経済人の軍国体験:教育機関としての軍隊

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人間情報学研究,第18巻
2013年,95~119頁
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− 研究ノート −
経済人の軍国体験:教育機関としての軍隊
片瀬 一男*)
Military Experiences of Japanese Post-war Managers:
Army and Navy as Educational Institutions
Kazuo KATASE
Abstract
We discussed the meaning of military experiences for Japanese post‑war
managers.
Recently, some historians and sociologists had focused Japanese army and
navy as educational institutions. We introduced these discussions and
examined “My Record of Mangers“ (Watashi‑no‑Rirekisho). These
mangers had endeavored Japanese post‑war economic growth. We found
that their military experiences contributed their economical and technical
activities in post‑war period in various ways.
Keywords: Japanese army and navy, military experiences, total institution,
discipline.
*
東北学院大学教授 Tohoku Gakuin University
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1.
「宙ぶらりん」な軍国少年
『その日東京駅五時二五分発』(西川,2012)
せられた。そして、にわか作りの通信兵は、東
京の陸軍中央特種情報部に送られる。そこでの
は、1970年生まれの映画監督・作家の西川美和
彼らの仕事は、アメリカ軍の発信する無線を傍
が、戦争中、陸軍情報部の兵卒だった伯父の手
受し、その暗号を解読して、アメリカ軍の動き
記をもとに、東京(清瀬、東京駅)と広島──
を大本営に伝えることであった。ただ、新入り
ここは西川の故郷でもあり、小説自体もここで
の彼らが行かされたは、まず清瀬村の訓練施設
書かれた──などを舞台に、2011年2月末から
であった。ここで朝から晩までモールス信号の
書き始め、東日本大震災を挟んで書き続けられ
送受信の訓練を受けた。7月27日朝、ここで彼
た。
らはポツダム宣言が合意されたことを知る。彼
物語は、昭和20(1945)年8月14日の深夜に、
はこう考える。
東京駅を空襲から守るための防護壁の土嚢の上
で、主人公の吉井少年が友人の益岡と寝ている
ところを憲兵に誰何されるところから始まる。
2人は清瀬にあった大本営直属の陸軍通信所の
ぼくは国家とか民族とか、そんなものにほぼ
何の関心も無い。ただ怖い目にあわずに、小さ
な安全を確保された場所で、ひっそりと自分の
生活を守っていられればそれでいい。ぼくは兵
部隊が、終戦の情報を「玉音放送」直前に入手
隊なんかじゃない。上から殴られないように必
し、解散となったために、軍隊手帳や階級章を
死で兵隊面をして頑張っているただの飛行機狂
焼き、故郷に帰るよう上官から命令されていた
のである。吉井の子どもの頃からの夢は「飛行
機乗り」になることで、15歳になったら少年飛
いだ。ぼくには国が負けるということすらよく
わかっていない。わからないからたいして怖く
もない。
西川(2012:59)
行兵に志願するつもりだったが、背が低くとて
もその体格では無理だと周囲からは言われて断
そして、8月7日、主人公はラジオ放送で故
念していた。中学卒業、家業の農家を手伝って
郷・広島への「新型爆弾」の投下を知る。11日
いたが、昭和19年秋に航空機用エンジンの生産
の朝食後、庭に整列させられ、機密書類や通信
工場に徴用された。子どもの頃からの模型作り
機材の処分をさせられ、上官から解散を告げら
で飛行機の仕組みに予備知識があり、手先も起
れる。やがて終戦前日の14日、徽章と軍隊手帳
用だった主人公は、旋盤を習ってエンジン部品
を焼き、帰郷を命じられる。上官に今後の志望
の加工をするようになった。翌昭和20年の4月
を聞かれた主人公は「・・・・・・飛行機を作りたい
に徴兵検査があり、第二乙種合格となって、と
です」と口ごもりながら答える。吉井は、益岡
りあえずは待機となった。
と一緒に武蔵野鉄道と省電を乗り継いで東京駅
しかし、5月半ばには陸軍通信隊への入隊を
にたどり着き、土嚢の上で寝ていたところを誰
命じる召集令状が届き、広島の駅で「万歳」の声
何されたのであった。やがて、東海道新幹線の
に送られ、大阪の部隊に入隊する。ここで知り
始発の時間となった。そして、車中から彼らは
合ったのが、丹波の農家の三男坊の益岡であっ
「玉音放送」に聞き入る人々の群れを目にする。
た。大阪の内務班で、2人は通信兵の訓練を受
軍の倉庫からせしめた干しバナナを食べなが
け、消灯後も幹部候補生になるための勉強をさ
ら、2人は大阪に着く。ここで益岡と別れた吉
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井は、広島に向かうが、そこで目にしたのは廃
2.教育機関としての軍隊 墟と化した故郷の姿であった・・・。
2.1.勉強と試験の社会・軍隊
本書の「あとがき」で、西川はこの小説を執
軍隊が戦時下の国民各層にとって、教育機関
筆した経緯を次のように記している。東京で暮
に留まらず、多様な意味をもったことは、すで
らす伯父が、2010年の夏ごろ、親戚に戦争体験
に小松(1958a,b)によって論究されていた。
を綴った手記を配布した。西川自身は広島に生
小松(1958a,b)は、24人の戦争経験者(内訳
まれたこともあり、子どものころから反戦・平
は「労働者9人、知識人13人、職業軍人2人」
)
和教育をうけてきたが、むごたらしい話が多く、
のライフヒストリーの聞き取りから、国家観や
子ども心に「頭が割れるほどいやだった」。し
軍人・軍隊観、戦争観とその形成過程を再構成
かし、伯父の手記は戦争体験を淡々と綴ってお
しいている。それによると、とくに労働者にと
り、戦争に巻き込まれながらも「完全なるコミ
って軍隊とくに兵営生活は、「無償の食堂ない
ットメントを果たせぬままに放り出された宙ぶ
しは療養所」であったり、「よき学寮」(小
らりんな少年の境遇が、私自身の寄る辺ない気
松,1958b:106、傍点原文)であった。ある者は、
持ちとどこか重なる気がした」
(西川,2011:113)
。
昭和12(1937)年の入隊でも軍隊で英語の学習
そこで、彼女は執筆を思い立ち、伯父に取材を
ができ、昭和17(1942)年の再召集の際にも二
しながら、広島の実家で執筆を始めたが、その
等兵から「マルクス主義の講義」を聞き、戦争
さなか東日本大震災の発生を知る(先の引用に
や国家主義への懐疑を深めたという。しかし、
ある「寄る辺ない気持ち」とは、震災地から遠
このような事例は稀で、多くの者は戦争に対し
く離れた広島にいて、何もできなかった西川の
て積極的に参加・協力するというより、無批判
心境である)。そして、その凄惨な映像をみる
的態度をとり、軍隊生活における教育・訓練は
中で、襲いかかる不安が、戦争を体験した人々
「訓練された政治的痴呆」(小松,1958b:119,傍点
の恐怖を想起させ、この作品を完成させたとい
原文)とも呼ぶべき精神状態を作り出したとい
う。
う。ただし、軍隊教育がもたらしたものは、知
西川に手記を渡した伯父は、「完全な理数系
﹅
﹅
﹅
﹅
﹅
﹅
﹅
﹅
識人と労働者では対照的で、労働者の多くが無
の頭脳の持ち主で、戦後はエンジニアとして働
条件の「国策協力」の態度を示したのに対して、
き続けた」という。おそく西川の伯父は、戦争
知識人は「異常なほどの無関心」(小松,1958b:
中、軍隊で身につけた技術(エンジン製造技術
116,傍点原文)を示し、政治的に熱狂したのは
か情報通信技術)を使って、戦後の復興期から
開戦時の真珠湾攻撃の戦果が伝えられた時くら
高度経済成長期を生き抜いたことだろう。片瀬
いであったという。
(2012)にも述べたように、軍隊は農民をはじ
﹅
﹅
﹅
﹅
﹅
﹅
また、軍隊が階級社会であったことから、
めとする民衆層出身者に、軍事技術をはじめ、
「兵営生活は勉強と試験の社会」であった。し
さまざまな知識・技能さらには規律を教授する
たがって、「特に上等兵への早期昇進が約束さ
教育機関でもあった。
れた模範兵」は、内務書や教範類を私費で購入
しても勉強する「学校」であり、「尋常・高等
小学校の学習から離れて久しい青年期におい
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て、非常にいびつではあるが、学力を回復し、
制を標榜しつつ、「必任義務徴兵制」を確立さ
向 上 さ せ る 役 割 を 果 た し て い た 。 ・・・( 中
せた。それは翌年の帝国議会開設に先立って、
略)・・・[兵役教育は]通俗的な道徳、身体訓練、
議会での議論の収拾がつかなくなるのを回避す
学力の回復などを複合した機能を果たしてい
るための措置でもあった(遠藤,1994:662)。明
た」ことになる(荒川,2006:127‑128 [ ] 内引用
治の天皇制国家の確立期(1870‑80年代)には、
者)
。片瀬(2012)でも触れたように、広田(1997)
1つには軍制と学制を統一的に把握することで
は、戦前期の陸軍における士官や士官志望者
天皇制による国民統治の確立を狙う流れ(山県
(陸軍士官学校生や幼年学校生)の軍人精神の
有朋・井上毅ら)、もう1つは文明開化や資本
中核にあったのは、内面化された天皇制イデオ
主義の発展をめざして、軍隊教育と学校教育を
ロギーではなく、彼らが特異な仕方で形成した
統合する流れ(山田顕義、森有礼ら)が併存し
立身出世主義であったと指摘していた。広田
ながら軍隊と学校の相互浸透ないし統合がはか
(1997)によれば、陸士教育は国家への「奉
られていった。その後、大正末期から昭和初期
公=孝行=出世という同値化によって、立身出
(1920年代後半以降)にかけては、現役将校学
世を積極的に肯定する心理構造の形成へと導か
校配属(大正14=1925年)に象徴されるように、
れていった」
(1997:380)とされ、こうした心
軍部は学校教育に対する支配を強めていった。
