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『古事記』からのメッセージ – 撰録 1300 年を迎えて
今年は、
『古事記』撰録からちょうど 1300 年を迎えます。我々は、この日本
最古の神話からいったい何を学べるのでしょうか。
『古事記』が語る世界観を理
解するには、西洋の神話のそれと比べてみることが早道です。西洋の神の根本
には「創造」という概念があります。これに対し日本の神には「創造」がない、
と西洋人はしばしば批判するのですが、では彼らが言う「創造」とは何なのか、
西洋の神はいったい何から何を創造するのか。この問いを通して、まず西洋に
おける神の概念を考えてみましょう。
紀元前 1250 年ごろユダヤ教が成立し、世界の中で初めて一神教が現れます。
このユダヤ・キリスト教神話(『旧約聖書』
)は、世界の始まりをこんなふうに
語ります。
始めに神が天地を創造された。地は混沌としていた。暗黒が原始の海の
表面にあり、神の霊風が大水の表面に吹きまくっていたが、神が『光あ
れよ』と言われると、光ができた。神は光を見てよしとされた。神は光
と暗黒との混合を分け、光を昼と呼び、暗黒を夜と呼ばれた。こうして
夕があり、また朝があった。以上が最初の一日である。
天と地を神が創造する前には混沌も何もありません。秩序としての神が、ま
ず存在していたのです。その後、神は「光あれよ」と言って光を創造し、この
光を見て「よし」とされます。このようにしてまず神は、光(昼)と闇(夜)
を分けたのです。ここで特徴的なのは、ユダヤ・キリスト教の神は、
「言葉」に
よって創造を行うということです。西洋の神は、東洋の神のように土をこねた
り海水をかき回したりして何かを生み出すのではなく、1「言葉によって世界を
創造する」のです。
「言葉」を意味するギリシャ語の「ロゴス」は、同時に「理
性」をも意味します。
「言葉による創造」とは従って、
「理性」によって世界の
秩序を創造していく行為をも意味しているのです。
ここで言う「光」とは「秩序」の象徴であり、それに対する「闇」は「混沌」
の象徴です。さらにここで神は、
「光」は「善いもの」
、
「闇」は「悪いもの」と、
善悪の判断を明確に下します。このように西洋人にとっての「創造」とは、
「混
沌から秩序を作り出すこと」
、言い換えれば「秩序が混沌を征服すること」を意
味しているのです。西洋思想において、原初の自然とはあくまでも混沌であり、
人間が手を加えてこれをコントロールしてやらなければ、無秩序に帰してしま
うものと考えられます。
「自然は人間によって統御されるべきもの」というユダ
ヤ・キリスト教の根本思想は、この冒頭にしっかりと語られているのです。
これに対し『古事記』は、世界の始まりをどのように語り出すのでしょうか。
あめつち
ひら
たかまのはら
あ めのみな かぬしの かみ
天地 初めて發 けし時、高天原 に成れる神の名は、天之御中主神 。次に
たかみむすひのかみ
かみむすひのかみ
みはしら
ひとりがみ
高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は、みな 獨 神 と成りま
わか
くらげ
して、身を隠したまひき。次に國稚く浮きし脂の如くして、海月なす漂
あしかび
も
あが
え る 時 、 葦牙 の 如 く 萌 え 騰 る 物 に よ り て 成 れ る 神 の 名 は 、
う ま し あ し か び ひ こ ぢ の か み
宇摩忘阿斯訶備比古遅神……
日本神話では、すでに天地があるところに神々が現れます。一番初めに現れ
たのは、天之御中主神、次に高御産巣日神という男神と、神産巣日神という女
神が現れます。日本神話が語る「世界の始まり」に真っ先に出てくる、この「ム
スヒ」とは何なのか。
「ムスヒ」という概念を初めて学説として取り上げたのは
本居宣長です。さらに 20 世紀の学者・丸山眞男は、
「ムスヒ」を「つぎつぎに
なりゆく いきほひ」という言葉で表現しました。
まず「なる」とは、どういう意味でしょうか。これは「創造する=つくる」
とは真っ向から対立する思想です。「なる」は「成る」
「生る」であり、古くは
「変化」と書いて「なる」とも読みました。生まれ、変化し、実に成る。これ
をすべて「なる」として、日本人は考えていたのです。外から手を加えて何か
