埼玉県 春日部市 市 16 321 319 ● 10 牛島公園 ● 幸松小 85 千葉県 中川 埼葛橋 かすかべ ● 春日部市役所 4 東武野田線 ふじのうしじま 2 320 東京都 東 東京 茨城県 神奈川県 神 倉松川 倉松落大口逆除 旧倉松落 大落古利根川 山梨県 きたかすかべ 崎線 伊勢 東武 やぎさき ま つ ぐ ち おとし さ か 壮大な江戸の用排水網に残る 県内最古のレンガ樋門 く ら お お 倉松落 大口逆除 栃木県 群馬県 N 江戸幕府は埼玉県東部一帯を重視し天領を大幅に配置す るとともに、この地で大規模な治水事業(利根川東遷)を進 め、次々と新田を開発。江戸に直結する大穀倉地帯を造成し た。 「倉松落大口逆除」は、こうした新田開発の過程で造られ よ け た排水路に、明治になって近代的な装備として設けられた逆 流防止施設だ。埼玉県に現存するレンガ樋門のなかで最古と されるこの樋門は、江戸前期の新田開発の事績や、埼玉県の 農業土木近代化の歩みを今に伝える重要な土木遺産だ。 日本の近代化を担ったレンガによる 建造物として、平成19年度経済産 業省の近代化産業遺産群のひとつ にも選定されている。 ●倉松落大口逆除 明治24年(1891年)完成。 かつての樋門は、写真奥側の上部を拡幅され 市道が通る道路橋として利用されている。地元では 「めがね橋」 と呼ぶ。土 木学会の 「現存する重要な土木遺産2800選」 のAランクであるほか、平 成17年には土木学会の 「選奨土木遺産」 に選定。 28 ● 水とともに 水がささえる豊かな社会 盛んな新田開発と倉松落 東武鉄道春日部駅から北東に歩いてほどない住宅地に、 羽生 土地の人が「めがね橋」と呼ぶ橋がある。本来は橋ではな く、洪 水 が水 路に逆 流するのを防ぐ樋門であった。水 路 加須 利根川 栗橋 葛西用水路 くらまつおとし (1659年)に堀割られたとされる排水路だ。幸手領杉戸地域 中川 久喜 おおおとし の排水を集め、現春日部市八丁目(旧八丁目村)地先で大落 関宿 は倉 松落と呼ばれ、新田開発が盛んな江戸前期、万治2年 幸手 旧倉松落 近世初頭には江戸湾に注いでいた利根川本流が16世紀末 から17世紀中ごろにかけて河口を銚子へ移され(利根川東 大落古利根川 春日部 遷)、埼玉東部低地にはそれまでの利根川本流の氾濫原に広 大な沼沢地が残された。利根川旧河道と中川の自然堤防村 江戸川 杉戸 ふるとねがわ 古利根川(葛西用水)に落とした。 旧倉松落概念図 落にはさまれた幸手領の低湿地帯は、倉松落など数々の排 水路(落堀)が開削され、大規模かつ集中的な新田開発が行 収穫を飛躍的に伸ばした基盤整備 われた。水田化にはまず池沼の水抜きが必要で、ついでかん 幸手領では、寛永年間(1624年~1643年)から元禄年間 がい用水の供給が必要になる。万治3年(1660年)には、関 (1688年~1703年)までの50年間に、年貢高が1.5倍~2倍 いりひ 東郡代伊奈忠克が埼玉郡本川俣(羽生市)の利根川に圦樋 あまりに増加した村々が続出した。また、元禄時代の記録に を設け、幸手領に用水を導入。これは幸手領用水と呼ばれ、 は、幸手領の新田村として新たに12新田が記載されている。 後に10か領、300村を潤し、現在もなお埼玉東部約6000ha 幸手領がいかに新田開発の盛んな地域であったかがわか を潤す葛西用水(利根川の旧河道をたくみに利用している) る。これは用排水の基盤整備でよりいっそうの新田開発が進 へ統合された。 み、耕地が安定化したことを示している。 平坦地の用排水の利水計画は、用水、排水ともに深い相関 関係をもっており、排水路の重要性は用水路に勝るとも劣ら 大落古利根川 (葛西用水) の流れ。写真左手に (旧)倉松落の (旧)落口が ある。葛西用水は用水の反覆利用が特徴。