第四章 産業から光へ

第四章 産業から観光へ
第1節 産業遺産とエコミュージアム
エコミュージアムという考え方は、フランスに生まれている。最近、日本でも関係者の
あいだでこれがクロ}ズアップされているが、フランスにおける政策上の定義(それは必
然的に形式的にならざるを得ない)を十分に山川せずに紹介しているだけで、学問的には
侮らの定義もなされていない状態である。以下に、エコミュージアムとは何かを示すが、
まず断っておかなければならないのは、それが産業構造の転換で閉鎖されざるをえなかっ
た地域で生まれたいわば「苦肉の策」だったという点である。それは、まちおこしをせざ
るをえないような厳しい現実のなかで考え出されたのであり、その理念だけを取り繊して、
あたかもすばらしいもののように持ち上げるのは、意味のないことである。
エコミュージアム
なぜ日本人は西洋的なエコミュージアムに関心をもつのだろう。エコミュージアムの基
本原理は具体的な場面でひとつの意志に対応する。荒れ果てた工業地を保全することによ
り集合的記憶の喪失を防ごうという意志である。それがわかっていながら、B本人は工業
生産の変化や新しいテクノロジーの発達に直面したく産業考古学〉のしるしを保全する必
要性をほとんど感じていない。
フランスでは1980年以降、工業生産の変化で鉱山や工場が閉鎖された地域にたくさん
のエコミュージアムがつくられた。経済のリストラの後、その地域の「生きた記憶」を保
存するために「工業の荒地」に価値が生じた。各地域の「輝かしい過去」を示しあう文化
的ネットワークを構築することも求められた。こうして、エコミュージアムの第一の機能
は「経済的な災害」の直接的な結果を棚に上げ、地域の文化的な豊かさを公衆に示して否
定的な部分を忘れさせることにあった。
〈産業の遺物〉を文化財扱いし、鉱由の廃坑に古城と同等の文化的価値を与える。ガイ
ドブックは産業の遺物を観光スポットとして紹介し、かつて働いていた射たちが訪問客に
昔話を語る。景観の再構築も「思い出の劇場」よろしく、「キッチュ」な姿、あるいは「デ
ィズニーランド」的な手法がとられた,今日それはどうなっているか。いま見えるのは乱
立の深刻な影響だ。エコミュージアムはうまく作動していても、もはや新鮮さはない。そ
こで産業の遺物を文化的な用途で使うことが流行しだす。文化施設として、たいていは興
行用に使われる。そして、現代社会の文化を総体的に活性化、あるいは再活性化するとい
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う社会的機能もはたす。流行の芸術的活動と「集合的・個人的記億」全体の加工を合体さ
せた多文化的な場なのである。
日本のエコミュージアムも、ヨーロッパのそれと原理は同じである。
東北では、かつての鉱山を文化財として、エコミュージアムの原理が展開された。フラ
ンスでもそうだが、ここでも産業構造の変化によって経済的に衰退した地域がエコ・テリ
トリー(環境保護地域)となり、かつての活動を再現してみせる場となる。舞台装置にロボ
ットが用いられている点を除けば、運営はじつに型どおりである。尾田沢鉱山では、地底
の迷路のような坑道に百を超える自動人形が置かれ、銀の採掘のしくみや鉱夫たちの様子
を動作で示してみせる。観光客よりロボットの数の方が多いぐらいだ。テクノロジーにた
よった博物館の保存物は自分勝手に動くだけで、観客の目をひきつけないということだろ
う。
またしばしば、日本やその他の国(たとえばオランダ)の居住形態が総合的に再現され
る。それは過去の再現が、人々のキッチュなものへの嗜好を満足させるように行われる。
キッチュはけっして昔の建造物や古人の営みの消滅という事実に対し、それをマニエリス
風に再現したレプリカなどではない。いま日本のあちこちで見られるヨーロッパ諸国の町
並み再現は、かつて日本にやってきた外国人の記憶と、その(日本人にとっての)イメー
ジをうまく伝えている。実際、消滅のイメージはそれを保存することでさらにつのる。消
滅の感覚を演出によって反翻させつつ、ノスタルジーを喚起しない。これがキッチュのア
ートなのである。「キッチュな」再現は、.外国の日本への影響の暗示的なパロディーとし
てあらわれる。
同じエコミュージアムでも、小坂町にある康楽館では、かつての芝居小屋で昼食付き演
劇鑑賞をすることができる。芝居は伝統的なものであり、いささかも「キッチュ」な感じ
ではない。それどころか、芝居はかつてこの場で日常的に演じられていたドラマ、悲喜劇
の正確な反復なのである。日本では「キッチュな」再現、「ディズニーランド」スタイル
の洗練された催しが、「純然たる」伝統に属するものと不協和音もなく共存しうる。文化
