島村抱月のワイルド紹介

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島村抱月のワイルド紹介
文芸協会解散と共に、芸術座を創設し、演劇人として注目を浴びた島村抱月(瀧
太 郎 )(1871-1918)に つ い て は「 第 2 章
大 正 時 代 」で 取 り 上 げ る こ と に し 、こ こ で
は明治時代の島村抱月を唯美主義の観点からいち早くワイルドを紹介した美学者と
しての一面を取り上げたい。
(1) 島 村 抱 月
島 村 抱 月 は 明 治 4 年 (1871)に 島 根 県 に 父 ・ 佐 々 山 一 平 、 母 ・ チ セ の 長 男 と し て 生 ま
れ た 。名 は 瀧 太 郎 。明 治 23 年 (1890)2 月 に 上 京 し 、東 京 物 理 学 校 、日 本 英 学 校 、私
立 商 業 学 校 等 で 、英 語 、数 学 、理 科 等 を 学 び 、郷 里 の 先 輩 で あ る 森 鷗 外 (1862-1922)
を 訪 ね て 、進 学 の 相 談 を し た こ と も あ る 。明 治 24 年 (1891)6 月 に 島 村 県 那 賀 濱 田 町
裁 判 所 検 事 島 村 文 耕 の 養 子 と な り 、島 村 と 改 姓 。同 年 10 月 に 東 京 専 門 学 校 文 学 科 に
入 学 し た 。こ の 年 に『 早 稲 田 文 学 』が 創 刊 さ れ 、さ ら に 坪 内 逍 遙 (1859-1935)と 森 鷗
外 の 間 に 没 理 想 論 争 が 起 き て い た 。抱 月 は 、逍 遙 と 大 西 祝 (1864-1900)と の 影 響 を 強
く 受 け た と 言 わ れ て い る 。明 治 27 年 (1894)7 月 に 東 京 専 門 学 校 文 学 科 を 卒 業 。卒 業
論 文「 覚 の 性 質 を 概 論 し て 美 覚 の 要 状 に 及 ぶ 」は 、
「 審 美 的 意 識 の 性 質 を 論 ず 」と し
て 改 題 さ れ て 『 早 稲 田 文 学 』 (9 月 ∼ 12 月 )に 発 表 さ れ た 。
こ こ で 、明 治 24 年 (1891)の 東 京 専 門 学 校 の 状 況 を 見 て み る と 、
「 島 村 抱 月 と 美 学 」、
あるいは「島村抱月とワイルド」との接点を知る手掛かりとなる。まず、増田藤之
助 が ‘ The Soul of Man under socialism'を 抄 訳 し た の が 明 治 24 年 (1891)の こ と で
あ っ た 。 同 じ 明 治 24 年 に は 大 西 祝 (1864-1900)が 論 理 、 心 理 、 美 学 、 西 洋 哲 学 史 の
講 義 を 擔 当 、翌 年 に は 小 屋( 大 塚 )保 治 (1868-1931)も 美 学 を 擔 当 し た 。抱 月 に は 日
本の美学の先駆者である大西祝や大塚保治などの講義を受ける機会があった。抱月
の 美 学 へ の 関 心 に つ い て は 、昭 和 55 年 (1980)の 佐 渡 谷 重 信『 抱 月 島 村 瀧 太 郎 論 』
(明
治書院)がよい参考となる。抱月が坪内逍遙や金子筑水と共に『早稲田文学』の創
刊 に 尽 力 し た の も 明 治 24 年 (1891)10 月 の こ と で あ っ た 。
明 治 31 年 (1898)9 月 よ り 東 京 専 門 学 校 文 科 講 師 と な り 、 1 年 に 美 辞 学 、 2 年 に 支
那 文 学 史 、 3 年 に 西 洋 美 学 史 を 講 じ た 。 抱 月 は 明 治 35 年 (1902)3 月 に は イ ギ リ ス 、
ド イ ツ に 留 学 。 5 月 7 日 に ロ ン ド ン 到 着 。 10 月 よ り オ ッ ク ス フ ォ ー ド 大 学 で 聴 講 を
開 始 し た 。明 治 37 年 (1904)7 月 に ド イ ツ に 渡 り 、10 月 よ り ベ ル リ ン 大 学 で 聴 講 を 開
始 し た 。明 治 38 年 (1905)6 月 に ベ ル リ ン を 経 ち 、フ ラ ン ス 、イ タ リ ア 、イ ギ リ ス を
経 て 、9 月 12 日 に 帰 国 し た 。10 月 よ り 早 稲 田 大 学 文 学 科 講 師 と な り 、美 学 、近 代 英
