注釈集 1 一団 ○ 旅の危険を考慮して巡礼者は教区の近し者たちとグループを作って出発する慣習 があった。 ちなみに運送屋も護衛の一団を率いる習慣はあった。 2 参入儀礼 ○ 聖地巡礼を決心したものが出発に先立って行う宗教的手続きのこと。 まず、物質的世界からの離脱を象徴する遺言状を作成し、貧民救済などの慈善行為、 教区教会での告解、ミサを経て司祭から頭陀袋と巡礼杖の祝福を受け、最後に巡礼 証明書の交付を受けて初めて巡礼者と認められる。 そしてこの契約があって巡礼者の家族と財産は巡礼行の間、教会の保護下に 置かれるのである。 3 タピストリー ○ 羊毛や絹を使い、絵画的な文様を織り出したつづれ織りあるいは壁掛けのこと。 十四世紀~十五世紀のタピストリー(タピスリー)は特に絵画性が強く美しく、 貴族の邸を飾るインテリアとしてもてはやされた。 4 代参 ○ 代参契約書に基づいて、報酬を与えて自分の代わりに聖地巡礼へ行かせるシステム。 教会法上、奴隷や隷属民、子ども、夫の同意のない妻などは巡礼に参加できない ことになっていたので、通常は外から健脚の男を雇ったが、実際には異端者や犯罪 者の強制巡礼を含むあらゆる身分、年齢、性別のキリスト教徒が巡礼に参加した。 5 遍歴 ○ すべての職人身分は親方の徒弟として幾年か従事したのち、故郷を離れてさらに 幾年か旅に出て各地の親方に従事しなければならなかった。そして遍歴期間を 終えてようやく徒弟は職人と認められるのである。 6 保証人 ○ 当時の借金の手続きを書いておくと、貸主と保証人が連れ立って公証人のところへ 行き、金額・返済期日・返済場所・返済できない時の科料などを記載した単記証文 にそれぞれの判をつくというものであった。 7 不妊のラバ ○ キリスト教徒の間で永く主張され、為にユダヤ人への憎悪を募らせる原因ともなった 貸付金に利子を付けないことを美徳とする考え方と仔を産まぬラバを掛けたもの。 8 アカネ ○ 赤色染料に使うアカネ科の植物。 イタリア、フランス南部、スイスおよび小アジア、シリアに自生または栽培され る。当時のスペインでは栽培されておらず、おもにフランスなどからの輸入に依存 していたところから採用した。 9 「フランス人の道」 ○ フランスを出発点とする巡礼ルートにはパリ、ヴェズレー、ル・ピュイ、アルルを 起点とする四本の道があり、プエンテ・ラ・レイナにて最終的な合流をして一本の 道となるが、先の三本の道はサン・パレにて前もって合流する。 そしてサン・パレ~プエンテ・ラ・レイナに至る道が「フランス人の道」と呼ば れる。 名は記録に残る最初の巡礼者がル・ピュイの大司教ゴーテスカルロであること からという説がある。 ちなみにアルルを起点とする道は「アラゴンの道」と呼ばれる。 10 巡礼姿 ○ 身分の別なく、すべての巡礼者は定められた装いで巡礼に臨む。 それは半俗半聖の身分を象徴する褐色の外衣と上着、ズボン、頭巾、つば広の帽子、 長靴、そして巡礼杖と水筒代わりのヒョウタンと頭陀袋である。 (女性の場合は同色の外衣と男性のより長い上着、スカート、ベール+帽子を着用) 頭陀袋には巡礼証明書、旅費、食料、下着、ナイフ、火打石などが入っていて、 「すべてを与え、すべてを受け入れる神の貧民」に相応しく袋の口にひもはつけない。 *紹介ページのイラストはイメージです。(と逃げを打っておこう) 11 ガラガラ ○ 本来は夜警の者が身の危険を感じた時に助けを呼ぶために鳴らすものだが、 レプラ患者すなわちハンセン病罹患者は人々に接近を知らせるために所持する ことが義務付けられた。 12 レプラ ○ らい菌の感染によって引き起こされる慢性の感染症。当時の医学では不治の病で、 罪の償いとみなされた。 特にらい腫型の場合、褐色の結節によって顔面や四肢に変形をきたし、さらに菌が 皮膚や粘膜、神経までも冒すため、感染者は人間離れした様相になるのを免れる ことが出来ない。 彼らに手を触れる者はなく、施し物は戸口に置かれる。 教会も市場も彼らには開かれず、唯一の受け入れ口は居住区のはずれにある特別な 施療院だけである。 