1 「ビダ・ミーア」考(改訂版) -誌上鑑賞- 齋藤冨士郎 日本タンゴ

「ビダ・ミーア」考(改訂版)
-誌上鑑賞-
齋藤冨士郎
日本タンゴ・アカデミーの名誉会長であった故大岩祥浩氏がかつてオスバルド・フレセ
ドにご自身の作品の中で何の曲が一番いいですかと尋ねられた時に,その答えが「ビダ・
ミーア」であった[1]という話は,そのことを伝え聞いた我国の大方のタンゴファンにとっ
て全く予想外であったに違いない。フレセドといえば誰でも「エル・オンセ」,「アラバレ
ーロ」や「ソジョーソス」
,
「ポル・ケ?」
,「エル・エスピアンテ」を思い浮かべるのに,
選りに選ってあの「ビダ・ミーア」とは何たることだと皆が思ったであろう。私自身も勿
論ずっとそうであった。ところが最近になって「おや?」と思う CD に出くわして少し考
えが変わってきた。
きっかけとなった CD は 2003 年に epsamusic からリリースされた 5 枚組みの CD “TANGO
EN VIVO”「G」
,
「O」
,
「T」
,
「A」
,
「N」の中の「A」: “Los cantantes”である。この中の 4
曲目に男性歌手のギジェルモ・フェルナンデスがピアノ伴奏で歌う「ビダ・ミーア」が収
められているが,これが何と 4 分 30 秒を越える熱唱である。クラシックの歌曲(リード)
なみと言っては言い過ぎであるが,これまで私が抱いてきた「ビダ・ミーア」のイメージ
とは随分とかけ離れた歌唱である。「一体,「ビダ・ミーア」とはこんな歌だったのだろう
か?」と思い始めた。そこで少し調べてみると「ビダ・ミーア」は結構いろいろな歌手や
楽団が取り上げている。高場将美氏はフレセドの作品には他のアーティストによる録音が
少ないことを指摘しておられる[2]が,
「ビダ・ミーア」は例外のようである。
「ビダ・ミー
ア」は確かにメロディは美しいが,そうかと言ってフレセドの他の作品と比べてもそれほ
ど傑出したものとも思えない。大岩祥浩氏は「ビダ・ミーア」がフレセドに多大な収入を
もたらしたためだろうという見解を述べておられる[1]。確かにその通りであろうが,では
なぜこの曲がそういう結果をもたらしたのだろうか? 何人かの歌手が「ビダ・ミーア」
を取り上げていることを考えると,秘密は曲想よりも歌詞にありそうである。
本稿の末尾に「ビダ・ミーア」の歌詞の邦訳を原詞と並べて掲げた。タンゴの歌詞の内
容をとやかく言うならばスペイン語に通じていることが大前提であるが,私は今更言うま
でも無くスペイン語については全くの門外漢である。それで仕方なく邦訳に頼らざるを得
ないことを予めお断りしておく。この邦訳では「ビダ・ミーア(Vida mia)」はタイトルでは
「恋人よ」と訳されており,歌詞の中でも「恋人よ」と訳されている。この他にも「わが
命のひと」とか「君こそわが命」と訳されている例もある。いずれも”Vida”を「自分にと
って大切な人(男か女かはわからないが)」と解釈していることになる。たしかに歌詞の中
には”te”,”tus”,”ella”などの人称代名詞が”Vida”を指すのに使われている。しかし Vida”をこ
のように解釈するとどうも歌詞の他の部分とよく整合しないように私には思える。冒頭
の”Siempre igual…”から始まって”…Para que lo envidie yo”に至る 11 行はどう見ても「自分
にとって大切な人」のイメージと結びつかない。それに続く”Vida mia, lejos mas te quiero…”
から“…y asi ahogar mi soledad”に至る 13 行はそれらしい言葉が並んでいるが,それでも何
となく抽象的で何を言おうとしているのかわからないところがある。そして最後の”Ya
parece que la huella…”から”…Ella una la encendio.”の部分もあまり「人」には関係の無いよ
うな語句が並んでいる。だから”Vida mia”を「人」と解釈する邦訳に頼る限り,この歌詞
1
は(少なくとも私には)何を言っているのかよくわからない。
私は”Vida mia”は「人」ではなく,文字通り「我が人生」,
「他の誰のでもない我が人生」
と解すべきではないかと思う。”Mi vida”ではなく”Vida mia”としたところにその気持ちが
現れているのはないだろうか。そしてそう解釈すれば歌詞全体の辻褄が合うように思われ
る。歌詞の中で現れる人称代名詞も現実に「ある人」を指しているのではなく,
「我が人生」
を擬人化した表現と考えるべきではなかろうか。
冒頭の 11 行は人生を,そして人生の途中で起こるいろいろな出来事を,アルゼンチンの
パンパの大草原を何処までも伸びる道として象徴的に表現していると解したい。日本では
このような風景は北海道でもないとお目にかかれないが,パンパの大草原では普通の光景
ではなかろうか。8~9 行目の”Lejos toca el cielo cerca de mi amor…”も「遠く,私の恋人の
いるあたりで空にまじわっている」ではなく「遠く,私の求めるもののあたりで...
