戦争と安全保障 ――ベトナムとイラクを争点とした二つの大統領選挙

久保ゼミ論文
平成 17 年 1 月 12 日
戦争と安全保障
~ベトナムとイラクを争点とした二つの大統領選挙~
河井 絢也
(Ⅰ)はじめに
(Ⅱ)1968 年大統領選挙
1) 概要
2) 民主党候補、ハンフリーの選挙戦
3) 共和党候補、ニクソンの選挙戦
(Ⅲ)2004 年選挙大統領選挙
1) 概要
2) 共和党候補、ブッシュの選挙戦
3) 民主党候補、ケリーの選挙戦
(Ⅳ)両選挙の比較分析
(Ⅴ)終わりに
(Ⅵ)感想
(Ⅰ)はじめに
2004 年大統領選挙では、イラクやテロへの対応に関心が高まり、アメリカ大統領選挙にはめず
らしく、安全保障が選挙の主な争点のひとつとなった。選挙期間を通じ、世論調査でイラクやテ
ロリズムへの対応といった安全保障分野を「選挙における最も重要な争点である」と回答した有
権者は、常に上位にランクされてきた。
このように、アメリカが安全保障政策を前面に押し出して大統領選挙を戦うのはめずらしい。
戦後で考えると、1968 年以来のことであると考えていいだろう。36 年前、ベトナム戦争を戦って
いる最中のアメリカでは、選挙でベトナムへの対応が大きな争点となった。アメリカが、自身の
参戦する大きな戦争を抱えながら大統領選挙を迎えるのは、これ以来 36 年ぶりのことである。
しかし、36 年前の選挙と今年の選挙は、戦争を戦っていたという一点をとっても相当に異なる。
なにより、36 年前アメリカは冷戦の最前線にいた。
戦争そのものをとってみても戦力の投入規模、
死者数、徴兵制の有無はもちろん、冷戦を経て、アメリカが超大国としてのヘゲモニーを確立し
たと言ってよい今日では、アメリカ人が海外で命を落とすことについてのコストが増大するよう
になったことも見逃せない。一方、世論調査でのイラク/ベトナムに対する関心の大きさや、米国
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外での反米感情の高まり、日本をはじめとした、アメリカと同盟関係にある諸国の協力などは共
通事項としてあげられるであろう。
36 年前と現在とでは、何が同じで、何が違うのか。本論文では、1968 年選挙と 2004 年選挙に
おいて、①各候補者が安全保障分野においてどのような政策をとったか、②有権者の関心はどの
ように違っていたか、その原因は何かについて、主に世論調査の結果を用いて比較しながら観察
するとともに、ベトナムとの大きな違いとしてテロリズムがアメリカに与えた影響についても考
えてみたい。
(Ⅱ)1968 年選挙
1)概要i
「ひどい夏になるだろう」とリンドン・ジョンソン大統領はこの年の春に言った。1968 年は、
アメリカがベトナムへの北爆を開始してから 3 年目にあたり、アメリカ国内でのベトナム戦争へ
の批判がピークに達していたころにあたる。1968 年に入る前年の 11 月、南ベトナム駐留司令官
であるウェストモーランド将軍は、この戦争について「トンネルの向こうの明かりが見えてきた」
とする報告を行ったばかりであり、民主党のジョンソン大統領は、年明け早々に、戦争に対し楽
観的な見通しを示した。そうした中、1 月 29 日に起こったテト攻勢は、こうした見通しに対し大
きな打撃を与えることとなった。アメリカはこの攻勢を撃退したものの、アメリカ大使館と大都
市の一部がベトコンによって一部占拠され、米国内で戦争に対する批判・悲観論が一気に噴出し
た。1968 年 4 月 19 日までに、ベトナムにおけるアメリカ軍の規模は 54 万 9 千人にまでふくれあ
がり、6 月末に、ベトナム戦争は南北戦争を抜いて、アメリカの歴史でもっとも長い戦争となっ
た。さらにその後、ウェストモーランド将軍は 20 万 6 千人の兵力増強を求め、人々の反戦気分は
さらに高まった。彼はその後まもなく、司令官を更迭されることとなった。
現職の民主党ジョンソン大統領は当初再選への意欲を示していたが、3 月の民主党ニューハン
プシャー州予備選挙で、ユージン・マッカーシー上院議員が 42%の得票を獲得し一躍有力候補に
躍り出(ジョンソン大統領の得票率は 48%)、ケネディ前大統領の実弟ロバート・ケネディ上院議
員が大統領選挙への出馬を表明、各州予備選挙で次々と勝利を重ねると、ジョンソンの立場は極
めて苦しいものとなり、3 月 31 日、彼は北爆の縮小の命令とともに、大統領選挙への不出馬を表
明するに至った。
ところが、その 4 日後には社会運動家として名高いマーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺
され、さらに 6 月には民主党大統領候補の最有力とみられたロバート・ケネディも暗殺されると
いう非常事態が続発した。ケネディの死後、マッカーシーが有力候補とみられたが、マッカーシ
ーは民主党の選挙専門家からの支持を得られず、民主党の大統領候補選びは困難を極めた。
結局、最終的にはジョンソン政権の副大統領であるヒューバート・ハンフリーに白羽の矢が立
ったが(彼は 4 月 27 日に立候補を宣言していたが、予備選挙はあまり芳しい結果を残していなか
った)、依然として民主党の混乱は続き、8 月に行われたシカゴの民主党大会で、ハンフリーが大