文 学 史 、 欧 洲 近 代 文 藝 史 、 文 学 概 論 等 を 講 じ た 。 留 学 中 の 抱 月 に つ い て は 平 成 10
年 (1998)の 岩 佐 壮 四 郎 『 抱 月 の ベ ル ・ エ ポ ッ ク 』( 大 修 館 書 店 ) が よ い 参 考 と な る 。
帰 国 後 に 早 稲 田 大 学 教 授 と な り 、 明 治 39 年
(1906)に 『 早 稲 田 文 学 』 を 再 刊 し た 。
再刊(第2次)の第1号には「囚われた文芸」を寄稿し、ワイルドへの言及はない
1
もののラファエル前派などへの言及がある。
(2)「 英 国 の 尚 美 主 義 」
抱 月 は 明 治 39 年 (1906)に 芸 宛 社 講 演 会 で「 英 国 の 尚 美 主 義 」と 題 し た 講 演 を 行 い 、
そ の 内 容 を 明 治 40 年 (1907)に 『 明 星 』( 末 歳 第 9 号 ) で 発 表 し た 。 さ ら に 、 そ の 講
演 は 明 治 42 年 (1909 年 )の 『 近 代 文 藝 之 研 究 』( 早 稲 田 大 学 出 版 部 ) に 収 録 さ れ た 。
是れから述べますのは英国尚美主義の話でありますが、尚美主義はまた唯美主
義 、審 美 主 義 と も 訳 し ま し て 、英 語 の イ ー ッ セ チ シ ズ ム Aestheticism が そ れ で す 。
⁽1 ⁾
抱 月 は 尚 美 主 義 の 起 源 を ウ ォ ル タ ー ・ ハ ミ ル ト ン (Walter Hamilton, 1844-1899)
とノルダウを土台にして、尚美主義を世紀末フランスのデカダンスからではなく、
ラ フ ァ エ ル 前 派 に 淵 源 す る 流 れ と し て 説 明 し た 。 参 考 に し た の は ハ ミ ル ト ン の The
Aestheticism Movement in England (1882) と ノ ル ダ ウ の Degeneration (1892-1893:
英 訳 , 1895)が 中 心 で あ る 。
さて此主義が如何にして起つたかと云ふ話に戻りますと――断って置きますが、
之は英吉利のウォルター、ハミルトンと云ふ人の書いた書物を土臺にし、他の
書物を参考として調べたのです――此派の運動はノルドオの説によると夫の佛
蘭 西 の ボ ド レ ァ 、今 か ら 丁 度 四 十 年 許 り 前 に 死 ん だ 詩 人 が 本 で あ っ た ら し い 。( 2 )
The Aestheticism Movement in England に つ い て 少 し 紹 介 し て お き た い 。 同 書 の
“ Contents” は 以 下 の 通 り で あ る 。
The Pre-Raphaelites
The Germ
John Ruskin
The Grosvenor Gallery
Aesthetic Culture
Poets of the Aethetic Schoool
William Michael Rossetti
Arthur W. E. O’ Shaugenessy
Thomas Moolner
William Morris
Algernon Charles Swinburne
2
Dante Gabriel Rossetti
Joas Fisher: A Poem in Brown and White, and Mr. Robert Buchanan
Punch’ s Attacks on the Aesthetes
Mr. Oscar Wilde
The Home of the Aesthetes
Conclusion
さ て 、 こ の 中 で “ The Pre-Raphaelites” と “ Mr. Oscar Wilde” に 注 目 し て お き た
い 。“ The Pre-Raphaelites” の 冒 頭 は 以 下 の 通 り で あ る 。
In the year 1848 there were studying together in the art school of the
Royal Academy, four every young men, namely, Holman Hunt, John Everett
Millais, Dante Gabriel Rossetti, and Thomas Woolner, the first three being painters, the last a sculptor.
