人権の戦後史: 1950 年代の静岡県を中心に (田中克志先生退職記念号)

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人権の戦後史 : 1950年代の静岡県を中心に (田中克志先生
退職記念号)
橋本, 誠一
静岡法務雑誌. 6, p. 3-25
2014-03-31
http://dx.doi.org/10.14945/00007821
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静岡法務雑誌
第 6号 (2014年 3月 )
■ 論
人権 の戦後史-1950年 代 の静岡県 を中心 に一
橋
本
誠
一
目 次
I
は じめに
Ⅱ 戦後 の人権状況―刑事司法 を中心 に
Ⅲ 人権擁護行政一人権侵犯事件 を中心 に
Ⅳ 人権啓発行政―静岡県 の広報活動を中心 に
V
I
おわ りに
は じめに
日本国憲法 の制定 (1946年 11月 3日 公布)に よって、戦後 の 日本国家 は、一人ひ と
りの国民 を個人 として尊重す るとい う個人主義 (indi宙 dualism)を 基底 に、 自由主
demOcracy)を 理念 的支柱 とす る国家 へ と再編 され
義 (liberalism)と 民主 主 義 〈
た (1)。 本稿 の主題 に関 して言 えば、憲法第 3章 で保障 され る基本的人権 は、個人主
義、 自由主義、民主主義 とい う理念的諸価値を個別 に具体化 した ものとい うことがで
きる (2)。
ところで、人権 とい う理念がある国 に定着 したとい うためには、国家組織 が人権理
念 を基軸 として組織・ 運用 され るだけでな く、国民 が人権 の政治的 。法的価値を受容
し、現実生活 の場 においてその価値 の実現 を日常的 に追求す ることが必要 であろう。
イ ェー リング (Rudolf von Jhering,1818∼ 1892)の 言 い方 を借用すれば、 ここで は
「 権利 のための闘争」 を行 うことが国民一人 ひとりの倫理的義務 として要求 される (3)。
(1)こ の点 については、 と くにラー トブル フ著・ 碧海純一訳『 法学入門
第 3巻 )』 東京大学 出版会、 1961年 、 17頁 以下、を参照。
(ラ
ー トブル フ著作集
(2)人 権概念 の歴史 について は、高柳信一「 近代国家 にお ける基本的人権」 (東 京大学社会科
学研究所編『基本的人権』第 1(総 論)、 東京大学出版会、 1968年 、所収)、 リン・ ハ ン ト
著・ 松浦義弘訳『 人権 を創造す る』 (岩 波書店、 2011年 )参 照。
(3)イ ェー リング著・ 村上淳一訳『 権利 のための闘争』岩波書店、 1982年 。
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第 6号 (2014年 3月
)
筆者 の関心 は、憲法制定 か ら60年 余 の時間 を経 て、人権 とい う理念がはた して前述
のよ うな意味 で地域社会 のなかに定着 したのか という問題を歴史実証的 に考察す る こ
とにある。本稿 はその作業 の第一着手 として、静岡県 という地域社会 について、 そ し
てお もに戦後間 もない1950年 代 までの時期 を対象 に考察 しようとするもので ある。
そ こで本稿 は、具体的 に以下 の問題 を取 り上 げ る。第一 に、後述す るように、 1950
年代 までの人権問題 の中心 は刑事被告人等 に対す る人権侵害であったことか ら、当時、
当該人権侵害 を くり返 し発生 させて いた構造的要因 について考察す る。第二 に、新憲
法 の下 で開始 された人権擁護行政 に着 目 し、被害者 の救済 と国民へ の人権啓発 を任務
とす る人権擁護行政 の実態 を可能 な限 り明 らかに し、 その問題点 について考 える。 そ
して最後 に、以 上 の考察 を踏 まえ、60年 代以降へ の展望 と今後 の課題 について言及 し
たい。
Ⅱ 戦後 の人権状況―刑事司法 を中心 に
1
旧刑事訴訟法 〈
大正刑事訴訟法)の 改正
刑事司法 における戦後改革 は、新憲法施行 の を 目前 に控 えた1947(昭 和 22)年 4月
19日 、
「 日本国憲法 の施行 に伴 う刑事訴訟法 の応急的措置に関する法律」 (法 律第76号 、
6)
以下、
「 応急措置法」 とい う。)に よって開始 された (同 年 5月 3日 施行)(5)。
い うまで もな く、戦前 にも大 日本帝国憲法 (1889年 2月 11日 公布)が 「臣民 の権利」
を定 め、
「 日本臣民ハ法律 二依 ルニ非 スシテ逮捕監禁審問虎罰 ヲ受 クル コ トナ シ」 (第
23条 )、 「 日本臣民ハ法律 二定 メ タル場合 ヲ除 ク外其 ノ許諾 ナク シテ住所 二侵入 セ ラ レ
及捜索 セ ラル ヽコ トナ シ」 (第 25条 )な どの規定 を設 けていた。 その限 りで近代憲法
として最低限 の (国 民 の権利 。自由を保障す るために国家権力 を制限す るとい う)体
裁 を備 えて いた。 しか し、 これ らの憲法規定を具体化すべ き法律 ― いわゆる大正刑
事訴訟法 (1922年 5月 5日 法律第75号 )一 の もとで被疑者・ 被告人 の人権侵害 が 日常
戦後憲法史 については、渡辺治『 日本国憲法「改正」史』 (日 本評論社、1987年 )、 杉原泰
雄 ほか編『 日本国憲法史年表』 (勁 草書房、1998年 )を 参照。
司法制度の戦後改革 については、東京大学社会科学研究所編『戦後改革』 4〔 司法改革〕
(東 京大学出版会、1975年 )、 A・ オプラー著/内 藤頼博監/納 屋廣美・ 高地茂世訳『 日本
占領 と法制改革』 (日 本評論社、1990年 )な どを、 また警察制度 の戦後改革 について は、
星野安二郎「 警察制度 の改革」 (東 京大学社会科学研究所編『 戦後改革』 3〔 政治過程〕
、
東京大学出版会、1974年 )、 広中俊雄『 警備公安警察の研究』 (岩 波書店、 1973年 )、 大日
方純夫「近代 日本の警察 と地域社会』 (筑 摩書房、2000年 )340頁 以下、などを参照。
応急措置法公布当日の 4月 19日 、人権蹂躙の温床 ともいうべ き違警罪即決例が廃止された。
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的 に横行 して いた ことは周知 の通 りであ る (7)。
そ こで前述 の応急措置法 は、大正刑訴法 を 日本国憲法 の趣 旨に適合す るよ うに解釈
す る ことを裁 判官 らに義務 づ ける とと もに、 お もに以下 のよ うな応急的改正 を施 し
た (8)(そ の内容 は1948年 7月 10日 公布 の新刑事訴訟法 (法 律第 131号 )(9)に 継承 され、
現在 に至 る)。
(1)被 疑者 は、身体 の拘束 を受 けた場合 には弁護人 を選任す ることがで きると定
めた (第 3条 )。 つ ま り、 捜 査 段階 か ら被疑 者 に弁護人選任権 を与 えた (10)。
あわせて犯罪事実 および弁護人選任権 の告知 を義務 づ けた (第 6条 )。
(2)令 状主義 を徹底 した。す なわち、検察官・ 司法警察官 による勾引状・ 勾留状
の発給 を禁 じ (第 7条 第 1項 )、 裁半J官 の令状 がなければ逮 捕・ 勾留・ 押収・
捜索・ 検証 がで きな い とした (第 7条 第 2項 、第 8条 第 1号 )。 1)。 その一 方 で、
緊急逮捕制度 を設 けた (第 8条 第 2号 )。
(3)勾 留状 の請求 が あつた 日か ら10日 以 内 に公訴 の提起 がなか った ときは、直 ち
に被疑者 を釈放 しなければな らな い、 と規定 した (第 8条 第 5号 )(1'。
(つ
この点 については、 と くに布施辰治『 司法機関改善論・ 暗 々刑事裁判 の時弊』 (布 施辰治
法律事務所、 1917年 )、 小 田中聰樹『 刑事訴訟法 の歴史的分析』 (日 本評論社、 1976年 )
などを参照。
応急措置法 の内容 については、小田中聰樹「 刑事裁判制度 の改革」 (前 掲『 戦後改革』 4
〔
司法改革〕)232頁 以下、参照。
新刑事訴訟法 の立法過程 については、前掲 。小田中「 刑事裁判制度 の改革」 213頁 以下、
参照。
(10)大 正刑訴法 は、公訴提起後 =予 審手続 の段階 か らしか弁護人 の選任 を認 めなか った
(第
39条 )。 大正刑訴法 については、牧野英一『 刑事訴訟法 (重 訂第 15版 )』 (有 斐閣、 19280、
前掲・ 小田中『 刑事訴訟法 の歴史的分析』 などを参照。
(11)大 正刑訴法 の もとで も、原則 と して裁判所 が勾引状 や勾留状 を発す るとされて い た (第
93条 )。 しか し、 その一方 で、現行犯や現行犯 に準ずべ き場合 だけでな く、要急事件 (急
速 を要 し判事 に勾引状 を請求 で きな い とき)に ついて も、検事が自 ら勾引状 を発 し、被
疑者 の身柄 を48時 間拘束す ることがで きる、 と規定 されて い た (第 123条 )。 さらに勾留
(勾 留期間 は原則 2ヶ 月、lヶ 月単位 の更新 が可能)に ついて も、急速 を要 し判事 の勾留
状 を求 めることができないときは、検察官 が 自 ら勾留状 を発す ることがで きるとしてい
た (第 129条 )。 押収・ 捜索 もほぼ これ と同様 で、裁判所 の令状 によることを原則 としつ
つ も (第 150条 )、 要急事件 (第 123条 )や 現行犯事件 で急速を要す るときは、公訴提起前
に限 り、検事・ 司法警察官 は押収・ 捜索 をす ることがで きるとした (第 170条 )。
(12)大 正 刑訴法 も、勾留状 を発 した事件 につ き 3日 以内に公訴 を提起 しなか ったときは、検
事 は直 ちに被告人 を釈放 しなければな らな いと定 めていたが (第 371条 第 3項 )、 事実 上
形骸化 して いたといわざるをえない。
