ヨーガスートラ(Yoga Sétra)第二章 サ ー ダ ナ パ ー ダ 実践の章(Sádhana Páda) タ パ ハ Ⅱ-1 スヴァーディヤーヤ イ ー シ ュ ヴァ ラ プ ラニ ダ ーナ ー ニ ク リ ヤ ー ヨ ー ガ ハ tapaë svádhyáya æùvarapraîidhánáni kriyáyogaë タ パ ハ 熱すること、燃やすこと、浄化の行為、苦行、自己訓練 tapaë オーム スヴァーディヤーヤ 聖典の学習、Omの復唱、自己の学習、自己の探究 svádhyáya イ ー シ ュ ヴァ ラ プ ラ ニダ ー ナ ー ニ æùvarapraîidhánáni プ ル シ ャ æùvara 至高神、特別な純粋精神 praîidháná 帰依、礼拝、集中 ク リ ヤ ー ヨ ー ガ ハ kriyá 行為、実践、活動 yoga ヨーガ、三昧、心の波の抑滅 kriyáyogaë タ パ ス ス ヴァーディ ヤーヤ イーシュヴァラプラニダーナ クリヤー 浄化の行為、聖典の学習、至高神への帰依が実践ヨーガである。 「人間は自己訓練なしにヨーガの完成は達成できない。心の不純性は世間的対象物の誘惑から生じ、 ヴァーサナー タ パス ヨーガにとって有害であり、(*心は)無始の過去から行為の 欲 望 と苦脳に汚され、苦行の実践なしには タ パス 消滅できない。それゆえ苦行は実践されねばならないのだ。ヨーギたちは、堅固な自己浄化の行為の行 程を実践すべきであることが奨励されて来た、なぜならそれが心の清浄性、純粋性へと導くからだ。 オーム スヴァーディヤーヤ モークシャ svádhyáya ── 神聖なマントラ、たとえば聖音 Om の復唱、あるいは聖典の学習は mokøa つ まり束縛からの解放に連結する。 イーシュヴァラ プ ラ ニ ダ ー ナ Æ ù v a r a –praîidháná ── 全ての行為を偉大な至高神に捧げること、つまり行為の結果への渇望 を全て放棄することだ。 」 ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳 クリヤー ヨ ー ガ 「行為という形態のヨーガが kriyá-yoga だ。換言すれば、ヨーガ(*三昧)を達成する目的のための クリヤー ヨ ー ガ 行為が kriyá-yoga なのだ。 」 スワミ・ハリハラーナンダ 「タパスは字義的には燃やすこと、焼くことを意味しています。・・・火は世界中で最も素晴らしい 浄化の媒体であり、またそれは対象物を照らします。・・・火は汚れを燃やして全てを浄化し、光輝に 満ちています。ですからタパシャー(*浄化の行為)とは、人間の性質内の不純性を焼き尽くして、人間 を光輝と霊的意識の浄らかさで満たす、実にあらゆる激しいプロセスなのです。 スヴァーディヤーヤは、私たちの霊的知識の源泉、宗教の源泉、神聖な生活と知識の源泉である聖典 や霊性の本の学習を意味します。・・・聖典には、神と交わった聖者たちに由来する、物質的事柄より も高度な知識が明かされています。この知識を聖者たちは聖典の中に伝えました。・・・ですからスヴ ァーディヤーヤとは、シャンカラ、キリストその他などの ── 聖典の著者の前に座ることを意味して いるのです。 イーシュヴァラ・プラニダーナは『あなた自身を神の中に置く』ことを意味します。つまり、常に神 の臨在意識の中で生きることです。 ・・・イーシュヴァラ・プラニダーナは、崇拝、献身、信仰、謙虚 さの態度を常に保持すること意味します。・・・イーシュヴァラ・プラニダーナは、神との霊的交流を 得ることを目的としているのです。 」 スワミ・チダーナンダ 「信仰者は、自身とその全ての行為を至高の存在の意志に完全に捧げるべきだ。これがイーシュヴァ ラ・プラニダーナだ。それが真の献身であり帰依なのだ。・・・それは神との霊的交流へと導く。個人 の意志は宇宙の意志と一つになるのだ。 」 スワミ・シヴァーナンダ サ Ⅱ-2 マ ー デ ィ バ ー ヴ ァ ナ ー ル タ ハ ク レ ー シ ャ タ ヌ ー カ ラ ナ ー ル タ シ ュ チ ャ samádhibhávanárthaë kleùa tanékaraîárthaùca サ マ ー デ ィ バ ー ヴ ァ ナ ー ル タ ハ samádhibhávanárthaë samádhi 三昧、没入 bhávaná もたらす artha 目的、~のために クレーシャ kleùa 苦悩、煩悩、苦痛、苦悩の原因 タ ヌ ー カ ラ ナ ー ル タ シ ュ チ ャ tanékaraîárthaùca tané 弱める karaîártha 目的とした行為・過程 ca そして サマーディ クレーシャ クリヤー 三昧を実現させ、苦悩を弱めることが(実践ヨーガの)目的である。 クリヤー サマーディ クレーシャ 「実践ヨーガが正しく行われるとき、それは 三 昧 の境地へと導き、全ての苦悩 を大いに弱める。 プ ラ サ ム キ ャ ー ナ クレーシャ クレーシャ prasaókhyána つまり識別の知識の火は、焼いた種のように弱まった苦悩を断種する。苦悩が弱まる ブ ッ デ ィ プ ル シ ャ グ ナ とき、認識知性と純粋精神の区別の理解が明瞭となる。そのような覚醒により、根本要素の現れは不在 となる。」 ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳 クリヤー ラジャス タ マス 「不純性は実践ヨーガによって破壊される。不純性とは、感覚器官の動揺と不活発であり、激質と闇質 クレーシャ サマーディ から生じる。それゆえ不純性の除去は、心を 三 昧 へと向かわせる。さらに、不純性は苦悩の増大した クレーシャ 形態であるため、不純性の減少を通じて苦悩もまた弱まるのだ。 」 スワミ・ハリハラーナンダ クリヤー 「実践ヨーガの三つの要素の実践は、探究者の準備的訓練には役立つと思われているが、それらが副 サ ー ダ カ 次的な重要性だけを持ち、修行者の生活においてはただ限定的な有用性しかないと考えるべきではない。 この訓練がどれほど有益か、探究者をどれほど高い境地へと導くことができるのかを、私たちがこの第 クリヤー クリヤー クレーシャ 2 節を熟慮し、その実践ヨーガの結果から理解できるだろう。実践ヨーガは苦悩を弱め、ヨーガ生活の サマーディ 基盤を整えるだけではなく、それはまた探究者を三 昧 へも、ヨーガの本質である最終的技法にも導くの クリヤー サマーディ サ ー ダ カ だ。それゆえ実践ヨーガは、ヨーガ生活の広大な超構造(*三 昧 )をも築くことができるのだ。修行者を クリヤー タ パ ス スヴァーディヤーヤ 導く実践ヨーガの重要性と進歩の高度な境地は、 私たちが第 2 章 43 節~45 節の浄化の行為、 聖典の学習、 イーシュヴァラプラニダーナ 至高神への帰依の究極の結果を熟考するとき、明瞭になるでしょう。」 I.K.タイムニ 「ほとんどの解説者たちは、この章(*第 2 章)は初心者たちのために意図され、すでに霊的進化の高 サーダナ 度なレベルに到達した人たちのためではないと考えている。それは全く事実ではなく、(*第 2 章の)実践 は両方の人たちのために説かれているのだ。 この章から先は、初心者も進歩した魂も、心をどのように安定させるかを学ぶ。その教えは、進歩し た魂を純粋性と解放の目的地に向けて、より迅速な進歩を可能にするのだ。 クリヤー 人間の三つの構成要素、身体、言葉、心を浄化する訓練は、完全性への道である実践ヨーガを構成し タ パ ス スヴァーディヤーヤ ている。私たちの身体は自己訓練(浄化の行為)により、言葉は自己学習(聖典の学習)により、心は神へ イーシュヴァラプラニダーナ の愛と帰依(至高神への帰依)により浄化されるのだ。 この節(*第 1 節)は三つの偉大な道を提示している。行為の道(カルマ・マールガ)は身体、感覚、心 タ パ ス スヴァーディヤーヤ の訓練(浄化の行為)。知識の道(ギャーナ・マールガ)は全ての領域の自己の学習(聖典の学習)だ。神の イーシュヴァラプラニダーナ 愛の道(バクティ・マールガ)は神への全ての帰依(至高神への帰依)だ。 サーダナ・パーダ 実践の章は、これら全ての道の源泉と関係している。第一番目は生活を、第二番目は知恵を提示して エ ゴ いる。第三番目は、自我の帰依を通じて、イーシュワラ、神の燦然たる悲しみのない光へと導く、謙虚 さをもたらすのだ。 」 B.K.S.アイアンガー Ⅱ-3 アヴィデ ィヤー アスミター ラ ー ガ ドゥヴェーシャ アビニヴェーシャーハ クレーシャーハ avidyá asmitá rága dveøa abhiniveùáë kleùáë ア ヴ ィデ ィヤ ー avidyá 無知、無明、霊的無知、生来の覆い、気づきの欠如、妄想、誤った認識 ア ス ミ タ ー ラ ー ガ asmitá エゴ意識、利己意識、私意識 rága 愛着、欲望、執着、快感 ドゥヴェーシャ アビニヴェーシャーハ dveøa 嫌悪、反感、苦痛、憎しみ、敵対心 abhiniveùáë 死の恐れ、生への執着 クレーシャーハ kleùáë 苦悩、煩悩、苦痛の原因、解脱への障害 クレーシャ アヴィディヤー ア ス ミ タ ー ラ ー ガ ドゥヴェーシャ アビニヴェーシャ 苦悩とは、 無 知 、自我意識、愛着、 嫌 悪 、死の恐れである。 グ ナ 「苦悩とは、間違った認識(*無知)の 5 つの形態だ。それらが活動的になり、顕現するとき、根本要素 の動揺は強化されて変化を起こし、原因と結果の循環を始動させ、相互に連結して行為の結果を生じさ せる。 」 ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳 「これら全ての障害は、肉体の病気のように心を掻き乱す。それゆえそれらは瞑想の大きな障害物だ。 それらは心の波を巻き起こし、相互維持のために互いに従属し合って行為の結果を生みだす。もしあな アビニヴェーシャ ラ ー ガ ドゥヴェーシャ たが生命への執着(死の恐れ)を根絶すれば、好き(愛着)と嫌い( 嫌 悪 )の性向は死滅するだろう。もし ア ス ミ タ ー あなたが利己主義(自我意識)を除去すれば、好きと嫌いの性向は消滅するだろう。利己主義、好き、嫌 サマーディ い、 生命への執着の原因は無知だ。 もし無知が、三 昧 を通じたアートマンの知識を得て破壊されるなら、 他の 4 つの障害も自ずから死滅するだろう。行為は苦悩により支えられ、苦悩は行為によって支えられ ている。そこには相互の支えがあるのだ。これが種と木の類比のような循環だ。これらが人間を誕生と 死の車輪(*輪廻転生)に縛り付ける、5 つの束縛だ。無知が根本原因だ。他の 4 つは無知の結果であり、 単なる無知の変化した現象だ。苦痛や罪はただ無知のみだ。アートマンの、真の完全に至福に満ちた、 永遠に純粋な性質を忘れた人々の中で、これらの障害は顕現するのだ。」 スワミ・シヴァーナンダ チ ッタ・ヴリッティ クレーシャ 「第 1 章で、心の動きは苦痛の伴うものと伴わない種類に区別された(*1章5節)。苦悩という言葉が クレーシャ サマーディ クレーシャ そこで使われ、そして苦悩は三 昧 によって除去されると教示された。ここでパタンジャリは、苦悩の 詳細を説いている。人間は物質主義的な傾向性があるため、利己的な不幸のみが不幸だと考えている。 哲学者たちや心理学者たちは、苦しみの原因を発見しようと試み、苦しみの根源が現在の心の中にでは なく、遥かな過去にあることを発見した。 クレーシャ 苦悩は、私たちの存在自体の内部にある苦しみだ。誰もが潜在意識で苦痛を感じているが、私たちの 表面的な日常生活はそれへの気づきを許さない。もしそうでなければ、私たちは苦痛の全てをはっきり と見ることだろう。外面的な人間と内面的な人間の違いを理解するのは難しい。深層心理学では、人間 生活には異なる領域が存在し、人間の内なる自己は全く異なる振舞いをすると述べている。人は外的に は真実を語るが、内的には嘘をつく。外面人間と内面人間は正反対のことをする。ヨーガを学ぶ人は、 真の幸福は皮膚一枚の深さにはないと告げる深層心理学を知るべきだ。内的生活はたぶん外的生活とは 非常に異なることだろう、だから私たちは外的生活で判断はできないのだ。私たちには裕福で教養のあ る人の外見が幸福そうに見えても、内面では極度に不幸かも知れず、全く財産のない貧乏な人が内面で クレーシャ は幸福かもしれない。彼は至福に満ちているかもしれないのだ。パタンジャリが説く苦悩は、深層心理 学の見地から考察しなければならない。 」 スワミ・サッティヤーナンダ Ⅱ-4 ア ヴ ィ デ ヤ ー ク シ ェ ト ラ ム ウ ッ タ レ ー シ ャ ー ム プ ラ ス プ タ タ ヌ ヴ ィ ッ チ ン ナ ウ ダ ー ラ ー ナ ー ム avidyá køetram uttareøám prasupta tanu vicchinna udáráîám アヴィデヤー ク シ ェ ト ラ ム ウッタレーシャーム avidyá 無知、無明 køetram 田地、畑、場 uttareøám 後に続く(四つの)もの、 プ ラ ス プ タ タ ヌ prasupta 眠っている、熟睡している tanu 弱まった、希薄な ヴ ィ ッ チ ン ナ vicchinna 中断された、現れたり消えたりする、散乱した、動揺した ウダーラーナーム udáráîám 完全に活動的な、拡大された、 アヴィデヤー クレーシャ 無 知 が、眠り、弱まり、散乱し、拡大するその他(の苦悩)の田地である。 「無知が 4 つの苦悩の根源であり、苦悩とは無知の単なる変形または異形に過ぎない。これらの苦悩 プ ラ ス プ タ タ ヌ ウダーラ ヴ ィ ッ チ ン ナ の 4 つの種類とは、prasupta 、tanu、vicchinna 、udára だ。プラスプタ(*眠り)の中で、苦悩は 種の中の木のように隠されて眠っている。タヌ(*弱い)状態の中では、苦悩は細い糸のように痩せ細っ た状態だ。霊的実践を行うヨーギたちはこの状態を獲得した。彼らは邪悪な欲望を、その反対の性質つ まり善い欲望によって希薄にするのだ。たとえば、怒りは慈悲、愛、寛容の発展によって弱まる。ヴィ ッチンナ(*散乱)状態では、苦悩はその場では圧倒する。たとえば夫が妻と喧嘩するとき、その場では ヴリッティ ヴリッティ 夫の愛の心の波は制圧された状態だ。喧嘩している間は、憎しみの心の波が活動している。その喧嘩が ほ ほえ ヴリッティ 鎮まるや否や、妻が微笑んで優しい愛情ある言葉を語るとき、夫の中には再び愛の心の波が現れるだろ う。ウダーラ(*拡大)状態では、苦悩は非常に強力だ。苦悩は全力で活動する。ヴィッチンナ(*散乱)と ウダーラ(*拡大)状態が、一般世間の人々の現状だ。苦悩は人間を世間的生活に縛り付ける。タヌ(*弱 ダ グ ダ い)状態の人は、苦悩を制御できるのだ。(そこには dagdha と呼ばれる別の状態があり、その状態で アサムプラギャータ・サマーディ は苦悩は燃やした種のように焼き尽くされる。この状態は、 無 ヨーギの中に存在する。)」 スワミ・シヴァーナンダ ア ス ミ タ ー アヴィディヤー 想 三 昧 を達成した完全に開花した ラ ー ガ ドヴェーシャ アビニヴェーシャ 「 無 知 の子供たち(自我意識、愛着、 嫌 悪 、死の恐れ)の強度には、4 つの段階があると言われます。 第 1 番目のプラスプタ、 『眠っている潜在力』とは、それらが種子のように、潜在力としてのみ存在す る状態です。次の段階タヌとは、それらがある対象に向かって拡張し、しかしまだ発芽した種子のよう アヴィディヤー に穏やかな状態です。 第 3 番目の段階はヴィッチンナです。ここでは 無 知 の一つの側面は明瞭であり、 アヴィディヤー その他の側面はそうではありません。最後の段階ウダーラは、 無 知 のひとつの側面が出現し、私たち の分別を完全に支配したときに起こります。もし私たちが完全に怒りに圧倒されたなら、それはまるで 私たちがそこに存在していないかのようです。そこに存在する全ては、怒りとその結果のみです。 」 T.K.V.デシカチャー アヴィディヤー ア ス ミ タ ー ラ ー ガ ドヴェーシャ アビニヴェーシャ アヴィディヤー 「 無 知 は、自我意識、愛着、嫌 悪 、死の恐れの根源だ。ちょうど種が木全体の原因であるように、無 知 クレーシャ クレーシャ は他の 4 つの苦悩の根源だ。苦悩は 4 つの表現状態を持つ。それらはあなたが知覚できないほど眠って いるかも知れず、それらはときどきは弱く、穏やかな現れとして体験できるかもしれない。それらが散 クレーシャ クレーシャ 乱した状況では、動揺する状態が起こったり、あるいは苦悩が完全に表現されるかもしれない。苦悩の 様々な状態は、様々な人々のそれぞれ異なった時間に観察される。普通私たちはそれらから決して自由 クレーシャ ではない。それらを克服した偉大なヨーギを除いては、苦悩は全ての人々に見出される。それらがそこ にある限り、自己覚醒は不可能だ。 」 スワミ・サッティヤーナンダ ア ニ テ ヤ Ⅱ-5 ア シ ュ チ ド ゥ ッ カ ア ナ ー ト マ ニ ス テ ヤ シ ュ チ ス カ ア ー ト マ キ ャ ー テ ィ ヒ anitya aùuci duëkha anátmasu nitya ùuci sukha átmakhyátië ア ヴ ィ デ ヤ ー avidyá ア ニ テ ヤ ア シ ュ チ anitya 永遠ではないもの、無常、一時的なもの aùuci 不純、不浄、汚濁 ド ゥ ッ カ ア ナ ー ト マ ス duëkha 苦痛、不幸、悲惨 anátmasu 自己でないもの、非自己、非純粋精神 ニ テ ヤ シ ュ チ ス カ nitya 永遠、永久、不滅 ùuci 純粋、清浄、清潔 sukha 快感、喜び、幸福 ア ー ト マ キ ャ ー テ ィ ヒ átmakhyátië átma 自己、真我、純粋精神 khyátië 知識、認識、理解 ア ヴ ィデ ィヤ ー avidyá 無知、無明、誤った認識 アヴィディヤー ふじょう せいじょう 無 知 とは、無常なものを永遠、不浄なものを清浄 、不幸を幸福、非自己を自己であると誤認 することである。 「無知は誤った理解の原因であり、人間は愛着や様々な種類の魅力ある事柄によって盲目となる。人 間は酩酊している。無知は理解を鈍らせる。無知な人は生きているのに死んだ人間だ。彼は自分の富、 所有物、大学の知識にも関わらず、生きている埋葬された魂だ。正しくない見解を持つことが無知だ。 無知は知識の不在を意味してはいない。あなたは、この 5 つの要素の滅びる身体と様々な不純性を、純 粋な自己だと誤解している。あなたは身体だけが自分であると考えて、アートマンの真の性質を忘れて しまったのだ。これが妄想だ。これが無知だ。」 スワミ・シヴァーナンダ 「ここで『永遠』という言葉は、現象の連続としての時間の限定を超えた意識状態を意味しています。 グ ナ 『清浄』は、3 つの属性の限定と妄想を強いる物質によって、影響されず変容しない意識の純粋性を述 べています。 『幸福』はもちろん、アートマンに内在するアーナンダ、つまり至福を述べていて、それ は外的などんな原因や状況からも独立しています。意識が物質と一体化したときに必ず生じる、この ス カ ド ゥ ッ カ sukha つまり幸福の欠乏が duëkha つまり不幸なのです。自己と非自己の相違の中で述べられてき たこれら 3 つの特性の全ては、単なる説明であり完全なものではありません、なぜなら自己の性質の定 義は不可能であり、知性の限定された言葉で自己と非自己を区別するのは不可能だからです。ここで把 握されるべき主要な見解は、アートマンの純粋性とはアートマンの本性、完全な意識であることです。 アヴィディヤー 物質の漸進的展開はこの自己知識を徐々に奪います、それは自己知識の欠如であり、 無 知 と呼ばれる I.K.タイムニ のです。 」 ジーヴァアートマン アヴィディヤー アヴィディヤー 「 無 知 は、個人の魂が始めから所持していた誤った見解だ。 無 知 の終焉とは、自己覚醒の始まり だ。これは身体と意識の完全な相違の理解と共に実現するが、それは非常に困難だ。私たちは瞑想の中 ブ ッ デ ィ でさえ認識知性から意識を分離できない。知的にでさえそれは不可能だが、実際に身体はアートマン、 心、意識とは異なっている。深い瞑想の中でのみ、私たちはそれらが 2 つであることを理解できる。現 在、 私たちの中では物質とエネルギーは一つだ。知的にはそれらが 2 つであると考えるかもしれないが、 アヴィディヤー しかし私たちは 無 知 のために、それらが 2 つであるという体験ができないのだ。私たちは、物事を表 ヴィヴェーカ 面的にのみ知るために、物事の本質を理解しない。私たちは 識 別 を通じてのみ正しく理解できるのだ。 アヴィディヤー ネガティヴ ポジティヴ 無 知 は否定的な側面だ。それはその肯定的な状態の不在だ。ちょうど私たちが闇を除去するために アヴィディヤー ヴィヴェーカ 戦う必要は無いように ── 闇は光によって除去されるからだ。同じように、 無 知 は 識 別 によって リアライゼーション 除去される。それが自己覚醒だ。 」 スワミ・サッティヤーナンダ ド ゥ リ ク ダ ル シ ャ ナ シ ャ ク テ ィ ヨ ー ホ Ⅱ-6 エ ー カ ー ト マ タ ー イヴァ ア ス ミ タ ー dìkdarùanaùaktyoë ekátmatá iva asmitá ドゥリクダルシャナシャクティヨーホ dìkdarùanaùaktyoë プ ル シ ャ ブ ッ デ ィ dìk 純粋精神、見る者、見る力 darùana 見られるもの、認識知性、認識 ùaktyoë 二つの力、二つの潜在能力 エーカートマター イヴァ ekátmatá 同一化、同一状態、一致 iva ア ス ミ タ ー プ ル シ ア ス ミ タ ー あたかも、まるで ャ ブ ッ asmitá デ 自我意識、私意識 ィ 自我意識とは、あたかも見る者(純粋精神)と見る道具(認識知性)との同一視である。 プ ル シ ャ ブ ッ デ ィ 「純粋精神は絶対の気づきであり、認識知性または認識原理は知るための器官(道具)である。これら ア ス ミ タ ー 二つを同じものであると見做すことが、自我意識と呼ばれる苦悩である。体験する者と体験されるもの という、これら全く異なる二つの実体が結合して現れるとき、それが体験と呼ばれる。二つの実体の真 の性質が認識されるとき、それは解脱または真の自己自身へと導き、そのとき体験は消滅する。」 ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳 プ エ ゴ イ ズ ム ル シ ャ ア ンタカ ラナ 「自我意識とは、見る者と見る力の同一視だ。見る者とは純粋精神だ。見る道具とは心理器官だ(4 重 エ ア ンタカ ラナ ゴ の心 ── 心、知性、潜在する心、自我)。見る者は心理器官と結合して、まるで見る者が一人である ア ンタカ ラナ か心理器官と融和したかのように現れる。見る者は無感覚の 4 重の心の内部で、 『私』という利己的な エ ゴ イ ズ ム 感情を持つが、その『私』とは、意識ある見る者つまりアートマンと誤解したものだ。これが自我意識 だ。あなたが怒り、苦しみ、不幸なとき、あるいは満足するとき、あなたはその思いの波(ヴリティス) と自身を結び付けて、 『私は怒っている。 』 『私は不幸だ。』 『私は幸福だ。』と言う。アートマンが心と結 び付くとき、対象体験が起こる。あなた自身を思いの波や 4 重の心から切り離しなさい、そしてあなた 本来の完全な至福性の中で目撃者として傍観しなさい。これが解脱だ。」 スワミ・シヴァーナンダ プ ル シ ャ プ ル シ ャ 「純粋精神が覚醒されるとき、そこには純粋精神と肉体や知性との同一視はない。しかし私たちはこ ア ス ミ タ ー の事実に気づいてはいない。そしてこの気づきの欠如が自我意識だ。 プラーナ ケーナ・ウパニシャッドに、自己(アートマン)の力により、耳は聞き、目は見、活力は動き、心は考 える、と明確に述べられている。心はアートマンを知らないが、心はアートマンを通じてのみあらゆる ドゥリクシャクティ ことを知る。このケーナ・ウパニシャッドのマントラ(*聖言)は、認識する力( d ì k ù a k t i )とその媒介 ダルシャ ナシャ クティ 物(darùanaùakti)の違いを明確に指摘している。 この認識の力は、哲学書を読んだり、優れた学者から聞いたりしただけでは理解できない。哲学者た プ ル シ ャ ブ ッ デ ィ ちや思想家たちでさえ、純粋精神と肉体を同一視し、認識知性と現実の体験を同一視している。それは 知性を通じては克服できないのだ。それは瞑想を通じてのみ実現できる。それは瞑想中に何かがあなた から現れ、あなたはそれを見る。ラマナ・マハリシ(*1879~1950)はとても若いときにこの種の体験を した。彼は瞑想中に自身の死体を見、同時に自身の死体を見ている自分を見た。そこには 3 人いた ─ ア ス ミ タ ー ─ 死体、それを見ている人、その見ている人を見る者。自我意識とは、これら二つ、または三つの原 ア ス ミ タ ー ア ス ミ タ ー 理が混合したものだ。私たちのほとんどは自我意識の中にいる。そこでこのスートラは、この自我意識 の特定の側面がまさに『私である(I am)』に他ならないと言う。この『私である』は、アートマンと下 位の原理(*24 のタットヴァ)の同一視なのだ。 」 スワミ・サッティヤーナンダ Ⅱ-7 ス カ ー ヌ シ ャ イ ー ラ ー ガ ハ sukhánuùayæ rágaë ス カ ー ヌ シ ャ イ ー sukhánuùayæ sukha 喜び、幸福、快楽 ラ ー ガ ハ rágaë 愛着、執着、魅惑 anuùayæ 伴う、結果となる、伴って起こる ラ ー ガ 愛着とは、快楽に伴う執着である。 「快楽を楽しんだことの潜在印象によって生じる欲望の発生は、『快楽の記憶の結果としての事柄』 を意味する。渇望はかつて楽しんだ快楽を欲する感情を暗示していて、それはちょうど人が喉が渇いた ときに水が欲しくなるようなものだ。ある事柄への渇望や貪欲は、その対象を獲得したいと熱望する心 ア ヌ シ ャ イ ー の状態だ。貪欲なとき、一般的に善悪の感覚は無くなる。anuùayæ つまり「伴う」という言葉は、心 の中に潜在印象として存在する、という意味だ。愛着、欲望、感覚が、ある対象物に自動的、無意識的 に引き付けられるとき、その欲望を意識的に抑制する力は消える。そういう理由で、愛着は一種の誤解 (*無知)と考えられるのだ。その誤解によって、真の自己は感覚器官やその対象物と結び付いてしまう。 そこでこの誤解は、真の自己に全く属さない、感覚器官に属した快楽の潜在印象に縛られた、個別化さ ア ス ミ タ ー れたした自己(*自我意識)と見なされるのだ。さらに、悪を善と思い込むこともまた、愛着の特徴だ。 」 スワミ・ハリハラーナンダ 「以前に楽しんだ快楽の記憶を通じて、執着や欲望は快楽やその快楽の媒体に向かって生じる、それ ラーガ エ ゴ イ ズ ム が愛着(rága)だ。『快楽への思い』による欲望は愛着に含まれる。愛着の原因は自我意識だ。この理由 エ ゴ イ ズ ム により、愛着は自我意識の次に述べられるのだ。快楽が思い出されるとき、それを楽しんだその快楽の 記憶によって愛着は生じる。 そこに快楽があるときにはいつでも、そこには愛着がある。なぜあなたは自分の妻に愛着するのか? なぜなら妻から喜びを得るからだ。あなたはお金を愛する。あなたはお金に執着する、なぜならお金を 通じてあなたに喜びを与える様々な対象物を得ることができるからだ。誰もが幸福を探すが、私たちは 幸福を得るために間違った方向、外界の対象物 ── 本、大学の学位、妻、お金、息子、名誉、力 ─ ─ を求めようとするのだ。 そこには、息子よりも愛しい存在、妻よりも愛しい存在、富よりも愛しい存在、プラーナつまり生命 プ ル シ ャ 力よりも愛しい存在がある。その『愛しい存在』とは、アートマンまたは純粋精神であり、それは私た ちのハートの中に隠れているのだ。 」 スワミ・シヴァーナンダ 「われわれはあるものの中に快楽を見出し、心は一つの流れのようにそれらに向かって流れる。そし ていわば快楽の中心のこの追跡が、執着(*愛着)と呼ばれるものである。われわれは決して、快楽を見 出さないところには執着はしない。われわれはときどきはたいそう奇妙なものに快楽を見出すが、しか し原理は変わらない。どこであれ快楽を見出したところに、執着するのである。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 「感覚対象から生まれる喜びは、実に不幸の源である。おおアルジュナよ、それらには始めと終わり がある。賢者はそれらを喜ばない。 