さらに彼らへの不快がピークに達した十四世紀には罪人として扱われ、隔離措置 が取られた。 13 九つの地獄 ○ ダンテによれば地獄には九つの圏があり、キリスト教においては三つの真鍮の門 と三つの鉄の門と三つの金剛石の門があるとされる。 14 守護神(ジーニアス) ○ 古代ローマで考えられた、人が生まれながらにもつという各人の守り神のこと。 15 宿屋 ○ 巡礼者が利用する宿泊施設としては無料で泊まれる巡礼宿(アスペルゲ) と有料 の宿屋(オテル=ホテル) と個人宅、そして十五世紀から導入された女性専用の 巡礼宿とがある。ただし、個人宅と巡礼宿にはプライバシーはない。 宿屋は居酒屋(バール) を兼ねる場合が多く、二階建てでベッドの数は 七~十二台、通常二人で一つのベッドを使用する。 ゆえに娯楽、情報交換、商業活動の場としても利用され、巡礼者は宿屋の主人を 仲介人として巡礼路諸都市の住民との間で商行為を行うことが出来た。 16 黒パン ○ 小麦を精製せず、ふすまなどをふるい分けないままに焼いた最も安価のパン。 おもに農民や一般市民の常用食で、精製されたやわらかくて白いパンはキリスト教 の祝祭日にのみ食べられることが多かった。 17 ナバーラ人 ○ 中世の巡礼案内書として名高い『コーデックス、カリクストゥス』によれば、 ナバーラ人(スペイン人)は「どの村も野蛮人の村で悪の化身、色黒で邪悪に 満ち溢れている。喧嘩っ早く攻撃的な上に強暴で極悪非道、不貞不実、怠惰で 下品、淫乱で酔っ払い」などと散々にけなされている。 さらにロルカ村については「ロルカの東、サラード川では水を飲んでも馬に与え てもいけない。飲むと死にいたり、川岸でナバーラ人が皮を剥ごうと待ち構えて いる」と書かれている。 18 『迷い人の鐘』 ○ かつてイバニェタ峠にあった教会で、霧深い同地の行方を巡礼者に知らせるため 昼夜打ち鳴らされた鐘のこと。 現在はロンセスバージェスのサンティアゴ教会に移設されている。 そして「ロンセスバージェス(ローランの谷)」の名が示すように、この地は 後述する有名な『ローランの詩』の舞台となった場所でイバニェタ峠には 騎士ローランの記念碑が建つ巡礼スポットがある。 19 騎士ローラン ○ フランク王シャルルマーニュ(在位七四二~八一四年)の十二勇士の一人にして、 フランス最古の文学集といわれる武勇詩『シャンソン・ドゥ・ジェスト』に収録 されている『ローランの歌』の主人公。 物語はシャルルマーニュの二十年にわたるイスパニア侵攻の最初の年に当たる 七七八年に起きた重大な事件を綴ったものである。 ローランは穏健派の将軍の多いフランス軍において飛びぬけて血気盛んな騎士で、 サラセン王マルシル(詩人の創作)からの停戦要求に応じて開かれた会議の席に おいても、先にこちらが派遣した使者を殺された復讐をすべきと戦争の継続を 主張し、停戦の方向で決議されてからも、いの一番に使者を買って出るような 男であった。 しかし王より十二勇士からの指名はならぬとなだめられ、それならばと停戦を 言い出した義父のガヌロンを推薦したことから悲劇は始まる。 一同は手放しでこれに賛同したが、ガヌロンはローランへの激しい憎悪を隠そう ともせず復讐を高々に宣言してサラセン王のもとへ赴いた。 そして運命の日、フランス軍の帰還に伴ってローランは戦友オリビエとともに 二万人の精鋭を率いてしんがりの大役を務めることとなるが、本体が十分離れたの を見計らってガヌロンの奸計が発動、たちまちの内に四十万のサラセン軍に 取り囲まれ、決死の抵抗もむなしく戦死してしまう。 しかし彼が偉大な騎士として歌い継がれるいわれは絶対的不利な戦況に於いても なお大義を全うしようと、すぐには援軍を呼ばなかったことにある。 結果的にはその判断の遅れが仇となって軍を全滅させてしまうのであるが、 彼は戦友オリビエとの二回にわたる口論、失策の重責、そして友の死と、 わずかな時間の間に大将が経験するであろうあらゆる葛藤や苦悶にさらされ 幾度となく失神を繰り返しながらも最後の一振りまで自らの騎士道を貫いたので ある。 