財保存という考えそのものが意味をなさないのだろうか。おそらく喪失の感覚がヨーロッ
パほどには切迫していないのだろう。文化財としての見せ物は、フランスにおける主要な
モデルであるピュイ・デュ・フの祭(地元住民による歴史劇の上演。1987年に始まる)
のように過去の「活き活きとした再現」として示される。地域一帯の住民がこうしたスペ
クタクルの上演に参加するたびに、集合的記憶の「再演」が保証される。文化財保存と地
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域文化発展を両立させる理想的な状況がここにある。こうした住民参加はそれが嫌々なが
らの見せ物ではなく、人々が積極的にかかわり社会性の再生を.もたらす舞台づくりになっ
ていることをわれわれに納得させる。
ヨーロッパで今日見られる集合的記憶の管理手法は、日常の生活を祝祭的な活勤にして
しまうきらいがある。つねに過去が再現される。すべてのもの、すべての建物が文化遺産
化を押し進めるための手段となり、すでにないと思われたシンボリックな機能を再発見さ
せうるのである。しかし、文化財の再評価がどうして集合的記億の満足につながるのであ
ろうか、記憶と民衆の熱意を蘇らせる事実は必ずしも定まった意味をもたず、したがって
ただちに集団の価値観を構成するものでもないので、記念の行事には常に議論がつきまと
うことをまず認識しておかねばならない。歴史は神話と反対に、たえず起源を疑問視し、
持続性の意味を問うものである。「歴史的事実」を記念するために、その決定的な解釈を
求めることは、歴史の運動そのものに反する。
特に、エコミュージアムになるようなかっての工業地の場合、文化遣産になるような場
所や建物と「その」歴史との関係は複雑なものなのである。「バラ色の記憶」を生み出そ.
うというのはきわめて危ない。すなわち、技術伝達のありさまを示すことばかり考え、当
時の社会的・政治的対立をないものとするような演出は危険である。単に「昔の人はどの
ように働いていたか」を示すことだけを狙って19世紀末の生産様式を文化財として再現
するのであれば、それはかなり中立的といえる。ヨーロッパにおけるエコミュージアム運
動のオリジナリティは、経済的な破壊に対して社会・文化的な治療を施すことにあった,
産業構造の大変動をこうむった地域には、半職人的な生産様式がふたたび導入されたりも
した。「小規模」経済、地域の文化活動、地域のアイデンティティの保護、集合的な思い
出の場所の尊重、これらのものを合わせれば、働く場所がなくなったことで過疎化した地
域も経済的な建て直しが可能になるはずであった。
日本とフランスにおける産業遺産
フランスの場合、たとえば、シアム製鉄所では、20壌紀初頭の技術を用いた生産が復活
している。当時の溶鉱炉が、再利用されている。製鉄所は、1976年頃倒産し、別のホー
ルディング会社が、これを買収する。それまで働いていた職人は解雇され、額たに技術者
がやって来るが、古い圧延機を使いこなすことができず、反対にそれを壊してしまう。
そこにやってきたのが、9人のモロッコ人である。その一人が1984年に現場監督とな
り、古い圧延技術をよみがえらせたのだという。現在は、大きな製鉄所にはない「小回り
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のよさ」で、航空機の部品のような精度の高さが要求される製品を注文に応じた生産して
おり、経済的には大成功を収めている。
シアム製鉄所は、工場として復活すると同時に、生きた博物館としてフランシュ・コン
テエコミュージアム群のひとつに入っている。いずれは、公開される予定らしいが、もし
公開されれば生きた労働がそのまま展示されることになるのである。
このシアム製鉄所は、社会主義的ユートピア〈かつての労働の現在化)の再現であると
同時に、外国人労働者を雇用しているという点では、一種の偽装された植民地主義の復活
のようにも見える。移民とフランス人が共同で働くことが可能になったのだとフランシ
ュ・コンテエコミュージアム群の学芸員は語っていたが、こうした社会主義的ユートピア
幻想の背後には、20世紀の製鉄所を復活させることは、かつての危険な労働環境を復活さ
せることにつながること、しかも危険を負うのは移民であるという植民地主義的な構図が
透けて見える。
文化財化を通じて、かつての労働共同体を蜜活させようとする試みがシアム製鉄所で行
われているのとは反対に、日本の松尾鉱由跡は、かつての鉱山住宅が廃嘘のように聲づて
いるだけである。鉱山から下った街(それもかってにぎわいはない〉には、小さな博物館
があり、往時の鉱山の面影を残す展示品が残されている。閉山の後に、盛岡だけでなく、