」5-22 バガヴァッド・ギーター Ⅱ-8 ド ゥ ッ カ ー ヌ シ ャ イ ー ドゥヴェーシャハ duëkhánuùayæ dveøaë ド ゥ ッ カ ー ヌ シ ャ イ ー duëkhánuùayæ duëkha 苦痛、不幸、悲しみ anuùayæ 伴う、結果となる、伴って起こる ドゥヴェ ーシャハ dveøaë 反感、憎悪、嫌悪 ドゥヴェーシャ 嫌 悪 とは、苦痛に伴う反感である。 い やけ 「嫌悪とは、反感の感情、心理的な嫌気、不幸や不幸を生みだす対象への痛みや怒りの性質であり、 過去に経験した苦痛の記憶の結果として生じる。 」 ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳 ドゥヴェーシャ 「苦痛の体験の記憶を通じ、嫌悪( d v e ø a )は苦痛と苦痛を起こす対象を想定してやって来る。あな たは苦痛を与える対象物を取り除こうと試みる。人間はこの世界で、苦痛を避け喜びを追い求める。誰 も人間に喜びを求めることを教えはしない。しかし心は至福の天性を持つため、喜びを追いかけるのだ。 嫌悪は人間の苦しみの根源だ。戦争、分裂、不和、党派の紛争、殺人は嫌悪や反感が原因だ。そこに 反感があるときにはいつもそこに嫉妬があり、嫉妬は反感と親密な仲間だ。嫉妬は狭量な心だ。演壇で 教えを説く高い教養を持った人々の心でさえ、嫉妬と憎しみに満ちているのを発見するのは実に残念だ。 彼らは知的な人々であるのに、他者を破壊し、名声と尊敬を得るために巧妙な方法と計画を案出する。 狭量な心の説教師は、あらゆる場所に不和と不調和の種を播くのだ。・・・嫌悪は完全に絶滅させるべ きだ。 」 ラ ー ガ スワミ・シヴァーナンダ ドゥヴェーシャ 「愛着と 嫌 悪 は、私たちの意識を低いレベルに引き下ろす。その状態にいる限り、心は霊的な高み ラ ー ガ ドゥヴェーシャ に上昇することはできない。愛着と 嫌 悪 は同じコインの両面であることを覚えておくべきだ。それら ラ ー ガ は内なる愛着の二重の表現だ。あることを好むことは、何か他のことを嫌うことを含んでいる。つまり ドゥヴェーシャ それらは互いに正反対のことではなく、私たちの心の二つの側面だ。 嫌 悪 はまず最初に取り除かねば ラ ー ガ ラ ー ガ ドゥヴェーシャ ならない、そうすればそのあと愛着もまた消滅するだろう。霊的探求者でさえも、愛着と 嫌 悪 に支配 ドヴェーシャ ドゥヴェーシャ されているのが見出される。より強力に束縛する力は 嫌 悪 だ。それは強度な妨害物だ。嫌 悪 が取り除 ラ ー ガ ラ ー ガ ドゥヴェーシャ かれるとき瞑想はより深まり、そのあとで愛着を捨てることができる。人は愛着よりも 嫌 悪 により影 響を受けると言われる、だから人は嫌悪を取り除くべきなのだ。 」 スワミ・サッティヤーナンダ プルシャ 「愛着と嫌悪は、私たちが魅了され反発するその媒体と意識との同一視に負っており、まさにその媒 体に属している。私たちがこれらの愛着や嫌悪を制御し除去し始めるとき、徐々にこの事実や知識に気 づき出すこととなり、そのあとでそれらを制御し除去することがより効果的になる。 ラ ー ガ ドゥヴェーシャ 粗大な形態での愛着と 嫌 悪 は、人間の不幸や苦しみの大きな原因であり、人生を冷静に見ることが できる人なら誰でも、またその原因や結果を知的に調べることができる人なら誰でも明白だ。しかし クリヤー クレーシャ クレーシャ 実践ヨーガの方法により体系的に苦悩を弱める実践をしている人たちだけが、これらの苦悩の精妙な活 動がいかに私たちの世間の生活の全構造に浸透しているか、心の平和を妨害しているか、を理解するこ とができるのだ。 」 I.K.タイムニ 「苦痛、悲しみ、不幸は、憎しみや嫌悪の鎖の引き金だ。快楽を失ったことの記憶、満たされない欲 望の悩みは、人を悲しみへと導く。極端な苦痛により、人は自分自身、自分の家族、近所や周辺の人々 を嫌悪し、全てが価値がないという感覚を感じだす。 快楽と苦痛のバランスが取れるよう、その知識を得るための努力をする識別の人は、快楽でも苦痛で もない神の恵みを生きる。 」 B.K.S.アイアンガー ス ヴ ァ ラ サ ヴ ァ ー ヒ ー Ⅱ-9 ヴィ ドゥシ ョー ピ サ マ ー ル ー ダ ハ ア ビ ニ ヴ ェ ー シ ャ ハ svarasaváhæ viduøo’pi samáréõhaë abhiniveùaë スヴァラサヴァーヒー svarasaváhæ ヴィドゥショー それ自体の力に支えられた、自動的な流れ、生への愛着 ピ viduøo’pi viduøa 学識ある者、賢者、学者 api ~でさえも、~もまた サ マ ー ル ー ダ ハ samáréõhaë sama 同じく、~のように áréõhaë 支配的な、優勢な ア ビ ニ ヴ ェ ー シ ャ ハ abhiniveùaë 死の恐れ、生への執着、生命欲 アビニヴェーシャ 死の恐れとは、賢人にさえ存在する、潜在力に支えられた生への執着である。 「あらゆる生きものは、 『決して私が消滅しませんよう。私が生存できますよう。 』という切望をいつ も持っている。以前に死の恐怖を感じたことがなかった人には、このような切望を持つことはできない。 これは前世での体験を立証している。この苦悩を伴う不安は自然発生的だ。それは虫でさえもその誕生 時から観察される。(直接)知覚や推理や信頼すべき人の証言によっては証明できないが、この死への恐 怖は、前世で死の恐怖を体験して来たのだという結論に導く。愚者と同様、前世と今生(人はどこから プ ル シ ャ 来てどこへ行くのか)に関する知識を持つ学識ある者も、この恐怖を持つ。真実(*純粋精神)の知識を欠 ヴァーサナー いているため、学識ある者も愚者も、死の苦痛の経験の結果として生じる同じ vásaná(心の中の無意 識の精妙な潜在印象)を持っているのだ。 」 ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳 「インドでは、この生へのしがみつきが、過去の経験と存在を証明する論拠の一つになって来た。た とえば、もしわれわれの知識の全ては経験から来ている、ということが本当なら、われわれは自分がか ひなどり つて経験したことのないものを想像、または理解することはできない、というのは確実である。雛鳥は、 かえ 卵から孵るや否や、餌をついばみ始める。ニワトリに卵を抱かれていたアヒルの子が、殻から出るや否 や水の中に飛んで行き、母親(*ニワトリ)がそれを見て溺れるだろうと恐れた、という光景はしばしば ひな 見られた。もし経験が知識の唯一の源泉であるなら、どこでこれらの雛は餌をついばむことを、アヒル す みか の子は池が自分の本来の住処であることを学んだのか。本能である、と言っても意味はなさない。 ・・・ 本能とは何であるか。 ・・・たとえばご婦人方みなさんの多くはピアノをお弾きになる。そして習い始 めにはどんなに注意深く次々に、指を白黒の鍵盤の上に置かなければならなかったかを、覚えておられ るだろう。しかし多年の練習を経た今は、指が機械的に動く間に、友達と話をしてもおられる。それは 本能になったのだ。実践によって、それは本能になるのだ、それは自動的になるのだ。・・・われわれ がいま自動的だと見なす全てのケースは、退化した理性である。ヨーギーの言葉に従えば、本能とは内 含されている理性である。識別が内含され、自動的にサムスカーラ(*内的傾向性)となるのだ。それゆ え、この世界にわれわれが本能と呼ぶ全てのものは要するに内含された理性である、と考えることは完 全に論理的である。理性は経験無しに来ることは無いのだから。従って全ての本能は過去の経験の結果 である。・・・そこで、この経験は特定の魂に属するものか、それとも単に肉体に属するものか、アヒ ルの持つこの経験はアヒルの先祖の経験か、それともこのアヒル自身の経験か、という疑問が起こる。 現代の科学者たちは、それは肉体のものだと主張する。しかしヨーギーたちは、それは肉体によって 伝えられた心の経験である、と主張する。これが、輪廻転生の学説と呼ばれるものである。」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ テー プ ラ テ ィ プ ラ サ ヴ ァ ヘ ー ヤ ー ハ ス ー ク シ ュ マ ー ハ Ⅱ-10 te pratiprasavaheyáë sékømáë テー クレーシャ te これらの(苦悩) プ ラ テ ィ プ ラ サ ヴ ァ ヘ ー ヤ ー ハ pratiprasavaheyáë pratiprasava 退滅、逆展開 heyáë 除去すること、減少できる スークシュマーハ sékømáë 精妙な、微細な クレーシャ これら(5つの苦悩)が精妙なとき、(原因への)逆展開により除去できる。 クレーシャ 「苦悩(kleùa)には二つの状態、粗大と精妙な状態がある。苦悩がサムスカーラ(内的傾向性または過 サマーディ 去の印象)の状態内に存在するとき、それは精妙な状態だ。ヨーギが三 昧 に入るとき、知識の火を通じ プ ル シ ャ て、苦悩は焼かれた種のように破壊され、心と共に純粋精神(至高の精神)の中に溶解する。これは心が プ ル シ ャ プ アサムプラギャータ・サマーディ ル シ ャ 純粋精神に向かって内向して行くときに生じ、 無 想 三 昧 の間、心は純粋精神の中にラヤ(溶解)す る。 」 スワミ・シヴァーナンダ クレーシャ 「5つの苦悩は4つの状態を持ち、それらは潜在状態、弱まった状態、交互の状態、活動状態と呼ば れる。これはちょうど山から流れ出る川のように、徐々により大きくなって行く。川が海に融合すると クレーシャ クレーシャ き、それはとてつもない大きさだ。苦悩もまた川のようにその力が大きくなる。かくして初め苦悩は潜 在状態だが、それらはゆっくりとより活動的になって行く。 クレーシャ 人はこれらの苦悩を、自分の心の観察により理解できる。それらは潜在意識の中ばかりではなく、顕 在意識にも見出される。それらの活動的な状態から交互(*活動的と弱った)の状態へと鎮め、そこから 弱まる状態に、そして最終的には潜在状態へと鎮めるべきだ。弱まった形態はまず不活動の状態へと鎮 静されるべきだ。このことは大変重要であり、だから最初になされるべきなのだ。 クレーシャ アヴィデヤー ア ス ミ タ ー ラ ー ガ ドヴェーシャ アビニヴェーシャ ステージ 私たちは異なる苦悩(* 無 知 、自我意識、愛着、 嫌 悪 、死の恐れ)の段階を、心の顕在意識や潜在意 識の基準で理解はできない。それら全ては弱まった形態から潜在する形態へと導くことができるのだ。 クレーシャ クレーシャ そのようにして、苦悩の様々な段階を瞑想することにより、それらの苦悩を最終的には消滅させること アヴィデヤー アビニヴェーシャ ができる。これは展開の過程と同様に逆展開の過程をも含んでいる。 無 知 から死の恐れへの過程が展 アビニヴェーシャ アヴィデヤー 開であり、死の恐れから 無 知 への過程が逆展開だ。これら両過程には様々な段階がある、精妙、活動 的その他等々である。 あなたも知っている通り、全てには3つの状態がある。生じる可能性があり生じていない状態は潜在 たね 状態と呼ばれる。それが生じるとき、それは活動状態と呼ばれる。その種が何も産出できなくなるとき、 クレーシャ クレーシャ たね それは焼却された状態、完成した状態と呼ばれる。その苦悩の種を焼却するために、人は苦悩の活動の アビニヴェーシャ ドヴェーシャ 全逆展開の過程を、単に知的にではなく理解しなければならない。なぜならここでは、死の恐れは 嫌 悪 ラ ー ガ ア ス ミ タ ー に逆分解されるからだ。これら二つは愛着に逆分解され、これら三つは自我意識に、そして最終的にこ アヴィデヤー れら四つは 無 知 に逆分解されるのだ。 」 スワミ・サッティヤーナンダ 「サムスカーラは、やがて粗大な形で自らを現すはずの、精妙な印象である。どのようにしてこのよ うな精妙なサムスカーラを征服するか ── 結果をそれの原因に分解することによって、である。結果 チッタ ア ス ミ タ ー であるところの 心 がそれの原因、自我意識すなわちエゴイズムに分解させられたときに初めて、もろ もろの精妙な印象はそれと一緒に死ぬのだ。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ デ ィ ヤ ー ナ ヘ ー ヤ ー ハ タ ド ヴ リ ッ タ ヤ ハ Ⅱ-11 dhyánaheyáë tadvìttayaë デ ィ ヤ ー ナ ヘ ー ヤ ー ハ dhyána 瞑想、禅定 heyáë 減少させる、鎮める、消滅させる dhyánaheyáë タ ド ヴ リ ッ タ ヤ ハ クレーシャ tad それらの(苦悩) vìttayaë 心の活動、心の現わ tadvìttayaë クレーシャ ディヤーナ それら(苦悩)の(粗大な)心の活動は、瞑想によって鎮静できる。 クリヤー クレーシャ プ ラ サ ム キ ャ ー ナ 「実践ヨーガによって弱められた苦悩の粗大な現れは、識別知識(prasaókhyána)の瞑想を通じて、 たね それらが焼却された種の状態になるまで減少され、滅却されねばならない。布の粗大な汚れはまず最初 クレーシャ に洗い落とし、そのあとその精妙な不純物は注意深い努力により除去される。粗大な苦悩は除去しやす クレーシャ い障害物だが、精妙な苦悩を克服するのはより困難である。 」 ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳 クレーシャ ア ス ミ タ ー デ ィ ヤ ー ナ ヘ ー ヤ ー ハ 「苦悩の粗大な現れは、自我意識その他の無知による心の活動だ。dhyánaheyáë とは、識別知識 クレーシャ への瞑想によって生じる知識を通じて消滅させることだ。苦悩とは間違った知識だ。だからそれは真実 クレーシャ の知識によって消滅させねばならない。識別知識は知識の最良の形態だ。そういう理由で、苦悩の活動 は自己認識の瞑想によって除去しなければならないのだ。」 スワミ・ハリハラーナンダ 「ここでは、想念の波の形態での、苦悩の粗大な形態を消滅させるための方法が述べられている。布 の粗大な汚れは漂白用白土(酸性白土)によって除去される。精妙な汚れは石鹸を用いれば除去される。 しかし、布が焼却されない限り、その布の精妙な汚れの痕跡は存在することだろう。それでも、心の粗 クリヤー 大な汚れ ── 苦悩 ── は実践ヨーガによって除去される。粗大な想念は瞑想によって消滅する。 サマーディ 三 昧 の中で、想念の傾向性の精妙な形態でさえも、心の消滅と共に消滅する。規則的で体系的な瞑想は 必要不可欠だ。瞑想は習慣にしなければならないのだ。 」 クレーシャ スワミ・シヴァーナンダ イ シ ュ タ ディヤーナ 「苦悩の活動を鎮める瞑 想 は、観察を含んでいる。あなたは理想神の瞑想だけではなく、自身に生じ クレーシャ る異なった心理現象の多面性を観ることのできる瞑想過程により、苦悩を観察できなければならない。 ア ン タ ル ・ モ ウ ナ 内なる静寂瞑想法の実践により、あなたは心の活動を観るだろう。あなたはそれらを鎮静しなければな クレーシャ らない。あなたがこの観察を実践するとき、善い想念も悪い想念も、全ての想念を観察するべきだ。苦悩 ヴィヴェーカ の活動が潜在状態に鎮まるとき、探求者は 識 別 の過程であるラージャ・ヨーガの理性的方法、または クリヤー クレーシャ ヴィヴェーカ 実践ヨーガの方法をスタートさせるべきだ。苦悩が活動的なときに 識 別 を実践しても、あなたは失敗 ヴィヴェーカ するに違いない。なぜなら 識 別 には確かな心の準備が必要とされるからだ。 ア ディヤーナ ン タ ル ・ モ ウ ナ クレーシャ この瞑 想 は一点集中ではなく、内なる静寂瞑想法つまり苦悩の活動の観察だ。その心の活動に接近す る観察により、その活動は弱まった状態に戻り、そのあと精妙な状態となる。霊的探求者の心は、その ような瞑想実践の過程を通じて、より静寂になっていくことが理解できるだろう。 ヴィヴェーカ クレーシャ 識 別 は、そのような心の静寂を実現したときに実践するべきだ。理性的な手段により、苦悩の原因 が見出され、除去されねばならない。ある人は自分の母親、または息子に執着していることを発見する かもしれない。またある人はある領域での莫大な成功を望んでいることを発見するかもしれない。その ようにその原因を突き止め、深い熟慮によってそれを除去しなければならない。しかしこの実践は大変 クリヤー に難しい。ここでは実践ヨーガを有効に使用することができる。 」 スワミ・サッティヤーナンダ ク レ ー シ ャ ム ー ラ ハ カ ル マ ー シ ャ ヨ ー ド リ シ ュ タ ー ド リ シ ュ タ ジ ャ ン マ ヴ ェ ー ダ ニ ー ヤ ハ Ⅱ-12 kleùamélaë karmáùayo dìøôádìøôajanma vedanæyaë ク レ ー シ ャ ム ー ラ ハ kleùamélaë kleùa 苦悩、煩悩 mélaë 源、原因 カ ル マ ー シ ャ ヨ ー karmáùayo karma 行為、活動 áùayo 蓄積、倉庫、貯蔵所 ドリシュタードリシュタジャンマ dìøôádìøôajanma dìøôa 知覚されるもの、現在 adìøôa 知覚されないもの、未来 janma 誕生、 ヴ ェ ー ダ ニ ー ヤ ハ vedanæyaë 体験される、体験されねばならない クレーシャ 苦悩を根本原因とする行為の(潜在印象の)蓄積は、現世か来世で体験される。 カ ル マ ー シ ャ ヤ 「Karmáùaya ── 行為の潜在印象。道徳的な、または不道徳な行為の潜在印象がカルマーシャヤ だ。どんな心の現れもカルマーシャヤ(行為の潜在印象の貯蔵所)にその痕跡を残す、そしてそれがその サ ム ス カ ー ラ サ ヴ ィ ー ジ ャ ニルヴィージャ 潜在印象だ。Saóskára つまり潜在印象は、種の有る(有力)ものか種の無い(無力)ものであろう。有 力なサムスカーラは二種類ある。苦悩によって生じるものと、その反対のものだ。言葉を変えると、間 違った知識を基盤としたサムスカーラと、真の知識を基盤としたそれだ。苦悩を基盤とする有力なサム スカーラがカルマーシャヤと呼ばれる。それらは白(善)、黒(悪)、黒-白に分類されるか、または二種 類、道徳的と不道徳、あるいは白と黒のみに分類される。心の集中によって覚醒された知識に基づくサ ムスカーラは、黒でも白でもない。 カルマーシャヤは、誕生、一生の長さ、一生の体験という三つの結果をもたらす。言葉を変えれば、 そのような結果をもたらすサムスカーラがカルマーシャヤだ。その結果が生じるとき、それによって経 ヴァーサナー 験された感情を基盤とするサムスカーラを Vásaná つまり潜在意識への潜伏と呼ぶ。ヴァーサナーそ れ自体はどんな結果も生み出さないが、しかしどんなカルマーシャヤがその結果を生み出すときにも、 たね 特定のヴァーサナーが必要とされる。カルマーシャヤは種のようであり、ヴァーサナーは畑のようだ。 誕生は木のようであり、経験(快感と苦痛)はその果実のようだ。 」 カ ル マ スワミ・ハリハラーナンダ カ ルマ 「苦悩は行為(karma)が原因だ。行為は人間を活動へと駆り立て、それにより人間は自身の活動の結 果を楽しむ。あなたが今回の誕生の間に大変に善意な活動を行ったと想定しよう。この活動の印象は、 潜在意識の中に精妙な形態で蓄積される。その印象は、今世かいずれかの来世で、あなたにその結果を 与えることだろう。これらの印象は、善くても悪くても、適切な時期にその結果を実らせるのだ。 カ ルマ 行為には始めがない。バガヴァッド・ギーターの中で、あなたは『行為の道の神秘』(4-17)を発見す カ ルマ カ ルマ るだろう。行為の法則は深遠だ。どんな種類の行為がハンセン病やてんかん症の原因か、あなたが現在 カ ルマ カ ルマ カ ルマ 楽しんでいる行為の結果が、一つの行為の結果か、それともいくつかの行為の結合の結果なのかを言明 するのは困難だ。 」 スワミ・シヴァーナンダ 「・・・こうして善くても悪くても、あらゆる活動、あらゆる思いはただ下って精妙になり、そこに (*カルマーシャヤ)蓄えられる。幸と不幸と両方の思いが、共に苦痛を運ぶ障害と呼ばれる。なぜなら ヨーギーたちによると、それらは結局、苦痛をもたらすからである。感覚から来る全ての幸福は、つい には苦痛をもたらすであろう。全ての楽しみはわれわれをして、もっと欲しいと渇望させ、それの結果 として苦痛をもたらすのだ。人の欲望には限りがない。彼は欲し続ける。そしてある、願望が満たされ ない一点まで来ると、その結果は苦痛である。それだからヨーギーたちは、善であれ悪であれ印象の総 計を、苦痛をもたらす障害、と見なすのだ。それらは魂の自由への道を妨げるのである。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ サ テ ィ ム ー レ ー タ ド ヴ ィ パ ー コ ー ジ ャ ー テ ャ ー ユ ル ボ ー ガ ー ハ Ⅱ-13 satiméle tadvipáko játyáyurbhogáë サティムーレー satiméle sati 存在する、有る méle 根源、原因 タ ド ヴ ィ パ ー コ ー tadvipáko tad その vipáko 結果となる、果実となる、熟成する ジャーテャーユルボーガーハ játyáyurbhogáë játy 誕生、生物種、職種 áyur 寿命、一生 bhogáë 快苦の体験 (苦悩という行為の潜在印象の)根本原因が存在する限り、その結果として特定の誕生、寿命、 快苦の経験が生じる。 カ ル マ ー シ ャ ヤ クレーシャ 「Karmáùaya(行為の潜在印象)は、その根源に苦 悩 (*無知、自我意識、愛着、嫌悪、死の恐れ)が カ ル マ ー シ ャ ヤ クレーシャ 存在するときその結果を生じ始める。しかし行為の潜在印象は、苦 悩 が根絶されるとき結果は生みださ ない。米が外皮に包まれて焼かれない状態では発芽するが、外皮(もみ殻)が除去されるか焼かれたとき クレーシャ カ ル マ ー シ ャ ヤ には発芽しない、そのように 苦 悩 を基盤とする行為の潜在印象 はその結果を生みだすが、知識(* プ ル シ ャ プ ラクリ ティ クレーシャ 純粋精神と根本原質の識別)の獲得を通じて苦 悩 が除去されるか焼かれた状態になるときには、どんな 結果も生み出さない。その結果には 3 種類あり、誕生と寿命と快感か苦痛の経験である。 」 ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳 クレーシャ カ ルマ 「根本原因とは、苦 悩 の形態の原因である。行為の結果は 3 種類だ。それらは(*誕生した)階級か生 クレーシャ カ ルマ 命種、寿命、快感または苦痛の体験だ。もしそこに苦 悩 が存在するなら、そのときにのみあなたは行為 クレーシャ カ ルマ の結果を味わうだろう。このことから、苦 悩 を壊滅したヨーギには、行為の結果が生じないことが推測 クレーシャ される。ちょうど米の外皮が除去されて発芽の力を喪失するように、ヨーギによって苦 悩 (外皮)が壊滅 カ ルマ プ プ ラクリ ティ ル シ ャ されるとき、行為の結果を生みだす力は消失する。ヨーギは、物質(根本原質)と魂(純粋精神)の識別に よりそれらを破壊するのだ。 」 スワミ・シヴァーナンダ 「根がそこにある限り、樹木は生い茂る。もしその樹木が侵害されなければ、その樹木には果実が実る クレーシャ だろう。この人生はまさにその樹木であり苦悩はその根本原因だ。もしその原因が除去されれば ── つまり5重の苦悩(*無知、自我意識、愛着、嫌悪、死の恐れ)に勝利すれば、人生という巨木は自然に 朽ち果てるだろう。 ・・・経験には三種類あり、快感と苦痛とそれらが混合したものだ。寿命は長いか、 ジャーティ 短いかだろう。ある特定の国、社会、または家庭への誕生が játy と呼ばれる。これら三つの事柄全て カ ル マ ー シ ャ ヤ が Karmáùaya(行為の潜在印象) の結果だ。 どの果実もその樹木と繋がり、どの樹木もその根と繋がっているように、誕生その他は人生と繋がり、 カ ル マ ー シ ャ ヤ その人生は過去のカルマ(行為)の結果だ。それと同様に行為の潜在印象は苦悩の根源に依存している。 もし果実の実りを停止させようとするなら、樹木は伐採しなければならない。つまりその根を取り除く のだ。同様に根本原因である苦悩は除去しなければならない。輪廻転生の理論を知る人は、どんな行為 カ ル マ ー シ ャ ヤ をしてもその印象は後に残ると述べている。これらの印象の蓄積が Karmáùaya と呼ばれるのだ。 カ ル マ ー シ ャ ヤ ・・・そのように肉体によってどんな行動をしてもそれは記録されている。この行為の潜在印象は過 去の行為の大宇宙的なフィルムと呼ぶべきだろう。それはときどきスクリーン上に現れ、ときどきは地 下に潜るのだ。 」 スワミ・サッティヤーナンダ テー フ ラ ー ダ パ リ タ ー パ パ ラ ー ハ プ ン ニ ャ ー プ ニ ャ ヘ ー ト ゥ ト ヴ ァ ー ト Ⅱ-14 te hládaparitápaphaláë puîyápuîyahetutvát テー te それら(誕生・寿命・経験) フ ラ ー ダ パ リ タ ー パ パ ラ ー ハ hládaparitápaphaláë hláda 快感 paritápa 苦痛 phaláë 結実、結果 プ ン ニ ャ ー プ ニ ャ ヘ ー ト ゥ ト ヴ ァ ー ト puîyápuîyahetutvát puîya 徳、善行 apuîya 罪、悪行 hetutvát 原因で、~のために それら(誕生・寿命・経験)は善行と悪行が原因であるため、快感と苦痛の結果をもたらす。 「これらの誕生、寿命、経験は、もし原因が善であれば幸福を生みだし、悪であれば不幸を生みだす。 ちょうど(一般の人々が)不幸を望まないように、ヨーギは快適な対象の喜びでさえも望まない、なぜな らそこには苦痛もまた含まれているからだ。 」 ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳 クレーシャ 「スートラ 2 章 13 節で、苦悩の結果は階級(*誕生)、寿命、経験を通じてやって来ると教示された。 善と悪の行為は、階級(*誕生)、寿命、経験の原因となる。これら 3 つが形成されるや否や、善か悪に カ ルマ クレーシャ よる快感と苦痛の体験が生じるのだ。行為の源泉は苦 悩 (*無知、自我意識、愛着、嫌悪、死の恐れ)だ。 カ ルマ 結果の源泉は行為だ。 」 スワミ・シヴァーナンダ プ ラ ー ラ ブ ダ - カ ル マ 「カルマには次の三種類がある。現世に発現して使い尽くされつつある Prárabdha - Karma。現世 ア ー ガ ー ミ- カ ル カ ル マ ー シ ャ ヤ マ で新しく作り出されつつある Ágámi - Karma。未来の生で遂行されるべく、Karmáùaya の中で待って サ ン チ タ - カ ル マ いる Sancita - Karma。これらは、弓を射る人の手回り品にどこか似ている。彼の矢筒の中にはたくさ んの矢がある。そして、もしも彼が名人なら、矢を一本取って弓につがえ、狙って放ったらすかさず次 の矢を取ってつがえることができる。その瞬間の矢は、三つの位置にある。一本目はすでに弓を離れて プ ラ ー ラ ブ ダ - カ ル マ 進みつつある。それはもうどうすることもできない。それが現生を引き起こした Prárabdha - Karma である。その身体の存続する限り、それに割り当てられたカルマは続く。・・・二本目の、つがえて狙 ア ー ガ ー ミ- カ ル マ っている矢は、人が一瞬ごとに新しく作り出すカルマ(Ágámi - Karma)に似ている。それは完全に制御 カ ル マ ー シ ャ ヤ 下にある。そして、矢筒は Karmáùaya を象徴している。その中にある矢は、もしそうしたければ抜 き出して狙い定めることができるし、でなければ抜き捨てることもできる。それは全く意のままだ。そ サ ン チ タ - カ ル マ れが Sancita - Karmaである。 」 スワミ・サッチダーナンダ(インテグラル・ヨーガ 伊藤久子 訳) 「私たちの人生にやって来る経験の快感と苦痛の性質は、それらを生み出す原因の性質により決定さ プ ラクリ ティ れます。その結果はいつもその原因と自然(*根本原質)に関係しており、その性質は原因によって決定 されます。そこで『道徳的な』思い、感情、行為は快い経験を生じさせ、『不道徳な』なものは不快な 経験を生み出します。 ・・・自然世界では、結果はいつも原因と関係し、行為が課した原因に正確に適 合します。