第6号 - NPO法人どさんこ海外保健協力会

すっかり更新をサボっていて大変申し訳ありませんでした。年賀状に「更新楽しみにしています!」というご感想をいた
だき、“どさんこ”会報第 85 号(もう 85 号なのですね)を前に急いで原稿を整理しました。僕が更新をきちんとするために
も、ご意見ご感想をメールにお願いします。ホームページのトップページの下のほうの「ご意見・ご感想をお待ちしていま
す。」というところをクリックして頂くと僕のところにメールが届きますのでよろしくお願いします。
どさんこ海外保健協力会が 1994 年 8 月に設立され、初代派遣ワーカーの私は、まず、最初の 10 ヵ月間、研修生と
してシェア(国際保健協力市民の会)という NGO で学びながら活動をお手伝いをさせてもらいました。それでは前回に引
き続き、その時の様子をお届けします。カンボジアにきて 10 カ月目の 1995 年 6 月に書いた会報からです。
ジアルジアとサソリと産婆さんトレーニング
カンボジアは数日前より、時折雷と激しいスコールが降るようになり、雨の全くなかった乾季もそろ
そろ終わりです。村の小学校や村役場に咲いている鮮やかな朱色の火炎樹の花も少しずつ散り始め、雨
季の田植えのために牛や水牛で田んぼを耕す姿があちこちで見られるようになりました。
さて、雨季の到来で暑さも峠を越え、まだまだ日中や夕方は暑いですが、夜は少し過ごし易くなりま
した。三月の終わりに書いた「どさんこ 4 号」で、私は「暑さはたいしたことがない」と、大口をたた
いてしまいましたが、4 月に入ってから暑さも厳しさを増し、暑さだけならまだいいのですが、加えて
色々な体のトラブルもあり、この 2 ヶ月間は衛生状態の悪い国で働く難しさと健康の大切さを改めて痛
感しました。
まず 3 月末より下痢と食欲不振が始まり、いつもおなかがもたれていて気分の悪い日が続きました。
私はいたずらに抗生物質等の薬を飲むのは好きではないので、とにかく脱水状態にならないようにとコ
コナツの汁を無理してガブガブ飲んでいましたが、一向によくなりません。仕方がないのでクサイカン
ダールの郡病院で自分で便検査をやってみましたが特に異常なく、次の週もその次の週もいくら顕微鏡
とにらめっこしても、何も見つかりませんでした。下痢はどんどんひどくなり、特にトイレのない村に
行くのは大変で、暑さもあって全身状態が弱ってきたこともあり、臨床症状よりジアルジア(ランブル
鞭毛虫症)と判断して駆虫剤を飲むことにしました。この病気は不衛生な水や食物によって感染し、小
さな虫のようなものがヒトの小腸に寄生してしまうものです。幸いにして薬を飲んだ 2 日後から、下痢
はピタッと止まりました。2 ヶ月ぶりに「硬い」ものを見たときには本当に嬉しく感慨深いものがあり
ました。ただ、喉もと過ぎれば熱さを忘れるで、全快祝と称して地酒を飲み過ぎたり、メコン川の水か
らそのまま作った、氷の入った甘い砂糖きびジュースをまた飲み始めたりで、その後も軽い下痢が続い
ています。でも、この暑い中での冷たいジュースは「病気になってもいいから飲もう」というぐらいお
いしいです。村人には、水を沸かして飲むようにと言っているのに、恥ずかしながら自分では守れませ
ん。
また 4 月下旬のある日、郡病院の隣りのシェア(国際保健協力市民の会、日本のNGO)の小屋で寝
泊りをしていた時のことです。夜、病院のトイレ兼水浴び場で水浴びをして、クローマーと呼ばれるバ
スタオルのような布を腰に巻きつけて小屋に戻ってきました。と、突然お尻に激痛が走り、クローマー
を投げ出して小屋の中でのたうち回りました。激痛は一瞬ではなく、お尻にずっと針がささっている感
じです。「サソリだ!」と思い、のたうち回りながら医学書を探し、大人はまず死なないと書いてあっ
たのでまずは安心して、のたうち回り続けました。おそらく水浴びの時に扉にかけておいたクローマー
についたサソリに気付かないまま、腰に巻いてしまったのでしょう。投げ捨てたクローマーから五~六
