Title 労働過程における主体分析の枠組 : 統制・抵抗 - HERMES-IR

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Type
労働過程における主体分析の枠組 : 統制・抵抗パラダイ
ムを超えて
吉田, 誠
一橋研究, 19(1): 131-160
1994-04-30
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/5854
Right
Hitotsubashi University Repository
1
3
1
労働過程 における主体分析 の枠組
一統制 ・抵抗パ ラダイムを超えて-
吉
田
誠
はじめに
H・プレイグァマ ンの 『
労働 と独 占資本』(
Br
a
ve
r
叩an,
1
9
7
4-1
97
8)が出版 さ
れて以来,英米 において労働過程を対象領域 とした議論 (
労働過程論争)が盛
んに行われて きた。 この論争のテーマとして,管理戦略 としてのテイラー主義
の評価 (
Li
t
t
l
e
r
,
1
9
7
8,Wood & Ke
l
l
y,
1
9
8
2な ど), 非 熟練 化 (
Zi
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i
s
t
,
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d.
,
1
9
7
9
,Br
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ght
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1
9
7
7な ど),女性労働 (
Be
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1
9
8
2
,Kni
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g
s& Wi
l
l
mot
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,
e
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.
,
1
9
8
6など)
,資本の循環 における労働過程 の
Li
t
t
l
e
r&Sal
aman,
1
9
8
2
,Ke
l
l
y,
1
9
8
5など)などを挙げることができる。
位置 (
Y
.しか し, このようなテーマの多様化や様々な労働過程を扱 った経験的な研究
の進展につれて,労働過程の理論的位置付 けが困難になり,包括的理論枠組の
不毛さが指摘 され,労働過程論争そのものにたいす る否定的な評価 も生 じてき
労働過程 という楽隊車は砂地 に突 っ込 んでいるといって
た。J・ス トレイは,「
もおそ らく過言ではないであろう。実際,労働過程論 にたいする修正や批判の
カタログのために,多 くの批判者 は 『
労働過程論』の放棄を求めているのも同
St
or
e
y,
1
9
8
5:
1
9
4
)としている。
然とな?ている」(
この見解 に対 して,P・トンプ ソンは労働過程分析 の意義 を擁護 し, その
Thomps
on,
1
9
9
0:
「
中核理論」を構成 してきたものとして以下の四点 を挙 げた (
9
9
1
01)0 (
1
)
生産の分析においては,労働の役割 と資本 ・賃労働関係 を中心的
2)
資本蓄積の論理が存在 し, この
なものとして考察 しなければな らないこと,(
圧力によって資本 は絶えず生産過程を変容 させていること, (
3)
労働過程を規定
するのは労働市場だけではな く,労働 にたいす る統制 という独 自な構造が絶対
に必要であること, (
4)
資本 と賃労働の関係 は敵対的な ものであ ることである。
1
3
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巻第 1号
そのうえで, トンプソンは最後の論点 に本質的な修正がなされなければな らな
いとした。つまり,資本 は労働者の協力,創造的で生産的な力,それに同意に
依存 してお り,それ らを動員 しなければな らないのであるか ら,「協力 と同意
i
bi
d∴1
01)
の成立が資本主義的労働過程の中に体系的 に組 み込 まれている」 (
と考えなければな らないと論 じた。
プレイヴァマ ンの方法論における闘争主体 としての労働者の欠落が,初期の
労働過程論争 にお ける中心的な問題関J
山 こなっていたことを考えると, トンプ
ソンの指摘 は労働過程論争における新 しい潮流の登場を反映 しているといって
よいであろう。本稿では, まずプレイグァマ ンにおける統制 と主体の枠組を検
討 し,次 に労働過程論争 における従来の潮流であった 「
統制 ・抵抗パラダイム」
(
war
de
l
l
,
1
99
0:
1
5
3)、
を,最後にこれに代わる新 しい潮流 を統制 と主体 の問題
か ら考察 してみることに しよう。
1.プ レイヴァマンにおける統制 と主体
本章ではプレイグァマ ンにおける統制 と主体の問題 について論 じ, この枠組
がいかにその後の 「
統制 ・抵抗パ ラダイム」を惹起す ることになったのかを確
認することに しよう。
プレイヴァマ ンは資本主義的生産様式における個別労働過程の管理が資本に
とって根本的に必要 とされる理由を,資本家が購入 した労働力を労働 に転化 さ
せ る際の問題であると考えている。つまり,第- に労働力はあ くまで も労働の
Br
a潜勢体で しかないのだか ら,資本家 は 「
不確定の質 と量を買 っている」 (
97
8:
62)ことになるか らである。 第二 に, もはや労働者 は自
ve
r
man,1
97
4-1
己実現のために労働をするわけではないのであるか ら,「労働過程 にたいす る
i
bi
d.
)し,労働過程 にたいす る責任 は資本がおわなければな
関心を も放棄」 (
らな くなっているという,労働者の客観的な 「
疎外」状況のためである。
資本主義的生産関係が労働力の売買によって成立 してお り,労働力が資本家
のもとで労働に転化 されねばな らないことに, プ レイグァマ ンは管理の根本的
な必要性をみいだ した うえで,管理の様式の歴史的展開を考察 している。そし
て管理の歴史的な展開における決定的な転回点を,F・
W・テイラーの科学 的管
理法 における 「
統制」概念が,それまでの資本の持 っていた統制権を超え出た
ことに求めている。
労働過程における主体分析の枠組
1
3
3
プレイグァマ ンによると,科学的管理法以前の管理統制が意味 して いたのは,
労働者の作業場への結集や労働時間の決定,労働者の勤勉 さを持続 させるため
の監督,就業規則や生産 ノルマの設定などであった。総 じて, これ らの資本の
i
bi
d.
:
7
2
)づけてい くことを 目的 と し
管理統制 は 「自由な労働力」を 「
規律」(
ていた ものであるといってよい。 これにたい して,テイラーの管理統制の考え
方は,作業遂行のあ り方その ものを労働者 に指示するという点で,従来の管理
(
i
bi
d∴9
9
)
到達 したことになるとプレイグァ
を越えた 「まったく新 しい地平 に」.
マンは主張する。
すなわち,労働過程 において労働者 は唯一の主体的要素 として存在 し,その
労働手段 に対 して有 している統制の側面が存在 しているが, テイラーが こうし
た労働者による労働手段の統制を剥奪す る管理様式を完成 したことに, プレイ
グァマ ンはその核心をみいだ した。 テイラー主義 は次の三つの原理か らなるも
のとして特徴づけられている。
.「
第-の原理が労働過程 にかんする知識を収集 し,それを発展 させることで
あり,第二の原理が この知識を管理者の排他的領分 に集中すること一それとと
もに,ち ょうど逆の関係 としての,労働者側のそのような知識の欠如 -である
とすれば,第三の原理 は,知識 にたいす るこの独占を,労働過程の各段階 とそ
」(
I
bi
d∴1
3
4
)
の遂行様式を統制す るために,用いることである。
そ して, プレイグァマ ンはこの三つの原理のなかで も,労働者か ら労働過程
にたいする統制を剥奪す ること,すなわち第二の原理 こそが 「
科学的管理法の
かなめ」(
i
bi
d∴1
2
8
)をな しているものと把握 し, この原理 を 「構想 と実行 の
分離 」(
i
bi
d.
)として定式化 した。繰 り返 しにな るが, このテイラー主義 の核
心をなす 「
構想 と実行の分離」 は,たんに資本家が最終生産物を構想 し,労働
者がその構想の もとで生産す るということを超えている。 それは,労働者が労
働する,すなわち労働者が労働手段を統制す る様式を,資本があ らか じめ 「
構
想」 し,そのとお りに労働者を 「
実行」 させることである。 この意味で労働者
は労働手段 にたいする統制を資本 によって剥奪されることになると,プレイグァ
マ ンは把握 したのであった。
プレイグァマ ンがテイラー主義を 「
労働の非熟練化」 において もっとも中心
的な影響を与えるものとして把握 していた ことは, 以上 のよ うなテイ ラーの
「
統制」概念の理解に基づいていたのである。 と同時に構想 と実行 の分離 とい
1
3
4
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う概念 は,労働過程における唯一の主体的要素 としての労働 についての一連の
Cut
l
e
r
,
1
9
7
8:
7
9
)
。そこで∴ プレイヴァマ ンが いかな る主
前提を拠 としている(
体把握を行 っていたのかについて考察 してみよう。
プレイグァマ ンがその著書 において,闘争主体 として労働者階級を扱 うこと
Br
ave
r
man,
1
97
4-1
97
8:
2
8
)は, よく知 られてい
に禁欲的な態度をとったこと(
る (1)・。ノこのプレイグァマ ンの分析対象にたいす る限定 は, さ しあた り強固 な
客観主義 に支え られていると言 うことができよう。 プレイヴァマ ンの考察の対
象である 「
即 日的階級」 は,社会構成体の土台をなす
「
「『客観的な』内容」 と
主観的な』 もの」か ら切 り離 されて探求 され うる もの とし
して把握 され, 『
Br
ave
r
man,
1
97
4-1
97
8:
2
9
)
0
て規定 されているか らである(
また, プレイヴァマ ンはこの
「『主観的な」lもの」、を 「対 日的階級」 と等置
している。それゆえ,主観的なものは階級意識の レベルで把握 されることにな
る。 この階級意識 とは 「
一階級 あるいはその一部分の理解 と行動 とに反映 され
た社会的結合状態」 (
i
bi
d∴3
2)であ り, したが って
「『主観的な』 もの」 は
「『客観的な』内容」に還元可能なのものとして設定 されているのである。
しか し, プレイグァマ ンの客観主義的理論枠組 は,資本主義 において否定 さ
れている労働の本質を主張す る限 りにおいて, したが って労働者が 「
非人間的
な方法で利用 されている」 (
i
bi
d∴1
5
7
)と主張す る限 りにおいて, 人間主義的
で本質的な主体性を前提 していると言わざるをえない。 とい うの も, 労働 は
「
労働過程の主体的要素」 (
i
bi
d.
