ヒロイン様にフラグが立たないその理由

ヒロイン様にフラグが立たないその理由
逢月
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︻小説タイトル︼
ヒロイン様にフラグが立たないその理由
︻Nコード︼
N8860CE
︻作者名︼
逢月
︻あらすじ︼
何の因果か知らないけれど、乙女ゲームの世界に転生していた
彼女と彼。
彼女はヒロインを蹴落とす悪役令嬢に、彼はヒロインの攻略対象
に。
将来的にはそのような立場になる予定の二人だったのだが、二人
が前世の記憶を持っていることで、物語はゲーム通りには進まなく
て。
ヒロインにフラグが立たない理由は、二人の幼少期から始まる。
1
悪役令嬢予定な彼女の場合
リリア・オルトランドという公爵令嬢は、元々は狩人の父と薬師
の母の間に生まれた平民の娘だった。
平民によくある茶色の髪と、平民の割には綺麗な翡翠の瞳を持っ
た彼女は、幼い頃はとても心の優しい少女だったらしい。
狩人の父が薬師だった母の死後、たまたま森で行き倒れていた女
性とその息子を見つけて家に連れ帰った頃から性格が変わったとい
う。
大好きだった父には反抗的になり、やがて新しく母となった女性
には辛く当り、兄をまるで小間使いのように扱き下ろしたと。
新しい母が実は公爵家の元侍女で、当主の御手つきとなって息子
を産んだため、公爵夫人に追い出されてこの辺境の村に辿り着き、
父とともにその新しい母も流行病で亡くしてから、公爵本人が息子
を迎えに来たときに偶々魔力を持っていたことを買われて、ついで
に公爵家に養女として引き取られた後で、さらに性格が高飛車な方
向に悪くなる予定だ。
公爵の父に似て美形な兄に群がる女どもに嫌がらせの限りをつく
し、魔法学園で出会った元平民のヒロインを自分のことを棚に上げ
て侮辱しまくって蹴り落としつつ、兄との恋愛を邪魔する立派な噛
ませ役︱︱もとい、悪役キャラに育つのだ。
⋮⋮まあ、それは、あくまでゲーム上の話なのだが。
何の因果か知らないけれど、死の間際までやっていた乙女ゲーム
の世界に転生してしまった私。
そう、私の名前もその境遇もまさにその“リリア”だということ
に気付いたのは、薬師の母が魔物に襲われて死んだと父に聞いた直
後。
五歳児の脳は、前世二十八年分の記憶のフラッシュバックに耐え
2
られず、私はその場で気を失った。
そして、目が覚めた頃には、もう件の女性とその息子は家に運ば
れていた。
物語の流れだとはいえ、もう少し間を空けようと、父に対して残
念な視線を送ってしまったのは仕方のないことだろう。
しかもあろうことか、何もかもが夢ではないかと、母の部屋に恐
る恐る行ったらこの展開。
亡くなった母が普段寝ていた場所に、突然見知らぬ綺麗な女性が
眠っていたら、子どもが多大なショックを受けるのは当然だ。
森で魔物に襲われていた女性に父が母を重ねていたからだと理由
を知っていた私でさえ、胸を抉られた。
お母
という訳で、心の整理をするためにも物語通りにプチ家出を敢行
している私なのだが。
﹁お兄様が一向に迎えに来ない件についてどう思いますか?
さん﹂
夕日がすでに沈みかけている丘に建てられた簡素な墓標に対して
問うが、答えは返ってこない。
ゲーム通りなら、ここで将来的に兄となる彼が迎えに来て、銀髪
にアメジストの瞳を持つ美形な彼にこっそり恋に落ちるのだけれど。
兄への恋情に身を焦がしながらも素直になれない少女は、とって
も大好きな兄にたくさん意地悪しちゃうのに。
世の中上手くいかないものだとは前世で痛感したけれど、せめて
夕日に照らされた美少年のスチルくらい生で見せてくれてもいいの
にと溜息を吐きながら、私は月が照らし始めた丘を一人でトボトボ
と帰るのだった。
3
家に帰ると、どうしてか台所で鍋の底を見詰めている彼がいた。
何も入っていない鍋を見詰める姿すら絵になる彼に首を傾げると、
彼は無表情のまま鍋を差し出してきた。
﹁おかえり。リリアは、料理はできるのか?﹂
ああ、お腹が空いたのか。私もそういえばお腹が空いていたわ。
彼の言動に何となく違和感を抱いたが、今時の王都出身の六歳児
はしっかりしているんだなぁと勝手に納得して返す。
﹁ただいま。昔はできていたので、大丈夫だと思います。何か食べ
たいものはありますか?﹂
安っぽい鉄製の鍋を受け取り、コンコンと強度を確かめる。
今世初挑戦となる訳だが、焦げ付きに注意すれば、できないこと
もないだろう。
﹁⋮⋮うどんが食べたい﹂
え、うどん?
この中世ファンタジーな世界にしては聞き慣れない言葉に顔を上
げると、相変わらず無表情な彼と目が合った。
﹁うどん自体はともかく⋮⋮塩どころか、醤油なんてうちにはあり
ませんよ﹂
4
﹁うどん、あるのか?﹂
﹁いや、それを聞きたいのはこっちなのだけど。醤油とか味噌とか、
王都に行けばあるんですか?﹂
﹁王都にあるのかは知らない。でも、君が知っているということは、
醤油や味噌がこの世界にもあるということなのか?﹂
顎に手を当てて考え込む彼。
その六歳児らしからぬ冷静さと言葉の節々にふと思い当たること
があり、私は目を見開いた。
彼もやがてその可能性に行き当たったのか、ハッと急に驚いた顔
をして私に詰め寄った。
﹁もしかして⋮⋮君は、転生者なのか?﹂
﹁⋮⋮まさか貴方も、転生者?﹂
お互いに驚愕の表情で数十秒、同じタイミングで鳴ったお腹の虫
に仲良く目を逸らすまで私達は見詰め合っていた。
結局、その日は庭の野菜をたっぷり入れたすいとんを作って食べ
た。
久しぶりに日本的な料理を食べたため、私と彼は気付けば泣いて
いて、私を探すために外に出ていたらしい父が途中で帰ってきて、
どんな勘違いをしたのか変に涙を流されたりしたが、それ以外は概
ね平和に日々は過ぎた。
長旅で体力が落ちて寝込んでいた女性も、薬師の母が残した薬と、
私と彼の日本的創作料理で元気になり、今では父と笑い合っている。
5
そんな新婚さんを若干半眼で生温かく見詰めている私と兄の仲も、
ゲームとは違ってとても良好だ。
私は新しい母に礼儀作法や文字を教わりながら、薬師の母が残し
た手記を読み解いて、今では薬の調合に挑戦している。
兄は元々生まれたときから記憶があって、貴族的な礼儀作法も読
み書きも公爵家で学んで完璧ということなので、今は父に狩りや戦
い方を教わっている。
攻略対象になるほどスペックが高い兄のおかげで狩りの成果も増
えたので、我が家は村の中でも裕福な生活を満喫中だ。
その所為で、というか、精神年齢がなまじ高いものだから、村の
子ども達と仲良く遊べない私達に対する餓鬼どものやっかみがすご
いが、兄と一緒にゲームの舞台となる学園で教えていた通りに魔法
の練習もしていたから、暴力沙汰も特に問題には至っていない。
石を投げるどころか、鎌などの農具を投げてくる子どももいるけ
れど、おかげで反射速度と防御魔法のレベルだけはぐんぐん上がる
ので、私達に対してはもっとやれとすら思う。
ただ、綺麗な母に対して、大人がこの余所者がと嫉妬のやっかみ
をぶつけるのはいただけない。
母もたしかに悪いところがないとは言わない。侍女経験があると
はいえ、母も元は貴族なのだ。
礼儀作法はできても料理はできないし、洗濯も洗濯物を運んだこ
とはあるけど洗ったことはないからできないし、金銭で買い物はし
たことはあるけど物々交換はしたことがないから感覚がわからない
ときている。
しかし、できずにいるのは元を正せば私達、転生者兄妹が高いス
ペックを以って、母を俗世に出していないだけなので、責めるなら
私達を責めてほしいのだが。
身体が恐らくは普通の人よりも大分弱い母に、村での生活は辛い
と思う。
6
朝早く起きて農業して、食事を作って、近くの川まで行って水を
汲んで、洗濯をして︱︱綺麗な手をしている母には、いつまでも綺
麗でいてほしいと思うのは、私達の我儘なのだろうか。
﹁お母さんは、お母様のことどう思う?﹂
墓標に兄が森で摘んできてくれた色とりどりの花で作った花輪を
かけて。
﹁私は、お母様はこのままお姫様でいいと思うんだ。私が侍女で、
お兄様が騎士で、お父さんは柄じゃないけど王子様。そんな生活が
続けばいいと私は思っているよ﹂
そこにお母さんがいれば、尚更良かったと思うけど。
⋮⋮とは、口に出さないけれど、それでも今の生活は私にとって
は幸せそのもので。
﹁⋮⋮おい。暗くなる前に帰るぞ﹂
振り返れば、夕日に照らされた銀髪とアメジストの瞳を持つ彼が
いて、いつか見たスチルのように私は彼に恋をする。
そんな日常の中でいつまでも過ごせたら良いのにと、私は微笑み
ながら彼と歩いていった。
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攻略対象予定な彼の場合
ランスロット・オルトランドという公爵令息は、元々は公爵が浮
気をして侍女との間にできた息子だった。
高位魔力保持者の証である銀髪と澄んだアメジストの瞳を持った
彼は、幼い頃は本来なら怯えながら暮らしていたらしい。
妊娠の気配さえなかった公爵夫人を差し置いて、非公式ながら公
爵家の長男として生を受けたため、酷い仕打ちを受けたという。
子がいなかったオルトランド公爵の庇護下にありながら、元王家
の姫でもある公爵夫人や周囲からの冷遇に耐えていたと。
やがて公爵夫人が男児を出産して、必要のなくなった非公式の長
男は母とともに屋敷を追い出され、公爵はせめて殺されないよう手
を回すことが精一杯だったと別れの際に泣いて母子を見送り、母を
愛していた公爵はいつか迎えに行くからとの約束通り、公爵夫人と
公式の長男が事故で亡くなった後で、辿り着いた村ですっかり人間
不信になったあげく、母を亡くして心が死んだ息子を迎えに来る予
定だ。
その後、ランスロットは貴族が集う魔法学園に入学させられ、そ
こで出会ったヒロインに心を癒されて、立派な公爵家の跡取りとな
るのだ。
⋮⋮まあ、それは、あくまでゲーム上の話なのだが。
何の因果か知らないけれど、死の間際まで妹がやっていた乙女ゲ
ームの世界に転生してしまった俺。
名前もその境遇もまさにその“ランスロット”だということに気
付いたのは、産声を上げる俺を抱き上げた嬉しそうな公爵を見た直
後。
あまりのショックで生後一年くらい記憶がぼやけているのは、俺
にとっては幸いだった。
8
身体は確かに子どもだったとはいえ、綺麗な女性達に下の世話を
されるのは恥ずかしすぎて悶え死ぬところだった。
必死に歩けるようになった俺は、世話をしてくれる公爵側の侍女
や執事には愛想を振りまきまくって、味方と知識を手に入れた。
俺を産んで弱い身体に拍車をかけて儚くなった母のため、公爵夫
人や周囲からの冷遇はすべて俺に向かうように仕向けたりもした。
﹁お父様の跡を継いで、公爵家のために頑張るね!﹂と一見無邪
気で、その実、邪気たっぷりな笑顔を敵側に振りまきまくったのだ。
父譲りの魔力の高さを見せつけたり、頭脳は大人な優秀さを見せ
つけたり、それはそれは忙しい日々だった。
六年間、一握りの味方を除いてはすべて敵という環境を生きてい
けたのは、一重に俺にプラス二十九年の記憶があったからだろう。
あのような環境で実際に子どもを育てたら、絶対にグレるか心が
死んだようになることは間違いない。
公爵夫人に息子が産まれ、追い出されることになった俺は、こん
な環境に母を置けるかと意気揚々と母と屋敷を出た。
別れの際に泣いて母に縋っていた父は正直うざかったが、俺達に
公爵夫人の手が回らないようにどうにかしてくれた口の巧さは認め
る。
俺の優秀さがあっての説得だったようだが、実際、公爵夫人やそ
の周囲の人間は辺境へと向かう俺達には手を出してこなかった。
実戦経験はなかったが、来たら来たで刺し違えても返り討ちにす
るくらいの魔力はあったから、構えてはいたんだが。
辺境の村にあともう少しで辿り着くというところで、この一帯に
は元来いないはずのドルグラベアという熊のような魔物に出会った
ときは、フラグの強制力に驚いたものだが、物語通り新しい父とな
る狩人が奇襲してくれたおかげで、俺達は難を逃れた。
9
ここまで運命が強制的ならもう休んでも大丈夫だろうと、家に着
いた途端、倒れた俺を狩人が部屋に運んでくれて。
連日の野宿で体調を崩した母の隣りで俺が目覚めたのは、まだ太
陽が沈む前のことだった。
ふと、家に向かう途中で狩人に聞かされた、リリアという少女の
存在を思い出す。
たしかゲーム通りなら、母の死を受け入れきるその前に、母の部
屋に違う女性が眠っていることにショックを受けて、性格が変貌す
るのだったか。
夕焼けの丘で、迎えに来たランスロットに一目惚れして、やがて
は公爵家の養女となって高飛車なツンツン悪役キャラになるはず。
娘がいなくなったことに慌てる狩人を見ながら、このイベントを
俺が無視したらどうなるのだろうと考えて足を止めた。
﹁ランスロット君!僕はリリアを探してくるから、君はここでフィ
リアさんを看ていてくれ!﹂
いつの間にか慣れ慣れしく母の名を呼ぶようになった狩人の背を
見送り、その言葉通りにしておこうと俺は母の元に向かった。
空が夕焼けから月夜に変わり、さすがにここまで帰ってこないと
妹になる予定の彼女も魔物に襲われているのではないかと心配にな
ってきた。
だが、ろくな実戦経験も土地勘もない俺が夜に探し回っては、逆
に狩人に迷惑をかけることになりそうだと思い直したとき、ここ数
日、体力的に落ちてきた母にばかり食べさせて、こっそり何も入れ
てなかった腹が鳴った。
だからという訳でもないが、せめて食事でも用意しておこうかと
台所に行ったはいいけれど。
料理器具の使い方がわからない。
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野営の知識はあれど、平民の台所の使用方法など盲点だった。貴
族の屋敷では魔道具を使用していたし。
この鍋、明らかに鉄製だが、いつもの勢いで魔法で熱を通したら
変形しないだろうかと途方に暮れていたとき、扉が開く音がした。
帰ってきたのは狩人ではなく、茶色の髪をふわふわさせた綺麗な
翡翠の瞳の少女だった。
︱︱驚いた。俺の妹となる予定の少女は、とてつもない美少女だ
ったらしい。
服は古ぼけた簡素なワンピースなのに、その野暮ったさすら可愛
く見える。
その印象的な大きな目をぱちぱちさせて、首を傾げて見てくる少
女に鍋を差し出した。
﹁おかえり。“リリア”は、料理はできるのか?﹂
リリアが料理ができるのかどうか、ゲーム内では描写がないため、
わからなかった。
公爵令嬢は平民のように料理などしないと、魔法学園の野営訓練
でも高笑いで言い放ってヒロインだけにさせていたし。
腹が減っていたし、咄嗟のことで、自己紹介などすっ飛ばしてし
まったが、少女は気にしなかったらしい。
﹁ただいま。昔はできていたので、大丈夫だと思います。何か食べ
たいものはありますか?﹂
彼女はナチュラルに鍋を受け取って、コンコンと叩いてみせた。
その懐かしい音に、前世で一人暮らしをしていたときは、そんな
安い鍋でよくうどんを作ったなぁと思い出して何だか懐かしくなっ
た。
だから、ついこの世界にあるはずのない﹁うどん﹂なんて言葉を
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口走ったのだが。
﹁うどん自体はともかく⋮⋮塩どころか、醤油なんてうちにはあり
ませんよ﹂
なんてものを作らせる気なんだと、明らかに理解している顔を上
げた少女に疑問を投げる。
﹁うどん、あるのか?﹂
﹁いや、それを聞きたいのはこっちなのだけど。醤油とか味噌とか、
王都に行けばあるんですか?﹂
﹁王都にあるのかは知らない。でも、君が知っているということは、
醤油や味噌がこの世界にもあるということなのか?﹂
いまいち噛みあわない会話。
糖分の足りない頭で考え込んで︱︱ふと、その可能性にぶち当た
った。
目を見開いている彼女は、もうすでにその答えに辿りついていた
ようだ。
﹁もしかして⋮⋮君は、転生者なのか?﹂
﹁⋮⋮まさか貴方も、転生者?﹂
お互いに驚愕の表情で数十秒、同じタイミングで鳴った腹の虫に
恥ずかしそうに目を逸らした彼女が可愛くて俺は隠れて笑っていた。
その日、彼女は庭の野菜をたっぷり入れたすいとんを作ってくれ
12
た。
久しぶりに食べた食事が日本食だなんて⋮⋮俺は、気付けば食べ
ながら泣いていた。
それほどに美味しすぎたのだ。本当に久しぶりの、毒味のいらな
い、ちゃんとした温かな家庭料理は。
今思えば、すっかりこのときに俺の胃袋は彼女に掴まれていたの
だろう。
村に来てから、俺達にとっては概ね平和に日々は過ぎた。
身内が初々しくいちゃつく姿を若干半眼で生温かく見詰めている
俺と彼女の仲も、ゲームとは違ってとても良好だ。
実戦を教わるついでに父さんと山に狩りに行っては、彼女に料理
を作ってもらって、俺の所為で苦労をかけている母さんにも美味し
いものをたくさん食べさせた。
体力が落ちていた母さんは、彼女の産みの母が残した薬もあって
徐々に元気になっていった。
裕福になっていく余所者の俺達に対して、村の人間は良い顔をし
なかったが、彼女はさらっとそのすべての悪意をスルーしていった。
農具が飛び交う中を颯爽と歩く彼女が格好良すぎて爆笑した。
でもって。
﹁お母様は綺麗だからお姫様なの!私が侍女をやるから、どうすれ
ばいいのかいっぱい教えて?﹂
めずらしく子どもの顔で母におねだりする彼女は、思わず笑いが
漏れるほど愛らしかった。
後で彼女に睨まれたが、後々のことを考えると彼女は母に礼儀作
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法などを教わっていたほうが良いと思うので、母の前では必死に子
どもの振りをする彼女の前で、俺は必死に笑いを堪えていた。
森でたくさんの花が咲いた春の日、俺はある決心とともに彼女に
花束を渡した。
だが、俺から花束を受け取った彼女は、母の命日にありがとうと
寂しそうに笑った。
そうか、あれからもう四年が経っていたのかと気付いたときには、
俺が本当に言いたかったことはすでに言えない空気になっていた。
もうすぐ日が暮れる丘へ彼女が向かって行く背をしばらく見送っ
た後、まるで俺が足を止めたいつかの光景を再生して見ているかの
ような錯覚に落ちて、今度こそは、と追いかけた。
﹁⋮⋮お母さんは、お母様のことどう思う?﹂
墓標に向かって、花輪をかけた彼女は呟いた。
﹁私は、お母様はこのままお姫様でいいと思うんだ。私が侍女で、
お兄様が騎士で、お父さんは柄じゃないけど王子様。そんな生活が
続けばいいと私は思っているよ﹂
この先に待ち受けている父と母の運命を知っているからこそ、彼
女の言葉は悲壮感に満ちていた。
この先の未来で、彼女すら儚く消えてしまいそうな気がして、俺
は無意識に声をかけていた。
﹁⋮⋮おい。暗くなる前に帰るぞ﹂
14
振り返った彼女は、実際は微笑んでいたが、心では泣いているよ
うだった。
その表情すらも彼女に似合っていて、俺は思わず心を奪われたけ
れど。
夕日に照らされた彼女の髪色が、茶色から少しずつ金色に近づい
ていることに気付いたのはいつだったか。
高位魔力保持者が持つ色素が薄いことは王都では周知のこと。
彼女は、後天的に高位魔力保持者になりかけている。
だから、もしかしたら彼女が努力してその姿を変えたように、運
命も変えられるのではないだろうか。
物語のために用意された日常から逃れる日が早く来ると良いのに
と、俺は何も言わない彼女の隣りを歩いていた。
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彼女の誇りは父親で
周りに異変が訪れ始めたのは、私が十三歳になった頃だった。
父が狩りで怪我をすることが多くなってきた。兄曰く、魔物が段
々強くなってきていると。
父の怪我は今のところ一つ一つは大したことはないのだが、何せ
数が多くて心配だった。
それ以上に、私と母に心配をかけまいとしている兄が、狩りの途
中でどれだけの怪我をしているのか、わからないことがもどかしか
った。
父が私と母のいない場所で兄に声をかけているところを窺えば、
帰る頃には治癒魔法と魔法薬で完全に消えている兄の怪我は、決し
て軽いものだけではないらしい。
兄にそれを聞くと、治癒魔法の適性のなさを嘆いて、父を助けら
れなくてごめんと謝るだけで、答えてはくれないけど。
この世界の人間には、魔法が使える者と使えない者がいる。
心臓辺りにあるという魔力制御回路の有無で、魔法が使用できる
かどうかが決まるのだが、回路がない者は、炎や水を実体化させる
ような攻撃魔法ならともかく、治癒魔法や精神魔法が効きづらい。
体内で魔力をうまく処理することができないため、身体にそうい
った魔法効果を浸透させることがなかなかできないのが理由だ。
それは、魔法薬を使った場合も同じこと。
それでも、この世界の人間は生まれたときから魔力が周囲に溢れ
ている環境で暮らしているので、魔力に順応した身体はある程度つ
くられており、回路がない者も魔法浸透率がゼロではないのがせめ
てもの救いだった。
母には魔力制御回路の存在を感じるが、父に回路はない。
16
今は支援系魔法︱︱治癒や防御魔法に適性のある私が、帰ってき
た父の傷を、過剰なほどの治癒魔法で力ずくで治しているので何と
かなっているだけで、何とかならない日がやがて来ることが怖い。
私の魔法でも父の傷が何とかならなくなった日が、この生活が終
わるその日なのだから。
﹁⋮⋮っ⋮⋮!﹂
最近、大声を上げる寸前で目を覚ますことが多くなった。
夢に見るのは、私にとっては最悪のエンディングで︱︱。
乱れた息を整えていれば、隣のベッドで寝ていた兄が必ず起きて
きて抱きしめてくれる。
いつの間にか大きくなった手で、いつの間にか低くなった声で、
いつでも変わらない優しい声音で言うのだ。
﹁一緒に逃げようか。ヒロインも世界も関係のないところで、二人
で暮らそう﹂
プロポーズにも似たその言葉を受けることはできない。だって︱︱
﹁ここでお母様を守れなかったら⋮⋮魔法学園でヒロインに会えな
かったら、いつか貴方が死んじゃうじゃない﹂
﹁でも俺達がヒロインに会ったら、お前が死んでしまうかもしれな
いだろう﹂
﹁ルートによってはこの世界自体がなくなるわ。もう、なんでこん
17
なに⋮⋮﹂
ヒロインの選択次第という、R15のマルチエンディングの未来
が、こんなに苦しいと思わなかった。
過去も現在も確実にあのゲームの舞台へと進んでいるのに、今を
どうにか生きるだけで精一杯だ。
未来を知っていることが必ずしもアドバンテージにはならない。
知っているからこそ、自分のしていることがどう影響するのか余
計に疑心暗鬼のまま、数ある未来に恐れを抱いてしまうのだ。
私達が行動したせいで新しくできる未来が、最悪のルートになっ
てしまったならと考えると尚更に。
それでも時は進んでいく。
最悪の未来に向かってなのか、まだ見ぬ明るい未来に向かってな
のかはわからないが。
いつか、兄と話したことがあった。
私達にとって、どのエンディングがベストなのかと。
この世界は、ヒロインが浄化の力に目覚めたことで救われる世界
だ。
人間ならば魔物化させ、魔物ならばその負の力を強化する魔素と
いうものを振り撒く種が魔王によって世界中に放たれ、それをたっ
た一人、女神の力を授かったヒロインが浄化していくシナリオで。
魔素の種は攻略対象の数だけ存在しており、それぞれの大切なも
のに根付いて、攻略対象者を苦しめていく。
それをヒロインが彼らと協力して浄化する過程で愛を育み、数々
の困難を乗り越えながらエンディングを迎える乙女ゲームである。
最終的にはすべての種を浄化することになるのだが、攻略対象の
好感度や、種を浄化した時期などで、どのエンディングになるのか
18
は決まる。
さらに言えば、魔素の種には開花レベルというものが三段階あり、
その開花レベルによって、キャラの個別エンディングは、グッドエ
ンド、ハッピーエンド、トゥルーエンドに分かれていた。
ちなみに開花前にすべて魔素の種を浄化できれば、世界にそれほ
どダメージのいかないノーマルエンドとなる。
ヒロインにとっては、攻略対象全員とお友達ルートで一番つまら
ないエンディングだろうが、私達にとってはそのエンディングが一
番平和だ。
逆にすべての種を三段階まで開花させて、全部浄化できれば、逆
ハーレムエンドに辿り着く。
荒廃した世界をヒロインが攻略対象者達を侍らせながら女神の力
で立て直すエンディングなのだが、これには兄が絶対に辿り着かせ
る訳にはいかないと憤っていた。
世界がほとんど壊れることより何よりも、そのエンディングには、
攻略対象者に対で用意されているヒロインのライバル的存在︱︱ラ
ンスロット・オルトランドの彼でいえば、リリア・オルトランドで
ある私の存在はないからと。
同じ理由で、自分のトゥルーエンドもないと言っていた。
どうしてそれらのエンディングでは、ライバルキャラがいなくな
るのか。
それは全攻略対象キャラ共通して、魔素の種を三段階目にさせる
条件が、ヒロインとライバル関係にある者の死だから。
私だってできるなら死にたくはない。
でも、それ以上に私にだって回避したいエンディングがある。
この乙女ゲーム、魔素の種の浄化に失敗はない。
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何故なら、魔素の種が強すぎて浄化できない場合、対応した攻略
対象キャラがその命を以って、ヒロインが種を浄化できるレベルま
で弱体化させてくれるからだ。
ゲームでは余程意図しないと見れない、唯一のバッドエンドは最
悪だった。
攻略対象が全員死んで、何とか浄化を達成したヒロインが何も知
らない人間達に聖女と崇め称えられる中、ライバルキャラ達にはど
うして貴女だけが生きているのだと涙ながらに罵られるのだ。
そんなエンディング、絶対に迎えたくはない。
兄と話し合った結果、私達の向かう方向は決まった。
まずは、ランスロット・オルトランドの魔素の種を根付く前から
潰す。
ヒロインに会う前の段階で潰せれば、少なくとも彼のトゥルーエ
ンドと、逆ハーレムエンドとバッドエンドは回避できる。
私達がお互いに最悪だと思っているエンディングに、ヒロインは
辿り着けなくなる。
だから、私は父や兄がどんなに怪我をしてこようと母の傍を離れ
る訳にはいかないし、父や兄を止めることもできない。
私の役割は、絶対に母を死なせないこと。そのためには、防御魔
法を母に掛け続ける必要がある。
ランスロット・オルトランドの魔素の種は、流行病で亡くなった
母に根付く予定なのだ。
流行病というのも、種が人間には毒となる魔素を周囲に撒いてい
るから発生したもので、この辺り一帯の魔物が強くなってきている
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ことからも、もう近くに迫っているだろう魔素の種を探す兄と父を
ただ待つしかできない。
︱︱父は、私が父が勘付いているのではないかと気付いた頃には
すべて知っていた。兄が話したらしい。
やがて自分が流行病で死ぬことを知った上で、それでも私の防御
魔法の届かない魔素に侵された外へ種を探しに行っている。
守られることよりも、守ることを選んだのだ。
﹁頼りないかもしれないけど、僕にも協力させてくれないか。僕は
リリアもランスロット君も、フィリアさんも死なせたくないんだ﹂
微笑んで頭を撫でてくれる父は、私達にとって、この世界の誰よ
りも頼りになる強い父親だった。
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彼の希望は母親で
異変が隠しきれなくなってきたのは、俺が十四歳になった頃だっ
た。
狩りで怪我をする頻度が増えてきた。ここ最近、異常な速度で魔
物が強くなってきているのだ。
俺自身は、自分の拙い治癒魔法でも浸透率が高いから、帰る頃に
は無傷の状態でいられるが、魔力がない父はそうもいかない。
彼女のつくる魔法薬は年々強力になってきているが、それを全部
父に使っても傷が隠しきれないレベルになってきた。
彼女は父に治癒魔法をかけて、傷が治る度にホッとしたような顔
をする。
それは治ったことに対する安堵より、まだ治せることに安心した
顔で。
彼女にそれを聞くと、攻撃魔法の適性のなさを嘆いて、一緒に戦
えなくてごめんと謝るだけで、答えてくれはしないけれど。
この世界の魔法には、属性と適性が存在している。
俺は水系統属性に、彼女は支援系属性に適性を持っている。
それぞれの属性以外の魔法が使えない訳ではないが、やはり適性
があるのとないのとでは効果が違う。
魔力の配給方法によって適性の枠は大分緩和されるが、俺も彼女
も適性のある属性以外を苦手とする内在型だ。
魔力制御回路が自身で魔力をつくれるかつくれないかで、魔法使
いは内在型と外部介入型にタイプ分けされる。
内在型は、自身で魔力をつくれる分、純粋な自分の属性に合った
魔力を手足を操るかのように扱えるため、適性属性の魔法ならば複
雑で強力なものが使える。
外部介入型は、周囲から魔力を取り込んで魔法を使える分、身体
22
疲労は内在型に比べれば少ないし、適性の縛りもあまり受けないが、
回路が余程優秀でない限りは低レベルの魔法しか使えない。
しかも外部介入型の場合、周囲に漂う魔力の属性の影響を受けや
すいという難点があった。
火事場で水系統魔法は扱いづらいし、水場で火系統魔法は起こし
づらい。
彼女と俺は内在型だが、母は外部介入型だった。
周りの魔力を使って魔法を使う母だからこそ、魔力に似た成分で
ある魔素の体内への取り込み率が高くて、いつまた体調を壊すかわ
からなくて怖い。
母が体調を完全に崩したその日が、この生活が終わるその日なの
だから。
﹁⋮⋮っ⋮⋮!﹂
最近、リリアが夜中に魘されて目を覚ますことが多くなった。
夢に見ているのは、きっと最悪のエンディングだろう。
家に部屋数がないことを建前に隣のベッドで寝ていた俺は、その
気配に起きて彼女を抱きしめる。
いつの間にか俺より小さくなった震える身体を、いつの間にか泣
きそうなほどか細くなった声を、いつでも変わらず想って伝えるの
だ。
﹁一緒に逃げようか。ヒロインも世界も関係のないところで、二人
で暮らそう﹂
23
プロポーズにも似たその言葉を彼女が受け入れることがないと知
っていながら。何故なら︱︱
﹁ここでお母様を守れなかったら⋮⋮魔法学園でヒロインに会えな
かったら、いつか貴方が死んじゃうじゃない﹂
﹁でも俺達がヒロインに会ったら、お前が死んでしまうかもしれな
いだろう﹂
﹁ルートによってはこの世界自体がなくなるわ。もう、なんでこん
なに⋮⋮﹂
まず先に俺がいなくなるエンディングを嫌がる彼女のことが、こ
んなに愛おしくなるなんて思わなかった。
過去も現在も確実にあのゲームの舞台へと進んでいるのに、俺の
気持ちだけはゲーム通りにヒロインには落ちない自信がある。
俺がヒロインに落ちることで世界が救われる未来を知っていても、
もう俺のルートを辿らせるつもりはない。
知っているからこそ、自分のしていることがどう影響するのか予
想ができるから、数ある未来に対策を立てられるのだ。
俺達が行動したせいで新しくできる未来が、最善のルートになる
ならと考えると尚更に。
だが、魔素の種が見つからない焦燥感とともに時は進んでいく。
最悪の未来に向かってなのか、まだ見ぬ明るい未来に向かってな
のかはわからないが。
いつか、父に話したことがあった。
俺が目指している未来は、父にとっては非情なものであることを。
24
いずれオルトランド公爵が俺を迎えにきたとき、女神の涙でつく
られたエリクシル剤という、あらゆる病気を治すことができる魔法
薬を、確実に一本は持ってくることになっている。
体内の魔素まで浄化できる伝説ものの希少な万能薬だが、オルト
ランド公爵家は一本だけなら用意できたという設定だ。
ゲームではそれが届く頃には、母も父も流行病で亡くなっており、
本来ならあまり魔力のなかったリリアが魔素に侵されているところ
に飲ませて命を助けるのだが、今の高位魔力保持者になりかけてい
るリリアにそれは必要なさそうだ。
今の彼女なら、自分の力で異物である魔素を体内から押し出すよ
う魔力をコントロールすることができるだろう。
ならば、次にエリクシル剤を飲ませる対象としてあげられるのは
母だ。
母ならば魔法薬を浸透させるための魔力制御回路もあるから、死
んでさえいなければ助けることができる。
だが、それは同時に、同じように魔素に侵されている父を見捨て
ることも意味していて。
正直に言えば、出会ったときにはすでに父は魔素に侵され始めて
いた。
支援系属性内在型の魔法使いであるリリアの近くにいたおかげで、
覚醒前ながら彼女から無意識の防御がなされていた父は今も症状が
出ていないだけで、村の住人はもう魔素に大分狂わされていた。
でなければ、いくら気に食わないからといって、鋭利な農具を他
人の子どもに投げる自分の子を見過ごす親がこんなにも多くいるは
ずがない。
あまつさえ、笑いながら時に大人である自分も混ざったりするは
ずがなく。
それほどまでにこの世界の住人は、他人に厳しくはないと信じて
いる。
25
魔素によって負の感情を増長させられたここの村人達が異常なだ
けで、優しい人間もたくさんいることを俺は王都で知っている。
母が助かれば、少なくとも俺が知っている最悪のシナリオは回避
できる。
この村でいち早く魔素の種を潰せれば、リリア・オルトランドが
種に殺される未来は来ない。
そのために、村を出ればもしかしたら助ける道もあるかもしれな
い父を見捨てようとしていると、黙っていることに耐えられなくな
った俺は父に伝えた。
父は静かに俺の話を聞いていた。
こんなことを本人に話して、ただ自分のために許されたかっただ
けなのかもしれないと本音を漏らした俺に父は笑った。
﹁許すも何も、君は悪いことをしていないよ。むしろ僕にとって君
は救世主だ。君のおかげで、僕は家族を本来の運命より多く守れる
んだから﹂
一緒に未来を変えよう。僕もいるから大丈夫だよ。
微笑んでそう言う父の前で、俺は涙が止められなかったのを覚え
ている。
︱︱母は、俺が母が勘付いているのではないかと気付いた頃には
すべて知っていた。彼女が話したらしい。
やがて自分が魔素の種の苗床になるかもしれない恐怖を押し殺し、
それでも俺達の無事を祈っていつも見送ってくれる。
守られることで、守ることを選んだのだ。
﹁たとえ種が見つからなくても、私は私の愛しい貴方達を決して傷
つけたりはしないわ。無理はしないで、必ず私の元へ帰ってきて﹂
26
いつでも涙を堪えて笑ってみせる母は、俺達にとって誰よりも温
かいこの世界の希望だった。
27
彼女の覚悟
︱︱空気が淀んでいた。この村で太陽を見たのは、いつが最後だ
ったか。
防御魔法で守っている家の中でも、ピリピリと強い魔素の気配を
感じる。
母はもう数週間前から体調を崩していて、起きている時間のほう
が少なくなってきた。
父はもう数日前から傷だらけのまま、それでも魔素の種を探しに
行っている。
私の髪色は、まだ金色というよりも淡い栗色だ。
それは、私がまだ完全には高位魔力保持者のレベルに辿り着けて
いないということで。
無情にも村を侵す雨は強くなっていく。
魔素が入った毒の雨が、高位魔力保持者の兄の肌すら焼いていく。
﹁⋮⋮頼む。俺達にもう治癒魔法を使うな。お前は母さんだけを守
っていてくれ﹂
﹁僕は大丈夫だよ。まだ時間はあるから。絶対に僕の大切な家族を、
最後まで守るから﹂
﹁リリア、一緒に休みましょう。貴女も疲れているわ﹂
家族が頑張っている中、何もかも中途半端な私は、ただずっと待
っていた。
私が待っているその日が、運命通りの日になるのか、運命とは異
28
なる日になるのかわからずに怯えながら。
とうとう村が半壊するほどの嵐が来たその日。
朝から荒れ狂う外に出ていた兄がいつもより早く帰ってきた。
後ろには見慣れた父ではなく、見慣れない父親を連れて。
﹁リリア、オルトランド公爵だ!エリクシル剤が来た!﹂
彼と同じ色素を持った男性が、私の傍で高熱に魘されていた母に
奇跡の薬を飲ませた。
表情が穏やかになった母はすぐに目覚め、涙ながらに母を抱きし
める男性の隣りで安心する彼の様子を見届けて、私は一人だけそっ
と自分の部屋に戻った。
︱︱私達の望んだ未来のほうが早く来た。
本当に母が助かって良かったと、ここ数年忘れていた笑顔が自然
と漏れた。
そこまでが、私の限界だった。
29
﹁ゴホッ⋮⋮カハッ⋮⋮!!﹂
ずっと堪えていた胸の痛み。
それまでは時々苦しかっただけのそれが、その日の朝からやけに
強くなっていた。
とうとう耐えきれず、床に吐き出した血はどす黒かった。
心臓のあたりが煮えたぎるように熱い︱︱私の魔力制御回路が、
魔素に侵されて悲鳴を上げていた。
︵大丈夫⋮⋮“大丈夫だよ。まだ時間はあるから”︶
父が私に言ってくれた言葉を繰り返して、何とか震える手を動か
してベッドの下から箱を取り出した。
幼いときに亡くなった薬師の母が残してくれた薬箱の中には、あ
と数本の魔法薬が残っている。
それは、私が前世の記憶を思い出す前、なかなか魔力が安定せず
制御回路を暴走させる度、高熱を出しては母が飲ませてくれていた
薬だった。
魔力を持つ子どもが、魔力を持たない子ども以上に幼少期に体調
が安定しないことは、この世界ではよくあることだった。
ただでさえ医療があまり発達していない世界だ。それで亡くなる
子どもも多いという。
私の記憶の中の母は、いつも難しい顔で薬草と向き合っていた。
しかし、熱で朦朧とした私が近くに寄ると、いつも優しく微笑ん
で頭を撫でてくれた。
﹁もう少しで薬ができるから。すぐ楽になるからね﹂
毎日のようにその言葉を聞いていたような気がするほど、幼いと
30
きの私の体調は悪かった。
魔力が安定しないその頃の状態と、魔素に侵された今の状態はよ
く似ている。
魔素が回路を狂わせているのだろう。だから、魔力が安定すれば
魔素中毒は治せる。
ゲームの中でも、そうやって魔素中毒を治したキャラがいた。
一歩気を許せば持って行かれそうになる意識を踏み留まり、まず
は一本飲み干す。
飲み干した瓶とともに身体を床に転がしたところで、ドアが大き
何で今まで黙ってたんだ!!﹂
な音を立てて開いた。
﹁⋮⋮!!