」とし
た方が話が合うようである。これは言い換えれば「私の人生の目標とするものは永遠に届
かない所にある」と言っているようでもある。あるいは別な見方として「我が人生の到達
点=死」の先にある「天国への階段」を指しているとも取れる。もしこれを邦訳のように
「遠く,私の恋人のいるあたりで」とすると,その「恋人」が何故そんな遠くにいるのか
がわからない。
また 14~16 行目の”Se que oro….te quiero mas.”のくだりも如何にも「人」に対して言っ
ているようであるが,これも「私の人生は私だけのものであって金では買えるようなもの
ではないのだ,だからなおさら私は私の人生を愛する」と解釈した方が良いように思う。
そして最後の 10 行は人生の黄昏からやがて迫り来る死に至る道筋と解釈できる。
パンパ
の大草原に日が暮れると空は満天の星であろう(最近の日本ではそのような星空には殆ど
お目にかかれないが)
。その星の一つにいずれは自分もなると言っているようだ。
「人が死
ぬと星になる」と子供の頃聞かされた人は多いと思うが,アルゼンチンでもそういう発想
があるのだろうか,
それともそういう発想自体が元々西洋のものであったのかもしれない。
高場将美氏はエミリオ・フレセドの作詞の「弱さ」を指摘しておられる[2]。「ビダ・ミ
ーア」について言えば,もし”Vida mia”を邦訳のように「人」を指すものと解釈すれば,
やはり他の作品と同様に「弱い」ということになるかもしれない。しかし”Vida mia”を文
字通り「我が人生」と解釈すれば,一見甘美なようで中味は結構シリアスな歌詞と見るこ
ともできる。この意味で「ビダ・ミーア」はエミリオ・フレセドの作品の中ではむしろ例
外に属するというべきかもしれない。
“Vida mia”をこのように「他の誰のでもないわが人生」と解すれば,この曲がアルゼン
チンの人々に広く受け入れられている理由がわかるような気がする。つまりこの曲は歌う
人が,プロの歌手であろうと素人であろうと,それぞれ自分の人生-最近,流行の言葉を使
えば自分史-を歌詞に投影し,その結果として自分自身の感動を表現する,言い換えれば
自分自身の解釈を込めて歌うことを可能とする。歌曲の場合,歌詞の解釈(インテルプレ
タシオン)がやかましくいわれるが,
「ビダ・ミーア」の場合は改めて「解釈」を言わなく
ても,自動的に「解釈」が行われてしまう。そこがわざわざ「解釈」を必要とする他の曲
と違う所である。だからこの曲の場合は改まった解釈は不要でむしろ「余計なお世話」で
もある。勿論,これは歌詞が十分に理解できることを前提にしているから,スペイン語の
辞書と首っ引きレベルの私などには到底手の届かない世界である。フレセドの他の作品と
2
違って「ビダ・ミーア」は 1970 年代以降もいろいろな歌手が取り上げている。これも 1970
年代以降のアルゼンチンの政治・経済情勢とのからみで人々が以前に比べてより自分の人
生を見つめ直すようになったことと上に述べたようなこの曲の独特の性格とが結びついた
結果ではないかと推察する。また「ビダ・ミーア」のこのような性格からして,この曲は
