第5章 カルマ・ヨーガ:クリシュナ意識における活動 arjunaḥ uvāca

第5章
カルマ・ヨーガ:クリシュナ意識における活動
第1節
arjunaḥ uvāca — アルジュナ言った; sannyāsam —放棄;karmaṇām — 全ての活動の; kṛṣṇa — お
お、クリシュナ; punaḥ — 再び; yogam — 献身奉仕; ca — もまた; śaḿsasi — あなたは賞賛してい
ます; yat — ―どちらがーであるか; śreyaḥ — より有益で;etayoḥ — これら二つのうちで; ekam —
一つ; tat — それ; me — 私に; brūhi — どうか教えて下さい; su-niścitam — 明確に
アルジュナ言う:はじめにあなたは行為れよと言われまた再び献身奉仕として行為せよと勧められるど
ちらが本当に導く有益なのか今ここで明確にお示し下さい。
解説
この第5章で主がおっしゃるのは、無味乾燥な哲学的思弁よりも、主への献身奉仕としての活動の方
が勝っている、ということである。それに、こちらの方が楽である。なぜなら、献身奉仕は本質的に祖対
観念を超越した行為なので、カルマを伴わないからである。第2章では、魂と、魂が肉体に捕らえられ
ていることについての、予備知識が説明されている。この物質のわなから脱出するための方法として、
ブッディヨーガ、または献身奉仕のことも説明してある。第3章では、真の知識に達した人はもういかな
る義務も履行する必要はない、と言うことを説明している。そして第4章ではあらゆる種類の供犠はみ
な、真の知識に達する道である、と主は言われた。しかし最後のところで、知識を体して戦え、と主はア
ルジュナを励まされた。知識による無行為と、献身奉仕としての行為の重要さを同時に強調されたので、
クリシュナはアルジュナを惑わせることになった。アルジュナは、どちらを採ったらよいか、わからなくな
った。完全な知識に達したら、全ての感覚的行動(欲による仕事)は停止する。このことはアルジュナも
しっかり理解している。だがもし、献身奉仕として仕事をする場合はどうなのか?彼は、サンニャーサ、
真の知識を得て欲を離れると言うことは、あらゆる種類の仕事から解放されることだと考えていた。彼
としては、活動と、無為離欲とは、どう考えても一致しない。完全な知識によってする仕事には、カルマ
がまったくないので、これは無為、無活動と不異であるーーという真理を、アルジュナはまた理解してい
ないようである。そこで彼は、このような質問をしたのである。
第2節
śrī-bhagavān uvāca — バガヴァーン言った;sannyāsaḥ — 仕事の放棄; karma-yogaḥ — 献身奉
仕; ca — もまた; niḥśreyasa-karau — 解脱への道へ導く; ubhau — 両方; tayoḥ —二つの; tu — し
かし;karma-sannyāsāt — 果報を求める仕事の放棄と比較して; karma-yogaḥ — 献身奉
仕; viśiṣyate — ―の方がよい。
バガヴァーン答える:仕事の放棄も献身奉仕の活動もともに人を解説へと導くだがこの二つのうちでは
献身奉仕の方が勝っている。
解説
結果を求める仕事―――欲望を満たすための行動は、物質に縛られる原因である。肉体的な楽しみを
増進させるのが目的の行動を続けている限り、人は必ず次の生で別の型の肉体をとって生まれ変わる。
こうして間断なく物質の鎖でで縛られた生活を送るのである。「シュリーマド・バーガヴァタム」(5.5.4
-6)記述で、私たちはこの事実を確認することができる。
nūnaḿ pramattaḥ kurute vikarma
yad indriya-prītaya āpṛṇoti
na sādhu manye yata ātmano 'yam
asann api kleśa-da āsa dehaḥ
parābhavas tāvad abodha-jāto
yāvan na jijñāsata ātma-tattvam
yāvat kriyās tāvad idaḿ mano vai
karmātmakaḿ yena śarīra-bandhaḥ
evaḿ manaḥ karma-vaśaḿ prayuńkte
avidyayātmany upadhīyamāne
prītir na yāvan mayi vāsudeve
na mucyate deha-yogena tāvat
「人々は正気を失って、欲望の満足を追求して生活する。彼らは現在の惨めな肉体が過去における充
欲行動の結果であることを知らない。肉体は維持的なものではあるが、常にさまざまな方法で人を苦し
める。だから、欲望を満たすための仕事は人間にとって良くないのである。真の自己とは何かーーーこ
の魂の本質について何の疑問も持たず考えようともしない人は生涯を誤った失敗者言いえよう。なぜ
なら、自己の本性を悟っていない限り、感覚を満たすための結果を求めて活動しなければならないし感
覚的な楽しみに夢中になっている限り、次々と別な肉体をとって物質界に生まれ変わらなければならな
いからである。たとえ、心にはまだ欲を持ち、無知の霧がかかっていても、人は努めてヴァースデェー
ヴァ(クリシュナ)への愛を育て、件奉仕をしなければならない。こうすることによってのみ、物質的存在
から脱出する機会が得られるのである。」
以上でわかるとおり、ジュニャーナ(自分はこの肉体ではなく、不滅で魂である、と言う知識)だけでは
解脱、真の自由を得るのに不十分である。人はその“魂”として行動しなければならない。知っただけで
はだめ、行動しなければ物質の網から脱け出すことはできない。だが、何度も繰り返しているように、ク
リシュナ意識による活動は、普通のつまり動、反動の段階にある活動とは違う。このことを十分に知っ
た上で仕事をするなら、それは真の知識を達成するための助けとなる。クリシュナ意識と関係なくただ
世間的名仕事を放棄するだけでは、制約された魂のハートを浄化することはできない。ハートが着浄く
ならないうちは、人はいつまでも物質的段階に留まっているのである。つまり仕事の結果にとらわれる
から、増減、損得、禍福の感情が絶えず乱れ動いて、不安で惨めな境涯にいる。ところがクリシュナ意
識のもとで行う仕事はこの低い境涯から人間を引き上げる力となる。そしてこの力によって脱出した人
は、再びその低い段階に落ちることはない。だからクリシュナ意識による活動は、単なる仕事の放棄よ
り常に勝っている。後者には、逆戻り、再下落の危険が絶えずつきまとっているからである。クリシュナ
意識と無関係の離欲や仕事の放棄は、不完全なものだということである。シュリーラ・ルーパ・ゴースワ
ーミーが『バクティ・ラサームリタ・シンドゥ』(1.2.258)の中で次のように明言している。
prāpañcikatayā buddhyā
hari-sambandhi-vastunaḥ
mumukṣubhiḥ parityāgo
vairāgyaḿ phalgu kathyate
「解脱を願う人が、バガヴァーンに関連する物事まで、物質的だとして放棄してしまうならば、そのよう
な“放棄”は不完全な放棄と呼ばれる。」
生きとし生けるもの、有るものすべて、ことごとく主の所有であって、人間はだれひとり、「これは私の所
有だ」と、どうして問題になるであろうか?すべての存在はクリシュナの財産であると知った人は、常に
完全な離欲の境地にいるのである。全てはクリシュナの所有すべてはクリシュナへの奉仕に用いられ
るべきものーーー。クリシュナ意識によるこの完璧な活動こそ、マーヤーヴァーディー学派系のサンニ
ャーシー積み上げる不自然な“離欲“修行より、はるかにはるかに勝っているのである。
