第十三回 見沼代用水の開発~開削決水の道

~私説・井澤弥惣兵衛為永~
井澤弥惣兵衛為永の立像と
弥惣兵衛の花押
(さいたま市見沼自然公園)
高崎 哲郎(作家、土木史研究家)
第十三回 見沼代用水の開発~開削決水への道④~竣工
モノローグ
●
が彫られてあり、左右に「天下泰平、万民の快楽を祈る。武
る個所や粗末なところがあった時には、その場所の人足の賃
運長久、栄耀を扶桑(日本の異称)に保ち、家門繁昌、武勇
金は支払われない。その上どんな処分を受けても一言も申し
を異朝に及ぼす」
(読み下し文)に記されている。右側の面に
訳をしてはならない」
(現代語意訳)とある。設計通りになる
願主、助力として「常福寺五世自円、惣役人・惣村百姓」と彫
ように何度でも手直しさせられた。
られている。建立は弥惣兵衛没後29年の明和4年(1767年)
困ったことは、越後屋など江戸の3人の町人が請負った干
10月である。
拓事業であった。請負面積は100町歩と決まっていたが、具
〇瓦葺掛渡井は、綾瀬川を越えて流れる。八間堰から瓦
体的な場所が決まらなかった。彼らはすでに資金を出してお
葺掛渡井間の水路約7000間(約12・6キロ)の工事は代用水
り、その一部は工事費に使われていた。弥惣兵衛は彼らの希
路開削の中でも難工事であった。その理由は、八間堰までは
望する場所に決めてやりたがったが、沼廻りの村々が「自分の
星川の流路を利用して開削するので比較的容易であった。ま
村は自分で手掛ける」として場所の提供を渋った。そこで越
た、見沼溜井からは、従来の用水路によって導水することが
後屋など3人のほかに見沼溜井の川魚を商って沼廻りとも関
可能であるため、八間堰からいかに水位を保って見沼北端ま
係の深い江戸商人鯉屋藤左衛門も参加し、後に協議の結果
で導水するかが、開削工事の成否を握るカギであった。用水
鯉屋が100町部を買い取った。また用水不足が原因で廃田に
路の水位を保つには築堤が必要であり、綾瀬川との交差点で
なっていた加田屋新田は紀州出身の江戸商人加田屋(坂東
は洪水時の危険や樋枠などの腐朽も考慮する必要がある。こ
助右衛門)が開発を願い出て復活することになった。
の工区の工事の困難さはここにあった。このため綾瀬川を掛
元圦築造の享保12年秋から13年春までに、八間堰・十六
渡井によって通過させ、さらに約30間(約54メートル)ほど開
間堰・柴山伏越・瓦葺掛渡井の重要構造物が相次いで完成し
削して瓦葺地内で東西の用水路に分けた。西縁用水路は南
た。同時に排水路となる芝川の開削も終了した。
進して旧見沼溜井の西北に達する。同水路は3間から5間(約
えいよう
ふ
そう
<もののふの時―普請役保田太左衛門の独白>
様の測量の精密さがはっきりとうかがえます」
〇八間堰・十六間堰は、用水の必要な時期に十六間堰を閉
5・4メートルから9メートル)の川幅を持ち、丘陵の側面(崖)
「井澤様の手掛けた治水・利水事業や新田開発事業がなぜ
「工事は丁場を多く区切って同時に進めます。人海作戦とな
じ八間堰を開いて新水路に水を送って下流の灌漑に役立て、
を選んで開削されている。これは片側の崖を強固な自然の堤
成功したのか。なぜあれほどの短期間に工事を完成できるの
りますが、作業を早く正確に行うにはこの手法が最もいいよう
用水が不要な時には逆に八間堰を閉じ十六間堰を開き星川
防として利用し、反対の沼地に沿った側だけを築堤して労力
か。その秘密を教えて欲しいとおっしゃるのですか。拙者は
です。仕様帳と異なる個所や手抜き工事が見つかれば直ちに
に放水して水量の調節を図った。
を省くためであった。流路の安定にも寄与している。
紀州藩時代から井澤様の配下で水利事業の指揮・監督に従
やり直しです。場合によっては人足の賃金を支払わない場合
〇柴山伏越は、享保12年の新設当時は水量を2分して伏越
〇芝川は、悪水路(排水路)として利用された。沼底の最
事してきましたから、井澤様のことは公私共に他の方以上に
もあります。部下を処分することもあります。ですが汗を流し
ともうひとつの掛渡井があって通水するように造られた。見沼
低部に中悪水路を開削し、これを芝川につないで荒川に放流
よく存じ上げています。見沼溜井干拓と代用水路開削には井
た農民らをねぎらうことも忘れませんでした。見沼溜井新田開
通船はこれを越えて利根川取水口まで渡航できる計画だっ
するものである。工事は芝川の旧荒川吐口(落口)から始ま
澤様の手法がよく表われています。まず計画の作成前に現場
発の工費は総計で2万両(注:1両は約10万円)にも上りました
た。だが掛渡井は耐久力が弱く、元荒川の洪水のたびに破
り、上流へさかのぼる形で進められた。旧水路2200間(約4
をくまなく歩かれることです。部下任せにはしません。還暦を
が、関東のほぼ中央部に1175町歩もの新田が生まれました。
壊された上に、元荒川の水流の障害にもなるので、宝暦10年
キロ)余りを瀬替え(流路変更)または切り広げることによっ
過ぎてはいましたが、脚の衰えは微塵も感じられませんでし
後世に残る一大農業土木事業であると言っても過言ではない
(1760年)に廃止された。それ以降は、伏越が舟運の終着点
て川幅を12間(約20メートル)に改修し、八丁堤を切り開いて
た。ご自分で歩いて地形や地質それに川の流れや洪水の跡を
でしょう。幕府の財政立て直しに大きく寄与したことは言うま
となった。
見沼の溜水を放流した。
調べ、また地元の住民によく質問をします。そして知り得たこ
でもありません。その精華を誇りたいと考えます」
この伏越の近くにある常福寺の境内に井澤供養碑がある。