血相を変えた彼が、床に倒れた私を抱き起こして叫んだ。
﹁⋮⋮私のことなら大丈夫よ。ちゃんと魔力をコントロールして、
言ってくれれば、エリクシ
魔素を身体から追い出してみせるから﹂
﹁こんなに熱出して何言ってんだよ!
ル剤をお前に飲ませたのに!﹂
それ以上彼の辛そうな表情は見たくなくて、私は彼の首筋に顔を
埋めた。
ピクリと震えた彼の身体は雨で随分と冷えていたらしく、その冷
たさが今は心地良かった。
﹁私は大丈夫だって言ってるでしょう。私のお母さん、魔力を安定
させる魔法薬を作れるくらいすごい薬師だったんだから﹂
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﹁だからって!
もうゲーム通りに物語は進んでいないんだぞ!?
お前が助かる保証はどこにもないのに⋮⋮!!﹂
﹁大体ね、私はただの魔素中毒だから魔法薬でも治せるけど⋮⋮お
母さんの⋮⋮病気⋮⋮?﹂
母様の病気は、きっとエリクシル剤じゃないと治せなかったのよ﹂
﹁は?
彼の戸惑った声が響く。
無理もない。知らされてなかっただろうから。
以前、オルトランド公爵に前世の記憶があることを伝えたのかと
私が聞いたときに、彼は何も言っていないと話していた。
彼が言わなかったように、オルトランド侯爵も重要なことを息子
に伝えていないのだろう。
前世でゲームをしていた頃はそういうものだと思っていたが、こ
うして現実になってよく考えてみると不思議なことがあった。
ゲームの中ではこの時期、各地でこのような異変が起こっている
原因が魔素の種によるものだとは判明していなかった。
ヒロインが覚醒した後、女神の啓示を受けて、異変の原因は魔王
が放った魔素の種のせいだとわかる予定なのだ。
私達以外、まだ知るはずのないこの辺一帯の流行病の真実。
だが、現実にこうして、流行病が魔素のせいだと知らないはずの
オルトランド公爵が、特効薬として適合するエリクシル剤を用意し
て来た。
その理由が、魔素まで浄化できたのは奇跡の偶然で、本当は最高
位の万能薬による違うものの治癒を狙ったものだとしたら。
﹁詳しい病名は知らないけど、お母様の身体の弱さは病気のせいじ
32
ゃないかしら﹂
ドアからこちらを窺うオルトランド公爵に視線を合わせれば、公
爵はあっさりと頷いた。
公爵に支えられて私の元に来た母のほうが逆に驚いた顔をしてい
る。
﹁後でいくらでも話そう。とりあえず君は、その魔法薬を早く飲ん
だほうが良い。魔力のコントロール方法はわかるね?﹂
﹁はい。貴方の優秀な息子さんに正式な方法を教わりました﹂
﹁おい、愚息。何だかわからないが、さっさと彼女に薬を飲ませて
あげなさい。それはお前の役目だろう﹂
﹁え⋮⋮あ、うん﹂
こんなに歯切れの悪い彼を見るのは初めてだ。
完全に自分の父親に圧されており、いつも余裕のある彼にしては
珍しいものだと自然と頬が緩んだ。
その後、私は何とか一命を取り留めた。
薬師の母が作り上げてくれた魔法薬と、力の入らなくなった私に
何度も薬を飲ませてくれた彼、震える手を握って声をかけ続けてく
れた今の母と、魔法で氷を出して熱を下げてくれた公爵のおかげだ
った。
自分の魔力を回路全開で急上昇させ、全力でコントロールした反
動で意識を失った私の髪色は、その時点で金色に変化していたとい
33
う。
待ち望んだ高位魔力保持者としての姿︱︱だが、一番見てほしい
人は傍にはいなかった。
父はまだ帰らない。嵐は強くなっていた。
34
彼の決意
村から太陽が消えてどれくらい経ったのか。
母は倒れ、父は傷だらけで、村には生きている人間は俺達家族し
かいなくなっていた。
外を徘徊する魔物は異常な強さとなり、昼夜構わず襲ってきた。
水系統属性の高位魔力保持者である俺の肌まで焼くほどの雨は、
もう針のように鋭い。
俺は、まだ魔素の種を見つけられていなかった。
それは、母がまだ魔素の種に狙われる危険性があるということで。
すべてを侵す魔素の雨は止まない。
俺達が帰る家に防御魔法を掛け続ける彼女は、随分前から疲弊し
ていた。
しかし、彼女はいつ倒れてもおかしくないくらいの状態で、それ
でも諦めず凛と立っていた。
俺達が帰れば温かい家と食事で迎えてくれるし、母が倒れれば何
度も薬と治癒魔法で治療していた。
その姿に俺達がどれだけ救われているのか彼女は知らない。
俺も父も母も、人一倍頑張って運命を変えようとしている彼女の
ためにも諦める訳にはいかなかった。
とうとう村が半壊するほどの嵐が来たその日。
朝から父と荒れ狂う外に出たが、いつも一緒に行動している父が
途中で別行動を提案してきた。
35
﹁魔素の種はもう近くにあると思うし、別々に探したほうが早いよ﹂
﹁でもリリアからも俺からも離れれば、父さんはこの雨粒にもダメ
ージを受けるだろう?﹂
﹁僕はリリアの防御魔法が届くこの辺で探すよ。ここでリリアとフ
ィリアさんを守っているから、ランスロット君は街道のほうをよろ
しくね﹂
いつもは探さない安全なはずの街道を探せという父の言いたいこ
とはわかる。
すでに行商人によって、この辺一帯の連日の雨と流行病は王都に
も伝えられ、オルトランド公爵が向かっている頃だから。
﹁オルトランド公爵様を迎えに行くんだ。エリクシル剤を早くフィ
リアさんとリリアの元へ﹂
何よりも、魔法を使い
﹁⋮⋮公爵なんて黙ってても母さんに辿り着く﹂
﹁それでも一秒でも早いほうが良いよね?
続けて倒れそうなリリアのために﹂
この父は、狩人らしく勘が鋭かった。
俺自身が彼女に恋愛感情を抱いていることに気付いて打ち明けた
頃には、父はとっくの昔に察していたほどに。
﹁魔素の種を見つけたら、無理はせずに君に知らせに行くから。⋮
⋮頼むよ﹂
父は苦笑いを浮かべて胸を押さえていた。もう父の限界が近いの
36
だろう。
﹁⋮⋮わかった。でも公爵を案内したら、俺はすぐ父さんのところ
へ戻るからな!﹂
﹁聞き分けのない子だね。君が帰る場所は僕の家だよ。僕のところ
じゃない﹂
そう言って俺の背を押した父の顔は、深く被ってしまったフード
で見えなかったけど、きっといろいろな感情に耐えた表情をしてい
たのだと思う。
それをわかっているから、俺は振り返らずに全速力で街道方面へ
と向かった。もう一人の父親を信じて。
オルトランド公爵は、一時間ほど街道を走ったところで見つかっ
た。
ちょうど乗っていた馬が雨でダメになったらしい公爵の腕を引い
て、家へと帰り道を急いだ。
ろくに説明もしない俺の様子を最初は訝しんでいた公爵だが、す
ぐに母の厳しい状態を理解して俺よりも前を走ってくれた。
俺よりも遥かにコントロールの巧い水魔法が毒の雨を退けていく。
︱︱俺は、どうあってもまだ子どもだった。
この父親にも今の父親にも、全然勝てる気がしない。
リリアが苦しんでいることすら、俺は本当の意味で気付けなかっ
た。
父親に彼女の魔力制御回路の状態を指摘されて、実際に床に倒れ
37
ている彼女を見て、彼女も限界だったと知った。
俺は彼女が魔素と戦い疲れて眠り込んだ後、拳を握りしめて立ち
上がった。
﹁⋮⋮何処に行く気だ?﹂
﹁母さんとリリアを頼みます。父さんがまだ外で戦ってる﹂
﹁構わないが、事情はお前も後ですべて話せよ?﹂
﹁わかっています。俺だけでは力不足だと痛感したばかりです﹂
﹁だったら行って来い。お前の帰りが遅いと、待ちくたびれて私も
飛び出すからな﹂
バサリと自分が着ていた外套を投げつけてくる父親と、心配そう
な母に礼をして外に出る。
父親の外套は内側に防御魔法が縫い付けてある最高級品の防具で、
嵐すら気にならない代物だった。
︵あの親父⋮⋮さっきは俺のために魔法使って雨を避けてたのか︶
思わず舌打ちをしてしまった。
こうまで格の違いを見せつけられたら、もう、尊敬するしかない
じゃないか。
奥歯を噛みしめながら、俺はもう一人の尊敬する父の元へと急い
だ。
雨のせいで気配は辿れなかったが、父がいる場所は何となく想像
がついていた。
38
公爵を迎えに行く途中、走りながら必死で考えたのだ。
この時期、魔素の種が出現するのは、俺が考えようとしなかった
だけで、たぶんリリアも父も気付いている場所だ。
魔素の種にとって苗床候補がたくさんいて、リリアが訓練の中で
意地でも防御魔法を届かせた場所︱︱そこに父はいる。
案の定、父は簡素な墓標が並んだ丘に立っていた。
まだ辛うじて立ってはいたが、見えたその背中はボロボロで、胸
に何かを抱えているようだった。
﹁父さん!!﹂
﹁⋮⋮結局、最後は君に頼るしかないみたいだ。頼りなくてごめん
ね﹂
振り返った父の腕の中にあったのは、探していた魔素の種だった。
リリアの防御魔法ごと父の皮膚まで食い破り、身体の奥に何本も
根を伸ばそうとしている禍々しい紫色の種の姿。
身体の内側を這う根が動く度に痛みが走るのか、父はときどき顔
を歪めて小さく呻き声を漏らしていた。
それでも、種を押さえ付けている手は離さそうとはしない。
俺を視界に入れた父は、苦笑いした。
﹁僕ね、リーナ︱︱リリアの母親を埋葬するとき、魔力のなかった
リーナが魔法薬を作るときに使っていた魔道具ごと埋めちゃったん
だ。君達の前世で、魔道具を浸食して寄生した魔素の種もあるって
話をしていたよね。もしかしてと思って来たら、やっぱり彼女の魔
導具を浸食しようとしていたから⋮⋮どうしても僕はそれが許せな
39
くて﹂
父の傍には、不自然な円形に掘り起こされた墓があった。
リリアがよく花を添えていた墓標があった場所だ。
今は、墓標まで粉々になっている。魔素の種が、自身の波動で砕
いたのだろう。
﹁僕は君に比べたら弱いけど、村の中で喧嘩には一度も負けたこと
がなかったんだ。リーナもそんな僕が好きだって言って、一緒にな
ってくれた。僕が負ける訳にはいかないよね﹂
苦痛の表情を浮かべる父を助けるために踏み込んだが、魔素の種
が発した波動に弾かれた。
魔素の種は、いわば高濃度の魔素を固めた物質だ。
だから、生身で近づけないのなら、あとは同じように高濃度の魔
力を注ぎ込んだ魔法で介入するしかないのだが、この状況で、高位
魔法は攻撃系しか持たない俺がそれをすると、父まで吹き飛ばして
しまいかねなかった。
戸惑う俺に、父はいつものように大丈夫だと笑った。
﹁僕には魔力制御回路がないから、種の苗床にはなれない。だけど、
幸いなことに今なら僕の身体には、種の好きな魔力に似た魔素がた
っぷり流れているし、少しの間なら種を誤魔化せるよ。こうして、
ここに種のまま押さえていられるんだ﹂
父に、魔素の種は、魔力があるなら生きた人間にも死んだ人間に
も、魔力を生成できるものであれば道具にだって寄生することは話
していた。
魔力と魔素が似ている成分であることも、種が魔素を振り撒くの
は自身が浸食しやすいようにするためだということも、完全に寄生
40
した後は浄化魔法以外では倒せた事例がないということも。
自分の身体で必死に魔素の種を留めるその父を見て、そのときの
自分をこれほど後悔したことはない。
﹁君にこんなことを言うのは酷だと思うけど⋮⋮僕がちゃんと押さ
えているから、浄化魔法以外の方法で種を潰せるか試してくれない
か?﹂
俺は再び強く拳を握った。
魔素の種を根付く前に通常の魔法で潰せるかどうかは、実際にや
ってみないとわからないと教えたのも俺だ。
何せゲームの中で根付く前の魔素の種と戦った人間はいなかった。
ただ、ゲームの中では、魔素の種を逃がすまいと高位魔力保持者
である自分の中に強制的に招き入れたキャラがいた。
魔素の種は、魔素で浸食しづらいから高位魔力保持者を狙わない
のが通常だが、そうした異例もある。
俺が魔素でそれほどダメージを受けていないように、高位魔力保
持者の身体は純粋な魔力に溢れていて、魔素の種もすぐには浸食で
きず、そのキャラが関わるルートは、開花が他のキャラより遅く設
定されていた。
根付く前の魔素の種を見つけ、倒せなかったなら。
俺がどうするつもりだったか、恐らくリリアなら気付いているだ
ろうが、それを父は知らない。
魔力制御回路を全力で回転させ、魔力を急上昇させて、溢れた魔
力を外側に向けて解放する。
︱︱これはエサだ。さあ、こちらに来い。
41
魔素の種がピタリと父の浸食を止めた。ちゃんと獲物は引っかか
ったようだ。
ダメだよ、今すぐ回路を閉じるんだ!
種
その根を父の身体から引き戻し始める種に向かって、もっと魔力
を上げる。
﹁ランスロット君!!
が君に向かおうとしている!﹂
﹁大丈夫だよ、父さん。必ず途中で叩き潰すから﹂
僕ならリリアが掛けてくれた防御魔法もあるから、きっとも
﹁それだと逃げられるかもしれないし、一度しか試せないじゃない
か!
っと耐えられるよ!!﹂
﹁その防御魔法を破られた状態で何言ってるんだよ。それにチャン
スは一度だけで十分だ。絶対に成功させる﹂
息子を犠牲にしてまで生き長らえたくない!
溢れた魔力が俺の周りの空間にも作用して軋んだ音を立てる。
﹁僕は⋮⋮僕は!!
!﹂
父の泣き声にも似た叫び声はその中でもよく聞こえた。
でも、それは俺も同じこと。
自分でもわかっているから!!﹂
﹁俺だって、できれば父さんを犠牲にしたくなんてなかったんだ!
!﹂
﹁でも、僕はもう限界なんだ!!
42
﹁限界があっても、限界を迎えるまで絶対に死なせない!!
俺は、
父さんはちゃんとリリアに最期を見送らせるって決めてるんだ!!﹂
俺の怒鳴り声に、父はハッとしたように動きを止めた。
﹁父さんのことを一番必要としてるのはリリアなんだよ。それに母
親の最期を看取れなかったこと、リリアはずっと後悔していたから
⋮⋮リリアのためにも、父さんをここで死なせる訳にはいかない。
だから、種から手を離してくれないか?﹂
父はしばらく迷いながら、それでも最後は頷いた。
タイミングは、この父となら合わせられる気がしていた。
俺に幼い頃から、戦い方や魔物狩りの仕方をずっと教えてくれて
いたのは、この父だから。
複雑な水属性の高位魔法を組み立て、綿密に魔力を巡らせて。
全力で魔法を放った反動で倒れた後、雲の隙間から差し込んだ太
陽の一筋は、彼女の髪色に似てとても綺麗だった。
43
彼女が泣いた日
激しく窓を打ちつけていた雨が止んだ。
外が突然静かになりすぎて、私は嫌な予感とともにベッドから飛
び起きた。
窓から見える空は明るく、村を長い間覆っていた黒い雲は跡形も
なくなっていた。
魔素の種が消滅したのか、それとも何かに寄生して一時的な休眠
期に入ったのか。
どちらにせよ、私が眠っている間に何かが変わったことは確かだ
った。
お父さんは!?﹂
呆然と空を見上げた後、私は布団を蹴り上げて部屋から出た。
﹁お母様!!
ドアを開けた先に居たのは、母と公爵の二人だけで、父の姿もな
ければ、彼の姿もなかった。
神妙な面持ちの二人から答えを聞くのも待てず、家を飛び出そう
としたところで、公爵の落ち着いた声が私を止めた。
﹁君の父上は息子が迎えに行った。もうすぐこちらに帰ってくるよ
うだから、君もここで待っていなさい﹂
玄関ドアを開け放った私の指先が無意識にピクリと動いた。
そう、ここは魔法がある世界だった。
落ち着け、大丈夫だ、と自分に言い聞かせ、自分がかけた魔法の
44
気配を探す。
混乱していて忘れていたが、ちゃんと探せば自分の魔法の気配は
すぐに見つかった。
彼と父にかけていた防御魔法のうち、父にかけたものはほとんど
崩壊しかかっていたが、完全に消えていないということは、まだ父
が生きている証拠でもあった。
二人にかけた防御魔法は、術者である私が生存しているうちは、
単純に魔法が破られるか解いたのでなければ、魔法をかけた相手が
死亡したときにだけ対象を失って消えるものだから。もちろん私か
ら離れれば効果は薄れるが。
彼にかけてあった防御魔法も表面は何層か壊れているが、中は正
常に作動している。
それは、彼も魔素の種に浸食された訳ではないという証で。
何度も夢にみていた最悪のエンディング︱︱彼が自分の内側に魔
素の種を引き入れ、やがて食い破られる未来は根本から回避できた
のか。
少しだけ安心したが、何年もかけて強固に張り巡らせたはずの防
御魔法が、そこまでダメージを受けているということは、それほど
の戦いがあったということには変わりはない。
私は目を瞑って、必死で二人の無事を祈り続けた。
しばらくして魔法の気配が視認できそうなくらいには近くなり、
でも二人の状態を確認するのが怖くて目を開けられなかった私の肩
に、公爵と母がそっと手を置いてくれた。
﹁この歳であれだけ強固な防御魔法を構築できるとは、君は余程芯
の強い人間で、彼らはとても君に愛された人間なのだろうな。ごら
ん、君のおかげで二人は生きて帰って来たよ﹂
45
﹁大丈夫よ、リリア。ちゃんと二人を出迎えてあげましょう?﹂
公爵と母の優しい声に、そっと目を開ければ︱︱
眩しいくらいの太陽が降り注ぐ中、家に真っ直ぐ歩いて帰ってく
る彼と、彼に背負われた父が笑っていた。
二人とも泥だらけでボロボロの姿だったけれど、私のことをしっ
かり見て、ちゃんと笑っていた。
せっかく玄関にいたのに、私はいつもどおりに出迎えることがで
きなかった。
ただ、声も出せずに泣いてしまって。
そんな私の頭を帰ってきた二人が次々に撫でてくれたことが、涙
が止まらなくなるほど嬉しかった。
泥だらけだった父は、公爵が水魔法で綺麗にしてくれた。
身動ぎするだけでも辛そうな父をベッドに横たえて、表面の傷は
治癒魔法と魔法薬を使って何とか治していった。
傷の治りは当然ながら悪い。
⋮⋮わかってはいた。もう父の身体が、魔法を奥まで通さないほ
ど限界であることを。
でも、どうしてもできる限りは治しておきたかった。
﹁綺麗な金色の髪だね。夢が叶って良かったね、リリア﹂
46
父は私を見て優しく微笑む。
それがとても切なくて、私は涙を堪え続けるのが苦しかった。
﹁夢⋮⋮だったのかな。こうなりたかったのは、それほど素敵な言
葉で表すようなものではなかった気がするけれど﹂
﹁目標を持って何かを頑張ることは素敵なことだよ。次は、どんな
夢にするんだい?﹂
夢︱︱なんて考えたこともなかったから、しばらく考え込んでし
まった。
にこにこと答えを待つ父に若干の気恥ずかしさを感じながら、私
は口を開いた。
﹁⋮⋮子どもを産んで、私も尊敬されるような親になりたいわ﹂
私の正直な答えに父は一瞬目を見開いた後、嬉しそうに笑った。
﹁孫が楽しみだね。でも、その前にそろそろランスロット君のこと
を名前で呼んであげたらどうかな?﹂
父のいろいろ含んだ視線に私は言葉を詰まらせてしまい、何とか
言い訳を探して目線を虚空に彷徨わせた。
彼と出会ってもう十年になろうとしているが、実は私は彼の名前
を一度も呼んだことがない。
いつも彼は私が呼びかける前に振り返るから﹁貴方﹂という代名
詞でも不便はしなかったし、母と父に彼のことを聞くときも﹁彼は
?﹂で通じていたし。ゲームの中のリリアのように、﹁お兄様﹂と
実際に呼びかけたこともなかった。
名前を呼ばない理由は、最初にタイミングを逃したからというか、
47
私の感情的な問題というか。
﹁⋮⋮そうね。よく考えると、エリクシル剤は私が飲んだ訳ではな
いし、私が高価な薬の対価にオルトランド公爵家の養女にならなき
ゃいけない理由はなくなったのよね。もう兄にならないのなら、そ
ろそろ名前を呼んでもいいのかしら﹂
﹁おい。何、真剣に考え込んでんだよ。なかなか名前で呼ばないな
と思っていたら、そんなことを考えていたのか﹂
不機嫌さを装いながらもどこか隠し切れていないトーンの声が聞
こえて振り向けば、着替え終わった彼がちょうどドアを開けて入っ
てきた。
私と同じようにベッド脇の床にドサリと座った彼を見て、ふと思
う。
﹁そういえば、私、貴方に自己紹介されたこともなかったのよね﹂
﹁ランスロット・オルトランドです、よろしくお願いしますー!!﹂
投げやり気味に差し出された彼の手を、父の苦笑まじりの視線に
何となく促されて取る。
途端に私は引き寄せられ、彼に抱きしめられた。
﹁そんな訳で、リリアのことはちゃんと俺が幸せにするから、父さ
んは心配しないでいいからな﹂
﹁うん、頼んだよ。僕とリーナの可愛い一人娘なんだから、あまり
泣かせないでね?﹂
48
﹁わかってる。リリアは意地っ張りだから、俺がたくさん甘やかす
よ﹂
﹁あの、待ってよ。何だか意気投合しているところ悪いけれど、私
はこれまでの人生も十分幸せだったから、これ以上甘やかさなくて
も、心配してくれなくても大丈夫よ﹂
私が呟けば、二人とも顔を見合わせて﹁ほら、こういうところが﹂
と頷き合っていた。
不本意だとも思うが、否定もしきれなくてムッとしていたら、父
にまた頭を撫でられた。
腕を動かすのも辛いのに、ゆっくりと何度も。
﹁⋮⋮ランスロット君。フィリアさんと、オルトランド公爵様を呼
んでもらえるかな﹂
父の静かな声にもう最期は近いと悟る。
彼は私をそっと放してから、両親を呼びに行った。
頭の上から滑り落ちてきた父の手を握る。
成長したはずなのに、まだまだ父のこの手には叶わないなと感じ
た。
そのまま無言で父の手を握っていたら、彼が両親を連れて入って
きた。
彼は再度私のそばに座り、母と公爵は少し部屋に入ったところで
足を止めて貴族らしい礼をした。
﹁オルトランド公爵様。このような辺境まで僕の家族を助けに来て
いただいて、ありがとうございました﹂
49
﹁貴殿の家族は、私の家族でもある。貴殿の大切な娘を、私も命を
かけて守ると誓おう。どうか、安らかに﹂
﹁フィリアさん。僕は、今も世界で三番目に貴女のことを愛してい
ます。貴女はこの数年、何もできないと悔やんでいたけど⋮⋮リリ
アをこんなに立派に教育してくれて、僕にとってはとても素晴らし
い母親です。これからも、リリアをよろしくお願いします。そして、
どうかこれからは、一番愛した人と幸せになってください﹂
﹁はい⋮⋮今までリーナさんの居場所を貸していただいて、ありが
とうございました﹂
父の言葉に泣き崩れた母は、公爵に肩を抱かれて部屋の外に出て
行った。
公爵に目配せされて彼も出て行ってしまい、部屋に残されたのは、
私と父の二人で。
﹁⋮⋮お父さん。お母様は、どうして三番目なの?﹂
﹁一番目はリーナで、二番目はリリアだからだよ﹂
﹁今でも、ちゃんとお母さんが一番なの?﹂
﹁もちろんだよ。⋮⋮僕はね、フィリアさんと初めて会ったとき、
フィリアさんが感謝してくれたような善意ではなくて、打算があっ
て彼女を助けたんだ。あんなに魔力が高い息子を育てている彼女な
50
ら、僕の魔力が安定しない娘もちゃんと育ててくれるかもしれない
って。次の日に事情を話したら、そんな僕でも彼女は三番目に愛す
る努力をしてくれるって。一緒に子どもたちのために幸せな家庭を
つくろうって。でも、その所為でリリアは家出してしまって⋮⋮本
当にあのときは焦ったよ﹂
﹁ごめんなさい⋮⋮﹂
﹁リリアが謝ることは何もないよ﹂
﹁⋮⋮ううん。私はお父さんを守れなかった。お母さんも、私の所
為で⋮⋮﹂
﹁違うよ。僕がずっと家族と一緒にいられないのも、僕が弱かった
所為だ。リーナが魔物に襲われたのも、僕が森でちゃんと守れなか
ったからで、リリアの所為じゃない﹂
﹁でも、私が魔力をちゃんと扱えていれば⋮⋮私がもっと早くに前
世の記憶を思い出していれば、お母さんは私のために危険な場所に
薬草を取りに行って、魔物に襲われずに済んだのに﹂
﹁ちゃんと聞いて、僕の可愛い娘。君の所為じゃないんだ﹂
僕は、リリアが生きていてくれて嬉しい。人を支え
﹁だって⋮⋮﹂
﹁いいかい?
ることができる魔法を使えるようになってくれて誇らしい。⋮⋮ラ
ンスロット君と幸せにね。僕はこれからも君達のことを⋮⋮ちょっ
と遠くはなるけど、リーナときっと綺麗な場所で見守っているから﹂
51
﹁⋮⋮私が生きているのは当然よ。お母さんとお父さんが、命がけ
で守ってくれたんだから﹂
﹁僕は守れたのかな?﹂
﹁たくさん守ってもらったわ。お父さんが私の父親で本当に良かっ
たと思うくらい﹂
﹁⋮⋮そっか。ありがとう、リリア⋮⋮﹂
﹁私のほうこそ⋮⋮っ、⋮⋮ありがとう⋮⋮お父さん﹂
父は、最期にいつものように微笑んで︱︱眠るように息を引き取っ
た。
力を失ったまだ温かい大きな掌の上に、それから私の涙は絶えず零
れていった。
52
彼と二人の父親
長く続いていた雨が止んだ。
暗かった空は清々しいほど青く、白い雲がゆったり流れている。
静寂に少しずつ鳥の鳴き声が戻ってきて、俺はようやく終わった
のかと深く溜息を吐いた。
魔素の種は消滅した。
魔力不足で目眩が激しく、辛うじて地面を這って行って確認した
ら、種が消滅した証に透明な宝珠が転がっていた。
魔素の種が浄化された際に証拠アイテムとしてヒロインの手元に
残る宝珠は、ランスロット・オルトランドのルートでは瞳と同じア
メジストの色をしていたはずだが、今回は正規ルートで浄化した訳
ではないので、透明になっているのだろう。
ちょうど魔素の種と俺の魔法がぶつかったのは、大きく穴を掘ら
れたリリアの母親の墓の上だった。
穴の中、透明な宝珠の傍に光を反射したもう一つの珠︱︱リリア
の母親の魔道具だろうペンダントを見つけて、俺は思わず苦笑いが
漏れた。
魔素の種が俺へと向かってくる際、動きが止まった瞬間があった。
ギリギリまで待って一番逃がさないところで魔法を放とうとして
いた俺にとって、それは好機だった。
魔道具の持つ魔力に引き寄せられて種が迷ったのだろうが、リリ
アの母親の想いが俺まで守ってくれたような気がして、感謝の気持
ちでいっぱいだった。
鞄に入れてあった魔力を補充するタイプの魔法薬を飲み干し、震
53
える足を鼓舞して立ち上がる。
申し訳なく思いながら、荒された墓には外套だけをかけて、倒れ
ている父のもとに向かった。
﹁父さん、帰ろう。辛いだろうけど、少しだけ我慢してくれよな﹂
﹁⋮⋮ごめんね。もう歩けないみたいだ﹂
﹁何のために俺が迎えに来たと思ってるんだよ。一緒に家に帰るた
めだろう﹂
父の腕を引っ張り、無理やり俺の背に乗せた。
道中、父はぐったりと俺に背負われながら時折呻き声を上げてい
た。
俺が目眩でよろめく度にそれは強くなったが、躊躇している時間
はないようで、俺は足を止める訳にはいかなかった。
﹁ランスロット君。僕はリリアとフィリアさんの前では絶対に痛が
らないから⋮⋮今だけはごめんね﹂
﹁気にしなくていいよ。俺だって、リリアの前では絶対にふらつか
ないから﹂
﹁男同士の約束だよ﹂
﹁それ、いろいろ約束したよな。狩りのときは父さんより前に出な
い、風上には行かない、危ないときは逃げる、でも逃げたことは母
さんとリリアには秘密にすること!﹂
﹁だって、面目ないからね﹂
54
俺はいつもの調子で笑う父を尻目に、濡れた地面に視線を落とし
た。
﹁⋮⋮俺さ。父さんの息子になれて幸せだよ﹂
今まで面と向かって伝えられなかった言葉を呟けば、父は一瞬だ
け俺に被さる腕の力を強めた。
﹁血の繋がらない俺のことを、すぐに息子扱いしてくれて嬉しかっ
た。小さいときからいろんなことを教えてくれて⋮⋮ありがとう﹂
﹁僕も、君の父親になれて良かったと思ってるよ。幸せ者だね、僕
は﹂
そう言う父の声は、めずらしく掠れていた。
それとともに力なく握られた拳の意味は、何となくわかる。
俺も前世で死ぬ直前、きっと今の父と同じことを思っていたから。
もっと生きたかったって、思っているのだろうなと。
それきり俺は何も言えなくなってしまったが、父はそんな俺の頭
を叱るように軽く小突いた。
﹁ほら、もうすぐ家が見えてくるよ。僕も君も笑わなきゃ。これも
男同士の約束なんだから﹂
﹁一番最初にした約束か。懐かしいな﹂
﹁必ず家に帰ったときは笑顔で﹃ただいま﹄って言うこと。これは
55
リーナと約束したことなんだけどね﹂
痛みに耐えながらも照れたように微笑む父の姿は、当時を思い出
してか幸せそうだった。
どういう表情をしていいかわからずにいた俺に父は言った。
﹁ランスロット君。リリアと幸せになるんだよ。男同士の約束だ﹂
﹁⋮⋮ああ。必ず守るよ﹂
丘を下りて、角を曲がって前を向けば、彼女が太陽の下で祈って
いる姿が目に入って。
彼女の姿を見た途端、ぎこちなくしか笑えなかった顔が自然に緩
んだ。
いつも通りに彼女の頭を撫でて、いつも通りに﹁ただいま﹂と父
と一緒に言えることが、こんなに幸せなことだったとは。
彼女に父を預けて、洗面台に駆け込んだ俺は頭から大量の水を被
って涙を堪えた。
︱︱まだ泣いていいときじゃない。
泣き出したい声を思い切り飲み込んで顔を上げると、上質のタオ
ルが降ってきた。
﹁お前はもう少し親に甘えるということを覚えたほうが良い。フィ
リアが公爵家に居たときにお前に守らせていた私が言えたことでは
ないが﹂
﹁⋮⋮気になさらないでください。悪いのは権力にへつらう周りの
56
連中ですから﹂
いつの間にか後ろの壁に背を預けて立っていた公爵は、俺の返答
に眉を寄せたが、何事もなかったように無表情になると、見慣れた
魔法薬を渡してきた。
さすがに公爵には、気力で平静を装った足取りに気付かれていた
か。
リリア特製の魔力補充用の魔法薬を遠慮なく受け取って、一気に
飲む。
﹁フィリアに大方の事情は聞いた。この魔法薬もあのお嬢さんが作
ったそうだな。公爵家の養女として申し分ない素質を持っていると
思うが、シナリオとやらの通り、彼女を私の娘にしても良いのか?﹂
どこまでの事情を理解できているのかは不明だが、公爵は相変わ
らず何を考えているのかわからない表情で聞いてきた。
俺が幼かった頃は、この表情がもっと顕著だったと思う。
公に父と呼んではいけなかったこの父親は、当時の俺にはとても
大きくて遠い存在だった。
今ほどの近い距離に来たのは、それこそ初めてじゃないかと思う
くらいには遠かったはずだが。
息子と呼ぶにはあまりにも接する機会が少なかった俺の異常な事
情を、どうしてすんなりと受け入れられたのか。
少なくとも“シナリオ”という言葉を発するあたりは、俺が前世
の記憶持ちで、この世界がゲームだったということは知っていそう
なのに、いくらも疑っていないような態度で。
﹁⋮⋮俺の嫁経由で、義娘にするのならば﹂
57
﹁わかった。そう手続きしよう﹂
幾秒も考える間もなく即答した公爵を思わずぽかんと見返してし
まった。
﹁何を驚いた顔をしている?﹂
﹁だって、どこまで理解して⋮⋮いや、それよりも、俺を正式に息
子にするってことは、公爵家継嗣として政略結婚話も出てくるんじ
ゃないかと﹂
﹁私は人一倍、政略結婚という言葉が嫌いでな。無理な縁談は進め
んよ﹂
公爵はちょうど着替えを持ってきてくれた母から服を受け取り、
俺に放り投げてきた。
﹁お前はあのお嬢さんを随分と愛しているみたいだし、私もあの娘
ならば、今
なら未来の公爵夫人として文句はない。いろいろ疑問に思っている
ようだが、私達には後で十分話す時間があるだろう?
は早く彼女の元に行ってやれ。あの父親は、生きているのが奇跡な
くらいの状態だ﹂
困惑する母を連れて戻る公爵の背をそのまま見送っていると、ふ
いに公爵は立ち止まり、自分の肩越しに言った。
﹁良い男を父と慕ったな﹂
俺は唇を噛みしめながら呟いた。
58
﹁当然だろう。俺達の父さんは、最高の父親なんだ﹂
それが再び背を向けて歩き出した公爵に聞こえていたかどうかは
わからないが。
俺は柔らかなタオルを握りしめて、再び込み上げてきた感情を無
理やり飲み込んだ。
最期のときは、父とリリアの二人で。
ずっと決めていたことだった。
だから家に帰って来る前に俺の話は済ませたし、父と最後の約束
もした。
それでもやはり、もっと話したかったとか、もっと教えてほしい
ことがあったとか、どうして父も助けられる道を選ばなかったんだ
ろうとか、そういう感情は出てくる訳で。
﹁強情な奴だな。そんなに泣くなら、お前も部屋に残れば良かった
のに﹂
﹁こんなに泣くから部屋に残れなかったんだよ!﹂
ドアを出てすぐ床に座り込み、しばらくして父の声が聞こえなく
なった途端に俺はぼろぼろと泣き出した。
わざわざ苦手な風魔法まで使って、自分の声が部屋の中には届か
ないよう遮断して。
母の涙が反射的に引っ込むくらいにはすごい泣き様で、その俺を
59
椅子から見下ろしながらの公爵の言い分も尤もなのだが、だからこ
そどうしても残ることはできなかったのだ。
﹁俺が大泣きしていたら、リリアがちゃんと泣けないだろうが﹂
大体、俺が涙脆いのはど
それは、自分のことを後回しにしがちなリリアが俺に気を遣って
泣けなくなることが一番嫌だったから。
﹁涙腺弱いこと自覚してんだよ、俺は!
っかの誰かさんからの遺伝なんだから仕方ないだろう!﹂
半ば八つ当たり的な感じにそう叫べば、公爵は見事に目を逸らし
た。
思い出されるのは、約十年前、別れ際に母に泣きながら縋ってい
た公爵の姿だ。
無表情が常だった公爵が、そのときばかりは情けないくらいに涙
を流していて、今そばに来た母に頭を抱きしめられながら抗議する
俺も同じように情けない姿になっていることは自分でもよくわかっ
ていたが、言わずにはいられないほど衝撃的だった。
愛する人を手放さないといけなかった私の気持ちが﹂
﹁子どもだと思って油断していたんだ。お前も今ならわかるだろう
?
﹁わかるから、今こうやって泣いてるんだ!﹂
﹁⋮⋮思う存分泣いておけ。そうしないと、遺伝的にぐずぐず引き
摺ることになるのは承知している﹂
公爵のその言葉がきっかけになった訳ではないが、もう自分でも
何が何だかわからないくらいに涙が溢れてくるのを止められず、俺
60
はひたすら泣き続けた。
いいだけ泣いて泣き止んだ後、泣き疲れて眠ったリリアをベッド
に運んだまではいいが、眠りながらも涙を流すリリアにつられてま
た俺も泣いて、そのうち俺も眠ってしまった結果、結局、起きたリ
リアに気を遣われたけど。
久しぶりに泣いた所為で痛む頭を抱えながら二人で窓の外を見れ
ば、星が煌めく夜空の下、村の中央に送り火が灯されていた。
公爵が灯したものだとは思うが、その火事かと思うくらいの炎の
大きさにリリアと顔を見合わせて、どちらともなく笑ってしまった。
綺麗に昇っていく煙を、その夜、俺達はいつまでも見送っていた。
61
彼女が迎えたエピローグ
﹁長かったなぁ⋮⋮﹂
彼は空を見上げながら、感慨深げに呟いた。
こうして何をするでもなく過ごす日を想像していなかった所為で
私は反応が遅れて、顔の前で手を振られて気付いたときには彼に笑
われていた。
その表情には何処となく陰りがあり、何となくじっと見上げてし
まう。
氷出そうか?﹂
泣いたときに余程強く擦ったのか、彼の目尻はまだ赤かった。
﹁まだ頭痛いのか?
