《私のローマ滞在の理由を説明すること はますます困難になる。海ははいって行 イタリア縦走 けば行くほど深くなるが、この市の見物 もまったくそれと同様である。過去を知 らないで、現在を知るということはとう て い 出 来る も ので はな い 》 と。 夕方にローマに入り、二泊してどこか に 向 か う、 と いう のが 一 般 的か 。 更に、彼の地はこのコースは盗難など の犯罪の多いところとて有名である。映 画「 旅愁 1950 年作」で も、主 人公 以 外は 「ねだったり、売りつけたり、ひったく 近藤博 重 ロ ー マ は九 頁 に は ならず ロ ー マ・南 イタ リ アと も う 1 カ国 を組 み っ た り 」す る 人ば かり 、 と さえ み えた 。 白 タ ク も怖 い 、と なる と 独 り旅 の 宿は「終 着駅テルミナ」近辺となる。ガイドブッ クの「音楽家たちの常宿として有名」と ある駅そばのクイリナーレに予約する。 ど う も 音楽 家 とい う単 語 に 弱い 。 荷物を預けて近くのパルテノンに行く。 よろずの神を祭る万神殿でルキウスの息 合 わ せ る 旅 は 15 日間 を 必 要 と し 、年 に一 度 と し ても 不 可能 な 長 さ で あ る 。 しかし、ローマを見てナポリへの旅は 日 本 人 には 憧 れの コー ス で あろ う 。 遥か遠い日、ゲーテが夢に見続けた旅 でもある。でも「イタリア紀行全三冊」 はさすがに長すぎると感じるが、彼の憧 れ の 強 さを 示 して いる 。 ローマに着いたゲーテは《われわれが 最もすぐれた事象に接しようとてローマ の市中を歩きまわるとき、この巨大なも のは悠々としてわれわれの上に働きかけ てくる。他の土地では意味の深いものを こちらからさがしてまわらなければなら ないのに、ここではかえってわれわれが 圧倒されるほどそうしたものに充満して いる。行くところ止まるところ、あらゆ る種類の風景画がくりひろげられ、宮殿 と廃墟、庭園と荒野、遠望と小景、家、 厩、凱旋門、円柱。時にはこれらすべて が一カ所にかたまっていて、一葉の紙に 纏めあげられたくらいだ。人は千の絵筆 を使ってそれを叙述すべきで、一本のペ ンが何の役に立つであろう。実に観賞と 驚嘆の連続で、夜になるとわれわれはす っ か り 疲れ 切 って しま う 。 》 子 マ ル クス・アグ リッ パ が前 27 年に 建立 1 し 、 ハ ドリ ア ヌス 帝が 造 り なお し た。 さて、先ほどチェック・インした時、フ ヴ ァ チ カン 美 術館 宮殿 ゲーテと比 べ私 には今 日 しかない。標 的 を ロントには「静かな処だろうね」と念を 押した。「勿論、このホテル一番の静か な と こ ろで す 」と 案内 さ れ る。 疲れと興奮があったため「まあ、良いか … 」 と 外に 出 たの であ る 。 し か し、帰っ て きて、驚い た 。町 全 体が騒 がしい中 ではわからなかった 。ド ア か ら 入 っ た途端に、外に出たと思った。「車が止 まった、動き出した、ドアが開いた」そ のすべてが目の前に展開される。窓から 絞 り、まずはヴァチカンと決 めた。 朝 早 く、行 っ たつもりであっ たが、すでに 宮 殿 は入 場を 待 つ多 くの人 びとによって取 り巻 かれていた。 この「ヴァチカ ン」の語 源 はロ 見ると石畳の道路の横の部屋で運転手の 顔が見える。早速、イタリアにだまされ た。あのボーイの大きな確約はなんだっ た の だ 。当 然 、ク レー ム を つけ る 。 「大変申し訳ありません。しかし、当ホ ーマの前の文 化 であるエトル リアにあると言 われる。《彼ら は城 壁 都 市 の内 側 に死 体 を埋 葬 し なかった。 そのため、のちにローマが栄 えることになる地 域 に 古 代 都 市 を 築 き、 その城 壁 の外 の 丘 の 斜 面 に ネク ロ ポリス と呼 ば れ る広 大 な 墓 地 を つくった。