を「つくる」のではありません。西洋の創造神は、聖書にもあるとおり、世界
の外部に存在することが大前提です。神はこの世界を超越していて、外からこ
の世界に手を加えて万物を創ります。神は最後に、自らの像の通りに人間を創
造し、
「さあ人間よ、万物を支配せよ」と言ったのです。これに対し「なる」と
いう思想は、人間が自然の支配者とはならず、人間も大きな自然の一部として、
「なる」のサイクルに組み込まれた存在であると考えます。万物はこの「なる」
の原理で自律的に変化していくのであり、外部から誰かが手を加えて「つくる」
という考え方とはまったく異なります。さらに「なる」は、「生む(産む)」と
もつながっていきます。成っていく過程の結果として両性の違いができ、その
延長上に性交による「生み」の行為が現れる。
「生み出す力」は自分自身の身体
の奥底から湧き上がってくるという意味で、やはり外から手を加えて「つくる」
という思想とは異なります。
次は、「つぎつぎに」の解釈です。
『古事記』では、延々と「次に……次に…
…次に……」と神様の名前が羅列されますが、この「次に、次に」という言葉
が意味するものは「無窮の連続性」です。命のひとつひとつは、はかなく消え
ていくのかもしれません。しかし、それが「次々に」
、連続性をもって、永遠に
つながっていくのです。
さて最後に、「いきほひ」が意味するものは何でしょうか。
『古事記』の冒頭
で、最初の三柱の神が身を隠したあとに、
「葦牙の如く萌え騰る」勢いで現れて
くる神がおられます。宇摩志阿斯訶備比古遲神(うましあしかびひこぢのかみ)
です。葦は、水辺から次々と勢いよく伸びて成長していく「ムスヒ」のシンボ
ルです。この「ムスヒ」の力は、体の奥底から湧き上がってくる生命力であり、
生きる本質です。その生命力をいかに萌え騰らせるか、日本人はそこにすべて
を注いできたと言ってもいいかもしれません。
江戸幕末期に、谷川士清という学者が、
『和訓栞』という書物を著しています。
その中で彼は、日本人にとって「徳は勢也と見えたり」と述べています。日本
人は、倫理的・規範的な観念を「徳」とは考えずに、
「勢い」のあるものをこそ
「徳」と見做していたことがわかります。先ほどの「ムスヒ=つぎつぎになり
ゆくいきほひ」は、まさにこの「徳」を表す言葉です。燃えたぎるような「生
命力」や母性に象徴される「生む力」……自らの存在の奥底から湧き上がって
くるこの「生成のエネルギー」を漲らせることこそが、日本人にとっての徳で
あるというわけです。日本人は本来、活力に満ちた民族だということを改めて
感じます。日本人にとって「善きこと」として捉えられているのは、
「萌える」
ごとく生命力を湧き上がらせること。それに対して「悪しきこと」は、
「しぬ」
こと、すなわち「力が萎えてしまう」ことです。この日本人にとっての「徳」
を体現するのが、生命力を湧き上がらせて魂を振り起こす神道の「タマフリ」
の儀礼であり、これが『古事記』の「天の岩屋戸神話」の中でも描かれていま
す。
このように『古事記』の中には、日本古来の「生きる力=ムスヒ」の力強い
思想が息づいています。混迷する現代を生きる我々に求められているのは、自
らの身体の奥底から湧き上がる、この「ムスヒ」の力を自覚し、一人一人が自
らの「生む力」を取り戻すことではないでしょうか。1300 年を経た今、
『古事記』
は古びるどころか、こうして現代に対する重要なメッセージを投げかけている
のです。
(文責・道徳科学研究センター研究員:岩澤知子)
1
『古事記』では、冒頭に神々が次々に現れたあと、イザナギとイザナミによる国生みが行
われますが、その様子は「言葉による創造」とは対照的に、次のように語られます。
「ここに天つ神諸々の命もちて、イザナギノミコト、イザナミノミコト、二柱の神に、
『こ
の漂へる国を修めつくり固め成せ』と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さしたまひき。故、
二柱の神、天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下ろしてかきたまへば、しほこをろこを
ろにかき鳴して引き上げたまふ時、その矛の末より垂り落つるしほ、重なり積もりて島と
なりき。これオノゴロ島なり……」