国際フィールドスタディ(IFS) 2005年9月14日(水)~2005年9月22日(木) 《スケジュール》 9月 14 日(水) 空路クアラルンプールへ(所要7時間 10 分、時差-1時間) 9月 15 日(木) 現地研修(ジェトロ・クアラルンプール/マレーシア工業開発庁/ プロドゥア社)→ホームステイ先(セパン・バンブリス(SEPANG BANGHURIS)村) 9月 16 日(金) 現地研修(NTT MSC/プトラマレーシア大学) 9月 17 日(土) 現地研修(鈴木早苗アジア経済研究所研究員からの研修/ 家庭訪問/セパン・バンブリス村のゴム園・加工場・畑) 9月 18 日(日) クアラルンプール市内研修(クアラルンプールの急速な都市化の視察) 9月 19 日(月) 空路プーケットへ(所要1時間 15 分、時差-1時間) 着後、ナムケム村(津波被災地)訪問→カオラックのホテルへ 9月 20 日(火) 現地研修(プーケットにおける津波被災地訪問)→プーケットのホテルへ 9月 21 日(水) プーケット復興委員会訪問 空路バンコクへ(所要 1 時間 25 分、時差なし)→乗り換え 成田へ(所要6時間、時差+2 時間) 9月 22 日(木) 解散 《目次》 Ⅰ・マレーシア・・・・・・・・・・・・・・・・・1.マレーシアの経済発展 2.ブミプトラ政策~「本音」と「建前」~ 3.マレーシアで働く 4.肌で感じたマレーシア Ⅱ・タイ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1.津波と復興~9ヶ月経って~ 2.津波と復興~草の根ボランティア~ 3.津波と復興~観光地として~ Ⅲ・国際フィールドスタディ(IFS) 千葉大学法経学部総合政策学科3年 03A3011X 江上佑美子 Ⅰ・マレーシア 1.マレーシアの経済発展 1991年、マハティール前首相(在任・1981~2003年)は、「10年ごとに所得を倍増させ(年7%の 成長を持続)、国内総生産を2020年に1999年の8倍に引き上げる」「2020年までに、経済、政治、社会、 精神、心理、文化のあらゆる分野で完全に発展した国(先進国入り)」を実現することを謳った演説を行 った。この“vision 2020”と呼ばれる国家基本目標を実現するためのアクションプランとして策定され たのが「MSC(マルチメディア・スーパー・コリドー)プロジェクト」である。マレーシアは1980~90年代に おいて製造業をエンジン役とすることにより経済発展を果たしてきた。既存の製造業と併せて新たにIT 関連産業を育成することにより“vision 2020”を実現することが「MSCプロジェクト」の目的である。基 本的構想は、首都クアラルンプールの郊外に新たに特別開発区MSCを用意し、その中核にIT都市 “Cyberjaya”(「電脳都市」)を建築した上で、当該都市にIT関連(ITプロバイダー・ITユーザ)のアンカー 企業を誘致すると共にIT関連産業を育成しようというもの。9月16日に訪問したNTT MSC(写真1)の 方は「面積はシンガポールと同じ位で、元々はマレーシアの1州だったシンガポール(注1)を意識して いるのではないか」とおっしゃっていた。Cyberjayaは、自然の光景を残しつつも全体としてかなり整備さ れているとの印象を受けた。 マレーシア政府は、外資を誘致し輸出指向型の工業化を目指している。近隣諸国に先駆けて優遇 措置を導入し、労働力や場所を外国企業に提供している。クアラルンプールにあるペトロナスツインタ ワーは現在世界第2位の高さ452mで、アメリカ人の建築家がイスラムの教えからイメージして設計し、 日本・韓国の建築会社によって建てられた。同じくクアラルンプールにあるメナラKLタワーも421メート ルの高さを誇る。総工費はRM(注2)270億で、コンクリート製の塔の中では世界で4番目の高さである。 高層ビルを建てることで、分かりやすく国の勢いを示そうとしているのかと感じた。ツインタワーのお土 産売り場に行ったものの、全般的に高価で少し驚いた。 外資を誘致する一方で、独自の産業も育成している。マレーシアにはプロトン(PROTON)とプロドゥ ア(PERODUA)という2つの国産車メーカーがある。私達は9月15日にプロドゥアを訪問した(写真2)。 1994年に設立されたプロドゥアはダイハツ工業と組んで軽自動車の開発を行い、2001年には累計生産 台数が50万台を突破した。