運命(さだめ)られた死期を嘆くように吹き鳴らされた角笛は、 ちょうど死の間際に歌うという白鳥の歌のように哀しく響き渡りました・・・。 20 名剣デュランダル ○ 騎士ローランの愛剣にして伝説の聖剣。 その黄金の柄の中空にはサン・ピエールの歯、サン・バジールの血、パリの最初の 司教サン・ドニの髪、 サント・マリアの衣服の切れ端などの聖遺物が納められている。 死期の近しを感じたローランはこの聖剣が異教徒の手に渡らぬように折ってしま おうと幾度となく岩を斬りつけたが、刃こぼれ一つ付けることも敵わなかったという。 聖剣は現在もフランスのロカマドール修道院に残っており、また彼が斬りつけた とされる岩もロンセスバージェスの修道院前に安置されている。 21 「アラゴンの道」 ○ フランスを出発点とする四本の道のうち、南フランスのアルルを出発し、 ソンポル峠からピレネー山脈を越えてアラゴン地方を通るもの。 他の三本の道で越えるレポエデール峠が標高一四三〇メートルであるのに対し、 同峠は標高一六三二メートルと高く、プエンテ・ラ・レイナまでの行程も六日 かかるハードな道である。 (中世の巡礼案内書には三日と書かれているが、それは二日目の行程で一〇四キロ 歩いた場合である) 主にイタリアや南フランスの巡礼者が選択した。 22 橋の建設 ○ 中世世界において橋の建設には常に宗教的な目的が掲げられた。 たとえ実際には地域住民の商業活動のためや、都市や領主の支配権形成のため という経済的な目的であったとしても、表向きには外から入ってくる商人や 巡礼のためであったり、対岸の教会への道を確保するためとされた。 そのためこの一大事業もまた、物乞いへの喜捨や教会建設への寄進と同じ性格が 与えられ、資金不足のために工事が何年も中断することもしばしばであった。 また、建設に困難が生じたときには神や水の精の影響が考えられ、彼らの怒りを 鎮めるために供物や人柱が捧げられた。 そうした背景の中で逸話の主人公ドニャ・マヨール妃は巡礼者に対する慈悲心と 強い信仰心によって私財を投げ出し、見事難工事を成し遂げた美徳がたたえられ て「プエンテ・ラ・レイナ(王妃の橋)」の称号を得たのである。 23 役者の衣装について ○ サンチョ三世はヨーロッパ文化圏のブリオーにサラセン文化(イスラム文化)の アラベスク模様入りのマントと縁なし帽を着用、ドニャ・マヨール妃は同じく ブリオーに仔羊の毛皮を着用。さらに二人とも衣装の所々にイスラム圏産の 琥珀、エメラルド、真珠、当時は高価であったガラス玉を装飾している。 対する橋役の役者たちは石畳柄の全身タイツ姿。 24 バベルの塔 ○ 旧約聖書の『創世記』に記述されている伝説上の塔のこと。 ノアの洪水の後、人類はその対策としてシナルの首都バビロンに天にも届く塔を 建設しようと各地から腕利きの建築家が集まったが、そのことが神の怒りに触れ、 それまでひとつであった言語を分化させて彼らの言葉を通じないものとした。 そのため、混乱した彼らは工事を断念し、各地へ帰って行った。 ちなみに瀝青(チャン)とは天然のタールの事でレンガをつなぐ糊として使われた。 25 パチャラン ○ バスク地方のエンドリーナス(野生の西洋すもも)から作られた食後酒のこと。 甘くて口当たりはよいが、アルコール度数が三十五度もある強いお酒。 26 コシード ○ スペインの貧しい地域で生まれたシチューの類の料理。 鍋にひよこ豆、チョリソソーセージ、骨付き豚肉、にんじん、玉ねぎなどを 入れて水で煮込むだけのシンプルなもの。 ただし食べ方に流儀があって、まず一皿目はスープをいただき、二皿目に具材を いただく。(あるいは逆の順序の地域もある) 27 新鮮 ○ 英語になるが、 「fresh: 新鮮」の r を l に変えると「flesh: 肉」の意味になる。 ちなみにスペイン語の「fresco: 新鮮な」には「厚かましい人」の意もある。 28 ライオン ○ ライオンは高貴な人の象徴。 カラスとハイエナはずる賢い奴、けちな奴の象徴。 29 「プエンテ・ラ・ペイネ」 ○ 「PUENTE la peine: 櫛(くし)の橋」=使い続けると歯抜けになる所から。 30 銀食器 ○ スペイン人は永く、王も農民もみんな手で食事をしていた。 