春日部市のあたりを流れる区 間は、江戸時代の近郷の、農業排水路の落し口が集中し、下流で再び用 水として利用される。 ない。 (旧)倉松落は、不毛の氾濫原を豊かな穀倉地帯へ変 貌させた、用・排水網の一角を占める重要な存在であった。 水の土木遺産/倉松落大口逆除 水の土木遺産/大戸川発電所 ● 29 参考文献: 『ひとづくり風土記 11・ふるさとの人と知恵 埼玉』1995 年 農山漁村文化協会、 『埼玉県の近代化遺産』1996 年埼玉県教育委員会、 「利根川の煉瓦造水門」是永定美 著『利根川・人と技術文化』 (雄山閣出版)所収 である。幅約11.1m、流水方向の長さ約5.1mの樋門は、上部 を市道が通る道路橋として改築されているため、高さは不明 である。4連のアーチ構造は、優れた施工技術により美しい原形 と強度を保持している点が評価され、平成17年度の土木学 会選奨土木遺産に認定されている。強度が十分であるからこ そ、道路橋としても利用可能だったといえよう。その後たびた びあった大水害や、関東大震災にもびくともしなかった。4連 アーチは埼玉県では他に現存例がなく、翼壁の最上部にある レンガの角をのこぎり状に突出させた「角出し」の装飾も県内 では珍しい。アーチはレンガ縦小口の三重巻き立てで、面壁 や袖壁は、レンガの小口の段と長手の段を交互に積むイギリ ス積みである。 洪水時は厚い板を上から落として水の浸入を防ぐよう、下流側の壁際に、 角落しの溝がつけられている。 恒久材料の樋門に地元の喜びあふれ 利根川や荒川の洪水が古利根川をへて逆流し、たびたび 倉松落沿線の田を水没させた。そのため江戸末期に逆流防 止樋門(木造とされる)が設けられたが、明治23年(1890 年)8月の大洪水で大破。翌年、レンガで再築したのが現在の めがね橋だ。工期は3ヶ月と短期間だが、ほぼ2年後、26のト ンネル、18の橋梁を含む延長11.2kmの碓氷峠アプト式鉄道 袖壁の上部(写真の斜めの部分) には帯状のレンガ飾りがつけられ、上か ら3段目にレンガの角を飛び出させるように並べた 「角出し」がある。県内 の他の樋門の大部分はもっと簡素なつくり。 がわずか1年9ヶ月で完成している。明治は非常に勢いのあっ た時代なのだろう。 全国一多いといわれる埼玉県内のレンガ樋門 当時としては莫大な3,830円の工費は地主への課金、寄付 全国的に見て埼玉県ほど多数のレンガ樋門が建設された 金募集、県の補助などでまかなわれた。レンガは文明開化の 地域はないという。現存するものは20基ほどだが、造られた シンボルである。樋門のかたわらにある竣工記念碑の碑文に のは200基(水門を含む)にも及ぶという調査もある。埼玉 は、 「瓦石を畳み膠土を塗りて堅固比なし」と記されており、 県にレンガ樋門が多い理由として、明治21年(1888年)に深 恒久的な材料で再築されたことへの地元民の喜びがあふれ 谷市で製造を開始した日本初の機械式レンガ工場・日本煉瓦 ている。その後倉松落は、昭和8年(1933年)から水位の高 製造(株)との関連が指摘されている。しかし、春日部市教育 い古利根川(葛西用水)から水位の低い中川へ落し口を替え 委員会が平成11年に、倉松落大口逆除からはげ落ちたレン る大掛かりな流路変更工事が行われ、新しい水路を倉松川、 ガを調査したところ、日本煉瓦製造(株)の製品であることを 元の水路を旧倉松落(幸松川)と呼ぶようになった。 示す刻印は発見できなかった。 当時の利根川・荒川中流域には、瓦製造から転じた在来技 優れた施工技術で選奨土木遺産に 倉松落大口逆除は、埼玉県内に現存する最古のレンガ樋門 30 ● 水とともに 水がささえる豊かな社会 術による中小レンガ工場が多数あった。同樋門のレンガは、そ うした中小工場の製品である可能性が推測されている。
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