50万台目の生産式典にはマハティール前首相も参加しプロドゥア社が短期 間で飛躍的に発展したことを賞賛した上で、さらにコスト削減・品質の向上に努める必要があると語っ た。マレーシア政府は国産車メーカーを保護する姿勢を崩していない。 9月15日(木)JETRO・橋本文子さん 政府が自動車産業に注目したのは、自動車は色んな部品が必要なので様々な国内産業を育成でき ると考えたから。実際、プロトンの下請けは300社程度あり、ローカル部品使用を義務化したことで部品 産業が育った。また国民の自動車所有率が上がった。輸入関税を高くし、外車を入りにくくすることで国 内産業を保護している。長期にわたる保護の弊害で、品質・アフターサービスはよくない。ただおっとり とした国民性のせいか、非難の声もあまりあがらない。 マレーシア経済はベトナムやインドネシアに追いつかれつつあるが、保護下において政府にも企業 にもあまり危機感が感じられない。外資を導入して「いつの間にか」豊かになった面があり、「チャレンジ が楽しい」との意識は乏しい。気候も温暖で天然資源も豊富であり、切迫感に欠ける。FTA/EPAなど の自由化のうねりや韓国(中国)製品との競争にどう対処するかが課題である。 ホームステイ先にも中古で買ったという国産車があったが、何故かスピードメーターの針がなかった。 国内産業保護の問題について、マレー人に対して露骨な質問はしない方が良いと注意された。 工業化の一方で、環境問題やバリアフリーへの取り組みはまだ不十分のように感じた。9月15日に訪 問したマレーシア工業開発庁(MIDA。写真3・4)は、クーラーが効きすぎて寒い位だった。クアラルン プールの歩道に段差が多いことについての質問に対し、DirectorのLee Yong Ming氏は「マレーシ アがもっと先進国になれば日本のようにバリアフリーが進むのではないか」と答えていた。また、「マレ ーシアは企業利益優先の国家(pro-business government)だとおっしゃっていたが、MIDAとしてはど のようにして経済発展と環境保護とのバランスを取っていくつもりか」と質問したところ、経済が発展す れば、環境保護に充てる資金も増える。マレーシアは森林が多く(注3)、工業に使える土地は少ない」 との回答だった。 2.ブミプトラ政策~「本音」と「建前」~ 9月15日(木)プロドゥア社・Masatoshi Hibinoさん・Shigeharu Todaさん・Masabumi Hisamatsuさん(注4) プロドゥア社が1994年に設立された際、政府から「従業員の7割はマレー系国民を雇用して欲しい。6 割を下回ってはならない」との要請があった。現在この規制は緩くなっているが、マレー系国民を60% 強、中国系国民を26%、インド系国民を7~8%雇用している。マレー系国民を人数では優遇している が、待遇面でも優遇しているわけではない。ブミプトラ政策が特に強いとは感じないし、ブミプトラ政策 が生産に悪影響を与えているともいえない。ただ、マレー系国民には優遇政策があるから奮起しない 傾向はある。マハティール前首相は「ブミプトラ政策によってマレー系国民にもっと奮起して欲しかった」 と語っていた。元々はマレー系国民にチャンスを与えるための政策で、大学もマレー系には入りやすく している。しかし入学してから頑張るとは限らず、ブミプトラ政策によってマレー系国民が勤勉になった とはいえない。 9月17日(土)アジア経済研究所・鈴木早苗さん(カッコ内は筆者注) 東南アジアは小国の寄せ集めであり、「小国としてどう生きるか」が課題である。比較的大国といえる インドネシアでさえ、ソ連やアメリカの機嫌を伺わなければならなかった。このような状況下で「いかに 戦争をせずに」「他国の干渉を避けて生き延びるか」を考えねばならず、その一環としてマレーシアはブ ミプトラ政策を行っているといえる。一国発展主義を採るには安全面・経済面で不安がある。マレーシ アの軍隊は小さく、国を守るのに充分とはいえない。経済面の弱さは何かを輸出することでしか克服で きない。現在、経済・安全保障の面で中国が脅威であり、東南アジア間で争う訳にはいかないため他 の東南アジア諸国と一体とならざるを得ず、戦争ではなく話し合いで解決しようという雰囲気がある。 「マレーシア国産」を守りつつタイ産製品などといかに競争するかを考えなければならない。マレーシア は他国と違い多民族国家であり、その中で自民族(マレー系国民。