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統領候補に指名された際にも、会場付近では戦争反対派と警官隊が激しく衝突し、それが全米中
にテレビ中継されたため、民主党のイメージ・ダウンは避けられない見通しとなった。それ以外
にも、マッカーシーを支持していた民主党員の離反、資金不足、選挙組織の弱体、ジョンソン政
権の一員であることからくるマイナスイメージなど、ハンフリーは数々のハンデを負っていた。
一方共和党は、かつて大統領選挙で敗れ、カリフォルニア州知事選挙でも一敗地にまみれたニ
クソンが 1 月に大統領選挙への出馬を表明、予備選挙で順調に得票を重ね、8 月の共和党大会で
大統領候補の指名を受けることとなった。
ベトナム戦争の影響から、選挙は当初圧倒的にニクソンが有利であると思われた。9 月 29 日に
発表されたギャラップの世論調査では、ニクソンは 43%の支持を集め、ハンフリーの 28%に対し
大きなリードを有していた。さらに第三政党であるアメリカ独立党のウォレスは 21%もの支持を
得ていた。
しかし、大統領選挙の 5 日前には、ジョンソン大統領が北爆の停止を正式に表明、平和会談を
11 月 6 日すなわち大統領選挙の翌日に行う旨を発表した。選挙前日に発表された世論調査ではハ
ンフリーがニクソンに追いついたと報じ、ハンフリーのリードを伝えるものもあったii。
選挙の結果は、得票率がニクソン 43.4%(3178 万票)、ハンフリー42.7%(3127 万票)と接戦で
あったが、選挙人による投票はニクソン 301 票、ハンフリー191 票となり、ニクソンがハンフリ
ーの猛追をかわして勝利をおさめた。選挙では、独立党のウォレスが 13.5%もの得票を得た。ま
た、ウォレスの票が共和、民主どちらの票を食ったものかについては諸説あるiii。
2)民主党候補、ハンフリーの選挙戦
ハンフリーはジョンソン政権の副大統領であり、政権の中枢にあってベトナムの責任を負うべ
き立場にいた。ジョンソン大統領が大統領選への出馬を断念したことにより、
「アメリカはベトナ
ムで失敗した」との認識がアメリカで広まったことは、民主党の立場をきわめて不利なものとし
た。選挙期間中、戦争反対のデモなど、厳しい現状を目にしたハンフリーは、有権者の認識をか
えるべく、ベトナム政策の変更を模索し始めた。
しかし、ハンフリーがジョンソンに忠誠を誓っていた一方で、再選を断念せざるを得なかった
ジョンソンは、ハンフリーの選挙戦に好意的な協力をしなかった。そのため、ハンフリーの選挙
戦はさらに厳しいものとなったiv。大統領は、署名ひとつで政策を変更できる権限を持っており、
レイム・ダックとなったジョンソンは、より大胆な政策変更により民主党に有利な状況を作り出
せたにもかかわらず、彼はハンフリーのために何もしようとはしなかったのである。たとえば、
9月にハンフリーは、米軍の撤退を年末に開始することを考慮するようジョンソンに求めたが、
大統領は、それが可能であったにもかかわらず、
「そんなことは誰にも予測ができない」とその提
案を拒絶した。ジョンソンのハンフリーに対する態度は軽蔑そのものであり、選挙戦でジョンソ
ンはハンフリーの足を引っ張るために存在しているかのようであった。
選挙戦でハンフリーはベトナムからの撤退を示唆するとともに(上記の理由により示唆するこ
としかできなかった)、ニクソンが大統領になれば「彼がもたらすのは国民の忍耐と無関心である」
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と批判し、自分は平和に対し、常に一番の優先順位をつけていると主張したv。ハンフリーは実際、
北爆にも反対しなかったし、戦争を誤りであると考えているわけでもなかったため、マイナスイ
メージは大きな障害であった。
彼にとって、ベトナム戦略での大きなカードは、北爆停止と、米軍の撤退であった。北爆の縮
小はすでにジョンソンが不出馬宣言のときに明言していたが、ソルトレーク・シティの演説でハ
ンフリーはさらに踏み込み、北爆の停止を宣言した。これで流れは変わり、シカゴの党大会の記
憶は北爆の停止という大胆な策により薄れていった。
ハンフリーが苦戦を強いられていたのは、民主党リベラル系からの支持を思うように得られな
かったことにもよる。リベラルの票は主に序盤はマッカーシーに、その後はロバート・ケネディ
に流れ、彼らが選挙戦から姿を消したあとも、彼らの支持者は、党大会でだらしない姿で民衆に
激怒する姿を見せ、いつの間にか大統領候補に指名されたハンフリーをなかなか支持しようとは
しなかった。
選挙戦終盤で、彼らはようやく、ハンフリーと、自分とは相容れないニクソンのどちらかを選
挙で選ばなければならないということに気づいた。また 11 月 1 日にマッカーシーがハンフリーを
支持することを表明、ハンフリーは一気にニクソンを追い上げた。投票日の前日のギャラップの
発表では、ニクソン支持が 42%、ハンフリーが 40%と、両者は拮抗するまでになっていた。
この時代には民主党は強い政党であった。1960、1964 年の大統領選挙で民主党は勝利していた
し、1968 年においても、民主党は世論調査で強さを保っていた。6 月のギャラップの調査で明ら
かにされた、有権者の 46%が民主党支持、27%が中立、27%が共和党を支持しているという数字
を見ても、いかに民主党が強い支持を持った政党であったかがわかる。候補者同士の人気投票で