加えて新大陸(アメリカ大陸)における銀山を確保したことによって(当時の) ヨーロッパ随一の銀所有国になったので輸入する必要はないとの嫌味が 込められている。 31 三ペセタ ○ 当時の通貨。一ペセタは一シリングに等しく、小作人労働の週賃金が平均 三シリングであったことを考えると一食一ペセタは相当なぼったくりである。 32 聖ドミンゴ ○ ピロリア・デ・リオハ村出身の修道士。(1019~1109) 家業の羊飼いを手伝っていた経験から巡礼者の苦労を肌で感じて生涯を巡礼路の 整備に捧げると誓う。 彼はたったひとりでオハ河に橋を架け、ナヘラ~レデシージャ・デル・カミーノ 間の約三十キロを石畳で舗装、さらに巡礼者が休めるように「サント・ドミンゴ ・デ・ラ・カルサーダ(敷石の聖ドミンゴ)」と名付ける町を開いた。 それらの功績をたたえて同町は「リオハのコンポステーラ」とも呼ばれる。 聖ドミンゴの祝日は 4 月(4 月 25 日~5 月 13 日)と 9 月(9 月 17 日~19 日)の他に 後述する 8 月の上演会がある。 33 古戦場 ○ ログローニョから十八キロ南下した所にある「クラビッホの丘」のこと。 キリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)の中で、初めて白馬に乗った 聖ヤコブが出現した場所である。(八八四年) これ以降もたびたびレコンキスタの戦場に現れて果敢に敵軍へ突進する姿が目撃 され、戦いの守り神となった彼は「サンティアゴ・マタモーロス: モーロ人を 蹴散らすサンティアゴ」とたたえられた。 物語の中でも後に登場し、ポットフェンたちを助けるシーンがある。 34 貴族の冬籠り ○ ヨーロッパの貴族たちは伝統的に長く退屈な冬を陽気に過ごすために回り持ちで 友人の邸を泊まり歩いて毎日のように宴会を開いた。 35 グレゴリオ聖歌 ○ ローマ・カトリック教会の典礼に歌われるラテン語による単旋律の聖歌のこと。 名は地域によってさまざまであった聖歌を初めて一つに編纂した教皇グレゴリ ウス一世(590~604)にちなむ。 サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院は聖ドミンゴが開いたベネディクト派の 修道院で、中世よりグレゴリオ聖歌が歌い継がれてきたが、十九世紀の聖歌復興 運動にて世界的に有名になった。 36 罪人運び ○ 昔の下賤の仕事の一つ。罪人を裁判所や刑場に運ぶことを生業とする。 荷車を自身の手で曳くのは罪人運びかゴミ運びしかいないのでこれらと誤解した もの。 なお、無罪の者が乗ることは大変な恥とされた。これも後述する。 37 バール ○ 居酒屋のこと。 巡礼者たちは町へ着いたら兎にも角にもバールへ飛び込んでビールで水分補給 というのが大方の習慣となるらしい。 38 羽を全部引っこ抜かれる ○ 聖ドミンゴにまつわる伝説から鶏は幸福のシンボルとして教会の中で飼育されて おり、中世の巡礼者は道中の無事を祈って羽を一本抜いて、胸に刺して歩くのを 習慣とした。それとチキン野郎を掛けたもの。 ただし実際、臆病になっているのはスサーナの方である。 39 ビガロ ○ bigarreau。フランス語でサクランボの一種の名。 言うまでもなくチェリーと掛けたもの。 40 二泊目 ○ 詩人の創作。このふたつの宿では二泊目から客引きとベッドを共にすることが できるサービスを採用している。 町の名誉のために述べておくと物語に登場するような宿は実在しない。 何故なら売春は貞潔たるキリスト教徒を堕落させる悪魔の業であり、 それを扱う娼婦は悪魔の手先、町の厄介者、罪人などと位置付けられていた ので、仮に市当局が欲求不満の男性が大罪に走るのを予防するために設置を認めた としても、それは市門の外に建てられなければならなかったからである。 そこでここでは衣装だけ採用して、くるぶしが隠れる丈のワンピースに 装飾品を一切着けないシンプルな装いとする。 41 ラクダ ○ ラクダは長期間飲まず食わずで歩き通し、それからたっぷり水(あるいはビール) を飲むので大欲を表す。 