日本におけるアラビア書道への関心の高まり 本田孝一(大東文化大学教授) 1、 アラビア書道について. アラビア書道は、アラビア文字圏、すなわちアラブ諸国やその他中東やアジアのイスラム 教国を中心に発達した芸術のなかで最も芸術性の高く、最も特徴的な芸術として世界的に評 価されています。誰でもそのような国々を訪れた人は、アラビア作品の美しさに目を奪われた ことがあるでしょう。たとえばモスクの壁面に書かれたコーランの章句を初めとして、もっと日 常的に街の広告やお店の看板に至るまでそこに書かれている文字は、ほとんどアラビア書道 家が書いた書道作品なのです。 アラビア書道は、イスラム教の聖典コーランを以下に美しく書写するかということに原点を発し ています。その歴史は古く、西暦 10 世紀、アッバース朝の頃まで遡ります。 アッバース朝の宰相であったイブン・ムクラという人物がアラビア書道の創始者であると言い 伝えられています。彼はアラビア文字の形における縦線や横線などの比率を考え出したとい われています。その後アラビア書道は、イスラム教の伝播と相俟って中東地域ばかりでなく、 アジアや、スペインにまで広範に定着していったのです。アジアについては中国にまで伝わり、 中国人のムスリムは独自の書体を生み出し、現代に至るまでも独特な作品を作り出していま す。 2、日本におけるアラビア書道の始まり さて日本においては、アラビア書道はいつ頃から知られるようになったかと考えますと、そ れは日が浅く、オイルショックのあった 1970 年代以降ではないかと思われます。 ところで、日本語の「アラビア書道」という名称についてですが、それは、実は私が勝手に命 名したものだということをお断りしておかなければなりません。初めは「アラビア語書道」、「ア ラビア語カリグラフィー」、「イスラム書道」などとさまざまな名称を使っていましたが、これはア ラビア語だけでなく、ペルシャ語やウルドウ語などを含んだアラビア文字を使ったもので、さら に、日本や中国の書道と同じく、何十年もの修練を必要とする道(どう)としての高い技芸であ るため、単なる「レタリング」ではないので書道ということで、いつの頃からか自然と「アラビア 書道」という名称に落ち着きました。私としてはこの名前を気に入っているのですが、もし皆さ んのなかでもっとよい名前がありましたなら教えてください。 さて日本人で最初にこの「アラビア書道」に携わった人あるいは「アラビア書道」を研究した 人は誰かと考えますと、それは故吉田左源二(よしださげんじ)、東京芸大教授の名前を挙げ なければなりません。先生は東京芸大の前身である東京美術学校の図案部を戦後まもなく 卒業された後,同校で教鞭をとられ、アラビア/イスラム文様の研究をなされました。その後 1970 年には文部省在外研究員としてエジプトなどに 2 年ほど滞在され、以後何回かアラビア 文字装飾展や独自の筆法で書かれたアラビア書道展を開催されています。私は 1988 年にバ グダッドで開かれた「バグダッド国際イスラム文様とアラビア書道フェステイバル」に一緒に当 時のイラク政府に招待され出品をしたのがきっかけで先生の知遇を得ました。先生は 1999 年 にお亡くなりになりましたが、先生について忘れてはならないことは、「アラビア文字の美」(ア ラビア語名:)أﻧﻤﺎط اﻟﺨﻂ اﻟﻌﺮﺑﻲと題する大著を出版されたことです。その本は古今に残されたア ラビア書道の名品を 300 点近くも取り上げられ、1 点ずつその複雑な文字の配列の構成を図 解して、説明するという労作、かつ画期的なものでした。今見ても非常に役に立つ資料として その価値は衰えていません。ただ高価な私家版ということであったせいか、あまり一般の人 の目に触れることが少なかったのが残念です。 3、私のアラビア書道との関わり 前述の吉田左源二先生の「アラビア文字の美」のご本が日本で出版された頃(1975)、私 はサウジアラビアの砂漠をジープで走り回っていました。私は東京外語大のアラビア語学科 を卒業してから数年して、日本のある測量会社がサウジアラビア政府から受注したサウジの 国土基本地図製作プロジェクトの現地調査でアラビア語通訳としてサウジに派遣されていた のです。私はこのサウジ滞在中に仕事の過程で偶然アラビア書道なるものに触れました。私 は仕事の打ち合わせで石油省という官庁に時々通わなければならなかったのですが、そこで 地図上に地名をアラビア書道家が書き込んでいるのを目にしたのです。私は彼が書いている 文字の線のあまりの美しさに魅惑され、その場で彼にアラビア書道の手ほどきを受けたいと 申し出たのです。