編纂:’10.9.11 渡邊 日露戦争の 陸・海戦 - きっかけは「三国干渉」とロシアの満州占拠 - ◆日露戦争はどのような戦争だったのか清戦争: 20世紀の初頭、日本は極東の覇権国家として歩みだす一 方で、日露戦争が刻々と迫っていた。 【陸戦】:1904年(明治37)、日本は朝鮮半島を土台に満州へ侵 攻を開始した。しかし、十数年前の日清戦争では、数日で落した 旅順を攻略することができなかった。 ロシアは、機関銃とトー チカで強固な陣地を築き、セメントで固めた砦と新兵器の機関 銃で、攻めてくる人間をなぎ倒す戦術だった。この鉄壁の陣地 に突撃をくり返したため犠性者は非常に多くなった。 この突撃を指揮したのが「乃木希典」で、息子も戦死してしる。 特別部隊を編成し闇夜に、標的になる白い襷をかけて突撃する など、犠牲を伴う戦いを繰り返し、前進できなかった。 旅順が抜けないと困る話で、乃木以外の軍は、旅順を置いて 北上して遼陽で大合戦の末、ロシア軍を破った。さらに北上して、10月には沙河の決戦にも勝利していた。 陸軍が前進する一方、海軍のバルチック艦隊が、ヨーロッパ側から、長距離航行で迫っていた。旅順が落ち ないと、後方から、挟み撃ちに遭う可能性が非常に高くなっていた。ここで、児玉源太郎が代わって指揮を 執ることになり、要塞の近くの「203高地」を占領した。大砲で砲撃しながら突撃を繰り返し、1905年1月、や っと旅順要塞を落とすことができた。その兵力を結集し、同年3月に奉天の会戦で、ロシア軍を打破した。 しかし打破しても、退却するロシア軍を追撃する兵力がなく、見守るで、包囲殲滅戦を展開することができ ないままに終わったのが日露戦争の陸戦だった。 【海戦】: ロシアが誇る強力なバルチック艦隊は、1904年 10 月にバルチック海のリバウ港を出港した。そして、 1905年5月まで延々と航海して、日本海に到達した。待ち受けたのが東郷平入郎率いる連合艦隊。そして バルチック艦隊を撃滅した有名な話である。 出撃の秋山真之の打電:「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」、 通信船の信濃丸の打電:「敵艦見ユ」、具体的には「敵艦203地点二見ユ0445」、旗艦三笠が戦意高揚の ために Z 旗を掲揚したなど、逸話がたくさんある。 こうして陸・海戦において日本は辛くも勝利を収めた。 ◆はじめて経験した大規模な消耗戦: 日本にとって日露戦争は、初めて経験する大規模な消耗戦争だった。 第一次世界大戦の陸戦でも、 機関銃・鉄条網・トーチカは、主要な戦いの道具になり、ドイツ軍も敗北を経験している。この突破に、第一次 世界大戦の後半に、タンク(戦車)と飛行機が登場した。日露戦争の時代は、飛行機もタンクもない状況で、 日本は新しい戦争の方法を経験した。新しい戦争で勝ち抜くためには軍人だけでなく、国民総動員して多 大な犠牲が伴う。総動員体制は第一次世界大戦で敷かれたものだが、日本は、日露戦争でいち早く総動員 体制の戦争を経験していた。日本はこれまで、モルトケ(独軍)流の「決戦戦争」がモデルだった。敵の主力 にぶつかり、包囲殲滅して大勝利を得るのが「決戦戦争」である。ところが近代は、開戦から終戦まで長時間 になる「持久戦争」に急変貌していた。 石原莞爾は、モルトケ流の戦いは間違いで、決戦一辺倒で「日露戦争に勝てたのか謎」と主張している。 当時の軍部は、決戦戦争思想のままで結果として勝てただけの日露戦争を賞賛し、「決戦戦争」に異議を唱 える人を排除するようになった。これを的確に理解する軍人もいたが、大多数は気づかなかった。 