川口神社に芝川開削に由来する神鏡がある。同社は川口
とはこまめに野帳に記します」
(見沼土地改良区『見沼土地改良区史』、
『徳川実紀』、
正面中央に弥惣兵衛の戒名「崇岳院殿隆誉賢厳英翁居士」
(現川口市)の鎮守氏神であった。江戸時代に、川口は天領
「現地踏査した後は水盛り(水準測量)に入りますが、この
『埼玉県史』、海南市海南歴史民俗資料館「井澤弥惣兵衛」
際も極力現場で立ち会います。測量は早朝から始めることが
などを参考にする)。
柴山伏越古図(埼玉県立図書館蔵)
瓦葺掛渡井古図(埼玉県立図書館蔵)
多いのですが、御自分で水盛器を使って測量することも珍し
◇ ◇ ◇
くありません。測量での手抜きは絶対に許されません。声を
享保12年(1727年)9月から開始された見沼溜井の干拓・
張り上げて結果を伝えよ、とよく言われます。測量の結果は、
新田開発と代用水の水路開削は、水路の新掘削や樋管・橋
直ちに野帳に記されます。勾配や断面図などが正確かどうか
の築造はすべて村請負で行われ、工事用材(挽立材は官木、
が、その後の工事の成否を決めるのです。見沼溜井新田開発
丸太材は請負入札による買い上げ品の交付)と鉄物類は別途
もと いり
12
書、享保12年」によれば「出来方改めの時には仕様帳と異な
ひきたてざい
の測量は利根川の元圦からと川口の荒川落合からの二手に
に供給された。2ヶ月後の同年11月を完成目標として工事は
分かれて行われました。2つの方向からの測量が出会った地
開始された。工事は流域の村々によって丁場を区切って分担
点で水路が結合されますが、その地点でわずかに2寸(約6
され、各丁場内で伏し込む樋堰は、江戸職人によって別途に
センチ)の誤差しかなかったことは驚くべきことであり、井澤
作製された完成品を舟で運んで来て伏し込んだ。
「三室村文
水とともに 水がささえる豊かな社会
連載/水の匠 水の司
●
13
~私説・井澤弥惣兵衛為永~
井澤弥惣兵衛為永の立像と
弥惣兵衛の花押
(さいたま市見沼自然公園)
高崎 哲郎(作家、土木史研究家)
第十三回 見沼代用水の開発~開削決水への道④~竣工
モノローグ
●
が彫られてあり、左右に「天下泰平、万民の快楽を祈る。武
る個所や粗末なところがあった時には、その場所の人足の賃
運長久、栄耀を扶桑(日本の異称)に保ち、家門繁昌、武勇
金は支払われない。その上どんな処分を受けても一言も申し
を異朝に及ぼす」
(読み下し文)に記されている。右側の面に
訳をしてはならない」
(現代語意訳)とある。設計通りになる
願主、助力として「常福寺五世自円、惣役人・惣村百姓」と彫
ように何度でも手直しさせられた。
られている。建立は弥惣兵衛没後29年の明和4年(1767年)
困ったことは、越後屋など江戸の3人の町人が請負った干
10月である。
拓事業であった。請負面積は100町歩と決まっていたが、具
〇瓦葺掛渡井は、綾瀬川を越えて流れる。八間堰から瓦
体的な場所が決まらなかった。彼らはすでに資金を出してお
葺掛渡井間の水路約7000間(約12・6キロ)の工事は代用水
り、その一部は工事費に使われていた。弥惣兵衛は彼らの希
路開削の中でも難工事であった。その理由は、八間堰までは
望する場所に決めてやりたがったが、沼廻りの村々が「自分の
星川の流路を利用して開削するので比較的容易であった。ま
村は自分で手掛ける」として場所の提供を渋った。そこで越
た、見沼溜井からは、従来の用水路によって導水することが
後屋など3人のほかに見沼溜井の川魚を商って沼廻りとも関
可能であるため、八間堰からいかに水位を保って見沼北端ま
係の深い江戸商人鯉屋藤左衛門も参加し、後に協議の結果
で導水するかが、開削工事の成否を握るカギであった。用水
鯉屋が100町部を買い取った。また用水不足が原因で廃田に
路の水位を保つには築堤が必要であり、綾瀬川との交差点で
なっていた加田屋新田は紀州出身の江戸商人加田屋(坂東
は洪水時の危険や樋枠などの腐朽も考慮する必要がある。こ
助右衛門)が開発を願い出て復活することになった。
の工区の工事の困難さはここにあった。このため綾瀬川を掛
元圦築造の享保12年秋から13年春までに、八間堰・十六
渡井によって通過させ、さらに約30間(約54メートル)ほど開
間堰・柴山伏越・瓦葺掛渡井の重要構造物が相次いで完成し
削して瓦葺地内で東西の用水路に分けた。西縁用水路は南
た。同時に排水路となる芝川の開削も終了した。
進して旧見沼溜井の西北に達する。同水路は3間から5間(約
えいよう
ふ
そう
<もののふの時―普請役保田太左衛門の独白>
様の測量の精密さがはっきりとうかがえます」
〇八間堰・十六間堰は、用水の必要な時期に十六間堰を閉
5・4メートルから9メートル)の川幅を持ち、丘陵の側面(崖)
「井澤様の手掛けた治水・利水事業や新田開発事業がなぜ
「工事は丁場を多く区切って同時に進めます。人海作戦とな
じ八間堰を開いて新水路に水を送って下流の灌漑に役立て、
を選んで開削されている。これは片側の崖を強固な自然の堤
成功したのか。なぜあれほどの短期間に工事を完成できるの
りますが、作業を早く正確に行うにはこの手法が最もいいよう
用水が不要な時には逆に八間堰を閉じ十六間堰を開き星川
防として利用し、反対の沼地に沿った側だけを築堤して労力
か。その秘密を教えて欲しいとおっしゃるのですか。拙者は
です。仕様帳と異なる個所や手抜き工事が見つかれば直ちに
に放水して水量の調節を図った。
を省くためであった。流路の安定にも寄与している。
紀州藩時代から井澤様の配下で水利事業の指揮・監督に従