は、ニクソンがハンフリーをリードする場面が多く見られたが、同時に実施された支持政党調査
では、常に民主党支持が共和党支持を大きく引き離していた。ニクソンは回顧録の中で「ロバー
ト・ケネディが大統領選挙の相手であっても私が勝利しただろう」と語っているが、その言葉が
本音であるかどうか、また実際にはどうであったのかは、はなはだ怪しい。
3)共和党候補、ニクソンの選挙戦
ニクソンにとって 1968 年選挙は、二度目の大統領選挙であった。彼は 1960 年に、当時のアイ
ゼンハワー大統領の副大統領として選挙に立候補したが、民主党のケネディの巧みなメディア戦
略の前にやぶれvi、さらに 2 年後のカリフォルニア州知事選挙で敗北を喫し、
「終わった政治家」
であると思われていた。
彼が指名を受けるにあたって最大のライバルは、ニューヨーク州知事のロックフェラーであっ
たが、彼は予備選挙がはじまるとまもなく、選挙戦からの撤退を表明した。終わった政治家であ
るという印象とは裏はらに、世論調査では共和党候補としてニクソンを支持している人が多数に
のぼり、1968 年にはいってからの世論調査で、彼はほとんどの調査において共和党の候補者にふ
さわしいとする支持率 1 位を獲得したvii。これは、立候補を逡巡していたニクソンにとって大き
なプラス材料であったviii。
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ベトナム戦争への対応について、挑戦者のニクソンは「ベトナム戦争を終わらせる計画がある」
とだけ語り、それ以降は「パリで進行している和平交渉の妨げになるので、いま公表するわけに
はいかない」とのべ、
「名誉ある和平」をスローガンとしたものの、ベトナム政策についてはほと
んど具体策を語ることはなかった。これについてニクソン本人は、後に彼の政権の国務長官とな
るキッシンジャーを通じてジョンソン政権のベトナムに対する動きをある程度つかんでいたため、
下手に動いて自分の支持率を下げたり、民主党側を利することをしたくなかったのだと語ってい
る。(たとえば、ニクソンは政権と結びつきを持っていたキッシンジャーから「北爆の停止に反対
するような発言をしてはならない」
「北爆停止があったら、ただちにコメントを発表しなければな
らない」とアドバイスを受けたことを明らかにしている)。ix
先にも述べたが、ニクソンにとって最大の危機は、ハンフリーが北爆の停止を宣言したことで
あった。それについては、ジョンソンから事前にニクソンに通告があり、
「民主、共和両党にとっ
てもいいことだ」とジョンソンから説明があったが、ニクソンははらわたが煮えくり返る思いだ
ったという。
(Ⅲ)2004 年大統領選挙
1)概要
多言を要さないと思われるが、2004 年選挙についても触れたい。サダム・フセインを前年の 12
月に捕らえ、2004 年のはじめには、ブッシュ大統領は、60%という高支持率を獲得していた。イ
ラク戦争での勝利を宣言した 2003 年には、ブッシュの再選はゆるぎないものと思われた。しかし、
イラクで頻発するテロと、蓄積していく米軍の死者により、2004 年選挙は一転、混戦模様となっ
た。4月にイラク・ファルージャ地方でアメリカの民間人が虐殺され、遺体が損傷されアメリカ
のニュースで映像が流れると、ブッシュへの批判がさらに高まり、イラクが大統領選の「懸念材
料」として捉えられるようになった。
民主党では、イラク情勢の悪化にともない、当初泡沫候補と見られていた、リベラル色の強い
前バーモント州知事ハワード・ディーンが、イラク戦争への反対を唱え、世論調査で候補者中ト
ップの支持率を得ていた。しかしディーンは、党大会の初戦となる 1 月 19 日のアイオワ州民主党
党員集会で 18%の得票率に終わり敗北、ベトナム戦争の英雄でもある上院議員、ジョン・ケリー
が 37%の支持を得て勝利し、31%の得票を獲得したエドワーズ上院議員がそれに続いた。ディー
ンはその後も巻き返すことができず、ニューハンプシャーでもケリーが勝利すると、ディーンは
指名候補争いから脱落、次々と州大会で勝利し地滑り的勝利を収めたケリーが、民主党の大統領
候補に指名されることとなった。
ケリーが民主党の候補を勝ち取った背景には、民主党内に根強い「反ブッシュ」感情が存在し
ていたことが影響していた。ケリーが大統領候補に選ばれたのも、政策が受け入れられたからと
いうよりも、むしろ「ブッシュに一番勝てそうな候補」であったからであるといわれている。x
一方、共和党では再選を目指すブッシュ大統領がすんなりと候補者に決まり、ケリーが正式に
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民主党の候補者に指名される以前から、ケリーを意識したネガティブ・キャンペーンを展開した。
これはイラクが選挙の争点となることを見越し、ベトナム戦争の英雄であるケリーが、ベトナム
戦争に従軍していないブッシュよりも良いイメージを持たれ、優位に立とうとするのを早い段階
から防ごうとしたというのが一因であろう。
さらに、第三党からの候補者として、1996、2000 年の大統領選挙にも出馬している消費者運動
家ラルフ・ネーダーが登場した。彼は反戦を掲げ、民主党の票を食うという前評判がたっていた。
ネーダーは米軍のイラクからの撤退と国際平和維持部隊への引継ぎを主張した。