性が陸軍士官学校の出身者が戦時体制の担い手
そして、この時期、国民(ただし男子)が兵役
層として参戦していった際のある種の「自発性」
義務を有して軍隊で教育を受けるがゆえに、軍
の源泉であったという。こうした立身出世主義
隊教育も国民教育の枢要な部分であり、軍隊教
は、荒川(2006)によれば、階級社会であった
育をもって国民教育が終了するという考え方が
軍隊において、士官だけでなく下位の兵卒にも
一般化したという。遠藤(1994:665)によると、
内面化されていたのである。そして、片瀬(2012)
この背景には、日本陸軍がフランスの平等主義
でも指摘したように、立身出世のエートスは、
な軍隊教育を退け、軍隊を国民の「学校」とみ
戦前の職業軍人(少年志願兵や士官)への志望
なすドイツの軍隊教育を受容していったことが
者にとって、戦後も引き継がれていた。彼らは、
あった、という。
戦前戦後を通じて才能+努力のメリトクラティ
ックな立身出世主義の価値意識を内面化してい
たと考えられるのである。
2.3.大正・昭和前期おける軍隊教育の形成:規
律化の強化
この遠藤(1994)の研究を受けて、荒川(2007)
2.2.明治期における軍隊教育の形成
は、「男性性」の形成という観点から、大正期
こうした軍隊教育が近代日本の教育史、わけ
から戦時中までの軍隊教育=学校としての軍隊
ても「必任義務徴兵制確立」後の国民教育にお
の変容を跡付けている。荒川(2007)が扱った
いて果たした役割は、遠藤(1994)によって、
のは、主として内務書や操典類に現れた陸軍歩
学校制度や社会教育などとの関連も含めて、包
兵の現役教育(兵役中の教育)である。それに
括的に論究されている。それによると、明治22
よると、まず大正7(1918)年に改訂された
(1889)年の徴兵令改正は、本格的な国民皆兵
『軍務内務書』に在郷軍人に関する規定が盛り
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込まれたが、これによって①兵営教育を受けた
でもあった。フーコーによれば、監獄や学校と
男子には「国民の中堅」との「お墨付き」が付
並んで、軍隊は規則を強力に内面化させ、それ
与され、②学校教育と兵営教育からなる国民教
に自発的に服従する身体を創りだす装置であっ
育を受けた「模範的国民」と認められたという。
た。それによって、もっとも効率的に監視が機
そして、隊営後も「在郷軍人」という模範的人
能することになる。
「兵士の理想像」について、
間として「規律化」されたという。こうした在
フーコーは、次のように述べている。「兵士と
郷軍人の地位の向上は、「地域と軍隊が連携し
は第一に、遠方から見分けのつく人物である。
た兵士の個人情報管理を一層強める」ことにな
いくつかの表徴、たとえば頑健さと勇気という
ったという(荒川,2006:116‑117)
。
生まれつきの表徴を、さらには誇りの目印をも
しかし、この『軍務内規書』は、第一次世界
����
つものであり、兵士の身体が力および勇ましさ
大戦中から戦後の大正デモクラシー期に起こっ
の章紋である。しかも・・・・行進のような教練、
た民主主義や人権尊重といった国民世論の変化
頭の向け方のような姿勢は、主として、名誉を
を背景に大幅に改訂された。この改訂は、思想
旨とする身体の修辞学に属している」
���
対策としての国体の強調と並行して内務規則の
(Foucault,1975=1977:141)。つまり、軍隊によ
緩和とそれに伴う兵士の自主性の尊重を特徴と
る規律化は、勇敢な精神と頑強ではあるが従順
するものであった。
な身体を、その軍事教練を通じて訓育するもの
まず国体の強調に関してみれば、国民精神が
である。
大和魂(軍人魂)であることが強調され、「武
ところが、日本の場合、何回かの紆余曲折を
人」的男性像を前提とした軍人精神教育が国体
経るものの、昭和3(1928)年に改定された
論を中枢に据えるべきという考え方が前面に押
『歩兵操典』の審議過程では、第一次世界大戦
し出された。これによって、「男性としての評
における機関銃などの火器重視の戦闘への対応
価軸に、国体論的なイデオロギーが影響し始め」
が迫られ、日露戦争後に確立した突撃至上主義
た結果、「青年男子の場合、兵営生活を通じ、
への疑問がだされ、その一部は操典に反映され
大規模に、組織的に、継続的な思想監視を受け」
た。つまり、「1920年代は、・・・・兵営内務の教
ることになった(荒川, 2006:118)
。
育における厳格な教育の揺らぎと同時に、戦闘
これに対して、自由化を求める国民世論への
手段の変化に対応して突撃至上主義に異論が提
対応に関しては、これらの「規律化」があくま
起されるなど、日露戦後に確立した日本軍兵士
でも個人の「自覚」
「理解」
「自主性」―上官へ
の理想像(あるべき男性像)がいったん曖昧化
の下士の「服従は衷心理解ある犠牲的精神より
した時期」
(荒川,2006:121)といえる。
生し」、「上官たる者は・・・小事に容喙して自主
しかし、荒川(2006:121‑124)によれば、こ
性を萎靡せしむるか如きことある可からず」―
の『歩兵操典』でも、基本的に攻撃主義の原則
を前提としたものである。それは、フーコー
は貫かれており、精神主義を第一に掲げる点で
(Foucault,1975=1977)のいう「規律」すなわ
も、第一次世界大戦後に現れた無謀な攻撃主義
ち「一望監視装置」を内在化した個人の自発的
への疑問にみられた合理的思考は陰を潜めてい
な自己管理と命令への服従を可能とにするもの
た。この時期、とりわけ精神主義が称揚された
� �
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のは、第一次世界大戦で明確になった総力戦時
住と仕事の場所」
(Goffman, 1961=1984,v)を意
代の物量戦に対する日本の脆弱性、とくに「欧
味している。ゴッフマンは、全制的施設の例と
米列国との格差を精神主義で補う」ためであっ
して5つのものをあげるが、このうち軍隊は寄
たとされる。こうして「経済力・生産力の現実
宿舎とともに、何らかの仕事や訓練を効率的に
を無視して、大国として列強に伍そうとした時、
遂行することを意図して設置され、ただこの目
日本陸軍は、白兵戦重視の攻撃主義にこだわり
的遂行のためだけに正当化される施設に該当す
続ける選択をしたのである」(荒川,2006:122)。
る1)。彼によれば、こうした施設の入所に際し
しかし、精神主義だけでは戦勝できないことは
ては、まず入所者の徹底した「無力化」が行わ
明白であり、そのために装備の不足を補うため
れるという。たとえば、入所者は私物を取り上
に強調されたのが、奇襲や夜戦であった。昭和
げられ、お仕着せの支給品(制服など)が与え
3(1928)年の『歩兵操典』で夜戦は一般教練
られるが、このことは、新来の入所者が私物に
課目となった。それはまた、補給力が低い弾薬
愛着を抱いているので、彼のアイデンティティ
の節約にも繋がると考えられていた、という。
にとって重大な脅威となる。また、一般の生活
その後、満州事変後の国際的孤立化などを背景
では自分のペースで仕事や生活ができるが、全
に昭和9(1934)年には『軍隊内務書』が新た
制的施設では時間の管理も職員や上司──軍隊
に提案される。ここではまず軍人勅諭に規定さ
ならば上官によってなされ、行為の自律性・自
れた天皇親率のもとでの軍隊の国家的役割に言
己決定力が奪われる。この無力化の進行と平行
及しつつ、
「兵士に「必勝の信念」を確信させ、
して、被収容者は特権体系とでも呼ぶべきもの
攻撃主義に駆り立てる道具として新たに積極的
を公式・非公式に教えられ始める。1つは、被
意味」(荒川,2006:124)が付与された。この時
収容者に厳格な生活日課を明示した「所内規
期から軍人勅諭丸暗記が復活し、大正末期の軍
則」、もう1つは職員や上官に従順であること
隊教育で現れた国体論は、この時期、天皇親率
を交換条件とした褒賞や特権、そして規則違反
という支柱を得て、満州事変後の皇軍意識を特
の結果として下される罰である。このような特
殊で優れた軍隊とする観念が根付いていったと
権体系によって、被収容者は全制的施設による
される。この皇軍意識のもとで、兵士の個性や
管理の対象となり、その身体は規律化されてい
人格、生命への配慮は失われていった。
く。
こうした全制的施設おける規律化に関して、
2.4. 大正・昭和前期おける軍隊教育の完成:
ゴフッマンは、アメリカの将校に期待される資
全制的施設としての軍隊
質に関する元海岸警備隊員の証言を引用してい
こうして、この時期の日本の軍隊は、ゴフッ
たが、それによれば「訓練の多くは当然のこと
マンのいう「全制的施設」
(Goffman,1961=1984)
ながら肉体的適性を増進するように考案されて
としての性格を強めていった。全制的施設とは
いるが、士官は、適性があろうとなかろうと、
「多数の類似の境遇にある個々人が、一緒に、
自尊心(あるいは<根性>)から仆れるか意識
相当期間にわたって包括社会から遮断されて、
を失うまで[自分の]肉体的不適性を認めないよ
閉鎖的で形式的に管理された日常生活を送る居
うでなくてはならない、ということが強く信じ
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���
��
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られていた。・・(中略)・・養成課程の最後に行
拘泥は、軍需生産力の低さからくる節約による
う猛訓練中に、二、三人の士官がまめとか軽い
物量戦への対応があった、ともされる。
身体的症状で落伍すると、先任教官・・(中
略)・・が、手加減をせずに彼らをこきおろした」
しかし、二年兵になると、ゴッフマン
(Goffman,1961=1984)の言う「第二次的調整」
(Goffman,1961=1984:92‑93、[ ]内訳者補足)
。
が可能になる。第一次的調整が、特定の組織に
同様に、アジア・太平洋戦争中の日本軍にお
よって要請された活動を正規の手段で行うこと
ける内務班は、こうした全制的施設としての性
を意味するのに対して、第二次的調整とは、上
格をもち、暴力的な手段とくに上官による
位者に真っ向から挑戦・反抗することはない
私的制裁による身体の矯正・規律化がなされた
が、被収容者(この場合は二年兵)には禁じら
ことはよく知られている。荒川(2006:129‑130)
れている手段で非公認の欲求を充足する実際的
�
�
�
は、山崎慶一郎(陸軍大尉)編著による昭和9
な便法をいう。それは、組織内の個人が非公式
(1934)年版の『内務教育の参考』をもとに、
の手段を用いて、公式的組織が前提としている
「内務班の日常」を記述しているが、それによ
非明示的仮定を潜り抜け、組織が個人に対して
ると、起床前後の動作の活発さから洗面の丁寧
自明のものとみなしている役割から距離を置く
