《私のローマ滞在の理由を説明すること はますます困難になる。海ははいって行 イタリア縦走 けば行くほど深くなるが、この市の見物 もまったくそれと同様である。過去を知 らないで、現在を知るということはとう て い 出 来る も ので はな い 》 と。 「 夕 方 にロ ー マに 入り 、2 泊し て どこ か に 向 か う 」 と いう のが 一 般 的 な 計 画 か 。 この地ローマは盗難などの犯罪の多い と こ ろ と し て 有名 であ る 。 映 画「旅 愁 1950 年作 」でも 、主人 公 以外 の登場人物は「ねだったり、売りつけた ロ ー マ・单 イタ リ アと も う 1 カ国 を組 み 合 わ せ る 旅 は 15 日間 を 必 要と し 、年に 1 り、ひったくったり」する人ばかり、と 度 と し ても 不 可能 な 長 さ で あ る 。 しかし、ローマを見てナポリへの旅は 日 本 人 には 憧 れの コー ス で あろ う 。 遥か遠い日、ゲーテが夢に見続けた旅 でもある。彼の憧れの強さを示している としても「イタリア紀行全三冊」はさす が に 長 すぎ る と感 じる 。 ローマに着いたゲーテは《われわれが 最もすぐれた事象に接しようとてローマ の市中を歩きまわるとき、この巨大なも のは悠々としてわれわれの上に働きかけ てくる。 他の土地では意味の深いものをこちらか らさがしてまわらなければならないのに、 ここではかえってわれわれが圧倒される ほ ど そ うし た もの に充 満 し てい る 。 行くところ止まるところ、あらゆる種類 の 風 景 画が く りひ ろげ ら れ 、宮殿 と 廃墟、 庭園と荒野、遠望と小景、家、厩、凱旋 門、円柱。時にはこれらすべてが一カ所 にかたまっていて、一葉の紙に纏めあげ ら れ た くら い だ。 人は千の絵筆を使ってそれを变述すべき で 、一 本 のペ ン が何の 役 に 立つ で あろ う。 実に観賞と驚嘆の連続で、夜になるとわ れ わ れ はす っ かり 疲れ 切 っ てし ま う。 》 さ え み えた も のだ 。 「白タクも怖い」と、なると独り旅の宿 は 「 終 着駅 テ ルミ ナ」 近 辺 とな る 。 ガイドブックの「音楽家たちの常宿とし て有名」とある駅そばのクイリナーレに 予約する。どうも音楽家という卖語に弱 い。 30 時 間と い う短 い 滞 在 で ある 。 陽も 高 い の で 、外 出 した 。 宿を出ると正面にはナイアディの噴水が ある。国立博物館が近いが、さすがにす 1 で に 閉 じら れ てい る。 荷物を預けて近くのパルテノンに急い 「大変申し訳ありません。しかし、当ホ テル今晩は満室で、明日には必ずチェン で 向 か う。 《現存するローマ建築の最も完全な遺構 ジします」この慇懃無礼さに余計に腹が 立った。 耳を押さえ ても、騒音は 軽減せず、つ いに私 は、ベッ ドをばらして、 浴 室 とトイレの 間に畳一枚 の 通 路 に簡 易 ベ であり、世界最大の石造り建築とされて いる。よろずの神を祭る万神殿でルキウ ス の 息 子マ ル クス・ア グ リ ッパ が前 27 年 ッドを作った。 翌日、抗議の ためにほとんど、 元に戻さない ままにしておいた。泥 棒 に荒 らされたようであ った。2日 目 に用 意 された部 屋 は真 に快 適 で あった。 こうした 時 の紳 士 協 定 とし て「ホテルも私 も 昨 日 の事 は触 れない」がある。怒 鳴 り散 らした ことも、部 屋 をひっくり返 したこともすべて過 去 のこと。得 したと、思 わず、最 高 の部 屋 代 を払 に 建 立 し た が、焼失し 、118 年 ハ ド リアヌ ス 帝 が 造り な おし た。 《 本 殿 は直 径 、高 さと も に 43.3m 大 きな クーポラで覆われている。クーボラの頂 上 に は 直径 9m の 天窓 が 開 いて 、内部 を照 ら す 唯 一の 光 源と なっ て い る。 さて、先ほどチェック・インした時、フ ロントには「静かな処だろうね」と念を 押した。「勿論、このホテル一番の静か な と こ ろで す 」と 案内 さ れ る。 疲れと興奮があったため「まあ、良いか … 」 と 外に 出 たの であ る 。 し か し、帰っ て きて、驚い た 。町全 体が騒 がしい中 ではわからなかった 。ド ア か ら 入 っ た途端に、外に出たと思った。「車が止 まった、動き出した、ドアが開いた」そ っている常 連客 としてふるまう。 結 局 コンビニのピザの夕 食 がローマでの最 高 の料理 となった。 ヴ ァ チ カン 美 術館 宮殿 ゲーテと比 べ私 には今 日 しかない。標 的 を 絞 り、まずはヴァチカンと決 めた。 朝 早 く、行 ったつもりであったが、すでに宮 殿 は入 場 を待 つ多 くの人 びとによって取 り巻 かれていた。この「ヴァチカン」の語 源はローマ の前 の文 化 であるエトルリアにあると言 われる。 のすべてが目の前に展開される。窓から 見ると石畳の道路の横の部屋で運転手の 顔が見える。早速、イタリアにだまされ た。あのボーイの大きな確約はなんだっ た の だ 。当 然 、ク レー ム を つけ る 。 《彼 らは城 壁 都 市 の内 側 に死 体 を埋 葬 しなか った 。そのた め、のちにロ ーマが栄 えることに なる地 域 に古 代 都 市を築 き、その城 壁の外の 丘 の斜 面 にネク ロ ポリスと呼 ばれる広 大 な 墓 地 をつくった。このネクロポリスと呼ばれる死 者 2 の 町 の 番 人 が 「 異 教 徒 エト ルリ アの 女 神 ヴァ ティカ」だった。 面 もなく自 分 の一 族 の利 益 をはかった こと③ フィレンツェのメディチ家 に対 する暗 殺 計 画 に 《ローマ教 皇 の歴 史 は、ペトロから始 まり、イ エスが十 字 架 にかけられたあとは、初 代 キリス ト教 会 の傑 出 した指 導 者 となった。(中 略 )聖 ペトロが逆 さ磔 にされて処 刑 された。そこでペ トロの後 継 者 たちはみな、ペトロと 、彼 が初 代 キリスト教 会 で占 めていた地 位 を踏 襲 しようと した。この新 しい教 団 の最 大 の関 心 事 は、彼 らが暮 らすローマ帝 国 からの敵 意 といかに折 り合 いをつけ ながら、自 分 関 与 したことである。 これら 以 外 にも 、スペイ ンに異 端 審 問 所 を創 設 するなど、多 くの悪 事 もあったが、ローマの 改 良 工 事 が業 績 として残 っている。いくつもの 礼 拝 堂 を建 てたが、とりわけ有 名 なものがシス ティーナ(教 皇 の名 にちなんで命 名 された)礼 拝 堂 である。 《その頃 、ローマ・カトリック教 会 の権 力 は強 ま っていったが、宗 教 上 の威 信 は著 し く低 下 し ていた。教 皇 宮 殿 での堕 落 した生 活 や、権 力 た ちの生 存 を はかるかとい うことだった。 そのためにペ トロの後 継 者 である「ローマ 司 教 」たちは、 世 俗 の権 力 と 協調する方 法を慎重に 探 りながら 、ロ ーマを中 心 にすえ ることで、組 へのあくなき野 望 、壮 麗 な建 築 物 への莫 大 な 資 金 の投 入 など、客 観 的 に見 てこの時 期 の 教 会 には「奢 り」の傾向 が強 く感 じられる。 当 時 教 会 内 では陰 謀 、汚 職 、分 裂 が頻 繁 に行 なわれていたし、フランス王 をはじめとす る諸 国 の王 ともヴァティカンは対 立 していたし、 オ ス マ ン帝国 がビザ ンツ帝 国を滅 織 を 強 化 しようと試 み、各 地 の司 教 た ちに対 するロ ーマ司 教 (のちの教 皇 ) の優 位 性 を主 張 した 。ローマ帝 国 が東 西 に分 裂 すると、各 国 の キリ スト教 会 に影 響 力 をも つロ ーヘマ教 皇 だけが、崩 壊 し変 化 していくヨーロッパ世 界 の中 で求 心 力 をもつようになった。ついに5世 紀 西 ロ ー マ帝 国 の皇 帝 は 、ロ ーマ 教 皇 が帝 国 内 のすべての司 教 の頂 点 にいることを公 式 に認 めた。 263 人の教皇 と 39 人の対 立教 皇が「権力 の 亡させ、 イタリア 半島に も攻 め込んできて、権威 は地に落 ちていた。》 教 皇 シクストゥス 4 世は、世 界にまたがる一 大 キリスト教 帝 国 を築 き上 げようと決 意 する。 1475 年カトリック教の建 築 家が雇 われ、ソロモ ン神 殿 をルネサンスに沸 くロ ーマのど真 ん中 に復 活 させてしまった。1500 年 が「信 者 の罪 が特 別 に許 される聖 年 」になっていたために、 めばえ」から「栄 光 と衰退 」という「血 みどろ劇」 をローマで繰 り返してきたのである。 (中 略 )1471 年 シクストゥス 4 世が教 皇に選出 された。この教 皇 については、三 つの特 徴 が あげられる。①ローマの景 観 を変 えたこと②臆 巡 礼 者 がローマに大 挙 して押 し寄 せ、その時 の教 皇 の懐には莫 大な金 が転 がり込んできた。 これから数 代 の教 皇 がローマヴァチカンに莫 大 な金をつぎ込 む。 1492 年 (コロンブスがアメリカに上 陸 した年 ) 3 テネの彫刻家アポロニウス作のオリジナ ル と さ れて い る。 胴 体 だけが残 った彫 刻 をトルソーというが、こ のヴァチカンのトルソーは名 高 く、ミケランジェ ロ等が絶賛 し、スケッチを繰り返したとされる。 に選 ばれた悪 名 高 い ボルジア家の アレッサンドロ 6 戦 う教 皇 として名を馳 せたユリウス 2 世 であ るが 、その就 任 を 祝 う がご とき 出 来 事 が 出 現 する。1506 年 、ロ ーマ の ネ ロの 宮 殿址 の葡 萄畑から発掘されたラオコーンである。 かってこのような作品があったはずだと 世であり、ユリ ウス 2 世であ る。 ジエイクローマ 教皇歴代誌・ マックスウェル・ スチュアート 著》 宮殿の中庭 は八角形をしている。写真はは「ベルヴ ェ デ ー レの ア ポロ 」で 紀 元 前 330-320 年 いうことは、プリニウスがその存在を記 述していたので、教皇はラオコオン群像 と 断 定 した 。 トロイアの神官ラオコオンは、ギリシア 軍の計略を見破り、ギリシアの勇者が中 にひそんでいる木馬をトロイア市内に引 き入れるのは危険であると警告した。こ の こ と をア テ ネは 憎み 、大 蛇 を 送 り 込 み 、 ラオコーンとその2人の息子たちを絞め 殺 す 場 面で あ る。 30 歳 を 超 え た ば か り の ミ ケ ラ ン ジ ェ ロ の ア テ ネで 造 られ たも の を 紀元 2 世 紀に ロ ー マ がコ ピ ーし たも の で ある 。 「メデューの首を持ったペルセウス」中 庭に面した部屋に有名な「ベルヴェデー レのトルソ」がある。紀元前1世紀にア は こ れ をみ て《芸 術の 奇 蹟 》と 感 嘆し た。 人 類 の最 高 傑 作 と今 もされている。つ い に は 「文学と造形美術の限界」論争提起させ る( ラオ コ オン・レ ッシング著斎藤栄 治 訳 岩 波文 庫 )。 ラオコーンの発 掘 を最 大 限 に利 用 する ことを思 い付 いたの がユリウス2世 である。 彼 はヴァチカン宮 殿 を美 術 の殿 堂 とすることを決 意 した。長 いヴァ チカンの記 述 が本 編 に登 場 するのはこのため である。 ヴァチカンに入 ると、多 数 の彫 刻 群 の空 間 4 に出 る。 これらはギリシヤなどの スティーナ礼 拝 堂 の中 に閉 じ 込 めら れる。年 間 4百 万 人 が訪 れるといわれるシスティーナ コピーであり、本 来 は異 教 徒 の作 品 である。教 皇 ユリウス 2 世 は形振り を構 わなかったわけで ある。人 びとが集 まるこ と が 重 要 だ っ た 。 ラ オコ ーンをその中 心 に据 え た。 礼 拝 堂 のなかで、私 たち日 本 人 は観 光 客 とし て見 上 げるだけであり、「見 た」ことに満 足 して、 ピントがぼけた写 真 にしかならないのにシャッ タ ーを 押 し 続 ける。 数人の監 視員がい て、禁 止 さ れ ている フ ラッシュが し か し 、こ の ラ オコーンにつ いては、現在 も 、い つ ?誰が 造ったのか? など解明され ていない。ま たいくつもの 形のものがあ り、例えば、 ウフィツのも たかれると 「ピィー」と 笛を吹く。 しかし、す べてお客 のフラッシ ュに対忚 できるはず もなく、反 射 的 に吹 いてみるだけである。 つまり、システィーナ礼 拝 堂 観 光 は頭 上 20m の、岩波文庫のも の )な ど で右 手、蛇 の形だけでも大き く違う。 そ も そ も、ロ ーマ の 彫刻はギリシャの コピーが大半であ る の で 、我 々 はイ タ リアの展示を見るときは「コピーを見せ られているに過ぎないのでは」という醒 の遥 か高 い天 井 画 を鑑 賞 する場 ではなく「フ ラ ッ シュ と笛 の やり取 り」 の騒 然 さを 体 験 する だけである。 黄 金 の装 飾 で幻 惑 されたヴァチカンを出 てパ ルテノン経 由 でカピトリーノに向かう カピトリーノ ここでは、 「カピト リーノの 牝狼」私 め た 気 持ち が 必要 だ。 シ ス テ ィー ナ 礼拝 堂 その後 、群 衆 は地 図 の間 、へと誘 導 される。と もあれ、前へ前へと。 そして、黄 金 一 色 の通 路 を抜 けて、有 名 なシ を迎える。 紀 元 前 450-430 年の古代ブロンズ像で、ローマ創設の象 徴 と さ れて い る。 5 双 子 の 像 は ル ネ サ ン ス 時 代 に 加 え ら れ た 。 リウスさえ拝 むことができれば満 足 な人 間 であ ローマの誕生については多説ある。その る。 一つが《牝狼に助けられた軍神マルスの 子ロムルスがティベル川畔のパラチーノ の丘に築いた町 がそのはじまり と さ れ る 》 伝 説 で、 ローマ人の最も 好むものである。 ローマはやがて 共 和 制 に移 行、紀 元 前 3 世 紀 には イ 皇 帝 マルクス・アウレリウスの最 大 の弱 点 はバ カ息 子を後 継 ぎにしたことである。 どうしようもない代 表 者 が何 となく(民 衆 はワン ポイントと勝 手 に思 い込 んで反 対 しない)選 ば れると、その組 織 自体を潰す。 東 京 でさえ アソウ、ハトヤマ、カンなど枚 挙 に 事 欠かない。幾らでもいる。 「自 省録 」で知られる彼 は 5 賢帝 の最 後の 皇 帝 である。しかし、彼 の治 世 は相 次 ぐ戦 乱 の時 代 となった。 タリア全土を支 配 し 、そ の 後カ ル タゴとの長期に 及んだ戦争に勝 利 し 、紀元 前 1 世 紀に 地 中 海を 制 覇し た・ 栄 光 の ロー マ ・ニ ュー ト ン プレ ス 》 広場に皇帝マルクス・アウレリウス騎馬 像 が あ る。 し かし 、当 然 な がら コ ピー 。 しかし、中の広い空間のマルクス騎馬 像 は 、 さす が に 本 物と さ れ てい る 。 残 存 する初 期 ローマ時 代 の傑 作 とされてい しかし 、次 第 に 帝 国 住 民 は、富 と奢 りの 生 活 を楽しみ、かつこれに惑 溺 していく。 《80 年 以 上にわたるこの幸 せの時代 (紀 元9 6~180年 )に、国 務 はネウル、トラヤーヌス、 ハドリアーヌス、アントニーヌス・ピウス、マルク ス・アウレリウスら の諸 帝 の美 徳 と能 力 に よ っ て運 営 された。 