体中
じ っ と 見 送 っ て い た。・・・・ 天 の 上
な っ た ま ま、 我 々 が 過 ぎ て 行 く の を
を半ば埋め、或いは道路端に横倒しに
きている馬もあった。泥濘の中に身体
に息絶えているのもあったが、まだ生
何頭も倒れているのを見た。それは既
どが書かれている。日記は中国国内で
り、受領した命令、戦闘記録、要図な
その時刻を記録する用紙に書かれてお
作戦日誌は作戦用の発信文、受信文と
録 と 日 記 の 2 種 の 記 録 を 付 け て い た。
郎は行動中、作戦日誌とも言うべき記
十一月三十日から連日行軍し三十日
なく、正に泥の兵隊であった。
十一月二十一日
午前八時、金山衛を発し、午後四時
午前八時、出発、泥濘のため車両の
十一月二十二日
ない。然し、銃声が聞こえると足が軽
毎日十里余り歩いて、毎朝腰が上がら
んばいになる、何人もクリークの中に
日 華 村、 十 日 漂 水 と 進 ん だ。 こ の 間、 い。・・・・ 滑 っ て 尻 餅 を つ く、 四 つ
五日長興、六日湯度站、八日漂陽、九
落ち込んだ。」
ぬめり込んだ足はなかなか抜けな
で書かれており、判読が難しい部分が
う。作戦日誌、日記ともに多くは鉛筆
使っているものを利用したものであろ
と 書 か れ て い る。 現 地 の 生 徒 た ち が
嘉興、一日盛沢、二日霞沢、三日湖州、 を 歩 く よ う に 一 歩 行 っ て は 半 歩 滑 り、 印刷された小ノートで、表紙に練習帳
運行不能のため荷物を半減し、金櫃護
揚樹浦着、宿営。
衛として第二、第三分隊を残置して亭
経験した戦闘は、次のように日記に残
多く、かつ、記録が残っている期間も
されている。
部分的である。しかし、南京攻略戦で
兵の死骸の腐臭が激しく、食事もまま
源次郎も軍服の生地が見えないほど
ならぬと言っている。源次郎の指揮す
泥まみれであった。これに加えて支那
臭のない場所を見つけるのに一苦労し
る小隊は馬匹小行李の護衛を命じられ (源次郎の手記から)
くなるのが不思議である。敵の遺棄死
た。南京が近くなったので毎日友軍機
ており、葦平が描いた軍馬が泥濘の中 「十二月十一日、十二日
体も毎日何百を数え、飯を食うにも腐
大小行李到着せざるため、援助す。
は飛び、攻略戦に早く参加するべく兵
十一月二十三日
十一月二十四日
の士気が上がった。」
林鎮に四時半着。
本日は松隠鎮に集結する予定なれど
行李の一部到着せず。舟を徴発して運
敵から砲撃されるからである。抹稜関
さぬよう注意を受けた。火事を出すと
しておられるから、西山隊も火災を出
香宮様も宿営しておられ、前線を指揮
南 京 南 方 六 里 の 抹 稜 関 に 到 着 し た。
線部隊の状況については、この作戦に
150聯隊(松本)と連携して南京城
を出発すると、野戦病院が仮設されて
此処で矢ケ先聯隊長が負傷し、担架に
め、砲声も聞こえる。抹稜関には、朝
日に城内へ突入した。こ
源次郎が所属し、高崎で編成された
南京城は火災を起こして紅く夜空を染
十一月二十五日
下士官として従軍した火野葦平が著し
雨花門へ迫った。雨花門は南京を囲む
お り、 多 数 の 将 兵 が 収 容 さ れ て い た。
に倒れる有様を見ていたに違いない。
昨日出発した舟三隻未到着のとこ
城壁の南側にある門である。源次郎の
よ れ ば、 全 般 的 な 戦 況 が 分 か ら ぬ 中、 歩 兵 第 1 1 5 聯 隊( 高 崎 ) は、 第
た『土と兵隊』に詳しい。この小説に
陣中日記が一部残されており、それに
杭州湾上陸から南京攻略戦までの一
ろ、二隻は十一時着、他の一隻は弾薬
道に迷い、ある時は部隊からはぐれる
が 到 着 を 待 っ て 滞 在。 午 後 三 時 第 二、 兵隊たちが泥にまみれながらある時は
をクリークに落し引き上げ出来ず。之
という混沌の中で戦闘していた。源次
行を手伝う。
第三分隊到着、第五分隊は舟を護衛し
郎の手記にもあるが、火野葦平も小説
○南京攻略戦
十一月二十七日
て松隠鎮に先発す。
よれば
「泥濘の中に我々は何回となく引っ
西山小隊には死傷者はなかった。源次
負 傷 し、 多 数 の 兵 が 死 傷 し た。 幸 い、 佐、沼田の内山大尉、林甫さんが戦死
の戦いは激戦で、聯隊長矢ケ先大佐が
くりかえった、私たちは路傍に軍馬が
した。第三大隊だけで三百名が戦死傷
悪路のため二十日もかかり兵の苦労た
乗って指揮していると聞いた。信澤少
の題名どおり泥土の中の状況を次のよ
月
金山着、上陸地点から道がよければ
12
るや何とも言いようもなく、泥んこで
二 日 か 三 日 で 来 ら れ る 距 離 と 思 う に、 うに表現している。