:
1
9
9
)であると理解 されているか らである。 そ
れゆえ,主体的要素 としての労働をプレイグァマ ンがいかに把握 しているかを
考察す ることによって,彼が前提 した主体像を明 らかにすることができる。 プ
レイヴァマ ンによると,労働あるいは労働力の もっている根本的に重要 な性格
i
bi
d.
:
61
)である。
は,その 「
知的で合 目的的な性質」 (
「
人間労働のなかにひそんでいる能動的な労働諸過程は,形態,発現様式等々
において多様であるため,それ らは,あ らゆる実践的な目的にとって無限の可
能性を秘めているといえよう。
」(
I
bi
d∴6
0
)
労働の有 している意味は,潜在的に自由な構想の可能性 と,それに向か って
合 目的的に行為す る可能性であるといえる。 この可能性をひめた もの と して,
プレイグァマ ンは,主体性を設定 していたのである。 この主体性 は, ティラ「
主義の独 自な統制様式が対象 としたものである。資本のもとにおいて は,「労
労働過程における主体分析の枠組
1
3
5
働過程の主体的要素 としての労働の放逐 とその客体への転化 」(
i
bi
d.
:
1
9
9)が
統制 における根本的な課題 となっていると, プレイグァマ ンは主張 している。
vol
unt
a
r
i
s
m) と統制
ゆえに, プレイグァマ ンにおいては 「
主体性が任意性 (
(
c
ont
r
ol
)に等置 されている
」(
Kn
i
ght
s& Wi
l
l
mot
t
,
1
9
9
0:
1
5
7
)ことにな る。
/
すなわち,潜在的に自由な構想可能性 (-任意性) とそれに向かった合 目的的
な行為 (-統制) とか ら,労働者の主体性 は構成 されているのであ る (2)。 そ
して, この主体性 は, テイラー主義的職務編成 においては,資本の側に客体化
されてい くことになるとされるのである。 プレイグァマ ンにおける資本 ・賃労
働関係 における対立 は,死んだ労働 による生 きた労働の支配 といって も,剰余
価値の搾取 ・被搾取をめ ぐる対立 という意味合いよりも,む しろ任意性 と統制
という労働者の主体性が資本 に 「
構想」 という形で客体化 されてい くことを意
味 している 。
このプレイグァマ ン的な主客の対立の構造 に したがいなが ら, しか し彼が こ
の対立構造の中での闘争主体 としての労働者の役割を無視 したことにたいする
,
統制 ・抵抗 パ ラダイム」が成立す ることになった。そこで,次章
批判か ら 「
ではこのパ ラダイムにおける主要な論者で あ った,R・エ ドワーズ (
Ed
wa
r
ds
,
1
9
7
8,1
9
7
9
)とA・フ リー ドマ ン(
Fr
i
e
dma
n,
1
9
7
7
a,
b)をとりあげて,その問題構
成を検討 してみよう。
2.統制 ・抵抗パラダイムの問題構成
労働過程論争 はまず プレイグァマ ンにおけるテイラー主義的な統制の概念の
中に闘争主体をみいだそ うとす る方向性をとった。資本 ・賃労働関係の敵対的
性格が,主体か ら 「
任意性 と統制」 という本質を剥奪す るテイラー主義的な統
制 として現象 していると考えな らば, この統制 に対 して労働者側か らの抵抗が
0
世紀の独 占
存在す ることになる。 プレイグァマ ンは, この抵抗を度外視 して2
資本主義 における労働過程の歴史的な展開を叙述 した。 しか し,労働者の抵抗
がなん らかの歴史的な影響力を もっていると考えるな らば, テイラー主義的職
務編成の単線的な進展 による労働の非熟練化 というプレイヴァマ ンの歴史叙述
は, あまりにも単純で, しか も正確ではないということになろう。この意味で,
「
対 日的階級」の欠落 はプレイグァマ ンの議論 にとって致命的なことになる。
ここに,統制 にたいする抵抗の主体 としての労働者を も対象 しなければ,労
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1号
働過程の分析枠組が成立 しないとする 「
統制 ・抵抗パ ラダイム」が成立 したの
である。 このパ ラダイムに共通する理論枠組 は, まず第- に資本 ・賃労働関係
における敵対的な性格が資本による労働者の統制 として把握 され, したが って
プレイグァマ ン的統制観の前提が維持 されることである。 しか し第二に,資本 ・
賃労働 という敵対的関係を構成 している抵抗す る労働者 というもう一方の項を
介在 させ ることによって, いかに労働過程 における資本の統制様式が変容 して
きたのかを検討することが,その課題 となっていることである。つまり,労働
過程 における労働力の労働への転化をめ ぐって資本 には統制の必要性が存在 し
てお り, この統制が資本 ・賃労働関係の敵対的な性格を顕現 しているがゆえに,
これに対 して労働者側の抵抗が惹起 され, この統制の様式が変容せざるをえな
いということである 。
2.1.エ ドワーズ :統制 システムの構造化 ・制度化
ェ ドワ-ズは,労働過程 における統制 システムの療造化 ・制度化 という歴史
的展開を主張す る。彼 は,1
9
世紀以降のアメ リカ合衆国において統制 システム
が 「
単純統制」か ら 「
技術的統制」をへて 「
官僚制的統制」へ と歴史段階的に
展開 されているとす る(
3
)
。 この歴史的 シェーマにおいて規定的な役割を与 え
られているのが,労働過程 における資本 と労働者の統制をめ ぐる対立関係であ
る。 もちろん, エ ドワーズは,労働過程を規定するものとして一定の経済 ・社
,
技術的拘束,市場による
会的環境が存在 していることを認める(
4
)
Q しか し 「
規制,そ してその他の諸力を考慮 にいれた後 において も,労働過程には一定の
Edwar
ds
,
1
9
7
9:
1
5
)として,労働過程が階級闘争の場,
不確定性が残 っている」(
,
「
攻めぎあいの場 (
ac
ont
e
s
t
e
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e
r
r
ai
n)
」(i
bi
d.
:
1
6
)となり 「雇用主が労働力
を労働 に転換す る様式 に労働者 は抵抗することができ,結果 としてそれを再形
Edwar
ds
,
1
9
7
8:
1
1
0
)と主張す る。
成させ ることができる」(
このエ ドワーズの統制の概念的枠組を考察・
してみよう。彼 は,統制を 「
資本
家や管理者が望 ましい作業行為を労働者か ら獲得する能力」と定義 したうえで,
この能力 は, 労働者 と管理者 の相対 的な力関係 によ って決定 され る とす る
(
Ed
war
ds,
1
97
9:
1
7
)
。そ して,統制のシステム,換言す ると 「
企業内部 での生
産の社会関係」 は,次の三つの要素が調整 されたものであるとする。すなわち,
(
1
)
業務の指示, (
2)
遂行 された労働についての評価付 け, (
3)
労働者 にたいする報
労働過程における主体分析の枠組
1
3
7
酬 と規律である(
i
bi
d∴1
8
)
。 エ ドワーズの歴史的な統制の展開図式 は, この統
制の三つの要素が,企業内部 における紛争や矛盾の増大 につれて,構造化 ・制
度化 されてい くことになる。
このシェ-マに従 うと,1
9
世紀 における 「
単純統制」においては, この三つ
の要素 とも構造化 ・制度化 されてお らず,あか らさまな権力行使 を ともな う,
懇意的で,人格的な統制 システムであった。 しか し,1
9
世紀後半か らの企業合
同などによる企業規模の拡大につれて,人格的な統制 システムは職長の権限の
増大を生みだ し,労資間の紛争が生 じた。 この紛争の帰結 として, フォー ド主
義に典型的な 「
技術的統制」が成立する。 この技術的統制 は,業務の指示や作
業速度の設定が技術 (
例えば, アッセ ンブ リ一 ・ラインなど)に構造化 された
ものである。 この構造化 によって,権力関係が非人格化 し,職長の権威 はもは
や 「
技術的構造の条件 と命令の執行者」(
Edwar
ds,
1
97
8:
1
1
7
)で しかな くな る。
ライ ンの正統性が受 け入れ られることによって,職長 と労働者の間の権力関係
は不可視になるのである。
しか しなが ら, この技術的統制段階において も統制 システムの三つの要素の
2)
と(
3)
) は構造化 ・制度化 されていない。労働者の動機付
うちの二つ (
上記の(
けなどに関 しては,懇意的な,そ して強圧的な手段 (
例えば,産業予備軍を背
景に した解雇等)、
が用いられていた。同時に,技術的管理 は熟練の陳腐化 に伴
う労働者の同質性を生みだ し,労働組合の結成を促進 させた。 またそれは工場
規模での労働者の結び付 きを生みだ し,.
.