これらの諸 帝 のもと帝 国 は繁 栄 した が、皇 帝 マ ルク ス・ アウ レリ ウスの 死 後 、ロ ーマ は 衰 弱 死 そして没 落への道をたどる。 ロ ー マ帝 国 の 衰 亡 と没 落 こ そ永 遠 に 人 類 の る。 すぐ近 くに、皇 帝 マルクス・アウレリウス記 念柱 がある。 らせん状 のレリーフには北 方 地 方 の戦 争 の状 況 が刻 まれている。彼 の汚 点 として「キリスト教 徒 迫 害 」があるとされ る。 その彼 のブロンズ像 が 奇 跡 的 に破 壊 を免 れたのは「キリスト教 記 憶 に残 る革 命 であり、そのことは、今 なおこ 徒 コンスタンティヌス 帝 」と誤 解 されてい たためとされてい る。 私 はマルクス・アウレ の地 上 の諸 国 民 によって実 感 されているので ある。》 帝 政 時 代の ロ ーマ の生 活 本 当 はポンペイに行 きたかったのだが、 午 後 、ローマを離 れる予 定 であったので、ホテル 6 近 くのローマ国 立 博 物 館 で、ローマ時 代 の生 活 を写 真 に撮 るこ とにした。 この付 近 は有 名 ブランド店 が軒 を 連 ねる。私 はデザ インを勉 強 してい るつも りで、 眺 めこんでいると 、普 段 か ら 私 の 金 遣 いに 疑 問 を 持 つ娘 などは いつの間 にか 近 寄 って来 る。うしろから突 然 「なんのために 女 ものを見 るのよ」 と詰 問 する。それ以 来 、あ たりを確 認しながら見る癖 がついた。 狭 い面 積 の ロ ーマにはおよ そ百 万 人 がす んでいて、大 勢 の人 びとは高 層 アパートに住 む 以 外 に 方 法 が なか っ た 。広 い 地 区 は わず か数 本 の狭 い道 でブロックに分 けられていた。 こなければならなかった。水 が、頻 発 する火 事 の原 因の一つだった。》 《エリートとされる裕 福 な貴 族 、行 政 長 官 、軍 人 、 政 治 家 、銀 行 家 、事 業 家 、 商 人 たちはテベレ川 対 岸 の大 邸 宅 か、美 しい庭 、 大 理 石 のポルティコ、柱 廊 の大 広 間 、風 呂 、 プールのあるやかたに住 んだ。そうしたやかた の何 十 とある部 屋 はスギ材 の家 具 やコリント 製 の花 びん、高 価 なカーペット、オリエント地 方 の織物 や錦で飾られていた。》 《ローマ人 が簡 素 でスパルタ式 に近 い生 活 を していた時 代 には金 持 ちと貧 者 の食 べ物 に は明らかな違いはなかった。 しかし、ローマがイタリア南 部 とシシリアのギリ 部 屋 は狭 くて風 通 しが悪 く、夏 は暑 く 冬 は寒 かった。下 水 設 備 も水 道 もな いため、住 民 は公 衆 便 所 で用 をたし、水 は中 庭 の泉 からくんで シャ人 居 住 地 と交 流 するようになると、彼 らの 洗 練 された食 事にならうようになった。》 高 価 な 食 器 が揃 え ら れ 、 壁 には 緑 の 景 色 が 描 かれていた。 7 《金 持 ちと貧 者 の食 べ物 には明 らかに大 きな 差 があった。貧 しい人 びとの食 事 はパンとス しだった。 ティトゥス帝 時代 の紀元 80 年 に行なわれた ープ などの 簡 単 なものだった 。富 裕 の人 びと は 奴 隷 な どの 給 仕 で何 時 間 も か け て豪 華 な 食 事をとった。》 コロッセウムの落 成 式 では、祝 典 行 事 は 100 日 間 つづけられ、2 千人 の剣闘 士 と 9 千 頭の 動 物 が犠 牲 となった。 剣 闘 士 のほとん どは捕 虜 や奴 隷 や罪 人 であ (中 略 )貧 しい人 びとの夕 食 は残 り物 のスープ を食 べ、御 馳 走 と言 っ てもイシシアという 、肉 団 子 をほかの材 料 といっしょに熱 湯 で調 理 し たものだった。金 持 ちの夕 食 は奴 隷 たちが夥 しい数 の料 理 (イノシシ、子 ヤギ、ロブスター、 野 菜 のパイ、チーズ、異 国 の果 物 )をワインと ともに用 意した。》 り、武 器 を持 っ て闘 うた めの特 別 な訓 練 を受 けていて、1 対 1、あるいは集 団での決 闘も行 なった。(中 略 ) コロッセウムで行 なわれる闘 いは、剣 闘 士 同 士 であれ、クマとライオンの格 闘 であれ、残 酷 きわまりないものだったが、窮 屈 な自 宅 にもどって一 日 を終 える前 にローマ 人 は、どうしてもこれを見 ずにはいられなかっ た》上 は憩 いをとる剣 闘 士 。彼 らにとって光 っ ているところに地 獄があった。 パ ン と サー カ ス 治 世 者 は市 民 の暴 動 を怖 れ、最 低 限 の食 料 と 娯 楽 を 提 供 し た 。 「 パ ン と サ ー カ ス」 であ る。 《ローマ人 は浴 場 で数 時 間 すごして元 気 を回 復 すると、いよいよ競 技 場 や劇 場 や円 形 闘 技 場 の見物 に出 かけた。》 図 は市民 。 《ローマ人 に最 も人 気 のあったのは、後 にコロ ッセウムとなった円 形 闘 技 場 で行 なわれた催 いつか は負 けて死 に至 るまで、闘 い続 けるこ 8 と を 強 要 さ れ て い る 剣 闘 士 。 腰 か け て 、 つか の間 、休 む彼 の視 線 は逆 光 の中 の地 獄 を見 髪 結 いなどに 3 時 間はかけていた。たくさんの 衣 装 を持 ち、金 持 ちの婦 人 は絹 のランジェ―、 ているのであろう。 高 価 な素 材 でできたトゥニカ、ハイヒール、 ハ イヒール、ブラジャーと冬 用 の毛 皮 を欠 かさな かった。》 あ ら ゆ る悪 徳 が横 行し た ロ ーマ (帝 国ができて 10 年のうちにローマ社会 にお ける家 庭 は大 きく変 貌 をとげた。もはや、家 庭 は共 和 国 の基 盤 となる強 さと富 のとりでではな くなった 。贅 沢 三 昧 、堕 落 した 道 徳 、既 婚 婦 悪 徳 を 極め た ロー マ す べて の悪 徳 はロ ーマ 時 代 で完 結 し て い たといわれる。 つまり、歴 史 は繰 り返 しているにすぎない。 さて、愛 の相 手 を異 性 ときめつけたのはキリス ト 教 か も し れ ない 。 ギリ シャ そし てロ ーマ 時 代 はそうではなかった。 女 性 が驚 いて腕 を組 んでしまったこのレプ リカは半 陰 陽 の神 ヘルマプロディートスであり、 「お尻 の美 しい女 神 ・アプロディーテー」の 子 供 である。 人と若者の 自由の拡大 が家庭の絆 を弱 め、父 親 の権 威 をいち じるしく失 墜 させた。(中 略)セネカに よれば恋 人が 2 人だけしかいない妻をもつロ ーマ人 の夫 は幸 運 だという。既 婚 婦 人 は夫 が 朝 早 く家 を出 かけると、美 しさに磨 きをかける ために、沐 浴 ・ミルク風 呂 ・マッサージ・洗 髪 ・ ゼウスの娘である「愛の女 神アプロディーテ ー」は女 性だけに快 楽を与えるのではなく、男 性 をも愛の喜びの受益 者 、享 楽者 にすること を実 証 するために、愛人 ヘルメスとのあいだに 男 女 両 性を具 有する子 供を産んだ。 紀 元 前 が紀 元 に代 わる頃 、ローマ文 学 はそ の黄 金期を迎えた。 ウェルギリウスなどと共に「恋 愛 指南 」を書 いた オウィディウスが一翼を担 っていた。 9 《共 和 制 から帝 政 へと移 行 しつつあった当 時 のローマは 、打 ち続 いた戦 乱 、内 乱 がアウグ ストゥスの戦 功 によってようやく収 束 し 、「ロー マの平 和 」を楽 しむ人 びとの心 は安 逸 と奢 侈 を求 めるに急 であった。ローマ古 来 の質 実 剛 健 な気 風は廃 れた。 オウィディウスが称 えてやまない「都 雅 」こそ が、「金 色 燦 然 たる」ローマの人 士 にふさわし いものとされていた。 アウグストゥス帝 の娘 ユリア、さらには孫 娘 ユリ アの 不 行 跡 が 如 実 に示 し ているように、風 紀 また 大 いに 乱 れ、淫 風 がロ ーマを 覆 ってもい た。 これに危 機を感 じた皇帝 は前 18 年に厳 罰 を とも なう 姦 通 禁 止 令 を 発 布 し た が 、焼 け石 に 水 であった 。( 中 略 )解 放 奴 隷 の女 を 相 手 に享 楽を求 める男たち、アヴァンテュールを求 める人 妻 、それを狙 う若 い男 たちというふうに、 「愛 の戦 い」の場 としてのローマは沸 きかえっ ていた 。恋 愛 指 南 ・沓 掛 良 彦 訳 岩 波 文 庫 の 解 説 》これに異 性 ・両 性 の組 み合 わせがある わけで、いう なれば、現 代 のテレビである。わ が渡 辺 氏 はこれに似 た本 を書 いたが所 詮 「毛 細 血 管のうごき」である。 日 本 人がポンペイに憧れるのは、このような 「 愛 の 行 為」の絵画 が町 中 に存 在 すると誇 大 宣 伝 され ているから であろう。 「秘儀荘」 れ ば い い の に)赤 面 しなが ら買った私の 蔵 書 を 見 れ ば、 2 千 年 前 で完 成されたもの が 確 認 で き る。 《ローマの性 的 傾 向 やポンペイの壁 を埋 める エロティカを理 解するには、2 千 年に及ぶユダ ヤ・キリスト教 の教 えによる先 入 観 をある程 度 払 拭 する必 要があるかもしれない。 初 期 の遺 跡 発 掘 者 の多 くはエロ ティ カを 見 て、ポンペイの生 活 が性 的 に乱 れていた証 拠 だと考 えた。だが、社 会 の性 的 道 徳 観 は深 く 埋 もれている場 合 が多 く、奔 放 な性 体 験 を進 んで話 し た が る 人々の嘘 と気 取 りを 見逃がす ことができ ないのは 周 知 のと おりだ。》 なる言 葉 は (すっかり彼 方 に行った)DNA を刺激 する。本当 はポンペイ に行ってもなにもない。 博 物 館 に行 くか、(消 費 者 だから堂 々としてい 博物館に 佇んで考 えれば、旅 することの貴 重 さが分 かる。「人 生 は、無 といえる素 材 粘 土 が変 化 していく個 人 的 な物 語 」である。そして、短 い時 間 で、我 が 10 魂 や肉 体 は与 えられた環 境 で「選 択 し、行 動 するした」と思 うかもしれないが、結 局 、未 完 の っと、その日は仲間たちで笑い転げてい た で あ ろう 。し かし 、誰 が悪 い と思 うか ! まま土 に帰って行 く」に過 ぎない。 ローマを離れフィレンツェへ発つため にローマ・テルミニ駅に行ったが、やは り 、こ こ は危 険 がいっ ぱ い の場 で あっ た。 切 符 は 前日 に 駅に 来て 予 約 して い た。 尐し時間があったので、ベンチに旅行 鞄 を 置 いて 、 終着 駅を 撮 っ てい た 。 30 歳 くら い の男 性が 、 私 を指 さ して 、何 か言う。「写真に写るとまずいカップル かな」と考えた。「はいはい」と会釈し (つ づく ) フィレンツェ ていたが、指先をしきりに動かす。「変 だな―」と考えて、ハッと思った。あれ は、私に対する警告だ、と。慌てて、荷 物のあるベンチに帰ると中年の男が、私 の旅行鞄を動かし始めていた。私が勢い よ く 近 づい た ので 、彼 は 逃 げる よ うに (事 実 逃 げ たの だ が )去っ た 。後 2 分 遅け れば 、 ロ ー マ 駅員 の いい 加減 さ から 1 時 間 40 す べ て のも の が失 われ て い ただ ろ う。 分間に過ぎないフィレンツェへの旅が 3 警 告 者 に あ り が と う と 言 お う と し た が 、 時 間 50 分 間 もか かっ た 。 すでに彼の姿はなかった。置き引きやス し か し 、夏 の 太陽 はま だ 中 空に あ った 。 リの犯罪を未然に防ぐ警告は命がけの事 駅 よ り 徒歩 12 分 位の 所 な ので 、ト ラ ン である。後日、思いがけない手段で仲間 ク を 転 がし な がら 行く 。 に 復 讐 を受 け る恐 れが あ る から で ある 。 市街地中央のホテル料金は高騰してい 喫茶店に入り、危険なテルミネの生態を る が 、 この 4 つ 星ホ テ ル ・ヘ ル ヴェ ティ 監 視 し た。 挙 動不 審者 が 何 人も い た。 ア ・ ブ リス ト ルは 230 ユ ー ロく ら い。 発車時間が迫ったが、切符には何番線 部 屋 の テー ブ ルに はワ イ ン が 。し かし、 というか記入がない。駅職員に尋ねた。 彼は切符を見て、「この時間の汽車は出 ていない」という。慌ててしまう。が、 彼 が 指 さし て いる のは 到 着 時刻 で ある 。 彼は謝りながら「その列車はあの一番線 のだ」と断言する。なんか変だなと思い ながら乗ったその列車は各駅停車だった。 女性の車掌は特急一等の切符で鈍行の普 通席に乗っているドジな日本人を見て、 笑いを堪えるのに必死のようだった。き 11 独酌をしないので、 車で連れ廻して2日 ジ ョ ッ トの 鐘 楼は 1334 年 の建 築。鐘楼の 基部を飾っていた数々の彫刻のオリジナ 後に超貴腐させ、結 局棄てることになる。 ホテルを背にして尐し行くと正面にあ の 有 名 な景 色 が広 がる 。 「洗礼堂・ドゥオーモ・ジョットの塔」 の三点が集中する広場は多くの観光客で 大 変 な 混雑 を みせ てい る 。 ガイドブックによれば《洗礼堂はフィレ ンツェでも最も古い聖堂建築のひとつで 8 角形 を して い る。 ルはドゥオーモ付属美術館に収められて いる。 ドゥオーモは「花の聖母寺」とも呼ばれ る フ ィ レン ツ ェの 象 徴 。 その時、大衆の視線が一 点 に 注 がれ た 。 大聖堂の一番目立つ所に 「逢引・待ち合わせ」と明 らかな美女が立ったのだ。 歴代教皇の美女狂いを考え れ ば 許 そう … さてそれはともかく《この大ドームはロ ー マ の パン テ オン を参 考 に して 1296 年 か ら建設を始めた。 ブルネッレスキ の 直 径 42m の 円 蓋が架けられた の は 1436 年 。白 と緑とピンクの 色大理石で装飾 され量感と均衡 と優雅さに満ち た、限りなくイ タリア的なゴシ ッ ク 建 築 で あ る》。 (11 世 紀 後 半 か ら 12 世紀 前 半 ) 扉のレリーフは ギベルティが制 作したが、そこ にあるのはレプ リカであ フ ィ レン ツ ェで 見て い る もの シニューレ広場に腰をおろして時間を 過ごす人々と比べ、段違いの経費と時間 を投資して遠い東洋からやって来た日本 人は、フィレンツェで何を得ているだろ うか。 る。 12 このギターを弾き始めた音楽家も誰も聴 「さあ、次は皆さま憧れのウフィツ美術 いていないし、後ろの子供たちが金を入 館 で す よ 。皆 様 は特別 な 入 口か ら どう ぞ」 れてくれるわけがないことは明瞭なので、 と、一般人は長い時間並んでいるのに、 す ぐ に 店を 畳 んで しま っ た 。 団 体 特 別入 口 から 、ぞ ろ ぞ ろと 入 りこ む。 実 は ホ テル で 予約 がで き る のだ 。 このように、我々はフィレンツェに関 して圧倒的なコンプレックスを持ってい て、「生涯で一度はその地に立ち、ルネ サンスの世界に五感を預けたい」と疑わ ない。 しかし、視点を変えると、観光客が落と す金で生計を立てているにしては、町は フレンドリーではない。年始年末・日曜 日 そ し て午 後 5 時以 降 は 一切 の 店は 閉じ られる。