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(4)自 己に不利益 な供述を強要 されない
(黙 秘権 の保障)(13)、 強制 。拷問等 によ
る自白または不当 な長期抑留・ 拘禁後 の 自由 は証拠 とす ることができない、 そ
して 自己に不利益な唯― の証拠が本人 の 自白である場合 には有罪 とされ、 また
は刑罰 を科 せ られない、 と定 めた (第 10条 )(14)。
(5)検 察官、弁護人 だ けでな く、被告人 に も証人尋 間権 を保障 した
このほか、予審 を廃止 し
(第
(第 11条 )。
9条 )、 供述録取書 の証拠能力を制限 し (第 12条 )、
跳躍上告 を認 めた (第 14条 )。
して同法を継承す る新刑事訴訟法)は 、捜査機関 (警 察・ 検察)が
被疑者・ 被告人 に一方的かつ恣意的 な取調 べを行 うとい う仕組 みを改 め、被疑者 。被
応急措置法
(そ
告人 に弁護人選任権、黙秘権などの法的 な「武器」 =権 利 を与 えることで、捜査機関
に対す る反撃 の機会 を保障 しようとするもので あ った (15)。 そ ぅする ことで初 めて、
捜査機関 と被疑者 。被告人 の関係 は権力的 な支配服従関係 か らよ り対等・ 平等 な権利
義務関係 に転換す ることが可能 になる。 そ して、 こうした関係性を前提 に、適正手続
(due prOcess of law)の 理念 に基 づいて (捜 査か ら公判 に至 る)諸 手続 が遂行 され
ることが期待 された。
このよ うに刑事司法 にお ける人権保障 とは、捜査機関 と被疑者・ 被告人 の間 の権力
的 な支配服従関係 を対等平等 な権利義務関係 に置 き換えることを意味 した。 それゆえ、
それは現実社会 の権力的関係 を解体す るとい う意味 です ぐれて実践的 な課題 であ り、
それを達成す るには各当事者 による「権利 のための闘争」が不可欠 であ った。
(13)大 正刑訴法 は、
「 被告人 二対 シテハ被告事件 ヲ告 ケ其 ノ事件 二付陳述 スヘ キ コ トア リヤ否
ヲ問 フヘ シJ(第 134条 )と 定 めるのみで、 (黙 秘権 はい うまで もな く)被 告人 に供述 の義
務 があるのか否 かについて何 も規定 して いない。学説上 は、被告人 に供述 の義務 はな い
とす るのが多数説 であった (前 掲・ 牧野『 刑事訴訟法』 262頁 以下)。
(14)大 正刑訴法 は、区裁判所 にお いて被告人 が 自白 したときは、訴訟関係人 に異議 がない場
合 に限 り、他 の証拠 を取 り調 べ な くて もよい、 と規定 した (第 346条 )。 また、判例 も、
被告人 が犯罪事実 を 自白 した場合、被告人 の 自白のみによ って犯罪事実 を認定 して も不
法 ではな い、 とした (大 判大正 13年 1月 25日 大審院刑事判例集 3巻 20頁 、大判昭和 13年
8月 18日 大審院刑事判例集 17巻 635頁 も同旨)。 それでは、その 自白が強制、拷問等 によ つ
て不当 に得 られた場合 はどうなるのか ?違 法収集証拠 としてその証 拠能力 を否定 される
のか ?残 念なが ら、 この点 を争点 とした判例 は管見 の限 りで存在 しな い。
(15)応 急措置法 には不十分 な点 もあ った。 この点 について、小田中 は「 被疑者 の弁護人 の権
限 の範囲 が不明確 で ある こと、逮捕 の理由 として F罪 を犯 した ことを疑 うに足 りる相当
な理 由』 のみがあ げ られて い る こと、 自白法則 が強制 。拷問 。脅迫 による自白に限定 さ
れて い る こと、補強法則 が公判廷 の 自白に及 ぶか否 かが明確 でない こと、証人等 の供述
録取書 の証拠能力 の制限 の例外 が曖昧で広 いことなど」 (前 掲・ 小田中「 刑事裁判制度 の
改革J236頁 )を 指摘す る。
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2
あ る警 察 官僚 の人 権観
人権 が権力的関係 の解体 を指向す る理念であるとすれば、旧体制を支えてきた警察・
検察官僚 がそれに反発す るのはある意味 で当然 の反応であ った。当時、静岡県警察本
部長 の職 にあ った加藤陽三 もその一人であ った。加藤 は旧内務官僚出身 で、戦前 。戦
後 を通 して エ リー ト警察官僚 の道を歩 んだ人物 である (16)。 1948(昭 和 23)年 5月 、加
藤 は、地元新聞 の特集「 憲法施行一周年 を顧 る」 に寄稿 して次 のよ うに述 べ た。
犯罪 の捜査 は憲法 の個人 の基本的人権擁護 と自由を尊重 して い る (が )、 この こ
とによ って犯罪捜査 の上 に従来 と異 り相当大 きな不利不便が生 じている、捜索、
逮捕 は一 々令状 がな ければ執行出来ず、現行犯 でないと無暗 に検 そ くできぬ とい
う悩みがあ
(る
)。
(1つ
新憲法下 の刑事司法 に対す る率直 な不満 の表明である。 この発言 の背景 には、彼 の
権威主義的国家観 があった。加藤 は、同 じ記事 のなかで、「一 人 の犯罪容疑者個 々の
権利 と自由を擁護 し過 ぎて全体 としての国家 の権利 自由を擁護 されない」、
「 全体 の社
会 の秩序 が保持 されて こそ個人 の権利 自由が擁護 され る」 と主張 していた。 このよ う
な国家 。社会 を個人 に優位 させる権威主義的国家観 (1の は帝国憲法下 の ものではあっ
て も、 日本国憲法下 のそれではない (19)。
(16)加 藤陽三 (1910∼ 1989)は 、 その後、 1950年 8月 に警察予備隊人事局長 に移動後 は防衛
官僚 として歩 み続 け、防衛庁防衛局長、防衛事務次官 などを歴任 した。退職後 は、衆議
院議員 を 2期 勤 めた (加 藤陽三追想録刊行会編『 加藤陽三 追想録』 0日 藤陽三追想録刊行
会、 1993年 )。 『 私録・ 自衛隊史―警察予備隊 か ら今 日まで」 (「 月刊政策」政治月報社、
1979年 )な どの著書 がある。
(17)『 静岡新聞』 1948年 5月 3日 付。 なお、丸 カ ッコは橋本 が付 した もので ある。以下、同 じ。
(1の
権威主義的国家観 にはいろいろなヴ ァリエーシ ョンがあるが、 19世 紀 において もっとも
代表的 な ものは国家有機体説 であった。 それは国家 を君主、国家諸機関、国民を もって
組織 され る一 つの有機体 であるとし、 あたか も人間 の身体 のよ うな もの として説明 した。
国民 はそこでは人体 の手足 のごとく国家 の一部 であ り、国家 の首脳 たる君主 の意思 によっ
て支配 され るものであ った。 ここでは国家 (全 体)が 常 に国民 (部 分)に 優位す る。国
家有機体説 については、石 田雄「 国家有機体説」、鵜飼信成 ほか編『 講座 日本近代法発達
史』 2(勁 草書房、 1958年 )233頁 以下、参照。
(19)「 国政 は、国民 の厳粛 な信託 による ものであつ て、 その権威 は国民 に由来 し、 その権力 は
国民 の代表者 が これを行使 し、 その福利 は国民 が これを享受す るJと い う前文 の一 節 に
端的 に示 されて い るよ うに、 日本国憲法 は ジ ョン・ ロ ックの 《自然状態 における個人 の
固有権 (prOperty)→ 信託的社会契約 にもとづ く政府 の構築→ (政 府 が信託 目的 に反 し
たときの)人 民 の抵抗権》 とい う三位一体的な思想 を正統 に受 け継 ぐものである。 ジ ョ
ン・ ロ ック著・ 加藤節訳『 完訳 統治 二論』 (岩 波書店、 2010年 )、 樋 口陽一『 比較憲法
全訂第二版〕』 (青 林書院、 1992年 、初版 は1977年 )93頁 以下、清宮四郎『 憲法 I・ 統治
〔
の機構 〔
第 三版〕
』 (有 斐閣、 1979年 、初版 は1957年 )60頁 、 など参照。
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多発する冤罪事件
憲法や法律 が変 わ ったにもかかわ らず、制度運用 の任 に当 たる警察官僚 の意識 が 旧
)
態依然 であったとすれば、犯罪捜査 の実態 はどうであ ったのか ?。 。
周知 のよ うに、戦後 の静岡県 では、幸浦事件 (1948年 12月 事件発生、 1963年 7月 無
罪確定 )(21)、 二 俣事件 (1950年 1月 事件発生、 1958年 1月 無罪確定 )(22)、 小 島事件
(1950年 5月 事件発生、 1959年 12月 無罪確定)(23)、 島田事件 (1954年 3月 事件発生、
1989年 1月 無罪確定)(24Dと 、全国的 に著名 な冤罪事件 が相次 いで発生 し、 いず れ も
一度 は死刑判決 を受 けた被告人 の無罪が確定 した。 これ らはいずれ も、明確 な物証 が
な いにもかかわ らず、捜査段階で拷問等 の方法 によって虚偽 の 自白を強要 され、 それ
を根拠 に起訴 されたとい う点 で共通 して い る。(25)
静岡県内で発生 した冤罪事件 は、 これ ら著名事件 に尽 きるわけではない。 1950年 代
に限 って も、歴史 の闇 に埋 もれた冤罪事件 がい くつ も存在 した。 たとえば郵便行嚢小
切手抜取 り事件 で有罪判決 (1948年 6月 静岡地裁判決、 1951年 4月 東京高裁判決)を
(20)戦 前静岡県 における人権蹂躙問題 については、拙著『 在野「 法曹」 と地域社会』 (法 律文
化社、 2005年 )、 とくに第一部 を参照。
(21)幸 浦事件 については、上田誠吉 。後藤昌次郎『 誤 まった裁判 ―八 つの刑事事件』 (岩 波書
店、1960年 )、 青木英五郎『 事実誤認 の実証的研究 ―自白を中心 として』 (武 蔵書房、1960
年 )、 大竹武七郎 ほか「 事実認定 における裁 判官 の判断 ―幸浦・ 二俣・ 小島事件判決 の実
