コンサート・ファッション史 - 早稲田大学日本女子大学室内合唱団OBOG

早稲田大学日本女子大学室内合唱団
“Girls in Uniform”
コンサート・ファッション史
飯塚写真館が見つめてきた半世紀
「室内合唱団」が創立された 1960 年から 21 世紀の現代に至るまで、五十年あまりの期間の女性
のコンサートフゔッションの流れを追って行きます。初期の二年間はいまのところ不明なのです
が、それでも大半は「飯塚写真館」(文京区目白台)の手になるものです。団員は4年で卒業して
いきますが、常任指揮者の誰よりも長い期間にわたってコンサートの現場に通われ、撮影者の
立場から「室内」を見つめ続けてくださったのが、「飯塚写真館」ということになります。当事者
の詳細は巻末の「あとがき」に譲りますが、初期の撮影以来、三世代・五人の方々にお世話いた
だいております。2003 年以降は、故・飯塚隆一氏のあとを受けたご子息お二人によって撮影が
継続されています。今年の9月には、恵美子夫人のご厚意により、最近二十年分の画像データ
が提供されました。こうした資料の蓄積がなければ、そもそも、このようなサイトを開設するこ
とはできませんでした。かげながらの御貢献、御好意に、この場を借りて謝意を表したいと思い
ます。(2011.11.30.記・編集子代表・山下 豊(12 期)、OB 会会長・島田敬次(11 期)第一版序文)
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Ⅰ.古き良き時代(1960~1970)
Ⅱ.ミサドレス~勝負服としての創作語(1967~2007)
Ⅲ.カテドラル時代(1973~2011 現在)
Ⅰ.古き良き時代(Good old days)
シャツブラウス+タイトスカート
1960~1970
2ピース時代
●●●・●●●●●・●●●
1960………………………1970
①は、〇室内〈第一回定演(1960.12.14.)の第一声、宗教曲のステージ。千代田公会堂。撮影者
不明。〇長袖の白ブラウス〈、〇黒のタイトスカート(短めのロング)〈という上下。そのフォーマル感からただ
よう清楚な気品は、曲想を妨げない〇無色の〈長所があります。1950 年代から 60 年代にかけて、多くの
合唱団がこの出で立ちでした。②も同じ日。童謡などのステージ。③は翌年の大学祭のひとコマで、大隈
講堂(1961.11.1.)。これら基本衣裳が 1970 年まで 11 年間使われましたが、二年目からはリボン
2
を必ず装着するようになりましたので、すっぴんのブラウス姿は初年度だけで終わりました。
④は、古きを訪ねて、同志社学生混声合唱団(CCD)のサイトから拝借させていただきました。わが国
の大学混声合唱団として戦後、最初期(1947)に設立された老舗(沿革は戦前から…。)で、写
真は、〇室内〈誕生の十年前、1950 年 12 月に〇マタイ受難曲〈を演奏した時のもの。敗戦からわずか五
年です。指揮・山田和男、福音書記者・木下保という歴史的な演奏。鍵盤楽器はグランドピアノを使用
しています。サンフランシスコ講和条約(1951)以前の時代ですから、施政権はまだ日本側にありませ
ん。女性の衣裳に、60 年代が持ち始めたオシャレ感覚はまだありませんが、それでも①②③で紹介した
“ブラウス・タイト” の類型として括ることができると思います。(リンク→ここ) 時代のたまものとしてのファ
ッションを考えるとき、1963 年 7 月に来日したエーマン率いるヴェストフェーリッシェ・カントライの女性たちも
まさに、この時代のこうした簡素な出で立ちだったことが思い出されます…(朝日新聞夕刊・
1963.7.8.Mon. )指揮者・淡野弓子氏は後年、このときの印象を、々ステージに現れた 26、7 名の
質素な身なりの歌手たち…〆(古楽情報誌〉アントレ《2001 年4月号)と回想されています。
さて、早くも初年度の翌年に、〇室内〈ファッションは第二段階を迎えます。リボンが蝶となって万華鏡の中
を飛び交います。たかがリボンと言うなかれ。たかがリボン一本で表情がガラリと変わります。そして、心理的
にあともどりできなくなります。以下、六年分をとくとご覧あれ…。そのあとで①②③にもどってみてください。
①②③がウソのようにちがって見えてくるのではないでしょうか…。(笑)
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⑤からはじまり、その後 1970 年までの 10 年間、〇室内〈のイメージをつくった服装です。基本ウェアーは①
②③と変わりはありませんが、各自がナイロン地を蝶結びにして、写真のような正装リボンに仕立てていま
す。曲名を記しておきましょう。⑤有名メロディーの合唱編曲、⑥レクイエム(フォーレ)、⑦黒人霊歌集、
⑧モテット一番、⑨モテット六番、⑩マドリガルコメディ〇フェスティーノ〈(バンキエリ)…。
加藤さん(9 期・会計)の作画解説によると、々下のような形の布地をリボン結びにしたもので、結び方、
拡げ方により個人差がでます…。〆とのことです。また内山さん(10 期・トレーナー)によれば、々張りのあ
るナイロン地を使ったので、シルク地とは違い、胸元で〇型〈が保てました…。〆とのことです。
さて、“例外のない規則はない”といいます。古くは、“例外こそ規則の証”(Exceptio probat
regulam.〃Cicero〄)などとも言いました。これまで見てきたファッションに多少の例外があります。現物
合わせの面白さでしょう。四つありますが、ここでは三つ紹介します。(残りは⑰で…)
⑪は、第一回定演。ポピュラー曲の合唱アレンジもののステージ。①の〇基本〈に、リボン結び様のスリムな
〇リボンタイ〈を加えたもの。男性もこのときは、ワイシャツに蝶ネクタイ姿で、軽音楽風のアレンジとなりました。
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しかし〇室内〈がこのあと、そうした服装を誘うような曲から遠ざかっていったので、縦つながりの伝統にはなら
ず、第一回(〇ポピュラー曲〈〇ブーム・ブーム〈)と第六回定演(〇学生王子〈)の散発的着用に終わり
ました。
⑫は、見た瞬間に々〇室内〈のハズがない〆と疑われるむきもあるでしょう。当時の学生指揮者、川本さんご
自身も、々同じ合唱団とも思えないパフォーマンスでした…。〆とふりかえっておられますが、でも、女子の服
装はユニフォームではないにせよ、第三回定演(1962)の時のれっきとした衣裳なのです。曲はミュージ
カル〇ウェスト・サイド・ストーリー〈。上が〇薄手の長袖〈ということ以外は自由だったそうです。写真をよくみる
と、“前開き”(cardigan)の人もいれば、“かぶり”(pullover)の人もみえます。下は〇ギャザースカー
ト〈で色は自由。裾に丸いふくらみを持たせたサーキュラースカート(circular skirt)になっていますが、こ
れは映画の中にもみられる“ポップな”ファッションです。日本では’50 年代から流行しました。とにかく振付が
入ったので、フォーマルな“タイト”(①②③)では動きがとれなかったでしょう。(〇室内〈はこの一年後に
客演として、この曲を再演しています。カラー写真が残されているので、このあと⑭で紹介します…。)
⑬は、第六回定演時(1965)に一回だけ登場したもので、ミュージカル〇学生王子〈のステージ用。
〇白ブラウス〈、〇水色のギャザースカート〈、⑪どうように、スリム・リボンタイをつけています。学生王子2
下⑭も〇ウェスト・サイド〈ですが、⑫の翌年(1963)に早大ギタークラブの演奏会(文京公会堂・現シ
ビックホール)に賛助出演した時のもの。この曲の唯一残されているカラーフィルムです。第四代学生指揮
者・片岡靖夫さんがタクトをとっています。この曲で〇室内〈は唯一〇劇団四季〈に接近しました…(笑)。
早稲田大学ギタークラブ “ギターと合唱の夕べ”(文京公会堂)
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★ここでちょっと、前代未聞のステージの様子を広角全景で紹介しておきましょう。けっこう本気でやってま
すね。ブロードウェイダンサーたちのプロとしての〇切れ〈や〇柔軟性〈がいかにすごいものか思い知らされます
…。それを分からせてくれる先輩諸氏に乾杯…。(笑)常任指揮者もタコ踊り…。
指揮 池田明良、振付 橋本朔子(俳優座)1962.12.11.