以下マレー人)を保護し、国民全体 の底上げを考えるとともに、マレー人の底上げを考える必要がある。マレーシアのこの状況は特殊で はなく、開発の過程で必ず直面することである。 ブミプトラ政策はマハティール前首相によって推進された。「私はマレー人」ではなく「我々はマレー 人」という意識を生み出すことで作り出した「心の拠り所」は、社会安定のために重要だった。ブミプトラ 政策を、他民族国民はよく思っていない。しかしブミプトラ政策以前は不満を募らせたマレー系国民が 暴徒化する傾向にあったが、この政策によって不満が抑えられているため、ビジネスがやり易くなった として好意的に見る向きもある。 ブミブトラ(Bumiputra)とは「土地の子」の意で、ブミプトラ政策とは進学・就職面などでのマレー人優遇 策である。貧しい農村部のマレー人の所得向上と経済機会の拡大を通じて、中国人が支配的になって いる経済を是正するのが目的である。先住民保護という点ではアメリカのクォーター政策に似ているが、 クォーター政策が少数派優遇なのに対し、ブミプトラ政策は多数派優遇という違いがある(注5)。ただ、 この政策は表立ったものとはなっていない。理由として、他民族の不満を呼び起こさないため、そして マレー系が優遇されないと対抗できない状況にあることを覆い隠すためと思われる。ブミプトラ政策は マレー人の生活向上という点では成果を挙げたようである。一方、マレーシアが多民族による多言語 環境を備えていることは、ビジネス面での強みともなっている。 ブミプトラ政策についてマレーシア人の前では余り言及しない方が良いという話は、事前の学習にも 鈴木早苗さんのお話にもあった。確かに存在していても、直接的にそれに触れることはタブーのようだ。 私がそのことを実感したのは、9月16日に訪問したプトラマレーシア大学での経済学部教授による講義 (両替レート/マレーシア経済と金融危機/リンギット(注2)の現実 等について)の時である。ブミプト ラ政策に関する質問が飛ぶと、渋い表情になったり苦笑いを浮かべたりと教授達の雰囲気が明らかに 変わるのが分かった。この反応は、予想以上だった。スリリングではあったが、生の空気に触れること で知識を実感に変えることが出来た貴重な経験だったと思う。 3.マレーシアで働く 9月15日(木)JETRO・橋本文子さん 子供の頃にマレーシアに住んでいて、マレーシアで仕事をしたいと中学生の時から思っていた。しか しJETROで働いてすぐにマレーシアに関われた訳ではない。就職してから2~3年は我慢の時だと思 う。入社して7年後に初めて研修に出してもらえた。それまでは東京で海外スタッフの給与計算をしたり、 ODAや『貿易投資白書』の企画に携わったりしていた。語学研修を1年間行った後、マレーシアやイン ドネシアで海外調査をした。 語学研修に行くと周りから「マレーシア専門家」と見られたが、研修の間は実務から離れるつらさがあ った。マレーシアのことばかり考えていると周りが見えなくなる恐れがあり、勉強が必要。自分なりに何 ができるかをいつも考える。調査をし、年80本(週2本)のレポートを書いている。これはノルマだが(レ ポートに時間をとられ)好きな研究をできないジレンマがある。 9月16日(金)NTT MSC・沼尻貴史さん・星野健二さん マレーシア勤務は、会社の公募制に応募して決めた。海外に行きたいという思いがあるなら表明した ほうがいい。英語は語学スクールに通って身につけた。海外で働くのは、留学とは違った楽しさがある。 たまに日本に帰ると「きちんとしている」と感じる。「外から見た日本」が分かった。NTT MSCにはたま に、日本の知事や議員が見学に来ることもある。 カルチャーの違いをどのように解くかが課題。押し付けがましくなってもいけない。飲みに行って親交 を深めることもある。最終的には「お客さんのための仕事」であって、(沼尻さんはDirector、星野さん はManager(営業職)だが、)我々も雑用をやらないと仕事が進まない。営業職の人が広告デザインを 担当することもある。スタッフが居つかない、といった離職の悩みはどの国も共通なのではないか。(転 職が一般的ではない)日本が特殊なのだと思う。若いうちは2~3年で職を変えるのがベースになって いる節があり、「しょうがない」と思うしかない。率先して新しいことを学ばせたりしている。年配の人はそ うでもないが、若者は英語が堪能。ただし『Manglish(=Malaysian English)』。 「マレーシアで働きたい」。