このネクロポリスと呼 ばれる死 者 の 町 の番 人 が「異 教 徒 エトルリアの女 神 ヴァティ カ」だった。 テル今晩は満室で、明日には必ずチェン ジします」この慇懃無礼さに余計に腹が 立った。 耳 を押 さえても、騒 音 は軽 減 せず、ついに 私 は、ベッドをばらして、浴 室 とトイレの間 に畳 一 枚 の通 路 に簡 易 ベッドを作 った。翌 日 、抗 議 のためにほとんど、元 に戻 さないままにして おいた 。泥 棒 に荒 ら された よ う であっ た 。2日 目 に用意 された部 屋は真に快 適であった。 こうした 時 の紳 士 協 定 とし て「ホテルも私 も 昨 日 の事 は触 れない」がある。怒 鳴 り散 らした ことも、部 屋 をひっくり返 したこともすべて過 去 《ローマ教 皇 の歴 史 は、ペトロから始 まり、イ エスが十 字 架 にかけられたあとは、初 代 キリス ト教 会 の傑 出 した指 導 者 となった。(中 略 )聖 ペトロが逆 さ磔 にされて処 刑 された。そこでペ トロの後 継 者 たちはみな、ペトロと、彼 が初 代 キリスト教 会 で占 めていた地 位 を踏 襲 しようと した。この新 しい教 団 の最 大 の関 心 事 は、彼 らが暮 らすローマ帝 国 からの敵 意 といかに折 り合 いをつけながら、自 分 たちの生 存をはかる か と い う こ と だ っ た 。 そ の た め に ペ トロ の 後 継 者 である「ローマ司 教 」たちは、世 俗 の権 力 と 協 調 する方 法 を 慎 重 に探 りながら 、ロ ーマを 中 心 にすえることで、組 織 を強 化 しようと試 み、 各 地 の司 教 たちに対 するローマ司 教 (のちの 教 皇 )の優 位 性 を主 張 した。ローマ帝 国 が東 のこと。得 したと、思 わず、最 高 の部 屋 代 を払 っている常 連客 としてふるまう。 結 局 コンビニのピザの夕 食 がローマでの最 高 の料理 となった。 2 西 に 分 裂 する と 、各 国 のキ リスト 教 会 に 影 響 力 をもつローヘマ教 皇 だけが、崩 壊 し変 化 し オスマン帝 国 がビザンツ帝 国 を滅 亡 させ、イタ リア半 島 にも攻 め込 んできて、権 威 は地 に落 ていくヨーロッパ世 界 の中 で求 心 力 をもつよう になった。ついに5世 紀 西 ローマ帝 国 の皇 帝 は 、 ロ ーマ 教 皇 が 帝 国 内 の す べ ての 司 教 の 頂 点 にいることを公 式に認 めた。 263 人の教皇 と 39 人の対 立教 皇が「権力 の めばえ」から「栄 光 と衰退 」という「血 みどろ劇」 をローマで繰 り返してきたのである。 (中 略 )1471 年 シクストゥス 4 世が教 皇に選出 された。この 教 皇 について ちていた。》 教 皇 シクストゥス 4 世は、世 界にまたがる一 大 キリスト教 帝 国 を築 き上 げようと決 意 する。 1475 年カトリック教の建 築 家が雇 われ、ソロモ ン神 殿 をルネサンスに沸 くロ ーマのど真 ん中 に復 活 させてしまった。1500 年 が「信 者 の罪 が特 別 に許 される聖 年 」になっていたために、 巡 礼 者 がローマに大 挙 して押 し寄 せ、その時 の教 皇 の懐には莫 大な金 が転 がり込んできた。 これから数 代 の教 皇 がローマヴァチカンに莫 は 、三 つの 特 徴 があげられ る。①ローマ の景 観 を変 え たこと②臆 面 もなく自 分 の 一族の利益 をはかったこ と③フィレンツ ェのメディチ 家 に対する暗殺 計 画に関 与したことである。 大 な金をつぎ込 む。 1492 年 (コロンブスがアメリカに上 陸 した年 ) に選 ばれた悪 名 高 いボルジア家 のアレッサン ドロ 6 世であり、ユリウス 2 世 である。 