東京やそめ近郊にまで散っていったかつての鉱山労働者は、今でも年に一回東京で集まり
を持っている。また、この博物館(たとえば、学校の卒業名簿が展示されている)に立ち
寄る者も多い。
実際、鉱由が盛んであった当隠は、「山上の理想郷」と呼ばれ、そこで働く者は、ほと
んどお金を使わずに生活することができたという(これは松尾鉱山に限らない)。現実に
は、労働は過酷で環境自体決してよいものではなかったはずだが、今でもその生活を懐か
しむ者は多い。しかし、その記億はかたちとしては残されないまま、宙に浮いたような状
態になっているのである。日本においても、かつて隆盛をきわめた産業へのノスタルジー
がないわけではない。しかし、観光化やまちおこしのなかで、それが表現されることはな
い。また、シアム製鉄所のように、かつての労働へのノスタルジーから、実際に失われた
技術を復活させるようなことも行われない。それは、日本の場合、観光が、環境の浄化を
伴うからであろう。沖縄の西表島のように、マラリアが蔓延していた時代には、炭坑は彫
られていたが、今のように自然の豊かな観光地としてはまったく見なされていなかった。
それが、マラリアが退治されると、自然が豊かで、天然記念物に指定されている動物も存
在する島として、観光客を集めるようになるのである。衛生面でのリスクがあっても産業
は生まれる。しかし、衛生面での問題が解決されない限り、観光は生まれない。
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第2節 文化財と文化観光
観光とアイデンティティ
ヨーロッパにおいて、文化財は「文化的アイデンティティの問題としてあらわれる。
どの地域もグローバリゼーション・イデオロギーの要請に喰えるため、自らの「多文化的」
能力を証明しようとするが、じつは「固有の」文化財をもつ。言いかえれば、ヨーロッパ
の文化観光はfエスニックな差異」の防衛に向かいかねない「アイデンティティの視野」
のなかに含まれる。ここに今日の文化財の大きなパラドックスがある。すなわち、一方に
文化のグローバル化、他方にエスニック・アイデンティティの重視による文化の異質性、
このふたつの矛盾する見方が同時に示されるのである。
〈エスニー〉という言葉はヴァシェ・ド・ラプージュが1896年に用いはじめ、エスノ
ロジーの基本的な対象をさすものだが、いまなおきちんと議論されず、理論化されないま
まである。マックス・ウェーバーは彼の著書『経済と社会湿のなかで、エスニック・グル
ープと人種を区別し、前者は共通の起源を信じていることに基づくとしたうえで、エスニ
ック・グループは概念が不確定なので∫周縁に放り出す」方がよいと主張する。エスニッ
ク・グループの定義はかつてロシア入たちによって試みられたが、それは他者を自己と区
別させる指標の分類学としてあらわれた。それ以後、この言葉の運命は現代における他者
の管理と結びつく。他者は、絵文字がヴィジュアルの鎖域で標識として機能するのと同様
に、一種の略号となった。ヨーロッパの高速道路の標識に、その地方特有の料理や歴史な
どのシンボルのかわりに、エスニックな属性が示されるようなシーンも想像できそうだ。
たとえば、髭と黒い帽子でオーヴェルニュ人だとわかる。その地方のエスニックなステレ
オタイプの特徴を表現する形でプロフィールが作られた。経験をさらに積めば、オーヴェ
ルニュ人のけちさ、アンジェ人のやさしさ、ブルトン入の頑固さ……をイメージすること
もできよう。エスニックな絵文字の絶対的な利点は、それぞれの地方にくっきりとしたア
イデンティティの輪郭を与えるような形態学的・文化的な区別がこれによって普遍的に認
識されることにある。同じパースペクティブにしたがい、どの地方も他のエスニーを受け
入れる土地であることを証明するために、大きさはさまざまだが一つのロゴタイプが発達
した多文化的能力を示すであろう。こうした絵文字のロジックはすでに現実のものとなっ
ている。
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移民にかんして、略号の含意は状況とメディアによるキャンペーンに依存する。いくつ
かの都市や地方はコソボ人にかぎって移民をすすんで受け入れるという。その他の移民は、
状況がコソボ人ほど悲惨ではないので、国境から入れてもらえない。緊急性は独自に定め
られる。悲惨なことが起こるたびに、その度合いをつかまえるのがまず緊急だ。エスニッ
クな略号はそのつど改められる。限られた期間、絵文字は例のオーヴェルニュ人と不幸な
コソボ人をともにあらわすこともありうる。ある地域が避難の地となりうるのは、一定の
排外主義に公的な効用が認められる程度による。
