﹃岡山の記憶﹄、第5号、2003年、118頁∼119頁 無残な 死出の穴 づくり 山本 正夫 をいつかは若者が降りて、ふたたび帰って来ない旅に出るのだ ― 昭和18年11月華北より帰還し翌19年2月に私は現倉敷市水島 と思いながら胸をしめつけられるような気持で作っておりまし 海軍機一式陸攻の人間爆弾﹁桜花﹂ ― にあった3菱重工業水島航空機製作所に入所して海軍機の1式陸攻 た。 ︵G4M1∼3︶を作っていました。私は第2組立に属して胴体組立 の戦線より無傷で帰って来ているだけに、余計に思えてなりま のうち爆弾倉を作り、いわゆる鋲打ち作業をやっていました。 戦争は次第に熾烈となり、学徒動員の生徒や女子挺身隊を相棒に せんでした。私の作ったあの穴からも、幾人かの若者の尊い生 ほんとうに特攻とは無残なことをするものだと、自分が大陸 懸命に鋲打ち1筋に励み、毎日が残業々々の連続で、定時の5時か 命が消えていったことであろうにもかかわらず、戦果は上がら もそれまでは出来てはいない。1機分の爆弾倉が出来れば、そ は6百あるいは7百何十機分であったと思う。完成機は、とて 最初のG4M1の1号機から数えて、私の作った爆弾倉の号数 産!﹂と尻をひっぱたかれながら、何号機まで作ったであろうか。 終戦となり1式陸攻の製作も終わりました。思えば﹁増産!増 その後工場もB29の爆撃によって大半が被害を受け、やがて ︶ 2002.10.1 、 なかったようにみえました。ほんとうに残念でした。 No.13 ら3時間半の残業を強いられていました。 爆弾倉内の爆弾 いつからだったか爆弾倉に設計の変更があり、機内の床より直接 爆弾倉内に降りる穴を作ることになりました︵注 を吊るす天井の上は機内の床になっています︶。後にいわれた〝桜花 装備〟︵会社ではマルダイ装備︶というもので、爆弾倉の中に特攻兵 器の爆弾﹁桜花﹂を積み、この中に人が乗り込んで操縦し体当りを する人間爆弾に乗り込む穴です。この桜花は大きく、1式陸攻に取 り付けると弾扉︵だんぴ︶を締めることができないので初めから取 この桜花に乗り込むための死出の花道は、1辺500ミリの正方 完成されたものは何十機と言うくらいではなかったかと思われ マル大装備も中途からなので何機分を作ったか記憶はないが、 れに白墨で番号を書き込んでいたのでそのように思われる。 形、厚さ12、3ミリぐらいの穴でした。この500ミリの穴を作 ます。 り付けられず、下から見ると弾倉は丸見えの状態でした。 るために、誠に手数がかかりました。でも作りながら、この穴の中 死出の花道のことを忘れることができません。撃たれるとすぐに発 見るにつけ、在りし日の勇姿をしのび、またマル大装備といわれた 最近のテレビで、当時のニュース映画を見ていて1式陸攻の姿を て、リブ︵骨組み︶の間は全部内側にへこんでしまっていた。 水島の工場の被弾でその前に置いてあった1機も爆風をうけ 今度は岡山市が大空襲をうけ、私は身重の妻と2人で逃げた。 以後は、工場の片づけばかりだった。1週間後の29日未明、 人間爆弾﹁桜花﹂ ら﹂読者応募手記に採用され掲載されたものです。 ︵1980年4月︶の特別企画1億人の証言﹁兵器増産の現場か 前半の文章は、毎日新聞社﹃別冊1億人の昭和史 兵器大図鑑﹄ 付記 原子爆弾で、私は被爆した。 社を辞め、入営した。今度は広島の工兵隊だった。8月6日の 工場の片づけの最中の8月2日、第2回目の召集がきて、会 い。 これでは使い物にならないが、この機がどうなったのか知らな 火するので、﹁ライター﹂と仇名がつけられたとかですが、燃料タン クの組立ての人々の苦労を思えば、ほんとうに腹がたってなりませ ん。 * 当時、従業員は男性が兵役で少なかったのか、女子挺身隊や学徒 動員の女の子がたくさん入っていた。私のところにも岡山女子師範 の生徒さんで津山出身の人が入ってきて1緒に鋲打ちをやった。こ の女性は本当によく働いてくださって、よい相棒だった。現在はも う先生を辞められていることと思う。できることなら、もう1度逢 いたいものだ。 20年6月22日、水島の工場はアメリカ軍の爆撃を受けた。当 日は工場が休みだったので出勤していなかったが、岡山の家でも﹁ド ロドロ﹂という爆発の音が聞こえてきた。翌日出勤してみると、私 特攻機で、いわゆる爆弾に操縦席と翼を付けた人間爆弾。敵艦船 ﹁海軍空技廠が昭和19年に開発した火薬ロケット推進方式の 直径十数メートルくらいの大穴があき、深さ5メートルくらいの底 の1撃轟沈を目的として製作された必殺必死の特攻兵器。敵艦 が仕事をしていた爆弾倉の治具のあたりに大型爆弾が落ちたのか、 には水がたまっていた。 れていることだろうと思った。それまで空襲警報が出るたびに、職 こんな大型の爆弾を落とされては、休日でなければ相当の人がやら キロで命中すれば1撃で艦船を轟沈させる威力があったが、母 という飛行機。桜花という名前が悲しい。頭部の爆弾は800 れ、滑空とロケット推進により敵艦船に人間もろとも突入する 船附近まで母機の下部に吊るし、目標近くで母機から切り離さ 場の電気ドリルだけ持って1目散に工場を飛び出し、北の亀島山の BAKA BOMN 機︵1式陸攻、銀河︶もろとも目標地点以前で撃墜される事が http://www.biwa.ne.jp/ yamato/plane.htm と呼ばれ、終戦時までに750機が製造された。﹂ 多く、戦果はあまりあがらなかった。米軍からは トンネルの中にあった機械工場の中へ逃げ込んでいたが、大儀なと きは逃げずに治具の下にもぐって隠れていることがあった。こんな ことをしているときだったら、ひとたまりもなく死んでいたことで あろう。
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