リンク→ America /Cool /Somewhere /Tonight
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“贅肉”がちょっとあるかな…(微笑)という感じですが、まだジーンズ流行前の時代ゆえ、とくに下宿生は
コンサートに備えたズボンの新調に苦労したそうです。当時いわゆるメンズショップはどこにでもありましたが、
〇青山〈〇アオキ〈〇はるやま〈〇コナカ〈といったスーツ専門大手チェーンもありませんでしたし、カジュアルで、
GAP や、UNIQLO に類する店もありませんでした。衣服は故郷の母親頼りという男子の方が多かった時
代です。
世界中に配信された写真。あまり見比べられても困るのですが…。(笑)とうじ先輩諸氏が定演のため
の勉強として観に行った映画〉ウェスト・サイド・ストーリー《(1961)。演技・踊り・歌、この三拍子がそろ
わないとミュージカルは中途半端に堕しますが、そこはさすがに切れ味鋭いブロードウェイのプロのワザ。不
可能に挑戦した〇室内〈先輩諸氏が必死になったのもむべなるかな…。(笑)真ん中、リタ・モレノのサー
キュラー・スカート(circular skirt)は、〇室内〈女子のスカートにその反映があるのがお分かりと思います。
ペチコートでふくらませたそのファッションは 50~60 年代の日本でも流行がありました。々飯田橋の〇名画
座〈や新宿の映画館で多分3回か4回見て勉強しました〆と 4 期生の三友さん。々音楽と踊りに強烈な
印象を受けた記憶があります…〆と 3 期生の吉田さん。なお、〇室内〈でこの曲を振付をいれてやってはどう
かと最初に提案されたのは、オペラ畑の砂川先生ご本人だったとか…。これもむべなるかな…。
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Ⅱ.ミサドレス
勝負服としての創作語
1967~2007
ワンピース時代(白・ノースリーヴ・マキシスカート)
1960……………………1970
●●●・●●●●●・●●●
○○○・○○○○●・●●●●●・●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
…………………1967………………………………………………………………………………………………………2007
第八回定演 1967.12.16. 杉並公会堂
15.優しき歌(小林秀雄)1967
16.ミサ a 4 voci da capella(モンテヴェルディ)1967 ミサドレス初登場 →♫
17.マドリガル&シャンソン 1967 →♫、♫
18.ヴェスペレ(モーツァルト)1967 →♫
ツィッギー(Twiggiy)の来日した年でもある 1967 年の第八回定演(杉並公会堂)の全曲を示して
います。衣裳が三種類におよび、〇室内史〈の中でもっとも着替えの多かった演奏会と言われているもので
す。見てお分かりのように、⑯ミサの衣裳が初登場となっています…。…これが 41 年も続くとは…。発案
8
者にとってこそまさに驚きの長期間だと思います。
Dresdner Hofkantorei, 1676
誰が何に範をとってデザインし、〇ミサドレス〈と銘々したのかは現在のところ不明ですが、もともと、この言葉
は日本語にも英語にも文化として存在しなかった概念で、8 期の〇室内〈女性役員たちがめでたくも発案
しデビューさせた現代的創作語彙であります。いまなら流行語大賞の候補でしょう…?。そもそも、われわ
れが扱うルネサンス様式の音楽としてのラテン語 Missa はカトリック教会の典礼で使われるものであり、カ
トリック教会では当時も今も女性は聖職者になることはできず、また聖歌隊も基本的に男性のものです。
ファッション性をともなった〇女性のオシャレ感覚〈が聖歌隊に入り込むスキはなかったわけです。しかし、〇室
内〈は 15~16 世紀の聖歌隊ではなく、20 世紀の半ばすぎにつくられた大学公認の音楽サークルです。
発案した方々はおそらく嬉々として製作にのぞまれたことでしょう。
上掲の “Dresdner Hofkantorei”(ドレスデン宮廷合唱隊)の中心にいるのはハインリヒ・シュッツで
すが、たとえば、このような〇男性による〈合唱隊、あるいは教会の聖歌隊の長尺の法衣のイメージに、純
白ノースリーブのマキシドレスの現代的イメージを重ね合わせて、オシャレでちょっとセクシーな味を出したも
のと言ったらいいでしょうか…。もしもこのように美しい “白雪姫” たちがほんとうに存在していたら、バチカン
でも、ウェストミンスターでも、ドレスデンでも、道を踏みまちがえる僧侶が続出したことでしょう…。(笑)も
っとも着こなしによっては “オバQ”ぽい人も…。 1967 年当時、〇ルネサンス様式のラテン語ミサ〈を歌い
たいという多数意見が支配的だったので、そうした〇室内〈の雰囲気を反映していたことは確実です。
時代はミニに走りましたが、〇室内〈はマキシに走ったというわけです…(笑)。⑯は、〇ミサ〈のための “勝
負服”(costumery for Missa performances)であります。1960 年から 1966 年までコンサート
イメージの主役であった tight skirts は、casuality を保持した中での formal という位置づけができる
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でしょうが、maxi dresses は非日常性のマーカーでもある分、思い入れが込められます。〇室内〈はこれ
をミサ演奏と結びつけました。この時期は、2011 年現在まで続く、ラテン語によるルネサンスミサの演奏に
取り組み始めた時期に符合し、々衣裳をつくったからには毎年ミサを歌ってやるぞ…〆という心理的シグナル
としての意味を持ちました。室内史はその意気込みの通りになり、以後ほぼ毎年〇ミサ〈を歌いつづけて現
在に及んでいます。9 期生としてミサドレス初登場時を経験された森(萩原)さんは次のように回想され
ています:
々これから、ミサや宗教曲を中心に歌っていこうという機運の中、何かそれにふさわしい服装をということであ
ったと思います。…あのドレスに着替えると、やはり〇ミサ〈、メインステージという感じで気が引き締まりました
…。〆 々先輩方が問屋街でまとめてアセテート(acetate)とかレーヨン(rayon)といった絹に似せた
人造の化繊ものの生地を買ってこられ、一着分ずつ裁断し、女性団員に型紙(=洋裁パターンの原型
の裾を自分たちで長くしてマキシとしたもの…)とともに配り、ほとんどの人が自分で手作りしました。袖をつ
けなかったのは、デザインというよりもむしろ〇作り方を簡単にするため〈ということであったと思います…。材料
費は 2000 円未満で、針の通らない縫いにくい生地だったように覚えています。個人的には、いくらステー
ジの上とはいえ、袖がないのは寒いし、太い腕が丸出しということで、少々抵抗を覚えましたが、2007 年
まで 41 年間も着続けられたということは、simple is best を地で行くデザインだったのでしょうね…。〆
々…製作方法は個人に任されていましたので、中には、お母様や知人、あるいは専門家に頼んだ人もいる
かと思います…。〆
★ここでちょっとコーヒーブレーク。生地問屋のある 4 大都市を文化観察してみます。
々Les vêtements ont longtemps joué un rôle de « barrière protectrice ».〆 下着から
上着まで、人生は日々〇着るもの〈(clothing, Kleidung, vêtement)と共にあります。大都市に
は、既製服から生地物(きじもの)に至るまで、その大規模人口の需要を満たすべく、おびただしい数の
衣料店、素材店があります。裸では生きていけない人間の場合、これは民族・国籍を問わない、どこにで
もあるグローバルな生活文化と言っていいものです。
8 期生がミサドレスを考案した 60 年代後半は、すでに既製服文化が広がりはじめていた時代ですが、
それでもまだ〇つくる〈ということのできた時代でもありました。編み機とミシンはほこりをかぶりはじめていました
が、まだまだ家庭内残存率は高かったのです。簡単なものであれば、自分で裁縫のできる大学生もまだい
ました。彼女たちの世代は、その母親が花嫁修行として〇ドレスメーカー〈に通った経験を持つ世代とも言
えます。ミサドレスはこうして、型紙配布による原則手作りが可能という判断のもとにスタートしました。
(1)東京
生地を購入した問屋街がどこだったのか、現在のところわかっていませんが、近く東京をうかがうに、23 区
10
で大規模な布生地(ぬのきじ)の問屋街と言ったら、老舗クラスの有名なものがいくつかあります。ひとつ
は大正時代から続く繊維街、〇日暮里〈(マップ→ここ)。JR 日暮里、鴬谷、三河島の三駅の間に挟ま
れた日暮里中央通りを中心に約 1 キロにわたって拡がっています。もうひとつは JR 総武線・浅草橋駅南
側の〇日本橋馬喰町〈〇日本橋横山町〈周辺。総武線浅草橋駅、総武本線馬喰町駅、都営新宿線
馬喰横山駅、都営浅草線東日本橋駅のいづれからも至近の徒歩圏です。JR 両国駅から見れば隅田
川を隔てた西の対岸あたり。江戸通りに平行した二本の路地に、問屋がひしめいています。漱石が好ん
だ東日本橋の〇鳥安〈などで食事をされてから散策されてはいかがでしょうか。この他、馬喰町に隣接した
神田川沿いの〇東神田〈〇岩本町〈などにも古く江戸時代から続く都内有数の繊維問屋街があります。
地方出身の方でこうした下町のディープな領域をよくご存じであれば、生活に根付いた本物の東京人、い
や、東京人以上の東京人といっても差し支えないでしょう…。(笑)このほか問屋街以外では、キンガ
堂、ユザワヤ、オカダヤなどが生地店として昔からよく知られています。(キンカ堂は店舗形式のものはなく
なり、ネットショッピングの形態のみになっているようです。)
(2)ロンドン
遠く異国を訪ねてみれば、まずロンドン。下に “大ロンドン”(Greater London)の区分図を載せて
おきましたが、中心にあたる金融街 “The City of London”(=The City ◆)をとりまく近傍地域に
fabric や textile の店が集まっています。単一の店舗としては例えば、Oxford Circus から Regent St.