12
《読者の声②》「土と兵隊」南京攻略と父
(105号)
( 35 )
した。西山隊も早く第一線に行け、南
戒するを要す
十三日から六週間」という判決を出し
では「日本軍が南京を占領した十二月
れておらず、虐殺についてはその気配
五、第三大隊長大塚少佐は其の指揮に
ており、日中両国の研究者もこれを事
すらも窺うことができない。
115聯隊と連携して南京攻撃に携
ある部隊及び第四中隊独立機関銃第五
線を確保すへし
わった松本第150聯隊の命令書であ
大隊の二小隊を指揮し城外を警備し城
特に両側城壁上よりする敵の逆襲を警
猛進を続け、夜、野間中隊の下に入っ
る。 こ の 命 令 書 の 最 初 の 部 分 に「 第
次 の 文 書 は、 源 次 郎 が 所 属 す る 第
心中は如何に。」
た。関口小隊は雨花門を攻撃中で、吾々
百十五聯隊の一部は当聯隊と混淆しつ
件の期間とするのが通例であるとい
京 も 間 も な く 落 ち る だ ろ う と 言 わ れ、
のいた壕にも敵弾が盛んに飛んでく
う。
日から雨花門
周辺の残敵掃討と警備に当たっていた
月
が、
第115聯隊は
事件の発生日時について、東京裁判
る。ここからクリークを渡ると、城壁
外の敵の逆襲を警戒し現在の線を確保
日には南京城内に進
すへし
所属する部隊が
月
衛に任すへし
日朝には、日誌に書かれている
七、砲兵部隊は大逆襲に対しては友軍
六、第八中隊の二分隊は軍旗の直接護
まで三百米、城壁の高さは二十米あり、 つ城内に進入せり」とあり、源次郎が
入していることがわかる。南京は
日に陥落したとされており、この日
以後は守りを固め、敵の逆襲に備える
13
千二百発の砲弾で城壁を崩し、西山隊
も十二日夜城壁をよじ登って突入し
た。残敵掃討をするが、城内は火災と
12
聯隊長 山本中佐
予は雨花門内第一線の直後に位置す
八、通信班は前任務を続行すへし
すへし
に危険なき地域に射撃し得る如く準備
襲への備えに大童であり、他事に煩わ
命令に見るように、占領地の確保、逆
た。この期間は、第150聯隊の作戦
まっていたのは僅かに4日間であっ
かって出発している。即ち、南京に留
とおり、次の任務地(山東半島)に向
十二月十二日午後八時二十分 於南京
寝ようとしたところ、城壁上の警備に
歩兵第百十五聯隊の一部は当聯隊と混 ( 歩 兵 第 百 五 十 聯 隊『 戦 闘 詳 報 』 第 六
りて我を攻撃するに汲々たり
一、敵は首都南京を放棄して北方に退
カ ロ ニ で あ っ た。 こ れ は 食 え る ん だ、 城内東南角
うなものがあった」と持って来た。マ
歩兵第百五十聯隊命令
早く茹でろ、兵にとって生まれて初め
兵が「隊長、ローソクに穴の空いたよ
て の マ カ ロ ニ で あ っ た。 腹 を 満 た し、 却せるか如きも一部は尚至近距離に止
さ れ る 余 裕 は 無 か っ た と 推 測 さ れ る。
就けとの命令があり、そこで夜を明か
淆しつつ城内に進入せり
○南京事件
号より)
した。
二、聯隊は既に奪取せる地歩を堅固に
保持し夜を徹せんとす
南京城は周囲十二里、汽車の線路も
あり、その巨大さに驚くとともに、随
南京攻略戦に関して、戦後中国が宣
れば、余りに短い南京滞在期間であっ
日、
日の記録
日からノートが更新されて
以下日記を引用する。源次郎が残し
た。
た日誌は
おり、南京滞在中の
伝する南京事件について源次郎が所属
が残されていない。
三、会田少佐は城内第一線部隊を指揮
次のように書かれている。
し現在の線を確保し敵の逆襲に対し至
する部隊がどのような関わりがあった
分馬鹿げたものを作ったものと呆れ
のか、触れてみたい。
日の日誌は
厳をなすへし
ら下賜されたばかりなので、真新しい。 四、内田大尉は城壁破壊口より右野口
にも日記にもこの件については全く触
の件に関する認識はどうなのか、日誌
な考証が行われているが、源次郎のこ
隊を編成し、雨花門の警備に付く。城
半 整 列 を 終 わ っ て 二、三 小 隊 よ り 一 小
、
一部を以て雨花門を守備せしむるをよ
中尉は其の左側城壁占領部隊を指揮し
南京攻撃の最中、弾丸雨あられのな
か、聯隊旗手に旗に弾を当てろと叫ん
城内の第一線と密に連絡し特に現在の
午前五時半起床、朝食を済まし七時
激戦をした証拠がないので、この際と
十二月十六日
15
17
いうことか。聯隊旗手の小野里少尉の
いわゆる南京事件については、様々
うす
16 14
16
だ者が居る。第百十五聯隊旗は陛下か
る。
事件の発生期間とされる6週間と比べ
下達法 命令受領者を集め口達筆記せ