センチの小型のサソリが出てきました。二時間程して少し痛みが和らいできたので、郡病院に行きサソ
リに効くという薬草を塗ってもらいました。痛みは 2 日間続きました。
その 1 週間後、またシェアの小屋でのある朝、起きてみると前胸部が猛烈に痒いのです。原因はよく
わからないのですが、ここで寝ると時々あちこち痒くなるみたいです。いつも板の間にこちら特産の 1
人分の大きさのゴザを敷いて蚊帳を張って寝るのですが、床の拭き掃除やゴザの日干しを怠ると、よく
こんなことになりますが、この時は重症で痒さは 1 週間続きました。
暑さ、痛さ、痒さ、下痢の 4 月、5 月でしたが、郡病院での私の主な活動は伝統助産婦さん(産婆さ
ん)のトレーニングでした。クサイカンダール郡ではトレーニングを受けた村の保健スタッフ兼助産婦
さんは村人約 5 千人に 1 人くらいしかおらず、離れた村には夜など治安の問題もあり行けません。古く
からの産婆さん達の活動は無くてはならないものなのです。実際、郡内の出産のおおよそ三分の一は保
健スタッフの助産婦さんが、三分の一は産婆さんが、そして残りの三分の一は家族だけで行われます。
もちろんほとんどの場合が自宅出産です。産婆さんたちは特別なトレーニングを受けてはいないので、
妊婦さんの危険な徴候を見逃していたり、不衛生・不適切な処置も多いようです。また、重症患者を保
健スタッフや郡病院に紹介することをしなかったり、紹介しても手遅れのことが多いのです。
トレーニングは 1 週間、村の保健スタッフがリストアップした郡内の 76 人の産婆さんのうち、高齢
や家の事情等で来られなかった人もおり 57 人が参加しました。4 回に分けたので一週間に 10 人程ずつ
で、多くの参加者は遠くの村から来るので泊まり込みです。トレーニングの内容は妊娠、出産、産後や
新生児についての基本的な知識やケアの方法と、そして何よりどういう徴候に気をつけたらいいか、ど
ういう時に村の保健スタッフに相談したり、患者さんを郡病院に送るべきかといったことに重点を置き
ました。また予防接種の重要性やエイズ予防のための知識もお母さんたちに説明してくれるようお願い
しました。産婆さん達の年齢は 50~60 代が中心で、おばさんからおばあちゃんという感じです。講義
中も噛みタバコをくちゃくちゃやりながらだったり、「疲れた、疲れた」と大あくびをして横になって
しまったりと、ややマイペースの人もいました。でも総じてみんな活発に授業に参加してくれました。
講義は郡病院の助産婦さん達が中心になってすすめてくれました。産婆さん達は字が読めないので、絵
の入った教材を多用しました。トレーニング最終日の土曜日には村の保健スタッフも呼んで、一緒に今
後の協力体制について議論してもらいました。患者さんの紹介について、また保健スタッフが消毒用の
アルコールを供給するかわりに、産婆さんが妊娠や出産の数などを報告するというシステムもできまし
た。絶対的に保健スタッフの数が少ない現状を考えると、産婆さん達が村の保健スタッフに協力できる
ということはとても重要なことなのです。
ちなみに私が好きなのは、毎日のトレーニング終了とともに始まる演芸会です。元気なおばあちゃん
達は歌や踊りが大好きで、酒もないのに大騒ぎです。きれいなメロディーの古い歌なんかもあるもので
すから、私も楽しみで一緒に踊ったりしていました。 1 週間のトレーニングを終えた産婆さん達は、
演芸会が楽しかったせいかもしれませんが、「またトレーニングを受けたい」と言って帰っていきまし
た。私達も、今後のフォローアップ を通じて、彼女達を郡全体の保健活動に巻き込んでいきたいと考
えています。
昨年の 9 月からのカンボジアでの活動もその第1段が終わりに近づき、振り返って一番感慨深いこと
は、ポルポト時代の苦しい経験を持ち、未だに続く政情不安や貧困の中で一生懸命生きているカンボジ
アの人々の姿です。カンボジアの人々を知り、私自身今後も彼らと一緒に頑張っていこうと感じていま
す。またこう感じることができたことに非常に感謝しています。