Endowed with great originality of
genius, combined with remarkable industry, they formed amongst themselves
the daring project of introducing a revolution into the arts of painting
and sculpture, as then practiced in England.
But 1848 was fertile in England. ( 3 )
続 い て “ Mr. Oscar Wilde” の 冒 頭 と 最 後 の パ ラ グ ラ フ を 紹 介 し て お き た い 。
It is seldom, indeed, that so very young a man as Mr. Oscar Wilde comes
so prominently into public notice, and it would be neither truthful nor
complimentary to ascribe the notoriety he has obtained entirely to his
own exertions.
The ridicule that has been lavished on his actions and dress
is as unreasonable, as the excessive adulation which his poems have earned
from some of the intense AEsthetes, who look upon him as the exponent of
their most extreme ideas.
(4)
Botticelli and E. Burne-Jones, Oxford and Japan, Romeo and Juliet at the
Lyceum Theatre and Patience at the Savoy, Wagner and Sullivan, Swinburne
and Oscar Wilde; how widely asunder do these all sound, how dissimilar
their attributes, yet each and all in a manner aggregate to form the
AEesthetic school, and have helped it to the poisiton it holds at present,
hight in the estimation of all true lovers of the ideal, the passionate,
and the beautiful.
(5)
3
ハミルトンは本書の中でオスカー・ワイルドの生まれと育ちを紹介したあと、
“ Ravenna” を は じ め 、“ La Belle Marguerite” な ど 、 ワ イ ル ド の 詩 作 を 中 心 に 取 り
上 げ 、そ の 後 は ア メ リ カ 講 演 旅 行 を 取 り 上 げ て い る 。The Aestheticism Movement in
England が 出 版 さ れ た の が 明 治 15 年( 1882)で あ る か ら 、The Decay of Lying (1891)
発 表 以 前 の こ と で あ る 。 The Decay of Lying は 最 初 、 Nineteen Century (25)に 掲
載 さ れ た の が 明 治 22 年 (1889)で あ る か ら 、ハ ミ ル ト ン の The Aestheticism Movement
in England に は 当 然 取 り 上 げ ら れ て い な い の で あ る 。 ノ ル ダ ウ の Degeneration は
明 治 25-26 年 (1892-1893)に 出 版 さ れ た も の で あ る か ら 、 ハ ミ ル ト ン の あ と 10 年 間
にワイルドの作品が反映されるべきであるが、果たしてどうであろうか?(ノルダ
ウ に つ い て は 、今 後 の「 書 誌 か ら 見 た 日 本 ワ イ ル ド 受 容 研 究( 大 正 編 )」で 述 べ る こ
と と る す る ) こ こ で ワ イ ル ド の お も な 作 品 を 1892 年 ま で 時 系 列 で 示 し て み た い 。
1875 Nov.
“Chorus of Cloud-Maidens”in Dublin University Magazine .
1877 July
“The Grosvenor Gallery”in Dublin University Magazine .
1878 June
Ravenna.
1881 June
Poems.
1881 24 Dec.
Sails for New York.
1882 Jan.-Oct.
Lectur es in the USA and Canada.
1882 27 Dec.
Sails from New York to England.
1883 Jan.-M ay
In Par is.
1883 mid-May
Returns to London.
1883 2 Aug.
Sails for New York.
1883 20 Aug.
Vera; or, The Nihilists opened and closed in a week.
1883 11 Sep.
1888 M ay
1890 20 June
Sails for England.
The Happy Prince and Other Tales .