さ、朝拝の実行、朝食時の静粛さから始まって、
様々な手立てのことである。ゴフマン(Goffman,
学科・演習中の服装・軍装の適切さ、兵器の手
1961=1984:207)のあげているアメリカ軍の第
入れとその作法の正しさ、酒保での飲食、消灯
二次的調整では、軍隊の輜重司厨係が上官の食
までの清潔整頓、休日外出時の着装・態度の適
事を隠れて自分でも食べる例であったが、日本
正さまでが指導の対象となり、「こうした内務
軍の場合、軍隊が階級制度を徹底した組織であ
管理体制からのわずかな逸脱、過失が内務班で
るため、階級があがるほど第二次的調整は容易
の二年兵による私的制裁の口実になった」(荒
になった。たとえば、「二年兵ともなれば規律
川,2006:131)。私的制裁について、荒川(2006)
の切り抜け、監視のごまかし方、演習や学科の
によれば、『内務教育の参考』では内務班の統
さぼり方を身につけ、時に初年兵への私的制裁
合性を乱すものとして厳しく禁じられ、その根
によって憂さ晴らしをする。異常に厳格な規律
絶は重要な課題とされていたが、二年兵は前年
化は、兵営を、要領よく生きるすべを教える場、
に殴られた意趣返しに次の年に初年兵に暴力を
ご都合主義的な人間形成の場にもしていたので
振るうなど、私的暴力が止むことはなかったと
ある」(荒川,2006:131)。こうしてみると、学校
いう。その理由として荒川(2006,132‑133)は、
としての軍隊は、ゆがんだ人格を形成する全制
暴力の日常化による暴力への慣れ、すなわち
的施設としての側面も少なからずもっていたこ
「抑圧移譲的な暴力の連鎖とそのような事態へ
とになる2)。
の同化」があり、その背景には戦場では白兵至
さらに戦後の聞き取りや記録で軍隊生活を肯
上主義・攻撃主義の維持に不可欠な手段として
定する表現がしばしばあらわれるが、この背景
私的暴力が事実上、是認されていたことがある
には第二次的調整から得られる役得に加え、同
と指摘する。さらに非戦闘時に日常生活での武
年齢による集団生活の楽しさや一体感、対抗競
器や軍服・軍靴の手入れに対する執拗なまでの
技や内務班の娯楽会の記憶が入ってもいるが、
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その一方で「階級が上がれば楽ができるという
校としての軍隊は、「敗戦を待たずして内側か
軍隊的階級制度という要因も加わって」いたと
3)
。
ら機能を喪失していった」
(荒川,2006:140)
いう(荒川,2006:126)。さらに軍隊が国民教育
以上のことから分かるように、軍隊とは教育
の完成の場として受け入れられていた側面もあ
機能を潜在的に果たす「学校」であり、将校す
り、それが戦後も旧軍隊が肯定的に語られる理
なわち「職業軍人とは教育者」(佐藤,2004)で
由でもあったとされる。すなわち「兵営は、暗
あった。それは、谷口(2000:153)もいうよう
記中心であるが、学習奨励の場」でもあったの
に、軍隊が「人間を一人前の存在に作り上げ、
である。
仕上げる場所」であり、この軍隊観は日露・日
露戦争間期に成立し、国民的規模で広がった
2.5. 戦争末期おける軍隊教育の内部崩壊:根
「確信」となったもの、とされる。また、高田
こそぎ動員の帰結
(2008)も指摘するように、将校は戦場では指
しかし、日中戦争が泥沼化する時期になると、
揮官でも、基本的には一般人に主として軍事技
現役徴集率は年々上昇の一途をたどり、ついに
術、通信技術などを教え、一人前の兵士に育て
昭和13(1938)年には兵役年齢の5割を超え、
ることを任務としていた。とりわけ、高田
終戦の前年には9割の徴集率が予定されていた
(2008,32‑36)は、軍隊が「女らしい男」を作る
という(大江,1981)。こうして徴集率を上げる
機関でもあったと揶揄している。というのも、
と、当然、過酷な軍事行動に肉体的・精神的に
兵役に就くのは男性だけであったから、とくに
耐えられない男子も徴集されることになる。総
新兵は「女の仕事」とされた炊事・洗濯・掃
力戦段階では選別されてきた兵士の育成が軍隊
除・裁縫など家事的な仕事を兵営──いわゆる
教育の目的だったが、戦争末期には、陸軍戸山
内務班でするよう仕込まれたというのである。
学校の記録においても、「根こそぎ戦場動員の
また高田(2008)は、中国文学者・竹内好の回
人的資本を調達する要請から、青年男子層全体
想を引きながら、軍隊が「市民生活の健全化」
の身体能力への関心を強めた」ことが窺えると
のための「成人教育」の場でもあったとしてい
いう(荒川,2006:139)。すなわち、日中戦時代
る。
にはある程度、選ばれた兵士を規律化し、死を
恐れない滅私奉公を教化する軍隊教育を推し進
3.経済人の戦前・戦中・戦後
めていたが、戦争末期になると徴集拡大の結果
このような視点から、軍隊の教育をとらえる
として「入営者の実態に合わせた訓練の合理化
なら、そこで教えられた技能や知識は、片瀬
や休養、給養の適正、病気の予防」が求められ
(2012)でも述べたように、戦後の復興から高
るという背反した対応を求められるようになっ
度経済成長を担った人的資本を形成したともみ
た。そして、兵営は肉体的・精神的に軍事行動
ることができる。このことを確認するために、
に適さない青年までも大量に入営させ、戦場に
高度経済成長期の只中ともいうべき昭和31
投入する訓練過程で、彼らの身体機能を破壊す
(1956)年3月から「日本経済新聞」に連載が始
ることになる。こうして「青年男子に強い精神
まった「私の履歴書」に注目してみよう。この
と健全な鍛えられた肉体を形成させる場」=学
連載は当初は連載期間が1週間であったが、昭
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経済人の軍国体験:教育機関としての軍隊
和52(1987)年からは1ケ月に渡る連載となり、
103
3.1.覚めた戦争観:大正デモクラシーの影響
現在も継続中である。また、日本経済新聞社か
実際に『私の履歴書 経済人』の各巻を読ん
らは、この連載のなかから経済人だけを取り上
でみると、後に経営者になった者には意外なほ
げた『私の履歴書 経済人』
(日本経済新聞社,
ど戦争を覚めた目で見ていたことに気がつく。
2004)が刊行された。同書は38巻からなり、
もちろん出生コーホートや生まれた地域、出身
250名をこえる経済人の「履歴書」が紹介され
階層や学校歴による差異は少なくないが、たと
ている。
えば、鹿島守之助(明治29生、掲載時・鹿島建
また同書を用いた研究も経営史・教育社会学
を 中 心 に 散 見 さ れ る ( 合 谷 ,1999,2005: 柏
設社長、以下肩書きは掲載時とする)は、兵庫
県の旧制龍野中学校時代に軍国主義を嫌い、
木,2011)が、これらの研究では、経済人のキャ
「優秀な生徒は陸軍士官学校とか海軍兵学校に
リア展開における社会関係資本やメンター──
はいり、先輩にもその方面で成功した人もいた
合谷(2005:87)によれば「経験豊かな年長者
が」、兄のもっていた文学書や哲学書を読みふ
で、経験の少ない若年者のキャリア発達を支援
けっては、仲間と同人誌を出していたと述懐し
する人」とされる──の役割(合谷,1999,2005)
ている。その同人からは三木清も育っていたと
や、明治期の世襲型経営者の類型(新井,2005)
いう。また従兄にも文学青年や理科少年──前
などに関する研究はなされている。
者はのちにソウル大学の法制史家、後者は東大
たとえば、新井(2005)は、『私の履歴書
理学部長から科学博物館長を歴任することにな
経済人』のなかから、主に明治10年代生まれの
る──がいて、鹿島に「思想的影響」を与えた
大企業経営者29人を取り上げ、その経歴を分析
という(7巻:281、以下『私の履歴書 経済人
している。そして、大企業経営者の会歴を「創
編』からの引用は巻数とページ数で示す)
。
業型」
、
「世襲型」
、
「専門・官僚制型(昇進型)
」
また、大正14(1925)年に薩摩藩士の流れを
に分けたうえで、とくに「世襲型」に注目しそ
くむ軍人の家(父親は日露戦争に参戦し、男爵
の経歴をさらに3つに分けている。すなわ
家を継いで貴族院議員も務めた)の十男に生ま
ち、<家業関連分野での新規事業挑戦型>、<
れた永山武臣(松竹会長)も、学習院高等科時
海外実務経験活用>型、<一業専念・公共事業
代の昭和18(1943)年、工場に動員されて無線
受注>型である。その事例研究では、日露戦争
部品の組み立てをしたり、皇居で貯水槽づくり
での負傷体験や身体障害による徴兵免除、陸軍
の勤労奉仕をした、という。学友が特別幹部候
からの要請による満州進出がエピソード的に語
補試験を受けて入隊していく中、二人の兄が出
られるだけで、戦争や兵役・戦争体験が果たし
征中のため同試験を受けず、昭和20年に兄たち
た教育的役割の影響にフォーカスした研究はほ
が学んだ京都帝国大学経済学部に進学した。そ
とんど見られない。そこで、以下では戦後の復
して、同年7月召集され、8月に陸軍士官学校
興・経済成長で重要な役割をはたした経済人に
入学し伍長となった。しかし、学習院中等科時
とって、戦争・軍隊体験が有した教育的意義に
代から乗馬が苦手なうえに、隊では「重機関銃
4)
ついてみてみよう 。
の各部の名称を覚えるのも苦行だった」が、そ
のまま出征はしないまま終戦を迎えた。そんな
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104
片瀬一男
状況では「終戦に特別な感慨はなかった」とい
というものは苦しいものだ」といった感慨を子
う(31巻:339)。小松(1958b)が、知識人の多
ども時代からもっていた。その後、父親が帰国
くが戦争に無関心だったといっているが、永山
し、京都府庁に出仕するというので、京都に転
は父親が軍人であったにもかかわらず、戦争に
居し、京都一中から三高、京都帝国大学と進む
無関心だった「知識人」の一人といえるだろう。
が、トルストイの『戦争と平和』などを耽読し
その一方で、徴兵逃れのための「努力」をし
た。また京都帝国大学では、河上肇のマルクス
ていた者もいた。高橋政知(大正2年生、オリ
経済学の講義に魅了され、弁論部では東大の
エンタルランド相談役)は、東京帝国大学法科
「新人会」に対抗して「労学会」を組織して、
を卒業して理研重工業に入社後、徴兵検査をう
地方遊説をした。また「キリスト教的社会主義
けることになったために、薄暗い場所で本を読
者」だった賀川豊彦を神戸のスラム街に訪ねて、
み視力を落とすよう努力していた。しかし、検
その活動を手伝っている。卒業後は銀行員にな
査を受けた昭和14(1939)年より眼鏡をかけて
ったが、徴兵検査では第一乙種合格、その当時
の検眼となったため、第二乙種合格となる。そ
は入営しないはずだったが、大正10に近衛歩兵
こで、内地にいたらいつ召集されるかわからな
の連隊に入営することになった。福田は、この