もし私たちがある人に、わずかな肉体的苦痛を与える原因を作り出すとすれば、その行為の 結果として、それに応じた肉体的苦痛が私たちにやって来るのは道理です。それは恐ろしい惨事が引き 起こす耐えがたい心理的苦痛という結果にはなりません。それは不公平であり、カルマの法則は私たち が考えることのできる、最も完全な公平さの表現なのです。 」 I.K.タイムニ 「自分の今の状態に対する責任は、自分にあります。もし現在の状態が自分の過去の行為の結果であ るなら、当然、自分が望んでいる将来の状態は、自分の現在の行動によって生み出されるはずです。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ パ Ⅱ-15 リ ナ ー マ pariîáma ド ゥ ッ カ メ ー ヴ ァ タ ー パ tápa サ ル ヴ ァ ム サ ム ス カ ー ラ ド ゥ ッ カ イ ヒ saóskáraduëkhaië グ ナ ヴ リ ッ テ ィ ロ ー ダ ー ッ チ ャ guîavìttivirodhácca ヴ ィ ヴ ェ ー キ ナ ハ duëkhameva sarvaó vivekinaë パ リ ナ ー マ タ ー パ pariîáma 変化、変容、結果、帰結 tápa 激しい苦悩 、強烈な不安、激痛、悲惨 サ ム ス カ ー ラ ド ゥ ッ カ イ ヒ saóskáraduëkhaië saóskára 潜在印象、内的傾向性 duëkhaië 苦痛、不幸、悲惨の要因 グ ナ ヴ リ ッ テ ィ ロ ー ダ ー ッ チ ャ プ ラクリ ティ サットヴァ ラジャス タ マス guîavìttivirodhácca guîa 根本原質の3つの属性(純 質 、激質、闇質) vìtti 心の動き virodhác 正反対の性質 ca そして ド ゥ ッ カ メ ー ヴ ァ duëkhameva duëkham 苦痛、苦悩、悲惨 eva ~だけ、~のみ、実に サ ル ヴ ァ ム ヴ ィ ヴェ ー キナ ハ sarvaó 全て、全体 vivekinaë 識別の人、分別ある人、賢者 識別ある人には全てが苦である、なぜなら現象の変化、不安、過去の習慣、そして対立する グ ナ 属性と心の動きは全て苦なのだから。 「快楽とは実際には苦痛のみだ。バガヴァッド・ギーターの中で、『感覚的接触による喜びは、実に 苦痛の原因である、なぜならそれらには始めと終わりがあるからだ、おお、クンティーの息子(アルジ ュナ)よ。賢者はそれらを喜ばない。 』(5 章 22 節)をあなたは見つけるだろう。快楽は、苦痛、罪、恐 れと混合している。喜びは対象への渇望を増大する。これが苦痛を生みだすのだ。心は感覚的喜びを味 わうことでより落ち着かなくなる。そこには幸福を失う恐れがあるからだ。 アサムプラギャータ 感覚的喜びとは空想だ。それは心の創造だ。それは全く幸福ではない。識別ある人だけが、 無 想 サマーディ 三 昧 を通じて自己覚醒による幸福を達成し、それは永久に続く真の至福だ。喜びの体験そのものが、よ り以上の欲望を生みだす。欲望には終わりがない。欲望が満足しないとき、不安、失望、不幸が発生す る。喜びの対象を心配する不安は、激しい苦痛をもたらす。心の中に残った喜びの印象は、喜びの記憶 を通じて欲望を生みだし、苦痛をもたらすのだ。 サットヴァ ラジャス タ マス 苦痛の他の原因は、個人の行為を生みだす 3 つの属性、純 質 、激質、闇質の間に存在している相反 ラジャス タ マス する性質だ。激質は心をかき乱し、混乱させる。闇質は妄想、不注意、怠惰その他の原因となる。だか ら、識別の人にとっては全てが苦痛をもたらすのだ。快楽は欲望の満足をもたらすことはできない。ち ょうど火にギー油を注ぐと火が激しく燃えるように、快楽もまた欲望を増大させる。苦痛は欲望の対象 が獲得できないときにやって来る。その対象を獲得しても、もし感覚器官が虚弱でそれを楽しめなけれ ば、苦痛を味わう。もし億万長者が胃痛で苦しんでいるなら、美味しい贅沢な料理を楽しめるだろう か?」 スワミ・シヴァーナンダ 「識別力を発展させた人、人生を綿密に分析した人、真実と虚偽を見抜いた人、光と闇の完全な違い パ リ ナ ー マ を知った人、そのような人にとって人生は全て苦痛に満ちている。 ・・・最初の苦痛は変化(pariîáma) タ ー パ だ。たとえば、牛乳はヨーグルトに変化し、生命は死へと変化する、その他などだ。次は強烈な不安(tápa) サ ム ス カ ー ラ だ。業績、成功、愛その他は、全ていつかは不安を生みだすことが分かる。 ・・・三番目の要因は saóskára つまり習慣だ。私たちがいつも幸福で贅沢であるとき、それを失うことを恐れる。人は環境や習慣の奴 グ ナ プ ラクリ ティ 隷となり、それが苦痛をもたらすのだ。・・・いつでも三つの属性(根本原質)と心の傾向性との間には タモグナ 対立がある。たとえば、私はくつろぎたい、働きたくない。これは闇性の要求だ。しかしもし私が妻子 グ ナ を養わなければならなければ、働かなければならない。これは対立を生じさせる。 ・・・このように属性 と私たちの心の傾向性との間には対立がある。・・・この不一致があるかぎり、そこには苦痛があるだ ろう。 ・・・このように人生は本質的に苦痛に満ちている。 ・・・立派な学識ある人々でさえ、心の対立 を抱えているのだ。 」 スワミ・サッティヤーナンダ ヘ ー ヤ ム ド ゥ ッ カ マ ナ ー ガ タ ム Ⅱ-16 heyaó duëkhamanágatam ヘ ー ヤ ム heyaó 回避されること、排除されること ド ゥ ッ カ マ ナ ー ガ タ ム duëkhamanágatam duëkham 苦、不幸 anágatam まだやって来ない、未来 まだやって来ない未来の苦は、回避されるべきである。 「過去の苦痛はすでに経験を経ているから、回避できない。現在の苦痛は現在の瞬間に作用している、 だから次の瞬間を放棄することもできない。そういう理由から、今までに経験されなかった苦痛だけ (*未来の苦痛)が、一般の知覚者ではなく、眼の(*角膜の)ように繊細なヨーギを悩ます。だからそれの みが回避すべき苦悩なのだ。 」 ヴィヤーサ解説 スワミハリハラーナンダ英訳 「回避可能なものは、未来の苦痛のみだ。過去に体験した苦痛はすでに説明した。現在体験している 苦痛は、ここで熟考する主題ではない。ちょうど医学で、病気の性質、症状、予測、診断、治療、処置 の方法、予防、回復などが、病気の治癒のために熟考されるように、不幸の性質もまた、その原因、激 しさ、源泉、そして回避の手段が調査されるのだ。 」 スワミ・シヴァーナンダ 「苦痛は回避するべきだが、私たちにはまだやって来ないものだけしか回避できない。現在の苦痛は カ ルマ 作用し終焉しなければならない。行為の法則によれば、機が熟した現在の苦痛を無効にすることはでき ない。それは享受し終焉させねばならない。しかし未来の苦痛や不幸は回避されねばならない。人が肉 体を持つ限り苦しまねばならない。しかし未来に関しては、それを変えることができるのだ。たとえば、 たね あなたが刈り取りつつある収穫は変えることができないが、その次の収穫は種やその他の条件を変える ことによって修正することができる。すでに撃った銃弾は元に戻せないが、まだ引き金を弾いてはいな カ ルマ カ ルマ い銃弾は止めることができる。同様に、行為の未来の果実は、あなたの現在の行為如何によって修正す ることができるのだ。 」 スワミ・サッティヤーナンダ 「苦痛に満ちた結果を予期し減少させるために、私たちに役立つどんな方法であれ実行されねばなり ません。パタンジャリはそのような苦痛に満ちた結果と、それらを予期し、防ぎ、減少させ、受容する、 私たちの能力範囲を発展させる方法を提示しています。要するに、ヨーガ実践の目的は、私たちの明晰 さによって、苦痛に満ちた結果を減少させることなのです。これは、スートラ2章3節に教示された障 クレーシャ 害(*苦悩 ── 無知、自我意識、愛着、嫌悪、死の恐れ)を防ぎ抑制するために、私たちは学ばねばな らないことを意味しています。 」 T.K.V.デシカチャー 「パタンジャリは、ヨーガとは予防治療の技法、科学、哲学であると述べ、それにより私たちは強靭 な身心を鍛え、まだ知覚されていない苦痛を回避し、無効にする防御の力を築き上げるのだ。 さらにその上、強靭な健康と堅固な心は、神秘の神秘 ── 霊的な至福 ── との直面を可能にし、 もし私たちが前世の善業に感謝すれば、霊性の門は開かれるのだ。」 B.K.S.アイアンガー 「あるカルマは、われわれはすでに清算した。あるものは、いま清算中である。そしてあるものは、 将来実を結ぼうとして待っている。第一の種類は済んでしまったものである。第二は、清算しなければ ならないであろう。われわれが征服し支配することができ、その目的のために全力を集中しなければな らないのは、将来に果実を結ぼうとしている第三の種類だけである。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ ドゥラシュトゥルドゥリシャヨーホ サ ム ヨ ー ゴ ー ヘ ー ヤ ヘ ー ト ゥ フ Ⅱ-17 draøôìdìùyayoë saóyogo heyahetuë ドゥラシュトゥルドゥリシャヨーホ draøôìdìùyayoë draøôì 見る者 dìùyayoë 見られるもの サ ム ヨ ー ゴ ー ヘ ー ヤ ヘ ー ト ゥ フ saóyogo 結合、連結 heyahetuë heya 回避されるべき hetuë 原因、 見る者と見られるものとの結合こそが、回避されるべき(苦の)原因である。 ブ ッ デ ィ プ ル シ ャ ブ ッ デ ィ 「見る者とは、認識知性(または純粋な私-意識)の反映鏡である純粋精神であり、認識知性によって 体験されるもの全ては対象物(知られるもの)である。まるで磁石のように、体験される対象物は プ ル シ ャ プ ル シ ャ 純粋精神に近接しているため純粋精神に作用する。知られるものという性質により、それは気づき(*意 プ ル シ ャ 識)という性質を持つ純粋精神の特性を帯びる。経験や活動の対象物となる知られるもの(ここで知られ ブ ッ デ ィ プ ル シ ャ ブ ッ デ ィ るものとは認識知性を意味する)は、まるで純粋精神のように、他の何物か(*認識知性)として自然に姿 ブ ッ デ ィ プ ル シ ャ を現す、そしてそれ(*認識知性)自身は独立しているけれど、他の対象つまり純粋精神に仕え従属する。 プ ル シ ャ ブ ッ デ ィ 意識(*純粋精神)と対象(*認識知性)との間の無始の類似性が、回避されるべき不幸の原因である。それ ブ ッ デ ィ た ゆえ、 『認識知性との相互関係の原因を絶つことによって、この苦悩の完全な除去が達成される』と(ア ーチャーリヤ・パンチャシカによって)言われてきたのだ。」 ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳 プ ル シ ャ 「不幸の原因は、見る者と見られるものの連結だ。純粋精神の意識の力(チャイタニヤ・シャクティ) ブ ッ デ ィ プ ル シ ャ として知性(*認識知性)に侵入する純粋精神は、ただの目撃者であり究極の無関心(中立)であるが、見 る者として現れる。見る者は、見られるものと、それを通じて感覚器官や構成要素その他を見る道具(つ プ ル シ ャ まり知性)の全ての対象を包括する(*遍在)。知性は純粋精神 に非常に近い。それは非常に精妙だ。 プ ル シ ャ プ ル シ ャ 純粋精神は永遠に自由であり完全な至福だ。純粋精神と知性の結合が生じるとき、反映を通じてそれは 快感と苦痛を感じるように現れ出る。この結合により、無知を通じて身体、心、感覚器官、知性は、真 プ ル シ ャ プ ル シ ャ プ ル シ ャ の純粋精神と間違えられるのだ。知性は純粋精神との緊密な接触により、非常に精妙で純粋精神が磁力 プ ル シ ャ 化したエネルギーのようになるため、知性は純粋精神のように現れる、それはまるで水に映った太陽の アヴィディヤー 映像が本当の太陽と同様に見えるようなものだ。これが 無 知 であり、全ての不幸の根源だ。解放は、 プ ル シ ャ この妄想が除去されるときにやって来る。もし知性と純粋精神の結合が除去されるなら、全ての不幸は 終焉するだろう。」 スワミ・シヴァーナンダ 「パタンジャリはまず、この苦の原因を明らかにする。それは、『見る者』と『見られるもの』の結合 である。ヨーガ哲学は二つの重要な概念を提示する。その一つは『プルシャ』、もう一つは『プラクリ ティ』である。 『プルシャ』とは真の『自己』である。見る者は『プルシャ』である。そして『プラク ・ ・ リティ』とは、それ以外の全てである。自分の他は、全て『見られるもの』である。ところがどうもわ れわれは、いつも、見られるものつまり自分の所有物と自分自身とを、同一視してしまう。・・・だか らわれわれは『私の身体、私の心、私の言葉、私の知識』と言うのだ。・・・自分以外のものとのこの 同一視、それがわれわれのあらゆる苦の原因である。」 スワミ・サッチダーナンダ(インテグラル・ヨーガ 伊藤久子 訳) 「誰が見る者であるか。人の『自己』 、プルシャである。何が見られるものか。心に始まって粗大な 物質に至る、自然の全部である。全ての快と苦は、このプルシャと心の繋がりから生じる。プルシャは、 忘れてはならないことだが、この哲学に従えば、浄らかなものである。自然と繋がると、反映によって それが快苦を感じるように現れるのだ。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ プ ラ カ ー シ ャ ク リ ヤ ー ス テ ィ テ ィ シ ー ラ ム ブ ー テ ー ン ド リ ヤ ー ト マ カ ム Ⅱ-18 prakáùakriyásthitiùælaó bhétendriyátmakaó ボ ー ガ ー パ ヴ ァ ル ガ ー ル タ ム ド ゥ リ シ ャ ム bhogápavargárthaó dìùyam プ ラ カ ー シ ャ ク リ ヤ ー ス テ ィ テ ィ シ ー ラ ム prakáùakriyásthitiùælaó prakáùa 光、照明、輝き kriyá 行為、活動 sthiti 不動、固定、鈍重 ùælaó 性質、能力 ブ ー テ ー ン ド リ ヤ ー ト マ カ ム bhétendriyátmakaó bhéta 5大要素 indriya 知覚・行為器官 átmakaó 構成され ボ ー ガ ー パ ヴ ァ ル ガ ー ル タ ム bhogápavargárthaó bhoga 経験、喜び apavarga 解脱、解放 arthaó 目的で、~のために ド ゥ リ シ ャ ム dìùyam 見られるもの、客体 見られるものとは、照明、活動、固定の性質を持ち、五大要素、知覚・行為器官で構成され、 プ ル シ ャ (純粋精神の)経験と解脱が目的である。 プ ラクリ ティ 「見られるものの性質とは次のようだ。究極の成分(プラダーナ=根本原質)は構成要素とそれらの結 サットヴァ 合体へと降下し、それら全てが見られるものだ。照明性、活動性、暗闇性は、三つの性質である純 質 、 ラジャス タ マス サットヴァ ラジャス 激質、闇質の働きだ。もし純 質 が増大すると、照明性が顕現する。もしそこに激質の増大があるなら、 タ マス 活動性が強まる。もしそこに闇質の増大があれば、そこにはより多くの闇、不活発が存在する。知性、 エ ゴ 自我、心、精妙な要素(*音、触、色、味、臭素)、五つの感覚器官(*耳、皮膚、目、舌、鼻)、五つの行 為器官(*口、手、足、性器、肛門)、五つの粗大な要素(*虚空、空気、火、水、土)はプラダーナ(根本 プ ル シ ャ プ ル シ ャ 原質)が展開する全ての顕現であり、純粋精神をこの現象世界に連れ出し、純粋精神の体験のあらゆる プ ル シ ャ プ プ ラクリ ティ ル シ ャ 種類の楽しみを与え、最終的に純粋精神が自身と根本原質の識別を獲得するとき、純粋精神を解脱させ プ ル シ ャ プ ル シ ャ プ ル シ ャ るのだ。純粋精神は至福、平和、知識の具現だ。純粋精神は変化せず不滅だ。純粋精神には始め、中間、 プ ル シ ャ 終わりがない。純粋精神は独立しているのだ。 この小さな世界の全ての体験を速やかに獲得しなさい。この夢の世界の体験を獲得するために、あな たが欲する全てを行いなさい。しかし、誕生と死の周期を今回の誕生中に、いやこの瞬間に立ち切りな さい。今行うか、それとも永久に行わないのか。目的地、理想、核心を決して忘れてはならない。体験 はあなたに、この物質的生活には何の本質もないことを教えるだろう。それは全てが苦痛なのだ。その 全ては長い夢だ。この世界には真の愛はない。あなたはこの世界の愛が、利己的で、偽善的で、変化し プ アサムプラギャータサマーディ 衰微することを知るだろう、そして 無 ル シ ャ アートマン 想 三 昧 を通じた純粋精神と自 己 の知識だけが、真の衰微し ない至福と、永遠の平和と不滅性を与えることができるのだ。自然、構成要素とこの世界は、あなたの 最良の教師だ。それらに感謝しなさい。妄想世界の外観によって広がる網から速やかに脱出しなさい、 そして勇気と喜びを持って速やかに自己を覚醒しなさい。」 プ ラクリ ティ スワミ・シヴァーナンダ プ ル シ ャ 「根本原質(*見られるもの)には究極的に二つの目的がある。それは純粋精神の経験と解脱だ。この世 ドゥラシュター ドゥ リシ ャ 界でdraøôá(*見る者)はdìùya(*見られるもの)を見る。そして人生で様々な経験を経る。最終的に、超 越意識が発展するとき、解脱が起こるのだ。 」 スワミ・サッテャーナンダ 「経験 ── この快と苦の経験 ── は唯一の偉大な教師である。しかしそれは経験に過ぎないとい プ ル シ ャ うことを知れ。それは一歩また一歩と、ある境地に ── そこでは全てのものは小さく純粋精神は実に 大きくなって全宇宙は大海中の一滴と思われ、もともと無かったものとして消えてしまう、という境地 に導くのである。われわれは様々の経験を通り抜けなければならない、しかし決して、理想を忘れない ようにしよう。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ ヴィシェー シ ャーヴィシェー シ ャ リ ン ガ マ ー ト ラ ー リ ン ガ ー ニ グ ナ パ ル ヴ ァ ー ニ Ⅱ-19 viùeøáviùeøa liïgamátráliïgáni guîaparváîi ヴィシェーシャーヴィシェーシャ viùeøáviùeøa viùeøa 特性のあるもの、有特性 aviùeøa 特性の無いもの、無特性 リ ン ガ マ ー ト ラ ー リ ン ガ ー ニ liïgamátrá 痕跡だけがあるもの aliïgáni どんな痕跡もないもの liïgamátráliïgáni プ ラクリ ティ グ ナ パ ル ヴ ァ ー ニ guîaparváîi プ ラ ク リ テ ィ グ ナ guîa 根本原質を構成する3つの属性 parváîi 段階、区分 グ ナ (根本原質の)属性の段階には、有特性、無特性、痕跡のみ、無痕跡がある。 プ ラクリ ティ この節でパタンジャリは、前節で教示した「見られるもの」である、全宇宙の現象を構成する根本原質 グ ナ の三つの属性の展開する段階を 4 種類に分類する。 ヴ ィ シェ ーシ ャ ギャネンドリヤ 有特性(特性の有るもの)・・・五大要素(土、水、火、空気、虚空)、五つの認識器官(嗅覚、 Viùeøa カルメンドリヤ マ ナ ス 味覚、視覚、触覚、聴覚)、五つの活動器官(排泄-肛門、再生-性器、移動-足、把握-手、発声-口)、思考器官。 アヴィシェーシャ ア ハ ン カ ー ラ 無特性(特性の無いもの)・・・五素粒子(香、味、色、触、音素)、自我意識。 Aviùeøa リ ン ガ マ ー ト ラ ー Liïgamátrá ブ デ ィ プ ラクリ ティ ア リ ン ガ ー ニ Aliïgáni ッ 痕跡のみ(痕跡だけのもの)・・・認識知性。 無痕跡(どんな痕跡も無いもの)・・・根本原質。 グ ナ イーシュヴァラ サーンキヤ体系と属性の展開する 4 段階を図表にすると下図となる。パタンジャリは至高神(Æùvara) も加えるため、サ(有)・イーシュヴァラ(至高神)・サーンキャ体系と呼ばれる。 イーシュヴァラ 至高神(Æùvara) プルシャ ムーラ プラクリティ 根本原質(Mula Prakrti) 純粋精神(Pursa) ブ ッ デ ィ 認識知性(Buddhi) ア リ ン ガ 無痕跡(alinga) リ ン ガ マ ー ト ラ 痕跡のみ(lingamatra) ア ハ ン カ ー ラ 自我意識(Ahamkara) アヴィシェーシャ 無特性(avisesa) パ ンチ ャ タ ン マ ー ト ラ 5素粒子(Panca Tanmatras) シャブダ スパルシャ ルーパ マ ナ ス ラ サ ガ ン 思考器官(Manas) ダ 【音素(sabda)触素(sparsa)色素(rupa)味素(rasa)香素(gandha)】 ヴィシェーシャ 有特性(visesa) (gand パ ンチ ャ マ ハ ー ブ ー タ 5大要素(Panca Mahabhutas) アーカーシャ 虚空要素(akasa) ヴァーユ 空気要素(vayu) テージャス 火要素(tejas) アプ 水要素(ap) プリティヴィー 土要素(prthivi ) ギ ャ ネ ン ド リ ヤ 5知覚器官(Jnanendriyas) シ ュロ ト ラ (耳)聴覚器官(srotra) トヴァク (皮膚)触覚器官(tvak) チャクシュス (目)視覚器官(caksus) ラ サ ナ (舌)味覚器官(rasana) グ ラ ー ナ (鼻)嗅覚器官(ghrana) カ ル メ ン ド リ ヤ 5行為器官(Karmendriyas) ヴァーク (口)発声器官(vak ) パーニ (手)把握器官(pani) パーダ (足)移動器官(pada) ウ パ ス タ (性器)再生器官(upastha) パーユ (肛門)排泄器官(payu) ドゥラシュター ド ゥ リ シ マ ー ト ラ ハ シ ュ ッ ド ー ピ プ ラ テ ャ ヤ ー ヌ パ シ ャ ハ Ⅱ-20 draøôá dìùimátraë ùuddho’pi pratyayánupaùyaë ドゥ ラシュター ド ゥ リ シ マ ー ト ラ ハ 見る者 draøôá dìùimátraë シ ュ ッ ド ー 純粋意識のみ ピ ùuddho’pi 純粋ではあるが プ ラ テ ャ ヤ ー ヌ パ シ ャ ハ pratyayánupaùyaë pratyaya 心の内容 anupaùyaë 現れ出る、見られるものを通じて見る 見る者は純粋意識のみであるが、その純粋性にもかかわらず、心の形態を通して見る。 ドゥラシュター ドゥ リシ ャ 「draøôáとは、dìùya(*見られるもの)を認識する見る者だ。もしそこに主体が無く、対象物だけが 有るとすれば認識は生じない。ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッドの中に、賢人ヤーギャヴァル キヤとマイトレーイー(*妻)との間の対話がある。彼は、もしサマーディの高度な境地の中で、主体が 存在しないとすれば、誰が香りを嗅ぎ、誰を見るのだろうか、と問う。知識は、そこに主体と対象物の 両方が存在するときに生じる。もしそこに二つの一方だけしかないとすれば、知識は生じない。ヨーガ において、見る者とは純粋意識のことだ。それは見られることも経験されることもできない。彼(*見る 者)は非常に純粋ではあるけれど、心理的概念を通じて見る。もしランプの周りがある色で覆われてい れば、私たちは外側からそこに光があることを知るかもしれないが、しかし光それ自体を知ることはな プ ル シ ャ いだろう。それと同様に、純粋精神は純粋ではあるけれど、心の内容(*見られるもの)のために不純に 見えるのだ。 プ ル シ ャ まるで水を異なる色の容器に入れると、その色に見えるように、同様に、純粋精神も純粋ではあるけ れど、異なる心の内容(*見られるもの)のために、その心の内容を持つように現れるのだ。水が清らか であっても、そのコップの色に色付けされて見えるように、それと全く同様に、どんな性質も持たない プ ル シ ャ プ ル シ ャ 純粋精神は、知識(*心の内容)を持つように現れる。純粋精神は純粋意識のみであるけれど、幸福、無 知、死、誕生などの心の内容によって影響を受けたように現れるのだ。」 スワミ・サッテャーナンダ 「もし赤い花が純粋な水晶の近くに置かれるなら、水晶は赤く見える。同様に、魂が幸福に見えたり 不幸に見えたりするのも、反映に過ぎない。魂それ自体に色はない。 物質に繋がっているものは自然界に属し、したがって永久に縛られている。誰が自由なのか。自由な 者は、確実に原因と結果を超越していなければならない。・・・全ての因果の法則を超えているのが、 プ ル シ ャ 人の本質、魂、純粋精神である。それの自由は、様々の形の物質、知性、心などの積み重ねを通して、 染み出ている。全てを通過して光り輝いているのは、それの光なのである。知性は、それ自らの光は持 プ ル シ ャ っていない。・・・知性は頭脳に繋がっている。しかしまさに知性の背後に、純粋精神、様々の感覚と 知覚の全てが集まって一つになるところの統一体が立つ。・・・その魂は自由である。そして、あらゆ る瞬間にあなたに向かってあなたは自由だ、と告げるのはその自由なのである。しかしあなたは間違え て、あらゆる瞬間にその自由を知性及び心と混ぜてしまう。その自由を知性が持つ、と見ようとして、 直ちに知性は自由ではない、ということを知る。その自由を肉体が持つ、と見ると直ちに、あなたはま たもや間違っている、ということを自然が教えてくれる。それだからそこに、同時に起こるこの、自由 と束縛の混じった感じがあるのだ。ヨーギーは自由なものと束縛されているものとの両方を分析し、そ プ ル シ ャ ブ ッ デ ィ れによって彼の無知は消滅する。彼は、純粋精神は自由である、それは認識知性を通ってやってくると 知性となり、それゆえに束縛されているあの知識のエッセンスである、と言うことを知るのだ。」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ タ ダ ル タ エーヴァ ド ゥ リ シ ャ ス ャ プ ャ アートマー Ⅱ-21 tadartha eva dìùyasya átmá タ ダ ル タ ル シ エーヴァ tadartha それ(見る者、純粋精神)のために eva ~のみ、だけ ド ゥ リ シ ャ ス ャ アートマー プ ラ ク リ テ ィ dìùyasya 見られるもの、根本原質 átmá 本質、真の性質 プ ル シ プ ラ ク リ テ ィ ャ 見る者(純粋精神)のためにのみ、見られるもの(根本原質)は存在する。 プ プ ラ ク リ テ ィ ル シ ャ プ ル シ ャ 「知られるもの(*根本原質)は、純粋精神が経験する特性を賦与される。それゆえに純粋精神の対象 プ ル シ ャ 物は、知られるものの本質または真の性質なのだ。知られるものの性質は、他者つまり純粋精神を通じ プ ル シ ャ プ ル シ ャ て知られる。(*純粋精神の)経験と解脱が実現するとき、純粋精神はもはやそれ(*知られるもの)を目撃 プ ル シ ャ しない。だから、(純粋精神の対象物である)その真の性質は奪われ、それ(*知られるもの)は存在する プ ル シ ャ ことを止める、しかし完全に破壊されるのではない。(*まだ経験と解脱が実現していない他の純粋精神 のために存在を継続する。)」 ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳 「以前のスートラにおいて、見る者と見られるものの真の性質が指摘され、たとえそれらの親密な関 係性において、完全に混合しているように見えても、それらは実際には極めて異なっていて、乳剤の中 プ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ の油と水のように相互に分離していることが教示されました。このスートラは、純粋精神と根本原質の プ プ ラ ク リ テ ィ ル シ ャ この親密な連結において、後者(*根本原質)は従属する役割を演じ、ただ純粋精神に奉仕するだけであ プ ル シ ャ ることを指摘しています。見られるものの目的は、すでに 2 章 18 節で教示されていて、それは純粋精神 のために経験と解脱の手段を提供することでした。このスートラでは、この視点がより明瞭に検討され、 プ ラ ク リ テ ィ プ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ 強調されていて、根本原質は純粋精神の目的に従うためにのみ存在するのです。