ロボットは「心」を持つか ― 『PLUTO』 から考えるロボットの 「心」 と人間の 「心」 ― 八鍬 博敏 [キーワード:①ロボット ②無意識 ③『PLUTO』 ④夢 ⑤神経症] 1. はじめに 心理学の研究対象は心である。心理学に限らず、哲学、文学でも心を 研究の対象としていて、近年では、自然科学の分野でも心の研究が盛ん である。 しかし、心の研究はそれぞれの分野の中で展開されているため、それ ぞれの分野で心という概念に違いが見られる。例えば、近年盛んな脳科 学では、心は脳にあると考える。一方、心理学では無意識という目に見 えないものを想定して、意識と無意識の構造を心として考えている。両 者の違いは、心を目に見えるものと考えるか、見えないものと考えるか ということを示している。これは一例だが、同じように心の概念の考え 方の違いから多くの議論が起こっている。 このように語られている心とは、人間の内にある心のことを指してい る。つまり、人間は自身の内界にある心の研究を行なっているのであ る。しかし、今後は人間の外にあるものから人間の心を研究する必要が でてくる。人間の外にあるものとは何か。それはロボットである。 ロボットは、人間が作る機械である。しかし、TV やエアコンとは違 って、彼らは人間のように考え、行動する。その言動は、人間と言われ 283 学習院大学人文科学論集ⅩⅧ(2009) てもわからないほどである。CM に登場する、ホンダの ASIMO やソニ ーの AIBO などを見ていると、まるで意志を持って動いているように見 える。 人間に近いロボットを製作しようと、ロボット工学の研究者は日々研 究を行なっている。人間らしいロボットを作るために必要なのは、「心」 である。人間と同じような心の仕組みを持ったロボットを作るために は、心とは何であるかという心の研究が必要である。人間らしいロボッ トを作るという過程の中で、つまり、外在しているモノを対象として心 を研究する必要性が出てきたのである。 そこで、本論はロボットが心を持つかという問題について考えていき たい。それは、遡行的に人間の心について考えることでもある。つま り、本論のテーマは、心である。 1. 無意識とは 最初に、心の研究において避けることができない無意識について考え ていきたい。ここでは、無意識について以下の 2 人の考えを参照する。 最初に参照するのが、中沢の考えである。以下、彼の考えを示してい こう 1)。人類の進化において、現生人類とそれ以前のネアンデルタール 人では大きなちがいが見られる。1 つ目の違いは、ネアンデルタール人 は、現生人類と比べて子ども時代が短かったことである。このことか ら、ネアンデルタール人は短期間の子ども時代を過ごして、すぐに成人 と同じ活動をしていたと考えられ、一方、現生人類は長い子ども時代が あることで母親や周囲の人との密着度の高い体験をするという違いが生 じる。 2 つ目の違いは、言語である。ネアンデルタール人の発声器官では、 ゆっくりと限られた音声しか発声できないという制限があると推定され ている。しかし、現生人類の発声器官は、広範囲の音声を発生でき、複 284 ロボットは「心」を持つか(八鍬 博敏) 雑な音声を分節できるつくりになっている。この違いから、現生人類は 比喩や誌的言語を使えるが、ネアンデルタール人にはそれができないこ とが推測される。 この 2 つの違いから、ネアンデルタール人の言語には無意識がなかっ たと考えられる。ネアンデルタール人は装飾品や宗教的遺物も残してい ないことから、象徴的思考が少ないと考えられる。象徴的思考には無意 識が不可欠である。ネアンデルタール人は、短い子ども時代と、発声器 官のつくりから、無意識を形成することができなかったと考えられる。 それは、現生人類が使っている詩的言語を持たないということである。 詩的言語を持つ現生人類は、宗教的遺物や装飾品を作ることができ、そ こから芸術も生まれてくるのである。 中沢は、この認知考古学的考えを発展させていく。「現生人類の大脳 に起こったニューロンの結合様式の革命的な組み換えによって、それぞ れの領域で特化して発達していた認知領域を横断的につないでいく通路 が形成された。そこで流動的知性が運動を開始した。そのとき出現した 流動的知性は、しかしそれまで各認知領域に特化された活動を行なって いたときのような、三次元的な活動をしていない。ところが、このよう な限界づけから解放された流動的知性は、たちまち本来の性質である高 次元性を回復したうえで、横断的に形成されたニューロン組織の中を、 自在に動き回るようになった。つまり、現生人類の新しいタイプの大脳 の中で活動を開始し、「現生人類の心」の本質をかたちづくるおおもと は、高次元のなりたちを持つ流動的知性にほかならない。この流動的知 性は「対称性の論理」にしたがって活動する。そこには過去−現在−未 来へと一方方向に進んでいく矢のような「時制」が欠如しているし、も のごとを分離するのではなく、ものごとのあいだに同質性を見出してい く働きをする。そのために部分と全体が一致する「是全体的」な思考が 展開される。高次元のなりたちをした流動的知性の活動は、たえまなく 三次元的な構成をした通常の論理への「翻訳」がおこなわれていく。