を南下してすぐの老舗デパート “Liberty”や、同じく Oxford Circus から Oxford Street を西へちょっ
と行った“John Lewis”といった大型百貨店の生地売り場が有名。Piccadilly St.の“FORTNUM &
MASON”と込みで立ち寄る日本人旅行客の姿もたくさんみかけます。ただし一般的には一等地のデパー
ト値段ということを念頭に置いておかねばなりません。下の②もそうです。そこで同じものをもっと安くというの
であれば、日本の繊維問屋街のような、軒を連ねた①や③の小規模店舗街に行くことになります。
Map of Greater London
日暮里や馬喰町ほど規模は大きくありませんが、ロンドンにも東京に似た地区があります。①■は West
London の Shepherds Bush ~Tube の Central Line で西進し、Shepherd’s Bush あるいは
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Goldhawk Rd.下車。同名の通り沿いの permanent shops(店舗)、また地下鉄高架下の
Shepherds Bush Market 沿いの stalls(屋台)などがよく知られています。ごく庶民的。②■は
Central London の Soho ~The City のセントポール寺院から西へ 2km ほどのところ。ただしここは
Liberty も近い一等地。安価を期待してはなりません。Oxford St.から南下する Berwick St.沿いに集
中しています。③■は East London 地区の Dalston や、Hackney Central ~例えば Dalston 地
区の Ridley Rd. Market。stall や小売店探訪を推薦。日本からかけつけても庶民的生活実感を得ら
れる気取りのない地域。その他詳細については、これら地域名と、fabric や textile をキーワードに各自
ネット検索をしてみてください。
上記①②③のようすを以下、一枚ずつ…。店構えから言っても、Soho(②)は高級感があります。
①Shepherds Bush Market/②Cloth House, Berwick St./③Dalston Mill Fabrics
(3)ニューヨーク
ロンドン LHR からニューヨーク JFK まで BA 便で 8 時間弱。朝 8:30 の便だと現地 11:10 には JFK。
午後の 1 時くらいには Manhattan に立つことができます。およそ、5th Avenue と 9th Avenue、34
th St. と 42th St.で囲まれたあたりに、衣料と生地の製造業、製品の大口卸業、デザイナーのスタジ
オ、ブローカーの事務所などが集約化された地域があり、Garment District(服飾街)と銘々されてい
て、ブロードウェイの Theater District とならび観光名所にもなっています。イギリスですと、民族と歴史は
異なれど、同じ島国としてなにかホッとするような狭さの共通感覚をおぼえるのですが、そこは高層のスカイ
ラインを誇るマンハッタン、大量消費文化の象徴の地は、ビルの谷間にあってさえ wide & open space
であります。二十世紀初頭には、アメリカで消費される衣服の 95 パーセントがこの地域で作られていた時
期もあったと歴史の記録にあります。この地域を通過する七番街には 1972 年以降、“Fashion
Avenue”という標識がかかげられています。旅行ガイドブックに記載されていますから、ご存じの方も多いと
思います。例の〇縫い針とボタン〈の巨大なモニュメントは 7 番街と 39 丁目通りの交差点にありますから、
このあたりを起点に散策されてはいかがでしょうか。大口卸ばかりではなく小売りの店もあります。2 時間の
tour などもありますので、お試しあれ。
New York City Garment District(リンク→ここ)
12
Busy sidewalk 1955 wiki/Big Monument 7th/39th
ほんのさわりにすぎませんが、以上、〇ミュンヘン・札幌・ミルウォーキー〈にちなんで、東京、ロンドン、ニューヨ
ークのようすをみてみましたが、この他、紙数の関係で話題にしそびれたのがパリ。しかし、そんなことを言っ
ても紙数を割きたくなるのがパリ。(笑)
(4)パリ
“Il tangue mais ne coule pas”(翻弄されるも沈まず)
パリのランドマークと言えば遠方から目につくという意味ではなんといっても La tour Eiffel(エッフェル塔)
でしょう。電波塔目的につくられた味気ない東京タワーとは違い、 明治 22 年パリで開催された
L'Exposition universelle de Paris de 1889(パリ万博 1889)のモニュメントとして、重厚長大な
鉄の産業技術を総動員してつくられた傑作。巨大橋梁、鉄道(レール・機関車・台車)、蒸気機関、
大艦巨砲、摩天楼などとともに、〇鉄の時代〈の技術力を象徴するものであり,欧米列強の国威発揚の
シンボルでもありました。パリ万博のわずか五年後の日清戦争では日本と中国が欧米の工業製品(軍
艦と大砲)を購入して戦っています。NHK〉坂の上の雲《の戦艦〇三笠〈はイギリスのヴィッカース社に発
注した軍艦でした。ちなみにこの万博では、エラール社、プレイエル社がチェンバロを出品し、公開演奏が
なされています。〇古楽〈というものがつい近年のことのように意識されることが多いのですが、沿革をたどると
十九世紀にまで遡及していきます。1912 年には、ランドフスカの構想を受け入れて、プレイエル社が、鉄
の時代を象徴するような、重い鉄枠を使った楽器を製作しています。
La tour Eiffel/Forth Rail Bridge, Scotland/Steamengine 1939, America
戦艦三笠 1901/戦艦ドレッドノート 1906/摩天楼・マンハッタン 1931
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下図はらせん状に配置されたパリ 20 区の〇エスカルゴ〈マップです。山手線の内側の 1.4 倍の面積があ
ります。一般的な観光の目玉を地下鉄路線に重ねてみると、たとえばパリ8区はあの上流育ちのマルセ
ル・プルーストが好んで居住していた地区ですが、この地区の凱旋門(★⑧)からはじまるシャンゼリゼ通
り、エリゼ宮[大統領官邸](⑧)、グラン・パレ(⑧)、コンコルド広場(⑧)、そしてルーブル美術
館(★①)、バスチーユ広場(⑫)などはセーヌ北岸(右岸)を西から東へ走るメトロ1号の線上に
ならびます。オペラ座(⑨)だと7号線の〇オペラ駅〈。サン・ジェルマン・デ・プレ(⑥)や、シテ島のノート
ルダム寺院(★④)などは複雑に蛇行する4号線。先に触れたエッフェル塔(★⑦)は9号線。もっと
も東京の地下鉄でさえ迷うのですから、ロンドンやパリの地下鉄の話をしたところで、編集子のノスタルジア
にすぎず、迷惑千万かも知れません…かく言う本人も滞在記憶だけでは心もとないので、路線図を確か
めながらの執筆です…(笑)
これらどの地下鉄路線の範疇にも入らないのが、サクレクール寺院や、うさんくさい観光画家にあふれた
テルトル広場(〇画家広場〈)のあるセーヌ右岸 18 区のモンマルトル (Montmartre)周辺。もともとは
甲府盆地のぶどう畑に似た起伏ある地勢の農業地帯。凱旋門の展望台から東北東方向を見渡すとそ
の盛り上がった地形がよくわかります。そういえばパリもロンドンもなだらかですが盆地状の地形です。モンマ
ルトルは標高 130 メートルほどでパリで一番の高所とのこと。ハイネ、スタンダール、デュマ、ベルリオーズ、ド
ガ、ギュスタブ・モローなどが眠るモンマルトル墓地(Cimetière de Montmartre)や歓楽街ムーラン・ル
ージュなどもこの地域にあります。この項目の主題であるパリの生地もの店が立ち並ぶところ(★⑱)です