プロの歌手に限らず,一般の人々がそれぞれ自分の人生を振り返りながら,あるいは将来
を考えながら自分で歌うことも十分あり得ることである。アルゼンチンにカラオケがある
かどうか知らないが,若しあるとすれば「ビダ・ミーア」は最もリクエストの多い曲の代
表になるかもしれない。
このように考えると「ビダ・ミーア」はやはり歌われてこそ真価を発揮するのであって,
これをインストゥルメンタルの曲として演奏したのでは本当の良さは引き出せないのでは
なかろうか。ここに日本ではフレセドの作品の中で「ビダ・ミーア」がそれほど高い評価
を得ていない理由があると思われる。このような観点から「ビダ・ミーア」のいくつかの
歌唱と楽団演奏を誌上鑑賞してみよう。
① O.フレセド-R.ライ(RCA AVS-4393(LP)
)
② O.フレセド-H.パチェコ(EMI-ODEON
TOCP-6820)
自作自演といえば大体は名演のはずであるが,これらの演奏を聴いている限り「ビダ・
ミーア」がそれほど傑出した曲とはどうしても思えない。
「ビダ・ミーア」は楽団付きのエ
ストリビジョ歌手が歌詞の一部だけを歌ったのでは,言い換えればオルケスタ演奏の添え
物として扱われたのでは美しいけれども,あまり骨太ではない曲に聴こえてしまうのであ
って,やはりソリスタによって全歌詞を通して歌われて始めて真価が顕れると考えたい。
③ ギジェルモ・フェルナンデス
(クリスティアン・サラテのピアノ伴奏) (epsamusic
0421-02)
④ リディア・ボルダ (アレハンドロ・シュワルツ楽団伴奏) (epsamusic 0267-02)
③は 2003 年の,④は 2002 年の録音であるから共に「ビダ・ミーア」の最も新しい録音
である。冒頭にも述べたように,③で G.フェルナンデスはピアノ伴奏で 4 分 30 秒余りの
熱唱を披露しており,この曲はこのように歌うこともできるのだ,という認識を我々に与
えてくれる。L.ボルダの歌も中々よいが,伴奏の勢いが少々良すぎてタンゴ・ロマンサと
してのこの曲の味を殺しているのが残念である。G.フェルナンデスも L.ボルダも現代の歌
手であり,この二人の場合はそれぞれ成功への道を歩んできた自分の人生を「ビダ・ミー
ア」の歌詞に投影していると同時に,聴衆に向かってもそれぞれの人生を振り返り,また
将来への希望を持つことを呼びかけているようである。それが今の時代の「ビダ・ミーア」
なのであろう。
⑤ リベルタ・ラマルケ (ペドロ・バルガスとの2重唱,オルケスタ伴奏)
(RCA Victor
AVS-6104(LP)
)
この録音は 1973 年のメキシコ録音らしい[8]。華やかであったラマルケの生涯の中で最
も大きな出来事は言うまでも無く 1946 年から約 10 年に及ぶメキシコでの亡命生活である。
この件については多くの書物や資料では「エバ・ペロン(エビータ)との確執が原因で云々」
と記述されているが,実際には文字通りの「亡命」であったようだ。「1946 年 1 月 2 日に
双発機でエクアドルとの国境を越える。その後キューバ,ドミニカ共和国,プエルト・リ
コ,ベネスエラ,
.
.