また、一日がかりで交接を行うため、好色を表す。 42 レアル ○ スペインの古い貨幣。1 レアル=0.25 ペセタ、25 センティモ 43 ジプシー ○ 数世紀にわたって限りない放浪生活を営むインド――イラン語系民族の総称。 髪は黒く、皮膚の色は黄褐色またはオリーブ色、日本と中国を除く世界中に 存在するとされる。 おもな職業は占い師と鋳掛屋(いかけや)で、フラメンコの開発者。 エジプト出身説からユダヤ人と結び付けられて「泉にペストの毒を入れた犯人」 とされ、あるいは彼らの何者をも客として歓待する民族習慣を邪推する人の偏見 によって犯罪者組織との誤解を受けて、各地で弾圧の歴史を送ってきた。 たとえばヨーロッパではすべてのキリスト教徒には彼らを鞭打ち、閉じ込め、 殺害する権利があるとされ、彼らに宿を提供した者にも罰金刑が科せられた。 44 湖の騎士ランスロット ○ ブリトンの伝説的な王アーサーの円卓の騎士の一人。 名は「湖の女」の名で知られるヴィヴィアンという女魔術師に湖の底の彼女の 宮廷で養育されたところから。 彼は数多くの戦勝と美徳的行為によって並ぶ者のない勇名と尊敬を勝ち得ていた が、生涯で唯一の女性と誓ったアーサー王の妃、ギニヴィアの誘拐事件に 際して道を急ぐあまり樵(きこり)の薪運び用の荷車に乗った。 その噂は瞬く間に国中に流れ、心無い人たちからあざけりを受けたり、決闘を 挑まれたりしたばかりか、救出に成功した王妃からももはや相応しくないと 言われ、三日間、悄然としてさまよい歩いた。 その後同じく円卓の騎士であるケイによって誤解が解かれ、自らも弁明のために 王妃を訪れる。 45 かつての首都 ○ ブルゴスはビルバオやサンタンデールなどの貿易港からの便が良い所から カステージャ――レオン王国の首都であったが一五六一年、フェリペ二世が マドリッドを恒久的な首都と定めたことによって一地方都市へと成り下がり、 トレドに至るまでの諸都市をも巻き込みながら急速に衰退した。 46 「見ないで信じる者は幸い」 ○ 『ヨハネによる福音書』第二十章に記されている有名な言葉。 キリストが復活した時、弟子の内で一人だけ対面し損ねたトマは彼の復活を 信じないと宣言したが、そこへキリストが現れてこう諭した。 サント・ドミンゴ・デ・シーロスの修道院にはこの情景を描いたレリーフ 「トマの不信」がある。 47 うすのろ ○ papamosca。ブルゴスの大聖堂にある、からくり人形に付けられた名。 十五世紀に作られ、口をあんぐりあけて毎時を知らせる。 48 カウル ○ 僧侶が儀式用に着用するフード付きのだぶだぶのマント、 あるいはそのフードのこと。 カトリックでは修道院の古い規則に則って神父は袖付き、修道士は袖なしと 定められていた。 49 ヒキガエル ○ キリスト教圏では古くから悪魔と結び付けられ、忌避されてきた生物。 そのため人を罵るときによく引き合いに出される。 50 『受胎告知』 ○ 『ルカによる福音書』第一章二六――三八に記されている大天使ガブリエルが 聖母マリアにイエスの受胎を告げた場面のこと。宗教画の画題として重要。 建設者の聖ファンの意匠によってサン・ファン・デ・オルテガ修道院では毎年、 春分の日と秋分の日に「光の奇跡」と呼ばれる現象が起き、唯一ともいえる窓から 差し込む一条の光がロマネスク様式のこのレリーフを照らす様がみられる。 ちなみにお告げの祝日は三月二十五日。 51 シエスタ ○ スペインで現在も日常的に行われているお昼寝の時間のこと。 もちろん起きていてもよいのだが、大体十三時~十六時までの間は商店はおろか 官公庁も閉まってしまうため、昼休憩だからとショッピングに出かけることは できない。オフィス仕事の人はシエスタが終わったら二度目の出社をして また仕事を再開する。 フランス人である一座はこの習慣を風刺しながら結局、骨折り損のくたびれ儲け という落ちの演目を披露しようとしているが、 スペイン人のもう一つの性格であるひがみ根性が早合点をして公演を中断させて しまったという場面。 