証的研究」 (『 法律時報』36巻 2号 、 1964年 2月 )な どを参照。
(22)二 俣事件 で は 1人 の被告人 が強盗殺人罪 で起訴 され、幸浦事件 と同様 に 自白の任意性 を
め ぐって裁判 は紛糾 した。本件 も他 の事件 と同様、被告人 と犯罪 とを結 びつ ける物証 は
存在 せず、 もっぱ ら警察段階 で の被告人 の 自白 によって起訴 された。本件 の きわ めて異
例 ともいえる大 きな特徴 は、現職警察官 が取調段階 で警察 による拷間があ ったと告発 し、
それを法廷 で証言 したことである。 しか し、 その後、 この警察官 に対 して、検事 は偽証
罪 で追求 し、警察 は官職 を奪 い、
「 偏執狂」 との宣 伝 を行 うなどの迫害 を加 えた。 二 俣事
、
、前掲・ 青木『事実誤認 の実証的研究』
件 については、前掲・ 上田ほか『 誤 ま った裁判』
の
などを
・
ほか
における裁判官
認定
参照。
判断」
前掲 大竹武七郎
「事実
(23)小 島事件 については、前掲・ 大竹武七郎 ほか「 事実認定 における裁判官 の判断J、 内田博
「 小島事件」 (『 法律時報』42巻 12号 、 1970年 10月 )な ど参照。
(24)島 田事件 については、大出良知「 島田事件再審公 判傍聴記」 (『 法学 セ ミナー』 396号 、
1987年 12月 )、 森源編著『 島田事件 レポー ト』 (森 源、 1989年 )、 伊佐千尋『 島田事件』
(潮 出版社、 1989年 )、 同『 島田事件 ―死刑執行 の恐怖 に怯 える34年 8ヶ 月 の闘 いJ(新 風
舎、2005年 )な ど参照。
(25)こ れ とは別 に、全国的 に警察官 による被疑者射殺事件 が頻発 していた ことに も留意 して
おきたい。 とくに1948年 5月 21日 に東京浅草 で発生 した射殺事件 の場合、遺族 が国家賠
償請求訴訟 を提起 し、 1950年 10月 10日 に東京地裁 で戦後初 の勝訴 を勝ち取 った (『 人権新
聞』 1950年 12月 5日 付)。 静岡県内で も、浜松市で1948年 9月 と1950年 1月 に相次 いで同
様 の事件 が発生 した (『 静岡新聞』 1948年 9月 14日 付、 1950年 1月 11日 付)。
8
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受 け保釈中であった元被告人 は、 1951年 9月 に真犯人 を捕 まえ、 自 らの潔白を証 明 し
た (26)◇ このほか、冤罪 とは断定 で きない ものの、 その可能性 を否定 で きな い事件
(1955年 5月 に発生 した丸正事件 97)な ど)も 存在 した。
なぜ冤罪事件 が くり返 し発生 したのか。 もちろん、 その原因は多面的かつ複合的で
ある。 まして本稿 が考察す る時期 は戦後改革期 であるため、過渡期 に固有 の問題 も存
在 した。 たとえば大正刑事訴訟法 は控訴審 の構造 を覆審制 (第 一審 とは無 関係 に新 た
な審理を行 う方式)と していたが、新刑訴法 は これを事後審制 (第 一審 の審理内容を
事後的 に審査す る方式)に 改 めた。事後審制 を厳格 に貫 けば、第一審 で審議 されなか っ
た新証拠 などは控訴審 で事実認定 を行 う必要 が必ず しもないことにな って しまう。 そ
のため、当時、冤罪 や不当量刑 を生み出 しかねないと危惧 されていた。
さまざまな要因 のなかで本稿 が と くに注 目す るのは警察・ 検察 が戦前 か ら抱 えて き
た構造的 な問題である。当時、捜査機関 は被疑者・ 被告人 に対 して圧倒的 に優位 な立
場 に立 っていた
(こ
の点 は現在 で も変わ らないが)。 捜査機関が必要 と判断すれば、
いつで も被疑者 の身柄 を拘束 し、長時間 にわたる取調 を行 うことができた
(旧 法下 で
は、事実上無制限 に勾留 の更新 が可能 であった)。 しか も、 それは密室 の中で行 われ
て いた
(旧 法下 での勾留中の接見交通 は、理由を付 ければいつで も禁止す る ことがで
きた)。 これに対 し、被疑者 。被告人 は、 か りに不法・ 不当 な取調 が行 われて も、 そ
れに対抗 し反撃す るための「武器」 (黙 秘権 や弁護人選任権 など)を ほとん ど何 も与
え られて いなか った。 それゆえ、多 くの被疑者・ 被告人 は捜査機関 に一方的 に服従す
るしか外 に道がなか ったのである。応急措置法後 もこの点 で大 きな変化 はない。
それでは、 このよ うな権力的構造 の もとで、当時、 日常的 にどのよ うな捜査が行 わ
れて いたのか。以下、 この点 について見 ていきたい。
4
傍証頼 みの捜査
1948(昭 和23)年 1月 29日 午前 2時 35分 頃、静岡市内 のA方 か ら出火 し同人宅 を全焼、
さらに隣家 の C宅 を半焼 して午前 3時 頃鎮火 した。現場検証 の結果、焼 け跡か ら金属
性 の鈍器様 の もので頭部を殴 られた Aの 遺体 が発見 された。放火殺人事件 と断定 した
静岡署 は、早 くも翌 30日 夕刻、近所 に住 む Bを 被疑者 として署内 に留置 した。
警察 が Bに 目を付 けたの はもっぱ ら傍証 (情 況証拠 )に よる もので、物証 は何 もな
か った。 その傍証 とは、以下 のよ うな ものであ った。
(1)Aの 隣家 であるCの 居宅 には、 Bと 内縁関係 にあるDの 名義 で50万 円の火災
保険 がか け られて いた。
(26)『 静岡新聞』 1951年 9月 13日 付。
(27)丸 正事件 については、 と くに田中二 郎 ほか編『 戦後政治裁判史録』第 2巻 (第 一 法規出
版、 1980年 )、 家永三郎 ほか編『 正木 ひろし著作集』第 3巻 (三 省堂、 1983年 )を 参照。
静向法務雑誌 第6号
(2014年 3月
)
(2)Bら は「被害者 Aは 、同夜、 B宅 に遊びに出かけ、午後 8時 頃火種 を貫 って
帰 った」 と言 い触 らして いた。
(3)火 を放 った箇所 は C宅 に接 して計画的に行われていた。
(4)火 災後 Bが 家人 その他 に対 し「保険会社 か ら人が調 べ に くるか らその まま手
をつ けずにおけ」 と言 って いた。
(2)(4)は 放火事件 と被疑者 を直接結 びつ ける事実 とはいいがたい し、 (3)は たんな
る憶測 にす ぎない。警察 はもっぱ ら(1)の 事実 だけを傍証 に して、《
保険金詐取 を 目的
に、 Bが Aを 殺害・ 放火 した事件》 とい う構図を描 いたと考 えて間違 いないだろう。
いったんで きあが って しまうと、 この構図 は一人歩 きを始 める。 たとえば被害者 Aの
シャツのポケ ッ トに千円近 い百円札 の東が残 っていた ことについて、警察 は、 自 らの
構図 に即 して こう解釈 した。
「 Bが 同夜 Aに 放火 の相談 を持 ちかけて (千 円近 い金を)
先渡 したが指酢 られ、生か しておけば面倒 と殺 した」、 と。 これは物証 も自供 もない
段階 での見立 てであった。
ところが驚 くべ きことに、静岡警察署長 はこの段階で早 くもこう断定 した。「
のい
の割出 しはすでに成功 した。
・・、升 日中には解決 の見通 しがつ く」、 と (20。 署長`E人
う「解決 の見通 し」 とは、警察 が見立 てた事件 の構図 に従 って、間 もな く被疑者 が 自
E行 一
供す るだろうとい う見通 しであ った。実際、被疑者 Bは 、31日 午後 5時 頃、「る
切 を 自白」 した。
か くして翌 日の新聞 は、
「 静岡市殺人放火事件解決/B遂 に口を割 る/静 岡署天晴
れス ピー ド検挙」 との大見出 しをつ け、被疑者 Bの 自供内容 を次 のよ うに報 じた (□
は判読不能 の文字 であることを示す)。
最初一万五千円の貸金 の催促 を したと ころ、 Aが 「明 日にな った ら返 してやる」
と咬呵 を切 った ことか ら遂に口論 とな り、 Bが「 この恩知 らず」 と罵倒 したため
□□ の喧嘩 とな り、 カツとした Bは 夢中で□□ の丸太棒 で Aの 頭部 を殴打 して殺
害 したが、 その処置 に困 り、 Aが あたか も失火 で焼死 した如 く見せ るため死体 に
枕 をあてが い布団 を冠せ、 ¨・ マツチで放火 し、毒 (を )食 わば皿 まで と火災保
険金 の詐欺 を思 いついた もので ある (29)
しか し、被疑者 が 自供 したにもかかわ らず、 その後 の捜査 は混迷 の度 を深 めてい く。
2月 2日 に静岡地方検察庁 に送 られた Bは そこで否認 に転 じ、 その後 の取調 で も否認
を続 けたか らである。他方、兇器 (丸 太棒)な どの物的証拠 も一 向 に発見 されなか っ
た。 そのため、勾留期限満了 を 目前 に控 えた 2月 10日 、検察 は Bを 釈放 して しま った。
その理由について、静岡地検 の白神検事正 は、次 のよ うに語 った。 すなわち、警察 で
8
2
9 2
以上 は、
「 静岡新聞』 1948年 1月 31日 付 による。
『静 岡新聞』 1948年 2月 1日 付。
0
静岡法務雑誌
第 6号 (2014年 3月
)
の Bの 自白を辿 ってみると、「 保険金 と殺人 が結 びつ かぬ ものが あ り、 それに肝 心 の
物的証拠 が全 然無 い」、警察 は「貸 し金 を催促 して反抗 したか らカツとなって丸太棒
で撲 り殺 した」 とい うが、「一 万五千円 の金を貸 してある男 を殺 して しま ったでは金
が取 れな いではないか」、 と (30)。 このよ うに検察 は、物証 がない うえ に被疑者 の 自
白内容 にも合理性 がないと判断 した。警察 の捜査結果 は全面的 に否定 されたのである。
ところで、被疑者 Bは 、 なぜ警察 の捜査段階で 自白 したのか。 この点 について、 B
は新聞記者 との間で次 のよ うなや りとりを行 っている。
【問】君 は一度 は っきりと自白 して いるが ?
