日本の歴史文化遺産 ∼歴史の道∼ ひ が し う ら じ 伊豆古道「東浦路 」ガイドブック (伊東市宇佐美区間) 伊豆古道「東浦路」保存千年委員会 (事務局 森篤 伊東市宇佐美 403-2 ℡/fax 0557-48-9534 ) e-mail: [email protected] ホームページ http://izukodou.ppoo.jp/ 伊豆古道「東浦路」を取り巻く歴史文化遺産エリア(宇佐美地区) 伊豆古道「東浦路」 2/7 のハイキングコース 道(通行不可) 江戸城石丁場遺跡ハイキングコース 周知の埋蔵文化財包蔵地 熱海 伊東市境 ⑫ ⑪ ⑩ ⑨ ⑧ ⑦ ⑥ ⑤ ④ ③ ② ① -1- 伊豆古道「東浦路」の風景 *解説は、森善寿著「宇佐美の年輪」を参考にしました。 ひはよてんじんしや ① 比波預天神社 ●延喜式神名帳(西暦 927 年)に「加理 波夜須多祁比波預命神社(カリハヤスタケ ヒハヨノミコトジンジャ)」と記載されて いる、それはそれは古い神社です。創建 の詳しい年代はわかりませんが、千年以 上昔から続いている神社です。ご祭神は、 「加理波夜須多祁比波預命」でこの命を お祀りする神社は日本でただ一つです。 後年「菅原道真命」が合わせ祀られまし た。伊豆古道「東浦路」はこの神社の脇 を通っています。 とうのいり ② 洞の入馬頭観音 ●このあたりは馬に灸をすえた場所の跡 で、「洞の入の馬の焼燬場 (しょうきば)」 ともいわれていたそうです。昔は馬でも 東浦路を行き来したのでしょうね。今で も誰かはわかりませんが、馬頭観音にお 花やお水を供えたり、周りの草むしりし たりしておまつりしています。「焼燬場」 は焼き場というような意味ですから、亡 くなった馬を焼く場所だったのでしょう か。 につちよう ③ 日 朝さんへの石の道標 ●ここから東浦路から別れて山田へ下る と、日蓮宗の「日朝さん」(妙秀山朝善寺) につながっています。「日朝さん」とは、 身延山中興の祖として名高い「行学院日 朝上人」のことです。日朝上人は宇佐美 のご出身で、妙秀さんと朝善さんとの間 にお生まれになったとても利発な子ども でした。「妙秀山朝善寺」は、日朝上人が 御母上と御父上供養するために建てたお 寺で、ご両親の名前がそのままお寺の名 前になっています。 -2- えどじようちくじようせき ④ こくいんせき 江戸城築城石?(刻 印 石) ●この石の山側の面には何かの印が刻ま れているように見えます。この付近一体 は、「江戸城石丁場遺跡」のあるところで すから、この石も江戸城築城石の一つか もしれません。どんな印か実際に見て確 かめてみて下さい。 江戸城の石垣 ⑤ いち こ ん さん しゆわ ごうのき 一根三種和合の木 ●杉、椎、楠、の三種類の木が一カ所か ら立ち上がっているめずらしい木です。 いつの頃か偶然に種が飛んできたのでし ょうか。造化の妙といったところです。 残念ながら、平成 16 年の台風で楠が根本 から折れてしまいました。 根本の部分 えどじようちくじようせき やあないし ⑥ 江戸城築城石(矢穴石) ●江戸城築城石の「矢穴石」が道ばたに 転がっています。この辺りは国宝級とい われる「羽柴越中守石場」の大標石があ るナコウ山に近いところですから上から 転がり落ちてきたのかもしれません。 江戸城の石垣の矢穴石 -3- び わ ⑦ 琵琶ころがし ●この辺りは道幅がせまく、道下が大変 急な崖になっています。道から足を踏み 外そうものなら、真っ逆さまに転がり落 ちてしまいます。盲目の琵琶法師では転 げ落ちてしましそうな危険な場所です。 実際に転げ落ちてしまった琵琶法師もい たのかも知れませんね。また、この辺り は道が曲がりくねっている上に、小石が 道を被っている箇所もあります。すべっ て歩きにくいところです。