皆、熱意や努力でその思いを現実にした方であるが、いざ来てみると苦労 もあるようである。しかしどの方からも充実した生活を送っていらっしゃる雰囲気が伝わってきた。 4.肌で感じたマレーシア 初日(9月14日)、クアラルンプールの空港ビルに足を踏み入れるなり天井の高さに圧倒され(写真 5)、トイレにホースがある(写真6。ただしこの写真はMIDA)のを見て「異国に来た」と感じた。覚悟と 言っても良いかもしれない。夜、ホテルで中華料理を食べた後に外に出て、今度はそのきらびやかさや エネルギーに圧倒された。実は研修前に私がマレーシアについて強く抱いていたイメージは、ボルネオ 島のジャングルとチンパンジーだった。勿論、首都がジャングルだとは思っていなかったが、それでも戸 惑いはあった。「六本木みたい」と形容している人がいたが、夜の11時近くでも賑やかだった(写真7)。 もっとも、クアラルンプール市内から車で1時間半ほどのホームステイ先(注6、写真8)は、緑の中に高 床式住居がぽつぽつと建つのどかな雰囲気であった。ホームステイ中は鳥の鳴き声で目を覚ます、至 って健康的な日々を送っていた。 マレーシア連邦の宗教はイスラム教である(注7)。NTT MSCの方によるとマレーシアのイスラム教 は厳しくないとのことだったが、それでもイスラム教の影響を感じさせる場面は多々あった。ホームステ イ先でお土産のお菓子について「動物性の脂は使われていない?私はイスラム教徒だから使っていた ら食べられないの」と言われた。またマレーシア・タイそれぞれの国で、アイドル雑誌とファッション雑誌 を各1冊ずつ購入した。本屋やコンビニ等で色々と立ち読みしたところ、フリーペーパーも含めてタイの 雑誌には風俗記事(に近い記事)も散見される(日本も似たようなものだが)が、マレーシアの雑誌には ほとんど無いのに気づいた。またタイの路上には野良犬が多く見られたが、マレーシアでは鳥や猫は いたものの犬は見当たらなかった。これもイスラム教の影響ということである。ただ、厳格なイスラム国 に見られるような男尊女卑の発想はこの国では希薄という。サウジアラビアでは女性は大学に入学で きないが、プトラマレーシア大学の学生の60%は女性である。私達との交流会に来てくれた学生も殆ど が女性だった(写真9)。プロドゥア社では、検査部門では女性も働いている。ホームステイ先のウーマ (マレーシア語でお母さんの意。)も職業を持っており夜明け前に出勤していた。ガイドのユスマディさん によれば、異教徒同士の結婚も珍しくないらしい。ただしイスラム教徒と非イスラム教徒とが結婚する 場合は後者がイスラム教に改宗せねばならず、前者がイスラム教を離れる場合はイスラム教裁判にか けられ罰金11万リンギットを払うのだという。 その他に強く印象に残ったのが「ナショナリズム」である。日本において自分が「日本人」であることを 実感させられる場面はほとんどない。海外に来て、トイレに紙ではなくホースがあることに戸惑う自分、 濃い煎茶や生魚を無性に口にしたくなる自分を発見して初めて、自分が日本人であるのを実感する。 ましてや、他の人との間に「我々は日本人」との連帯感を感じることは皆無だ。鈴木早苗さんによると、 マレーシア人は「我々マレーシア人」という言い方をよくし、マレーシア人であることに強い自信とプライ ドを持っているという。この点では先述のマハティール前首相の狙いは成功したといえるだろう。プトラ マレーシア大学に着いたとき、建物の入り口にマレーシア国旗がこれでもかとばかりに沢山たなびいて いるのを見て驚いた(写真10)。 ではマレーシアはギラギラとした野心に燃えた国なのだろうか。「クアラルンプール(「泥川の河口」の 意)」の語源となった川(写真11。この写真にも国旗や建ち並ぶ高層ビルが見える。)近くにあった 「2020」の植え込み(写真12。「vision 2020」の意。)を見るとそのような気がした。しかし、マハティー ル前首相が嘆いたこともあるというマレーシアの大らかな国民性はそのような「ギラギラとした野心」と は縁遠いものなのだろうと感じた。風土が豊かで飢えの心配が殆どなく、昔ながらの自給自足の生活 が十分営めること、保護政策のおかげでグローバル化による競争にさらされていないこと、タイのよう に求人難ではない(むしろ労働力が不足しているため、建築労働者の殆どはモンゴルやASEANから 来た外国人である。またスラム街もあまりない。)