【
答】 いつ まで も水掛論 を続 けていては取調が永 びき聴取書 も出来ないか らうそ
の 自白を したのだ、裁判 になった ら本当 のことを いお うと思 った
【問】や らなか ったのな ら何故最後 まで頑張 らなか ったか
【
答】 ご う問 されてはとこわ くなって嘘を言 ったのだ (31)
これによれば、本件 の場合、実際 に拷間が加 え られたわけではな く、被疑者 自身が
拷問へ の恐怖心か ら警察 に迎合す る姿勢 をとったといえそ うである。 そこに警察側が
見立 てた事件 の構図が押 しつ けられ、
「 裁半1で 本当 の ことをいえ ば いい」 と安易 に考
えた被告人 がそのまま「 自供」 に至 ったとい う経緯 のよ うである。 しか し、前述 のよ
うに、 その供述内容 は検察 さえ納得 させ られな い ものであ った。
さて、被疑者 Bを 釈放 した後 も、警察 はあ くまで Bを 真犯人 と見 な し、 もっば ら傍
証固 めの捜査 に励 んだ。 その ようななか、地元新聞 は警察 が蒐集 した傍証 12点 につい
て詳 しく報 じた (32)。 以下、参考 までにそのなかのい くつかを紹介 してお こう。
(1)火 災 の あ った 1月 29日 か ら約 10日 前、 Bは Cに 対 して「 火事を起 こ しそ うだ
か ら荷物 を俺 の家 へ運 んでお け」 と語 って い る。
(2)火 事 の前 日、 Bは 、世間へ知れ ぬよ うに戸を締 めて荷造 りし、子 どもに 自宅
へ運ばせている。
(3)1月 28日 午後 8時 頃、 Bは 自宅 を出て約 1時 間 くらい帰宅 しなか った。
(4)Bは 同時刻 に毎夜行 くC宅 へ は顔 を見 せず、 ア リバ イが成立 しない。
5)火 災 が納 ま った後、 Bは 近所 の人 に「 お騒 がせ してすまぬ」 と言 い、夜 が明
〈
けて も謝罪 して歩 いた。
(6)1月
29日 、 Bは 朝早 く保険会社 を 2ヶ 所訪 れ、火事 にな った ことを告 げ、
「人 が焼 け死んで い る」 と話 して い る。
これ ら傍証 とされる ものを見 て も明 らかなように、 この段階 に至 って も、警察 は、
『 静岡新聞』 1948年 2月 12日 付。
『静岡新聞』 1948年 2月 12日 付。
『静岡新聞』 1948年 2月 18日 付。
静岡法務雑 誌 第 6号 (2014年 3月
)
被疑者 と犯行 を直接結 びつ ける物証を何 も得 ることができなか った。結局、警察 の捜
査 はいたず らに傍証 の数 を増やすだけで、何 ら事件 の核心 に迫 るものではなか った。
そのため、捜査 は間 もな く頓挫 せざるをえなか った。
警察 の捜査が再開されるの は 6月 に入 ってか らであ った。 6月 3日 、 Bは 任意 出頭
の形 で警察 による再取調を受 ける ことになった。 そ して、 これ と前後 して、検察 も関
係者 の取調 を開始 した。 つ まり、今回 の捜査 は警察・ 検察合同で行 われたのである。
2月 10日 被疑者 Bの 釈放 によ って生 まれた警察 と検察 の軋蝶 は、 このときまでにはす
でに解消 されて いたようである。 ここで注 目 したいのは、警察・ 検察合同捜査 の基本
が傍証固 めに置かれていたことである。 なぜ、 こうな って しま ったのか。 この間 の事
情 を静岡署 の堀内捜査課長 は次 のよ うに語 った。
(警 察 は)Bに 対す る犯罪容疑 は必ず成立するとの確信 で取調 べを進 めている、
火災 を伴 った殺人事件 とて火災 と消火 で当時現場 は極度 にごったがえ し、科学的
証拠 の採取 が困難 で、傍証 に基 くことが 自然多 いので、 これによって証拠足 らず
と措置 され る場合、県都治安 に及 ぼす影響 も大 きいので、全力 をあげてお り、
(33)
(そ の ことを)検 察当局 も理解 された ことは何 よ りもうれ しいことだ。
要 す るに、 2月 の時点 では物証 がない、 自供 にも合理性 がないとして被疑者 を釈放
した検察 であ ったが、 い まや その原則的立場を放棄 し、 B犯 行説 だけでな く、傍証中
心 に立証す るとい う点 で も、警察 に完全 に同調 して いた。警察・ 検察 の合同捜査 は こ
うして実現 したのである。
その後、警察・ 検察 の捜査 は、殺人放火 だけでな く、横領、脅迫、同意堕胎罪 の被
疑事実 を加 えて起訴 に至 った。殺人放火 だけでは物的証拠がな く、有罪 の立証 も困難
であったため、余罪 を追及 して併合罪 で有罪判決 に持 ち込 もうとい うのが警察 。検察
の作戦 であった。 いわば合わせ技 で一本 をね らうとい うやり方 である。 そ して、本件
は、 9月 6日 、静岡地方裁判所第 1号 法廷 で第 1回 公判 が開廷 された。公判では、足
立達夫、池 ヶ谷信一、中 田駁郎 04)ら 静岡県内の有力弁護士が弁護人 として立 ち、無
罪論 を展開 した。 しか し、翌 1949(昭 和24)年 3月 9日 、静岡地裁は検察側 の求刑 の通
り死刑判決 を言 い渡 した
(そ
の後被告人 Bは 控訴 したが、確定判決 の詳細 は不明 であ
る)(35)。 かっては検察 でさえ、物証 が存在 せず、 自白 も合理性 がない と認めて いた事
件 がわずか 1年 余後 には死刑判決 とな って しまった。 それは決 して確実 な証拠 が得 ら
れたか らではな い。兇器 などの物証 は最後 まで発見 されなか った。
め
の
『静 岡新聞』 1948年 6月 5日 付。
各弁護人 の略歴 について は、拙稿「 静岡県代言人・ 弁護士人名一覧」、
『 静岡県近代史研
究』第24号 、1998年 10月 、参照。なお、
「法制史の部屋」(http://wWW
「一覧」最新版は、
geOcities ip/jlShashi/1ink/SiZuOka zalya hosO html、
『 静岡新聞』 1949年 3月 10日 付。
)に
掲 幸出し て い る 。
静岡法務雑誌 第 6号 (2014年 3月
)
これ までやや詳 しく放火殺人事件 の顛末 を述 べてきたの は、当時 の 日常的な捜査手
法 を確認するためで あ った。 この事件 における捜査 のあり方 は、当時 としては別段特
異 な ものではなか った。本件 では、幸浦事件 など著名 な冤罪事件 と異な り、捜査機関
が拷問 などで虚偽 の 自白を強制 したわけで も、証拠 をねつ造 したわけで もない。被告
人 に有利 な証言 を した証人 が偽証罪 で逮捕 されたわけで もな い。 その意味 で ご く日常
的 な刑事事件 であった。 しか し、 そ の 日常性 のなかに、 きわ めて本質的 な問題点―
冤罪 を発生 させ る構造的要因――が はらまれていたのである。
当時 の警察 にとって、傍証 によって事件 の構図を描 いて被疑者を特定 し、被疑者 の
身柄 を拘束 した後 は、 その構図 に従 って 自供 に追 い込む とい うのが通常 の捜査手法 で
あ った。 しか し、事件 の構図 の描 き方 は、往 々に して恣意 的かつ独断的 な ものに陥 り
がちである。 それゆえ、事件 の構図 が事実 に反す る場合 で も、被疑者 はその構図 に沿
う形 で 自供 を迫 られ る。 そ こに虚偽 の 自白を強制 される危険 が存在 した。 もちろん、
捜査 の結果、何 も物証が得 られなければ、警察 は新 たな事件 の構図 を描 き直せばよい
のだが、実際 はそれ とは逆 に、捜査機関が 自らの構図 に固執 し、物証 を軽視 して、傍
証 だけで強引 に起訴 に持 ち込 もうとす る場合 が見 られた。本稿 で取 り上 げた放火殺人
事件 はまさにその典型例 であった。 い うまで もな く、幸浦事件 などの著名 な冤罪事件
もこのよ うな構造的要因 によって生 み出 された ものである。
5
検察 と裁判所 のチェック機能
日本国憲法 の精神、新刑訴法 の趣 旨か らいえば、傍証頼 みの捜査・ 起訴 は原則的 に
許 されない。 それゆえ、前述 の放火殺人事件 では、検察 は当初警察 の捜 査 の あり方 を
チ ェ ックしよ うとして いた。 しか し、すでに見 たよ うに、 そのチ ェ ック機台ヨま瞬 く間
に消 え失 せて しまった。 なぜ、 このよ うな ことになったのだ ろうか。
これに関連 して、当時、地元新聞が興味深 い記事を掲載 した。 それは、冤罪事件 の
一 つである二俣事件 が1951(昭 和26)年 9月 29日 に東京高裁 (控 訴審)の 判決言渡 を迎
えるにあた り、検察批判 の世論 を意識 した最高検察庁 が異例 の声明を出そ うとして い
ると報 じるもので あ った。 それによれば、「声明書 の内容 は今 の ところ判明 しな いJ
が、以下 の諸点 を強調す るものになるだろ うとい う。
第 一 に、「 いわゆ る民主的刑法」 には「 はっき り犯人 と判 って い るもので も釈放
し、害毒 を流Jす とい う欠 陥がある。
第二 に、
「 人権を尊重 し科学捜査 によ って犯人を摘発す る」 ことにな ってい るが、
「 科学捜査一本 でゆ く機構・ 機能 が整備 されて いない」。
第二 に、「 物的証拠 は もちろん最重要 であるが、情況証拠、心的証拠 も軽 くみる
ことが 出来 ないJ。
第四 に、
「 このよ うな状態で は『 証拠 がな ければ よいではないか』 とい う考 え方
13
静岡法務雑誌 第 6号 (2014年 3月 )
を 助 長 し犯 罪 を 増加 させ るお それ が あ る」。(36)
この記事 によれば、最高検 自体 が傍証頼 みの捜査 を積極的 に擁護 しよ うとしていた
ことになる G7)。 傍証頼 み の捜査手法 に依存 し、物的証拠 に基 づ く科学捜査 に徹する
意思を持 ち合 わせて いないとい う点 で、検察 は警察 と一体 の存在 であ ったといわざる
をえない。 そ うであれば、検察 のチ ェ ック機能 など望むべ くもないだろう。
それでは裁判所 はどうか。裁判所 は、警察 。検察 の捜査手法 をチ ェ ックして いたの
か。前述 の放火殺人事件第一審判決 が言渡 された直後 の1949(昭 和24)年 3月 18日 、静
岡市 内で16戸 の民家 を灰儘 に帰す とい う放火事件が発生 した (38)。 この事件 を一 つの
事例 として考察 してみよう。本件 も物証 がな く、 しか も被告人 は徹頭徹尾犯行を否認
して いた。 にもかかわ らず、検察 はここで も保険金詐取 を 目的 とした放火事件 とい う
構図 を見立 て、起訴 に及 んだ。 しか し、 5回 の公判 を経 たところで、静岡地裁 は (公
判途 中 にもかかわ らず)被 告人 の保釈 。出所 を許可 した。物証 もないなか、
「 新刑訴