別名を「座頭 ころがし」ともいいます。 ⑧ しよういんせんせいこしかけのひらいし 松陰先生腰掛けの平石 ●人が腰掛けて休むのにちょうどいい平 らな大石があります。この道を通る色ん な人が腰掛けて一休みしたことでしょう。 幕末、下田に向かったアメリカ艦隊を追 って、吉田松陰先生もこの道を駆け下り ました。この平石で一休みしたかも知れ ませんね。この平石には、いくつかの文 字が刻まれています。はっきりわかるも ののあれば判然としないものもあります。 この付近一帯は江戸城石丁場遺跡のある ところです。この平石も江戸城築城石の 一つかもしれません。 ばとうかんのん ⑨ 馬頭観音 ●この馬頭観音には、寛政九丁巳年(1791) 十一月吉日と刻まれています。また、「村 内安全」「宇佐美右也」「願立遠藤平太」 の文字も刻まれています。今から 200 年 以上も前に遠藤平太さんが村の安全を願 ってここに立てたのでしょうね。この観 音さんは、200 年の間、ずっとここを通る 人を見続けています。吉田松陰さんが急 いで駆け下る姿も見たでしょう。伊能忠 敬さんが何やら話しながら通る姿も見た でしょう。そしてリュックを背負って通 る私たちの姿も見ています。 -4- ほうかいばんれいとう ⑩ 法界萬霊塔 ●村に悪病や悪いことが入り込んでこない ように、峠や村境に立てられたものの一つ です。「文化十三丙子年(1816)」と刻まれ ていますので、200 年くらい前に立てられ てものです。人の背丈ほどもある大きなも のです。この碑には矢穴の跡がありますの で、江戸城築城石を再利用したものかもし れません。「右世話人八左衛門」と刻まれ ています。宇佐美の村に災いが入り込まな いようにと八左衛門さんたちの 200 年の願 いが込められている大事な村の宝です。 ⑪ おいしがさわごしのさがみなだ 御石ヶ沢越しの相模灘 ●この辺りは、「御石ヶ沢」と「多賀地」 の間の尾根道になっていて、御石ヶ沢の 間から相模湾の青い海をみることができ ます。宇佐美区間の東浦路で海を見るこ とができるのはこの辺りだけです。きっ と昔の人も御石ヶ沢越しにこの青い海を 見ながら通ったことでしょう。 「御石ヶ沢」 は将軍家の江戸城の石垣に使う大量の石 を切り出した沢であることから、「御石」 の沢と名付けられました。歴史的な意味 をもつ貴重な地名です。今も石を切り出 した遺跡が広い範囲に残っています。 おおしまぢややあと ⑫ あじろとうげ うさみとうげ かさまつとうげ 大島茶屋跡(網代峠、宇佐美峠、笠 松 峠) ●昔この辺りには大島茶屋と呼ばれる茶 店があったそうです。上り下りの旅人が 峠で一服したのでしょう。ここから大島 がみえるのでこの名前がついたのでしょ うか?ここは、現在では熱海市と伊東市 の市境になっています。峠の名が示すよ うにここは宇佐美と網代の東浦路の中で 最も高い地点です。標高 288 メートルで す。 峠までの道中おつかれさまでした。。 -5- ★ここで ちょっと一服 耳よりなはなし★ ∼日本の歴史文化遺産∼ 宇佐美江戸城石丁場遺跡 ■今から約 400 年前、徳川家康は江戸に幕府を開くにあたり、全国の大名に命 じて江戸城の大修復を行わせました。石垣を築くための大量の石の多くは伊豆 半島から切り出し、船を使って江戸まで運びました。その時、石を切り出した 跡がいくつかの地域に残っています。「宇佐美江戸城石丁場遺跡」は、その中の一つで、 広範囲にわたって 400 年間比較的良好な状態で当時の姿を残しています。幕府に大量の 石の調達を命じられた大名の印を刻んだ「築城石」も遺跡の中に残っています。 ■遺跡は深い森に守られ、外からはその全容を見ることができません。土地所有者のご 理解のもと、遺跡の一部にはハイキングコースが設定され、多くの人が実地に遺跡を見 学できるようになっています。