﹁ううん。大丈夫。ただ、何だか平和だなって思っていただけだか
ら﹂
﹁ああ、平和だな。この空の色も久しぶりすぎて、何だか感覚がお
かしい気がする﹂
彼の手は、平穏を取り戻した証である宝珠を握りしめていた。
その視線は目の前の真新しい墓標を見詰めていて、私も胸元の母
の形見であるペンダントを握りしめた。
ここに母によって綺麗に整えられた父を埋葬したのは昨日のこと
だ。
亡くなった薬師の母と一緒の墓に横たえ、遺品とともに丁重に葬
った。
この世界では、高位の貴族でなければ、前世のように決まった葬
62
儀の形式はない。
特にこのような小さな村では、誰かが亡くなったその日は一晩中、
送り火を灯す風習はあるものの、葬った後は花を供えて終了だ。
村の方角を見ると、まだ送り火は煙を立てて燃えていた。
公爵が近くの街に置いてきた騎士団が迎えにくるまで、長い雨の
間に亡くなった村人達を送るために灯し続けるらしい。
立ち昇る煙を雲に届くまで目で追って、同じように村の方向を見
ていた彼を振り返って、私はふと首を傾げた。
﹁そういえば、私、いつから家に引き籠りっきりになっていたのか
しら﹂
﹁俺が覚えている限りでは、もう出会った頃から比較的引き籠りだ
ったな﹂
﹁それを言うなら、前世の記憶が戻るまで魔力酔いで体調が悪かっ
たから、もっと前からってことになるわね﹂
﹁まさか産まれる前からの引き籠り気質か?﹂
﹁失礼ね。前世ではちゃんと大学まで卒業して働いていたわよ﹂
﹁へぇ。ちなみに前世の御職業は?﹂
﹁意地悪な人には教えません﹂
顔を背けて不機嫌を装えば、彼は適当に謝りながら頭を撫でてき
た。
私の機嫌が悪くなったときに頭を撫でてくるのは昔から父も彼も
63
一緒で、何だか撫でるときの手の動かし方やタイミングもいつから
か同じになっていた気がするのは気の所為だろうか。
失くしてから気付くものってこういうことなのだろうなと思って
いたら、彼に抱き締められた。
﹁一人で泣かせるのは一度だけだからな。その後は一緒に泣こう﹂
﹁⋮⋮だったら、もう泣かないようにする。貴方って、一度泣いた
らなかなか泣き止まないんですって?﹂
愛情を存分に含んだ甘い声につい可愛くないことを言ってしまう。
せめて、と温かい背に腕を回して彼の服に埋もれながら言うと、
彼は短く呻いた。
﹁それ、あの親父から聞いただろ。無表情と見せかけて、嬉々とし
て俺の恥ずかしい話をリークする器用な姿が目に浮かんだ﹂
﹁面白いお父様じゃない。ゲームではあまり出てこなかったし、無
表情で冷たい印象しかなかったから、意外すぎて驚いたわ﹂
﹁一番驚いているのは俺だよ。王都にいたときは会うの禁止されて
いたから、あんな性格だとは思わなかった﹂
﹁仲が良さそうで何よりよ。私のことも気に掛けてくれて、とても
と言いたいところだけど、精神年齢的には実は親父
素敵なお父様ね﹂
﹁何処が!?
よりも大人な俺が素直に感じるところを言えば、あの親父はあの親
父で立派な父親だよな。あの七面倒臭い貴族どもから暗殺されかれ
ない俺と母さんを、この十年、遠く離れた場所で守ってきたんだか
64
ら﹂
彼はあくまで不本意そうにしているものの、私が二人の姿を見る
限りでは、親子関係は良好そうだった。
敵や守る方法は違うが、確かに彼の父親が立場や身分的に生じる
確執から、ずっと二人を守ってきたのも事実だ。
すでに国王のサインまで入った公爵家跡継ぎの指名書を見せられ
たときには、彼も何だかんだで嬉しそうにしていたし。
照れ隠しなのか体重をかけて凭れかかってくる彼を押し戻し、私
の視界に戻ってきた丘の風景に何となく寂しさを感じた。
﹁ねぇ。随分と前にお母さんの命日にくれた花束、あの花って何処
に咲いているの?﹂
魔素の種と彼の魔法の衝突によって吹き飛ばされた村人達の墓標
は彼が直したが、咲いていた花は戻ってこない。
また自然に植物の種が根付いて花を咲かせるまで、どれくらいの
年月が必要かわからないけれど、綺麗な花があるなら少しでもこの
丘に残しておきたかった。
﹁あー⋮⋮あれは特別だったから、少し遠い場所になるけど。今か
ら行くか?﹂
柄にもなく歯切れが悪い彼の心情はわかる。あのときの花束の意
図は、私が逸らしたから。
だから、私は今度こそ差し出された彼の手を、ちゃんとその想い
ごと受け取った。
﹁引き籠りで周りのことをあまり知らない私だけど、貴方が辿り着
65
く場所に私も連れて行ってくれると嬉しいわ﹂
いろいろ含んでそう伝えれば、彼は何度か目を瞬いた後で、微笑
んで頷いてくれた。
私の指先を唇まで持って行って、触れるだけのキスをして。
﹁俺の幸いの人。どうか、俺とともに生きる道を選んでいただけま
せんか?﹂
これは、ゲームで各キャラの個別エンディングが確定されたとき
に出てくる質問で。
ゲーム内では選択肢はイエスかノーかの二つだったが、この世界
はもう私達にとってゲームではない。
くれるなら、もっとほしい。
シナリオの強制力を危惧して、名前も呼べないほど想いを我慢し
てきたのは、私だって同じだ。
私はあえて肩をすくめて、どちらでもない返事をした。
﹁ヒロインでもない私が、この世界じゃ在り来たりなそのプロポー
ズで、素直に首を縦に振る訳ないでしょう?﹂
﹁誘導しておいて言ってくれるよなぁ。じゃあ、こういうのはどう
だろう﹂
急に彼と握っていた手を引き上げられ、頭の後ろに回された手で
強引に引き寄せられた。
そのまま唇に何度か噛みつかれて、呼吸まで奪われそうになった
ところで、目が合った彼に吐息交じりに囁かれた。
66
﹁俺が生まれ変わったことに意味があるなら、お前と出会う為だっ
たと生涯思わせてほしい。結婚しよう﹂
⋮⋮⋮⋮。
美形が真顔でそれは反則だろう。
理解と同時に一気に顔に集中した熱を時間差で自覚する。
ニヤリと笑った彼に至近距離で顔を覗きこまれた。
﹁これならお前は断れないだろう?﹂
﹁そもそも私が断る気なんてないことに、もう何年も前からあから
まあ、身分とフラグに阻まれて、本
さまに気が付いていたくせに。まったく、十五歳のいたいけな少女
に容赦ないわね、貴方﹂
﹁煽ったのはそっちだろう?
格的に兄妹になってしまうっていう懸念事項もなくなったし、これ
からはそこそこアクセル踏んで行かせてもらうから、覚悟しておく
ことだな。こういう強引なことをするキャラに心当たりがない訳で
はないし?﹂
すっかり私の好きなキャラの傾向が読まれていることに不服を覚
えるが、相手が悪いことに気付く。
何せシナリオが気になるからといって、ほとんどのゲームを実は
中途半端放置プレイをしていたらしいエセゲーマーな妹の代わりに、
乙女ゲームですら台詞を覚えてしまうほどやり込むような男が相手
なのだ。
ウェディングドレスはお父様の瞳の色と貴方
﹁そういえば貴方、私との結婚を考えているってことを先にお父様
に伝えたでしょう?
67
の瞳の色、どちらがいいかと聞かれて、普通に前世では白いドレス
が憧れだったと答えてしまったわ﹂
意表返しに伝えると、彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
変な警告の仕方しやがって、と彼がぼやいていたが、それはこち
らの台詞である。
花嫁が纏うウェディングドレスの色は、相手の瞳の色にするとい
うのがこの世界のルールになっている。
これからは公爵家を継ぐものとして、お互いに切磋琢磨しなけれ
ば、他の高位貴族に恋人すら無理やり奪われる危険性があるぞ、と。
彼に対しても私に対しても有効なこの遠回しのアドバイスは、公
爵は公爵でほとんど接したことのない息子との距離︱︱貴族的なこ
とに関しては特に︱︱を測りかねているところもあるからこその言
い回しだと推測されるが、日常会話内だとまるで冗談めいていて、
真意を汲むのに頭をフル回転させなければならないところが難点だ
った。
遠回しすぎて面倒臭いから、早くもっと仲良くなってほしいもの
だ。
﹁よし、前言撤回。あのロリコン親父、帰ったら全力で沈める﹂
﹁逆に貴方が沈められそうだけど﹂
﹁それは言わない約束だぞ、俺の可愛い奥さん﹂
﹁できるところまで頑張ってね、私の素敵な旦那様﹂
お互いに笑い合って、どちらともなく手を強く握った。
二人で両親の墓標に向き直り、私は不思議と一瞬だけ強く吹いた
風に流された髪を片手で押さえた。
68
﹁⋮⋮お父さんとお母さん、やっぱり今のやりとり見ていたのかし
ら?﹂
﹁きっと今の風みたいに生ぬるい視線を送っていると思うぞ﹂
﹁そう考えると気恥ずかしいを通り越して、開き直りたくなるわね﹂
﹁ゲームのときは他人の墓の前でプロポーズなんて何をやってるん
だお前らと思ったけど、身内なら報告も兼ねてってことで良いよな
?﹂
﹁あのヒロインとランスロットのトゥルーエンド確定シーン、リリ
ア側に立ったら文句を言いたくなるわよね。せめてリリアの御墓の
前でのプロポーズは避けるべきじゃないかしら、あのお兄様﹂
﹁まったくそう思う﹂
頷く彼の横顔はいかにも憤りたっぷりな様子だったが、でも、長
年見てきた切羽詰まったような表情とは違って、柔らかな眼差しを
していた。
その顔にはもう、陰りは消えている。
﹁ランス﹂
ゲーム内でも誰も呼んだことのない愛称で彼を呼ぶと、彼がすご
い勢いで私にそのアメジスト色の視線を向けた。
﹁これからもどうかよろしくね﹂
69
私が笑いかければ、彼も笑う。どのスチルにもなかった優しい笑
顔で。
﹁ああ、こちらこそ末永くよろしくな。リリア﹂
繋がった手はいつまでも温かい。
彼と見た絶望に塗れていたはずのこの世界は、今はとても広くて
美しかった。
70
迎えられないトゥルーエンド
かつて公爵である父が村人達を弔った送り火の跡には、一人の女
が立っていた。
黒に近い紫色のドレスを翻した女は、この降り続く雨の中、胸の
中央に咲く邪悪な色の花を優雅に愛でながら、地面に這い蹲ること
しかできない俺達三人を嘲笑った。
二段階目まで開花が進んだ魔素の種︱︱その宿主である女にどの
ような攻撃をしかけても、防御魔法で阻まれてしまった。
魔素が含まれた雨の所為で近くの街に騎士団を置いてくるしかな
かったこの状況で、俺達にもう打てる手はない。
俺は口に広がる血と土の臭いを噛みしめて、女を睨みつけた。
この程度の力量だなんて、あの御方の血を
﹁あらあら、久しぶりに会った我が息子はつれないわね。そして、
なんて情けないこと!
引いているとは到底思えないわ!﹂
そうなのよ!
貴方はあの御方の息子!
私が産んだ
﹁⋮⋮俺が誰の血を引いているか、一番わかっているのは貴女だろ
う﹂
﹁そうよ!
あの御方の息子なのよ!﹂
貴方さえいなければ、
こんな辺鄙な村で死ぬこ
そうよ!
女は甲高い声を上げ、黒い空を両手で仰いだ。
﹁貴方はあの御方と私の息子!
私はあの御方の傍にずっといられたの!
ともなかったのよ!﹂
71
女の狂った笑い声が頭に響く。
わかってはいた。わかっていたから、俺は怖くて母に聞けなかっ
たし、優しい母も本心を隠すことは容易に想像できたから問わなか
った。
でも、この女︱︱流行病で亡くなった母と同じ顔、同じ姿をした
この女なら答えてくれるだろうか。
﹁母は⋮⋮貴女は、俺を憎んでいたのか?﹂
俺の酷く掠れた声は、それでも女の元までは届いた。
その証拠に女の笑い声は止んだ。まるで時間が止まったかのよう
に忽然と。
女は緩慢に視線を俺に戻して、儚かった母と同じ人物だとは思え
ない冷酷な微笑みで肯定した。
﹁そう、貴方。そして、そこに倒れている小娘と、権力で公爵家に
嫁いだあのお姫様も。全部憎いわ。当然じゃない。貴方がいなけれ
ば、私はあの御方にお仕えし続けることができたし、あの血筋だけ
が取り柄のお姫様さえいなければ、そもそも私とあの御方はきっと
結ばれていた。こんな寂れた村で、その小娘に母と認められない苦
しみを味わうこともなかったし、私の可愛い貴方が小間使いのよう
なことをさせられることもなかった!!﹂
女は言い終わった後、俺の後ろに倒れている二人︱︱聖女と妹に
視線を移した。
どうしてか、ただそれだけの動作なのに俺の心臓がどうしようも
なく凍えた。
72
﹁そうね⋮⋮そうよね。その小娘、考えてみれば私が欲しいものを
手に入れているわ。あの御方のお傍、公爵家の身分、貴方からの家
狩人だった父のことか?
族愛。そして何より、あの人からの私への愛情だって娘の為だった
なんて!﹂
あの⋮⋮人?
想像もしていなかった人物を指す言葉に驚いたと同時、頭の中で
警鐘が鳴る。
﹁⋮⋮本当に憎いわ。愛情も身分も、すべて手に入れられる女が﹂
目が完全に据わった女が一歩踏み出した。
戦えるのは俺だけなのに、この傷だらけの身体は動かない。
﹁貴女の前で、貴女の愛する人を殺したらどうなるのかしらね。私
と同じ苦しみを貴女も知ることになるかしら?﹂
女の胸に半分だけ咲いていた濃い紫色の花が、歪な音を立てて開
き始めた。
後ろで誰かが立ち上がる音が聞こえる。
俺と一緒に異変の調査を命じられた聖女は、浄化魔法を一度失敗
して跳ね返されて動けないはず。
この中で動けるとしたら、もう、強引に付いてきてしまった妹し
かいない。
女の視線はそちらに向いたままだ。
危険なのは俺じゃない︱︱狙いに気付けと願うが、女が身体から
伸びる根の一本を放った刹那、俺の前に飛び込んできたその妹によ
って、防御魔法が展開された。
73
だから、ついてくるなと言ったのに。
﹁お兄様⋮⋮大丈夫ですか?﹂
鋭い根の切っ先は、俺を庇うように立ったリリアが両手で展開し
た翡翠色の光を放つ防御壁に突き刺さって止まっている。
その攻撃は、俺を狙ったものじ
最初からお前を狙って⋮⋮ッ!!﹂
﹁大丈夫に決まっているだろう!
ゃない!
魔法が軋む音が聴こえる。
術者だから気付いているはずなのに、前を見据えたままのリリア
お兄様が甘やかすから、私はいつまでも無知で
の後ろ姿は一切怯えを見せていなかった。
﹁そうでしたの?
防御壁が崩れる!!﹂
気付けませんでしたわ﹂
﹁どけ!!
﹁どきませんわ。だって、根は一本ではありませんもの﹂
リリアが言うが早いか、次々と根が防御壁に突き刺さっていった。
﹁お兄様。一つ、お聞きしたいの﹂
魔法にかかる負荷に耐えきれず、その細い指先からは血が滴った。
リリアの表情は俺からは見えないが、相当な苦痛を伴っているだ
ろうに声は落ち着いていた。
74
﹁私は、お兄様に愛されていたのでしょうか?﹂
愛していない訳がない!!﹂
こんなときに意味のわからないことを言う。
﹁お前は、俺の家族だろうが!!
﹁⋮⋮だからお兄様は女心がわかっていないのですわ﹂
防御壁にヒビが入った。
あの女が言った“貴女”って、私のことじゃないわ。ほ
﹁お兄様、先程あの女が言ったこともちゃんと理解していませんで
しょう?
ら、この軌道、聖女様を狙っているわ﹂
途中から公爵家に引き取られる前の言葉遣いに戻ったリリアは、
自嘲めいた口調で続けた。
﹁お兄様。私があの女の羨むような、愛情も身分も“すべて”手に
入れられる女ではないことは、私もあの女も知っているの。あの女、
私がお兄様から与えられたのは家族愛だって言い切ったもの。私が
欲しいものは、そんなものではないのよ﹂
防御壁に一つの亀裂が走る。
﹁純粋に一人の女として貴方に愛されたかった。貴方に愛され、愛
することを許された聖女様が羨ましい。だから私は聖女様が大嫌い
なの。でも、貴方が幸せになれるのなら⋮⋮私は、たとえこれが最
期になろうと、本当に憎くて仕方ない聖女様を守らずにはいられな
いのよ﹂
75
辛うじて振り返ったリリアは、何故だか微笑んでいた。
﹁今まで甘えさせてくれてありがとう。そして、いろいろ我儘を言
って気を引こうとしてごめんなさい。私が無理やり付いてきたから、
今日も貴方を苦しめて⋮⋮。あの魔素の種を守っている魔法、根本
にあるのは私が昔あの人にかけた魔法なの。でも、ほとんど無意識
だったから解けなくて。だから、術者である私がいなくなれば貴方
は勝てるわ。大丈夫、貴方は私の自慢のお兄様なのだから﹂
リリアは片手を俺に差し出した。
防御壁にはさらに多くの亀裂が入ったが、リリアは構わない様子
で、その指先に魔法を灯した。
﹁世界で一番愛しています。どうか、お幸せに﹂
微笑んだまま、その言葉とともに傷ついた小さな手が放ったのは、
崩れた防御壁を修正するための術式ではなく、俺の傷を癒すための
治癒魔法だった。
動くようになった足で俺は即座に地面を蹴る。
俺が向かったのは、聖女の元だった。
満身創痍の彼女を抱え上げて、女の攻撃の軌道から抜ける。
次は妹を、と振り返れば、リリアはこちらを向いて泣きながら、
子どもの頃のように笑っていた。
身分違いの恋なん
ガラスが割れたような音が響く︱︱防御魔法は完全に崩された。
女王になれるの!!
たった一人の妹を巻き込んで。
﹁これで花が咲くわ!!
76
私だってお姫様になれるんだから!!﹂
て言い放った、あんな姫になんてあの御方を渡さなくて済むのよ!
!
女は高笑いを上げ、貫いた妹を攫っていった。
身体ごと魔力制御回路を根に喰われて消えていく妹の姿を視界に
入れた直後、どう動いたかは覚えていないが、俺はもう迷わずに母
に似た女の胸に咲き誇った花の中央に剣を突き刺していた。
あれだけ強固だった女の花を守る防御魔法は、リリアの言った通
り、軸を失くして簡単に崩れていた。
﹁母様⋮⋮母様は、リリアに母親だって認められていたよ。リリア
の無意識の防御魔法は、リリアが愛した人間にしか掛からないって、
父上が言っていたから。こんな姿になっても死なせたくないほど、
リリアは母様のことが好きだったらしい﹂
﹁何⋮⋮を⋮⋮﹂
﹁もう一度眠ろう、母様﹂
俺の後ろでは、聖女の魔法が眩い光を放っていた。
剣を抜いて俺が離れた後、聖女の放った浄化魔法の本流が押し寄
せ、母の姿をした魔素の種の悲鳴とともに、淀んだ空は晴れていっ
た。
夕日が照らす丘には、たくさんの墓標が並んでいた。
狩人の父と母の名前の傍に妹の名前を刻んだ墓標を作って、色と
77
りどりの花を供えた。
母と妹の身体は、魔素の種に完全に浸食された所為で残らなかっ
た。
何も埋まっていない墓標だけの墓を見詰めながら、俺は自分の瞳
と同じ色をした宝珠を握りしめた。
﹁⋮⋮こんな思いをするのは、俺一人で十分だ。これから貴女が辿
り着く場所に、俺も一緒に連れて行ってはくれないだろうか﹂
墓標に祈りを捧げる聖女の手を取って、俺は指先に触れるだけの
キスをした。
﹁どうか、貴女を俺に守らせてくれ。俺の愛しい人。願わくば、俺
とともに生きる道を選んでいただけないだろうか?﹂
聖女は俺を見上げ、白い頬に涙を流しながらゆっくりと頷いた。
神秘的な涙に口付けて、俺はまだ見ぬ魔王への復讐を誓った。
聖女の手をとって丘を去ろうとしたとき、一際強く吹いた冷たい
風が俺の足を止めた。
ふわりと舞った髪を押さえる聖女の仕草に妹の姿が重なったのは、
俺の罪の意識が見せた幻影か。
俺はそれから一度も墓標を振り返ることはなかった。
振り返る資格など、俺にはない。
俺が選んだのは、聖女。
女神の力を授かった、この世界で唯一の崇高な女性なのだから。
78
村を離れたとき、ふいに風の中に妹の寂しげな声が聞こえた気が
した。
79
エクアシス。
彼女は世界の秘密を知っている
聖都
王都から半日ほど馬車で街道を進んだその街には、教会の総本山
がある。
教会とは、永世中立に世界平等な慈善事業を行うことを各国から
承認された機関である。
この世界を創ったとされる女神の名の下、女神信仰の象徴である
聖堂を拠点として貧民救済や無償治療などを行っているが、私達に
とっては宗教的よりも、前世でいうところのお役所のイメージが強
い。
というのも、各国から聖堂を建てる代わりに任されている主な仕
事というのが、戸籍の管理だからだ。
特に総本山であるエクアシスの大聖堂は、高位貴族の戸籍管理を
一挙に任されている場所でもある。
この世界は前世とは違って、むしろ戸籍で管理されている人間の
ほうが少ない。
戸籍をつくるには、身元が明確な保証人を立て、書面で出自の証
明をしてもらった上で、成人ならば教会に出向いて簡単な思考検査
と魔法の適性・属性検査を行う必要がある。
必然的に身元が明確な保証人となると、生まれてからすぐに国王
命令で戸籍が作成される貴族ということになるため、戸籍を持って
いるのは貴族か、もしくは、その辺に人脈を持つ商人などの裕福な
層くらいだ。
ランスは非公式だったとはいえ、王都出身で母も貴族だから、父
親不在扱いで母の名義で教会に届け出をされているが、私は辺境の
村で生まれ育った平民なので、戸籍なんてものは存在しない。
80
よって、ランスと結婚するにあたって、私は自分の戸籍をつくる
ところから始めなくてはならなく、さらには正式に国王から公爵家
の跡取りと認められた彼との結婚なので、教会のトップである聖女
から祝福の言葉を貰わなければいけないという高位貴族特有の文化
にぶち当たって、こうして半年がかりで用意した様々な書類を持っ
て、馬車に揺られている訳なのだが。
向かい側に座ったランスがぐったりとしながら、後ろ手でコンコ
ンと御者席につながる小さな窓を叩いた。
小窓はすでに開いているため、すぐに御者のセルディオから慣れ
た返答がくる。
この狭い空間、
﹁何スか、坊ちゃん。先に言っておきますが、まだッスよ?﹂
﹁まだって、もう何回目だよ。俺、外に出ていい?
息が詰まる。というか、酔った﹂
﹁耐えてください。オルトランド公爵様の血筋もろバレの坊ちゃん
がそんなことしたら、俺が周りに睨まれるッス﹂
﹁⋮⋮貴族やーだー﹂
﹁うるさいッスよ。大人のくせに子どもの振りをしてもダメッス﹂
この容赦のないやり取りも、道中、何度聞いたことだろうか。
さすがランスの成長を公爵の代わりに見守ってきた騎士である。
突っ込みに遠慮がない。
実はセルディオというこの御者の騎士、私達の村に半年に一回は
必ず来ていた行商人だった。
公爵が母と彼の様子を探るために辺境の地に紛れ込ませた者で、
81
公爵お抱えの騎士にして、実家は有名な商家という肩書を持つ優秀
な人物だ。
村に居たときに買い物していた私とも面識があり、公爵家に仕え
る騎士の中でも魔素の種の影響を受けにくい高位魔力保持者である
ことから、今回、公爵が付添い人として推挙してくれた。
﹁ねぇ。気になるのだけど、どうしてさっきから馬車が動いていな
いの?﹂
渋滞なんてこの世界にあるのか!?﹂
﹁申し訳ありません、リリア様。渋滞にはまってるッス﹂
﹁はぁ!?
﹁滅多にないッスけど、今の聖都は、聖女様に病を治して頂く為に
他国の要人も来ているので。門の前に並びながらの小競り合いもあ
って、それでなかなか進まないみたいッス。特に今日はもう朝から
随分と起きているみたいッスからね、聖女様の奇跡﹂
﹁またか。先週も大量に起こっていただろう﹂
﹁それだけ救いを求めている人間が多いってことッスよ。早く解決
すると良いッスね、この原因不明の流行病騒動﹂
﹁そして、今すぐにでも聖都の渋滞がスパッと解消すると良いよな﹂
﹁そんな明るく楽しい妄想をして大人しくしていてくださいね、坊
ちゃん﹂
ピシャリと音を立てて、御者席につながる小さな窓は閉められた。
滅多にない渋滞でセルディオも精神的に疲れているのか、ぐだぐ
82
だしているランスの相手をする気はもうないらしい。
気紛れに適当に絡む相手を失くしたランスは溜息を吐いて、馬車
の壁に寄りかかった。
﹁⋮⋮奇跡なんてそう簡単に何度も起こすなよ﹂
誰にともなく彼は呟いた。
いや、呟いた先に相手は居たのかもしれない。
それは、きっとここから声が届くことは決してない高みにいる存
在だろうが。
あるいは届いたとしても、他人の意見なんて聞き入れる余裕は全
くない者だろうけれど。
私達は今の聖女が行う奇跡と呼ばれる無償治療が、本当の奇跡な
どではないことを知っていた。
奇跡がここ最近で頻繁に起きなければならない理由も、どういう
原理で起こっているのかも。
﹁彼女達も⋮⋮以前の私達と同じようにギリギリのところを生きて
いるのね﹂
﹁⋮⋮これから先、こういうことが攻略対象の数だけ起こって、そ
の度に俺達はこういう無力感に苛まれるんだろうな﹂
窓にかかるカーテンを少しだけ開けて外を見る彼の表情は、空の
色と同じように曇っていた。
この聖都周辺は、私達には随分と慣れた空気の臭いがする。
︱︱魔素の種の気配がした。
聖都には、攻略対象者とライバルキャラが一組居る。
83
当然ながら、その近くには魔素の種も。
しかも、ここに居る攻略対象者は、ゲームでは二週目以降、ある
条件下でしか攻略できないというおまけ設定付きだった。
﹁よりにもよって、今回の面会相手が最強の隠しキャラだとはな﹂
﹁祝福の儀で確実に言葉を交わすことになるけど、彼女達に限って
は同じ転生者であることを祈ればいいのか微妙なところね﹂
﹁俺は転生者ではないと思うぞ。あんな過酷な場所で平静を保てる
のは、この世界のあの状況で一から精神を育てられた人間だけだ﹂
大切な人の為なら﹂
﹁⋮⋮転生者でも、意外と苦痛なんて耐えられるものかもしれない
じゃない?
私の呟きにランスは困ったように笑った。
お前は強すぎるんだよ、と私の頭を撫でながら。
私達が祝福の言葉を頂く相手、ヒロインのライバルキャラにして
今の聖女であるエレノア・S・エクアシス。
そして、その傍で今も神官として護衛にあたっているだろう、攻
略対象者にしてエレノアの息子であるレゼ・F・エクアシス。
二人とも黒髪に血のような紅い瞳を持つ、創世の時代に現世に降
り立ったとされる女神の子孫にして、魔王の血を受け継ぐ者達だ。
つまりは、現世に降りた女神が愛して子を儲けた相手が魔王とい
う、この世界の人間にとってはとんでもないことになるのだが、そ
れが二人が隠しキャラになっている理由でもある。
ゲームの終盤で今は道が閉ざされている魔界に行き、魔族や魔王
に出会って、魔の者は総じて黒髪紅目だということを察しつつ、エ
ンディングを見たプレイヤーにしかわからないこの世界最大の秘密
84
であるから、一週目では攻略できないのは当然として。
ゲームでの一週目、レゼが攻略対象者だと予想することはできて
も、実はエレノアと親子だったとは見抜けたプレイヤーはいなかっ
た。
何故なら、エレノアは幼女の姿をしていて、レゼは二十代後半の
姿だったから。
一週目でとあるイベントを見て、二週目以降、一年目のうちに他
の攻略対象者達そっちのけで全ステータスをできるだけ上げて二年
目を迎えれば、魔法学園に十五歳の姿になったレゼが入学してくる
ようになっている。
前世の私は隠しキャラの存在に密かに歓喜したものだが、彼のシ
ナリオは他のキャラとは違って、徹底的に闇に塗れていた。
世界の闇というべきか、魔素の種が引き起こした闇というべきか。
とにかく、聖都にある魔素の種がすでに根付いて活動し始めてし
まっている今、私達にどうこうできる術はない。
ヒロイン不在のまま、私達が相手にするには分が悪すぎるどころ
か勝ち目が幾分も見つからないほど、聖都にいる魔素の種が寄生し
た者は強い。
大人しく今どこで何をやっているのかわからないヒロインの登場
を待つしかない状況は歯痒いが、偽善の正義感を振りかざして足掻
いて、ランスがまた傷だらけになるのは嫌だから。
私は頬に下りてきた優しい彼の手を捕まえた。
私達が聖都に来るにあたって決めたのは、ここにある魔素の種に
は不干渉を貫くこと。
﹁ランス。何を考えているのかわからなくはないけど、ダメよ﹂
しっかり彼の目を見て再確認すれば、彼は魔素の気配に無意識に
85
硬くしていただろう表情を和らげた。
﹁心配するな。自分に出来ることと出来ないことはわかっているつ
もりだ。お前こそ、首を突っ込むなよ﹂
﹁わかっているわ。手続きと祝福の儀が終われば、すぐに王都に帰
るのよね?﹂
﹁ああ。残念だけど、聖都の観光はここにある種が浄化された後に
なるな﹂
彼は私の額に口付けて、私の左手薬指に填っているお揃いのエン
ゲージリングを指先でなぞった。
できるだけ魔素の種には近づきたくないが、どの道、魔法学園入
学までに戸籍をつくらなければ、ゲームの舞台にすら上がれなくな
って、苦い思いをすることになるのだから頑張るしかない。
︱︱でも。
ガタンと再び動き出した馬車の歯車が、異様に軋む音を立てたよ
うな気がして、私は胸騒ぎが止まらなかった。
胸騒ぎが現実のものとなったのは、次の日の夕暮れ時のことだっ
た。
教会で検査を受けて書類を提出した帰り道、夕方なのに人の気配
がまるでない大通りに違和感を感じて、安易に道を逸れた私達が悪
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かったのか。
その路地裏には、紅い瞳の黒衣の男が立っていた。
87
彼は教会の秘密を知っている
聖都には魔族がいる。
王都から最も近い大きな街である聖都エクアシスには、そんな噂
がある。
魔族とは、世界が創られて間もなく人間と対立した所為で、魔界
と呼ばれる場所に封じられた存在である。
この世界を支配しようとしたとされる魔王の下、自分達を封印し
た人間に復讐するため、破壊衝動の赴くままこちらの世界を壊そう
としているそうだが、俺達にとってそんなことはどうでも良い。
というのも、魔族総出で世界を壊そうとしているというのが、全
くのデマだからだ。
魔素の種を放って結果的に世界を壊そうとしているのは魔王で、
他の魔族はむしろ人間達を刺激しないよう臆病なほど静かに生活し
ているだけである。
ちなみに魔物と魔族は別の存在で、魔物は世界の歪みから生じた
もので、魔族は世界が創られたときからエルフや妖精といった者達
のように種族として存在している者達を指す。
混同する人間が多く、時代の流れとともに魔物と同じく畏怖され、
今や討伐の対象となってしまっており、そもそもそういう背景があ
るから、教会が戸籍の管理なんて面倒なことを、自ら率先してやら
なければならなくなったんだろうと俺は考えているのだが。
戸籍をつくる際、身元が明確な保証人を立て、書面で出自の証明
をしてもらうことが必要なのは、前世でもそうだったからわかる。
でも何故、貴族は特に王命によって戸籍をつくることを強要され、
成人になったときに教会に出向いて、魔法の適性・属性検査と簡単
な思考検査を受けなければならないのかといえば、たまに創世の時
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代まで遡れば先祖にいただろう魔族の血が色濃く出ている人間がい
るからだ。
高位魔力保持者は貴族に多い。
それは、貴族は貴族と結婚することがほとんどで、その強い血を
強い者同士で代々残してきているからという理由もある。
しかし、教会によって秘匿されているが、魔力が強いのは祖先に
魔族がいるからという場合もあり、先祖が魔族の人間同士の結婚だ
った為なのか、稀に魔族の血が濃い子どもが生まれてきて、その子
が大きくなったときに騒ぎになることがあった。
魔力は強いのに、他の高位魔力保持者のように色素が薄い外見で
もなく、適性以外の魔法も使えないと。
魔族が使えるのは自分の特性に属する魔術と呼ばれるもののみで、
俺達のように適性が違っても他の属性を使えるということはない。
ただ適性がなくて他の属性を使えないだけだと言い訳するには、
魔族の血が色濃く出ている人間が持つ魔力は強すぎる。
教会の人間が隠蔽し続けているから、もうこの世界に今生きるほ
とんどの人間は魔族の特徴的な容姿や魔術のことを明確には知らな
いはずなのに、そういった者は人間に害をなす魔族ではないかと疑
われて、この世界は生きづらくなり、やがて姿を消す。
消えたのか、消されたのかはわからないけれど。
だから、魔王︱︱魔族を祖先に持つ者達が運営する教会は、魔法
検査で引っかかった魔族寄りの人間を、思考検査で実に神官向きの
人間だったと評して迎え入れ、生きる場所を提供している訳で。
俺はこの世界の仕組みにも貴族の面倒臭い風習にもぐったりとし
ながら、後ろ手でコンコンと御者席につながる小さな窓を叩いた。
﹁何スか、坊ちゃん。先に言っておきますが、まだッスよ?﹂
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﹁まだって、もう何回目だよ。俺、外に出ていい?
息が詰まる。というか、酔った﹂
この狭い空間、
﹁耐えてください。オルトランド公爵様の血筋もろバレの坊ちゃん
がそんなことしたら、俺が周りに睨まれるッス﹂
﹁⋮⋮貴族やーだー﹂
﹁うるさいッスよ。大人のくせに子どもの振りをしてもダメッス﹂
心から貴族なんて嫌だと訴えたのにセルディオに罵倒された。
お前にはこの空気だけで村での出来事を思い出してしまう俺の気
持ちなんてわからないよなと毒吐きたいが、リリアもいるため口に
出せない。
﹁ねぇ。気になるのだけど、どうしてさっきから馬車が動いていな
いの?﹂
渋滞なんてこの世界にあるのか!?﹂
﹁申し訳ありません、リリア様。渋滞に嵌ってるッス﹂
﹁はぁ!?
﹁滅多にないッスけど、今の聖都は、聖女様に病を治して頂く為に
他国の要人も来ているので。門の前に並びながらの小競り合いもあ
って、それでなかなか進まないみたいッス。特に今日はもう朝から
随分と起きているみたいッスからね、聖女様の奇跡﹂
﹁またか。先週も大量に起こっていただろう﹂
﹁それだけ救いを求めている人間が多いってことッスよ。早く解決
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すると良いッスね、この原因不明の流行病騒動﹂
﹁そして、今すぐにでも聖都の渋滞がスパッと解消すると良いよな﹂
﹁そんな明るく楽しい妄想をして大人しくしていてくださいね、坊
ちゃん﹂
ピシャリと音を立てて、御者席につながる小さな窓は閉められた。
渋滞でセルディオもイライラしているのか、俺の相手をする気は
もうないらしい。
無意味に八つ当たりする相手を失くした俺は溜息を吐いて、馬車
の壁に寄りかかった。
﹁⋮⋮奇跡なんてそう簡単に何度も起こすなよ﹂
俺達が村に居たときには、奇跡なんてそう何度も起こらなかった
のに。
向かい側に座るリリアの表情は、あの頃のように暗かった。
﹁彼女達も⋮⋮以前の私達と同じようにギリギリのところを生きて
いるのね﹂
遠くを見る彼女の瞳は、聖都にいる攻略対象者達のことを気に掛
けて曇っていた。
この聖都周辺は、俺達には随分と慣れた空気の臭いがする。︱︱
魔素の種の気配がした。
﹁⋮⋮これから先、こういうことが攻略対象の数だけ起こって、そ
の度に俺達はこういう無力感に苛まれるんだろうな﹂
91
この空気は苦手だ。忘れていたはずの焦燥感が蘇ってくるから。
魔素の種はどうしても潰さなくてはならない衝動に駆られる。
たとえ、魔素の種を宿した相手が、魔界ランク二位の本物の魔族
だろうと。
﹁よりにもよって、今回の面会相手が最強の隠しキャラだとはな﹂
﹁祝福の儀で確実に言葉を交わすことになるけど、彼女達に限って
は同じ転生者であることを祈ればいいのか微妙なところね﹂
﹁俺は転生者ではないと思うぞ。あんな過酷な場所で平静を保てる
のは、この世界のあの状況で一から精神を育てられた人間だけだ﹂
大切な人の為なら﹂
﹁⋮⋮転生者でも、意外と苦痛なんて耐えられるものかもしれない
じゃない?