(1995 年 6 月 4 日記;会報第5号より)
沖縄とカンボジア
私は 6 月に暑さ真っ盛りのカンボジアから帰国して、さわやかな北海道の風とおいしい食物に体力も
すっかり回復し、各地でカンボジアでの活動報告をさせて頂きました。報告会ではスライドを見ながら、
カンボジアという国について、村での暮らしのようすや医療活動のことをお話しました。中学生、PT
Aのお母さん達、看護婦さん、保健婦さん等、どこの会場でもとても多くの質問をして頂き、報告会を
通じて少しはカンボジアの人々に親近感を持って頂けたのではないかと感じています。
総会と計7回の報告会を終え、今は休暇で以前働いていた沖縄に来ています。沖縄では、今年は戦後
50 年の節目ということもあって、新聞で毎日のように当時の戦争関係の記事や米軍の基地問題が扱われ
ています。大戦中は悲惨な地上戦が繰り広げられ、今も島の 20%が米軍基地として使用されている沖縄。
私は 2 年余りこちらの病院で仕事をしていましたが、患者さんの「おじい」
「おばあ」達は家族や親戚
に囲まれ、とても明るく大らかな方ばかりでした。特に親しくして頂いた患者さんの家族や三味線仲間
もいましたが、その 2 年の間では私は誰からも戦争当時の話を聞くことはできませんでした。けれど、
きっと悲しい思い出を背負いながらも、そのかけらも見せずに明るく生きている「おじい」「おばあ」
に、私はある種の尊敬の気持というか、そういう特別の念が込み上げてきて、そんな時は医者として彼
らの役に立てるということに本当に感謝しておりました。
今回のカンボジアでの活動中は、今度はカンボジアの人々とのふれあいの中で、そんな沖縄で感じた
ものとだぶってしまうような思いを幾度となく感じました。カンボジアではほんの十数年前にすべての
人を巻き込んだ強制労働と虐殺の時代があり、人々は未だに地雷やポルポト派ゲリラの襲撃に怯えなが
ら暮らしています。私がカンボジアで知り合った多くの友人達はポルポト時代の悲しい体験を話してく
れました。仕事仲間のポナ君はお父さんが殺された話を、シトー村のヴィエン君のお父さんは強制労働
の辛さと食糧の少なさを、助産婦のサッサレーンさんは新住民(もともとの村の出身ではない人々のこ
と)であるために苦労した話を、そしてクメール語のケッチャ先生は密告が奨励され人々の助け合う心
が失われたことを話してくれました。
戦後の豊かな日本に育った私には彼らの悲しみや辛い経験を想像することもできませんが、そんな彼
らと一緒に働けたこと、彼らに沖縄の「おじい」「おばあ」に感じたような尊敬の念を抱きながら仕事
ができたことは、カンボジアで働くことが自分の仕事として素晴らしいものであると実感するのには十
分でした。
そんな思いで今後もカンボジアと関わっていくつもりですが、一方では 10 ヶ月の活動の中で自分の
できることの限界をも感じさせられました。例えば、乳幼児の死亡率の高さの原因には医療の問題ばか
りではなく、その根本には貧困とそれをもたらした内戦とがあり、国内の完全な平和なしには本当の健
康はおとずれないかもしれません。私は医療従事者であり政治のことも貧困につながる農業のことも専
門ではありませんが、私は私のできる分野で医療従事者としてできることを着実にやっていくしかなく、
それが私の役目ではないかと思っています。そして、それがカンボジアの人々の健康に少しでも役立つ
ことを願っています。
私は来週には東京で報告会をして 7 月 24 日にはイギリスに向かいます。イギリスでは、リバプール
熱帯医学校というところで熱帯医学と衛生学を研修し、12 月に帰国、来年 1 月より再びカンボジアで
の活動を再開する予定です。
次号では、イギリスでの研修のようすを書いてみたいと思っています。
(1995 年 7 月 18 日記;会報第6号より)
英国での研修
(イギリスで 12 月までの予定で熱帯医学の研修をしている大泉医師からの報告です。
大泉医師は来年 2
月からカンボジアでの活動を再開します。)