「自分たちは観光客のために生 活 し て いる の では ない 」と 言 って い るが、 「 観 光 客で 飯 を食 って い る 」のは 事 実だ。 すべての「過去の遺産で生きている町」 は 大 体 が一 筋 縄で はな い 。 しかも、触れたように多くが「レプリ カ」である。ヴェッキオ宮の前に据えら こ の 町 のツ ア ーガ イド は 5 百 年 前の メデ ィチ家が民衆を搾取して作り上げた建物 を「あれがなに、これはなに」と指さし て 説 明 する こ とで 終わ る か らだ 。 日本人はすでに感動する準備ができてい るから、本に出て来た姿に感動する。傲 慢 と も いえ る 態度 すら 感 じ る。 イタリア全体が古跡で飯を食っている れたフィレンツェのシンボル「ミケラン ジ ェ ロ のダ ヴ ィデ 」も レ プ リカ で ある 。 「イルカを抱くキ ュ ー ピ ッド 」も「ピ サを倒すフィレン ツェ」もコピーで ある。 本物は コピーできないル ネサンス時代の建 物 群 で ある 。 と も い える 。 1440 年の 写 真が 示す よ う に旧 市 街姿 は今 と そ っ くり で ある 。 もう一つの目玉 であるウィフィッ ツ美術館も内部は暗い。ボッティチェッ リ の 作 品も 5 百 余年 の 歳 月で 修 復待 ちと い う 印 象で あ る。 6 百年 変 わら な いと言 う の は、『メ ディチ 家 の 急 速な 衰 退』 を意 味 す る。 13 描かれた メランコリ 向があったとされる。フィレンツェにお ける男色の蔓延ぶりは、ソドミ対策の法 ックな女性 は同じ顔を していて、 飽きること なくひとり の愛人を見 せつけたと 考える。 この「愛人」という言葉は、この時代、 「 同 性 愛」 が 隠さ れて い る とさ れ る。 令 の 頻 出 、1432 年 から 1502 年ま で 設置さ れた『夜間犯罪取締局』によっても裏付 けられる。この特別裁判所に告発された 男 色 者 は 1 万 人 を超え 、 う ち 2 千 人 以上 が有罪判決を受けている。当時のフィレ ン ツ ェ の人 口 が 7 万人 (?)前 後で あっ たこ とを考えれば、たいへんな高率。被告発 者には、下層庶民、美術家、僧侶から、 メディチなどの都市貴族の子弟まで社会 の全階層におよび、レオナルドそしてボ 森田義之はその本で《『ああ、何と多く の 男 色 者 が 市 民 の な か に い る こ と か !い や、むしろ彼らは一人のこらずこの悪徳 につかっている』ダンテの同時代人であ る ド メ ニ コ 会 の 説 教 師 リ ヴ ァ ル ト は 、 14 世紀前半、早くもこのような非難を発し ている。売春婦が多いことで知られたロ ーマやヴェネチアに対し、フィレンツェ は『ソドミアの都市』だった。その悪名 ッティチェッリも入っている。》ボッテ ィチェッリが女嫌いだったことは有名で あった。そんな彼の美的嗜好は、男性像 の 女 性 化と い う形 をと る 。 見出しの『ざくろの聖母』でも《尐年と も尐女ともつかない耽美的な天使。幼児 イエスさえ、ほんのり薄化粧しているか のよう。画面は、男性と女性の境、地上 と天上の境に浮遊するアンビギュアスな 美にみたされている。性差を越境するか のような表現は、ボッティチェッリに限 は全欧に鳴り響き、フランスでは男色の ことを『フィレンツェの悪徳』と呼んだ ほ ど 。 15 世 紀半 ば、 黄 金 のフ ィ レン ツェ は『新しきアテネ』の誉れを得たが、古 代文化とプラトンの思想の再発見はその 傾向を助長した。メディチ家の周辺につ どった人文主義者たち、フィチーノ、ピ コ、ポリツィアーノらはいずれも『ギリ シャ風の愛』の実践者。多くの絵画工房 の親方本はもとより、弟子や出入りの協 らない。ボッティチェッリの場合が、男 性を女性化する汎女性化とすれば、レオ ナルドはさしずめ中性化、ないし両性具 有化。これに対し、女性の男性化、すな 力者の多く―有名 どころに限っても、 ボッティチェッリ、 レ オ ナ ルド 、ペル ジ ーノらに同性愛傾 14 わち汎男性化を見せるのがミケランジェ ロ。》これらの作家がすべて、「ギリシ ャ風の愛」の実 践者であること を知っていなけ れば、ウフィッ ツ美術館の作品 と対峙したとき に理解できない めまいが起こる。 この「メランコ リック」と「覗 き見許可」が絵 画、彫刻そして 時 間 以 上留 ま る事 は困 難 で ある 。 出 て 来 た人 々 の表 情が そ れ を示 す 。 シ ニ ョ リー ア 広場 建物などを含め て フ ィ レン ツ ェ全 体特 徴 と 言わ れ る。 数年前までは「春」も「ヴィーナスの誕 生」もカメラ撮影可であったのに、デジ カ メ 普 及以 後 、突 然禁 止 さ れた 。 廊 下 の 「ラ オ コー ン」 も コ ピー で ある 。 つまり、我々は、なにを見せられている の で あ ろう か 。 祈りの場を観光客の金目当てにするため には、綺麗にしなくてはならない。歴史 と祈りのための煤で暗くなった作品を化 ウフィッツ美術館を出された観光客はこ の 広 場 に抛 り ださ れる わ け であ る 。 学 薬 品 で修 復 しよ うと す る 。 業界から依頼された修復士たちはシステ ィーナ礼拝堂のミケランジェロにしても、 ミラノのダビンチの「最後の晩餐」にし てもいうなれば「ぐちゃぐちゃ」にして しまったのかもしれない。煤を拭い去れ ばいいというものでもない。加えてイタ リアの作品にはコピーそして、描き加え も 多 い。高 校教 科書・NHK 番 組を 信 頼する 日本人がお人よし過ぎるのかもしれない。 こ の 光 景も あ まり にも 有 名 であ る 。 正面の三階建てのヴエッキオ宮の建設は 1299 年に 始 まっ た。 か っ ての フ ィレ ンツ ェ共和国政庁舎で、共和政時代にはここ で 市 民 会議 が 開か れて い た 。 広場は復讐劇での処刑場としても使用さ れた。復讐のために多くの人々がこの市 庁 舎 か ら窓 か ら吊 り下 げ ら れた 。 最も有名なものはサ ヴォナローラの火刑 ヴッキオ橋の美術品をはじめとする多く である。 のものも巨額な寄進をするマスコミにし イタリアの町には か 見 せ ない 。 あんなに憧れていた美術館であったのに、 こ う し た 広 場 が 至 る 所に見られる。ルネサンス時代から大衆 結 局 、全 体 を押 し 包む「 憂鬱 さ 」の 中に 2 15 側に立っていると偽装するのが、権力を 得たと錯覚しているものの常に取る作戦 一見自由に見えるけれど実は冷酷な町 と 言 え る。 である。多くの人々が集うところが造ら れ、そこでは公開処刑、馬上槍試合、中 世サツカー試合など「庶民の施政に対す る不満へのガス抜き」がしばしば行なわ れた。一部の富豪以外は陰鬱な生活であ ったのだ。我が国においても、花火以外 にも、公共の祭りと喧騒の祭りが残って いるようにルネサンスでは施政者には重 要 な 政 策で あ った 。 我々が生涯に一度、憧れのフィレンツ ェへ向かう時ロマン・ローランの次のよ うな描写は当然不快感に近い違和感を与 え た も のだ っ た。 しかしずる賢くて、決して表立たずに 自分の利益だけに邁進してきたメディチ 家 の 姿 を知 れ ば、ロマ ン・ロ ー ラン が「ミ ケランジェロの生涯」で記述した内容が 始 め て 理解 で きる 。 《―陰気な宮殿、槍のようにとがった 旅の途上では、私に微笑を生じさせれ ば、許す、という方針だ。もっとも、不 許 可 !と い う言 葉 に何 の 意 味も な いが 。 随分若い頃、私は この広場で大みそ かを迎えたことが ある 新年を迎えるカウ 塔 、く っ きり し た線の な だ らか な 丘並 が、 細い糸杉の黒い紡錘や波のようにさざめ く橄欖の銀色の被布でおおわれて、すみ れ 色 の 空に 美 しく きざ ま れ てい る 。 あのフィレンツェ――ロレンツォ・デ・ メディチの蒼白皮肉な顔や、大きくて狡 そうな口をしたマキアヴェッリが、金髪 のボッティチェルリの「春」や黄味がか ったヴィーナスたちとゆき会ったであろ う、鋭くて優美なフィレ ンツェ。あらゆる狂信に ントダウンが実施 されるシニョ―ル 広場は若者を中心 に身動きできないほどに人で溢れていた。 彼らはビール瓶を持ちラッパ飲みをして いた。そして、空になると一様に石畳に 叩 き つ けて い た。 しかし、決して横に向かって投げつけ ることはない。もし、ショーウィンドー を壊すようなことがあれば、フィレンツ とらわれたり、あらゆる 宗教的又は社会的興奮に ゆすぶられたり、各人が 自由であるとともに暴君 であったり、この上もなく楽しく生きら れると同時に生活が地獄であったりする、 あの熱にうかされた、驕慢ないらだつた フィレンツェ。――市民は聡くて、狭量 で 、の ぼせ や すく 、好 き 嫌 いが は げし く、 辛辣な言葉を吐き、疑い深い根性で、探 ェはきっと犯人を許さないであろう、と 確 信 し た。 つまり、徹底的に規制された喧騒とい える。ビール瓶を踏んで怪我するのはそ んなこととは知らない観光客だけである。 り合ったり、妬みあったり、貪り合った り す る あ の 都 (ま ち )。 ― ― レ オ ナ ル ド の 自由な精神には場所のなかった都.―― そこではボッティチェッリがスコットナ ンドの清教徒のような神秘主義に幻惑さ 16 れて死に、山羊のような横顔で燃えるよ うな眼つきのサヴォナローラが美術品を 投げ器 で打ち 焼く焚火の周りに弟子の僧どもを踊らせ ― ― そ して 3 年 後に は こ の予 言 者を 焼く た め に 又焚 火 が作 られ た 》 と。 フィレンツェの 魅力 フィレンツェが万 人に幸福を与える のはメディチ家の 倒した ミケラ ンジェ ロのダ ビデ像。 勿論、 コピー である。大勢の人びとがゆっくりと落日 を見る。 建物でも 6 百年前の絵画 で も な い。 「 朝 日 を浴 び た町 」と「 暮 れ な ず む町 」の景 色で あ る。 一番輝く生き生きとして いる瞬間が斜めに差してくる早朝の太陽 と傾き始めた時の太陽 に包まれた瞬間である。 この町でこのことに気 付いた。 しかし、団体さんはこ の時間、朝食と夕食の 定 食 の ため に 食堂 に居 る 。 暮れて行く町を見ながら、坂道を下って 行く。徐々に空は青くなっていく。ヨー ロッパは無駄なネオンサインが無いため で あ ろ うか 、陽が 落ち た 30 分 後 ごろ から 空 は 澄 み切 っ た群 青色 に な る。 さらに夜がふけるとシニョール広場のコ ジモ1世の像は頭上の雀の支配を劇退し 威 厳 を 取り 戻 す。 9 時、 夕 食。 フランスなどと比べ、スペインやイタリ アではディナーに窮屈さがない。好きな も の 好 きな だ けで よい 。 イタリアにきたのだから、ワインは赤の モンタルチィーノ、前菜は乾燥牛肉 Bresaola と たこ 。プ リ モ ・ピ ア ット は贅 沢に「トリフをたっぷりかけたパスタ」 と 「 ム ール 貝 のパ スタ 」 。 陽が落ちる前に、タクシーで丘の上の ミケランジェロ広場に登る。眼下にアム ール川をはさんでフィレンツェ旧市街地 が 広 が る。 橋に立つとアムール川の真紅に燃え立つ 色 と な る。 広場 には 巨人 セカンド・ピアットは「品よくアレンジ さ れ た 魚介 類 の ゴリ アテ を羊 飼い の石 17 ミ ッ ク スフ ラ イ」 。 彫 刻 が きち ん と載 って い る 。 メ イ ン は当 然 、フ ィレ ン ツ ェ風 T ボー ン・ ス テ ー キで あ る。 この文明をまとめることを思い付いてし まった。 アカディミーでダヴィデをみ、ヴェッキ オ橋で落日を待つ。私がみた落日で心に残 った風景は海が多かったが、フィレンツェ 夕暮れは川と石造りの建物との組み合わせ の 景 色 ある 。 これも二種類あって、右側は食べきれな い ほ ど 大き い 。 夜は「翌日早朝出発のための荷物整理の ためにある」のではない。生涯二度とな い組み合わせの色どりを見ると初めてフ ィ レ ン ツェ に 浸る こと が で きる 。 ルネサンス・メディチ家などほっときな さ い で ある 。 ヴ エ ッ キオ 橋 翌 日 は メデ ィ チ家 に飽 き て 、市場 に 行き、 そ し て 、音 楽 博物 館に い く 。 ガラスケースに入った大小様々なヴァイ ォリンなどが並んでいる。貴重で高価で あ る こ とは 素 人で もひ し ひ しと 感 じた 。 絵画の参考にしようと、カメラかを取り だす。 アルノー川かかるフィレンツェ最古の 橋である。渡らない観光客はないといえ る 。 宝 石店 が 軒を 連ね て い る。 しかし、裏か ら見ると、こ れがメディチ 家の緊急時の 秘密通路であ ることがわか すべて撮り終わったところで、「カメラ は だ め 」 、 と 指を 振ら れ る 。 こ の 辺 が、 イ タリ アの 大 ら かさ で あろ う。 エ ト ル リア 文 化と の対 面 る 。対 岸 の宮 殿 ま でこのなかを通って逃れることができる。 イタリアのアベック警官は皆自分たちの 世界に入り込んでいる。職務はどうなの すぐ近くなにげなく入った別の博物館で 「古代ローマの先人文化」を知ることにな る。浅学の私が初めて対面するエトルリア 文 明 で ある 。 その後調べると教科書に懐かしい壁画や か。 18 天 才 ・ 万能 人 の典 型で あ る 。 《だが、残念なことに、彼が得意とした 彫金細工や工芸は、ほとんど残っていな い。彼を今に名を残させているのは、波 乱 万 丈 の人 生 の『 自伝 』に おい て であ る。 最高の彫金家、彫刻家であったが、暗殺 者の返り討ちをはじめとする、いくども の紛争、投獄の憂き目など浮沈をくりか えした護身と保身の天才としての人生を 送 っ た 。》 彼だけでなくこのころのフィレンツェに は天才・ 中ほどに「マンネリ」と私をたじろかせ る店名があった。私にたいする編集会議 万能人が 多かった。 美人を盗 撮してい たら気づ いたらし く 近 寄 る気 配 があ って 、 怖 かっ た 。 昼 間 は市 場 に行 って 。ワイ ン を 直 送 して も らう 。 更に夜が深まるとアムール川 全 体 が 真紅 に 染ま る。 の 陰 の 声か と おも った が 、ま あ、師 も「聞 こ う し た天 才・万 能人 の 才 能 が 花 開 くに 開 くに 必要 な 背 景」 を 知 る には フ ィレ ンツ ェ の「 ル ネ サ ン スと メ ディ チ家 」抜き に は 語 れ ない と 言わ れて い る 。 こえてこない声はないのと同じ」いって いる。また、私の文を取り除けば、理事 会報告だけになってしまう。どの方面の 動 き も 潰れ て いく 組織 の 一 面か 。 ここにも、決して観光客には公開しない 絵画が埋蔵されている こ と が NHK で 分 か っ た 。 この橋の中央の一等 地にブロンズ像があっ て 、記 念写 真を 撮 る時 の ル ネ サ ンス と メデ ィチ 家 《 1301 年 の 秋、 ハレ ー 彗 星が イ タリ アの 空を横切った。繁栄にむかうフィレンツ ェを祝賀するかのように、ますます明る さをまし、暗夜に彩りをそえた。煌々と かがやくさまは、だれをも興奮させた。 画家ジョットは『マギの礼拝』に描く加 え た 。 (中 略 )こ の ジ ョ ッ ト こ そ 、 イ タ リ 障 害 物 とな る 。 この人物はチェォリー ニ と い い、ルネ サ ンス の フィレンツェに数多い 19 アの地に芸術の芳香をさせた恩人である。 めていた。