第3節
jñeyaḥ — 知られるべきである; saḥ — 彼は; nitya — 常に;sannyāsī — 放棄した人; yaḥ — (-であ
る)人; na — 決してーでない; dveṣṭi — 忌み嫌う; na —ーでない; kāńkṣati — 望む; nirdvandvaḥ —
全ての二元性から自由である; hi —確かに; mahā-bāho — おお、豪勇の士よ; sukham — 幸福
に; bandhāt — 束縛から;pramucyate — 完全に解放されている
仕事の結果に欲望もいだかぬ人は常に離欲、放棄を行じているのだ勇者アルジュナよ、彼はあらゆる
二元相対を超えてらくに物質の鎖を断ち完全な自由を得る。
解説
クリシュナ意識に満ちている人は、常に離欲の行者である。彼は自分のした仕事の結果がどうあろうと、
それに対して期待や欲望を持っていないから、成功したからといって有頂天なって喜んだり、失敗した
からといって悲しんだり他人をうらんだりしない。彼はただ一筋に、主クリシュナへの超越的愛の奉仕に
励んでいるだけである。彼こそ本当の知者なのである。なぜなら、クリシュナと自分との根本的な関係
を知っているからである。彼はクリシュナが全体であり、自分はその極少な一部分であることを心低か
ら悟っている。この知識こそ、質的にも量的にも正確な、完全なものである。“クリシュナと自分は一体
である”という考えは正しくない。一部分は決して全体と同等ではないのだから。質的には同じだが量
的には異なる、というのが正しい、最勝の知識であって、これが真の自己完成へと導くのである。渇望
も悲嘆もない境地へ導くのである。この境地に入った人の心の中には、何一つ二元的なもの、対立す
る者はないーーー何をするにしても、クリシュナのためにするのだから。こうして彼は二元相対の場所
から脱け出て、この世に肉体をもって生活していながら代自在の境地に入るのである。
第4節
sāńkhya — 物質界の分析研究; yogau — 献身奉仕での仕事; pṛthak — 異なる; bālāḥ — 知性の劣
った人; pravadanti — 言う; na —決してーでない; paṇḍitāḥ — 学者; ekam — 方において; api — も
また; āsthitaḥ — 位置して; samyak — 完全に; ubhayoḥ — 両方の; vindate — 楽しむ; phalam —
結果
愚者は献身奉仕(カルマ・ヨーガ)を物質界の分析研究とは別なものだと言うだが一方の道をきわめた
人は双方の成果を得る。
解説
物質界を分析研究する学問―――サーンキャ・ヨーガの目的は、存在しているものの魂を発見するこ
とにある。この物質世界の魂は、ヴィシュヌ、あるいはスーパソウルである。主への献身奉仕は必然的
にスーパソウルの奉仕となる。第一の過程で樹木の根を見るつけ、次の過程でその根に水をやる。サ
ーンキャ哲学の真の学従は、物質界の根であるヴィシュヌを発見する。探し当てる。そして完全な知識
を得ると彼は主を礼拝し奉仕するようになる。だから結局のところ、この二つは別なものではない。双方
とも目的はヴィシュヌなのだからーーー。根本的に原理を知らない人が、サーンキャ・ヨーガとカルマ・ヨ
ーガは違うなどと言う。事実を学んだ人は、二つの道は同じ目的地に通じていることを知っている。
第5節
yat — ―であるもの; sāńkhyaiḥ — サーンキャ哲学の方法によって;prāpyate — 達成され
る; sthānam — 場所; tat —それ; yogaiḥ— 献身奉仕によって; api — もまた; gamyate — 人は達成
することができる; ekam — 一つ; sāńkhyam — 分析研究; ca — そして;yogam — 献身の活
動; ca —そして; yaḥ — (-である)人;paśyati — 見る; saḥ — 彼は; paśyati — 実際に見る
サーンキャによる離欲を通じて到る境地には献身奉仕の活動によっても到達する、この二つの道が同
じであることを知る人は事物の実相を了解した賢者である。
解説
哲学を学ぶ本当の目的は、人生の究極目的を発見することにある。人生の究極目的は、自己実現―
―――自己の本章を悟ることであるから、この二つの道の目的地は同じなのである。サーンキャ哲学
を学んだ人は、生物は物質界の一部ではなく、全一なる至上精神の一部分であると言う結論に達する。
したがって、魂はこの物質世界に属するものではない。彼の行動は至上者と関係あるものでなければ
ならない。クリシュナ意識で行動するときこそ、彼は本来の位置にある。サーンキャの修行では、世間
の物事から自分を引き離し、バクティ・ヨーガでは、クリシュナにささげる仕事に自分を密着させる。一
方は超脱、他方は愛着と、まるで反対のように見えるけれでもこの二つは同じことなのである。これが
理解できる人は物事の本質を見抜く人なのである。
第6節
sannyāsaḥ — 放棄階級; tu — しかし;mahā-bāho — おお、豪勇の士よ; duḥkham —不幸;āptum —
―で人を悩ます; ayogataḥ — 献身奉仕がなければ; yoga-yuktaḥ — 献身奉仕に従事する
入;muniḥ — 思索家; brahma — 至上者; na cireṇa — すみやかに; adhigacchati — 到達する
主への献身奉仕をすることなくただ仕事を放棄する人は不幸である 献身奉仕によって清められた聖
者は速やかに至上者のもとへ到る。
解説
サンニャーシー(出家して俗世間を捨離した人)には二つの種類がある。マーヤーヴァーディー・サンニ
ャーシーはサーンキャ哲学を勉強し、ヴァイシュナヴァ・サーンニャシーは、『ヴェーダーンタ・スートラ』
に適切な注解を付与しているバーガヴァタム哲学を勉強する。マーヤーヴァーディー・サンニャーシー
の、『ヴェーダーンタ・スートラ』を読むが、彼らの用いる注解書は、シャンカラ大師の著した『シャリラカ・
バッシャ』と呼ばれている本である。バーガヴァータ派の学生は、パンチャラートリカ規則にしたがって
主への献身奉仕に従事する。だから、ヴァイシュナヴァ・サンニャーシーは主に対して多種多様な方法
で奉仕するのである。彼らは物質的次元の仕事とは無関係だけれでも主に仕えるために実に様々な
活動をする。だが、サーンキャとヴェーダンタを学んで自ら哲学的思想に従事しているマーヤーヴァー
ディ・サンニャーシーは主に仕える喜びを味わうことができない。彼らの学問は非常に退屈きわまる内
容なので時々“宇宙の原理”を考察するのにくたびれて、正しく理解しないのに『バーガヴァータム』に
逃げ込むのである。だから彼らの『シュリマド・バーガヴァータム』研究は、面倒な結果になる。無味感
想な哲学的考察ある人為的な非人格的解釈。こうしたものは彼らにとって何の役にも立たないのにー。
一方、ヴァイシュナヴァ・サンニャーシーは、様々な活動して最愛の主に奉仕しているからいつも楽しく
幸福である師かも、懇請での義務が終わったら神の国にいくことが保障されているのである。マーヤー
ヴァーディー・サンニャ-シーは、しばしば悟りの道から足を踏み外して下落し、再び博愛的な仕事に
入っていく。博愛、利他主義といっても、これは物質次元の行為に違いはない。だから結論は、クリシュ
ナ意識の人のほうが、ブラフマンを思っている人よりベターである。高い位置にいる、と言うことである。
後者もまた、何度も生まれ変わったあとでクリシュナ意識に達するであろう。
第7節
yoga-yuktaḥ —献身奉仕に従事して; viśuddha-ātmā— 純粋な魂; vijita-ātmā — 自己を支配し