いので、日清製粉の子会社・上海三興製粉に移
当時、友人にあてた手紙を『私の履歴書』に掲
った。けれども、上海赴任直後、アジア太平洋
載しているが、いずれも初年兵いじめを批判し
戦争の開戦となり、現地召集され、英語が話せ
たり、軍人勅諭を「ミリタリズムの悲劇」と揶
るという理由で最前線のラバウルに捕虜尋問の
揄している内容である。
ための通訳として送られた。結局、ラバウルで
また、おなじく軍国主義批判の姿勢は、高杉
は2年半近くいて、終戦後は捕虜となり、ラバ
晋一(海外経済協基金総裁・三菱電機会長、明
ウルの接収に来たオーストラリア軍の中佐の通
治25生)にもみられる。高杉は、東京帝国大学
訳をするといった皮肉な運命をたどっている
卒業後、大正5(1916)年に三菱に入った2年
(35巻:96‑99)
。
後、徴兵検査をうけ甲種合格となった。ただ身
こうした「覚めた目」を超えて、軍国主義や
長が低いという理由で弘前の輜重大隊に入隊し
戦争に明確に批判的態度をとった者もいた。そ
ている。ちょうどシベリア出兵の時期で、弘前
れは、小松(1958a)も示唆したように、大正
の大隊はその準備をしていたが、結局、原敬や
デモクラシーの影響を受けた世代である。
牧野伸顕らの主張が通り、出兵は取りやめられ、
福田千里(明治29年生)の父親は陸軍中尉ま
除隊となった(結局、その年の8月にアメリカ
で登りつめたが、上官とそりが合わず、軍籍を
と協調して日本はシベリアに出兵している)。
剥奪されて、印刷業を始めたがうまくいかず台
このときの体験から、高杉は日本の軍隊に疑問
湾で事業を始めた。福田自身は東京育ちだが、
を抱く。その後のアジア太平洋戦争に関しても、
子どものころから体が弱く、よくいじめられて
じゅうぶんな護衛艦もつけずに兵士を南方に輸
いた。日露戦争当時であったので兵隊ごっこは
送したり、中国や南方で他国の無辜の人民の生
盛んだったが、旅順陥落の「勝ちいくさはうれ
命を奪うなど、
「たとえそれが軍隊であっても、
しかったが、勝っても負けても、しょせん戦争
人命尊重という基盤なしには成り立たない」と
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経済人の軍国体験:教育機関としての軍隊
述懐している(8巻:146‑150)
。
105
(レンゴー社長、明治19生)は、姫路の小学校
さらに、松沢卓二(富士銀行取締役:大正2
教員の父親のもとに生まれた。父親は軍人嫌い
年生)は、法学部出身だったので「役人になる
で、読書や作文を進めたが、長谷川は『昭和遊
気はなかったか」と聞かれたが、自分は役人に
撃隊』などの「戦争小説」を読みふけった。ま
も軍人にもなりたくはなかったと答えたとい
た、別荘が海に近かったころもあり、神戸第一
う。というのも、近所に住む伯父の1人は元大
中学から海軍兵学校に進んだ。この海軍兵学校
蔵省の造幣局長で、もう1人は退役陸軍中将だ
──ここには、戦争中もトラファルガー海戦の
ったが、その「考え方や思想になかなかついて
英雄・イギリスのネルソン提督の遺品も置かれ
いけなかった」
(31巻:8)としている。そして、
ていたという──では「ジェントルマン」教育
その「履歴書」を大正時代に開花した「大正デ
を受けている。戦争が深まるにつれ、「そう長
モクラシー」の「余韻」が、自分が少年時代を
くは生きられない」という気持ちをもった。そ
過ごした昭和初期にも残っており、「自由と民
して、昭和20年5月には第三航空艦隊付きの航
主主義」が自らの「バックボーン」となってい
空攻撃飛行隊員として沖縄戦に参戦している。
ると結んでいる。そして、執筆時点(平成9=
ここで長谷川は、撃墜されアメリカ軍の捕虜と
1997年)での政治状況に関して、1993年の細川
なっている(34巻:165‑184)
。
連立政権、94年の村山連立政権などによって55
また、賀来龍三郎(キャノン会長:大正15生)
年体制が終わりを告げたにも関わらず、政党の
は、岡崎生まれだが、東亜同文書院出身で「学
掲げる政策に差異がなく、混迷を深めているこ
究肌」の父親の仕事の関係で青島で育った。こ
とに苦言を呈している。
の青島中学時代(昭和14~19年)の軍事教練の
大正デモクラシーの影響が戦争観に決定的な
経験から、彼はすっかり「いっぱしの軍国少年
影響を与えたことは、小松(1958a)も認識し
に育っていった」(29巻,256)。しかし、ここか
ていた。しかし、彼は該当するインフォーマン
ら賀来の運命はある意味で「暗転」する。中学
トを見つけだすことができなかった。ただし、
4年時に全国的に予科練(海軍飛行予科練習生)
これらの証言によるかぎり、大正デモクラシー
の急募があり、「軍国少年でもあり、引っ込み
の見聞は、少なくとも戦争に対する「覚めた目」
思案の自分自身を乗り越えてやろうという気持
や批判的態度を培っている可能性はある。この
ちも手伝って」受験するが、不合格となる。実
ことは先に紹介した荒川(2006)の知見とも一
は、試験官が賀来を知人の甥と知って、戦闘機
致する。したがって、大正期には、内務規範の
乗りになって死なせるわけにはいかないと、わ
緩和とともに限定的ではあるが兵士の自主性を
ざと不合格にしたことをのちに知る。「予科練
認める方向へと兵制の再編成が行われていたの
試験で裏切られた思い」になった彼は、一転し
である。
て「科学で国の役に立とう」と気持ちを切り替
え、熊本の五高理科にいる。戦争中は三菱長崎
3.2.軍国少年とその転身
造船所に勤労動員し、原爆投下を経験するが、
しかし、明らかに自他ともに認める「軍国少
五高の物理の教授から聞いた「新型爆弾」の知
年」の軌跡をたどった経済人もいた。長谷川薫
識から、防空壕にとどまり被曝を免れる(29
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106
片瀬一男
巻,257‑266)
。この経験から、彼は科学技術の重
3.3.東亜同文書院:中国における日本高等教育
要性を再認識し、戦後は九州大学工学部を経て
技術者やがては経営者としての道を歩むことに
なる。
機関
先に紹介した賀来龍三郎の父親が在籍した東
亜同文書院に留学していた経歴をもつのが、坂
上記2人の父親は、非軍人──むしろ「学究
口幸雄(明治34生、日清製油会長)である。東
肌」で軍人嫌いの父親──であったが、職業軍
亜同文書院とは、日中提携のための人材育成を
人を父親にもつ場合、やはりその影響から軍人
目的として明治34(1901)年に、近衛篤麿を中
志望となった例も散見された。たとえば、山本
心として上海に設立された高等教育機関である
卓眞(富士通名誉会長)の父親は、ドイツ留学
(のちに大学に昇格した)
。戦後、帰国した教職
経験もある陸軍軍人であったが、熊本と広島の
員によって、昭和21(1946)年に設立されたの
幼年学校(陸幼)でドイツ語の教官をしていた。
が愛知大学であり、同大学の豊橋キャンパスの
そのためか、「ドイツ流の合理主義的考え方を
大学記念館には、現在、東亜同文書院大学記念
身につけて」いた。兄が仙台の陸幼に進学して
センターが開設されている、という(愛知大学
いたので、山本も東京高等師範学校付属中学を
HP:http://www.aichi‑u.ac.jp/instittion/05.html)
経由して、名古屋の陸幼に進んだ。陸幼の教育
5)
。
は、全寮制であること、武道の時間が長かった
坂口は、比較的大規模な長野の農家に5人き
こと以外は、他の旧制中学と教育内容は変わら
ょうだいの末子として生まれ、長野中学に進ん
ず、ドイツ語とフランス語を学んだ。その後、
だが、卒業時に教師に東亜同文書院への進学を
陸軍航空士官学校で訓練を受けるが、そこで捕
薦められる。これからは中国との関係が大事で、
獲されたアメリカのカーチP40「ホーク」戦闘
日中関係を架橋できる人材が重要になるという
機を見て、アメリカとの技術力の差を見せつけ
理由であった。同書院には各県の中学から2~
られる。その後、任官、終戦は満州国奉天航空
3人の生徒が選抜され、4年間留学することに
隊で「若楠特攻隊員」
(
「隼」のパイロット)と
なっていたという。結局、試験の結果、この年
して迎えた。復員後、彼は陸軍士官学校で多額
(大正14=1925年)には、長野県から坂口のほ
の退職金をもらって、日米の技術力の差を戦争
か、松本中学、上田中学の卒業生3名が上海の
中の体験から学んでいたので、東大の第二工学
東亜同文書院に進んだ。坂口自身も近衛篤麿以
部電気工学科―これは1942年に千葉に急増され
来の建学の精神に共鳴するところがあったとい
た工学部で、49年まで存続した―を受験した。
う。
この時は陸幼時代のドイツ語の学習も役だって
東亜同文書院での教育は、四書などの東洋思
合格した。そして昭和24(1949)年に富士通信
想を核に、寮生活もふくめて「人間形成への切
機製造に入社して、高度経済成長期の通信技術
磋琢磨の場」(25巻:264)であった、という。
の発展だけでなく、その後のコンピュータ技術
また坂口は同書院では野球部に所属するなどし
の基礎を築くことになる(34巻,323‑398)
。
て、学生生活を謳歌していた。上海には当時、
外国人租界があったので、欧米のミッション・
スクールなどとも親善試合をしている。東亜同
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文書院卒業後、坂口は日清製油に入社、大連五
精神に掲げていたこともある。「硬派」の春名
品取引所に勤務して、欧米向け蘇子油──アメ
は、ラクビー部に所属し、軍事訓練も苦になら
リカの自動車のボディー塗料となった──の輸
なかったという。この頃、満州事変の前後で父
出に従事し、昭和11(1926)年には営業部長、
親の生糸取引も状況が悪化し、家計も苦しくな
同19年には取締役となった。しかし、このころ
ったため、家計に負担をかけない進学先として
から戦時体制のため、欧米との貿易は禁止同然
陸軍士官学校や海軍兵学校などを受験するが、
となり、飛行機用にひまし油を作る軍需工場に
いずれも視覚検査で不合格となる。そこで最終
転勤させられ、奉天軍司令部との折衝にあたっ
的に、県費で進学できる東亜同文書院への進学
ていた。そして、終戦の1週間前には徴用令状
を選ぶ。父親の承諾ももらって受験するが、定
(青紙)がきた。大連郊外の飛行場で防空壕を
員3人に対して競争率は10倍以上、何とか3番
掘っているときに敗戦を知ったが、「みんなが
目の成績で合格となった。昭和11年2月26日、
予想をしていたので驚く者はいなかった」(27
二・二六事件のあった日が合格発表の日であっ
巻:281)。彼は日本人従業員だけでなく、中国
たという。
人の労働者にも、退職金代わりにタンクに残っ
春名自身は中国への関心はながったが、横浜
た豆油や倉庫の缶詰を現物支給している。これ
や神戸で育ったために海外留学には抵抗はなか
もまた東亜同文書院で学んだ日中交流の実践の
ったと言う。学生生活は、杭州などを旅行した