次 285 学習院大学人文科学論集ⅩⅧ(2009) 元数を下げて、ふつうの思考にも理解しやすい形へ「翻訳」されるたび に、そこには圧縮や置き換えの現象がおきることになる。夢はそうやっ て製造される。象徴的思考も同じプロセスを利用してつくられる」2)。 中沢はこのような考えを展開して、従来の認知考古学の仮説を覆し た。そして、この流動的知性こそがフロイトが意識から区別した無意識 であると言っている。フロイトは、無意識を意識から抑圧されたもので あると考えたが、中沢は抑圧されたものではなく、「無意識は私たち現 生人類の「心」の基体なのです」と主張する。 次に紹介するのは、布施である。以下、布施の考えを示していこ う 3)。人体には動物的な器官と植物的な器官がある。動物的な器官の特 徴は「動く」ことである。例えば、栄養を摂取するためには食べ物を取 りに動かないといけないし、目の前の敵から身を守るためには逃げない といけない。外的な情報を取り入れ、それを人体内で処理して、外に発 信する。つまり、動物的な器官は、この情報のインプットとアウトプッ トの間にある「脳」である。そして、進化の過程で動物は脳を進化させ てきた。人間の脳はとても大きくなったため、五感からの情報を運動へ とアウトプットするだけではなく、脳そのものが世界を持つようになっ た。それが「意識」である。 一方、植物的器官は内臓を指す。口から入った栄養素を消化吸収した り、空気から酸素を摂取して血管を通して全身へ送る働きを指す。つま り、生命維持マシーンのことである。そして、内臓には意識と同じよう に、もう一つの「心」の世界がある。生物は体細胞生物も人間も一本の 管でできている。それは口から肛門につながる一本の管である。生物の 進化の歴史を考えると、内臓の歴史は長い。生物の発生から現在に至る まで、生物はこの一本の管できている。だから、内臓には生物の進化の 歴史がつまっているのである。また、生物は自然の流れの中で生きてい る。昼と夜が交互にやってきて、四季がめぐってくる。この自然のリズ ムは地球の歴史の中で何度も繰り返されてきたリズムである。この「宇 286 ロボットは「心」を持つか(八鍬 博敏) 宙のハーモニー」にそって生物は生きてきた。だから、内臓にはこのリ ズムが刻み込まれているのである。人間が星空や夕焼けなどの自然に触 れた時に、宇宙のリズムと触れ合う。芸術もこのリズムに触れる装置で ある。内臓には「心」があるのである。 布施が言う内臓にある「心」とは、無意識を指していると言える。彼 の主張は、動物的な器官である脳からは意識が生まれて、植物的器官で ある内臓からは無意識が生まれたということである。だから、人体は脳 と内臓があることによって、意識と無意識という構造が生まれたという ことである。 以上、中沢と布施それぞれの無意識についての考えを紹介してきた。 両者の無意識の考えは異なっている。中沢は大脳のニューロン組み換え によって流動的知性である無意識が生まれたと述べているのに対して、 布施は内臓に無意識の発生の原点を考えている。どちらが妥当な考えだ ろうか。この問いを考えるために、ロボットが登場する。 2. 『PLUTO』 二人の無意識の考えを紹介した。どちらが妥当かを考えるためにロボ ットに登場してもらう。冒頭にも述べたように、ロボット開発は人間ら しさを求めて進められている。だから、人間らしさとは何かということ が問題になる。ここで言う人間らしさとは「心」を指している。そし て、「心」とは意識だけでなく無意識を含んだものである。だから、先 の二人の考えのうちどちらが妥当かを考えるヒントになるのである。 しかし、ロボットが「心」を持つのかという問題は、人間らしいロボ ットがまだ製作されていない現在、本来論じることはできない。ここ で、この問題を考える上で、『PLUTO』を取り上げたいと思う。この作 品は、マンガとしてすばらしいだけでなく、本論の問題を考える上で 様々な興味深い問題が描かれている。 287 学習院大学人文科学論集ⅩⅧ(2009) まずは、 『PLUTO』の紹介をしよう。 『PLUTO』の作者は、 『YAWARA』 や『MONSTOR』、『20世紀少年』を書いた浦沢直樹である。『PLUTO』 は、2003年第18号の『ビッグコミックオリジナル』で連載が始まり、 2009年 8 号に連載が終了したマンガである。『PLUTO』は、手塚治虫の 『鉄腕アトム』の「地上最大のロボット」のリメイクである。であるか ら、主要な登場人物は原作と同じである。物語のあらすじは以下のとお りである。 主人公はドイツ連邦が開発した高性能ロボットのゲジヒトである。彼 は、連続殺害事件の調査を担当している。調査を進めると、連続殺害事 件で殺されている人たちは、ボラー調査団と呼ばれる組織に所属してい た人たちであることが明らかになる。時を同じくして、世界に 7 体ある 高性能ロボットの連続破壊も行われていた。7 体の高性能ロボットと は、ドイツのゲジヒト、スイスのモンブラン、ノルウェーのノース 2 号、トルコのブランド、ギリシャのヘラクレス、オーストラリアのエプ シロン、そして日本のアトムである。彼らを破壊しているのは、プルー トゥというロボットである。