リリアはその瞳にどこか懐かしさを滲ませながら、俺を見詰めて
呟いた。
母や俺のことを想って魔素中毒を克服した彼女の言葉は重い。
俺は思わず、彼女が命がけで変化させた綺麗な金色の髪に手を伸
ばして撫でた。
聖都に居るゲーム関係者である、エレノア・S・エクアシスとレ
ゼ・F・エクアシス。
その二人の近くにいる魔素の種を宿した者の名は、ザイレ・S・
エクアシスだ。
魔王の右腕にして、人間を愛してこちらの世界に密かに移住して
きた純粋な魔族である。
エレノアの夫にしてレゼの父親で、今は聖都で人間の姿で神官長
をしているはずだ。
92
ゲームでの一週目、ザイレは純粋な魔族だけがとれる魔獣形態で
魔王戦の直前に現れ、尤もらしい理由を付けてヒロイン達に戦いを
吹っかけくるのだが、魔界ランク二位という割には浄化魔法で呆気
なく倒すことができ、何故か魔素の種が浄化された証である宝珠を
残して消えていく存在だった。
ヒロインは宝珠を填める為の輪が連なったアクセサリーを持って
いるのだが、それがシナリオ終盤でも完成しないことを訝しみなが
ら魔界へ行った結果が隠しキャラの暗示で、当時の俺は、喜んでい
いのか悲しんでいいのかわからない微妙な感情に苛まれた。
二週目以降も条件を満たすことができなければ、やっぱりザイレ
は魔王戦直前に現れて、訳もわからず宝珠を残して消えていく存在
で。
レゼを攻略して、やっとその行動の理由が判明した。
愛故の悲劇というべきか、魔素の種が引き起こした奇跡というべ
きか。
とにかく、聖都にある魔素の種がすでに根付いて活動し始めてし
まっている今、俺達にどうこうできる術はない。
ザイレ・S・エクアシスは、浄化魔法がない状態の人間側が相手
にしてはならないほど強い魔族なのだ。
大人しくヒロインの登場を待つしかない状況は歯痒いが、今の俺
達に他人を救えるほどの余裕も力もないから。
︱︱それでも、だ。
もしも何らかの理由で戦わなければならなくなった場合、彼女だ
けは絶対に俺が守る。
俺はリリアの柔らかな頬に手を滑らせた。
そっと俺の手に細い指を重ねた彼女の俺を真っ直ぐに見る眼差し
93
は、その可愛い容姿に有無を言わせぬ迫力を持たせるほど強かった。
﹁ランス。何を考えているのかわからなくはないけど、ダメよ﹂
その鋭さに息を飲んだ俺は、それを誤魔化すように笑ってみせた。
﹁心配するな。自分に出来ることと出来ないことはわかっているつ
もりだ。お前こそ、首を突っ込むなよ﹂
﹁わかっているわ。手続きと祝福の儀が終われば、すぐに王都に帰
るのよね?﹂
﹁ああ。残念だけど、聖都の観光はここにある種が浄化された後に
なるな﹂
俺はいつの間にか弱気になっている自分の顔を見られないように
彼女の額に口付けた。
もうこの世界がゲームのシナリオ通りには動いていないことに言
い知れぬ不安を感じたが、彼女の左手薬指に填っているお揃いのエ
ンゲージリングを指先でなぞれば、幸せで気分は持ち直した。
だが、ガタンと再び動き出した馬車のもどかしい速度に、潰した
はずの焦燥感は消えずに募っていった。
不安が現実のものとなったのは、次の日の夕暮れ時のことだった。
教会で検査を受けて書類を提出した帰り道、夕方なのに人の気配
がまるでない大通りに違和感を感じて、他人の厄介事を避けるよう
94
に道を逸れた俺達が悪かったのか。
その路地裏には、紅い瞳の黒衣の男が立っていた。
95
彼女はもう一度覚悟する
離された、と思ったときにはもう遅かった。
黒衣の男の指がパチンと鳴らされ、反射的に閉じたたった一回の
瞬きの合間に私達はその場から移動させられていた。
︱︱魔術だ。魔術は魔力で構成を編んだ後、術者の発する音を合
図に発動する。
ゲームでは主に魔界に繋がるゲートを開くことに使っていた空間
魔術は、特に扱いが難しいとされているが、瞬間的に音を鳴らした
だけで発動したなら、間が悪いことに構成はもう編み終わっていた
ところだったのだろう。
何処でどう惑わされたのか、あのとき私達は意図せず術者側の空
間に迷い込んでしまっていたらしい。
まずい状況で出会ってしまった男の危険度故、私を庇おうと咄嗟
に前に出たランスは繋いでいた私の手を放したし、私も彼が戦うな
らばと簡単に放してしまった。
そして今、ランスは私の傍にはいない。
私が連れてこられたのは、恐らく大聖堂内の一室だ。
ゲームをしていたとき、大聖堂に女神の啓示を受けたとやってき
たヒロインがとりあえずの滞在先にと案内された部屋に似ている。
客室なのか、部屋にあるのは簡単な家具だけで、生活感がまるで
なかった。
空中に投げ出された私の身体を受け止めてくれたベッドの上で、
私は自分を必死で落ち着かせて、ランスの気配を探った。
孤児院、か。
私がランスに掛けた防御魔法の気配は、大聖堂からは大分離れた
場所にあった。
96
ギリギリ魔法の気配が掴めるこの距離で、あの黒衣の男が空間魔
術でよく転移する場所なら、聖都の西にある山の中に建てられた孤
児院だ。
あの男は私達と遭遇したとき、ボロボロの格好で気を失っている
男の子を腕に一人抱えていた。
その男の子を孤児院で治療するついでに、ランスも連れて行かれ
たと見ていい。
彼に掛けた防御魔法の気配が幾つか崩れていた。
私は勝手に泣き出しそうになる目を両手で覆った。
自分で自分を叱責した。何をやっているんだ、と。
本来なら守る役目は私のほうが適性があるはずなのに、彼に庇わ
れることに慣れてしまっていた結果がこれだ。
彼を盾にして、半年前まで毎日傷だらけの生活をさせていたのは
私なのに。
彼も父もちゃんと守れなくて、最後の戦いでも大怪我をさせて、
父を失わせたのは私なのに。
自分の弱さが情けなくて悔しくて涙が零れそうになる。
どれだけ無様にそうしていたことだろう。
カチャリと鳴ったドアの音に身体を起こしたときには、黒衣の男
が部屋に入ってきていた。
黒髪に紅い瞳を持つ、寒気がするくらいに造形が整った二十代後
半の男。
その容姿を持つ男には二人心当たりがある。
攻略対象者であるレゼと、私達をここに攫ってきた張本人である
ザイレだ。
この二人は非常に外見が似ていた。
純粋な魔族であるザイレのほうの血が濃く出ているレゼは明らか
に父親似で、今時期は二人とも同じ二十代後半の姿をしているから。
97
これはどちらだ、と頭を回転させる私を嘲笑うかのように黒衣の
男は口元を緩ませた。
﹁おはようございます。この部屋、気に入っていただけましたか?﹂
ああ、最悪のほうだ。
だけど幸いなことに、ザイレが私の前にやってきたということは、
世界最強クラスの戦闘能力を誇るザイレが今もランスの近くにいる
訳ではないことで。
彼に掛けた防御魔法で崩されているのは、殴られたか斬りつけら
れたかくらいで破壊される程度の彼の状態確認用の軽い防御魔法だ
から、それ以上の攻撃を受けていないなら大丈夫だ。
教会内で防御魔法が幾重にも掛かった状態で何の拘束もされてい
ない彼を本気で殺せるとしたら、この男くらいなもの。
幸せな日々に腑抜けていたとはいえ、私の彼を想う魔法はそこま
で柔じゃないし、彼も決して弱くはない。
﹁ランスはどうしたの?﹂
気持ちで負けたら、私の防御魔法は崩れる。
今、聖都周辺で流行している病を。彼
思い切り睨みつけてやれば、ザイレは心外だと肩をすくめた。
﹁貴女は知っていますか?
今、聖都で子供達の誘拐が
はそれを患っていたようなので、我々の治療施設にお連れしました﹂
﹁白々しい。貴方は知っていますか?
相次いでいるのを。彼はどうやらそれに巻き込まれたみたいなのだ
けど﹂
﹁誘拐事件については我々も頭を悩ませているところでしてね。彼
98
とは別問題ですよ﹂
﹁ええ、別問題でしょうね﹂
そう、普段なら貴方達は魔力制御回路が狂った子ども達だけを誘
拐しているんだから、とは続けて言わないが。
笑みをさらに深くしたザイレは、何もない空間から数枚の紙を取
り出した。
﹁彼の治療を円滑にする為に、治癒魔法に適性がある高位魔力保持
者の貴女にお願いがあるのですが﹂
ザイレの手には、教会で今日受けた適性検査の結果と、私達が提
出した書類が握られていた。
再び空間魔術で私が連れてこられたのは、思った通り孤児院の地
下だった。
石造りで外界の光とは遮断された血の臭いが漂うその場所には、
魔力を安定させる為の魔法陣が床に描かれていて、その上で一人の
黒髪の幼女と見覚えのある面影の少年が血を吐いて倒れていた。
二人とも身体のいたるところから血を流しており、過去、ランス
と父の散々な怪我を見てきた私ですら、目を逸らしたくなるほど痛
々しかった。
幼女は聖女エレノアで、少年は私達と一緒に攫ってきた男の子だ
ろう。
男の子は私達が出会ったときよりも成長していた。
ここで少年に対して、エレノアによる奇跡の治療が行われたのは
明白だった。
99
これが“聖女の奇跡”の原理。
魔術特性の中でも特殊とされる、エレノアの時間魔術による肉体
操作だ。
私が幼いときにそうであったように、魔力を持つ子供は幼少期に
は魔力が安定せずに体調を崩しがちで、時には命まで落としてしま
うことがある。
聖女エレノアは、時間魔術で魔力を安定させられる年齢まで強制
的に身体ごと魔力制御回路を成長させて子供を救っている。
だが、世界の理を無視して無理やり肉体を操作し、術者も対象者
も無事で済む訳がない。
死者蘇生すら可能である奇跡の魔術を授かった代償に、時間魔術
は術者の身体にも反動がくる。
対象を成長させれば術者は反対に若返り、対象を若返らせれば術
者は老化する。
エレノアは今日も聖女の奇跡をたくさん起こして、対象を若返ら
せることで病を患っていない頃の状態に戻し、自身は少しずつ大人
の姿を取り戻していったはずなのにもう幼女の姿に戻っている。
多少の変化であるなら身体も軋む程度で済むが、それが過ぎれば、
術者も対象者もお互いに内臓は悲鳴を上げ、皮膚は裂けて、このよ
うに血塗れになるのだ。
﹁あの二人を治療すれば良いの?﹂
﹁わかっているならさっさとしろ﹂
私の隣りでザイレは酷い状態のエレノアを見詰めながら奥歯を強
く噛んでいた。
それほど無力に耐えなければならないなら、どうして愛しい彼女
100
に治療を続けさせているのか。
私はその理由も知っていながら、口調が本来のものに戻ったザイ
レに問う。
正直、私は他人のことなど構ってられないからどうでも良いのだ
が、彼は⋮⋮。
﹁ランスは何処?﹂
﹁治せば会わせてやる﹂
﹁会わせてくれたら治すわ﹂
数秒間視線のやり取りをした後、ザイレは部屋の壁際で控えてい
た黒衣の男性と女性に顎で命じた。
しばらくしてその男性と女性に脇を固められたランスが入ってき
て、ザイレの傍にいる私を見て驚いた後、安堵の表情を浮かべた。
私も怪我一つない彼の姿に安心して息を一旦吐き、すぐにエレノ
アと少年のそばに寄って、一気に治癒魔法で治した。
魔法は魔術とは違って世界の理を大幅に無視できないが、適性と
魔力さえ足りているならほとんど万能の域だ。
何処が痛んでいるとかまどろっこしいことを考える必要はなく、
魔力を注ぎ込めば注ぎ込んだだけ治癒魔法は傷ついた部分を治して
くれる。
ランスの腕を押さえてつけている女性が治癒魔術で治せなかった
だろう個所すらも、私の治癒魔法であれば完全に。
﹁⋮⋮素晴らしい。これで貴女をますます貴族にする訳にはいかな
くなった﹂
101
私ではなくランスに向き合って、ザイレは手に持っていた結婚関
係の書類を端から破り捨てた。
﹁先程はオルトランド公爵様の令息とは知らず、ご無礼を致しまし
た。思考検査の結果、御結婚予定だった彼女は実に神官向きの人材
だということが判明しました。貴族ならば強引には誘えませんが、
今の彼女は平民です。たとえ国王が認めていようと公爵家継嗣の貴
今なら公爵家を継いだ貴
方とは身分違いの恋⋮⋮障害も多いことでしょう。いかがです?
彼女を神官として教会に捧げませんか?
方と定期的に会うことは認めますよ。貴方との子も何人でも産んで
もらって構いません。教会が総力を尽くし、貴方達の愛を支援致し
ましょう﹂
まるで芝居のような口調でザイレは語った。
ザワリと冷たいものが背筋を走ったが、気の所為ではなかったら
しい。
ランスの纏う空気が、息も白くさせるほど冷たいものになってい
た。
﹁ふざけるのもいい加減にしろ。元々は高位魔力保持者でもなく魔
力の弱かったリリアが、アンタ達の言う神官向きの人間な訳ないだ
ろう。俺にはアンタの言い分は、オルトランド公爵家を敵に回すの
は厄介だから一先ず俺のことは見逃すけど、教会が処理しない限り
戸籍がつくられず俺と結婚できないリリアを人質にとって、俺の口
を封じたいって聞こえたんだが?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
ザイレは沈黙をもって正解だと応えた。
私からは見えないが、ザイレが余程癪に障る表情をしていたのか、
102
ランスは盛大に顔を顰めて吐き捨てた。
﹁そうやって自分達の優位を過信して誰にも助けを求めないから、
こうして誰かが犠牲になるんだ。さっさと気付けば、俺達だって父
さんを救えたかもしれないのに﹂
﹁⋮⋮何のことだ?﹂
ザイレが怪訝そうにしているのも無理はない。
私達にしかわからない、私達がしている後悔の話だから。
エレノアの傍にしゃがみ込んでいた私は、掌を握って立ち上がっ
た。
﹁⋮⋮いいわ、ランス。今度は誰も失わない方向で、この茶番を終
わらせましょう﹂
﹁ああ。本当にふざけやがって。こんなシナリオ、絶対にここで終
わらせてやる﹂
彼に馬車の中で垣間見た弱気な様子はもうなかった。
幸せに温くなった思考を、命懸けで運命に立ち向かっていた半年
前まで戻すのは容易なことではないが、彼が決めたなら、私はあの
頃のように彼を全力でサポートするのみ。
意味のわからない会話に苛立ったザイレが私の首にナイフを突き
付けた。
その程度の武器で、私が命懸けで扱ってきた防御魔法が壊れるは
ずがないのに。
案の定、私の魔法をわかっているランスの顔色は変わらない。
103
﹁まずは考えさせてくれ。俺は諦めが悪いんだ﹂
﹁⋮⋮そいつを牢に連れて行け。絶望するまで出すな﹂
ザイレの冷たい声が地下に響く。
私が治療したときからエレノアは、愛する夫を見上げてとても悲
しそうにしていた。
104
彼はもう一度決意する
彼女を引き寄せようとしたときには、もう遅かった。
手を伸ばした先に彼女はいなくなっており、俺の腕は情けなく空
を切った。
﹁⋮⋮彼女を何処へやった?﹂
俺を薄暗い地下牢に置いて去ろうとする背に問いかけた。
しかし、返ってきたのは答えではなく、強烈な回し蹴りだった。
反射的に右腕でその足を受け止めて、黒衣の男︱︱ザイレを睨ん
だ。
まさか不意打ちを受け止められるとは思っていなかったのだろう。
ザイレは片眉を上げた。
﹁まるで私がどう攻撃するか知っていたかのような反射速度だな﹂
﹁変に勘ぐるなよ。動体視力が良いだけだ﹂
もちろん、それだけではないけれど。
ゲームでザイレは体術オンリーで戦っていたし、今は腕に気を失
った子供を抱えているから、十中八九、攻撃するなら足だと警戒し
ていたことが防ぐことができた大きな要因だ。
魔族は長寿故に生殖能力が低く、魔界にはあまり子供がいなかっ
た所為で実は子供好きという設定のあるザイレなら、空間魔術に入
り込んだことを危険視して同時に攫ってきたと考えられる俺を、わ
ざわざ殴りかかって腕の中の子供に近づけさせることはしないだろ
うと予想した通りだ。
ただ、裏を返せば、悔しいことにそこまで予想していなければ、
105
今の俺ではこの速度の攻撃は防げなかった。
さらに憎々しいことに、ザイレは武器を使うよりも己の鋼の身体
で戦うほうが攻撃力が高いとも設定されているが、そちらもこの現
実に存分に活かされているらしい。
実際、蹴りを受け止めた右腕は痺れていて、しばらく使い物にな
らなくなった。
蹴りの衝撃でリリアの防御魔法が幾つか壊れた気がする。
あまり彼女に心配はかけたくないのだが︱︱
俺達の間に不穏な空気が流れたそのとき、牢の暗闇を裂いて、ザ
イレと同じ姿の男が現れた。
﹁父上。母上を儀式の間に連れてきたよ。このお兄さん、誰?﹂
口調に幼さを残す声とともに首を傾げた彼は、レゼ・F・エクア
シスだ。
ザイレと同じ二十代後半の姿のくせに、ザイレとは違って表情も
仕草も幼い。
レゼも過去に魔力制御回路を狂わせて死にかけたことがあって、
魔力は十分にあれどコントロールが未熟な彼を救うため、エレノア
が時間魔術を使って成長させた本当の子供だからだ。
そういった子供達は身体だけ成長させられた所為で情緒面の成長
が歪になっていて、レゼは特に残酷なこともザイレの命令なら悪気
なくやってのける負の純粋さがあった。
ザイレは、俺を見て凶悪な笑みを浮かべた。
本当?
じゃあ、オレ、追いかけっこが良いな﹂
﹁良かったな。このお兄さんがお前と遊んでくれるそうだ﹂
﹁え?
106
レゼは嬉しそうに飛び跳ねて、途中で足を不自然にタンッと軽く
踏み込んだ。
それがレゼの空間魔術の発動の合図であると知っていても、ザイ
レとその腕に抱えていた子供が消えた以外は、風景の変わらないこ
こがレゼの創り出した疑似空間だと気付くには瞬きを三回分要して
しまった。
その間にレゼは何処かの空間から何本もナイフを取り出して、宙
に浮かばせて遊んでいた。
物騒なことに切っ先はどれも俺のほうを向いている。
誰がこの子をこんな風に育てたんだと、主に父親のほうを罵倒し
てやりたい気分になった。
﹁⋮⋮レゼ、だよな。いいぞ、お兄さんと遊ぼうか。俺が勝ったら、
ちょっと教えてほしいことがあってな﹂
﹁うん、いいよ。オレに勝てたら教えてあげる。勝てたら、ね?﹂
無邪気な笑顔でレゼが飛ばしてきた大量のナイフを、俺は横に飛
び退くことで避けた。
そのまま壁を何枚もぶち抜く勢いで牢の石壁に水魔法を打ち込ん
で、開いた穴に滑り込んで最大速度で走り抜けた。
律儀にその場に留まって十を数えるレゼの声が聞こえる。
カウントダウンの声と俺の足音だけが響く地下を走りながら、そ
の隙にこの疑似空間を抜ける術を考える。
ザイレの空間魔術にすら意図せず入り込めたのなら、それに劣る
レゼの空間魔術を抜ける方法もあるはずだ。
︱︱リリアのことは、きっと心配はいらない。
107
防御面においてなら彼女は確実にこの世界最強だ。
ロリコン
それにあの男がリリアのような綺麗系で、とてつもなく可愛い美
少女に手荒な真似をする訳がない。
この分なら、あの男に設定された変態紳士という宿命も有効だろ
うから。
彼女は、本当はとても強い。
俺と離された今も、俺を守る防御魔法にブレが一つも出ない程に。
弱くて俺が心配すべきなのは、むしろ︱︱俺自身だ。
容赦なく急所を狙ってくるナイフを避け、時には手刀で叩き落と
し、魔法で撃ち落として。
地下から地上へ、屋内から屋外へと突破口を探し回っているうち
に、レゼの攻撃の手がふと止まった。
俺も足を止めて振り返ると、レゼが手招きをしてきた。
﹁父上がお兄さんの大事な人に会わせてくれるって﹂
どんな気の変わり様だよと訝しんでいたら、またレゼはあの特徴
的な足音を立てた。
今度はガラリと景色が変わる。俺は最初の地下牢に戻されていた。
太陽の光が燦々とした屋外から急に暗い地下に戻されたため、ハ
レーションを起こしそうになる頭を抱えようとしたら、脇から現れ
た二十代くらいの容姿の男女に腕を押さえつけられた。
﹁ごめんなさい、僕達と来てください﹂
﹁暴れないでほしいの﹂
108
二人の腕を押さえる力は、俺がちょっと身体を捻るだけでも振り
払えそうなくらいの力だった。
脅しというよりも懇願寄りな言葉も大人らしくなく、困った子供
の発するような。
この孤児院は、そういう人間が集うところだった。
外見に中身が伴わない、世間からは厳しい目で見られてしまう歪
な子供達の集う屋敷。
抵抗する気なんて即座に失せた俺は、ほら、どこまでも弱い。
俺が連れて行かれた場所は、地下牢よりもさらに地下の、儀式の
間と呼ばれるゲームでも出てきた広間だった。
レゼのルートで、最初の回想シーンに出てくる血の臭いが強い場
所。
だから此処に嫌な思い出しかないレゼは、顔を伏せて牢で待って
いると言ったのか。
ザイレの隣りにリリアは立っていた。
超一級の危険人物の傍で、彼女は凛といつものように背を伸ばし
て、少しの怯えも見せずに。
その堂々とした姿勢には驚いたが、とても彼女らしい姿に俺は胸
を撫で下ろした。
村から出てから幸せすぎて心が弱くなったと嘆いていた彼女だっ
たけれど、そんなことはないと俺は思う。
リリアは俺を見て安堵の溜息を吐いた後、魔法陣の上で血塗れに
なっているエレノアらしき幼女と少年の元へ駆け寄った。
翡翠色の温かい光が二人を包み、光がフェードアウトした後には、
109
まるで幻だったように傷一つない二人の姿があった。
﹁⋮⋮素晴らしい。これで貴女をますます貴族にする訳にはいかな
くなった﹂
ザイレは治癒された二人とリリアを背にして、手に持っていた紙
を簡単に破り捨てた。
端々に書かれている文字は俺達の結婚関係の書類だったが、見咎
めるだけに留めたのは、複製された偽物だと気付いたからだ。
重要書類のくせに紙の強度が弱いと愚痴って書類にまで防御魔法
をかけていたのはリリアだ。
その術者が近くにいるこの状況で、本物ならばそんな簡単に破れ
るはずがない。
ザイレもザイレで、神官長という立場となり、国王のサインと判
子まで押された書類を無碍に扱えないなんて、随分とこちらの世界
に絆されたものだと思ったが。
﹁先程はオルトランド公爵様の令息とは知らず、ご無礼を致しまし
た。思考検査の結果、御結婚予定だった彼女は実に神官向きの人材
だということが判明しました。貴族ならば強引には誘えませんが、
今の彼女は平民です。たとえ国王が認めていようと公爵家継嗣の貴
今なら公爵家を継いだ貴
方とは身分違いの恋⋮⋮障害も多いことでしょう。いかがです?
彼女を神官として教会に捧げませんか?
方と定期的に会うことは認めますよ。貴方との子も何人でも産んで
もらって構いません。全力で教会が貴方達の愛をサポート致しまし
ょう﹂
まるで芝居のような口調でザイレは語った。
後ろで自分の妻が、今どのような表情をしているかなんて気付き
もしないで。
110
教会は魔力制御回路の狂った子供を人知れず攫う。
それは、子供の命は救いたいが、時には親よりも成長してしまっ
た姿の子供を“異常”とする世の中に返す訳にはいかないから。
教会は大々的に聖女の奇跡を起こす。
それは、子供達の命を救う為に、成長させられるくらいの肉体年
齢がエレノアに必要だから。
聖女エレノアは血を流してまで子供を救う。
それは、彼女にはその時が来てしまったときに年齢を調節するた
めの生贄が身近に必要だから。
どうしてエレノアは生贄を傍に用意しているのか。
それは、愛するザイレとこれからも変わらず、ずっと一緒に居た
いと願うから。
どうしてエレノアはそうまでしないとザイレと共にいられないの
か。
それは、エレノアがもう︱︱
エレノアはどれだけ身を裂くほどの感情を繰り返して俺達と出会
ったのだろう。
たった一つの事実を夫に隠し続ける為に、彼女はどれだけ子供達
も自分も犠牲にして血を流してきたのだろう。
すべては、お前の為なのに。
すべては、お前と一緒に生きていたいが為なのに。
111
どうしてお前は、お前の後ろで泣いている妻に気付いてやれない
!!
本当のことを叫んでしまいたい衝動を、今までそれを隠し通して
きたエレノアの為に力付くで抑え、俺はザイレの猿芝居に合わせて
声を絞り出した。
﹁ふざけるのもいい加減にしろ。元々は高位魔力保持者でもなく魔
力の弱かったリリアが、アンタ達の言う神官向きの人間な訳ないだ
ろう。俺にはアンタの言い分は、オルトランド公爵家を敵に回すの
は厄介だから一先ず俺のことは見逃すけど、教会が処理しない限り
戸籍がつくられず俺と結婚できないリリアを人質にとって、俺の口
を封じたいって聞こえたんだが?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
ザイレは沈黙して、ただ自信満々に笑っていた。
何が魔界ランク二位だ。何がこの世界最強だ。
﹁そうやって自分達の優位を過信して誰にも助けを求めないから、
こうして誰かが犠牲になるんだ﹂
ここがゲームの世界だと、転生して未来の知識がある自分は優位
に立っているんだと思い込んで、幼い頃に話していたなら助けにな
ってくれていたかもしれない今の父親に助けを求めることをしなか
った以前の自分を見ているようで、ひたすらに苛立った。
﹁さっさと気付けば、俺達だって父さんを救えたかもしれないのに﹂
112
﹁⋮⋮何のことだ?﹂
ザイレが怪訝そうに聞いてくるが、俺も答えてやる気は毛頭ない。
リリアだけは俺の考えていることを察して、少しの逡巡の後に拳
を握って立ち上がってくれた。
﹁⋮⋮いいわ、ランス。今度は誰も失わない方向で、この茶番を終
わらせましょう﹂
俺は内心、誰も失わせないというその覚悟に驚いたが、彼女がそ
う決めたならと力強く頷いた。
このレゼのシナリオ、すべての関係者を生かせる道があるかはわ
からない。
だけど、魔素の種の所為で父親を失ったリリアの後悔は深いから、
此処で同じく魔素の種で苦しんでいる彼らを救うことで、後悔が少
しでも和らいでくれるなら。
﹁ああ。本当にふざけやがって。こんなシナリオ、絶対にここで終
わらせてやる﹂
訳がわからないとザイレがリリアの首にナイフを突き付けた。
その切っ先が、決して彼女に届くことはないのに。
﹁まずは考えさせてくれ。俺は諦めが悪いんだ﹂
﹁⋮⋮オルトランド公爵令息を牢に連れて行け。絶望するまで出す
な﹂
ザイレの何もわかっていない冷めた声が地下に響く。
113
まだ俺達が村にいた頃、悪夢が現実のものにならないかと毎日怯
えていたリリアを彷彿とさせる表情を浮かべたエレノアが、俺達を
心配そうに見詰めていた。
114
彼女を不機嫌にさせるとこうなる
﹁私の分も生きて、お前だけはどうかいつまでもレゼの傍に﹂
そう言ってザイレがエレノアに差し出したのは、紅く染まった宝
珠だった。
ザイレが延命の力があると信じていた、魔素の種が浄化された証
の宝珠。
ザイレがそれを身に宿したのは、もう何十年も昔のこと。
私達が生まれる前の、まだ魔素の種がこの世界に放たれていなか
った平和な頃の話だ。
魔界から女神の遺産を持ち出した魔族の反逆者を討伐する為にこ
の世界に来て、そして何とかその反逆者を殺して女神の遺産は取り
戻したものの、自らも致命傷を負い、本能のまま魔界に帰ったザイ
レは魔王に問われた。
﹁汝、我に何を望むか﹂
ザイレは、反逆者に捕えられていたある少女を思い浮かべて答え
た。
﹁共に生きたいと願う者がいます﹂
魔王は部下の変化に少しだけ目を見開いて、ただ、玉座の前で永
遠に水晶の中に閉じ込められても尚、己に頬笑んでいる愛しい女性
からは視線を外さずに口を開いた。
﹁何を犠牲にしても、か﹂
115
魔王が発したその一言は自身に向けられたものではなかったのか
もしれないが、それでもザイレは痛む身体に鞭を打って、最敬礼を
以って肯定した。
それは、戦乱の果て、他の何を犠牲にしてでも愛する人を手に入
れたいと願い、実際に手に入れることができた男への尊敬の念を見
事に体現していた。
魔王はやがて薄く笑い、奪われていた女神の遺産︱︱淡い光を放
つ宝珠に己の力を通した。
透明だったそれが禍々しい力に染まる光景をザイレは血の少なく
なった頭でぼんやりと見詰め、次いで襲ってきた自分の身体が捻じ
曲がるのではないかと危機を感じるほどの圧倒的な力の波に身を委
ねた。
もう一度、彼女の名を呼び、腕の中に抱き締めることができたな
ら、そこで死んでも構わないとさえ本気で想いながら︱︱。
レゼのシナリオを思い出しながら、私は読んでいた本の最後のペ
ージを閉じた。
窓の外はいつの間にか夕方を通り越して夜だ。
こうして拘束されて一週間。
私が過ごしているベッドの周りに散乱する本は、優に三桁を超え
ていた。
監禁されて自由に動けるのは部屋の中だけというこの状況で、私
にできることは限られている。
すなわち、誰も失わないよう考えて考えて、考えたことを実行す
る為に必要な物をどうにか交渉して差し出させること。
116
ゲームとは違った流れになってはいるが、問題の原因がゲームと
同じであるなら考えられる対処法はいくつかある。
ゲーム開始前だからとれる、私が十年かけてゲームとは別の方法
で魔素中毒を克服したような、シナリオ以外の方法が。
“大丈夫だよ。まだ時間はあるから”
かつて私達を支えてくれた父の言葉が、頭の中で何度もリフレイ
ンしていた。
本の読みすぎで凝り固まった全身をグッと伸ばすと、足に付けら
れた鎖がチャリッと無機質な音を立てた。
この鎖は私に付けられたときはただの鎖だったのに、もはや拘束
用の魔道具と成り変わっていた。
ただの鎖に魔術をかけただけで魔道具に変化するなんて、本当に
魔術は魔法の理論外だ。
本来なら魔道具はそれぞれに魔力の籠った材料にさらに魔力を加
えて作製するものなのに、溢れんばかりの魔力に物を言わせて力押
しでこうも簡単に作るなんて。
全身を解し終わって一息吐いたとき、タイミングを見計らったか
そろそろ良質な動物性蛋白質を食べ
のようにコンコンと扉が鳴った。
﹁どうぞ。今日の夕食は何?
たいのだけど。例えばお肉とか﹂
どうせ相手も用事もわかっているとばかりに言った私に、食事が
乗ったトレーを持ってきたザイレは不機嫌そうな顔をした。
﹁見ればわかるだろう。それに今、聖都周辺では魔物が異常に強く
なっていて、肉は高級品になっている﹂
﹁魔物ならその辺にいるんだから、狩ってくれば良いでしょう。い
117
ってらっしゃい﹂
﹁どこぞの次期公爵とは違って私は忙しいんだ。そんな暇はない﹂
そう。今、ランスは魔物狩りをしているのね。
ランスの現状をストレートに聞いても話さないのに、それとなく
話題をそちら寄りにすれば、こうして鎌をかけられたことも気付か
ずに口を滑らせるザイレに私は内心を表情に出すことだけは抑えた。
ランスを守る防御魔法の気配は、この一週間、午前中は孤児院の
一点から一切動いていない。
ただ、午後はいろいろな場所を動いているようで、何をしている
のかと思っていたら、彼は牢を抜け出すか出してもらうかして、聖
都周辺で魔物狩りをしているらしい。
大聖堂内で出される食事に、狩りの成果である新鮮な肉類が入っ
ている味がしないということは、ザイレの命令ではなく、ランスが
個人的に考えてやっているのだろう。
ザイレは村で私達がどう過ごしていたかなんて知らないだろうし、
興味もなさそうだし、唯一、ランスが魔物狩りが得意だということ
を知る公爵家が、まだ教会に書類が受理されておらず、正式に跡取
り息子であると宣言できないランスの情報を漏らすとも思えない。
特に平民の狩人の仕事である食肉用の魔物狩りが大得意だなんて
ことを貴族として容易に漏らさないだろうから、ザイレは実際にラ
ンスがそれをやっているのをここで知って発言したと考えられる。
村にいたときとは違って、ランスと相談ができないこの状況だ。
彼が何をしているのか把握して、何を考えているのか察して、私
も違う方法で同じ方向に向かう必要がある。
その為にいかにこの頭の固い魔族から情報と譲歩を引き出すか。
とても厄介で頭が痛くなる。
118
不満顔を取り繕って、渡された味気も栄養も大してない食事に手
を付け始めた私を見下ろしながらザイレは深く溜息を吐いた。
普段ならすぐに退出してしまうのに珍しいことだ。
﹁人の部屋で憂鬱になる溜息を吐かないでほしいわ。神官長って随
分と苦労の多い仕事なの?﹂
﹁⋮⋮セルディオという騎士がお前達を探して教会に来た。只でさ
え病人治療で忙しい中、あれこれ詮索されて迷惑している﹂
﹁自業自得じゃない。セルディオには二人で教会に行ってくると言
ったままだから、行方不明ならここを探して当然よ﹂
﹁いないと言っても納得しない。自由に聖堂内を探させたが、見つ
けられないのに絶対にここにいるからと食い下がらない。すっかり
居座られて、あげくに私の尾行までし出して仕事の邪魔だ﹂
私はつい一瞬止まってしまった食事の手を誤魔化すように、ゆっ
くりとザイレに向かって掌を上に向けた。
﹁白金貨一枚。それで簡単に追い払える方法を教えてあげるわ﹂
ザイレは指を慣らし、何処かの空間から取り出した白金貨を私に
投げた。
白金貨一枚あれば豪勢な屋敷が一軒建つほどの値だが、さすがお
金に価値を見出さないザイレだ。何の躊躇もない。
私はそれを一旦受け取ってから、思い切り振りかぶってザイレに
投げ返した。
バジッと決して軽くはない音を立てて白金貨を受け止めたザイレ
119
が半眼で見詰めてきたが、涼しい顔で私は答えた。
﹁セルディオにそれを渡して、私が白金貨一枚分の価値がある物を
欲しがっていると伝えて。できれば、手元で眺められる綺麗な物が
きっと良いものがあるわ﹂
いいわ。ここは退屈だから。そうね、来週聖都で開かれるフリーマ
ーケットなんて狙い目かしら?
﹁物を手に入れたら、騎士はまた来るだろう。ここにお前がいるこ
とを認めてしまうことになる﹂
﹁馬鹿ね。もう私達がここにいることがバレているから、付き纏わ
れているのよ。セルディオとお義父様には、万が一、この聖都内で
私達をどうこうできるとしたら、空間魔術の使い手でこの世界最強
の貴方しかいないって、王都を出る前に教えてあるから﹂
スッとザイレが雰囲気を変えた。
何故それを知っているのかとばかりに容赦なく放たれた射殺され
そうなほどの視線は、しかし、何処か手加減しているようで私にと
だったら、今ここで私とランスの結婚を
っては紛い物としか感じられず、私は不敵に笑って見せた。
﹁その理由を知りたい?
承認して﹂
﹁却下だ。大体、お前達をどうこうできるとしたら私しかいないこ
とを知っていながら、お前はどうして私に対してそこまで傲慢でい
失礼ね、これが貴方が決めた私の価値でしょう﹂
られる?﹂
﹁傲慢?
﹁私が決めただと?﹂
120
﹁そう。エレノアのあれほどの傷さえ完全に治すことができる私を
貴方は殺せないわ﹂
それこそ傲慢に言い切った私をザイレは蔑み笑った。
﹁お前程度の力量の人間は探せばいる。私は偶々お前を見つけて利
用しているだけに過ぎない﹂
﹁私のように何も事情を聞かず、大した抵抗もせず、無理に脅さな
くても、貴方が使ってほしいときにエレノアを救う為の治癒魔法を
貴方はエレノアの身体
使ってくれるような奇特な人間は、もう想定していた誰と比較して
も貴方の頭の中に存在しないんじゃない?
の中の傷まで気付くことができないから、そんな私に手を抜かせな
い為に私の要求をある程度叶えている。でも、私が治癒魔法を使う
代わりに要求するのは、貴方が簡単に叶られる程度で、叶えても問
題ないと判断できるくらいの些細なお願いだから、想像していたよ
り貴方を煩わせることもない。私は此処で﹃ランスを返して!﹄、
そうしたら、貴方は私の物わかり
﹃ランスはどうしているの!?﹄、﹃家に帰してよ!﹄と鬱陶しく
泣き叫んでみればいいかしら?