こと、天然ガスや石油などの財源に恵まれている割に は人口が少なく政府の保証が行き渡ること等から来る余裕なのだろうと感じた。マレーシア滞在中、一 瞬「むりに経済発展を目指さなくてもよいのでは」と感じてしまったが、プロドゥア社の方は「都会のハイ クオリティーな生活を望むなら外貨は必要。外貨を獲得するためには産業を育成する必要がある」とお っしゃっていた。 Ⅱ・タイ 1.津波と復興~9ヶ月経って~ 9月19~21日に滞在したタイでは、2004年12月26日にスマトラ沖大地震による津波で甚大な被害を 受けたプーケット島のナムケム村などを訪問した。津波で大きな被害を受けたとはいえ、既に9ヶ月が 経っている。よって、被災状況というよりは復興の様子を主に感じることになるのではないかと、訪問前 は考えていた。しかし実際には、生々しい傷跡を目にすることとなった。 プーケット滞在中にガイドをして下さったトンさんとReiko Hotrakulさんによると、今タイが抱えている主 な問題は、洪水と水を貯める所がないが故の水不足、貧困に起因する義務教育の不徹底、若者の麻 薬常用であり、「津波」はそれらに比べると重要視されていないという。首都バンコクには津波の被害は 無い為、政府の対策意欲も低いということだった。これほどの大被害を生んだ津波でさえ大きな問題で はない、ということに驚いたが、それほど貧困の問題は大きく、しかし政府は「貧困」と定義付けや統計 を取っていないため、はっきりとした実態は掴めないのだという。ただタイ政府には、ミャンマーやカンボ ジア、ラオス等とは違い、タイはもはや発展途上国ではない、という意識があり、他国からの援助の申 し出もプライドから断ってしまったという。タイが援助を断った、とのニュースは日本でも耳にした。当時 は「自分の国のことは自分で何とかする、というなら頼もしいことだ」と思ったのだが、現地の様子を見 る限り「何とかなっている」ようには思えなかった。Reiko Hotrakulさんによると政府の対応は早くない。 他国からの援助金も政府がプールしてしまい、充分な補償がなされていないのでは、とReiko Hotrakul さんはおっしゃっていた。元々おっとりした気質なのとあきらめてしまっているのとで、住民からの不満 の声もあまり上がっていないという。 20日の朝に訪れた仮設住宅内の事務所「The Committee of ”Baan Naamkem” Community」は寄付 やナムケム村の人の積み立てによって建設されたものであった。村民の自助組織によって運営されて おり、お金の貸し出しや心のケア、仕事や自宅再建のための土地の斡旋を行っているとのことである。 2.津波と復興~草の根ボランティア~ 9月19日にカオラックメルリンリゾートで昼食を食べた後、バスでナムケム村に移動した。バスの窓 から、津波の跡が残る新しい黄色い建物が見え、看板には「Mental Health Recovery Center」と書かれ ていた。 ナムケム村の仮設住宅集落には、「Learning For Healing Center」があった(写真13)。家族を亡くした 人が移り住んでいるこの集落には、日本政府からの金銭援助はないものの、NGOから日本人のお医 者さんが来ているとのことだった。「Learning For Healing Center」はITV(タイのテレビ局)が社会貢献で 建てたもので、赤十字とQueenのタイアップがあったそうだ(Queenは名誉総裁になっている)。集落の 建物もITVが建てたという。)。津波で親を亡くした子供たちが話をして心を癒す場だということである。 絵を書くなどして遊んでいた子供たちはみな明るくて人懐こく(写真14)、一見そのような「陰」を感じさせ なかったことが逆に心に残った。 9月20日に訪れた仮設住宅集落には、「Saori For Tsunami Survivors」との看板を掲げたテントの作業 場があった(写真15・16)。NGOが日本の「さをり織り」の技術を導入して、織物を通して自由に表現し手 を動かして気を紛らわせることで心のケアを行うことを目的に設立したということである。さし当たっての 雇用・収入源として、「織物」は取り掛かりやすい。しかし2ヶ所しか販売所を設けておらず、しかも人目 につきにくい場所であるため、それほど収益が上がっている訳ではないという。 プーケットで最も被害が大きかったという地域にあった学校には、神奈川歯科大学の先生と卒業生が 歯科検診・治療のボランティアで来ており(写真17)、お話を伺うことが出来た。