銃声も止み、民家で休息する。その時、 ことを部隊に命じている。
銃声で声も聞こえない。夜中になって
12
12
しむ
17
13
( 36 )
(105号)
《読者の声②》「土と兵隊」南京攻略と父
を南門まで歩き、支那兵の弾薬、迫撃
平田、上原上等兵を引率して城壁上
警戒、展望哨を置く。
壁上に2個分隊、小銃分隊1個を残し
占領という快事に兵たちが気を緩ませ
団結と規律の維持を求められた。南京
その間、大隊長の教育があり、部隊の
る第115聯隊だけがこのような高い
らに違いない。即ち、源次郎の所属す
は、高い士気と規律を維持していたか
夜 ま で 城 壁 付 近 の 警 備 を 行 っ て い る。 り、このような迅速な行動ができるの
よ う に 厳 し く 戒 め て い た。」 と い う 記
いが。私はこのことについては口癖の
下が婦人関係の悪事をやらなければよ
受けた。その時書いたものの中に、「部
述がある。後にフィリピンにおける戦
に対し倫理に関し平素から厳しい指導
犯容疑は晴れるのだが、源次郎は部下
をしていたし、自分自身も厳しく身を
ている。
行わなかったものと、息子として信じ
部隊は、中国が主張するような残虐な
考えられない。南京攻略戦に参加した
との意であろう。
日には、正午出発の予定を早め
時に慌ただしく出発となった。部
翌
後のことになるが、源次郎は、フィ
て
隊は前夜遅くまで警備を行っていたに
リピンで終戦を迎えた際、戦犯容疑を
行為を行うような規律の乱れた状況に
砲 弾 等 夥 し く、 死 体 も 数 十 あ り た り。 ることなく、「勝って兜の緒を締めよ」 士気を維持している状態にあったとは
午後三時、大隊長殿の学課の為、本部
迄帰る。大隊長の訓示(中隊長を中心
もかかわらず、急な移動命令で直ちに
律していたから、人倫に反することは
わって城門に至れば、活動写真撮影す
出発できる態勢を確保していたのであ
は決してなかった。
るとの事にて、小生も城壁上で万歳を
とする団結、軍紀、風紀の厳粛)を終
17
10
する所に参加す。
午後十一時帰還命令あり、帰舎す。
十二月十七日
「 午 前 九 時 半 集 合、 正 午 南 門 を 発 す
る 予 定 す る に、 十 時 に は 早 く も 出 発、
第四梯隊の第一分隊となり、加賀美砲
兵少佐の指揮により高家荘(雨花門南
方十数キロ余)付近に露営の目的を
以って行軍す。二里半程歩いて雨花台
南方地区にて昼食、それより大隊命令
にて設営司令となり本部、機関銃、九、
十 一、十 二 中 隊 の 設 営 係 と 下 士 官 及 び
兵を率いて砲兵車輪、大小行李の間を
縫い難行軍をして漸く目的地に達す。
地形、地名等不明のため実に苦しい
設営をした。それでも各隊にたいした
日の日記にあると
まごつきをさせずに済んだのは何より
であった。」
南京に滞在中は
おり、源次郎とその小隊は早朝から深
16
《読者の声②》「土と兵隊」南京攻略と父
(105号)
( 37 )
今回、戦時中に生きた、特攻という戦
ていくための参考となる良い資料であ
若い次世代に特攻隊員の精神を伝承し
山形学生の所見は、我々顕彰会会員が
見の中の一つである。今回取り上げた
り上げ、授業後に学生に提出させた所
千春評議員が教育の題材に特攻隊を取
ミナーを担当している当顕彰会の石井
「 編 注・ 本 資 料 は、 明 治 大 学 で 英 語 セ
明治大学2年 山形 彩華
神風特攻隊と回天を学んで
た者達よりも多く階級が上がることを
れられない状況に置かれてみないと分
今回、英語セミナーの授業で学んだ、 の若者達は容易に考えられないことで
「特別攻撃隊」及び「回天」について、 あろう。戦争という、逃れたくても逃
ると思われるので、会員各位に紹介す
知った。階級で遺族に支払われるお金
今 ま で 戦 争 と い う 一 括 り の 言 葉 で、 からないことだらけである。また、特
深くまで学ぶことはなかった。しかし 攻隊として死んだ者は、普通に戦死し
るものである。(専務理事衣笠)」
が変わるそうだ。そうなったら、いつ
ある。このことは現代の私達、同年代
るという道を自らふさいでしまうので
かもしれない。自分が最後まで生き残
残れるかもしれない、日本が勝利する
間が助かるかもしれない、家族が生き
は自己犠牲欲が強い。自分の犠牲で仲
という意識が強い。これに対して日本
アメリカは何としても生き残る。生
き残るという希望は最後まで捨てない
精神的な影響であると思う。
番は、やはりアメリカ軍一人一人への
た。それは艦隊への攻撃もあるが、一
攻は、アメリカ軍に大きな影響を与え
先ず、日本とアメリカの考えの違い