彼は快く私の申し出を受け入れてくれ、それから私のアラビア書道との格闘 が始まったのです。 ここではあまり詳しいことは述べることはできませんが、私がサウジアラビアから数年後に帰 国してからもアラビア書道の魅力に取り付かれたまま、練習すればするほどますます面白く なり、独習を続けました。そしてその過程でトルコのアラビア書道の第一人者、ハッサン・チェ レビー師に出会い、彼に師事して本格的に書道の稽古を重ね、運良く 2000 年の 9 月にイスタ ンブールにてアラビア書道の免許皆伝(これをアラビア語でイジャーザ<>اﺟـــﺎزةといいます) を授与されました。その間私は自分の書道作品を制作するようになり、日本国内や海外から 招待を受け個展を開くようになっていました。またアラビア書道を教えることも始めました。最 初は小さな文化団体でグループ学習的に始めましたが、人も集まらず、また私の方もどう教 えてよいかわからず戸惑うことばかりでした。しかし年を重ねるごとに受講生も増えてきました。 おもしろいことに、受講生はほとんどがアラビア語の知識がない人なのでした。でもどこか旅 行してアラビア書道の作品を見て自分でも書いてみようと受講したいうのです。本学院でも去 年の秋よりアラビア書道教室が始まり、多くの受講生がアラビア書道のお稽古に励んでいま す。生徒の皆さんの作品は学内の掲示板に展示してありますのでご覧ください。 4、IRCICAのアラビア書道競書大会 アラビア書道はそれが持つ高い芸術性ゆえに、現在その価値は再評価され、それに伴い世 界的な関心を呼んでいると言ってよいでしょう。その顕著な現象として、国際的なアラビア書 道の競書大会が密やかな人気を得ているということをあげることができます。その競書大会 は、イスラム文化遺産保存国際委員会(その委員長はサウジのファイサル・ファハド・アブドル アジーズ殿下)の下部組織である、IRCICAの略称で知られている「イスラム歴史・芸術・文化 研究センター」(本部:イスタンブール)が 3 年ごとに行っている「国際アラビア書道コンテスト」 です。それは 1986 年に始まりましたが、回を重ねるごとに応募者の数が増えているということ です。そして現在アラビア書道のプロを目指す書道家の登竜門として重要な世界的コンペテ イションとして位置づけられているのです。私は第 2 回大会と第 3 回大会に応募し、小さな賞 を得ました。 そして今回皆さんに特にお知らせしたいことは、この一番最近の大会、すなわち去年募集 のあった第 6 回大会において、数名の日本人の生徒さんが応募し、その中から 2 名の方が入 賞したということです。お 2 人の名前を紹介すると、1 人は西原美香さん、もう 1 人は小林真弓 さんです。2 人ともペルシャ書体の部門での入賞です。これは大快挙だと思います。小林真弓 さんの方は前回の入賞に引き続きの入賞です。これにはトルコのIRCICAの審査員の先生た ちも、アラブ諸国やイスラム教国からではなく、はるか日本からの応募者のうち 2 人も入賞者 が出たということに大変驚いていると聞きました。 また日本国内でも、日本の書道団体の一つ(国際書道連盟、実はその団体は前述の吉田 左源二先生が生前会長を勤めておられた団体)は毎年行っている公募展において漢字・かな の部門に加えて、アラビア書道の部門を数年前より設け、毎年何名もの応募があり、その中 から上位入賞する人も出ているのです。このようなことはまさに日本社会においてアラビア書 道が広く関心を呼び、根付き始めている証拠だと思われます。 5、今後の展望 私が初めてアラビア書道に挑戦してから、かれこれ 30 年近くになりますが,その時に比べる と今は隔世の感があります。カルチャーセンターのアラビア書道の講座は常に満員で、空き 待ちをしている人が少なからずいると聞いています。前述のように本学院でもアラビア書道の 講座が始まり、この 4 月からはクラスが 2 つになり、活況を呈しています。 私の希望としては、近い将来、サウジアラビアなどのアラブの国で受講生たちと私の作品の 展示会を開きたいと願っています。それは、日本とサウジアラビアをはじめとしたアラブ諸国と の文化交流の促進につながるのではないかと確信しているからです。 さらに私は、アラビア書道の普及のため、日本ばかりでなく、たとえばマレーシアやインドネ シアやタイや中国などのアジアの国々のアラビア書道家とも交流をさらに進め、「アジアアラ ビア書道連盟」のようなものを設立したいとも願っています。
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