.を経て 1946 年 4 月 4 日に初めてメキシコの地を踏んだ。
」と彼女自身
3
が記述している(AVS-6104 ライナーノート)ことからして,恐らくラマルケへの復讐の
念に燃えたエビータによる逮捕・投獄を察知しての危機一髪の脱出行であったのではない
かと想像する。わざわざ国境を越えたことを強調していることが当時の状況を偲ばせる。
またメキシコに到着するのに 3 ヶ月もかかっていることから,最初から計画されたメキシ
コ行きではなかったのかもしれない。そのエビータは子宮ガンに冒され 1952 年に 33 歳で
世を去り,一方,ラマルケはアルゼンチンに戻って再び大スターに返り咲く。この録音の
時ラマルケはすでに 64~65 歳であったと思われるが,その後も 30 年近く生き続け,2000
年 12 月 12 日に 92 年の天寿を全うした。この録音はペドロ・バルガスとの 2 重唱であり,
ラマルケは比較的軽く流している程度であるが,それがかえって「最後に勝ったのは私の
方よ!」とあの世のエビータに呼びかけているように聴こえる。やはりラマルケにとって
「ビダ・ミーア」は「他の誰のでもない私の人生」であったはずである。
⑥ ドラ・ダビス(オスバルド・レケーナのオルケスタ伴奏)(Microfon 2-493644)
ドラ・ダビスは内気な性格でラジオが専ら活躍の中心であり,映画や舞台,巡業は少な
かったらしいが,常に絶やすことの無い微笑と美しい歌声で人気があったようだ。そのこ
とは数少ない残された録音からも推察できる。この録音も正確な年次はわからないが 1974
年頃と推定され,この時彼女は 68 歳くらいであったと思われる[5]。いかにも昔は可愛か
ったであろうと思われるお婆さんの,声だけは可憐な歌声が楽しめる。ラマルケとは反対
に比較的平穏であったと思われるドラ・ダビスの人生がにじみ出ているような「ビダ・ミ
ーア」である。
⑦ ロサンナ・ファラスカ (オルランド・トリポリ4重奏団の伴奏)
(Polydor 531809 2)
R.ファラスカは 1983 年 2 月 20 日にガンのために 30 歳の若さで世を去っている。文字通
り美人薄命であった。彼女は自分がガンであるとは知らなかった,あるいはガンであるこ
とを信じようとはしなかったらしい[6]。彼女が死の前年の 1982 年にこの曲を録音した時
に[7],彼女はこの曲をどういう思いで歌ったのだろうか? 自分がガンであることを全く
知らずに歌ったのか,それともガンの告知はうけたものの,それを信じまいとして歌った
のか,いずれにしても彼女にとって「ビダ・ミーア」は他の人とは比べものにならない重
みを持っていたと考えねばならないし,聴く方にもそれだけの重みがのしかかってくるよ
うだ。
⑧ ラグリマ・リオス (ギター、コントラバス、パーカッション伴奏)
(ACQUA AQ 104)
ラグリマ・リオスは G. フェルナンデスと同様に歌詞を最後まで、即ち自らの死を暗示
する部分までしっかりと歌っている。歌詞を最後まで歌っているのは私の知る限りではこ
の 2 人だけのようである。
「ビダ・ミーア」は歌われることに意味がある曲であるから,この曲のインストゥルメン
タルの演奏でこれというものは少ない。
⑨ オスバルド・マンシとオクテート・マラブー(Microfon 2-493642)
これは大変美しいが,同時にまことに素直な演奏である。それだけ聴いたのでは特にど
うと言うこともないが,もしアルゼンチンにカラオケがあるとしたら,
「ビダ・ミーア」の
カラオケの伴奏としてこれは最適である。歌の得意な方は試しに歌って見られてはいかが
でしょうか。
⑩ オラシオ・サルガン-ウバルド・デ・リオ 2重奏
4
(PHILIPS 25PP-12)
2 重奏ではあるが実質的にはサルガンのピアノ・ソロでデ・リオのギターは完全に伴奏
に徹している。演奏スタイルはサルガン独自のモダンなスタイルとリズムの取り方である
が,それでいてピアノに実によく「ビダ・ミーア」を歌わせている。サルガンといえば超
絶技巧のピアノの名人というイメージであるが,ピアノに歌わせることにかけてもこのよ
うに達人であるとは思わなかった。やはりサルガンは只者ではない。そしてこの演奏はイ
ンストゥルメンタルによる「ビダ・ミーア」の名演の第 1 に推せるだろう。
これら以外にもフレセドとトランペット奏者のディジー・ガレスピーとの共演(Acqua
Records AQDP 002)やアティリオ・スタンポーネの演奏(Columbia 2-493831)などもある。
特に私は極めてマイナーなコレクターなので自分で拾い集められたのはこれだけであるが,
もっと他にも多くの歌手や楽団が取り上げているはずである。いろいろな方々からのご意
見を賜れば幸いである。
末尾に掲げた「ビダ・ミーア」歌詞の邦訳はあくまで原歌詞の日本語訳であって,日本
語で歌うための訳詞ではない。そこで提案であるが,何方かスペイン語と作詞に長けた方
が「ビダ・ミーア」を日本語で歌えるような訳詞をされ,それを何方かが歌って見られて
はどうであろうか。結構日本でも,必ずしもタンゴファンでなくても,受け入れられそう
な気がするが,いかがなものであろうか?