だ。書籍にもあっように、この神風特
えさせられたことは多々ある。
Diving Wind」の書籍や映像、先
生のお話から私自身が思ったこと、考
な の で は な い か と 思 っ た。 現 代 で は、 ない。国内で、戦争に使う武器や戦闘
して、一個人として、人望がある人物
トは、家柄や学歴だけでなく、人間と
また、先生が直接河崎さん達にお会
いした時のお話を聞いて、昔のエリー
攻の方が成功の確率は高いと思える。
たりすることを考えると、回天での特
ろで、体当たりする前に撃ち落とされ
戦で、特攻として敵艦に向かったとこ
還の確率は低いと言える中での特攻作
やはり、もともと戦闘機での戦いの生
また、元回天搭乗員の方々のお話に
あった、神風のような特攻より回天の
あったと思う。
た も の で あ り、 計 り 知 れ な い 信 念 が
願するには、沢山悩み、考えて決断し
ような理由にせよ、必死の特攻隊を志
で志願したわけではないと思う。どの
攻隊を志願する者達すべてがこの理由
親がいないかもしれない、もちろん特
門の家柄であるかもしれない、もう両
もともと家が貧しいかもしれない、名
状況下においても、やはりお金はなく
利するとは限らない中で、どのような
し分かった気がした。戦争で日本が勝
地に送る母になっているかもしれな
もしかしたら私自身が、夫、息子を戦
し く な い と い う 思 い だ ろ う。 そ し て、
るかもしれない中で、戦争に行ってほ
ず、戦後その人が戦死していたと分か
ら戦死したとしても、誰にも発見され
は、 今 思 う と う な ず け る も の で あ る。 してしまうか分からない、もしかした
特攻の方が成果を上げやすいというの
思いをするだろう。
ない義務としても、やはり、いつ戦死
ろうと思う。戦争に行くのは逃れられ
隊として召集され、戦地に赴かざるを
せる相手がいたとして、その男性が兵
もしかしたら、その戦争中、思いを寄
出撃した若者達も同じだ。そんな中で
と同じ世代で、もちろん特攻隊として
争に駆り出された若者達は、今の私達
代を生きていたら何を思うだろう。戦
分は女で、もし自分がその戦争中の時
の男像を学ぶことができたと思う。自
る。しかし、今回これらの特攻の真実
まれると、憧れの対象になりがちであ
顔がかっこいい、身長が高いなどが含
もう一度考えたいと思う。
て「
術に身を投じた若者達に触れ、今まで
死ぬか分からない戦争において、普通
家柄、学歴で私達はエリートだと決め
《現代若者の特攻観》(大学教育
の戦争への考え方の甘さに気付かされ
の戦死を遂げるより、特攻隊として戦
つ け が ち で あ る。 も ち ろ ん そ こ に は、 達 が 食 べ る た め の 食 料 を 作 る 者 達 も、
機などを作る工場の者達も、戦地の者
戦争は、戦地にいる者達だけが国の
ため、家族のために戦っているのでは
い。きっとその時はその時で沢山辛い
得ないとしたら、きっと複雑な思いだ
て は な ら な い も の で あ っ た の だ ろ う。 や、やはり戦争の恐ろしさ、そして真
た。( 神 風 特 攻 隊・ 回 天 に つ い て の 記
死した方が残された家族のためになる
の場から)
述省略)
と思ったら、特攻に志願する意味も少
◇
この日本の体当たり戦術又は自殺戦
法である神風特攻、そして回天におい
( 38 )
(105号)
神風特攻隊と回天を学んで
平成26年度事業報告/神風特攻隊と回天を学んで
(105号)
( 39 )
て い る の だ と 思 う。 も し 自 分 が 男 で
も、その時代を生きる子供達も皆戦っ
戦っている兵士達の生還を願う国民達
そ し て 国 内 で、 戦 地 で 必 死 の 覚 悟 で
そんな中で、特攻隊を残虐なものだ、
思いを口にすることなどできない。
い。当の本人でない者が、その者達の
たりせんとする彼らにしか分からな
本人しか分からない感情は、正に体当
一 慰霊事業
年 度 事 業 報 告
あって徴兵されたとしたら、私はどこ
平 成
を志願するだろうか。特攻隊に志願す
残忍極まりない、などと批判する現代 1 第 回特攻隊合同慰霊祭
の人々の考え方は、私には分からない。 平成 年3月 日靖國神社において斎行した。参列者は、遺族 名を始
め来賓、戦友、一般会員等合計197名が参列して、英霊奉慰の誠を捧げ
り今でも特攻隊に志願する勇気はな
そして私達は、この戦争のことを、次
言 葉 の 真 の 奥 底 を 見 て ほ し い と 思 う。
その時代のことも考えて、特攻という
慰霊祭終了後、靖國会館において、当顕彰会の状況説明及び懇親会を実