是非一度実際に訪れて手に触れてご覧になってみては如 何でしょうか。 ■平成 18 年に文化庁が伊東市、熱海市などの江戸城石丁場遺跡をおとずれ、日本の歴史 にとって大変貴重で重要な遺跡であるとの認識を示しました。その後、江戸城石丁場遺 跡を「国史跡」に指定するために、国、県、関係市町が調査、検討作業を続けています。 「羽柴越中守石場」と刻まれた大標石(ナコウ山) ∼ナコウ山からの絶景∼ 「折敷に三文字」の江戸城築城石(洞の入) 眼下は宇佐美湾と宇佐美の郷 -6- 遠くは天城連山と伊豆七島(一部) ★ここで ちょっと一服 耳よりなはなし★ ∼宇佐美に関わる歴史上の人物∼ 千年の偉人 *ウィキペディア(Wikipedia)を参考にしました。 ■ 加理波夜須多祁比波預命(カリハヤスタケヒハヨノミコト) 延喜式神名帳 1000年前 ●「加理波夜須多祁比波預命」をお祀りする神社は日本国中宇佐美の「比波預天 神社」のみです。日本でただ一つの神社ということができます。●「比波預天神 社」(加理波夜須多祁比波預命神社)は、延喜式神名帳(西暦 927 年)にその名 が記載されている神社です。ご創建の年代は定かではありませんが千年以上つづ くそれはそれは古い神社です。 ■ 宇佐美祐茂公(ウサミスケシゲコウ)頼朝二十五功臣 800年前 ●頼朝の旗揚げに参加した「頼朝 25 功臣」の一人、 「宇佐美祐茂(うさみすけし げ)」は「宇佐美」を治めたことから宇佐美姓を名乗り、歴史に「宇佐美氏」の 名が登場していきます。宇佐美氏は勢力のあった豪族で、全国に勢力を伸ばし、 その末裔の宇佐美さんが今も各地で活躍しています。鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」 には宇佐美氏の名前が頻繁にでてきます。●宇佐美の宇佐美氏は、宇佐美祐茂か ら後数百年にわたって栄えますが、小田原北条氏に攻められ、激戦の末、宇佐美 城は落城したと伝えられています。 ■ 行学院日朝上人(ギョウガクインニッチョウショウニン)日蓮宗身延山中興の祖500年前 ●伊豆国宇佐美(静岡県伊東市)出身 応永 29 年(1422 年)∼明応 9 年(1500 年) 幼くして三島本覚寺の日出に師事し、比叡山や南都に遊学して天台教学のほか諸 宗の教学を修めました。●号は行学院。12 世の日意、13 世の日伝とともに身延中 興の三師と位置づけられています。● 1462 年(寛正 3 年)身延山久遠寺 11 世貫 主となり、以後、宗門の法制や年中行事の整備、組織の制定、門前町の整備に尽 力したました。 「御書見聞」や日蓮の伝記「元祖化導記」を著しました。 ■ 中村敬宇先生(ナカムラケイウセンセイ) 明治の6大教育家 120年前 ●宇佐美出身の佃(中村)武兵衛を父として。江戸に生まれる。昌平坂学問所で学び、 佐藤一斎に儒学を,桂川甫周に蘭学を,箕作奎吾に英語を習った。後に教授、さ らには幕府の儒官となりました。●サミュエル・スマイルズの『Self Help』を『西 国立志篇』の邦題で出版、100 万部以上を売り上げ、福澤諭吉の『学問のすすめ』 と並ぶ大ベストセラーとなりました。 ●ジョン・スチュアート・ミルの『On Liberty』 を訳した『自由之理』は、「最大多数の最大幸福」という功利主義思想を主張し、 個人の人格の尊厳や個性と自由の重要性を強調しました。●女子教育・盲唖教育 にも尽力。明治 6 年(1873 年) 、同人社を開設。また、福澤諭吉、森有礼、西周、 加藤弘之らとともに設立した明六社の主要メンバーとして啓蒙思想の普及に努めました。 -7-
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