プルートゥは、ペルシア共和国の科学者ア ドラー博士によって開発されたロボットである。ペルシア共和国とは、 トラキア合衆国率いる連合国との戦争に敗れた国である。アドラー博士 はトラキア合衆国と連合国に対して強い憎しみの想いをもち、復讐のた めにプルートゥを開発したのだ。そして、その復讐の対象とされたの が、ボラー調査団の一員と 7 体の高性能ロボットなのだ。 プルートゥによって、7 体の高性能ロボットたちは破壊されてしま う。しかし、アトムは一度破壊されるが、彼を開発した天馬博士によっ て復活する。復活したアトムはプルートゥと再度戦う。しかし、アトム とプルートゥの戦いの中、ボラーというロボットが登場する。ボラーは 世界を破滅に導くために作られたロボットである。アトムとプルートゥ は協力してボラーに挑む。プルートゥはアドラー博士の復讐のためにつ くられたロボットなのだが、アトムと協力して世界の破滅を防ごうとす 288 ロボットは「心」を持つか(八鍬 博敏) る。プルートゥの捨て身の戦いで世界は破滅から救われ、ただ一人残さ れたロボットはアトムだけとなる。そして、物語はエンディングを迎え る。 以上が、『PLUTO』のあらすじである。このマンガに登場する高性能 ロボットたちは、みんな「心」を持ったロボットに見える。なぜなら、 彼らは泣き、怒り、悲しみ、笑う。人間がだれでも持っている喜怒哀楽 の感情を表現しているのである。感情を表現しているだけではなく、人 間と同じような現象が描かれている。まずは、ロボットが夢を見ること を取り上げてみよう。 3. ゲジヒトの夢① 『PLUTO』は意図しているかはわからないが、夢を一つの題材として いる。それは、第 1 話の冒頭でゲジヒトが夢にうなされて目を覚ますシ ーンが描かれていることからも伺うことができる 4)。 最初に描かれているゲジヒトの夢は、どこかの道路を走っている(こ れは誰が走っているか分からない)シーンが描かれていて、「ドン」と いう音と光が見えたかと思うと、次にはその道路に血がボタボタと落ち ている。その血が何であるかがわかるかわからないかの瞬間で、ゲジヒ トは目を覚ます。 このシーンは、ゲジヒトは夢を見ていて、その夢はゲジヒトにとって はうなされて目を覚ますほどの不快な夢であることがわかる。読者はこ こで一つ疑問が浮かぶ。ゲジヒトというロボットは、人間と同じように 夢を見るのか、という疑問である。 この疑問は他でもないゲジヒト自身の疑問でもある。ゲジヒトは彼の 開発者ホフマン博士に夢を見ていることを語る。第2話で定期メンテナ ンスの際に、ホフマン博士は言う 5)。「以前言ってた…夢はまだ見るの かい?」と。続けて、「人工知能が見る夢というのに、非常に興味があ 289 学習院大学人文科学論集ⅩⅧ(2009) ってね。人工知能にも潜在意識が存在するというのは、学術的にも証明 されているんだが、実際に夢を見るロボットにはなかなか出会わないん でね。話す気になったら、ぜひ聞かせてくれないか」と言う。 ホフマン博士のこの発言にあるように、ロボットも夢を見る可能性が ある。しかし、博士は実際に夢を見るロボットに出会っていないことか ら、この可能性は仮説の域を出ていない。だが、自分が開発したゲジヒ トが夢を見ていることが報告してきたのである。科学者としてはロボッ トが夢を見るかどうかは興味深い問題であるから、ゲジヒトから夢の内 容を聞き出したいところである。しかし、博士は、ゲジヒトを思いやる 気持ちからか、夢の報告をするのはゲジヒトの意志に任せている。博士 は先と同じシーンでこのような発言もしている。「人間の夢だってまだ まだ研究途中だが…20世紀の心理学者フロイトは、こんなことを言って いる…『夢は現実に起きたことの表出であり、想像の産物ではない』 …」と。 ここで引用されているフロイトの意見は、初期のフロイトが重視した 外傷体験によるものである。フロイトは、神経症の原因を過去に起きた 外傷体験によるものであると考えた。例えば、近親者に性的誘惑を受け たという体験である。体験者にとってはその体験は受け入れがたい体験 であるために、無意識の領域に押しやるという防衛機制が働く。しか し、押しやった受け入れがたい体験は、神経症症状として形を歪めて表 れる。フロイトは、神経症症状のメカニズムと夢のメカニズムは同じで あると考えていたので、「夢は現実に起きたことの表出であり、想像の 産物ではない」というホフマン博士が引用した意見を主張したのだ。 しかし、後になってフロイトは外傷体験説を捨てた。なぜなら、実際 に外傷体験がない患者が、神経症症状を示すことが認められたからであ る。しかし、患者の語りを聞くと、近親者の性的誘惑があったことを話 している。この誘惑について調べると、実際には誘惑の事実はなく、患 者が作った空想の出来事であったことが明らかとなる。このような症例 290 ロボットは「心」を持つか(八鍬 博敏) から、フロイトは実際にあった出来事ではなくとも、患者本人にとって はあたかも実際に会ったかのような体験は存在すると主張し、そのよう な現実を「心的現実」と名づけた。そして、治療において実際にあった 外傷体験を扱うよりも、この心的現実を扱うようになっていく。 ホフマン博士は、この初期のフロイトの主張を述べているのだろう。 