やり直しです。場合によっては人足の賃金を支払わない場合
〇柴山伏越は、享保12年の新設当時は水量を2分して伏越
〇芝川は、悪水路(排水路)として利用された。沼底の最
事してきましたから、井澤様のことは公私共に他の方以上に
もあります。部下を処分することもあります。ですが汗を流し
ともうひとつの掛渡井があって通水するように造られた。見沼
低部に中悪水路を開削し、これを芝川につないで荒川に放流
よく存じ上げています。見沼溜井干拓と代用水路開削には井
た農民らをねぎらうことも忘れませんでした。見沼溜井新田開
通船はこれを越えて利根川取水口まで渡航できる計画だっ
するものである。工事は芝川の旧荒川吐口(落口)から始ま
澤様の手法がよく表われています。まず計画の作成前に現場
発の工費は総計で2万両(注:1両は約10万円)にも上りました
た。だが掛渡井は耐久力が弱く、元荒川の洪水のたびに破
り、上流へさかのぼる形で進められた。旧水路2200間(約4
をくまなく歩かれることです。部下任せにはしません。還暦を
が、関東のほぼ中央部に1175町歩もの新田が生まれました。
壊された上に、元荒川の水流の障害にもなるので、宝暦10年
キロ)余りを瀬替え(流路変更)または切り広げることによっ
過ぎてはいましたが、脚の衰えは微塵も感じられませんでし
後世に残る一大農業土木事業であると言っても過言ではない
(1760年)に廃止された。それ以降は、伏越が舟運の終着点
て川幅を12間(約20メートル)に改修し、八丁堤を切り開いて
た。ご自分で歩いて地形や地質それに川の流れや洪水の跡を
でしょう。幕府の財政立て直しに大きく寄与したことは言うま
となった。
見沼の溜水を放流した。
調べ、また地元の住民によく質問をします。そして知り得たこ
でもありません。その精華を誇りたいと考えます」
この伏越の近くにある常福寺の境内に井澤供養碑がある。
川口神社に芝川開削に由来する神鏡がある。同社は川口
とはこまめに野帳に記します」
(見沼土地改良区『見沼土地改良区史』、
『徳川実紀』、
正面中央に弥惣兵衛の戒名「崇岳院殿隆誉賢厳英翁居士」
(現川口市)の鎮守氏神であった。江戸時代に、川口は天領
「現地踏査した後は水盛り(水準測量)に入りますが、この
『埼玉県史』、海南市海南歴史民俗資料館「井澤弥惣兵衛」
際も極力現場で立ち会います。測量は早朝から始めることが
などを参考にする)。
柴山伏越古図(埼玉県立図書館蔵)
瓦葺掛渡井古図(埼玉県立図書館蔵)
多いのですが、御自分で水盛器を使って測量することも珍し
◇ ◇ ◇
くありません。測量での手抜きは絶対に許されません。声を
享保12年(1727年)9月から開始された見沼溜井の干拓・
張り上げて結果を伝えよ、とよく言われます。測量の結果は、
新田開発と代用水の水路開削は、水路の新掘削や樋管・橋
直ちに野帳に記されます。勾配や断面図などが正確かどうか
の築造はすべて村請負で行われ、工事用材(挽立材は官木、
が、その後の工事の成否を決めるのです。見沼溜井新田開発
丸太材は請負入札による買い上げ品の交付)と鉄物類は別途
もと いり
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書、享保12年」によれば「出来方改めの時には仕様帳と異な
ひきたてざい
の測量は利根川の元圦からと川口の荒川落合からの二手に
に供給された。2ヶ月後の同年11月を完成目標として工事は
分かれて行われました。2つの方向からの測量が出会った地
開始された。工事は流域の村々によって丁場を区切って分担
点で水路が結合されますが、その地点でわずかに2寸(約6
され、各丁場内で伏し込む樋堰は、江戸職人によって別途に
センチ)の誤差しかなかったことは驚くべきことであり、井澤
作製された完成品を舟で運んで来て伏し込んだ。
「三室村文
水とともに 水がささえる豊かな社会
連載/水の匠 水の司
●
13
町歩が生まれ、地代金2104両を得た。同16年には新田検地
が動員された。農繁期に都合3日間動員を掛けられた農民た
後、毎年上納米4960石余りを確保することになった。同時
ちにとって大迷惑な将軍の日光社参であった。日光社参は東
に、水田に乏しかった見沼廻りの村々では、各村30町歩から
照権現崇拝を喚起させて、
「諸事権現様御定め通り」を主張
200町歩の新田を請地することになり、7500石の収穫を得ら
することで、幕藩の主従関係の安定を精神的にもたらす狙い
れるようになった。また流作場同然の荒地が500石余りの良
があった。
「享保の改革」を推進する将軍は強い幕府を誇示
田に生まれ変わった。
したのである。
(江戸商人高田茂右衛門が発願して計画した
代用水の水路開削は、見沼溜井周辺の村々だけではなく、
下総・手賀沼の干拓工事も始まっていた。この工事も弥惣兵
水路沿いの既存の用水にも豊富な水を供給した。水路沿い
衛が奉行となり、上沼と下沼を分ける千間堤(高田堤、浅間堤
に点在する多くの沼を干拓して、その地に代用水を引いたの
とも呼ばれる)の築堤が進められた。だが同沼の干拓はたび
である。干拓された沼を適宜上げてみる。小針沼(現行田
重なる大洪水により不首尾に終わる)。
く
ず
かや
◇ ◇ ◇
前)、柴山沼(現白岡町)、皿沼(同前)、河原井沼(現久喜
寛永18年(1641年)、幕府は関東郡代伊奈家の姻戚にあ
市、現菖蒲町)、笠原沼(現宮代町)、黒沼(現岩槻市)、鶴巻
たる地方巧者小島庄右衛門正重に命じて江戸川の流頭部を
沼(現さいたま市)、九ヶ井溜井(現さいたま市)、上谷沼(現
開削させて金杉(現松 伏 町金杉)まで新たな水路が開かれ