て; jita-indriyaḥ— 感覚を征服して; sarva-bhūta — 全ての生物に; ātma-bhūta-ātmā — 同情的
な; kurvan api — たとえ仕事に従事していても; na — 決してーでない; lipyate — もつれる
献身奉仕する人の魂は清らかで心と感覚は統御され、全ての生物を愛しまた愛される彼は絶えまなく
働いても決して自らの行為に縛られることはない。
解説
クリシュナ意識によって解脱への途上にある人は、全ての生物にとって実に貴重な存在である。また彼
にとっては、生きとし生けるものはすべて、こよなく大切な愛すべき存在である。これは、彼のクリシュナ
意識が原因でこうした結果になるのである。彼はどの生物もクリシュナと無関係なものだと思わない。
分離しているものとは思わない。ちょうど樹木における枝や葉のようなものだと見ている。木の根に水
をやれば、大小全ての枝や無数の葉にも、まんべんなく水がしみわたることを、彼はよく心得ている。
胃に食べ物を入れると、エネルギーが自動的に体中の組織へと回っていくことを、彼はよく知っている。
クリシュナ意識で働く人は、“全体”に奉仕する召使だから、誰からも親愛の情をもって迎えられる。そし
てだれもが彼の働きに満足し、喜ぶ。他を喜ばせる自分を清めることである。したがって彼の意識は常
に清らかである。意識が清浄だから心は適正にコントロールされている。心が調整されていれば、もち
ろん感覚も統御される。彼の心は常にクリシュナに定着していて、決してクリシュナから離れないから、
感覚を主への奉仕以外のことに用いる意志も機会もない。クリシュナに関係のある話以外は、聞くのが
嫌である。クリシュナに供えたもののお下り以外は、食べたいとも思わない。クリシュナに関係ない場所
へは、行きたいとも思わない。つまり、彼の感覚はこのように適正に統御されているのである。感覚を
統御している人は、だれに対しても攻撃的にはならなない。では、「なぜアルジュナは戦争で他人を攻
撃したのか?彼はクリシュナ意識の人ではなかったのか?」という疑問が起きるかしれない。
アルジュナは、攻撃的に見えるだけである。すでに第二章で説明したように、その戦場に集っている
人々はすべて、個人として永久に生き続けるのである。魂は決して殺され得ないのだから、精神的には、
つまり実際には、クルクシェートラの戦場においてだれ一人、殺されはしない。その場に臨在した主クリ
シュナの命令によって、彼らは魂の衣服を取りかえるだけである。したがってアルジュナは、クルクシェ
ートラの戦場で奮戦しているように見えても、実際には戦ってなどいない。ただクリシュナ意識に満ち満
ちてクリシュナの命令を遂行しているだけである。こういう人はカルマによって汚されたり苦しんだりす
ることはないのである。
第8;9節
na —決してーでない; eva — 確かに; kiñcit — 何かを; karomi — 私がする; iti —このよう
に; yuktaḥ — 神聖な意識にあって; manyeta — 考える; tattva-vit — 真理を知る者; paśyan — 見る
こと; śṛṇvan — 聞くこと; spṛśan— 触れること; jighran — 嗅ぐこと; aśnan —食べること; gacchan —
行くこと; svapan — 夢を見ること; śvasan — 呼吸すること; pralapan — 話すこと; visṛjan — 捨てるこ
と; gṛhṇan — 受け取ること; unmiṣan — 聞くこと; nimiṣan — 閉じること; api — ―にもかかわら
ず; indriyāṇi — 五官; indriya-artheṣu — 感覚満足に; vartante— それらをそのように従事させ
る; iti — このように; dhārayan — 考える
神聖意識の人は、見る、聞く、触れる、嗅ぐ、食う、動く、眠る、呼吸等をしていても内心では「私は全く
何もしていない」と知る話すときも、排せつしたり取ったり眼を開閉するときも五官がその対象と作用し
ているのみと知って彼は常に超然としているのだ。
解説
クリシュナ意識の人は、純粋無垢な存在なので、五官の作用は彼に何の影響も及ぼさない。だれがす
るとか、どんな仕事だとか、地位、境遇、努力、そして運―――こうしたことには何の関係も関心もない。
なぜなら彼はそんな物質次元のことを一切超越した、すばらしい愛の奉仕をクリシュナにささげるいる
のだからーーー。体や感覚を使って何かしているように見えても、彼は常に自分の真の立場を意識し
ている。物質的な仕事のように見えても、彼は精神的な働きをしているのである。肉体意識においては、
五官は感覚の満足を求めて動く。だがクリシュナ意識においては、五官はクリシュナの感覚を喜ばせる
ために働く。だがクリシュナ意識の人は、五官を使っていても常に自由である。見る、聞く、歩く、話す、
排せつする等の行動は、五官の作用である。クリシュナ意識の人は決して五官の作用に影響されない。
彼は自分が主の永遠の従者であることをよく知っているから、主に仕える以外の行動をところができな
いのである。
第10節
brahmaṇi — バガヴァーンに;ādhāya — 委ねて; karmāṇi — 全ての仕事; sańgam — 執
着; tyaktvā — 捨て去って; karoti — 実行する; yaḥ — (-である)人; lipyate — 影響される; na —
決してーでない; saḥ — 彼は; pāpena — 罪によって; padma-patram — 連の葉; iva — ―のよう
に; ambhasā — 水によって
執着心を捨てて義務を行いその結果を至上主に献ずる人は蓮の葉が水にぬれないようにあらゆる罪
をはじいてよせつけない。
解説
ここでブラフマ二というのは、クリシュナ意識のことを意味している。物質世界は、物質自然の三性質に
よって成り立って。専門語ではこれをプラダーナと称する。ヴェーダ賛歌で
sarvaḿ hy etad brahma (Māṇḍūkya Upaniṣad 2), tasmād etad brahma nāma-rūpam annaḿ ca jāyate (Muṇḍaka Upaniṣad 1.2.10),
といい、バガヴァット・ギーター(14.3)で、mama yonir mahat bramha と言っているのは、「物質世界
における全てのものはブラフマンの現われである。つまり色、形、作用などがそれぞれちがっているよ
うに見えても、源は同一、根は同じである。」との真理を示している。『イーシャ・ウパニシャッド』では「あ
らゆる存在は至高ブラフマン、またはクリシュナにつながっている。あらゆる存在はただ彼のみに属す
る」と言っている。全てのものがクリシュナに属し、彼が全ての所有者であり、全ては彼に奉仕するため
に存在し動いているのだということを、心の底から完全に知った人なら当然、たとえ美徳と言われようと
罪悪と言われようと、自分の仕事の結果に何のかかわりも持たないはずである。肉体だって、その人に
しかできない行動をするために主から与えられたものなのだから、細胞の一つ一つに到るまでクリシュ
ナ意識で動くはずである。心身ともに罪悪のカルマをはねのけること、まさに蓮の葉が水中にあってぬ
れないのと同様である。主はまたギーター(3.30)の中でこうも言っておられるーーーーmayi sarvani
karmani sannyasya 「全ての仕事を私(クリシュナ)にささげ任せよ。」
一般の人は肉体感覚の観念によってのみ行動するが、クリシュナ意識の人は、自分の肉体はクリシュ