が、それは丘のふもとの街中。ここは凱旋門から右寄りに北上して次第に東向きとなるメトロ(Le métro
de Paris)2号線の Anvers 駅下車となります。
Anvers ( ア ン ヴ ェ ー ル 駅 ) か ら 寺 院 を 正 面 頭 上 に の ぞ み つ つ 北 へ 向 か う 狭 い Rue de
Steinkerque や Rue Seveste をたどると、Anvers Tissus、Tissus Lionel など、看板に textiles と
か tissus とかかげた安価な生地もの店(★⑱)がセールや、devis gratuit(見積もり無料)の旗印
とともに立ち並んでいて、巣鴨のお地蔵さんの賑わいを呈しています。木々の生い茂る広場まで行くと、
Tissus Moline、Tissus Reine、Marché Saint Pierre (Dreyfus Déballage) などの老舗の枚挙
に暇がありません。さしずめキンカ堂(倒産)や、ユザワヤが軒を連ねている感じでしょうか。そう思うとがぜ
んパリが身近なものになります。都市には、皮相な観光イメージの影に、地元居住者の野太い生活があり
14
ます。〇岩清水〈の例えどうよう、ぞろぞろと階段をのぼっただけでモンマルトルに行ったというのでは、何かが
整然としすぎていて、旅行会社やガイドブックの餌食という気がしないでもありません。(笑)卑近な例を
あげれば、鎌倉なども狭いところですが、生活の本体は観光客が集中する小町通りや段葛周辺、大仏
周辺よりも、若宮大路を数分だけ南下した農協の野菜市場とか、駅前の東急のスーパー、あるいは大船
駅前(ここも鎌倉市)の仲通り商店街などに、人と生活物資がもっとも行き交う生活の鎌倉をみること
ができます。そんな鎌倉にも小規模ではありますが一軒、〇ケイト屋〈という古くからの生地屋さんがありま
す。若宮大路の KFC の左隣りです。買い物こそしませんが通りかかるとモンマルトルを思い出します。
Wholesaler[Großhändler, grossiste](大口の卸売)であれ、retailer[Einzelhändler,
détaillants](小売り)であれ、豊かな糸もの、生地ものの商店の繁栄は、都市や国家の繁栄を日
常的に象徴する事物のひとつであることに間違いはありません。思いを我々〇室内合唱団〈のレパートリー
に転ずれば、ルネサンス音楽の揺籃の地となったフランドル地方は、もともと中世以来の高品質の毛織物
工業と商業により富を蓄積し、ルネサンス期には北海貿易圏や運河流通の中継地として、さらには金融
の中心として繁栄した地域。この豊かさをバックボーンに、中世末からルネサンスにかけての時代に音楽生
産にかかわる作曲技術情報の発信源となったことはつとに知られるとおり。ここから輩出された優秀な作曲
家たちは、封建領主たちの芸術的競争心、フランドル伯、ブルゴーニュ公、さらにはハプスプルクや、教会
の人脈ルート、さらには、三代発明の恩恵を受けた〇楽譜印刷術〈などに後押しされるようにその存在が
知れ渡り、高い地位と報酬を保証されてヨーロッパ各地の宮廷や教会に招請されます。こうしてフランドル
人脈が構築され、 “フランドル楽派”(Franco-Flemish School)の技法を凡ヨーロッパ的ルネサンス
様式にまで高めることになりました。オッケゲム、イザーク、ジョスカン、オブレヒト、ピエール・ド・ラ・リュー、ウィ
ラールト、ゴンベール、アルカデルト、クレキヨン、クレメンス・ノン・パパ、チプリアーノ・デ・ローレ、ファート、ラッ
スス、ヴェルト等々、〇室内〈がカテドラルで歌ったフランドル人作曲家の名前を年齢順に列挙してみました
が、まさにルネサンス・コンポーザーの代表的名士たちです。150 年にわたる生成・発展・爛熟の過程を経
たのち、フランドル人の芸術的ヘゲモニーがイタリア人のそれに置き替わりはじめると、音楽は 17 世紀バロッ
クへと転換していきます。〉草枕《の主人公ではありませんが、かつて東京、ロンドン・ニューヨーク、パリの生
地もの店街を散策しながら、こんなことを考えていました。
1960……………………1970
⑤●●●・●●●●●・●●●
⑯○○○・○○○○●・●●●●●・●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
…………………
1967………………………………………………………………………………………………………2007
服装の在り方としては、まず8ページで示しましたように、8 期、9期、10 期、11 期と4年にわたって、⑤
と⑯が組み合わされます。1967~1970 の四年間です。そのあと 12 期からは⑤(ブラウス+タイト)を
全廃し、⑯(ミサドレス)がコンサート全体をとりしきる舞台正装となり、以後の〇室内〈イメージが完成に
至ります。新入団員には、汗と皮脂で黄ばんだ古着があてがわれたのではなく…(笑)、同じ〇型紙〈が
15
新入生にそのつど伝えられ、それがそのままカテドラル時代にひきつがれ、鈴木先生の 28 年間を経て、青
木先生時代の 2007 年まで41年間も使用されました。〇ミサドレス〈という言葉もしっかりと伝承されてい
たのは嬉しいことです。70 年代には一部で〇オバ Q ドレス〈などとささやかれていましたが、これが伝承された
かどうかは定かではありません…。々ミサドレス〆単独ではまだ上位のヒットはしませんが、々ミサドレス・室内〆
と入れると、いくつか〇室内〈関連のページがラインナップされます。画像検索すると、昔の現役諸君の顔が
出てきたり、々部室に置いてある 2 着のミサドレス誰のですか?1 着は 150 ㎝くらいの人です。名乗り出な
ければ 1 年生にあげてしまいますよ。 ...〆などと bbs にあって笑えます。
》bbs=Bulletin Board System「
〇室内合唱団〈の掲示板 bbs(→ここ)に、2006 年 11 月の定演を控えた〇女性の持ち物チェック〈の
書き込みがあり、次のようになってました。
持ち物チェック(女性用)2006/11/23(木) 22:30:44 女性には持ち物チェックメールを出しました。
★持ち物 ミサドレス、黒のカーディガン、白い上履き、白い靴下、楽譜、軽食(カテドラルに着いたら買
う暇無いよ)、レセ服、糊(楽譜表紙を貼るのにあると便利)、防寒用の何か(ホカロンとか)
マドリガル&シャンソンのステージでの⑰は、先に、⑪⑫⑬で述べた〇例外的衣裳〈(exceptional
costuming)の範疇の4番目となるものです。黒のタイトスカートに、薄手のセーター(pullover)を
組み合わせたもので、各自色違い、またグループにより半袖、長袖の違いを出しています。このときは、少
人数をこころがけて三班に分け、イギリスマドリガル班、フランスシャンソン班、イタリアマドリガーレ班、そして
全員でヒンデミットやブリテンの現代作品を演奏しました。写真では三列になっていますが、それぞれの列が
ひとつの班となっています。もちろん写真の枠外に男性も女性もまだたくさんいます。
★ここでちょっと、〇早混〈OB 会のサイト〇早混ライブラリー〈を参照させていただき、〇室内〈を時代状況の
中で比較観察してみます。(リンク→ここ)
16
★〇早混〈・早同合同・大隈講堂 / ★〇室内〈・第一回定演・千代田公会堂
上左は、早稲田同志社合同(1960.6.)大隈講堂での撮影。右は、その半年後に行なわれた〇室
内〈、第一回定演(1960.12.14.千代田公会堂)で、女性(“白ブラウス・黒タイト”)も男性(学
生服)も両大学の区別はほとんどできません。〇驚くべき酷似〈と言っていいでしょう。サイトを拝見した限り
では、〇早混〈は、〇定演〈では、第一回(1956)から二十六回(1971)まで、〇早同合同〈〇六連〈
では 1970 年まで、デザインは微妙に推移しているものの、“ブラウス・タイト”が定番となっています。〇早
混〈であれ、〇室内〈であれ、関西の〇同志社混声〈であれ、ファッションゆえの〇時代共通性〈を見てとること