一環だったともいえる。
り、「自由で楽しかった」(28巻:17)。第二次上
昭和22(1947)年、坂口は家族を連れて引き
海事件(昭和12=1937年)の時も夏休みで帰省
上げた。坂口によれば、中国人は「徳をもって
中であった。日中戦争が激しくなるなか、卒業
怨みに報ずる」という態度をとったので、持て
論文を書くために江蘇州を回ったときに、日本
る物をすべて持って引き上げることができたと
軍が中国人の人心を把握していなかったことも
いう。そして、舞鶴経由で長野の生家に身を寄
見聞する。卒業後は、東亜同文書院の卒業生も
せるが、勤務先であった日清製油が心配になり、
多かった大同貿易──伊藤忠商事が貿易部門を
単身上京する。日本有数の横浜製油工場は焼け
切り離して設立した会社──に入り、マニラ支
落ちていたが、幸い中央区の本社社屋は無事で
店勤務となる。この時点で学生猶予と在外猶予
あった。そこで、坂口は当時の社長・福田清三
の両方に該当したため、徴兵検査は受けていな
郎と再会した。福田は坂口に取締役の席を残し
いので、「一抹の心苦しさはあったが、それ以
てあることを告げる。こうして、坂口の戦後が
上の使命感を持っていた」(28巻:21)。マニラ
始まったのである。
では、ロープを作る麻の買い付けが主な仕事だ
坂口と同様、東亜同文書院に学んだ経済人に
ったが、昭和16(1931)年には帰国命令がださ
春名和雄(大正8年生、丸紅会長)がいる。春
れ、神戸に戻った。翌年、東京の近衛師団司令
名は横浜で生糸会社に勤務する父親のもとで生
部に呼び出され、フィリピン派遣軍の報道部員
まれ、父親の転勤で神戸に転居し、中学は神戸
として徴用された。同じ部隊に徴用された哲学
一中に進んだ。横浜と同様、外国に開けていた
者・三木清から、敗戦の可能性を示唆され衝撃
ので、進取の精神に富み、同中もそれを建学の
も受けている。
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片瀬一男
再び訪れたマニラはすでに日本軍に占領され
動員体制確立要綱」が決定され、「在学徴集延
ていた。軍政監部からは華僑の取り締まりを厳
期臨時特例」公布によって、徴兵猶予が廃止さ
しくするようにとの指令を受けるが、以前の大
れた。『私の履歴書』でも、鈴木英夫(大正11
同貿易時代に華僑の実力を知っていたので、む
生、兼松名誉顧問)が、東京商業大学時代の
しろ華僑の力を利用してフィリピン経済を活性
「昭和十八(一九四三)年九月、政府は大学、
化するよう上官に進言し、実現している。昭和
高専の文科系学生に対する、満二十六歳までの
19年に戦局が悪化するなかで、その上官から一
徴兵猶予を停止すると閣議決定し、我々文科系
度日本で徴兵検査を受けて陸軍に入隊するよう
学生の運命はきまった。戦争は身近なものとな
勧められて帰国、甲種合格で入隊が最も早かっ
った」(32巻:108)と回想している。そして、
た海軍予備学生飛行専修の試験を受けて合格
10月21日には明治神宮外苑で出陣学徒壮行大会
し、20年6月に海軍少尉に任官された。そして、
が挙行される。同じく鈴木の回想によると、こ
宮城県の女川海軍防衛隊において終戦を迎え
の日は「雨降りしきる神宮外苑競技場で、出陣
た。この時も、終戦の数日前、女川は空襲を受
学徒壮行会が行われた。我々は制服制帽、ゲー
けるが、このとき撃墜されたカナダ空軍の戦闘
トル姿で、三八式歩兵銃をかつぎ、校旗を先頭
機があり、そのパイロットは欧州戦線でも活躍
に競技場を行進した。東条首相独特の甲高い激
し、のちにビクトリア勲章を受けた者であった。
励の言葉がいまだに耳の底に残っている」。そ
春名は平成元(1989)年、このパイロットの慰
して、19年には「緊急学徒勤労動員方策要綱」
霊碑が女川に建てられた際にも除幕式に参加し
が決定されるとともに、満17歳以上の男子が兵
ている。なお、当時、この女川にも東亜同文書
役に編入されることになった。
院出身者が疎開しており、後にその娘が春名の
こうして高等教育在学生が戦争に動員される
妻となった。戦後、春名は、大同貿易と呉羽紡
時代となったが、鈴木の回想にもあるように、
績が合併してできた大場建設にもどったのち、
動員されたのは主として文科系の学生で、理科
政府の公団で輸出入業務の手伝いをした。昭和
系の学生は比較的優遇されていたともされる。
24(1949)年、会社に復帰するが、この年、丸
そこで、
『新版 きけ わだつみのこえ』
(日本
紅が誕生し、春名は食糧・油脂関係の仕事で戦
戦没学生記念会,1995)をもとに、ここに手記
後復興にあたることになった。
や手紙、遺書などが収められた者の出身学部
(正確には、多くの者が在学中に出征・死亡し
3.4. 学徒出陣からの生還と戦死
この春名の「私の履歴書」にもあるように、
ているので、進学または在学学部)を見てみよ
う。同書は3部構成となっているが、ここでは
高等教育在学者にはいわゆる「徴兵猶予」があ
Ⅰ部の「日中戦争期」とⅡ部「アジア・太平洋
ったが、戦局が悪化するにつれ、その年限が縮
戦争期」をとりあげる(Ⅲ部「敗戦編」は、原
められ、最後には廃止されていった。すなわち、
爆や中国・国内での戦病死者、シンガポールで
開戦の昭和16(1941)年には大学の軍事教練に
の刑死者など4名の手記が収められているだけ
現役将校が配属され、18年以降は学生の修業年
。
なので割愛する)
限が短縮された。またこの年には、「学徒戦時
人間情報学研究 第18巻
表1.は『きけ わだつみのこえ』に収録され
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経済人の軍国体験:教育機関としての軍隊
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た手記の執筆者の出身学部をⅠ部、Ⅱ部ごとに
そこで、学徒出陣を経験した経済人の軍国体
示したものである。これによるとまず日中戦争
験をみていこう。まず最初は、先に紹介した鈴
期に比べて、戦局がひっ迫したアジア・太平洋
木英夫の回想である。鈴木は御殿場に生まれ、
戦争期において戦死し、手記などが収録された
沼津中学から東京商科大学予科に進学した。東
者が増えていることがわかる。そして、出身学
京商科大学は「リベラル」な雰囲気で、鈴木は
部に注目すると、圧倒的に文科系学部(文学部、
「道草会」と称するスポーツサークルに属して、
経済学部、法学部)が多く、全体の64%を占め
スキーやボートなどに興じていた。しかし、昭
る。理科系で比較的多いのは、理学部、農学部、
和17(1932)年には「学生短縮」となり、国立
医学部である。このうち医学部出身者は、日中
にあった学部に進むが、先にみたように翌年、
戦争期には1人もいなかったが、アジア・太平
徴兵猶予が廃止され、昭和20年に学徒出陣壮行
洋戦争期には3人がいずれも昭和19−20年にか
会、その後、徴兵検査をうける。この当時の心
けて前線(スマトラ島、テニアン島、パラオ諸
境を次のように綴っている。「私は素直に検査
島)において軍医として戦死している(残る1
合格を願っていた。・・・(中略)・・・それは「制
人は獣医専門学校出身で、過労と栄養失調から
度」であったからと言うしかない。制度は守る
地元の療育院で衰弱死)。また工学部出身は、
べきであり、国民の義務は果たすべきであると
日中戦期には1人、アジア・太平洋戦争期には
(32巻:109)
。
いう気持ちは、
今も昔も変わらない」
1人といずれも少ない。このうち日中戦期の死
こうして鈴木は、広島の大竹海兵団に二等水兵
者は、工兵隊に入隊後、満州、中国、フィリピ
で入隊する。この時点で彼は特攻に行く覚悟を
ンを転戦したのち、病を得て内地に送還され、
きめる。「戦争中、我々が考えたのは、せめて
昭和21年に東京祖師谷の第二陸軍病院で病死し
親兄弟、愛する人々を守るために、自分が死ん
ている。また、アジア・太平洋戦争期の死者も、
でも仕方がないということであった。他に選択
東京帝国大学第二工学部電気工学科在学中に、
肢がなかったのだ」。それは「切羽詰まった祖
航空研究所に動員され、昭和20年5月の空襲に
国愛」だった──これが当時の鈴木の心境であ
より、自宅で戦災死している。
った。
表1. 『きけ わだつみのこえ』収録手記執筆者出身学部
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こうした思いを胸に予備学生登用試験を受験
この「軍隊経験が役に立ったと思っている」。
した鈴木は、好成績を収め航空隊配属が決まる。
経営者によっては、軍隊経験は、その後の経済
やがて土浦海軍航空隊、鹿児島・出水海軍航空
活動の戦略を学ぶ「学校」として機能していた
隊を経て、大分・宇佐軍航空隊で特攻志願書に
のである。
署名することになる。しかし、昭和20年4月に
またなかには、軍隊生活では食料に恵まれ、
宇佐の基地はB29の急襲を受け、壊滅的打撃を
健康になったという者もいた。たとえば、竹見
受ける。そこで、再び茨城県の百里ケ原海軍航
淳一(大正6年生)は、2歳の時に「スペイン
空隊を経て三沢海軍航空隊で幻に終わったジェ
風邪」をひき、その後も小児結核や肋膜炎など
ット機「橘花」に乗るための訓練を受けている
で学校を休みがちだった。中学時代の軍事訓練
ときに終戦をむかえる。この時の鈴木は、航空
も休みがちで、修学旅行にも参加できなかった。
機のプロペラを外しながら「生きているという
その後、法学部をめざして慶応大学予科に進学
ことになじめないような違和感を覚えた」とい
した。それでも徴兵検査では第三種合格となる。
う(32巻:125)
。
「軍隊に行くことは夢あるまいと思っていた」
同じく学徒動員を経験した者に、『大漢和辞
(30巻:346)が、大学を繰り上げ卒業後、就職
典』などを編纂した漢学者・諸橋轍次の「不肖
した日本碍子時代の昭和18(1933)年に召集さ
の息子」晋六(三菱商事会長、大正11生)がい
れ、「東京の後楽園スタンド二階にあった高射
る。東京・雑司が谷で生まれた諸橋は、子ども
砲隊」に入隊する。しかし、病弱で体力がない
のころから近所の菊池寛の家で遊んだり、豊島
ため、翌年、小平の陸軍経理学校に入学する。
園や銀座の資生堂パーラーに行ったりと、「モ
卒業後は経理部見習士官として三重・斎宮の陸
ダン」な少年時代を過ごした。その後、上智大
軍部隊に配属され、糧秣・酒保担当として食料
学の予科に入り、カトリックの薫陶もうける。
や酒の調達に奔走した。その後、昭和20年には
そして、この予科時代に学徒として召集され、
西筑波飛行場大隊に転属し、そこで終戦を迎え
出陣学徒壮行会にもでる。「当時の東条英機首
た。しかし、食料には恵まれていたため、「軍
相をはじめ六万五千人が我々を見送った。東京
隊生活で健康になった。[日本碍子]入社の時四
帝国大学が先頭で、上智大学は後ろの方だっ
十七キロだった体重は六十キロになっていた」
た」。徴兵検査は、本籍地の長岡で受けて甲種
6)
.