るだろうか。実際、今の私には、やは
い。何としても生き抜きたいというの
の世代へと受け継いでいかなければな
名の減少であったが、問題もなく整斉と実施された。
が正直な気持ちである。しかし、戦争
施した。
回特攻平和観音年次法要
2 第
た。昨年より
という状況の下だとしたら、どうなっ
らない。終戦から月日は流れ、今では
継いでいかなければならない。また再
しまっている。そんな中で私達が受け
協 力 を 行 っ た。 当 顕 彰 会 関 係 の 参 列 者 は、 来 賓
戦争の生き残りの方達も高齢となって
だ。しかし、今の私達はきっと、この
名増加したため、
名、 遺 族
戦争の中を生きてきた者達の声になら
172名、総数229名であった。当日一般参加者が
名の増加となった。
び、恐ろしい戦争というものを起こさ
最終的に昨年より
ない叫びに耳を傾けるべきである。
体当たりする時、きっと心が打ち砕か
かる気がする。特攻機に乗り、敵艦に
思った。しかし、今ではその意味が分
言 葉 を 残 し た。 な ぜ だ ろ う と そ の 時
であるにも拘わらず、河崎さんはこの
て、特攻隊の一員であったことは確か
しい訓練を乗り越えてきた人物であっ
崎さん自身も回天の搭乗員として、厳
を覚えている。河崎さんの言葉で、河
た時、少し複雑な気持ちになったこと
4月
4月
4月
4月
4月7日 徳之島慰霊祭 鹿児島県大島郡 新垣評議員
4月7日 豫科練雄飛会慰霊祭 靖國神社 及川評議員
4月6日 都城特攻慰霊祭 宮崎県都城市 水町理事
4月5日 鹿屋特攻隊慰霊祭 鹿児島県鹿屋市 藤田副理事長
(実施月日)(慰霊祭等名) (場 所) (参列者)
ア 代表者派遣
日 靖國神社春季例大祭 靖國神社 衣笠専務理事
日 秋田県特攻隊招魂祭 秋田県秋田市 高橋 暢
日 出水特攻慰霊祭 鹿児島県出水市 高嶋評議員
日 萬世特攻隊慰霊祭 鹿児島県南さつま市 秋山評議員
れる思いや、計り知れない死への恐怖、
自らの手で自分の命を奪う、その当の
5月3日 知覧特攻隊慰霊祭 鹿児島県南九州市 衣笠専務理事
日 特攻殉国の碑慰霊祭 長崎県川棚町 及川評議員
3 各地慰霊祭への参列等
28
5月
29
29 22 20 16
真 の 特 攻 隊 員 と は、 特 攻 機 に 乗 り、 ないためにも。
敵艦に体当たりした者達であると聞い
25
名、 会 員 等
平成 年9月 日の秋分の日に、世田谷山観音寺において、同寺と地元
駒繋神社との神仏習合による年次法要が営まれた。当顕彰会は、全面的な
26
23
11
25
況にならないと分からないことだらけ
ているか分からない。結局は、その状
20
26
30
35
26
63
26
5月
日 特攻勇士之像慰霊祭 京都府東山市 金子事務局次長
日 豫科練戦没者慰霊祭 茨城県阿見町 小倉理事
日 特攻勇士之像慰霊祭 千葉県千葉市 衣笠専務理事
金子事務局次長
日 串良基地慰霊祭 鹿児島県鹿屋市
日 神風特攻慰霊祭 フィリピン・マバラカット市
(実施月日)(慰霊祭等名) (参列者)
日 大分県護國神社 藤田副理事長
9月
大分県護國神社に「特攻勇士之像」一体を建立し、奉納した。今回の建
立奉納で、世田谷山観音寺への建立奉納分を含めて総計 体となった。
二 「特攻勇士之像」建立事業
28
14
三 その他の事業
1 広報事業として機関誌・会報『特攻』第 号~第102号を発行し、
会員、協力団体及び希望者等に頒布した。特に第100号記念として
創刊号から第
た。
号までの記事総索引を付録として発行し、好評を博し
出版事業では、平成 年度に刊行した『特別攻撃隊全史』及び『特
2 別攻撃隊全史追補版』並びにCD『あゝ特攻』等を少量ながら引き続
き頒布した。
四 会員の動向
平 成 年 度 の 新 規 入 会 者 は 1 0 1 名 で あ り、 死 去 等 に よ る 退 会 者 が
284名あったため、会員数は差し引き183名の減となり、平成 年度
年度も前年に引き続き旧軍関係者の死去・高齢化による退会が多かった
末の会員数は1919名となり、当面の確保数2000名を切った。平成
名を入会させ、会員
が、募集において、特に全体委員会メンバーのみで
月
25 15 14
ウ 「特攻勇士之像」奉納除幕式
6月
月
5月7日 黒島特攻平和祈年祭 鹿児島県三島村
日 義烈空挺隊慰霊祭 沖縄県糸満市摩文仁
減少の歯止めに寄与した。今後とも手を抜くことなく募集事業を推進する。
山口県周南市大津島
98
5月
5月
日 靖國神社秋季例大祭 靖國神社 杉山理事長
日 明野忠魂塔慰霊祭 三重県伊勢市 衣笠専務理事
日 特攻勇士之像慰霊祭 大阪護国神社 小倉理事