ができます。9 期生(1968)の加藤さん(ソプラノ)は、々当時、どこのコンサートに行っても、白ブラウス
に黒のタイトスカートが定番でした。スカートは黒のロングのことも・・・〆と経験を証言されています。
男性の “学生服”については、当時から異論もあったようです。4期生、高橋さんによると、々大学で頻繁
に着用している服装で舞台に立つものですから、観客から男性の服装はどうにかならないか、疲れて見え
るなどの声が随分と出ていました…。〆
★〇早混〈・六連・東京厚生年金会館/ ★〇室内〈・第四回定演・共立講堂
上左は、〇早混〈の六連(厚生年金会館)、右は、〇室内〈の定演(共立講堂)。まさに時代の風が
そうさせているとしか言いようのない両者の酷似。清濁併せ呑むレパートリーの範囲の共通性もさることな
がら、立ち方、挙措、視線、個性を滅却した律儀な整列、ヘアスタイル、全体のフォーメーション。両者と
もに男性が、学生服ではなく、ワイシャツ・ネクタイの時代に入っています。女性は共に白ブラウス、黒タイト
スカートが続きます。〇室内〈にはリボンが加わりました。スカートの丈は、わずかずつミディに移行します。
17
★〇室内〈第八回定演・杉並公会堂/ ★〇早混〈第十七回定演・共立講堂
時期にズレがありますが、“白雪姫”だらけ。〇室内〈(1967)、〇早混〈(1972)の双方が白ワンピー
スのドレス(マキシ)にふみ切った時のもの。〇室内〈は⑯で紹介したようにノースリーブ、〇早混〈は長袖。
〇室内〈は、ラテン語ミサを歌うための勝負服というアレゴリーがあることはすでに上⑯で述べました。〇早混〈
の場合、とくにミサを歌うためという位置付けでないことは、このドレスと楽曲の組み合わせをみていくとよくわ
かります。ちなみに、このときの〇早混〈のプログラムは、マドリガル(ジャヌカン)、マドリガーレ(モンテヴェル
ディ)、五声のためのミサ(バード)その他。“白雪姫”の登場で、〇室内〈は 1971 年に “ブラウス・タイ
ト” を廃止。〇早混〈も翌 72 年に同様の措置に踏み切りますが、〇室内〈とちがって、1981 年の定演か
ら白ブラウスを復活させています。スカートはドレッシーな黒のマキシタイプとし、〇白雪姫〈と適宜交替しつ
つデュアルで運用を続けています。
次の組み写真三つも、上の 1967 年〃15・16・17・18〄に続き、68 年、69 年、70 年の定演のようすを
伝えるものです。楽曲としての〇ミサ〈と、ファッションとしての〇ミサドレス〈がどのように組み込まれているのかよ
く分かると思います。なぜか 16、20、25、29 がすべて第二ステージになっているのが面白い。
第九回定演 1968.12.12. 都市センター
19.愛する日本語のためのスケッチ(湯山昭)1968
20.ミサ Quarti toni(ヴィクトリア)1968 →♫
21.モテット六番(バッハ)1968 →♫
22.ラテン語モテット集(パレストリーナ、ヴィクトリア、バード)1968 →♫、♫、♫
23.モテット五番(バッハ)1968 →♫
18
第十回定演 1969.12.14. 都市センター
24.八声のマニフィカート(G.ガブリエリ)1969
25.ミサ O quam gloriosum (ヴィクトリア)1969 →♫(Motet)
26.カンタータ 106 番(バッハ)1969 →♫(Richter)、♫(ピアノ連弾)、♫(パートソロ)
27.ラウダ・エルサレム(モンテヴェルディ)1969 →♫
第十一回定演 1970.12.14. 都市センター
28.月光に寄せる綺想曲(石桁真礼生)1970
29.ミサ Ave Regina caelorum(ヴィクトリア)1970 →♫
30.モテット 3 番(バッハ)1970 →♫、♫(パートソロ)
31.ドイツ語マニフィカート(シュッツ)1970 “ブラウス・タイトスカート”での最終演奏 →♫
31.の “ドイツ語マニフィカート” を最後に、10 年続いてきた“ブラウス・タイト”が終了し、翌年から、ミサ
であってもなくても全て〇ミサドレス〈となります。(→写真 32) 最大の理由は、現実問題としての本番
時の着替えのあわただしさでした。
★ここでちょっと、7期(1966)からはじまった〇ルネサンス・ラテン語ミサ〈の伝統の流れを確認しておきま
す。時系列順にしてあります。発掘写真の存在・不存在の関係から、最初の 10 回分(10 枚)のみに
なったのは残念ですが、今後、1972 年以降の資料が現われることを期待します。
19
①“Papae Marcelli” ♫
この、①マルチェリ・パレストリーナから、〇室内〈の “ルネサンス様式ラテン語ミサ” への執着がはじまりました。以
後の〇室内アイデンティティ〈の確立に大きく影響したできごとです。初回は、伝統の “ブラウス・タイト・リボン” で
したが、翌年からは、既説の通り、〇ミサ〈のために衣裳替えをする程、入念な入れ込みに発展します。
②Monteverdi
③Victoria
④Victoria
②Monteverdi(1967)。ミサドレスの長い歴史のスタート。2011 年までの 52 年間に、ミサを演奏しなかっ
た年は 10 回。1966 年に〇ミサ時代〈がはじまってからだと、わずかに 4 回しかありません。ほぼ毎年歌われてき
たと言うことになります。
⑤Palestrina
⑥Victoria
⑦Palestrina
⑧Victoria
⑨Byrd
⑩Victoria
① 1966.12.8.“Papae Marcelli”(パレストリーナ)指揮/池田明良
〇室内〈ミサ事始め。
② 1967.12.16.“4 voci da capella”(モンテヴェルディ)/鈴木雅行(8)ミサドレス登場。
③ 1968.6.14.“Quarti toni”(ヴィクトリア)/末村眞一(9)
④ 1968.12.12.“Quarti toni”(ヴィクトリア)/末村眞一(9)
20
⑤ 1969.6.12.“In illo tempore”(パレストリーナ)/池田明良
⑥ 1969.12.14.“O quam gloriosum ”(ヴィクトリア)/大久保健二(9)
⑦ 1970.6.6.“Ave Regina caelorum”(パレストリーナ)/池田明良
⑧ 1970.12.14.“Ave Regina caelorum”(ヴィクトリア)/池田明良
⑨ 1971.6.12.“Mass for 4 voices”(バード)/池田明良
全ステージ ミサドレス化。
⑩ 1971.12.14.“O magnum mysterium”(ヴィクトリア)/山下 豊(12)
第十二期六月演奏会 児童会館(渋谷)
32 は、ミサ以外の曲目にもミサドレスを配分するようになった最初の演奏会のようす。シュッツのドイツ語モ
テット(“Geistliche Chormusik”)を初めて歌っている時のもの。
21
Ⅲ.カテドラル時代
1973~2011 現在
まず、最初の三年間の様子をならべておきます。ミサドレス一本です。この意味では、服飾的に大きなイベ
ントは全くありません。カテドラル時代は、正確に言えば、六月を六本木や田園調布で行い、年末の定演
をカテドラルという形ではじまりました。一回の使用で終わりましたが、初年度の六月に使った六本木フラン
シスカンチャペルセンターは音楽活動に寛容で、60 年代から、ここをハブにして、“古楽”の実験的試みが
行なわれていました。カテドラルのアイディアが出されて、本決まりになるのは、六月演奏会のあとのことです。
写真の時点では、カテドラルで声をだすなどということは、まだ構想のみの夢物語でした。
六本木フランシスカンチャペルセンター
六月演奏会
このあと 10 月にカテドラルで演奏会をやっていますが、これは、1971 年(日本語)と、1973 年(英語)に
開設された、〇いのちの電話(東京)〈のチャリティーに選ばれて客演するという偶然の幸運でした。それからい
よいよ 12 月に、定演会場として、聖マリア大聖堂の正式利用がはじまることになります。
22
第 14 回定演 学指揮 山下 豊
“De profundis” (Josquin des Prez)