徐々に 日露戦争を絶対化するようになり、『これこそがまさしく日本軍の戦い方である』 となっていった。 日清戦争と日露戦争は、歴史的に見て、大幅に異なる戦争だった。日本は、第一次世界大戦に先んじて 「総力戦:持久戦」を身をもって学ぶことができていたのだ。 1 ◆アメリカの仲介による、ポーツマス条約: 日露戦争は、「持久戦争」だったので、「決戦戦争」の日清 戦争の終戦と異なる様相になった。双方とも決め手を欠い たまま、和平交渉に入った。日本軍は、陸の奉天会戦、海の 日本海海戦に勝利した。しかし、ロシア側は、陸戦で負けた とはいえロシア領に攻め込まれたわけでない、海戦でも、第 二次バルチック艦隊を派遣しようとしていた。 そんな折、1905年に第一次ロシア革命が起こった。皇帝を倒そうとロシアの民衆が蜂起したため、派兵の 余裕はない。日本側も、勝利を重ねてはいたが、国力の限界でつま先立ちになっていた。 戦況に最終決着をつけたいにも、手が出ない状況下で、アメリカが仲裁に入ってきた。そして1905年 8 月に 和平交渉に入り、9月にポーツマスで講和条約が結んだ。この交渉の直前、日本は南樺太を抜け目なくパッ と占領して領地を増やすことしている。 かつて、南樺太は日本の領土だったが、1875五年(明治8):千島 列島と交換する「樺太・千島交換条約」でロシアに渡した。日本は再び日露戦争で南樺太を奪った。 【 ポーツマス条約 】 1.日本の韓国における政治・経済・軍事上の優越権と,指導・保護・管理)の権利を認める。 2.日露両国は,鉄道守備隊をのぞき満州から撤退する。 3.北緯 50 度以南の樺太を日本に割譲する。 4.東清鉄道のうち長春以南の南満州支線(南満州鉄道)と付属地の炭鉱・関東州(遼東半島 の南端の一部)の租借権を日本にゆずる。 5.沿海州の漁業権を日本にあたえる。 ・ 戦死者:4 万 6423 名、戦傷者 約 16 万人 ・ 軍事費:陸軍 13 億円、海軍 2 億 4000 万円。 他総計 19 億 8.400 万円 ※開戦前の日本の年間予算:3 億円、外債 7 億円をロンドン、ニョーヨーク、ベルリンで調達。 賠償金がないため、我慢して戦争協力してきた国民不満で条約反対運動が起きる。 ◆ 南満州鉄道(満鉄): 日霧戦争の講話条件には、賠償金がなかった。その代わり南樺太の占領と、満洲(中国東北の南半分)が 日本の勢力圏であることが認められた。当時、日本の満州占領は、南から旅順・大連・奉天などである。 それらを含め、長春の少し手前の寛城子までの鉄道を、日本は所有することになった。東清鉄道の南清洲 線を「南満州鉄道」と呼び、略して「満鉄」と称す。 台湾で活躍した後藤新平が総裁で、村是公が副総裁として参 加してカを発揮した。まず、会社を国営か民営にするかが問題に なった。満鉄は、国際法で制定され国際法規に沿って創る必要が ある。 国際法の専門家:岡松参太郎が加わり活躍した。岡松は、 今の京都大学法学部の教授で、日本に初めてゼミナール形式を 導入した。教授が読み上げる講義をノートにとって暗記する形で なく、図書館で本を読み討議して知的な思考訓練する、ヨーロッパ のゼミナール制度を いち早く採り入れた。 当時の優秀で個性的な人材を集め、1906年(明治39)10月 に満鉄が誕生し。ポーツマス条約締結からたった1年しか経って いない。そしてさらに、半年後の1907年4月に営業を開始した。 日本の満州の繁栄に注いだ力は、並大抵のものでなかった。 2
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