52 デイビー・ジョーンズのロッカーにぶち込まれる ○ 船乗りの間で使われる成句で、本来は「死ぬ」の意。 視覚的には財宝を乗せた船が沈没して海底のコレクションに加わること。 53 騎士団の宿 ○ ここでは三つの集落からなるオルビゴ村の内のオスピタル・デ・オルビゴにある 聖ヨハネ騎士団が運営する巡礼救護院のこと。 聖地エルサレムをイスラム教徒から防衛あるいは奪還するために結成された 宗教騎士団の特性上、サンティアゴ他の聖地へ赴く巡礼者の保護・救済には 積極的で、テンプル騎士団やサンティアゴ騎士団が運営する施設を含め、 巡礼路各所に救護院が設置されている。 54 橋の逸話 ○ もう少し詳しく書いておくと、レオン出身の騎士ドン・スエロ・デ・キニョネスが 馬上槍試合における活躍を祝して金の腕輪をプレゼントしてくれたレオノール・ トバール姫に恋をして、オルビゴ橋でさらなる力試しをしたという話。 一四三四年七月、彼は九人(あるいは十人)の騎士とともに「一か月の間 この橋を渡ろうとする者と闘い、誰も渡らせないか、三〇〇本以上の槍を折る」 と宣言した。 そして七月十日~八月九日までスペイン人をはじめ、フランス人、ドイツ人、 ポルトガル人、イタリア人の挑戦者たちと闘い抜き、計一六六本の槍を折って 誓いを果たした。 それから彼あるいは彼らはサンティアゴ巡礼の旅に出て レオノール姫からもらった腕輪を大聖堂に奉納した。 ちなみに橋の名はこの試合を断る者は「オルビゴ(臆病者)」と呼ばれたことから。 55 ジャガイモ畑 ○ 西洋で演技の不味い役者はジャガイモと呼ばれる。 その複数形なので「ジャガイモ畑」。 56 八レアル_8real ○ 英語の cross には「渡る」の他に、硬貨の裏面にブルグンドの十字架が 刻まれているところから「八レアル銀貨」の意味がある。 57 タコ ○ 掴んだ獲物を放さないところから執着の象徴として使用。 58 腐れ煮 ○ ごった煮のこと。具材がくたくたになるぐらいまで煮込むことから。 59 「名誉ある足跡の橋」 ○ オルビゴ橋の別名。九〇〇年にコルトバ軍とアルフォンソ三世がこの橋で戦った ことから。 60 イグナシオ・デ・ロヨラ ○ バスク地方の名門貴族出身。 二十六歳までは冒険心と虚栄心に富む典型的なスペイン騎士であったが、 一五二一年の城塞防衛戦にて両足を負傷した折に退屈しのぎで読んだ『イエス伝』 と『聖人伝』に感動して神の道に入る。 それから翌年には思い立って苦行とエルサレム巡礼に出立し、帰国後は人を教え 導くための勉強に十年費やした。 そして一五四〇年、パリで出会ったフランシスコ・ハビエルを含む六人の同志 とともに「イエズス会: イエス・キリストの伴侶」を結成、 間もなく頭角を現してカトリック国スペインのエース的存在へとのし上がる こととなる。 パンプローナには彼が一五二一年の対フランス戦にて両足を負傷した場面を 造形した像がある。 61 フランシスコ・ハビエル ○ ナバーラ王国の貴族出身で本名をベンジャミン・八ッス・アスピルクエタという。 フランシスコは洗礼名で、ハビエル(ザビエル)の姓は彼の母でバスクの名家出身の マリア・アスピルクエタが持参金としてもたらしたハビエル城より。 (1506~1552) 彼の父はナバーラ王国の国王諮問長官兼財務長官を務めていたが、 1512 年のアラゴン(スペイン)によるナバーラ併合によって政界への道を絶たれて しまったため、貴族の息子が選ぶべきもう一つの選択肢であった聖職者として 大成すべく 19 歳の時、パリ大学へ進学する。 彼の学業は順調そのものであったが、フランスに亡命していた父や兄を始めと する度重なる家族の死によって心労を重ねており、27 歳の時、彼の学業を一番 に支えてくれた姉マグダレーナの死によってついに破たん、それがきっかけと なって彼は寮で同室だったロヨラに傾倒していく。 そして 1540 年イエズス会発足、インドにおける布教活動を経て、1549 年、 鹿児島に上陸し、布教活動を始める。 ちなみにポルトガルが日本との交流を図った真の目的は 1540 年以降に世界の 三分の一量を産出したともいわれる銀であった。