Digital Human Symposium 2009 March 4th, 2009 ヒューマンエラー対策の技術 Technology to prevent human error in office 中田 亨*a Toru Nakata *a [email protected] 1. ヒューマンエラーの考え方 1.1. ヒューマンエラー問題の広がり ヒューマンエラーを専門とする工学者が、従来 はそれほど縁の無かった、金融や医療業界から相 談を受けることが増えている。金融では、業務で のヒューマンエラーはリスクの一種であるとし て、その統制を徹底するように当局に迫られてい る。医療ミスは、人命に関わりかねないが、その 根絶は多忙で複雑な医療業務において容易では ない。訴訟リスクを恐れて医師が減り、ますます 現場が多忙になるという悪循環の危険が指摘さ れている。 ヒューマンエラーは、業種を選ばない。大事故 の例を少々挙げよう。 ◇ 証券会社が、株数と株価を取り違えた取引注 文をしてしまい、数百億円を損してしまう。 ◇ 病院にて、患者に薬剤を投与する際に、胃管 と静脈点滴の管とを取り違えて薬剤を注入し、 患者は死亡。 (現在は、管の直径を点滴官と胃 管とで違えるという「フール・プルーフ(う っかり防止対策)」が普及しつつある。) ◇ 管制官から離陸許可を受けたものと勘違いし て、飛行機が勝手に発進し、他機と衝突する。 (史上最悪の死者数を出した一九七七年テネ リフェ空港事故。) 1.2. 文明の利器が被害を拡大する ヒューマンエラーのもう一つの特徴として、巨 大な被害が発生しえることが挙げられる。前述の 例のように、大量の注文が指先ひとつでできるコ ンピュータシステムや、大人数を載せられる飛行 機といった「文明の利器」を使っているために、 ワンミスだけで会社が傾きかねないほど甚大な 被害が発生することもありえる。 昔は、ヒューマンエラーは地味な存在であった (図1参照)。もちろん人間の間違いによる事故 は起こっていたが、それ以上に機械の故障や工学 的に未知の現象による大事故が目立っていた。し だいに、故障対策技術が成熟し、どの産業業種に おいても、非人為の事故件数は概ね頭打ちになる。 一方、人為ミスは機械が複雑化したためにむしろ 増え、その被害を文明の利器が拡大しているのが 現状である。 波及 効果 1970年ごろ 機械故障 未 知現 象 ヒューマン エラー 機械故障 未知現象 ヒューマン エラー 機械故障 未知現象 ヒューマン エラー 50年前まで 現在 なまじ自動化したので 被害が大きい 図1.ヒューマンエラーが事故原因の主役に *a : (独) 産業技術総合研究所デジタルヒューマン研究センター 1.3. ヒューマンエラーを防ぐ3つの能力 実は厳密に言えば、「エラー」という言葉は使 うべきではない。エラーは事故の原因でなく、事 故の見た目にすぎない。 代わりに「不確実性」の概念を使うべきである。 不確実性は、データにも、事務処理作業にも、ソ フトウエアにも、ハードウエアにも、必ず存在す ると覚悟すべきである。 不確実性を許容範囲内にコントロールするこ とこそが技術の主眼である。DVDに少し埃が付 いていても視聴できるデッキで無ければ売れな い。 ヒューマンエラーをコントロールするために は、3つの能力を構築すべきである(表参照) 。 異常検知力が一つ目。事故になる未然に、危険 を見つけ、警告を発せられる能力である。例えば、 先の冷凍餃子中毒事件では、餃子の中に毒が混入 していることを見抜ける体制になっていなかっ た。 このように異常検知力が不足すれば事故が起 こる。したがって異常検知力向上が最重要である。 第二の力は、異常源逆探知能力。どこが異常の 始まりかを判定できる能力である。トレーサビリ ティとも言う。 異常源逆探知能力が不足していると、事故復旧 コストが膨大になる。よって異常検知力に次ぐ重 要度がある。 