そのなかでもメディチ家が急 フィレンツェのルネサンスはここから始 成長してくる。元来薬種業であったとい まる。また、フィレンツェがルネサンス の 主 役 にな り 得た 切っ 掛 け は 1375 年 に同 市政府が、学識ある政務官コルッチオ・ サルターティそしてブルーニを書記官主 に任命したことによる。両者は、ジョッ トとペトラルカそしてボカッチオとの文 化伝統を定着させ、古代人の精神を移植 させた。なによりも、「自由」という価 値をフィレンツェ市政の根底にすえ、若 い学者・芸術家に活動の場を提供した。 われるが、三代目には金融と羊の織物業 で 有 力 な勢 力 とな って い っ た。 15 世 紀 にな る と教皇・皇 帝と い うの は、 ただの看板になりさがり、ただひたすら 権力争奪をめぐって、血なまぐさい合従 と連衡が繰り返された。フィレンツェで 賢明な書記官長がはたらくあいだにも、 実権といえば、尐数の一族の熾烈な争闘 に ゆ だ ねら れ た。 富豪メディチ家の地位をめぐって、民衆 フィレンツェがルネサンスの先頭をきっ たのは、こうした「自由」の保証のおか げ で あ った 。 》 地中海を挟んだイスラム都市との交易で 新興していく港町ジェノバやヴェネチア と比して港をもたないフィレンツェは内 をまきこんだ暗闘がくりひろげられる。 メディチ家は、「祖国の父」と称揚され たコジモ・デ・メジィチの絶妙な手腕に よって、ほとんど独裁の権力を手にした か に み えた 。 た だ し 、ル ネ サン スに 深 入 りす れ ば「 他 人 の 言 葉 」の 羅 列と 陸との交易の拠点として、徐々に富を貯 なるのは必定。それ は ま さ に「 マ ンネ リ」 である。 コ ジ モ (左 )こ の 手 の 組 み 方 で 分 か る よ うに、利潤追求で生涯を貫いた。右の孫 ロレンツォの代でフィレンツェはルネサ ンスを掌握する。しかし、軟弱な息子し か残さなかったので急速に衰退していく。 《実権はコジモの弟の末裔にかろうじて 継 承 さ れる 。しか し 、18 世 紀 まで 続 くが、 結 局 フ ィレ ン ツェ のお 荷 物 とな る 。 20 しかし、急速な衰退こそが当時の姿を破 壊 か ら 守っ た 。 さて、フィレンツェに限らず「絵の世 界」は贋作の世界でもある。ルーベンス の巨大工房による大量制作は有名である が 、ラ ファ エ ロも 自ら の 工 房に 10 余 名の 弟子を抱えて、多くの部分を彼らに描か せていた。つまり、マネーゲーム・ババ 抜の世界で、偽物を最後に掴まされた者 が敗者である。その点先生もいない私な ど 可 愛 いも の だ。 ミ ケ ラ ンジ ェ ロ さて、浅学の部分をおさらいしていて、 ミ ケ ラ ンジ ェ ロに は驚 い た 。 フィレンツェのダビデ像に多くの仕掛け があることを知るまで、ミケランジェロ を 完 全 無 欠 な 天 才 と し か 認 識 (中 学 生 レ ベ ル で )し てい な かっ た 。29 歳の 時フ ィレ ンツェの依頼により完成させたこの「ダ (文 献名 は シリ ー ズ最 終 章 に。 つ づく ) ミ ケ ラ ンジ ェ ロ (はじめに) 今 年 は超 多 忙な年であった。ヨーロッパに 2 回 行 き、絵 を描 き、個 展 も開 いたし、医 業 も盛 会 で命がけの時 を過ごした。 それは 、「出 口 作 戦 つまり博 重 くん のまと め」 を計 画 したからだ。68、9 歳 にしてはよく頑 張 ったものだ。数 年 前 にまとめたものと合 算 して、 自 分が 50 歳からの行動 の一分 野の姿を記録 しようとした計 画 も、残 すところ尐 なくなってき た。 夏 の ド ラ イ ブ で奇 跡 に遭 遇 し た 。イ タ リアの 帰 国 便 に向 かう 高 速 道 路 でふと メ ータ ーを み る と 65430km! あ と 2km である。極 端 にスピードを落 と し 、 トラ ブ ル 車 を 装 おい 、 後 続 車 を 先 に 行 か ビィデ」は《豊かな 陰毛、強調されたペ ニス》によって、す べての人びとを唖然 と さ せ た。 シ ス テ ィー ナ 礼拝 堂 ヴ ァ テ ィカ ン 宮には 4 回も 行 った が、 毎度、黄金の宮殿の中をぞろぞろと他の 観光客の流れに 乗って歩くだけ で 、シ テ ィー ナ 礼 せ、カメラ撮影 のため、路 肩 に止 まった。 まー、1 万キロはおまけとして、頂 いた。 拝 堂 の「 天井 画 や 正 面 壁 画 」に 隠 さ れた作家の本質 に も 気 づく こ とは なか っ た 。 こ れ ら の大 作 は 5 百 年 の 間に 「 ろう そく 21 の煤、カビ、ほこり」で黒く汚れて、崩 壊 目 前 で観 光 客数 も低 迷 し てい た 。 た 。し かし 、修 復され た「 目の 前 の絵 画」 が「真の姿」であるという保証はない。 ヴァチカンは延命をはかった。つまり、 ミラノのレオナルド・ダ・ビンチの「最 後 の 晩 餐」 と 同様 に修 復 を 計画 し た。 しかもその費用を自分の金を使わない ですることを思い付き、世界中のマスコ ミに声をかける。したたかな窓口は米国 の放送会社など様々な企業に声を掛けた。 ミ ラ ノ の「 最 後の 晩餐 」 の修復後の姿が巨大な 「 漫 画 」に見 える よう に 、 システィーナ礼拝堂の 作 品 は 劇画 で ある 。 も は や 、ゲ ー テが ろう そくの光の中で感激し 我を忘れた「祈りの空間」ではない。化 学薬品によって修復された画を見ると、 システィーナ礼拝堂が青年の生殖器で溢 れ て い るこ と が明 らか に な った 。 一般的に、彫刻と比べて、絵画は画家 の複雑な人格がさまざまな企みが仕掛け られている。注文画であればなおさらの ことである。屈折した心理は復讐ともと れる描写を「実物を見ることができて、 なおかつ知識を持つ人にだけは解る『暗 号 』 」 とし て 巧妙 に描 き 込 んだ 。 ミ ケ ラ ンジ ェ ロに おい て は「 ヴァ チ ィカ ン宮殿・システィーナ礼拝堂の天井画で ある。 結局、キリスト教徒でもない日本テレビ が 契 約 に追 い 込ま れる 。1981 年 から 13 年 に及ぶ「システィーナ礼拝堂」の絵画修 復 事 業 に日 本 テレ ビは 24 億円 と いう 巨額 「 彼 の 隠さ れ た陰 質」が 多 く の批 判 の対 象 と さ れ続 け てき た。 1503 年 、法 王 ユリ ウス 2 世 はフ ィ レン ツ ェでの名声が高まっていたミケランジェ ロを自分の霊廟の建設のためにローマに 呼 び 寄 せた 。 法王の霊廟を依頼されることは当時の 彫刻家の最高の名誉であった。張りきっ た ミ ケ ラン ジ ェロは 8 ケ月 の 間、 大理 石 の 切 り 出し に 専念 した 。 な 支 払 いを す るこ とと な っ た。 見返りは「修復の作業撮影の独占と関係 者 し か 知 ら な い (す ぐ に 忘 れ ら れ る )名 誉 」 だ けだ っ た。 それらの絵画は「明るさ」を取り戻し 膨大な量の大理石がローマに運び込まれ た 直 後 、法王 の霊 廟計 画 は (ラ イバ ル 建築 家 ブ ラ マ ン テ な ど の 進 言 で )白 紙 撤 回 さ れた。 激怒した彼はフィレンツェに帰って行 22 った。この日から、ミケランジェロと法 王そしてライバルのブラマンテとの確執 いていたので、作業場から彼らを排除し 一 人 で 制作 し た。 が は じ まっ た 。 ユ リ ウ ス 2 世 の頭上 20m に 聖書 の 一大絵 巻が展開された。しかし、それはミケラ ンジェロの自身の生命を賭けた反抗でも あった。特に中央の「アダムとイヴ」の 画 が 典 型で あ る。 今でこそ「失楽園」といえば、我が先輩 渡辺淳一氏のものと信じられているが、 本 当 は 英国 の ミル トン の 名 著で あ る。 脱衣後の描写で、太古から渡辺氏まで多 1508 年、 法 王は シス テ ィ ーナ 礼 拝堂 の天 井画制作を命令する。この時、ミケラン ジ ェ ロは 33 歳で あっ た 。自分 は 画家 では くの人の生活費を叩きだした「失楽園」 の画面も、ヴェンツェル・ピータの画ま で は 穏 やか な もの であ っ た 。 過 ち を 犯し た 2人 を「 人 類 普 遍の 行為 !よ く あ る こと だ から 」と 天 使 は言 う 。 し か し、マ ッシ モ では 、生殖 器 が絵 の 真 ん中に描かれはじめた。後に隠すために 葉っぱが書き加え られた。 ミケランジェロ のそれはさらにエ なく、彫刻家であるとしていたミケラン ジェロに達成不能な天井画を描かせよう と し た の は 、 (ヴ ァ ザ ー リ に よ る と )「 失 敗させようとしたライバルの陰謀」とさ れ て い る。 教皇とブラマンテは漆喰や顔料を準備す る作業を手伝わせ るためにローマ人 の助手をたくさん 送りこんできた。 スカレートさせた 過激なものとなっ た。 そもそも、教会に ある画の目的は文 盲の庶民に「原罪 と楽園追放」とい った物語を教育す る こ と であ っ た。 当然、私も「禁断の果実」の画が含んで ミケランジェロは、 自分の作品を監視 させるために彼ら い る 毒 につ い て全 く知 ら な かっ た 。 その毒とは《禁断の果実と言うとリン ゴであるがこの絵ではイチジクになって いる》なんていうのは可愛いものであっ た。最強の毒は《純粋無垢なはずであっ が送りこまれたこ とにしっかり気づ 23 た2人をよく見ると、 イヴの目の前にアダム 蛇の上半身は女性である男が女に迷うと は な ん たる 堕 落だ と。 》 のペニスがあることで ある。もしイヴがアダ ムの方にほんのわずか でも顔を戻せば、この 上ない猥褻画である。 先輩渡辺氏が見たら 「この膨張し上方を指 す器官から考えて、わ たしたち性愛作家が得 意とするが愛欲状態に つまり、女嫌いのミケランジェロのセ クハラを徹底し、キリスト教の総本山に ユ ダ ヤ 教の 思 想を 取り 入 れ たの で ある 。 教会がこの点に気がつかないはずもなく、 19 世 紀後 半 に至 るま で こ の作 品 の複 製は 禁 じ ら れて い た。 R. ア レ テ ィ ー ノ は 「キリスト者でさえ あれば、だれでも、 この絵は見物 (みも あった時、誰かが入っ て来たので、アダムが 立ち上がった瞬間」と い う か もし れ ない 。 しかも、イヴはその 顔 と (と っ て つ け た )乳 房を除けば筋骨逞しい 青 年 で ある 。 これはすべての人々が 見破ったように「セックス・ペイント」 である。 の)だと思うでしよ う。殉教者や童貞聖 女では礼儀が守られ ていませんし、生殖 器を見せて恍惚とし ている身振りには、淫売宿の男でさえ見 まいとして目を閉じるでしょう。そして R.ド ル チ ェ は 「 そ れ ら の 人 物 像 の 示 し て いる破廉恥振りが子どもや婦人や娘の目 に公然と見えるのは、あまりほめたこと で は な いよ う に私 には 思 わ れる 。そ れに、 この図式はミケランジェロが十代から 得 意 と する も ので あっ た 。 無名の尐年ミケランジェロを一躍有名に し た 「 バッ カ ス」 がそ の 原 点で あ る。 それらが隠している寓意の深い意味がわ かるのは学識のある者だけである」と繰 り 返 し 非難 さ れて いる 。 多くの青年像が描かれているが意図的 にペニスを描いている。青年の傍らの果 ア ダ ム と イ ヴ は そ の 男 女 (男 )版 で あ る 。 物 も 明 ら か に ペ ニ ス の て ん こ 盛 り で あ る 。 《まぎれもなく裸の男に対するミケラ ンジェロの嗜好を表している》と言われ 制作依頼者ユリ る。 ウス 2 世が見上げ そ れ 以 外で も《天 使の 左 手 (ミ ケラ ン ジ る天井画にはこれ ェ ロ は 左 利 き )で 追 放 さ れ る 2 人 に 鋭 く 剣を突き付けている。また、追放される 2人がこれほど醜く描かれている例はな い。 とくにイヴは醜い老婆にされているし、 以外にも発見され れ ば「 処 刑必 至 」の 猥褻画として有名 な も の があ る 。 ユリウス 2 世がモ 24 はもう仕事をしない。生きてもいない」 と書いている。《世間の物事にも自分自 身にも、あらゆるものに対する嫌悪は彼 を 、 1527 年 にフ ィレ ン ツ ェに 勃 発し た革 命 に 投 げ込 ん だ》しか し 、革命 は 失敗 し、 彼の生来の恐怖心は、彼をフィレンツェ から遁走させる。仲間の「帰れば恩赦」 という言葉を信じて市に戻って来た。 フィレンツェは征服される。仲間が次々 に処刑されていった。恐怖にかられたミ ケランジェロは地下室に隠れる。今度は 敵 側 の 恩赦 を 信じ て、 姿 を 表す 。 1531 年 デルとされている人物の後ろの尐年の指 がそれで、「人差し指と中指に親指を差 し 込 ん だ 形 」 は 「 女 (め )形 」 と か 「 イ チ 彼は精神的発作状態にあって病んで倒れ る。衰弱のためやせ衰え友達は長くない と 話 し てい た 》 ミケランジェロの才能を愛していた教 皇 ク レ メン ス 7 世は 1534 年、ミケ ラン ジ 「 ア ダ ムに 生 命を 与え る 画」につ い て、 ェ ロ を ロ ー マ に 呼 び 出 し 、 シ ス テ ィ ー ナ 礼拝堂に「最後の審判」を描くことを命 完 成 直 後か ら 5 百年 間 、 「神 を 取り 巻く 巨大な紫のケープやすし詰めの天使たち、 じた。しかし、この契約が交わされて間 もなく死去する。引き継いだのが教皇パ そして、たなびくもの」がなにを意味し ウ ル ス 3 世 で あっ た。7 年 をか け て、わず て い る かに つ いて 謎と さ れ てい た 。 かな助手だけでひたすら自分一人で絵を ジク」と言われ、古来より現在に至るま で「猥褻」とされているものである。下 の巫女の後でも問題であるのに、法王を 指 さ し てい る のだ 。 描いた。 20 世 紀に な り、 ある 医 師 が「 こ れは 脳 で あ る 」と 看 破し たこ と で 謎が 解 けた 。 「失楽園」中央の正義の天使も心臓の形 を し て いる 。 当時、死体解剖は法度で、厳しく禁止 されていた。レオナルド・ダ・ビンチも 人体解剖の罪で告発されている。ミケラ ンジェロは「俺はしているぞ」と高言す る メ ッ セー ジ を残 した の だ 。 最 後 の審 判 1515 年か ら 1520 年ま で ミ ケラ ン ジェ ロの 才能は死んだ。《幻滅の苦がさ、失われ た日々の絶望、消え失せた希望、打ち砕 かれた意志、これらはその後につづく時 期の沈鬱な作品に反映している。》「私 25 今や、世界を代表 する芸術家、富豪、 恋に生きる男であり ながら、怒れる反逆 児となったミケラン ジェロは、この作品 で今までのしきたり をことごとく打ちく だいた。《あふれんばかりの色彩と画像 を使って目くらましに成功している。な ん と 悪 賢い 男 だろ う。 》 へつらわなくてもよい年齢になって描 いた「最後の審判」はミケランジェロの 性 癖 が スト レ ート に描 出 さ れた 。 その一番はやはり (ペ ニ ス の オ ン パ レ ー ド )で あ る 。 上 の 天 使 (ミ ケ ラ ン ジ ェ ロの天使には羽根 が 無 い )が ま と わ り つくのは祝賀のた めの大砲よりもペ ン サ ー にな っ た今 回は 18 世紀 以 降に 加筆 された腰布の洗い流し作業が行なわれ、 40 体 の うち 、16 体の 腰 布 が取 り 払わ れた という。 