この学校はヨーロッパの NGOが建てたもので、麻薬常用者の子供のケアも行っているそうである。神奈川歯科大学はボランテ ィアの実績があり、タイの外務大臣からボランティア要請があったという。英語担当の先生が会場で音 楽演奏をなさっており、「これも心のケアに役立つ」とのことだった。「心の傷は表向きには分からない」 と、神奈川歯科大学の藤田晃先生はおっしゃっていた。来ていた歯科医の方は15万円の参加費を払っ ているという。「皆『こころ』を持っているから、ボランティアが生きがい」との藤田先生の言葉が印象的 だった。同じ時期に同じ場所にいる日本人という共通点はあっても、視察するだけの私達と、持ってい る技術で直接的に人々の助けになることが出来る医者とには、違いがあることをもどかしく感じた。しか し「『日本のような遠い国から被災状況を見に来た』というと好意的に見られることもある」との先生の言 葉に少し救われた気がした。一緒に働いていたタイ人の医者が「私達の政府は色んなことをしてくれた。 家も建てたし対応も早い。すばやく復興した。しかし充分ではない(not enough)。」「こうした活動のトッ プである王女は公費を投じて様々な支援をして下さった」とおっしゃっていた。ナムケム村の現状を目に した後だったので「すばやく復興した」との言葉には正直首を傾げたのだが、外国から来た私達へのデ モンストレーションや、もしかしたら「普段のタイ政府の対応に比べれば早い」という意味も含まれてい たのだろう。現地の人々の歯の状態はひどく悪いという。生水は飲めないためコーラなどを良く飲む。 また歯磨きの習慣がなく栄養状態もあまりよくないためという。津波で職を失った女性をここで、治療ス タッフの食事の準備係として雇っているとのことだった。 ちなみに、9月21日にお会いした鳥羽正子さんによると、欧米のボランティアは、2~3ヶ月滞在する ケースが多く、組織化している。ピピ島(映画『THE BEACH』の舞台で、人気の観光地だったが津波 で被災)の子供たちが描いた津波の絵を出版するなどしているという。津波後、海から一定以内の範 囲にはホテルを建てないようにとの勧告が出されたが、津波で流されなかったホテルは営業を続けて おり立ち退き命令が出ている。これに対しホテルの修理などに携わったボランティア(バックパッカーが 多い)からは反発の声も上がっているらしい。またReiko Hotrakulさんによれば、元々プーケットは北欧、 特にスウェーデンからの観光客が多く、この地域からのボランティアも大勢来たという。ただ、NGOから の注目度は下がりつつあるのが現状らしい。 3.津波と復興~観光地として~ 9月21日(水)プーケット復興委員会・鳥羽正子さん *プーケット復興委員会:プーケット日本人会の中に委員会を置いている。観光客が来ないという二次 被害から脱出し、正しい情報を伝えるのが目的。1月にウェブサイトを設立した。ボランティアで直接的 には8~10人で運営、旅行代理店の協力も得ている。現在、プーケットに住んでいる日本人は約300人。 プーケットには日系企業の大きな支店はないので、個人レベルで住んでいる人が多い。 津波当時、現地に情報は来ず、安否問い合わせがあったが答えられなかった。津波から1時間後に は混雑のため携帯電話が不通になり、震度や被害については翌日のTVで知った。パトンビーチよりも カオラックビーチの方が、津波が来るのが遅く、カオラックメルリンリゾートはパトンメルリンホテルから の連絡を受けたため、被害が少なかった(注9)。ただ、「プーケットは台風も直撃しないし、地震や津波 も来ない」という認識が地元にはあり、カオラックに津波の情報が届いても信じずビーチに行って、被害 に遭った人もいる。実は数百年前にプーケットにも津波が来ており、そのことが言い伝えとして残ってい た地域の人は避難していた。最近は地震が発生するとTVで流れるようになったが、津波前はなかった。 情報不足が死者の増大につながった点で、今回の津波は自然災害というよりも社会災害(人災)ともい える。津波後、バトンビーチに津波警報システムが設置された。標識もでき、首相が来て訓練も行った。 防波堤も作られたが「景観を損ねる」との理由でバトンビーチ以外のビーチにはない。経済優先・安全 軽視の姿勢だが、リゾート地だから仕方ないという面はある。 今、現地の経済は沈滞している。再建できているのに客が来ない。プーケットは11~4月が乾季で観 光シーズン。