ジエイクローマ教 皇 歴 代 誌 ・マックスウェル・ス チュアート著 》 宮殿 の中庭 は八角 形をし ている。 これら 以 外 にも 、スペイ ンに異 端 審 問 所 を創 設 するなど、多 くの悪 事 もあったが、ローマの 改 良 工 事 が業 績 として残 っている。いくつもの 礼 拝 堂 を建 てたが、とりわけ有 名 なものがシス ティーナ(教 皇 の名 にちなんで命 名 された)礼 拝 堂 である。 《その頃 、ローマ・カトリック教 会 の権 力 は強 ま っていったが、宗 教 上 の威 信 は著 し く低 下 し ていた。教 皇 宮 殿 での堕 落 した生 活 や、権 力 へのあくなき野 望 、壮 麗 な建 築 物 への莫 大 な 写真は は「ベ ルヴェ デ ー レ のア ポ ロ 」 で紀 元 前 330-320 年 の ア テ ネ で造 ら れた もの を 紀 元 2 世紀 にロ ー マ が コピ ー した もの で あ る。 「メデューの首を持っ たペルセウス」中庭に 面した部屋に有名な 「ベルヴェデーレのト 資 金 の投 入 など、客 観 的 に見 てこの時 期 の 教 会 には「奢 り」の傾向 が強 く感 じられる。 当 時 教 会 内 では陰 謀 、汚 職 、分 裂 が頻 繁 に行 なわれていたし、フランス王 をはじめとす る諸 国 の王 ともヴァティカンは対 立 していたし、 ルソ」がある。紀元前 1世紀にアテネの彫刻 家アポロニウス作のオ リジナルとされている。 3 と 断 定 した 。 トロイアの神官ラオコオンは、ギリシア 軍の計略を見破り、ギリシアの勇者が中 にひそんでいる木馬をトロイア市内に引 き入れるのは危険であると警告した。こ の こ と をア テ ネは 憎み 、大 蛇 を 送 り 込 み 、 ラオコーンとその2人の息子たちを絞め 殺 す 場 面で あ る。 30 歳 を 超 え た ば か り の ミ ケ ラ ン ジ ェ ロ は こ れ をみ て《芸 術の 奇 蹟 》と 感 嘆し た。 人 類 の最 高 傑 作 と今 もされている。つ い に は 「文学と造形美術の限界」論争提起させ 胴体だけが残 った彫 刻 をトル る(ラオコオン・レッシング著斎藤栄治 訳 岩 波 文庫 )。 ラオコーンの発 掘 を最 大 限 に利 用 すること を思 い付 いたのがユリウス2世 である。彼 はヴ ァチカン宮 殿 を 美 術 の殿 堂 とすることを決 意 した。長 いヴァチカンの記 述 が本 編 に登 場 す るのはこのためである。 ヴァチカンに入 ると、多 数 の彫 刻 群 の空 間 に出 る。 これら はギリシヤ などのコピーであり、本 来 は 異 教 徒の作 品である。教 皇 ユリウス 2 世 は形 ソーというが、こ のヴァチカンの トルソーは名 高 く、ミケランジェ ロ等 が絶 賛 し、 スケッチを繰 り 返したとされ る。 戦 う教 皇 として名を馳 せたユリウス 2 世 であ るが 、その 就 任 を 祝 う がご とき 出 来 事 が出 現 振 りを構 わなかったわけである。人 びとが集 ま ることが重 要 だった。ラオコーンをその中 心 に 据 えた。 する。1506 年 、ロ ーマ の ネ ロの 宮 殿址 の葡 萄畑から発掘されたラオコーンである。 かってこのような作品があったはずだと いうことは、プリニウスがその存在を記 述していたので、教皇はラオコオン群像 しかし、こ の ラ オ コ ー ン に つい て は、現在 も 、い つ ?誰 が造っ た の か ?な ど解 明 され て い ない 。また いく つもの形のものがあり、例えば、ウフィ ツ の も の、岩 波文 庫の も の )な ど で右 手、 蛇 の 形 だけ で も大 きく 違 う 。 4 そもそも、ロ ーマの彫刻は く、反 射 的に吹 いてみるだけである。 