餃子事件でいえば、多段階の検査と、作業履歴 の保全が十分だったなら、餃子にいつどこで毒が 入ったかを判定でき、原因究明と、不良品の範囲 の特定、再発防止策の立案が的確かつ早期にでき たであろう。 第三の力は、確実実行能力である。なるべく不 良品を作らずに作業をこなせる能力である。 確実実行能力はランニングコストに直結する ので平常時に注目を引く。不良品を作らない作業 員は、優秀に見える。 確実実行能力の過大視には、我々が抱いている 「無謬への尊敬心」も一役かっている。我々は、 誤字が一つも無い手紙を見れば感動し、長台詞を 淀みなく吐き出す名優を尊敬する。 とはいえ、現代の産業の現場では、確実実行能 力と異常検知力とは異なるものであり、相関すら しないと考えるべきである。幾多の工程に分かれ、 多数の要因が関与する業務では、「上から流れて きた作業を迅速かつ完全にこなす」ことがベスト とは限らない。餃子を速く包めば良いのではない。 異変が無いか検査し、作業履歴を記録することに 時間をかける作業員こそ表彰すべきである。徒然 草の「吉田と申す馬乗り」も同じ意見である。 表1.ヒューマンエラーを防ぐ3つの力 意味 不足だと 対策優 先度 異常検 知力 作業内容に異 常が潜伏して いることを検 知できる能力 事故頻発 大 異常源 逆探知 力 どこからが異 常かを逆探知 できる能力 事故復旧コ ストが跳ね 上がる 中 確実実 行能力 少ない失敗率 で作業を実行 できる能力 通常作業の ランニング コストが増 加 小 2. 防止策の技法 実務担当者の間では、ヒューマンエラーの防止 は難しいと考えられている。万里の長城も穴が一 箇所あれば無用の長物。防御策の構築とは、全て の穴をふさぐという骨の折れる地道な作業であ る。 ヒューマンエラー防止策は、リスクの洗い出し、 方針の決定、防止策の定石の適用という3段階の 検討を行い導入する。 2.1. リスクを洗い出す 業務で起こりえる事故を想定する手法として、 きっかけ演繹法(イベント・ツリー・アナリシス、 ETA)と、結果帰納法(フォールト・ツリー・ アナリシス、FTA)とがある。 きっかけ演繹法とは小さな出来事が大事故に 発展するスキがあるか探し、見付かればそれをふ さぐ対策を検討するものである。まず、業務環境 で起こりえる小さな異変を思い浮かべ、図の左方 に書く(図2)。次に、それが引き起こし得る出 来事を右に書き出し、その出来事が引き起こすよ り深刻な事態をさらに右方に列挙する。こうして 大事故への道を見つける。ただし、この方法は考 え出すとキリが無いという欠点がある。 2.2. 多面的に防止策を考える ヒューマンエラー事故の防止策として、最もあ りがちなものは従業員を指導し注意徹底すると いう訓導策である。 しかし本当に、ミスの原因は人の注意力不足な のだろうか。現実の事故は、使いにくい道具を使 わされる多忙な職場で起こっている。作業員の注 意力だけに頼るには無理がある。 問題を多面的に捉えて、防止策を選ぶことが肝 要である(図4参照)。 桶屋が 例えば、間違いFAXによる情報漏洩という事 儲かる けが 故に対してはこう考える。「しなくて済む方法」 としては、FAX使用の廃止。 「作業手順の改良」 仮設物の 風が吹くと 工期遅れ としては、複数人によるFAX番号確認。「道具 倒壊 装置の改良」としては、番号管理が簡単明解なF 欠航 荷物遅れ AX機への買い換え。「やり直し可能化・致命傷 波浪 回避」としては、FAX文面の暗号化。 奥の手の「問題現象の有効活用」に、重要なF 塩害 AX送付を速達書留郵便に切り替える策がある。 これはコストはかかるが、我が社は情報セキュリ 図2.きっかけ演繹法(ETA)の例 ティに金を掛けているというアピールになる。 2.3. 防止策の定石 破棄し忘れ 機密情報に ヒューマンエラー事故防止には異常検知力が 接触可能 パスワード無し 最重要であると前回述べた。作業員の異常検知力 機密情報 を向上させる方法には、次の常套策がある。 漏洩 送付先誤認 1. 