The Picture of Dorian Gray in Lippincotts Monthly
Magazine.
1891 26 Jan.
The Duchess of Padua , under the title of Guido
Ferranti , is produced in New York and closes in
Three weeks.
1891 ? 24 Apr. The Picture of Dorian Gray (revised and expanded)
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published in book for m.
1891 2 May
Intentions (containing “The Decay of Lying,”“Pen,
Pencil and Poison,”“The Critic as Ar tist,”and
“The Truth of M asks”published.
1891 July
Lord Arthur Savile’s Crime and Other Stories published.
1891 Nov.
A House of Pomegrannates published.
1892 20 Feb.
Lady Windermere’s Fan opens at the St.James’s Theatre.
1892 26 M ay
“Author ’s Editon”of Poems published (identic al with the
1882 rev. edition of the 1881 public ation).
1892 June
Salomé denied a license by Lor d Chamberlain for public
Performance/
1892 July
Lady Windermere’s Fan ends its run in London. ( 6 )
さらに、英国の尚美主義については以下のように説明している。
英國の尚美主義と云ふものが果たして直接に佛蘭西から来たのであるかどうか
は暫く別として、是れが一方英國の夫のラファエル前派運動といふものを父と
して生まれて来たものであることは明らかである。即ちラファエル前派の續き
が尚美主義である。系統は左様であるが、主義其者はと云へば大に變つてゐる
こ と も 認 め ね ば な り ま せ ん 。( 7 )
尚 美 主 義 の 人 と し て ウ ィ リ ア ム ・ モ リ ス (William Morris, 1834-1896)、 ス ウ ィ ン バ
− ン (Algernon Charles Synburne, 1837-1909)そ れ に オ ス カ − ・ ワ イ ル ド を 取 り 上
げ 、 ワ イ ル ド に つ い て は 「 尚 美 主 義 に 於 け る 立 場 は む し ろ 実 行 者 」 ⁽ 8 ⁾あ る こ と と
ワイルドの尚美主義の定義が紹介された。
オスカー、ワイルドの尚美主義に下した定義といふものを見るに、第一、芸術
は芸術みづからを目的とする。隨って第二には芸術は人生、自然、思想などい
ふものに頼ることなし。悪芸術は此等を目的とする所に生ずる。總べて此等の
ものは一旦芸術の型に入れて始めて妙がある。
第三に較もすれば人は芸術が人生を模すると云ふが倒様である、人生が却て
芸 術 を 模 す る も の で あ る 。 ⁽9 ⁾
こ の 定 義 は The Decay of Lying に 示 さ れ た ワ イ ル ド の 芸 術 観 を 紹 介 し た も の で あ る 。
The Decay of Lying に は 次 の よ う な 表 現 が あ る 。
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Art never expr esses anything but itself.
It has an independent life,
just as Thought has, and develops purely on its own lines. ( 1 0 )
All bad art comes from returning to Life and Nature, and elevating
them into ideals.
(1 1 )
Life imitates Ar t far more than Art imitates Life.