20
7月5日 大東亜慰霊協慰霊祭 靖國神社 杉山理事長
月
月
月
月
日 千鳥ヶ淵墓苑秋季慰霊祭 千鳥ヶ淵戦没者墓苑
杉山理事長 9月7日 高野山慰霊祭 和歌山県高野町 藤田副理事長
防衛省市ヶ谷駐屯地 水町理事
9月 日 市ヶ谷台慰霊祭 日 原町飛行場関係慰霊祭 福島県南相馬市 衣笠専務理事
月
月9日 回天大津島慰霊祭 月9日 若潮会慰霊祭(最終)靖國神社 衣笠専務理事
26
99
(実施月日)(慰霊祭等名) (場 所)
イ 供花送達等
26
4月3日 宮崎特攻基地慰霊祭 宮崎県宮崎市
26
26 25 25
17 12 14
26 18 18
10 10
11 11 10 10 10
10 10
料収集、若手会員に対する世代交代のための諸施策を更に推進する。
世代交代の末期に当たり、若手の会員募集を始め、生存者からの情報・資
30
( 40 )
(105号)
平成26年度事業報告
( 41 )
(105号)
平成26年度事業報告
内閣府認定等委員会立入
検査
議員会に付議することが決議された。
議され、全て原案どおり了承され、評
関連する定款変更の決議等について審
及び評議員の再任等並びに立入検査に
並びに任期満了理事の再任、新任理事
同 水町 博勝
業務理事 小倉 利之
専務理事 衣笠 陽雄
副理事長 藤田 幸生
理 事 長 杉山 蕃
三 第 回特攻隊合同慰霊祭の斎
行について
当慰霊顕彰会主催による今年度の第
年3
回特攻隊合同慰霊祭は、平成
日( 土 )、 靖 國 神 社 に お い て、 厳
粛盛大に斎行された。
月
27
事務局長 羽渕 徹也
平成 年2月4日(水)に、当顕彰
会が公益財団法人に移行後初めて内閣
36
監事 伊集院雅英
イ 監事2名(定員1~2名)
靖 國 神 社 の 桜 は、 3 月 日( 月 )、
同 羽渕 徹也
境内の標準木により開花宣言が行われ
新任理事 岩崎 茂
(前統合幕僚長) てから5日目、あたかも合同慰霊祭を
待ちかねたかのように満開となって御
また、 年度から月1回程度会同を 理 事 臼田 智子
重 ね て い る 全 体 委 員 会 の 内 容 に 関 し、 同 笹 幸枝
衣笠専務理事から報告が行われた。
二 平成 年度定時評議員会の実施
36
28
英霊を迎えてくれた。また、天候にも
恵まれ、近年にない慰霊祭日和であっ
た。
現在行っている事業の関連で定款を変
検査に基づく定款変更の決議案につい
の就任を含む役員の選任、並びに立入
根木 東洋 早川 雅彦
倉形 桃代 新垣 敬輝
大穂 園井 太田 兼照
石井 千春 及川 昌彦
くことができ、心より感謝申し上げま
上回る250余名の方々にご参列を頂
の参列者が多数あり、昨年を約
天と満開の桜に助けられ、当日受付け
配していましたが、今年は又とない好
このところ年々、会員の高齢化と天
候の影響による参列者の減少が続き心
更すべきであるとの意見に基づき、3
て審議され、全て原案どおり承認され
深山 明敏 長瀬 彰孝
条 を 変 更 し、「 会 長 1 名、 相 談
役及び顧問をそれぞれ若干名置くこ
イ とができる」に変更
ウ 条を新たに加えて「委員会」の
設置条項を追加
名も
月の評議員会において、定款変更を付
た。
(別添資料)
年度正味財産増減計算書
名)
し、「図書等の貸し出し」を追加
議することとなりました。
年 度 事 業 報 告( 別 添 資 料 )
① 年度報告事項
から説明が行われた。
③ 定款変更内容の要旨
ア 顕 彰 会 の 事 業 の 4 条 3 項 を 変 更
事務局長 羽渕 徹也
ア 平 成
イ 平成
② 決議後の役員等
ア 選任理事9名(定員6~
31
41
一 平成 年度第1回理事会の実施
25
年度事業報告及び決算報告
10
平 成 年 2 月 日( 水 )、 靖 國 神 社
遊就館内の当慰霊顕彰会事務室におい
て、平成
26 26
平成 年度第1回理事会及
び定時評議員会実施報告等
また、昨年から会同を重ねている全
体委員会の内容に関し、衣笠専務理事
飯田 正能 石井 光政
23
府認定等委員会の立入検査を受検しま
し た。 内 閣 府 か ら 検 査 官 2 名 が 来 所
し、午前 時から午後4時までの間、定
款に基づいて公益事業が実施されてい
るか、公益目的事業費を含み、収支決
日( 木 )、 靖 國 会 館 九 段 の 間
18
法律の規定に基づき、理事会の開催
から2週間以上の間隔を置いた平成
同 阿部 軍喜
ウ 評議員 名(定員 ~ 名)
27
秋山 政隆 穴山 正司
12
算が収支相償の基準を満たしているか
において実施された。
等、細部にわたる検査が行われました。 年 3 月