資本 にたいする労働者の抵抗を容易に
した。例えば,一部の労働者の座 り込みス トによって全工場の生産をス トップ
させ るなどである。 こうした労働者の抵抗が統制 システムの新たな制度化を生
みだ し,官僚制的統制に帰結することになる。
この官僚制的統制 において統制 システムの三つの要素 は,(
1
)
形式化 された職
務規定 によって職務が指示 され,(
2
)
この職務規定 に基づいて作業の遂行が評価
され,評価す る者 自身 も官僚制的統制に従属 してお り,評価 における窓意性が
排除される,(
3)
報酬 と罰則が一連の基準や手続 きに基づ くとともに, これに加
えて,積極的な動機付けが制度化 されているのである。 こうして,企業内の生
産の社会的関係が制度化 され,統制 システムは企業の社会的 ・組織的構造の中
に埋め込 まれることになる。現代の官僚制的統制 は,階銃的な権力関係を不可
視に し,職務配分の撤密 さや積極的な動機付けによって労働者の同質性を解体
1
3
8
一橋研究 第1
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巻第 1号
し,内部労働市場を成立 させ,労働市場を分断す ることによって,個人主義化
を促す ことになり,生産現場 における労働者の闘争を困難 にしているのである。
このエ ドワーズの歴史的 シェ-マの背後 に存在する主体の枠組を確認 しておこ
う。エ ドワーズは労働過程を資本 と賃労働 との権力関係の場 として設定 してい
る。 したが って,エ ドワーズ自身 は明確 に論 じているわけではないが,資本の
統制の正統性が絶えず統制 システムの根幹 に係わる問題 とな らざるをえなくな
,
るだろう。例えば 「ライ ンの正統性が受 け入れ られたな らば, 職長 の職務 の
必要性 もついて くる」(
Edwa
r
ds
,
1
9
7
9:
1
2
0
)として いるよ うに, それぞれの統
制 システムは,その正統性をもた らす ことが必要であると考え られよう。 それ
ゆえ,単純統制,技術的統制,官僚制的統制 は,それぞれ,経営者の 「カ リス
i
bi
d:
2
6
)
,技術的必要性 (
5
)
,「
規則 と手続 き」 (
i
bi
d:
1
31
)によって正統
マ性」 (
性を保証 されていることになろう。そ して労働者 は, この正統性を承認する限
り,統制の枠組 に収 まっているのである。常態 においては労働者の主体性が統
制の側 に担保 されていることになる。つまり, エ ドワーズの統制論 の枠組 は,
正統性の概念の もとで,主体を統制 システムの側 に従属 させていることになる。
この場合,主体 は然たる問題 とはな らない。なぜな らば,正統性が維持 されて
いる限 りで,資本 は 「
望ましい作業行為」 を獲得 して いる し, また労働者 も
「
望 ましい作業行為」を行 っているか らである。 ここに主体独 自の分析次元 は
存在 しない。正統性が揺 さぶ られる状態 (これは統制 システムに内在 している
諸限界か ら生 じる) となるときのみ,統制 システムをめ ぐる階級闘争を担 う主
体が導入 されて くるのである。
2.
2,フ リー ドマン :管理戦略の二類型
フ リー ドマ ンは,管理戦略 (
mana
ge
r
i
als
t
r
at
e
gy)の代替 的な二つの類型
,
を提起 した。 その一つは 「
直接統制」の戦略であ り, これは 「
大多数の労働
者 にとっての課業の遂行か ら構想を最大限分離す ることであり,構想を行 う活
動を高い地位 にある人々に関連 した少数の手 に集中させ,密接な監視 と金銭的
Fr
i
e
dma
n,
1
9
7
7
b:
4
8
)
0
動機付 けによって経営者の権威を維持する」戦略である(
,
責任 ある自治」の戦略であり, これは 「個 々の労働者 や
もう一つの戦略は 「
労働者の集団に, 自己の課業の指揮 に対 して大幅な自由裁量を認め」
,「労働者
i
bi
d.
)
を企業の競争 目標 に同一化 させることによって経営者の権限を維持する」(
労働過程における主体分析の枠組
1
3
9
ことを目指 している。
フ リー ドマ ンによl
るこの二つの代替的な管理戦略の定式化の背後には, まず
第- にプレイグァマ ンにおける闘争主体の欠落 にたいす る批判が存在 しているO
エ ドワーズと同 じように, フ リー ドマ ンも労働者め抵抗が統制の様式 に与える
影響を考慮 した理論的枠組をとろうとす る。
「プレイグァマ ンは,現代の生産の技術的 ・組織的手段が将来の体制にとっ
ては不可避的ではないことを認めていたにもかかわ らず,資本主義体制にとっ
ては不可避的であるとした。 こうして,労働者の抵抗 に対応 した資本主義的生
」(
I
bi
d∴4
4
)
産様式内部の変化を彼 は見落 としたのである。
、フリー ドマ ンによると, プレイグァマ ンが資本の価値法則 に対応 した労働過
程の組織の変化 と,労働者の抵抗 によ,
;て引 き起 こ・
される経営側の組織の改変
とを切 り離 し,後者を 「イデオロギー」的な ものとして重要視 しなか ったこと
は間違いである。
「
経営管理 は,技術者によって設計 された作業組織が第-で,労働者の抵抗
にたいする経営者の圧力が二次的であるような二輸か らなる過程ではない。 こ
の両者 ともに管理 の問題 なのであ り, 利潤 によ って評価 され るのであ る。」
(
I
bi
d.
:
4
5
)
したが って,労働者の抵抗が経営管理 に対 して影響を与えるのであるならば,
経営者 は管理のあり方 に対 して,労働者の抵抗を考慮 した うえで,戦略を決定
しなければな らな くなる。それゆえ, プリ- ドマ ンは管理戦略に分析的な焦点
を当てるのである。 と同時に, プレイヴァマ ンの論 じた丁 構想 と実行 の分離」
は,その管理戦略の一つ,すなわち直接統制の戦略で しかないと批判するので
ある。「プレイグァマ ンもまた,資本主義的労働過程 における経営者 の権威行
使のための一つの特定の戟略を,経営者の権威そのものと混同 したことについ
Fr
i
e
dman,
1
97
7
a:
8
0
)
0
て批判 されなければな らない」(
第二に, フ リー ドマ ンが管理戦略の規型化を導 きだすのは,労働力商品の特
殊な性格か らである。 フリー ドマ ンは,労働力商品は次のような性格を持 った
ものとする。すなわち,労働力商品は,一方では 「
潜在的に適応力のある商品」
であるが,他方では 「
独立 した意志 によって, しか もしば しば敵対的な意志 に
Fr
i
e
dman,
1
9
7
7
b:
4
8
)である. 管理戦
よって究極的には統制 されている商品」(
略の構型 は,労働力商品のこのこつの性格 に対応す るものとして設定 されてい
1
4
0
一橋研究 第1
9
巻第 1号
る。責任 ある自治の戦略 は,労働力を適応力のある商品 としてみな し, 自律的
な領域を設定す ることによって, この適応力を最大化 しようと試みる戦略であ
る。他方,直接統制の戦略は,労働力商品の持 っている 「
独立 した意志」を弱
めることを試みる戦略である。
このように, フリー ドマ ンは管理戦略の類型化を労働力商品の 「存在論的」
(
Wi
l
l
mot
t
,
1
9
9
0:
35
9
)次元において設定 しているので,
「
歴史分析 の方法 や管
理の諸形態の発展を示す段階的な図式がない」 (
Thomps
on,1
9
8
3-1
9
9
0:
1
2
6)
ことになる。 したが って,責任ある自治 も直接統制 も,いかなる時代 において
も資本が採用 しうる戦略 として規定 し, この二つの戦略が歴史的にいかなる条
件の もとで採用 されてきたかを論 じている(
6
)
。そ して, 独 占資本主義 の発展
した現段階では責任ある自治の戦略が優勢 になっているとしている。 しか し,
,
ここでは歴史的な見地か らの各戦略の限界 ではな く 「
存在論 的」 な次元で設
定 された戦略の限界についてのフ リー ドマ ン見解を考察 しておこう。 この限界
はそれぞれの戦略の持 っている矛盾 としてとりあげ られている。
直接統制の戦略における矛盾 は,罪- に直接統制が人間を機械 として扱 うこ
と,第二 に労働者の経済的利害に訴えるのであるが,労働者の意志 は経済的利
害によってのみ導かれているわけではないこと,最後に労働力を柔軟 に用いる
ことができないことである。他方,責任ある自治の戦略の矛盾 は,疎外 された
状態のなかであたか も労働者 自身の目的のためのように労働者を行為 させ るこ
とにある。 このため,市場の圧力によって労働者を解雇 しなければな らない場
合に,それが非常 に困難であったり, また,新技術の導入 によって直接統制の
戦略へ移行することが困難 になる(
7
)
。 こうした両戦略の矛盾 は,結局 「本質
的に自由で独立 しているが, 自己の労働力を疎外 している (
売 っている)人々
Fr
i
e
dman,
1
9
9
0:
1
7
8
)
である。
に対 して経営者の権利を維持 し,拡大すること」(
K・エ ドワーズが正 しくも指摘 してい
この矛盾の指摘が前提 しているのは,P・
,
るように 「
労働者が,単 に管理者の望んでいるこ.
とに干渉 しようと躍起になっ
ているということだけでな く, 自分たち自身の目標を持 っている」 こと,つま
Edwar
ds
,
1
9
8
6:
り「
労働者 は単 に抵抗するだけでな く,積極的な行為者である」(
37
3
8
)ということである。そ して, この前提が提出 している主体像 は, プ レイ
グァマ ンが暗黙のままにしておいた常態における労働者の主体性 と合致 してい
るのである。
lこれは先 にみたフ リー ドマ ンによる労働力商品の二つの特性の把
労働過程における主体分析の枠組
1
4
1
握か.