このように見てくると「ビダ・ミーア」をオスバルド・フレセドが自作中で一番良い曲
と言ったことは一般的には妥当である。そしてそのことがオスバルド・フレセドに相応な
収入をもたらしたであろうことも肯ける。しかし同時にこの曲がアルゼンチンの人々に広
く受け入れられたのはエミリオ・フレセドの歌詞があってのことであると思う。この意味
で「ビダ・ミーア」はむしろエミリオ・フレセドの代表作と言うべきである。この曲がエ
ミリオ・フレセドではなく誰か他の人の歌詞であったり,歌詞の無いインストゥルメンタ
ルの曲であったら,果たしてこれだけ人々に受け入れられ,オスバルド・フレセドの代表
作となり,彼自身も一番いい曲と言い得たかどうかは疑問である。だから「ビダ・ミーア」
はオスバルド・フレセドの作品の中でと言うよりは,彼とエミリオ・フレセドの共同作品
の中での代表作,一番いい曲と見た方が適当である。
「ビダ・ミーア」に対するエミリオ・
フレセド自身の見解も聞きたい所である。
以上はあくまで私の個人的な見解に過ぎず,一つの問題提起として受け止めていただく
ことをお願いする。
[1] ポルテニヤ音楽同好会機関誌 タンゴ・アルヘンティーノ 特別号 2003 年 p.150
[2] 高場将美,TANGUEANDO EN JAPON No.13
(2004)pp.24-25
[3] 大澤 寛氏の訳による。但し対訳ではない。
[4] 100 TANGOS DE ORO, Seleccion y notas César Evaristo, 2006 EDICIONES Lea S.A.
[5] Nestor Pinson, http://www.todotango.com/spanish/creadores/ddavis.asp
[6] Nestor Pinson, http://www.todotango.com/spanish/creadores/rfalasca.asp
[7] http://www.todotango.com/spanish/biblioteca/discografias/grabaciones_autor.asp.
[8] http://www.clubdetango.com.ar/articulos/libertad_disc.htm
5
恋人よ[3]
Vida Mia[4]
Siempre igual es el camino
que ilumina y dora el sol…
Si parece que el destino
mas lo alarga
para mi dolor.
太陽に照らされて輝く道は
いつも変わらない
たとえ運命が
俺を苦しめるために
その道を より遠くするように思えても
Y este verde suelo,
donde crece el cardo,
lejos toca el cielo
cerca de mi amor…
Y de vuando en cuando un nido
para que lo envidie yo.
そして アザミの育つこの緑の大地は
遠くで空に届き
俺の愛の傍にある
そして時々
俺が羨むような塒になる
Vida mia,
lejos mas te quiero,
Vida mia,
piensa en mi regreso,
Sé que el oro
no tendra tus besos
y es por eso que te quiero mas.
Visa mia,
Hasta apuro el aliento
acercando el momento
de acariciar
felicidad,
Sos mi vida
y quisiera llevarte
a mi lado prendida
y asi ahogar
mi soledad.
恋人よ
離れていると愛は募る
恋人よ
俺が帰って来ることを思ってくれ
お前の唇は 金では買えない
だからこそ お前を好きなのだ
恋人よ
俺の息が切れるほど
幸せを撫でる時が近づいて
お前は私の命
お前を虜にして
俺の許に連れて来たい
そうすることで
俺の孤独を圧し殺したい
太陽の色は薄れて
現れ始める星たちは
その輝きを全て 空に与えるように見える
そして太陽が逃げるように沈む間に
少しずつ 星の瞬きが鋭さを増す
俺が見ているあの星たちの輝きのひとつは
Ya parece que la huella
va perdiendo su color
y saliendo las estrellas
dan la cielo
todo su esplendor.
Y de poco a poco
Luces que titilan
Dan severo tono
mientras huye el sol.
De esas luces que yo veo
Ella, una la encendió.
こ
あの娘が灯したものだ
6