入魂のふるさとといわれているドルドーニュ地方では,夏のバカンス期間中、観光客に
向かって宣伝キャンペーンがはられる。ドルドーニュ市民は、過剃なまでの郷土愛をもっ
ており、観光客に対しても、それを尊重するよう呼びかけるのである。ポスターによれば、
このみごとな谷間には地方の特性や場所のモニュメント的な性格ばかりでなく、文明の誕
生を示すものがすべてここにある。そして、リピーターの数がますます増えているのは、
人々が失ったもの、元の完全性のすばらしさを再発見するためである、絵文字では決して
こういうメッセージを伝えることができまい。人々につぎのような確信をもたらすには、
絵文字ではなくて上手な宣伝広告が必要だろう。「お前はここの人間ではないが、何度も
ここへ来る。お前がわれわれの地に迎え入れられたのは例外的な幸運だと思え。もしわれ
われを軽んじるなら、それは自分自身をさらに軽んじることだ。なぜなら、お葡はわれわ
れのすばらしい完全性をたえず享受するのだから」。地方分権主義者は、自立的に遺産を
管理できるという幻想をいだくかもしれないが、実は、それは「外部」からの要請に応え
ているにすぎないのである。他者性のイメージは、ブランド品のように管理されているの
である。
エスニック・アイデンティティの賞揚は文化財の聖別化にもとつく。歴史的モニュメン
トと並んで,人種、民族、国民が文化財となった。この文化伝達を管理する武器が生者の
ミュージアム化である。アメリカやアフリカで保存されてきた罠族の使命は、消滅の途上
にあるエスニーや人種が大事に保存されていることを全世界に示すことである。自然公園
からインディアンの保留地にいたるまで、原理は同一一だ。すなわち、消滅しつつある動植
物と同様、エスニーは入類がみずからの歴史の鏡とするために保護されねばならない。動
植物を囲うこととミュージアムづくりは、すでに死んだも同然で消滅の危機にあるものを
アイデンティティ保全の名目で管理し、〈遺産の取り締まり〉をおこなおうとする意志に
応えるものである。文化的アイデンティティの承認は、かつての植民地でのミュージアム
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づくりにつながり、すでに死んだ文化の展示と蘇生を可能にする。ガイアナのミュージア
ム計画はエスニックなイメージを構築しようとした好例である。それは政治的な統合をめ
ざして実現された。ミュージアムが示すく原初状態〉は、エスニックな差異のはかりしれ
ない豊かさを公認する最良の手段となった。大切なのは「来世」だとわれわれに信じさせ
ようとする魔土師はやはりいるだろうが、「新しい死者」の崇拝は「良いインディアンは
死んだインディアン」という例の有名な諺そのままに残る。文化財保存の流れは、土地の
保留・凍結の論理に沿ってエスニックな対立を今日の和合へ導く。あらゆる文化的差異は、
そのミュージアム化によってのみ受容可能のものとなる。価値観が時代のモードに流され
て定まらないとき、エスニシティは安定した指示物でありつづける。それこそが文化のミ
ュージアム化の第一条件なのである。
このように、文化観光は世界的規模での文化の異質性の維持にもとつく。ミュージアム
化がその誰持を保証する。これが「世界のミュージアム化」の原理だ。そこには三つの段
階が想定される。第一段階は、生きた文化の消滅がすでに現実のものであること。第二段
階は、この文化のfミコ,一ジアムへの移行」、見せ物としての等質化。第三段階は、文化
の異質性の復活。ここにおいて博物館学と文化財保存の管理が可能になる。グローバリゼ
ーションには文化の等質化が随伴するが、その点では日本の独自性がとりわけ引き立つ。
西洋入の目に見えるく他者性の姿〉はいわば不変のものであり、その意味で、文化の異質
性は文化のグローバル化のプロセスに脅かされることなく、事実として羅持されよう。日
本には、あれこれの場所を具体的に文化遺産と定めるエスニック・アイデンティティの観
点やエスニシティの賞賛が存在しない。ヨーロッパの場合は「文化的アイデンティティ」
を打ち出すことが、文化観光の発達そのもののなかで文化財保存のダイナミズムをつくり
だす大きな要因となる。日本の場合、ある場所を文化財とみなすことがはたして文化観光
に何らかの「プラス」をもたらしているだろうか。たとえば、安芸の宮島はその敷地の一
部が世界遺産とされたが、「遺産とされた領域」と宮島のその他の領域がどう違うのかは
よくわからない。さらに妙なのは、対岸に文化財としての鳥居と張り合うように、ある宗
派の建物があることである。奇妙なことに、それは、不安を引き起こしかねないような「未
来の水平線」として自己を主張し、その堂々たる存在によって鳥居の「文化財としての卓