当顕彰会からは、衣笠専務理事と羽
26
渕事務局長の二人で対応しました。
理事会で承認を受けた平成 年度事
業報告及び決算報告、並びに任期満了
結果として、大きな問題点等もなく
終 了 す る こ と が で き ま し た が、 た だ、 理事及び評議員の再任並びに新任理事
14
25
27
12
27
10
27
27
27
26
いますので、省略させて頂きます。
なお、慰霊祭の詳細については、本
会報『特攻』第105号に掲載されて
す。
にご参列頂けるようお願い申し上げま
すとともに、来年もより多くの皆様方
50
( 42 )
平成27年度第1回理事会及び定時評議員会実施報告等/内閣府認定等委員会立入検査 (105号)
七 中島 尚史 七 井川 嘉江
七 武谷 孝生 七 飯田 雍子
七 高山 友二 七 百目鬼 清
七 駒場剛太郎 七 中村光太郎
七 金子 亘秀 七 山口 武夫
一○ 寺本 優子 一○ 河野 茂義
一○ 小山内昭三 八 椿 孝則
一○ 西 正昭 一○ 松本 司
一○ 大井 路雄 一○ 久保 巍
一○ 大穂 利武 一○ 原島 淳子
一○ むらさき会(陸士 期)
一一 中村 五郎 一○ 平野 三郎
一○ 荒木 精一 一○ 市川 雄一
三○ 吉武登志夫 三○ 松本 憲二
二七 山根 猛 一五 降矢 達男
一○○○ 多田野 弘
五○ 山根 秋男 四○ 松本 聖二
二 後藤 昭一 二 奥村侑生市
二 住谷 定 二 関根 賢治
二 澤田江里子 二 川田久四郎
二 浅田 嘉美 二 小林 正昭
二 今井 敏夫 二 佐藤 孝一
二 阿部 敏行 二 高野 剛
二 工藤 重民 二 川本 修二
二 高橋 房之 二 信平セイ子
三 井上 勝蔵 三 市場 敏司
三 萩原 健一 二 廣田 正
三 飯田 正能 三 茨木 治人
三 河本 憲恵 三 西村 久宣
五 山崎 悟 五 川井 孝輔
三 臼田 智子 三 水野 伸子
五 花塚真知子 五 湯澤 一枝
五 櫻井 光夫 五 樽井 弘和
五 吉田 文尭 五 田辺さだ子
五 堀江 正夫 五 塩田 章
五 遠藤 和子 五 益田 澄夫
六 斎藤 正夫 五 川岸 義視
五 田湯 聖禮 五 飯岡 哲子
二 布廣 鉄夫 二 丸原 巧
二 永島夘太郎 二 田中 清
二 鳥山 隆 二 新田 和子
二 山本 健雄 二 後藤 文夫
二 辰巳 泰造 二 吉田 治正
二 小林奈美子 二 杉江 公一
二 岡部 尚子 二 尾関 基
二 金子 幸生 二 水野 清
二 武居 房子 二 北村 昭二
二 小山 照夫 二 田中 清
二 加藤 千佳 二 中村 博志
二 高瀬 宏司 二 城ヶ端 専
二 小林 次雄 二 広瀬 勉
二 川田 信雄 二 吉田 正則
二 小貫 達雄 二 岡崎 宏平
二 中村 家久 二 加藤 寛二
二 古屋 七郎 二 茂木 昌三
二 此元志津範 二 宇田川正子
二 梅田 俊幸 二 小松 嶺生
二 中崎 博 二 杉原 清之
二 原 照寿 二 井上 孝之
二 三春 仁 二 塚原 正
二 刑部 五郎 二 小堀桂一郎
二 西村 米子 二 岩崎 昭男
二 中村 実 二 志賀 昭夫
二 清水 典郎 二 森園 安男
一 北森 茂樹 一 上畑 幸晴
一 吉川 壱成 一 生峯 和代
一 内山 正義 一 近藤 健
一 小林 清完 一 加藤 拓
一 藤野 洋政 一 新垣 敬輝
一 岩崎 淳治 一 中島 實
一 橋本大二郎 一 萩野 茂雄
一 小松健太郎 一 山本 年男
一 岡本 久吉 一 岡崎 幸平
一 梅田 光明 一 斎須 重一
一 青木 義博 一 関口 正孝
一 辻 外文 一 氏木 武
一 中村 貞三 一 小倉 利之
一 杉山 蕃 一 池田 守
一 皆本 義博 一 埼玉偕行会
一 関 淳人 一 衣笠 陽雄
二 津覇 実雄 一 栗田 貞子
一 中島 幸雄 一 日高 誠
二 上嶋 正敏 二 牧 勝美
二 田代 義信 二 市来 徹夫
二 佐藤 義信 二 原口 静彦
二 里崎 雪 二 古閑カツ子
27
事務局からの報告等
七 加嶋 昭男 七 渡部 利久
二 峯尾 栄 二 河島 慶明
二 安味 貞嘉 二 奥山 雄三
二 水内 三郎 二 道土井圭次
二 仁井 彰造 二 原田 義治
31
(単位千円)
会
五 樋口 太 五 戸部 清
五(公財)千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕
七 大澤 俊夫 七 下出 忍
七 丸井 容子 七 枡田 恭展
二 宇井 忠一 二 臼井日出男
二 大賀 龍吉 二 土橋 猛
二 紙谷八十二 二 村越 正清
二 佐多 和仁 二 國武 統士
日)
七 小松 雅也 七 服部 武志
七 十川重次郎 七 藤井 日正
二 佐伯トシ子 二 井出野正和