正常使用強制法:作業員が非正規な使用を 誤メール 漏洩ルー すると作業を止める仕掛け。例えば、電車 風呂敷残業 トが存在 鞄紛失 の操縦レバーは両手で握っていないとブ 渉外業務 レーキがかかる。 2. 小事故誘導法:作業員が漫然としていると、 図3.結果帰納法(FTA)の例 小さな事故を起こし、それで異変に気付か せ、大事故には至らせな い仕掛け。例えば住宅街 問題現象の しなくて済む の入り口には道路が盛り 有効活用 問題の捉え方 方法を考える 上げてあり、速度超過の 「前提条件 「認識の 車は通るときに飛び上が の問題だ」 問題だ」 る仕掛け。 「やり方の 作業手順 「致命的で 3. 興味向上法:作業に楽し の改良 問題 問題だ」 なければ可」 さや美しさを与え、退屈 しないようにする。例え 「やり直せ 「道具と装置 ば田植え歌。茶道の作法 ればよい」 の問題だ」 も美の追究欲求を刺激す る。 ソフトウエア改良 復旧手段充実 ハードウエア改良 4. 達成感保留法:人は「よ し終わった」と感じると、 図4.問題を多面的に捉える 特定の事故を防ぐ目標がはっきりしているな ら、結果帰納法の方が効率的である。 結果帰納法では、まず防ぐべき惨事を右方に書 く(図3)。次いで、きっかけ演繹法の逆の要領 で、その事態が成立するための条件を左方に書い ていく。作成した図を見て、大惨事の成立条件を 把握し、条件を崩すように策を構じる。 結果帰納法の欠点は、想定した惨事以外は検証 できないことである。 非常用装備 5. 6. 7. 8. 9. その後の処理をおろそかにする。よって、 達成感を感じさせる手順は最後に置くべ きである。例えば、銀行のATMは引き出 しの際、現金を作業の最後で出す。先に出 すと、通帳やカードを取り忘れる客が続出 する。 五感総動員法:作業で五感を多彩に使うと、 脳全体が刺激され注意力と記憶力が向上 する。例えば、指差喚呼では、手足を動か し声を上げるので、漫然状態にならない。 なぞらえ法:作業状態をなぞらえる物体を 使って勘違いを防ぐ。食堂の食券はその例 である。 ゾーニング法:人・モノ・作業の場所を指 定し、流れを統制する策。具体的には、入 口と出口の峻別、逆流の不許可、滞留物置 き場の指定等。道具の勝手な持ち運びを許 さないので、必然的に浄机が保たれる。衛 生、紛失防止、防犯に顕著な効果がある。 二人作業班法:一人が質問を発し、他方が それに答えることで状況確認を確実にす る。ソフトウエア製作でのペア・プログラ ミングが代表例。 社会化法:作業者に顧客が身近にいること を意識させ、おろそかな仕事をしにくくさ せ、技量の向上心を刺激する。例えば、客 から見えるキッチンでは料理人は手を抜 きにくい。生産者の名前が見える野菜、銘 の入った美術品などは、あえて顕名にする ことで仕事に責任と誇りを持たせる効果 がある。 3. 年金はなぜ消えた? 事務ミスに関係する事件で、最も広範囲に影響 を及ぼしているものは年金記録問題であろう。し かし、これは特殊例とは言えない。年金システム は、極めて高性能なシステムである。だが、昔な がらのシステムにありがちなことだが、ヒューマ ンエラーに対する免疫には欠けている。「システ ムに信頼性がなくてよいなら、それ以外のどんな 目標でも満たせる」(ワインバーグ)の格言のと おりである。 高度経済成長期に電算化されたシステムの多 くは、年金システムに似た欠点を抱えている。よ って、他山の石とすべく、この問題の原因を分析 してみよう。 3.1. ミス発覚の遅さと書類保管期限の短さ 年金データを入力する時にミスがあっても、そ れが露見までに数十年の時が流れる。記録ミスが あっても、そんなに昔のことは、他に証拠書類も ないし、記憶も定かでない。ミス修正は困難を極 めている。 一般に、データの入力時点と使用時点との間に は潜時期間がある。潜時が長いと事故の元凶とな る。時の流れは、情報をバックアップする証拠を 消し、記憶も消す。