次は「同性愛」で、《男性性器に執着し ただけでなく、彼が描く男性は筋肉隆々 である。有名なキリストもヘラクレスと 錯覚させる筋肉質である。顔はアレクキ ン ダ ー 大 王 (や は り 同 性 愛 で 知 ら れ る )で 、 随所に見られる「捻った上半身」は「ラ オコーン」や「トルソー」からともされ ている。 ニスそのものに見 え る の は私 が 医師 だか ら か ? ミケランジェロの魔力が衰え始めた 1564 年に 開 催さ れた ト レ ント 宗 教会 議は 「教皇礼拝堂のいかがわしい絵を覆うこ と」という布告を出した。ミケランジェ ロが死去したのは翌月であった。これに 基 づ き 1565 年 ダニエ レ・ダ・ヴォ ル テッ ラは「最後の審判」の裸体像に腰布を描 く。彼は優れた画家であったにもかかわ そして、女性に対しては、システィーナ 礼 拝 堂 のす べ ての 女性 像 で「 小さ な 乳房、 筋 肉 質 の上 肢 、上 半身 」に 描か れ てい る。 そして、醜く描かれていて、愛らしい女 性はいない。彼は、女性を描く時も筋肉 質の美尐年をモデルにした。ミケランジ ェロが尐年時代から持ち続けた男性に対 らず、この命令に従ったために「腰布画 家 」 と いわ れ た。 さ ら に 1762 年 にも腰 布 は 追加 さ れた 。 ペニスを隠す処置は完成直後から数回に 渡り行なわれている。日本テレビがスポ する「純粋な愛情」は「女性を描くのが 苦手、青年像描写では他の追従を許さな い 」 存 在に さ せた 。 右上の天国で「美しい青年2人が裸で 情 熱 的 に抱 き 合い 、キ ス を 交わ し てい る。 26 金髪の尐年たちがキスを交わしている。 若者が老人の目をじっと見つめながら、 撃であった。だが、一方で、そこには、 感興も統一も魅力も全く不在である》と 尊敬の念をこめてひげにキスをしてい る」 「 非 難 の嵐 」 元儀典長であったビアージョ・ダ・チ ェゼーナは《彼は早くからミケランジェ ロのたくらみに気付き、聖なる礼拝堂を 「異教的なわいせつ性と異端性のどんち ゃん騒ぎ」でいっぱいにしていると、完 成前からミケランジェロを公然と批判し 続けていた。その復讐としてミケランジ 記 し て いる 。 ミ ケ ラ ンジ ェ ロの 生い 立 ち 1475 年、 ミ ケラ ンジ ェ ロ はカ セ ンテ ィ ー ノ 地 方の ナ カプ レー ゼ で 生ま れ た。 「ミ ケランジェロの生涯」でロマン・ローラ ンは《父は市長で、烈しい気性で、落ち つ か な い、 「 神を 怖れ る 」 人間 だ った 。 ル ネ サ ンス 文 化は 絶頂 期 に あっ た。母を 6 歳の時に失い、ある石工の妻のもとへ里 子にだされる。学校へやられたが、絵ば ェロは彼を地獄の番人ミノスの顔として 描き、かつ、彼のペニスを蛇に咬ませて いる。 ミケランジェロの画を卑猥とみたのは彼 だけではなかった。「最後の審判」の前 でスキャンダルを叫ぶ者はおおかった。 アレティーノは「娼家をさえ赤面させる もの」を描いたことを責め「なんとなれ ば他人の信仰をかくも傷つけることは自 分が信仰しないことよりも罪は重い」と 宗 教 裁 判に 彼 を告 発し た 。 か り 描 いて い た。 13 歳 で フ ィレ ンツ ェ画 家の工房に子弟入門する。めきめきと頭 角 を 表 した が、絵 画を 嫌 い、ロ レ ン ツ ォ ・ デ・メディチが開いていた彫刻学校に入 った。 尐年時代からその天才は知られていて、 豪華王ロレンツォは彼に興味を持ち、自 分の館に住まわせて、息 子たちの卓で食事をとも にさせた。尐年はイタリ ア・ルネサンスの中心に G.チ ー ニ に よ る と 『 審 判 』 の い く つ か の人物におおいをつけることになった時 …エルグレコは次のようなことを申し出 た。『もしも、この作品をことごとく地 になげすててしまったなら、私が正直さ と気品とをもって決してこれに务らぬ見 事 な 絵 を描 く であ ろう 』 と 。 R.フ レ ア ー ル は 《 わ れ わ れ の も っ と も 重 要な信仰箇条は…あの絵画の大ぼら吹き ミケランジェロによって形象化された、 身を置き、古代蒐集品に とり巻かれ、著名なプラ トン学者たちの詩的で博 学な雰囲気に浸り、彼ら の精神に酔った。古代の 世界に生きて自らも古代の魂となった。 彼はギリシャ彫刻家となった。「彼を非 常に愛していた」ポリティーノに指導さ れて「ケンタウルとラビタイ人の闘い」 を 彫 刻 した 》 と い う より は むし ろ、よ り 正 しく 言 えば、 歪 曲 化 され た ので ある … 」 とい い 、 最後にドラクロの言葉は「私がそこに認 めるのは、細部の表現の見事さであり、 それは、まさに一撃をくらったような衝 彼の表現は「彼の同性愛はポリティー ノによって育まれた」である。ロレンツ ォ自身も同性愛者であったから、このサ ー ク ル はそ う した 館と い え た。 この時のフィレンツェは恐怖が支配し 27 ていた。サ ヴォナロー 下 図 は 1490 年 の フ ィ レ ンツ ェ 。 ラによる混 乱の極に立 っていたフ ィレンツェ に 生 き た。 《おののき、人びとは気狂いのように泣 いたりわめいたりして街を走りまわって いた。ミケランジェロもこの恐怖の感染 から逃れられなかった。彼はヴェネチア に逃げる。彼の生涯の弱点は「恐怖の発 ミケランジェロ は 20 台 は じめ に「 ヴ ァティカンのピエ タ 」を 製作 し 、最 高 の彫刻家と言われ る よ う にな っ た。 作」と言われる。彼は自分でこれを恥じ ていながら、いつも貟けてしまうのであ った》 その頃のフィレ ンツェ 若桑みどり氏 はその頃のフィ レンツェについ て《ル ネ サン ス の 人びとの生を観 る と き、そこ に 鳴 せて、ゆっくりと確実に崩れていく時代 に ミ ケ ラン ジ ェロ は 生 き た 。 中世末期の世俗的文化のなかで一時のは かない悦楽に溺れる人びとの頭上にサヴ ォ ナ ロ ーラ の 説教 が鳴 り 響 いた 。 彼はレオナルド・ダビンチと違って、美 衣 を ま とわ ず 、快 楽を 追 わ ず、妻 帯せ ず、 ほとんど眠らず、きわめて尐ししか食べ な か っ た》 と され る。 り響く基調音は ごく卖純でしか ない。人びとは滅多に肉を食べず、信じ られないほどの簡素な食事に甘んじ、暖 房のない冷たい部屋に住み、朝夕はその 町々の大聖堂の打つ鐘によって知らされ、 今日は昨日と同じで、その卖調さは永遠 を想わせるに充分だった。教会の祭礼と ミサとが人びとの生活の暦となり、領主 の婚礼や葬式の行列のほか、華々しい出 《メディチ家出身のクレメンス七世を迎 えた教皇宮殿は華やかなにぎわいを見せ ていたが、その中でも、美しい若者に目 が無いミケランジェロの心を即座に奪っ た姿があった。上流階級の話題の的にな っていた、古くからのローマ貴族の血を 引 く そ の青 年 の名 は、ト ンマ ー ゾ・デ ィ ・ カヴリエーリといった。鍛えあげられた 肉 体 を 持ち 、 容姿 端麗 な ト ンマ ー ゾ は 23 歳 で あ った 。 来事はほとんどおこらなかった。医学は 貧しく、人びとはよく死んだ。葬礼の鐘 の音は、永遠のなかに音を刻んでゆき、 人びとは人の命のはかなさにたえず耳を 澄 ま せ るこ と がで きた 》 と 述べ て いる 。 孤 独 な 魂を 抱 える 57 歳 の ミケ ラ ンジ ェロ は、卖なる一目惚れを超えた、天の雷に 撃 た れ たよ う な衝 撃で あ っ た。 ミケランジェロは愛する青年に恋文やロ マンチックな詩文をしたため、スケッチ 《はかない仲介貿易の基盤の上に咲いた フィレンツェの文化、永く続いた中世的 制度が次第に興る近代化の地鳴りに合わ ミ ケ ラ ンジ ェ ロの 恋 28 や 素 描 を贈 る 。 この二人が交わした想いに肉体的な関係 囚は、ほかならぬミケ ランジェロ自身の姿だ が あ っ たか に つい ては 、意 見 が分 か れる。 失いかけていたインスピレーションを取 り戻した。ミケランジェロはこのときに なってはじめて、若き日にフィチーノか ら受けた教えを心から理解した。新プラ トン主義では、それがたまたま同性であ ったとしても、他者に向ける見返りを求 めない心からの愛は神の領域に近づく歩 み に な ると 教 えて いた 。 フィレンツェへ取って返したミケラン そうだ。教皇の権力に も屈しなかった偉大な 芸術家はついに、愛の 力の前にひざまずいた の だ 》 とさ れ てい る。 す こ し 前の 1492 年に 法王となったアレクサ ン ド 6 世は 以 前に取 り あげたように「近親相 姦を含めたあらゆる愛 ジ ェ ロ は「 勝 利」 を造 る 。 ロマン・ローランは《フィレンツェの国 立美術館にはミケランジェロが自らの墓 の飾りにしようと死ぬまでフィレンツェ のアトリエに残していた「勝利者」とい う大理石像がある。立派な身体の裸体の 若者がまっすぐに立って膝でひげの生え た俘虜の背中をふんまえている。粉砕し ようとする寸前に彼はやめる。悲しげな 口元をゆがめ迷うまなざしをそらせる。 彼は尻ごみしている。もう勝利を望んで 情」を邁進したことで 有名であるし、《この 時代は娼婦の全盛期ともいえた。ルネサ ンスの町の全人口の一割が娼婦として生 活していた。サケッティやボカッチチオ がきわどい猥談のなかで描く、愛欲の乱 れ や 逸 脱が ゆ きわ た っ て い た 》と は いえ、 同性愛は人びとの「格好の噂の種」であ った。 し か し《こ の 時代 の天 才 た ちダ・ビン チ、 ミケランジェロそしてラファエロさえも いない。それは彼を不愉快にする。彼は 勝 っ た 。彼 は 貟け たの で あ る》 《彼は力を持っていた。闘って勝つよう にできている稀な幸運を持っていた。そ し て 彼 は勝 っ た。―だ が そ れが 何 だ ?彼は 勝利を望んでいなかった。―悲愴な天才 力とそうでなかった意志力との間の、や むにやまれぬ熱情とあえて求めなかった 意 志 と のあ い だの 切実 な 矛 盾 !》 ローランはこの青年がミケランジェロ 同 性 愛 に取 り 囲ま れて い た 》 ロマン・ローランは天才たちへは愛情と 崇拝をもっていたので《カヴァリエリに 対するミケランジェロの愛は、世間の人 びと―善意の者も悪意の者も―をびっく りさせる好適の種であったが、ルネサン ス末期のイタリアでは、忌まわしい評判 を 招 く 危険 が あっ た》 と 表 現し て いる 。 《 時 代 に翻 弄 され た生 涯 》 ミ ケ ラ ンジ ェ ロの 84 年 間 の一 生 は美 意識 自 身 で あり 、全 生涯の 象 徴 であ る と見 る。 しかし、現在の大方の意見は《整った顔 立ちの青年は若きトンマーゾ・ディ・カ ヴリエーリであり、美貌だけを身にまと っている。そして、その下の年老いた虜 を生涯貫いたレオナルド・ダ・ビンチの ような卖純なものではなく、時代とフィ レ ン ツ ェ翻 弄 され た。(も っ とも 、時 代に 翻 弄 さ れな い 人生 など な い であ ろ うが ) 《ミケランジェロの一生は技術によって 29 神に仕える中世の石工のような卖純さを もっているかのようだ。神に捧げられた 正 反 対 の人 生 であ った と さ れる 。 ま た 、ミ ケ ラン ジ ェロ が「孤 独 感と 貧 乏」 とも言える》と。 ロ ー ラ ンは《ベ ー トーベン風の田 舎 者 で はな く、イ タリアの貴族で、 高い教養もあり 優れた血統でも あ っ た。大 ロレ ン ツ ォ・デ・メデ ィ チのもとで過ご に 常 に 脅か さ れて いた と さ れる 。 《このようにして彼は独りで、これらの 貧しい友達―助手や変わり者―。それか らもっと貧しい友達―鶏や猫の家畜たち と 暮 ら して い た 。本当 は 彼 は独 り だっ た。 ますます独りになっていった。「私はい つ も 独 りで 、 だれ とも 話 さ ない 」 と 1548 年 に 甥 に書 い てい る》 。 ローランは《宮殿も寺院も自分一人で建 てようとした。まるで強盛労働の囚人の した尐年時代以来、イタリアがもっとも 高尚としていた人びとと交わりを続けて いた。彼は望めば容易に宮廷人にもなれ た。社交界が彼から逃げたのではなく、 彼の方が遠ざかっていたので、自分から の望めば輝かしい生活をおくれたのであ った。イタリアにとって彼は天才の権化 であった。晩年には、大いなるルネサン スの最後の生き残りとして、それの化身 となり、一世紀の栄光が彼ひとりに属し ていた。 生活であった。食う暇も寝る暇もとろう としなかった。何時も彼の手紙には次の よ う な 嘆き の きま り文 句 が でて く る。 「ほ とんど食事をする時間がない。…食事を す る 暇 がな い … 12 年 こ の 方、 私 は疲 労で 身体をこわしているし、衣食に事欠いて いる…私は一文なしの裸身だ。百千の苦 しみに悩んでいる…私は貧しさと苦しみ の中で生活している…私は貧困と闘って いる」》 《この貧乏は空想であった。ミケランジ 彼を超人として仰いでいたのは芸術家ば かりではなかった。王侯をはじめとする すべてのものが彼に敬意を示した。彼の 老年はゲェーテやユーゴーのそれのよう に栄光に包まれていた。けれども彼はこ となった質の人間だった。世間や社会組 織に対して、―彼は自由人であったが― ゲェーテのように人望を求めもせず、ユ ーゴーのように市民を尊重もしなかっ た》 ェロは富んでいた。彼は富を作った。非 常な富を作ったしかし、富んでみたとと て彼には何の役にも立たなかった。挽臼 に繋がれた馬みたいに仕事に縛りつけら れて、まるで貧乏人のように彼は生活し ていた》 《 自 分 をも っ と 人 間 ら しく 扱 う こ と に 決し て 承 知しなかった。食べるものと言えばわず 《光栄を軽蔑し、世間を軽蔑した人生 であった》し《決断力がなく意志力に乏 しく、始終自分の家柄や金のことにくよ くよしている老人だった。》とも述べて いる。まさにレオナルド・ダ・ビンチと かのパンと葡萄酒だけ、寝るのはわずか 数 時 間 だっ た 。 厭 世 思想 (ペ シ ミズ ム )が彼 の 遺伝 的 な病 気 だ った 。 》 こうした背景を信じてこそミケランジ ェ ロ の 作品 が 理解 でき る と され る 。 30 彼の彫刻はギリシャそしてローマの彫刻 を 別 に すれ ば 、他 の追 従 を 許さ な い。 「 い つ まで も 生き 続け る 、 と思 う な」 「 名 が 知れ た 、と 驕る な 。数年 も すれ ば、 すべての作品に共通するメランコリーは 彼の人生そのものであることも理解され る。 現代人が想像もしなかったミケランジェ ロの姿を曝け出した結果となった「ミケ ランジェロの生涯」についてロマン・ロ ランは《この悲劇的な物語を終えるに際 し、ある慎みから私に気になることがあ る。悩める人たちに、彼らのを支える悩 みの友達を与えようと念じながら、かえ 君 の こ とな ど 忘れ てし ま う よ」 実際、私の診療所から数十メートル先は 市川市であるが、そこの医師会について ま っ た く知 ら ない 。 「 公 益 のた め だけ に自 分 の 能力 を 使え 」 さて、気付いてみれば老人の部類に入 っ て い た私 は 心に 決め た 。 「 公 益 にな る と信 じた こ と 」と「 楽し い、 愉 快 な こと 」を し て後 10 年間 を 送ろ うと ! あ と 3 万 字 をつ くり 、 旧 作を 整 理し 改良 って彼らの悩みに更に悩みを加えはしな かったろうか。