記録的な暑さだった今年のイギリスの夏も終り、秋風の吹きつける季節となりました。久しぶりの冷
たい風に身の引き締まる思いがして、やはり自分には南国の暖かい気候より北海道の厳しい寒さの方が
向いているのだなと感じたりしています。イギリスに来て 2 ヶ月近くになります。8 月はロンドンにア
パートを借りて、英語の語学学校に通っていました。9 月からの熱帯医学の研修には私の英語はまだま
だ力不足だからです。ロンドンは歴史もあり観光も十分楽しむことができましたが、丁度 50 回目の終
戦記念日をここで迎えたということにもふれておかなければなりません。イギリスではこの日をVJデ
ー(対日戦勝記念日)と呼びます。VJデーが近くなると毎日のように、ビルマ(現ミャンマー)での
戦いや、旧日本軍の捕虜になった英国兵士の談話、そして村山首相の謝罪問題が報道されました。特に
開戦当初に数万人のイギリス兵士がシンガポールで日本軍の捕虜になり、3 年以上の間辛い体験をし、
また多くの兵士が収容所で亡くなったことには、日本の犯した罪の深さを改めて思いを知らされました。
VJデー当日には、各地で記念行事が開催されました。ただ、退役軍人中心のセレモニーということも
あるのでしょうが、侵略者を倒したイギリス軍の勝利を祝う式典で、大英帝国の正義ばかりが強調され
ているように感じました。戦争自体への反省や同じ侵略者としてビルマやシンガポールを植民地として
いたことへの反省はなく、人々は大英帝国主義をいまだに誇りに思っているように私の目には映りまし
た。戦争というものは「勝利イコール正義」という図式がごく当り前に捉えられるという意味でも、と
ても恐ろしいものではないかと思いました。
さて、ロンドンでの語学学校を終え、8 月末より熱帯医学校のあるリバプールに移りました。リバプ
ールはイングランド北西部に位置する港町です。ビートルズを生んだ町といった方がおわかりになる方
も多いのではないでしょうか。では、どうしてこの寒いイギリスのこの港町で熱帯医学なのかと考える
方も多いこととお思います。今でこそ不景気で失業者の多いリバプールですが、18 世紀以後リバプール
は植民地貿易(一時期は奴隷貿易も)の中心地として大英帝国第 2 の都市だったのです。当然アフリカ、
アジアの国々との人の出入りも多くなり、それにより今から百年前にリバプール熱帯医学校も設立され
ました。熱帯医学校としては世界で一番古く、植民地のなくなった現在でも、旧植民地諸国での医療協
力や熱帯医学の研究の分野で業績を上げています。どうも先程からイギリスの植民地の話ばかりになっ
ていますが、私は決してイギリス人が嫌いなわけではありません。この 2 ヶ月間、私は多くのイギリス
人に親切にしていただき、イギリスは私の大好きな国の 1 つであるということをここで言っておかなけ
ればなりません。
9 月から始まった熱帯医学と衛生学の三ヶ月コースには世界各地から 69 人のお医者さんたちが参加
しています。発展途上国からの人、そして発展途上国で働いているあるいはこれから働こうという先進
国からのお医者さんたちです。内容はマラリアなどの熱帯の病気についてや、水、トイレなどの衛生問
題、地域医療のことなどを、先端医療の技術ではなく、難民キャンプや村の病院でどうするかといった
視点からの講義・実習で、言葉の壁で苦労しますが、これからのカンボジアの活動のための良い勉強に
なっています。住居は学校の寮で生活していて、9 人で台所・バスルーム等を共有しています。9 人の
構成は、ガーナ(2 人)
、ジンバブエ、ナミビア、イングランド、スコットランド、ブータン、ベトナム、
日本です。皆自炊するのですが、「おまえのこれは何だ?」などと、なかなか楽しいものです。先日は
一緒にプールに行ったりもしたのですが、アフリカ人とベトナム人と日本人がイギリスのプールで仲良
く泳いでいる姿というのは、皆さんにはなかなか想像しづらいかもしれません。このような状況で、私
は勉強の大変さを除いては、涼しい気候の中で、水にもトイレにも不自由せずに先進国で快適な日々を