つまり、システィーナ礼 拝 堂 観 光 は頭 上 20m ギリシャのコ ピーが大半で あ る の で 、 我々はイタリ アの展示を見 るときは「コ ピーを見せら れているに過 ぎ な い の で は」という醒 の遥 か高 い天 井 画 を鑑 賞 する場 ではなく「フ ラ ッ シュ と笛 の やり取 り」 の騒 然 さを 体 験 する だけである。 黄 金 の装 飾 で幻 惑 されたヴァチカンを出 てパ ルテノン経 由 でカピトリーノに向かう カピトリーノ こ こ で は、「 カ ピトリ ー ノ の牝 狼」私 を迎 え る 。 紀元 前 450-430 年 の古 代 ブロ ンズ 像 で 、 ロー マ 創設 の象 徴 と され て いる 。 双子の像はルネサンス時代に加えられた。 めた気持ちが ローマの誕生については多説ある。その 一つが《牝狼に助けられた軍神マルスの 必要だ。 シ ス テ ィー ナ 礼拝 堂 その後 、群 衆 は地 図 の間 、へと誘 導 される。と もあれ、前へ前へと。 そして、黄 金 一 色 の通 路 を抜 けて、有 名 なシ スティーナ 礼拝堂の 中 に 閉 じ 込 められる。 年 間 4百 万 人 が訪 れる といわれる システィー ナ礼拝堂 のなかで、 私 た ち日 本人は観 光 客 として 見 上 げるだ けであり、 子ロムルスがティベル川畔のパラチーノ の丘に築いた町がそのはじまりとされ る》伝説で、ローマ人の最も好むもので ある。ローマはやがて共和制に移行、紀 「見 た」ことに満 足 して、ピントがぼけた写 真 に しかならないのにシャッターを押 し続 ける。 数 人 の 監 視 員 がいて、禁 止 されているフラッ シュがたかれると「ピィー」と笛 を吹 く。しかし、 すべてお客 のフラッシュに対 応 できるはずもな 元 前 3 世 紀 には イタ リ ア 全土 を 支配 し、 5 その後カルタゴとの長期に及んだ戦争に 勝 利 し 、紀 元 前 1 世 紀 に 地中 海 を制 覇し の治 世は相次 ぐ戦 乱 の時 代 となった。 しかし 、次 第 に 帝 国 住 民 は、富 と奢 りの 生 活 た ・ 栄 光の ロ ーマ ・ニ ュ ー トン プ レス 》 広場に皇帝マルクス・アウレリウス騎馬 像 が あ る。しか し、 当然ながらコピ ー。 し か し、中 の広 い 空間のマルクス 騎 馬 像 は、 さす が に本物とされて い る 。 残 存 する初 を楽しみ、かつこれに惑 溺 していく。 《80 年 以 上にわたるこの幸 せの時代 (紀 元9 6~180年 )に、国 務 はネウル、トラヤーヌス、 ハドリアーヌス、アントニーヌス・ピウス、マルク ス・アウレリウスら の諸 帝 の美 徳 と能 力 に よ っ て 運 営 さ れた 。 こ れらの諸 帝 のも と帝 国 は 繁 栄 したが、皇 帝 マルクス・アウレリウスの死 後 、 ローマは衰 弱 死 そして没 落 への道 をたどる。 ロ ー マ帝 国 の 衰 亡 と没 落 こ そ永 遠 に 人 類 の 記 憶 に残 る革 命 であり、そのことは、今 なおこ 期 ローマ時 代 の傑 作 とされている。 すぐ近 くに、皇 帝 マ ルクス・アウレリウス 記 念 柱がある。 らせん状 のレリーフには北 方 地 方 の戦 争 の状 況 が刻 まれている。彼 の汚 点 として「キリスト教 徒 迫 害」があるとされる。 そ の 彼 の ブ ロ ン ズ像 が 奇 跡 的 に 破 壊 を 免 れ たのは「キリスト教 徒 コンスタンティヌス帝 」と誤 解 されていたためとされている。 の地 上 の諸 国 民 によって実 感 されているので ある。》 帝 政 時 代の ロ ーマ の生 活 本 当 はポンペイに行 きたかったのだが、 午 後 、ローマを離 れる予 定 であったので、ホテル 近 くのローマ国 立 博 物 館 で、ローマ時 代 の生 活 を写 真に撮 ることにした。 