法下被告 (人 )を いつ まで も未決 につないでお くことも人権尊重 の趣 旨にそむ くとい う
見地 か ら」 というのがその理 由であ った。当時 としては、 きわめて異例 な決定 で あ っ
た。
しか し、 これを不満 とす る検事 の指揮 の下、同年 9月 26日 、釈放 された被告人 を詐
欺罪 の容疑 で静岡署 に逮捕 。勾留 した。検察側 の意図 について、地元新聞 は、 この逮
捕事実 を もって被告が金 に困 っていたこと (放 火 の動機)を 立証 し、 さらに他 の余罪
の有無 も調 べて併合審理 を求 める意向であるらしい と報 じた。 このときの検察 の主張
は、「 た とえ物的証拠 はな くとも、 当時 の状況証拠 で行 くよ り以外 に手 がな く、 あの
程度 で Aを 被疑者 と決定 しなければ、放火 は現行犯以外永久 に検挙立件 は覚束 ない」
とい うものであ った。 しか し、別件逮捕 の翌 日27日 に地検が被疑者 の勾留請求 を行 っ
たところ、地裁 は「 被疑者 に証拠隠滅 の恐れはな く、 したが って勾留尋間 の必要 はな
い」 として請求 を認 めず、被告人 を釈放 して しまった (39)。
このよ うに裁判所が物的証拠 を重視す るとい う原則的立場を とる限 り、検察・ 警察
の捜査手法 を一定程度 チェックすることは可能 であった。実際、 この時期、裁判所 が
(36)『 静岡新聞』 1951年 9月 18日 付。
(37)な お、最高検声明が実際 に発 表 されたか否かは現時点で未確認 である。 なお、聞蔵 Iビ
ジュアル「朝 日新聞縮刷版 1879∼ 1989Jを 「最高検」 で検索 したが、該 当す る記 事 は見
出せなか った。
(38)以 下 は、
『 静岡新聞』 1949年 9月
(39)『 静岡新聞』 1949年 9月 28日 付。
14
27日
付 による。
静岡法務雑誌 第 6号 (2014年 3月
)
検察 の令状請求 を認 めなか った り ④)、 無罪判決を下す (41)の は決 して珍 しいこ とで
はなか った。 しか し、 そ うした事例 は一部 にとどま り、全体 としてみれば裁判所 が有
効 なチ ェ ック機能を発揮 していたといいがたいことは、数多 くの冤罪事件 の発生 によっ
てすでに証 明 されてい る。
Ⅲ 人権擁護行政一人権侵犯事件 を中心 に
1
人権擁護行政 の開始
新憲法 の人権理念を具体化するために新 たに人権擁護行政が開始 された ことは重 要
である (42)。 それは、被疑者 。被告人 の人権侵害をは じめさまざまな人権侵害事件 が
発生 した とき、 裁判所 だ けでな く行政機 関 による救済 も図 ろ うとす る もので あ っ
た (43)。 それゆえ、人権擁護行政 の充実 いかん は、人権 の定着度 を大 きく左 右す る間
題 であったといってよい。
(40)ち なみに、戦後、 日本国憲法第64条 第 1項 に基 づいて裁判官弾劾裁半1所 が設 け られたが、
そ こに最初 に訴追 され たの は静 岡地方裁判所浜松支部 の天野判事 であ った (訴 追提起
1948年 7月 1日 、
判決宣告 1948年 11月 27日 、判決 は不罷免 )(裁 判官弾劾裁判所事務局・
裁判官訴追委員会事務局編『 裁判官弾劾制度運営二十年』両事務局、 1967年 、76頁 以下)。
天野判事 は、当時、検察 の逮捕状請求 を却下す るなど、検察側 に厳 しい態度 で臨 んでい
た人物 である。 それだけに、 この弾劾事件 は検 察 が些 細 な事 由を取 り上 げて同判事潰 し
のために仕組 んだ ものではなか ったか。当時か らそ うい う疑念 が囁 かれていた (た とえ
ば『 静岡新聞』 1949年 2月 27日 付 )。 た しかに、当時、同判事 の訴追 に当 たった地検浜松
支部検事 自身、
「天野判事 はつ ま らぬ ことに枝葉をつ けて しゃべ り、警察官 が逮捕状 の請
求 の時誤記 あるい は要件 を書 き落 としていると逮捕状 は出 さぬ とい う形式主義 であった」
(『 静岡新聞』 1949年 2月 27日 付 )と 批判す るなど、天野判事 へ の敵意 を隠 そ うとは しな
か った。裁判官弾劾裁判制度 について は、httpブ /WWW dangai gojp/index html(最 終
閲覧2014年 2月 8日 )も 参照。
(41)た とえば浜松簡易裁判所 は、 1948年 11月 に発生 した 自転車盗難事件 について、被告人 の
現場不在証明 がなされ、証拠不十分 として無罪判決を下 した。 しか し、同判決 はそ の後
検事控訴 がなされた 0日 刑訴法 による静岡地裁最後 の控訴審)。 控訴審担当検事 は原審判
断 の根拠 となっていた証人 の証言 を潰 して いった。 その結果、 1952年 3月 19日 、静岡地
裁 は懲役 10ヶ 月 の有罪判決を下 した (『 静岡新聞』 1952年 3月 20日 付)。
(42)人 権擁護行政 の歴史 については、法務省人権擁護局『 人権擁護 の二十年』 (法 務省人権擁
護局、 1968年 )な ど参照。
(43)「 公務員 の職務執行 にともな うもの以外 の私人間 の人権侵犯事件 について も、 自由人権協
会 や弁護士会 などの民間機関 の ほかに、裁判所以外 の国家機関 が直接 にその解決 にの り
だす とい うのは、諸外国 に類例 の少 ないまさに日本的特色 であるといってよい」 (潮 見俊
隆「 日本 における人権侵害事件 の実態 とその処理状況」、東京大学社会科学研究所編『基
本的人権 2・ 歴史 1』 東京大学出版会、 1968年 、254頁 )。
15
静岡法務雑誌 第 6号
(2014年 3月
)
最初 に、人権擁護制度 の確立過程 につ いて確認 してお こ う。 1947(昭 和 22)年 12月 17
日、法務庁設置法 は、行政府内 にお け る「 一元的 な法務 に開す る統 轄機 関Jと して法
務総裁 を設置 し、 そ の統轄事項 の一つ として「 人権 の擁護 Jを 掲 げた。 そ して、翌年
2月 15日 に法務総裁下 の担 当部局 と して人 権擁護局 を設置 した
(な お、 法務庁 は、
1949年 5月 に法務府、 さ らに1952年 7月 に法務省 に名称変更)。 人権擁護局 の所掌事
項 は、 (1)人 権侵犯事件 の調査・ 情報収集、 (2)民 間 における人権擁護運動 の助長、
4)貧 困者 の訴訟援助 な どであ った。 これが戦後 日本 にお け る人権擁
(3)人 身保護、 く
護行政 の晴矢 である。
1948(昭 和 23)年 7月 17日 人権擁護委員令 は、「 法務総裁J管 轄 の人権擁護事務 を補
助す るため、各都道府県 に人権擁護委員 を設置 した。委員 の定数 は全 国 で150名 であ っ
た (同 年 12月 末 の段階 で実際 に委 嘱 を受 けたの は67名 )。 そ して、 翌 1949年 5月 31日
人権擁護委員法 は、人権擁護委員制度 を抜本的 に拡充 し、 2万 人 を超 えな い範囲 で全
国 の市町村 に人権擁護委員 を配置す ることとした。同法 によれば、人権擁護委員 は法
。
務総裁 の委嘱 によ って任命 され (任 期 2年 )、 (1)自 由人権 思想 の啓 もう 宣伝、 (2)
民間 にお け る人権擁護運動 の助長、 (3)人 権侵犯事件救済 のための調査・ 情報収集、
法務府人権擁護局 へ の報告、 関係機関 へ の勧告等、 (4)貧 困者 へ の訴訟援助 な ど、 を
その職務 と した。 こ うして、 《
法務総裁 (→ 後 に法務大臣)一 人権擁護局―地方法務
局一人権擁護委員》 とい う人権擁護行政 の ライ ンが形成 された。
2
行政府 の人権概念
人権擁護行政 を開始す るにあた り、当時 の行政府 (法 務庁→ 法務府→ 法務省 )や 立
法府 は人 権概念 をどのよ うに理 解 して い た のだ ろ うか。法務庁設置法案 の国会審議 過
程 を見 ると、担当大 臣 である鈴木義男司法大 臣 は、人権擁護局 の業務 につ いて、 ある
ときは「行 政各部 において人権蹂踏等 の事実 が・ …あつ たな らば敏活 に これを調査 し
て現状回復 を図 る」。4)の が主 たる仕事 とい い、別 の箇所 で は「 決 して官庁 だ けが人
・
・良商尚主をもヾらなら程莉ヾ名誉ご信角年を侵善せ
権を蹂躙するのではなくして。
られ、或 いは侵害 の脅威 にさらされ るとい うよ うな場合 もある」 ので、「 そ うい うも
の をむ しろ守 つてやるとい う方面 に力を注 ぎたい」 と述 べ て い る (45)。 要す るに、法
務庁設置法案 が前提 とする人権概念 は、国家 (行 政機関 など)に よる国民 の人権蹂躙、
個人 と個人》 の
「民間同士J、 すなわち 《
す なわち 《国家 と個人》 の問題 だけでな く、
問題 も含 む ものであ ったといってよい。
参議院決算・ 司法連合委員会会議録 1947年 12月 3日 、 5頁 。引用 は、国立国会図書館
「国会会議録検索 システム」 (http://kokktt ndl go jp/)に よる。
参議院決算・ 司法連合委員会会議録1947年 12月 3日 、6頁 。
16
静岡法務雑誌
1
表
b
d
f
内
h
も確認す る ことがで き
容
居住 権 侵 害
正 当 な理 由が な いの に、 家 主 が店 子 を追 い 出 した り、 この ため に居 住
の邪魔 を した り、 無 理 に他 人 の 家 に侵 入 した り居座 って 、住 ん で い る
人 を困 らせ た りす る場 合、 そ の他 ラ ジオ や動 力 に よ り騒 音 を立 て他 人
のEIIに 迷 惑 をか けた場 合
強制 圧 迫
不 良顔 役 の ゆす り、 か た り、工 場 にお け る工 員 の強制 労 働、土 木 工 事
飯場 の 強制 労働 、 曲馬団 や劇 団 の 酷 使 、 強制 寄付 (祭 ネしの とき、 消 防
団 へ の謝礼 、 PⅢ ヽの 会 費、 新 しい転 ス諸 の 村 入 り金 )、 強制離 転 継
子 い じめ、嫁 い じめ、 老 人 い じめ等 の場 合
生 活 権侵 害
当然 貫 う権利 のあ る給 料 や賃金 の 不 払・ 遅 払 、労 働者 が災 害 を受 けた
り失 業 した場 合 の保 険金 鰤 寸の不 当措 置 な どの場 合
暴力行為
や くぎや暴 力 団 に乱 暴 され た り、 物 を壊 され た り した 場 合、 自由労働
者 の 戦 よ こせ デモで 乱暴 され た な どの場 合
人 身売 買
鉱 山や工 場 や料 理 屋 が前 借 を貸 して他人 の 自由 を 縛 るな どの場 合
不 法監 禁
脳病 院 の 不法 監 瓢
監 禁 な どの場 合
名 誉信 用業 務 侵 害