選挙戦序盤はイラクなどに対する批判や、根強い「反ブッシュ」の勢いをうけてケリーがブッ
シュをリードする場面が多く見られたが、民主党大会を終えてもケリーの支持率が伸びず、逆に
ブッシュが共和党大会を終えて支持率を伸ばし、共和党大会の終了後にはブッシュが支持率でリ
ードしているとする結果を出した世論調査が多く見られた。両者はその後、激しく競り合いなが
ら世論調査ではほとんど差が見られない激戦となり、選挙直前の世論調査では、両候補の支持率
は同じであるか、もしくは1~2%の差で、誤差の範囲内で完全に互角となっていた。
選挙結果はブッシュが 51%の得票(5946 万票)、ケリーが 47%の得票(5595 万票)を得た。選挙
人ではブッシュが 284 人、ケリーが 256 人を獲得し、ブッシュが接戦を制して再選を果たした。
ネーダーは選挙人を獲得することができなかった。
2)共和党候補、ブッシュの選挙戦
ブッシュ大統領は、選挙期間中一貫して、自分を「力強く、決断力があり、有能な戦時指導者」
として見せようとしていた。2003 年の 5 月に、イラクにおける戦闘の終結宣言を行ってから、テ
ロの頻発によりイラク情勢は一気に悪化、2004 年の 5 月にはアブグレイブ刑務所において、米兵
のイラク人に対する虐待が発覚し、イラクは一気にアメリカにとって最重要の問題に躍り出た。
その後も、2004 年9月にはパウエル国務長官が大量破壊兵器発見の断念を表明し、アナン国連事
務総長がイラク攻撃は国際法上違法だと発言するなど、イラク攻撃を正当化しつづけてきた政権
には痛い出来事が続いたが、ブッシュは大量破壊兵器はサダム・フセインによって確かに計画さ
れていたとしてイラク攻撃は正当であり、イラクに米軍が駐留し続けるのはイラクを民主化する
ためであると主張し続けた。
イラク情勢の悪化が 2004 年を前後して急激に起こったこと、それ以前にはイラクは華々しい戦
勝だったというムードが高かったことなどから、ブッシュが再び共和党の候補者となるのに大き
な障害はなく、彼は8-9月の党大会ですんなり候補者に選ばれた。タイミングも手伝って、イ
ラク問題は共和党内部から大統領を脅かす要素とはならなかった。
党大会で共和党が採択した党綱領では、一国主義的姿勢が鮮明にされ、イラクで適用された先
制攻撃についても、これを正当化する記述が見られた。イラク政策についても、①イラクに大量
破壊兵器開発の計画と意思があったのは間違いない、②イラクでの困難な任務を完遂する、③テ
ロリストが大量破壊兵器を追求する中、必要なら先制行動を起こす、とし、当初の方針を継続し
た。
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イラクで厳しい状況が続いていたにもかかわらず、ブッシュはイラク問題から逃げることはな
く、一貫してこれに立ち向かう戦略をとり、
「アメリカはこれに立ち向かわなくてはならない」と
愛国心を高揚させようとした。ブッシュはイラク政策を通して、自分を優れた指導者として見せ
ようとしていたということができる。ブッシュが、少なくともイラク政策においてはケリーに押
し切られなかったのは、最後までケリーの批判に耐え、一貫した主張を続けたことも要因であろ
う。実際に選挙の出口調査でも、投票にあたって最も重要な質に「強い指導者」を挙げたのは 17%
に上ったが、そう回答した人のうち 87%がブッシュに投票した(資料⑩参照)xi。また、
「問題につ
いての明確な姿勢」についても、これを最も重要とした 17%の人々のうち、ブッシュに投票した
のが 79%(ケリーは 20%)に上った。
「強い指導者」争いではブッシュに軍配があがったといえよ
う。
3)民主党候補、ケリーの選挙戦
一方、挑戦者のケリーは、よく知られているように、イラクにおけるアメリカ軍の苦境を現大
統領への有効な批判として利用することができなかったといわれる。相手が特定できないテロと
の戦いや、アメリカが政権運営に介入していたイラクへの対応では、かつてのニクソンのように
「和平会談に差し支える」という理由でイラク政策について沈黙することは、彼には不可能であ
った。
ケリーは外交政策でジレンマを抱えていたとされるxii。久保文明教授が指摘しているように、
ケリーは 2004 年 8 月に入るまで、イラクから米軍を撤退させる方針を拒否してきた。ケリーはこ
れを「アメリカは逃げ帰るわけにはいかない」、すなわちイラクの安定と民主化はアメリカの責任
だとする観点から主張していたが、これはイラクからの撤退を求めるリベラル派から少なからず
失望されることとなった。ケリーがイラクへの武力行使に賛成投票していることや、外交エリー
トとしてイラクからの撤退を選択肢として考えていないこと、ブッシュ政権が米軍増派に慎重姿
勢を見せていた段階から増派を主張していたこともあることなどが、本来は民主党の支持が多い
と思われる反戦派の支持を思うように得られていない一因である。
ケリーは 7 月に行われた民主党大会の大統領候補指名受諾演説において、
「いかなる国家にも、
国際機関にも、米国の安全保障への拒否権は与えない」と伸べ、
「強いアメリカ」を目指す共和党
に対抗する方針を示した。しかし彼の、ブッシュのイラク政策に対する批判は主に戦争の「遂行
方法」であって戦争そのものではなかったし、ケリーはイラクに関し、対イラク武力行使の権限