上 34 は、第 14 回定演(1973)のオープニング。第一回カテドラル定演の第一声です。現在の形の
〇室内〈は、この時、この画面から始まりました。衣裳は前の時代をそのまま引き継いでいます。すでに二年
前の 12 期以来、コンサートの途中で着替えることはなくなっています。
六月演奏会(田園調布教会)学指揮 日光三代治
田園調布教会の使用許可がおりた初のコンサート
むこう十三年間、六月演奏会の根拠地となりました。
日光さんは、前年度、学指揮(副)として演奏会に臨んでいますから、二年間の学指揮経験者となります。
第 15 回定演 学指揮 日光三代治
フォーメーションが初年度とそっくりです
23
第 16 回定演 学指揮 戸部将一
三年目。カテドラルの残響に慣れてきた頃です。
★OB 会保存の写真資料は、17 期(1976)から 31 期(1990)までが 38 をのぞいて、抜け落ちて
しまっています。プリント写真、あるいはスキャンデータを提供していただければ幸いです。
第 24 回定演 学指揮 森中秀哲(24)
上 38 は、34 から十年後、1983 年の第 24 回定演。Magnificat (Willaert)。学生指揮者、森
中秀哲君のタクトで鈴木先生が先唱部分のソロを担当されているところ。女性のノースリーブ白マキシワン
ピに変わりはありません。既製服文化が全国的に優位を占めていた時代ですから、はたしてどのくらいの女
性が “手作り” 出来たかちょっと気になるところです。よく見ると男性がダークスーツに変わっています。
第 34 回定演 学指揮 師茂樹(34)
24
上 39 は、38 から十年後。〇白ワンピ〈健在。鈴木先生もご健在で 21 年目に入りました。イタリアの三人
の作曲家、パレストリーナ、ジェズアルド、カルダーラでまとめたルネサンスとバロック。写真は学生指揮者、
師茂樹君のステージ。
★ここでちょっと、学生指揮者のファッションをみてみます。34 年間なんとなく男性の独壇場のような雰囲
気がなきにしもあらずでしたが、35 期(1994)に斎藤亜矢が登場してからは、37 期(加瀬歩)、41
期(橋野未絵)、43 期(高橋麗美)、45 期(岡田恵実)、48 期(吉原 彩)、49 期(佐藤
美歌)、52 期(湯原寛子)と、2011 年までに 8 人の女性が活躍しています。ここでは最初の4人を
紹介しますが、共通している特徴があります。
[飯塚写真館]
おわかりですね。団員は伝統の “ノースリーブ白マキシワンピース”、学指揮は、その上に、指揮者アイテム
でしょうか、丈の短い黒い衣裳を着けています。とにかく 52 年間で8名ですから多数派というわけにはいき
ませんが、35 期・斎藤さんからカウントすれば、18 年間で 8 名。4割4分4厘となり、約半数にせまる
勢いとなっています。適材適所がもっとも要求される役職ですから、男女に違いはありません。男子もがん
ばってください。
★ちなみに、〇早混〈では 1990 年の渡辺巳涼さんを筆頭に 5 名の女性学指揮を輩出していると、ウェッ
ブ編集担当の富岡さんからご回答いただきました。
第 44 回定演 [飯塚写真館]
上 40 は、39 から十年後、青木先生時代になって3年目の第 44 回定演(2003 年 11 月 28 日)。
カンタータ4番。全員そろって〇白ワンピ〈に黒のカーディガン(Cardigan)をはおっていますが、これは
25
2002 年 11 月 29 日の第 43 回定演から。冬のカテドラルの寒さを体験していると理解できます。
次 41 も同様。2005 年の 46 回定演時のもの。青木先生時代になってから、さまざまな工夫がされるよ
うになりました。いわゆる〇合唱陣形〈(フォーメーション)がとても美しくみえます。単なる視覚的な形のみ
ならず、立ち位置の変化によって、客席への音の伝わり方が大きく変わるので、その面からも演奏会を楽し
むことができます。
第 46 回定演
六月演奏会 学指揮 吉原彩(48 期)
オープニング Exultate Deo, adjutori nostro (A. Scarlatti)→♫
26
41 年にわたる “ノースリーブ白マキシワンピ時代”(1967-2007)の総仕上げ
O bone Jesu(Lassus)→♫
演奏はきわめつけ、フォーメーションの新鮮さ、ファッションよし、画像よしの4拍子完備
2007 年度の定演(11.30.)ではカーディガンをはおってますから、伝統のノースリーヴの格好としてはこ
の写真の六月演奏会が 41 年間の最後となりました。
The three Graces
27
The three Graces
六月演奏会
女性の黒マキシ初登場
28
★ここでちょっと、〇室内〈がとりくんだ〇ミサ〈を整理しておきます。1960 年、1962 年、1964 年にもミサ
(レクイエムも含む)は歌われていますが、個々に単発で終わっていて後代への影響がまったくないことに
鑑み、時代を動かすインパクトを持って連続演奏のはじまった 1966 年 “教皇マルチェルス”以降を〇ミサ
時代〈と定義します。翌 1967 年のミサドレスの導入で特別の意味合いをもって扱われるようになり、60
曲あまりが、ほとんど途切れることなく現在にまでつづいている演奏史は、考えてみれば〇すごいこと〈なので
す。しかも、これほど連続して〇ミサ〈に取り組んでいる合唱団はじつは日本で〇室内〈だけなのです。ただそ
れだけでどうのこうのということはないのですが…。少なくとも、ルネサンス・アカペラに本質的なこだわりを持っ
た 7 期生以降の世代の感じ方は間違いなく 40 年間に渡って伝承されています。その蓄積によって現在
達成されている〇室内トーン〈には他の追随を許さぬものがあります。2011 年 11 月の定演の〇メサイア〈
(歴史的名演!)にそのことが如実に表れていました。〇室内〈は、早い時期に、バッハ(初 1963)、
ルネサンスミサ(初 1966)、ルネサンスモテット(初 1968)、そしてシュッツのドイツ語作品(初
1970)を、ほぼ毎年歌うようになったことで、コンサートの構成枠全体が、ルネサンス・バロックで占められ
るようになり、現在のようなレパートリーを持った合唱団が誕生しました。プログラムの組み立て方が合唱界
標準の〇様式混合型〈(集中排除型)から〇様式集中型〈に変わったのです。草創期の方々からみれ
ば、まったく〇想定外〈の合唱団にかわってしまったと言って良いでしょう。草創期→発展期→転換期→カ
テドラル時代①→カテドラル時代②。これほどに変遷を重ねた大学合唱団もまた、〇室内〈だけと言って良
いでしょう。
この変遷の激しさは〇転換期〈と呼ばれる9期~13期に象徴的に現われていますが、その時代の団員
がこの変化をどのように自覚的にとらえていたか、いくつか証言が残っていますので紹介しておきます。
々純音楽的にバロックを主体に歌いたいという気持ちが団員の皆に強くありました。〆(9 期・牛込・内政)
々〇4年間の限られた時間の中で、他の合唱団とは違った、自分たちの好きな楽曲を集中して歌いたいと
言う気運が徐々に形になり、第 10 期になって固まったと思います。〆(9 期・吉野・パートリーダー)
々ルネサンスからバロックの時代の音楽を活動の中心に据えるべきだという議論が本格化しました。〆(10
期・柴生田・パートリーダー)
々ルネサンス・バロック期の合唱曲を専門とすることが、当時の多数派のアイデンティティにとっては、必然で
した。〆(10 期・戸畑・内政)
々私たちの前後何年かの間に、ルネサンス・バロックを専らとする合唱団へと性格を変えて行きました。〆
(11 期・金城・責任者)
々バッハおよびバッハ以前の教会音楽を扱う合唱団としての性格がほぼ固まりました。〆(12 期・菅野・責
任者)。……このように大勢がどこに向かっているかは自明の状況になっていました。
29
草創期・2 曲(1960 年から 1962 年の三期定演まで)
●●●○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
