長与咲子 Brahms

長 与 咲 子
突然目の前に緑の広大な景色が現れた。
忘れられるものではない。しかし驚くのは
かか
そして過ぎ去った日々の思い出、少し甘酸
このような条件にも拘わらずブロンズ氏の
っぱい切ない感情で満たされていった。こ
深く暖かい響きによって聴衆が一つにな
れは以前どこかで味わった感覚と同じだと
り、ブラームスの世界にひきこまれ、時間
びっくりした。30年前、レマン湖畔トノン
も場所も越えた空気が生まれた結果、悪条
でブロンズ氏によるブラームスの「自作の
件を忘れたことである。おそらく演奏者自
テーマによるヴァリエーション」を聴いた
身も同じだったのではないか。その後何回
ときのことである。以前とはそれより10数
かトノンでブロンズ氏の演奏を聴いたがい
年前、学生時代にルツエルン音楽祭でルビ
つもこの空気が生まれた。そしてこのピア
ンシュタインのブラームスのソナタf−
ニストにいつか日本でも弾いてほしいと願
moll
うようになった。
2楽章を聴いたときの記憶である。
やはり昔を懐かしむような甘く深いやわら
当時、毎年夏の7月にヨーロッパ各地か
かい響きだった。そのとき初めて音が年月、
ら音楽家がレマン湖畔トノンに会して、ジ
過去・現在・未来といった時間を表すこと
ュネーヴ音楽院ヒルトブラン教授のもとに
ができることを体験したように思う。
指導を受け、一緒に学びながら室内楽とソ
ブロンズ氏を聴いた当日は夏特有の嵐が
ロの演奏会を開く「ランコントル・ミュー
来て、レマン湖上を雷と稲妻が乱舞するよ
ジカル・インターナショナル」が行われて
うな天候だった。ホールでは電気がフウッ
いた。「ランコントル」とは「出会い」の
と消えそうになり、またパッとつきという
意味で、そこには音楽家同志の出会いとい
状態を繰り返すようになった。しばらくす
うだけでなく、演奏家も聴き手も一歩深く
ると、明かりがついに消えた!真っ暗
音楽の内容そのものに出会う喜びの願いが
闇・・・そしてウソのような話だが演奏が
こめられていた。ヒルトブラン教授が演奏
終わると同時に照明がパッとついたのであ
に先立って曲の解釈について深い知識と機
る。割れるような拍手。このような体験は
知に富んだ適切な解説をされ、演奏者が曲
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の内容に集中することを助け、聴くものも
カ国語を話し、声楽の伴奏を専門にしてい
また音楽の内容をより知ることができた。
る。40年来の友人で語り合うことが多い中
教授の厳しい指導を受けながら私もこの
で、歌詞の発音と意味がいかにメロディー、
「ランコントル」に何度か参加した。その
リズムと関係があるかということを知る。
中でブラームスのヴァイオリンソナタ2番
彼女も膨大に読書し、解釈の裏づけを持っ
を弾いたときのこと、教授の解説で、冒頭
ている。日本人である我々がそこまで理解
とうりゅう
の数小節はブラームスがツーン湖に逗留し
するのは到底無理と思えるが、歌詞のつい
ていた折、遠くにユングフラウヨッホのア
ていない器楽曲はいろいろなことをよりど
ルプスの峰々を眺めつつ心に想うことなの
ころに想像するより仕方が無い。
だと知った。演奏直前のことである。その
前述のブロンズ氏は願いどおり日本で頻
とたん私の目の前にユングフラウのアルプ
繁に演奏するようになった。初来日より25
スが現れ、曲の中に入り込み無我になった。
年が経ち、教育連盟の特別会員になってい
演奏が終わるまで何が起こったかわからな
ただいたのはつい最近のことである。日本
い状態で弾き、すごい拍手に迎えられ呆然
各地の大学でレクチャーを行い、いろいろ
とした。そのとき以来勉強する曲の背景を
な作曲家の曲を取り上げ独自の深い洞察力
調べ、少しでも内容を理解するべく努力す
で解りやすく解釈をしてくださっている。
るようになった。とはいえ解らないものの
まさにインタープリテーターであろう。
方が多く現在に至っても解ると思える曲は
数年前、ヒルトブラン夫人とともにブラ
少ない。インタープリテート、解釈という
ームスがヴァイオリンソナタ2番を書いた
言葉は知っていても歌のように歌詞がつい
というツーン湖畔を訪れた。追憶の雰囲気
ていない曲は難しい。つくづく歌曲を羨ま
が漂う「自作のヴァリエーション」の最後
しく思うようになった。
のように、失った過去に想いをはせ、手を
最近「ランコントル」の参加者でもある
同級生のリュッティマンという友人のピア
のばして呼び戻したい気になった。人と出
会い、曲と出会った過去を・・・。
ニストが声楽曲の解釈家として芸大の客員
(ながよ
さきこ
洗足学園音大講師)
教授になり、4カ月滞在している。彼女は4
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自作主題による変奏曲
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