を大統領に与える議会決議に賛成する一方、870 億ドルの追加戦費の支出には反対するなど矛盾
した投票行動をとったため、共和党からその一貫性のなさを追求されることとなった。ワシント
ン・ポストの 7 月末の世論調査では、64%の人がブッシュ大統領の一貫性を評価したのに対し、
ケリーのそれに対する評価は 24%にすぎなかった。
党綱領では、民主党は、ブッシュ政権は大量破壊兵器の脅威を誇張したとして批判し、他国と
連合を築き、責任を分担するとした。党大会の終了後、ケリーは駐留米軍の負担減を一貫して主
張していが、最終的には①大統領就任後 1 年以内のイラク駐留米軍の半減、②大統領就任後 1 期
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目の任期中に全イラク駐留米軍を帰還させる、③イラク戦争そのものも間違った選択である、と
し、従来の政策を大きく変更した。これは、ブッシュのイラク政策との違いを鮮明に示すことで、
上記のような反戦派からの支持票を得ようとしたためであると思われる。
しかし、
「民主党で一番ブッシュに勝てそうな候補」であったケリーが、大きな争点であったイ
ラク問題に関し、自身の過去の行動にたいするあいまいな姿勢から、ブッシュを批判しきれなか
ったのは大きなミスであった。その態度は、同じくイラクへの武力行使に賛成しつつも、
「自分は
正しいと思ったことをしただけだ」と一言で問題を片付けた副大統領候補エドワーズと対照的で
あった。
ケリーは、苦境ではあるが敗北感は漂ってこないイラク情勢との関係上、強い指導者をアピー
ルすればするほど、ブッシュとの戦略は似たようなものになり、逆にブッシュの政策と正反対の
ことを主張しようとすれば戦争から手を引くことになるため、強い指導者像を示すことができな
いというジレンマも抱えていたのである。
(Ⅳ)両選挙の比較分析
両選挙はどのように異なっていたのだろうか。ここでは、選挙全体ではなく、安全保障面を中
心に、それがどのように選挙に影響したのかを、いくつかの観点から分析してみたい(10 頁の比
較表を参照)。
①候補者の
候補者の政策
1968 年選挙では、ハンフリーが選挙戦終盤に北爆停止を明言したのに対し、ニクソンは具体的
な政策をほとんど示さなかった。そのため、当初ハンフリーは有効な公約を掲げることができな
かったが、選挙直前にこの公約を公表することで、土壇場で猛追をかけることができた。少なく
ともベトナム政策については、ニクソンは今まで民主党政権が蒙っていたマイナスイメージの貯
金に頼り、かろうじて逃げ切った格好である。
一方、2004 年選挙ではケリーが任期以内に全駐留米軍を帰還させるとしたのに対し、ブッシュ
はイラクで民主化を実現するまで米軍は駐留し続けるとし、両者の政策は真っ向からぶつかった。
これは、ケリーが民主党大会以後に政策を左寄りに修正し、イラクを対立軸に位置づけようとし
たものであった。しかし、ケリー自身がイラクについて矛盾する行動をとっていたため〔(Ⅲ)3)
参照〕、ブッシュ側からの容易な反撃を許してしまい、思うように争点に持ち込めなかった感があ
る。ブッシュは、一時期「テロとの戦いに勝利するのは困難」などといった失言が見られたが、
それを除くと一貫してイラクへの対応に強い姿勢を見せた。これが幸いしたのか、選挙直前の世
論調査では「どちらがイラク問題にうまく対応できるか」という質問に対し 51%対 45%でケリー
をリードしたxiii。また強い指導者像については、(Ⅲ)で見たとおりである。
8
②国民の
国民の関心
常識的な結論になってしまうが、
「ベトナムはイラクよりも大きな社会問題であった」ことは明
らかである。ベトナム戦争は徴兵制の下で戦われていたことxiv、駐留米軍の数はベトナムが 50 万
人以上に対してイラクは 13 万 8 千人であること、ベトナムの死者が 5 万 8 千人に達したのに対し、
イラクは今のところ1千人であることからも、ベトナムがアメリカの行方を左右した大問題であ
ったことは明らかであった。
世論調査も、ほぼそれを裏付ける結果が出ており、イラクとベトナムにはある程度の開きが見
られた。ギャラップの調査によると、1968 年の秋にベトナムが「国家が直面するもっとも重要な
問題である」と答えた人がおよそ 40%いたのに対し、イラクに関する同様の調査では、20%強に
とどまるなど、半分の数値にとどまった(資料⑦参照)。また、ベトナム戦争では戦費が 1968 年の
初頭に 300 億ドルに達し(最終的には 1500 億ドルに達した)、財政赤字が大幅に増加していたが、
経済がもっとも重要と答えた人は 10%に満たなかった(資料⑦参照)。調査方法が現在とは異なる
ため安易な結論は避けたいが、要するに、経済的な問題を考えるにあたっても、ベトナムは避け
ては通れなかったのである。それに比べ、2004 年の調査では、イラクを最も重要であると考える
人と経済のそれは、ほぼ拮抗していた(資料⑦)。さらに、
「あなたの投票にとって最も重要なもの
はどれか」という質問に対して、2004 年秋の調査ではすべての調査で「経済」が「イラク・戦争
の恐怖」を上回った(資料⑧)。国民の目は、ベトナムのときと比べると、経済その他の国内問題
に向いていたといえよう。
もっとも、
「ベトナム/イラク派兵は失敗か」という質問に対しては、1968 年、2004 年の両方