ナのものだから、クリシュナに仕えるべきだという知識によって行動する、ということである。
第11節
kāyena — 体を用いて; manasā — 心を用いて; buddhyā— 知性を用いて; kevalaiḥ — 浄化され
て; indriyaiḥ — 感覚を用いて; api — ―でさえ; yoginaḥ — クリシュナ意識の人;karma — 活
動; kurvanti — 彼らは実行する; sańgam — 執着; tyaktvā — 捨て去って; ātma — 自己
の;śuddhaye — 浄化の目的のために
ヨーガを行ずる人は全ての執着を捨て体と心と知性と感覚を用いてさまざまに活動し仕事をするただ浄化のため
だけに
(解説)
クリシュナの感覚を喜ばせるための、クリシュナ意識による活動は、肉体、心、知性、そして感覚までも
使ってどんな仕事をしても、物質的汚染を受けずに常に清らかである。クリシュナ意識の人がする行動
には、物質的な反作用――――カルマがない。サダーチャーラと呼ばれるこの清浄な活動は、クリシュ
ナ意識を持つことで容易にできるわけである。シュリー・ルーパ・ゴースワミーは、『バクティ・ラサームリ
タ・シンドゥ』(1.2.187)の中で、次のように言っている。
īhā yasya harer dāsye
karmaṇā manasā girā
nikhilāsv apy avasthāsu
jīvan-muktaḥ sa ucyate
「体と心と知性と言葉用いでクリシュナ意識で活動する人―――別の言葉でいえばクリシュナに仕えて
いる人は、さまざまな実利的仕事に携わっていても、物質界に居ながら解脱した人である」彼は誤った
自我意識を持っていない。彼は肉体を自分だと思っていない。自分が肉体を持っているのだ、つまり、
この肉体は自分の所有だと思っていない。彼はよく知っているーーー自分は肉体ではない、そしてこの
肉体は自分のものではない、彼自身もそして肉体も、全てクリシュナのものであることを。彼が体や心
や、知性、言葉、生命、富などを使う場合は、すぐにクリシュナと感心して、クリシュナとぴったり呼吸が
合うのである。彼はクリシュナと一体だから、肉体が自分だなどと信じ込むような、誤った自己意識がな
い。これが完全なクリシュナ意識の境地なのである。
第12節
yuktaḥ — 献身奉仕に従事している人;karma-phalam — 全ての活動の結果; tyaktvā 捨て去っ
て; śāntim — 完全な平和; āpnoti —達成する; naiṣṭhikīm — ゆるぎない; ayuktaḥ — クリシュナ意識
でない人; kāma-kāreṇa — 仕事の結果を楽しむために; phale — 結果に; saktaḥ — 執着し
て; nibadhyate— もつれる
不動の献身の魂は全行為の結果を私に供えて純粋正真の平安境に達する、神とのかかわりなき人は
働きの報酬を渇望して自らの行為に縛られ絶えず不安である。
解説
クリシュナ意識の人と肉体意識の人の相達は、前者がクリシュナに愛着しているのに対して後者は自
分の仕事の結果に愛着していることである。クリシュナに愛着して彼のためにだけ働く人は、確実に解
脱した人―――真の自由を得た人である。彼は自分の働きに対する報酬になど何ら関心がない。『バ
ーガヴァタム』では、仕事の報酬を欲しがる原因は、その人が二元相対的な考えを持っているから、つ
まり、絶対真理についての知識が欠けているからだ、と説明している。クリシュナが至上の原理であり、
絶対実在であるバガヴァーンなのである。クリシュナ意識においては二元相対性など存在しない。あら
ゆる存在がクリシュナのエネルギーによって産出されたものであり、そしてクリシュナは全き善である。
だからクリシュナ意識による活動は、絶対的境地のものーーー二元相対を超えたものであり、物質的
な損得成敗とは無関係なものである。ゆえに人は、クリシュナ意識において全き平安を得られるのであ
る。だが、五官を満足させるために、働きの報酬の多小や結果の成敗に心を配っている人は、絶えず
不安である。クリシュナ意識―――クリシュナ以外には何ものも存在しない、という神秘を悟り、体得す
ることによってのみ、人は絶対の平安と無良(何も恐れない)の境地に達することができる。
第13節
sarva — 全ての; karmāṇi — 活動; manasā — 心によって;sannyasya — 放棄して; āste — (-の状
態で)いる; sukham —幸福の中に; vaśī — 支配される人; nava-dvāre — 九つの門のある場所
で; pure — その町で; dehī — 肉体をまとった魂; na — 決してーでない; eva — 確かに; kurvan —
何かをして; na — ―でない; kārayan — -されるようにする
肉体をまとった魂が自然性を支配しもろもろの活動に対して無献身者なら彼は働くことも働くせることも
なく九門の町(肉体)にいとも楽しく住んでいる。
解説
肉体をまとった魂は九門の町に住んでいる。ここで町にたとえられている肉体は、特定の配合の性質
によって自動的に運営されている。魂はこの肉体の制約に従ってはいるけれども、もし望むならば、そ
の制約を超えることができる。自分の勝れた性質をすっかり忘れてしまっているために、彼は肉体を自
分と同一視して、悩んだり苦しんだりしているのである。だが、彼は、クリシュナ意識によって真実の、
本来の地位を回復することができる。そして肉体の束縛から脱け出すことができる。人はクリシュナ意
識になれば即座に、肉体的活動から超然としているようになる。こうなれば彼は何ごとにも煩わされず、
いとも幸福に九門の町に住んでいる。九つの門については、次のように説明されている。
nava-dvāre pure dehī
haḿso lelāyate bahiḥ
vaśī sarvasya lokasya
sthāvarasya carasya ca
「生物の体内に住むバガヴァーンは、宇宙の全生物の支配者である。体には九つの門がある。すなわ
ち二つの目、二つの鼻孔、二つの耳、一つの口、そして肛門と生殖孔。―――生物が自分が肉体だと
思っている間はさまざまに制約されているが、内なる主と同一視すれば、主と同様に自由自在である。
たとえ肉体の中に在る間でもーーー。」(シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド3.18)
したがって、クリシュナ意識の人は肉体の内外にわたる活動から超然としているのである。
第14節
na —決してーでない; kartṛtvam — 所有権; na — -でない; karmāṇi— 活動; lokasya — 人々
の; sṛjati — 生み出す;prabhuḥ — 肉体の町に住む主人; na — ―でない;karma-phala — 活動の結
果との; saḿyogam — 関係; svabhāvaḥ — 物質自然の性質; tu — しかし; pravartate — 活動する
肉体の町に住む主人公は行為しないまた人々に行為させることもないゆえに行為の結果を生むことも
ない活動は全て物質界の性質が演ずるのだ
解説
生きている存在――生物については、第七書で詳しく説明されるが、それは、至上主に即した高位の
性質を持つものである。主の低位エネルギーである物質とは、はっきり区別しなければいけない。だが、
高位の生命体は、太古よりこのかた低位の物質と大海してきた。彼の物質でできた住居、つまり一時
的な肉体は、さまざまな行為とそのカルマをもたらす。この制約された境地の中で生きていて、人は肉
体を自分だと思い込み、肉体の活動の結果について一喜一憂している。まったく、これは無知が原因