二 岩井 良平 二 後藤 英夫
◇ ◇ ◇
(平成
年1月1日~3月
新入会員名簿 (敬称略)
日)
田村 政昭 阿部 軍喜
宮城県 宮原 敏彦 斎藤 文彦
埼玉県 小笠原正男 関 淳人
31
寄附者御芳名 (敬称略)
年1月1日~3月
七 塚田 征二 七 菅原 道之
七 早田 亮彦 六 小林 郁雄
27
56
(平成
(105号)
御芳志誠に有り難うございました。
( 43 )
事務局からの報告等
千葉県 戸部 清
・
)
・2)
)
会員ご入会のご案内
11
高知県 柳原 弘孝
熊本県 村上 和男
◆ ◆ ◆
・1・
謹んで哀悼の意を捧げます。
会員訃報 (敬称略)
宮城県 板橋 勝
天野 高枝 鈴木 雄一
岡本 俊章(
東京都 鈴木 利次
・2・
34
千葉県 白井 忠俊 岩崎 茂
東京都 本多 克美 薮田 保幸
小林 昇 簗瀬 武史
白倉 昂 宿里 文子
田中 良平 森 雅紀
諸喜田智也 佐々木章太
福島県 脇屋 隆治(
山口 正人 湯川 尚樹
田中 厚彦 原田 敏裕
愛知県 舘本 勳武 伊藤 重夫
大阪府 松本 賢二
高田 耕治
栃木県 横塚 武
山口 洋一 伊室 一義
埼玉県 皆本 義博( ・4・5)
深野 真樹
神奈川県 渡邊 泰雄 森川 翔太 (元評議員・埼玉県郷友会名誉会長)
京都府 中谷 悦治 竹中 伸一
兵庫県 吉川 壱成 新井 勇輝
神田 延祐
平林 克
柴 秀人
福岡県 田中 弘俊
熊本県 佐藤 武(
会報『特攻』第104号正誤表
次のとおり誤りがありましたので
訂正し、謹んでお詫び申し上げます。
(訂正箇所)
ご投稿についてのお願い
ご投稿に際しましては、次の点
にご留意くださるようお願いいた
します。
原稿は、手書き、ワープロ・
パソコン作成のいずれでも結構
1
字詰めでお願いします。
ですが、なるべく縦書き、1段
2
0073
記
局宛としてください。
〒102
電 話03
FAX03
5213
5213
1
4594
靖國神社遊就館内 公益財団法人
特攻隊戦没者慰霊顕彰会事務局
東京都千代田区九段北3
1
会報・機関誌、投稿記事等の
送付先は、左記の当顕彰会事務
5
さい。
場合は、その旨お書き添えくだ
稿、写真等は、原則として
原
お返しいたしませんが、必要の
4
ださい。
慰霊祭、行事等の写真があり
ましたら、なるべく添付してく
3
願います。
いては、当協会事務局にお任せ
記事の取捨選択、紙面の都合
等による一部割愛、修文等につ
17
17
15
奈良県 吉野 信二 駒谷 厚子 長野県 宮本 了吾
愛知県 板津 忠正( ・4・6)
湯川 正 湯川 智子
(知覧特攻平和会館初代館長)
遠藤 毅 伊勢龍太郎
上村 僚宏 河合 伸泰
栄山 旬子 田中 誠二
西本 佳央 松村 貴史
宮本 義巳 米田 雅人
河村 薫 北山 芳規
辻本 隆行 堀部 泰
吉村 浩至 奥田 善久
-
当顕彰会は、先の大戦において、
祖国の安泰を願い、家族や大切な
人たちを案じつつ、自らの命を犠
牲にして、それらを護ろうとした
若い特攻隊員たちの御霊を慰霊
し、感謝することを目的とする団
体であります。
私達は、彼らからその精神を学
び、自分たちの生き方を考え、よ
り良い社会の実現に寄与したいと
活動を続けております。ご賛同の
上、ご入会くださるようお願い申
し上げます。
〇当顕彰会の沿革
昭和 年5月前身の特攻平和観
音奉賛会が全国組織化
昭和 年6月特攻隊慰霊顕彰会
発足
初代会長 竹田 恒徳 元宮様
二代会長 瀬島 龍三 氏
平成5年 月財団法人認可
三代会長 山本 卓眞 氏
平成 年1月公益財団法人認定
現理事長 杉山 蕃 氏
〇当顕彰会の主な事業
・特攻隊戦没者の慰霊顕彰
・広報誌等の発刊
・講演会等の開催その他
〇年会費
・一般会員 3000円
・学生会員 1000円
〒102 0073
東京都千代田区九段北3 1 1
靖國神社遊就館内 公益財団法人
特攻隊戦没者慰霊顕彰会事務局
電 話03 5213 4594
FAX03 5213 4596
-
12
頁1段 4行目
誤 岩手県 星 道弘
正 宮城県 星 道弘
-
4596
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27
27
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27
57
23
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小西 伸尚 中井 健夫
西尾 浩司 廣田 豊子
堀田 由美 大前 隆史
44
( 44 )
(105号)
事務局からの報告等