の良さに気付いてくれる?﹂
ザイレは黙った。答えはそれで十分だ。
事情を知っている私にとっては、何処からどう見てもそれはザイ
レの強がりでしかないのだから。
﹁貴方はエレノアを愛している限り、とても協力的な私を手放せな
い。なんたって、私は、貴方が長年探し求めた高位魔力保持者で治
癒魔法に適性がある、貴方に非常に都合の良い人間だから。私の願
いを無碍にも扱えないし、ましてや、私が大事にしているランスを
121
殺すこともできない。私が此処で大人しく言うことを聞いているの
はランスの為だって、わかってくれているものね。何を犠牲にして
も⋮⋮たとえ自分さえ犠牲にしても、助けたい人がいるのはお互い
様だもの。それがこの一週間で私が判断した貴方の中の私の価値よ。
私を最大限に評価して、価値を認めてくれてありがとう﹂
私が止めていた食事の手を再開しながら素直に礼を言えば、ザイ
レは何も言わずに踵を返した。
その背中に追い打ちをかけるように、だが、あくまで独り言を装
って私は呟いた。
﹁貴方はもうこれ以上、魔術制御回路を狂わせて死にかけるほど魔
力が強い子供を攫って、手当たり次第に治癒に適性や特性がある子
を探さなくても大丈夫よ。だからランスの邪魔をしないで﹂
﹁⋮⋮二週間後だ。再び儀式を行う﹂
足を止めることはなく、ザイレは扉を閉める前に言った。
﹁とりあえず、ここにある本は全部読んだわ。また次、よろしくね﹂
扉が閉まった直後に要求を言ったが、ちゃんと聞こえていたらし
い。
翌朝にはまたパチンと指先が鳴る音が扉の外から聞こえて、新し
い本がバサバサと降ってきた。
︱︱不器用だ。本当にどこまでも。
ザイレから渡された本は、ほとんど魔法薬や魔道具に関する物だ
った。
122
私は持ってくる本のジャンルを指定した覚えはない。
ランスと接触し、私が求めそうなものをランスに教えられていた
のか。
どうか助けてくれ、と。
ザイレの無言のメッセージは、私にそう伝えていた。
二週間後、儀式の間で再会したランスは、何故かハーレムを築き
上げていた。
﹁⋮⋮これは予想外よ。さすが私の素敵な旦那様ね﹂
なんか仲良く食事して、楽しく遊
若干の嫉妬と本気の感想を込めてそう言えば、ランスは複雑そう
に苦笑した。
﹁これは別に浮気じゃないぞ?
んでいたらこうなった﹂
﹁それを浮気と言わず何と言うの?﹂
自分の台詞を頭の中で字面にして悟ったのか、顔を引き攣らせた
ランスの両腕には、拘束のつもりか恋人よろしく腕を絡ませる女性
二人がいて、その後ろにはバチバチと火花を散らしている大人らし
くない大人達がいた。
その中に最初に会った治癒魔術使いの女性もいたが、以前よりも
123
どこか艶々と肌に張りが出ていて、若々しく見えるのは気の所為で
はないだろう。
あの時エレノアと共に助けた少年も混ざっていて、﹁ランスロッ
ト兄と次に遊ぶのは僕だ!﹂とか元気に言っているから、他の人間
も身体は大人の孤児院の子供達だろうが。
本当、さすがランスだ。
この短期間でよくここまで、身体は大人でも、精神的に未熟な所
為でふとしたときに乱れがちになる子供達の魔力を、こんなにも安
定させられたものだと思う。
幼い頃の私に魔力のコントロール方法を根気強く、効率良く教え
てくれたのはランスだ。
それと同じことをこの人数相手にやったのか。
すごくて、あのときが懐かしくて、ジッと見上げていたら、ラン
スは照れたように微笑んだ。
︱︱空間を裂いて、レゼとザイレが現れた。
レゼは腕に大人の姿を取り戻したエレノアを抱いて。
ザイレは腕にボロボロの格好をした女の子を抱いて。
﹁⋮⋮これで全員揃ったな﹂
ザイレの抱える女の子の顔を見ながら、ランスは小声で私に言っ
た。
あれはゲームの中で六人目に犠牲になった少女。たしか名前はサ
ラで、植物魔術の使い手だった。
ランスは調べたのだろう。この孤児院にいる子供の数と名前を。
そのランス曰く、これでレゼのシナリオに出てくる教会側の関係
者が、全員此処に揃ったことになるということは。
124
﹁⋮⋮まずはその子を救いましょう﹂
そして、本格的に始めましょうか。
私が口には出さなかった言葉に彼だけが頷く気配がした。
125
彼は釈然としないまま呟いた
昔々、最果ての森の奥深くには、大きな世界樹があった。
その世界樹の麓で静かに暮らしていたのは、森を愛するエルフ達
だった。
いつの頃だったか、エルフ達の中に巡礼でやってきた当時の神官
長に恋をした者がいた。
やがて二人は結ばれ、二人の間には黒い髪に紅い瞳を持った女の
子が産まれた。
黒髪紅目︱︱エルフ達は知っていた。
それが、かつてこの世界を統一していた魔族の特徴であると。
何の戦う力もない幼子です!﹂
魔族の力を恐れたエルフ達は、暗い洞窟の中に女の子を幽閉した。
﹁この子は何もしていません!
その子の母は訴えたが、長老達は耳を貸さなかった。
それどころか、訴えてきたその母が不貞を働き、魔族と密通して
いるのではないかと疑った。
エルフの里にはこんな言い伝えがある。
百年に一度、渓谷に住むと言われている大精霊に生贄を捧げなけ
れば、精霊に守られている世界樹は枯れてしまうと。
その精霊は、精霊には珍しく、成熟した女性を好むという。
母は生贄とされ、二度と里に帰ることはなかった。
女の子は最低限の食事と最低限の接触で生かされた。次の生贄と
される為に。
どれくらい経った頃だろう。
定期的に食事を運んでいたエルフはあることに気付いた。
126
少女が、少女から一向に成長していないことに。
不老不死の少女。
その噂は里中に広まり、里から何処かへと漏れ、とある死期が迫
っていた魔族の耳に入った。
噂を聞いた魔族はさっそく里へと出向き、少女を差し出せとエル
フの里を蹂躙した。
その魔族は、魔王から宝珠を奪って逃げた魔族だった。
自分と同じように創世から生きている魔王の力が衰えないことを
訝しんだ彼は、魔王が大事にしている宝珠には延命の力があると思
い込んだ。
しかし、この世界に来て、それには延命の力などないことを悟っ
た魔族は、それでも貪欲に死を嫌った。
壊滅寸前のエルフの里から少女を攫った魔族は、少女に不老不死
を要求したが、少女は虚ろな眼差しで魔族を見返すだけで、いつま
で経ってもその魔族に不老不死を与えようとはしなかった。
痺れを切らした魔族は、暗い洞窟の中に再び少女を幽閉した。
少女が救われたのは、それから数日後のことだった。
轟音と共に崩れる洞窟から救い出された少女が見たのは、自分を
まるでおとぎ話の中の姫のように抱く、月の光に照らされたそれは
それは美しい一人の魔族の姿だった。
﹁こうして出会ったお前達の父さんと母さんだが⋮⋮って、皆もう
寝てるか﹂
127
月の光が差し込む牢の中、子供には難しい話だった所為か、この
孤児院で過ごす六人の子供達はもうスヤスヤと眠っていた。
ザイレに俺を牢から出すなと命じられている為、仲良くなった俺
と一緒に居たいけれど、部屋に連れて行けないと嘆いた彼らがとっ
た行動は、一緒に牢で過ごすというものだった。
不衛生だった牢は魔法で綺麗に洗浄しているし、子供達には枕も
毛布も持参させてきているから、床が石で硬く冷たいのが気になら
ないなら別に構わないのだが⋮⋮こうも懐かれると複雑な気分だ。
接してみてわかったが、レゼを除く子供達は、攫われる前は普通
の家庭で過ごしていたにも関わらず、普通の子供達がしている遊び
や常識を知らなかった。
魔力制御回路を頻繁に狂わせ、時にはあり余る魔力で周囲の物を
壊してしまう子供に対して、裕福ではない家庭がとれる対応は二つ
だ。
リリアの家のように両親が自分達で何とかして魔力を安定させよ
うとするか、その子を遠ざけるか捨てるかして自分達が被害を受け
ないようにするか。
俺達と一緒に攫われてきた子供がボロボロの格好だったので、俺
はてっきりザイレが子供を大人しくさせる為に何かしたのではない
かと思ったが、子供達の様子を見ていると、後者であることは間違
いなさそうだった。
この世界が現実となった今、ゲームでは語られなかったことにも
理由や背景が付随していることは、俺の母がエリクシル剤でしか治
らなかった病気を患っていたという事実で痛感した。
でも、だったら何故、ザイレはそのような子供達に対して、普通
に遊んだり、教養を与えられる人間を教会内で探したりせず、こう
して山奥の屋敷でほぼ軟禁に近い生活をさせているのか。
その理由だけは、考えても考えても俺にはわからなかった。
128
牢の中で遠慮なく焚いていた火を消して、俺は重い腰を上げた。
気配に敏感なレゼがぼんやり目を覚ましたが、ちょっと荷物を取
ってくると言えば、レゼは何事もなかったかのように再び夢の世界
に落ちた。
レゼのこの反応からして、ザイレは俺のことはどうでも良いらし
い。
子供達に聞くと、自分達の手で牢から出すなとは言われたけれど、
捕まえていろとは言われていないので、俺が自発的に出ていく分に
は問題ないという認識だ。
まったくもってよくわからない屁理屈だが、実際、俺よりも長く
接していて子供達の思考を理解しているはずのザイレはその認識を
修正しようともせず、俺の様子を子供達に聞いてはいるようだが見
に来るまでもなく、完全放置を決め込んでいる。
地下牢に外と通じる大穴を開けようが、子供達が農作業に出向い
ている間に魔物狩りに行こうが、厭みの一つも言われないというこ
とは、俺が逃げても問題ないということなのだろう。
リリアが何も言わずに治癒魔法を使ってくれていれば、ザイレに
とって俺を此処に拘束していなければならない理由などないし、必
要になれば空間魔術ですぐに連れ戻せるから?
俺には人質としての価値はないと、そういうことか?
俺達が攫われてもう一週間だ。
そういうことならと、俺はどうにも釈然としないものを抱えなが
ら、子供達を起こさないよう静かに大穴から外に飛び出した。
俺が向かったのは、俺達が攫われる前に泊っていた宿だ。
129
受付でセルディオの行方を聞くと、気の利いたことにまだ同じ部
屋に泊っているということだったので、そちらに向かった。
そこで俺が見たのは、滅多に触れない白金貨を真剣な表情で見つ
めて固まっているセルディオの姿だった。
﹁⋮⋮セルディオ?﹂
俺の声にビクリと肩を震わせたセルディオは、扉を開けた音にす
教会に行っても
ら気付かないほど集中していたのか、わたわたと白金貨を枕の下に
今まで何処にいたんスか!?
隠した後、俺の姿を見て驚愕した。
﹁ぼ、坊ちゃん!
居ないって言うし、何があったかと!﹂
﹁連絡できなくて悪かった。ちょっと孤児院の牢に入れられて様子
を見てたんだけど、大丈夫そうだから一旦抜け出してきた。お前が
まさか教会に買収︱︱﹂
リリア様が何かあったら疑えっ
此処にまだ居てくれたことは嬉しいんだが⋮⋮で、その白金貨は何
だ?
﹁される訳ないじゃないッスか!
て言っていた神官長を徹底的に調べていたら、今日、その神官長が
やっぱり神
というか、
リリア様も一緒にいるんスか!?
リリア様の伝言と一緒に白金貨を渡してきたんスよ!!
牢って何スか!?
というか、
官長が原因ッスか!?﹂
俺もリリアも無事だから!
﹁ちょ、落ち着けって!
リリアからの伝言って何だよ?﹂
迫り寄ってきたセルディオを片手で押えながら聞けば、セルディ
オは目を潤ませた。
130
﹁リリア様が退屈凌ぎに、手元で眺められるくらいの綺麗な物を欲
しがっているって。白金貨一枚分の価値がある物をフリーマーケッ
トで探して来いなんて⋮⋮そんな高価な物、フリーマーケットにあ
る訳ないじゃないッスか﹂
本気でリリアを心配して泣きそうになっているセルディオに苦い
ものを感じながら、俺は頭を巡らせた。
聖都で開かれるフリーマーケット、白金貨を出さなければ買えな
い物、手元で眺められるくらいの綺麗な︱︱といえば、リリアが求
めている物は想像がつく。
攻略対象者達の中に、トゥルーエンドを迎える為に特定のアイテ
ムが必要となるキャラクターがいた。
そのアイテムは、自由に動き回れる休日を潰して、月一回しか開
かれない聖都のフリーマーケットで材料を収集してから、教会で作
ってもらわなくてはならないのだが、それらの材料を売ってくれる
人物の出現はランダムで、しかも店に並ぶ商品は毎回一つずつなの
でなかなか揃えづらくて、俺は何度もロード&リセットを強いられ
た。
﹁空の花、水の瓶、地の草、時の砂、銀の皿、虹の石︱︱どれも魔
道具や薬の材料だ。どう使うのかまでは想像できないけど、リリア
が欲しがっているのはその辺だろうな。売っているのは、フードで
顔を隠している小柄な女性だ。商品が一つしか置いていない怪しい
露天商がいたなら、高確率でそいつだ。元商人のお前の目利きなら
探せると信じて、リリアもお前に頼んだんだと思うぞ﹂
具体的な商品名を挙げてそう言ったら、セルディオは目の色を変
えた。
131
珍しい商品に対しての商人としての性なのか、単純にリリアに信
用されて役に立てることを喜んでなのかはわからないが。
リリアに頼られていることが羨ましくて、セルディオに舌打ちを
しそうになった。
ランスロット・オルトランドのグッドエンディングは、ヒロイン
とランスロットが結婚式を挙げているシーンで終わるのだが、その
スチルの隅には、悔しそうに泣いているリリアの肩を抱いて慰めて
いるセルディオの姿があったのを覚えている。
俺がいなければ、もしかしたら将来的に結ばれていたかもしれな
い二人の信頼関係に嫉妬する感情を理性で抑えて、俺達が攫われた
経緯やら公爵家への連絡内容についてなどを話し合い、王都から持
ってきた自分の荷物を貰って、俺は子供達が待つ牢に戻った。
正直、リリアとこんなに長期間会えないのは初めてで落ち着かな
いし、不安になるばかりだ。
リリアとは出会ってからずっと一緒に居たし、王都に来てからも
一緒の部屋で眠っていたから、今は隣りが物足りなくて仕方なかっ
た。
俺はそっと溜息を吐き、幸せそうに眠る子供達に囲まれながら、
一人ゆっくりと目を閉じた。
ぐっすり眠れそうにはないが、休まないよりはマシだろうと。
その日以降、セルディオへ魔物の皮など換金できるものを渡し、
代わりに日用品などを買ってきてもらうというサイクルが組み込ま
れたものの、俺の一日の過ごし方は基本的にはあまり変わらなかっ
た。
午前中はレゼの疑似空間の中で子供達と遊びという名の訓練を全
132
力で行い、レゼの集中力が切れて空間魔術が維持できなくなった午
後からは、単独で魔物を狩りに行って、夕方には子供達と獲ってき
た肉や野菜を食べながら、この世界の知識を教えるという日々。
即ち、主に加減を間違えば霧散する魔力の球体で遊ぶことによっ
て、子供達に魔力のコントロール方法を自然に学ばせ、穀物と野菜
ばかりで栄養が不足しがちな子供達に、新鮮な肉も食べさせて身体
を作らせ、他愛もなく話しながら知識を付けさせつつ精神面を伸ば
すこと。
それが俺が考えた、俺にできる誰も失わせない方法だった。
強い精神は健康な身体から。その逆も然りと、よくリリアが言っ
ていた言葉だ。
身体がしっかりできていなければ、いくら精神を鍛えたところで
体力的に耐えきれないし、心がしっかり強くならなければ、いくら
身体を鍛えたところで精神的に耐えられないと、幼い頃に体調を崩
しがちだったリリアは考えていた。
実際、栄養バランスの良い食事で身体の基礎をつくり、何度も崩
れそうになる精神面を崖っぷちの状態で鍛えて、リリアは魔素中毒
を克服している。
エレン、ロイ、ヴィス、レイラ、セレナ、そしてまだ此処にはい
ないサラ。
序盤では元気だったのに、ゲームの終盤では死んでいたのはこの
六人だ。死因はどれも魔素中毒だった。
リリアと同じ方法をとれば、潜在魔力量は高位魔力保持者ではな
かった頃のリリアを優に超えている子供達だ。まだ時間もあるし、
何とか救うことができるだろう。
リリアはアイテムを使った他の方法を思い付いたようだし、情け
ないことに俺には今はそれくらいしかできることが見付からないか
ら、俺は主に子供達を救う方面に専念させてもらうより他ない。
133
幸い、重要課題である魔力コントロールを教えるのは、幼い頃に
リリアに苦労させられたから得意ではある。
ドカンだのバキンだのと感覚で魔力コントロールを覚えようとす
るリリアに対して、どちらかというと理論で覚えた俺が四苦八苦し
ながら正式なコントロール方法を教えていた過去が有り難くさえ思
える。
途中、たまに自分のやっていることがこの状況での最適なのだろ
うかと疑心暗鬼になりながらも、リリアよりも大分物わかりの良い
子供達の成長速度に少しずつ俺の期待感は高まっていった。
二週間後、エレノアがまた儀式を行うということで、儀式用の白
い神官服に着替えた子供達が牢に迎えにきた。
久しぶりにリリアに会わせてもらえるという話だったが、一人で
浮かれていたら女の子達に腕を絡めとられてしまった。
無闇に振り払えないし、これはちょっとリリアに怒られないかと
不安になりつつも、彼女がどういう反応をするかドキドキしている
俺もいて、とうとう俺のリリア不在病による情緒不安定もここまで
来たかと逆に落ち込んだ。
レゼの軽い足音の後、儀式の間へと空気が変わる。
酔わないよう閉じていた目を開けると、先に来ていたリリアが俺
をどこか熱の籠もった視線で見詰めていた。
﹁⋮⋮これは予想外よ。さすが私の素敵な旦那様ね﹂
久しぶりに聞くリリアの声で“私の素敵な旦那様”と呼ばれたこ
とにニヤける顔を何とか抑えて返す。
134
﹁俺の可愛い奥さんをいろいろ助ける為だから、これは別に浮気じ
ゃないぞ。なんか仲良く食事して、楽しく遊んでいたらこうなった﹂
﹁それを浮気と言わず何と言うの?﹂
うっかり自分の言ったことを振り返って俺は顔が引き攣った。
どう言い訳しようか考えているうちに、いつの間にか子供達を見
回したリリアの視線が明らかに驚きの色に染まっていた。
それから少し涙を浮かべ、頬を紅く染め、俺を尊敬の眼差しで見
詰めてくる可愛い姿が。
俺のしていたことは彼女にとってベストだったのだと認められた
ようで嬉しくなって、思わず理性が飛びそうになったのを頬笑み一
つで自制した。
実のところ、俺はリリアに十年間こうして精神面を鍛えられたと
言っても過言ではない。
同じ部屋、隣り同士のベッド、無防備に安心しきって眠る愛しい
彼女、たまに腕で潰された綺麗な胸の谷間が見えたり、それはすご
く過酷で幸せな日々だった。
あの頃を回想していたら、魔法陣の上から空気がぶれる音がした。
少しでも相手の姿を目に焼き付けておこうと見詰め合っていた俺
達を引き裂いたのは、やはりザイレだった。
奴を睨みつけようと視線を移し、ふとザイレの腕の中の人物に見
覚えがあることに気付いた。
﹁⋮⋮これで全員揃ったな﹂
ザイレの抱える幼女は、きっと植物魔術使いのサラだ。
135
孤児院最後のメンバーにして、魔素中毒の最後の犠牲者。
リリアもそれに気付き、雰囲気を硬質なものに変えて彼らに向き
直った。
﹁まずはその子を救いましょう﹂
リリアが覚悟を込めて発したその言葉に俺だけが頷いた。
儀式はリリアのおかげで問題なく終了し、俺達はまた引き離され
て。
少女となったサラが屋敷で過ごすようになってから、夜は子供達
全員でサラの部屋で過ごすようになった為、一人寂しく放置をくら
サラが怪我したけど治らない
っていた俺を深夜に起こしたのは、セレナという治癒魔術使いの女
大変なの!!
の子の叫び声だった。
﹁ランスロット兄!
の!﹂
泣いているサラの手を引きながらセレナは牢に飛び込んできた。
ざっと確認するが、外傷はなさそうだし、ここまで歩いてこれる
何処が痛い?﹂
ということは、大した怪我ではないように見えるが。
﹁どうしたんだ?
﹁⋮⋮ひっく。おなか⋮⋮いたいの⋮⋮﹂
﹁お腹?﹂
136
腹部に視線が行き、それよりももっと下の、ちょうど寝巻のワン
ピースから出た足を伝って下りてきた鮮血を視界に入れた瞬間。
きっと俺は、聖都に来て最速で動いたと思う。
使っていた毛布をひっつかんで、サラの身体を覆い隠すように毛
布を被せた。
泣きじゃくるサラの頭をとりあえず大丈夫だからと撫でながら、
たぶんこの成長した女の子特有の現象を男の俺が何と説明しようか
考えていたとき、バタバタと子供達が屋敷中から集めてきたらしい
色々な薬品やら包帯やらを持って牢にやってきて、レゼに至っては
ザイレとエレノアを連れて転移してきて、ザイレが珍しく狼狽し、
サラの出血を見たエレノアが慌てながら時間魔術を使おうとして。
﹁⋮⋮お前ら馬鹿か?﹂
騒ぐ彼らに対して、ついそう呟いてしまった俺は悪くないだろう。
137
彼女は昔の自分を見ているようだと思った
ヒロイン達と共に学園から戻ってきたレゼは、孤児院にいる子供
達が魔力制御回路を狂わせて次々と亡くなり、エレノアもその子供
達を救おうと時間魔術を使い続けて限界が近い状態であることをザ
イレから聞かされた。
﹁オレは行けない⋮⋮母上の傍にいる﹂
魔王を倒す為に魔界に行くヒロインと攻略対象者達に、レゼは俯
いて一人こちらに残ることを告げた。
レゼは父から貰った魔界へのゲートを開ける鍵をヒロインに自分
の代わりだと言って渡し、エレノアが過ごしている孤児院へと消え
ていった。
その頃、ザイレはヒロイン達が世界各地から回収してきたという
宝珠を見て愕然としていた。
まさかそのようなことがあるはずはないと、ヒロイン達から魔素
の種がどのようなものであったか詳細を聞けば、返ってきたのは無
情な真実だった。
“魔素の種は紫色の種の形をしていて、浄化すると綺麗な珠にな
った”
それなら、魔素で侵される前は綺麗な宝珠であったと言うのか。
魔王に力を込められて紫色の殻を纏った、延命の力があるあの宝
珠とよく似た形の︱︱。
ザイレはヒロイン達と共に魔界に渡った。
138
一人だけ大聖堂に戻る振りをして向かった魔王のもとで、そこで
初めて子供達を苦しめていた原因が、自分に宿る変質した宝珠だと
知ったザイレが選んだのは、己の死だった。
﹁私は宝珠がなければ、元々死んでいた身。他の聖都中の子供達が
⋮⋮レゼが狂ってしまう前に私が消えよう﹂
それが魔王戦直前の意味のわからない戦闘の理由だった。
レゼのルートには、他のキャラのルートでは語られなかったその
続きがある。
ザイレは魔素の種を浄化された後に逃げ出すのだが、それはエレ
ノアの元に帰る為で、最後は愛するエレノアの腕の中で眠りについ
たと。
レゼのトゥルーエンドが確定されている場合は、ザイレが浄化さ
れた後の宝珠をヒロイン達から奪って、エレノアにどうか自分の分
も生きてくれと渡すイベントが発生する。
時間魔術を使い続けて疲弊したエレノアに、ザイレが延命の力が
あると信じていた宝珠を渡すのだ。
里を襲った反逆者から聞いていて、その宝珠に延命の力などない
ことを知っていたエレノアだったが、知らない振りをして頷き、優
しい顔で眠りについたザイレを愛おしそうに撫でて涙を流した。
魔界から急いで戻ってきたヒロインに宝珠を返したエレノアは、
ヒロイン達が魔界へ行っている間に潜在していた魔素中毒を発症し
て瀕死の状態になってしまったレゼのことをヒロインに託した後、
最後の時間魔術を使った。
魔素の所為で魔力を通しにくくなったレゼの身体を、命懸けでか
ろうじて倒れてしまう前の状態に戻したところで、エレノアも命を
落とした。
目が覚めたレゼは、二人が自分の為に死んだことを知り、爆発的
139
な感情表出とともに魔力制御回路を暴走させた。
しかし、ヒロインの必死の呼びかけで正気を取り戻し、暴走で急
激に増えた魔力を彼女の為にコントロールしようとした結果、偶然
にも魔素中毒を克服することになる。
二人の亡骸を前に泣いているレゼをヒロインは抱き締めて言った。
これからは私が傍にいるから、二人の分も一緒に生きていきまし
ょう︱︱と。
ゲームの中、原因を考えるとどのキャラのルートでも、物語の進
行と共に孤児院にいた子供達は一人ずつ命を落としていたことにな
る。
子供たちの死を不器用に濁して告げた後、ただ不思議そうに首を
傾げるレゼにザイレは何を思っていたのだろう。
レゼの攻略条件を満たしていれば、エレノアにヒロインと同じ十
五歳の姿にしてもらったレゼは、ヒロインを追って王都の学園に入
学する。
それ故にザイレが宿している魔素の種の影響から逃れることがで
きたレゼが、学園で正式な魔力のコントロール方法を学んだレゼだ
けが、潜在していた魔素中毒を発症せずにその悲報を知るのは物語
の終盤だった。
他のキャラのルートでは、恐らくその子供達と同じように倒れて
しまっていたからだろう、終盤ではレゼとエレノアは姿を見せない。
ヒロインは魔素の種による各地の︱︱聖都以外の異変を収めた後、
元凶である魔王を倒す為、教会が管理する魔界への転移ゲートを使
わせてほしいと攻略対象者達と共に大聖堂にやって来る。
140
女神の力の影響で、ヒロインはこの世界にとって異物である魔素
の種が近いと体調が悪くなるのがそれまでの常だったのに、ザイレ
の宿した魔素の種にはあまり反応せずに魔界へ向かっていった。
エンディングを見た後、もう一度その場面を見返したら、少なか
らずヒロインが反応はしている描写はあった。
しかし、それは慣れないことや魔王戦直前の緊張によるものだと
スルー出来る程度の弱いもので。
その理由は、今なら察することができる。
ザイレは、魔力コントロールが異様に上手すぎるのだ。
ザイレの魔力の流れを集中して見ていれば、ザイレが自分の魔力
制御回路に宝珠という異物があることを前提で、自分の魔力を魔素
ごと身体の外に限りなく漏らさないよう体内で循環させていること
が窺える。
魔族であることを隠す為に強大な魔力を内側に抑えなければなら
ず、魔力制御回路に埋められた宝珠に頼らなければ自分は生きられ
ないと認識しているからこそ、そこに多くの魔力を集中させるとい
う特殊な魔力コントロールの仕方だ。
存在が魔力にほとんど依存している精霊や魔族でなければ、耐え
られない状態をザイレは維持し続けている。
それで意図せず周囲への魔素の種の影響を最小限に抑えているよ
うで、ゲームの中で、唯一、ザイレに近すぎて影響がはっきりと出
てしまっていた孤児院の異変を知らないヒロインは、あと一つ残っ
ていた魔素の種に気付くことができなかったのだろう。
ザイレもザイレで、何故もっと早くに気付けなかったのか。
元々攫ってきた子供達は魔力制御回路を頻繁に狂わせていたし、
・・
・
ザイレが数年間のうちに同じ場所で同じ症状で次々と子供達が死ぬ
・
ことが“異常”だとわからなかったのは、こうして人間に関する常
識が欠如しているからだと考えれば。
141
﹁⋮⋮貴方って実は馬鹿なの?﹂
ザイレにこれだけは言ってやらないと私の気が済まなかった。
季節的に寒くなってきた所為でなかなか寝付けなかったのに深夜
に叩き起こされ、セルディオに持ってきてもらった荷物を問答無用
で奪われて、乱暴に担がれながら転移させられた先はカオスと化し
ている牢だった。
泣いているサラに、その子を慰めているランスに、顔面蒼白のエ
レノアに、アレじゃないコレじゃないと薬箱を引っかきまわしてい
る子供達に、理由も告げずに治せと命令してくるザイレ。
ランスに事情を聞くと、想像もしていなかった全然大したことも
ない事態で、間抜けな声が出るほど拍子抜けした。
げんなりしている様子のランスの肩に手を置いて、どさくさに紛
れて防御魔法を補うついでにポンポンと労わっておいた。
﹁ところで、ランス。小学生の頃、保健体育の授業で話された内容
って覚えている?﹂
﹁ああ、あったなそういうの。覚えていないこともないけど﹂
﹁それなら基礎教育からね。私が女の子を担当するから、男の子達
俺も説明するのか!?﹂
はよろしく﹂
﹁え?
﹁私だって気恥ずかしいけど、私達に子供が産まれたときの予行練
習だと思えば⋮⋮﹂
142
﹁よし、わかった!
未来の俺達の子供達の為に頑張る!﹂
俄然やる気になってくれたのは嬉しいのだが、ガッツポーズをと
らなくてもと思いつつ、私はここにきてもしっかり疑問符を頭に浮
かべて理解していない様子のザイレとエレノアを見て頭を抱えた。
本来なら、この世界ではこういうことを教えるのは親の役目なの
だ。
それは貴族も平民も変わらない。
女の子の身体特有の現象には母親が、男の子の身体特有の現象に
ついては父親が、普通は年頃になったら説明することになっている
のだが。
﹁部屋を移動しましょう。こんな寒いところにいたら、余計に身体
が冷えてお腹が痛くなるだけよ。女の子達は私から、男の子達はラ
あ、お互いの話を盗み聞きするのはダメよ。必ず別
ンスから人間の身体について大事な話を説明するわね。何処か良い
部屋はある?
々の部屋を用意して、盗聴なんてしないように。女の子に関しては
怖ーい血塗れの話もするし、男の子に関しては女の子に聞かれたく
ないような話もするだろうから、後悔したくないのならそういった
魔術を切るのは今のうちね﹂
あくまで親切を装って発したその言葉に、顔色を変えた一人の女
の子がフッと音を立てて息を吐いた。
やはりだ。いつもザイレが私の部屋を訪室するタイミングが良す
ぎると思ったら、魔術で盗聴していたのか。
ザイレに対してこの変態野郎と罵りたい気持ちを抑えて、私はラ
ンスにジッと視線を送った。
この流れに乗じて今後の動きについて相談する時間を作ろうと、
そういった意味を含めて。
143
ランスも意味ありげに頷いてくれたのを確認して、私達はそれぞ
れエレノアとザイレをがっちりと連行して部屋を移動した。
女の子達が過ごしているらしい部屋に連れてこられた私は、サラ
に鎮痛薬を飲ませてから着替えやらを手伝い、落ち着いたところで
彼女達に自己紹介をしてもらった。
治癒魔術使いのセレナ、植物魔術使いのサラ、風系魔術使いのレ
イラ、そして今代の聖女であるエレノア。
ゲームに登場し、終盤では死んでいた人物と相違ない。
まず、今までこういったことが起きたときにどうしていたのかと
聞くと、エレノアが時間魔術で時を戻したり進めたりして治してい
たというから驚いた。
時を進めて治しているということは、と期待を込めて、エレノア
に女性が出血するこの現象がどういうものなのか理解しているのか
と問えば、自分がそうやって治っていたから、時を進めれば自然に
治癒されるような怪我の類だと思っていたとのこと。
まあ、大きく間違ってはいない。間違ってはいないが⋮⋮。
私がエレノアを含めた全員に、小学生の女の子に話すような内容
で説明を始めたのは言うまでもない。
色々なところで脱線していたら、説明が終わる頃には、空は薄ら
と明るくなり始めていた。
子供達を寝かしつけた後、私とエレノアは二人で屋敷の食堂に向
かった。
大きな屋敷なのに珍しく対面式のキッチンで、そこは食堂という
言葉がぴったり似合う雰囲気の場所だった。
何やら男の子達の部屋で異様に盛り上がっているランス達にも軽
144
食を作ろうと思ったが、材料もないし、調理器具は錆びていて使い
物にならない状況で、埃がこんもり被った鍋を発見して眉間に皺が
寄った。質が良い鍋なのに、なんて勿体ない。
﹁此処は以前、教会関係者の戦闘訓練施設でしたので⋮⋮それを買
い取って孤児院として以来、此処の食事もすべて聖堂のほうで作ら
せております。こちらが使われなくなって暫く経ちますわ﹂
申し訳なさそうに私の後ろを付いてきたエレノアは、サラを成長
させてからまだ一週間しか経っていないのに、幼女から私と同じく
らいの少女の姿になっていた。
若返ったことで生じる身体の違和感を病気が完治した所為だと思
わせる為、大聖堂に来る人間を若返らせるのは数か月単位にしてい
るはずなのに、ここまで姿を取り戻しているということは。
﹁ザイレにもう子供を攫わなくても大丈夫って言った話、貴女は聞
いていないの?﹂
﹁え⋮⋮?﹂
エレノアは首を傾げた。
この反応、ザイレはエレノアに私の話をしていない。
ということは、私はまだザイレに信用されていないということに
なる。
⋮⋮当然といえば当然だ。
前世の記憶があって、その前世ではこの世界がゲームで、私は貴
方達の過去や未来を知っていて、ここ数年のうちに死んでしまう貴
方達の為に救う手段を探しています。
そんなことを逆の立場で言われたら、私は信じるどころかその人
145
の厨二病を疑って妄想だとスルーする。
それでも私は、エレノアに向き直り、これからのことを考えた上
で口を開いた。
頭がおかしいと思われたって構わないが、ただ少しでも信じてほ
しいと。
﹁聖女として人間を救うことを強要されている貴女の為、教会に来
てからザイレは治癒に適性や特性がある高位魔力保持者を探すよう
になった。特に最近は、魔素の種の所為で時間魔術を行使する機会
が増えて、時には血を吐くほど身体に負担が掛かっていた貴女を治
療する為、とうとう人攫いまで始めるほどに﹂
エレノアはそこまでは無表情で静かに聞いていた。
﹁一方、貴女はある時を迎えれば必ず倒れてしまうザイレに時間魔
術を使った後、再び彼が目覚めたときに違和感を抱かないよう、若
返らせた代償で老いた自分の肉体年齢を移すことができる人間を必
要としていた。魔力制御回路を狂わせた子供達は放っておけば死ん
でしまう人間で、対象としてはちょうど良かった。だから、お互い
に本当の意図を黙っていても、そういう子供達を救うという名目で、
子供を攫ってくるという結論は変わらなかった﹂
彼女達がお互いに隠している“聖女の奇跡”の本当の理由を話す
と、エレノアは顔を強張らせた。
﹁今年の冬、大聖堂にやって来る新しい聖女が数年後に魔王を倒す
直前、最後に貴女にその本当の理由を話して眠りについたザイレは
悲劇のヒーローになったわ。対して、まるで子供達を生贄のように
扱っていた貴女は悪役聖女と評価された。私達、設定が似ているわ
146
ね。私も前世の記憶を思い出さなかったら、次の春には悪役令嬢と
呼ばれる予定だったから﹂
目を見開いたまま、身体まで強張らせたエレノアの瞳に浮かぶの
は、明らかな動揺と困惑だった。
その様子を一片の感情すら見逃さないように見詰めながら、私は
彼女が私達と同じ転生者ではないという考えを、いい加減、確信に
変えた。
女性の身体特有の現象を知らなかったことで違うとは思っていた
けど、どこかで期待していたかったのだ。
エレノアがこの世界がゲームだったということを知っていて、私
達にすんなり協力してくれることを。
私がこれから彼女に協力してもらおうとしていることは、中途半
端な信頼で頷けるようなものではない。
エレノアとザイレを救う為にと私が考えた方法は、彼女の命だけ
ではなく、彼女が自分の命よりも大切に想っているザイレを危険に
曝すことだから。
それしか思い浮かばなかった訳ではない。でも、それが最善だと
判断してしまった。
信じて、くれるのだろうか。
互いに感情を読もうと見詰め合う中、重い沈黙を破ったのは、急
エレノアも?﹂
いだ様子で食堂にやってきたランスだった。
﹁ごめん、遅くなった。⋮⋮あれ?