なのである。太古以来の無知が、悲しみや苦しみの原因なのである。肉体の活動から超越すれば、そ
のカルマを受けることもないのである。肉体の町に住んで、その主人公なのだといっても、実際にはそ
の所有主でもなければ支配者でもない。物質の大海にただよって、生けるためにアプアプしている憐れ
な存在である。彼にもまれ、きりきり舞いをしているだけである。クリシュナ意識によって水の上に立つ
ことこそ最上の解決法なのである。これだけが、あらゆる苦悩と混乱から救われる方法なのである。
第15節
na —決して~でない; ādatte — 受け取る; kasyacit — だれの~も; pāpam—罪; na — ―でな
い; ca — ―もまた; eva — 確かに; su-kṛtam — 敬虔な活動; vibhuḥ — 至上主; ajñānena — 無知
によって; āvṛtam — 覆われて; jñānam — 知識; tena — それによって; muhyanti — 混乱す
る; jantavaḥ — 生物
罪深い行いをする人もあり また徳高く善き行いをする人もあるが至上主はそのどちらの責任も負わな
い だが生物は無知のため惑い苦しむ。
解説
ここでサンスクリットの“ヴィブ”という語を使っているのは、無限の知識と富と力と、光栄と美とに満ち満
ちて、しかもこれらに全く無執着であるところの至上主のことを指している。彼は常にご自身で満ち足り
ているから、だれの悪行にも善行にも煩わされない。彼は、どの生物に対しても特別な環境などはつく
らないのに、生物は無知のために妄想をいだいて、自分をある一定の状態に置こうとする。ここから行
為とその反作用の堂々めぐりが始まるのである。精神的実相においては完全な知識を持っているのに、
力が制限されているために、生物はとかく無知無明の霧のなかに迷い込む。ヴィブなる主は全知全能
だが、生物はそうではない。生物はアヌ、すなわち原子的存在である。だが活きている魂なので自由に
意志する能力はある。この意志したもの、つまり欲望は、全能の主によってのみ叶えられる。だから生
物が迷ってあれこれ希望すれば、主はその実現を許してくださる。だが各自が望んだ状態における行
為とその反動については、主に責任はないのである。肉体をまとった魂は、迷いのためにその肉体を、
着物を自分と同一視してしまい、この一時的な体についたはかない幸福や不幸の奴隷となって、石往
在往しているわけである。主はスーパーソウルとして常に魂とともにある永遠の仲間なので、魂の希望
や気持ちは心の底まで理解しておられる。ちょうど花の近くにいれば香りが匂ってくるように。“希望”は
生命体を縛っている目に見えぬ縄なのである。その人に相応して、主はその希望を満ちたされる。人を
希望を出し、神はこれを処理される。個人の力で希望が実現するわけではないのである。主こそが
第16節
jñānena — 知識によって; tu —しかし; tat — それ; ajñānam — 無知; yeṣām — その人
の; nāśitam — 破壊される;ātmanaḥ — 生物の; teṣām —彼らの; āditya-vat — 太陽が昇るよう
に; jñānam — 知識; prakāśayati — 知識; tat param — クリシュナ意識
完全なるヨーギーは内なる幸福を味わい内なる世界で活動し、喜び楽しむ内に興味を持つその人こそ
解脱を得、最高の境地に達する。
解説
自己の内奥からわき出してくる幸福を味わうことができなければ、外面的、皮相的、一時的な幸福を得
るための仕事―――いわゆる世俗の活動をやめることはできない。だが解脱を得た人は自分の胸の
中に、無尽蔵の喜びの泉を持っている。したがって彼は、どんな場所にでも静に座して、内なる生命の
働きを楽しむことができる。このような解脱者、自由人は、もう決して外界の物質的幸福に関心を待た
ない。この境地を“ブラフマ・ブータ”と称している。この境地に達すると、人は確実に神の
第17節
tat-buddhayaḥ — 常に知性が至上者にある人; tat-ātmānaḥ —常に心が至上者にある人; tatniṣṭhāḥ — 信念を至上者のみに置いている人; tat-parāyaṇāḥ — 主に完全に保護を求めている
人; gacchanti — 行く; apunaḥ-āvṛttim —解放へ; jñāna — 知識によって; nirdhūta — 洗い清め
る;kalmaṣāḥ — 疑惑
第18節
vidyā-vinaya-sampanne
brāhmaṇe gavi hastini
śuni caiva śva-pāke ca
paṇḍitāḥ sama-darśinaḥ
ヴィデャーヴィナヤサンパンネ
ブラーマネガヴィハスティニ
シュニカイヴァシュヴァパーケチャ
パンディターサマダルシナー
vidyā —教育を; vinaya — そして温和; sampanne—十分に備えて; brāhmaṇe — ブラーフマナ
を; gavi — 牛を; hastini —象を; śuni — 犬を; ca — そして; eva —確かに; śva-pāke — 犬喰い; ca —
それぞれ; paṇḍitāḥ —賢い人;sama-darśinaḥ —平等に見る
真理を学んだ聖者は、まことに謙遜の美徳を備えている。ブラーフマナも牛も象も犬も犬喰いも、彼は差別なく平
等に見ている。
解説
クリシュナ意識の人は、種族や階級によって生物を差別しません。ブラーフマナと賤民とは社会的見地からは区
別されているし、また、犬や牛や象などは、生物の種族的見地からは相違があります。しかし、真理を学んだ超越
主義者の見地からすれば、肉体的な相違は意味がありません。なぜなら、超越主義者は、それぞれの生物と至
上主との関係をよく知っているからです。至上主はご自身を完全な形に分身させて、パラマートマーとしてどの生
物のハートにも住んでおられます。これが本当の知識です。肉体はそれぞれ異なった階級や種族に属していても、
主はだれに対しても平等に親切です。主はあらゆる生物を友として扱ってくださいます。そればかりか、生物がど
んな環境のもとにあろうと一切おかまいなく、パラマートマーとして、その生物の体内に宿っておられます。パラマ
ートマーとしての主は、賤民の中にもブラーフマナのなかにも住んでいます。肉体はそれぞれ違います。肉体は
それぞれ自然界の異型の性質によってつくられた物質的産物ですが、体内に住む個々の魂とスーパーソウルは
おなじ精神的質を持ちます。魂とスーパーソウルは質的には同じだけれど、量的に違うのです。魂は、ある個体
にだけ存在しますが、スーパーソウルは全ての個体の中にあります。クリシュナ意識の人はこのことを十分に学
び知っているので、平等観を持っているのです。魂とスーパーソウルは両方とも、歓喜に満ちた永遠の意識であ
る点では同じだけれど、魂はその個体だけに限られた意識でスーパーソウルは全生物に共通の意識なのです。
スーパーソウルはすべての生物体に偏在する意識なのです。種、大小、階級、環境などに一切かかわりなく、全
ての生物の中に実在しているのです。
第19節
iha — この生において; eva — 確かに; taiḥ — 彼らによって; jitaḥ — 征服された; sargaḥ — 誕生と
死; yeṣām —彼らの;sāmye — 平静さに; sthitam — 位置する; manaḥ — 心;nirdoṣam — 完全無欠
な; hi — 確かに; samam — 平静さに; brahma — 至上者のように; tasmāt — それゆ
え;brahmaṇi — 至上者の中に; te — 彼らは; sthitāḥ — 位置している