ら明 らかであろう。
3.統制 ■
・抵抗パラダイムの限界
以上 において,統制 ・抵抗パ ラダイムの代表的な論者 であるR・エ ドワーズ
とA ・フ リー ドマ ンの議論 を考察 して きた。 エ ドワーズ もフ リー ドマ ンも,
「
労働過程の資本主義的発展が経営者の権限の成長を伴 っているとい う見解 を
否定 している十(
Thomps
on1
,
1
9
8
3-1
9
9
0:
1
1
5)点で共通 した理論枠組 とな って
いる。つまり,独 占資本主義 においては労働者 にたいしてテイラー主義的な統
制の拡大 ・強化が行われてきたというよりも,む しろ内部労働市場の成立に伴
っ
/
た労働市場の分断をつ うじて,その中核的労働者 には一定の自由裁量の領域が
与え られてきたとする理論枠組を提起 している。そ して労働過程の編成の動態
を決定す る要因 として労働者の抵抗が考え られているのである。そこで, エ ド
ワーズやフ リー ドマ ンは統制 と主体をいかなる枠組で考えていたのか確認 して
おこう。
エ ドワーズの蒔論 においては,統制 と主体を結び付 けている概念 は正統性で
あるといえる。主体 は,その正統性を承認 している限 りにおいて,統制 に同一
化 され,然たる分析対象 とはなっていない。 しか し, この正統性の概念 は, エ
ドワーズの議論 においては残余範晴 しか構成 していない し,それゆえ多分 に問
R・リトク ーは, エ ドワーズが官僚制的統制 を分析 す
題のあるものである。C・
Li
t
t
l
e
r
,
1
9
90:
6
0
)したことに対 して批判を行 って
る際に 「
非公式集団を無視 」(
いる。 これは,M ・ヴェ-バー以降の組織論の展開に基づ く批判であ ると同時
に, リトラ-自身の正統性 に関する立論によって補完 されている。 すなわち,
リトラーは正統性 に関 して,私的所有権を承認するといった 「
一般的な文化規
範」,組織 によって基礎づけられている 「限定 された正統性」,そ して非公式集
団などを通 じた 「
職場内での同意」 という三つの レベルにおいて考察 しなけれ
ばな らないと しているのである(
Li
t
t
l
e
r
,
1
9
8
2:
3
9
4
0)。 エ ドワーズの議論 は,
この リトラーの分類 に したが うな らば,「限定 された正統性」 の レベルのみ に
基づいた議論で しかな く,主体の領域を公式組織の正統性の レベルに遠元 ・縮
小 しているのであるO この傾向のためエ ドワーズの議論 には,主体を構造 に従
War
de
l
l
,
1
9
9
q:
1
5
8
)というレッテルが張 られることに
属 させた 「
構造的分析」(
.
なる。
/
1
4
2
一橋研究 第1
9
巻第 1
号
フ リー ドマンの議論 においては,主体 は統制 とは別のロジックを もって行為す
る存在であることが前提 されているO先にふれたように, この主体像 は, プレ
イグァマ ンが暗黙裡に前提 していた主体像 に合致 している。 プレイグァマ ンは
主体を任意性 と統制 という枠組で理解 していたが, フリ- ドマ ンが 「
潜在的に
適応力のある商品」 として労働力を特徴づけるとき, この主体像を踏襲 してい
るといってよいであろう。 さらに, プレイグァマ ンは,資本主義的労働過程 に
おける統制の必要性を論 じた箇所で,労働者が根本的に疎外 されているので労
働過程にたいす る関心を失 っていると述べていた。 プレイグァマ ン自身 はこの
ことを 「『
主観的な』 もの」 として深 く追求 していないが, フリー ドマ ンはプ
レイグァマ ンのこの観点を明確 に対象化 し,「
独立 した意志 によって, しか も
しば しば敵対的な意志によって究極的には統制 されている商品」 として統制論
の枠組 に組み込んだのである。
しか し, この主体の 「
本質主義的な理論」(
Wi
l
l
mot
t
,
1
9
9
0:
3
5
9)を前提す る
ことによって, フリー ドマ ンは存在論的次元で設定 された 「
疎外」が直接 に主
体の意味世界を構成 しているとみなす ことになる。つまり,管理戦略 とは本来
疎外 された主体を統制することを目指すわけなのだか ら,労働者の創造的な能
力を発現 させることができず,それゆえ必ず抵抗の主体を誘発 させ ることにな
らざるをえないという論理構成 になっているのである。 しか し,H・ウィルモッ
トが述べ るように,「そうした本質的自由や独立を表出す ると考 え られている
行為 は社会的に組織 され,同定 されるのであ・
って,存在論的に所与であるので
i
bi
d.
)1
のであるO
はない」 (
統制 ・抵抗パ ラダイムは, プレイヴァマ ンの理論枠組 に抵抗主体を導入す る
ことによって統制様式の動態を議論 してきた。 しか し,主体の理論`
を,限定的
な有効性 しか もたない 「
正統性」概念 (ェ ドワ-ズ) や本質主義的な主体観
(フリー ドマ ン)で代替 させ, また抵抗主体の成立 も抽象的な レベルにおける
資本 ・賃労働関係の敵対的性格 という前提か ら直接導 き出 してきた。 このパ ラ
ダイムにおいては,労働者の意味世界が問題となることなく,統制構造が資本 ・
賃労働の敵対的な性格を斬現 し,再生産 していることになるのである。 この意
味で, プレイグiマ ンの 「『
主観的な⊂
l
lの もの」の欠落にたいする乗 り越えと
はなっていないのである。つまり,統制 ・抵抗パ ラダイムにおいては,資本 ・
賃労働関係の敵対的性格を前提するだけで, この関係が,その敵対的性格 にも
労働過程における主体分析の枠組
1
4
3
かかわ らず, いかに再生産 されているのかが明 らかになっていないのであ る。
これは,労働者の意味世界の分析を経ず しては解 けない課題であろう。以下で
は, この間題を主題的に取 り扱 ったM ・プラウォイと,彼以降の論者を考察 し
てみよう。
4.プラウ ォイ :ゲームと しての労働過程
M・プラウォイによる労働過程分析 (
Bur
awoy,
1
9
7
9
)は,労働過程論争 にお
いて異色の位置を保 ってきた。 まず第- に,参与観察 にもとづいて労働者の意
味世界を直接扱 った研究であったこと,第二 に, その理論化 に際 してL・アル
チュセールのイデオロギー論に依拠 したことを挙げることがで きよう0
この二点 に基づいて, プラウォイはプレイグァマ ンの理論 に対 して批判をお
こなう。つまり, プレイグァマ ンは労働過程を疎外論的に把握 し, さらに労働
者の意識 に関す る問題を欠落 させてきたが, プラウォイは労働過程 における疎
外論的な把握が必ず しもリア リティーを持 っていないこと, さらに 「同意」を
成立 させ る労働過程 におけるイデオロギー装置を吟味す ることが必要であると
論 じる。
したが って, プラウォイは,資本主義的な労働過程 における労働力の労働へ
の転換を主体性の疎外 ・剥奪 として把握するというよりも,む しろ労働過程 に
おける関係的側面 (これを彼 は生産関係 とは区別 して 「
生産 内関係 (
r
e
l
at
i
ons
」 と呼ぶ)が体験 される次 元 (これを彼 は労働過程の 「イデオ
i
npr
oduc
t
i
on)
ロギー」の次元 として把握 している) に焦点を当てた議論を展開 している。 プ
ラウォイが労働過程のイデオロギー的次元に問題を設定するのは,資本主義的
統制の抱えているジレンマが 「
剰余価値を確保 しなが ら,同時にそれを隠蔽 し
Bur
awoy,
1
97
8:
2
61)ことにあるとみなすか らであ る。 プラウォイ
っづける」(
は, この労働過程のイデオロギーの次元で 日常的な労働が 「ゲーム」 として構
成 されていることを,彼の参与観察の結果か ら導 き出 した。
プラウォイは1
9
7
4年 の7月か ら1
0ケ月間, 多国籍企業であ る農機具 メーカ
(プラウォイ はアライ ド社 と呼んでいる)のエ ンジン部門に機械工 としてはい
り,参与観察を行 った。彼の入 った職場の賃金体系 は,最低賃金保証付 きの出
来高賃金制をとってお り,1
0
0%以上 の出来高 を達成す るとその超過率分 の
「
奨励給 (
bonus
)」が付加 される。会社 と労働組合 との取 り決 めで, 出来高 の
1
4
4
一橋研究 第 1
9
巻第 1号
達成率1
2
5%が 「期待 される割合」,つまり 「熱心 に働 いている標準的な労働者」
が産出す ると期待 されている量 とされている。 また,達成率 1
40%が奨励給 の
出る上限になっており, これを超えると作業の レー ト設定が見直されることに
0
0
%に達 しない場合で も,基本給が支払われ, これは1
0
0
なっている。逆 に,1
%の出来高であった場合 とおな じ額である(
Bur
awoy,
1
9
7
9:
49
)
0
このような賃金体系の下でアライ ド社の機械工 は奨励給ので る出来高を達成
することを 「うま くやる(
ma
ki
n
gout
)
」 と表現 し, これ に係 わ る様 々のイ ン
フォーマルな行動パ ター ンを形成 している。例えば,比較的容易な仕事が回 っ
てきたときに余分 に作 っておき, うま くやれない仕事が回 ってきたときのため
にとってお く 「おまけ」づ くりや, うま くやれないことが分か ったときに作業
速度をおとす 「スロー ・ダウン」などである。 さらに, こうしたインフォーマ
ルな行動パ ターンは,現場の管理者 に黙認 されているだけでなく,積極的に推
奨 されていることさえある。 また, うまくやるためには, 自分の仕事に係わる
他の労働者 (
例えば,検査工や補助労働者など) との関係を うま く維持 してい
かなければな らない。 プラウォイの理論的考察 は, アライ ド社の労働者が こう
した うまくやるために行 っている職場のイ ンフォーマルな行動パ ターンに向け
られる。
プラウォイは, このうま くやるに係わる一連の行動パ ター ンをゲームとして
解釈す る。「ゲームは,一連のルール,一連の諸結果の可能性, そ して諸結果
Bur
awoy,
1
9
7
8:
2
71
f.