大航海時代のトップグループを ひた走っていた彼らは黄金の国ジパングを見つけると躍起になって船乗りや 冒険商人、そして宣教師たちを送り込んで交易の独占をはかった。 62 ドン・ペラージョ ○ レコンキスタ最初の戦い、コバドンガの戦い(七一一年)におけるキリスト教徒軍の 指揮官。多勢に無勢で敗色濃厚の折、彼が木製の十字架を天にかざして神に祈ると、 聖母マリアが現れて敵の矢をことごとく敵軍に跳ね返し、彼らに奇跡の勝利を もたらした。 彼を行列に加えたのは十字架によって宗教的な意味合いを強調するため。 63 名立たる騎士団 ○ テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団、サンティアゴ騎士団、そしてスペイン独自の カラトラバ騎士団とアルカンタラ騎士団とモンテッサ騎士団の計六つ。 残りの三人はレオンの騎士に扮する。 それぞれシンボルの十字架と制服によって区別する。 64 エル・シッド ○ カスティージャ王国の騎士で十一世紀半ばの騎士道小説『ミオ・シッド』の 主人公。本名ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール。 祖国が独立協定を結んでいるセビージャ王国に、同郷の貴族ナヘラ伯がイスラム国 王とともに攻め入ったのを彼が討ち払い、セビージャの人々がアラビア語で 「シディ・ロドリーゴ(ロドリーゴ様)」と称えたことから「エル・シッド (el=英語の The)」と呼ばれるようになる。 物語はこの事件を機にシッドを憎むようになるナヘラ伯とそれ以前から前国王の 暗殺を疑われて彼を苦々しく思っていた現カスティージャ王アルフォンソ六世が 絡みながら、結局はすべて丸く収まるという趣旨で進展していく。全二部。 65 メリクリウス ○ ギリシア神話のマーキュリーのローマ名。旅人と商業の守護神。 66 「マーキュリーの丘」 ○ 巡礼最後の登りであるイラゴ峠のこと。その山頂付近には「鉄の十字架」と呼ばれ る 5 メートル余りの木柱の上に立てられた十字架があり、先史時代には祭壇と して、ローマ時代にはマーキュリーを祀る丘として重要な聖地とされてきた。 人々は道中の無事を願って、あるいは祈るべき願いがあって柱のもとに自分の名を 書いた石を置いていく。中には出身地から大切に持ってきた物もあり、長年の 習慣によって小高い丘が出来ている。 67 パーラー ○ 公式の訪問客を迎える応接室とは別に、同じ身分の親しい間柄の客を招く目的で 邸の一番奥に設けられた非公式な客間のこと。 ゴシック様式の導入によって戸建建築の骨組みが強化され、上層階により広い 部屋を作れるようになった結果生じた新習慣。 68 ビジャフランカ・デル・ビエルソ、サンティアゴ教会 ○ 十二世紀建造のロマネスク様式の教会。 町の名は「ビエルソのフランス人村」の意で、十一世紀にフランス人開拓者に よって開かれたことを示す。 教会を左手に回ると「赦しの門」と呼ばれる別の入り口があって、病気や怪我で これ以上巡礼を続けることが出来なくなった巡礼者に対し、サンティアゴに 詣でたのと同じ贖罪を与えるという救護策が設定されていた。 対象者はこの門をくぐり、ローマ教皇の名においてコンポステーラに判を 付いてもらえる。 69 牛のふん ○ オ・セブレイロを登り切り、さらに小さなアップダウンを繰り返しつつ アルト・ド・ポイオ村を過ぎるころ、突如として牛のフンに道を埋め尽くされて いる地点に遭遇する。 これは巡礼路が放牧に向かう家畜の通り道でもあるためで回避は不可能とされる。 トリアカステーラまで所々に出現する。 70 レンガ ○ 中世の巡礼案内書によると、巡礼者はサンティアゴ大聖堂の建設のために この町の近くにあった石灰石採掘所から石を一つ持って 80 キロ先の カスタニェダまで運ぶことが義務付けられていた。 71 フン ○ 塵と同様、この世のあらゆる人間を平等にする大いなるものといわれる。 シェイクスピアの「アントニーとクレオパトラ」においては乞食とシーザーを 育むもの。 ちなみに以下の箴言はもちろん司祭の創作である。 72 貝殻 ○ サンティアゴ巡礼を象徴するアイテム。 