万象を平等に見て常に心平静な人はすでに生死繰り返しを克服している彼はブラフマンのように円満
無欠だすでにブラフマンの中に位置されているのだ。
解説
平と静―――心のこの状態は、自己の本性を悟った人の特徴である。本当にこうした心境に達したな
らば、その人は物質的制約、ことに誕生と死の繰り返しを超克したといえる。自分を肉体と同一視して
いる限り、その人は制約した魂である。しかし自己を悟って心の波がピタリと静まったならば、その場で
すぐに自由となる。もうこの制約に満ちた物質界に誕生する必要はない。今生が終わったら、まっすぐ
高い精神界に入ることができる。主は愛好な嫌悪なく、円満完全である。同様に、生物も愛好嫌悪の気
持ちがなくなれば、円満完全となって、精神界に入る資格ができる。こういう人はもうすでに解脱してい
ることは当然で、その特徴については以下に述べられている。
第20節
na —決してーでない; prahṛṣyet — 喜ぶ; priyam — 愉快なもの;prāpya — 達成して; na — ~しな
い; udvijet — 動揺する; prāpya — 獲得して; ca — もまた; apriyam — 不愉快なもの; sthirabuddhiḥ — 自己を悟った; asammūḍhaḥ — 困感しない; brahma-vit — 至上者を完全に知る
者; brahmaṇi — 超越性の中に; sthitaḥ — 位置する
自己を知った人は愉快な事物を得ても喜ばす不愉快な事物に会っても悲しまないその人は不動心と
神の知識を持ちすでに二元相対性を超越している。
解説
自己の本性を悟った人の特徴がここにある。まず第一に自分はこの肉体だという幻覚を持ってない。
自分はこの肉体ではない、バガヴァーンの微小な一部分なのだということを、完全に知っている。だか
ら、肉体に関係したことで何か都合のいいことがあっても、べつに喜んだり得意になったりしない。また、
何か失ったり不都合なことが起きても、不平を言ったり悲しんだりしない。この安定した精神―――ブラ
フマン、パラマートマー、バガヴァーンーーーについて知識の完成へと導かれてゆく。そして彼はついに
自己本来の地位を完全に知るに至る。すべての点で至上者と同一になろうなどという、誤った無駄な
努力をしないでーーー。これをブラフマンの悟り、または自己実現と言う。この不変不動の意識をクリシ
ュナ意識と称するのである。
第21節
bāhya-sparśeṣu — 外面的な感覚の喜びに; asakta-ātmā — 執着しない人; vindati — 楽し
む; ātmani — 自己の内で; yat — その; sukham — 幸福; saḥ — 彼は;brahma-yoga — ブラフマン
に集中する; yukta-ātmā — 自己を悟った; sukham — 幸福; akṣayam — 限りない;aśnute — 楽しむ
解脱した人は感覚の喜びや外物に関心なく常に内なる楽しみに浸っているこのように自己実現の人は
心を至上者に集中して限りなき幸福を永遠に味わっている。
解説
クリシュナ意識の人、偉大なる献身者、シュリー・ヤームナーチャーリャは、こういっている。
yad-avadhi mama cetaḥ kṛṣṇa-pādāravinde
nava-nava-rasa-dhāmany udyataḿ rantum āsīt
tad-avadhi bata nārī-sańgame smaryamāne
bhavati mukha-vikāraḥ suṣṭhu niṣṭhīvanaḿ ca
「クリシュナに聖愛をささげるようになってからは、彼の中に常に新鮮な喜楽を味わっているので、たま
にふと性愛のことが頭に浮かぶと、いつも私はその想念につばを吐きかけ、また嫌悪感で口をゆがめ
るのである。」
ブラフマ・ヨーガーの人―――つまり、クリシュナ意識の人は、主に対する献身奉仕の歓喜にあまりに
も深く浸りきっているから、肉体的な感覚のたのしみなどはすっかり忘れ去っている。世の中で最も魅
力的な快楽は、性愛であるとされている。そして全世界は魔力で金縛りになり、この呪文の命ずるまま
に動いている。物質的な人はこの動機なくしては全く働くことができない。しかし、クリシュナ意識の人は、
この現実最大の動因を排斥して、しかもどんな活動家よりも気力と活気に満ちて、精力的に働くことが
できる。これが、本当に真理を悟ったか否かのテストになる。精神的悟りと性愛とは、ソリが合わないの
である。クリシュナ意識の人の魂は自由だから、どんな種類の感覚的楽しみにも、捕らわれない。
第22節
ye — それらの; hi — 確かに; saḿsparśa-jāḥ — 物質的感覚との接触によって; bhogāḥ — 楽し
み; duḥkha — 苦痛; yonayaḥ — ~の源; eva — 確かに; te — 彼らは~である; ādi — 始
め; anta — 終わり; vantaḥ — ~に服従する;kaunteya — おお、クンティの息子よ; na — 決して~で
ない; teṣu — それらを;ramate — 楽しむ; budhaḥ — 知性のある人
クンティの子よ、感覚の快楽は一時的なもので終わったあと必ず悲苦が生じるゆえに覚者は決してこ
の悲苦の源泉に近づかない賢者は決してこのような快楽を喜ばない。
解説
五官が外物との接触によって生じる快楽は、実にはかない、つかの間のものである。なぜなら、その五
官のある肉体そのものが、明日にでも灰になりかもしれない、ごく一時的な存在なのだから。自由にな
った魂は、どんなものでも“一時的”なものには関心がない。すぐ悲しみに変わるような喜びーーーこん
な相対的な喜びなどではなく、二元性を超越した、絶対永遠の喜びを知っている自由な魂が、どうして
錯覚的な快楽を追い求めたりするであろうか『パドマ・プラーナ』には次のようにある。
「神秘家たちは、絶対真理から無限の楽しみを引き出してくる。したがって、この至上者なる絶対真理、
バガヴァーンは、“ラーマ”とも呼ばれる」
ramante yogino 'nante
satyānande cid-ātmani
iti rāma-padenāsau
paraḿ brahmābhidhīyate
『シュリーマド・バーガヴァタム』(5.5.1)にも、こう書いてある。
nāyaḿ deho deha-bhājāḿ nṛ-loke
kaṣṭān kāmān arhate viḍ-bhujāḿ ye
tapo divyaḿ putrakā yena sattvaḿ
śuddhyed yasmād brahma-saukhyaḿ tv anantam
「愛する息子たちよ、この人間としての生涯の間、ただ感覚の喜びを得るのが目的で労働する理由は
まったくない。そんなことは糞食い(豚)のすることだ。人間と生まれたからには、むしろ苦行をして、心
身の浄化に努めるべきである。そうすればお前たちは、永遠の至福を楽しむことができるようになる。」
真のヨーギー、あるいは真理を知った超越主義者たちは、決して感覚的快楽に誘惑されない。これにと
らわれている限り、引き続き何度も生まれ変わって、肉体生活をしなければならないからである。物質
的な喜びに執着すればするほど、それに正比例して物質的な悲しみ苦しみが増加してゆくのである。
第23節
śaknoti — ~できる; iha eva — 現在の体で; yaḥ — (~である)人; soḍhum — 耐える; prāk — ~
する前に; śarīra — 肉体; vimokṣaṇāt — 捨てる; kāma — 欲望; krodha — そして怒
り; udbhavam — ~から生じる; vegam — 衝働;saḥ —彼は; yuktaḥ — in trance; saḥ — 彼