(幕府領)となり同社の社地は除地(免税地=氷川免)と定め
川口市)。これによって600町歩の新田が得られた。灌漑面
た。庄内古川(現在中川中流)は太日川(江戸川旧名)につ
られ氷川大明神と呼ばれた。見沼代用水路の芝川落口の門
積は1万5000町歩を越える。代用水は見沼新田だけの代用
ながって江戸湾に注ぐようになった。関宿から金杉まで水路
樋工事の際、井澤弥惣兵衛の配下杉島貞七郎保英は神社に
水ではない。流域にあった多くの沼が新田に生まれ変わるこ
が開削されたことは、江戸と関東各地を結ぶ舟運には好都合
工事成功を祈願し難工事を完成させた。工事には弥惣兵衛
とにより、新川用水・黒沼笠原沼用水・高沼用水をはじめ支流
だった。だが庄内古川流域は上流から洪水が押し寄せてくる
の長男正房も参加した。享保18年(1733年)、弥惣兵衛と貞
の流域の開発が進み、灌漑面積の増大とともに多くの水量配
洪水常襲地になってしまった。金杉村名主飯島貞嘉は祖父3
七郎はそろって神社に詣でて神恩に感謝し神前に神鏡を奉納
分が必要となった。このため元圦の上流25間(約45メートル)
代にわたって幕府に江戸川と庄内古川の分離を働きかけた。
した。
(神鏡は川口市指定文化財である)。
の場所に木造樋管を伏せ込んだ。これが増圦で享保13年に
(拙書『荒野の回廊』参考)。
新設された。
享保13年(1728年)春、幕府は弥惣兵衛の現地見分の後、
元圦や増圦の開閉や管理については、圦樋築造の当時弥
「早急な工事が必要である」との彼の判断を受けて地元の訴
(1728年)2月に完成し、翌3月に下中条の元圦を開扉して利
惣兵衛のもとで活躍した者のうち、重兵衛(現長谷川姓)と
えを認めた。訴えからほぼ半世紀も経っていた。
根川からの取水を開始した。
『見沼土地改良区史』によって
太兵衛(現飯塚姓)を選び、その任に当たらせた。享保14年、
弥惣兵衛は配下の勘定方島田道咡を河川改修担当(現場
代用水路開削を総括してみる。新川延長4万6957間5分(約
重兵衛は元圦・増圦の管理役となり代官所より使用する人夫
84・5キロ)のうち、見沼代用水路開削の距離は2万9577間5
を合わせて年間5石4斗5升の給米が与えられた。太兵衛は水
◇ ◇ ◇
見沼新田開発事業は、弥惣兵衛の目論見通り享保13年
もといり
かい
ひ
まさ しげ
まつ ぶし
ふと
ひ
がわ
さだ よし
みち しげ
干拓された沼跡地(見沼代用水土地改良区)
責任者)に命じた。江戸川と庄内古川の合流点を分離させて
新川を掘り、旧河道を治める工事は3年後に竣工した。幕府
さ
え もんの す け
分(約53・2キロ)、芝川新川開削改修共(注:見沼新田開発
路掘削に際して自分の居住地が新堀開削路の川筋になった
出発した。引き続いて本多豊後守、松平左衛 門 佐などの諸大
の総工費は30万両であった。庄内、幸手、松伏、八条4領の
に伴う悪水路開削や改修)1万7380間(31・3キロ)となる。
ため、その代償として二つの圦の番人を命ぜられ年間2石4斗
名の部隊が次々に出発し、やっと午前6時になって将軍の前後
200村余りは大水害から逃れることができ、江戸に近いニ郷
掘削の面積は24万坪(1坪は3・3平方メートル、見沼代用水
5升を給された。
を固める親衛隊2000人の隊列が出発した。最後尾をつとめ
半領では合流点の分離で水害が軽減され早場米地帯として
路15万坪、芝川9万坪)である。
幕府は享保11年に新田検地条目を発布し、開発の成果を
る老中松平右京太夫輝貞は、馬上30騎、鉄砲80挺、弓20張
労役はのべ90万人(見沼代用水路1坪に付き平均3人3分
年貢として吸収する制度を整えた。勘定方関係の記録による
の構成部隊で午前10時に出立した。最後尾の出発まで10
強、見積もり50万人。芝川1坪に付き平均4人5分、見積もり
と、年貢総額の平均は、享保元年から11年の140万石余りに
時間を要するという将軍社参の大行列だった。
40万人)、これは当時の江戸の総人口とほぼ同じ数であり、
対して、新田開発が本格化した同12年から15年は156万石余
一行は、途中休憩を入れながら御成街道を北上した。将軍
丁場に労働者がアリのように群がって働いた実態をうかがわ
りと、16万石も増加している。見沼干拓と代用水の水路開削
は筧播磨守から見沼溜井干拓の説明を受けた。弥惣兵衛も
せる。その賃金は1万5000両(人夫1人賃金1匁の割、当時の
は、関東平野の中部地域の用排水を管理統制するとともに、
同席した。将軍は新田開発の完成に満悦し、
「神技である」と
両替で60匁で1両)に上った。今日に換算して1日当たり数千
流域の沼・湿地の干拓・新田開発も進めたことに大きな意義
弥惣兵衛の技量の高さを称賛した。初日は岩槻城に宿泊し、
円であり決して高くはない。築堤は3万419間5分(約54・8キ
がある。
翌日は日光街道を北に向かい古河城に泊まった。さらに3日目
は宇都宮城に宿泊して、4月16日、日光に到着した。東照権現
掘削の費用と合わせると2万両の巨額である。
享保13年4月、将軍吉宗は日光社参を挙行した。見沼干拓
様・徳川家康の命日である翌17日に東照宮を参詣し、早くも
この新田開発によって、幕府は総工費2万両を費やし、水
工事竣工の翌月である。65年ぶりに復活された。4月13日、吉
その翌日18日には江戸城に向かって日光を出発した。
けい はん
路、道路、畦畔、河川敷に使うため古田65町歩(1町歩は約
100アール)余りを失った。だが開発の結果新たに新田1175
水とともに 水がささえる豊かな社会
そうじゃ