(1 2 )
抱 月 は 「 随 分 と 思 ひ 切 っ た 當 時 一 般 の 風 俗 に 対 す る 反 抗 主 義 で あ っ た の で す 」( 1 3 )
とワイルドの当時の受け入れ方について触れている。さらに「斯様な主張を以て居
る こ と が 世 間 一 般 か ら 極 端 な 邪 論 と し て 罵 ら れ る 傾 向 を 以 て ゐ る 」( 1 4 ) と し 、ワ イ
ルドの衣服へと話題が移って行くことになる。その結論部分では、抱月は結論的批
評を述べるとし、次のように述べている。
尚美主義といふものゝ中には、凡そ三點の注意すべき箇條がある。即ち第一は、
ビュカナンの所謂肉感的といふこと、第二は藝術は藝術みづからの為と稱して
思想道徳の凡てから獨立しやうとすること、第三は情緒の強いのを主として自
己といふものを餘りに明かに掲げ出さんとすること(15)
抱月はさらに、尚美主義やラファエル前派と対立していたロバート・ビュカナン
(Robert Buchanan, 1841-1901)や オ ペ ラ 『 ペ イ シ ェ ン ス 』 ( Patience , 1881)な ど に
つ い て も 言 及 し て い る 。 こ の 講 演 で ワ イ ル ド の 芸 術 観 を The Decay of Lying を 中 心
に紹介したことはデカダン論に偏っていたこれまでの紹介とは大きく違うものであ
る 。 さ ら に 、「 第 三 の 自 己 の 登 場 と い ふ こ と 、 是 れ に こ そ 重 要 の 意 味 が あ る 」( 1 6 )
としている。
自己を代表するには情緒の熱烈なる発動の外途がなかった。所がそれもはやり
例の極端に行つて、情緒の熱烈は誇張となり奇矯となり遂にオスカー、ワイル
ドの如き人を出して一挙一動みな自己の廣告と見られるやうな事をする、ノル
ド オ の 所 謂 自 己 狂 と な り 了 つ た の で あ り ま す 。( 1 7 )
抱月は自己主観を優先する見解と写実的自然派的見解については、
「主客両体の融合
を 見 出 す と い ふ 如 き 道 を 求 め る 」( 1 8 ) と 述 べ て い る が 、こ の 講 演 で は 述 べ 尽 く せ な
い と し て 、明 言 を 避 け て い る 。ま た 、講 演 中 に The Decay of Lying に つ い て は 全 く
触れていないことも付け加えておきたい。
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(3) 日 本 の 美 学 史 と ワ イ ル ド の 紹 介
島 村 抱 月 の 美 学 へ の 関 心 は 明 治 24 年 (1891)10 月 に 東 京 専 門 学 校 に 入 学 し て 以 降
のことで、坪内逍遙と森鷗外の没理想論争や大西祝による影響があったようだ。当
時 の 日 本 の 美 学 研 究 の 様 子 を 見 て み る と 、 明 治 22 年 (1889)に フ ェ ノ ロ サ ( Ernest
Francisco Fenollosa, 1853-1908) が 東 京 美 術 学 校 で 美 学 ・ 美 術 史 の 講 義 を 始 め て
い る 。明 治 24 年 (1891)に は 逍 遙・鷗 外 の 没 理 想 論 争 に よ っ て ハ ル ト マ ン (Eduard von
Hartmann, 1842-1906)を 武 器 に し た 鷗 外 の 審 美 学( 美 学 )が 知 ら れ る よ う に な っ た 。
抱 月 は 明 治 27 年 (1894)に 東 京 専 門 学 校 文 学 科 を 卒 業 、 そ の 後 は 東 京 専 門 学 校 文 科
講師となり、留学直前に『新美辞学』を発表したのである。
日 本 の 美 学 史 に つ い て 簡 単 に 触 れ て お き た い 。ま ず 、
「世界で最初に独立した美学
の 講 座 が 開 設 さ れ た の は 日 本 に お い て で あ る 」( 1 9 ) と い う 。こ れ は 美 学 が 哲 学 の 講
義の一環として講じられてきた西洋とは違い、日本では美学が独立した学問分野と
し て 早 く か ら 位 置 付 け ら れ て い た の で あ る 。 日 本 で の 美 学 の 始 ま り は 、 明 治 12 年
(1879)の『 修 辞 及 華 文 』
( 文 部 省 )、明 治 16 年 (1883)か ら 翌 年 に か け て 上 下 二 冊 の 形
で 出 版 さ れ た 『 維 氏 美 学 』( 文 部 編 輯 局 ) の 二 冊 を 取 り 上 げ て お き た い 。『 修 辞 及 華