﹁彼女には協力してほしくて⋮⋮。ザイレは?﹂
147
﹁アイツは俺達の話が耳に入ったらまず此処から遠ざかることを選
ぶだろうから、とりあえずセルディオを捕まえて一緒に子供達の好
きそうな物を朝市で買って来いって言って追い払ったけど﹂
連れてきたほうが良かったか、と伺うようなランスの視線に、私
は少しだけ笑って首を横に振った。
この世界のことも、ゲームに出てきた人物の個性も、私と同じよ
うに知っていて、同じように考えてくれる人がいることが嬉しかっ
た。
彼とならたとえお互いに離れていても、この世界を別の方法で救
えそうな気になってくるから不思議だ。
⋮⋮ああ、でも、私はランスが今のランスでなかったなら、きっ
と救おうとすら思わなかっただろうけど。
自分自身がヒロインの選択次第では死ぬことすら受け入れて、シ
ナリオに抗ってこうして誰かを救おうとなんて思わなかった。救え
るなんて、期待することはなかった。
﹁今、エレノアに私達には前世の記憶があって、その前世ではこの
世界がゲームになっていたから、貴女達がこれから辿る未来のこと
と過去の出来事をちょっとばかり知っているってことの触りを話し
ていたのよ﹂
﹁その台詞で全部事情を説明しているからもう触りも何もないな﹂
ランスが苦笑した。
何だかその表情に急に安心してしまってどうしてか涙が出そうに
なったが、視線を再びエレノアにずらすことで耐えた。
驚いたことに、そこにはもう呆然と立ち竦んでいる彼女の姿はな
かった。
148
﹁お話を⋮⋮もっと聞かせて頂けませんか。あの人を助ける手段が
あるなら、御協力致しますわ﹂
代わりにその特徴的な紅い瞳に希望を灯した彼女がいた。
傍に来てくれたランスを窺うと、微笑んで一つ頷いてくれて、こ
れで良かったのだと肯定されたようで、エレノアに話し始めた辺り
から鳴りやまなかった動悸がスッと落ち着いていくのを感じた。
私は深く息を吐いた後、エレノアにしっかりと視線を合わせた。
﹁その前にエレノアには教えてほしいことがあるの﹂
﹁何でしょうか?﹂
ザイレが戻ってくるまでに話を終えなくてはならないから、万が
一のときの為にザイレに一番聞かれたくないことを先に聞いておか
なくてはならない。
エレノアがザイレに一番聞かれたくないことを。
エレノアが一番話したくないことを。
﹁⋮⋮貴女は、何歳のときに亡くなったの?﹂
エレノアがもう、実は一度死んでいる人間だということを。
149
彼は頼りにされたようで嬉しかった
魔族を殺すことは容易ではない。
それが創世から生きた魔族であれば尚更、消滅させることは難し
くなる。
数十年前、二人の魔族同士がぶつかり合った余波で精霊の谷は崩
れた。
暴力的なまでに純粋なただの魔力の塊と、圧倒的な物理破壊力の
応酬に、最果ての森を横断していた渓谷は消えた。
森が吹き飛び、大地が削られ、世界樹の根は這う場所を失った。
すべてが終わったとき、砂埃に視界が白く染まった精霊の谷の跡
地に立っていたのは少女だけだった。
空間魔術の中で大切に守られていた少女は、その魔術が突如とし
て壊れたことで、様変わりした現実の世界を目の当たりにした。
白一色のその世界。暗闇しか知らなかった少女に、緑溢れる森や
綺麗な満月を見せてくれた彼の姿はない。
孤独に押し潰され、崩れ落ちた少女に、精霊の谷を彷徨っていた
光の精霊が囁いた。
﹁貴女の大切な彼はまだ此処にいるわ。貴女の魔術で元の姿を取り
戻せるかもしれない﹂
少女は精霊に促されるまま、彼を思い浮かべて魔術を使った。
︱︱少女の周りの時間が戻る。
彼と歩いた森が再び息吹を上げ、彼に髪を飾ってもらった花が咲
150
き、彼と一緒に水浴びをした泉が湧いて、ふわりと後ろから彼に抱
き締められて。
彼は存在のほとんどを霧散させた状態でも少女の傍にいたのだっ
た。
姿を保てなくなった状態でも、自分を抱き締め続けていてくれた
ことが嬉しくて、少女は彼を振り仰いだ。
だが、少女はすぐに絶句することになった。
彼はまだ身体の半分を失った状態で、命である魔力制御回路を剥
き出しにさせて、苦しげに目を閉じていたのだ。
彼の意識はない。自分を呼ぶ声もない。
ズルリと力なく肩を滑り落ちていく腕は、心が凍えるほど冷たか
った。
かろうじて形を半分取り戻しただけの彼と共に草の上に倒れた少
女は、光の精霊が止める声も構わず、再び魔術を使った。
彼の存在を取り戻す為に。彼を生き返らせる為に。
身体の大部分を取り戻す彼とは対照的に、少女は少女ではなくな
っていった。
少女は大人に、彼女は老いて︱︱そこで意識は途切れた。
しかし、時間魔術の反動で老いて死んだはずの少女は、再び少女
となって、彼の腕の中で目を覚ますことになった。
彼に自分はどうして生きているのかと聞いても、君は最初から死
んでなどいないと言う。
少女の魔術によって意識を取り戻した彼は、獣の本能のまま魔界
に戻り、気付いたときには魔王に延命を望んでいたと言った。
延命の宝珠を授けてもらい、この世界に急いで戻ってきた彼が倒
151
れていた少女を見つけたときには、何も異常はなかったと。
もう二度と離さないと誓う彼の声の後、ゆっくりと温かい腕の中
で目を閉じた少女の耳に違う声が響いた。
﹁私の可愛い娘。大切なその彼と一緒に生きて、幸せになりなさい﹂
声は身体の内側から聞こえた。
その優しい声は、ずっと昔に聞いた覚えがある母の︱︱娘を想う
あまり、死後に光の精霊となったエルフの母が遺した最期の声だっ
た。
食堂のテーブルの一角に場所を移した俺達は、淡々と語られるエ
レノアの昔話を聞いていた。
エレノアが死んだのは何歳のときなのか。
俺はリリアのその質問を聞いたとき、驚愕のあまり息を呑んだ。
ザイレもエレノアも一度死んでいたなんて、俺は知らない。
﹁私は精霊となって谷を彷徨っていた母に救われました。私の中に
僅かに残された母の記憶では、私の魔力制御回路に魔力として入り
込んだ母が、自分の存在を代償に私の身体で時間魔術を使ったよう
なのです﹂
エレノアは、そう寂しげに胸に手を当てた。
自分の魔力制御回路に消えた母を懐かしむように。
リリアはテーブルの下では俺の手を強く握っているものの、まる
でこの事実を知っていたかのように微動だにしていない。
それどころか、これで確信を得たとでも言いたいような真っ直ぐ
な表情をしていた。
152
魔族との戦いで瀕死になったザイレが、エレノアと共に生きる為
に延命を願って魔素の種を埋められたことは、ゲームの中で回想さ
れていたから俺も知っている。
でも、エレノアが一度死んだザイレに時間魔術を使ったから瀕死
ギリギリの状態に戻っていただけで、その所為でエレノアのほうが
命を落としていたなんて、少なくとも俺は知らなかった。
エレノアが話したことは、俺もリリアも知らなかったはずの、ゲ
ームの中では語られなかった過去の話なのに。
﹁⋮⋮リリア。どうして、エレノアやザイレが死んでいたことを知
っていたんだ?﹂
ぐるぐると空回りする頭でリリアに問えば、リリアはきょとんと
ザイレは死んでいないじゃない﹂
エレノアを生き返らせたのは精霊になったお母様だったん
首を傾げた。
﹁え?
でしょう?
﹁いや、さっき霧散したって⋮⋮﹂
﹁存在が魔力で出来ている魔族が、姿を霧散させられた程度で死ぬ
訳がないでしょう。ザイレは人間じゃないんだから、それくらい大
丈夫よ。それこそ、エレノアのお母様みたいに、自分の存在の全て
を懸けて魔術を発動させなければ﹂
﹁⋮⋮あ﹂
リリアの言うところに思い当たるものがあって、俺は短く声を上
げた。
153
エレノアは俺達の会話に目を丸くしていたが、リリアと共に納得
した俺の様子にガタンと急に席を立った。
﹁あの人は⋮⋮ザイレは死んでいないのですか!?﹂
絶望の中に希望を見出したエレノアの、心からの叫びだった。
そうだ。ここは前世のような世界じゃないから、姿が消えたって
それが死んでいることを意味する訳ではない。
この世界は、良くも悪くもゲームの世界。
すっかり前世と人間の常識に捕らわれて勘違いをしていた。
エレノアも、昔から隠されている魔族の生態を知らないから、人
間と同じ枠でザイレを見ていたのだろう。
リリアが言いたいのは、ザイレと同じ種族である魔王のことだ。
ゲームの中で、俺達は魔王と戦って平和を勝ちとっている。
俺達は魔王︱︱魔族を完全に消滅させる方法も知っているし、裏
を返せば消滅させない方法も知っていることになる。
﹁そうだよ、死んでない。ザイレは魔王に次ぐ魔力を持つ純粋な魔
族だ。魔王はヒロイン達に倒された後も生きていた。一旦は姿が消
えたから消滅させられたと思ったけど、その後、周りの魔力が収束
したと思ったら、目の前に魔獣形態になった魔王が復活していて二
戦目があった。魔族を消滅させるには、存在そのものと言ってもい
い本人の魔力を完全に使い切らせる必要があるんだ﹂
エレノアに伝えながらも、リリアに合っているかを確認するよう
に俺は説明した。
ラスボスに二戦目があるのはお約束だとスルーしていたが、その
ラスボスが魔族だった故の種族設定がこのようなところで救いにな
るなんて。
154
魔族はたとえ魔力を留めていた身体という名の器がダメージを受
け、存在が魔力として空気中に散っても、自分の魔力さえ欠片でも
残っていれば、姿を取り戻すことなど造作もない最強種族だ。
周囲の魔力を取り込み、時間の経過と共に自分の魔力として変質
させ、器を再生させることができると、他でもない魔族の長である
魔王自身が最終戦で言っていた。
リリア﹂
だったら、魔力を完全に使い切った状態ではなか
﹁エレノアの母さんは、確かにザイレは﹃まだ此処にいる﹄って言
ったんだよな?
ったはずだ。ザイレは死んでいない。そうだよな?
﹁ええ。ザイレもどうしてその程度で自分が死ぬと本能レベルで勘
違いしたのかはわからないけどね﹂
リリアは正解だと言わんばかりに俺に微笑んだ。
俺も思わず顔が緩んで、泣きそうな顔で宣告を待つエレノアに力
強く頷いてやった。
﹁⋮⋮ッ⋮⋮⋮ア、アア!!﹂
エレノアはヒュッと音がなるほど息を吸った後、大声を上げて泣
き出した。
愛する人が瀕死になって、どれほど時間を巻き戻しても、若返ら
せた分と同じだけの時間を経てしまえば、再び傷を負ってしまった
その時が巡ってきて、もう一度時間を戻して。
レゼのルートで、エレノアはそのような発狂したくもなるような
ことを繰り返していたシーンがあった。
何度も手遅れになる前に魔術を使っていたのに、実はそんな程度
で死なないから大丈夫だなんて言われたら、必然的にそうなるだろ
155
う。
俺がエレノアの立場だったら、同じように泣くなるほど安心する。
エレノアの涙につい俺も涙腺が引き摺られそうになったが、ふと
じゃあ、どうしてリリアはエレノアが一度死んでいたこ
疑問が湧いて寸でのところで止まった。
﹁あれ?
とに気付いたんだ?﹂
俺はてっきり、エレノアはもうザイレが死に瀕していることを知
っていて、倒れる度に何度も自分の身体に負荷を掛けてまで時間を
巻き戻していることをザイレに気取られないよう、時間魔術の反動
で成長してしまった自分の年齢を子供達に移しているのかと思って
いたのだが、そのゲームの情報だけではエレノアの死とは繋がらな
い。
リリアはずっと握っていた俺の手を離してエレノアの傍に行き、
そっとハンカチを差し出して、申し訳なさそうに言った。
﹁ごめんなさい。確信があった訳じゃないの。貴女がどれだけ肉体
年齢を溜め込めるか考えたときに、どうしても引っかかることがあ
ったから。大聖堂で私の部屋に時々お世話に来てくれる神官達に聞
いたのだけれど、貴女、決して四十歳くらい以上の姿にはならない
んですってね﹂
顔を上げたエレノアの涙を拭いながら、リリアは続けた。
﹁好きな人に老いた姿を見せたくないのかと思ったけど、私が貴女
の立場なら絶対に二十五歳以上の姿にはしないから、その理由は違
うと思って。子供達を魔力制御回路の暴走から救うという建前上、
少なくとも一般的に回路が安定すると言われている二十歳前後の姿
にしなければならないのに、私が治したヴィスやサラを見ている限
156
り、貴女は子供達を段階的に大人の姿にしている様子があった。一
気に成長させると、貴女にも子供にも身体に過度の負担が掛かるか
らだと思っていたけど⋮⋮二回治してわかったけど、見た目こそ血
塗れになれど、貴女も子供もまだ余裕があるわね?﹂
エレノアはリリアからハンカチを受け取って、視線を泳がせた後、
静かに頷いた。
傍から見ればあの血塗れの惨状の何処に余裕があったかは皆目見
当がつかないが、術者であるリリアと当人が認めているということ
はそういうことなのだろう。
﹁貴女の時間魔術は、等比で肉体年齢を対象に移すものではないこ
とはこの二回の儀式で理解したわ。術者である貴女側は、過剰に代
償を支払う必要がある。でも、それがわかっているなら、何度も苦
痛を与えてしまうのに、何故、貴女は子供を一気に成長させるだけ
の肉体年齢を溜めてから儀式をしないのか﹂
リリアは俺に視線を移した。恐らく、リリアが続ける言葉はこう
だ。
﹁エレノアは、何らかの理由で子供を一気に二十歳前後まで成長さ
せるのに必要なほどの年齢を溜めておくことができないから?﹂
﹁そう。そして、この世界の人間の寿命は約八十歳。それを加味し
て考えたとき、寿命を考慮したにしては安全すぎる四十歳くらいと
いう年齢で成長を止める貴女はきっと、四十歳からそう遠くない年
齢で確実に自分が死んでしまう歳を知っているんじゃないかと思っ
たのよ﹂
俺とリリアから同時に視線を向けられると、エレノアは自嘲が混
157
ざった複雑な表情を見せた。
﹁全部お見通しなのですね。私の最期を見ていた母の記憶では、私
が死んだのは一般女性の姿と比べるに五十歳を過ぎたあたりでした
わ﹂
﹁五十歳⋮⋮ね。足りるかしら﹂
思案顔でリリアが呟いた内容も気になったが。
とりあえず、俺は廊下側に慣れた気配を一瞬感じて振り向いた。
そこには誰もおらず、エレノアもリリアも俺の様子に首を傾げて
おり、気付いていない様子だ。
でもエレノアが自分の死を己の言葉で認めた瞬間、気の所為でな
ければ僅かに空間がブレた。
俺は無言で椅子から立ち上がって、今は何の違和感もないその場
所に歩み寄った。
何事かと訝しむ二人の視線を背中に感じながら待ってみるが、当
の人物は出てこない。
俺はしばらく様子を見た後、その場所に向かって一歩踏み込んだ。
出てこないなら、引っ張り出すまでだと。
一歩踏み込んだ場所は、ともすれば普通に一歩踏み出しただけの
風景と変わらない場所に見えるが、決定的に違うところがある。
その空間には、リリアとエレノアがいない。
代わりに俺の前にいるのは、無理やり成長させられた外見に似合
お前、俺の話の途中から爆睡していただろう
わない、不安に揺れる表情を浮かべたレゼだった。
﹁レゼ、どうした?
158
?﹂
﹁母上が⋮⋮泣いている声が聞こえたような気がして。盗み聞きは
ダメだって言われたのに⋮⋮ゴメン、ランスロット兄﹂
なるほど、牢の一件でリリアに盗み聞きを注意されたから出てこ
なかったのか。
レゼは両親の所為で常識がちょっとどころ外れているだけで、基
本的には素直な良い子だから。
﹁⋮⋮ねぇ。今の話、本当?﹂
必死に絞り出したような声で、レゼは俺に尋ねてきた。
その両手は痛々しいほどに固く握られていて、不安に耐えるよう
に小刻みに震えていた。
ふいに先程の、俺の手を握りながらエレノアの話を聞いていたリ
リアの姿を思い出して︱︱途端、リリアのらしくないその行動の意
味を理解して、鼓動が煩いくらいに跳ね出した。
﹁ランスロット兄⋮⋮?﹂
﹁え、あ、ごめん。えっと⋮⋮レゼも一緒に話をしよう。今度は寝
るなよ?﹂
俺は俯いたまま頷いたレゼの腕をとった。
初めて触れたレゼの腕に、そういえばと思い出して問う。
﹁なあ、レゼ。俺と追いかけっこして俺が勝ったら、何でも教えて
くれるって最初会ったときに言ったよな﹂
159
﹁え⋮⋮うん﹂
﹁お前の空間魔術を抜けられたら、俺の勝ちってことでいいか?﹂
﹁別に良いけど⋮⋮﹂
レゼが了承したのを確認して、俺はちょうど真後ろに一歩分跳躍
した。
たぶんこの方法で、空間魔術から抜けられる。
レゼは俺が攫われてから毎日子供達とやっている追いかけっこの
中で、必ず初撃は大量のナイフを真っ直ぐ飛ばしてきていた。
真っ直ぐ飛んでくるナイフを後ろに跳んで避ける訳にはいかない
から、横に跳び退くしかないのだが、初撃以降、ナイフで攻撃して
くることはあまりなかったから何かあるんだろうと察していたが。
﹁ランス!﹂
いとも簡単に空間魔術に入り込み、とてつもなく簡単な方法で抜
け出た俺の腕の中にリリアが飛び込んできた。
突然消えたら心配するじゃない!﹂
こういうところも、いつもの意地っ張りなリリアらしくないのは
たぶん︱︱。
﹁何やってるのよ、もう!
﹁ただいま。心配掛けてごめんな。あの時、ザイレの空間魔術にど
うして迷い込んだのかずっと気になっていてさ。謎が解けた。これ
はもう、この世界の意思だ﹂
俺の突拍子もない発言に、リリアは何を言っているんだと眉間に
160
皺を寄せた。
﹁こうして術者の状態が揺らげば、空間魔術に接している現実の一
・・
点を割り出せるけど、そんな訳でもなかったのにザイレほどの腕が
ある人物の空間魔術に本当に偶然迷い込む確立なんてどれくらいの
ものなんだろうな﹂
天文学的な数字の遥か上を叩き出せそうなその可能性に、リリア
は目を見開いた。
何が手に入った?﹂
﹁リリア。お前、セルディオにフリーマーケットに行くように頼ん
でいたよな?
﹁⋮⋮時の砂﹂
﹁作ろうとしていたものは?﹂
﹁⋮⋮魔力源泉﹂
時の砂は、砂漠の国の皇子とトゥルーエンドを迎える為に必要な
魔道具“魔力源泉”の材料だ。
売っている人物の出現も、並ぶアイテムもランダムであるはずな
のに、こうして欲しいものが手に入っている現状。
俺はリリアの少し冷たくなった手を両手で包みこんだ。
リリアのか細い手は、俺が気付かなかっただけで、未だに不安そ
うな表情をしているレゼのように震えていた。
﹁大丈夫だから。どうやら女神は俺達にこの世界を救ってほしいら
しい。リリアの考えた方法で、きっとちゃんと救える﹂
161
リリアの指先がピクリと反応した。
リリアは俺が食堂に来てから、ずっと俺の手を握っていた。
その行動が示すのは、これから話す方法で本当にザイレ達を救え
るのか、一人では震えてしまうほど不確かで不安だったということ。
それで俺を頼って。俺を支えにして。俺の手を握って。
俺は込み上げてくる言い様のない感情のまま、リリアを力の限り
抱き締めた。
﹁ちょ、ちょっと。ランス。レゼも居るんだから!﹂
リリアの抗議の声にレゼとの約束を思い出して、振り返った。
レゼはエレノアと暗い表情で見詰め合っていたが、俺と目が合う
とバツが悪そうに視線を逸らした。
﹁レゼ。約束通りに教えてほしいことがあってだな﹂
どのような質問が来るのかと怯えるレゼを見据えて。
﹁ゲームの中でお前は言っていたんだ。ザイレの血を濃く引いてい
るお前は、あいつと同じ時期に魔力が不安定になるから、ザイレが
倒れる時がわかるって。その度に儀式の間に運んでいたお前なら予
測できるだろう。ザイレが次に倒れるのは、いつだ?﹂
リリアが魔力源泉を使うと言うなら、ザイレ達を救う為に必要な
のは恐らくこの情報だ。
レゼは目を見開いた後で唇を噛んで、しばらくしてから約束だか
らと固く閉じていた口を開いた。
162
﹁⋮⋮二か月くらい後だよ。最近、父上が倒れる時期が早くなって
いるんだ﹂
どうしてかわからないけど、と続けるレゼ。
力なく垂れる頭を俺はガシガシと撫でてやった。
﹁俺とリリアはその理由を知っている。お前の父さんも母さんも友
達も⋮⋮大丈夫だ。まだ時間はあるから﹂
俺が一番尊敬する父を思い出して、記憶の中の父のようにそう言
ってやれば、レゼの目からぽたぽたと涙が零れ始めた。
無意識の涙だったのか、突然のことに慌て始めたレゼの傍にエレ
ノアが駆け寄ってきて、レゼを抱き締める姿はいつかの俺の母のよ
うで。
﹁リリア、もう一度頑張ろう。絶対に救えるから﹂
リリアが考え付いたザイレ達を救う方法なんて想像もつかないが、
俺が言い切ることでリリアの不安を少しでも軽くできるなら、実際
に俺達に介入してきているのかわからない女神の存在すら味方につ
けて、微笑むくらい訳はない。
そんな俺の思考もリリアは読めているだろうけど、とりあえず彼
女が笑って頷いてくれたから良しとした俺は、やっぱりどこまでも
甘い。
163
彼女は憤りに頬を染めた
この世界には、女神の降臨祭というクリスマスに似たイベントが
ある。
女神が降臨したとされる日に聖堂で祈りを捧げ、皆で世界の誕生
を祝うイベントだ。
ゲームの中で、ヒロインはその降臨祭の最中に神託を持って大聖
堂に現れた。
ヒロインは淡い桃色の髪に、澄んだ湖のような水色の瞳が印象的
な美少女だ。
田舎の孤児院で過ごしていたが、その類稀なる美しさを見初めら
れ、ある子爵の妾として王都に上がる途中で馬車が魔物に襲われ、
女神の力に覚醒するところからゲームは始まった。
聖都に到着してすぐに大聖堂に飛び込んだヒロインは、最初は教
会の人間にも受け入れられなかった。
嘘を吐くなと糾弾されかかったところで、タイミング良く大聖堂
を魔物の群れが襲ってきて、ヒロインはそこで本格的に覚醒した浄
化魔法を使って女神の力を証明し、とりあえず真相を確かめる為に
教会に所属することになった。
チュートリアルという名の、隠しキャラであるレゼと仲良くなる
ための三か月の期間を経て、まだ浄化魔法の扱いが未熟なヒロイン
は、魔法を学ぶ為に王都の魔法学園へ入学することになり、勉強に
恋にイベントにと忙しくも充実した日々を送りながら、魔王を倒し
てエンディングを迎えるというのが、ゲームの大まかな流れである。
ヒロインがいなくては、この世界は救われない。
ならば、ヒロインは必ず浄化魔法に目覚めてやってくるはずだ。
今日この日、女神の降臨祭を行うこの大聖堂に。
164
前日から降り始めた雪は、今はもう視界を白く染めるほどの強さ
になっていた。
吐いた息は白く、窓に触れた指先は神経まで凍るように冷たくて
痛い。
﹁⋮⋮ランスロット様のことが心配ですか?﹂
窓に映ったエレノアが尋ねてきた。
振り向けば、白い儀礼服に着替えた四十歳代まで成長したエレノ
アがどこか緊張の面持ちで立っていた。
かという私も、教会から借りた儀礼服を着て同じような表情をし
ていたが。
﹁⋮⋮貴女もザイレのことが心配でしょう?﹂
﹁はい。ですが、信じています。貴女とランスロット様を﹂
エレノアの迷いなく頷くその姿に、私は少しだけ肩の力を抜いて、
カチャリと開いたドアのほうを見た。
﹁行きましょう。女神の降臨祭の時間です﹂
ザイレの格好をしたレゼが、ザイレを真似て、無表情の神官長口
調で入ってきた。
エレノアとレゼ、そして暗い表情をした二人を心配して落ち着か
なくなった子供達にも事情を話した翌日から、レゼはこの日の為に
仕事中のザイレにくっついて、徹底的にザイレの口調や立ち振る舞
165
いを覚えてきた。
ザイレには他にやってほしいことがあるので、女神の降臨祭に神
官長として出席させることはできない。
だが、教会主催のイベントのときに神官長を不在にすることはで
きないため、レゼに代役を頼んだ結果がこれだ。
本当にザイレとレゼは似ている。レゼの豊かな表情と幼い口調が
なければ、こうもそっくりなほどに。
癖すら把握した完璧な変装は、同時にそれほどレゼの父と母を救
いたいという想いが強いことを表していた。
﹁必ず上手くいくわ。女神がこれだけ祝福してくれているんだから﹂
この地方では珍しい雪は、女神の祝福と呼ばれている。
それがこれだけ降っているなら大丈夫だと朝にランスに勇気づけ
られた言葉を思い出しながら、私は足を前に踏み出した。
ランスとザイレ、レゼ以外の子供達はもう早朝から戦い始めてい
る。
白く染まった雪山で、聖都に被害を及ぼす危険性がある魔物を一
匹残らず狩っている途中だ。
運命のときはもうそこまで迫っている。
私達はこの大聖堂で、用意された舞台にヒロインが上がるのを待
つ。
大聖堂は厳粛な空気に支配されていた。
祭壇の右には神官長の姿をしたレゼが、左にはヴェールを被って
顔を隠したエレノアが控えており、礼拝者達を静かに誘導している。
フードを目深に被った神官達がキャンドルスタンドを手にして壁
166
際に一列に並んでいる中、礼拝者が中央を直線で歩いて、ステンド
グラスを通した七色の光が降り注ぐ祭壇の前で祈りを捧げては帰っ
て行く光景を何度見送ったことだろう。
ヒロインの登場は、大雪にも関わらず、朝から来ていた熱心な女
神信仰者達がちょうどまばらになってきた頃だった。
壁際の神官達の中に混ざって、時折揺れる蝋燭の炎にランスの無
事を願っていた私は、外にいる神官達が騒ぐ声に顔を上げた。
バタンと一際大きく音を立てて、大聖堂の扉が開く。
息を切らした少女が一人、制止する外の神官達の声を無視して大
聖堂の中央を進んできた。
不思議と大雪の合間を縫って窓や開いた扉から差し込んだ太陽の
光が、スポットライトのように大聖堂に飛び込んできた少女を照ら
し、一歩進むたびに緩いウェーブを描く桃色の髪や細い身体からハ
ラハラと落ちる雪が光を乱反射して、その少女は神々しい雰囲気に
包まれていた。
その様は、祝福を纏ったまるで女神そのもののようで。
現実離れしたとても幻想的な風景に、ゲームのスチルで知ってい
た私でさえ目を奪われた。
﹁ここは大聖堂です。ましてや今日は女神の降臨祭⋮⋮お静かに願
います﹂
神官長役のレゼが、私達が教えた通りに抑揚のない声で少女に注
意する。
世界に危機が迫っています!
女神様が私にそう言
少女はその声を受けて立ち止り、ゲーム通りに神官長に向かって
叫んだ。
﹁神官長様!
ったんです!﹂
167
私は思わず反応して、蝋燭の火を大きく揺らしてしまった。
ヒロインの台詞がゲームと違う。
レゼは些細な違いを気にしなかったようで、シナリオ通りに台詞
を進めた。
﹁我らの聖女は、女神の啓示を受けておりません。女神は教会の正
魔王が魔素の種
ここに来る途中で女神の力
式な聖女を差し置いて、貴女に世界の危機を伝えたと仰るのか﹂
﹁それは私が本当の聖女だからです!
に目覚めて、ちゃんと女神様の声を聞きました!
を放ってこの世界を壊そうとしているんです!﹂
魔王が放った魔素を浄化できる私だけが使え
﹁⋮⋮女神の啓示を証明できるものは?﹂
﹁魔法を見せます!
る魔法を、女神様から授かりました!﹂
これから大聖堂を魔物が襲うから、
﹁では、見せていただきましょうか﹂
﹁え⋮⋮ま、待ってください!
そのときにならないと⋮⋮﹂
レゼは尚もヒロインに何かを言おうとしたが、口を少し開けただ
けでそのまま口を噤んでしまった。
︱︱非常にまずい。レゼが困惑している。
ヒロインのこの台詞、完全にシナリオにはない台詞だ。
魔物が大聖堂を襲うことなんて、ゲームの中のヒロインは知らな
かった。
168
この少女︱︱転生者だ。
﹁神官長様。その少女の言うことが真実であれば一大事です。神官
達と礼拝者を大聖堂から避難させましょう﹂
私はフードをより目深に被り直して、列を一歩抜けて、いつもよ
りも低い声でレゼと他の神官達に訴えた。
スチルで一般の神官達の顔を描くのが面倒だったからだろう、今
フードを目深に被っている設定に感謝した。
私が本来ならここにいるはずのない人間であることを、敵か味方
かもわからないヒロインに悟られずに済む。
﹁あ⋮⋮ああ、そうだな。皆、大聖堂から今すぐ離れなさい﹂
﹁皆さん。これから何が起こるかわかりません。列を保ったまま、
慌てず大聖堂の外へ避難してください﹂
ここからはもうアドリブだ。
ヒロインが転生者でこれから起こることを知っているなら、それ
を利用して万が一のときの怪我人を一人でも少なくする為に動くし
かない。
戸惑う神官達に指示して大聖堂の扉を大きく開かせて、私はエレ
ノアの傍に寄った。
﹁神官長様も聖女様も、こちらへ﹂
素直に私に従う二人を壁際のほうに連れて行き、ステンドグラス
の下から避難させて防御魔法で覆った。
ゲームの中で、魔物はステンドグラスを割って大聖堂に侵入して
きた。
169
ヒロインも避難を始めた神官達を急かしながら、ステンドグラス
が割れ落ちてくる範囲からきちんと逃れている。
先程の発言を聞く限りでは、ヒロインは転生者だが、浄化魔法を
まだ自分の意思で制御できない様子だ。
ゲームの中であれば、割れたステンドグラスで怪我を負ったヒロ
インの血を求めて魔物が襲いかかり、命の危機に瀕してやっと浄化
魔法を任意で発動させることができるようになるので、自分が逃げ
るとシナリオとズレて、結果、生じてしまうリスクをあの少女は正
しくわかっているのだろうか。
自分が血を流して魔物を引きつけなければ、避難している一般の
神官達や礼拝者にも危険が及ぶかもしれないことを理解した上で、
あるいは、そのような危険性に目が向かずに単に自分が怪我をする
のが嫌だからと逃げているのだとしたら、これから先の学園生活で
私達のヒロインへの接し方が随分と変わってくる。
⋮⋮まあ、私達が介入している今のこのイベントならば、ヒロイ
ンが怪我をしようがしまいが、結果的に死傷者はゼロにする予定だ
が。
私はランスと子供達に掛けている防御魔法の位置を探り、予定の
位置にいることを確認した後で、レゼとエレノアの手を強く握った。
フードを被っているから私は今二人がどのような表情をしている
のかわからないが、二人ともそれでわかったようで、私の手を握り
返してきた。
あと半分。
しかし、神官達の半分が避難したところで、レゼが小さく呟いた。
﹁来るよ﹂
170
それから数秒後だ。ステンドグラスに大きな獣の陰が落ちたのは。
獣の咆哮と共に砕け散るガラスの音と悲鳴に紛れさせて、私は神
官達とヒロインの間に予め用意していた防御壁を張った。
ヒロインはちょうど振り向いたため、背中に隔てられたその防御
壁には気付いていない。
自分が逃げられなくなったことにも気付かず、ゲームでは有り得
なかった事態に腰を抜かして少女は床に座り込んだ。
黒い毛に紅い瞳の巨大な狼が、トンッと巨体に似合わない軽い音
を立てて大聖堂の内部に着地した。
真っ直ぐにヒロインを見据えて、再度、本気で咆哮を上げるその
獣の正体は、本来ならばゲームの終盤にならなければ会うことのな
い魔獣形態のザイレだった。
ザイレにはすでに私達が未来を知っていて、魔素の種から聖都を
救う為に動いていることは話しているが、レゼのシナリオの核心部
分はあえて話していない。
ザイレには、私達は聖都を襲うだろう魔物の群れを先に討伐する
予定だが、大聖堂で魔物に襲われないとヒロインがこの世界を救う
為に必要な女神の力に本格的に覚醒しないから、貴方が代わりに襲
って、と伝えてある。
明らかに信じていなさそうな顔をしていたが、私達に何一つ嘘を
言っている様子はないし、エレノアとレゼが泣きそうな顔で真剣に
頼むから、ザイレは渋々了承した。
別に私達を信用した訳ではないし、私達のことなどどうでも良い
が、エレノアとレゼには弱いというザイレらしい反応だった。
実は私達が聖都のほうなんかどうでも良くて、そんなザイレを救
う為に動いているということなど彼だけは知らずに、予定通り魔獣
となったザイレは、ヒロインに襲いかかっていった。
171
魔物の群れではなく、それを遥かに凌駕する最強の魔族に襲われ
るヒロイン。
ザイレが手加減をしているとはいえ、恐怖で逃げ惑い、泣き叫ぶ
美少女を防御魔法で閉じ込めていることに罪悪感を抱きながらも、
私はさっさと浄化魔法を使えばいいのにと歯痒い思いでそれを見て
いた。
シナリオ通りではない現状、ヒロインが泣きながら逃げるその光
景はとても悲惨なものだった。
一部の正義感あふれる神官達は、助けに入ろうとして私の防御魔
法に阻まれている。
外を通りがかったのか、防御魔法を破ろうとしてくる騎士や魔法
使いの姿もあったが、邪魔だとすべて弾いてやった。
だが、私だってその状態をいつまでも維持できる訳ではない。
本当に防御魔法が必要になったそのとき、魔法が破られていて困
る。
私が防御魔法の術者だと気付いた魔法使いから批難の声が上がっ
たが、フードの中からでも私が睨みつければ声は止んだ。
そのとき、だ。
大聖堂内に眩しさを通り越して、網膜を焼き切りそうなほどの光
が溢れた。
浄化魔法の光の本流が、このときゲームの中では天にまで届くほ
どの柱となって描かれていた。
ゲームの中で、ヒロインが使う浄化魔法でその描写があったのは
二回だ。
本格的な覚醒を果たした今と、魔王を倒すとき。
即ち、今、この魔王を倒せるほどのレベルの浄化魔法にザイレは
曝されている。
魔獣形態のザイレにこれを避ける術はない。
172
完全に防御魔法で周囲を覆ってあるし、空間魔術も発動の合図で
ある指が鳴らせない魔獣形態では使えない。
︱︱獣の悲鳴が、大聖堂内に轟いた。
防御魔法を叩き壊して出て行こうとするエレノアの腕を引いた。
まだ終わっていない。その証拠に、私の指先から血が飛び散った。
ザイレが防御魔法の中で暴れている。
魔力制御回路に組み込まれた魔素の種が浄化される際の痛みは、
きっと内臓を剥ぎ取られるに等しい痛みだろう。
予期していなかったあまりの痛みで理性を失って、防御魔法を破
って、ザイレはここから逃げ出そうとしているのだ。
ゲームの中で、ザイレはこの光に危機を察して遠くに逃げていた
のだろうか。
だから、魔素の種は浄化されることなく、ザイレの身体に種とし
て存在し続けたのか。
でも、今回は一度だけの人生だ。逃がす訳にはいかない。
歯を食いしばって浄化魔法を受けろとザイレに伝えたのに、人を
信用しないからこうなるのだ。
誰も信用しようとしないから、いつまでも常識外れで、人間社会
に馴染めずに家族を失うことになる。
自分は強いと思い込んで誰にも助けを求めないから、こうして一
人で耐えて、魔法の類なら受けきれると油断して、結局は破滅して。
血塗れになった指先に私は魔力を込める。
防御魔法を修復する術式を追加して、追加して、追加して。
光が視界を支配する空間でそれを何度か繰り返して、私はやがて
カツンと硬質な何かが床に跳ね返る音を聞いた。
淀んだ空気を払い去るように魔素の気配が消え、やっと訪れた安
173
堵で倒れる寸前、大きな腕が私を支えてくれた。
ここにはいないはずなのに私はランスかと思って、見上げた先が
ザイレと同じ顔をしたレゼで、心配そうな表情をしてくれていなけ
れば、つい殴っていたところで、自嘲の笑みが漏れた。
﹁⋮⋮魔獣は?﹂
﹁深手を負って、防御魔法が緩んだ隙に窓から逃げて行った。後は
私達に任せて、休んでいなさい﹂
私の問いに答える声は、扉のほうから聞こえた。
人垣が割れて、その間を堂々と剣を鳴らして歩いてきたのは、久
しぶりに見る義父を筆頭としたオルトランド公爵家の騎士達だった。
﹁お義父様⋮⋮どうしてここに?﹂
﹁お前達の帰りが遅いから迎えに来たらこの事態だ。私達が聖都の
護衛に回ろう﹂
私はレゼの手を退けて、足に力を入れてしっかりと地に立ってか
ら、腰を落として貴族の礼をした。
まだ血を吐いてはいない。まだ戦えると義父に示すように。
義父は仕方ないなと息を吐いた後、私に二本の魔法薬を渡してか
ら、後ろの騎士達に合図して、確実にランスに知らされただろう逃
げたザイレを迎え撃つ予定の雪山の方向に走って行った。
騒然とする大聖堂内にエレノアの足音が響いた。
エレノアは足元に転がる紅い宝珠を拾い上げてから、ところどこ
ろ血に塗れた大聖堂内を見渡し、最後に気を失って倒れているヒロ
インを確認して、神官達に向かって顔を上げた。
174
﹁今日は女神の降臨祭です。どうかお静かに皆様。脅威は新しい聖
女様の活躍で大聖堂からは去りましたが、聖都はまだ危険に曝され
たままです。この大聖堂内で、暫くお過ごしください。私共が魔獣
を討伐してきます﹂
複数の騎士や魔法使い達から共闘の声が上がったが、エレノアは
ヴェールを脱ぎ捨てて、今までどの信者にも見せることのなかった
素顔に有無を言わせぬ頬笑みを乗せて言い切った。
﹁私共が必ず討伐してきます。皆様は此処で、お静かに﹂
覚悟を込めた聖女の再三の忠告に、異論を唱える者はいなかった。
エレノアは近くの神官を呼び寄せて、新しい聖女と自ら認めたヒ
ロインを部屋に運ぶように指示を出した。
私はそのやり取りを横目に、義父と公爵家の騎士達が走って行っ
・・
た方向を見詰めながら、魔法薬の瓶を握りしめた。
保険を用意しておいて、何が﹁大丈夫だ﹂とランスを殴ってやり
たい気分で。
175
彼はこうしてエピローグを迎えた
俺は雪や雨が嫌いではない。
水系統属性最高血統といわれるオルトランド公爵家の血は、水だ
けでなく、氷ですら己の力に出来るほど強い魔力を秘めているから。
いつもよりも冴えた魔力の感覚に、こうして深々と降り積もる雪
が本当に女神の祝福に思えてくる。
俺が戦いやすいフィールドで、獣の動きが鈍る寒さの中、相手に
するのは最強だが深い傷を負った魔獣。
手負いの獣は厄介だが、前回、魔素の種と戦ったときとは違って、
バックアップ体制は整っている。
俺が負ける要素など、何一つない。
そう自分に言い聞かせて、俺は近づいてくる禍々しさ全開の魔素
の気配を睨みつけた。
今はもういない父は昔教えてくれた。獣と対峙するとき、気持ち
で負けたら狩られるのはこちらだと。
狩人の父がいなくなってから形見代わりにペンダントにして身に
つけている胸元の宝珠を、リリアの無事を祈るように握りしめた。
同時にレゼから借りた魔界へのゲートを開ける鍵がぶら下がった
ネックレスが鳴る。
リリアがそれとなくザイレから引き出した情報では、ザイレは魔
獣形態のときは、魔界のゲートがすでに開いているか、鍵を身に付
けているかしないと魔界に帰れないらしい。
鍵を獲られないように、俺達が今は侵入できない魔界に逃げられ
ないようザイレを引きつけるのが俺の役目だ。
魔素の種を浄化された後、ザイレは自分の命の危機を察して、帰
巣本能のまま魔界に帰る為にこの鍵を狙ってくる。
176
何十年も魔力制御回路に取り込んでいた魔素の種を失くし、半ば
魔力制御回路が崩れた状態で人の姿に戻って空間魔術を使うことは
できないから、たとえ理性を失っていたとしても魔獣として知性が
あるザイレは、空間魔術が使えなくてもゲートを開けることができ
るこの鍵を奪いに来るとリリアは予測した。
ザイレが魔素の種を浄化された後に人の姿に戻れないと判断した
根拠を聞けば、ゲームの中で、ザイレが魔素の種を浄化されてから
魔獣形態のままこの世界に戻って来た際、エレノアがまず魔獣にザ
イレなのかと問いかけるシーンがあったからだと。
実際にエレノアに聞いたところ、ザイレが魔獣形態になれること
すら知らなかったと言っており、自分のもう一つの姿を知らない相
手に態々いつもと違う姿で会わなければならなかったのは、そうす
るしかない事情があったからだと考えるほうが自然で納得ができる
からだということだった。
リリアは本当によくこの世界のことを考えていると思う。
ゲームの世界では在り来たりな展開にこうして現実的な理屈や理
由を通すことは難しいし、そもそも理由や背景が必ず存在している
なんてことを考えもしなかった俺よりも遥かに先を考えて行動して
いる。
その考え方や冷静に物事を判断する姿勢に尊敬を抱いたのは、も
うこれで何度目か。
本人は全然自分の考えが足りないと不安を感じているようだが、
俺はいつでもリリアの思考回路には良い意味で驚かされてばかりな
のに。
⋮⋮でも、きっとリリアが自分の考えに自信が持てないのは、俺
のそういうところなのだろうなと思うことがある。
唯一、リリアと同じこの世界の未来の知識を持っている俺がいつ
までも頼りないから、リリアに確証も自信も持たせられずに不安に
177
ばかりさせて、こうして隠し事をさせて。
﹁夫が頼りないままじゃ、ダメだよな﹂
握った宝珠が伝えてくる冷たい熱に父との約束を思い出す。
リリアはちゃんと俺が幸せにする。俺が守る。
俺は今リリアを幸せにできているのだろうか。守れているのだろ
うか。
濃厚な魔素の気配を撒き散らしながら俺の前にやってきた魔獣形
態のザイレに問う。
﹁なぁ。お前のその怪我、リリアの防御魔法を無理やり破ってきた
からできた傷じゃないのか?﹂
ザイレは俺の攻撃が届く距離のちょうど手前で立ち止り、呻り声
を上げた。
俺が懸念していた通り、ザイレの身体にはぶつけたような痕が幾
つもあり、至るところから血が流れていた。
魔族であるザイレの場合、身体も血も魔力でできている。
魔力と似た成分である魔素も、ザイレの魔力と一緒に血となって
外に流れていた。
魔素の種が消えた後も、身体に取り込んでしまった魔素はすぐに
は消えないことは知っていた。
亡くなる前の、父さんの身体もそうだったから。
すぐに魔素が消えてくれるのであれば、父さんも何とかして救え
ていたのだから。
﹁昔、父さんの傷を治すときに段々とリリアの治癒魔法が効きづら
178
くなってきて、魔法の精度は一日一日で明らかに上がってきている
のにどうしてかと聞いたことがあったんだ。リリアは、身体の中に
入り込んだ魔素が魔法の浸透率を悪くさせていると言っていた。お
身体の中の魔素も魔力して放出させたほうが、この後、
前、魔族だから自分の中の魔素も魔王と同じように魔力として使え
るよな?