だから、ゲジヒトの実際にあった外傷体験を掘り返すことを避けている と考えられる。ゲジヒトもこのシーンでは多くを語らない。それは、ホ フマン博士の配慮によるとも考えられるが、ゲジヒト自身が夢をまだ語 れる段階ではないからであろう。第 1 話に描かれたゲジヒトの夢は、不 明な点が多い。そこには道路と血しかない。この道路はどこの道路なの か。また、どのような道路だったのか。そして、血は誰の血なのか。そ もそも、時間帯はいつなのか。わからない点は多い。このわからなさ は、夢の報告を聞く人よりも何よりゲジヒト本人にとってわからないこ とである。 心理療法において夢が語られる時、時として治療初期に語られる夢は しばしば不明な点が多い。例えば、神経症者がよく見る「追われる夢」 を取り上げよう。治療初期に報告される夢では、「何かに追われていま す。とても怖くて一生懸命逃げています」というような報告である。こ の夢の報告からは、夢見手がとても怖いと感じたモノとは何であるのか がわからない。それは、夢見手にもわからないのであり、見るのも怖い から逃げているとも言えるのである。 心理療法が進んでいくうちに夢の内容が変わってくることはしばしば 起こる。治療が進展していくうちにこの夢が、「何かに追われています。 とても怖くて一生懸命に逃げています。でも、振り返って追ってきてい るモノを見てみると、大きなクマのぬいぐるみでした」と変わったとす る。これは、治療初期に報告された夢よりも具体的である。追ってきて いるモノがクマのぬいぐるみであることがわかっている。今までは何に 追われているかわからなかったのが、クマのぬいぐるみとわかると、夢 291 学習院大学人文科学論集ⅩⅧ(2009) の印象も変わる。「追ってきているモノを見てみると、大きなクマのぬ いぐるみでした」という語りからは、最初の夢の語りよりも恐怖感や、 切迫感が薄れている。これは、心理療法の進展を示していると考えられ るのである。このように夢が具体的になっていく、その夢の変化を心理 療法場面で扱っていくことは治療の進展において重要である。 ゲジヒトの夢は不明な点が多かった。では、この夢がどのように変化 するのか。引き続きゲジヒトの夢を見ていこう。 4. ゲジヒトの夢② ゲジヒトが見た 2 つ目の夢は第13話に描かれている 6)。2 つ目の夢を 見るまでに、ゲジヒトは 2 人の高性能ロボットに会っている。ブラン ド、ヘラクレス、それとアトムである。彼らはプルートゥの標的になっ ている高性能ロボットである。ゲジヒトが 2 つ目の夢を見る前にブラン ドはプルートゥに殺されている。そのような状況の中で見た夢である。 夢は、壊れた機械部品を回収する車と回収をしている人のシーンから 始まる。しかし、このシーンはすぐ変わり、以前見た夢と同じと思える 道路が映り、「ドン」という音と光を放ってまたシーンが変わる。変わ ったシーンは、アトムと出会ったシーンである。雨が降る歩道でゲジヒ トは「君がアトム君だね?」と言う。するとカタツムリを取るためにか がんでいたアトムの顔がブラウ1589の顔に変わる。そして、ブラウ1589 と始めてあった時に言われた「私の記憶チップと君のチップを交換しな いか?」というシーンが描かれ、次には血の落ちた道路が出てきて、ま た「ドン」という音と光によってシーンが変わる。最初の機械部品を回 収する車と回収している人が現れて、ブラウ1589の「どこにも欠陥はな かったんだよ」と血の落ちた道路のシーンが挿入されて、回収員が「一 体500ゼウスでいいよ」と言うシーンで夢が終わる。 この夢には最初に説明しなければならないことがある。まずは、この 292 ロボットは「心」を持つか(八鍬 博敏) 夢に登場しているブラウ1589についてである。ブラウ1589は第 3 話に登 場するロボットである。彼はロボット史上初めて人を殺害したことのあ るロボットである。彼の人工知能には欠陥が見当たらなく、限りなく人 間に近いロボットであった。人を殺害した後、人工知能矯正キャンプの 地下に幽閉されている。配線が繋がれ、胸に大きな槍が刺さった状態に まで破壊されていて身動きはとれない。しかし、強力な電磁波を放って いるために、近寄るものはいない。意識ははっきりしていて、会話もで きるし、手を動かすことができる。ゲジヒトは、連続殺人事件の犯人の 情報を聞くために彼に会っている。彼は、犯人はプルートゥという人物 であることを示唆する。ブラウ1589は『PLUTO』の中でも重要な登場 人物である。人工知能に欠陥がまったくない限りなく人間に近いロボッ トであり、初めて人間を殺したロボットであるからだ。 次に説明するのは、壊れた機械部品を回収する車が出てきて回収員が 「500ゼウスでいいよ」というシーンである。これは、ゲジヒトがふとし た瞬間に映像として浮かんでくるシーンである。ゲジヒト自身は記憶に ない映像であるのだが、なぜかふとした時に映像として浮かんできてし まう。ゲジヒト本人はなぜ記憶にない映像が浮かんでくるのか理解でき ない。ロボットの記憶機能は人間を超えていると考えられる。私たちが 使っているパソコンの記憶量は限られているが、パソコンの記憶は消え ることはない。