他の多くの著述者のよう に私もまた、英雄たちの英雄的行為だけ を伝えて、彼らの中にある悲しみの深淵 にはおおいをかけておいた方がよかった の で は ない か ? ― い や 、そう では ない !真実 を こそ 語 るべ き な の だ !( 中 略 ) 偉 大 な 魂 は 高 い 山 両 嶺 のようである。風が吹き荒れ雲が包んで しまう。けれどもそこでは他のどこより も充分にまた呼吸できる。空気は清く心 して合本にしてインターネットも含めた 出版をする。送りつけられるのを嫌がる 人 々 は ご用 心 を ! (文 献は 合 本時 に 纏め て ) の汚れを洗い落とす。そして雲が晴れる と、そこから人類を麩が移動祝祭日俯瞰 できる。これが、ルネッサンスのイタリ アにそびえたち、その苦しんだ横顔が空 の 中 に 溶け て いる のが 、遠 く から 見 える、 あの巨大な山岳であった》と締めくくっ ている。 (ミ ケ ラ ン ジ ェ ロ の 生 涯 ロ マ ン ロ ー ラ ン 高 田 博 厚し 訳 岩波 文庫 ) フィレンツェで 「エトルリア博物 館 」に 入 った 時「 こ れ は な に か ?」 と 思 っ た 。と 同時 に 、そ の幸せそうな婦人 像 に 何 か懐 か しい 感情 に と らわ れ た。 エ ト ルリ ア 文化 とは な に か ? 69 歳 にも な ると 言う の に 、い か に自 分が 浅学無知であることを気付かせてくれた。 イタリア縦走 エトルリア文化 を訪ねて 帰ってきて、エトルリア文化について調 べると、驚くほど「見馴れた画像」が実 は 存 在 して い たこ とに 気 付 いた 。 エトルリアは「トスカーナ地方に紀元 前 9 世紀 以 降、 繁栄 し 、 ロー マ 帝政 期に (お わ り に ) 出 口 計 画の 過 程で 得た も の は、はる か昔 2 千年前にローマ皇帝マルクス・アウレリ ウ ス が 述べ た 言葉 の普 遍 性 であ る 。 31 衰 退 し た 先 住 ということで、フィレンツェを朝早く 出 て 、 国道 A -1 を单 下 す る。 民 族 」と あった。 そ の 目 で み れ ば 、 あ らゆ る 歴史 書に 載 っ てい る 。 エトルリア文化を見聞するためなら、ロ ー マ 近 郊の タ ルク ィニ ア ( 紀元 前 8~4 世 紀 に か けて 繁 栄)とチ ェ ル ヴェ テ リの「ネ ク ロ ポ リ ス (死 者 の 町 )」 を 訪 れ る こ と が コ ル ト ーニ ャ 暫くすると、ペトラルカやヴァザーリ を生んだ町アレッツォが左に見える。し かし、今日の行程はきつく、大きすぎる この町も断念。そもそも、アレッツオは ルネサンス以降の姿でありエトルリア文 化 と い うよ り ルネ サン ス の 姿で あ る。 やがて、小高い丘にコルトーナの町が 見 え て 来る (も っ とも 、案 内 なし なの でそ 薦められている。国立タルクィニア博物 館ではエトルリア文明の全貌を知ること ができると、されている。しかし、その た め に は 3 日 間 の 旅 が 必 要 で あ る 。当 う信じただけ の こ と だ が )。 抗争の時代で は最良の防衛 拠 点 だ ろう 。 然 、断 念した。その代わり、フィレンツェから 「今なお、中世がそのまま残るエルトニ ア の 町 アレ ッ ツオ・コ ル ト ーナ・シ エ ナ ・ ヴォルティラ・サン・ジミジャーノ」を 訪 ね る こと に した 。 止されている。私に決してハンドルを渡 さない連れが「ぼくここで待っているか ら」という。彼がそう言う時は紫煙禁断 症状の出現とわかっている。興味のない 古代の街並と数本のたばこを比較すれば、 こうしたバレバレな下手の申し込みは一 時 の 恥 に過 ぎ ない 、で あ ろ う。 《町の歴史は紀元前6世紀のエトルリア 人 の 都 市に ま で遡 るこ と が でき る 》。 坂道をあ 坂道を登り切 ると突然、車 道がなくなる。 町の入口より、車の乗り込みと駐車が禁 が る 。両 側 に土産物 屋が軒を 連ねてい る 。町の 中 32 心 の シ ニ ョ レ ッ リ 「浮き彫りの墓」の壁面には漆喰で日用 品 を 浮 き彫 り に描 かれ て い る 広 場 は 人々 で 溢れ かえ っ て いた 。 この町のお目当ては広場に面する「エト ル リ ア ・ア カ デミ ー博 物 館 」で あ る。 中に入ると、昔のコルトーナとエトルリ ア 文 化 で有 名 な古 墳の 図 が 見ら れ る。 この文化は「土葬から火葬への転換」と 「死後に おいても 生活の継 続 が あ る」と信 じたこと で有名で ある。こ トスカーナ地方は鉱物資源に恵まれてい て、紀元前 8 世 紀 、青 銅器 時 代から鉄器時 代 を 迎 え、飛 躍 的な経済的発 のために その死者の生前の生活用品が副葬されて いた。 展を遂げてい く。 また、肥沃な土地に農業も繁栄したこと が 、 推 定さ れ る。 死者の身分を示すものも多い。兜、刀剣 は戦士、フィレンツェで見た「骰子」な ど は ギ ャン ブ ラー の存 在 か 。 12 の 都市 を 中心 にギ リ シ ャに 貟 けな い高 度 な 文 化が 行 き渡 った 。 こ こ に は紀 元前 7~1 世 紀に わ たる 墓があ る。 この博物館の目玉はでも紀元前5世紀の ブ ロ ン ズの 大 燭台 Lampadario で、周囲を 飾 る の はサ テ ュロ スと セ イ レン の 彫刻 。 円錐形の屋根を乗せたトゥムーロと呼ば れる墳墓は、エトルリア人の住居を再現 し た も のと い われ る。 33 い て 、人口 は 10 万人 を 超 えて い たと され る。 し か し 、《 15 世 紀の 終 わ りの フ ラン スの 外交官フィリップ・ド・コミーヌはシエ ナの歴史を概観して「この都市はいつも 分裂しており、他のイタリアのどの都市 にもまして愚かな統治が行われていた」 と 述 べ た》 。 じつは、隈なく撮影したあと、係員に声 を掛けられた。「撮影禁止なんですよ」 つ い に 、 1555 年 メデ ィ チ 家末 裔 のコ ジモ 1 世に よ る総 攻 撃より 、陥落 し た。《フィ と 。帰 り言 う のも 洒落 て い る。こ のた め、 いろいろな店内コーナーでショッピング を し た 。彼 ら も大 変喜 ん で くれ た 。 短時間の喫煙時間を運転手君にサービ スしたあとヴォルテッラに向かう。彼は 何故聞いたこともない田舎を回るのか理 解 で き ない よ うだ が… 舎 弟 で なけ れ ば 、文句 の 一 つも あ りそ う。 シエナ シエナが近くに有り、入って行く。こ こ は 、 旅人 に とっ て迷 路 都 市で あ る。 レンツェに征服されたシエナ人の屈辱感 は激しいものだった。今でもフィレンツ 《 12 世 紀以 来 の (わず か 50 キ ロ しか 離れ て い な い )フィ レ ンツ ェ と の 3 百 年に 渡る 争いのために、シエナは直線道路のない 迷宮都市となっていった。ローマと北の 都市を結ぶ交易の幹線道路の要衝地とし てこの地域の都市は競争の中で発展し続 けた。 シ エ ナ は 13 世紀 にそ の 繁 栄の 極 に達 して ェ の 話 を す る と 感 情 を 剥 き出 し にす る人 も い るく ら いだ 。 この陥落からシエナの繁栄は一気に影を ひ そ め る。シ エナ 16 世紀 か ら時 を 止めま ま と な って い る。 見どころは「トスカーナの真珠」と呼ば れているカンポ広場で、世界で一番美し 34 い広場と賞賛され て い る 。》 このプッブリッコ 宮 殿 は 13 世 紀 末 から建設が始められた。シエナの独立と 経済力の象徴で市庁舎として使われてい る。 かなり離れて自動撮影をしたが、なにせ イタリアである。あっという間に持って 行 か れ 手は た まら ない 。 ドゥーモと鐘楼は《黒と白の大理石によ て い な いの で 、次の写 真 が 役に 立 たな い。 遂 に は 行き 止 まる 。 って模様されたイタリアン・ゴシックの 典型。》 広場に戻り、記憶を辿る。疲労困憊して ここでお祈 りをして、 車に向かっ たが、やは り迷ってし まった。 要所々々で、 カメラを撮 っていたの に、皆一緒 に見える。 右に行った か左へ進ん だかを覚え 35 しまった頃、やっ と町の外に出る。 突然あんなに晴れ ていた空が一転激 しい雤を降らせ始 めた。 。 い通路を通らなければ町に入って行けな いという典型的な城塞町である。この町 が 、 エ トル リ ア文 明の 中 心 町で あ つた 。 中に入ると、尐し道幅は広くなり、土産 物 店 が 並ぶ 。 こ こ の 特産 品 がア ラバ ス タ ーで あ る。 《ア ラバスターは雪花石膏と呼ばれ独特の暖 かみのある乳白色の色合いを持ち、軟ら かくて加工も楽なため、昔からさまざま 用 途 に 使わ れ た 。古代 エ ジ プト で 有名 で、 「 カ ノ ヴ ォ ル テッ ラ 逃 げ る よう に ヴォ ルテ ッ ラ に向 か う。 青 い 空 の下 に 葡萄 畑が 広 が る。 あの嵐は何だったのだろうか。フィレン ツェからの旅人に対する八つ当たりの雤 プ ス 」と 呼 ば れ る 臓 物 (ミ イ ラ を 作 る 際 に 取 り 出 し た )を 納 め る の に 使 わ れ た。エ トル リ ア の石棺にも使われ て い た。薄 くす れ ば か。 ヴォルテッラに到着。以前、何気なく寄 っ た 感 じで 何 の知 識も 持 っ 町は全体が灰褐色高い石壁で囲まれてい た。 「 何 だ ここ は ?」と いう軽い気持ちで、 外の空き地に駐車 して、罰金を気に しながらが、高い 石造りの建物の間 の狭い道を入って 行った。それは侵 入者を阻止する狭 36 光を透過させるの でガラス代わりに も 用 い られ た 。》 以前から我が家にあったフクロウがじ つはこの町の特産品であったことを知る。 突然町の中心広場に出る。商業広場であ ろう。 《 こ の プリ オ ー リ 広場 に は 9 世 紀半 ばま で は 大 きな 市 が立 つ商 業 地 であ っ た。 エ ト ル リア 門 《紀元前4~3 世紀のエトルリア 時代に造られた城 壁に開けられた門。 現在まで残ってい る貴重な建築物の ひ と つ。半 円筒 型 を したアーチ部分の 内部はローマ時代に修復されているが、 車のない町は人々 をリラックスさせ るかを教えてくれ る。 道の真ん中を歩く こ と が でき る 。 そのほかの部分は、外側の三つの人面の 彫刻も含 外側は創建当時の ま ま に 残っ て いる 》。 この町の周辺はメタッリーフェンと呼ば 今日この町の最大 の魅力となってい るのがグアルナッ チ・エ トル リ ア博 物 館 で 、城 塞(刑 務所 ) の 近 く にあ る 。 れる丘陵地帯で、古代から岩塩をはじめ 銅や鉛、アルミニュウムなどの鉱物資源 が 豊 富 なこ と で知 られ て い た。 ヴォルテッラの前身、エトルリアの都市 ヴェラトゥリはこの豊かな資源を背景に 大 い に 栄え た 。 37 周辺のネクロポリから出 土 し た 骨壺 埋 葬品 が となる。 エトルリア人 はすぐれた青 銅彫刻の技術 を 持 ち 、特有 の 力強い作品を 残 し て いる 。こ の神話上の生 き物であるキ マイラ像はア レッツオの近くで出土した。BC4世紀 のもの。 数 多 く 展示 さ れて いる 。紀 元 前 5~1 世紀 の もの。な か でも後世詩人ダンヌツッ オ が 、「 夕 刻 の影 」と 名 づ け た 、全 体が ス ラリと 伸 び たブロンズの彫像が名高 い。 ジャコベッティの作品のまねでないかと 怒る人もいるが、ヴォルテッラのそれは 2 千 年 も前 の もの であ る 。 エ ト ル リ ア 文 明 ギリシャの歴 史家ヘロドト ローマはギリシャのコピーだらけである し 、ル ネ サン ス はよく 描 け た劇 画 であ る。 明治の我が国の洋画も「欧州の画風」を いち早く取り入れたものである。バレル ま で は 名作 で ある 。 エトルリア文明 の栄枯 15 世 紀 ト ス カ ーナ地方の地中 から次々と美術 品の傑作が掘り 出された。これ らはメディチ家 のコレクション 38 ス は「 紀元 前 13 世紀 ご ろ に小 ア ジア の一 帯で大規模な飢饉が長く続き、このとき に新たな土地を求めて移住することが余 儀なくされて、移動の末イタリア半島ら 到達してトスカーナ地方に最初の都市を 築いた種族があった」と記しているが、 この当方系の民族がエトルリア人でイタ リ ア 半 島に は およ そ紀 元 前 1 千 年頃 に姿 を現したとされる。その後ティレニア海 の制海権を掌握すると、トスカーナ、ラ ツィオ、エミリア地方に次々と都市を建 設し、これらの都市は豊かな土壌と鉱物 資源を背景に急速に発展してフェニキア やギリシャとの交易を通じて経済的にも 繁 栄 し た。 紀元 前 474 年 のギリシャ、カルタゴとの戦いに 敗 れたころより、エトルリア独 自 の勢 力 は衰 退 しかし、ローマがエトルリア文 明 から継 承 し たものは多 い。大 下水 溝や公 共広 場そして道 しはじめ、しだいにローマに吸 収 されていっ た。 路 整 備 などの都 市 整 備 で排 泄 物 で溢 れてい たローマは清 潔 な町 となった。競 争 場 の設 営 もエトルリアの知 恵 である。またローマが珍 重 した「山 羊 や羊 の肝 臓 による占 い」もそうであ る。 紀 元 前 1 世 紀 には、もはやエトルリア人 は固 有 の民 族 としては存 在 しなかったけれど、エト ルリアはせん滅 させられたのではなくローマに 吸収されたのだ。 ヴォルテッラから葡 萄 畑の中を一 直線 にサン・ 「婦 人 の 表 情 に穏 やかさと気 品 」がある。エト ルリアでは婦人の地位 は高く、 宴 席 に侍 ることが許 されていた 。ギリシャやロ ーマでは考えられなかった。 《エトルリア諸 都 市 はその草 創 期 から、黄 金 の 数世紀を経て紀 元前 400 年頃まで栄えたが、 言 語 を含 めて現 代 でもそのすべてが解 明 され ていない。(中 略 )そのひとつにローマが自 分 たちの血 にエトルリア人 の血 が混 ざっていると 信じたくなかったの》からと言われる。 《ローマ人 がエトルリア人 から受 けた屈 辱 の歳 月 を自 国 の歴 史 から抹 殺 しようとした。このた めもあってか、ローマ人 はギリシャとともに「エト ルリア人 はいかがわしい民 族 であり、海 賊 で 生計を立てていた」などと悪評を流し続けた。 しかし、交易 と海 賊は紙一重 であり、ギリシャと 比 べて海 賊 行 為 が多 いわけでなかった。また、 酒 宴 に同 伴 するから、いかがわしいというのも ギリシャ人からの見方 である。 《ロ ー マ 市 内 カ ピト リウ ム 丘 近 く に「 エ トル リア 街 」と呼 ばれる花 町 があった。つまり 、自 分 た ちローマ人 がいかがわしい民 族 の末 裔 である ことをやっきになって否 定しようとした。 「ミケーネによって滅ぼされたトロイアの末 裔で ある」と思いたかった。 ローマ人 が語 る自 分 たちの祖 先 は常 に「ロム スから始 まる神 話 」の中 にあった。《灰 燼 に帰 したトロイアでわずかに生き残った王族の人 々、 なかでもトロイアの英雄 武将アエネアスの後裔 である双 子 ロムルスとレムスの子 孫 であるとす る神 話 を信 じかった。