越性」そのものを無効にしている。
文化観光は、文化財保存のダイナミズムにつきうこかされ、訪れるさまざまの場所の「キ
ッチュな」あるいは「ディズニーランド的な」姿でも人を満足させるが、やはり何らかの
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〈帰属効果〉をもたらさねばならない。この効果はく学習効果〉によって保証される。物
質的・非物質的を問わず、ことが土地空間に関するかぎり、文化財の観念はかならず集団
が参考とすべき空間、集団が帰属する空間としてのテリトリーを示す。残る問題は、どう
ずればこのテリトリーを意味あるものにしうるか、文化財やその持続に与えられる価値ど
おりにそれを構成できるかどうかである。フランスのヴェルサイユ宮殿を例にとれば、た
しかに意味と価値との関係に議論の余地はない。しかし、文化財を分類する旧しい手順は、
観光プロモーションの宣伝戦略に左右され、それほど明瞭ではない。物や場所に与えられ
る意味が多様に変化しうることは、じっさい、物の価値づけの選択、その意味発信能力の
最適化によって決まるであろう。あれこれのモニュメントが地方のアイデンティティを「ほ
んとうに表象する」かどうかは、さほど重要ではなくなる。重要なのは、現物の「制約」
を計算にいれながら「ほんとうの表象だ」と言い張るパフォーマンスである。仮象の法則
が支配するシステムの派手な外壁をつきやぶるのも,やはり与えられた事物から出発した
事実である。したがって、少なくともヨーロッパの場合、こうした同一性の照合との複雑
なゲームが文化財の拡大においてますます決定的なものとなる。文化観光をする者に普遍
的な帰属の感覚と学習能力の結合をもたらすfアイデンティティ効果」を、いわば人工的
につくりだすことが大切だ。
日本の場合、オリジナルの本物とか文化的アイデンティティとかを考えることは重要で
なく、また必要でもない。文化財化の進展は、文化的アイデンティティを脅かすような驚
異の広がりとの関連でのみ意味を持つ。ただ、この脅威は、単に西洋的な文化財概念に刺
激されたものにすぎない。本当のところ、文化的な帰属の感覚は保護する必要もないし、
文化財を見れば満足というだけの文化観光でそれを奨励する必要もない。奇妙なことに、
日本は固有の文化財の存在や管理について考えはじめたばかりであるのに、西洋の観点か
ら見れば、〈文化的アイデンティティの地域的全体性〉を維持するモデルと見なされる。
そうであるならば、日本人観光客はヨーロッパの諸都市のモニュメント群に魅惑されたの
と同じ感動を、わざわざ日本列島にも求める必要性はないのではないか。それにもかかわ
らず、同様の感動を求めているように見えるのは、単にレプリカを求める意志のあらわれ
にすぎないのであろうか。
名所・絵図
日本人の観光客にとって、モニュメンタルなもの、観光名所とはどのような意味を持っ
ているのか。そこで、江戸期に生まれた名所・絵図について考察してみよう。
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江戸期は各地において旧跡,名所が発見され.庶民の旅も盛んに行われるようになる。
江戸期に何度か流行した「おかげまいり」のように宗教的な巡礼として理解できるものも
あるが、多分に物見遊山的な旅も行われるようになる。その様子は、江戸期に多量に記録
された随筆、紀行文などの類の記事からも理解される。また、江戸後期には絵図をともな
う地誌である各種の名所図会が多数出版されるようになる。これは、文字や絵画などによ
って、既存の空間が薪たな意味づけを与えられて、出版メディア上に再現頴表象されてい
ることを意味している。
たとえば、江戸期に盛んに製作された名所図会は大きく四つの時期に分けられるという
(近藤晴一「『名所図会』に見る幕末期地方文化の一様相一『尾張名所図会』を中心としてjr僑大史学』
信大史学会、第14号、1989、2頁)。
第一期は安永∼寛政に、畿内を対象とした名所図会が京坂の書林より発行された時期。
第二二期は享和∼文化初に、畿内周辺の西日本を対象とした名所図会が発刊された時期。
多くは、京坂の書林により発刊されたが、一部には地方の著者と書林が創作。第三期は文
化末∼文政に、江戸や関東を対象とした名所図会が創作された時期。著者はそれぞれの地
方の出身だが、発行書林は江戸に多い。
第四期は天保以降で、三都以外の地方を対象とした名所図会が、地方の著者によって創
作され、地方の書林によって発行された時期。
このように、京坂を中心に生まれ、やがて江戸に中心が移行し、さらに地方に展開する
という傾向を指摘することができる。これは都市が自己像の構成からやがて他者像の構成
に転じ、.