は; sukhī — 幸福な;naraḥ — 人間
もし人が肉体を脱ぎ捨てる以前に、五官による感覚の衝動に耐えて欲情と怒りの力を抑制し得たなら
そのヨーギーは現世においても幸福である。
解説
もし人が自己実現の道を確実に前進しようと望むならば、彼はどうしても、暴力ともいえるような感覚的
衝動の強圧に耐えそれをコントロールしなければならない。話したい衝動、怒りの衝動、絶えず動こうと
する心、胃袋の力、生殖器の本能、味覚を追う舌の力、等々―――。これらの勢力を支配できる人を、
“ゴースワーミー”または“スワーミー”(主人という意味)と尊称する。ゴースワーミーたちは、全感覚を
支配下において厳格な生活をしている。物質的、肉体的な欲望が満たされないと、怒りが発生する。そ
の力で心がゆれ動き眼は充血し、胸がざわめく。私たちは肉体を脱ぐ前に、この連鎖を断つべく、努力
しなければならない。欲望に負けず、欲望を支配するように努力しなければならない。これができる人
は、自己の本性を悟った人であり、真実の平安、幸福を得た人なのである。欲望と怒りを支配すること
ーーーこれが超越主義者の義務である。
第24節
yaḥ — (~である)人; antaḥ-sukhaḥ — 内から幸福な;antaḥ-ārāmaḥ — 内で活発に楽し
む; tathā — ~に加えて;antaḥ-jyotiḥ — 内に目的を持った; eva —確かに; yaḥ — だれでも; saḥ —
彼は; yogī — 神秘家; brahma-nirvāṇam — 至上者の中での解放; brahma-bhūtaḥ — 自己を悟っ
て; adhigacchati — 達する
完全なるヨーギーは内なる幸福を味わい、内なる世界で活動し、喜び楽しむ。内に興味を持つその人
こそ解脱を得、最高の境地に達する。
解説
自己の内奥からわき出てくる幸福を得るための仕事―――いわゆる世俗の活動をやめることはできな
い。だが解脱を得た人は自分の胸の中に、無尽蔵の喜びの泉を持っている。したがって彼は、どんな
場所にでも静に座して、内なる生命の動きを楽しむことができる。このような解脱者、自由人は、もう決
して外界の物質的幸福に関心を持たない。この境地を“ブラフマ・ブータ”と称している。この境地に達
すると、人は確実に神の家に帰るのである。
第25節
labhante — 達成する; brahma-nirvāṇam — 至上者の中での解放; ṛṣayaḥ — うちで活発な人;kṣīṇakalmaṣāḥ — あらゆる罪がまったくない人; chinna — 引きさいて; dvaidhāḥ — 二元相対; yata-
ātmānaḥ — 自己実現に従事して; sarva-bhūta — 全ての生物のために; hite — 福祉活動
に; ratāḥ — 従事して
二元相対を超えて内なる喜びにあふれ、あらゆる罪と疑惑を打ち払って、生物全ての向上のために働
く人は最高の境地への解脱に達する。
解説
クリシュナ意識に満ちた人だけが全生物の本当の幸福のために働ける。クリシュナが万有の源泉であ
ることを心の底から知ってその真理を体して活動するとき、はじめてその人の行動はだれに対しても益
となる。クリシュナは無上の享楽者でありすべての所有者であり、そして最高の友である。―――この
真実を忘れたために、人類の苦悩は起こっている。だから人間社会にこの意識を呼びさますための活
動こそ、最も価値ある有益な仕事である。この悟りなくしては、第一級の福利事業を行うことはできない。
その点クリシュナ意識の人は、クリシュナは至高至尊であり、無上の大権をもつことに、いささかの疑念
も持っていない。あらゆる罪悪を洗い落としたので、彼は神に対する疑いなど一かけらも持っていない。
彼は聖なる愛に満ちたされているのである。
人間社会の、物質的、肉体的、肉体的福祉にだけ尽力している人は、だれをも本当の意味で助けるこ
とはできない。外側の肉体や、表面的な心が、一時的に楽になったからといって、それは全く、本当の
救いにはならない。人間の持つさまざまな困難の、真の原因は、自分と至上主との関係を忘れたことに
ある。クリシュナと自分との関係がはっきりわかった人は、たとえ肉体という仮の宿に住んでいても、真
に自由な魂である。
第26節
kāma — 欲望から; krodha — そして怒り; vimuktānām — 解放された人について; yatīnām — 聖な
る人について;yata-cetasām — 心を完全に支配する(人); abhitaḥ— 近い将来; brahmanirvāṇam — 至上者の中での解放; vartate — ~がある; vidita-ātmanām — 自己を悟った人
怒りと物欲・肉欲を法下した人々、自己の本性を知って修養につとめ、自己実現に向かって常に努力
する人々は、最高の境地へのまもない解脱が保障されている。
解説
真実の救いを求めて努力している人々―――こうした高尚な人たちの中でクリシュナ意識に入った人
こそ最上である。これについて『バーガヴァタム』(4.22.39)では次のように確言している。
yat-päda-paìkaja-paläça-viläsa-bhaktyä
karmäçayaà grathitam udgrathayanti santaù
tadvan na rikta-matayo yatayo 'pi ruddhasroto-gaëäs tam araëaà bhaja väsudevam
「ひとえにバガヴァーン・ヴぁースデーヴァに献身奉仕をせよ。偉大な聖者でも感覚の力を支
配することは甚だ困難である。だが主の蓮華の御足に奉仕する至福の人々は深く根づいた物欲、
肉欲を、根絶やしにすることができる。」
制約された魂においては、仕事による利得を楽しみたいという欲望が極めて根深いので、どん
なに偉い聖人でも、これを完全にコントロールすることは至難のわざである。ところが主の献
身者は、クリシュナ意識、つまり自己の本性に安住して、常にクリシュナを礼拝し奉仕してい
るので、まことに速やかに最高の境地への解脱を成ずることができる。自分が何ものであるか
ーーーこれを完全に了解したことによって、彼は常に恍惚たる歓喜に浸っている。こんな詩が
ある。
darçana-dhyäna-saàsparçair
matsya-kürma-vihaìgamäù
sväny apatyäni puñëanti
tathäham api padma-ja
「見たり、思ったり、触ったり魚と亀と馬たちはひたすら子らを養い護るわたしも同じだパド
マジャよ!」
魚はただ見るだけで子供たちを育てる。亀はただ思うだけで子供たちが育てる。亀は卵を陸地
に産み落とす。亀は水の中にいながら、たえず陸においた卵のことを思っている。その思いで
卵は育つのである。これと同じようにクリシュナ意識になった主の献身者は、たとえ主の御住
居とは速く離れていても、ただ主を常に思っていることで主のおそばに上がることができるの
である。彼は物質や肉体のことで悲しんだり苦しんだりはしない。生命の、この状態をブラフ
マ・ニルヴァーナと言う。主に没頭して物質界の悲苦を乗り越えた境地である。
第27;28節
sparśān — 音などの感覚の対象; kṛtvā — 保って;bahiḥ — 外部に; bāhyān — 不必要な; cakṣuḥ —
目; ca— もまた; eva — 確かに; antare — ~の間に; bhruvoḥ — まゆ; prāṇa-apānau — 下上に流
れる気; samau— 停止して; kṛtvā —保って; nāsa-abhyantara — 鼻孔の中に; cāriṇau — 息を吹