根本原質はそれ自身の シ ョ プ ー ル シ ャ 目的はありません。(*現象世界)創造の全ドラマは、その見せ物に巻き込まれた純粋精神の成長と自己 覚醒のために、経験を提供するために演じられるのです。」 I.K.タイムニ プ ラ ク リ テ ィ プ ル シ ャ プ ル シ ャ 「根本原質は純粋精神のためにのみ存在する。進化の全過程は、まさにその初めから純粋精神にのみ プ プ ラ ク リ テ ィ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ 奉仕する目的を意味しているのだ。根本原質は単なる媒介物だ。純粋精神は認識する者であり、根本原質 プ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ は認識するための媒介物だ。聖典の中で、全宇宙の構造は純粋精神と根本原質の結合による現れである、 プ ラ ク リ テ ィ プ ル シ ャ と述べられている。根本原質は、純粋精神の経験と、そして最終的には彼の解脱のためにのみ、全宇宙 を展開させるのだ。 それはまるで、馬とその乗り手が巡礼に行くようなものだ。馬は乗り手を助けながら、先へ先へと進 んで行く。しばしば乗り手は馬から降りてその馬の世話をする。その馬はその旅の目的のために、その 旅の完成のために存在する。それはその乗り手が、彼の目的地に到達するための手段としてのみ存在す プ ラ ク リ テ ィ プ ル シ ャ るのだ。それと同様に、根本原質は純粋精神のためにのみ存在することが定められている。それは彼(* プ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ 純粋精神)の経験のためであり、また彼の解脱のためだ。根本原質は、進化の全計画を完成させるため プ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ プ ル シ ャ にいつも働き、純粋精神が最終的な解脱を達成するとき、根本原質は純粋精神に奉仕し続けてきたその 目的から完全に撤退するのだ。 」 スワミ・サッテャーナンダ 「このように知覚されるものは知覚する者に奉仕しますが、知覚されるもの自体に個人性はありませ ん。知覚されるものの目的は、知覚する者によって知覚されるその知覚です。同じように、テーブルの 上の食べ物は来客のためにそこにあるのであって、食べ物自身のためではありません。」 T.K.V.デシカチャー ク リ タ ー ル タ ム プ ラ テ ィ ナ シ ュ タ ム ア ピ ア ナ シ ュ タ ム タ ダ ニ ャ サ ー ダ ー ラ ナ ト ヴ ァ ー ト Ⅱ-22 kìtárthaó pratinaøôam api anaøôaó tadanyasádháraîatvát ク リ タ ー ル タ ム kìtárthaó kìta 成就した者 arthaó 目的 プ ラ テ ィ ナ シ ュ タ ム ア ピ pratinaøôam prati ~に向けて naøôam 除去、撲滅 api まだ、しかし ア ナ シ ュ タ ム anaøôaó 撲滅されていない、除去されていない タ ダ ニ ャ サ ー ダ ー ラ ナ ト ヴ ァ ー ト tadanyasádháraîatvát tat その anya 他の者 sádháraîatvát 共有性のために 目的を成就した者にとって(見られるものは)消滅するが、それは(成就しない)他の人々にとっ て共有性を持つため、消滅しない。 プ プ ラ ク リ テ ィ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ 「(*根本原質と)目的地に到達した一つの純粋精神との関係が壊滅つまり消滅しても、(*根本原質を) プ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ 共有する他の人々との関係は壊滅しない。目的地に到達した純粋精神に関しては(*根本原質が)壊滅し プ ル シ ャ プ ル シ ャ ても、目的地に到達していない純粋精神たちにとっては、知られるものの対象性はその目的(*純粋精神 の経験と解脱)を十分に発揮しないままに留まっている。経験の対象として留まる知られるものは、他 プ ル シ ャ の(*純粋精神の)反映を通じて知覚される。このように、知る者と知られるものは永久に存在し、それ らの結合は無始と呼ばれて来た。パンチャシカ(*A.D.1 世紀ごろのヨーガ解説者)はこの関係性を、 プ ル シ ャ プ プ ラ ク リ テ ィ ル シ ャ 『(純粋精神と共に)現象世界の原初の構成原因(*根本原質)の結合には始まりはなかった、純粋精神と 結合して来た現象にもまた始まりはない。』と。」 ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳 プ ル シ ャ プ プ ラ ク リ テ ィ ル シ ャ 「純粋精神と根本原質は、存在の二つの究極の、永遠で独立した原理です。純粋精神は多数存在し、 プ ラクリ ティ プ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ 根本原質は一つです。純粋精神は物質世界に巻き込まれ、根本原質に養育されながら進化の周期を前進 プ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ し、自己覚醒を達成します、そのあと純粋精神 は根本原質 の幻影と影響を全て終了します。しかし プ ラ ク リ テ ィ 根本原質はいつも同じまま留まるのです。 」 プ ル シ I.K.タイムニ ャ 「純粋精神が巡礼で最終地点に到着するとき、(巡礼の乗り物である)馬は必要なくなるために置き去 プ ル シ ャ りにする。しかしその馬はこのことを理解しないため、他の人々に奉仕をする。同様に、一つの純粋精神 プ ラ ク リ テ ィ が解脱してその経験を終了するとき、根本原質との行動は消滅するのだ。 進化の異なる段階を通過して行く純粋意識は、様々な経験を通じて前進し、解脱の境地に到達すると プ プ ラ ク リ テ ィ ル シ ャ プ ル シ ャ き、根本原質はその純粋精神にとって消滅すると言われている。しかしながら、ある純粋精神が解脱し、 プ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ その目的が成就されるとき、その純粋精神にとって(*根本原質の)知覚は消滅するかもしれないが、そ ジーヴァンムクティ の知覚の実体は個人の内部で継続する ── 彼は見る、聞く、動くなどなどだ。それが生前解脱の境地 ジ ー ヴァ ンムクタ プ ラ ク リ テ ィ であり、その人の存在は継続する。生前解脱者たちは根本原質の領域内で活動する。彼らは解脱してい プ ラ ク リ テ ィ るにも関わらず、心、チッタ(*潜在意識)、感覚器官などの共有の所有物である根本原質は活動し続け ジーヴァンムクティ る、だから彼らはこの世界の体験を継続し続け、生前解脱を達成した後すぐには死なないのだ。このよ プ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ ジ ー ヴァ ンムクタ うに、純粋精神は最初に解脱するが、根本原質は残存し、生前解脱者の身体を通じてその活動を行うの だ。」 スワミ・サッテャーナンダ プ ラ ク リ テ ィ プ ル シ ャ 「自然(*根本原質)の活動の全ては、魂(*純粋精神)をして、自分は自然からは完全に離れた者である、 ということを知らしめることである。魂がこれを知るとき、自然はもう、それに対して魅力をもたない。 しかし自然全体は、自由を得たその人にとってのみ、消滅するのである。そこには常に、無限数の他の 人々が残っており、彼らに対して、自然はなお、働き続けるであろう。」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ スヴァスヴァーミシャクテョーホ ス ヴ ァ ル ー ポ ー パ ラ ブ デ ィ ヘ ー ト ゥ フ サ ム ヨ ー ガ ハ Ⅱ-23 svasvámiùaktyoë svarépopalabdhihetuë saóyogaë プ ラクリ ティ スヴァスヴァーミシャクテョーホ プ ル シ ャ svasvámiùaktyoë sva 自然(根本原質) svámi 主人(純粋精神)、所有者 ùaktyoë 二つの力 ス ヴ ァ ル ー ポ ー パ ラ ブ デ ィ ヘ ー ト ゥ フ svarépopalabdhihetuë svarépa 自身の本性 upalabdhi 獲得 hetuë 目的 サ ム ヨ ー ガ ハ プ ル シ ャ プ ラクリ ティ saóyogaë (純粋精神と根本原質の)結合 プ ル シ プ ラ ク リ テ ィ ャ (純粋精神と根本原質の)結合の目的は、両者の本性と力を認識するためである。 プ ル シ ャ プ ル シ ャ 「純粋精神、自己は、まるで純粋精神の所有物のような対象物と結び付き、その結合の結果は(それ プ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ らの対象物の)認識だ。対象物の認識は(*純粋精神と根本原質の)接触が経験される結果として生じ、一 プ ル シ ャ プ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ 方見る者(*純粋精神)の性質の覚醒が解脱だ。接触または結合は(*純粋精神と根本原質の)正しい理解 プ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ (または識別)が生じるまで継続するが、それゆえそれは純粋精神と根本原質の結合の停止の原因と呼ば れて来た。正しい理解(または識別)は誤解の正反対だ。無識別はその結合の原因と呼ばれて来た。しか モークシャ しここでは、識別は Mokøa(解脱)の直接原因ではない。無識別の不在が束縛の不在だ。それが解脱だ。 間違った理解、それが束縛の原因であり、それは識別を通じて破壊されるのだ。そういう理由で、正し い理解は解脱をもたらす原因と呼ばれて来たのだ。 」 ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳 プ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ 「純粋精神と根本原質の結合には二つの目的がある。第一は、自己覚醒を得るため、第二は、それら両 スートラ プ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ 者に潜在する能力を展開(*経験)するためである。これは非常に重要な 節 で、純粋精神と根本原質の結 プ ラ ク リ テ ィ 合の目的は、それら両者の覚醒(*認識)がその目的であると述べている。根本原質にとって、その目的 プ ル シ ャ は自身の能力と自身に内在する宇宙を展開することだ。純粋精神にもまた内在するある能力がある。 プ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ イ ン ド リ ヤ 純粋精神は純粋意識だ。根本原質は微細な波動、活動、鈍重さであり、五大要素、心理器官、その他で グ ナ プ ラ ク リ テ ィ あり、肉体、心、属性は全て根本原質だ。 未開な人も進化した人も、頭脳は同じ灰色の物質でできているのだが、そこにはある違いがある。未 開な人は自身に内在している能力をまだ開いておらず、進化した人はそれらの能力を開いているのだ。 霊的に進化した人は最高に開かれているが、蛇や虎は非常にわずかしか開かれていない。それらの違い プ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ は、内在する能力の開かれた程度の相違によるものであり、それらの能力は常に純粋精神か根本原質ど ちらかの領域に属しているのだ。そこにはある霊性の力とある自然の力が存在しているのだ。 」 スワミ・サッテャーナンダ プ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ 「この格言(*節)によると、魂(*純粋精神)と自然(*根本原質)との両方が、それらが接合したときに 現れるようになる。 そのときに、全ての現れが放出される。無知が、この接合の原因である。われわ れは毎日、自分の苦痛または快楽の原因は常に、自分を肉体に結びつけることである、ということを見 ている。もし私が自分はこの肉体ではないということを完全に信じていたなら、熱さ、冷たさ、または しゅ この種のいかなることにも無関心でいるだろう。この肉体は結合物である。私は一個の肉体を、あなた は別個の、そして太陽も別個の体を持つ、というのは一つの虚構である。全宇宙は物質の一つの海、そ してあなたは一つの微粒子の名、私はもう一つの、太陽はさらにもう一つのそれなのである。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ タ シ ャ ヘートゥフ アヴィデャー Ⅱ-24 tasya hetuë avidyá タ シ ャ ヘ ート ゥ フ その(結合) tasya アヴィデャー 原因 hetuë 無知、誤認、間違った知識 avidyá その(結合の)原因は、無知である。 アヴィデャー ヴァーサナー アヴィデャー 「 avidyá はここでは誤った知識の潜在印象(Vásaná)を意味している。avidyá(*無知)について、 誤った知識の検討の箇所で、非自己を自己と誤認する、などという定義がされました(2-7節)。一般 プ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ 的に言えば、純粋精神と根本原質が別ではないと見なすことが誤った知識(*無知)であり、それが束縛 ヴァーサナー (*苦)の原因です。その誤った知識の潜在印象(Vásaná)こそが両者の結合の根源的な原因なのです。こ の結合には始まりがありません。ですからその結合の原因に到達するためには、初めにどうしてその結 合が生じたかを調べるのではなく、むしろどのようにしてその結合を終焉させるか、を考えなければな ブ ッ デ ィ ブ ッ デ ィ りません。・・・そこに識別による知識が存在するとき、認識知性の活動は完全に停止し、認識知性と プ ル シ ャ アヴィデャー 純粋精神の分離が生じるのです。ですから識別による知識とは正反対の avidyá(*無知)が、結合の原因 なのです。解説者(*パタンジャリ)はここでこのことを教示しているのです。 」 スワミ・ハリハラーナンダ プ ル シ ャ 「無知が、見る者と光景、自然と光景、自然と純粋精神の結合の原因だ。この結合の性質とその結果 はすでに述べた。今、その原因が教示されているのだ。見る者と見られるものが一つに融合または結合 ジーヴァ し、これを『私』と考えることが無知だ。個人は、身体と心を自己と誤解することにより、 『私』と『私 のもの』の感情が増大する。無知の精妙な印象に浸透された心は、大氾濫または宇宙的壊滅の間に物質 に没入し、この世界の投射(*創造)の間に再び再生する。この無知を破壊せよ。この身体と心の同一化 を放棄せよ。身体と心を超越し、原因と結果を超えた、それゆえ初めがなく、終わりがなく、変化しな プ ル シ ャ プ ル シ ャ い純粋精神に目覚めなさい。霊的実践を志願し、純粋精神を覚醒しなさい。ぐずぐずしてはならない、 さもないと猿の心(*愚かな心)は狂乱することだろう。」 アヴィデャー スワミ・シヴァーナンダ アヴィデャー クレーシャ 「Avidyá がその結合の原因であると言われているが、この Avidyá は無知ではない。それは苦悩のと アヴィデャー アヴィデャー マーヤー ころで検討した Avidyá ではないのだ。この Avidyá は、Máyá(幻影力)と呼ばれる至高の力であり、 アヴィデャー プ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ それは聖典によれば定義不可能なものだ。それは、この Avidyá が純粋精神と根本原質の相互関係の ア ドヴァ イタ 根本原因となる現象だ。これは Advaita 哲学(*不二一元論)を通じてのみ理解できることだ。なぜなら プ ル シ ャ プ ラ ク リ テ ィ サーンキヤでは、純粋精神と根本原質は永遠に存在するからだ。ヴェーダーンタではそれらは一つであ り、ブラフマンと呼ばれ、他の何よりも高度な存在だ。 マーヤー プ ラ ク リ テ ィ プ ラ ク リ テ ィ その Máyá(幻影力)はある覆いを創造し、その覆いを通じて根本原質を誕生させ、それから根本原質 プ ル シ ャ と純粋精神の両者は幻影のプロセスを投影する。サーンキヤにとってそれらは幻影ではない、なぜなら サーンキヤは二元論を信じるからだ。しかしヴェーダーンタは一元論であり、そのためブラフマンとマ ーヤーは一つの実体であると説明するのだ。 」 スワミ・サッテャーナンダ 「無知のゆえに、われわれは自分を特定の身体に結び付け、こうして自分を不幸にさらすことになっ たのだ。この肉体なる観念は、単なる迷信である。われわれを幸福にしたり不幸にしたりする迷信であ る。われわれに熱さ、冷たさ、苦痛と快感を感じさせる、無知から生まれた迷信である。この迷信を乗 り越えるのがわれわれの仕事であり、ヨーギーは、どうしたらそれができるかをわれわれに示すのであ る。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ タ ダ バ ー ヴ ァ ー ト サ ム ヨ ー ガ ー バ ー ヴ ォ ー ハ ー ナ ム タッドリシェーヘ カ イ ヴ ァ リ ャ ム Ⅱ-25 tadabhávát saóyogábhávo hánaó taddìùeë kaivalyam タ ダ バ ー ヴ ァ ー ト tadabhávát tad それ(無知) abhávát 不在、消滅 サ ム ヨ ー ガ ー バ ー ヴ ォ ー ハ ー ナ ム saóyogábhávo saóyoga 結合 ábhávo 不在、消滅 hánaó 除去、撲滅 タッドリシェーヘ カ イ ヴ ァ リ ャ ム taddìùeë tad それ、その境地 dìùeë 見る者の kaivalyam 解放、独存 プ ル シ プ ラ ク リ テ ィ ャ 無知の消滅により(純粋精神と根本原質 の)結合は消滅する。これが除去であり、見る者の独 存(完全な解放)である。 ア ダ ル シ ャ ナ ブ ッ デ ィ プ ル シ ャ 「Adarùana(*無知)が終焉するとき、認識知性と純粋精神の結合は停止し、そこには常に完全な束 プ ル シ ャ グ ナ 縛の停止がある。それは見る者の孤立であり、純粋精神の独存の境地で、属性との未来の結合の繰り返 しの停止である。不幸の原因が終了する結果として生じる不幸の停止とは、不幸からの解放である。そ プ ル シ ャ の境地の中で、純粋精神は自己自身に定住することが確立するのだ。 」 ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳 プ ラ ク リ テ ィ グ ナ プ ル シ ャ プ ル シ ャ 「あなたが、(*根本原質の)属性が純粋精神には何もできず、純粋精神は永遠に自由であることを完 カイヴァリャ モークシャ 全に理解するとき、無知は消滅して識別が目覚める。そのあとでのみ、あなたは 独 存 または解脱 の状 態に到達するだろう。科学者たちは、自然の外的な物理的力を理解し、適した方法でそれらを制御しよ うと試みる。物理的な力は粗大であり、内的な心理的力は精妙だ。心理的力を制御した人たちは、非常 に簡単に外的な物理的力を制御できるのだ。 」 プ ル シ ャ スワミ・シヴァーナンダ プ ラクリ ティ 「ヨーガの哲学にしたがえば、魂(*純粋精神)と自然(*根本原質)が結合したのは無知のせいである。 目的は、われわれに対する自然の支配を取り除くことである。それが、全ての宗教の目標である。それ ぞれの魂が内に神性を秘めている。目標は、内部と外部の自然を制御することによって、この内なる神 性を現すことである。働きにより、または礼拝により、または心の制御により、または哲学により ─ ─ これらの一つまたは二つ以上、または全部によって ── このことを成せ、そして自由になれ。こ さ ま つ じ れが宗教の全てである。教義、信条、または儀式、書物、寺院、神像は二義的な瑣末事に過ぎない。ヨ ーギーは、心の制御によってこの目標に達しようと試みる。われわれが自分を自然の支配から解放する ことができるまでは、われわれは奴隷である。彼女(*自然)が命じるままに、動かなければならない。 ヨーギーは、心を制御する者は物質をも支配する、と言う。内なる自然(*心理領域)は外の自然よりは るかに高く、取り組むのがはるかに難しく、制御するのがはるかに困難だ。それゆえ、内なる自然を征 服した者は全宇宙を支配する。宇宙は、彼の召使になる。ラージャ・ヨーガ(*身心制御のヨーガ)は、 この支配力を得る方法を提議するのである。われわれが物質的自然界の中で知るのよりも高い力が、抑 制されなければならないであろう。この肉体は、心の外側の殻に過ぎない。これらは二つの別々のもの ではない。ちょうど、カキとその貝殻のようなものだ。一つのものの二つの面に過ぎない。カキの内部 の実質が外界から材料を取り、殻を造る。同様に、心と呼ばれる精妙な力が外部から粗大な材料を取り 上げ、それから、この外側の殻、すなわち肉体を造るのである。それだからもしわれわれが内なるもの を制御することができれば、外側を制御することは非常にたやすい。それからまた、これらの力は別々 のものではない。ある力は肉体の力、ある力は心の力、というものではない。物質世界が精妙な世界の 粗大な現れであるに過ぎないのと同じように、肉体の力は精妙な力の、粗大な現れに過ぎないのであ る。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ ヴ ィ ヴ ェ ー カ キ ャ ー テ ィ ヒ ア ヴ ィ プラ ヴァ ー ハ ー ノ ー パ ー ヤ ハ Ⅱ-26 vivekakyátië aviplavá hánopáyaë ヴィヴェーカキャーティヒ アヴィプラヴァー vivekakyátië viveka 識別 kyátië 知識、気づき ハ ー ノ ー パ ー ヤ ハ hánopáyaë hána 除去、消滅 upáyaë 方法、手段 aviplavá プ ル シ 障害のない、動揺のない プ ラ ク リ テ ィ ャ 堅固で明晰な(純粋精神と根本原質の)識別知が、(無知を)除去する手段である。 ブ ッ デ ィ プ ル シ ャ シャーストラス 「識別(*認識知性と純粋精神の明瞭な区別)の知識は、最初は Ùástras つまり聖典を聞くことで生じ、 適切な集中を通じてより堅固に、より明晰になる。それは修行者がヨーガの異なる行法(*8 つの部門) サ ム プ ラ ギ ャ ー タ ヨ ー ガ を実践することにより、徐々に進歩していく。Samprajñáta-yoga つまり深い集中を通じて、対象物 たね から間違った概念を得る可能性が根絶されるとき、それは間違った知識の種の焦げた状態と呼ばれる。 それが達成され、世間的、天上的喜びへの執着が完全に停止するとき、三昧を通じて浄化された識別知 を基盤とした覚醒が生じる。その識別知の覚醒が無知により遮断されずに継続するとき、対象物の完全 たね な放棄である解放が実現する。そのとき間違った知識は、焦げた種のようになる。解放が実現するとき、 カ イ ヴ ァ リ ャ 間違った概念は焦げた種の状態にまで衰退し、識別知も消滅する。それが Kaivalya つまり、独存(the Self-in- Itself)である。 」 スワミ・ハリハラーナンダ 「いろんなタイプの知識があり、それらは感覚によるもの、知性、推理、個人的接触、聴聞、想像、 プ ル シ ャ 過去の記憶による知識などなどだ。もし私たちが純粋精神の真の性質を悟りたければ、これらの知識に ヴィヴェーカキャーティ は依存できない。それには全く異なる種類の知識が必要とされるのだ。その領域の知識は vivekakyáti と呼ばれる。それは、感覚や知性や高度な概念を通じてではない認識の過程だ。あなたは地球の重さを はかり 量る 秤 を使うことはできないが、数学の計算を通じてそれは可能となる。もしあなたが太陽と月の間の 距離を測定したいなら、それを測定する物差しは使えない。あなたは物理学の法則によってそれは計算 できるのだ。それと同様に、もしあなたが究極の自己を知りたいなら、もし無知を除去したいなら、ヴ ヴィヴェーカキャーティ ィヴェーカを通じた知識(vivekakyáti)と呼ばれる過程に没入しなければならないのだ。 ヴィヴェーカは一般的に識別、相違を知ることを意味する、しかしこのスートラでは、その意味は異 なっている。自己知識のための継続的実践の結果として、ある段階で、気づきがあなたの内部で発展し ブ ッ デ ィ プ ル シ ャ なければならない。その気づきは二元性(*認識知性と純粋精神)の気づきなのだ。 」 スワミ・サッテャーナンダ プ ル シ ャ プ ラクリ ティ 「これ(*識別知)が実践の真の目的地だ ── 実在と非実在の識別、純粋精神は自然(*根本原質)では なく、物質でも心でもないことを知ること、それが自然ではない理由は、変化しないからだ。変化し、 結合し、再結合し、不断に消滅していくのは自然だけだ。継続的な実践を通じてわれわれが識別し始め プ ル シ ャ るとき、無知は消滅し、純粋精神が ── 全知、全能、遍在というその真の性質を現し、輝き始めるこ とだろう。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 「不断の気づきを伴う堅固な正しい判断こそが、真の知識の本質であり、無知を根絶し見る者を見ら ヴィヴェーカキャーティ れるものから解放する唯一の手段だ。vivekakyáti 、知恵の王と呼ばれる気づきと注意深さの最も高 たね い状態は、いつも保たれるべきなのだ。 ・・・誤った知識の種は、識別の知恵の不断の流れを維持する 継続的なヨーガ実践を通じて、燃やされるのだ。 」 B.K.S.アイアンガー タ ス ャ サ プ タ ダ ー プ ラ ー ン タ ブ ー ミ ヒ プ ラ ギ ャ ー Ⅱ-27 tasya saptadhá prántabhémië prajñá タ ス ャ tasya サ プ タ ダ ー その(識別)、彼(ヨーギ) saptadhá プ ラ ー ン タ ブ ー ミ ヒ 7つの、7 重の prántabhémië 境域、領域 プ ラ ギ ャ ー prajñá 高度な知識、認識能力、高度な直感 その識別知を得たヨーギには、7段階の高度な知識がやって来る。 「この知識(*識別知)が来るとき、それはまるで七段階から成るように、一つ、また一つとやって来 るであろう。そしてこれらの一つが始まると、われわれは、自分は知識を得つつある、ということを知 る。(1) 最初にはっきりするのは、自分は知るべきものを知った、ということだ。心の不満感は無くな るだろう。知識への渇望を感じている間は、われわれは、何らかの真理を獲得することができると思わ れるところをあちこちと探し始め、見出すことができないと失望して新たな方向を探る。知識は我ら自 身の内にある、誰も我らを助けることができない、われわれが自分を助けなければならないのだ、と知 り始めるまで、全ての探求は、無益である。われわれが識別の力を働かせ始めると、自分が真理に近づ しるし きつつあるという最初の印 は、その不満状態が消える、ということであろう。われわれは、自分は真理 を見出した、それは真理以外の何ものでもない、ということをはっきりと感じるであろう。そのときわ れわれは、太陽は昇りつつある、自分にとっての夜明けが来つつある、と知るであろう。そして勇気を 振って、目標に達するまで不屈の努力を続けなければならない。(2)第二の段階は、全ての苦痛がなく なることであろう。内面のであれ、外界のであれ宇宙間のあらゆるものにとって、われわれに苦痛を与 えることは不可能であろう。(3)第三の段階は、完全な知識の獲得であろう。われわれは全知となるで あろう。(4)第四の段階は、識別によって全ての義務が終了することであろう。(5)次に、チッタ(*心) の自由と呼ばれるものが来る。われわれは、ちょうど石が山の頂から谷底まで転がるように落下して、 二度と上がっては来ないように全ての困難と苦闘、全ての心の動揺が落ち去るのを知るであろう。