飯場 の人 夫 の 不 法監 禁 、特 殊 喫茶 店 の 雇女 の 不 法
他 人 よ り信 用 名 誉 や商 売 にケ チ をつ け られ る よ うな事 を 言 い触 らさ
れ た り、行 われ た り、 され た 場 合
公 権 力 御 吏に よ る侵 害
特 別 公務 員 の 職 権濫 用
特 別 公 務員 の 暴 行 陵辱
※特 別公 務 員 とは、 刑 法 194条 に掲 げる公務 員 、 すなわち「 裁 判 、 検 察
若 しくは警 察 の戦務 を行 う者 又 は これ らの職務 を補 助す る者 Jを い う。
k
一 般 公 務員 の 競 権濫 用
※一 般 公務 員 とは、特 別 公務 員 で な い者 を い う。
l
そ の他
離縁 離婚 、 借地 借 家、 都 市 計 画、 農 地 改革 、 不 当解 雇、 債権 債務 な ど
にか らむ事 件
人》 の問題
る。実際 に地 方法務局
が人権侵犯事件 と して
受理 した事件 に着 目す
ることで、制度化 され
た人権概念 を読 み取 る
ことがで きるか らであ
る。表 1は 、静岡地方
法務局 が1950年 7月 か
ら翌 年 6月 まで の間 に
受 理 した人 権侵犯 申立
事件 の分類項 目を整理
した もので ある。 ここ
か ら明 らかなよ うに、
出典 )1951年 7月 15日 付 県政 だ よ り第 36号 よ り作 薦
人権擁護行政 に い う人 権 は、《国家 と個人》 の問題
)
これは別 の角度 か ら
人権侵犯受理事件 の種類
分類 項 目
第 6号 (2014年 3月
(h∼ k)だ けでな く 《個人 と個
(a∼ g、 1)も 含 む もの であ った。 このよ うな人 権概念 が採用 され るに
至 った経緯 について は、近年 の研究 の進展 に もかかわ らず、 い まだ十分 に解明 されて
はい ない (46)。 今後 の課題 と したい。
ここで改 めて概念整 理 を してお こ う。前述 の よ うに、人 権 とい う概念 を 《
国家 と個
人》 の 問題 だ けでな く 《
個人 と個人》 の問題 も含 む ものと して用 い る場合 は、以下、
これを広義 の人権 とい うこととす る。戦後人権擁護行政 の特徴 の一 つ は、広義 の人権
概念 を採用 していたところにある。
しか し、周知 のよ うに、戦後憲法学 は憲法上 の人権 を も っぱ ら 《国家 と個人》 の問
題 と して措定 し、 それを前提 に「 人権 の私人間効力」 などの問題 を議論 して い くこと
にな る。 その 出発点 と もいえ る記念碑的著作 が宮沢俊義『 憲法 Ⅱ』 (有 斐閣、 1959年 )
であ った。宮沢 は、今 日の人権 は 自由権 。参政権 。社会権 をそ の内容 とす ると述 べ た
うえで、「 自由権 。参政権 または社会権 は、 いずれ も人 がそ の所属す る (ま たは、 そ
の関連 す る)国 家 に対 す る関係 にお い て有 す る権利」(47)と 説 明 した。宮沢 が述 べ る
ように、 もっぱ ら 《国家 と個人》 の 問題 と して人 権概念 を用 い る場合 は、以下、狭義
(46)と くに出 回雄一「 草創期 の人権擁護局―戦後 日本 の人権擁護政策 の始 ま り」、『 人権 のひ
ろば』 13巻 3号 、 2010年 、同「 人権擁護委員法 の制定過程 とカ ー ト・ ス タイナー」、
『人
の
権 ひろば』 13巻 6号 、 2010年 、参照。
(47)宮 沢俊義『 憲法 Ⅱ
(法 律学全集 4)』 (有 斐閣、 1959年 )86頁 。
17
静岡法務雑誌 第 6号 (2014年 3月 )
の 人 権 と表記 す る。
このよ うに1950年 代 とい う戦後最初期 か ら、行政府 (人 権擁護行政)は 広義 の人権
概念 をとり、憲法学界 は狭義 の人権概念を とるとい うよ うに、二つの人権概念 が理念
的 に並存す る状況 にあ ったとい う事実 にまずは注 目 しておきたい 。8)。 (49)
3
人権擁護行政 の実態 と「 二重基準」
次 に、 1950年 代 の人権擁護行政 の実態 について、 お もに統計資料 を用 いて確認 して
みた い (50)。 表 2に よれば、全国 の人権侵犯事件新受件数 は一貫 して大 きな伸 び率 を
示 して いる (1954年 を指数 100と す ると61年 286)。 これに対 して静岡県 は、50年 代前
半 にめざま しい伸 びを見 せた ものの (50年 100→ 54年 340)、 その後 は鈍化す る傾向 に
ある (54年 100→61年 169)。
表2
覇ヽ遵
全
国
静 岡県
1956
1954
1950
//
人権侵犯事件新受件数 の推移
12880
/
lm
//
//
1959
42287
48906
60523
Z.060
2160
3723
3244
3222
5"
“
2,231
1960
111638
2,024
121,019
2,917
注 1)1951年 と1952年 の 2ヶ 年 (僣 岡県分)は 1月 から11月 までの集計件数である。
山メ0195群 5月 3日 ●に 1952年 5月 4
全国の人権侵犯事件を「公務員 による人権侵犯Jと 「非公務員 (一 般市民)に よる
人権侵犯」 に分 けて整理 したものが表 3で ある。 ここで注 目 したいの は、第一 に、新
受件数 の圧倒的部分 は「非公務員 による人権侵犯」 の申立であったとい うことである。
(48)法 哲学者・ 井上茂 は、次 のよ うにいう。「 法 の実際 において『 権利』 とは法的権利
(「
制
度的 に確立 された実定的権利」 ―橋本 )に つ きるとい うような限定 はとれないのが事実
である。実生活 の諸分野 で法的権利 いがいの意味で『 権利 を もつ』 とい う主張や行動 が
とられている事実 は、社会生活 の体験上無視 で きないことであ り、社会 の制度 として も
軽視す ることはゆるされな い。」 (井 上『 人権叙説』岩波書店、 1976年 、 123頁 )。 ここに
い う「権利」 は「人権」 と言 い換 えて もかまわないだろ う。 なお、人権概念 が「 法的権
利Jに とどまらず、社会的 に多様 な意味 で用 い られて いることについて、武田清子編集・
解説『人権 の思想 (戦 後 日本思想大系 2)』 (筑 摩書房、 1970年 )な どを参照。
(49)他 方 で、 1950年 代 の 日本人 にどの程度人権 意識 が浸透 して いたのか という点 について は、
前掲・ 潮見俊隆「 日本 にお ける人権侵害事件 の実態 とその処理状況」 を参照。
(50)こ の問題 に関す る先行研究 として、前掲・ 潮見「 日本 における人権侵害事件 の実態 とそ
の処理状況」がある。 ただ、同論文 はお もに1960年 代 の人権侵犯事件 を分析 した もので
ある。
18
静岡法務雑誌 第 6号 (2014年 3月 )
第二 に、「 公務員 による人権侵犯」 の申立件数 は年 々減少 して いった (54年 100→ 61年
50)。
同 じく静岡県 について見 ると (表
4)、
全国 と同様 に新受件数 の圧倒的部分 は
「非公務員 による人権侵犯Jの 申立 であ った。他方、
「 公務員 による人権侵犯Jの 申立
件数 は、全国 に比 べ ると減少幅 はさほど大 き くはない (54年 100→61年 74)の が注 目
される。
表3
年次
項目
1950
特 別公 務 員 に よ る侵 犯
757
12113
非 公務 員 に よ る侵 犯
合
1952 1 1953
/´
1951
そ の他 公 務 員 によ る侵 │ロ
人権侵犯事件新受件数 (全 国)
´
´
´
´
し
/
/´
///し /´
/´
///
´´
/
ン
´
´
´´
´
´´
´
´
計
し
1954
1957
1958
411
1959
1001
485
411
325
413
425
379
41039
477'7
62701
73365
82695
100340
110934
120396
42,287
48,906
63.523
74,060
83593
101 145
111638
121019
出英 )1952年 5月 4日 付 静 岡新 聞、 法務 大 臣官 房 調 査課 統計 室 編『 昭 和 29年 法 務 統計 (1月 ∼ 12月 集 計 )』 法 務 省 、 1955年 、 同 編『 昭和 30年
法 務 統計 (1月 ∼ 12月 集計 )J法 務 省、 1956年 、 同編『 昭和 31年 法務 統 計 (1月 ∼ 12月 集 計 )」 法 務省 、 1957年 、 法務 大 臣官 房 司 法 法制
調 査部 調 査 統 計 課in『 昭和 3牢 法 務 統計 (1月 ∼ 12月 集 計 )J法 務 省、 1958年 、 同編 r昭 和 33年 法 務統 計 (1月 ∼ 12月 集 計 )』 法 務 省、
1959年 、 同編『 昭和 34年 法務 統計 (1月 ∼ 12月 集 計 )」 法務 省 、 1960年 、 同編 r昭和 35年 法務 統 計 〈1月 ∼ 12月 集 計 )』 法 務 省、 1901年 、
同 編 際 75登 記・ 訟務・ ′o催統計 年 報・ 昭和 年 J法 務 省、 1962年 、 に よ る。
“
表4
年次
項目
1953
特 別公 務 員 に よ る‐ E
非 公務 員 に よ る磁 E
合
//
580
1099
計
1%2年 分 は 1月 か ら11月
/
/
14
そ の他 公 務 員 によ る侵犯
わ
人権侵犯事件新受件数 (静 岡県)
/
1957
12
11
11
2137
3698
2,lω
1959
6
11
15
5
9
13
4
4
3.224
2206
2015
3244
2230
2,024
11
6
3636
2,917
3653
まで の集計数 で あ る。
4日 │
1月 ∼
『 昭和 35年 法 務 統計 (1月 ∼ 12月 集 詢
J法 務 省、 1961年
F昭和
法 務統
,省 、 1956年 、 同編 F昭和 31年 法 "年
務 統 計 (1
計 (1月 ∼ 12月 集 計 )J法 務 省、 1958年 、
(1月 ∼ 12月 集 計 )』 法 務 省 、 19ω 年 、 同編
`統
同編『 第 75登記・ 訟 務・ 人 権統 計年 報
昭和 36年 』法 務 省、 1“ 2へ によ る。
次 に、 と くに特別公務 員 による人権 侵犯事件 を ま とめた の が表
5(全 国)、
表6
(静 岡県 )で あ る。 この表 か ら明 らかなよ うに、特別公務員 による人権侵犯事件 は全
国的 には減少 す る傾向 にあるが (54年 100→ 61年 46)、 静岡県 について は (年 ごとに若
干 の増減 はあ るものの)大 きな変化 は見 られな い (54年 12件 → 61年 11件 )。 こと特別