の調査で、Yes と答えた人が 40%を上回る時期が多く出るなど、共通点が見られ、メディアでも
注目された(資料②、④参照)。これは、イラク、ベトナム両戦争の遂行について国内のコンセン
サスがとれていないことを物語るものであるが、実際には北爆の縮小という結果を伴った 1968 年
とくらべ、イラクでは戦争規模の縮小につながるような動きは見られなかった。やはりこれも、
イラクとベトナムの規模の違いからくるものであると思われる。このように類似する結果が出た
一因は、この質問が Yes or No で答える形式であり、経済や犯罪といった他のトピックと関連し
た質問ではなかったからであろう。
③テロリズムの
テロリズムの登場
1968 年の世論調査では調査項目の中に”terrorism”という単語はどこにも見当たらなかった。
しかし、9.11 を経たアメリカで、テロは有権者の大きな関心事であり、今回の選挙でも「テロと
の戦い」という言葉はなくてはならないものとなった。
2004 年選挙は、安全保障が久々に前面に登場した選挙であったが、冷戦の終結直後とは変わっ
て、安全保障とは特定の国での戦争状態への対応だけでなく、アメリカという国家をどう防衛す
るかが大きな問題としてその言葉の意味に含まれるようになっている。アメリカが超大国として
君臨している現在、アメリカ合衆国を正面から武力で攻撃しようとする国家はほとんど存在しな
いし、かつアメリカと対等に戦争を継続することのできる国家は世界には見当たらない。9.1
1テロに見られるように、テロ組織だけがアメリカ本土を有効に攻撃することができるといって
も過言ではない。そうした流れを受けて、2004 年選挙は9.11テロが起こってからはじめての
9
大統領選挙でもあり、テロという目には見えない恐怖に対し、大統領がどのような方策を講ずる
かが問題となったのである。
こうして戦争政策が、純粋な「安全保障」色が薄まって外交の一部として捉えられ、テロ対策
がクローズアップされる一方で、ブッシュ大統領からはイラク対策とテロリズム対策を同視した
公約が続いた。彼がイラク戦争を「テロとの戦い」というラインで捉えていることがそれを顕著
に示している。一方、挑戦者のケリーはイラクとテロを同視することの危険性を選挙戦で指摘す
る作戦に出た。候補者のTV討論の1回目では、イラク戦争の意義を強調するブッシュに対して
ケリーが、
「アメリカを攻撃したのではサダム・フセインではなくオサマ・ビン・ラディンである」
と批判し、ブッシュに対して痛烈な一撃を放った。
実際の世論調査はそうしたブッシュの動きにどう反応したのであろうか。投票直後に行われた
出口調査では、
「イラクはテロとの戦争との一部である」という質問に対して、Yes と答えたのが
55%、そのうち 81%がブッシュに投票したと答え、反対に No と答えた 42%の人のうち 88%がけ
リーに投票するなど、印象的な結果が出た。すなわち、イラク戦争はテロとの戦争であると主張
するブッシュの説明を肯定的に捉えた人はブッシュに投票し、イラクとテロは別物であると考え
た人々はほとんどがケリーに投票するといったように、ほぼ完全に投票行動が2分化されたので
ある。また、今回の選挙の投票基準について、最も重要な争点を「イラク」であると答えた人は
全体の 15%にあたり、その 73%がケリーに投票したが、これはイラクとテロは別物と考えた人々
が、イラクはブッシュがテロとの戦いというスローガンを利用して攻撃したに過ぎない、などと
考えたためであろう。一方で「テロリズム」と答えた人は全体の 19%に上り、そのうち 86%がブ
ッシュに投票したが、こういった人々は「イラクはテロとの戦いの一部」とするブッシュに賛成
する人々であると考えられる。ブッシュ再選を可能にした一因は、このようにイラク戦争をテロ
との戦争であると位置づけたことにある程度成功し、有権者がブッシュの説明に賛意を示した結
果であると言ってよいだろう。
(Ⅴ)おわりに
ブッシュはかつてイラク、イラン、北朝鮮を”axis of evil”と呼んだ。しかしならず者国家
とテロ組織は一体化しているわけではない。アルカイーダを主な敵とする「テロとの戦い」とい
うスローガンの下イラク戦争を戦うことは、サダム・フセイン政権を打倒するという本来の戦争
目的とどのくらいの整合性があるのか極めて疑問である。
ブッシュがこのように「テロとの戦争」で介入を正当化していることは、前職の大統領である
クリントンが「普遍的正義」と「民主的平和」によって介入を行ってきたこととは対照的である。
一方で、9.11テロの発生によって、アメリカは介入するための政治的コストは著しく減少し
た。ベトナム戦争や湾岸戦争、旧ユーゴスラビアへの介入では、戦争を遂行している最中には国
内から常に「なぜアメリカ人が、アメリカから遠く離れた名前も知らない町で命を落とさなけれ
ばならないのか、なぜそこに介入する必要があるのか」といった強い批判が寄せられていた。し
10
かしテロとの戦いにおいては、
介入にあたって国民を説得する作業が極めて容易である。敵は 2001
年 9 月 11 日にアメリカを攻撃してきた組織であり、今もアメリカを狙っており、彼らはアメリカ
によって殲滅させられなければならない人々だからである。また、こうした者に対する戦争にお
いては、「はじめに」で触れた戦死者が出ることのコストも軽減されるのである。