(6) 次は、われわれが欲すればいつでも、チッタがそれの原因の中に溶け去ってしまう、ということをチッ タそれ自体が悟る、というものであろう。(7)最後にわれわれは、自分は自分の『自己』に定住してい る、ということを悟る。自分は宇宙間にただ一人であったのだ、肉体とも心とも関係はなく、ましてそ れらに結びついてなどはいなかったのだ、ということを悟る。それらはそれら自身の働きを働いていた のであるのに、無知のゆえに、われわれは自分をそれらに結びつけていたのだ。しかしわれわれはたっ た一人、全能で、遍在で、常に永遠に至福に満ちていたのである。われわれの『自己』は実に浄らかで そして完全で、われわれは他の何ものも、必要とはしなかったのだ。自分を幸福にするために、他の何 ものも、必要とはしなかったのである。なぜならわれわれが幸福そのものであるのだから。われわれは、 この知識が他の何ものにも依存していないことを、見出すであろう。全宇宙を通じて、われわれの知識 の前に輝いて来ないものは一つもあり得ない。これが最後の境地であって、ヨーギーは平安に満ち、静 かになり、もはや、いかなる苦痛も感じず、決して再び惑わされることはなく、決して不幸に会うこと はない。自分は常に永遠に至福に満ち、完全であり、全能である、と知るであろう。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ ヨ ー ガ ー ン ガ ー ヌ シ ュ タ ー ナ ー ト ア シ ュ ッ デ ィ ク シ ャ イ ェ ー ギ ャ ー ナ デ ィ ー プテ ィ ヒ アーヴイヴェーカキャーテーヘ Ⅱ-28 yogáïgánuøôhánát aùuddhikøaye jñánadæptië ávivekakháteë ヨ ーガー ンガーヌシ ュターナー ト yogáïgánuøôhánát yogáïga ヨーガの部門、体系 anuøôhánát 日々の実践 アシュッディクシャイェー aùuddhikøaye aùuddhi 不純性 køaye 撲滅、破壊 ギャーナディープティヒ jñánadæptië jñána 霊性の知識 dæptië 光明、光輝 アーヴイヴェーカキャーテーヘ ávivekakháteë á ~にまで viveka 識別 kháteë 知識、覚醒 ヨーガの諸部門の実践により心の不純性が撲滅されると、霊性の知識の光明が生じ、それは 真理の識別知にまで達する。 「実践なしには完成はない。そういう理由でこれ(ヨーガの実践)が今提出されるのだ。 教示されるヨーガの実践部門は 8 種類ある。それらの実践を通じて、無知の 5 つの形態(*無知、自我 意識、愛着、嫌悪、死の恐れ Ⅱ-3)の不純性は減少し撲滅される。それらの撲滅により、真の知識が それ自体を現す。ヨーガの実践により、不純性は減少し、知識の光明は拡大して識別知にまで達する。 プ ル シ ャ プ ラクリ ティ ヨ ー ガ ア ー ン ガ つまり純粋精神と根本原質の真の相違が認識される。ヨーガの諸部門(yogaáïga)の実践は、ちょうど 木を切る手段としての斧のように、心の不純性を根絶する手段なのだ。善が幸福を実現する手段である ように、ヨーガの諸部門の実践は識別知を獲得するための手段だ。ヨーガの実践には、どんなその他の 理由はない。 」 ヴィヤーサ 解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳 アヴィディヤー 「識別の知識は、 無 知 その他の五種類の間違った知識が優勢なときでさえ、学習と推理を通じて理 解することができる。潜在する間違った知識がヨーガの諸部門の実践を通じて弱まるとき、識別の知識 サマーディ は明晰さを獲得する。そのあと、三 昧 を通じてもたらされる没入により、完全な識別が生じる。そのよ うな識別の知識の明晰さは、知識の光明と呼ばれる。人々が感覚対象を獲得して堅持しようと試み、そ れらの不幸の原因への執着を十分に知ることにより、一つの様式の知識を得る。それを理解して感覚対 象を放棄しようとする人々の内部で、そのような知識はより明確に発展する。そしてそれらを完全に放 棄した人々により、全ての感覚対象は不幸をもたらすという知識の完全な覚醒が達成されるのだ。 」 スワミ・ハリハラーナンダ 「高度な自己を知るためには、心でも知性でもない、真理への真の気づきを発展させねばならない。し かしその深い気づきは、不純性の段階的な撲滅の進展による霊性の光明によってのみ発展する。その心 の不純性は、ヨーガの実践によって撲滅される。 ヨーガの種々の異なる側面が段階的に実践されなければならない。それにより心の不純性は撲滅され、 アヴィデャー 真の、真理の深い気づきの結果である霊性の光明が生じるのだ。真理のその気づきにより、 無 知 と プ ラクリ ティ 根本原質は共に消滅する。この意味から言えば、ヨーガとは結合ではない。ヨーガとは分離なのだ。」 スワミ・サッテャーナンダ 「今度は実践に関する知識が来る。われわれが今まで話していたのは、もっと非常に高遠なことである。 それは、われわれの頭上はるかに高いところにある。しかしそれは理想だ。まず第一に、肉体と心の制 御ができなければならない。そのときに、理想の悟りは堅固なものとなるだろう。理想が知られたら、 残るものは、それに到達する方法を実践することである。」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ ヤ マ ニ ヤ マ ア ー サ ナ プ ラ ー ナ ー ヤ ー マ プ ラ テ ャ ー ハ ー ラ ダ ー ラ ナ ー デ ャ ー ナ Ⅱ-29 yama niyama ásana práîáyáma pratyáhára dháraîá dhyána samádhayaë aøôau aïgáni サ ヤ マ ー デ ャ ヤ ハ ア シ ュ タ ウ ア ン ガ ー ニ マ ニ ヤ マ yama 禁戒、社会への態度、社会道徳律 niyama 勧戒、自己への態度、霊的修養 ア ー サ ナ プ ラ ー ナ ー ヤ ー マ プ ラ テ ャ ー ハ ー ラ ásana 体位法、坐法 práîáyáma 調息法、呼吸法 pratyáhára 制感、五感の制御 ダ ー ラ ナ ー デ ャ ー ナ dháraîá 凝念、一点集中 dhyána 禅定、集中の持続 サ マ ー デ ャ ヤ ハ アシュタウ ア ン ガ ー ニ samádhayaë 三昧、瞑想対象との合一 aøôau 8つの aïgáni 部門、手足 ヤ マ ニ ヤ マ アーサナ プラーナーヤーマ プラテャーハーラ ダーラナー デャーナ サマーディ 禁戒、勧戒、坐法、 調 息 、 制 感 、凝念、禅定、三昧が(ヨーガの)8つの部門である。 「このスートラと共に、私たちはラージャ・ヨーガ(*身心統御のヨーガ)の主題に着手する。一 般に、瞑想がヨーガであると思われているが、実際には心理組織の広大な範囲の訓練、条件付け、 浄化が含まれている。パタンジャリのラージャ・ヨーガは8つの手足(*部門)に分けられ、これら ヤ マ ニヤマ アーサナ プラーナーヤーマ プラテャーハーラ の8つの部門は相互に依存し、類似した価値を持つ。禁戒、勧戒、坐法、 調 息 、 制 感 は外的 けんぎょう ダーラナー デ ャーナ サマーディ みっきょう 側面、バヒランガつまり顕教 (外的)ヨーガを形成する。そして凝 念 、禅定、三 昧 は密教の側面、内的 なヨーガを形成する。 ヨーガの全領域が、バヒランガ(*外的)とアンタランガ(*内的)の二つに分けられていることは、興味 深いことだ。バヒランガは、肉体、社会、その他たくさんの個人が関わる外的な対象についての実践ヨ ヤ マ ニヤマ アーサナ プラーナーヤーマ プラテャーハーラ ダーラナー デ ャーナ ーガだ。禁戒、勧戒、坐法、 調 息 、 制 感 はバヒランガ(*外的)ヨーガを形成する。凝 念 、禅定、 サマーディ 三 昧 は密教ヨーガを形成する、なぜならこれらの実践であなたは、集中の方法(*対象)が客体から主体 へと転換されるからだ。 ヤ マ ニヤマ 外的と内的な方法は、相互に依存している。あるわずかな人たちは、禁戒や勧戒という最初の段階を 通過しないで、直接瞑想が実践できる偉大なサムスカーラ(*内的傾向性)を持って誕生するかもしれな ヤ マ ニヤマ い。私たちのほとんどは、一歩一歩、禁戒と勧戒から始め、前進することが必須だ。なぜなら制御と訓 練を欠いた人生には、無意識の爆発、つまり心理的狂気を生じさせる可能性があるからだ。ときどき瞑 想中にそのような爆発が生じるが、そこには(*身心の)不純性による障害があるからだ。これが瞑想に 失敗する一つの主要な理由だ。 瞑想は急いで実践するべきではない。それはやって来るべきなのだ。性急であってはならない。ラー ジャ・ヨーガのどの段階も次なる高度な段階へと道を開く、それゆえ全ての部門は相互に依存している のだ。その境界線は前もって知られることはない。それらは経験を通じて知られるのだ。それは探求者 ヤ マ ニヤマ を上方へと導く一つの完全な道なのだ。8重の分割は、探求者を注意深くする。禁戒と勧戒は実に普遍 的なものだ、なぜならそれらはあらゆる場所で尊重されているからだ。 探求者にとって最も賢明な方法は、これら全ての段階をできる限りゆっくりと実践することだ、そう すれば無理な抑圧による反動がなくてすむだろう。ラージャ・ヨーガの準備的部分は、探究者たちがし ばらくの間は一緒に生活し、グループで実践しなければならない。 心の全体がある傾向性に確立されるとき、あなたは社会に戻り人々と一緒に生活でるのだ。どこでも 社会は個人を食い物にして来た、個人を霊的目的地から遠避けようとした来たのだ。それだからしばら グ ル くの期間、探究者の全ての(*心身の)構造は、聖師の傍で適正化されねばならないのだ。」 スワミ・サッテャーナンダ ア ヒ ム サ サ テ ィ ヤ ア ス テ ー ヤ ブ ラ フ マ チ ャ リ ャ ア パ リ グ ラ ハ ー ハ ヤ マ ー ハ Ⅱ-30 ahiósa satya asteya brahmacarya aparigraháë yamáë ア ヒ ム サ ふ せっしょう サ テ ィ ヤ アステーヤ ahiósa 非暴力、不殺生 satya 正直、誠実、真実 asteya 不盗、不横領 ブ ラ フ マ チ ャ リ ャ ア パ リ グ ラ ハ ー ハ ヤ マ ー ハ き ん かい brahmacarya 禁欲、純潔 aparigraháë 不貪欲、無所得 yamáë 禁戒である ア ヒ ム サ ー サティヤ アステーヤ ブラフマチャリャ アパリグラハ ヤ マ 非暴力、誠実、不盗、 純 潔 、無所得が禁戒である。 ヤ マ ヤ マ 「禁戒は方策や人前での行儀や礼儀ではない、それは理想と原理への固執だ。禁戒は神聖な性質を発 ヤ マ ヤ マ 展させ、人間の性質を神の性質へと変容させるだろう。禁戒は欲望、渇望、悪い性質を絶滅させる。禁戒 ヤ マ ヤ マ は獣的本能や獣的性質を根絶する。禁戒は無情、暴力、残虐、貪欲を除去する。禁戒は宇宙的愛、親切、 ヤ マ 慈悲、善、清らかさ、神聖な光でハートを満たす。禁戒は神聖な生活またはヨーガの土台であり、その サマーディ ヤ マ 上に三 昧 の上部構造が築かれる、禁戒はヨーガの礎石であり、その上に超意識の殿堂は築かれるのだ。 」 スワミ・シヴァーナンダ 「想像を通じての心への打撃は、実際の行為による心への打撃よりも大きくはない。行為は、単なる 思い、空想、想像よりも、人の堅固な記憶となり心を動揺させる。そういう理由でパタンジャリは、ま ず最初に全ての行為を純化し、それら全てを検討せよと述べたのだ。どのように? パタンジャリは言 せいかい った、信頼できる誓戒を取り上げ、あなたの行為をその信頼できる普遍的法則に従わせよ、と。」 スワミ・チダーナンダ アヒムサー 非暴力・・・全ての生命を傷つけず害を与えない行為。 「他人を害するなかれ。あらゆるものを、あなた自身のように愛せよ。なぜなら、全宇宙は一つで あるからだ。他人を害することによって、私は自分を害しつつあるのだ。他人を愛することによって、 私は自分を愛しつつあるのだ。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ サテ ィ ヤ サテ ィヤ 誠実・・・正直で誠実である行為。satya の原意は「真実」で、嘘をつかず約束を守ること。 「誠実の徳は最も重要である。もし人が常に真実を語り、このことを堅く守り続けるなら、彼は神 を悟るだろう。神は真実なのだから。 」 ラーマクリシュナ アステーヤ 不 盗 ・・・他人の所有物、権利を害さない(盗用しない)行為。 「盗みの真の原因は多くの欲望と訓練されていない感覚器官だ。盗みを止めるためには、ゆっくり と欲望を抑制し、感覚を訓練して、心を制御しなければならない。」 スワミ・シヴァーナンダ ブラフマチャリャ ブ ラ フ マ チ ャ リ ャ 純 潔 ・・・性的純潔、生命力を保つ行為。brahmacarya の原意は「ブラフマンに向かう生活」 。 ブラフマチャリャ 「 純 潔 の目的は、肉体の生命力を純化し、それを霊的なオージャス・シャクティ(*高度な霊的 エネルギー)に昇華させることです。 」 スワミ・チダーナンダ 「オージャスを昇らせて脳に蓄えることができるのは、純潔な男または女だけです。・・・結婚を しない僧というものが存在することになったのはそれだからです。」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ アパリグラ ハ 無所得・・・物を欲せず所持しない、または他者からの贈り物を受けない行為。 「贈り物を受ける人の心は、与える人の心に左右されやすい。それゆえ、受け取る者の心は堕落しや すい。贈り物を受け取ることは、心の独立を破壊し、われわれを奴隷的にしがちである。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ ジャーティ Ⅱ-31 デ ー シ ャ カ ー ラ サ マ ヤ ア ナ ヴ ァ ッ チ ン ナ ー ハ サ ー ル ヴ ァ バ ウ マ ー ハ játi deùa kála samaya anavacchinnáë sárvabhaumáë マ ハ ー ヴ ラ タ ム mahávratam ジャーティ デーシャ カ ー ラ j á t i 誕生した階級、身分 deùa 国、地域 ア ナ ヴ ァ ッ チ ン ナ ー ハ anavacchinnáë 制限されない、影響されない マ ハ ー ヴ ラ タ ム mahávratam 偉大な誓い、大誓戒 ヤ サ マ ヤ kála 時間 samaya 状況、機会 サ ー ル ヴ ァ バ ウ マ ー ハ sárvabhaumáë 普遍的な マ せいか い (これらの禁戒が)身分、場所、時、状況に制限されない場合は、普遍的な偉大な誓戒となる。 「身分によって限定される非暴力の例は、魚以外の全てを除く漁夫の非暴力の場合だ。非暴力が限定 せっしょう される場所の例は、神聖な場所のみで非殺生が実行され、他の場所では行われず、限定される期間とは せっしょう じゅんしゅ 特別の神聖な日には非殺生が遵守される。神々をなだめ、バラモンに供給するためにのみ動物の犠牲供 養を行う、という考えにより非暴力は制限されないが、他の目的では制限される。クシャトリヤ(戦士 階級)の場合、義務として戦争で暴力を行うが、それ以外の場合には非暴力を実践する。このように非 じゅんしゅ 暴力、真実(*サティヤ)その他の制御は、階級、場所、期間、慣例の義務に関係なく普遍的に遵守され ヤ マ じゅんしゅ るべきである。それら(*禁戒)があらゆる場合に、全ての項目が確実に遵守されるとき、それらは普遍 性に到達し、偉大なる誓いと呼ばれる。 」 ヴィヤーサ 解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳 だいせいかい 「パタンジャリはこれらを『大誓戒』と呼んでいるが、それはいかなる理由によっても破られてはな らないから ── つまり、時間や場所や目的、そして社会的なあるいは階級的な習慣に関わりなく、夏 でも冬でも、夜でも昼でも、そして土地柄や国民性にも関係なく、守られねばならないからである。こ の指示は全時間を捧げるヨーギーのためにあるのであって、したがってパタンジャリは、彼らに対して はいかなる例外的弁明も認めない。しかしヨーガの最終目標に対してそれほど強く集中していない人々 には、これらの誓戒は、彼らの生活の場に応じた調整がなされてもよい。 」 スワミ・サッチダーナンダ 伊藤久子・訳 せっしょう 「 『弟子 殺生を必要とするから、肉食は避けるべきでございましょうか?』 『師 ナンセンス! 仏教徒は、«不殺生は最高の徳»と言っている。これはどういう意味か。この意 義は、人がサマーディに達したとき、つまり明知を得て全ての生きものの中に神を見るようになったと きに初めて、理解することができるのだ。それまでは、ただ口先で喋っても無駄なことだ。君たちが自 分自身の内に見るのと同じ神を一匹のアリの中にも見ることができるとき、そのときには君たちは、こ の徳を実践することができる。不殺生を云々してもよいけれど、ほんとうに殺生を避けることができる かね。何を食べているのか。じゃがいもだって? じゃがいもを地に植えれば芽を出す。じゃがいもは 生命を持っていないか。米は食べるだろう。米粒を地に蒔いてごらん。それは稲になる。水を飲みたい だろう。一滴の水を顕微鏡下で検べてごらん。幾百万の小さな生命がそこに生きていることか。君たち が生きるためには息をしなければなるまい。ところが君たちは、ひと息吸うごとに幾百万の生きものを 殺しているのだ。そこにいくらかでも悪を認めているかね。それなのに少しばかりの魚を食べると、宗 教を失うように思うのだ。こんな議論は馬鹿げているよ。古代のヒンドゥ教徒はそんな考えは持たなか った。』 」 。 スワミ・ブラマーナンダ シ ャ ウ チ ャ サ ン ト ー シ ャ タ パ ハ ス ヴ ァ ー デ ャ ー ヤ イ ー シ ュ ヴ ァ ラ プ ラ ニ ダ ー ナ ー ニ ニ ヤ マ ー ハ Ⅱ-32 ùauca saïtoøa tapaë svádhyáya æùvarapraîidhánáni niyamáë シャウチャ サ ン ト ー シ ャ 清潔、清浄 ùauca ス ヴ ァ ー デ ャ ー ヤ svádhyáya ニ ヤ マ ー ハ 苦行、浄化の行為 tapaë どくじゅ イ ー シ ュ ヴ ァ ラ プ ラ ニ ダ ー ナ ー ニ 読誦、聖典の学習、自己の学習 æùvarapraîidhánáni 至高神への帰依、祈念が かんかい 勧戒である niyamáë シャウチャ タ パ ハ 満足、知足 saïtoøa サントーシャ タ パ ス ス ヴ ァ デ ャ ー ヤ イーシュヴァラ・プラニダーナ ニ ヤ マ 清潔、知足 、浄化の行為、自己の学習、至高神への帰依が勧戒である。 ヤ ニヤマ マ ニヤマ ヤ マ 「禁戒と勧戒の間には親密な関係がある。勧戒は禁戒を保護する ── もし探究者が、内的清らかさ ア ヒ ム サ ブラフマチャリャ を持っているか、あるいは肉欲、嫌悪、怒り、貪欲から自由であれば、彼は不殺生、 純 潔 、その他 ヤ ニヤマ マ ヤ マ を確立できるのだ。内的清らかさは禁戒の実践を助ける。勧戒は禁戒の付属あるいは補助なのだ。 ニヤマ サマーディ 勧戒の実践は苦悩を弱め、心が三 昧 に入れるよう準備する。それは心の不純性を浄化し、心の散漫を 破壊するために実践されるのだ。 」 スワミ・シヴァーナンダ ニヤマ じゅんしゅ ニヤマ 「さてわれわれは勧戒 ── 日々の日課も含む信頼できる遵守の生活態度に進もう。この勧戒の背後 の目的は、人の生活を神の方向へと転換させることだ。 」 スワミ・チダーナンダ *下の「 」内の言葉は全てスワミ・シヴァーナンダ シャウチャ 清潔・・・外的、内的清潔を保つ生活態度。外的とは肉体や衣類の清潔さ。内的とは、心の清らかさ。 「内的清潔のほうが外的清潔よりもっと重要だ。内的清潔は、心の一点集中、平穏、楽しさ、喜び、 強さ、調和、安定、幸福を実現させる。 」 サントーシャ 知 足 ・・・現在の生活環境に満足する生活態度。豊かでも貧しくても自らの現状に満足すること。 サントーシャ サントーシャ サントーシャ 「 知 足 は、生活の豊かさ、幸福、平和をもたらす。知 足 の人はいつも平和で穏やかだ。もし 知 足 が なければ、心はいつも動揺し、かき乱されるので、霊的な修行は不可能となる。 」 タ パ ス 浄化の行為・・・一般に「Austerity(苦行)」と英訳されるが、強い意志により身体や心を浄化する生活 タ パ ス 態度が浄化の行為である。サンスクリット語の Tápa は「激しい熱、燃やす」意。 タ パ ス タ マ ス ラジャス サットヴァ 「低い動物の性質を消滅させ、神の性質を生じさせることが浄化の行為だ。闇質と激質を破壊し、純質 タ パ ス を増大させることが浄化の行為だ。欲望、自我意識、好き嫌いを破壊し、離欲と識別と瞑想を生じさせ タ パ ス ることが浄化の行為だ。 」 ス ヴ ァ デ ャ ー ヤ スヴァーデャーヤ 自己の学習・・・一般に svádhyáya は「聖典の学習」とされるが、デシカチャー師によれば、真の自 ス ヴ ァ デ ャ ー ヤ 己に近づく学習が自己の学習であり、聖典の学習も、聖地に巡礼することも、聖者に会うことも、自己 ス ヴ ァ デ ャ ー ヤ を瞑想することも全て自己の学習である。 ス ヴ ァ デ ャ ー ヤ 「それ(自己の学習)は、覚醒した賢者たちによって記された聖典の日々の学習だ。それは心を上昇さ せ、霊感を与える。それはあなたに人生の目的地とそれを実現するための実践法を教示する。 」 イーシュヴァラ・プラニダーナ イーシュヴァラ・プラニダーナ ニヤマ 至高神への帰依・・・至高神への帰依は、1-23 節、2-1 節ですでに教示されたが、勧戒の最重要な生活 態度として、パタンジャリはここでも教示する。 イーシュヴァラ・プラニダーナ 「自己献身(至高神への帰依)はサマーディ、つまり超意識境へと導く。それは神との合一へと導く。 個人は宇宙の意志と一体となるだろう。 」 ヴ ィ タ ル カ バ ー ダ ネ ー プ ラ テ ィ パ ク シ ャ バ ー ヴ ァ ー ナ ム Ⅱ-33 vitarkabádhane pratipakøabhávánam ヴ ィ タ ル カ バ ー ダ ネ ー vitarkabádhane vitarka 悪い想念、否定的想念、疑い bádhane 妨害、障害、邪魔 プ ラ テ ィ パ ク シ ャ バ ー ヴ ァ ー ナ ム pratipakøabhávánam pratipakøa 正反対の、逆の側面の bhávánam 熟考する、念想する ヤ マ ニ ヤ マ (禁戒、勧戒の実践が)悪い想念により妨害されるときは、反対の想念を熟考すべきである。 ブラフマチャリャ 「これは霊性の進歩のための実践的訓練だ。あなたが 純 潔 を実践しているとき、もし色欲がそれ ブラフマチャリャ を妨害するなら、その正反対の神聖な思いを熟考せよ。 純 潔 の光輝とその驚くべき恩恵と、色欲に よって起こる困惑を考えよ。もし誰かを攻撃したい欲望が起こったなら、愛とその恵みを考えよ。もし 嘘をつく習慣が再び生じたなら、真実を語る恩恵と嘘をつく不利益を考えよ。このようにして、あなた は正反対の美徳を発展させるか、心を逆転させることを習慣化して、あらゆる欠点を除去できるのだ。 」 スワミ・シヴァーナンダ ヤ マ ニヤマ 「禁戒、勧戒の実践中、古い習慣や傾向性その他が原因で悪い感情が生じ、それらが障害を造り出す。 その感情は抑圧できないことだろう。最良の方法はその反対の感情を熟慮することだ。・・・たとえば ある人が誠実でありたいと思うけれど、しばしば不誠実な人々が人生で成功し、誠実な人々が失敗する のを目にする。このことが、人は不誠実であるべきだという悪い想念を生み出す。・・・この間違った 思いが進展するとき、それは障害となり探究者を誤らせることだろう。この場合、不誠実の反対である 誠実が、熟考を通じて育成されねばならないのだ。・・・誠実は問題にされず、誰も誠実な者は相手に しない、という思いが心にやって来るとき、探究者は、霊性の道での成功は誠実を通じてのみ可能なの プ ラ テ ィ パ ク シ ャ バ ー ヴ ァ ー ナ ム だ、というその反対の主張を進んで実践するべきなのだ。これが pratipakøabhávánam だ。」 スワミ・サッティヤーナンダ プ ラ テ ィ パ ク シ ャ 「pratipakøa とは、ある完全に違った行為をすることにより、その状況から私たち自身を切り離す ことです。ニューヨークのハミルトン(*大学)に来ることは、私にとって難題でした。それは大きな決 定だったのです。私の仕事(*インドでのヨーガ教師)、友人たち、生徒たちのことを考えると、私がマ ドラス(*現チェンナイ)を去り、ハミルトンで働く(*ヨーガ講師)ことは愚かに思えました。また一方で は、私にほとんどハミルトン行きを決定させていた、これらの講義をすることが大変に重要なことであ る、とも思えました。 ・・・そんなときは・・・論議は止めたほうがいいのです。私はその代わりに、 あるコンサートに行きました。そこでは心の対立はありませんでした。その状況の中で、私はハミルト ンに行くことを決定したのでした。 」 T.K.V.デシカチャー 「それは、すでに述べた諸徳を実践する方法である。たとえば、大きな怒りの波が心に起こったとき、 それをどのように制御したらよいか。ただそれに反対する波を起こすのである。愛を思え。ときどき、 ある母親が夫に対して大変に腹を立てている。そこに赤ん坊が入って来ると、彼女は赤ん坊にキスをす る。古い波は消えて、新しい波が立つ、子供への愛である。それはもう一つの波を抑える。愛は怒りの 反対なのである。同様に、盗もうという思いが起こったら、不盗を思うべきである。贈り物を受けよう という思いがわいたら、それを反対の思いと置き換えるべきである。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ ヴ ィ タ ル カ ー ハ ヒ ム サ ー ダ ヤ ハ ク リ タ カ ー リ タ ア ヌ モ ー デ ィ タ ー ハ ロ ー バ ク ロ ー ダ Ⅱ-34 vitarkáë hiósádayaë kìta kárita anumoditáë lobha krodha モ ー ハ プ ー ル ヴ ァ カ ー ハ ム リ ド ゥ マ ド ヤ ア デ ィ マ ー ト ラ ー ハ ド ゥ ッ カ ア ギ ャ ー ナ mohapérvakáë mìdu madhya adhimátráë duëkha ajñána ア ナ ン タ パ ラ ー ハ イティ プ ラ テ ィ パ ク シ ャ バ ー ヴ ァ ナ ム anantaphaláë iti pratipakøabhávanam ヴィタルカーハ ヒ ム サ ー ダ ヤ ハ vitarkáë 悪い想念、否定的想念 hiósádayaë hiósá 暴力 ádayaë その他(の悪い想念) ク リ タ カ ー リ タ ア ヌ モ ー デ ィ タ ー ハ kìta 自分で行った kárita 他者が行った anumoditáë 容認された、許可された ロ ー バ ク ロ ー ダ モ ー ハ プ ー ル ヴ ァ カ ー ハ lobha 貪欲 krodha 怒り mohapérvakáë moha 妄想 pérvakáë 原因による ム リ ド ゥ マ ド ヤ ア デ ィ マ ー ト ラ ー ハ ド ゥ ッ カ mìdu 温和、穏やか madhya 中庸、中間 adhimátráë 過激、極度 duëkha 苦痛 ア ギ ャ ー ナ ア ナ ン タ パ ラ ー ハ イティ ajñána 無知 anantaphaláë ananta 無限の phaláë 結果 iti そのように、それが プ ラ テ ィ パ ク シ ャ バ ー ヴ ァ ナ ム pratipakøabhávanam 反対の想念を熟考する、反対の想念を養う 暴力その他の悪い想念を、自分が想っても、他者に想わせても、(他者の悪い想念を)容認 しても、その原因が貪欲、怒り、妄想であれ、(想いの程度が)穏和、中庸、極度であれ、(そ れら全ては)無限の苦痛と無知の結果をもたらす、これが反対の想念の熟考である。 「暴力には3種類あり、自分が直接行ったもの、他者に行わせたもの、他者が行ったのを容認したも のだ。これらそれぞれにもまた3種類ある。皮や肉を得るため(動物の殺生)の貪欲によるもの。『この り や く 男が私に危害を与えた、だから私も害す』という怒りによるもの。ご利益を得るための動物犠牲供養と いう妄想(*間違った信念)によるもの。貪欲、怒り、妄想にも ── 穏和、中庸、極度 ── という3 種類がある。