公務員 による人権侵害 に限 って言 えば、静岡県 で改善 の跡 を認 め るのはむずか しいよ
うである。
19
静岡法務雑誌
第 6号 (2014年 3月
表5
)
特別公務員 による人権侵犯事件新受件数 (全 国)
年次
項目
1956
1954
警 察 官 に よ る侵 犯
逮 捕 に関 す る もの
97
勾留に関するもの
16
1967
1959
27
23
7
14
3
11
11
9
14
11
11
5'
64
53
31
89
66
90
6
2
2
捜 査押 収 に関 す る もの
自 白強 要 に関 す る もの
“
97
暴 行 陵虐 に関 す る もの
77
4
武 器使 用 に関 す る もの
4
1
そ の他
1
9
0
128
124
その他 の特 月1公 務 員 によ る侵犯
合
1960
40
0
77
71
59
380
計
出典)法 務大巨官房調査課統計室編『昭和29年 法務統計 (1月 ∼12月 集計)J法 務省、1955年 、同編『昭和30
年法務統計 (1月 ∼12月 集計)J法 務省、1956年 、同編 r昭 和31年 法務統計 (1月 ∼12月 集計)』 法務省、
1957年 、法務大臣官房司法法制調査部調査統計課編『昭和32年 法務統計 (1月 ∼12月 集計)』 法務省、
1958年 、同編 r昭 和33年 法務統計 (1月 ∼12月 集計)J法 務省、1959年 、同編 r昭 和34年 法務統計 (1
月∼12月 集計)J法 務省、1960年 、同編『昭和35年 法務統計 (1月 ∼12月 集計)J法 務省、1961年 、同編
『第%登 記 訟務 人権統計年報 昭和36年 J法 務省、1%2年 、による。
表 6 特別公務員 による人権侵犯事件新受件数 (静 岡県)
年次
項目
1%7
1956
1954
1959
1960
警笙 〓による侵犯
逮捕 に 関す る もの
2
1
O
0
1
1
0
勾 留 に関 す る もの
1
0
0
0
1
0
0
捜 査押 収 に関す る もの
1
0
0
0
0
0
0
0
自 白強要 に関 す る もの
1
2
1
1
1
3
0
2
新 陵虐に関するもの
3
2
1
2
3
1
0
2
武 器使 用 に関 す る もの
0
0
1
0
0
0
0
0
そ の他
4
7
7
3
4
8
2
5
0
0
0
0
1
2
3
2
10
6
11
15
5
その他の特別公務員による侵犯
合
計
0
注〉原資料では1956年 の合計数は11件 となっている0ヽ そこに記載されている内訳数を足すと10件 にしかな
らない。ここでは内訳数をそのまま記載 し、その合計数 を表示することとした。
出典)法 薔大臣官房調査課統計室編 r昭 和29年 法務統計 (1月 ∼12月 集計)J法 務気 1955年 、同編 r昭 和∞
年法蒻続計 (1月 ∼12月 集計)」 法務a195“ R同 編『昭和31年 法務統計 (1月 ∼12月 集詢 J法 務省、
1957年 、法務大臣官房司法法制調査部調査統計課編『 昭和32年 法務統計 (1月 ∼12月 集め J法 務省、
1958年 、同編『 昭和 年法務統計 (1月 ∼12月 集計〉
』法務省、
、同編『昭和34年 法務統計 (1
∼12月 集計)』 法務省、1961年 、同編
月∼12月 集識 』法務省、
""年
“ 1960年 、同編『昭和 年法務統計 (1月による
1962年
r第 75登 記・ 訟務 人権統計年報・ 昭和36年 』法務省、
、
。
“
さて、人権侵犯 の 申立がなされると、地方法務局 と人権擁護委員 は連携 して調査 を
行 う。必要 な場合 には、加害者 へ の勧告、被害者 へ の訴訟援助、人権擁護局 へ の報告
などが行 われた。警察・ 検察 による人権侵犯 が 申 し立て られれば、当然、彼 らが加 害
者 として地方法務局 の調査対象 とな った。静岡地方法務局長北川一松 は、 その間 の状
況を次 のよ うに述べている。
人権問題 で一番 よ く起 るの は統計表 で見 て も警察官 の人権侵犯 が一 番多 い¨・そ
こで私共 は人権擁護委員 をわず らわ して調査す ると、警察 の方 では人権擁護委員
とか法務局 とい うもの は悪 い者 の味方 ばか り して い る、良 い ものの味方 を しな い
といわれる (51)
やはり警察 などの反発 は大 きか ったようである。 しか し、《
人権擁護局―地方法務
(51)F静 岡新聞』 1952年 5月 4日 付。
20
静岡法務雑誌 第 6号
(2014年 3月
)
局一人権擁護委員》 の行政 ライ ンには、警察 。検察 の反発 を跳ね返 し、 さ らには人権
侵害 を生 み 出す構造的要因 にまで切 り込む だ けの力 =法 的権限 は与 え られて いなか っ
た。 当時 の国家権力構造 の中 で は、前者 は明 らかに後者 に対 して劣位 に置 かれていた
といえ るだろ う。
このよ うな関係性 のなかか ら、人権 をめ ぐる二重基準が容易 に生 まれて くる。 そ の
意味す ると ころを説明 しよ う。1951(昭 和 26)年 9月 、静岡地方法務局人権擁護課 に、
ある人権侵犯 の 申立 がなされた。 それによれば、同年 8月 下旬、静 岡市 内で頻発 して
い た梨泥棒事件 に備 え るため張 り番 に立 っていたA外 2名 が窃盗 中 の犯人 を 目撃 し、
それが近所 に住 む B夫 婦 であった と触 れ回 った。 そ の ため、 Bは 9月 に静 岡地方法務
局 に「 自分 は何 ら窃盗 しなか ったのにぬ れ衣 を着 せ られて弱 ってい る」 と申 し立てた。
担当事務官 らが調査 した ところ、 Bは 「今 まで盗犯 を した こと もな い上 、 Aの 証言 が
不明確 で、 しか も情況証拠 に過 ぎな い ことが判明 しJた ので、 Aか ら謝罪す るよ うに
して示談 を進 めた、 とい う(52)。
このよ うに地方法務局 は、情況証拠 だ けで他人 を犯罪者呼 ばわ りす るのは不当 (謝
罪 に値す る行為 )で ある、 と明確 に判断 した。 しか し、 この論 理がす べ ての事件 に適
用 されたわ けで はなか った。事 が刑事事件 にな ると、 た とえ捜査機関 が傍証頼 みの捜
査を行 って い ると公言 していて も、法務局 がそ うした捜査 の あ り方 を明確 に断ず るこ
とはなか った。一 般市民相 互 間 にお けるよ りも、捜査機関 が一般市民 に対 して情況証
拠 だ けで犯罪者 と断定す る方 が はるか弊害 が大 きいに もかかわ らず、 であ る。権力を
有す る加害者 に対 しては、人権問題 と して の追及が回避 され る。 これが人権 をめ ぐる
二 重基準 の問題 である。 このよ うな現実が存在す ることは、 すべ ての人間 に妥 当す る
こと (普 遍性 )を 本質 とす る人 権理念 の否定 にほかな らな い。
Ⅳ
人権啓発行政―静 岡県 の広報活動を中心 に
これ まで見 て きたよ うに、 1950年 代 にお ける人権問題 の中心 は、依然 と して刑事被
告人 (被 疑者 を含 む)の 人権問題 であ ったが、戦後 の人権擁護行政 はそれを救済 し是
正す るだけの力 を持 ってはいなか った。 しか し、人権擁護行政 には救済 とは別 の役割
も期待 されて いた ことを忘れて はな らな い。 それ は国民 に対 す る人 権啓発 (啓 蒙 。宣
伝 )で ある。国民 の人権意識 を高 め、権利 の担 い手 と して の 自覚 と知識 を向上 させ る
(52)『 静岡新聞』 1952年 5月 25日 付。
静岡法務雑誌
第 6号 (2014年 3月
)
ことは、憲法 の人権規定 を現実化す るうえで必須 の条件 である (53)。 その意 味 で、戦
後人権擁護行政 が人権侵犯事件 の救済 だけでな く、人権啓発 を 自 らの課題 としたこと
は高 く評価 されるべ きである。
人権擁護局―地方法務局一人権擁護委員》 の ラ
しか し、残念なが ら、 1950年 代 に 《
イ ンで どのよ うな人権啓発活動 が行 われて いたのかを実証的 に解明 しうる資料 を いま
だ見出 して いない。 そこで本稿 では、便宜的 に静岡県庁 の人権啓発活動 に関す る考察
を もってそれに代 えたいと思 う (そ れ もご く限 られた ものではあるが)。
ここで分析 するの は、静岡県 の広報紙「 県政 だより」 である。「県政 だよ り」 は、
1949(昭 和 24)年 5月 の創刊 当初 か ら人権 に 関 す る啓発記事 を頻繁 に掲載 して い
た (54)。 たとぇば「公民 の 自由」 というタイ トルの もと、言論 の 自由や黙秘権 などに
ついて連続的 に取 り上 げた (し か し、 1950年 代後半以降 になると、人権啓発記事 は広
「県政 だより」 は新刑訴法 に
報紙 か ら消滅 した)。 その うち黙秘権 を取 り上 げた回で、
よ って認 め られた黙秘権 について次 のよ うに説明 した。
父 の罪 をか くしたい、子 の罪 をか くしたいな らば、 自分 の罪 をか くしたいの は当
然 のことであ ります。 この人情 を無視 して、 自白を強要す るな らば、 そこには無
理にも言 わせたい とい うことか ら、強制 とか圧迫 とか拷間 とかがおこりがちであ
E罪 の被疑者 と雖 も、や は り人間 としての権利 と自由 とは守 らなけ
ります。 ¨・う
ればな りません。(55)
要す るに、《自分 (家 族)の 罪 を隠 した いとい う人情を無視 して 自白を強要す れば
拷間 を引 き起 こす。 それを防 ぐために被疑者 に黙秘権 を認めた》 という。罪 を犯 した
「 県政
人間 の ために黙秘権を認 めた と言 わんばか りの物言 い (56)に 示 され るように、
だよ り」 は決 して正確 とはいいがたい人権認識 を広報 して いた。 そ して、最後 の結 び
の部分 では県民 にこう要求 した。 すなわち、
公民 の 自由 (黙 秘権 のこと一橋本)が 悪 い人 の 自由に陥 らないよ うにす るために
「人権教育世界プログラ
たとえば国連人権高等弁務官事務所 (UNOHCHR)は 、現在、
ム」 (2004年 12月 国連総会採択、 http://wwW OhChr org/EN/1ssueS/EoucatiOn/
Training/Pages/PrOgramme aspx【 最終閲覧日】2014年 2月 17日 )に 基づき、15年 計
画であらゆる分野における人権教育を世界的に展開している。
以下、
「県政 だより」 の引用 は、静岡県『 静岡県広報紙 (縮 刷復亥1版 )』 第 1巻 (静 岡県
広報課、 1982年 )に よる。
「県政だ よ り」第 10号 、 1950年 2月 15日 付。
同様 の認識 は捜査機関 のなかに も見 る ことがで きる。 たとえば、 1952年 4月 15日 に警視