宗は日光に向けて出発した。まず行列の先頭をつとめた奏者
ばん
たか ふさ
番の秋元但馬守喬房の部隊が、真夜中の午前零時を期して
に
ごう
は ん りょう
てる さだ
◇ ◇ ◇
ロ)で、水路に設けた様々な工作物は、概算約5000両、水路
●
ま
市)、屈巣沼(現川里村)、小林沼(現菖蒲町)、栢間沼(同
川口神社(川口市内)
14
ねら
大行列の荷物を運ぶ人足・馬は街道周辺だけでなく遠く関
八州の村々から動員され、延べ400万人もの人足と馬30万頭
砥根河重蔬碑(江戸川中流)
連載/水の匠 水の司
●
15
町歩が生まれ、地代金2104両を得た。同16年には新田検地
が動員された。農繁期に都合3日間動員を掛けられた農民た
後、毎年上納米4960石余りを確保することになった。同時
ちにとって大迷惑な将軍の日光社参であった。日光社参は東
に、水田に乏しかった見沼廻りの村々では、各村30町歩から
照権現崇拝を喚起させて、
「諸事権現様御定め通り」を主張
200町歩の新田を請地することになり、7500石の収穫を得ら
することで、幕藩の主従関係の安定を精神的にもたらす狙い
れるようになった。また流作場同然の荒地が500石余りの良
があった。
「享保の改革」を推進する将軍は強い幕府を誇示
田に生まれ変わった。
したのである。
(江戸商人高田茂右衛門が発願して計画した
代用水の水路開削は、見沼溜井周辺の村々だけではなく、
下総・手賀沼の干拓工事も始まっていた。この工事も弥惣兵
水路沿いの既存の用水にも豊富な水を供給した。水路沿い
衛が奉行となり、上沼と下沼を分ける千間堤(高田堤、浅間堤
に点在する多くの沼を干拓して、その地に代用水を引いたの
とも呼ばれる)の築堤が進められた。だが同沼の干拓はたび
である。干拓された沼を適宜上げてみる。小針沼(現行田
重なる大洪水により不首尾に終わる)。
く
ず
かや
◇ ◇ ◇
前)、柴山沼(現白岡町)、皿沼(同前)、河原井沼(現久喜
寛永18年(1641年)、幕府は関東郡代伊奈家の姻戚にあ
市、現菖蒲町)、笠原沼(現宮代町)、黒沼(現岩槻市)、鶴巻
たる地方巧者小島庄右衛門正重に命じて江戸川の流頭部を
沼(現さいたま市)、九ヶ井溜井(現さいたま市)、上谷沼(現
開削させて金杉(現松 伏 町金杉)まで新たな水路が開かれ
(幕府領)となり同社の社地は除地(免税地=氷川免)と定め
川口市)。これによって600町歩の新田が得られた。灌漑面
た。庄内古川(現在中川中流)は太日川(江戸川旧名)につ
られ氷川大明神と呼ばれた。見沼代用水路の芝川落口の門
積は1万5000町歩を越える。代用水は見沼新田だけの代用
ながって江戸湾に注ぐようになった。関宿から金杉まで水路
樋工事の際、井澤弥惣兵衛の配下杉島貞七郎保英は神社に
水ではない。流域にあった多くの沼が新田に生まれ変わるこ
が開削されたことは、江戸と関東各地を結ぶ舟運には好都合
工事成功を祈願し難工事を完成させた。工事には弥惣兵衛
とにより、新川用水・黒沼笠原沼用水・高沼用水をはじめ支流
だった。だが庄内古川流域は上流から洪水が押し寄せてくる
の長男正房も参加した。享保18年(1733年)、弥惣兵衛と貞
の流域の開発が進み、灌漑面積の増大とともに多くの水量配
洪水常襲地になってしまった。金杉村名主飯島貞嘉は祖父3
七郎はそろって神社に詣でて神恩に感謝し神前に神鏡を奉納
分が必要となった。このため元圦の上流25間(約45メートル)
代にわたって幕府に江戸川と庄内古川の分離を働きかけた。
した。
(神鏡は川口市指定文化財である)。
の場所に木造樋管を伏せ込んだ。これが増圦で享保13年に
(拙書『荒野の回廊』参考)。
新設された。
享保13年(1728年)春、幕府は弥惣兵衛の現地見分の後、
元圦や増圦の開閉や管理については、圦樋築造の当時弥
「早急な工事が必要である」との彼の判断を受けて地元の訴
(1728年)2月に完成し、翌3月に下中条の元圦を開扉して利
惣兵衛のもとで活躍した者のうち、重兵衛(現長谷川姓)と
えを認めた。訴えからほぼ半世紀も経っていた。
根川からの取水を開始した。
『見沼土地改良区史』によって
太兵衛(現飯塚姓)を選び、その任に当たらせた。享保14年、
弥惣兵衛は配下の勘定方島田道咡を河川改修担当(現場
代用水路開削を総括してみる。新川延長4万6957間5分(約
重兵衛は元圦・増圦の管理役となり代官所より使用する人夫
84・5キロ)のうち、見沼代用水路開削の距離は2万9577間5
を合わせて年間5石4斗5升の給米が与えられた。太兵衛は水
◇ ◇ ◇
見沼新田開発事業は、弥惣兵衛の目論見通り享保13年
もといり
かい
ひ
まさ しげ
まつ ぶし
ふと
ひ
がわ
さだ よし
みち しげ
干拓された沼跡地(見沼代用水土地改良区)
責任者)に命じた。江戸川と庄内古川の合流点を分離させて
新川を掘り、旧河道を治める工事は3年後に竣工した。幕府
さ
え もんの す け
分(約53・2キロ)、芝川新川開削改修共(注:見沼新田開発
路掘削に際して自分の居住地が新堀開削路の川筋になった
出発した。引き続いて本多豊後守、松平左衛 門 佐などの諸大
の総工費は30万両であった。庄内、幸手、松伏、八条4領の
に伴う悪水路開削や改修)1万7380間(31・3キロ)となる。
ため、その代償として二つの圦の番人を命ぜられ年間2石4斗
名の部隊が次々に出発し、やっと午前6時になって将軍の前後
200村余りは大水害から逃れることができ、江戸に近いニ郷
掘削の面積は24万坪(1坪は3・3平方メートル、見沼代用水
5升を給された。
を固める親衛隊2000人の隊列が出発した。最後尾をつとめ