送っております。最後に、リバプールという街は歴史のある建物が多く、リバプール大聖堂(表紙挿し
絵)やメトロポリタン大聖堂といった、イギリスを代表する教会を持った魅力的な街であることを付け
加えて、今回の報告を終わります。
(1995 年 9 月 24 日記;会報第7号より)
久しぶりのカンボジア
雪の札幌から 7 ヶ月ぶりにカンボジアに戻ってきました。2 月は涼しくて 1 年のうちでは過ごし易
い季節のはずなのですが、日中の日差しは強くて暑さにボーッとしています。首都プノンペンの街は相
変わらず、人・シクロ(人力車)・バイク・車の雑踏の中で、埃まみれで口の中がすぐざらざらしてし
まいます。けれど元気な市場のおばちゃん達も、日焼け顔に歯をキラキラさせて値段交渉をしてくるシ
クロのおじちゃん達も、前と一緒で、またいつも買っていた道端のパン売りのおばさんも私のことを憶
えていてくれて、「ああ帰ってきたんだな」と実感しています。私のいない間にもプノンペンの街は少
しずつ賑やかになっていくようで、大きな店やホテルも増え、車の数も増えたように感じます。トンレ
サップ河の川沿いの公園もきれいに整備され拡張されて、また小さな遊園地のようなものまでできまし
た。
こちらに来てからはJOCS(日本キリスト教海外医療協力会)のプノンペン事務所を間借りしてい
ます。1 月の“どさんこ”の世話人会でまだ予算も少なく組織もしっかりしていない“どさんこ”とし
ては、あまり無理をせず、他団体と協力、連携してやっていこうということになり、当面は今度新しく
プロジェクトを始めることになったJOCSの調査への協力と『るしなこみゅにけーしょん やぽねし
あ』という農業と地域開発のNGOの医療分野での活動への協力をしていく予定です。小さい組織なり
に自由もききますが、果たして今度の活動がどうなっていくのか不安もいっぱいです。とにかくしばら
くは、このゴミゴミしたプノンペン中心の生活になりそうで、私の好きなのどかな農村に行ける日を心
待ちにしています。
〈イギリスでの研修〉
話はかわって、前回の会報では私の報告を休ませて頂いたので、まだリバプールの後半のご報告が残
っていましたね。
9 月から 12 月までイギリスのリバプール熱帯医学校で熱帯医学と衛生学の研修をしていました。世
界各国から丁度私のように発展途上国で働いているお医者さん達を対象としたコースです。このコース
での私にとってのメインイベントは私のカンボジアでの活動についての発表でした。生徒の中で自分の
活動を発表したい人はいないかという募集があったのですが、誰もやる人がいなかったので、私は力試
しのつもりでやってみることにしました。幸いスライドは日本から持ってきていましたので発表用に新
たにスライドを 5~6 枚作り、特に仲良くなったイギリス人のスティーブンとローズマリーの前で発表
の練習をしながら英語を直してもらい、本番にのぞみました。
発表は大講堂で行われ、昼休みの時間にも関わらず、60 数人の私達のコースから半数以上の生徒と他
の修士課程のコースからも沢山の人達が見にきてくれました。40 分間の発表はコミュニティヘルスで丁
度その時学習していたプライマリーヘルスケアーの講義の内容に沿って、より実践的に私達の活動につ
いての反省点や良かった点を交えながら話をしたのと、私の村でのホームステイの話を面白可笑しくや
りました。質問もいくつか出て、みんなとても喜んでくれました。「相手の文化を尊重しながら、ゆっ
くりやる姿勢が良かった。
」
「日本のNGOも頑張っているんだな。」
「タツは向こうで随分楽しくやって
たんだね。
」というような感想を言ってくれました。
私にとっては英語で発表できたこと、そして私よりも経験を持った人達の前で一応発表をやり遂げた
ことがとても自信になりました。クラスのみんなにも私のことをより分かってもらえて、よりみんなと
仲良くなれたと思います。特に私はこの 60 数人の生徒の中では一番英語が下手で、友達同志の世間話