(30巻:357)
合格、郡山の陸軍航空通信教育隊に入隊した。
その後、幹部候補生になり、仙台陸軍飛行学校
3.5.短期現役海軍主計科士官の特典
で通信の訓練を受ける。昭和19(1944)年に卒
学徒動員は在学中の学生──主として文科系
業後、水戸の通信学校を経て、加古川の通信学
学生を「動員社会」(河野,2001)へと送りこむ
校の教官として終戦を迎えた。軍隊には不合理
システムであったが、その一方で高学歴者には
なことが多かったが、「何が起こるか分からな
まだ特典があった。それは、短期現役海軍主計
いのが戦争だ。予期せぬ事態への対応が肝心
科士官制度(短現制度)であった。この制度は、
だ」。戦後、上智大学経済学部に復学し、三菱
アジア・太平洋戦争当時で言えば、一定期間、
商事でトップにまで登りつめた諸橋にとって、
企業や官公庁に勤務する者から軍需物資の調達
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や会計・文書管理などを担当する者を募集し、
おけば陸軍の一兵卒からやることになるので、
海軍で働かせた後、もとの職場に戻す制度であ
大蔵省の同期はみな海軍の短現を志願した」
る。
(30巻:180)。築地の海軍経理学校で4ケ月の訓
この制度の恩恵を受けた者に、宇野収(東洋
練──午前は海軍の規則や会計の講義、午後は
紡相談役、大正6年生)がいる。宇野は、京都
ボートなどの肉体訓練──をうけた。目的も説
で生まれ、旧制三高から東京帝国大学法学部に
明せず、命令だけをする教官に「カルチャーシ
進学したものの、2年半で繰り上げ卒業、その
ョック」を受けたという。その後、仏領インド
後、日本化成への就職が内定していたが、その
シナ(ベトナム)に派遣されるが、フランス語
前に短期現役海軍主計科士官の採用が決まっ
が話せることから、ハイフォンにある海軍連絡
た。「就職しても、いずれ陸軍にとられるかも
所──ここは父親が設立した機関で通称・澄田
しれない。陸軍は兵下士官からスタートし、予
機関があった──に配属された。終戦はベトナ
備士官学校を出るには二,三年かかる。その点、
ムで迎え、その後、駐留してきたオーストラリ
主計科短現に合格すれば、築地の海軍経理学校
ア軍との連絡役を務め、6年にわたる軍隊生活
で六カ月教育訓練を受けた後、現場に配属され
を終えて、帰国したが挫折感だけが残ったとい
るときはいきなり中尉である。/なにより、高
う。復員後は大蔵省に復帰し、理財局経済課で
校、大学で学んだ知識、教養を尊重した仕事を
戦後復興で中心的役割を果たすことになる。そ
与えてもらえる。海軍側にすれば、職業軍人と
して、戦後の外貨債務の処理に始まり、銀行局
違って将来の処遇に頭を悩ますこともなく、必
長時代には、中小の金融機関の改革・再編を推
要な期間だけ若い能力を使いきるメリットがあ
し進めた。そして、1985年のプラザ合意にも立
る。まさに名制度といえよう」(31巻:183‑4)。
ち会い、輸入銀行総裁・日本銀行総裁を歴任し
こうして宇野は、名古屋の海軍航空本部東海軍
ている。
需監理部で航空機製造の機材の調達や、金属溶
また渡辺文夫(大正6生)の父親は東京帝国
接に使うアセチレンガスの製造に必要な圧縮酸
大学法学部教授で、戦争終結運動にも関与して
素を入手するために、築地にあった東亜合成化
投獄もされたというが、渡辺自身は東京帝国大
学から空気分離装置の入手に奔走することにな
学経済学部を卒業後、昭和14年に東京海上火災
る。軍隊は士官に教育を施すと同時に、その能
保険に入社した。その前年から短現の制度が始
力を発揮させる場でもあった。
まったこともあり、これに志願して2期生とし
同じく短期現役士官制度の恩恵に与った者
て合格した(短現は1期生から12期生まである)
。
に、澄田智(前日銀総裁、大正5生)がいる。
訓練後、いくつかの軍艦を乗り継ぐが、「わず
澄田の父親は陸軍少将だったが、彼自身は東京
か二十二、三歳の若さで庶務主任として数十人
帝国大学経済学部卒業後、昭和15(1930)年に
の部下を持つ管理職の経験は、一般の会社生活
大蔵省に入って官房文書課に配属された。しか
では得られないことだった」(34巻:257)。その
し、わずか1ケ月で大蔵省を辞め、海軍短期現
後、漢口の軍需部で食糧調達などに当たってい
役士官に任官した。「短現を選んだのは、すぐ
るときに開戦を迎える。その後、42年には筑波
に主計中尉にしてくれるからだった。ほうって
海軍航空隊主計長へ異動、さらに軍需省で航空
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機の武器の査定をしているうちに終戦を迎え
いうのも、アメリカ軍の土木技術──たとえば
た。戦後、軍需省の仕事が商工省に移ったので、
密林での飛行場建設の素早さを知った上に、敗
軍需補償の仕事を商工省で終えたのち、東京海
戦後の「国土再建には土木は重要になる」(37
上火災保険に復職した。
巻:332)とまで考えてのことであった。第二工
この短期現役士官制度もまた、文字通り短期
学部は、第一に比べて教授陣の年齢も若く(後
間に兵站・輸送を中心とした軍隊の経済運営・
にロケット工学者となる糸川英夫もいた)、ま
管理の手法を教授することによって、戦後経済
た石川によると戦後の企業人には第二工学部出
発展を担う人的資本の形成に寄与したものとみ
身者が多いという。
ることができる。
そのほか、第二工学部出身ではないものの、
工学部を出て技術士官になった者も多い。佐波
3.6. 理科系の軍国体験
正一(東芝相談役、大正8生)は東京・大森で、
けれども、何より軍隊を学びの場とし、能力
牧師を父に生まれたが、小学校のころからラジ
発揮の場としたのは、理科系の学生だった。彼
オに興味を示す理科少年だった(ラジオ放送は
らは大学などで学んだ技術を、当時、もっとも
大正15年に開始)。また「大きくなったら電車
研究施設や物資が豊富だった軍隊で実践するこ
の運転手になりたいと思っていた」(34巻:28)。
とで鍛え、戦後の経済成長期を迎えた。しかも、
その後、武蔵高校から東京帝国大学工学部電子
軍隊は技術教育だけでなく、戦術教育を通じて、
工学科へ進んだ。当時(昭和14年)の東大総長
経営戦略を教えるという潜在的機能(Merton,
は、海軍の造船中将・平賀譲であった、という。
1957=1961)も果たしていた。一方、軍部もま
入学時には帝国大学の目的が「国家の須要に応
た科学の育成を通じて、武器や戦車・戦闘機な
ずる学術を教授し、及其蘊奥を攻究する・・・・」
どの改良できる人材育成に力を注いだ。先に山
と説明され、仰々しさに驚いたという。夏休み
本卓眞(富士通名誉会長)の経歴で紹介した東
には台湾に行き、海軍技術研究所で実習をして
京帝国大学第二工学部も、戦争末期に直面した
いる。昭和16には教授の紹介で東芝に就職が内
アメリカ軍との圧倒的な物量戦での不利に対処
定していたが、徴兵検査で甲種合格し(短期現
するため、昭和17(1942)年に千葉市に急遽設
役試験は、面接で父親が牧師であること、キリ
立されたもので、教職員(約440名)の半数は
スト教のことなど話したため、不合格となって
メーカー出身で、学科構成も第一工学部とほぼ
いた)、「少しばかり悲壮な思いに襲われた」
同じであった。学生定員は420名であった。そ
����
(34巻:31)。その直後、真珠湾急襲によって太
して、戦後、1949年にはこれを母体にして生産
平洋戦争が始まる。12月末に繰り上げ卒業し、
技術研究所が設立され、1951年に廃止された。
東芝に入社したが、昭和17年には東部第十二部
この第二工学部出身者としては、山本のほかに
隊に入隊、満州に出征した。3ケ月後には技術
石川六郎(鹿島名誉会長、大正11生)がいた。
幹部候補生試験に合格し、当時、神奈川にあっ
石川の父親は東京帝国大学工学部で応用化学の
た兵器学校に入学したが、その時の「図上戦術」
教授をしており、本人も最初は志望を応用化学
は、刻々と変わる戦局での「意思決定のプロセ
としていたが、その後、土木工学に変える。と
スやタイミングの点では、企業経営に通じるも
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のがある」という。ここでは、軍学校が理科系
くなった。また軍事訓練も厳しくなった。たた
の出身者に経営戦略を教えるという潜在的機能
きあげの軍人だった教官からは「おまえらは本
(Merton, 1957=1961)を果たしていたことが窺
当は戦争へ行かんならんのに、理科をやってい
える。
るために生き延びてとるんだ。文科系の者の苦
こうして軍隊は、最先端の科学技術教育を行
労を思い知らせたる」(29巻:31)と厳しくしご
うという潜在的機能も果たしていたが、それは
かれた。また、灌漑用水の水路造りの勤労奉仕
軍部が投入した資金・資源を背景とした研究環
に動員された。さらに昭和20年になると、宝塚
境に恵まれ、優れた人材の獲得競争を行ってい
にあった陸軍技術研究所の関西出張所のレーダ
たからに他ならない。後に自動車関連の計測機
ー部門で、自爆用ロケット「秋水」にとりつける
器から半導体まで扱うメーカーを起業した堀場
標的誘導用の電波探知機の開発に当たる。これ
雅夫(堀場製作所会長、大正13生)は、京都の
は、B29に超短波を当て、その反射電波を受け
高瀬川のほとり(下京区)に化学者を父として
てロケットを命中させる装置であった。これは
生まれ、甲南高校から京都帝国大学理学部物理
陸軍と海軍の共同開発だったが、両者の縄張り
学科に進んだという典型的な理科系少年だっ
意識は強く、「これで一致して国難に当たれる
た。大学時代を回想してこう述べている。「文
のかと暗たんたる気分になった」(29巻:33)。
科系の学生は当時は学徒動員で、学校にいなか
結局、
「秋月」は完成しないまま終戦を迎える。
ったが、私たち理科系は卒業するまで兵役が免
玉音放送は、東京・多摩の陸軍技術研究所の
除されていた。とはいっても戦時下で、大学に
大講堂に集められて聞いた。わざわざ東京に呼
入るとすぐ、陸軍か海軍の委託生になるよう求
ばれたのは、関係書類を焼却するためだった。
められた。委託生というのは軍に一応籍を置い
その後、米を分け与えられ、京都に戻った。し