種類はホタテ貝が選択され、諸説あるが女性器の象徴から生命の誕生を表す。 本来は聖地に着いた証明として、土産としてサンティアゴ教会前庭にて貝殻行商人 から買うものであるが、この物語にその場面はないので予め付けていること とする。 ちなみにこの貝殻のデザインはキリスト教の洗礼に使う盥(たらい)の形や 有名な『ヴィーナスの誕生』にも採用されるなど、宗教的な結びつきの強いもの である。 73 牢獄 ○ カスタニェダの入り口にはその昔、巡礼者用の牢獄があった。 74 王 ○ 中世には巡礼者グループの中で最初にカテドラルの尖塔を見つけた人は 仲間内から「王」と呼ばれた。ただし特別な優遇があるわけではない。 75 聖ヤコブの遺骸 ○ 二つあるサンティアゴ伝説のひとつ。 キリストの復活後、バベルの塔の件で多言語化していた世界においてキリストの 弟子だけが神より異国の言葉を理解する力を与えられたため、十二人の弟子たち は各地にキリスト教を広めるべく旅に出ることにした。 しかし多神教の時代に一神教のキリスト教に改宗させることは容易ではなく、 弟子の内の大ヤコブことサンティアゴはスペインでの布教に失敗し、傷心で 帰った故郷にてユダヤの人々から迫害を受けた挙げ句、 ユダヤ王ヘロデ・アグリッパの命により斬首されてしまった。 さらに復活を畏れて埋葬の許可も下りない彼の遺体は死後もなお旅を続け、 彼の弟子であるテオドーロとアタナシウスの忠節な手と、星と奇跡の船の導きに よってようやくイリア・フラービアの一点に安住を見出した。 それは同時に二人の弟子の安住の地ともなった。 そして 800 年後の 813 年、レコンキスタを後押しするように再び星は輝いて 一人の羊飼いをサンティアゴのもとへ導いた。 ヤコブの遺骸発見のニュースは瞬く間にキリスト教諸国に広まり、スペインの アストゥリアス王アルフォンソ二世はすぐさまサンティアゴに捧げる聖堂の建設 を命じて自ら巡礼者第一号となった。 ちなみに発見者はサンフィスの修道士ペラージョという説もある。 76 まだ結構ある ○ サンティアゴの周囲三マイルは聖地とされるのでモンテ・ド・ゴソはすでに聖地 の中であるが、カテドラルまではまだ 4.5 キロある。 モンテ・ド・ゴソには現在、巡礼路中最大と言われる 800 人収容の巡礼宿が 設置されているが、それ以前には聖地まで 20 キロの地点にあるペドロウソの 宿に泊まるか、10 キロの地点にあるラバコージャに泊まって翌日の夜明け前 から聖地にアタックをかけるというのが順路だった。 それは正午に始まるミサに参列するためであり、またそのミサで本日の到着者 として名を読み上げられるためである。(ただし出身国と人数のみ) 77 「私はαでありΩである」 ○ ヨハネ黙示録第二十二章十三節。 サンティアゴ大聖堂ではブラテリアス(銀細工師)門のファサード(扉の上部にある 彫刻)に見られるが、ここではアルファとオメガの順序が逆になって 「終わりは始まり」を示している。 78 「栄光の門」 ○ カテドラルの正面玄関にある、三つの扉からなる門。 中央は天国、左は旧約聖書の世界、右は新約聖書の世界を表しており、 加えて中央の扉をさらに二つに分けるような『エッサイの樹』と呼ばれる柱には 使徒姿のヤコブとアブラハムの家系図を木の枝で表した彫刻が所狭しと彫られて いるが、これらはいずれも十二世紀の彫刻家マテオが二十年かけて彫り付けた ものである。 79 楽器 ○ 同じく「栄光の門」の中央の扉のファサードに彫刻された、神の御座を取り囲む 24 人の老人がもつ楽器を参考にチョイスする。 80 巡礼の歌 ○ 物語中でレオナールが訪れたクラビッホの古戦場跡を過ぎた先にある小麦工場 の壁に書かれている巡礼路中最も有名な詩に曲をつけたもの。 長いのでここでは書かないが、ナヘラ近郊の村の司祭エウヘニオ・ガリバイ・ バーニョスが巡礼者に問いかけるように書いた励ましの詩である。 以上。長々とお付き合い頂きありがとうございます。 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