n方もまたそれに呼応するように自己像の構成に向い、全体として新たな空間を
再編成する過程を示す興味深い事例と見ることができるだろう。
このような名所、1日跡を見物する江戸期の旅は、いわゆる観光旅行の起源の一つと見な
すことができるだろう。もちろん、見物の対象となる名所や旧跡はすでにそのようなもの
として存在していたわけではない。それらの多くは江戸期に再発見されたものや、誤解も
含めて創造されたものなのである。名所や1日跡がそのようなものとして認定された背景に
は、国学者などの古典を読解する能力に長けた知識人の盛んな活動があった。
彼ら江戸期の知識入は、古典籍の記事を頼りに、自らの足で古典的世界の足跡を確認し.
文字メディア上にそれを再現して行こうとした。こうした活動を可能にした最大の要因の
一つは、本居宣長ら国学者による「歴史の再・語り出し」という、江戸期の知識人の言説
空間における「事件」であった。たとえば、我々が今のような意味で古事記などの吉典を
読めるように、あるいは読まされるようになったのは、宣長による古事記の解読であった。
だが、それは解読というよりは、むしろ新たな神話諸歴史の創造であったといえよう(詳
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しくは子安宣邦『本居宣長』岩波薪書、ユ992を参照のこと)。
空聞を再編成するための参照枠として用いられた古典籍が歴史書的な体裁を備えた書物
であったことは重要な意味がある。それは、地理空間上に遠い過去の祖先の記憶が新たに
移植されていくことになるからである。また、各地で伝承されていた口碑伝説の類も古典
籍との照合によって、あるものは否定され忘却を余儀なくされ、あるいは誇張、潤色され
記録されることになる。また、とくにこれらの吉典籍が単に歴史書の体裁を備えていただ
けでなく、それが天皇の歴史であったことは,空間の再編成にともなう新たな時間意識の
創出において西欧とは異なる日本独自の様相を帯びる結果となった。
すなわち、古典籍に記載された重要な史跡(文化財)を中心として星座のようなまとま
りが各地で形成され、それらが空間的にも時聞的にも繊細な織物のように編み上げられる
ことになる。そして親たな空間と時間の結節点に天皇(の記憶)が植えつけられることに
なるのである。
したがって、なかでも特に重要な焦点は歴代の天皇の記億を直接的に喚起する場所であ
る陵墓であったといえる。実際、陵墓の治定が本格的に行われ始めるのは江戸期において
であり、明治期の陵墓の原型はほぼすでに江戸期に出来あがるのである綾墓については、
たとえばr「陵墓」からみた日本史避日本史醗究会・京都民科歴史部会編に所収の諸論文に詳しい)。
このように江戸期には新たな空間の再編成と時問意識の創出があった。特に日本の場合
は結果的には天皇の記憶に焦点が絞り込まれるようなかたちで、時空間が再編成された。
また、このような均質な空間の成立は、同時に「民俗」の発見という出来事でもあった。
江戸期に記録された多量の随筆、紀行文には「民俗的視点」ともいうべき認識枠組の存在
についての記述が散見されるのである。
このような「民俗」の記述は、神秘的な出来事を純粋に記録に値する興味深い対象とす
るまなざしに支えられている。そこには、やがて登場する民俗学や人類学の梶点の芽生え
が伺われるのである。
こうした江戸期における問題を考えておくことは、日本における文化財と博物館の社会
学的な考察に対して、基礎的ではあるが重要な認識をもたらすものと思われる。
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