一旦記憶させてしまえば、その記憶は外的な手が加えら れなければ永久的に残る。例えば、円周率を何桁も暗記する人は、記憶 力のある人であるが、その記憶は忘却される。人間の記憶の仕組みには 忘却という機能が働いているからである。円周率を何桁も暗記する暗記 名人は、10年後、20年後も円周率を暗記しているという可能性は低いだ ろう。しかし、パソコンでは円周率を何桁も記憶させることができる し、それは10年後、20年後も記憶されている。パソコンという機械の記 憶の仕組みには忘却という機能がないのだ。だから、ゲジヒトは記憶に ない映像を見ることの不可解さに悩む。そして、それが夢の中にまで登 293 学習院大学人文科学論集ⅩⅧ(2009) 場することになったのである。 では、この夢について考えていこうと思う。まず、この夢に特徴的な のは、シーンの切り替えである。いくつものシーンがスイッチが入れ替 わるように変わっていく。ただシーンが変わるだけではなく、実際にア トムと会ったシーンで、アトムがブラウ1589に変わっている。この変化 は不可解である。これは、アトムと会ったシーンと、ブラウ1589と会っ たシーンが 1 つに重なってしまったと考えられる。 これは、夢の働きの 1 つである圧縮が働いていると考えられる。何か 受け入れがたい体験をした人の意識は、それを受け入れることができな いので、無意識の領域に押しやる。それは、普段は無意識の領域にいる のだが、夜寝ている時には意識の働きが弱まり、相対的に無意識の働き が強まるので、意識の領域に入り込んでくる。これが夢という形で私た ちに意識される。しかし、意識の力はなくなったわけではなく、たんに 弱まっただけなので、受け入れがたいものをそのまま意識に挙げること を許さない。だから、受け入れがたいものに何らかの変更をして、意識 が受け入れやすいものにするのである。フロイトは、この働きを「検 閲」と呼んだ。この検閲の働きによって、受け入れがたい体験は、その 体験そのままではなく、何か別のものに置換えられたり、いくつかの体 験が、1 つのものに圧縮されることがある。 つまり、ゲジヒトが見た夢は、アトムとの出会いとブラウ1589との出 会いが、1 つの出会いとして圧縮されたものとして映像化されたと考え られる。人間の夢の働きが、ロボットであるゲジヒトの夢でも同じく働 いていると考えられる。合理的に作られているロボットでは、体験した 出来事はそれぞれ記憶されるだろう。そして、一つ一つの出来事は、神 経細胞のニューロンが電気的刺激で繋がっていくようにして、相互に関 連するようにプログラミングされていると考えられる。 しかし、ゲジヒトの夢はこの働きとは違っている。アトムとの出会い とブラウ1589との出会いが相互に関連して記憶されているが、1 つの出 294 ロボットは「心」を持つか(八鍬 博敏) 会いのシーンとして夢の中では表現されていたのである。これは、実際 に体験した事実と異なり、個々の出来事の記憶が相互に関連しているの ではなく、1 つの出来事として表現されていたのである。これは、人間 の夢ならばしばしば生じる現象だが、それがロボットであるゲジヒトに も生じているのである。夢の働きから見ると、ゲジヒトは人間と同じな のではないだろうか。 『PLUTO』では、ゲジヒトが夢を見る原因について明らかとなるシー ンが描かれている。実は、ゲジヒトはロボット史上 2 人目の人間を殺害 したロボットだったのである。犯行の動機は、自分の子ども(ロボッ ト)を殺害された憎しみであった。しかし、ゲジヒトを管理しているユ ーロ連邦は、この事件が世に知られることを恐れて事件を抹殺した。そ の際に、ゲジヒトの記憶から事件に関する記憶を消去したのである。だ から、ゲジヒトは自分が人間を殺害したことを知らない。しかし、連続 殺害事件の犯人の捜査を続けていくうちに、消去された記憶があること に気がつく。その記憶とは、自分が人間を殺害したことであり、最愛の 子どもの思い出でもあった。 このことから、ゲジヒトは消去されていた記憶が原因となって夢を見 ていたということである。ゲジヒト自身も夢の正体は消去されていた記 憶であると考えている。消去された記憶がよみがえることはあるのだろ うか。人間ではよく見られる現象である。フロイトの無意識の概念を持 ち出してもよいし、基礎心理学の潜在的な認知過程という概念を持ち出 してもよい。つまり、人間には意識とは別の領域が存在しているという ことである。この意識とは別の領域に存在しているモノは、意識は意識 できない。だけども、確かにあるモノは存在しているのである。 記憶されたものは時間とともに忘却していく。しかし、記憶されたも の自体がなくなったわけではない。再度学習すれば以前よりも早く記憶 できるという記憶研究の成果がそれを証明している。また、記憶は無意 味なものよりも有意味なものの方が、記憶が容易であるという研究結果 295 学習院大学人文科学論集ⅩⅧ(2009) がある。これは、記憶の仕組みには意味のある概念をよりよく記憶して いく働きがあることを示している。 また、深層心理学的には、コンプレックスという概念がある。例え ば、意識では動物、家族、植物などと概念を知的に分類している。ある 人が、犬にかまれて恐ろしい体験をしたとする。