ミサ:ミサ・ブレヴィス Kyrie-Benedictus-Agnus DeiⅡ(Palestrina)[抜粋]/1960.12.14.[1 期定演]
レクイエム・ニ短調・作品 48 Requiem d-moll(Faure)/1962.12.11.[3 期定演]
発展期・4 曲(1963 年から 1967 年の八期定演まで)
○○○●●●●●○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
ミサ:ト長調のミサ Messe : G-dur, D167, 1815(Schubert)/1964.12.10.[5 期定演]
【ミサ時代のはじまり】1966.12.~
Palestrina, Monteverdi
ミサ:教皇マルチェルスのミサ Papae Marcellis(Palestrina)/1966.12.[7 期ミサ奉仕]
ミサ: 教皇マルチェルスのミサ Papae Marcellis(Palestrina)/1966.12.08.[7 期定演]
【ミサドレス時代のはじまり】1967-2007
ミサ:4声の無伴奏ミサ Missa a 4 voci da cappella(1651)(Monteverdi)/1967.12.16.[8 期定演]
転換期・11 曲(1968 年の九期六月合同から 1972 年の十三期定演まで)
○○○○○○○○●●●●●○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
Victoria, Palestrina, Byrd
ミサ:第四旋法のミサ Quarti Toni(Victoria)/1968.06.14.[9 期六月合同]
ミサ:第四旋法のミサ Quarti Toni(Victoria)/1968.12.12.[9 期定演]
ミサ:「イン・イッロ・テンポーレ」In illo tempore(Palestrina)/1969.06.12.[10 期六月]
ミサ: おお、その王国はなんと栄光に満ちていることか O quam gloriosum(Victoria)/1969.12.14.
ミサ:めでたし天の女王 Ave Regina caelorum(Palestrina)/1970.06.06.[11 期六月]
ミサ:めでたし天の女王 Ave Regina caelorum(Victoria)/1970.12.14.[11 期定演]
ミサ:4声のミサ:Mass for 4 voices(Byrd)/1971.06.12.[12 期六月] ミサドレス一本に統一
ミサ : おお、大いなる神秘 O magnum mysterium(Victoria)/1971.12.14.[12 期定演]
ミサ:主日のミサ Missa Dominicalis(Victoria)/1972.06.17.[13 期六月]
ミサ:祝福されたる処女 De Beata Virgine(Palestrina)/1972.06.17.[13 期六月]
ミサ:深き淵より De profunctis clamavi(Victoria)/1972.12.08.[13 期定演]
カテドラル時代・第一期・30 曲(2000 年の 41 期定演まで)
○○○○○○○○○○○○○●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●○○○○○○○○○○○○
Victoria, Monteverdi, Byrd, Josquin, Palestrina, Mouton, Lassus, Ockeghem, Certon, Crecquillon,
Bach, Charpentier, Cererols
30
ミサ:第四旋法のミサ Quarti toni(Victoria)/1973.06.15.[14 期六月]
ミサ:4声の無伴奏ミサ Missa a 4 voci da cappella(1651)(Monteverdi)/1973.12.08.[14 期定演]
ミサ:4声のミサ:Mass for 4 voices(Byrd)/1974.12.13.[15 期定演]
ミサ:「舌よ、しっかりと捉えよ」Pange Lingua(Josquin des Prez)/1976.06.25.[17 期六月]
ミサ: 教皇マルチェルスのミサ Papae Marcellis(Palestrina)/1977.12.02.[18 期定演]
ミサ:おお、その王国はなんと栄光に満ちていることか O quam gloriosum(Victoria)/1978.06.23.
ミサ:「舌よ、しっかりと捉えよ」Pange Lingua(Josquin des Prez)/1979.06.22.[20 期六月]
六声のレクイエム Requiem a 6, 1605(Victoria)/1979.12.07.[20 期定演]
ミサ:「アレルヤ」Alleluia(Mouton)/1980.06.20.[21 期六月]
五声のレクイエム Requiem a 5(Lassus)/1981.11.27.[22 期定演]
ミサ:任意の旋法によるミサ Cuiusvis toni(Ockeghem)/1982.12.03.[23 期定演]
ミサ:「めでたし、海の星」Ave maris stella(Josquin des Prez)/1983.12.02.[24 期定演]
ミサ:「アヴィニヨンの橋の上で」Sus le pont d’Avignon(Certon)/1984.12.07.[25 期定演]
ミサ:「美しきアンフィトリット」Bell' Amfitrit' altera, 1610(Lassus)/1985.11.29.[26 期定演]
ミサ:「死が私を奪った」 Mort m’a privé(Crecquillon)/1986.12.05.[27 期定演]
ミサ:4声の無伴奏ミサ Missa a 4 voci da cappella(1651)(Monteverdi)/1987.11.27.[28 期定演]
ミサ:「キリストの永遠なる贈り物」Aeterna Christi munera(Palestrina)/1988.11.26.[29 期定演]
ミサ:バッハ・ロ短調ミサ Messe in h-moll, BWV 232(Bach)/1989.10.21.[創立 30 周年記念]
六声のレクイエム(死者の為の聖務曲集)Requiem a 6, 1605(Victoria)/1989.12.01.[30 期定演]
ミサ:第六旋法のミサ「武装した人」L’homme arme, sexti toni(Josquin des Prez)/1990.11.30.
ミサ:「我は黒し、されど美し」Nigra sum, sed formosa(Palestrina)/1991.11.29.[32 期定演]
ミサ:「イバラの中のユリのごとし」Sicut lilium inter spinas(Palestrina)/1993.12.03.[34 期定演]
死者の為の4声のミサ曲 Messe des morts a 4 voix(Charpentier)/1994.06.24.[35 期六月]
ミサ:「アヴィニヨンの橋の上で」 Sus le pont d’Avignon(Certon)/1994.12.02.[35 期定演]
六声のレクイエム(死者の為の聖務曲集)Requiem a 6, 1605(Victoria)/1995.12.01.[36 期定演]
レクイエムミサ「深き淵より」Requiem Missa : pro defunctis(Cererols)/1996.11.29.[37 期定演]
ミサ:「マリアは天に昇らせたもう」Missa : Assumpta est Maria(Palestrina)/1997.11.28.[38 期定演]
ミサ:「めでたきかな、われ」Missa : super “Congratulamini mihi”(Lassus)/1998.11.27.[39 期定演]
ミサ:おお、その王国はなんと栄光に満ちていることか O quam gloriosum(Victoria)/1999.11.26.