ところが、2001年9月11日の同時多発テロ、SARS、鳥インフルエンザ騒動に続いてこの 津波。観光産業への打撃は大きかった。プーケットは、悲惨さをあおる過大報道による二次被害(風評 被害)の方が大きかったといえる。最も来なくなったのが日本人(注10)。観光に来ることが支援、という 考えが欧米にはある。遊びに来るのを自粛することが思いやりと考えていても、経済効果にはよくない。 政治は「熱い戦争」、経済は「静かな戦争」といわれる。ニュースが津波について報道しなくなっても、経 済面での問題は存在している。 プーケットには第1次産業があまりなく、観光で成り立っている面がある。プーケットで観光業がスター トした頃、プーケットではスズが採れたし漁業も行っていたが「観光の方がもうかるから」と転換した。 (従来の産業と観光産業との)摩擦ではない。観光産業によって生活レベルは上がった。所得水準は バンコクよりは低いが東方部に比べれば豊か。今、あまり物乞いの子はいない。タイの中でも特殊な地 域で、貴重な収入源だし物価も高い。津波に対する政府からの補償はマッサージ店など観光業が優先 で、それ以外の小さな商店は申請しても受け取れていない。 正直なところ、私自身被災地に足を踏み入れるのには多少躊躇した。ボランティアをするわけではな いのに来て、住民の方に「邪魔だ」「自分たちは大変な思いをしているのに」、そう思われないかと心配 だった。鳥羽さんのお話によってそれが杞憂であることは分かったが、違和感までは消えなかった。実 際に現地で生活していて状況をよく知り、観光産業によって生活している方と、つい2日前に来たばか りの頭でっかちな人間とでは感覚が違うのだろうと思った。 Ⅲ・国際フィールドスタディ(IFS) 私は中学生の時から東南アジアに興味があり、また法経学部にIFSの制度があることを知ってから、 是非参加したいと思いを膨らませていた。だから今年の春のオリエンテーションで今年のIFSではマレ ーシアとタイに行くと知った時、これは行かない訳にはいかないと感じ、勢いで参加を決めた。 現地にいる間は、押し寄せて来る刺激が大き過ぎて、それをインプットし消化するのに必死だった。 しかし日本に帰ってから改めて振り返ってみると、かなり貴重な経験をしてきたと思う。JETROやMID Aといった政府系機関、現地・日系企業、大学、津波の傷跡が残る地域の訪問。ホームステイ。観光旅 行では出来ない経験だったと思うし、もう一度訪れたいと考えてもそう簡単に叶えられるものではない。 IFSの独特な雰囲気も刺激的だった。往復のバスの中でも、貧困や平等・不平等などについてディスカ ッション。寝る前も朝も、プリントや資料、メモを取ったノートで予復習。訪問先での「質問したい」と思わ される熱気。英語を話すことに苦手意識があったが、思っていたよりも口をついて出ていた。石戸先生 の知り合いの方のお宅を訪問した際にした短いスピーチの中で3回も“I´m so surprised・・・”のフレーズ を使ってしまい、自らのボキャブラリーの少なさに愕然としたが、超高層ビル、料理の辛さ(飲み物は甘 い)など、裏を返せばそれほど「サプライズ」が多い旅だった。 この時の“I´m so surprised・・・”の1つに挙げたのがマレーシアの学生の英語力の高さである。マレ ーシアでは高校生になると、数学と理科の授業は英語で行われるらしい。実践的な英語力が身につく 点で、うまいやり方だと感じた。プトラマレーシア大学の授業は、学部ではマレー語と英語、院では英語 のみを用いて行うという。NTT MSCの方は「『英語を学ぶ』のではなく、『英語で学ぶ』」と表現してい た。日本にこの方法をそのまま導入できるとは思わないが、今検討されているように「(日本語もまだし っかり身についていない)小学生のうちから学校で英語教育を行う」といった施策に比べればはるかに 有意義ではないかと感じた。もっとも、マレーシアの人はみな英語が堪能、ともいえないようである。ホ ームステイ先の家庭でいえば、英語が堪能なのは長男の妻に当たる女性の方のみだった。 被災から9ヶ月が経ち、日本での注目度はもはやあまり高くないスマトラ沖大地震による津波である が、現地の状況は未だに凄まじいといえた(写真18)。ただ私にとっては被害そのものよりも、9ヶ月経 っても復旧がなされずにほぼ被災そのままの状態で放置されていることの方がショックだった。