この人が父親にも恐ろ しいという感情を抱いている場合は、結びつかないはずの犬と父親が恐 怖という感情によって結びついてしまうのである。この結びつきは拡大 され、犬にかまれた時にそばにあった大きな樹や、父親と同じようなメ ガネをかけている年上の男性にと、関連が広がっていく。すると、一見 すると普通の樹なのに、彼から見るとイライラを感じさせる樹に見えた りする。このとき、彼の恐怖の体験だけを解消しても問題は消えない。 恐怖と感情で繋がったそのつながりは消えていないからである。 ゲジヒトにもこのコンプレックスによる働きが関係していると考えら れないだろうか。つまり、人間を殺害した事実と罪悪感、また、その時 に感じた憎しみは消去されたが、それは他の記憶と結びついていた。だ から、それ自体は消去されても、結びついていた関係だけは記憶に残っ ていた。そして、捜査を続ける中で結びついていた記憶が活性化され て、記憶がよみがえってきたと考えられないだろうか。結びついていた 関係性が夢の中で表現されていたのではないだろうか。この推測は、人 間の心の働きを、ロボットであるゲジヒトに当てはめることによって成 り立つ推測である。しかし、ここまで述べてきたことから、ゲジヒトは 人間と言っても言いすぎではないほどのロボットであると言える。だか ら、人間の心の働きと同じ心の働きを持つと考えることは、行き過ぎた 考えではないだろう。 5. 神経症 ここで一旦ゲジヒトから離れてみたい。『PLUTO』にはゲジヒトの夢 296 ロボットは「心」を持つか(八鍬 博敏) 以外にも本論にとって興味深いシーンが描かれている。それは第33話に 描かれている、ヘラクレスとエプシロンが語る場面である 7)。ヘラクレ スは、「あの戦争は…戦いじゃなかった」と言う。そして、彼はペルシ ア戦争で共に戦った仲間のロボットの行動を思い出す。そのロボットは 瓦礫の中にある壊れた水道管からこぼれる水で何度も手を洗っていた。 ヘラクレスは、「ロボットなのにずっと手を」と言う。エプシロンと語 るシーンはここで回想が終わる。物語が進んで、ヘラクレスはプルート ゥーとの戦闘の中でこの回想の続きを思い出す。ヘラクレスが「おい… 何やってるんだ…」と言うと、そのロボットは「落ちないんだ…」と答 える。「何が?」と聞くヘラクレスに、そのロボットは手を洗いながら こう答える。 「落ちないんだよ…」と8)。 このロボット(人工知能ボミング)は手を洗い続けるという行動を行 っている。しかも何度も延々と手を洗い続けているのである。この行動 は、ヘラクレスから見ると理解しがたい行為である。ましてやロボット である。手についた汚れは 1、2 回の手洗いで落ちることは、人間以上 に合理的に作られているロボットには理解できるはずである。しかし、 ボミングは手を洗い続ける。自分の手は汚れているという確信が消えな いのである。 心理学では、この現象は強迫神経症と呼ばれる神経症の一種である。 神経症は脅迫的行為以外にもさまざまな症状を見せる。例えば、ラッシ ュ時の電車に乗ると突然不安に襲われる不安神経症、身体的には疾患が 見られないのに歩くことが出来なくなるヒステリーなどがある。強迫神 経症は神経症の症状として代表的なものである。これは、例えば、何度 も何度もガスの元栓を締めたのを確認したのにもかかわらず、さらに確 認を繰り返してしまい、家を出てからもガスの元栓のことが頭から離れ ないで、家に帰ってきてしまうことが挙げられる。 ボミングが行っていたのは手洗い強迫と呼ばれる強迫行動である。何 度も何度も手を洗う行動が止められない。人間では、家に帰ってきて手 297 学習院大学人文科学論集ⅩⅧ(2009) を洗うけれども、まだ手が汚いという思いがして、もう一度手を洗う。 それでもまだ手が汚いという思いがある。そして、また手を洗う。この 行動を何度も何度も繰り返すのである。何度も手を洗うので、手の油が なくなり皮膚がむける重症の手洗い強迫の人もいる。 神経症のメカニズムを明らかにしたのはフロイトである。フロイトに とって神経症のメカニズムは精神分析の中心的理論である。神経症のメ カニズムは、無意識に抑圧された受け入れがたい体験が、そのまま意識 に浮かび上がることができずに、歪められた形で現れるという仕組みで ある。歪められた形で現れたものが神経症症状である。これは、意識と 無意識による「妥協の産物」である。精神分析的治療では、受け入れが たい体験を意識化することを目標とする。それを意識化することができ たら、意識と無意識の妥協の産物を生じることがなくなるので、結果と して症状は消滅する。 この妥協の産物としての神経症症状発生のメカニズムは、夢のメカニ ズムと同じである。つまり、夢も意識と無意識のせめぎあいの中で生じ るのである。睡眠中は、意識の働きは弱まる。無意識にある受け入れが たい体験は、弱まった意識の働きを越えて意識の領域に出て行こうとす る。しかし、意識の力は依然としてあるので、意識と無意識が拮抗して 本来の形とは違った形で意識が受け入れがたい体験を意識する。それが 夢なのである。 強迫神経症症状を示しているロボット、ボミングに戻ってみよう。神 経症のメカニズムを考えると、ボミングにも人間の神経症のメカニズム が働いていると考えられないだろうか。