ブッシュは今回の選挙で、安全保障面だけに目を向ければ「テロを利用して勝った」のであり、
ブッシュの再選は、一体化しているのかどうか定かではない「ならず者国家」と「テロ組織」を
同視し、彼らをアメリカニズムの予防行動の下に置くということ(すなわち、必要があればアメリ
カ派彼らを攻撃するかもしれないということ)を、国民が承認したということを意味するといって
も過言ではない。私はベトナムとイラクとで選挙の勝者が分かれたのは、戦争に対する“WHY”を
うまく国民に納得させることができたか否かが大きな要因であると考えるが、イラクで示された
“WHY”が真実であるかは、戦争自体の可否とは別に、少なくともブッシュの主張だけを見れば、
極めて疑わしいのである。
(Ⅵ)感想
出来の悪い論文になってしまったなあ、というのが正直な感想である。とうとう最後まで、一
貫して論文の中で何を言いたいのかを、自分の中でも論文の中でも明らかにすることができなか
った。論文を執筆する最中に、自分の書きたかったことや主張、最終的な結論が変化することは
そうめずらしくもないと思うが、それを消化しきれなかったことについて後悔が残る。久保先生
から帰ってきたペーパーのコメントについていたチェックの山を見ると、その指摘が当たってい
ることが自分なりによくわかっているつもりだけに、悔しい気持ちになる。
中間論文に対して有益な批判を加えてくださった三石さん、飯田さん、寺井君、そして久保先
生、どうもありがとうございました。
※本文中、あるいは資料で用いた世論調査の結果は、特に明示していない限り、Gallup 社ホー
ムページ The Gallup Organization www.gallup.com
11
より入手したものを用いた。
1968 年・2004 年選挙比較票
候補
項目
ハンフリー
ニクソン
ケリー
ブッシュ
党
民主
共和
民主
共和
ベトナム/イラク政
策
名誉ある
北爆停止
和平
任期以
民主化ま
内の撤
で駐留
退
元副大統
上院議
領
員
40%
42%
49%
49%
得票
3127 万
3178 万
5595 万
5946 万
得票率
42.70%
43.40%
48%
51%
192
310
252
286
×
○
×
○
地位
副大統領
選挙直前支持率
獲得選
挙人
勝敗
大統領
ベトナム
イラク
戦力規模
54 万 9 千
13 万 8 千
死者
5万8千
1200
期間
約8年
1 年 10 ヶ月
一日あたり死者
19.3 人
1.7 人
平均「誤り」率(※)
50%
43%
約 10%
約4%
xv
戦費(GDP比)
(※)それぞれの選挙の年に派兵が「誤りである」と考えていた人の年平均
12
資料① ジョンソン大統領のベトナムへの対応に対する支持・不支持
資料② ベトナム派兵は誤りか?
13
資料③ ブッシュ大統領のイラクへの対応に対する支持・不支持
George W.Bush's Approval Ratings Handling of the
War in Iraq
approve
80
76
71
70
63
60
50
40
disapprove
58 57
55 54
40 42
39 41
61
54
51 50
50
47 47 45 47
36
34
30
25
21
Ja
n03
M
ar
-0
3
Ju
n03
Au
g03
O
ct
-0
3
De
c03
Fe
b04
Ap
r04
Ju
n04
Se
p04
20
55 57
53 51
52
52
49
49 47
48
46 47 48
45
42 42
資料④ イラク派兵は誤りか?
Was it a mistake sending troops to Iraq?
yes
no
80
75
70
72
60
59
50
56
57
46
40
39
30
20
60
42
42
58
57
54
44
50
47
41
51
48
50
48
38
27
23
M
ar
-0
Ju 3
l-0
Oc 3
tNo 03
vJa 03
n0
Ap 4
rM 04
ay
-0
Ju 4
n0
Ju 4
lAu 0 4
gSe 04
p0
Oc 4
t04
10
14
資料⑤ ベトナム問題を最も大事な問題であると考える国民
資料⑥ イラク問題を最も大事な問題であると考える国民
15
資料⑦ 今日、国家が直面している最も重要な問題は何か
What do you think is the most important problem
facing this country today?
vietnam
economy
50
40
%
30
20
10
0
Aug-68
Sep-68
Oct-68
What do you think is the most important
problem facing this country today?
Iraq/Fear of war
economy in general
50
40
%
30
20
10
0
Apr-04
Aug-04
Sep-04
16
Oct-04
資料⑧ 選挙で投票するにあたって最も重要な争点は何か
If you have to choose , which of the following
issues will be most important to your vote for
president?
