Obrint Pas オブリント・パス DVD 映像上映会∼バレンシアから闘いの音

Obrint Pas オブリント・パス DVD 映像上映会∼バレンシアから闘いの音が響く
ラジオチャンゴ JP
エビハラヒロコ
自由のための戦い
今回の上映会には「バレンシアから闘いの音が響く」という副題がつけられています。今回
私が、この上映会に解説の作成という形で参加することに決めたのは、このドキュメンタリー
の中のオブリント・パスの姿が、ラジオチャンゴにおけるレベルミュージックのあり方を象徴
しているように思えたからです。つまり自らの自由のために闘うということ。
ラジオチャンゴのアーティストの歌詞には、自由という言葉が本当によく出くるのですが、
この自由というのは象徴的な漠然としたものではありません。ちょっと想像してみて欲しいの
ですが、じっとしてなにもしていないときには、自分の状態が自由とか不自由とかいうことは
ほとんど気になりませんよね。実際に動こうとして、というより動き出して初めて、自分の状
態が自由であるか、不自由であるかがはっきりするのです。つまり、仮に自分が本当は不自由
な、がんじがらめの状態にあったとしても、動きたいと思って自主的に動いてみないかぎりは、
そのことに気がつかないということ。だからこそ、彼らの多くは、その自由の可能性を試すか
のように、徹底的に自分のやり方をつらぬいて、前に進み続けているのです。まるで、自分が
自由であることを確かめるかのように。
本日上映するのは「ASSALTANT Al PARADÍS 楽園襲撃」という、オブリント・パス初のセ
ルフプロデュースアルバム「BENVINGUTS AL PARADÍS 楽園へようこそ」の製作ドキュメ
ンタリーです。デモテープの完成から始まって、リハーサル、レコーディング、マスタリング
と一枚のアルバムが完成するまでを追ったものですが、彼ららしいのが、セルフプロデュース
にこだわって、レコーディング用スタジオまで民家を改造して自分たちの手で作ってしまうと
ころ。この部分で彼らは「(普通の家でレコーディングすることが)音楽的に見て吉と出るか凶
と出るかはわからないけど、これが自分たちのやり方だからそれでいい」と語っています。音
楽性よりも自分たちのアイデアを試すという自由の方が大事だと。極端ですが、ここに彼らが
歌う自由の本来の意味があります。
自分のやりたいことをしようとしたら現実の壁にぶつかり、その現実の壁が政治的な問題を
含んでいることで、政治的なメッセージがにつながることもあるでしょう。しかし、その核に
あるのは、もっと普遍的なメッセージなのです。スペインでも、カタルーニャ語にこだわると
ころから、民族主義のために闘っているという印象をもたれがちなこのオブリント・パスです
が、実際のところ、彼らが闘っているのは、多様性を消し去り、個人の自由を集団の狂気の中
に力ずくで葬り去ってしまうファシズムなのです。だからこそ、彼らの奏でる音楽がメスティ
ソと呼ばれるのです。メスティソ(混血)とは好きなものを好きなように混ぜ合わせる自由で
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あり、さらなる多様化を進めることなのですから。
オブリント・パスとバレンシア
バルセロナに住んで実感するのが、スペインでサッカーはまさに民族感情の激突の場である
ということ。だからこそ、ナショナルリーグがこんなに盛り上がるんだと思います。フランコ
政権下でもカタルーニャ人の信仰の中心地モンセラット修道院と並んで、バルサの本拠地カン
プ・ノウでは、カタルーニャ語を話すことが許されていたそうですから。
先日このサッカーを巡って、スペインの複雑な状況を象徴するような出来事がありました。
サッカーが好きな方はご存知かもしれませんが、スペイン国王杯の決勝戦の放送がちょっとし
た問題を引き起こしたのです。決勝戦で国王杯を巡って激突するのは、アトレチコ・ビルバオ
対 F.C.バルセロナ。バスクとカタルーニャを代表するチームです。
今回問題となったのはスペイン全土が注目するこの試合中継において、国営放送が検閲をし
たということです。都合の悪い部分をテレビが生放送しなかったのです。会場に掲げられた独
立主義者が掲げるパンカルタが全く写らず、ブーイングに迎えられた国王の登場シーンはカッ