つまり、意識と無意識の妥協の 産物としての症状という働きである。ボミングは、戦争で作戦を成功さ せるために大きな貢献をしたロボットである。しかし、それは多くの人 間とロボットを殺したことである。ボミングはこのことをつらい体験と して受け止めたと考えると、そのつらい体験を意識に残しておくことは できないので、無意識に抑圧したと考える。しかし、抑圧されたこの体 298 ロボットは「心」を持つか(八鍬 博敏) 験は、意識に上がってこようとする。しかし意識はそれを許さないの で、歪んだ形として、つまり、神経症症状としてそれが表れたと考えら れないだろうか。 夢を見るロボットであるゲジヒトと、強迫神経症のロボットであるボ ミングを取り上げた。この 2 体のロボットの現象を考えると、ロボット が「心」を持つという考えを否定することはできない。無意識が備わっ た心の構造を想定しないと、ゲジヒトとボミングの現象は理解できない からである。 6. アトム では、中沢と布施の考えのどちらが妥当な考えなのかを考えていきた い。そのために、アトムを登場させたい。『PLUTO』に登場するロボッ トの中で、一番人間らしいロボットはアトムであるだろう。それは、人 間と同じ「心」を持ったロボットであると言うことである。 アトムは、『PLUTO』の原作である『鉄腕アトム』に描かれている時 から、人間らしいロボットであった。やさしく、正義感があり、悲しん だり、怒ったりするなど、人間と同じ感情を持っている。しかし、彼は ロボットであることに変わりはなく、空を飛ぶし、指からはレーザーが 飛ぶ、お尻からはマシンガンが打たれる。このような機能を備えた人間 はいない。 『PLUTO』で描かれているアトムは、心を持ったロボットとしてのア トムが強調されている。人間とまったく同じく感動したり、共感した り、怒ったり、悲しんだりしている。涙も流すこともできる。どこが人 間と違うのかわからないほどである。 アトムが人間と同じ心を持つかどうかということを、冒頭に紹介した 布施が論じている 9)。彼は無意識を内臓に備わったものであると考えて いる。だから、アトムが内臓を持つことができたら、彼は心を持つこと 299 学習院大学人文科学論集ⅩⅧ(2009) ができると述べている。その証拠として、『鉄腕アトム』には、アトム が人造心臓を持つことによって、臆病になってしまったことを挙げてい る。心臓という内臓を持つと、心が備わってしまうからである。心には 臆病や恐怖などのネガティヴな感情も含まれている。アトムは内臓を持 つことによって心を持つことになった。布施の論を証拠付けている場面 である。 しかし、『PLUTO』の中のアトムは布施の論では説明できなくなっ た。『PLUTO』には、アトムがゲジヒトとカフェで会っているシーンが 描かれている 10)。そこでアトムはアイスクリームを食べている。もちろ ん、彼には消化器官である内臓は備わっていない。しかし、おいしいと いう感覚が分かるようになってきたと言っているのである。内臓を持た ないのに、おいしいという感情を感じているのである。これは、内臓に 「心」が備わっているという布施の論では説明できない。確かに、『鉄腕 アトム』に描かれていた人造心臓を埋め込まれた後のアトムの変化か ら、内臓に「心」が備わっているという考えは証拠付けられるだろう。 しかし、布施が述べている内臓とは「一本の管」としての内臓だったは ずである。心臓は内臓であることに変わりはないが、口から肛門までつ ながる一本の管ではない。『PLUTO』に描かれているアトムから考える と、布施の主張は合わないと考えられる。 では、中沢の考えはどうであろうか。この検証のために、プルートゥ とアトムの妹のウランに登場してもらう。プルートゥとウランが最初に 出合ったとき、プルートゥは壁に抽象的な花畑の絵を描く。そして、ウ ランはその絵を見て感動する 11)。このシーンは、ロボットが絵画という 芸術で自分の気持ちを表現したシーンである。これはプルートゥに象徴 的思考が備わってなければできないことである。そして、絵を見たウラ ンが感動して涙を流す。その象徴的思考が、他者にも伝わっていること を示していることを示し、また、ウランは芸術に触れて感情が震える 「心」が備わっていることを示している。象徴的な表現は、表現したい 300 ロボットは「心」を持つか(八鍬 博敏) ことをそのままの形で表現するのではなく、圧縮や置き換えといった流 動的知性の働きがなければできない表現である。 プルートゥとウランのこのシーンには、流動的知性を持ったモノ同士 のやり取りが描かれているのである。つまり、プルートゥとウランには 流動的知性が備わっているのである。彼らはアトムと同じように、高性 能の人工知能を持つロボットである。だから、中沢の言うところの、ニ ューロン系の組み換えが行なわれて、流動的な知性が発生してもおかし くないのではないだろうか。つまり、人間が大脳の発達によって、無意 識を手に入れたように、ロボットも人工知能が発達して。無意識を手に 入れたのではないだろうか。 人工知能の研究は、人間の脳の研究を通して行なわれている。