この付 近 は有 名 ブランド 店 が 軒 を 連 ね る 。私 は デ ザインを勉 強 しているつも りで、眺 めこんでいると、 私 はマルクス・アウレリウスさえ拝 むことがで きれば満 足な人 間である。 皇 帝 マルクス・アウレリウスの最 大 の弱 点 はバ カ息 子を後 継 ぎにしたことである。 どうしようもない代 表 者 が何 となく(民 衆 はワン ポイントと勝 手 に思 い 込 んで反 対 しない)選 ばれると、その組 織 自 体 を 潰 す。東 京 でさえ アソウ、ハトヤマ、カン 普 段 から私 の金 遣 いに疑 問 を持 つ娘 などはいつの 間 にか近 寄 って来 る。うしろから突 然 「なんの ために女 ものを見 るのよ」と詰 問 する。それ以 来 、あたりを確認 しながら見 る癖がついた。 狭 い面 積 のロ ーマにはおよ そ百 万 人 が す んでいて、大 勢 の人 びとは高 層 アパートに住 む 以 外 に 方 法 が なか っ た 。広 い 地 区 は わず か数 本 の狭 い道 でブロックに分 けられていた。 部 屋 は狭 くて風 通 しが悪 く、 夏 は暑 く冬 は寒 など枚 挙 に事 欠かない。 幾 らでもいる。 「自 省 録 」で知 られる 彼 は 5 賢 帝 の最 後の 皇 帝 である。しかし、彼 かった。下 水 設 備 も水 道 もないため、住 民 は 公 衆 便 所 で用 をたし、水 は中 庭 の泉 からくん でこなければならなかった。水 が、頻 発 する火 事 の原因 の一 つだった。》 6 《エリートとされる裕 福 な貴 族 、行 政 長 官 、 軍 人 、政 治 家 、銀 行 家 、事 業 家 、商 人 たちはテベレ川 対 岸 の大 邸 宅 か、 美 しい庭 、大 理 石 のポルティコ、柱 廊 の大 広 間 、風 呂 、プールのあるやかたに住 んだ。そうしたやかたの何 十 とある部 屋 はスギ 材 の 家 具 やコリント製 の花 びん 、高 価 なカー ペット、オリエント地 方 の織 物 や錦 で飾 られて いた。》 描 かれていた。 《金 持 ちと貧 者 の食 べ物 には明 らかに大 きな 差 があった。貧 しい人 びとの食 事 はパンとス ープ などの簡 単 なものだった 。富 裕 の 人 びと は奴 隷 な どの給 仕 で何 時 間 も か け て豪 華 な 《ローマ人 が簡 素 でスパルタ式 に近 い生 活 を していた時 代 には金 持 ちと貧 者 の食 べ物 に は明らかな違いはなかった。 しかし、ローマがイタリア南 部 とシシリアのギリ 食 事をとった。》 (中 略 )貧 しい人 びとの夕 食 は残 り物 のスープ を食 べ、御 馳 走 と言 っ てもイシシアという 、肉 団 子 をほかの材 料 シャ人 居 住 地 と交 流 するよ う にな る と、 彼 らの洗 練 された 食 事 にならう よう に なった。》 高 価 な 食 器 が 揃 え ら れ 、 壁 には 緑 の 景 色 が 7 といっしょに熱 湯 で調 理 したものだった。金 持 ちの夕 食 は奴 隷 たちが夥 しい数 の料 理 (イノ シシ、子 ヤギ、ロブスター、野 菜 のパイ 、チー ズ、異 国の果 物 )をワインとともに用 意した。》 治 世 者 は市 民 の暴 動 を怖 れ、最 低 限 の食 料 と娯 楽を提供 した。「パンとサーカス」である。 パ ン と サー カ ス 80 年 に行なわれたコロッセウムの落 成式 では、 祝 典 行 事は 100 日間 つづけられ、2 千 人の 《ローマ人 は浴 場 で数 時 間 すごして元 気 を回 復 すると、いよいよ競 技 場 や劇 場 や円 形 闘 技 場 の見物 に出 かけた。》 剣 闘 士 と 9 千 頭の動物 が犠牲 となった。剣闘 士 のほとんどは捕 虜 や奴 隷 や罪 人 であり、武 器 を持 って闘 うための特 別 な訓 練 を受 けてい て、1 対 1、あるいは集 団 での決 闘も行なった。 (中 略 ) コロッセウムで行 なわれる闘 いは、剣 闘 士 同 士 で あ れ 、 ク マ と ラ イ オ ンの 格 闘 であ れ、残 酷 きわまりないものだったが、窮 屈 な自 宅 にも どっ て一 日 を終 え る前 にロ ーマ人 は 、 どう し ても こ れを 見 ずにはい ら れなか った 》 上 は憩 いをとる剣 闘 士 。彼 らにとって光 っている ところに地獄 があった。 あ ら ゆ る悪 徳 が横 行し た ロ ーマ (帝 国 ができ て 10 年のう ちにローマ 社会におけ る家庭は大 きく変 貌 をと げた。もはや、 家庭 は共和国の 図 は市民 。 《ローマ人 に最 も人 気 のあったのは、後 にコロ 基 盤 となる強 さと富 のとりでではなくなった。贅 沢 三 昧 、堕 落 した道 徳 、既 婚 婦 人 と若 者 の 自 由 の拡 大 が家 庭 の絆 を弱 め、父 親 の権 威 をいちじるしく失 墜 させた。(中 略 )セネカによ れば恋 人 が 2 人 だ けしかいない妻 をも つローマ人 の夫 は 幸 運 だという。既 婚 婦 人 は夫 が朝 早 く 家 を出 かけると、美 し さに磨 きを か ける ために、沐 浴 ・ミル ク風呂・マッサー ジ・洗 髪・髪結 いなどに 3 時 間はかけていた。 たくさんの衣 装 を持 ち、金 持 ちの婦 人 は絹 の ッセウムとなった 円 形 闘 技 場 で行 なわれた催 しだった。ティトゥス帝 時 代 の紀 元 8 ラ ンジェ―、 高 価 な素 材 でできた トゥ ニカ、ハ イ ヒ ール、 ハ イヒ ール、ブ ラ ジャーと冬 用 の毛 皮 を欠かさなかった。》 ゼウスの娘である「愛の女 神 アプロディーテ ー」は女 性だけに快 楽を与えるのではなく、男 性 をも愛の喜びの受益 者 、享 楽者 にすること を実 証 するために、愛人 ヘルメスとのあいだに 男 女 両 性 を具 有 する子 供 を 産 んだ。 紀元前が紀 元 に代 わる頃 、 ローマ文 学 は その黄 金 期 を 悪 徳 を 極め た ロー マ す べて の 悪 徳 はロ ーマ 時 代 で完 結 し てい 迎 えた。ウェル ギリウスなどと 共 に「恋 愛 指 南 」を書 いたオウィディウスが一 翼 を担っていた。 《共 和 制 から帝 政 へと移 行 しつつあった当 時 のローマは、打 ち続 いた戦 乱 、内 乱 がアウグ ストゥスの戦 功 によってようやく収 束 し 、「ロー マの平 和 」を楽 しむ人 びとの心 は安 逸 と奢 侈 たといわれる。歴 史 は繰 り返 しているにすぎな い。さて、愛 の相 手 を異 性 ときめつけたのはキ リスト教 かもしれない。ギリシャそしてローマ時 代 はそうではなかった。 女 性 が驚 いて腕 を組 んでしまった このレプ リカは半 陰 陽 の神 ヘルマプロディートスであり、 「お尻 の美 しい女 神 ・アプロディーテー」の子 供 である。 を求 めるに急 であった。ローマ古 来 の質 実 剛 健 な気 風 は廃 れた。オウィディウスが称 えてや まない「都 雅 」こそが、「金 色 燦 然 たる」ローマ の人 士 にふさわしいものとされていた。アウグ ストゥス帝 の娘 ユリア、さらには孫 娘 ユリアの不 行 跡 が如 実 に示 している ように、風 紀 また大いに 乱れ、淫風 がローマを 覆ってもい た。 これに危機 を感じた皇 帝 は前 18 年 に厳 罰をともなう姦 通禁 止 令を 9 発 布 したが、焼 け石 に水 であった。(中 略 )解 放 奴 隷 の女 を相手 に享 楽 を求 める男 たち、ア ヴァンテュールを求 める人 妻 、それを狙 う若 い 男 たちというふうに、「愛 の戦 い」の場 としての ロ ーマは 沸 きか え っ ていた 。