)o
の望 ましさの一連 の選好序列 によ って定義 され る」 (
つまり, うまくやることを目指 して各労働者が,一連の外的制約の もとで,坐
産 に伴 う一定の不確実性 (
生産手段にたいす る不確実性や他の生産従事者 との
関係 における不確実性)Lに対処 しながち自己の合理的な選択を行 ってい くゲー
ムとして,職場の一連の行動パ ター ンを解釈す るのである。 しか も,労働者の
職場のこうした活動パ ター ンが賃金体系に関連 した 「うまくやる」で表現 され
ているにもかかわ らず, プラウォイはこのゲームを金銭的な動機づけか らなさ
れている行動 として解釈できないとする。「うまくやることとうま くやれない
ことの違いは,稼 ぐ奨励給の数ペニーではな く, 自分たちの威信,達成感, 自
Bur
awoy,
1
97
9:
8
9
)す なわち, 労働者 の行
信において示 されることになる。」(
動パ ター ンは賃金の最大化を基準 とした合理性 によって意味づけられているの
ではな く,む しろ社会的報酬や心理的報酬 によって説明され うるべ きものなの
労働過程における主体分析の枠組
1
4
5
である。
社会的報酬 とは, うま くやることを媒介 として職場の同僚の間で人間関係が
形成 され,職場の中で評価 されることである。 また, うまるやることを達成 し
ようとす ることによって,時間が過 ぎるのが短 く感 じられるや疲労感が軽減 さ
れるなどの心理的な報酬が存在 している。 こうした社会的報酬や心理的報酬 こ
そが うまくやるというゲームを支えているとプラウォイは主張 している。
「うまくやることは,単 に稼 ぎを増やす という外的な目標によっては理解で
きない。- うまくやることの報酬 は,労働過程 に直接関係 した要素 -疲労や時
間の減少,退屈 さか らの解放など-と,労働過程か ら生 じる要素 一困難な仕事
をうま くやることの社会的心理的報酬や,たやすい仕事を失敗 したために帰せ
」(
I
bi
d.
:
8
5
)
られる社会的な汚名や心理的な不満 一なのである。
つまり, こうした非金銭的報酬 こそが労働者の職場の態度を理解可能 にする
のであ り, またプラウォイの初発の問題意識である 「なぜ労働者 はそれほど熱
心に働 くのか」 (
i
bi
d.
:
Ⅹi
)にたいす る解答になっているo Lか LT
j
:
が ら, プラ
ウォイが この うまくやるをゲームとして把握 した意図は, これだけに留まって
いない。む しろ, プラウォイはうま くやるというゲームが, 「
剰余価値 の確保
と隠蔽」 という機能を果た していることに着 目している。労働者が社会的ある
し)は心理的な報酬を目指 して うまくやるというゲームに熱中することによって
結果的に剰余価値が確保 される。他方, うまくやることの報酬が,社会的ある
いは心理的な報酬 として体験 されるな らば, まさにこのことか ら労働者の利害
が構成 され,剰余価値が隠蔽 されることになるのである。 「ゲームを行 いなが
ら,ルールを問題 にすることはで きない」 (
i
b
i
d∴81
)のであるか ら, 労働者 は
うまくやるというゲームをおこなうことによって,結果的に資本主義的な労働
過程 に 「同意」を与えていることになるのである。
「
労働者が,機械 との関係に係わるゲームに参加 しそいるかぎりで,彼 らの
生産過程 にたいする従属 は黙認の対象 となる。同様 に,他 の生産従事者 (
労働
者,職長など)に係わるゲームに参加す ることによって,労働過程 における統
制の社会的関係,すなわち生産内関係を黙認することになる。 いままでのとこ
ろゲームを行 うことの二つの結果が述べ られた.第一 に,ゲームを行 うことは,
ゲームを もともと成立 させてきた生産関係を隠蔽す る。第二に,ゲームを行 う
ことは,ゲームのルールを規定 している生産内関係 にたいす る同意を成立 させ
1
4
6
一橋研究 第 1
9
巻第 1号
たのである。
」(
I
bi
d∴8
2
)
プラウォイ自身の意図す るところでは, このよ うに設定 されたゲーム概念 の
理論的な戦略意義 は,資本主義的なシステムにとっての合理性 と諸個人 にとっ
ての合理性を媒介す る次元を設定す ることにある。一方では価値増殖を至上命
令 とす る資本主義 システムの機能要件か ら主体の被規定性を強調 し,主体の活
動 をシステム的に決定 された もの とする決定論的な理論枠組 (
プレイヴァマン)
が,他方では自己の意志以外 にはなにものに も拘束 されないという意味での主
体の活動 に絶対的な優位性を与える主意主義的な理論枠組 (
初期 グル ドナーの
産業社会学)が存在 している。
この二極分解 した理論 の布置状況に対 して概念的な意義 をゲームは有 してい
るとす る。「ゲームというメタファーが示 しているのは, 『
歴史』 は, 我 々の
統制を超えた,それ 自身の 『
法則」
lを持 っているが, しか し我 々の諸行為の産
物であるということだ」 (
i
bi
d∴9
3
)
。つまり,ゲーム概念が明 らかにす るのは,
諸行為主体が,極めて限定 されているにもかかわ らず選択の余地を与え られて
お り, この選択を行 ってい く中で,資本主義的な生産 システムの機能要件へ と
媒介 されてい く次元なのである。 マクローミクロレベルでの合理性の接続をゲー
ム概念 は可能にす るのである。
プラウォイの こうした観点の採用 は, その成否 は別 に して も, もはや存在論
的な労働概念か ら主体を前提 ・演縛す るのではな く, む しろ生産内関係の項 と
しての主体 という関係論的な把握 を意味 している (
8
)
。「
諸個人を社会関係 の担
い手あるいは行為主体 (
age
nt
s
) として, また諸活動を社会関係 の (
限定内で
の)諸効果 として提起す ることは,資本主義 における存在の本質的な質を捉え
i
bi
d∴2
3
9
n.
)0
ていることになる」 (
しか し他方, プラウォイの立論 は主体性 にたいす る最小限の保留,すなわち
関係性 に解消 されえない主体性 を認めているかのような体裁をとっている。例
えば, ゲームの概念 は労働者 の内的 「
統制 『
本能』」 を前提 したかのよ うな説
明にさえなっている(
i
bi
d∴1
5
7
)
。 このために, プラウォイは激 しくプレイグ ァ
マ ンを批判 しているにもかかわ らず,次のように述べる際, プレイグァマ ンの
議論を補完す るかの印象 さえ与 え られ るのである。「ゲーム, これ は労働過程
にたいす る統制の喪失を代償す る」 (
i
bi
d.
:
2
01
f.
)。そ して プラウォイはそ う し
た本能的な ものが人矯一般 に あてはまる普遍の 「
類的本質」 で あ るか ど うか
労働過程における主体分析の枠組
1
47
については明確 にはせずに,ただこうした ものを明 らかにす ることは 「マルク
i
bi
d.