大脳の 発達によって流動的知性である無意識が獲得されたという研究結果がす でに出ているので、そのメカニズムが人工知能にも備わるだろう。なぜ なら、人工知能は人間の脳をモデルにして作られているからである。そ して、流動的知性をそなえた人工知能を持ったロボットが開発された 時、そのロボットは人間と同じ「心」を持ったロボットとして誕生する のである。 7. おわりに ロボットは心を持つかという問題は、本来はマンガをテキストにして 述べる問題ではないだろう。自然科学的な研究や、哲学的な研究などで も同じ問題を考えている研究者の方には、本論は意味のないものであろ う。 しかし、筆者は、マンガというファンタジーだからこそ考えられる問 題であると考える。人類の歴史においてファンタジーが現実になったこ とは多い。鳥のように空を飛びたいと言う夢は、飛行機を生み出した。 月に行きたいという夢は宇宙船を生み出した。それ以外にも、私たち人 301 学習院大学人文科学論集ⅩⅧ(2009) 間はファンタジーや夢を現実のものにしてきた。 今も人間は多くのファンタジーを抱いているだろう。その一つが、ロ ボットである。人間らしいロボットを作りたいという夢は現実のものに なりつつある。日本ではアトムのようなロボットを作りたいという夢 は、『鉄腕アトム』が誕生した50年代からずっと変わらずに存在してい る。ロボット研究をしている人たちを突き動かしているエネルギーは、 アトムというマンガの主人公を現実のものにしたいという気持ちだろ う。 だから、ロボットは「心」を持つかという問題を『PLUTO』という マンガを通して論じることの意味もあると考えられないだろうか。アト ムが現実に誕生したときに、『鉄腕アトム』や『PLUTO』に描かれてい るロボットの「心」の問題はクローズアップされる問題であると考えら れる。その時に、ファンタジーが現実となるのである。 ロボットが「心」を持つかという問題は、人間の「心」の問題を明ら かにすることでもある。心理学がこの問題をさらに考えていく意義は大 きいと考える。 注 1)中沢新一『対称性人類学カイエ・ソバージュⅤ』講談社選書メチエ、 2004、64―68頁。 2)同書、74―75頁。 3)布施英利『鉄腕アトムは電気羊の夢を見るか』晶文社、2003。 4)浦沢直樹・手塚治虫『PLUTO』第 1 巻、小学館、2004、7頁。 5)同書、49―50頁。 6)浦沢直樹・手塚治虫『PLUTO』第 2 巻、小学館、2005、131―133頁。 7)浦沢直樹・手塚治虫『PLUTO』第 6 巻、小学館、2008、40―41頁。 8)同書、68―69頁。 9)前掲書『鉄腕アトムは電気羊の夢を見るか』117頁。 10)前掲書『PLUTO』第 2 巻、10―23頁。 11)浦沢直樹・手塚治虫『PLUTO』第 3 巻、2006、141―148頁。 302 ロボットは「心」を持つか(八鍬 博敏) Can Do Robots Have the Mind?: The Thought about Robots’ and Human Beings’ Mind on the PLUTO YAKUWA, Hirotoshi The purpose of producing a robot is producing a robot like human. For that purpose, it is necessary for thinking of human mind. Therefore, this thesis gives a consideration to the problem whether a robot has mind. First, I refer to the thinking of unconscious of Nakazawa (2004) and Fuse (2003), make the difference each thinking clear. Then, I think whether a robot have mind using PLUTO. I think the structure of mind interpreting Gezihito’s dream and the robot shows symptom of neurosis. It thinks so dreaming and showing symptom of neurosis that a robot has unconscious, it seems that a robot has mind like human’s. And this thinking supports Nakazawa that thinks cerebral development gives birth to unconscious. The problem how a robots has mind also defines human mind. It is very important that we think this problem in psychology. (人文科学研究科心理学専攻 博士後期課程 2 年) 303
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