半領では合流点の分離で水害が軽減され早場米地帯として
路15万坪、芝川9万坪)である。
幕府は享保11年に新田検地条目を発布し、開発の成果を
る老中松平右京太夫輝貞は、馬上30騎、鉄砲80挺、弓20張
労役はのべ90万人(見沼代用水路1坪に付き平均3人3分
年貢として吸収する制度を整えた。勘定方関係の記録による
の構成部隊で午前10時に出立した。最後尾の出発まで10
強、見積もり50万人。芝川1坪に付き平均4人5分、見積もり
と、年貢総額の平均は、享保元年から11年の140万石余りに
時間を要するという将軍社参の大行列だった。
40万人)、これは当時の江戸の総人口とほぼ同じ数であり、
対して、新田開発が本格化した同12年から15年は156万石余
一行は、途中休憩を入れながら御成街道を北上した。将軍
丁場に労働者がアリのように群がって働いた実態をうかがわ
りと、16万石も増加している。見沼干拓と代用水の水路開削
は筧播磨守から見沼溜井干拓の説明を受けた。弥惣兵衛も
せる。その賃金は1万5000両(人夫1人賃金1匁の割、当時の
は、関東平野の中部地域の用排水を管理統制するとともに、
同席した。将軍は新田開発の完成に満悦し、
「神技である」と
両替で60匁で1両)に上った。今日に換算して1日当たり数千
流域の沼・湿地の干拓・新田開発も進めたことに大きな意義
弥惣兵衛の技量の高さを称賛した。初日は岩槻城に宿泊し、
円であり決して高くはない。築堤は3万419間5分(約54・8キ
がある。
翌日は日光街道を北に向かい古河城に泊まった。さらに3日目
は宇都宮城に宿泊して、4月16日、日光に到着した。東照権現
掘削の費用と合わせると2万両の巨額である。
享保13年4月、将軍吉宗は日光社参を挙行した。見沼干拓
様・徳川家康の命日である翌17日に東照宮を参詣し、早くも
この新田開発によって、幕府は総工費2万両を費やし、水
工事竣工の翌月である。65年ぶりに復活された。4月13日、吉
その翌日18日には江戸城に向かって日光を出発した。
けい はん
路、道路、畦畔、河川敷に使うため古田65町歩(1町歩は約
100アール)余りを失った。だが開発の結果新たに新田1175
水とともに 水がささえる豊かな社会
そうじゃ
宗は日光に向けて出発した。まず行列の先頭をつとめた奏者
ばん
たか ふさ
番の秋元但馬守喬房の部隊が、真夜中の午前零時を期して
に
ごう
は ん りょう
てる さだ
◇ ◇ ◇
ロ)で、水路に設けた様々な工作物は、概算約5000両、水路
●
ま
市)、屈巣沼(現川里村)、小林沼(現菖蒲町)、栢間沼(同
川口神社(川口市内)
14
ねら
大行列の荷物を運ぶ人足・馬は街道周辺だけでなく遠く関
八州の村々から動員され、延べ400万人もの人足と馬30万頭
砥根河重蔬碑(江戸川中流)
連載/水の匠 水の司
●
15
者たちは、新しい工法(紀州流)を幕府の治水策に導入した。
堤と同じ約900メートルである。途中に2ヵ所の堰枠を造り、
不用となる9月から翌年2月までとされた。この時期は農業の
それは優れた強度を持った築堤技術と多種の水制工を用い
その開閉による水位の調節によって川舟(舟底が平らな平田
収穫期にもなるので、年貢の輸送に大きな役割を果たした。
た河川流路の制御技術(「川除」と言う)とをもって、大河川
舟、“なまず船”と呼ばれた)が荷物を積載したままで上下でき
見沼通船は代用水路流域の大動脈であり、事業の独占により
の流れを連続長大の堤防の間に閉じ込めてしまう技法であっ
るようにした。だが貨物輸送の面の便利さに反して、堰枠が
高田・鈴木両家は多額の富を得、江戸・神田に蔵屋敷を構え
た。紀州流工法によって、大河川下流域付近一帯の沖積平
木造のため20年くらいしか持たず改造費は莫大だった。この
るまでになった。見沼通船堀が完成した享保16年10月5日、
野、及び河口デルタ地帯の開発が可能となった。しかも堤の
ため通船権を与えられた高田・鈴木の両家は通船料を徴収し
弥惣兵衛は勘定吟味役の本役に昇進する。68歳。享保改革
各所に堰と水門を設けて、河川から豊富な水を農業用水とし
て、改造の費用に当てた。通船堀が使用できるのは、用水が
時代を代表する農政家となった。
(つづく)。
かわ よけ
て引き入れることによって、河川付近のみならず遠方にまで及
ぶ広大な領域に対して田地の灌漑を実現した。
新しい土木技術、河川管理技術と、勃興する商人たちの資
本力を活用した町人請負制型の新田開発を導入することに
よって、幕領の石高はこの時期に約60万石の増大をみて460
豪商鈴木家(見沼通船堀の側に建つ、現在)
万石ほどに上った。こうして<米将軍>吉宗のもと、幕府の財
政再建は着実に進行し、改革の開始から10年余を経た享保
と
ね
がわ
栄えた。工事開始地点には弥惣兵衛の業績を称えた砥根河
じゅう そ う
ひ
重 蔬碑(松伏町文化財)が祀られている。
るため、亀有溜井のために締め切られていた大瀬・猿ヶ俣村
見沼通船が、見沼代用水路が完成した享保13年から3年後
間と亀有村・新宿町間の堤を取り除いた。同時に古利根川の
の同16年に運航された。通船事業を願い出たのは、弥惣兵
猿ヶ俣・戸ヶ崎間と下流は金町村の北で江戸川に注いでいた
衛旧知の江戸商人高田茂右衛門と実弟鈴木文平である。同
あい
新川を締め切り小合溜井を設けた。
(現水元公園)。葛飾区
年5月、老中と勘定奉行から事業開始の許可を得ている。彼
内に井澤顕彰碑(「享保稲荷」)が建てられた。同碑は葛飾
らはそれ以前から見沼代用水開削の最高責任者弥惣兵衛と
区亀有3丁目の香取神社の境内に現存する。碑文正面に「享