トされ、国歌の斉唱はシーンでは音声にデジタル処理が行われてブーイングの音量が下げられ
たり
。
こうした状況の背景には、フランコ独裁政権と王家の親密な関係があります。フランコが後
継者として指名したフアン・カルロス国王を筆頭とする王家の独裁政権時代の責任が曖昧なま
ま現在まできているということです。これと同じことがカトリック教会にも起きていて、フラ
ンコの死後の民主化の過程で、急激な教会離れが進み、カトリックの国と言われながら、同性
同士の結婚が認められるほどリベラルな土壌が生まれました。王家が存続しているという事実
が、スペインという国家に対するバスク人やカタルーニャ人の思いをさらに複雑なものにして
いるとも言えるのです。そもそも、そんな地域の代表が国王杯を巡って闘うというのが皮肉な
話なんですけど。
この話をとりあげたのは、この試合から、この試合会場となったオブリント・パスの故郷の
バレンシアの状況が透けて見えてくるからです。会場付近ではカタルーニャの旗に対抗して、
スペインの国旗を掲げるバレンシア人の家がたくさんあったそうです。どういうことかという
と、実はオブリント・パスが主張している大カタルーニャ語圏(アルス・パイゾス・カタラン
ス)というのは、反バレンシア主義だということなんです。実は、カタルーニャ語を母語とす
る人々が暮らすカタルーニャ、バレンシア、バレアレス諸島という3つの自治州の中で、バレ
ンシアだけが自分たちの言語をバレンシア語と呼んで差別化しています。バレアレス諸島で話
されるマヨルキンという言語はバレンシア語と同じくらい、いわゆるカタルーニャ語と違って
いるのですが、マヨルキンはカタルーニャ語のバリエーションの一つ、つまり方言とされてい
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ます。どうして、こんなことになっているのでしょう。
フランコ独裁政権下で、私たちがスペイン語と呼ぶカステーリャ語以外のあらゆる少数派の
言語の使用は禁止され、その文化は徹底的に弾圧されました。その後、フランコの死後民主化
の過程で、それぞれの地域は自分たちの言語の回復を試みます。カタルーニャはプジョール政
権下で、逆差別という批判が出るほどカタルーニャ語の正常化に力を入れました。その結果現
在ではカタルーニャ語の社会的地位はカステリャーノ語より高いほどです。ここにバレンシア
の微妙な立場が顔を見せます。バレンシアはカタルーニャへの対抗心から、ある程度中央政府
よりの姿勢を取っているので、カタルーニャほど強硬な言語政策をとらずに、カステーリャ語
に寛容な姿勢を見せるのです。
以前に、選挙キャンペーンでバレンシア主義を掲げる政党の党首がカステーリャ語でスピー
チしているのを見てとても驚きました。彼は、自分たちの独自性、カタルーニャの一部ではな
いということを強調するために、カステリャーノを敢えて使っているということだったのです
が、皮肉なことにこうしたカタルーニャに対する姿勢が自分たちの言語や文化を護る妨げにな
っているのです。
こうした州政府の姿勢を批判しているのが、オブリント・パスです。州などの政治的な線引
きに惑わされないで、カタルーニャ語による連帯を進めようと主張しているのですから。そん
な彼らを民族主義者と呼べるでしょうか?
スペインの民族主義
最後に、日本人には理解しにくい、スペインの民族主義について説明を加えておきます。ス
ペインはもともと混血文化なので、血を核にする日本を含む東アジアの民族主義と全く違って、
民族主義が拠り所にしているのは言語です。だからこそ、混血が文化を豊かにするという考え
方があります。ドキュメンタリーの終わりの方で、ジャケットデザインを担当したデザイナー
のコメントがこの考え方を的確に表しています。彼は、カラカスに住むバレンシア人グラフィ
ックデザイナーで、自分がオブリント・パスに中南米やアフリカといった他の文化の影響を取
り込もうと提案したと説明した後で、
「文化のメスティサへ(混血化)や融合っていうのは、自
分たち独自の文化があるからこそできることなんだ」と。つまり、他の文化を取り入れる姿勢
こそが、自分たちに独自の文化があるという証明になるということなんです。
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20:00∼ Cafe★Lavanderia