かくして暴力には27種類がある。穏和、中庸、極度にも3種類がある。穏和な穏和、中 庸の穏和、極度の穏和、そして穏和な中庸、中庸の中庸、極度の中庸、 そして穏和な極度、中庸の極 度、極度の極度だ。このように暴力には81種類があるのだ。これらはまた、生きものが無数に存在し、 (犠牲となる動物種の)選択、無選択などの多様な慣習命令により(*暴力の)種類も無数となる。このよ サテ ィヤ アステーヤ うな分析はまた、嘘(*誠実の破戒)や盗み(*不 盗 の破戒)にも適応される。 『これら(*悪い想念)の多様な種類は苦痛と無知の果てしない結果を生み出す』と思うことが、反対 の想念である。 ・・・このように邪悪な想念や行為の避け難い悲惨な結果を思い、心は決して再びそれ らの邪悪な想念を考えるべきではないのだ。邪悪な想念は、それらの反対の想念を通じて捨て去られる べきだ。 」 ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳 「もしあなたが他人に向かって強力な怒りの波動を放つなら、それはあなたの敵対者を傷つけ、それ は遠方の領地にさえも届き、その領域を汚すことだろう、そしてそれは再びあなたのもとへと戻ってき て、あなたを傷つけることだろう。 」 スワミ・シヴァーナンダ 「もし私が嘘をつくか、人に嘘をつかせるか、または他人の嘘を容認するかするなら、それは同時に 罪深いことである。たとえそれが軽い嘘であっても、なおそれは嘘である。あらゆる邪悪な思いは跳ね 返ってくるだろう。あなたがたとえ洞窟の中で思った憎しみの思いでさえ、ことごとく蓄えられ、いつ かは何らかの不幸という形をとって、ものすごい力であなたのもとへ返ってくるであろう。もしあなた が憎しみや嫉妬を放射するなら、それらは複利計算のように、あなたのところに戻って来るであろう。 どんな力もそれらを逸らすことはできない。あなたがひとたびそれらを放射したら、あなたはそれらに 耐えなければならないのだ。このことを憶えていれば、あなたは悪い行為を避けることだろう。」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ ア ヒ ム サ ー プ ラ テ ィ シ ュ タ ー ヤ ー ム タ ト サ ン ニ ダ ウ ヴ ァ イ ラ テ ャ ー ガ ハ Ⅱ-35 ahiósápratiøôháyáó tatsannidhau vairatyágaë ア ヒ ム サ ー プラ テ ィ シ ュ タ ー ヤ ー ム ふせっしょう ahiósápratiøôháyáó ahiósá 非暴力、不殺生 pratiøôháyáó 堅固な確立、定住 タ ト サ ン ニ ダ ウ tatsannidhau tat その、彼の sannidhau 周辺、面前、傍 ヴ ァ イ ラ テ ャ ー ガ ハ vairatyágaë vaira 敵意、憎悪 tyágaë 捨てる、放棄する ア ヒ ム サ ー ヤ マ 非暴力(の禁戒)が堅固に確立すれば、彼の前では(全ての生類が)敵意を捨てる。 アヒムサー 「全ての生きものたち ── 人間、動物、鳥、有毒な生物 ── は非暴力の実践者に恐れを抱かずに 近づき、彼を害することはしない。彼らの敵意はその実践者の前では消滅してしまうのだ。・・・ライ オンや虎は、そのようなヨーギにはどんな危害も与えない。狼や子羊、蛙やコブラは、彼の前で遊ぶこ アヒムサー とだろう。 ・・・非暴力の実践により、ついには生命の一体性、非二元意識の覚醒へと到達することだ ろう。それは実践者に、宇宙的愛の実現を可能にするのだ。 」 スワミ・シヴァーナンダ 「アヒムサーは、愛、無害、不殺生、非暴力を意味する。それは憎しみ、敵意、危害の不在のことだ。 霊性の探求者にとって、それがたとえどんな状況であれ、いかなる有害な意図も存在すべきではないこ とを意味する。プラティシュタ(pratiøôha)は堅固な確立を意味する。人がアヒムサーを確立したとき、 彼と関わるあらゆる人に影響を及ぼす、ある種の磁力が彼の周囲に広がる。(*彼の周囲の)人は、非常 に危険で邪悪な潜在意識 ── 暴力と敵意から解放される。 インドの歴史には、最も残忍で悪魔的なハートを変容させた多くの偉大な人々がいた。アヒムサーの 信者であったマハトマ・ガンジーは、どんな有害な意思も心に抱くことはなかったが、しかし彼は敵を 持ちそして最終的に銃撃に倒れた。このことはアヒムサーの実践がどれほど難しいかを示している。主 ブッダは、どんな残忍な人格をも心の優しい人間に変容させるほどに、アヒムサーの実践を発展させた。 いちべつ かつてブッダは、彼を殺そうとやって来たダコイト(盗賊)を一瞥し、それのみでそのダコイトは変容し アーシュラム てしまった。これがアヒムサーの力だ。パタンジャリの 道 場 では、牛や山羊や虎が一緒に生活し、飲 食を共にした、なぜなら偉大な賢者によりアヒムサーが実践されたからだ。 」 スワミ・サッティヤーナンダ 「アヒンサーの戒行に徹すると、その人は調和的なヴァイブレーションを放射するので、その人のそ ばではすべての敵対が止む。たとえば二人の人間が互いに敵意を持ち合っていても、その人のそばにい ・ ・ ると彼らは一時的にそれを忘れる。それがアヒンサーの功徳である。それが、一定期間続けて、思いと ・ ・ ・ ・ ・ ことばと行為(意・口・身)において実行されると、人格全体がそのヴァイブレーションを発するのであ る。野生の動物でさえ、アヒンサーに徹した者のそばでは、その残忍性を忘れる。古いヒンドゥーの神 話の中にそういう話があり、アヒンサーを守っている聖者や賢者たちの住む森の中では、動物たちは空 腹のときしか獲物を殺さなかった。それ以外のときは、牛と虎が仲良く並んで水を飲んでいた。ブッダ はそれを行い、高めた。彼は赴くところどこにでも平和と調和と友愛をもたらした。聖フランシスもそ の一つの偉大な例である。 」 スワミ・サッチダーナンダ 伊藤久子・訳「インテグラル・ヨーガ」 「もし人が、他者を傷つけない、という理想に到達するなら、彼の前では猛獣さえも、おだやかにな るだろう。そのヨーギーの前では、トラと子羊とが仲良く遊ぶだろう。あなたがその状態になったとき、 そのときにはじめて、あなたは自分が他者を傷つけない境地に定住したことを、さとるだろう。」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ サ テ ャ プ ラ テ ィ シ ュ タ ー ヤ ー ム ク リ ヤ ー パ ラ ア ー シ ュ ラ ヤ ト ヴ ァ ム Ⅱ-36 satyapratiøôháyáó kriyáphala áùrayatvam サ テ ャ プ ラ テ ィ シ ュ タ ー ヤ ー ム satyapratiøôháyáó ク リ ヤ ー パ satya 真実、誠実 pratiøôháyáó 堅固な確立、定住 ラ kriyáphala kriyá 行為、活動 phala 結果、結実 アーシュラヤトヴァム áùrayatvam サ テ ャ ヤ áùraya 基盤、支え、拠り所 tvam 境地、状態 マ 誠実(の禁戒)が堅固に確立すると、(彼の言葉は)現実(行為と結果の基盤)となる。 「あらゆる状況の中で常に真実を語ることにより、そのヨーギはヴァーク・シッディ、彼が考え語る ことが何であれ事実となる特別な能力を獲得する。彼の単なる想念でさえも現実化するのだ。 真実を語る実践により、心はその汚れを清める。その心は汚れのない鏡のように輝き、神の偉大な光 輝く姿を映し出すのだ。 」 サ テ ャ ヤ スワミ・シヴァーナンダ マ 「探求者が真実(*の禁戒)を、時間、国、誕生(*職業)、環境によって制限されない普遍的法則として実 ブ ッ デ ィ 践し、それが確立されるとき、彼は自身の内部にある種の聖なる識別力を発展させる。それにより彼は、 カ ル マ カ ル マ 自身の願いに応じて自身の行為からその結果を得ることが可能となる。一般的に行為の結果は私たちの サ テ ャ 願いとは独立しているが、完全に真実を確立した人はそうではない。 このスートラはまた、真実に満ちた探求者は言葉の真実を発展させることも説明している。ヨーガで サイキック ことだま サ テ ャ はこれを心霊的な言葉(*言霊)と呼んでいる。真実の実践により探求者は自身の力を発展させ、彼の心 は鏡のように明晰になり、彼から発せられた言葉はそのまま現実化する。このようにして、どんな行為 の結果であれ、(*外的状況の)変化やプララブダ(*過去の印象により生じる行為)に依存せず ── 完全 サ テ ャ に(*現在の)彼に依存することとなる。あるいは、それほどまでに高度に真実を発展させた人は、自身 が発するどの言葉も完全に識別できる、とも言えるだろう。 サ テ ャ このスートラは二つの意味を持つ。一つは、彼(*真実を確立した人)の語る言葉は何であれ事実とな るということ、二つ目は、行為の結果は彼の意志に従うということだ。」 スワミ・サッティヤーナンダ サ テ ャ 「正直(*真実)の確立によってヨーギーは、彼自身と他者のために、事を為さずして事の成果に至る 力を得る。言い換えるなら、物事がおのずから彼のもとへ来る ──。自然は全て、正直な人間を愛す る。正直な人間は物事の後を追う必要がない、なぜならそれらの方が彼の後を追うからだ。そしてある 人が常に正直であるならば、つまりその口から一言の嘘も発することがないならば、彼の言うことのす べてが現実となる時が来る。たとえ彼がふと口をすべらせた一言でも、それは現実となるだろう ── じゅんしゅ それはサティヤの実行によってその言葉が純正で非常に強い力を持つようになるので、正直が彼を遵守 じ ゅ そ する(*守る)からである。それは常に彼と共にあることを望む。呪詛の言葉が発せられるならば、それ は起こる。祝福の言葉が発せられるならば、それも起こる ── 。 」 スワミ・サッチダーナンダ 伊藤久子・訳「インテグラル・ヨーガ」 サ テ ャ 「この誠実の力があなたに定着すると、そのときには、たとえ夢の中ででも、あなたは決して、うそ は語らないだろう。あなたは、思い、言葉および行為において、誠実であるだろう。あなたが言うこと は全て真実(*現実)となる。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ ア ス テ ー ヤ プ ラ テ ィ シ ュ タ ー ヤ ー ム サ ル ヴ ァ ラ ト ナ ウ パ ス タ ー ナ ム Ⅱ-37 asteyapratiøôháyáó sarvaratna upasthánam アステーヤプラティシュターヤーム asteyapratiøôháyáó asteya 不盗、不横領 pratiøôháyáó 堅固な確立 サ ル ヴ ァ ラ ト ナ sarvaratna sarva 全ての、あらゆる ratna 宝石、財宝 ウ パ ス タ ー ナ ム upasthánam 集積する、やって来る アステーヤ ヤ マ 不盗(の禁戒)が堅固に確立すると、あらゆる財宝が(彼のもとに)集積する。 アステーヤ 「 不 盗 つまり貪欲ではないことが確立すると、彼の顔から(*貪欲への)無関心が放射し、どんな生類 も彼を最も信頼できる存在と見なし、彼への寄贈者たちは最高の品物を彼に贈呈することができる幸運 を感じる。そのようにして、場所から場所へと歩き回るヨーギーに、様々な地域から宝石(最高の品物) が集積する。そのヨーギーの力に魅了され、彼を偉大な慰め人の源と見なし、生類の最高の存在たちが 個人的に彼の前に現われ、また無生物の高価な存在類(*宝石など)は寄贈者によって彼にもたらされる。 ラ ト ナ Ratna つまり宝石という言葉は、それぞれの種族階級(生物または無生物)の最高を意味する。」 スワミ・ハリハラーナンダ 「欲望、渇望、困窮が盗みの根本原因だ。 ・・・ お金を蓄えることも実は盗みだ。実際に必要な食物以上を食べることもまた盗みと見なされる。・・・ 盗みを止めるためには、探究者は徐々に欲望を制御し、感覚器官を訓練し、心を制御するべきだ。 もし探究者が盗みの悪い習慣を完全に放棄すれば、欲する物事、あらゆる種類の富が自然にやって来る だろう。 」 スワミ・シヴァーナンダ 「霊性の探究者がヨーガの誠実さの美徳を確立するとき、彼は透視力や直感のような認識力を発展さ せる。それは水脈を見つける熟達者が持つ能力と同様だ。この認識する能力を通じて、探究者は近隣の 高価な石や宝石に気づくのだ。 私たちはスワミ・シヴァーナンダのような人々を知っている、彼は接近する人がどれほどの富(*資質) を持っているかを知ることができた。これは直感による気づきで、絶対的な、無条件の、普遍的誠実さ によって可能となるのだ。その目的は、個人の人格の全構造を清めることにより、全生涯を清らかにす ることだ。このことが実現されるとき、その人格は神聖な心が反映する鏡のようになる。 アステーヤ 鏡が清らかなとき、あなたは自分の顔をはっきりと見ることができる。不 盗 や誠実の美徳は、隠れた 富を発見する気づきをもたらすのだ。 」 スワミ・サッティヤーナンダ 「もしわれわれが持てる物だけで満足し、盗みや貪欲とはまったく無縁で、静かな心を保ち続けてい るならば、すべての富がわれわれのもとへ来る。もしわれわれがそれらの後を追わなかったら、やがて はそれらがわれわれの後を追う。われわれが貪欲でないことを自然が知れば、彼女は、われわれが彼女 をけっして独り占めしようとしているのではないと知って、われわれを信頼する。ところがわれわれに は大抵、何かを手に入れたらそれに鍵をかけて閉じ込め、鍵を安全な場所へ隠してしまう傾向がある。 われわれは自分の持ち物を閉じ込める、お金でも財産でも人間でも。 」 スワミ・サッチダーナンダ 伊藤久子・訳「インテグラル・ヨーガ」 ブ ラ フ マ チ ャ リ ャ プ ラ テ ィ シ ュ タ ー ヤ ー ム ヴ ィ ー リ ャ ラ ー バ ハ Ⅱ-38 brahmacaryapratiøôháyáó væryalábhaë ブ ラ フ マ チ ャ リ ャ プ ラ テ ィ シ ュ タ ー ヤ ー ム brahmacaryapratiøôháyáó brahmacarya 純潔、禁欲 pratiøôháyáó 堅固な確立 ヴ ィ ー リ ャ ラ ー バ ハ væryalábhaë værya 活力、精力 lábhaë 巨人、獲得する、得る ブラフマチャリャ ヤ マ 純 潔 (の禁戒)が堅固に確立すると、(彼は)巨大な精力を獲得する。 ブラフマチャリャ 「 純 潔 とは、思い、言葉、行為の清らかさだ。肉欲の観念は心に侵入させるべきできない。禁欲 生活の実践なしには、霊的進歩は不可能だ。 精液は強力な力だ。精液は、清らかな思い、ジャパ(*神の名前の復唱)、瞑想により霊的エネルギー、 じゅんしゅ オージャスに転換させるべきだ。神の覚醒を渇望する人は、不屈の禁欲生活を厳格に遵守するべきだ。 この身体は神の覚醒のためにある。身体は高度な霊的目的のために、十分に活用されるべきだ。人間と して誕生するのは非常に困難だ。不滅の信望と賞賛を得た禁欲の聖者たちを思い起こせ。あなたもまた、 この生命エネルギーを保持し、それを神への集中に使用すれば、偉大な目的を達成できるのだ。」 スワミ・シヴァーナンダ ブ ラ フ マ チ ャ リ ャ ヴィーリャ 「brahma は至高の存在を、そして carya は生活を意味する・・・。værya は精液を意味し、一 滴の精液は 50 滴の血液から生み出されると言われている。それは生命の精髄であり最終的にエネルギ ーに変換されるのだ。多くの科学者たちはそれは内分泌液だと言っている。しかしパタンジャリは、そ ヴィーリャ れには同意しない。værya はまた不屈の勇気を意味し、それは霊性の修行にとって必須だ。かくして、 ブ ラ フ マ チ ャ リ ャ 堅固に brahmacarya(*純潔)が確立すると、そのヨーギは精力、エネルギー、勇気を獲得し、それに ブ ラ フ マ チ ャ リ ャ ア ビ ニ ヴ ェ ー シ ャ より彼は死の恐れから解放される。このように brahmacarya は、死の恐れを意味する abhinivesha と呼ばれる苦悩を克服するための重要な方法だ。 ヨーガにおいて、肉体エネルギーと霊的エネルギーとの間に親密な関係性があることは良く知られて いる。霊的潜在力を現実化させるためには、オージャスと呼ばれる肉体エネルギーを保存することが必 ヴィーリャ 要だ。オージャスは værya の保存により形成される。精液と呼ばれる肉体の流動液は保存され、オー レ ー タ ジャスに変えられる。これは reta ── 精液エネルギーと呼ばれる。それが純化され内部に導かれる とき、エネルギー(*オージャス)が生じて、全身がそのエネルギーに満たされるのだ。そのような人は ウ ー ル ド ヴ ァ レ ー タ érdhvareta(*精液を上昇させた人)と呼ばれている。」 スワミ・サッティヤーナンダ ブラフマチャリャ 「 禁 欲 つまり独身生活を確立することで、われわれはエネルギーを保存する。 『ヴィーリャ』はエ ネルギーという意味で、 『ラーバ』は利益である。ヴィーリャの損失がないと、生命エネルギーが増す。 精液はわれわれの生命である。それは正しく保存されると多大なエネルギーをもたらす。それは身体 に吸収されるとプラーナ(*生命力)に変わる。女性においても、保存された性エネルギーはプラーナに 変わる。真に人々を助け、良い人間関係を作ることを可能にしてくれるのは、この生命力である。 」 スワミ・サッチダーナンダ 伊藤久子・訳「インテグラル・ヨーガ」 「純潔な頭脳は、すさまじいエネルギーと、巨人的な意志の力を持つ。純潔を欠いたら、そこには霊 ブラフマチャリャ 性の力はない。 禁 欲 は、人類への驚くべき支配力を与える。人々の霊的指導者たちは、非常に純潔 であった。そしてこれが彼らに力を与えたのである。それゆえ、ヨーギーは純潔でなければならない。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ ア パ リ グ ラ ハ ス タ イ リ ェ ー ジ ャ ン マ カ タ ム タ ー サ ム ボ ー ダ ハ Ⅱ-39 aparigrahasthairye janmakathaótá saóbodhaë ア パ リ グ ラ ハ ス タ イ リ ェ ー aparigrahasthairye aparigraha 無所得、不貪欲 sthairye 堅固な確立、不動となる ジ ャ ン マ カ タ ム タ ー janmakathaótá janma 誕生、生涯 kathaótá どのようにどこから、過去・現在・未来の生涯 サ ム ボ ー ダ ハ saóbodhaë あらゆる知識 アパリグラハ ヤ マ 無所得(の禁戒)が不動になると、(彼の)過去・現在・未来の生涯のあらゆる知識を得る。 パリグラハ アパリグラハ パリグラハ 「所 得 とは、物を所有することと感覚対象を楽しむことへの強欲だ。無所得は所 得 の正反対だ。こ れは贅沢な贈り物への無欲または受諾拒否だ。それは単なる贈り物の受諾拒否ではなく、対象物の所有 パリグラハ と感覚的楽しみへの渇望の不在でもある。それは、感覚的渇望が死滅する心の状態または態度だ。所 得 は、保持することの心配、失うことへの恐れ、失った悲しみ、憎しみ、怒り、不誠実、盗みなどへと導 アパリグラハ く。無所得はこれら全ての欠陥を終焉させ、平和と満足を与えるのだ。 探究者は、生活で必要不可欠のもの以外の何物も所有すべきではない。他者からの贈り物は受取人の 心に影響を与える。極端に利己的な人々は、様々な動機で贈り物を贈呈する。これらの動機は受取人に 影響を与える。受取人の心は、その贈り物を受け取ることによって汚れるのだ。 無欲の実践は素晴らしい恩恵を与える。その一撃で、恐れ、執着、失望、不安、興奮、動揺、憎しみ、 アパリグラハ 嫉妬、怒り、肉欲、貪欲、気苦労、心配、絶望、意気消沈を取り除く。それだから無所得を実践せよ、 そして精力的なヨーギとなれ。 『私は誰だったか?私はどうだったか?現在何なのか?私は何になるのか?私はどうなるのか?』。 無欲を確立した探究者には、このような、過去、現在、未来の自身の体験の知識がやって来る。彼は独 存し自由になる。彼の心は純粋になり、全てが極めて明瞭になる。彼は過去生の記憶もまた獲得するの だ。 」 スワミ・シヴァーナンダ アパリグラハ 「無所得は最も重要な美徳の一つだ。それは実用的で喜びを与える事物を蓄積する性質を放棄するこ とを意味する。探求者は生活するために必要最小限な物だけを保持するのだ。このことが心を自由に保 ち、また何も心配する必要はなくなる、なぜなら守らなければならないものが何もないからだ。 多くの探求者たちは火にさえ触れず、一枚の衣類のみを持つ。彼らは一箇所に留まらない。彼らの心 アパリグラハ はとても自由でくつろぎ、どこでどんな任務でも行う準備ができている。これが無所得だ。心の条件反 応(*事物を所有する性質)を十分に消去した後、探求者がもしある特別な仕事をしなければならないと きには、椅子や机などの便利な器具を所持することも可能だ。所有というサムスカーラ(*内的傾向性) はまず最初に完全に捨て去らなければならない、そのあとで探求者は新しい生活をスタートさせること ができるのだ。 」 スワミ・サッティヤーナンダ 「人が贈り物を受けないとき、彼は他者の世話にはならず、独立かつ自由の境遇に居続ける。彼の心 は清らかになる。あらゆる贈り物と共に、彼は贈り手の悪を受け取りがちである。もし受け取らなけれ ば、心は清まり、それが獲得する最初の力は過去生の記憶である。そのときに初めて、そのヨーギーは 彼の理想に完全に集中することができるようになるのだ。彼は自分が何回も来たり行ったりしてきたの を見る。それで、今度こそは自由になろう、もう、来たり行ったりして『自然』の奴隷にはなるまい、 と決意するのである。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ シャウチャート ス ヴ ァ ー ン ガ ジ ュ グ プ サ ー パ ラ イ ラ サ ム サ ル ガ ハ Ⅱ-40 ùaucát sváïgajugupsá parairasaósargaë シャウチ ャート ス ヴァー ンガジ ュグプサー ùaucát 清潔(の実践)を通じて sváïgajugupsá sváïga 自身の身体 jugupsá 無関心、嫌悪 パ ラ イ ラ サ ム サ ル ガ ハ parairasaósargaë parair 他人の asaósargaë 無執着、接触への嫌悪 シャウチャ 清潔(の実践)を通じ、自身の肉体への嫌悪と、他人の肉体との接触への嫌悪が生じる。 シャウチャ 「清 潔 の実践を行じているヨーギに、自身の肉体への嫌悪が生じるとき、彼は肉体の不完全性に気づ いと き、肉体への愛着がなくなる。さらに、他者との交流への厭わしさも増す。なぜなら、自身の肉体への 嫌悪が発展した者は、身を洗い清めてさえも十分には肉体を清潔にすることができないことを知り、他 人の不浄な肉体に接することが不可能となるのだ。 」 ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ 英訳 シャウチャ 「清 潔 は、内的と外的な清らかさだ。外的清潔は純粋な思考を生み出す。身体が不潔なとき、それを 清潔にしなさい。身体は再び汚れる。あなたは再びそれを清潔にする。あなたは身体をいつも清潔に保 とうと欲するが、身体は絶え間なく汚れてしまう。徐々にあなたは、汚れに満ちた身体に嫌気がさす。 同じ汚れと不純性は他人の身体にも同様なので、あなたは他人との接触を止める。あなたが常に清らか なアートマンをいつも考えていると、ゆっくりと身体の観念は脱落する。身体への執着は消滅するのだ。 肉欲は消えてしまう。 」 スワミ・シヴァーナンダ シャウチャ 「清浄の戒が守られると、自分自身の身体さえ不浄だと感じるようになる。それは絶え間なく分泌物 を出し、一瞬一瞬不浄なものを排出している。息が炭酸ガスを運び出す。皮膚からは汗が出る。よくよ か く考えてみるとわれわれの住み処は実に汚いようである。どんなに香水をふりかけても、それは汚れを 覆い隠しているだけのことだ。汗の嫌な臭いがするからデオドラント剤を吹きつける。肌が汚ないから し ろ い それを隠すためにお白粉をつける。だがいくら隠そうとしても、それらは再び現われる。それが本当に わかったとき、われわれはもう身体に興味を持たなくなる。だがそれは無視ではなく、もうそれに憧れ なくなるということだ。そして今まで身体のために使われていた時間が他の目的のために、つまりジャ パや瞑想や霊的な書物を読むために使われるようになる。」 スワミ・サッチダーナンダ 伊藤久子・訳「インテグラル・ヨーガ」 ニヤマ 「このスートラから勧戒についての論考が始まる。これらは瞑想と三昧の実践にとって、必然的な不 変の訓練だ。これら全ては方法であって、目的ではない。清潔または浄化と呼ばれる最初の規則が、こ のスートラで述べられている。身体的、肉体的清潔の実践により、ある期間を経て、自身の肉体への無 関心が発展すると述べられている。それと同時に、他人への無執着もまた発展するのだ。 」 スワミ・サッティヤーナンダ 「肉体の内外両面が真に浄らかになると、肉体を無視するようになり、それを感じの良い状態に保と う、という思いも消える。他の人々が最高に美しいという顔も、もしそれの背後に知性がないなら、そ けもの のヨーギーには単なる 獣 としか見えないだろう。世間がごく普通の顔と呼ぶ顔を、もしその背後に霊が こう ごう 輝いているなら、彼はそれを神々しいと見る。肉体へのこの渇望は、人生の大きな障害である。それゆ え、浄らかさの確立の第一の徴候は、あなたが自分を肉体であるなどとは思いもしない、ということだ。 われわれは浄らかになって初めて肉体観念を脱却するのである。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ サ ッ ト ヴ ァ シ ュ ッ デ ィ サ ウ マ ナ シ ャ ア イ カ ー グ リ ャ イ ン ド ゥ リ ヤ ジ ャ ヤ ア ー ト マ ダ ル シ ャ ナ Ⅱ-41 sattvaùuddhi saumanasya aikágrya indriyajaya átmadarùana ヨ ー ギ ャ ト ヴ ァ ー ニ チ ャ yogyatváni ca サ ッ ト ヴ ァ シ ュ ッ デ ィ sattvaùuddhi sattva 心の純粋性 ùuddhi 浄化、純化 サ ウ マ ナ シ ャ ア イ カ ー グ リ ャ saumanasya sau 快適で愉快な manasya 心の状態 aikágrya イ ン ド ゥ リ ヤ ジ ャ ヤ ア ー ト マ ダ ル シ ャ ナ indriyajaya 感覚の制御 átmadarùana 自己覚醒、悟り ヨ ー ギ ャ ト ヴ ァ ー ニ チャ yogyatváni 適合性 ca そして 一点集中 心の純化を通じ、快活さ、一点集中、感覚の制御、そして自己覚醒への適性が生じる。 「清潔を実践するヨーギは、ハートの浄化を達成し、それは心の至福または喜びが自然に感じられる 状態へと導く。心の至福から一点集中が発展し、それは感覚の制御へと導く。感覚器官の制御から、自 己を悟る能力、ブッディ(純粋な私-感覚)が発展する。これら全ては浄化の確立により実現される。 」 ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ 英訳 「まず身体について了解する、すると心も浄化される。心が純粋だといつも楽しい。(心の)集中は、 そうしようと思わなくともおのずから来る。あちこち走り回るので何度も引き戻してやらねばならない ア ー ト マ ダ ル シ ャ ナ ヨ ー ギ ャト ヴァ ー ニ のは、不純な心だけである。また、感覚もすべて制御され、átmadarùana yogyatváni すなわち自己 実現への適合性・アートマンのヴィジョンがもたらされる ── 。これがニヤマの一つ目の“清浄戒” を守ることによって得られる効益である。ただ、思いと言葉と行為において純粋であれ。なんて簡単な ことだろう! ところがわれわれは簡単なことはやりたくない。ちっとも自慢にならないからだ。小川 を跳び越えて何が自慢だ? エ ゴ われわれは大河を跳び越えるような難事がやってのけたい。自我はどんな ことでもおいそれとは受け入れない。だがただの一日でいい、この清浄戒を実行に移してみよう。そう すればその良さが本当によくわかる。試しにちょっとやってみよう、『今日は私は絶対に純粋で、絶対 の独身で、絶対の正直であろう』と心に決めて・・・。 」 スワミ・サッチダーナンダ 伊藤久子・訳「インテグラル・ヨーガ」 「浄らかさの実践によって、サットワ(*純質)の要素が優勢となり、心は集中し快活となる。