ミサ:4声の無伴奏ミサ Missa a 4 voci da cappella(1651)(Monteverdi)/2000.12.01.[41 期定演]
カテドラル時代・第二期・15 曲(2011.六月演奏会まで)
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○●●●●●●●●●●●●
Tallis, Caldara, Allbrechtsberger, Charpentier, Obrecht, Janequin, D.Scarlatti, Palestrina, Roman,
Victoria, Bach, Hassler
ミサ:4声のミサ:Mass for 4 voices(Tallis)/2002.06.28.[43 期六月]
31
ミサ「悲しみ」Missa : Dolorosa(Caldara)/2002.11.29.[43 期定演]
ニ長調のミサ Missa in D-dur(Albrechtsberger)/2003.06.27.[44 期六月]
死者の為の4声のミサ曲 Messe des morts a 4 voix, H.7,(Charpentier)/2004.06.25.[45 期六月]
ミサ「不幸が私を襲い」Missa: Malheur me bat(Obrecht)/2005.06.24.[46 期六月]
ミサ「ラ・バタイユ」(戦争)Missa: La Bataille 1540(Janequin)/2006.06.30.[47 期六月]
ミサ:マドリッド・ミサ・六声・ト短調 Quatuor Vocum, “Messa di Madrid” (D. Scarlatti)/2007.06.29.
クリスマスのための真夜中のミサ Messe de Minuit pour Noël(Charpentier)/2007.11.30.[48 期定演]
【黒のマキシドレスの時代はじまる】
ミサ:「キリストの永遠なる贈り物」Missa Aeterna Christi munera(Palestrina)/2008.06.27.[49 期六月]
ミサ:スウェーデン語ミサ Svenska Mässan(Roman)/2008.11.28.[49 期定演]
ミサ:おお、その王国はなんと栄光に満ちていることか O quam gloriosum(Victoria)/2009.06.26.
バッハ・ロ短調ミサ Messe in h-moll, BWV 232(Bach)/2009.11.18.[50 期定演]
バッハ・ロ短調ミサ Messe in h-moll, BWV 232(Bach)/2009.11.20.-21.[ライプチヒ]
ミサ:「マリアは天使たちに言った」Dixit Maria ad angelum(Hassler)/2010.06.18.[51 期六月]
ミサ:ミサ・ブレヴィス(Palestrina)/2011.06.24.[52 期六月]
★先に 24 ページでお知らせしましたように、OB 会保存の写真資料は、17 期(1976)から 31 期
(1990)までが、抜け落ちてしまっています。その収集は今後に期することにして、最後に 1991 年以降
の全コンサートのもようを 2010 年(51 期)まで、1 コンサート 1 枚ずつ掲載していきます。目安となるよ
うに、西暦年月日と学生指揮者の名前を挙げておきます。2004 年の定演の〇ヨハネ受難曲〈が抜け落
ちていることをお断りしておきます。“ミサドレス”が 1967 年以来、2007 年まで 41 年の長きにわたって受
け継がれていたことが目で確認できます。写真はすべて飯塚写真館のご好意により提供されました。
1991.6.21.八尋/1991.11.29.八尋/1992.6.26.河津
1992.12.4.河津/1993.6.18.師/1993.12.3.師
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1994.6.24.斎藤/1994.12.2.斎藤/1995.6.23.祝
1995.12.1.祝/1996.6.21.加瀬/1996.11.29.加瀬
1997.6.20.長池/1997.11.28.長池/1998.6.26.海老原
1998.11.27.海老原/1999.6.25.川手/1999.11.26.小林
2000.6.23.橋野/2000.12.1.橋野/2001.6.29.荒木
2001.11.30.荒木/2002.6.28.高橋/2002.11.29.高橋
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2003.6.27.聖アンセルモ/2003.11.28./2004.6.25.岡田
2005.6.24.六月・杉谷・簑口/2005.11.25./2006.6.30.角野
2006.11.24.角野/2007.6.29.吉原/2007.11.30.吉原
2008.6.27.佐藤/2008.11.28.佐藤/2009.6.26.中村
2009.11.18.中村/2010.6.18.小川/2010.11.26.小川
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Conclusio
最後に第五十回定演と第一回定演の画像をならべておきます。
2009.11.18. 創立五十周年記念定期演奏会[飯塚写真館]
ロ短調ミサ(バッハ)日本大学カザルスホール
指揮 青木洋也
1960.12.14. 第一回定期演奏会
宗教曲(パレストリーナ、モーツァルト、シューベルト)千代田公会堂
指揮 砂川 稔
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現役〇室内合唱団〈の公式ウェッブサイトに掲載されていた、合唱団の沿革に関する解説文が 2011 年
の 10月より、以下のように書き改められました:
室内合唱団の沿革
々1960 年 1 月、室内楽的なアンサンブルと合唱芸術の追求を旗印に、〇早稲田大学室内合唱団〈とし
て発足。当初、あらゆるジャンルの曲に取り組んでいたが、次第にバッハ、ならびにルネサンス・バロックに焦
点を移していく。1969 年(10 期)に他のジャンルを廃し、完全ルネバロ化を実現。1973 年(14
期)に、残響を求めて演奏会場を東京カテドラルに移し、稀有な大学合唱団へと成長。同年、団の名
称を〇早稲田大学・日本女子大学室内合唱団〈と改称。発足時より現在まで、砂川稔
(1960-62)、池田明良(1962-1972)、鈴木仁(1973-2000)、青木洋也(2001-)の
諸先生を常任指揮者にお迎えし、指揮者ごとにサウンドを大きく変化させて今日に至っている。〆
わずか三百字ほどの文の中で、不可欠の3点(60 年、69 年、73 年)に的をしぼり、五十年あまりの
歴史が正確、精密に要約されています。これまで資料不足から必ずしも史実をふまえた記述がなされてこ
なかったことを思うにつけ、69 年と 73 年のイヴェントに関わった古参 OB の一人として、深い感慨をおぼえ
ます。上記沿革の記述によって、〇室内合唱団〈の全関係者が共通の認識の土台に立てたことが重要で
す。まさに上記の通りの歴史が展開されました。この歴史的変遷のレールに沿って、当〇ファッション史〈のペ
ージが構成され、記述されています。飯塚写真館様、ならびに OB 諸氏のご協力により、かつてからの念
願であった〇写真をともなう歴史解説〈をとりあえず達成し、事実の正確な記録を遠い後輩たちに残す役
割の一端をになえたことに、ささやかなる満足をおぼえております。〇ファッション史〈編集にかかわったすべて
の方々にあらためて感謝申し上げます。(2012 年 1 月 11 日、編集子 y.y.)
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々飯塚写真館年譜〆
1960 年(1 期)飯塚隆一氏、早稲田大学政治経済学部入学。
1961 年(2 期)隆一氏、〇室内合唱団〈入団。
1962 年(3 期)この頃、飯塚写真店の石川氏による〇室内〈の撮影開始。
1966 年(7 期)隆一氏が、写真撮影を石川氏から習い、サブをつとめながら〇室内〈を撮影。
1968 年(9 期)隆一氏が一人立ちして撮影をはじめる。プログラムに〇飯塚写真店〈の広告掲載。
1983 年(24 期)この頃から恵美子夫人が撮影サブに加わる。
1995 年 1 月、隆一氏他界。しばらくの間、恵美子夫人と次男・治氏が撮影を担当。のちに三男・昇氏
が加わり、2003 年以降はご兄弟二人によって撮影が続けられて今日に至る。
恵美子夫人
治氏
昇氏
編集協力(服飾用語全般)加藤津紀子(9)、内山憲子(10)
編集協力(表現全般の校閲校正、画像について、助言・その他)戸畑道男(10)
写真撮影と画像提供 飯塚写真館 文京区目白台 2-13-4 TEL:03-3943-3681
写真提供 高山雄二(1)、吉田哲四郎(3)、井本健一(5)、木坂嘉英(5)、八木庄三
(6)、加藤津紀子(9)、末村眞一(9)、柴生田晴四(10)、戸畑道男(10)、金城恵紀
(11)、山下 豊(12)、日光三代治(14)
質問回答と写真提供 早稲田大学混声合唱団 富岡光(ウェッブ編集担当)
写真利用
“同志社混声合唱団史”(リンク→ここ)
企画編集 創立五十周年記念行事実行委員会
使用機器 Office2007・親指シフトキーボード・Windows7
編集子代表執筆 山下 豊(12)
OB 会総合代表(会長) 島田敬次(11)
2011 年 11 月 30 日(第一版)
2012 年 1 月 11 日 鏡開き(第二版)
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