庁 で開催 された国家警察東京管区強力係主任者会議 で国警静岡県本部捜 査課 の池谷係長
は次 のよ うに発言 した。「黙秘権なるものが現在盛 んに使われて い るが、黙秘権 を使用す
るもの は重罪犯人 か、 あるいは深 い根 を もつ思想的政治的犯罪者 に多 いのは誰 も認 める
ところである」 (『 静岡新聞』 1952年 4月 16日 付)。
静岡法務雑誌 第 6号 (2014年 3月
)
は・¨一般国民 とい た しま して も証拠を尊 び、証拠 を重んず ることに協力すべ き
。・公民 の 自由 は簡単 に守 られるもの とばか りは限 りません。
だ と思われます。 ・
その前提 の一 として、国民 の合理的態度、科学的態度 も必要 なもの と思われるの
であ ります。
黙秘権 が「 悪 い人 の 自由」 に陥 らな いよ うにするためには、国民 (県 民)に も証拠
重視 の科学的態度が必要 であるとい う。 おそ らく「 県政 だよ り」 も、警察・ 検察 が 日
常的 に傍証頼 みの捜査 を行 ってい ることは十分承知 して いたと思われるが、 そ うした
警察・ 検察 のあ り方 を直接問題 にす る代わ りに (57)、 国民 (県 民)に 対 して科学的態
`
度 を要求 したので ある。
実 は、国民 (県 民)の 心構えや態度 の問題 として人権 を論 じるの は、
「県政だ よ り」
べ
の基調 ともい う き特徴であ った。 しか も、 それはもっぱ ら 《
個人 と個人 の問題》 の
レベルで論 じられて いた。次 などはその一例 である。
敗戦後、 自由社会 にふ さわ しい現行憲法 の制定 を見 たのであ りますが、 この憲法
について私 どもの考 えなけれ ばな らないことは、 この憲法 の個 々の内容 よ りも、
この憲法 に対す る私 どもの態度 であ ります。 ワイマール憲法下 にも ヒツ トラーの
ごとき独裁者 の生 じたことを思 うな らば、私達 は現行 の我 が憲法 に盛 られて い る
公民 の 自由について も、積極的 に之をもり育 ててゆ くことが必要 なので はないで
しょうか。今 は、 その一例 として言論 の 自由について考 えて見 ま しよう。 ¨。(58)
このよ うに憲法 に関す る知識 ではな く、態度 の涵養 こそが重要 であると述 べ たうえ
で、
「県政 だよ り」 は言論 の 自由を取 り上げ、村 の寄合や教員 の会議 などを例 に挙 げ、
そのよ うな場 で必要 なのは「 ご婦人 の勇気Jで あるとし、女性 に対 して「 卒直 に発言
しま しょう」 と呼 びかけた。
このよ うな「県政 だより」 の一定 の偏 りは記事 の選択 の仕方 にも現れていた。 たと
えば1950年 代 に著名 な冤罪事件 で被告人 の無罪 が確定 して も、
「県政 だよ り」がそれ
に言及 する ことはただの一度 もなか った。 その一方 で、 1952(昭 和27)年 5月 に静岡県
富士郡 上野村 (当 時)で 村 八分事件 (59)が 発生 した ときは、事件が表面化 して間 もな
い同年 7月 に静岡地方法務局長北川一 松 がさっそ く寄稿文「 村八分 について」 を寄せ
「 県政 だよ り」 は、 この点 について、
「 警察官、検察官 の方 々に一 層科学的捜査 に努力 し
ていただ くことの必要 は申すまで もあ りません」 と述 べ るにとどまる。
「 県政 だよ り」第 3号 、 1949年 9月 1日 付。
石川皐月『 村八分 の記 ―少女 と真実』 (理 論社、 1953年 )。 なお、本稿 では、武 田清子編
『 人権 の思想 (戦 後 日本思想大系 2)』 (筑 摩書房、 1970年 )所 収 の ものを参照 した。
静岡法務雑誌
第 6号 (2014年 3月
)
て い る (60)。 ま ことに対照的 な扱 いであ ったといえよう。
この ような心構 え論 ともい うべ き人権論 が紙面 を独占すれば、 せ っか くの人権啓発
もたんなる通俗道徳教育 に矮小化 されて しまうだろう。 そこでの最大 の問題 は、国家
と社会 のなかに構造化 された権力的 な支配服従関係 を権利義務関係 に転換す るとい う
実践的営 み― 「権利 のための闘争」―一が無視 されることである。
V
おわ りに
以上、本稿 では、 1950年 代 の静岡県 を考察対象 として、当時頻発 して いた冤罪事件
を生み出す構造的要因 として、物証 の軽視 と傍証頼 みの捜査 が 日常化 し、捜査機関が
見立 てた事件 の構図 に従 って被疑者 を 自由に追 い込む という手法 が横行 して いたこと、
これに対 して検察や裁判所 のチェ ック機能 はほとんど働 いていなか ったことを指摘 し
た。
次 に、戦後 の人権擁護行政 (救 済・ 啓蒙宣伝)に ついて、当初 か ら行政 は (憲 法学
が狭義 の人権概念 をとっていたのと異 な り)広 義 の人権概念 を採用 して いたこと、 し
か し実際の救済活動 では事実上「 二重基準」 が存在 し、個人 と個人 の間で発生 した人
権侵害 に比 べ、国家 (捜 査機関 など)に よる人権侵害 に対 しては行動 。意識両面 で消
極的であったことを指摘 した。 また、静岡県 の広報活動を例 に、行政 による人権 の広
報活動 は、正確な人権理解を促す ものとはいいがた く、 む しろ県民 に対 して一定 の心
構 えや態度 を要求す るものであること、 その意味 で人権 を通俗道徳 に矮小化す る傾向
があることを指摘 した。
最後 に若千 の展望 と課題を述 べて本章 の結 びとしたい。
第一 に、繰 り返 し述 べて きたように、 1950年 代 の人権問題 の中心 は、刑事被告人 な
どに対す る人権侵害であ った。 さまざまな努力 にもかかわ らず、 それを生み出す構造
的問題 はほとんど是正 されず、 その まま60年 代 に引 き継がれてい く。 その うえ、 60年
代 に入 ると、生存権 や公 害問題 など新 たな人権問題が浮上 して くる (61)。 こ ぅして人
││は ここで こ う述 べ ている。
(60)「 県政 だよ り」第48号 、 1952年 7月 20日 付。 ちなみに北チ
「以
上要 するに、今回の事件 は、単独絶交 (比 較的程度 の軽 るい)の 競合 であ って、 (村 民 の
間 で絶交 について相談 や 申 し合 わせを した事実 はないことか ら一橋本)共 同絶交 でない
ことが認 め られるか ら、法律 上村八 分 とはな らな いが、主 として精神的 な ものとは云 え
単独絶交競合 の結果 として石川一 家 の人 々が、孤立無縁 に近 い状 態 に陥 り、社会生活 の
維持 を危 うくす るに至 りつつ ある状態 を見 るとき、隣人愛 の精神 によって 円満且 つ 明朗
な交際を速 に回復 せ られ るよう切望する」
。
(61)生 存権 の裁判規範性 をめ ぐって争 われた朝 日訴訟 の第 一 審判決 は1960年 の ことで あ る
他方、 工 場排煙問題 などに関す る裁判 は1950年 代か らすで
に見 られるが、60年 代 に入 ると公害事件 の種類や数 は一気 に拡大す る。
(東 京地判 1960年 10月 19日
24
)。
静岡法務雑誌 第 6号
(2014年 3月
)
権問題 はよ り多様化 して い くので あ る。 これに対 して人権擁護行政 はいかに対応 した
のか。 それ は今後 の検討課題 であ る。
第 二 に、広義 の人権概念 と狭義 の人権概念 が並立す るとい う状態 は、基本的 に1960
年代以後 も継続す る。 そ の後 の歴史過程 の考察 は もはや本稿 の課題 で はないが、 一 点
だ け触 れてお きた い。 2000年 12月 に「 人権教育及 び人 権啓発 の推進 に関す る法律」
(法 律第 147号 )が 公布 された。同法 は現在 に至 る人権教育 。啓発行政 の根拠法 である。
そ して、 2002年 には同法 に基 づ いて「 人権教育 。啓発 に関す る基 本計画」 が策定 され
(同 年 3月 15日 閣議決定)、 人権教育・ 啓発行政 の方向性 が決定 された。 ここで注 目 し
た いの は、 この基本計画中 に一 これ まで本稿 で述 べ て きた狭義 の人権概念 や広 義 の
人権概念 とは異 なる一 新 たな人権概念 が採用 された ことで あ る。 それを一 言 で言 え
ば、人権概念 の本質部分 ともい うべ き 《国家 と個人》 の問題 が後景 に退 き、 もっぱ ら
《
個人 と個人》 の問題 と して人権 が語 られ るよ うにな ったことで ある。別 の言 い方 を
す れば、国家 が加害者 と して 国民 の人権 を侵害す る場合 を意 図的 に無視 な い し軽視 す
るよ うにな った (62)。 人権 は個人 と個人 の間 で遵 守 すべ き通俗道徳 に読 み替 え られた
か のよ うであ る 。3)。 このよ うな人 権概念 の政策 的変容 を分析 す る こと も今後 の検討
課題 であ る。
(以 上)
「 人権教育・ 啓発 に関す る基 本計画J(2011年 4月 1日 閣議決定 によ り変更 )は 、人権教
育・ 啓発 を推進すべ き個別 の人権課題 を以下 のよ うに限定的 に列挙 して い る。す なわち、
(1)女 性、 (2)子 ども、 (3)高 齢者、 (4)障 害者、 (5)同 和問題、 (6)ア イヌの人 々、 (7)外 国
人、 (8)HIV感 染者・ ハ ンセ ン病患者等、 (9)刑 を終 えて出所 した人、 (10)犯 罪被害者
等、 (11)イ ンターネ ッ トによる人権侵害、 (12)北 朝鮮当局 による拉致問題等、 (13)そ の
他、 である。 ここでは、 た とえば捜査機関 による刑事被告人 へ の人権侵害 (自 白の強制、
証拠 のねつ造など)な ど、国家権力 が加害者 となる事例 はほとん ど無視 されている。
たとえば静岡県人権会議「 ふ じの くに人権宣言」 (2004年 12月 15日 )は 次 のよ うに言 う。
「 私 たちは毎 日の生活 の中で、次 のこ とを実践 します。 1 自分 の人権 は もちろん、他人
の人権 を も敏感に感 じる心 を養 い ます。 2 日ごろか ら人権問題 に関心を持 ち、 自分 自身
の問題 として考 え、行動 します。 3家 庭 や地域社会、職場 などで、人権問題 について話
し合 う機会 を作 ります。 4個 性 の多様性 を受 け入れ、異 なる個性 と共存 して い くとい う
意識を持ちます。」 (httpツ /jinken pref shizuoka jp/meeting/【 最終閲覧 日】2014年 2
月17日 )。 このような通俗道徳的人権観の淵源 は、すでに本稿で見たように、1950年 代行
政の広報活動の中に見出す ことがで きるだろう。