く; yata — 支配された; indriya — 感覚; manaḥ —心; buddhiḥ —知性; muniḥ — 超越主義
者; mokṣa — 解放に; parāyaṇaḥ — そう運命づけられて; vigata — 捨て去って; icchā — 望
み; bhaya — 恐れ; krodhaḥ — 怒り; yaḥ — (~である)人;sadā — 常に; muktaḥ — 解放され
た; eva — 確かに; saḥ —彼は~である
感覚を外界の事物からさえぎり、視力を眉間に集中して呼気と吸気を鼻孔の中に留め、こうして心と感
覚と知性を支配し、解脱を目指す超越主義者は、欲望と怒りと恐れから自由になる常にこのような境地
にある人は、間達いなく解脱しているのだ。
解説
クリシュナ意識の修行をしていると、すぐに自分が精神的存在であることがわかる。そして至上主に献
身奉仕することを通じて、至上主のことがだんだんわかってくるようになる。正しい方法で真剣に献身
奉仕を続けていると、いつしか現世を超越した所に立つようになり、自分の行動のなかに主の臨在を
感得することができる。これを最高の境地への解脱と称する。
その様に説明した後で主はアルジュナに、アシュタンガ・ヨーガの八段階修行によってその境地に達す
る方法を伝授された。八つの段階とは、ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナーヤーマ、プラティヤーハー
ラ、ダーラーナー、ディヤナ、そしてサマーディのことである。ヨーガについては第六章で明白詳細に解
説されているが、この五章の終わりのところでは子備的な説明がされている。修行者はプラティヤハー
ラによって、音、感触、色形、味、臭いなど感覚の対象から自分を達ざけ、それから視力を眉間に留め
て半眼で鼻頭に集中する。面眼を完全に閉じてはいけないー眼ってしまうおそれがあるからである。普
通に開けていると、感覚の対象物に気が散る危険がある。だから半眼が最も効果的なのである。体内
で上下に動く気流を中和させて、呼吸運動を鼻孔の中で停止させる。こうしたヨーガの実修によって、
感覚を抑制し支配することが可能となり、最高の境地への解脱を得る。
ヨーガの実修によって人はあらゆる種類の恐怖と怒りを克服し、やがて超越した境地に達して、スーパ
ソウルの存在を悟る。だが見方を変えると、クリシュナ意識こそ、ヨーガ道達成の最もやさしく楽な方法
と言える。このことは次の章で十分に説明しよう。常に主に献身奉仕をしているクリシュナ意識の人は
感覚を支配するのに何も他の方法に頼る必要はない。クリシュナ意識の道の方が、アシュタンガ・ヨー
ガより、感覚をコントロールするのにずっとすぐれているのである。
第29節
bhoktāraḿ yajña-tapasāḿ
sarva-loka-maheśvaram
suhṛdaḿ sarva-bhūtānāḿ
jñātvā māḿ śāntim ṛcchati
ボクターランヤギャータパサーン
サルヴァローカマヘシュヴァラン
スフリダンサルヴァブーターナーン
ギャトヴァマンシャーンティンルッチャティ
bhoktāram —受け取る人; yajña —供儀の; tapasām— そして苦行と禁欲; sarva-loka — すべての惑星と
そこに住む神々; mahā-īśvaram —至上主; su-hṛdam —恩恵を施す人; sarva —全ての; bhūtānām—生
物; jñātvā — このように知って; mām — 私(主クリシュナ); śāntim —物質的苦痛からの救済; ṛcchati —
人は達成する
私はあらゆる供儀と苦行の究極の受益者であり、すべての惑星と神々の至上主であり、一切の生物の幸福を願
う大慈悲者であると、これを知る人は永遠の平安に達する。
解説
幻象エネルギー(マーヤー)に捕らえられている制約された魂たちはすべて、物質現象の世界で安心をつまり幸
福や平和を追い求めています。ですが彼らは平和のための定則を知らないのです。その定則について『バガヴァ
ッド・ギーター』のこの部分は説明しているのである。その最大最高のきまりは、これ ごく簡単明瞭な真理です。
すなわち、あらゆる人間活動、人間の仕事、行為はことごとく主クリシュナが受け取るのだということ。これを知っ
てすべて自分のものだと思っている物や仕事を主クリシュナに供えることです。制約された魂がその限られた知
力で理解できてもできなくても、とにかく宇宙にある無数の天体と、そこに住む神々はことごとくクリシュナの所有
なのです。彼以上に尊く偉大な存在はないのである。神々の中でも最高とされている主シヴァや主ブラフマーより
も、彼は上なのです。ヴェーダでは至上主のことを タン イーシュヴァラーン パラマン マヘーシュヴァラン と
言っています。生物は自分で見える範囲の事物を全て支配したい、自分の所有にしたいと思って努力しますが、
これは幻覚、錯覚であって、実際は、主の物質エネルギーの完全な支配下にあります。物質界の支配者は主で
あり、制約された魂は物質自然のきびしい規則の下にあります。この赤裸々な事実を理解しない限り、個人として
も集団としてもこの世界で真の平和は得られないのです。これがクリシュナ意識のセンスである。主クリシュナが
最高の主権者、支配者であり、偉大な力を持つ神々を含めた一切の生物はすべて彼の従者です。このように完
ぺきなクリシュナ意識となってはじめて平安の境地に達するのです。
この第5章は、クリシュナ意識の実践的分野の説明であって、一般的に「カルマヨーガ」と呼ばれています。カル
マ・ヨーガによって、どうして解脱できるのか、という疑問の答えにもなっています。クリシュナ意識で働くということ
は、支配者としての主について完全な知識を持って働くことです。またこのような働きは、無上の知識とおなじで
す。直接のクリシュナ意識はバクティ・ヨーガで、ジュニャーナ・ヨーガ(知識の道)は、バクティ・ヨーガへと導くため
の道です。クリシュナ意識とは、絶対者と自分との関係を完全に知った上で活動することで、そしてこの意識の完
成は、バガヴァーン、クリシュナについて余すことなく知ることです。純粋な魂は、まことに微小ですが、全なる神
の一部分であり、神の永遠の従者です。現象を支配したいという欲のために、魂はマーヤー(幻象=現象)と接触
するようになりましたが、これこそ彼の苦悩の原因なのです。物質的なことに係わっているかぎり、彼は物質的必
然性によって、いやでも働かなければなりません。しかしクリシュナ意識は、人が物質の管轄区域内にいる間でも、
精神的生活へと導いてくれます。なぜならそれを物質界で実習すれば、必ず内なる精神性が目覚めるからです。
その修行が進めば進むほど、物質的束縛から自由になっていきます。主は誰に対しても公平です。すべては感
覚を抑制し欲望と怒りを克服すべく努力しながら、自分の義務を公平に果たしていく、その程度と成績にかかって
いるのです。そして上記の欲情をコントロールするのに成功してクリシュナ意識に達したならば、その人はすでに
超越的境地、いわゆるブラフマ・ニルヴァーナに入っています。八段階のヨーガ秘伝は、クリシュナ意識の中で自
動的に身についています。なぜなら、ヨーガの究極的目的は、ほかならぬこのクリシュナ意識なのですから。ヤマ、
ニヤマ、アーサナ、プラーナーヤーマ、プラティヤーハーラ、ダーラナー、ディヤーナ、そしてサマーディ。その八段
階に実習によって意識は上がっていきます。ですが、これらはみな、献身完成の入り口でしかありません。献身バ
クティ、主を愛し主に仕える道だけが人類を真の平安に導くのです。神への献身奉仕、これこそ生命あるものの
至高の境地、円満完全な状態なのです。