:
1
5
7
)課題であるとす るに留 まるO プ
ス主義が避 けることので きない」 (
ラウォイの問題設定 は 「主体性 な き主体 (
s
ub
j
e
c
t
l
e
s
ss
ub
j
e
c
t
)
」(
Bu
r
a
woy,
1
9
81:
9
0
)の分析,つまり根源的な主体を前提す る分析 として提示 されているこ
とになる。 こうした構成 は. プラウォイの実証研究 と理論的枠組が敵酷をきた
している。すなわち,主体の関係論的な把握の前提 として本質論的な把握が混
入す る可能性を生起 させる理論枠組 をとっていたのである(
9
)
0
5.プラウォイ以降の二つのオプ シ ョン
プラウォイの中に混在 していた二つの主体像 に対 して二通 りの解釈の可能性
が開かれているといってよいであろう。第一 に, プラウォイがアルチュセール
的に解決 しようとしたイデオロギー概傘を回避 して,資本主義的労働過程 にお
ける主体性の位相を明 らかにす るというオプションである。 プラウォイが積極
的に展開 しなか った 「
統制本能」的概念に適 った概念を展開 して,主体性の位
相を明 らかにするという方向である。 この概念 は, プレイグァマ ンによって展
開された 「
労働の非熟練化」 というテーゼか ら,労働概念の救済を図ることに
なる。 この試みは,労働過程 における唯一の主体的要素 としての労働概念に再
定位す ることを促すであろう。
第二の解釈枠組 は, プラウォイによって陳述 されたゲームの位相 を,「主体
化」のプロセスとして捉え,関係論的な主体像を徹底化す る試みである。 この
方向性 は,マルクス主義において労働概念が持 って きた特権的な位置に疑義を
投げ掛 けずにはおかないであろう。
ここでは,第一のオプションの一つ として,マナー リング-ウッドによって
展開された 「
暗黙の熟練 (
t
a
c
i
ts
ki
l
l
s
)」概念 (
Ma
nwa
r
i
n
g&Wood,
1
9
8
5)杏
Kni
ght
s
検討 し,次 に第二のオプションとして,ナイツ-ウィルモ ッ トの議論 (
& wi
l
l
r
r
;
ot
t
,
1
9
8
9
)を検討 してみよう.ナイツ-ウィルモ ッ トの議論は,M・フコTの 「
主体化 -従属化 (
s
ub
j
u
gat
i
on)
」概念を,労働過程 にお ける主体分析
の枠組 として用いようとする野心的な試みである。
1
4
8
一橋研究 第1
9
巻第 1号
5.1 暗黙の熟練 :労働概念 に基づ く主体把握の試み
マナー リング-ウッドは,労働過程 における労働者の主体性を復位 させるた
めに 「暗黙の熟練」概念を提起する。 この暗黙の熟練 という概念 は,M・ボ ラ
ンニーが思考の機械論的な把握の仕方を批判 して提起 した 「
暗黙知」の概念に
依拠 している。個人的な知識が科学や芸術の発展の基礎であるというこの暗黙
知概念が,行動における人間の主体性を復位 させ るための概念戟略であったこ
とを考えると,暗黙の熟練概念 もまた労働 における主体性 に焦点を当てようと
する試みであることが理解 されよう。
したが って, この概念を用いてマナー リング-ウッドが問題 とするのは, プ
レイヴァマ ンにおける 「
非熟練化」テーゼであることも,容易 に看取 され る。
労働過程 における労働 という主体的安東の強調,すなわち,非熟練化 した労働
においてさえ,労働者 による生産手段の統制 という側面の看過できない性格が
存在 していること,そ してそこか ら導 き出される労働過程における労資関係の
矛盾的な性格 (
対立的関係でありなが ら協力的な関係で もある) につ いて は,
既 にクレシー-マ ッキネス(
Cr
e
s
s
e
y&Ma
c
l
n
n
e
s
,
1
9
8
0
)
が提起 していた。マナー
リング-ウッ ドは, このクレシー-マ ッキネスの提起を,概念的にも実証的に
も深化 させる試みとみることがで きる。
マナー リング-ウッドが暗黙の熟練の概念 において強調するのは,次の三つ
の次元である。第一 に,型 にはまった作業の遂行でさえ,経験を通 して獲得さ
れてい くという学習過程を含んでお り,そこでは意識 と無意識の相互作用がな
されている。そ して, この過程をとお して,その職務上の知識が暗黙の うちに
蓄積 されてい くのである。第二に,ある活動を遂行する際に,必要 とされる意
識の程度が異なっているということである。通常のおさまり仕事 は,上述の学
習過程の結果, ほとんど無意識 にこなす ことができるが,異常事態に遭遇 して
「
仕事上の秘訣 (
t
r
i
c
k
so
ft
h
et
r
a
d
e
)
」(
Ma
n
wa
r
i
n
g&Wo
o
d,
1
9
8
5:
1
7
3
)を行
使す る場合には,細心の注意を払 って行われることになる。第三 に,労働過程
における集団的な性格に基づいて発展する協働的な熟練である。労働過程が集
合的になされていることか ら,労働者 は他の生産工程 との係わ りにおける熟練
を発展 させてい くQ例えば,流れ作業 に従事 している労働者が, 自分の適切な
作業ペースを行 うために, 自分の前のライ ンを 「
読ん」でお り, これによって
労働過程における主体分析の枠組
1
4
9
全体が同期化 されるのである(
i
bi
d.
)
0
マナー リング-ウッドが こうした暗黙の熟練の側面を強調す ることによって
復位 させようとす る主体 は, もはや統制 ・抵抗 アプローチにおいて抵抗主体 と
して導入 されたような労働過程 に外的に介入 して くる主体ではない。非熟練化
された労働において も,未だ主体性が汲み尽 くされていないことを明 らかにし
ようとするのである。それゆえ暗黙の熟練 は,労働者が決 して資本によって包
摂 されることのない主体の拠 として論 じられていることにな る。 「暗黙 の熟練
概念の重要性 は,それが労働過程内部での主体性の役割を示 していること,す
なわち,管理の能力や万能 さについての制約が明 らかになるように,能動的な
i
bi
d.
:
1
91)。 したが っ
労働者の極めて重要な意味を示 していることであ る」 (
て,「暗黙の熟練概念が示 しているのは,常 にある程度の 自律性 が存在 してい
るにちがいないということである」 (
i
bi
d.
:
1
9
2
)
0
とはいえ,マナー リング-ウッ ドは, この自律性が資本 に対 して完全な自律
性を構成 しているというような主張には与 しない。 というのも,暗黙の熟練は,
先に特徴づけたように,必ず しも意識化 されているわけで はないか らであ る。
すなわち,「暗黙の」 という形容詞が指示 しているとおり, 多分 にその熟練遂
行者が無意識で行 っている次元 に設定 された概念だか らである。そ して, こう
した学習によって蓄積 されてい く熟練 は,具体的な性格を帯びているがゆえに,
個別的な企業や産業 にその有効性が限 られることになるか らであ る。 「暗黙 の
熟練 は,徒弟制 によって訓練 された労働者の技能的熟練 とは異なって,企莱や
i
bi
d∴1
9
0)。 これ は,
産業 (
そ して, しば しば地域性) に結 び付 いて いる」 (
暗黙の熟練がマクロ ・レベルの資本 ・賃労働関係にとって無力,つまりバーゲ
ニング ・パ ワーを有 していないことを示 してお り,む しろこの関係 によって規
定 された状況の範囲内において有効な概念であることを指示 している。
そこで, マナー リング-ウッドが暗黙の熟練概念によって含意す ることは,
労働過程 における管理者 と労働者 との関係をいかに把握するかということに向
けられる。労働過程 において,限定されているとはいえ,労働者の側に自律性
の領域
(
-暗黙の熟練)が絶えず存続 しているのであるな らば,管理の側 はこ
れに依拠せざるをえない。労働過程の内部 に労働者の主体性 は保持 されている
ことになり,管理 と労働者 との関係 において協働的性格 は物質的に基礎づけら
れていることになる。 こうした把握 によって,管理 は, もはや 自らが欲 し,必
1
5
0
一橋研究 第1
9
巻第 1号
要 とす ることを労働者 に果たす 「
万能な力」 としてみなす こと (プレイグiマ
ンが陥 っていた誤 り.
)ができな くなる。他方で,労働者の主体性を,労働過程
の外部 に,つまり抵抗 にもとめるのではな く,その内部 に承認 した枠組 となる・
。
こうした視点か ら,「
労働の人間化 プログラム」 は,「
生産の集団性 と労働者の
i
bi
d.
:
1
87
)ことが理解 で きる。
暗黙の熟練を利用する必要性を反映 している」 (
ところで, この協働的性格 に関 して, プラウォイの理論枠組 との交差が生 じ
る。 プラウォイがイデオロギーの領域 として扱 ったゲーム,つまり労働者にとっ
て限定 された自律性の領域を,マナー リング-ウッドは,暗黙の熟練概念によっ
て代替 させるのである。暗黙の熟練 によって代替 させる効果 は,それがイデオ
ロギーつまり虚偽意識 に媒介 される必要がな く,労働過程 に物質的な基盤 とし
て存在 していることを示す ということにある。
「もはや主体性 は, あたか も労働過程 に外在的であるかのように扱われたり,
あるいはイデオロギーに還元 されない。 というのも,主体性の役割 は生産過程
に (クレシー-マ ッキネスの言葉を用 いるな ら)『内在的』 であ りうるか らで
ある。
」(
I
bi
d.
:
1
82
f
.
)
つまり,労働者 と管理の利害対立 は,労働過程 には根差 してお らず,生産に
既に協働 はビル ト・イ ンされているか ら,イデオロギーの次元で同意を形成す
る必要 はないというわけである。そ して, マナー リング-ウッ ドは,同意の形
成を,ゲームをっ うじた結果ではな く,生産 における主体性の発露の結果に求
めるような展開をお こなっている。マナー リング-ウ ッ ドは,K・カスクラー
(
Ku
s
t
e
r
e
r
,
1
97
8)を援用 しつつ,次の様 に述べている。
「カスタラーは正 しく結論を導 き出 した。すなわち,労働者 は労働 によって
完全 に退化 させ られるているわけではないということである。彼 らが職務を遂
行するために習得する知識によって,彼 らは 『
労働過程 において,学 び,成長
し,そ して社会 に有益な貢献をおこな うことに基づいた満足感や 自尊心を』か
な り得 ることになるのである。-そうした ものとして,仕事に熱中することは,
」(
Ma
n
虚偽意識の形態ではな く,生産 システムの物質的状況の反映であ る。
-
war
i
ng & Wood,
1
985:
1
84)
ここで, マナー リング-ウッ ドが論 じていることは,労働 という主体的要素
が,非熟練化 した労働において も,暗黙の熟練 というかたちで存続 してお り,
その発現が労働者の本質的契機の実現をな しているので,労働者 は 「
満足」や
労働過程における主体分析の枠組
1
5
1
「自尊心」を得 ることになるということである。 しか しなが ら, こうした主観
性と暗黙の熟練の行使 といった労働体験 とが次元の違 った ものであ ることは.