しかし、ローマ王 政 後 期 の三 代 はエトルリア人であったことが研 究 で明 らかにされている。》 39 ジミジャーノに向かう。 サ ン ・ ジミ ジ ャー ノ 丘 の上 にその町 が見 え て来 た 。塔 が見 え ることが この時 代 は高 い塔 が 裕 福 さの象 徴 とされた 証明している。 ために、各 都 市 に塔 が 林 立 した。しかし、塔 は 何 も生 み出 さないため に、次 々と取 り壊 されて いった。 ガイドブックによれば 《『塔 の町 』とし て知 ら れて いるサン・ジミジャーノは、 エトルリア起 源 の町 のひと つである。ロ ーマとアルプ ス以 北 を 結 ぶ重 要 道 フランチジェーナ街 道 がピサーナ街 道 と合 流 する地 点 にあったので、町 は大 いに発 展 し た。町の最初の核はティステルナ広 フィレンツェはシエナと 覇 権 争 いを繰 り返 して 場 とドゥーモ広 場 を囲 む一 帯 で、およそ 1000 年頃に形成 された。11~12 世紀にかけて町 は 次第に拡張し、13 世 紀 には自 治 都 市 化 し た。交 通 の要 衝 にあ るほか、特 産 のサフラ ンなどの商 いで町 は 繁 栄 し、主 な広 場 や 建 物 はほとんどこの 時 期 に造 られている。 最盛期には 72 もの塔 が林 立 した。しかし、 14 世紀に入ると内部 疲弊 に加えて飢 饉やペストなどの外 的要 因 が 追 い打 ちをかけ町 は急 速 に衰 えていった。逆 に いえ ば 、急 速 な 衰 え のた めに 、ル ネサ ン ス 頃 の姿 をほとんど変 えずに、今 に残 している》 サン・ジミ ジャ ーノは、町 はフィ レンツ ェとシエ ナ を結 ぶ街 道 筋 に存 在 したた め 、仲 介 貿 易 都 市 と し て興 いた が、つ いにシ エナ を 屈 服 させた 。その 結 果 、フィレンツェの砦 としての役 割 を担 ってい たサン・ジミジャーノの価 値 がなくなっただけで なく、町 が交 易 ルートから外 れてしまっこともあ り、急速に衰退した。 このため、塔 を撤 去 してしまうエネルギーすら 失 われてしまった。特 に 16 世 紀 には町 全 体 が見 捨 てら れた状 態 となり、塔 の数 は 激 減 し た。 町 のシンボルとして、塔 を保 存 しようと言 う市 民運動が興り、現 在 10 数本の塔が保 存され ている。 逆 に急 速 に衰 退 し放 棄 された町 だからこそ、 その頃の姿をそのままに残しているといえる。 チステルナ広場の名 前は中央にある 13 世 紀 の井 戸 (チステルナ)に由 来 している。古 い井 隆 してきた時 勢 に乗 って、 12 世紀から 13 世 紀 にかけ て、繁 栄 した。シエナまちの 城 壁 の外 にはサフランの畑 が広がっていた。 戸 であるが、覗 き込 めば、その深 く暗 い奥 に、 陰 惨 な歴 史 の証 言 が埋 もれているように思 え た。 広場は 12~13 世紀の塔や建物に囲 まれて 40 いる。杉 綾 模 様 に敶 き詰 められた レンガや周 囲 の飾 り気 のない建 物 世 紀 のパ ラッツォを が硬 質 な中 世 の町 の雰 囲 気 をよく 伝 えている。正 面 『サルヴッチの 塔』と呼ばれる双 子の塔。 右 は 12 世紀に建てられたドゥオ ーモであるが ファ サー ド は後 に手 が加 え られ ている。 改良》と 記されて いる 裏 門 を出 ると眼 下 にトスカーナの田 園 風 景 が広 がる。陽 が 傾 き、急 速 に夕 焼 け が広がっていく。 町 に灯 がともる。私 は ドゥオーモ広 場の周辺 の建物は 13 世 紀の ものである。東 側 の柱 廊 を備 えた建 物 は執 政 官 宮 殿 。付 属 の塔 は『厄 介 者 』とあだ名 され、 高さ 51m もある。 ドゥオーモ広場の北側 肉 屋 さん に どう し ても 足 が止 まる。絵 にな るのですよ。 ドゥオーモでは、風 前 の灯 にある医 師 会 組 織の再生を祈って献 灯する。 サン・ジョヴアンニ門から入ると 200m で町の 中心ドゥオーモ広場に出て、さらに 180m で裏 門 と考 えるサン・マッテオ門 に出 てしまう。つま り長径 400m の銀杏の葉の形の町である。 サン・マッテオ門 への一 本 道 の両 側 には中 世 の建物が並んでいる。 《途 中 のカンチェッレリアのアーチは 10 世 紀 末に造られた最初の城壁の一部である。》 予 約 なしであったが、この町 は日 帰 りツアーが 多 いためか、この通 りのホテルに無 事 チェック インできた。ホテル・ランティコ・ポッツォは《 15 41 ても 良 いかもし れない。さあ、諸 君 、心 残 りは ありませんか。 ただし、これが何 であるかを全 部 知 っているわ けでな い。 隣 の席 の 料 理 を 指 さし し た 時 な ど は…最 近 、ステーキを毎 食 の定 番 として食 べ 続 けている。し か し 、なにも 残 るも のでは ない … 外 に出 ると、空 は青 く、石 畳 と石 の建 物 そして 漏れてくる窓 の明かりがあった。 (参考文献は最 終章 に) 人 々は外 のテーブルで 酒盛りを始めた。 我 々もレストランへ。ワ イン通 の友 人 はかねて 見 つけていたワイン店 に行 き、特 産 の白 ワイ ン、ヴ。ナッチャ・ディ ・サン・ジミジャーノを 買 い求め持 ち込む。 なぜ、こんなに注 文 するかと店 は思ったであろ うが、よく食べた。 我 々は明 日 のない旅 を続 けているように考 え 42 必 要 に忚 じ て 、 粗 忽 者 や ずる 賢 い奴 や 愚 か 者 を容 赦 なくだますのを見 て嗤 うだろう。女 の 一 件 に関 していえば、これは前 もっ て考 え ぬ いたりなとはしない相 互 のだまし合 いである。 わたしは、愚 か者 をわが網 にすくったときのこ とを 思 い 出 す と 、つ ね に得 意 満 面 に な る。 な ぜなら 、愚 か者 という も のは、精 神 を 見 くびる ほどに尊 大 で、図 々しいからである。愚 か者 を だますというのは、彼 に復 讐 をすることであり、 その勝 利 にはそれだけの値 打 ちがある。 ( 中 略)愚か者と間 抜けとは全く別である》。 異 質 な中 でもとびっきり異 質 な町 ヴェネチア に入っていく。 ゲーテも緊張を隠 さない。《1786 年 9 月 28 日 の夕 刻、ブレンタ河から潟へのり入りつつ初 め てヴェネチアの町 を遠 望 し、それから間 もなく この不 思議 な島 の町、この海 狸共 和国 に歩 を 印 し、見 物 をするということは、運 命 の書 物 の 私 のページ にすでに 書 きし る さ れて あっ た の だ》。 イタリア・ドライブ 《いよいよ水 境 に乗 りいれたとき、いくつかのゴ ンドラが直 ちに私 たちの船 のまわりに群 がって きた 。ヴェネチアで有 名 な1人 の質 屋 が 現 わ ヴ ェ ネ チア 近 藤 博重 れて、自 分 と一 緒 にくれば早 く上 陸 できるし、 また税 関 の面 倒 も免れることができると私 に勧 めた。イタリア紀行・相 良守峯訳岩 波文庫》 イ タリアはユーロへの移 行 のどさくさに まぎれ て、物 価 は高 騰 し 、脇 の甘 い日 本 人 から「ぼ ヴェネチアはバイロンが「お祭 り気 分 の愉 快 な町 」といった 自 由 の都 である。そし てカサノ ヴァを生んだ町である。 彼 は序 で述 べる。《諸 君 はしはしば、わたしが 43 れた人 があるだろうか。譚 詩 的 な時 代 から全く そのままに伝 わっていて、ほかのあらゆるもの の中 で棺 だけが似 ているほど、一 種 異 様 に黒 い、ふし ぎなのりも の―これは波 のささやく夜 の、音もない、犯 罪的 な冒 険を思 いおこさせる。 (中 略 )こぎ手 たちは相 変 わらず争 っていた。 乱 暴 に、わけのわからない言 葉 で、威 嚇 的 な 身 振 りで(中 略 )このこぎ手 のぶっきらぼうな、 高 慢 な、異 国 人 に対 してあまりにも国 ぶりにそ ぐわぬ調 子 は、やりきれない気 がした。船 頭が 口 の中 で独 り言 をいっている。どうしたらいい のか。この妙 に逆 らう ような、気 味 の悪 いほど ったくっている」と言われている。 特 にヴェネチアでは気 を抜 くことはできない。 えげつなさは「強 気 の時 は、足 元 を見 るし、弱 きっぱりした人 間 と、たったふたりきりで水 の上 にい る 旅 行 者 は 、 自 分 の 意 志 を 貫 徹 す る 手 段 を何 ひとつ持 たぬのである。 (中 略 )「船 賃 はいくらだね」「払ってもらいます」「わたしは一 文 も払 わない」「上 手 にこいで行 ってあげまさ あ」( 中 略 )た とえ きみがわたしの所 持 金 に 目 を付 けて、うしろからかいでひとなぐりして、わ たしを冥 府 へ送 ったとしても、やっぱりきみは はじょうずにこいで行 ったことになるだろう。ヴ ェニスに死す実吉訳 岩波文庫》 この町 は「自 分 の力 量 を試 す」に最 適 の町 で 気の時は、手をもむ」 《一 日 雤 が降 ると、往 来 はたまらない穢 さであ ある。 る。呪 ったり小 言 を言 わぬものはない。橋 の昇 り降 りには外 套 も、一 年 じゅう着 て歩 いている タバルロも汚 れてしまう。すべての人 は短 靴 と 靴 下 をはいて歩 くので、お互 いに泥 をはねか けては罵 り合 う。それは普 通 の泥 でなく、汚 点 が染 みついてとれないという代 物 だ。それなの に また 天 気 が よ くな る と、 誰 も 清 潔 の こ とな ど は考えない。》 樺 山 氏 によると《古 代 ローマ帝 国 が衰 退 し た後 、長 く低 迷 を続 けていたイタリアが再 興 の 糸口をつかむ。11 世 紀、信仰 心に刺激 され、 キリスト教 徒 の聖 地 エルサレムへの巡 礼 が増 加 した。しかも、無 力化 したイタリアに北 方のノ ルマン人 がなだれ込 んできたこともあり、永 い 眠りから目覚めた。 もともと、ヴェネチアはアドリア海 の最 奥 の トオマス・マンもこの町 を我 顔 で操 るゴンドラに ついて《およそだれでも、はじめて、または久 し くのらなかったあとで、ヴェネチアのゴンドラに のらねばならなかったとき、あるかるいおののき、 あもひそかなおじけと不 安 を、おぼえずにいら 44 砂 州 上 に人 工 島 として設 営 されたもので地 の 利 は悪 かった。しかし、ヴェネチアとジェノヴァ は激 しい競 争 を行 いながら成 長 に向 かう。特 に、十 字 軍 の兵 士 輸 送 はビッグ・チャンスとな った。ヴェネチアはコンスタンティノーブルで地 歩 を か た め 、パ レス ティナ海 岸やエジ しかし、スペインがグラナダを陥 落 させたあと、 イ スラ ム教 とユダヤ 教 を 異 教 徒 とあつかうよう プトでイスラーム教 徒と取引し 13 世紀 の「地中海の商業 都 市 」として成 功 を おさめた。》 《ヴェ ネチ アの都 市 が他 と違 うのは、い ちはやく「ぼろもうけ 地中 海 交 易」から地 場 産業 育 成に切 り替 えた ことである 。それが後 にヴェネチア ングラ スに になり、イ ベリア半 島 のユダヤ 人 (セファル デ ィ)はユダヤ教 を捨 ててキリスト教 徒 となるか、 スペインを脱出するかの道しかなくなった。 15 世紀末だけで20万人にちかいユダヤ人 が スペインを追われた。 フランスには安 住 の地 はなく、全 てがイタ リア に向 った。ユダヤ人 の移 動 は船 を手 段 とする しかなかったから、彼 等 はヴェネチアをはじめ とする港 町を選んだ。 ヴェネチアは彼 らの居 住 区 を市 街 地 に限 り、 代表される窯 業である》 ゲットーと呼ばせた。 ゲットーには裕 福 な商 人 もいたが、あらかたは、 14 世紀のイタリア・ヨーロッパは東方貿易の 低 迷 と黒 死 病 のまん 延 によって奈 落 の底 にお とされた。しかし、イタリ アは再生した。 16 世 紀 のイ タ リアの 富 が常 識 よりもはるかに 持 続 し 拡 大 した 原 因 の ひとつがユダヤ人 の進 出である。 ユダヤ人 はかねて地 中 海 の各 地 にコミュニ テ ィをつくり、たがいの連 絡をとって、ネットワーク を確保してきた。 14 世紀の黒死 病のあと、しばしばユダヤ人 へ の迫 害 や襲撃 はあってもキリスト教 徒 との間は 比較的平和 であった 避 難 してきた零 細 民であり、かつかつの暮らし を営むばかりであった。 信 仰 をおおっ ぴら に喧 伝 することも 禁 止 さ れ、また黄 色 の着 衣 を要 求 されて身 分 を耐 え しのぶことになる。 ユダヤ人 が金 融 業 で財 を なすのには 何 代 に もわたる汗の歴史があったのだ。 私 も 、そう し た 先 祖 を持 っ ていなか っ た ことを 悔 やむが、子 どもたちを見 ていると、ひょっとし たら、私 自 身 がその種 の先 祖 になりつつある かも。 さて、最近、総会出 席 者が 20 余名と低 迷し ていた が、 今 回 の決 算 総 会 に出 席 し た 会 員 45 が 40 名を超えたということで、安堵している。 一 年 半 後 に 組 織 は 大 きな 決 断 を 迫 ら れ るの で、会 員 は 自 分 の組 織 に対 する意 識 を 持 た なければならない。そのためには定 款 改 定 か 解散をしなければならないが、「定款・第 11 章 定款の変更及び解散 」が立ちふさがる。 この重 要 事 項 以 外 、例 えば「事 業 計 画 及 び 予 算 、事 業 報 告 及 び決 算 」は「総 会 に於 いて 出席した会員の 3 分 の2以上」の議 決があれ ば、よいとされているが、「定款・第 11 章 定 款 の変 更及 び解 散」および第 51 条 の「残 余 財 産 の処 分 」については「総 会 において会 員 総 数の 4 分 の 3 以上」の議決がなされなければ ならない。 日 本 全 国 の医 師 会 においても、この点 で苦 悶していると想像している。 「会員総数 の 4 分 の 3」とは 666 名の当市 では 500 名になる。この場 合、「書面 評決、代理 人 を指名しての委 任」も可能 と考えるが、「尐 なく とも開会の 5 日前 までに、あらかじめ議案 とし て通知された事項」にのみに限る。 直 前 に追 加 された議 案 に対 しては、適 忚 さ れない。 つまり、書 面 評 決 および委 任 状 を入 れても総 会 成 立 ぎりぎりの数 が続 く現 状 では、どんなに 執 行 部 が努 力 しても、「自 然 崩 壊 」の姿 になる であろう。 今 回 の「3 県 医 師 会 などに対 する義 援 金 」は 「特 定 の団 体 に対 する支 援 金 」であろうとする 意 見 を聞 くが、「カラー写 真 を満 載 する駄 文 」 で 支 援 金 を 貰 う 私 も 恐 縮 至 極 で あ る 。 また 、 白 紙 委 任 状 が会 長 の票 となるのであれば、 「執 行 部 が総 会 において、質 疑 そして承 認 を 仮 面 を 脱ぎ す てた 暇面 の 町 ヴェネチアは男 と女 である。女 と男 の町 かもし れない。 町 ら中 を目 を交 わしながら親 しそうに、歩 く男 求める」構図は、300 票を執行部が持っている ことになり会 員 が総 会 で質 疑 することが、無 意 味 となる。