にもなかなか入っていけませんでしたが、これをきっかけに週末にもいろんな友達が声を掛けてくれる
ようになりました。
最後の 1 ヶ月は終了試験のための勉強で大変でした。昔より暗記力も落ちているのに、英語で読んで
勉強して、英語で憶えるのはなかなか辛いものがありました。試験は全部で 1 週間、論述・選択問題と
顕微鏡で寄生虫を見分けるテスト、実際の便、血液を検査して病名・治療などを答えるテストと盛りだ
くさんで、最後の面接試験では 3 人の試験官にそれぞれ1つずつ質問され、本当にもうたくさんという
感じでした。
試験も終わり、クラスのみんなで打ち上げの飲み会をしました。
あっという間の 3 ヶ月間でしたけど、
私も多くの友達ができました。みんな抱き合って別れを惜しんでいましたが、私はあいさつで抱き合っ
たことなどないので、それには入り込めずちょっと寂しい思いをしていましたが、やがて酒も手伝って
か、ごく自然に抱き合えるようになり、最後にはみんなと別れのキスまでしていました。せっかく仲良
くなったのに世界各地にバラバラに分かれてしまう友人達との抱き合っての別れのあいさつはとても
心に残りました。
リバプールで学んだ実践的な知識は今後のカンボジアでの活動にとても役立つものでした。そしてま
た違う国の人達と仲良くなれたことは私にとってとても幸せなことでした。
最後に無事試験に合格して終了証が送られてきたことをお伝えして、今回の報告を終ります。
(1996 年 2 月 7 日 やっぱり停電ばかりのプノンペンの暗い明かりのもとで;会報第9号より)
因みに当時の会報では全くふれていませんが、1996 年 1 月末から再びのカンボジアは、結婚してカ
ミサンと 2 人できています。会報ではそれなりに楽しそうに書いた最初の 10 か月間のカンボジアも、
正直寂しくてとても辛かったのです。よそ者のお金持ちの国からきた外国人として、治安も悪い、異文
化で言葉も十分でなく、健康もすぐれないなかで、暮らしたり、仕事をしたりするのは、覚悟はしてい
たとはいえやはり相当のストレスでした。じゃあ辛いから結婚なのかといわれるとこれも困るのですが、
まあ、結婚なんてそんなものかもしれませんね。冷静に考えると、ひとりのほうが楽ですから…
沖縄時代に付き合っていたカミサンとは、本当に死ぬつもりでカンボジアに行ったので、何も言わず
に来てしまいました。10 カ月後に沖縄に戻って、今度は「一緒にカンボジアに来てください」ですから
自分勝手で全く調子のいいものです。12 月に沖縄式の結納の宴会を催していただき、1 月に札幌で“ど
さんこ”の仲間にもきていただいての結婚式を済ませて、すぐにカンボジアへと渡りました。
ただ、カンボジアでのプノンペンでの新婚生活は、確かに寂しくはなかったけど、これもお互いスト
レスがいっぱいでした。まず、住む家もなく、お金もないので事務所に泊まったりホテルを転々とした
り、泥棒、ひったくりも多く、外国人は特に騙されたりする事件もあるので、
「人をみたら泥棒と思え!」
と僕に言われ、NGO のことなどまるで関心のないカミサンは、僕は仕事に行っている日中はホテルで
ひとり。家を借りてからも、泥棒にはいられ、向かいのカラオケ屋の大音響に悩まされ、僕は田舎へ数
日の出張が多かったのですが、その間にもプノンペンで戦闘がおきたこともあったし、気持ちの休まる
ときはとても少なかったと記憶しています。その頃は僕はプノンペンと第 2 の都市のバッタンバンとそ
の周辺の田舎での仕事でしたが、バッタバン周辺はまだ戦闘が度々あったし、やはり都会の首都のプノ
ンペンでの生活しかなかったのがなかなか大変でした。生活のストレスで喧嘩ばかりしていた新婚生活
でした。(けど今になって思えば、喧嘩の原因の多くはカンボジアのせいではなく、僕の身勝手な性格
によるものも多く、日本で生活していても最初は喧嘩ばかりになったような気がします。
)
イギリスで格好よく発表した話で終わりたかったのだけれども、こんな感じで今回更新分は終了です。
全く気まぐれな更新にも関わらず読んでいただき本当にありがとうございました。