マナー リング-ウッド自身が認めることである。例えば,別のところで彼 らは,
自動車の組立 ライ ンの労働者が 「
疎外 されているにもかかわ らず,-プ ライ ド
をもっている」 と答えていることをとらえて,「もちろん,労働者が プライ ド
をもっていると言 うか らといって,労働者が熟練を行使 していることにはな ら
ない。
」(
i
bi
d.
:
1
77f
.
)としているのである。
暗黙の熟練概念 は, もっぱ ら労働者の主体性の領域を労働に閉 じ込めて しま
うので, 自分 はいかなる者であるのか という意味でのアイデ ンティティの問題
領域を捉えることに失敗 している。 したが って,労働をつ うじて形成 されてい
る社会関係がいかに体験 されるのか, という次元を見落 としていることになる。
これは, マナー リング-ウッドが暗黙の熟練を労働の集団性 に係わ らせて論 じ
ているにもかかわ らず,その次元が個人の持 っている熟練 に萎縮 して しまうこ
とか らも明 らかである。
そこで,マナー リング-ウッドが見逃 した領域を考察 しているナイツ-ウィ
ルモ ッ トの議論を検討 してみよう0
5.2.労働過程 における 「主体化 -従属化」
ナイツ-ウィルモッ トは, プラウォイが明 らかに した職場のゲームを解釈す
る枠組 として, 7-コ-の権力概念 に依拠 した 「
主体化 -従属化」を用いるこ
Kni
ght
s& Wi
l
l
mot
t
,
1
9
8
9
)
0
とを提唱す る(
ナイツ-ウィルモ ッ トによると, フーコーによる主体性の議論の際立 った特
徴 は,主体性を,規律 -訓練のメカニズム,監視の技術,権カー
知 の戦略が多
元的に構成 したものとして理解することにある。 これ らの 「
社会的な もの」 と
「自己」の技術 によって, 自己規律的な主体が産出されるとす るのであ る。 こ
れ らの権力の技術 は,諸個人を絶えず 自分 自身に振 り返 らせ ることによって,
「
良心や自己の知識」 と彼 ら自身のアイデ ンティティとを結 び付 ける。 この権
カー
知に基づ く諸実践のなかに自己が位置づけられることによって, 自分が何
者であるのかというアイデ ンティティが確証 されることになる。 こうした主体
化の結果,諸個人は権力に従属す ることになる。主体性 は権力の効果 として理
解 されるべ きであって,主体性を創造的で自律性を有 した場 とする理解を批判
1
5
2
一橋研究 第1
9
巻第 1号
す るのである。ナイツ-ウィルモ ッ トは, フーコーのこの問題系に,なぜ諸個
人が権カー
知 に基づ く実践 に参加す るのかという問題を付 け加える。
「
彼 自身 (フーコー :引用者) は決 して明確 に していないのだが,主体化 従属化が生 じるのは,諸個人 に安定 とか帰属性の感覚を与えると思われていた
り,考え られたりしている諸実践 に参加す ることへ と, ある主体の自由が,狭
陰にしか も自己規律的な装いで,向け られているか らである。 このように示唆
」(
I
b
i
d.
:
5
5
0
)
す ることは,決 して誤読ではなかろう。
近代における権力 レジームの登場 は,共同体的な 「
相互尊重 という自明祝 さ
i
b
i
d∴5
5
1
)に基づ く諸個人の結 び付 きを解体 し,社会 的孤立が諸
れた期待」(
個人に不安の感情を醸成 して きた。社会的孤立 に基づ く不安のために,権力た
巻 き込 まれてい く主体化 -従属化のプロセスへ諸個人が参加 してい く・
ことにな
るとナイツ-ウィルモ ットは考えるのせあるoそれゆえ, こうした権力⊥
知に
基づいた諸実践に参加す ることは,諸個人のアイデ ンティテ ィの源泉を与えて
肯定的な性格」を有 している。「まさに権カー
知関係 の肯
いるという意味で,「
定的な性格が,その関係を魅力的で もっともらしくしているのである」 (
i
b
i
d
.
:
。そ して, この性格か ら,諸個人 はますます 自己のアイデ ンティティの基
5
5
0
)
盤を権力に依存 させ ることになるのである。 さらに,監視や規格化 という権力
の技術 によって,諸主体 はアイデ ンティティを制度化 された判断基準に照 らし
合わせなが ら形成 してい くことになる。その結果,諸主体 は社会的承認 という
「
希少財」をめ ぐって,他者 との競争 に陥るが, このため諸個人 は, 個人化す
る権力を強化 して しまう結果になるのである。
ナイツ-ウィルモ ットが, フーコーを援用 しなが ら,焦点を当てたのはこう
した 「自由の もつ肯定的な,そ して否定的な側面」である。
「
肯定的には, 自由は人間の自己意識的な性格に,すなわち,行動への志向
性 に関わる。 これは諸個人が権力 にどの程度従属 しているのかにはかかわ らな
い。 しか しなが ら,他方で この自己意識には 『開放性』が存在 しており, これ
が不安を誘発す る。 というのも,それは内容なき志向性を強 い るか らである。
近代西洋の権力の諸テクノロジーの特徴 は,社会的な文脈の範囲内で,諸主体
の独立 した自由を高めて きたが,その社会的文脈 は,それを維持するための形
態を狭陰に し,その手段を制約 しているのであるo
」(
I
b
i
d.
:
5
5
1
)
ナイツ-ウィルモ ットは, この文脈を 「アイデ ンティティのフェティシズム」
労働過程における主体分析の枠組
1
5
3
(
i
bi
d.
:
5
4
4)として語 っている。つまり, アイデ ンテ ィテ ィ形成 は社会的過程
をへることによって達成 されるのであるが,そのフェティシズムのために当の
社会的過程が消 し去 られて しまうのである。「
主体の凝固によ って,主体性構
成の持続的で不安定な過程が見失われる」 (
i
bi
d.
)
。上述のナイツ-ウィルモッ
トの議論 は, この社会的過程をフーコーの権力概念をもとに論 じているのであ
る。強調 されているのは,凝固 した主体性への固執 と,主体性構築の不確実性
とが もた らすネガティブな効果 (
主体化 -従属化)の可能性なのである。
-以上の視角か ら,労働過程 における主体性の分析を,アイデ ンティティの追
求とその不確実性に焦点を当て考察すべきであるとす るo プラウォイのゲーム
について もこうした観点か ら解釈 されるべ きであるとするO プラウォイが評価
されるのは,労働過程の諸制度 (
奨励給制度,職歴体系など)を労働者の個人
化 (
労働者が社会的孤立状態 に置かれること) と主体化 (自己を振 り返 り, ア
イデ ンティティを追求す ること) との関連で論 じていることである。 ナイツウィルモ ットに したが うと, 奨励給制度 は権力 のメカニズムを示 してお り,
「うまくやる」 という実践 に参加することによって, 自己を有能 で, 自律 した
男であると確証するように仕向けているのである。所得を最大化するというゲー
ムとして労働を再構成す ることによって,労働者 はアイデ ンティティを確証 し
ていると同時に, 自分が従属 している諸条件を再生産す るという意図せざる効
果がそのゲームに生 じているのである(
i
bi
d.
:
5
5
0)。 つ ま り, ゲームに参加 す
ることを主体化 -従属化のプロセスとしてナイツ-ウィルモ ッ トは理解す るの
である。
さらにナイツ-ウィルモ ッ トは二つの点でプラウォイを補足 ・批判する。一
つはプラウォイがゲームの条件をもっぱ ら独 占資本主義 における統制の緩和 に
関連 させて述べ,主体性が構築 されるメカニズムを理解 していないことである
(
i
bi
d.
:
5
5
2
)
。 したが って,統制の緩和が生 じて いないよ うな局面 における主
体について語れない。 このことについて, ナイツ-ウィルモ ッ トは次のような
補足を行 っている。
「
個人的な権利や責任を有 した独立 した主体であるという体験 に関連 した威
厳その ものを従属が浸食するか ぎりにおいては,従業員 は自分 自身の価値っい
ての防御的で しば しば私的な感覚に戻 らざるをえな くなるであろう。 したが っ
て,従属 にたいす る共通の反応 は, 自己の独立や 自己の価値 といった感覚 に矛
1
5
4
一橋研究 第1
9
巻第 1号
盾す るような支配の条件 に心理的な (
役割的な)距離をとることである。仕事
で起 こることには,給料以外 はほとん ど無関心 な態度を とることによって,従
属 とい う侮蔑的待遇 を無視 し,同時に, より多 い選択や自律を体験す る自分の
第二 にマスキュ リニテ ィーについてである。 プラウォ・
イは職場 に女性がほと
Bur
awoy,
1
9
7
9
:
ん どいなか った ことか ら,職場 における男女 の関係を捨象 した(
1
4
0
)
。 しか し, ナイツは, アイデ ンテ ィティとの関連では,職場 における女性
Kni
ht
g
s
,
1
9
9
0:
3
1
2
f
.