て、そこから学校へ預ける制度だ」(29巻:28)。
かし、大学ではアメリカ軍によって原子核関連
優秀な委託生を確保しようと陸海両軍から勧誘
の研究が禁じられ、サイクトロン(粒子加速装
されたが、人気のあった海軍は傲慢なところが
置)をはじめ実験機器はアメリカ兵によって破
あり、「今度の戦争は技術の勝負だ。諸君の頭
壊され、その残骸は大阪湾に捨てられたという。
脳が必要だ」と熱心に誘う陸軍に、堀場はあえ
ただ、陸軍研究所関西出張所には電波兵器の開
て陸軍委託生という「ヘソ曲がり」の選択をす
発に関係した機材があり、堀場はそれを借り受
る。陸軍からは「月に十五円か二十円くらいの
け、大学三回生のとき(昭和20年10月)に京都
手当てが出る」ので、「参考書を買うには十分
の民家で「堀場無線研究所」を開設する(この
な額だった」。二回生の時、日本初の原子核の
当時はエレクトロニクスという言葉はなく、
人工変換に成功した憧れの荒勝文策の研究室に
「無線」が弱電の代表的な技術を表していたと
所属する。戦時下でも順風満帆の恵まれた研究
いう)
。
「たぶんわが国の学生ベンチャービジネ
生活を送っていた。
ス(VB)の第一号ではないかと思う」
(29巻:37)
。
ところが、昭和19年頃から戦況は厳しくなり、
生活物資も配給制となる。物不足は研究にも響
き、実験機材・材料にもことを欠き、休講も多
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3.7. 文科系の軍国体験
これに対して、のちに企業経営者になった高
学歴者のうちでも、文科系大学生は、実際に学
つ、と教えている。事業経営では遭遇戦が多く、
後 に 随 分 役 立 ち 、 何 度 も ひ も と い た 」( 26
巻:170)
。
徒出陣も含めて、実際に戦闘に参加していった
後者の実例は多いが、ここでは谷村裕(元東
者が多かったことは、先の『きけ わだつみの
京証券取引所理事長,大正5生)のケースを紹介
こえ』の学部別戦没者の集計結果からも分かる。
しよう。谷村家は、曽祖父が明治期の薩摩海軍
『私の履歴書』からのちの経済人の戦争体験を
の船将、祖父も日露戦争期の海戦に参加した海
みると、文科系学生が戦争中に顕在的・潜在的
軍少尉を務めた海軍一家だったが、父親は銀行
な教育機関であった軍隊から学んだことは2つ
家であった。暁星中学から旧制一高にすすみ、
のタイプに分けられる。1つは、戦争体験から
撃剣部(一高では剣道部をこう呼んだという)
経営における合理的戦略の重要性を学んだ者で
では旧満州まで「武者修行」にいったという。
あり、もう1つは主計官(先に紹介した短期現
昭和10(1939)年、行政官をめざして東京帝国
役士官生徒による海軍経理士官も含む)や法務
大学の法学部政治学科に進むが、次第に軍事君
官として経営・法律の実務を文字通り実地で身
教練も経験するが、もっぱら座学だった。ただ
につけたものである。
し「この教練にちゃんとでていないと、陸軍に
まず前者の代表はのちに東急グループの会長
とられたとき、幹部候補生になれないきまりだ
を務めた五島昇(日本商工会議所名誉会頭、大
った」
(27巻:97)
。帝国大学を3年で繰り上げ
正5生)であろう。五島は運輸通信大臣・五島
卒業後、昭和13年に高等文官試験行政科に合格
慶太の長男として東京に生まれ、山の手で育ち、
し、大蔵省大臣官房に配属となった。そして、
学習院高等部から東京帝国大学経済学部に学ん
この年、創設された海軍短期主計士官を志願し
だという典型的な「山の手族」であった。昭和
て合格、築地の経理学校で軍経理の実地を仕込
15(1930)年に大学を出た後、東芝の営業部に
まれる。その後、中国南部の海上封鎖作戦に従
配属される。翌年、召集令状がきて東部十六部
事し、糧食の補給や給糧船の運航計画に当たっ
隊に入隊し、3ケ月の訓練後、幹部候補生の教
た。昭和16には予備役編入となり、大蔵省に復
育を受けた後、陸軍経理学校に配属された(こ
職し、鹿児島税務署長として赴任することにな
こで開戦を知ることになる)。毎日のようにビ
る。その後再び本省に戻り、戦時中は総務局で
ンタをくらい、訓練も過酷だったが、学生時代
「企業整備資金措置法」や「国家資金動員計画」
にスポーツで鍛えた体力で乗り切った。読書を
の策定に携わった。終戦はここで迎えるが、
制限されたのは精神的に「かなりの苦痛を感じ
「ヤレヤレ終わったという安堵の思いと、さて、
た」ものの、「軍隊関係の本に全く見向きもし
これからが大変だという危惧の気持ち」が入り
なかったのではない。「作戦要務令」には感心
混じっていたという。実際、谷村はその後、大
させられることが多く、・・・・これは戦う人間を
蔵省で戦後のインフレ対策に当たったり、
育てるシステムを説いた本で、例えば相手の状
GHQの経済科学局の物価担当者との折衝、闇
況がまるで分からないでバッタリ出会う遭遇戦
物資の統制強化などに奔走することになる。
の時には、分からないまま先に行動した方が勝
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海軍主計士官のほかにも、海軍には法務官に
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任官するというルートもあった。大蔵省事務次
は、大学という場で学んだ知識や技能を戦争や
官から国鉄総裁を務めた高木文雄(みなとみら
それに伴う兵站(糧秣や武器等の輸送・補給)
、
い21社長、大正8年生)は、東京に生まれ浦和
捕虜生活などという特異な状況で実践し、それ
高校で寮生活を満喫したのち、東京帝国大学法
が戦後の経営戦略や行政活動に少なからぬ影響
学部に進学し、高等文官試験行政科・司法科に
を及ぼしていた。
合格した。この年(昭和18年)に海軍の法務官
かつてマルクスは『経済学批判』で「資本の
は文官から武官になり、高木は海軍法務見習尉
偉大な文明化作用」(Marx,1976=1981:322)に
官として海軍に入る。「そのころ海軍の主計
ついて述べていた。それによると、利潤を追求
(短期現役)の道を進むのが当時のあこがれの
する資本はそのために労働生産力とりわけその
コースだったが、新たに武官になった法務の方
基礎にある人間的自然力を開発するが、その結
がもっと戦死の危険が少なく、しかも大学で学
果、できあがった資本主義社会では剰余価値の
んだことを生かせると友達に勧められ」(30
生産が同時に進む。また生産力の上昇は労働者
巻:262)ためであった。それでも同年9月に見
に消費や余暇・交際に与える。こうして「開化
習を終えると、昭南(シンガポール)の第一南
され、啓蒙される活動能力も結局、自由なブル
遣艦隊軍法会議法務官となって赴任する。とこ
ジョア的所有をふやすために動員され、その目
ろが、着任間もなく防諜隊を編成し、シンガポ
的にそって、人間の活動が手段となるが、その
ールの防諜活動をしているうちに終戦を迎え
枠をも突き破る能力としてもそだってくる」
る。その後、捕虜生活でもイギリス軍の指揮下
(内田,2005:201)。つまり、資本の運動は、市民
で法務官を務め、収容所内の裁判に当たる。こ
社会を文明社会に変えるというのである。この
の当時、かつて私的制裁や虐待を加えた上官を
マルクスの顰に倣って言うなら、日本に限らず
元日本兵が殺戮するという事件が起こったため
軍国主義も「偉大な文明化作用」を伴っていた
である。昭和22年には日本国内では日本国憲法
とも言えるだろう。
が公布されたが、見復員の将兵には適用されず、
実際、日本の文明開化に「富国強兵」が果た
従来の軍法制下で「超法規的解釈」をせざるを
した役割については、吉田(2005:17‑56)が
えなかったという。昭和22年、ようやく捕虜生
詳しく触れている。たとえば断髪(ザンギリ頭)
活も終わって内地に帰還し、大蔵省に復職して
と軍服・軍靴は、明治6(1873)年の徴兵令の
いる。この高木の場合も、大学で学んだ法律の
布告以降、とりわけ農村部に洋装が普及してい
知識を、軍隊や捕虜生活という特殊な状況で運
くうえで大きな役割を果たしたし、軍隊訓練に
用するという特異な実践をしたことになる。
不可欠の言語の標準化も、学校教育とともに軍
隊教育が大きな役割を果たした。さらに、近代
むすび
的な時間秩序もまた、昭和期の兵士への時計の
このように戦争体験は、戦後の復興から経済
普及とあいまって、定着していった。身体の規
成長、さらには安定成長を経てバブル経とその
律化についてもまた同様で、軍隊における整列
崩壊に立ち会うことになる経済人にさまざまな
行進の教練によって、推し進められていった。
影響を与えた。とくに彼らにとって、戦争体験
洋食(肉食とパン食、カレーやビール)の普及
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片瀬一男
も同様である。
文明的な身体の規律化に関しては、欧米列強
など、軍隊以外の世界にも広がっていった(橋
本・栗山,2001)
。
に対抗して病原菌の絶滅をめざした明治国家
ただし、こうした文明化作用は主として農村
は、「国家衛生システム」(小野,1997)を張り
部や都市下層の民衆層に対するものであり、本
巡らせ、「衛生唱歌」などを通じて軍国・皇軍
稿でとりあげた経済人は(『きけ わだつみの
を支える強健な身体の形成・保持を啓蒙しよう
こえ』の学徒兵)も含めて、主として都市部出
とした。とくに軍隊においてはじまった「兵式
身の高学歴者たちであった。高学歴者が軍隊に
体操」が明治初期から学校体育に取り入れられ
初年兵で入営した場合の「憂鬱な日常」──人
ていった。その後、昭和11(1936)年に陸軍が
権を無視した兵役検査から農民兵や下層出身兵
徴兵検査における不合格者の増加から「壮丁体
による怨恨にもとづく私的制裁・虐待について
位低下」を問題化し始めたことから、「体力」
は、高田(2008a,2008b)が縷々述べているが、
イデオロギーが浮上する。このイデオロギーは、
吉田(2005)もまた軍隊のもつ平等性の複雑な
陸軍にとってあるべき兵士を創出するために、
位相について触れている。彼は丸山真男の戦後
「人的戦力」の強化を至上視するものであった。
の発言(飯塚,1971)なども引きつつ、軍隊の