文 』は 百 科 全 書 の 一 冊 と し て 刊 行 さ れ 、菊 池 大 麓 (1855-1917)に よ っ て 訳 さ れ た も の
で あ る 。『 維 氏 美 学 』 は フ ラ ン ス の ユ ー ジ ェ ン ヌ ・ ウ ェ ロ ン (Véron Eugène,
1825-1889)の 『 美 学 』 (L’ esthétique, 1878)を 中 江 兆 民 (1847-1901)が 訳 し た も の
である。
「 美 学 」の 名 称 の 起 こ り は 本 書 か ら と 言 わ れ て い る 。し か し 、何 故 、文 部 省
が本書を選んで翻訳させたのかは疑問が残るところであり、森鷗外によれば、美術
や 文 学 に 影 響 を 与 え な か っ た と 述 べ て い る の で あ る 。( 2 0 )
明 治 初 期 の 美 学 あ る い は 美 術 と い っ た 所 謂“ art”を ど う と ら え る か が 西 洋 文 化 を
どうとらえるかにも繋がると考えられよう。美学の流れのほかにも「美術」という
用 語 に つ い て も 注 目 し て お き た い 。明 治 5 年 (1872)の 西 周 (1829-1897)に よ る『 美 妙
学 説 』( 御 進 講 )、 明 治 15 年 (1882)の フ ェ ノ ロ サ 『 美 術 眞 説 』( 大 森 惟 中 筆 記 )、 同
年には東京大学に審美学の科目の設置などの動きがあった。
抱月は日本で最初に本格的にワイルドを紹介した美学者であると言っても過言で
は な い だ ろ う 。 日 本 の 美 学 受 容 史 に つ い て は 昭 和 61 年 (1981) の Doi Yoshio の
“Bruno Taut in Japan" (Aesthetics . 2.
The Japanese Society For Aesthetics)、
平 成 2 年 (1990) の Kaneda Tamio の “NAKAGAWA Jur ei und die japanische
Ästhetik um die jahrhundertmende" ( Aesthetics. 4.
The Japanese Society For
Aesthetics)、 平 成 2 年 (1990)の 浅 岡 潔 『 美 学 史 研 究 序 説 』( や し ま 書 房 )、 平 成 12
年 (2000)の 浜 下 昌 宏「 実 学 と し て の 美 学 − − 西 周 に よ る 西 洋 美 学 受 容 」、太 田 喬 夫「 大
西克礼と講壇美学の特色」
( 神 林 恒 道 編『 日 本 の 芸 術 論 − − 伝 統 と 近 代 』ミ ネ ル ヴ ァ
書 房 ) な ど が よ い 参 考 と な る 。 ま た 、 大 正 8 年 (1919)の 『 抱 月 全 集 』( 天 佑 社 ) は 、
昭 和 54 年 (1979)に 日 本 図 書 セ ン タ − よ り 復 刻 さ れ て い る 。 日 本 の 美 学 の 先 駆 者 で
7
あ り 、 抱 月 に 多 大 な 影 響 を 与 え た 大 西 祝 に つ い て は 明 治 37 年 (1904)の 大 西 祝 『 大
西 博 士 全 集 』( 第 7 巻 , 警 醒 書 店 : 日 本 図 書 セ ン タ − よ り 復 刻 , 1982)が よ い 参 考 と
な る 。美 学 者 島 村 抱 月 の 影 響 は 、彼 の 教 え 子 で あ る 本 間 久 雄 に 見 る こ と が で き よ う 。
後 に 詳 し く 解 説 す る こ と に な る が 、 本 間 久 雄 が 明 治 42 年 (1909)に 発 表 し た 「 人 生
も 自 然 も 芸 術 の 模 倣 也 」で も ワ イ ル ド の 芸 術 観 を The Decay of Lying か ら 紹 介 し た
のである。
参考資料
大 西 祝 『 大 西 博 士 全 集 』( 第 7 巻 、 警 醒 書 店 、 1904 年 )
『 抱 月 全 集 』( 天 佑 社 、 1919 年 )
川 副 國 基 『 島 村 抱 月 』( 早 稲 田 選 書 )( 早 稲 田 大 学 出 版 部 、 1953 年 4 月 )
金 田 民 夫 『 明 治 期 の 美 学 と 芸 術 思 想 』( 昭 和 54 年 度 科 学 研 究 費 < 総 合 研 究 A > 研 究
成 果 報 告 書 、 1979 年 )
『 抱 月 全 集 』( 日 本 図 書 セ ン タ ー 、 1979 年 9 月 )
佐 渡 谷 重 信 『 抱 月 島 村 瀧 太 郎 論 』( 明 治 書 院 、 1980 年 10 月 )
Doi Yoshio“Bruno Taut in Japan" (Aesthetics . 2.