)
O肉体的につ らい仕事 と
の不在 こそが重要であるとす る(
女性の不在が結 びついて男 らしさというアイデ ンテ ィティを構成 し, このアイ
デ ンティティを維持す るために厳 しい労働条件 を進んで引 き受けることになる。
「
産業労働者 は物質的富の基礎 は自分たちの責任 にかか って い る ことを十分
に意識 している。 しか し個人化 された癌果, この知識 を資本主義の攻撃 のため
に用 いるので はな く, 自分 たちの階級的 ・性的な主体性あるいはアイデ ンティ
ティを執物 に防御す るために用いるのである。
」(
I
b
i
d:
3
1
3
)
ナイツ-ウィルモ ッ トが この二点で プラウォイを補足 ・批判 した ことは,結
局 プラウォイが本質的な主体性を前提 したために主体性が構成 された ものであ
るという観点 を弱めた ことにある。 そのため, プラウォイの議論 は非熟練化 し
た労働 における 「
代償」 と してのゲームとい う趣を とらざるをえなか った。 ナ
イツ-ウィルモ ッ トはこのプラウォイの本質的主体観 の残樺を解体 しようと読
みたということがで きる。
小括
7
0
年代の労働過程論が主体性論 とのかかわ りにおいては,諸統制様式 と闘争
主体 との関係 を模索 したのに対 して,8
0
年代 においては日常的に仕事 に従事 し
ている労働者の主体性をいかに理論化す るのか と言 う方向性を もったといえよ
う。前者 は労働過程統制の制度化 とそれに対抗す る主体 という問題構成をとり,
労働者が主体であることを労働 という契機 に求 めた。 プレイヴァマ ンの章で検
討 したように,労働 という行為がそのまま労働者の主体性を担保するものであっ
たO統制 ・抵抗パ ラダイムも基本的にはこの構成を踏襲 していたO このパ ラダ
イムでは,主体性 を担保 している労働が資本主義的な労働過程において制度化 ・
客体化 されてい くことに抵抗主体成立 の根拠をみいだ したのであるO これに対
労働過程における主体分析の枠組
1
5
5
して, ブラォイ以降で取 り上げた論者 はその制度下で労働者が いか に 「主体」
として労働 に従事 しているのかに着 目 したのである。
プラウォイの研究 は,労働がいかに体験 されるかという次元において展開さ
れた。それは,労働が 「うま くやる」 というゲームに自己組織化 されていると
いうことを明 らかに した。 このゲームの領域 において,労働者は主体的に,戟
略的行為の一環 と して労働を行 っているのである。 どの程度激 しく, どのよう
な仕方で,労働をおこなうのかを決定 しているo この意味で,労働者 はゲーム
において主体 になる。そ して, この戦略的行為 は,結果的に 「
剰余価値の確保
と隠蔽」 という資本主義的統制の機能 に結 び付 くことになる。
これに対 して, マナー リング-ウッ ドは,労働者は暗黙の熟練 として主体性
を行使 しているのであるか ら,ゲームというようなイデオロギー的領域を設定
する必要がないと主張す る。 ここには,労働概念に基づいた主体性の復位が意
図されていたが,それがいかに労働者のアイデ ンティティの問題へと結び付 く
のかが明 らかになっていなか った。
他方, ナイツ-ウィルモ ッ トは,ゲームにおいて主体性が,アイデンティティ
がいかに構成 されているのかを, プラウォイが明確に していないことを批判す
る。その含意 は,労働者の主体性を労働を行 うことに求める従来のマルクス主
義的な主体観を,人 はいかに労働する主体へ と構成 されるのかという観点へ と
転換を図 ることにあった。
しか しなが ら,第一 にナイツ-ウィく
レモットの議論は,近代における主体化従属化の大枠が提示 されているだけで,近代以降の工場 という領域で展開され
てきた権力の技術が具体的に検討 されているわけではない。 したがって,統制 ・
抵抗アプローチが示 してきたような諸管理戦略の種差性が,いかに労働者の主
体性 (アイデ ンティティ) と結 び付 いてきているのかが明 らかでない。権力の
技術の個々の具体的な帰結 として主体化-従属化が語 られる必要があろう。第
二に, こうした ミクロな権力の効果が,マクロな権力あるいは資本 ・賃労働関
係 と接合 されてい くかが明確ではない。おそ らく, プラウォイが述べたような
「
剰余価値の確保 と隠蔽」 といったマクロ的合理性 と主体化 -従属化 とい う効
果とが, いかに結び付いているのかを明 らかにすることが必要であろう。
い くつかの理論的,実証的な問題点 ・未解決な点をはらみなが らも,以上の
三者の概念 は労働過程 における ミクロ ・ポ リティクスの問題地平を共有 し,労
1
5
6
一橋研究 第 1
9巻第 1号
働者の (自発的な行為の場) とで もいいうるべ き領域を問題に している。そ し
て, この領域が,労働者にそれと認め られないままに,支配へ と結 び付いてい
ることが問題 となっているのである。
最後 に, こうした理論 はプレイグァマ ンと同 じ誤 りに陥 っていると批判 され
るか もしれない。すなわち,闘争主体の欠落である。 しか し,私見では, この
闘争主体でさえ も,資本 ・賃労働関係か ら直接に帰結す るのではな く,その関
係が解釈 され,労働者の日常性を支える意味構造の中か ら生 じて くるものと考
える必要がある。 自発的な行為の場 において意味付 けられた自己が,その自己
の成立 させている状況 とずれを生 じていると認識 されたときに,闘争主体への
転換の可能性が生 じているのであって,状況や意味性か ら帝離 した所でアプ リ
オ リに闘争主体が成立す るわけではないのである。
例えば,先の統制 ・抵抗パ ラダイムが仮定 したように熟練の剥奪が即,労働
者の抵抗を もた らすのではな く, この熟練が労働者の自己認識 にとってどのよ
うな意味を もっていたのか,そ してその剥奪がいかに自己認識 と敵鯨を生 じさ
せ るのかによって,抵抗の存否が決定 されると考えるべきである。 ひとたびこ
のような問題設定を行 うならば,実体的な熟練ではな く,その熟練を評価 して
いる社会的枠組,状況が問題になるであろう。 どのような労働を資本 (あるい
は社会) は熟練 として評価 し, またそれに対 して報酬を与えてきたのか。また,
労働者はそ うした社会的資源をどのように労働者間の連帯に役立て,その熟練
労働者 というアイデ ンティティを獲得 してきたのか。そ して,資本の新たな管
理戦略はこの労働者のアイデ ンティティにどの程度整合 し, どの程度整合 しな
か ったのか。 これ らのことが,非熟練化 と労働者の抵抗を議論するための前提
となるべきである。おそ らく,統制 ・抵抗パ ラダイムが試みたような歴史的研
究において も, この方向での展開が必要 となって くるであろう。
労働過程 における主体分析の枠組
1
5
7
註
(1) のちに,闘争主体 としての労働者を取 り扱 っていないこ.
とへの批判 に対
して, プレイグァマ ンが,「
私 は, いわゆ る先進資本主義諸国 の労働者 階
Br
av
e
r
man,
1
9
7
6
:
1
2
4
)と
級の革命的な潜在力を全面的に信頼 している」(
述べた。 しか し, この ことは理論化 されてお らず,彼の信条告 白に終 わ っ
ている。
(2) プレイグァマ ンのこうした主体像が, ロマ ンチシズムであ りまた本質主
t
l
e
r(
1
9
7
8
)
,Ki
nght
s(
1
9
9
0
)らによる批
義的であることについては,Cu
判を参照のこと。
(3) と同時に,現代セは産業の中核 ・周辺の軸にそって,労働市場 が独立主
要,二次的市場 に分断されてお り, これ らに対応 して,官僚制 的統制, 技
術的統制,単純統制が併存 していることも主張 している。
(4) 経済 ・社会的環境の規定性 について, エ ドワーズは後 に,D.
M.ゴー ド
ンらとの共著 において 「
SSA (
蓄積の社会的構造)」 理論 と して, 景気循
環の長期波動などを援用 しなが ら展開 して い る
(
Co
r
do
ne
tal
,
1
9
8
2-
1
9
9
0
)
(5) ェ ドワーズ自身 は,資本主義における技術が中立的であるとは認 めてお
らず,利潤 との関係で技術が選択 されて きた と している(
Ed
wa
r
d
s
,
1
9
7
8
:
1
1
4
)
0
(6) 特定の時代 における管理戦略の採用に関す るフ リー ドマ ンの議論 は, 市
場の諸状況 (
労働市場や商品市場 における需要 ・供給の状態) に規定 的 ・
一次的役割を与えている傾向が存在 している。 フ リー ドマン自身 この傾 向
があったことを認 めているが, しか し 「
市況の影響が労働者 の抵抗 と経営
者の反対圧力によって媒介 されていると常 に言明 してきた」(
Fr
i
e
nd
ma
n,
1
9
8
7
:
2
9
0
)として, そうした批判を回避で きると考えている。
(7) フリー ドマ ンは, こうした両戦略の持 っている矛盾の解決 と して内部労
働市場の成立, またこれにともな う労働者の周辺労働者 ・中核労働者 への
分断が行われてきたと論 じている。
(8) 無論, プラウォイの主眼 はその頃としての労働者が体験す る意味世界 の
イデオロギー機能の分析 にある。
(9) アルチュセールはイデオロギー内部においてのみ主体が成立 す ると強調
して きたのであるが (
Al
t
hus
s
e
r
,
1
9
7
0
-1
9
7
5
)
, プ ラウォイの力点 はむ し
ろ構造 と主体の合理性を取 り結ぶ次元 としてのゲーム概念 にある. この際,
本源的な主体性の理論を構築 しなければな らないとするな らば, プラウォ
イは明 らかにアルチュセール的主体概念か らの逸脱 していることになる。
1
5
8
一橋研究 第1
9
巻第 1号
文献表
Al
t
hus
s
e
r,L.(
1
9
7
0
)"
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d占
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ogi
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