身内のような付き合いをしてきた。下総国手賀沼の新田開発
保稲荷神社」と彫られており、背面には碑文が記されている。
では資金面で積極協力していた。通船計画も弥惣兵衛との間
「享保稲荷は亀有村砂葉にあり、井澤弥惣兵衛享保十四年
で練られて来たのである。
中川を掘割此地は境となり、東へ壹丈余り(約3メートル)の
舟運事業の目的は、江戸と見沼代用水路の村々を直接結び
堤を築き川幅八十間(約130メートル)新宿町に至る、後記念
つけることにある。だが用排水分離機能によって完成した代
稲荷を奉祀、大正七年戌午三月春改築持主亀有前津矢沢錦
用水路と中央排水路の芝川をどう結びつけて通運可能にする
亀良誌」とある。
(原文カタカナ)。
かが重要な決め手であった。そのために考案されたのが通船
◇ ◇ ◇
堀の開削である。代用水路を利用すると、かつての溜井流末
<米将軍>吉宗時代の新田開発には際立った技法上の特
であった八丁堤までは通船可能である。だが八丁堤地点で、
徴があった。江戸時代前期に盛んに行われた新田開発では、
代用水と芝川との高低差が1丈(約3メートル)もあり、どうし
農業用水として湖沼や溜池それに小川の水を利用する場所
てもこの地点に通船堀を掘削して結ぶ以外に方法がなかっ
を対象としており、大河川の中下流域付近一帯は手付かずの
た。弥惣兵衛は水位差を閘門によって調節することにした。
ままであった。この肥沃な地帯が開発対象とならなかったの
閘門式運河というのは、船を高低差のある水面に昇降させる
は、当時の築堤技術、河川管理技術では河川の流れを統制す
水門装置で、船を入れる閘室があり、閘室の前後に開閉でき
るのは不可能だったからである。ひとたび増水するならば洪
る扉(水門)をつける。一方の扉を開いて水と共に船を閘室に
水は堤防を切って溢れ出し、一帯を水面下に没し去ってしま
いっすい
●
船
仮
〆
切
二
の
関
堀(約654メートル) 芝
川
一
の
関
八丁橋
平面図
通船堀(約390メートル)
一
の
関
二
の
関
仮
〆
切
東
べ
り
見
沼
代
用
水
路
山口橋
芝川
A
一の関
↓
B2
二の関
↓
C2
用水 D
C
B
断面図
見沼通船堀平面図と東縁通船堀断面図(見沼代用水土地改良区)
こう もん
入れ、その扉を閉めて船を他方の水位と同じにして運航する。
う。流域民も溢水の危険をあらかじめ考慮して、河川敷を広く
中国では13世紀に築造されているが、日本では極めて珍しい
設けており田んぼや民家は遠く避けるのを常とした。徳川幕
試みであった。日本初の閘門式運河との評価もある。構造は
府が伝統的に採用してきた伊奈流(関東流)工法は、そのよう
パナマ運河と同じであり、同運河に先立つこと約170年前の
な観点に立つものであった。
建造である。
将軍吉宗が紀州藩から招聘した井澤弥惣兵衛ら土木技術
見沼通船堀は、東西両縁水路と芝川を結ぶもので、八丁
水とともに 水がささえる豊かな社会
通
附島橋
存しなくてもいい状況に到達した。
◇ ◇ ◇
あふ
16
16年頃には財政は黒字基調に転じて諸大名からの上米に依
享保14年(1729年)、弥惣兵衛は中川下流を本流に復させ
こ
西
べ
り
見
沼
代
用
水
路
見沼通船堀再現(2007 夏)
連載/水の匠 水の司
●
17
者たちは、新しい工法(紀州流)を幕府の治水策に導入した。
堤と同じ約900メートルである。途中に2ヵ所の堰枠を造り、
不用となる9月から翌年2月までとされた。この時期は農業の
それは優れた強度を持った築堤技術と多種の水制工を用い
その開閉による水位の調節によって川舟(舟底が平らな平田
収穫期にもなるので、年貢の輸送に大きな役割を果たした。
た河川流路の制御技術(「川除」と言う)とをもって、大河川
舟、“なまず船”と呼ばれた)が荷物を積載したままで上下でき
見沼通船は代用水路流域の大動脈であり、事業の独占により
の流れを連続長大の堤防の間に閉じ込めてしまう技法であっ
るようにした。だが貨物輸送の面の便利さに反して、堰枠が
高田・鈴木両家は多額の富を得、江戸・神田に蔵屋敷を構え
た。紀州流工法によって、大河川下流域付近一帯の沖積平
木造のため20年くらいしか持たず改造費は莫大だった。この
るまでになった。見沼通船堀が完成した享保16年10月5日、
野、及び河口デルタ地帯の開発が可能となった。しかも堤の
ため通船権を与えられた高田・鈴木の両家は通船料を徴収し
弥惣兵衛は勘定吟味役の本役に昇進する。68歳。享保改革
各所に堰と水門を設けて、河川から豊富な水を農業用水とし
て、改造の費用に当てた。通船堀が使用できるのは、用水が
時代を代表する農政家となった。
(つづく)。
かわ よけ
て引き入れることによって、河川付近のみならず遠方にまで及
ぶ広大な領域に対して田地の灌漑を実現した。
新しい土木技術、河川管理技術と、勃興する商人たちの資
本力を活用した町人請負制型の新田開発を導入することに
よって、幕領の石高はこの時期に約60万石の増大をみて460
豪商鈴木家(見沼通船堀の側に建つ、現在)
万石ほどに上った。こうして<米将軍>吉宗のもと、幕府の財
政再建は着実に進行し、改革の開始から10年余を経た享保
と
ね
がわ
栄えた。工事開始地点には弥惣兵衛の業績を称えた砥根河
じゅう そ う
ひ
重 蔬碑(松伏町文化財)が祀られている。
るため、亀有溜井のために締め切られていた大瀬・猿ヶ俣村
見沼通船が、見沼代用水路が完成した享保13年から3年後
間と亀有村・新宿町間の堤を取り除いた。同時に古利根川の
の同16年に運航された。通船事業を願い出たのは、弥惣兵