委 任 状 が役 員 選 挙 に於 いても同 様 であれば、総会 自体が無意味である。 女 をみれば、アメリカ女 性 と古 物 店 店 主 に見 えてしまう。 2人 の子 どもを連 れた母 親 に与 えたマネキ ン の視 線 は鋭 かった。「なにを苦 労 して、苦 労 の 46 た》 《「モナリザのモデルをめぐって、はげしい論 争 があり、決 着をみていない。この時 代無 数のモ デルがいたであろうが、あれほどの美 女 が、ど の都 市 にもあふれていたとは、信 じなくない。 じっさいの女 性 はもっと不 均 衡 なからだつきを し、貞 節 や優 美 とはかけはなれた人 品 のもち ぬ し だっ た ろ う 。 画 家 た ち も 売 れ な い 貧 乏 や 才 能 の欠 如 だけでなく、病 気 、家 庭 の不 和 、 それにみたされない性 の欲 求 など作 品 の崇 高 さとはうらはらに、生 身 の芸 術 家 はどろどろ した日 常にひたっていた。」》(世 界の歴 史 16 種を造るのか。わたしは見てごらん。こうして立 って外 を 見 てるだけで、流 行 のも のを身 に着 けられるのよ」 樺山紘一著 ) カサノヴァが女 と賭 博 の放 蕩 三 昧 の 日々を送った町がヴェネチアである。 1725 年 に生 まれ、生 涯 を「ペテン師 、 色 事 師 、魔 術 師 、詐 欺 師 、ほら吹 き」な ど 20 にもおよぶ呼び名を受けつつ、冒 険への旅に出た町である。 樺 山 氏 のよると《ルネサン スの時 代 の町 は娼婦 です ずなりだったとの証 言 がある。 とくにローマとヴェネチアと はとびぬけていた。16 世 紀 なかごろの ことだが 、ローマ では人 口 の 10%は売 春 でく らしをいとなんでいたとか。 その数は、ざっと 5 千 人にあ た る。 娼 婦 を とりし きる 女 衒 をあわせればローマで最 大 の産業ともいえよう。ヴェネチアでは 16 世 紀 は じめに、娼婦の数は 1 万 1654 人であったと か。 ふたつの町 ともに、男 性 の数 が異 常 に多 か った。遠 来 の商 人 と、教 皇 庁 関 係 者 たちであ る。銭 が湯 水 のようにばらまかれる町 でもあっ た。娼 婦 の営 業 にはもってこいの条 件 がそろ っている。それだけのことなら、歴 史 上 、いくら でも類 例 がある。ルネサンスが特 異 なのは、そ の娼 婦 の一 部 に異 常 なまでの栄 誉 をさしのべ たことだ。 コルティジャーナの誕 生 である。つまり、「宮 廷 婦 人 」と「高 級 娼 婦 」に明 確 な差 異 がなかっ 47 れていた。彼 は果 敢 にも脱 獄 を試 みるが失 敗 する 。 この 脱 獄 失 敗 のあ と 、カ サノ ヴァは 「 井 戸 レ・ピユイ」と呼 ばれ怖 れられていた地 下 牢 に移 される。《司 法 裁 判 所 に属 する牢 獄 は、 大 統 領 宮 の建 物 の地下 にあった。それらの地 下 牢 はいずれも物 凄 いもので、死 罪 に問 われ ながらも、死 一 等 を減 じられた犯 罪 者 を収 容 する獄 にあてられていた。まさに墓 場 のごとき もので、わずかばかりの光 線 の差 し込 む一 尺 四 寸 ほどの小 さい鉄 格 子 のあいだから絶 えず 海 水 が流 れ込 んできて、牢 内 にはいつも二 尺 ばかり水 が溜 まっていた。だから、この不 潔 な 《8 歳の時 、預けられていた司祭の妹 で 4 つ年 上 の娘 に恋 をした。 これがカサノヴァの ヴァを巧 みに操 って 興 奮 させるばか りで、 決して彼の情熱を 満 たしてはくれなか った。この苦 い経 験 は貴 重 で、以 後 、女 の手 練 手 管 を研 究 しつくしたカサノヴァは、ご く稀 な場 合 を除 いて、二 度 と女 に騙 されるよう 水 溜 りの牢 に押 し籠 められた不 幸 な男 は、塩 水 を浴 びたくなければ、一 日 中 、藁 布 団 を敶 いた台 の上 に坐 っていなければならなかった。 この凄 惨 な 住 居 には 大 きな 海 鼠 がう よ う よ 巣 喰っていたから、朝 、壺に一杯 の水 と、味気 な いスープと、一 日 分 のビスケットを与 えられた ら、即 座 に腹 に収 めてしまわないかぎり、彼 の 生 命 を支 える貴 重 な糧 は悉 く海 鼠 どもの餌 食 となってしまう。窪田般 弥訳河出文 庫》 脱 獄 未 遂 囚 には釈 放 の望 みがないと分 か る。彼 は今 度 は慎 重 に計 画 を練 って、まんま なことはなかった。(中 略 )20 台になったが、こ れという家 がらの出 身 でもなければ、なんの資 産 もない野 心 家 になっていた。そんな彼 に幸 運 が訪 れる。卒 中 で倒 れた一 貴 族 を助 けた 縁 で、彼 から限 りない援 助 を受 けることとなっ たのだ。カサノヴァはヴェネチアで 3 年間、色 恋 と賭 博 の生 活をおくる。しかし、享 楽 生 活に はまず軽 率 さがとも なう。彼 はまた ヴェネチア を退 去 させられる。1753 年 にふたたびヴェネ チアに戻って来 る。M.M と C.C という2人の修 と脱獄してしまう。》 カサノヴァの大 きな愛 欲 は修 道 女 た ちとの グ ループ活動である。M.M と C.C であるが、実 話 であるとされている。 美 女 M.M はフランス大 使 の情 婦 でもあった。 娼 婦 だけでなく、修 道 女 もこれらの方 面 で似 た よ う なことを し て いた ことが分かる。 逢引 の場 に出 入りする 道 女 との 情 事 を 続 ける。 ( 中 略 )し か し 、つい に司 法 裁判 所は「魔 術や降 神術を悪 用したと か、青年子 女を堕落 させた」嫌疑により告 発 し 鉛屋根の牢獄に入れる。このドゥカーレ 宮 殿 の牢 獄 からは何 人 も脱 出 できないと言 わ ときに着 けていたのが 暇面である。 そもそも、人 心 一 体 化 を目 指 そうとして生 ま れた各 市 の祝 祭 は、ヴ 初 恋 であった。この ベッチーナというず る賢 い娘 は、カサノ 48 ェネチアにおいては、したたかな市 民 によって、 政 治 の骨 を抜 かれて、ページェントとして、底 抜 けの陽 気 さが勝 利 した。運 河 の町 では、け ばけばしく装 飾 されたゴンドラが水 面 をすべり、 仮 装 した男 女 が支 離 滅 裂 なドラマを演 出 する。 花 火 が 燃 え 、ド ンチ ャ ン騒 ぎが夜 を 徹 し て つ づく。現 在 でも形 跡 を残 すヴェネチア・カーニ バルへと続 く、日 本 では、マスク、帽 子 などが 本 来 の用 途 以 外 に多 用 されるように、暇 面 を 付ければ怖くないヴェネチアである。 両 替 店 で騒 ぐ さて、リカルド橋 はヴェネチアの臍 のようなもの である。カジノに行 く予 定で、あったが、ふと、 尐しユーロを持っていこうと思ってしまった。 のだから、電 話 を掛 け。カメラで意 地 悪 してや ろうと撮り始 めると両手 で顔を隠す。 品のよさそうな女性 が私を助けにきた。客 が警 察を!騒いでいるので、仲介に立 とうというので あろう。私 の話 を聞 いた後 で、店 員 に計 計 算 書 を見 せろという。「フム、フム。サインもあるわ ね。特に問題 なさそうね」という。 そこで全 貌 が見 えた。近 くの商 店 の女 主 人 に 装 っ ているが、この店 の店 主 なのだ。正 当 な 商 品 を貰 う前 に金 を渡 す前 にサインした私 が 馬鹿よ。 皆 、みんなグルなのだ。「パーフェクト」と言 っ た の は 、 自 分 が 詐 欺 を 商 人 の法 的 手 続 きを いつもなら、しないのに、橋すぐ横の両 替店 に入ってしまう。3 万円 を出す。 女 は計 算 書 を作 成 し、まず、サインを求 める。 彼女 はサインを受 け取 る時 、何 故か「パーフェ クト」といった。私 は直 感 的 に、この言 葉 に違 和感を覚えた。 渡 された金 額 が予 想 より 20%は低 い。文 句 を 言 うと、突 然 イタリア語 になる。ガラス室 の中 で、 手 を広 げてサインのある計 算 書 を突 き付 け る。 私 は、「ポリチア、ポリチア」と店 頭 で、大 声 を 出 す。遊 び半 分 で。入 って来 た客 も、私 が叫 んでいるので出 て行 った。数 組 の客 をブロック してやったのだ。しつっこく「ポリチア」と叫 ぶも 49 完成したという宣言 である。 そうだ!ここは「ベニスの商 人 」の本場 だ。《シャ イロックは言う。証 文通 りよ。証文 にケチつける なんざよしてもらおう。ちゃんと俺 は誓 言 した。 なにがなんでも証 文 通 りだってことをね。貴 様 はな、理 由 もないのに、この俺 を犬 だと吐 (ぬ か)した。 証 文 通 りだよ。貴 様 の言 分 なんか聞 く耳 持 た ん。 証 文 通 りだ。だから、もう黙 ってろ。俺 という人 間 はな、アーメン野 郎どものとりなしなんぞで、 頭 を振 り振 り、溜 息 ついて、そのまま弱 腰 にな るなんて、そんな弱 気 な、間 抜 けトンボじゃな いんだから。話 合 いなんざ真 っ平 だ。証 文 通 りだよ。ヴェニスの商 人 (シェイクスピア作 ・中 野好夫訳岩 波文庫 )》 ヴェネチアグラスで誤 魔 化 される話 は有 名 持 物 のうち、金 目 のものはみな売 りはらった。 それでも至 る処 に借 金 の山 ができた。》《この であるが、市内 の両 替 商の交換 率の駆け引 き は銀 行 が 閉 まる直 後 から始 まる。午 後 3時 か ら両 替 するのは間 抜 けである。すっかり納 得 し てしまった。 カ ジ ノ 全敗 いろいろ、カジノを渡 り歩いてきたが、ヴェネ チアのカジノくらい印 象の薄いものはない。 サンマルコ広 場 に行 けばホテルは何 とかなる だろうと乗 った水 上 バスからカジノが見 えてし まったのだ。 カジノの裏 には、サロンで行 なわれていること や話 されていることが手 に取 るように見 聞 きで きる秘 密 の小 部 屋 があり、カサノヴァは パトロ ンのいる修道女 M.M と逢引をする。それをパト ロンは別 の秘 密 の小 部 屋 から観 察 していた。 カサノヴァ「どこなんです、その謎 の小 部屋は」 女僧 M.M「あそこ。壁 にそっているあの長椅 子 の背 中 。あの壁 の浮 彫 りの花 の芯 にはみんな 穴 があけてあるんですの。その穴 がうしろの部 屋 へ通 じ ているん です。部 屋 には寝 台 もあり 日 が落 ちるころ、駅 行 きの水 上 バスに乗 って。 真剣に探す。 ようやく見つけて乗 り込 んだ。 イ タ リ アには、 スイス にある 飛び地 カンピ オーネ が有 名 ますし、机 もありますし、こちらでしていることを 眺めながら一晩すごしましょう」岸田国士 訳》 カサノヴァの「フランス大 使 の情 婦 である M.M なる修 道 女 との話 」を裏 付 けようと考 えていた のに、あまりの運 のなさに、すっかり忘 れてしま っていた。 も っ とも 、 覗 か れ て 困 る ことなど、若 いころから 皆無であった。 賭博の確率 論はル ネサンスの名 医 にカル であっ たが、まあまあの成 績 をあげていた。しかし、ヴ ェネチアではいまだかって経 験 したことのない 負 け方 だった。なにせ、張 れば反 対 、赤 にチ ップを置けば黒 ! 首を 20 回ほど振ったところで帰って来た。今 度 は船 が来 ない。暗 い船 着 き場 で待 っている うちに興奮も収 まって来た。 なんでもありのヴェネチアにしても、小 銭 を張 る日 本 人 相 手 にインチキをする理 由 が無 い。 ダ ー ノ (1501~76) で 確 立 された。《偉 大 さとふ しだらな奇 行 とが同 居 し、至 善 と凡 庸 とが隣 席 しているルネサンスの万 能 人 のひ とり》《数 学 者 として三 次 方 程 式 の解 法 を求 めた「カル ダーノの公 式 」 、物 理 では「カルダーノ の 輪 」 の装 置 を考 案 し 、羅 針 盤 の公 益 法 人 化 を い ちだんとたかめた。アリストテレス哲 学 の 注 釈 をかき、占星術をきわめ、著 書は 200 巻にお 結 局 「カ ンの悪 さ」と「偶 然 に対 する無 駄 なイ コジ」の 連 続 に 過 ぎない。それが偶 然 出 現 し たのだ。 カサノヴァも《気 散 じのつもりで私 は賭 博 を試 みた。身 が入 らないので私 は絶 えず負 けた。 よぶ。水 泳と乗 馬 に長じ、魚 釣 りと剣術 を好ん だ 。( 中 略 ) その彼 が 確 立 論 を 思 いつ いた の は賭 博 の現 場 だった、『わたしはチェスやさい ころ遊びに没頭し過 ぎた。さいころは 25 年 間、 毎日だった。これがため尊敬 と財産 と時間 とを 50 同 時 にうし なっ た』。しかし、彼 ているのに出 会 った。無 料 で聴 いている私 に も涼しい風がサービスしてくれる。 はさいころの目 の出 方 を観 察 して、ついに確 率論にたどりつ それにしても、イタリアの男 たちは、何 故 きょろ きょろとしているのだろうか。フルートを吹 きな がらアコーデオン弾 きながらそしてなにもして いないウエーターもガールハントをしている。 季 節 外 れ(ローシーズン) のホテルはサー ビスがよい。4 つ星なら「飛び込みの客」でも足 元 を見 ることはない。かえって「リピーター」に させるた めに空 いているラ ンク 上 の部 屋 に 入 れる。 《強 気 の時 は足 元 を見 て、弱 気 の時 はもみ手 く。青 木靖三ほか訳》 をする》 叫 び続 けて空 腹 を覚 える。ヴェネチアの定 番 は「アドリア海 での魚 の盛 り合 わせ」「イカス ミ・パスタ」「スープ」であろうか。 翌 朝 、 中 庭 の 端 っ こに 坐 っ て 、 ひ と り で 朝 食 していたら、ボーイが写 真 を撮 ってやると構 える。近 くのウエートレスを手 招 きして、並 ばせ る。 私 のこの嬉 し そう な笑 みを眺 めながら 隣 の 女 性 は何 を考 えているのだろうか。人 類 の発 想 はすべて同 じである。だから、尐 しだけの金 を 持 って、王 道 さえ歩 めば、言 葉 なしでもドライ ブできる証拠 である。 興 奮 するまでも いか ずに飛 び出 した私 はリカ ただし、私 の両 手があまりに礼 儀 正 しすぎるな あ。緊 張 するとベルトを押 さえる。いろいろあっ たヴェネチアを離 れる時 が来 た。駅 に隣 接 す るパ ーキ ングか ら 、大 型 客 船 が見 え る。地 中 海クルーズの出発 地 である。 ルド橋 で船 を降 り、騙 された両 替 店 を通 り、深 夜 の サ ン マ ル コ 広 場 を 横 切 っ て い る と き 、野 外ステージで若い女の子がヴァイオリンを弾い 51 夫婦 で何 十日 も 24 時間 過ごさなければなら ないのである。経 験者 に聞くと「日本 人の場 合、 かならず数組の離婚 騒動が起こる」と言う。 妻 は「近 くの港 に泊 めてください」と船 長 に申 し込 む。しかし、臨時停 泊 は何 百 万 もかかると 言う 今日 はミラノを通って、アルプスを渡りスイス への長いドライブである。 今 回 、山 越 えは「グラン・サン・ベルナード峠 」 を選んだ。 ナポレオンが白 馬 にまたがり越 えたとされる峠 である。 走ること 6 時間、ついに雪山が見えて来る。 つづく 52
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