恋 愛 指 南 ・沓 掛 良 彦 訳 岩 波 文 庫の解説 》これに異 性・両 性の したがる人 々の嘘 と気取 りを見 逃がすことがで きないのは周 知のとおりだ。》 博 物 館 に佇 んで考 えれば、旅 することの貴 重 さが分 かる。「人 生 は、無 といえる素 材 粘 土 が 変 化 していく個 人 的 な物 語 」である。そして、 短 い時 間 で、 我 が魂 や 肉 体 は与 え ら れた 環 境 で「選 択 し、行 動 するした」と思 うかもしれな 組 み合 わせが ある わけ で 、いう な れば 、現 代 の テレビである。わが渡 辺 氏 はこれに似 た本 を書 いたが所詮 「毛細血 管 のうごき」である。 日 本 人がポンペイに憧れるのは、このような 「愛 の行 為 」の絵 画 が町 中 に存 在 すると誇 大 宣 伝 されているからであろう。「秘 儀 荘 」なる言 葉 は(すっかり彼 方 に行 った)DNA を刺 激 する。 本 当 はポンペイに行ってもなにもない。 博 物 館 に行 くか、(消 費 者 だから堂 々としてい ればいいのに)赤 面 しながら買 った私 の蔵 書 を見 れば、2 千 年 前で完 成 されたものが確 認 できる。 《ローマの 性 的 傾 向 やポンペイの壁 を埋 める エロティカを理 解 するには、二 千 年 に及 ぶユ ダヤ ・キリスト教 の教 えによ る先 入 観 を ある程 いが、結 局 、未 完 のまま土 に帰 って行 く」に過 ぎない。 ローマを離れフィレンツェへ発つため にローマ・テルミニ駅に行ったが、やは り 、こ こ は危 険 がいっ ぱ い の場 で あっ た。 切 符 は 前日 に 駅に 来て 予 約 して い た 。 少し時間があったので、ベンチに旅行 鞄 を 置 いて 、 終着 駅を 撮 っ てい た 。 30 歳 くら い の男 性が 、 私 を指 さ して 、何 か言う。「写真に写るとまずいカップル かな」と考えた。「はいはい」と会釈し ていたが、指先をしきりに動かす。「変 だな―」と考えて、ハッと思った。あれ は、私に対する警告だ、と。慌てて、荷 物のあるベンチに帰ると中年の男が、私 の旅行鞄を動かし始めていた。私が勢い よ く 近 づい た ので 、彼 は 逃 げる よ うに (事 実 逃 げ たの だ が )去っ た 。後 2 分 遅け れば 、 す べ て のも の が失 われ て い ただ ろ う。 警告者にありがとうと言おうとしたが、 すでに彼の姿はなかった。置き引きやス リの犯罪を未然に防ぐ警告は命がけの事 である。後日、思いがけない手段で仲間 度 払 拭 する必 要 があるかもしれない。初 期 の 遺 跡 発 掘 者 の 多 く はエ ロ ティ カを 見 て 、 ポン ペ イ の 生 活 が 性 的 に乱 れ て いた 証 拠 だ と考 えた。だが、社 会 の性 的 道 徳 観 は深 く埋 もれ ている場 合が多 く、奔放 な性 体験を進んで話 10 に 復 讐 を受 け る恐 れが あ る から で ある 。 喫茶店に入り、危険なテルミネの生態を 監 視 し た。 挙 動不 審者 が 何 人も い た。 発車時間が迫ったが、切符には何番線 というか記入がない。駅職員に尋ねた。 彼は切符を見て、「この時間の汽車は出 ていない」という。慌ててしまう。が、 彼 が 指 さし て いる のは 到 着 時刻 で ある 。 彼は謝りながら「その列車はあの一番線 のだ」と断言する。なんか変だなと思い ながら乗ったその列車は各駅停車だった。 女性の車掌は特急一等の切符で鈍行の普 通席に乗っているドジな日本人を見て、 笑いを堪えるのに必死のようだった。き っと、その日は仲間たちで笑い転げてい た で あ ろう 。し かし、誰 が悪 い と思 うか ! (つ づく ) 11 12
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