また、すぐに発覚しないこと で、同種の入力ミスが蓄積されがちである。 潜時は工夫で縮められる。データの権利者がい つでもデータを見られる体制にし、また権利者に 定期的に状況報告を発送することで潜時問題は 解消される。 教訓:顧客自身の情報は顧客に見せること。 3.2. データ表示の読みにくさ 上記の反省に立って、最近、各自の年金データ を記した「年金特別便」が送付された。しかし、 これには加入期間は書いてあるが、欠けている期 間は即座に読み取れないという苦情が付いた。 文書のレイアウトは、見つけたいものが一目で 確実に読み取れなければならない。 それでも年金特別便はデータ体裁を整えた方 であり、年金システムが見せるデータはもっと読 みにくい。パンチカード時代の遺風で、やたらと 数字符号化されており、例えば、データ項目「7」 にデータ「2」などと記録されている。こんな符 号で読み書きするのでは、ミスしても当然である。 他にも昔のコンピュータの旧弊が残存してい る。かつて、データはラインプリンタによって、 行ごとに打ち出された。すると表2のような行方 向に引きずられた表示になる。しかしこの印字レ イアウトは見づらい。表3のように、データ項目 別に列を整理すれば読解は圧倒的に簡単・確実に なる。 4月 5月 産地 量 産地 福島 124 山形 6月 量 産地 287 秋田 合計 量 111 表2.合計計算が難しいレイアウト ? 月 産地 量 4月 福島 124 5月 山形 287 6月 秋田 111 合計 ? 2 3 1 5 4 6 表3.改良したレイアウト 図6.欄の読み落としが発生しやすいレイアウト この例のように、書式の工夫で読みやすさが飛 躍的に向上することをポップアウト効果という。 ポップアウト効果を利用した傑作例が米国の通 関申告カードである(図5)。欄が縦一列に並べ てあるので、次に書く欄が簡単に見つけられる。 悪い例は図6のような非直線的な配置であり、書 き漏らしを誘発する。図7のように直線配置に直 すべきである。 また、通関カードでは記入欄以外の地に色が塗 ってある。空欄があるとそこだけが白く残り目立 つので、書き漏らしに気づきやすい。 さらなる工夫として、イエス・ノーのチェック 欄の左右位置が揃えてある。通関申告を要するイ エス回答があると、そこだけ左に飛び出している ので、簡単に発見できる。 これら工夫によって、不慣れな旅行者でも書き 漏らし無く記入できる。税関職員も大量の申告書 の中から対応すべきものだけを拾い上げること ができる。 教訓:人間の注意力はレイアウト次第。 1. お名前 2. ご住所 3. 国籍 4. 商用旅行? Yes No 5. 食品携行 ? Yes No 6. 大金携行? Yes No 7.所持金額 $ 図5.米国通関申告カードの概略 1 4 2 3 5 6 図7.欄配置の改良 3.3. フールプルーフ不足 フールプルーフとは、人間のミスを無害化する 仕掛けのことである。データ入力はミス多発作業 であり、フールプルーフ無しでは成り立たない。 年金システムはこの点でも問題があり、氏名が 欠けた年金記録という極端な例までが見つかっ ている。本来なら、氏名が無い異常なデータはシ ステムが受け入れないように設定すべきであっ た。 現代の技術定石では、入力方法にはウィザード 形式を使うことになっている。コンピュータの方 から、入力すべき項目を順に聞いてくるので、入 力漏れがない。 また入力事項の確認には、コンピュータに人工 音声で読み上げさせるとよい。目視確認と聴覚確 認を併用すると勘違いが減る。これは前回紹介し た五感総動員法である。 なお、フールプルーフ策が万全と思えても、 顧客が自身のデータを観察できる体制は必要で ある。顧客は、データの正解を知っており、デー タにミスが無いかに最も関心を持っているから である。 教訓:データはまちがいを含んでいる。
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