行政の 不作為だ、などといった言葉で怒るのは簡単かもしれないが、国民性、観光への影響、国際的な思惑、 住民の中に広がる諦めなど、背景にある複雑な事情を知るともやもやとした思いが残った。自分の中 でこの思いはこれからも温めていきたいと思った。一方、津波の影響など感じさせないようなプーケット の「観光地パワー」には圧倒された。「The Committee of ”Baan Naamkem” Community」にもいえること だが、そうせざるを得ない状況があるとはいえ、逆境に立ち向かう人間のたくましさを感じた。 前述のとおり、私は東南アジアが好きでマレーシアもタイも行ってみたい国だった。IFSに参加したこ とで、たくさんの感動を得、自分の中にいくつかの問題意識が設定できたと思う。これからはそれを忘 れずに、じっくり発展させていきたいと考えている。 《写真》 写真 1 写真2 写真3 写真4 写真5 写真6 写真7 写真8 写真9 写真10 写真11 写真12 写真13 写真14 写真15 写真16 写真17 写真18 《注釈》 (注1)GDP/cap:28,272 米ドル。マレーシアは 3,855 米ドル、タイは 1,974 米ドル(2000 年 12 月現在)。 1965 年に連邦から独立。 (注2)マレーシアの通貨(Ringgit.RM)。1米ドル=3.8RM(固定)。 (注3)国土の 60~70%が熱帯雨林。 (注4)頂いた名刺の表記に従った。以下同様。 (注5)マレーシアの人口内訳:マレー65.5%、中国系 25.6%、インド系 7.5%、その他 1.3%。 (注6)セランゴール州のセパン・バンブリス(SEPANG BANGHURIS)村。人口は約3,000人。多くは 農業、公務員、漁業、小売業などに従事している。村の約90%の土地は農業に利用。タピオカ やバナナ、サツマイモのチップスなど、伝統的スナックを生産している。 (注7)国教はイスラム教。人口比率は、イスラム教60.4%、仏教19.2%、キリスト教9.1%、ヒンドゥー教 6.3%、儒教などその他2.6%。注2ともあわせ、マレーシアの「多民族・多宗教の国」という特色 が伺える。 (注8)私達は、19日にカオラックメルリンリゾート、20日にパトンメルリンホテルに宿泊。 (注9)2005年1月~10月の、日本からの訪問者数は昨年比-65.27 % (109,446人→38,008人)。 《参考資料》(敬称略) ◇『マレーシア一般概況』JETROクアラルンプール橋本文子 ◇『Multimedia Super Corridor (MSC)』NTT MSC ◇『千葉大学経済研究』第15巻第4号(2001年3月号) 「マレーシア経済の明暗」阿部清司 ◇『マハティール政権の22年-文献レビューと基礎資料-』アジア経済研究所 鳥居高・編(2005年3 月) ◇『ASEAN観光ガイド マレーシア』国際機関 日本アセアンセンター(東南アジア諸国連合貿易投資 観光促進センター) ◇『千葉大学海外研修旅行~旅のしおり~』JTB ◇『SEPANG BANGHURIS(セパン・バンブリス村)』JTB ◇http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/malaysia/data.html(外務省HP) ◇http://homepage3.nifty.com/kailou/11_Land_4h.htm (世界の都市に関するHP) ◇http://www.asahi-net.or.jp/~nm6f-nkmc/sekai-rank90.htm (超高層ビルに関するHP) ◇http://www.shangri-la.com/kualalumpur/shangri-la/destination/attractions/ja/index.aspx (クアラ ルンプールにあるシャングリラホテルのHP。観光名所の説明が詳しい) ◇http://chinachips.fc2web.com/repoas/05051.html (「第2国産車メーカー『プロドゥア』の前途」につ いてのHP) ◇http://www.saori.co.jp/index.html(「さをり織り」についてのHP) ◇http://www.kdcnet.ac.jp/ (神奈川歯科大学HP) ◇http://www.phuket-fukko.com/index.htm (プーケット復興委員会のHP)
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