大昔の魔族戦のダメージが返ってきて倒れるお前に魔法を使う予定
のリリアやエレノアにとっては効率が良いはずなのに、どうしてリ
リアは俺に鍵を守って逃げるだけで良いと言ったんだと思う?﹂
ザイレは血としても魔力を大分消費しているようで、肩を上下さ
せて呻る姿はもはや獣そのものだった。
目は濁った紅色をしていて、到底、そこに知性や理性が残ってい
るとは思えない。
それでも俺は、ザイレに僅かでも思考が残っている可能性を信じ
て話を続けた。
﹁リリアは最初から、自分だけ血を流すほどの負担を抱えるつもり
防御魔法に適性があるリリ
でいたんだよ。お前、魔素の種が浄化された後も暫く防御魔法の中
に閉じ込められていたんじゃないか?
アの魔法を無理やり破るのは、さぞ大変だっただろうな。防御魔法
を攻撃に使うなんて、負荷が掛かりまくって自分が怪我をするのは
わかりきっているはずなのに、リリアは治癒魔法にも適性があるか
ら、そんなことは意地でもなかったことにして俺のところに来るん
だよ。お前に治癒魔法を使うときも、魔素なんて邪魔になっていな
い素振りで、目眩がするくらい全力で治癒魔法を使うんだ﹂
︱︱いや、本当はザイレに思考が残っていようが残っていまいが、
どうでも良い話だった。
ただ、吐き出したかっただけだ。俺の苛立ちを。
179
﹁もういいよな。リリアに俺が気付いていることを悟らせないよう、
ポーカーフェイスを気取るのも心苦しかったんだ。やっぱり夫婦っ
てのは、お互いに隠し事をしないほうが幸せだと俺は思う。俺もリ
リアに謝るから、エレノアにもお前に謝らせないと﹂
ザイレは頭側だけ低く姿勢を落として、いつでも俺に襲いかかれ
る体勢をとった。
俺はレゼから借りた鍵を見せびらかすように指先で一回転させて、
この日の為に仕立てた戦闘服の中に仕舞った。
生憎と俺は、最初からリリアと立てた作戦通りに大人しく逃げ回
ることだけに徹する気はない。
﹁今日、朝から何度お前の背中を先に抉ってやろうと思ったことか。
リリアの見解が間違いじゃなかったと、だからもっと自信持てって
言ってやりたい為に我慢していた俺に感謝しろよ﹂
朝から魔物狩りの手伝いをしてくれていた子供達には、俺がザイ
レを誘導するから儀式の間で待っているように伝えてある。
儀式の間の魔法陣の上でザイレを治療する予定になっていて、リ
リアが予めその場に防御魔法を張ってくれているので安全なのだ。
俺とザイレだけしかいないこのフィールド。それなら遠慮なく戦
える。
俺はザイレと同じように姿勢を低くして、剣の柄に手を掛けた。
鞘から刀身を抜き切るときに無機質な金属音が一つ大きく弾ける。
それが、戦闘開始の合図だった。
もの凄い脚力で跳びかかってきたザイレを剣で空に跳ね上げて、
下から水魔法で狙い撃つ。
最初から普通の剣でザイレを斬れるとは思っていない。
180
体勢を崩したところをすべて高位魔法でぶっ飛ばす。
魔術の使えないザイレは、魔力の塊をぶつけて俺の魔法を逆に吹
き飛ばそうしてくるが、環境的にも感情的にも絶好調な俺の魔法を、
たとえ魔界ランク二位だとしても手負いの獣が完全に止められる訳
がない。
リリアは、俺が余裕で逃げ切れるように自分を犠牲にしてまでザ
イレに深手を負わせて、俺に気取られないように平気な顔で魔素に
侵されたザイレを治癒させるつもりでいる。
それに何となく気付いたのは、リリアが計画を話した後、念の為
にと魔力補充用の魔法薬を大量に準備し始めたあたりだ。
ただザイレから逃げるだけの俺に魔法薬はそんなに必要ない。
そして、計画通りにリリアやエレノアが魔力を使うにしては、各
々の実力を考えたときに多すぎる魔法薬の量がおかしかった。
リリアは自分や他人の力量をちゃんと客観的に把握できる人間だ。
さらに俺の戦闘能力もある程度把握しているだろうに、鍵を持っ
てザイレから逃げ回る役目を俺に簡単に託したところでもう確信し
た。
これは、俺に黙って自分で何かを背負い込むつもりでいると。
俺はザイレから無傷で逃げ切れる自信なんて少しもなかった。
俺自身がそう思ってしまったなら、リリアは俺以上にそれをわか
っているだろうに、俺から言い出したとはいえ、ザイレから逃げ回
る役をリリアが承諾したのはこうして自分で何とかしようとしてい
たからだ。
ただ一言、俺にザイレと戦えと言えば喜んでザイレの中の魔素を
消費させる為に動くのにそれをしないのは、リリアが俺を自分の盾
にするようなことをしたくないからで。
この計画は、俺が大怪我を承知の上で戦ってまでザイレの身体か
181
ら魔素を引き出さなくても上手くいく。
リリアが表情にも出さずに頑張れば済むところは、俺を犠牲にし
なくて良いように彼女が立てた計画だから。
だが、俺の代わりにリリアが犠牲になる道を気付かなければ知ら
ないところで選ばれていたのなら、俺だって大人しくしている道理
はない。
無理をしてでも、ザイレの身体に留まった魔素を削らせる。
腕や足を噛まれようが、背中や顔を引っかかれようが、吐きそう
になるくらいの勢いで体当たりされようが、純粋な魔力をぶつけら
れて地面に身体を叩きつけられようが。
ザイレを此処で完全に討伐してしまったって、エレノアにザイレ
の魔力を溜めていた宝珠の回収を頼んである。
宝珠からザイレの魔力を引き出して再生することが可能だから、
手加減なんてしないし、そもそもできるとは思っていない。
雪に染まった山の一部が崩れ、孤児院が地下を残して粉々に吹っ
飛んで。
︱︱暫くして、魔獣は半身を失って雪の上で動かなくなり、ザイ
レの攻撃は止んだ。
﹁⋮⋮何をやっているのよ﹂
﹁途中から動きやすくなったと思ったら、やっぱりリリアだったの
か﹂
血を大分失って目眩がする頭で振り向けば、いつもよりも数段白
い顔をしたリリアと、俺のいないところで彼女が無茶をしたときに
182
止めてもらう為の保険として王都から呼んだ父親が立っていた。
ザイレとの戦闘を終えて、俺は結果的には無傷で、最後のほうは
ほとんど俺のターンだった気がする。
途中から翡翠色の光が傷を負ってもすぐに俺を癒していたし、攻
撃を受けて崩れた防御魔法は倍の強度で即座に修復されていたから、
視線で確認はできなかったけど存在に気付いてはいた。
﹁リリア・オルトランドは、元々、ランスロット・オルトランドを
サポートする為のキャラなのよ。一緒に戦えない訳がないじゃない﹂
﹁それなのに一緒に戦おうとしなかったのは誰だ?﹂
﹁⋮⋮勝手に一人で敵に突っ込んで行ったのは誰よ?﹂
﹁そもそも黙って一人だけ傷つく作戦を立てたのは誰だよ﹂
﹁それを気付いていながら、貴方も黙って戦う計画を立てていたで
しょう﹂
﹁俺、今回の件に関して気付いた二か月くらい前から怒っているん
だけど?﹂
﹁私は全然そんな素振りも見せずに大丈夫だと微笑んでいた今日の
朝の貴方の顔を殴ってやりたくて仕方ないのだけど?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮お前達、夫婦喧嘩は後にしろ。今は他にやることがあるだろ
183
う﹂
溜息を吐いた父親をつい八つ当たり的に睨みつけて逆に睨み返さ
れたが、俺は別に悪くないと思う。
だけど思わず視線を逸らした先にあった聖都の空は、もういつの
間にか雪は完全に止んでいて、明るい太陽が雲間から差し込み始め
ていた。
いつかのあの日の空のように、差し込む光が最愛の彼女の髪のよ
うに綺麗だと思いながら、俺はピクリとも動かなくなったザイレの
首をとりあえず思い切り掴んで盛大に引き摺って地下まで行くこと
に決めたが、それくらい許されて当然だろう。
考えてみれば、そもそもの始まりから、全部、こいつの所為だっ
た。
ザイレを治療する段階に入れば、俺ができることはない。
魔力を安定させる為の魔法陣の上にザイレを横たえて、剥き出し
になった魔力制御回路に魔道具“魔力源泉”を近づければ、気を失
っていてもザイレは本能からかそれを自分の中に取り込んだ。
魔素の種が埋まっていただろう個所に据えられたその魔道具は、
周囲の魔力を取り込んで数倍に増幅させる効果を持っている。
本来なら、魔素の種の所為で存在を失いかけている砂漠の国の水
精霊を助けるために使う魔道具だが、精霊と同じように全身が魔力
でできている魔族にももちろん有効だった。
魔力をほとんど失った高レベルの魔族や精霊の再生は、通常なら
何百年と時間が掛かるものだ。
しかし、時間魔術を扱えるエレノアがいて、魔力を増幅させる魔
道具があるのならば、その問題もこうしてなくなる。
184
エレノアがザイレの魔力制御回路に取り込まれた魔道具に魔術を
使って若返っては、ザイレの為に年齢を溜めておいてくれた子供達
を子供に戻すことで成長して、また魔道具に魔術を使って若返るの
を繰り返すことを数十回。
急な変化に身体が軋んで血を流すエレノアや子供達を治癒しなが
ら、器が割れていて空中に霧散してしまうザイレの魔力を、リリア
が治癒魔法でザイレの身体を回復させることで留めることも同じく
数十回。
ザイレは、エレノアが数十年間恐れて何度も怯えていたその時を
越えて目を覚ました。
リリアが言っていた、永遠に怯えるくらいなら此処で乗り越えさ
せてしまえば良いという算段通り。
レゼを含む子供達が全員幼児となり、エレノアは俺達と同じよう
な年齢にまでなっていた。
壁に背を預けて休んでいる俺の隣りにいた父親を、そろそろエレ
ノアに差し出して若返らせようかと考えていたくらいギリギリのタ
イミングだったが、成功してくれて本当に良かった。
ザイレに掠れた声で名前を呼ばれ、声もなく泣き出したエレノア
をザイレが普段は見せない顔でそっと抱き寄せた。
リリアがそれを見て安堵の表情を浮かべたのを見届けてから、空
気を読んで静かに儀式の間から俺と父親は退出した。
予想はしていたが、八割方壊れた孤児院からそっと外に出た俺達
の背を、予想外にも気配すら悟らせずに追ってきたのはリリアだっ
た。
185
﹁ねぇ。私達の話はまだ終わってないでしょう?﹂
﹁⋮⋮いや、なんかもう全面的に俺が悪いってことでいいから、そ
のハイスペックな父親譲りの気配遮断やめないか?﹂
﹁お父さんみたいに貴方相手に気配を消すなんて高度なことができ
たら苦労しないわ。レゼに飛ばしてもらったのよ﹂
リリアの初めて見る随分と据わった目が怖くて、素直に父親に助
けを求めてみたが、頼みの綱は簡単に俺を裏切った。
コートの内ポケットから見覚えのある封筒を取り出して、リリア
に手渡したのだ。
﹁これが愚息が私に寄こした手紙だ。私は魔物の討伐に向かった部
下の様子をみてくるから、後は二人で話し合いなさい﹂
﹁え、親父。俺を助けに来たんじゃないのか?﹂
﹁私がお前に手紙で頼まれたのは、無理をするだろうリリアの護衛
と、あの魔獣の血に含まれた魔素に引かれて山を下りてくるだろう
魔物を討伐することだ。痴話喧嘩の仲裁など頼まれていない﹂
ポンと俺の肩を叩いて無情にも去っていく父親の背を見送る。
リリアに目の前で俺が父親に宛てた、思い返せば惚気と自意識過
剰も入った手紙を熟読されるという羞恥プレーをされながら居た堪
れない気持ちになっていたら、手紙から顔を上げたリリアが俺をジ
ッと見詰めてきた。
﹁⋮⋮何か言いたいことがあるのならどうぞ﹂
186
﹁“リリアは俺を愛しすぎて何でも自分で解決しようとするから放
っておけない”﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁“リリアが傷つくくらいなら俺は聖都なんて滅びて構わないし、
教会なんて潰れれば良いと思う”﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁“でもリリアが気にするだろうから、聖都と教会を守るのを手伝
ってくれないか”﹂
彼女は顔色一つ変えずに手紙の内容を読み上げた。
俺は顔が凄まじく熱すぎて頭を抱えた。
﹁これ、私が貰っても良いかしら?﹂
﹁燃やしてくれるのなら﹂
﹁燃やさないわ。だって、貴方が初めて書いてくれたラブレターじ
ゃない﹂
断じてラブレターなんかじゃないが、ほんのりと嬉しそうに頬を
緩めたリリアの顔を見たら何も言えなくなってしまった。
トンッと、俺の胸に当たってきた小さな頭を抱き締める。
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
﹁⋮⋮俺のほうこそ悪かった﹂
187
お互いに何が、とは言わないが、背中に回された小さな手に何だ
かどうしようもなく安心したのは確かで。
隠し事というわだかまりがなくなったことで、久しぶりに思う存
分、細い身体を抱きしめたら、リリアが珍しくギュッと俺に抱きつ
いてきた。
﹁私は貴方が傷つくくらいなら、聖都だけじゃなく、王都や皇国が
なくなったって構わないの。世界樹が枯れたって、精霊がこの世界
からいなくなったって、魔王が滅びたって、女神がいなくなったっ
て⋮⋮たとえ魔法が使えなくなったとしても、貴方が傍にいてくれ
るなら私はそれだけで幸せなのよ﹂
﹁⋮⋮お前が我慢していることにも気付かないダメな俺でも?﹂
﹁我慢?﹂
﹁一年前、俺はお前の限界が近いことに気付かなかった﹂
顔を上げて首を傾げたリリアの頬に触れる。
寒さで冷えた頬は白い。
でも、一年前のあの時は、その高熱に反して今以上にリリアの顔
色は白かった。
︱︱リリアが魔素中毒で血を吐いて床に倒れたあの時。
魔素中毒を克服してリリアの髪色が金色に変化した後、急激に下
がっていくリリアの熱に、俺は安堵ではなく、恐怖を覚えた。
このまま目を覚まさず、冷たくなってしまうんじゃないかという
恐怖は、忘れようとしても忘れらない。
だから今回、まだ弱い俺よりも、リリアをちゃんと守ることがで
188
きる力を持っている父親に頼んで、リリアの護衛にあたってもらっ
たのだが。
﹁俺さ、実は父さんが死んだことよりも、リリアの異変に気付かな
かったことのほうが数十倍も後悔してるんだ﹂
﹁⋮⋮そんなこと後悔しないで。現に私、ちゃんとここで生きてい
るじゃない﹂
そういう結果論じゃなくて、と口を開きかけて俺は噤んだ。
リリアの顔が、とても赤かったから。
﹁⋮⋮もう俺、後悔したことをちゃんと乗り越えようとするのは止
める。それでリリアを守れないなら、俺の覚悟なんてただの自己満
足だって気付かされた。今回もリリアとなら救えるだなんて思い上
がって、怪我までさせて本当にゴメン﹂
﹁謝るのは私のほうよ。お父さんが亡くなってから、辛気臭い顔ば
かりして本当にごめんなさい。それに私、貴方と結婚するにあたっ
て、夫を支えるのが妻の役目だと、どうやら肩に力が入りすぎてい
たみたい﹂
リリアは苦笑した後、でも、と前置きして、ちょっと拗ねた顔で
俺に指を突き付けた。
﹁貴方が考えることは随分とお人好しすぎるから、支えるにしても
危険だということが今回のことでわかったわ。今度は支える支えな
い関係なく、キッパリ他の奴らなんてどうでも良いから私の手を放
さないでって、ちゃんと貴方を止めるから安心して。それで後悔し
ても、貴方さえ無事なら私はそれで良いわ﹂
189
そんなことを言ってくれる可愛い恋人の身体を苦しいと叩かれる
くらい抱き込んで、俺は空を見上げた。
ここ数カ月聖都を覆っていた雲も風に流されて、今、空はとても
清々しい青色になっていた。
レゼが毎日のように空間魔術の疑似空間の中で創っていた空と同
じ、眩しさにハレーションを起こしそうなほどの晴天だった。
瓦礫からかろうじて守られている地下の出口からは、子供達が嬉
しそうに父や母にじゃれている明るい声が聞こえている。
これから始まる学園生活という名のゲームの本編に懸念事項が一
つ見つかったことは不安だが︱︱偶然というよりはあまりにも必然
のような気がする、ザイレの空間魔術に俺達を迷い込ませ、出現が
ランダムなはずの魔道具の材料を三つストレートで俺達に揃えさせ
た存在の更なる介入が心配だが、今はとりあえず聖都が平和になっ
て、何よりである。
190
彼女の惚気と不信感
ふわりと舞う桜の花弁の中に佇むヒロインは、まるで桜の精のよ
うだと思ったことがある。
入学式のスチルの中で描かれた彼女は、桜と同じ色をした柔らか
い髪を風に流しながら、学園が絶景として世界に誇る桜並木の背景
ですら味方につけて、自分を美しく魅せていた。
すべてが彼女のために用意された舞台。それが此処、アイリステ
イル魔法学園だ。
入学式の会場の外では、ここ数年ろくに花をつけなかった桜が今
年は見事に咲き誇って、この日と彼女の訪れを歓迎しているかのよ
うだった。
季節は春。私達がとうとう魔法学園に入学する日がやってきた。
そう、ゲーム本編の開始である。
しかし、壇上ではゲームでは有り得なかったことにランスが新入
生代表挨拶を読み上げていた。
ゲームでは攻略対象者であるこの国の第二王子が読み上げていた
し、実際、その通りに今年は第二王子に新入生代表挨拶の依頼が行
ったという噂を耳にしたのだが、ランスが入学試験で過去最高成績
を叩き出したから話は変わってきたらしい。
第二王子のキャラは、一言でいうとチャラい。
十五歳で成人のこの世界で、十五歳を迎える前から娼館に通って
いたり、特定の相手をつくらずに多数の婦女子に手を出したりと、
女好きの遊び人として有名だ。
ゲームの中でも、授業はサボるし、テストは名前を書いて提出す
るだけだし、女人禁制の男子寮に余裕で女の子を連れ込むなど問題
191
児だった。
実はそう見せなければならない理由があるだけで、本気を出せば
優秀で真面目な人物なのだが。
馬鹿を演じて本気を出さない人物が、ゲームの中でこの国で将来
を有望視されている新入生が行うことになっている代表挨拶をよく
引き受けたなと思っていたら、どうにも王家のゴリ押しの結果だっ
たようで、嫌がって逃げ回る第二王子に頼み込まなくても、今年は
もう一人、身分も将来性も文句なく、何より試験成績が素晴らしい
ランスがいるからと役目が回ってきたということだった。
裏では、魔法学園の運営や教育に国代表として関わっているお義
父様が﹁うちの息子のほうが優秀で適任だ﹂と大役を掻っ攫ってき
たなんて噂もなきにしもあらずだが、素直じゃないお義父様のこと
は置いておいて。
文言が決まっている新入生代表挨拶をあまりにも情緒的に読み過
ぎた所為で、周囲から感嘆の溜息と待望の眼差しを一身に受けたラ
ンスが壇上からにこやかに下りてきた。
紺色のジャケットに同系色のチェック柄のズボン、若干緩く締め
られた臙脂色のネクタイがランスによく似合っている。
まだ学園の制服に着られている感が拭えない新入生達の中でも数
少ない、ランスは制服に着られていない側の人間だ。
カフスや白いシャツの襟に飾られた公爵家の紋章が、これがオル
トランド公爵家の自慢の跡取り息子だと言わんばかりに輝いて見え
た。
さらにオルトランド公爵家の血を間違いなく受け継いでいるとわ
かる銀髪がサラサラと揺れ、落ち着き払ったアメジスト色の瞳が、
芸術的なバランスでパーツが配置された端正な顔をより魅力的なも
のにしていた。
諸々の事情で社交界に出席したことはないが、容姿だけでもあま
りにも格好良すぎて、これはもう視線を集めて当然だろう。
192
だが、しかし。
コソコソと黄色い声を上げている未婚女性に加えて、静かに頬を
染めている未婚ではない淑女達にも彼の左手薬指を見ろと言ってや
りたい。
たとえこの世界に結婚指輪の概念はなくとも、彼の左手薬指には
エンゲージに加えてマリッジリングもはまっている。
私の左手薬指も同じものがはまっており、私の隣りに戻ってきた
彼の顔が、私に褒めてと言っている。
⋮⋮はっきり言おう。
これは、諸々の事情で蜜月を満足に堪能できなかった私による、
世間に対するこれ見よがしの惚気である。
﹁ランス、お疲れ様。さすが私の素敵な旦那様ね﹂
﹁もっと褒めてくれていいぞ﹂
私の腰を引き寄せて頭に口付けを落とす彼もまた、自分の容姿を
よく理解していると思う。
まだ後ろで聞こえていた黄色い声が、一気に悲鳴または落胆の声
に変わった。
未婚の女性達がランスに甘い希望を抱く前に絶望してくれて何よ
りだ。
ふと、彼がよく不機嫌なときに放つヒヤリとした空気を感じ、ち
らりと綺麗な彼の顔を見上げた。
ランスは大衆用に微笑みを保ちながらも、本人は頑張って抑えて
いるのだろう殺気を放ち、決定的に目が笑っていなかった。
雰囲気が変わった原因を探れば、ランスが見詰める先には教師紹
193
介で壇に上がったザイレがいた。
どうやらランスも、蜜月を十分に過ごせなかったことに対する不
満があるらしい。
︱︱あれから三ヶ月。
ザイレに宿った魔素の種を強制的に浄化させ、王都に戻ってきた
あの日から三ヶ月経った。
聖都にいる間に結婚関係の書類の一部に期限切れが発生している
ものがあって、また取り寄せたり、再提出したりしていたら、蜜月
なんて一週間も残らなかった。
学園は王都にあるくせに特例を除いて全寮制で、三年間も男子寮
と女子寮に隔てられて別々の部屋で暮らさなくてはならないのに、
公爵家ではちゃんと書類が受理されるまではダメだとランスと一緒
に夜を過ごすことを許してくれなかった。
しかも、なかなか書類が整わず、二人で先に新婚旅行を企ててい
たら、レゼが大聖堂で聖女としての指導を受けているヒロインに執
拗に追いかけ回されたと泣きながら公爵家に避難してくるし。
その数日後にはエレノアが、レゼの姿が見えなくなったらあっさ
りとヒロインがザイレのほうに粘着対象を変え、ザイレもザイレで
普通に接しているから一度してみたかった夫婦喧嘩をするなら今だ
と思って、という訳のわからない理由で家出してくるし。
エレノアを迎えに来たけど人間の感情をいまいち理解していない
所為で当の本人に追い返されて落ち込むザイレを見兼ねて、嫉妬と
いう感情を教えた結果、“喧嘩するほど仲が良い”を目の前で実践
され、お前ら余所でやれと叫んだランスと私の苦労は報われても良
いはずなのに、レゼも私達と一緒に学園に通いたいと駄々を捏ね始
めるし、エレノアまで昔から学生生活が送ってみたかったと言い出
すし、ザイレはちゃっかり自分も学園に教師として潜り込むとかそ
ういうところだけは対応が早いし、いざ新婚生活だという段階にな
っても入学式は待ってくれないし。
194
イレギュラーばかりのこれまでの苦労を思って遠い目をしていた
ら、私を挟んでランスとは反対側に並んでいたエレノアとレゼに心
配された。
学園の入学許可年齢を満たすため、十五歳の姿になった美少年美
少女なこの二人に純粋に心配されたら文句も言えなくなる。
とりあえず二人には大丈夫だと言っておいて、今も絶賛続行中の
ランスとザイレの睨み合いに私も全力で参加しておいた。
恋人とのささやかな時間が経つのは早いものである。
入学式が終了し、新入生達はいくつかの班に分けられて寮に案内
されることになった。
一時の別れを惜しむ間もなく、ランスは入学式に来賓として呼ば
れていたお義父様に早々に連行されていった。
寮の部屋のことで話があるとのことだが、ゲーム通りならランス
と同室になる予定の第二王子の素行について面倒をみろとでも言わ
れているのだろうか。
﹁リリア姉?﹂
﹁あ、ごめんなさい。荷物を運んでくれてありがとう、レゼ﹂
﹁ううん。それじゃ、オレ達は家に行くね﹂
﹁ええ。また明日ね﹂
寮に入らなくても良い特例条件を満たしているレゼとエレノアが
195
手を振って、目の前から空間魔術で消えた。
家族が学園教師の場合、学園敷地内に教師用の家が一軒与えられ
るので、入寮が免除されるのだ。
これを知っていてザイレが教師枠で学園に入ったなら随分な策士
だと思っていたが、聞いてみたら本当の策士はお義父様のほうだっ
た。
一般的なことには常識外れでそんな風には見えないが、ザイレは
神官長としては各国に高評価されている。
空間魔術で全国何処でも指先一つ鳴らせば移動できるし、そこら
辺の魔物や盗賊など歯牙にも掛けない強さなので、重宝されていた
というべきか。
教会に本物の女神の力を持った新しい聖女が来たことで、稀な魔
術特性を持っていてなかなか聖女を辞められなかったエレノアがも
う働かなくてもよくなったこのタイミングだ。
エレノアと一緒にザイレも教会を辞めようと考えていたところを、
他国に獲られる前にお義父様が魔法学園の教師として王国に引き抜
いた、と。
ザイレは私達を拉致監禁したり、息子や妻が公爵家で世話になっ
たりと、お義父様にはなかなか頭が上がらない様子だ。
﹁お前達親子はよく似ている﹂と、私とお義父様を見てザイレは
溜息を吐いていた。
何故、そこでランスじゃなくて私を見るのか。
お義父様は満更でもなさそうな表情をしていたが、私はさっぱり
意味がわからなかった。
意味がわからないといえば、女子寮に到着してから渡されたこの
鍵もそうだ。
私に渡された寮の部屋の鍵には、ゲームの中のリリアとは違って、
最上階のある一室のナンバーが刻まれていた。
196
寮は基本的に二人で一部屋で、学園内では貴族だろうと平民だろ
うと身分は関係なく皆平等とされているが、貴族の家同士の摩擦は
懸念されていて、お義父様が寮の部屋割りやクラス分けに少なから
ず関与しているから、悪いことにはならないだろうと高を括ってい
たのだけれど。
部屋に辿り着いた私がノックすると、やはり生来の美しい金髪を
綺麗に結い上げた青い瞳の貴族令嬢が、自ら扉を開けて出迎えてく
れた。
荷物を床に置き、貴族の決まりに従って、私は制服の裾を摘まみ
上げてゆっくりと腰を落とした。
﹁お初にお目に掛かります、レイスリーネ・フォルスクライン様。
この度、同室させていただくことになりました、リリア・オルトラ
ンドと申します﹂
﹁顔を上げてくださいまし。この学園内では身分は関係ありません
わ。同じ年齢ということですし、今日からよろしくお願いしますね。
リリアさん﹂
この国の第一王子︱︱いや、今は第二王子の婚約者となったフォ
ルスクライン侯爵令嬢が私に笑いかけてきた。
差し出された手には笑顔で応じながら、胸中では複雑な思いが駆
け巡る。
この侯爵令嬢は、ヒロイン次第では魔素の種に貫かれて死んでし
まうかもしれないのに。
私達がゲーム通りに魔法学園に入学したのは、王都を本拠地とす
る高位貴族である以上、この学園を好成績で卒業しなければ、他の
貴族達に侮られるからだ。
197
私達の目的は学歴であって、もう私達が他の攻略対象者達に介入
することで容易く誰かを救えるとは思っていない。
それなのに、あえてこの部屋割りにした理由は︱︱。
同じ部屋では、死ぬかもしれない人間だからと避け続ける訳には
いかず、何らかの感情を特別に抱かないことは無理だ。
私に同じ空間で過ごした人間をまた永遠に失う悲しみを味わえと
いうのか、それとも失くさないために尽力しろというのか。
そう考えてしまうのは、私のただの自意識過剰な被害妄想からく
る杞憂ならば良いのだが。
ザイレの件でランダム要素に介入してきた誰かがこの部屋割りに
関わっているという線もなくはないが、そうだとしても私達の事情
を知るお義父様が調整役でいるから止めてくれると思っていたのに、
こうなっているということは、杞憂じゃなければ、お義父様自身が
私にそれを求めているということで。
父や母を亡くしたときの、傍にいた誰かを失う悲しみをもう一度?
部屋に帰っても、見慣れた人影が見つからない寂しさをもう一度?
︱︱何となく理解した。
ザイレが言いたかったのは、私とお義父様のこういうところだろ
う。
自分の思い通りに事が運ぶよう、相手の感情を誘導するところ。
ヒロインの恐怖心を余計に煽って運命以上の浄化魔法を引き出そ
うとしたりした付けが、このようなところで回ってくるとは思わな
かった。
ちょっと自分でも、さすがにこれは嫌気が差した。
198
彼と父親と反抗期
﹁お前達に足りないものは人脈だ﹂
男子寮へと向かう途中から人目を避けるように道を逸れ、その言
葉と共に俺が親父から渡されたのは、ゲームの中のランスロットと
は違う寮の部屋の鍵だった。
同室予定だったこの国の第二王子ではなく、砂漠の国の第一皇子
︱︱アルヴァン・グランドベルグと同じ部屋の鍵。
﹁⋮⋮グランドベルグは、ヒロイン次第では滅ぶ国だぞ?﹂
この展開にいまいち要領を得ず、俺は親父に質問を投げかけた。
砂漠の国グランドベルグは、国の八割が砂漠で構成された島国で
あり小国でありながら、地下の鉱石資源が豊富で、武器や防具の製
作においては、他国の追随を許さないほどの技術力を誇ることで有
名な国だ。
また、砂漠に囲まれていながら首都は水の都とまで呼ばれるくら
いの水資源に溢れているため、熱帯で育った味の濃い果物を使った
酒造でも有名である。
グランドベルグ産の武器や酒の名声は高く、海を隔てて一番近い
この王国だけではなく、他国にとっても重要な貿易相手国であるが、
それは現在の話であって、未来もそうであるとは限らないことを親
父には伝えていたのだが。
砂漠の国からの留学生であるアルヴァン・グランドベルグは、攻
略対象者だ。
故に彼が命よりも大切にしているその国は、魔素の種に被害を受
199
けて、今も少しずつ滅亡に向かっている。
言い淀んでいるのか何か考えているのか読めない親父は、ただ俺
を見返してきた。
正直言って、俺は親父のこういうところが苦手だ。俺を試してい
るようで。
﹁親父。俺がリリアのように親父の考えを察して動けると思うなよ。
やってほしいことがあるなら口で言え、口で。どうしてこの国の現
在の王位継承最有力候補ではなく、滅ぶかもしれない国の死ぬかも
しれない皇子と仲良くしろと?﹂
俺が再度真意を問えば、親父にしては珍しいことに一拍置いてか
ら、意外すぎる答えを返してきた。
﹁⋮⋮お前達が懸念している最悪の展開についてだが。私は、彼ら
のことはなるようにしかならないと思っている。死んでしまうなら
死んでしまうで、その失われてしまうはずだった人脈やコネをお前
達が引き継げば良いと考えている﹂
思わず俺は目を見開いて、親父の顔を凝視してしまった。
だが、そこにあったのは相変わらずの無表情。俺には何も察せら
れない。
国の為に生きているような貴族然とした親父が。ヒロイン次第で
は死んでしまうかもしれない人物達とも、その親達とも交流のある
親父が、まだ数ある未来や可能性を切り捨てて、失われてしまうも
のをあわよくば横取りしろと言うのか。
これが貴族の考え方なのかと俺は奥歯を強く噛んだ。
親父の考えていることは確かに合理的だが、あまりにも俺達が目
200
指す平和からは掛け離れていて、これが別の次元で人の上に生きて
いる人間なのだと思い知らされる。
﹁リリアはフォルスクライン侯爵令嬢と同室にしてある。同室の相
手が各国の貴族達にも顔が広い彼女やアルヴァン皇子ならば、お前
達も貴族として学ぶことが多いだろう。だが、リリアは失うことに
怯えて、他人との一定以上の接触を避けている節がある。特に魔素
の種に関係する国の重要人物や、自分で自分を守ることができない
弱い人間にはそれが顕著だ。今回の件、あの子は私の意図に気付い
てもしばらくは動かない可能性がある。お前が支えてやれ﹂
それを聞いてようやく俺の頭に浮かんできたのは、苛立ちにも似
た反論だった。
﹁リリアは父親を失ってまだ一年しか経っていないんだ。死ぬ危険
性のある人物を避けて何が悪い。人脈は俺がつくるから、リリアは
家にいるだけで良い﹂
﹁そうやってまたお前はあの子を家に閉じ込めるのか﹂
親父の咎めるような視線が俺を射抜く。
一瞬、息が詰まった。考えなかった訳ではない。
まだ父さんが生きていたあの頃、リリアを外に出さない選択肢が
本当に最善だったのかと。
雪山でリリアに一緒に戦えると言われて、そういう選択肢だって
選べたのではないかと考えてしまう頭を無理な言い訳をして横に振
ってきたのは俺自身だ。
だが、俺だって引き下がる訳にはいかない。
あのいつ誰を失うかわからない状況で、唯一、俺達を守ってくれ
201
ていたのは父さんだ。
盾になってくれていた父親を失ったリリアを守れるのは、もう俺
しかいない。
﹁リリアは貴族として利害関係を考えるだけの人付き合いなんて望
んでいない﹂
﹁望んでいなくとも、次期公爵夫人としてやってもらわなくては困
る。社交界は女にとっては情報共有の場であり、戦いの場でもある。
お前は彼女を一人で戦場に立たせる気か。公爵夫人でありながら弱
まだ時間はある
い立場である下位貴族の令嬢達を守らせず、むしろ弱い者達をすべ
て彼女の敵に回すつもりか﹂
﹁それは今そこまで可能性を考えるべきことか?