猿ヶ俣・戸ヶ崎間と下流は金町村の北で江戸川に注いでいた
衛旧知の江戸商人高田茂右衛門と実弟鈴木文平である。同
あい
新川を締め切り小合溜井を設けた。
(現水元公園)。葛飾区
年5月、老中と勘定奉行から事業開始の許可を得ている。彼
内に井澤顕彰碑(「享保稲荷」)が建てられた。同碑は葛飾
らはそれ以前から見沼代用水開削の最高責任者弥惣兵衛と
区亀有3丁目の香取神社の境内に現存する。碑文正面に「享
身内のような付き合いをしてきた。下総国手賀沼の新田開発
保稲荷神社」と彫られており、背面には碑文が記されている。
では資金面で積極協力していた。通船計画も弥惣兵衛との間
「享保稲荷は亀有村砂葉にあり、井澤弥惣兵衛享保十四年
で練られて来たのである。
中川を掘割此地は境となり、東へ壹丈余り(約3メートル)の
舟運事業の目的は、江戸と見沼代用水路の村々を直接結び
堤を築き川幅八十間(約130メートル)新宿町に至る、後記念
つけることにある。だが用排水分離機能によって完成した代
稲荷を奉祀、大正七年戌午三月春改築持主亀有前津矢沢錦
用水路と中央排水路の芝川をどう結びつけて通運可能にする
亀良誌」とある。
(原文カタカナ)。
かが重要な決め手であった。そのために考案されたのが通船
◇ ◇ ◇
堀の開削である。代用水路を利用すると、かつての溜井流末
<米将軍>吉宗時代の新田開発には際立った技法上の特
であった八丁堤までは通船可能である。だが八丁堤地点で、
徴があった。江戸時代前期に盛んに行われた新田開発では、
代用水と芝川との高低差が1丈(約3メートル)もあり、どうし
農業用水として湖沼や溜池それに小川の水を利用する場所
てもこの地点に通船堀を掘削して結ぶ以外に方法がなかっ
を対象としており、大河川の中下流域付近一帯は手付かずの
た。弥惣兵衛は水位差を閘門によって調節することにした。
ままであった。この肥沃な地帯が開発対象とならなかったの
閘門式運河というのは、船を高低差のある水面に昇降させる
は、当時の築堤技術、河川管理技術では河川の流れを統制す
水門装置で、船を入れる閘室があり、閘室の前後に開閉でき
るのは不可能だったからである。ひとたび増水するならば洪
る扉(水門)をつける。一方の扉を開いて水と共に船を閘室に
水は堤防を切って溢れ出し、一帯を水面下に没し去ってしま
いっすい
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船
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切
二
の
関
堀(約654メートル) 芝
川
一
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関
八丁橋
平面図
通船堀(約390メートル)
一
の
関
二
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関
仮
〆
切
東
べ
り
見
沼
代
用
水
路
山口橋
芝川
A
一の関
↓
B2
二の関
↓
C2
用水 D
C
B
断面図
見沼通船堀平面図と東縁通船堀断面図(見沼代用水土地改良区)
こう もん
入れ、その扉を閉めて船を他方の水位と同じにして運航する。
う。流域民も溢水の危険をあらかじめ考慮して、河川敷を広く
中国では13世紀に築造されているが、日本では極めて珍しい
設けており田んぼや民家は遠く避けるのを常とした。徳川幕
試みであった。日本初の閘門式運河との評価もある。構造は
府が伝統的に採用してきた伊奈流(関東流)工法は、そのよう
パナマ運河と同じであり、同運河に先立つこと約170年前の
な観点に立つものであった。
建造である。
将軍吉宗が紀州藩から招聘した井澤弥惣兵衛ら土木技術
見沼通船堀は、東西両縁水路と芝川を結ぶもので、八丁
水とともに 水がささえる豊かな社会
通
附島橋
存しなくてもいい状況に到達した。
◇ ◇ ◇
あふ
16
16年頃には財政は黒字基調に転じて諸大名からの上米に依
享保14年(1729年)、弥惣兵衛は中川下流を本流に復させ
こ
西
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水
路
見沼通船堀再現(2007 夏)
連載/水の匠 水の司
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見沼代用水の今昔
~見沼通船堀~
享保16年(1731年)に開始された見沼通船は、200年後の昭和6年(1931年)に姿を消しました。
日本最古の閘門式運河と言われる通船堀は、貴重な文化財として国の史跡に指定されているほか、
平成6年〜9年にかけて、東縁一の関、二の関と西縁一の関が復元されました。
見沼通船の船頭唄
(見沼土地改良区史より)
八丁出るときや
涙も出たが
どうぞ御無事で
帰りゃんせ
船がついたよ
八丁の河岸へ
早く出てとれ
おもてずな
千住じまいは
牛若丸よ
こいをだいたり
かかえたり
千住でてから
まきのや迄は
棹もろかいも
手につかぬ
八丁出口は
吉原まがい
前は田圃で
後はどてよ
八丁山口は
船頭で暮らす
かかあ山下で
風とり
大正期の見沼通船堀(東縁)の閘門(見沼代用水土地改良区)
復元された見沼通船堀
(東縁一の関)
。毎年8月頃に通船堀の閘門開閉実演が行われている。
18
●
水とともに 水がささえる豊かな社会
連載/水の匠 水の司
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19