%
Iraq/Fear of war
Terrorism
Economy
50
40
30
20
10
0
Apr-04
Jul-04
Sep-04
Oct-04
資料⑨ 出口調査~最も重要な争点は何か、また、どちらに投票したか(CNNホームページより)
Bush
Kerry
Taxes (5%)
57%
43%
Education (4%)
26%
73%
Iraq (15%)
26%
73%
Terrorism (19%)
86%
14%
Economy/Jobs (20%)
18%
80%
Moral Values (22%)
80%
18%
Health Care (8%)
23%
77%
Most important Issue
17
資料⑩ 出口調査~最も重要な質は何か、また、どちらに投票したか(CNNホームページより)
Most Important Quality
Bush
Kerry
Cares About People (9%)
24%
75%
Religious Faith (8%)
91%
8%
Honest/Trustworthy (11%)
70%
29%
Strong Leader (17%)
87%
12%
Intelligent (7%)
9%
91%
Will Bring Change (24%)
5%
95%
Clear Stand on Issue (17%)
79%
20%
資料⑪ 出口調査~イラクはテロとの戦争の一部なのか(CNNホームページより)
Is Iraq War Part of War on Terrorism?
Bush
Kerry
Yes (55%)
81%
18%
No (42%)
11%
88%
18
参考文献・ウェブサイト一覧
通史
ウイリアム・マンチェスター『栄光と夢~アメリカ現代史~』(草思社、1976 年)
阿部齋・久保文明『北アメリカ』(自由国民社、1999 年)
佐々木卓也編『戦後アメリカ外交史』(有斐閣アルマ、2002 年)
ヘンリー・キッシンジャー『外交(下)』(日本経済新聞社、年)
1968 年選挙
Lewis L. Gold, 1968: The Election That Changed America (The American Ways Series, 1993)
Hubert H.Humphrey ,The Education of a Public Man : My life and Politics (Doubleday &
Company, Inc , 1976)
Charles Lioyd Garrettoson Ⅲ , Huber H.Humphrey (Transaction Publishers, 1993)
Theorore H.White , The Making of The President 1968 (Atheneum Publishers ,1969)
リチャード・ニクソン『ニクソン回顧録』(小学館、1978 年)
Carl Solberg , Hubert Humphrey (W.W.Norton&Company , 1984)
ロバート・マクナマラ『果てしなき論争』(共同通信社、2003 年)
ロバート・マクナマラ『マクナマラ回顧録』(共同通信社、1997 年)
デービッド・ハルバースタム「ベスト・アンド・ブライテスト」(朝日新聞社、1999 年)
2004 年選挙
CNN ホームページ www.cnn.com
FOX ニュースホームページ www.foxnews.com
Gallup ホームページ www.gallup.com
久保文明「注目すべき米国の二つの選挙戦」(『外交フォーラム』2004 年 11 月号)
みずほ総合研究所「イラク戦費が米財政に与える影響」
http://www.mizuho-ri.co.jp/research/economics/pdf/us-insight/USI008.pdf
読売新聞
19
この章の記述は主に ウイリアム・マンチェスター『栄光と夢』(草思社、1976 年)第 7 章、Lewis L. Gold ,
1968:The Election That Changed America (The American Ways Series , 1993) 、Hubert H.Humphrey ,The
Education of a Public Man : My life and Politics (Doubleday & Company, Inc , 1976) Book Three に拠って
いる
ii リチャード・ニクソン『ニクソン回顧録』(小学館、1978 年)
296 頁
iii 民主党の票を食ったものだとする例としては、阿部齋・久保文明『北アメリカ』(自由国民社、1999 年)第Ⅴ章、
また共和党の例としては、マンチェスター前掲書、第七章を参照。
iv Carl Solberg , Hubert Humphrey (W.W.Norton&Company , 1984) p.377
v
Solberg, Hubert Humphrey , p.377
vi たとえば、ケネディが高価なスーツに身を固め、爪の手入れまで気を配ってテレビに登場したのに対し、ニク
ソンはシワのはいったスーツで、ひげもきちんとそっていなかった。
vii Gallup poll 1968
viii ニクソン、前掲書、393 頁
ix ニクソン、前掲書、395 頁
x たとえば、2004 年 3 月 4 日付け読売新聞でエスター・フューズ教授は「民主党支持者が自分の考えや好みに近
い候補ではなく、秋の本選挙をにらんで戦略的にケリーに投票した。過去にはなかったこと」とコメントしてい
る。
xi CNNの出口調査による。 www.cnn.com 参照
xii
久保文明「注目すべき米国の二つの選挙戦」(『外交フォーラム』2004 年 11 月号)
xiii
Gallup poll October wave 3 www.gallup.com を参照
xiv
但し、現在ではアメリカはイラク戦争にも州兵と予備役を投入している。平時は一般市民として生活を送り、
国の危機に参集する予備役は、現役兵に比べ約 7 分の一のコストで軍隊を維持できるため、1973 年に徴兵制が廃
止された後、米国防省が登録者数を激増させた。しかし現在、予備役や州兵は「後方支援だけではなく、現役兵
の部隊との共同作戦まで担う」までに依存度が高まっている。米国防総省はイラク派遣部隊全体では、予備役と
州兵の割合は 25%程度だが、2005 年には 40%に引き上げる方針である。
xv
みずほ総合研究所「イラク戦費が米財政に与える影響」
http://www.mizuho-ri.co.jp/research/economics/pdf/us-insight/USI008.pdf
i
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