だろう。魔素の種の所為で誰が死ぬかわからない以上、リリアに人
付き合いに関して積極性を強いるのは酷だ﹂
﹁酷だろうが非情だろうが、お前達は本来なら社交界で名が売れて
いて当然の年齢だ。彼女は頭の回転が速い。名高い貴族の子息達を
圧倒的に抜いているので公けにはしていないが、最近まで平民であ
り、そして女の身でありながら、入学試験ではすでにお前に次ぐ成
績を残している。その知識量と応用力があれば、将来の社交界を仕
切ることも可能だろう﹂
﹁間を置かせてやれって言ってんだよ。リリアなら言われなくても、
ちゃんと公爵夫人の立場がどういうものか理解してる﹂
﹁理解していても、いつまでも自分に甘えて効率的な時期を逃して
しまっては意味がない。学園はそういうことに関しては最適の場だ。
彼女は機転が利き、何よりもお前のことを第一に考えて守ってくれ
202
る存在だ。これからオルトランド公爵家を背負うお前にとって、彼
女の味方も多いほうが良いだろう。お前達は、今後は一緒に戦うの
ではなかったのか?﹂
﹁⋮⋮盗み聞きかよ﹂
﹁お前達は貴族だ。私の後継者で、将来的には国を背負って表に立
ってもらわなければならない。それを忘れるな﹂
もうこれで話は終わったとでも言いたいように親父は背を向けて
歩き出した。
その大きくて遠くなった背を、俺は睨みつけた。
﹁打算でつくった人脈が、本当に俺達の助けになると思うなよ。本
気で崖っぷちに立ったとき、そういう奴は簡単に俺達を裏切るんだ﹂
聞こえていたのかいないのか、親父は僅かに肩をすくめただけで
振り返ることはなかった。
寄り道をしていた所為で、他の生徒よりも少し遅れて寮に到着し
た俺を部屋で待っていたのは、アルヴァン・グランドベルグの爽や
かな笑顔だった。
火系統属性の高位魔力保持者である証のオレンジ寄りのガーネッ
ト色の髪と瞳が、扉をノックする前ににこやかに俺を出迎えた。気
配を読まれたのか。
アルヴァンの背は、ゲームの設定よりも発育が良い俺がそれでも
見上げるほど高かった。
203
魔法よりも剣で戦うのが好きなアルヴァンらしく、この国よりも
魔物が多く、治安が悪い砂漠の地で戦闘用に鍛えられた筋肉量は俺
より上だろう。
魔力量は俺のほうが上だが、対人戦の経験で劣る俺が純粋な体術
勝負では勝てるか、勝てないか。
そんなことを何故か咄嗟に考えてしまった俺は心の中で自分を叱
責しながら、貴族の礼をとった。
相手は未来に滅びが待っていようと、今は一国の皇子だ。俺より
も身分は上。
﹁初めまして。ランスロット・オルトランドと申します。ご挨拶が
遅れて申し訳ありません﹂
﹁こちらこそ初めまして。同室になるアルヴァン・グランドベルグ
だ。肩苦しい挨拶は抜きにしよう。その言葉遣いも不要だ。さあ、
どうぞ。君がなかなか来ないから、ベッドをどちらにするか決めら
れなくて荷物整理ができなかった﹂
あからさまな好意を含んだ苦笑の表情に何処か薄ら寒さを感じな
がら、俺は扉を抑えてくれているアルヴァンの脇を通り抜けた。
そのときふと感じた甘い匂いは、今王都でも流行っているグラン
ドベルグ産の香の匂いか。
﹁ベッドなんてどっちでも良かったのに律儀だな。俺は遠慮なく右
側のベッドをとるぞ?﹂
部屋の構造を見渡してゲームと相違ないことを確認して振り返る
と、アルヴァンは扉を閉めた体勢のまま、驚いたような顔をしてい
た。
204
﹁どうした?﹂
﹁いや、敬語が不要だと言った瞬間にこうくるとは。君達親子はそ
っくりだな﹂
﹁あの親父と一緒にしないでくれ。俺は今日から反抗期だ。何だか
いろいろとムカついてきたから、もうイラつきのまま親父と真っ向
反抗期?﹂
から対立することにした﹂
﹁⋮⋮親父?
俺の発言を疑わしげに単語だけ反復するアルヴァンに苦笑を返す。
きっと貴族らしくないだの、あの無表情冷血公爵にそんな口を叩
くなんてだのと思っているのだろう。
﹁なんか変な機械みたいになってるぞ、アルヴァン。遅く来た俺が
言うのもなんだけど、さっさと荷物整理して⋮⋮食堂だったか?
新入生歓迎会に行こう﹂
アルヴァンはさらに目を瞬いた後、一頻り笑い声を上げてから、
手を差し出してきた。
﹁面白い男だな、君は。改めてこれからよろしく頼むよ。ランスロ
ット﹂
﹁ああ、よろしく﹂
差し出された手に作られた肉刺が潰れた痕と、握ったときのアル
ヴァンの掌の力強さは、どうしてか危機感を覚えるほど凄く印象的
205
で。
俺はこの夜、ある程度決めていた授業構成を見直すことを決めた。
学年ごとに設定された基礎科目以外は、自分の進路によって自由
に授業を選べるのがこの魔法学園の良いところだ。
戦闘系を主体で、ギリギリまで実技の授業を詰め込んで︱︱もっ
と強く。
この世界は、きっとこれからも俺達に優しくはない。
せめてそっと握りしめた片手分の守りたいものだけでも守れるよ
うに。
見上げた王都の空は、まだ辛うじて青かった。
206
彼女が恐れること
ちょうど前世では昼食頃にあたるこの時間。
一日二食が常識のこの世界で、アフターヌーンティにしてはまだ
早いこの時間帯は、カフェの中はとても静かだ。
このような時間にカフェに来る生徒はほとんどおらず、貴族は様
式美というやつなのかアフターヌーンティにちょうど良い時間帯と
いうものに拘るから、暗黙の了解で貴族専用と化している学園内の
カフェの二階席は、私達二人以外に誰もいなかった。
ランスがせっせと私が寮で作ってきたポトフやサンドイッチなど
を口に運ぶ様子を見ながら、紅茶を一口。
この時間は学園内のカフェも寮の食堂もお茶会的なメニューばか
りなので、本格的に食事をしたいならば自分で作るしかなく、確認
してみたらあっさりカフェへの飲食物の持ち込みが許可されたとは
いえ、こんな時間に堂々とひたすら食べる生徒も、学園内で態々自
分で料理する生徒も稀で。
最初はカフェのスタッフに何事かと遠巻きに見られることもあっ
たが、最近は慣れたのか、どうにもランスが大食漢で私が苦労性の
妻ということで生温かく片付けられている様子だ。
そっとしておいてくれるのは有り難いが、一日三食がこちらの世
界でも習慣になっている私達にその視線は若干居た堪れない。
⋮⋮いや、ランスが居た堪れそうにしていたのは最初だけで、今
は完全にマイウェイだけど。
﹁そんなに急いで食べなくても、まだ次の授業まで時間はあるでし
ょう?﹂
﹁時間うんぬんじゃなくて、空腹に耐えきれなくて。今日は朝から
207
実技ばっかだからさ﹂
﹁戦闘系の授業ばかりとるからよ﹂
﹁本当にリリアには感謝してるって。成長期を舐めてたわ﹂
合間で喋りながらも食事の手を緩める気配がないランスに紅茶を
注ぎ直してあげると、空いた片手をひょいと挙げただけの礼が返っ
てきた。
授業選択の用紙を基礎科目以外はほぼ戦闘系の授業でびっしり埋
めようとしたランスを見兼ね、昼あたりの授業一コマ分に問答無用
で私が横線を引かなければ、今頃空腹で倒れていたのではないだろ
うかこの旦那様は。
この世界は前世と同じく一週間は七日だが、学生は週末二日間は
完全に休みになっている。
一ヶ月は四週間で、一年は十二カ月。
学園の授業は前期と後期ともに四カ月間で構成されており、間に
夏休みと冬休み兼春休みが二カ月ずつ挟まれている。
後期はクリスマスにあたる女神の降臨祭の前日から新年明け数日
まで特別休暇があるが、前期は夏休みまでノンストップだ。
だから、普通の生徒は前期にはあまり授業を詰め込まない。
特に一年目の前期なんてまずは仲間作りに奔走するもので、まと
もに授業を受ける人はほとんどいないのに、ランスは授業をギリギ
リまで詰め込んだあげく、反抗期だとかで人脈を広げるのを極力避
けている。
まあ、何だかんだでお人好しのランスが他人を避けようとして避
けられるのも、他の人間が他の多数に集中しているこの時期だけだ
と私は思っているが。
208
﹁リリアは?
午後は貴族のお姉様方とお茶会か?﹂
ふとランスが食事の手を止めて私に聞いてきた。
どこか心配そうな顔は私が人付き合いが苦手なことを理解してく
れているからだと思うと、少し安心して笑みが零れた。
﹁今日は断ったわ。誘われたら三回に一回程度は行くようにしてい
る感じかしら。レイスリーネ様が気にかけて誘ってくださるけど、
私は流行やらどの男の人が格好良いだのって話にはあまり興味がな
いし、居ても気を遣わせているような気がするし﹂
それに何と言うか話していることが若いのよね、と付け足せば、
ランスも同意を返してきた。
この時期の男の子には男の子なりのいろいろがあるらしい。
﹁また娼館にでも誘われたの?﹂
﹁毎晩のように誘われるんだよ。可愛い奥さんがいるから行かない
って何度も断っているのに⋮⋮アイツら若いよな。特にアルヴァン
なんて頻繁に俺に声をかけてくるし、毎晩そんな奴らと寮を抜け出
してるし﹂
﹁あのアルヴァンが?﹂
﹁そう。ゲームの中では戦闘馬鹿で硬派だったあのアルヴァンが。
何だか娼館に知り合いの女がいて融通が利くんだって。ゲームと現
実のギャップが激しくて、俺はアイツとは一向に仲良くなれそうに
ない﹂
本気で嫌そうにしているランスが溜息を吐いた。
209
ゲームではアルヴァン・グランドベルグにそのような行動はなか
った。
連日の娼館通いなんてこの国の第二王子ならともかく、アルヴァ
ンは女には一切媚を売らない硬派キャラで、娼婦なんて視界にも入
れなさそうな人物だったのに⋮⋮。
﹁⋮⋮まさか転生者?﹂
声を潜めて聞いた私にランスは首を横に振った。
﹁その素振りはないな。大体、アルヴァンが転生者だったら、きっ
とグランドベルグは今も普通に貿易しているだろう?﹂
﹁そうでしょうけど⋮⋮﹂
ランスの言う通り、グランドベルグの魔素の種は転生者なら一番
対処がしやすいタイプだった。
公けにはされていないが、グランドベルグはある特殊な魔道具に
閉じ込めた水精霊の力で保っている国である。
砂漠にありながら首都が水の都と言われているのもその水精霊の
おかげだが、今はその精霊を閉じ込めている魔道具が魔素の種に侵
され、本来なら魔族と同じように周囲の空気から魔力を集めて自分
のものにしていた水精霊は、逆に力を吸われ、身体を魔素に浸され
て瀕死の状態になっている。
アルヴァンが転生者ならば、水精霊が魔素に完全に侵される前に
魔道具を壊して、解放してしまえばいい話だったのだ。
魔道具に閉じ込められて身動きがとれない状態でさえなければ、
精霊は存在自体が高位魔力保持状態だから、おとなしく魔力を吸わ
れることも魔素に侵されることもなかった。
代わりに魔素の種が何を浸食したかは想像できないが、少なくと
210
も水精霊が生み出す魔力が籠もった水さえ確保できれば、グランド
ベルグは現在の産業を維持できたから、今のように輸出制限をかけ
なくても良かったはずだ。
今、恐らくグランドベルグは、この世界で最もヒロイン次第で命
運が分かれる国と言っても過言ではないくらいの状態になっている。
グランドベルグの近年の輸出入状況を見ると、他国に悟らせない
よう必死で実情を隠しているからどれほどかはわからないが、ゲー
ム通りの水不足状態になっているようだった。
グランドベルグの王が代替わりしたあたり︱︱アルヴァンの姉が
王位を継いだ後くらいからは、それが顕著にわかる。
若くして王位を継いだ艶めかしい美貌の女王様は、今や我儘放題
の高飛車な愚王と名高く、他国から需要があることに調子に乗って、
物の値段を釣り上げて輸出量を減らしている。
実情を知っている私達から見れば、輸出量を減らしているのでは
なく、まるで減らさなければ追いつかないことを勘付かせないよう
にする動きだ。
グランドベルグ産の酒の味が落ちたという話や、武器や防具の強
度が落ちたという噂も、ゲーム通り、この国でもよく囁かれていた。
魔力の籠もった水が手に入らず、間者を秘密裏に各国に送り込ん
で普通の水を運び込んで生産している職人が出てきている所為だ。
有数のリゾート地である首都への観光客の受け入れを数年前から
ストップしている本当の理由が、たしかに魔素の種が近い所為で海
にいる魔物が活性化した為もあるが、水精霊が力を失いかけている
せいで、水が不足している現状を外の人間に見せないようにする為
でもあるならば、グランドベルグはもう運命通りの手段では救えな
いところまで来ていると考えて良い。
グランドベルグを唯一救えるヒロインが、もう現状ではキーアイ
テムが手に入らないアルヴァンのトゥルーエンドを諦めて、早々に
211
グッドエンドを選択してアルヴァンと結ばれてくれれば、あるいは
瀕死の状態からでも水精霊は持ち直すことはできるのかもしれない
が、ギリギリまで落ちた国力の回復には相当な年月が必要だろう。
身体に入り込んでしまった魔素は種を浄化したからといってすぐ
に消えるものではないから、アルヴァンがハッピーエンドやグッド
エンドでは自ら手に入れていた魔道具“魔力源泉”が使えなくなっ
た今、最悪、水精霊の自然回復が間に合わない場合は、たとえ今エ
ンディングを迎えても、国が完全に崩壊するのが数年後から十数年
後になったくらいの差しかないのかもしれない。
グランドベルグは、かつては精霊王とまで呼ばれていた精霊を独
占したことで、他の精霊達からは忌避され、大地を守るといわれる
精霊の加護のない場所だ。
たった一人の精霊に国の産業まで依存し、建国から短期間で大国
と取引できるまでに利益を上げ続けた島国にはもう、女神の力を得
たことで精霊に愛される体質を持ったヒロインを手に入れて、再び
見放された大地に精霊を呼び戻す以外には、崩壊する未来しか残さ
れていないことになる。
ヒロインが水精霊の魔素まで浄化できるのなら話は別だが、浄化
魔法は扱いが難しく、ゲームの中でヒロインは魔素の種以外に浄化
魔法を発動できたことはなかった。
訓練次第ではできないこともなさそうだが、今のヒロインを見て
いる限り、私はそれも非常に難しいように思う。
﹁⋮⋮イベントか?﹂
ランスがいち早く階下から聞こえてきた声に反応し、階段辺りを
警戒し始めた。
ちょうど私達がいるカフェの扉が開く音とともに聞こえ始めたの
212
は、ヒロインが誰かに話しかける声だった。
普段よりも高めの声に浮かぶ色は、例えるなら満開の桜のような
ピンク色。
本気で周囲に花でも撒き散らしていそうなハイテンションの、と
ても甘い声だ。
ランスは学園に入学してから、攻略対象者達をあっちにこっちに
と追いかけているヒロインとの接触をひたすら避けている。
私もランスとヒロインのイベントを起こさせる気はないので、も
ちろん全面協力して接触をさせないようにしていた。
いつでも逃げられるよう近くの窓が開いていることを再確認した
上で、さらに声を潜めて耳を澄ませる。
相手の声は聞き取りづらいが、ヒロインの受け答えから察するに
第二王子とのイベントだ。
﹁この会話の流れは﹃陽だまりの王子様﹄かしら?﹂
﹁だろうな。テラス席に行くみたいだ﹂
﹁それなら私達が此処にいても問題ないわね﹂
﹁⋮⋮で、お前は何をメモしてるんだ?﹂
﹁ヒロインのイベント消化状況﹂
制服の内ポケットからそろそろ手に馴染んできた手帳を取り出し
て書き込んでいたら、ランスがひょいと私の手元を覗き込んできた。
﹁うわ、なんだこの第二王子のイベントの消化率。まだ入学式から
213
二週間しか経ってないのに、春に起こせる日常系イベントほとんど
終わってるし﹂
﹁第二王子だけじゃないわ。アルヴァンのほうもこんなものよ。あ
の子、ゲームじゃないから一日の行動制限がないことを良いことに、
暇な時間に尽くイベントを起こしているの。一年目の前期は、第二
王子とアルヴァンをメインに攻略するつもりのようね﹂
書き込みが終わった手帳を見せると、ランスは長くて綺麗な指先
でパラパラと数ページ捲り、私に微妙な視線を返してきた。
﹁この情報量⋮⋮まさかお前、空き時間にヒロインのストーカーで
もしているのか?﹂
否定はできないけど思いっきりその表現は不本意だと顔に出した
ら、ランスに頭を小突かれた。
﹁何するのよ。貴方とヒロインの接触を徹底回避する為に手伝うっ
て言ってあったでしょう?﹂
﹁危険なことはしないって約束だろう。あのヒロインはともかく、
第二王子とアルヴァンならお前の気配に気付いていない訳がないだ
ろう?﹂
﹁基本的には次のイベントを予測して先回りしているんだから大丈
夫よ。元々その場所にいたのは私で、あの子達は後から来て勝手に
イチャイチャしていくの。私のほうが意図的じゃなかったら、非常
に迷惑な話よね﹂
﹁お前なぁ⋮⋮あーもう。とりあえず、もっとこっちに来い。そこ
214
だと第二王子の視界に入りかねない﹂
ランスは頭を抱えた後、私を子供のように抱き上げて自分の膝の
上に乗せた。
私を抱き締めながら此処からは見えないテラス席を睨みつける横
顔は、見惚れるくらい真剣そのものだ。
ふわりと入ってきた窓からの風に、銀色の髪が私の頬を掠めて揺
れる。
この距離が私にとってどれだけ大切なものなのかを、きっとラン
スは私ほど重要に思っていない。
﹁俺とヒロインとのイベントは、まず中庭で物理的に俺がヒロイン
に接触しなければ始まらないんだから、お前はそこまで警戒しなく
て大丈夫だって。俺は中庭には絶対に近づかないし、ヒロインに偶
然会っても全力で逃げる。せっかくの学園生活なんだから、お前も
やりたいことをちゃんとやれよ?﹂
拗ねたような表情で私を見詰める沈んだ眼差しは、私が前期の授
業を基礎科目以外とっていないことに責任を感じてのことなのだろ
う。
私が前期に必要最低限しか授業をとらなかった理由は、ランスの
為ではなく、私自身の為なのに。
不機嫌に結んだランスの唇に、手近にあったクッキーを押し付け
る。
さして抵抗もなくランスはパクリとそれを口に含んで咀嚼した。
ムッとしながらもほんの僅か彼の表情が緩んだのが、クッキーに
練り込んだランスの好きなプリムラアイリスという花のジャムの所
為だと私しか知らないことに優越感を覚える。
215
﹁⋮⋮貴方を失うかもしれない要素が一つでもあるなら、今のうち
に検証して潰しておきたいのよ。ヒロインと同じ空間にいることで
貴方の精神面に何かが作用する危険性も否定できないじゃない。そ
れが私のやりたいことなんだから、気にしないで﹂
﹁気にしなくても心配す、んぐ﹂
再び開いたランスの口にもう一つクッキーを放り込んで、窓の外
から聞こえてくる会話に耳を澄ます。
相手に何の脈絡もない話題を振り、予定調和の質問を引き出して、
最高好感度の選択肢を甘ったるく伝えるヒロインの声が、陽だまり
の中でやけに耳触りな音で弾んでいた。
216
彼が見逃した敵意
装飾の付いた窓枠や扉、真っ白に磨かれた柱や壁に、埃一つ落ち
ていない床。
赤の重厚なカーテンが飾られた大きな窓から入ってくる陽光が、
この学園が所有する舞踏会場を煌びやかに彩っていた。
周りを見れば、この会場に初めて入った一年生達のほとんどが貴
族であるにも関わらず、皆一様に感嘆の溜息を吐きながら、美しく
整えられた場内を見渡していた。
正式に社交界デビューをした貴族の子供達ですら瞠目するほど、
この舞踏会場は立派なのだ。
たとえ練習だろうと、こうして舞踏会専門の楽団員まで呼び寄せ
て、手を抜くことをしない学園の行事に対する力の入れ具合が凄ま
じいのである。
魔法学園には、学園二大行事と呼ばれているイベントがある。
前世で言うところの体育祭と文化祭にあたる、夏の舞踏会と秋の
武闘会だ。
それ用に設計されている三学年全ての生徒を収容して有り余るこ
の舞踏会場と、さらに大勢の見物客まで収容できるコロシアムは、
もしかすると王宮にあるものよりもしっかり作られているのかもし
れない。
それもこれも、元を考えればすべては学園で恋愛劇を繰り広げる
ヒロインのため。
そう考えると、俺はどうにもこの綺麗な景観に対して、素直に感
動することができなかった。
﹁まさかここまでの施設を学園が所有しているとは思わなかったな﹂
217
俺の後ろでアルヴァンがもっともな感想を口にした。
その隣りでは、レゼが初めて見る舞踏会場に少し興奮した様子で
頷いている。
アルヴァンもレゼも同じクラスではないのだが、こうして一緒の
授業になると何かと俺と行動したがる二人は、いつの間にかそれな
りに仲良くなっていた。
俺はレゼに懐かれることは全然構わないし、レゼに友達ができる
のはとても良いことだと思うのだが、生憎と俺には自分よりも図体
のでかい男に纏わりつかれて喜ぶ趣味はない。
かといってアルヴァンにお前どっか行けよという視線を送っても、
胡散臭い笑顔でスルーされるので若干諦めてはいたが。
纏わりつかれる理由は何なのかと頭を巡らせかけたとき、授業開
始を告げる鐘の音とともに、パンパンと壇上にいる教師達の手が鳴
った。
練
﹁今日は皆さん御覧の通り、一年生初の全クラス合同演習です。こ
れまで各クラスで教わったマナーやダンスは覚えていますね?
習なので正装ではありませんが、正装しているつもりで舞踏会に向
けて練習していただきます﹂
﹁良いですか、男子生徒の皆さん。今、女子生徒の皆さんは、壁を
彩る美しい華となってくれています。花は強引に手折ってはなりま
せんよ。くれぐれも紳士的にエスコートするように。それと︱︱﹂
基礎科目担当の教師達から注意点を説明されている間に、俺はち
らりと視界の隅にいるピンク色の髪の女子生徒を確認した。
その女子生徒︱︱ヒロインは、期待の籠もった眼差しで俺を見て
いた。
きっとゲーム通り、俺が教師の指示で自分のパートナーに選ばれ
るとでも思っているのだろう。
218
ゲームでは各攻略対象者達に得意科目が設定されていた。
この舞踏会の演習授業は、第二王子とランスロット・オルトラン
ドの得意科目だ。
得意科目は攻略対象者内で二名ずつ被るようになっており、ダン
スにおいては第二王子が一番得意で、ランスロットが次という設定
だった。
ヒロインのダンスに関するステータスが足りないと、ランスロッ
トよりも敷居の高い第二王子は、サボりということで出てこない。
第二王子が出てこなかった場合、ゲーム内ならば、王子の次にダ
ンスの得意なランスロットに教師達は予めヒロインのパートナーを
頼んでいた。
ヒロインが女神の力を早く制御できるよう、王命で学園に入学す
ることになった経緯を考えれば、この授業でダンスの得意な人間を
学園側がヒロインに宛がうことは納得できる流れだ。
国を守る使命のある貴族の子息ならば、すでに魔素の種に唯一対
抗できる聖女として公表されているヒロインの相手を受けざるを得
ない。
だが、ゲームとは違って俺はすでに結婚している身だ。
舞踏会のマナーとして、既婚者は配偶者か身内以外とは踊っては
ならないという決まりがある。
配偶者や身内以外と踊った場合、その相手と愛人関係にあると公
表しているも同然になるのだ。
愛人の存在を良しとしない女神信仰が主宗教となっているこの国
では歓迎されたことではないし、いくら魔法学園や国がヒロインの
味方だろうが、伝統を重んじる舞踏会で、主催者である学園がマナ
ー違反を犯す訳にはいかないだろう。
ましてや俺よりも舞踏会に慣れた貴族の子息なんてたくさんいる
し、あえて常識を無視して俺をヒロインのパートナーに指名するメ
219
リットもない。
その証拠に、俺は教師達から何も頼まれてはいなかった。
リリアは、ヒロインと接触することで俺が俺でなくなるのではな
いかと怖がっている。
俺の腕の中にいるときも、時々それを考えて泣きだしそうになっ
ている彼女を見ると、何の保証もしてやれない自分が嫌になってく
る。
せめて不安を少しでも軽くする為にと、いろいろゲームとの相違
点を作った。
成人したばかりなんだから卒業後で良いだろうと言う親父達の意
見を押し切って、リリアと学園入学前に結婚した。
ヒロインに関わりたくないと言っていたレゼとエレノアに頼んで、
一緒に学園に入学してもらった。
ザイレには教師の立場から不穏なことがあればすぐに知らせろと
言ってある。
俺が入学試験で過去最高成績を出したのも、面倒な新入生代表挨
拶を引き受けたのも、言動がゲームと違うアルヴァンと同室でおと
なしく過ごしているのも、全部が全部、リリアのため。
それなのに。
どうしてこう、世界中の苦しんでいる人を救う役目を背負ったは
ずの奴が、とことん俺達の不安を煽って苦しめてくるのか。
教師の説明が終わり、楽団員達の演奏が開始された。
俺もレゼを連れ、壁際で待つリリアとエレノアの元へ移動を始め
ようとしたとき、途端に会場内がざわついた。
ざわついた理由は一目でわかった。
壁の華であるべきヒロインが、会場の中心あたりに散らばってい
220
た男子生徒達に向かって自ら歩き始めたのだ。
楽団員が演奏し始めた今、男性のパートナーを伴わない女性が壁
以外に向かって動くのはマナー違反だ。
一人、また一人とその異変に気付いた生徒達のざわめきが増す。
レゼが顔を強張らせて俺の背中に隠れた。
アルヴァンが俺の制服にしがみつくレゼの反応を見て、何事かと
声をかけている。
俺は微動だにせず、ただ冷やかな目でヒロインを見ていた。
ヒロインの視線は俺に向けられている。
澄んだ水色の瞳で、ピンク色の髪を揺らし、その頬笑みには朱さ
え浮かべて。
俺の前で立ち止まったヒロインは、俺に向かって右手の掌を下に
して差し出した。
﹁私と踊ってくださいますよね?﹂
この行動の意味をはっきり教養で理解している周りの生徒達が、
ヒュッと息を呑んだ。
あるいはそれは悲鳴を押しこめる為の呼吸だったのかもしれない。
公爵家の最上位にいるオルトランド家の正式な次期当主で既婚者
の俺に、妻が見ている前で、誘う側は何も危険物を持っていないこ
と、何も企み事はないことを表す為に、掌を上にして誘わなければ
ならないダンスで、下位貴族よりもさらに下、準貴族に分類される
教会のトップである聖女の立場にいる者が、願い求めることを示す
左手ではなく、強要や命令を示す右手を下に向けて差し出した。
つまり簡単に言えば、ヒロインはこの行為で、俺に妻の容認の元、
221
愛人になれと命令したのだ。
教会の女神信仰など関係ない、私は貴方を恋人にするつもりはな
いが愛人には欲しいのだと宣言したことになる。
俺の周囲の空気が物理的に凍り、壁の一角からは翡翠色の濃密な
魔力が膨れ上がった。
すぐに手を下ろしなさい!!﹂
軽快なワルツの音楽が、ギギッと最後に弦が弾け飛ぶ音を立てて
止んだ。
﹁⋮⋮っ、チェルシーさん!!
女性教師の叫び声が静寂に響く。
しかし、絶望的にタイミングが遅い。
俺でさえプレッシャーを感じるほど複雑に編み込まれた翡翠色の
魔力が、俺の周囲で甲高い音を立てていた。
ワルツが奏でられる前とまったく変わらない凛とした姿勢のリリ
アの指先には、発動直前まで高められた防御魔法が灯っていた。
いつもと違って随分と光の色が濃く、どう考えてもその魔法はこ
の事態が起こってから組み立てられたものではなかった。
授業が始まる前か、ともすればもっと前、リリアが起きてからす
ぐに準備し続けてきたような、俺を拘束するレベルの防御魔法︱︱
俺の精神面にどのような変化があっても、ヒロインの手をとれなく
させる類のものだ。
そして誰も俺に触れることができなくさせるようなそれをリリア
が発動しようとした瞬間が見えて、俺は咄嗟に後ろにいたアルヴァ
ンの腕を掴んで、ヒロインの差し出した手にアルヴァンの手を重ね
させた。
え、と発せられた疑問の声は誰のものだったのかは知らない。
222
ただ俺は振り返って、全員によく聞こえるようアルヴァンに大声
で話し掛けた。
﹁誘いを受けていただけて良かったですね、アルヴァン様。アルヴ
だが⋮⋮ああ、いや。お誘いを有り難く頂
ァン様は聖女様と最近仲良くしているみたいですから当然ですよね。
俺は退きます﹂
﹁⋮⋮ランスロット?
戴しよう、聖女様﹂
一ミリも笑っていない目の奥で有無を言わせずアルヴァンに承諾
させて、俺はすっかり俺の背に隠れてしまっているレゼの腕を引い
て、リリア達の元へと立ち去った。
困惑しながもアルヴァンから手を離さず、俺を見てくるヒロイン
の傍を通り抜けた後で、俺は無造作に身体の外側へと手を弾いた。
手に込めたのはレジストという魔法だ。集められた魔力を霧散さ
せる効果がある。
俺が感情のまま魔力で凍らせた周囲と、リリアの物騒な魔力を捩
じ伏せて掻き消した。
静まり返る会場は教師陣ですら沈黙し、ほぼ全員が俺に視線を寄
こしていた。
リリアは完全に無表情で無言を貫いている。
壁際で俺を見詰めながらも一歩も動かず、ただ俺に魔力を消され
た後に固く握られた両手だけが彼女の心情を物語っていた。
この授業がその後も何事もなかったように進行できる訳がない。
すぐさま各クラスでの自習となり、俺とリリアは教師に舞踏会場
223
内の一室へと案内され、学園長を連れてくるから待つようにと言わ
れた。
ヒロインも教師の一人に連れて行かれたから、今頃何処かで話を
聞かれていることだろう。
あの脳内花畑女からは﹁やりたいからやった﹂。それ以上の答え
は聞けないだろうが。
ドカッと不機嫌にソファに沈み込んだリリアの隣りに座って、今
にもソファにバシバシと八つ当たりし始めそうな細い手にそっと指
を絡めた。
少し俺が力を入れるだけで折れてしまいそうなこの手は、本当に
いろいろなことに耐えすぎている。
俺の為に我慢ばかりさせて申し訳なくなる。
﹁あの女が俺に近づいた瞬間、お前なら苦手な攻撃魔法も一つや二
つ、簡単にぶっ放してみせるんじゃないかと思った﹂
﹁お義父様に先週注意されていなかったら、やっていたかもしれな
いわね。大体、お義父様に﹃高位貴族としての自覚を持て﹄なんて
クドクド言われてなかったら、そもそもあの女を貴方に近づけさせ
はしなかったわ。即座に足元を防御魔法で固めて、最高に無様な形
で転ばせて床に沈めていたもの﹂
﹁むしろそっちのほうが今回は穏便に済んだんじゃないのか?﹂
俺が苦笑いしながら、先週末に俺達の学園での様子を何処からか
聞いて不満を持ったらしい親父に呼ばれて公爵家に帰ったのは間違
いだったなと思っていたら、リリアが片方だけ口角を上げて笑った。
﹁これならさすがにお義父様だって穏便に済ませる訳にはいかない
224
でしょう。是非、誇り高い貴族とやらのやり方をみせてもらおうじ
ゃない﹂
ああ、お前ってゲームの中では悪役だったよな。
貴方が
そう再認識させられる雰囲気を漂わせたリリアの愚痴は尚も続く。
それが貴族だから?
馬鹿馬鹿しい。貴族のやり方と
どうして
﹁レイスリーネ様のお茶会には断らずちゃんと参加しろ?
何で?
娼館に行くような連中に付き合うことを見逃してやれ?
?
やらで立ち回って、結果こうして貴方を守れないなら意味ないじゃ
ない﹂
﹁いや、俺は今回は盛大に見下されただけで、別にリリアが守れな
かったと後悔するようなことは何もされてないから﹂
あの女の変な魔法に掛
浄化魔法なんて特殊な魔法を持っているくらいな
﹁本当に何もされていないって言えるの?
かっていない?
んだから、魅了魔法とか怪しい魔法を持っていないとも言い切れな
いわ﹂
ズイッと大胆に身を乗り出して俺に顔を近づけてくるリリア。
必然的に上目遣いになる愛しい妻に夫が口付けようとしたところ
で誰が責められようか。いや、責められるはずはない。
でもキスする寸前で肝心のリリアに顔をガシッと掴まれ、睨まれ
てしまった。
貴方のさっきのあの台詞、ク
﹁誤魔化さないで。ああ、そう。そういえば貴方、アルヴァン・グ
ランドベルグを助ける気でいるの?
ロスイベントそのままじゃない。まさか私が知らないところでアル
ヴァンに変なアドバイスしているんじゃないでしょうね?﹂
225
バレないとは思っていなかったが、うっかり肩を震わせたところ
を目敏くリリアに気付かれて、俺は乾いた笑いで誤魔化した。
クロスイベントというのは、休日などに攻略対象者が二人同時に
ヒロインに誘いをかけるような形になり、ヒロインに選ばれたほう
の攻略対象者の好感度が大きく上がり、選ばれなかったほうの好感
度が大きく下がる︱︱言葉にすると簡単な話だが、現実でやられる
とお前は何様だと思わず言いたくなる仕様のイベントである。あ、
ヒロイン様だったか。
しかし、リリアの調査によると、この前世持ちのヒロインは恋愛
方面には稀に頭が回るようで、どうにも過去にそれとなく攻略対象
者達を誘導し、自分の前で遭遇させて、強制的にクロスイベントを
起こしたことがあるらしい。
相手の攻略対象者達に何を言われようがゲームのヒロインと同じ
台詞を話しきって、違和感たっぷりな状況なのに結果的にはイベン
トを成功させることができていたと。
イベントの発生には好感度がある程度必要なものがあるが、それ
までの累計だとイベントを見逃した誤差を考慮しても好感度が足り
ないはずのイベントが次の日に起こっていたから、リリアはそれが
成功だったと判断していた。
ヒロインに出来るなら俺にも調節できるだろうと考えた結果が、
アルヴァンに告げたあの不自然な台詞だ。
ゲームではアルヴァンとランスロットのクロスイベントも存在し
ていて、あの台詞は俺がランスロット関係で覚えているその中の一
つだった。
俺にあるのかわからないヒロインへの好感度がシステム上でも減
ってくれるなら大歓迎だし、ちょっと気紛れに好感度を上げるのを
手伝ってやるだけで、グランドベルグが少しでも早く救われるのな
226
ら、これくらいの手伝いは許容範囲ではないか。
俺のその考えが気に食わないというリリアと口論していたら、よ
うやく部屋の扉が開いた。
学園長のお出ましかと思いきや、入ってきたのは俺の親父とザイ
レだった。
たぶんエレノアがレゼに頼んでザイレに知らせて、ザイレが親父
を連れてきたほうが良いと判断して転移させてきたのだろう。
﹁何をしているお前達。あれほど貴族らしい対応をしろと言っただ
ろう﹂
親父の第一声にカチンと来たっぽいリリアの口を押さえて、バタ
バタ暴れる手足を俺の全身でソファに押しつけることで黙らせる。
﹁親父が来たなら俺達はいなくて大丈夫だよな。後は任せるからよ
ろしく。で、ザイレ、一刻も早く俺達を転移させてくれ。怒り狂っ
たリリアを俺が抑えられているうちに早く!﹂
俺はリリアが親父に暴言を吐いて飛びかからないかと結構冷汗も
のだったのだが、このときどうやらザイレには俺達がイチャついて
いるようにしか見えなかったらしい。
ザイレが指を鳴らして俺達を転移させたのは、何故か公爵家の俺
達のベッドの上だった。
まあ、うん、その⋮⋮なんだ。俺は嬉しいけど。
後日、俺がひたすら甘やかしたおかげで機嫌が良くなったリリア
と学園に戻ってから、アルヴァンにヒロインが学園の舞踏会には参
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加停止処分になったことを聞かされた。
他にも、ヒロインが受ける授業は学園側で決定し、体調不良以外
で授業を休むことがないよう監視が付くことになったと。
ヒロインは自分が犯した行動の意味を詳細に教えられたが、﹁学
園内では身分は平等なのに何が問題なのかわからない﹂の一点張り
で、かといって唯一魔素に対抗できる浄化魔法を扱える本物の聖女
を処罰する訳にもいかず、この処遇に至ったということだ。
たしかに学園内では生徒の身分は関係ないとされている。
でも、それは少しでも不敬な態度をとっただけで上位の貴族に潰
されかねない低い身分の家の生徒達や、貴族位を持たない教師達を
守る為であって、こういう場合に適応されるものではない。
それを教師達も説明したが、ヒロインはその考えを受け入れなか
ったという。
﹁リリアが﹃あれは自分が納得のできないことは、周りがおかしい
んだと思い込んで理解しようとしない人間だ﹄って言ってたな﹂
珍しくいつもの娼館仲間達と過ごさずに食堂で俺と夕食をとって
いるアルヴァンと話していると、アルヴァンが思い出したかのよう
に聞いてきた。
﹁そういえば、君の結婚相手は支援系属性の高位魔力保持者だった
んだな。あの舞踏会場でみせた彼女の防御魔法は、見たことがない
ほど高度で素晴らしかった。君はずっと彼女にあのレベルの防御魔
法で守られているのか?﹂
﹁どうだろう。俺、六歳の頃からリリアと一緒にいるんだけど、出
会ったときから毎日のように防御魔法を重ね掛けされていたから、
正直わからないな。さすがにあのときの魔法みたいに皮膚の表面ま
でがっちり覆うようなものは動きにくくて解いてもらったけど、リ
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リアのことだから、俺が攻城戦級の魔法を真正面からくらっても生
き残れるレベルにはしているんじゃないか?﹂
大げさのようで本当のような想像の話をしたら、アルヴァンはと
ても驚いていた。
﹁君には容易にダメージを与えることはできないということか﹂
ふざけてそう笑うアルヴァンに、間違っても攻撃するなよと俺は
笑い返して。
その日のアルヴァンとの会話の中、冗談ではない敵意が僅かに覗
いていたことに、愚かにも束の間の平和に呆けていた俺は気付くこ
とができなかった。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n8860ce/
ヒロイン様にフラグが立たないその理由
2015年2月6日17時35分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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