あなた が宗教的になりつつあることの第一のしるしは、快活になっている、ということである。人が陰気であ る場合には、それは消化不良かもしれないが、宗教ではない。喜ばしい感情が、サットワの性質である。 サートウィカな(*サットワの)人にとってはあらゆるものが楽しく、そうなったらあなたは、ヨーガに おいて進歩しつつあると思ってよろしい。全ての苦痛はタマス(*闇質)から来る。それだからあなたは、 それを追い払わなければいけない。不機嫌は、タマスの結果の一つである。強い人々と、がっしりした 人々、若い人々、健康な人々と、大胆な人々だけが、ヨーギーとなるに適しているのだ。ヨーギーにと ってはあらゆるものが至福であり、彼が見る全ての人は、彼を快活にする。それが、有徳の人のしるし である。不幸は罪が原因でやって来るのであって、他のものからは来ない。あなたは暗い顔に何の用事 があるか。それは恐ろしい。もしあなたが暗い顔をしているなら、その日は外には出ず、自室に閉じこ もっていよ。こんな病を世間に持ち込む、何の権利があなたにあるのか。心が完全に支配されるように なったとき、あなたは全身を支配し得るようになる。あなたはこの機械(*身体と心)の奴隷なのではな く、機械があなたの奴隷なのである。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ サ ム ト ー シ ャ ー ト ア ヌ ッ タ マ ハ ス カ ラ ー バ ハ Ⅱ-42 saótoøát anuttamaë sukhalábhaë サムトーシャート ア ヌ ッ タ マ ハ saótoøát 満足、知足 anuttamaë 無上の、特別秀でた ス カ ラ ー バ ハ sukhalábhaë sukha 幸福、平安 lábhaë 獲得する サントーシャ 知 足 (の実践を)通じ、無上の幸福を獲得する。 「これに関連して、 『欲しい対象物を通じて得られるこの地上での幸福、または至高の天国の喜びは、 欲望を断つことによって得られる幸福の 16 分の 1 よりも少ない』と言われている。」 ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ 英訳 サットヴァ タ マ ス 「純質(清らかさ)の増大は快活さの原因だ。闇質(不活発)は陰鬱を生じさせる。いつも快活であるな サ イ ン らば、あなたのヨーガは進歩していることを憶えていなさい。これは霊的成長の重要な兆候だ。・・・ プ ル シ ャ 顔の輝きは満足を示している。喜びは実に純粋精神の精髄だ。満足(*サントーシャ)は、生の豊かさ、 幸福、平和をもたらす。満足している人はいつも平和で穏やかだ。・・・満足から至高の幸福はやって 来る。満足のない人は、心がいつもさ迷っているだろう。その人には、集中やその他のヨーガ実践は不 可能だろう。そういう理由で、満足は全ての探究者たちが発展させるべきなのだ。」 スワミ・シヴァーナンダ サントーシャ 「 満 足 は、ヨーガの高度な領域と悟りに非常に真剣な霊性の探究者にとって、堅固な規則の一つだ。 自分自身やその他の事柄に不満のある人にとって、高度な意識の実現は不可能だ。 アヴィディヤー 不満は 無 知 の大きな覆いの一つだ、それゆえ除去されねばならない。なぜならそれは多くの望まし やまい くない抑圧意識の原因であり、それが心理的な 病 をもたらすからだ。もし心が病んでいたなら、どん な霊的修行も不可能だ。 ヤ マ ニヤマ 瞑想を達成したいと望む探究者は、禁戒と勧戒の実践を行わなければならない。瞑想における気づき サントーシャ は、全ての心理的間違い、覆い、抑圧から自由にならなければならない。そういう理由で、探究者は 満 足 サントーシャ を実践しなければならないのだ。 満 足 からやって来るものには比類がない。その結果、探究者は非常 サントーシャ に深い瞑想状態に没入できるのだ。 満 足 が不在のとき、様々な心理的抑圧や感情が活動し、瞑想は不 可能となる。 」 スワミ・サッティヤーナンダ 「われわれが獲得した所有物から得る幸福は、単に一時的なものだ。われわれはこの種の幸福を保持 するために、新しい対象物を見つけ、それらを獲得しようと欲する。しかしそこに終わりはない。真の 満足とは、全面的な幸福と至福へと導くものであり、満足自体によるものだ。」 T.K.V. デシカチャー 「幸福は、自己の本性そのものである。幸福と自己は別のものではない。世界のいかなる対象物の中 にも幸福はない。私たちは無知のゆえに、対象物から幸福を得るものと思っている。心が外に出てゆく とき、悲惨を味わう。心の願いが満たされるときには、実は、心は自身の本来の場所に戻っており、自 己である幸福を楽しむのである。 」 ラマナ・マハリシ カ ー イ ェ ー ン ド リ ヤ シ ッ デ ィ ヒ ア シ ュ ッ デ ィ ク シ ャ ヤ ー ト タ パ サ ハ Ⅱ-43 káyendriyasiddhië aùuddhikøayát tapasaë カ ー イ ェ ー ン ド リ ヤ シ ッ デ ィ ヒ káyendriyasiddhië káya 肉体 indriya 感覚器官 siddhië 超自然能力、完全性 ア シ ュ ッ デ ィ ク シ ャ ヤ ー ト aùuddhikøayát aùuddhi 不純性 køayát 撲滅、消滅 タ パ サ ハ tapasaë 浄化の行為、苦行 タ パ ス 浄化の行為(の実践)を通じ、不純性が消滅し、肉体と感覚器官に超自然能力が生じる。 タ パ ス 「苦行が実践されるとき、不純物の覆いが除去される。それにより、アニマー(身体が微細になる)な どの肉体の超自然能力(シッディ)や、透聴力、透視力など感覚器官の超自然能力が発展する。」 ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ 英訳 タ パ ス 「プラーナーヤーマその他の方法の苦行は、主に肉体の制限に支配される不純性を除去する。そのよ うな支配の除去は、不純性の覆いの除去へと導く。そのあと心は、肉体の制限に影響されず、妨害のな い意志力の成長によって、肉体と感覚器官の超自然能力(シッディ)が生じる。しかしヨーギは、ヨーガ タ パ ス の苦行を超自然能力の達成には使用せず、それらを霊性の実現に適応させるのだ。」 スワミ・ハリハラーナンダ 「タパス ── 心と身体の苦行 ── とは、暑さと寒さ、肉体的不快と疲労に耐えることを意味し、 同様に侮辱、侵害、虐待、あらゆる屈辱に耐えることを意味する。 タ パ ス クリヤー 苦行は霊的な訓練だ。それは実践ヨーガの三つの方法の一つだ。それはまた感覚器官の制御と瞑想で もある。探究者は火のように輝く。彼の目は輝き、声は美しくて力強く、身体は明るく美しい。全ての タ パ ス 人々は彼に魅了され、まるで磁石のようだ。これら全ては苦行の実践によるものだ。 タ パ ス 苦行には、身体、心、言葉の三種類がある。 伝統的に、苦いニームの葉を食べること、水の中に立つこと、熱い太陽の日差しの中で坐ること、暑 タ パ ス さと寒さに耐えること、両手を上げて片足で立つことなどが苦行と見なされている。 ・・・太陽の凝視、 は だ し タ パ ス 裸足での歩行、雪の地方での裸の生活、断食、沈黙の誓い、純潔などが身体的苦行の異なる形態だ。 じゅんしゅ 真実を語ること、沈黙の誓いの遵守、不親切な言葉や攻撃する言葉で他人を傷つけないこと、有益な タ パ ス 言葉を語ること、聖典の学習、これら全ては言葉の苦行だ。 生活のあらゆる状況で心のバランスを保つこと、侮辱、侵害、虐待に耐えること、穏やかで満足し平 和であること、逆境の中で快活であること、危険の中での不屈の精神、平静と寛容を保つこと、これら タ パ ス 全ては心の苦行の形態だ。 サイキックパ ワー タ パ ス 心霊的能力が、苦行の堅固な実践によって獲得される。」 スワミ・シヴァーナンダ 「瞑想は完全な肉体と感覚器官を必要とする。全ての感覚器官は健全で完全で無ければならない。関 節に痛みがあるかもしれず、肉体内に毒素があるかもしれない。不健康な状態で瞑想を実践する人々は、 苦しむことだろう。 もしあなたが毎日長時間瞑想したいならば、肉体が完全でなければならない。数時間ずっと坐ること は大変なことだ。そこでパタンジャリはこのスートラで、肉体と感覚器官は瞑想のために完璧でなけれ ばならないと勧告している。肉体は垂直に保たれ、感覚器官に不快感があるべきではない。呼吸、循環、 タ パ ス 消化、分泌の全ての機能は完全でなければならない。そのためには苦行の実践が必須なのだ。 」 スワミ・サッティヤーナンタ゛ スヴァーディヤーヤート イ シ ュ タ デ ー ヴ ァ タ ー サ ム プ ラ ヨ ー ガ ハ Ⅱ-44 svádhyáyát iøôadevatásaóprayogaë スヴァーディヤーヤート svádhyáyát 自己の学習、聖典の学習、マントラの復唱、その他を通じ イ シ ュ タ デ ー ヴ ァ タ ー サ ム プ ラ ヨ ー ガ ハ iøôadevatásaóprayogaë iøôadevatá 個人の理想神 saóprayogaë 融合、交流が生じる ス ヴァーディ ヤーヤ イ シ ュ タ 自己の学習(の実践)を通じ、個人の理想神との交流が生じる。 ス ヴ ァ ー デ ィ ヤ ー ヤ 「天界の神々、賢者たち、成就者たちが、マントラの復唱を実践するヨーギに現れ、彼らによってヨ ーギの願望は満たされる。 」 ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ 英訳 「一般的に、マントラ(神の象徴音)の想念を繰り返す(ジャパ)間、その意味に心が定着しない。ジャ さ ま よ パを実践する人は、言葉(*マントラ)を無目的に繰返し、心はどこかを彷徨 っていることだろう。 ス ヴ ァ ー デ ィ ヤ ー ヤ マントラの復唱が確立されるとき、マントラの背後の教義と思想が心の前に継続的に現れる。そのよう な熱意と信仰で祈願された神々は、その信者の前に必ず現れる。ときどきは熱心に、ときどきは世間の 物事に心を奪われ、機械的に行われる神への祈願は、願わしい結果を生み出さない。 」 スワミ・ハリハラーナンダ スヴァーディヤーヤ 「聖典の学習とは、バガヴァッド・ギーター、ウパニシャッド、ラーマーヤーナ、バーガヴァタムな スヴァーディヤーヤ どの、覚醒した賢人たちによって記された聖典の日々の学習だ。聖典の学習は心を上昇させ鼓舞する。 スヴァーディヤーヤ 聖典の学習は、あなたの目的地の理念と、その実現に必要な実践法を教えてくれる。その学習は集中し て行われるべきだ。あなたは自分が学んだ教えを理解し、日々の生活で実践するべきだ。あなたの学習 から永続的効果を引き出したいなら、学んだ教えの実践的な適応、教えを自分の性格と生活態度に適応 させることが必要不可欠だ。もしあなたが、聖典の教えに従って生活する努力をしなければ、その学習 は無益だろう。この学習には、ジャパつまりマントラの復唱も含まれている。それはまた、『私はだれ か?』 、アートマンの性質の探究でもあるのだ。継続的な学習と日々の実践は、神との交流へと導くだ ろう。 」 スワミ・シヴァーナンダ ニヤマ スヴァーディヤーヤ 「聖典の学習とは、原理的には魂の救済法を扱った聖典の、自己を律する学習だ。この勧戒は、学習 マ ス ター した生徒と、それらの聖典を記した導師たちとの心霊的接触の継続を促進させる。例えば、人がバガヴ ァッドギーターを読むと、その人は単に高度な知識を得るだけではなく、バガヴァーン・シュリー・ク リシュナ(*ギーターの神)とマハリシ・ヴィヤーサ(*ギーターの作者)との内的接触もまた確立されるの スヴァーディヤーヤ だ。聖典の学習は、ヨーガの聖典の学習の不屈の継続だ。この学習は、賢者との直接的接触が不可能な ネガティヴ サ ッ ト サ ン ガ スヴァーディヤーヤ ときの、消極的な神聖な集いだ。聖典の学習は瞑想を助ける、なぜなら生徒はその場に聖典の思想や聖 スヴァーディヤーヤ 典の著者の存在を思うからだ。マントラのジャパ(*聖音の復唱)もまた聖典の学習に含まれる。ジャパ スヴァーディヤーヤ と聖典の学習は、両方とも神聖な連結と神との交流の手段だ。しかし聖典の学習は、高度な生を主題と して選択された一式の本の反復した学習を意味し、図書館での気ままな読書ではないのだ。」 スワミ・クリシュナーナンダ スヴァーディヤーヤ イシュタ・デーヴァター スヴァーディヤーヤ 「自己の学習の頂点では、 理 想 神 との交流が実現する、なぜならその交流が自己の学習の究極の イシュタ・デーヴァター 目的だからだ。 ・・・この交流の性質は、探究者の性格と能力、 理 想 神 の性質により異なることだろ う。そのような交流の本質とは、高度な意識から低い意識への、知識、力、指導の自由な流入だ。 」 I.K.タイムニ サ マ ー デ ィ シ ッ デ ィ ヒ イ ー シ ュ ヴ ァ ラ プ ラ ニ ダ ー ナ ー ト Ⅱ-45 samádhisiddhië æùvarapraîidhánát サ マ ー デ ィ シ ッ デ ィ ヒ samádhisiddhië イーシュヴァラプラニダーナート samádhi 三昧 siddhië 実現、成就 至高神への帰依によって æùvarapraîidhánát サマーディ イーシュヴァラ・プラニダーナ 至高神への帰依により、三昧が実現する。 サマーディ サマーディ 「全ての思いを神に帰依するヨーギは、三 昧 を成就する。三 昧 の成就により、そのヨーギは他の生 涯(*過去世、来世)、他の場所(*国)、他の時代に生じた全て、あるいは現在起こっていることも、知ろ うと欲する全てを知る。それにより彼の覚醒は、物事の事実そのままを啓示する。」 ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ 英訳 サマーディ ヤ マ ニヤマ サマーディ 「絶え間ない神への帰依は、容易に三 昧 の成就へと導く。他の禁戒と勧戒は間接的に三 昧 の成就を サマーディ サマーディ 助けるが、神への帰依は直接に三 昧 の成就へと導く。なぜならそれは三 昧 への好ましい集中形態だか ダーラナー ディヤーナ らだ。その集中は深くなり、肉体を不動にし、感覚器官をその対象物から制御し、ついには凝 念 、禅 定 、 サマーディ そして最終的に三 昧 となる。全ての思いを神に帰依することは、心理的にその人自身を神に没入させる ことを意味するのだ。 」 スワミ・ハリハラーナンダ イーシュヴァラ 「パタンジャリの神(至高神)は、バクタ(*信仰者)たちの人格神でも、ヴェーダンティン(*識別者)た ちの非人格神でもない。パタンジャリの神は、全ての苦悩、行為、行為の結果、過去の潜在印象から完 プ ル シ ャ 全に自由な、特別な純粋精神だ。 知識、無執着、霊的な富、苦行、真実、寛大、忍耐、創造力、自己の知識、全ての物事と全ての活動 の基盤 ── これらがいつも神に存在している、10 種の不変の性質だ。 サマーディ イーシュヴァラ イーシュヴァラ 至高神への帰依により、三 昧 の達成は迅速だ。信仰者は、至高神への完全な、誠心誠意の、無条件の イーシュヴァラ 帰依を行うべきだ。信仰者は、至高神に全てを依存するべきだ。・・・信仰者は、自分の奉仕にどんな 見返りも ── 賞賛、謝意や感謝さえも期待すべきではない。信仰者は、自身と自身の行為全てを、至 イーシュヴァラ・プラニダーナ 高の存在の意志に完全に帰依するべきだ。これが至高神への帰依だ。それは真の信仰と自己の帰依だ。 サマーディ しゅ 自己の帰依は、三 昧 または超越意識状態へと導く。それは主との交流へと導くのだ。個人は宇宙意志 と一つになるだろう。 エ ゴ 清らかなハートと汚れのない心で神を礼拝せよ、あなたの自我を神の御足に捧げよ、そして行為者の サマーディ しゅ 観念と主との分離の観念を絶滅させよ。あなたは自己の一体性に目覚めるだろう。三 昧 は自然にやって 来るだろう。 」 スワミ・シヴァーナンダ しゅ 「バクティ・ヨーガは、真の、純粋な、主(*神)の探求です。愛に始まり、愛で続き、愛に終わる探 求です。たった一瞬間の神への愛の狂気は、われわれに永遠の自由をもたらします。・・・バクティの 一つの大きな利点は、それは目指す偉大な神的目標に到達するための、最もたやすく最も自然な道だ、 ということです。それの大きな弱点は、程度の低いものはしばしば、恐ろしい狂信に堕落する、という ことです。 ・・・しかしこの危険は、バクティの準備段階(ガウニ)と称する段階だけに見られるもので す。バクティが成熟して、至高の(パラー)と呼ばれる境地に入ったら、そこにはもう、狂信主義のこの ような忌まわしい現れの恐れはありません。このより高い形式のバクティに圧倒された魂は、憎しみを 発散する道具となるにはあまりに、愛なる神に近いのです。 」 スワミ・ヴイヴェーカーナンダ ス テ ィ ラ ス カ ム ア ー サ ナ ム Ⅱ-46 sthirasukhamásanam ス テ ィ ラ ス カ ム ア ー サ ナ ム sthirasukhamásanam sthira 堅固な、不動の、安定した、持続する、注意深い、油断のない sukham 快適な、くつろいだ、平和な、健全な ásanam (瞑想)坐法、体位 アーサナ 坐法は、堅固で気づきに満ち、快適なものでなければならない。 ヤ マ ニヤマ 「禁戒と勧戒の実践によって、人間の外側と内側の性質が純化され、より高度な体験を受容できる準 備が整います。その後、修行者は自身の肉体の性質の精髄へと進みます。これが第三番目の段階です。 この段階は、人間の構成組織への深い理解を要求します。あなたは、肉体が五つの要素から構成されて いることを知っています。それは不可視で迅速に動く電子で構成されています。陽子と電子はあなたの サットヴァ ラジャス タ マ ス 物質体の最も奥の部分です。あなたはまた、全宇宙の全てがどのようにして、純質、激質、闇質という 三つの性質で生成されるかを知っています。それらは何でしょうか? それらは三つの異なる振動の速 タ マ ス ラジャス サットヴァ 度であり、最も粗大な振動速度は闇質へと向かい、精妙なものは激質へと向かい、最も精妙なものは純質 へと向かいます。 サットヴァ ラージャ・ヨーガの三番目の段階、アーサナの目的は、人体の全ての部分に完全な純質をもたらすこ サットヴァ とです。全身が調和の性質である純質によって満たされるべきです。賢者パタンジャリは、その目的の ためにアーサナを規定しました。それは、私たちがハタ・ヨーガで行うアーサナではありません。ラー サットヴァ ジャ・ヨーガの三番目の段階であるからには、身体内に完全な調和の状態、完全な純質の振動をもたら さねばなりません。アーサナは肉体をわずかな動きもない完全な静寂、石のように静止し、どんな妨害 もない絶対的な静止をもたらす訓練です。肉体内のどんな妨害、どんな揺らぎ、どんな動きも、心にそ の自然な反応を生じさせます。肉体と心は異なる完璧な区分ではありません。それらは相互依存してい ます。もしあなたが肉体に激しい動きを生み出せば、それらはプラーナに反応し、そして心に反応しま す。そしてもしあなたが肉体に絶対的な静寂をもたらせば、プラーナは不動となり、心もまた不動とな るでしょう。それがアーサナの目的です。 そのような理由で、パタンジャリによるアーサナとは、長時間絶対的な静寂と静止 ── 不動の体位 を維持できるための自己訓練を意味しています。あなたが絶対的に不動となるとき、呼吸もまた制御さ れてゆっくりになります。その呼吸は統制されます。あなたはただ快適でありさえすれば、体位を堅固 に維持できるのです。もしその体位が不快であれば、人はそれを変えたくなるでしょう。そこであなた は快適な体位を欲し、それによりその体位に長時間留まることができるようになるでしょう。 」 スワミ・チダーナンダ 「今度は、アーサナ、姿勢が来る。確固とした座を得ることができるまで、あなたは呼吸法およびそ の他の修行を実践することはできない。座の安定とは、あなたが全く肉体を感じない、ということであ る。普通の坐り方であれば、あなたが数分間坐るや否や、あらゆる種類の動揺が肉体に起こるだろう。 しかしあなたが具体的な肉体の観念を超越すれば、全ての肉体感覚を失うだろう。快感も苦痛も感じな いだろう。そして再び肉体を意識化するとき、肉体は十分に休息したことを感じるだろう。それが、あ なたが肉体に与えることのできる、唯一の完全な休息である。あなたが肉体を征服してそれを確固とし た状態に保つことに成功したとき、あなたの修行は確固としたものであり続けるだろう。しかしあなた が肉体によってかき乱される間は、あなたの神経はかき乱され、あなたは心を集中することはできない のだ。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ プ ラ ヤ ト ナ シ ャ イ テ ィ リ ャ ア ナ ン タ サ マ ー パ ッ テ ィ ビ ャ ー ム Ⅱ-47 prayatnaùaithilya anantasamápattibhyám プ ラ ヤ ト ナ シ ャ イ テ ィ リ ャ prayatnaùaithilya prayatna 努力、緊張、強要 ùaithilya くつろぎ、ゆるみ、解放 ア ナ ン タ サ マ ー パ ッ テ ィ ビ ャ ー ム anantasamápattibhyám ananta 無限、永遠、蛇王 samápattibhyám 融合、瞑想によって アナンタ アーサナ 努力から解放され、無限(蛇王)を瞑想することにより(坐法は達成される)。 サマーディ 「身体のくつろぎによりアーサナは完成する。このことが手足の震え(三 昧 の妨害)を停止させる。あ るいは、心を無限へと集中すれば、アーサナの完成をもたらす。 」 ヴィヤーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ 英訳 「修行者が選択した瞑想のためのアーサナ内部を、完全に堅固で快適にするためには、修行者は緊張 と努力を克服しなければならない。そこには努力からの解放がなければならない。だからアーサナ内部 は完全にくつろいでいるべきだ。二番目に、心はアナンタに集中しなければならない。 アナンタという言葉は、無限を意味する。それはまた、その上でヴィシュヌ神がミルクの海の中で休 息する蛇をも意味する。だから、象徴的にはアナンタは蛇を意味するが、このスートラにおいての蛇と はクンダリニー・シャクティを指している。生徒はムーラダーラ・チャクラの蛇の力に集中すべきだ。 あるいは他のどんなクンダリニー・シャクティへの集中法でも行うべきだ。 努力を解放またはゆるめるという言葉は、あなたは奮闘やどんな強要もすべきではないという意味だ。 アーサナは、完全にくつろぎ、どんな筋肉や神経の緊張もなしに行うべきで、それにより、どんなアー と サナを執るにせよ、努力無しに実践できるだろう。 」 スワミ・サッティヤーナンダ 「感覚がいろいろなものを味わうことを求めるために、われわれは身体組織に毒をため込んでしまう。 そうではなく、そういうものは抑制しなければならない。その上でわれわれは、無限のものに瞑想して、 不動性を達成するのである。そしてそれは何であってもいい。偉大なもの、巨大なもの、よく安定し、 十分に確立されているものなら何であっても。小さなものは常に揺れ動く。だから地球のことを想うの もよいし、大きな山の不動性を想うのもよい。ヒンドゥー教の伝統の中では、信者は『アディセーシャ (*アナンタ)』 ── 世界をその頭上に支え持つと言われる、千の頭を持つ蛇 ── を念想する。それ コブラ を言葉どおりに思い描けばあり得ないようなものになってしまうが、この 蛇 は、重力や、 『プラーナ・ シャクティ』つまり生命力を象徴しているのである。」 スワミ・サッチダーナンダ 「インテグラル・ヨーガ」伊藤久子訳 「インド神話に、蛇の王アナンタによって象徴される、解 説のための隠喩があります。アナンタの概念は、コブラが頭 で宇宙を支え、それと同時に、ヴィシュヌ神のために寝台を 提供する、というものです。コブラは、神に快適な寝台を提 供するために、くつろいでいなければなりません。それがス カ(*快適)の概念です。なおコブラは、宇宙を支えるために、 不活発で弱くてはいけません。それがスティラ(*堅固で注意 深い)の概念です。これら二つの性質が、完全なポーズとそ れをどう感じるべきか、についての観念を私たちに与えます。」 T.K.V.デシカチャー タ ト ー ド ヴ ァ ン ド ヴ ァ ー ナ ビ ガ ー タ ハ Ⅱ-48 tato dvaïdvánabhighátaë タ ト ー tato それにより、そのとき ド ヴ ァ ン ド ヴ ァ ー ナ ビ ガ ー タ ハ つい dvaïdvánabhighátaë dvaïdva 二元対立、対の状況(寒暑、苦楽など) anabhighátaë 妨害されない、悩まされない そのとき(修行者は寒暑、苦楽などの)二元性の状況に悩まされない。 「他の注目すべき点は、あなたがアーサナの実践を行えば行うほど、より完全なる不動の体位に熟達 するということです。肉体への感覚刺激は減少し始めます。あなたの肉体との関係性がだんだん精妙に なるのです。普通、肉体意識は非常に粗大であり、全ての感覚刺激は脳に運ばれ、それは鋭敏な神経の 体験として感じられます。その神経の体験が変化し、感覚刺激の感触が徐々に減少して、感覚の神経体 験が最小となるのです。そういう理由で、アーサナの完全な制御によって、あなたはゆっくりと肉体意 識を超越し始めるのです。それはあなたが霊的意識に到達したことを意味しているのではありませんが、 つい しかし肉体意識のある種の超越があるのです。その後何が起こるでしょうか?熱さと寒さなどの対の感 覚があなたに影響しなくなります。あなたは真冬のガンジス川のむき出しの川岸に行き、坐ることが出 ア ー サ ナ ジ ャ ヤ 来ます。あなたは寒さを感じないことでしょう。それがアーサナジャヤ(*Ásanajaya アーサナの達成) の特有の力です。ガンジス川の水の中に留まり、あなたが瞑想し体位を完全に不動にしてさえ、あなた には感覚刺激が起こらないでしょう。もしあなたがより高度な段階に前進したいならば、一つの体位内 つい でのこの種の不動性が必要となります。なぜなら、対の感覚の体験が肉体に生じる限り、心は肉体に引 ラ ク シ ャ き降ろされて、内的な Lakshya(集中点)に固定することができないのです。あなたが進歩しより高度な つい アーサナの不動性を獲得するとき、あなたは対の感覚体験を超越し始めることでしょう。アーサナジャ ヤは無限を瞑想することにより実現します。純粋な意志力のみによっては、肉体を不動にすることはで きないのです。 」 ア ー サ ナ ジ ャ ヤ *Ásanajaya ドヴァンドヴァス スワミ・チダーナンダ ア ー サ ナ ジ ャ ヤ 三時間一つの体位で継続して坐ることができるとき、Ásanajaya と呼ばれる。 つい 「dvaïdvas(対の正反対)は心と同様に肉体にも属している。肉体レベルに属するものは、暑さと寒 サイキック ド ヴ ァ ン ド ヴ ァ ス さ、空腹と飢渇、苦痛その他だ。心霊的または心理的な対の正反対とは、幸福と不幸だ。常に私たちの 心は状況によってそれらに支配される。それが妨害の原因となるのだ。暑い日は私たちは汗をかき落ち 着かず、冬が来るととても寒い。このように、私たちは夏は冷たさを求め、冬は暖かさを好むのだ。こ れがいかに対の正反対が心を乱すかということだ。探究者は心と同様肉体も、これらへの抵抗力を発展 ヤ マ ニヤマ アーサナ ド ヴ ァ ン ド ヴ ァ ス させねばならないが、それは禁戒、勧戒、坐法を通じてのみ可能なのだ。これらの対の正反対は、もし ド ヴ ァ ン ド ヴ ァ ス 私たちが瞑想の進歩を願うならば、克服されねばならない、だから私たちの抵抗力は、対の正反対の原 因による妨害や障害を克服するために増大させねばならないのだ。 ド ヴ ァ ン ド ヴ ァ ス 暑さと寒さ、喜びと悲しみなどの対の正反対の全ては克服されねばならない。それは心と肉体の平穏 を維持するだろう。心の状態は次々と変化させるべきではない。身体は暑さと寒さによって乱されるべ きではない。だから、そこには肉体的、心理的な抵抗力があるべきなのだ。抵抗力は微生物を中和させ る大きな役割を演じる。家族に風邪やインフルエンザなどの伝染病が生じるとき、この病気への抵抗力 の低い家族の一員は、患者から離れるように忠告される。私たちの心は、病気の事を考えると弱くなる。 人格内には抵抗力を弱くする多くの弱さが存在している、しかし霊性の探究者は高度なレベルの抵抗力 アーサナ を持たねばならない、その抵抗力は坐法の実践によってもたらされるのだ。」 