The Japanese Society For
Aesthetics, 1981)
大 西 祝 『 大 西 博 士 全 集 』( 第 7 巻 、 日 本 図 書 セ ン タ ー , 1982 年 )
稲 村 元 監 修『 近 代 作 家 追 悼 文 集 成 』
( 第 6 巻 、島 村 抱 月
大須賀乙字)
(ゆまに書房、
1987 年 1 月 )
川 副 國 基 『 島 村 抱 月 』( 近 代 作 家 研 究 叢 書 54)( 日 本 図 書 セ ン タ ー 、 1987 年 10 月 )
Kaneda
Tamio“NAKAGAWA
Jurei
jahrhunder tmende" ( Aesthetics. 4.
und
die
japanische
Ästhetik
um
die
The Japanese Society For Aesthetic s、
1990)
金 田 民 夫 『 日 本 近 代 美 学 序 説 』( 法 律 文 化 社 、 1990 年 3 月 )
浅 岡 潔 『 美 学 史 研 究 序 説 』( や し ま 書 房 , 1996 年 3 月 )
山 田 勝 編 『 オ ス カ ー ・ ワ イ ル ド 事 典 』( 北 星 堂 書 店 、 1997 年 10 月 )
岩 佐 壮 四 郎 『 抱 月 の ベ ル ・ エ ポ ッ ク 』( 大 修 館 書 店 、 1998 年 5 月 )
佐 々 木 隆 「 明 治 時 代 の ワ イ ル ド 受 容 」(『 武 蔵 野 短 期 大 学 研 究 紀 要 』 第 13 輯 、 武 蔵
野 短 期 大 学 、 1999 年 6 月 )
神 林 恒 道 編 『 日 本 の 芸 術 論 − − 伝 統 と 近 代 』 ミ ネ ル ヴ ァ 書 房 、 2000 年 4 年
大 西 祝 『 大 西 博 士 全 集 ( 新 装 版 )』( 第 7 巻 、 日 本 図 書 セ ン タ ー , 2001 年 10 月 )
神 林 恒 道 『 美 学 事 始 』( 勁 草 書 房 、 2002 年 9 月 )
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注
(1) 島 村 瀧 太 郎 「 英 国 の 尚 美 主 義 」(『 近 代 文 藝 之 研 究 』 早 稲 田 大 学 出 版 部 、 1909
年 6 月 ) , p.581. 初 出 は 『 明 星 』( 末 歳 第 9 号 、 1907 年 9 月 )。
(2) Ibid., p.583
The Aesthetic Movement in England (London: Reeves &
(3) Walter Hamilton.
Turner, 1906), p.1.
(4) Ibid., p.85.
(5) Ibid., p.110.
(6) Karl Beckson.
The Oscar Wilde Encyclopedia (New York: AMS Press,
1998), pp.xv-xvi.
(7) 「 英 国 の 尚 美 主 義 」 , pp.584-585
(8) Ibid., p.588.
(9) Ibid., p.588.
(10) The Complete Works of Oscar Wilde, p.991.
(11) Ibid, p.991.
(12) Ibid, p.992
(13) 「 英 国 の 尚 美 主 義 」 , p.588.
(14) Ibid., pp.588-589.
(15) Ibid., p.592.
(16) Ibid., p.594.
(17) Ditto.
(18) Ditto.
(19) 神 林 恒 道 『 美 学 事 始 』( 勁 草 書 房 、 2002 年 9 月 ) , p.93.
(20) Ibid., p.94.
9