これによって厚生省を中心として、国民の体力
疑似デモクラシーについて論じている。それに
向上の施策、たとえば昭和15(1940)年の「国
よると、軍隊では出自(出身階層や家柄)や学
民体力法」による未成年者の体力検査や結核対
歴も無化されるとことで、軍隊に対する民衆の
策としての「健民修練」事業などがはじまった。
支持を調達していたが、その一方で軍隊では特
さらに、とりわけ時間意識の涵養は、近代軍隊
異な学歴主義も潜在していたともいう。たとえ
における用兵にとって重要な意味をもった。近
ば、地主の子弟は資産や学歴があるため一年志
代的な時間秩序が「生活の時計化」
(真木,1981)
願兵になることができた。この一年志願兵とは、
にあるといわれるが、吉田(2002)によると、
明治22(1889)年に創設された制度で、中学校
少なくとも北支事変(明治33年)の時点で、下
卒業以上の学歴をもつ者が、二等兵卒として入
士官クラスまで腕時計を所有していたという。
営した後、上等兵に進み、1年後の試験と見習
その後、日露戦争における機関銃の本格的な使
士官としての短期教育を経て、予備少尉に任官
用は、集中砲火によって死傷者が続出する事態
できた制度である。徴兵により徴集された一般
が出来させた。そのために、陸軍の第一線では
の兵卒が3年間(日露戦争から日中戦争までは
分隊単位の前進・後退が必要となった。その結
2年間)であったことから、この制度は資産家
果、従来の将校に代わって分隊長(下士官)だ
の子弟に与えられた特権であった(吉
けでなく散開隊形にある兵卒にも計時にもとづ
田,2005:73)。なお、この制度は、昭和2(1927)
く判断能力を必要とさせた。さらに第一次世界
年の兵役法の改正で幹部候補生制度に改変さ
大戦期にはあらかじめ定められていた時刻通り
れ、日中戦争以降はその出身者は戦死率の高か
に攻撃を開始するために、時計が不可欠のもの
った前線の下級旧将校の供給源となった。
と認識されるようになった、というこうした時
くわえて、学歴は高学歴者にさらなる恩恵を
計の普及は、鉄道の定時運行や工場の定時操業
もたらした。本稿で紹介した海軍の短期現役海
人間情報学研究 第18巻
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経済人の軍国体験:教育機関としての軍隊
軍主計官などはその最たるもので、その1期か
ら11期までの平均戦死率は15%と、正規将校に
比べて格段に低かったという(吉田,2005:78)。
戦後、資料が廃棄されているため、学歴別の死
117
サイラム』誠信書房)
.
橋本毅彦・栗山茂久,2001,『遅刻の誕生:近代日本にお
ける時間意識の形成』三元社.
広田照幸 1997 『陸軍将校の教育社会史:立身出世と天
皇制』世織書房.
亡率を正確に比較することは難しいが、吉田は
一之瀬俊也,2006,「皇軍兵士の誕生」『岩波講座 アジ
各種資料を突き合わせることで、大学生の死亡
ア・太平洋戦争 5 戦場の諸相』岩波書店:3‑
率は一般兵士よるも低いと示唆している。その
一方で、先の一年生志願兵に限らず、軍隊が年
功序列の階級社会であったと同時に、広田
(1979)なども指摘するように、とくに将校・
士官層ではきわめて学歴主義的な社会であった
ことからしても、軍隊における階級と学歴との
関係およびそれが軍隊の民衆的基盤の形成にお
いて果たした意味については、さらに論究され
なければならないだろう。
32.
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Journal of Human Informatics Vol.18
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片瀬一男
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には、撹乱的調整と自足的調整があるという。撹乱
的調整が、組織の構造を根本的に変更させることに
よって、組織内の円滑な作動に影響を及ぼすもので
あるのに対して、自足的調整は、そうした根本的な
変革を引き起こすことなく、既存の組織構造への適
応を試行するものある。したがって、組織の裏面生
活で秩序を練り立たせるのは、後者の自足的適応で
ある。精神病院は、被収容者が外部世界から隔離さ
れた状況で、同じ境遇に或る他者と、ごく身近に生
活のあるあらゆる局面をすごすという息苦しい全制
西川美和,2012, 『その日東京駅五時二五分発』新潮社.
的施設です。そのなかでは、さまざまな第二次的逸
大江志乃夫,1981,『徴兵制』岩波新書.
脱という便法によって、患者の解放がはかられる。
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たとえば、患者には作業療法の一環として病院内の
仕事が割り振られることがあるが、そうした患者は
その立場を利用してさまざまな「役得」を得ていた。
厨房担当者は、余分の食べ物を手に入れることがで
きたし、洗濯場で働く者は、他の者より清潔な衣服
を身に着けていた。
特に病院には、ゴッフマン(Goffman,1961=1984,
<注>
1)
他の4つは、①一定の能力を欠き、無害と感じら
れる人々を世話する施設(孤児院や老人ホームなど)
、
②自分の身の廻りの世話ができず、自己の意志とは
無関係に社会に脅威を与えると感じられる人々を世
話する施設(精神病院、結核療養所など)
、③社会に
対して意図的に危害を加えると感じられる人を隔離
する施設(刑務所、矯正施設など)
、④世間からの隠
棲の場所として設置された施設(僧院、修道院など)
である。
2)
ゴッフマン(Goffman,1961=1984)が参与観察した
全制的施設は、1950年代中葉のアメリカのメリーゴ
ーランド州やワシントンの精神病棟であったが、そ
こで入院患者も自分たちを管理し、統制しようとす
る病院の体制に対して、巧みな手段で対応ないしは
適応をはかっていることを発見した。ゴッフマンに
よれば、全制的施設の内部には、患者による「第二
次的調整」とでも呼ぶべき便法が発達するが、重要
なことは、組織が規律を強化して第二次的調整を一
律に取り締まるのではなく、そのような便法のいく
つかを選択的に黙認し、若干の義務の免除を個人に
認めるなどして、支配権を回復しようとすることで
あった。つまり、組織の側も個人(患者)といわば
「取り引き」をすることで、組織(この場合は病院)
の秩序を守ろうとした、という。この第二次的調整
人間情報学研究 第18巻
237‑248)が「解放区」と呼ぶ空間、つまり一定範囲
の禁じられた活動をおおっぴらにできる空間が存在
した。多くの割り当て仕事の行われる場所がこうし
た解放区となり、病棟での権威や拘束から解放され
た場を提供していた。こうした場所を利用して、患
者は職員の車を洗車したり、靴磨き・時計修理など
をして、報酬を密かに受け取っていた。その他、売
買や物々交換など、社会的交換や経済的交換、とき
には個人的強制を用いて、病院内では物品やサービ
スが流通していた。これらの経済活動は、たんに経
済的利益を得ることだけでなく、病院という全制的
施設による支配を脱し、密かに個人の自律性を確保
するという心理的意味も無視できないものだった。
このように全制的施設の特徴は、組織が収容者を全
面的に支配しようとしながらも、収容者の側でも自
由な行動の余地を保つために第二次的調整という対
抗手段を生みだし、それが組織によって半ば黙認さ
れることで秩序が保たれているという点にある、と
いう(Goffman,1961=1984,183‑216)
。
3)
こうした軍隊教育の実態については、一之瀬(2006)
の紹介が詳しい。
4)
なお、最近では梯(2010)によって、金子兜太
(大正8=1919生、俳人、終戦時・海軍主計将校)、大
塚初重(大正5=1926生、考古学者、終戦時・海軍気
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経済人の軍国体験:教育機関としての軍隊
119
象術予備練習生)、三國 連太郎(大正12=1923生、
徴兵忌避体験後、終戦時・漢口兵器勤務隊兵卒)な
どの戦争体験が記録されている。
5)
愛知大学東亜同文書院大学記念センターでは、現
在、東亜同文書院大学の史料のほか、孫文・中国革
命と山田良政・純三郎兄弟に関する資料も展示され
ている(http://www.aichi‑u.ac.jp/institution/05.html)
。
また東亜同文書院に関する最近の研究としては、森
・ ウルジトクトフ(2011)、武井(2011)、森 ・ ウ
ルジトクトフ(2010)などがある。それによると、
同書院(のちに大学)における教育・研究は、中国
語や中国文化に関する研究を核にして、歴史・文
学・地理学から天然資源を用いた工業開発や商品学
などの実学研究にも及んでいた。
6)
健康を保持することは、軍隊にとって重要な課題
であった。そのために導入されたものの1つに「兵式
体操」があった。遠藤(1994)によれば、1872年の
学生と翌73年の徴兵令を発足させた時点で、軍事訓
練(主として歩兵科の演習・教練、操練)を学校や
社会に先導的に導入する試みがなされたという。1
つは学校での教練を軍事予備教育として位置づけ、
それを兵役年限短縮に結びつける構想であり、文部
省系の官僚などによって主導された。もう1つは軍
隊集団のもつ教育的意義を強調し、軍事教練を大衆
に普及させることで、国民統合に寄与させるという
森有礼らの構想であった。その後、紆余曲折をへな
がら、1920年代になると、軍部は学校体操のなかの
「教練」に依拠しながら、学校教育への干渉を強めて
いった、とされる。そして、陸軍省は1938年に大学
学部の教練必修化の第一歩とする方針を決定する。
翌39年には、陸軍との協議を踏まえ、文部省は大学
学部における教練の必修化を陸軍次官に通達するこ
とで、陸軍現役将校学校配属制度と相まって、陸軍
省による学校管理・統制が強固に推進されたという
(遠藤,1994:581‑656)
。
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