スワミ・サッティヤーナンダ タ ス ミ ン サ テ ィ シャヴァーサプラシュヴァーサヨーホ ガ テ ィ ヴ ィ ッ チ ェ ー ダ ハ プ ラ ー ナ ー ヤ ー マ ハ Ⅱ-49 tasminsati ùvásapraùvásayoë gativicchedaë pránáyámaë タ ス ミ ン サ テ ィ アーサナ tasminsati tasmin それ(坐法)が sati 実現されたとき、習得されたあと シャヴァーサプラシュヴァーサヨーホ ùvásapraùvásayoë ùvása 入息、吸息 praùvásayoë 出息、呼息 ガ テ ィ ヴ ィ ッ チ ェ ー ダ ハ gativicchedaë gati 動き、流れ vicchedaë 停止、中断、制御 プ ラ ー ナ ー ヤ ー マ ハ pránáyámaë 呼吸の制御、調息 アーサナ プラーナーヤーマ それ(坐法)が習得されたあと、吸息と呼息の流れを停止することが 調 息 である。 「プラーナーヤーマ(*プラーナの制御)はパタンジャリ・マハリシによって解説された、ラージャ・ さや ヨーガの第四番目の部門です。最も科学的な方法で、パタンジャリは人間の最も外側の鞘(*領域)から 始め、徐々により精妙な鞘へと進展させるのです。呼吸と心は密接に相互依存し、相互浸透しています。 呼吸の制御とは、息の外に向かう流れと内に向かう流れを停止させることを意味しています。呼吸は肉 体内の精妙な活力の粗大な現れです。ちょうど時計のぜんまいの鍵を掴むことによって、あなたが微細 な時計の歯車を動かさず、最終的に最も精微なヒゲぜんまいを停止させるように、心を動かす力の制御 によって、心はその動きを停止するのです。心を動かすものはプラーナです。もしプラーナを停止させ マ ノ ー ナ ー シ ャ るならば、心は動くことができず、静止状態(Manonáùa)がやってきます。 ですから、プラーナの動きを停止させることがプラーナーヤーマです。ハタ・ヨーガの聖典に教示さ れているプラーナーヤーマは、九や十種類ではありません。ここでは、ハタ・ヨーガのそれら様々なプ ク ム バ カ ラーナーヤーマを意味してはおりません。それは Kumbhaka(*呼吸の停止)に関してのみです。外的な クムバカがあります。息を吐ききった後、吸息せずに留まります。それが外的なクムバカです。同様に、 吸息した後呼吸を留めれば、それは内的なクムバカです。ときどき自然に内的か外的に呼吸が停止しま ケーヴァラ ク ム バ カ す。それは Kevala(*純粋な、自然な) Kumbhaka です。プラーナーヤーマによって、人間の全ての内 ラジョグナ サットヴァグナ タモグナ 部器官は純化されます。わたしたちは人体内に激 質 、純 質 、闇質が存在していることを知っています。 サットヴァグナ 私たちの目的は、 純 質 を最大限に人体内に充満させることです。しかしそこには不純物の覆いがあっ サットヴァ サットヴァ て、純質を十分に満たすことができません。プラーナーヤーマはその不純物の覆いを除去し、純質を充 満させるのです。それがプラーナーヤーマの主目的なのです。人は徐々に心を停止させねばなりません。 サットヴァ なぜなら、心とプラーナは密接に連結しており、その結果心の純化とその純化を通じて、純質の充満を サットヴァ ヤ マ 妨害している覆いを除去するのです。純質が生じるとき、あらゆる善い考えがやってきて、人は禁戒と ニヤマ 勧戒が確立します。全てが素晴らしいものになります。心は不動になります。そういう理由で心の集中 実践への適性が実現するのです。プラーナーヤーマの目的は、修行者に心の集中実践の適性を実現させ ることなのです。 」 スワミ・チダーナンダ 「姿勢が克服されたら、次にプラーナの運動が止められ制御されるべきである。このようにして、わ れわれはプラーナーヤーマ、すなわち肉体の活力の制御を始めるのだ。プラーナは通常呼吸と翻訳され ているけれど、そうではない。それは、宇宙エネルギーの総計である。それは、おのおのの身体の中に あるエネルギーであり、それの最も明らかな現れは、肺の活動である。この動きは、息を吸い込むプラ ーナによって起こる。そしてそれが、われわれがプラーナーヤーマにおいて制御しようと求めているも のである。われわれは、プラーナの制御をする最もたやすい方法として、呼吸の制御から始めるのであ る。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ バ ー ヒ ャ ア ー バ ャ ン タ ラ ス タ ム バ ャ ヴ リ ッ テ ィ ヒ デ ー シ ャ カ ー ラ サ ム キ ャ ー ビ ヒ Ⅱ-50 báhya ábhyantara stambhavìttië deùa kála saókhyábhië パ リ ド リ シ ュ ト ー デ ィ ー ル ガ ス ー ク シ ュ マ ハ paridìøôo dærghasékømaë バ ー ヒ ャ ア ー バ ャ ン タ ラ báhya 外的な、呼息 ábhyantara 内的な、吸息 ス タ ム バ ャ ヴ リ ッ テ ィ ヒ デーシャ stambhavìttië stambha 制御、停止 vìttië 動き deùa 場所 サ ム キ ャ ー ビ ヒ パ リドリシ ュト ー saókhyábhië 数によって paridìøôo 測定、調整 デ ィ ー ル ガ ス ー ク シ ュ マ ハ dærghasékømaë dærgha 延長された sékømaë 精妙な、微細な カ ー ラ kála 時間、長さ プラーナーヤーマ 調 息 は、呼息と吸息と止息の流れにより成り、場所と時間と数によって調整され、(呼 吸は)長く精妙になる。 「プラーナーヤーマの最初の三つの構成要素は、制御された呼息、吸息、止息である。それら全ては、 サ ー ダ カ 修行者の能力により実践され、延長され、洗練される。その構成要素は、ここでは胴体を意味する場所 (デーシャ)と、呼吸の長さを表すカーラ(時間)と、精密さを表すサムキャー(数)に関して観察されるべ きである。 プラーナーヤーマには二つのタイプの止息がある。それらは吸息または呼息の後に来る呼吸の停止で ある。呼吸の流れとそれらの間の停止は、肺(デーシャ)の能力、呼吸の制御(カーラ)による長さの測定、 サ ー ダ カ 修行者の洗練性と精密性(サムキャー)の度合いによって、制御され延長される。その習熟は、リズミカ ルな制御(パリドリシュタ)を伴う調和に満ちた実践によって実現される。 呼息(バーヒャ・ヴリッティ)、吸息(アンタラ・ヴリッティ)、止息(スタムバ・ヴリッティ)の呼吸の 制御への集中は、呼吸自体への気づきであるサビージャ(種の有る)プラーナーヤーマと呼ばれる。 ブッディ アハムカーラ マ ナ ス 吸息は、存在の中心 ── 見る者 ── から意識(*知性、自 我 、思考器官)に向かって動く。マハッ トつまり宇宙知性が自然(*プラクリティ)の活動の第一番目の原理であるように、宇宙知性の個人的側 チッタ 面である 心 は、魂の活動を引き起こす。吸息は、身体の五つの鞘であるアーナンダマヤ(至福)、ヴィギ ャーナマヤ(知性)、マノーマヤ(心)、プラーナマヤ(活力)、アンナマヤ(食物)、あるいは五大要素で あるアーカーシャ(虚空)、ヴァーユ(空気)、テージ(火)、アープ(水)、プリティヴィ(土)と接触する。 呼息は、それら全てと逆の順序で接触する。 吸息のプロセスは魂の進化、つまりプルシャ(純粋精神)が上昇する秩序である。自己(*プルシャ)が 肉体と接触するとき吸息は完成する。ここでは、プルシャがプラクリティ(根本原質)を抱擁する。呼息 は外的肉体から見る者(*プルシャ)に向かって、層から層へと(*5 つの鞘を)動いて行く。これは退化、 つまりプラクリティがその主人であるプルシャに出会うための下降の秩序である。吸息がプルシャの プラクリティとの神聖な結合であるならば、呼息はプラクリティのプルシャとの神聖な結合である。吸 息後の呼吸の停止はアンタラ・クムバカ(*内的止息)であり、呼息後の呼吸の停止はバーヒャ・クムバ カ(*外的止息)である。アンタラ・クムバカが見る者の神性の確立(スヴァルーパ・プラティシュタ)で アルタ カ ー マ ダ ル マ モークシャ あれば、バーヒャ・クムバカは人間の人生の四つの目的(* 富 、性愛、義務、解脱 )からの解放(プルシ ャールタ・シューニャ)だ。 」 B.K.S.アイアンガー 「三種類のプラーナーヤーマの動きとは、息を吸い込む動き、もう一つは息を吐き出す動き、そして 第三番目は息が肺の中に保持されるか、肺に入るのを止められるときの動作だ。これらはまた、場所と 時間が様々である。場所というのは、プラーナが肉体のある特定の場所に保持されること、時間という のはプラーナをある場所にどのくらいの長さ留めるべきかを意味しており、我々は一つの動きは何秒間、 もう一つの動きは何秒間持続するべきかを教えられるのだ。このプラーナーヤーマの結果は、ウドガー タ、つまりクンダリニーの目覚めである。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ バ ー ヒ ャ ア ー ビ ャ ン タ ラ ヴィシャーヤークシェーピー チ ャ ト ゥ ル タ ハ Ⅱ-51 báhya ábhantara viøáyákøepæ caturtaë バ ー ヒ ャ ア ー ビ ャ ン タ ラ báhya 外的な、外に向かう ábhantara 内的な、内に向かう、内部の ヴィシャーヤークシェーピー viøáyákøepæ viøáya 関する対象、領域、対象 ákøepæ 超えた、超越した、克服した チ ャトゥル タハ caturtaë 第四番目 プラーナーヤーマ 第四番目の 調 息 は、外的な対象と内的な対象を超越するものである。 「(*息が)外に向かう動き(*呼息)が、場所と時間と数により制御され、熟達されたとき、実践を通じ て習得された能力により呼息は超越される。内に向かう動き(*吸息)もまた、同様に制御され、実践を 通じて超越される。実践を通じた熟達の後、これらの動き(*呼息と吸息)は長く精妙になる。上記の実 プラーナーヤーマ 践を通じた熟達の後の、呼息と吸息の漸進的停止、それが第四番目の 調 息 である。」 ヴャーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳 プラーナーヤーマ 「第四番目の種類の 調 息 は、呼吸の動きや停止の制御や調節を超えたもので、前節の方法論を超越 している。それはケーヴァラ・クムバカと同じ状態で、ハタヨーガ聖典やヨーガ・ウパニシャッドの 中に言及されている。 プラーナーヤーマ サ ー ダ カ 修行者の意志や努力なしに呼吸の動きが機能するとき、 調 息 の第四番目の段階は達せられる。そ のとき心と意識の動きは停止する。生命エネルギー、知性、意識の動きは、潜在意識以外は停止する。 これはちょうど 1 章 18 節で説明したヴィラーマ・プラティヤヤ(*潜在印象のみが残存する心の消滅) のようだ。そこでは、呼吸と心の両方が停止する状態が体験される。ここから第四番目の境地が生じ、 サ ー ダ カ 新しい覚醒と知性の光明が活き活きと修行者の最も深い存在領域を貫く。 プラーナーヤーマ サ ー ダ カ この第四番目の境地では修行者の制御はなく、2 章 50 節に述べられた 調 息 の動きの領域を超越し プラーナーヤーマ ている。そういう意味で、それは『無種子(ニルビージャ)』の 調 息 なのだ。 」 B.K.S.アイアンガー プラーナーヤーマ 「この第四番目の種類の 調 息 では、あなたは吸息後の呼吸の停止も呼息後の呼吸の停止も行わな い。これはまさにバガヴァッド・ギーターの叙述のようであり、そこでは、アパーナ(*呼息と関係する 活力)とプラーナ(*吸息に関係する活力)を結合すべし、そしてプラーナとアパーナを結合すべし、と述 べられている。それにより修行者は、吸気と呼気を結合させ、内と外に向かう感覚刺激を停止させるの だ。第二番目に、その吸気は吸気自身と結合させるべきだ。第三番目に、同時にクムバカ(*呼吸の停止) を行うべきだ。感覚刺激が入り込むのを許しては成らない。対象物の外部の経験は外側に放っておき、 サ ム ス カ ー ラ 内部の潜在印象つまり経験は内部に放っておくべきだ。外部の現象を内部に入れてはならず、内部の サ ム ス カ ー ラ プラーナーヤーマ 潜在印象が外部に現れるのを許してはならない。それが第四番目の 調 息 だ。あなたはウッジャーイ ー呼吸法(*声帯を微かに閉じて行う呼吸)で吸息と呼息を行い、特定の活力の通路に集中し、呼吸の制 プラーナーヤーマ 御をせずに吸息後の呼吸の停止も呼息後の呼吸の停止も行なわず、第四番目の 調 息 を実現すること サ ム ス カ ー ラ ができる。徐々にあなたは経験(*潜在印象)を消滅させ、感覚刺激の通路を閉鎖することが可能となる プラーナーヤーマ べきだ。それが第四番目の 調 息 だ。まさに、それがアジャパ・ジャパ(*自然発生の呼吸とマントラ の意識化)なのだ。 」 スワミ・サッティヤーナンダ タ タ ハ ク シ ー ヤ テ ー プ ラ カ ー シ ャ ー ヴ ァ ラ ナ ム Ⅱ-52 tataë køæyate prakáùávaraîam タ タ ハ クシーヤテー tataë それにより、その結果 køæyate 消滅する、壊滅する プ ラ カ ー シ ャ ー ヴ ァ ラ ナ ム prakáùávaraîam prakáùa 光、光明 ávaraîam 覆い、覆うもの その結果、(心の)光明の覆いが消滅する。 プラーナーヤーマ 「 調 息 を実践しているヨーギの場合、識別知を遮っていたカルマ(*潜在印象)が徐々に減少する。 それ(カルマ)は次の引用語句で叙述されてきた。『誤解の妄想魔術は、厚いヴェールによって知覚力あ ブ ッ デ ィ プラーナーヤーマ るサットヴァ(認識知性)を覆い、それを誤った働きへと導く。』と。 調 息 の実践は、知識の啓示を覆 い輪廻転生をもたらすヨーギのカルマを弱め、徐々に減少させる。そうして次のように言われてきた。 プラーナーヤーマ タ パ ス 『 調 息 よりも優れた浄化の行為はない。それは不純物を除去し、知識の光を輝かせる。』と。」 ヴャーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳 プラーナーヤーマ 「ある人々は、誤った知識は正しい知識によってのみ撲滅することができる、どうして 調 息 のよ うな(肉体的)方法でそれを撲滅させることができるのか?と反論を投じる。その答えは、この場合もま プラーナーヤーマ た誤解は知識によって撲滅されると言うことができるだろう。 調 息 が肉体的行為であることは間違 アヴィディヤー プラーナーヤーマ いないが、その行為によって獲得された知識は 無 知 の撲滅がその原因だ。 調 息 の実践は、個人の プラーナーヤーマ 私意識を肉体と感覚器官から分離させる。そういう理由で、 調 息 の行為に相応する知識は(全ての行 為はそれに相応する知識を得る)、 『私は肉体でも感覚器官でもない。 』というものだ。 」 スワミ・ハリハラーナンダ プラーナーヤーマ サイキック 「 調 息 の実践により霊性のセンター(*チャクラ)は活性化され、その結果として知識の覆いが除 サイキック サイキック 去される。プラカーシャ(光)はここでは霊性のセンターを意味する。霊性のセンターはいつも、感覚 サイキック 体験によって覆い隠されている。これらの精妙な媒体(*霊性のセンター)の光明は、頭脳の肉体物質に プラーナーヤーマ サイキック よって制限され、覆われている。その覆いは 調 息 によって除去されるのだ。その霊性の能力を覆う 肉体物質の覆いの除去という種類の除去が、光の覆いの除去と呼ばれるものだ。それは、あなたが プラーナーヤーマ サイキック 調 息 を実践したときに内部で何かが生じ、それにより霊性の能力が、脳の肉体機構の覆い、抑圧、 障害から解放されることを意味するのだ。 プラーナーヤーマ エネルギーは、あなたが電球のスイッチや扇風機のスイッチを押すだけで解放される。 調 息 は頭 サイキック 脳の内部に同様の状況を生み出し、それにより生来の霊性の能力は解放されるのだ。 」 スワミ・サッティヤーナンダ プラーナーヤーマ 「その(* 調 息 )実践は、認識知性を覆い隠す無知、欲望、錯覚から成る妄想を撲滅する。そして知 プラーナーヤーマ 恵の内なる光を輝かせる。太陽を覆っている雲をそよ風が追い散らすように、 調 息 は認識知性の光 を覆い隠す雲を消散させる。 」 B.S.K.アイアンガー サットワ 「チッタ(心)はそれ自身の性質として、全ての知識を持っている。それは純質の微粒子でできている ラジャス タ マ ス プラーナーヤーマ のだが、激質と闇質の微粒子で覆われており、 調 息 によってこの覆いは、除かれるのだ。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ ダ ー ラ ナ ー ス チ ャ ヨ ー ガ タ ー マ ナ サ ハ Ⅱ-53 dháraîásu ca yoghatá manasaë ダ ー ラ ナ ー ス チャ ダーラナー dháraîásu 凝 念 のための、集中への ca そして ヨ ー ガ タ ー マ ナ サ ハ yoghatá 適性、適合、能力 manasaë 心、心の、 プラーナーヤーマ ダーラナー そして心は、( 調 息 を通じて)凝念への適性を発展させる。 プラーナーヤーマ スートラ 「その適性は 調 息 の実践から生じる。この 節 は、呼息と止息の制御により心の集中が確立され スートラ ると云う、以前に述べた 節 (*1 章 34 節)を確認させる。」 ヴャーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳 ダーラナー プラーナーヤーマ 「肉体内部の領域への心の固定を凝 念 と呼ぶ。 調 息 の実践中、心は常に内的器官に固定しなけれ ばならない。このことが、心をそこに固定させる能力を引き出すことは言うまでもない。スートラ 1 章 プラーナーヤーマ 34 節で、心の不動性は 調 息 の実践によって獲得されると述べられていた。不動性とは希望する対象 への心の固定を意味している。 」 スワミ・ハリハラーナンダ 「呼吸の制御の結果は呼吸の停止だ。心は途轍もない速度で絶え間なく回転する車輪のようだ。その車 サイキック 輪は各回転ごとに新しい想念を生み出す。この車輪は心霊的(精妙な)プラーナの波動によって動くのだ。 プラーナーヤーマ 調 息 の実践は心の速度を減少させ、その車輪を徐々に遅くさせる。プラーナの完全な制御は車輪を 停止させる。心は極めて安定するのだ。呼吸の制御とクムバカ(*呼吸の停止)は、集中と瞑想実践の大 きな助けとなる。 」 スワミ・シヴァーナンダ プラーナーヤーマ ダーラナー ディヤーナ ア ン タ ラ ン ガ サマーディ 「第二番目の 調 息 の実践の結果は、凝 念 、禅 定 、三 昧 ── ヨーガの内的部門 ── の実践へ の心の準備です。心理的イメージを鮮明にはっきりと形成し、それらを明確に見ることのできる能力が、 ダーラナー 凝 念 の実践を効果的にするためには必要とされます。私たちの心理的イメージがぼやけたり混乱したり していると、それらに集中し操作することは困難です。それは瞑想を行った誰でも、実践体験で知って プラーナーヤーマ います。心はそれらにうまく集中せず、簡単に逸れてしまいます。この困難を撲滅する 調 息 は、集 プラーナーヤーマ ダーラナー 中力を大きく促進させます。 調 息 は凝 念 のためには絶対に必要だと言うのは、たぶんヨーガの他の プラーナーヤーマ ダーラナー 流派の信奉者たちには正当とは認められないでしょう。しかし 調 息 が凝 念 の実践に大変に役立つこ プラーナーヤーマ とは疑う余地はありません。そういう理由でパタンジャリは、 調 息 を彼のヨーガ技法全体の一部門 に取り入れたのでした。 」 I.K.タイムニ プラーナーヤーマ 「 調 息 の実践を通じてひとたび知識の新しい光がもたらされたなら、心は魂の覚醒に向かって進 展する適性と能力を獲得する。 ここで示唆していることは明瞭だ、自己訓練と学習によってヨーガの道を教化しようと初期には奮闘 していた修行者が、今その努力が修行の進歩への自然な熱意へと変容したことを発見するのだ。」 B.K.S.アイアンガー プラーナーヤーマ ダーラナー 「 調 息 の実践によって、心の集中能力が発達する。そして修行者は凝 念 の状態への心の集中の適 プラティヤーハーラ 性を得る。それは知識の光を遮っていた覆いが除去されるからだ。そしてその次に来る段階は 制 と呼ばれるものだ。 」 スワミ・サッティヤーナンダ 感 ス ヴ ァ ヴ ィ シ ャ ヤ ア サ ム プ ラ ヨ ー ゲ ー チ ッ タ ス ャ ス ヴ ァ ル ー パ ー ヌ カ ー ラ イヴァ イ ン ド リ ヤ ー ナ ー ム Ⅱ-54 svaviøaya asaóprayoge cittasya svarépánukára iva indriyáîáó プ ラ テ ィ ヤ ー ハ ー ラ ハ pratyáháraë ス ヴァ ヴィ シ ャヤ ア サ ム プ ラ ヨ ー ゲ ー svaviøaya sva 自身の viøaya 対象 asaóprayoge 結び付かない、接触しない チ ッ タ ス ャ ス ヴ ァ ル ー パ ー ヌ カ ー ラ cittasya 心 svarépánukára svarépa 自身の形、自身の状態 anukára 模倣、従う イヴァ イ ン ド リ ヤ ー ナ ー ム プラティヤーハーラハ iva まるで、あたかも indriyáîáó 感覚器官の pratyáháraë 制感、感覚の制御 プラティヤーハーラ 制 感 とは、諸感覚器官が自らの対象と結び付かず、あたかも心自体に従う状態である。 「諸感覚器官は、それらの対象物との接触がないために、いわば、心の模倣をする。心がその機能を 一時停止するように、諸感覚器官もそれらの機能を停止し、諸感覚器官の制御のための他の手段を不必 要にする。まるで蜂たちが女王蜂の進路に従い、女王蜂が休息すると蜂たちも休息するように、心が停 プラティヤーハーラ 止するとき諸感覚器官もまたその活動を停止する。これが 制 感 である。」 ヴャーサ解説 スワミ・ハリハラーナンダ英訳 「心が感覚対象から引っ込むと、感覚器官もそれぞれの対象から退く。そしてこのことが『心を模倣 する』と言われるのである。── 感覚は、外を向くことを許されると、外界を把握し、描こうとする。 だが内に向けてやると、心の純粋性を見て、外界の色をとらない。感覚は鏡のようなものである、すな わち外向きにすると外を映し出し、内向きにすると純粋な光を映し出す ── 。それら自身は無垢であ る、だが外を向くことを許されるとどんなものでも惹きつけて、それらのメッセージを心に伝え、それ を落ち着かなくさせる。そして内に向けてやると、心そのものの形をとることによって安らぎを見出す。 感覚とは要するに外界が心の中に入ってくる門である。『飾り棚を見る』と言うとき、心がそれの形を とってはじめてわれわれはそれを『飾り棚』と理解する ── それが知覚の原理である。 『聖なるもの』 に集中すると心がその形をとるのはそのためである。心がそれを保持していると、それは夢の中にまで 現れる。感覚を制御することができれば、われわれは心に、われわれの望む形だけをとらせることがで きるのだ ── 」 スワミ・サッチダーナンダ 「インタグラル・ヨーガ」伊藤久子訳 プラティヤーハーラ 「 制 感 とは、感覚体験の対象から心を引っ込めることを意味することを理解すべきだ。そのあと、 諸感覚器官は心に従って活動し、その反対にはならない。嗅覚、味覚、視覚、触覚、聴覚の能力はそれ ぞれの対象から引っ込められ、諸感覚器官は心に従い、外側ではなしに内側に向かい始める。これが心 が感覚器官の活動から引っ込むことであり、それにより諸感覚器官もまた心と共に内側に向くことにな る。諸感覚器官は心を模倣し、それに従い内部へと向かうのだ。 」 スワミ・サッティヤーナンダ 「諸感覚器官は、心の別個の状態である。私は一冊の書物を見る。それの形は書物の中にあるのでは ない。それは心の中にある。その形を呼び出す何ものかが外にある。真の形はチッタ(*心の材料)の中 にあるのだ。諸感覚器官は、何であれ彼らの前に来るものと自分を同一視し、それの形をとる。もしあ なたが心を抑制してこれらの形をとらせないようにするなら、心は静けさを失わないだろう。これが、 プラティヤーハーラ 制 感 と呼ばれるものである。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ タ タ ハ パ ラ マ ー ヴ ァ シ ャ タ ー イ ン ド リ ヤ ー ナ ー ム Ⅱ-55 tataë paramá vaùyatá indriyáîám タ タ ハ パ tataë それにより、その結果 イ ン ド リ ヤ ー ナ ー ム indriyáîám 諸感覚器官の ラ マ ー paramá ヴ ァ シ ャ タ ー 最高の、至高の vaùyatá 制御、征服、熟達 その結果、諸感覚器官は完全に制御される。 「ある学者たちは、諸感覚器官の制御は単なる感覚器官の抑圧に過ぎないと思っている。彼らはそれ は異常な状態だと考えているが、しかし瞑想して心の深奥へと潜入することを望む探求者にとっては、 自身の心を世界の対象から引っ込めることは非常に重要なこととなる。心の深奥へと潜入するためには、 感覚対象との接触を遮断しなければならない。心が外界と接触しているときには、意識のより深い側面 には気づいていない。探求者がこれらのより深い側面に気づくとき、彼は感覚世界のことには気づかな いのだ。 純粋意識、アートマンまたは自己は、実際には進化しない、ということを憶えておくことは重要だ。 プラテャーハーラ アートマン、または魂の進化はないのだ。 制 感 の実践により、われわれは実際は進化してはいない。 それは実は退行のプロセスなのだ。われわれの魂が原始的な状態から進化し、現在の状態へと発展した、 と言うのは真実ではない。究極の存在、または魂は、数千年前と全く同じだ。それは変化しない。唯一 ア ハ ム カ ー ラ の違いは、われわれの低い自己(*自我意識)、または個別化された自己が、ゆっくりと、徐々に、その 究極の姿に気づきつつあるということだ。 サマーディ われわれが心を外界から内界へと向きを変えるとき、三 昧 の中でのみ経験できるわれわれの内側の存 在の無限な側面を知ることになる。それは知性を通じて到達することはできない、そういう理由からこ ヤ マ ニヤマ プラテャーハーラ の章(*スートラ第2章)は、禁戒と勧戒からスタートさせ、 制 感 で終わらせる修行方法を教示するこ とを目的にしているのだ。 」 スワミ・サッティヤーナンダ プラテャーハーラ 「 制 感 の修練を適切に行なうことによって、あなたの感覚は完全な支配下に置かれるようになる。 それらは、あなたをどこへでも好きなところへ連れて行ってくれる従順な馬となる。あなたはそれらの 主人となるのだ ── 。感覚的な享楽を避けることで何かを失うと考えてはならない。感覚がわれわれ を引っぱろうとしたら、 『いや、私はおまえを満足させるつもりはない』と感じなければならない。 ・・・ 統御によって得た喜びは、一時的な喜びよりも長く続く。われわれはすべて、主人となるべきである。 それが本当の自由であり、真の勝利である。どんな人でも、自分自身の心と感覚から自由であれば、そ の人を縛ることのできるものは何もない。その人は本当に自由である。国家権力も、独裁者も、けっし てその人を縛ることはできない。その人は、何も恐れない・・・」 スワミ・サッチダーナンダ 「インテグラル・ヨーガ」伊藤久子訳 「ヨーギーが、諸感覚器官が外界の対象の形をとることを止めることに成功し、それらを心と同一の ままであらしめることに成功すると、そのとき、諸感覚器官の完全な制御ができるようになる。諸感覚 器官が完全に支配下に入ると、あらゆる筋肉と神経が支配下に入るだろう。なぜなら、諸感覚器官は全 ての感覚と全ての活動の中心なのだから。これらの器官は、行為(*運動)器官と感覚(*知覚)器官とに分 かれている。諸感覚器官が制御されると、そのヨーギーは、全ての感情と行為を制御することができる。 全身が、彼の支配下に来る。そのときに初めて、人は生まれたことに喜びを感じはじめる。そのとき人 は心から、 『生まれて来て幸せであった』と言うことができる。この諸感覚器官の制御ができるように なると、われわれは、この肉体は実はどれほど素晴らしいものであるか、と云うことを感じるのである。 」 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
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